昭和国民文学全集
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松本清張集
松本清張集
目
次
けものみち
三三無宿人別帳抄
町の島帰り
Z 九 五流入騒ぎ
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-四 車 内解 年
説 譜
中島河太郎四主
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装 画 村 上 芳 正
けものみち
が 山 〈 け 道 中 元 と に Jミ 錯 つ 27 党 け て す ら 43 る れ こ た カ とIJ、
ζモ が 径2シ あ の カ る こ や 。 と イ を ノ い シ ワ 〉 〆 。な 山 ど を の 歩 透 く 行 者 で第
~ 早 1 けものみち ほ う せ ん か ︿ か れ さ ん す い 旅館﹁芳仙閣﹂は、高台の斜面を利用して枯山水まがい おもや の庭園を造り、以前からの母屋のほかに新館がある。二月 初めのある晩のことだった。 芳仙閣の新館の十畳の聞が借り切られた。此処を旅館で み ゆ き は﹁深雪﹂と名づけて、いちばんいい部屋になっている。 客は十人ぐらいであった。それも此処に来るときはばら ばらに到着した。客の高級な自家用車やハイヤーは、急な 坂道を飼って玄関に上がった。 3 配の口の﹁深雪﹂では酒を飲んだり、飯を食べたりして、 気軽な宴会が続いているようだつた。客はみんな年記の男 ばかりで、洋服と和服だったが、いずれも立派なものを着 て い る 。 芳仙閣の女中たちは、帳場から小さな同業組合の懇親会 だと聞かされていた。しかし、九時ごろになると、女中た ちは締め出された。 このころになると、若い男たちが、その部屋の前廊下に、 何となく立つようになった。十畳の問の隣が八畳だが、そ こに青年たちは休み場所をあてがわれていた。ジャンパー やセーターだけの者が多く、交替で新館と本館とをつなぐ 廊下のあたりに立っていた。 それだけではなく、旅館の玄関脇の植込みの中にも、庭 を観賞するように若い男が歩いていた。 ﹁深雪﹂で何が始まっているのかわからない。女中たちも い つ 支 ﹄ い 一切そこに近寄れなかった。これは芳仙閣のおかみの言い つ け だ っ た 。 女中たちは、﹁深雪﹂に何となく気味の悪さを感じてい た。彼女たちがほかの用事で近くを通りかかると、若い男 にら たちは眼を光らせて悦んだ。 夜が深くなって、ときどき、ピ l ルや酒の注文がある。 部屋の電話が帳場に掛かってくるのだが、そのロ聞を﹁深 雪﹂の部屋まで持って行くことはできなかった。女中が運 んだものは、廊下で若い男の手に波された。4 十二時を過ぎると、﹁深雪﹂の客が帳場に電話を借りに 来る。自分でダイヤルを回して話しているのだが、ほとん どが金をすぐ届けるようにというのだった。 ﹁ 一 一 十 万 円 、 す ぐ 此 処 に 持 っ て こ い ﹂ ﹁ 十 五 万 、 届 け ろ ﹂ a 勺ぷ︿ 同業組合だから商底の主人にきまっていた。恰幅のいい し ら が ま 年配者ばかりで、なかには白髪混じりの人もある。 電話を掛けるときの様子も、それぞれ違っていた。ひど ど も く滋ち着いている者もあれば、限が血走り、一言葉を吃らせ ている者もある。例外なく同じことは、どの男もその電話 を切ると、横にいる帳場の女には見向きもしないで引き返 す の だ 。 芳仙閣は従業員の交替制で、午前三時まで起きて営業し て い る 。 午前一時ごろになると、﹁深雪﹂から食事の注文がしき りと掛かってくる。すし、幕の内、お茶漬け、中華料理。 こういうものはすぐ近くに午前三時まで営業している飲 食街があるのだ。届けものはやはり女中の手から若い男た ちに中継される。女中たちは、﹁深雪﹂の客のために一晩 中働いていなければならぬ。 その聞にも、その部屋の客が帳場に出て来てしきりと電 話 し た 。 ﹁ あ と 十 万 頼 む ﹂ ﹁十五万、すぐ使いに持たせてくれ﹂ も ﹁深雪﹂から静かな殺気が流れている。声は少しも洩れな かった。知らない者には、夜通し組合の相談が続けられて い る よ う に 思 え た 。 暖かい夜とはいえなかった。外にはやはり目立たない所 に若い者が立っている。ときどき、それが内側の者と交替 お も した。また、その主立った者が、連絡を兼ねて若い者の立 つ江いる場所に見回りに来た。 ﹁ 伯 い わ ﹂ 女中たちの限が何となく落ち着かない。 こ う い う ﹁ ム 去
E
は、これまで三度ばかりあった。いつ もというわけではない。前回は半年ほど前だ。その前も凶 カ 月 ぐ ら い 問 。 か あ い て い た 。 一晩中、タクシーや ρ イヤーがはいって来た。 と り つ ぎ 電話で命令された者が金を届けに来たのだが、その取次 はやはり若い者が受け持った。車は使いを乗せてそのまま 帰 っ て 行 く 。 寸み 女中たちは、息をのむ思いで、隅からそれを眺めている。 二十万、三十万という金が、わけなく運ばれてくるのだ。 深夜に電話一本でそれが調達されてくる。新聞に包んだも の、風呂敷にくるんだもの、一万円札や五千円札の束が、 伊 、 A 身 C 実に造作なくくるめられて﹁深雪﹂に運ばれて行くのであ る 。 も う 、 その部屋で何が始まっているか、女中たちにはわけものみh か っ て い た 。 午前四時になった。まだ夜は終わらない。 普通だと、この時間に夜勤の女中は寝ることになってい る。しかし、今夜はそれができなかった。 しろたえ ﹁白妙﹂の聞に客がはいった。正確には、今まで﹁深雪﹂ にいた男が戻って来たのだ。 な り き わ た み 也 ﹄ ﹁白妙﹂は成沢民子の受持ちだった。ブザーが鳴ったので、 ふ す ま ひ ざ 民子は襖ぎわの廊下に膝をついた。 ﹁ お 呼 び で ご ざ い ま す か ? ﹂ 中から返事があった。 おだや 襖を静かに開けると、客は四十過ぎの、穏かな顔の男だ った。薄い民齢が生えている。背が高く、身体つきもがっ し り し て い た 。 氏子がはじめて見る顔だった。上衣を脱いで立ったまま ネクタイをほどきかけていた。 ﹁少し疲れた。酒を持って来てくれませんか﹂ 客は手をついている民子を見下ろして言った。 か し こ さ か な ﹁畏まりました。あの、お肴は何にいたしましょう?﹂ 金 ま ま ﹁:::そう、何でもいいですよ。遅いから気盛なことは言 え な い ﹂ あ と の 声 を 笑 わ せ た 。 ﹁ 畏 ま り ま し た ﹂ ﹁白妙﹂は、ほかのいい部屋と同じように二間続きになっ ていて、次の間には夜具が敷いてある。庭に向かった所に 5 と う い す 広縁があって、鱗椅子の応接セットが置かれであるが、今 は窓ぎわにカーテンを下ろして暗くしてある。照明のある のは、床の間のある此処だけだった。 し た く 民子は帳場に通してから、調理場にはいって酒の支度を と と の し、簡単なつまみものを整えた。遅くまで起きている板前 も、二時には寝てしまった。 ﹁ 今 か ら 酒 な の ? ﹂ ほ ろ ま い 朋輩の女中が民子の動作を見て芦をかけた。 ご人だけ部屋に戻ったらしいわ﹂ 民子は皿を並べながら言った。 ﹁ み ん な ま だ や っ て ん で し ょ ? ﹂ 金e b M と顎で﹁深雪﹂のほうを指した。 ﹁ え え 。 夜 、 か 明 け る ま で や る ん じ ゃ な い か し ら ﹂ ﹁どうなの?いま、あの部屋から一人で一反ってくるのは、 勝ってるほうかしら?負けてるほうかしら?﹂ ﹁さあ、そんなことわかんないわ﹂ ﹁でも、ちょっと顔を見たらわかるでしょ?勝ってたら し ょ ず 嬉しそうな顔してるだろうし、負けてたら抽出気てるか、怒 ってるか、機嫌が悪いかしてるでしょ?﹂ ﹁ そ う ね ﹂ 民子は﹁白妙﹂の瓜協の男を思い出す。僅かの間だった は し ゃ が、それほど惰気てるとは思えない。また燥いでいるわけ でもない。ひどく溶ち着いているのは確かだった。紳士と い う 印 象 だ 。
6 ﹁ よ く わ か ん な い わ ﹂ ﹁でも、負けたにしても、勝ったにしても、大変なお金な のね。負けたとなると、一晩でどのぐらいかしら?﹂ bc ﹁そんなこと、わたしに訊いても無理よ。わたしたちには 遠い夢の世界だわ﹂ 実際、自分たちとは縁のない話だった。あの調子では一 人が五十万円ぐらいの金を使っているのではなかろうか。 民子はこの家の女中をしていて、食費を引かれて手取りが も ら 一万円だった。客からチップを貰うとしても三万円ぐらい で あ る 。 それでもほかの家の女中をしているよりずっといい。 き ま ま し ん 一 孟 う おかみは気億な女だったが、女中たちが辛州出しているの は、此処の収入がわりあいいいからである。なかには亭主 と子供を養っている女中もいた。 民子は盆を捧げて﹁白妙﹂の襖を開けた。 ﹁ お 待 ち ど お さ ま で し た ﹂ た ん ぜ ん し ま b い せ ん 客は洋服から宿の丹前に着替えている。茶色の縞の銘仙 き ょ う そ ︿ カ た ひ じ ざ ぶ と ん だ。彼は脇息に片肘を当てがい、座蒲団の上に腰を投げて 脚を長く伸ばしていた。 民子は客の槻線を受けながら、テーブルの上に料理と銚 子を並べた。箸を客のすぐ前にきちんと置いた。 ﹁では、どうぞ、ごゆっくり﹂ き が と言って退ろうとしたとき、 ﹁おねえさん﹂と客は寝そべったまま声をかけた。﹁疲れ わ た υ 風呂は沸いてるかい?﹂ 此処はどの部屋にも浴室の別意がしである。 ﹁はい。あの、お湯を出しておきましょうか?﹂ 立 ち か か る の を 、 ﹁いや、いいんだ﹂と客は抑えた。﹁あとでぼく、かする。 疲れすぎたから、ちょっとこのまま休むことにする Q 順序 は逆だが風呂は泊を飲んでからにしよう。このとおりだ﹂ おぶら と客は自分の顔を民子のほうに見せた。﹁くたびれて、脂 あせ 汗が浮いているだろう?﹂ ﹁ は い ﹂ 民子はちらりと限を向けた。膝も中途半端に突いたまま だ っ た 。 ﹁悪いが、もう一度、蒸しタオルをくれないか?﹂ ﹁ 畏 ま り ま し た ﹂ ﹁ 遅 く な っ て 気 の 毒 だ ね ﹂ ﹁どういたしまして。仕事ですからご遠慮なくお申しつけ く だ さ い ﹂ し ま 民子はお絞りを取って部屋に引き返した。このとき、客 はまだ箸を取らずにいた。 ﹁ あ り が と う ﹂ 湯気の立ったタオルを広げて、齢制すようにしばらく顔に 。 ぐ か ど 当てていたが、あとはぞんざいに両手の指を拭って飽に入 れ た 。 ﹁おねえさん、忙しいですか?﹂
けものみも ﹁いいえ、今は此処だけでございます﹂ ﹁そうだろうな。今じぶん起きていて、いろいろ注文する し ゃ ︿ 厄介な客はないだろうね。わがままついでだ、一杯だけ酌 をしてくれないか?﹂ 午前四時過ぎという時間を民子は考えた。部屋に男容ひ とりだった。だが、最初の酌だけは、何となく義務を感じ た 。 民子は銚子を取り上げた。 ﹁ す ま な い な ﹂ み ひ グ 客は、盃をとって酒が充ちると、格好のいい艶の口元に 運 ん だ 。 ﹁うまい﹂一気に飲んで、﹁悪いが、もう一つ、お願いで き ま す か ? ﹂ 客の顔は微笑している。どう見ても昨紫を打つ人の顔つ きではない。態度も洗練されている。 ﹁おねえさんは、名前は何といいますか?﹂ R , 、 ま く 客はお定まりのことを訊いたが、調子に決滑な感情がこ も っ て い た 。 ﹁ 民 子 と 申 し ま す ﹂ 一 一 杯 目 を つ い で 軽 く 頭 を 下 げ た 。 ﹁そう。この家にはもう長いの?﹂ ﹁はい。一年半ばかりになります﹂ 客はちょっと考えるようにして、 ﹁こういう家のことはよくわからないが、女中さんで一年 7 半というのは長いほうですか?﹂ ﹁いいえ。古い方では六、七年という人がざらですわ﹂ ﹁ほう、ずいぶん辛抱するんだな。収入がいいのかな?﹂ お い ま い 民子は返事をしないで暖味に微笑していた。 早くこの部屋を出なければならないと気が急ぐ。派手な 色の夜具が限にちらちらする。普通の女連れの客だとかえ って平気で、その蒲団も気にならないのだった。 ﹁いや、ぼくも、多少こういう商売に関係のある男でね﹂ 口髭のある男は言った。 すると、この人は旅館主なのだろうか。﹁深雪﹂にはい っている仲間とは違っているとは思ったが、もしかすると ・ し ム ソ A J L ζ 商売人に誘われてきた素人客かもしれない。 第ち着きは、客の年齢だけでなく、一つの職業を積み重 ねてきた人間の充実と安定といったものだった。 先ほど朋輩が、勝負のことが客の顔色に出ていないかと し ご く 訊いたが、それはさっぱりわからない。至極なごやかな紳 士 で あ る 。 だが、客に正確な職種を一訊き返すわけにはいかない。 ﹁どうだね。おねえさんがたも、あの部屋で何が始まって いるか、ほぽ、察しがついてるだろう?﹂ 客はやはり笑い顔で訊いた。 民子は返事のしょうがないので、薄く笑っていた。 ﹁ぼくは句ょっと誘われてね。初めて来たんだが、あんま り興味が湧かないものだな﹂
8 ﹁ さ よ う で ご ざ い ま す か ﹂ 黙ってばかりいるのも風情がないので、民子は受け答え を し た 。 ﹁でも、わたくしどもには、住んでる世界が違いますから、 とても想像ができません﹂ ﹁そうかな。ぼくも前にはそんなことを考えたことがある。 だが、人間は環境しだいさ。ちっとも気持は違いはしない。 これで今の自分が以前より変わったとは思えない﹂ ﹁ そ ん な も の で し ょ う か ﹂ そろそろ自分の部屋に引きあげねばならない。それが貯 えず気持を急がしている。話の切れ目にきっかけを見つけ た か っ た 。 キ す ﹁おねえさんがたは、いつ、寝むんですか?﹂ ﹁はい、普通だと、四時には寝ませていただきます﹂ の 客はテーブルに載せた腕時計を指で持ち上げて、 ﹁おや、そろそろ五時近くだね。いけない。大変迷感をか け た わ け だ ね ﹂ ﹁いいえ、どうぞ、ご遠慮なさらずに。これも仕事でご
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い ま す ﹂ ペ感心だ﹂と客は一言った。﹁えてして、こういう場合には ぶっ包ょうづら 仏頂面をされるものだがね。民子さんといったな?あな たは機嫌よく、いや、機嫌がいいはずはないが、それを顔 色に見せない﹂ ﹁ 恐 れ 入 り ま す ﹂ ぶ し つ け こんな不綾なこ ﹁此処では収入がどのくらいになるの? とを言つては悪いかもしれないが﹂ 民子が正直に言ったのは、客がこの商売に関連があると 打ち明けたからだ。それが嘘とは思えなかった。 ﹁チップを入れて、月三万円ぐらいにはなります﹂ コ ニ 万 円 ね ﹂ 客はテーブルの上で指をこつこつ叩いていた。 ﹁ あ の 、 わ た く し 、 こ れ で ・ : : ﹂ お辞儀をして退ろうとすると、 ﹁まあ、もう少しいいじゃありませんか﹂ ﹁ で も ・ ・ ・ ・ ・ ・ ﹂ 民子は男客と二人だけで部屋にいるのが斡かった。 男客の中には、係りの女中に、悪ふざけをする者もいた。 しかし、この男はそんなふうには見えない。民子がそこに 居辛くなったのは、やはり女中どうしの臨日目だった。 ﹁ 忙 し い の か ね ? ﹂ 客は民子のもじもじしている様子を見て訊いた。 忙しくはなかった。あとは、女中部屋に寝るだけだった。 ﹁深雪﹂の問の勝負は夜明けまで続くに違いない。 ﹁ぼくが帳場に断わっておきましょう﹂ 客は民子の気持を察したらしく、卓上の電話機をとった。 受話器を耳につけて相手が出るまで彼女に笑いかけている。 ﹁もう少し、あんたと話したいのでね。此処のマダムとは 懇意だから許可をとろう﹂けものみも 芦が出たらしく、客は受話器に話した。 ヒ し ろ ﹁ママさん、いるかい?ああ、あんたか。田代です﹂ 客の名前を氏子は初めて知った。彼女は部屋を出ること もできず、中途半端な気持で畳に膝をついていた。 ﹁いや、民子さんにサービスをしてもらっている。少し彼 女と話したいんでね。いや、限が冴えてちょっと眠れない から、十分間ばかり話し相手になってもらう。かまわない だ ろ う ? ﹂ どうぞ、と受話器が返事しているらしかった。おかみの 笑い声が少し洩れて聞こえた。 ﹁どうもありがとう。なに、すぐ帰します。そうだ、あと でもう一本つけてもらおうかな﹂ 受話器を置くと、客は座蒲団の上に戻って、 ﹁ママに断わっておいたからね。さあ、もう安心だよ﹂ と笑顔も何かいそいそしている。 ちゅうちょ ﹁でも﹂民子はまだ臨時附していた。﹁わたくしなんか、お 話し相手にはなりませんわ﹂ ﹁いや、そうではない。ぼくはこれでも、商売がらでね、 人を見たら、その人の経歴や、教養や、気立てといったも のが、だいたい見当がつくよ﹂ と わ ﹁伯いお話ですこと﹂民子は笑った。﹁それじゃ、なおさ らですわ。これで失礼させていただきます﹂ ﹁まあ、いいじゃないですか。ママにも断わったことだし、 も少し、あんたと話したい﹂ 9 ﹁何をお話ししたらよろしいんですか?﹂ ﹁平凡な質問だが、あんたにはご主人があるのかね?﹂ ﹁さあ、どうでございましょうか。そういう者がいたら、 こういう仕事はしていないはずですけれど﹂ ﹁その文句は普通の素人に言うことだな。ぼくは本当の返 事 を 聞 き た い ﹂ 客の顔は微笑していたが、妙に真剣なものがあった。 ﹁どうして、そんなことをお訊きになるんですか?﹂ やわ 民子は柔らかく反問した。 ﹁あんたに興味があるからだ。いや、誤解されては困る。 べつに色恋で誘惑しようというのではない。ぼくも同業み たいなものだから、そういうことは一応超越している。た だ、あんたが此処にはいって来たとき、それとは違う意味 から興味を持ったんですよ﹂ ﹁どう申し上げていいか、わかりませんわ﹂民子は凶った。 ﹁そんなふうに正面からごらんになると、身が絡まりそう で す わ ﹂ ま じ め ﹁真問日な話、どうだろう、ご主人はないと、ぼくは目見た が ね ? ﹂ ﹁ は い ﹂ 民子は素直にうなずいた。 ﹁そうだろうね。で、此処は住込みですか?﹂ ﹁はい・::一週間に一度おやすみをいただいて、アパート に帰ります。でも、お洗濯やお掃除に帰るようなものです
10 わ ﹂ ﹁ご主人とは別れたのですか?﹂ ﹁ そ う な ん で す ﹂ ﹁それは亡くなったのですか?それとも何かの都合で離 縛したのですか?﹂ ﹁ 死 ん だ ん で す ﹂ ﹁ほう。すると、子供さんは?﹂ ﹁ ご ざ い ま せ ん ﹂ の ん き ﹁そりゃ呑気だな:::そこで、また、つまらないことを訊 くと思われるかもしれないが、いま、あんたには好きな人 が い ま す か ? ﹂ 男の眼は相変わらず微笑していたが、民子に真面目な返 事を婆求していた。 ﹁いいえ、そういう者もいません﹂ 民子は限を伏せて答えた。 き り ょ う ﹁そうかな?あんたのような線級では、男のほうが黙っ てないように思うが﹂ ル ﹄ ' ν ﹁とんでもありませんわ。これでも、もう、年齢をくって ま す か ら ﹂ ﹁いくつですか?﹂と訊いて、﹁まあ、だいたいのところ は見当がつきますがね﹂ ﹁それじゃ、ご想像に任せますわ。そんなふうですから、 とても浮わついた気分にはなれません﹂ ﹁誘惑はあるでしょう?ことにこ A な仕事をしていると、 客のほうからもチヨツカイを出す奴がいる﹂ ﹁そりゃお客さまがおからかいになってるんですわ﹂ ﹁それじゃ、あんたは全く独りなんだね?﹂ ﹁はい、間違いはありません﹂民子はわざと声を出して笑 った。﹁まるでわたくしに縁談でも始まってるみたいです わね。身元調査をされてるようですわ﹂ ﹁いや、案外、縁談かもわからない﹂客も冗談を一言った。 ﹁そこで、いま三万円と聞いたが、あんたにはいい収入と いうわけですね?﹂ h﹁ええ、そりゃ十分ですわ。よそに行っても、これだけの 司 1切 り 収入にはなりません。少し勤め時聞が長いんですけれど、 それは仕方がありませんわ﹂ ﹁あんたは、もっと収入のある仕事があれば、よそに移る 気がありますか?﹂ 民子は容の顔へ限を向けた。この客は何を考えているの だろうか。この商売と同業者だと言っていたが、宿屋の主 人だろうか c やはり、旅館主と解釈したほうが、当たっているようだ て な ぐ さ ったの﹁深雪﹂で手慰みしていたことといい、どこか素人 ぱなれした態度といい、それをうなずかせる。 ど と 今は何処も女中不足だった。もしかすると、うまいこと 言って、自分のほうに引き抜こうというのではあるまいか。 だが、それもちょっと妙だった。もし、その下心があっ たら、主人がこんなふうに直接には出ないで、この家には
わからないように第三者を使って工作するはずだった。こ の部屋に自分を引き留めておくのも、客はわざわざマダム に断わっている。 こう考えてくると、民子は凡当がつかなくなった。 けも白みち 民子が﹁白妙﹂の客から解放されたとき、午前五時を過 M さ て い た 。 ざ と ね 四時になれば、ほかの当番の女中たちは雑魚寝の蒲団に もぐっている。民子がするすると帯を鳴らして解いている す ま バ のを、みんな薄限をあけて耳を立てているような釘配だっ た いつもだったら、とっくに寝息や歯ぎしりが聞こえてい るのに、いまは暗い中で息を殺して彼女の様子をうかがっ て い る よ う だ 。 さ Lb 民子が﹁白妙﹂で、間力客と一時間あまり差宵かいで過ご おくそく したことを憶測しているのだ。 そんなことは、とっくに覚悟していたから、民子は、わ あ ぎと女と女の問の、一つ空いた蒲団の中に、畳が動くくら と し ま いの乱暴さで身体を横たえた。隣の年増女中が、わざと舌 打ちして背中むきに寝返りした。 民子は電灯を消した暗い中で、眼をあけていた。天井が 薄ぼんやりと見えている。 しかし、見ているのは、先ほどまで向かいあっていた ﹁向妙﹂の客の顔であった。 11 あの客は、民子を引き留めようとしていた。それも、妙 な野心をもってのことではなかった。 客が助平根性を出して、何とか女をモノにしようという ときは、限の色でもわかるし、少し長く向かいあっている と、息使いまで変わってくる。だが、短い口髭の男は、始 終冷静な表情で落ち着いていた。 し ん み 民子の話に首を少し傾けるようにして、文字どおり親身 に聞いてくれた。はじめ、一、二杯、酌をしてもらう問の の 世間話のつもりだったのが、客は風呂を延ばし、とうとう 一時間も彼女とすわり続けてしまった。 その問、客は少しも身体の位置を動かさない。彼女との 距隣も一寸も縮めはしなかった。 しかし、そこには、何か目的が感じられた。はっきりと せ ぷ はわからないが、一種の瀬踏みを彼女の上に行なっていた よ う に 思 わ れ る 。 初め、その客を旅館主だと見定めて、女中として彼女を 自分のほうに引き抜くのかと想像していたが、そんなこと よりももっと大きなもの、ちょっと見当はつかないが、何 かの取引みたいなものといったら、それに当たるだろうか。 すじよう その客の素性をこの家のおかみさんが知っているらしい のに、すぐに民子に教えないのも、かえってその客の深さ を 感 じ さ せ た 。 き それでも眠ったとみえ、限が醒めたとき、朝の光が部屋 に流れていた。ほかの朋輩は、靖国を上げて化粧などして
12 い た 。 あ わ 民子は起きた。慌てた様子を見せると、また何か言われ るかもしれないので、彼女はわざと落ち着いた。はたして ほかの者は民子にあまりものを言わない。自分たちだけで とりとめのないことを話している。 やはり昨夜の﹁白妙﹂がみんなの心にわだかまりを持た せ て い る 。 一時間も男客と二人でいて何をしていたかわかったもの ではないといった顔をしている。 し た く 民子は黙って洋服に着替えた。その支度を見て、 ﹁民ちゃん、今日はお休みだったね﹂ と一人の女中がわざとらしく一言った。 ﹁ え え 、 そ う よ ﹂ それからどういうことを言われるか、彼女にはわかって い た 。 ﹁今日は、何処かいいところへ行くんじゃない?﹂ ﹁まさか。一週間働き続けてくたくただわ。アパートに帰 って寝るだけだわ﹂ ﹁寝るにしても、アパート違いじゃない?﹂ それにつれて、今日の明け番の女たちも冷たい笑いを乏 べ て い る 。 民子は返事をしなかった。さっさと帳場に出た。 ﹁ 7 7 さ ん は ? ﹂ ﹁さあ、まだ寝てるんじゃないかな﹂ 番 頭 が 答 え た 。 2 な か の え と だ 民子は中野の江古田の家に一反った。駅から降りて南のほ うへ行き、小さな路をはいる。陽射しはまだ朝のものだっ た 。 あたりはじめじめした町並が続いている。狭い道をはい って、もう一つの路地の奥に行く。小さな家がひしめきあ っ て い る 。 その奥の一つが民子の家だった。勤め先に話しているよ うなアパートではなかった。 ろ こ っ 此処まで来る問、近所の人たちの露骨な限を背中に意識 し た 。 一週間どこかに働きに出て、一日だけ家に一反ってくる女 ふ ん い き だ。民子はできるだけ旅館の女中の雰囲気を払い落とすた めに、家に一反ってくるときはたいてい洋服にしている。 ﹁ た だ い ま ﹂ たたず と言って格子戸の外でしばらく庁んだ。内の様子を見さ だめないと、うかつには戸が開けられなかった。 ガラスにひびのはいった戸が内側から開いた。 かっぽう g 割烹着を着た三十四、五ぐらいの背の低い女が眠そうな ま ゆ 眼で迎えた。眉の薄い、眼の細い女だ。むくんだような顔 を し て い る 。
けものみち ﹁おせきさん﹂と民子は言った。﹁いま帰りましたよ。お 世話でしたね﹂ は 守 き 割烹着の女は、大きな口を歯茎までみせてにつと笑った。 ﹁ 変 わ り は な か っ た の ? ﹂ ﹁ は い ﹂ ﹁そう、電話が掛かってこないから変わりはないとは思っ た け れ ど ﹂ 先に上がった。初めて自分の家にはいった感じを取り戻 し た 。 四畳半と六畳の二間だった。部屋はこの履い女が片づけ てくれる。もともと掃除ずきな女だ。 か ん じ あ お む 六畳の聞にはいると、夫の寛次が蒲団の中に仰向きにな ひとみ って、じろりと民子の動くほうへ騒を移した。陽当たりの 悪い暗い部屋だが、その限は光っている。 ﹁ただいま﹂民子は上から病人の顔をのぞいた。﹁顔色は い い よ う だ わ ﹂ 寛次は二年ばかり、こうして寝たきりだった。 の う な ん か し よ う ー ー 脳軟化症にかかってから身体の自・闘を失っている。食事 のときだけ床から起きてくる。三十七だが四十を越したよ うに年老いた顔をしていた。 ﹁ お ま え 、 元 気 そ う だ な ﹂ 寛次はふるえたような芦を出した。病気にかかって以来、 まともな声が出なくなっている。 ﹁ そ う ﹂ 13 民子は、それがきっかけで寛次が何か言うのだと思った。 カ ま 彼女が帰ってくるのを待ち構えているのだ。 いゐつや ﹁そんな色艶をしているのは、うまいものばかり食ってい るからだろう?﹂ す 病人は民子の顔に限を据えていた。 ﹁ そ う で も な い わ ﹂ ﹁旅館というところは、うまいものを食わせるそうだな﹂ ﹁客とは違うわ。女中の食べものは哀れなものよ﹂ ﹁嘘つけ。おれは人に聞いて、ちゃんと知っている。ああ ぎ L た ︿ いうとこの女中は、板前と仲良くしたら、いくらでも賛沢 なものがつまみ食いできるそうだ。お客に出したあまりも のも口にはいるそうじゃないか﹂ ﹁そんな行儀の悪いことをするもんですか﹂ ﹁いやいや、板前と出来あってたら、どんなものでもタダ で 食 え る ﹂ 病人は食べものにいやしくなっていた。 ﹁変なことばかり言うのね﹂ ﹁ 言 わ い で か ﹂ 寛次は、漏出の中で身体をもそもそと動かした。 おせきは、裏のほうで洗濯でもしているのか、水の立日が 聞 こ え て い た 。 ﹁おれはこうして寝たきりだ。まずいものばかり食つてな。 おまえがおれの限をぬすんで何をやっているか、おれには ちゃんと凡通しだ﹂
14 ﹁また始まったわね﹂民子はできるだけ取りあわないつも りで軽く笑った。﹁あんたは寝ているから、いつもそんな ことばかりに気を回しているのね﹂ ﹁ 民 子 、 手 を 貸 し て く れ ﹂ 寛次は、蒲団の中から自分の片手をつき出した。 起きるのかと思って、民子が寛次の肩に手を当てようと つ が すると、彼はそれを掴んだ。 案外に力が強かった。 ﹁ お せ き さ ん が 来 ま す よ ﹂ ﹁おせきなんかどうでもいい:::。おまえ、この手をさん ざん男に振られてきたんだろう?﹂ ﹁ばかばかしい。何を言うのよ﹂ 寛次は民子の手首を握ったまま、それを自分の鼻先に持 って行き、指から手の甲まで、くんくん嘆ぐようにした。 ﹁それみろ。おれにはちゃんとわかるんだ。おまえの手に あぶら はいろいろな男の脂がついている。どんなに隠してもおれ をごまかせないぞ﹂ ﹁ い い 加 減 に し な さ い よ ﹂ い ん ぽ い も ら ﹁旅館の女中などというのは淫売と同じだ。金さえ貰えば 客のいいなりになる。おまえも何処の馬の骨かわからない 男に抱かれてきたに違いない﹂ ﹁放しなさい﹂民子は、夫の手を激しく振りほどいた。 ﹁そんなに心配なら、あんなところに勤めに出さなければ いいじゃないの。寝ているあんたを養ぃ、それにおせきさ か せ んの給料まで稼ごうと思えば、普通の女の勤めではとても やっていけないわ﹂ ﹁おれが病気にかかって寝ていると思って、馬鹿にするな。 民子、あんまりナメたことをすると承知しないぞ﹂ 寛次は、蒲団のまま半身をよろよろと起こすと、民子の すわっている腰に抱きついてきた。 ﹁ ぅ 、 ぅ 。 民 子 ﹂ 病気になってから、寛次の本能は夜も昼も見さかいがな く な っ て い る 。 箆次は身体をふるわして、民子の胸を自分のほうに引き 寄せようとした。 ﹁何をするの?おとなしくしてなさいよ﹂ 民子は夫の手を振り払おうとしたが、それはすぐに縦み ついてくる。寛次の左手は、病気になってから、ずっと動 に ぶ 作の機能が鈍くなっている。いつも働くのは右だった。そ ね れを彼女の首に巻いて、床の上に必死に捻じ伏せようとし ていた。息づかいが荒い。 ﹁ よ し な さ い ﹂ 民子は夫の身体から逃れようとする。あまり強く押しの けると、よろよろしている寛次は倒れそうだった。 ﹁き、きさま、逃げるのか﹂ よ だ れ ね 寛次は唇を涯で濡らしている。 ﹁逃げるも逃げないもないじゃないの。こんな明るいとき に : : ・ ほ ら ﹂
けものみち ゑ w - ご と彼女は裏の水音のほうへ顎をしゃくった。 ﹁おせきさんがいつ来るかわかりませんよ﹂ ﹁あの女は脳が弱いからな。何を見せてもかまわない﹂ ﹁まさか。そんなことをすると、おせきさんがあんたにヤ a T キモチを妬きますよ﹂ ﹁ な に つ ﹂ ひ る と言ったが、寛次は少し怯んだようだつた。 民子は寛次がおせきに関係をつけているのを知っていた。 おせきは八年前に夫注亡くした女で、近所に住んでいる が、十になる男の子を抱えている。ニコヨンに出たり、よ その家の手伝いに雇われたりして暮らしているのを、民子 が芳仙閣に勤めるようになってからずっと夫の世話を頼ん だのだった。覧次の一言うとおり、彼女の脳は少し薄弱だっ た。これまで、後家になってから三、四人の男の慰みもの になってきたことがあるが、それを何とも思っていない。 氏子は、一週間の留守中、寛次がこの女に手をつけるの をある意味で黙認していた。あるいは進んでそういう関係 を持たせたといってもいい。 寛次の脳軟化症は予後が軽く、ただ一言葉が少しはっきり き しないのと、片手が利かない程度だった。 発病した当座は床から起きることもできなかったが、彼 女がいよいよ食うのに困って、芳仙閣に女中として勤める ころから、座敷の中ぐらいは歩けるようになっていた。 ただ、本能のほうだけは、健康なときよりもひどくなっ 15 よ ︿ せ い ている。どうやら、それは病気のために抑制が利かなくな っているらしい。一週間ぶりに帰ってくる民子を見ると、 その瞬間から眼の色が違って、手を出してくるのだ。意志 k m キ ぜ も抑えられないらしく、すぐ、こんなふうに床の中に民子 を引きずり込もうとするのだった。 一カ月に四、五日しか妻のかないこういう病人に、一人 の女がつききりでいて無事に済むはずはなかった。おせき は頭が弱いから、そんなことをされても別段苦情を言うで はなく、民子が帰ってからも顔色を変えるではなかった。 し も 病人の下の世話をするくらいに心得ているのかもしれない。 。 , ヘ フ ょ う 民子は寛次が倒れてみら二カ月間、寝たきりの彼を急病 した。絶えず乾いた樹桝をその身体の下に敷いてやらねば ならない。そんなときの夫の身体の異常さがよくわかって い る の だ 。 民子は夫がおせきと何かあるとわかっていても、それを 今まで寛次に言ったことはなかった。寛次は民子がいまだ にそれに気づかないくらいに岡山っている。 いま、おせ持さんが妬くわよ、とちくりと言うと、寛次 の顔色に少し怯えが見えた。 ﹁な、何もあの女に妬かれることはない﹂ と彼はようやく動作を静めて言った。が、やはり照れ臭 い 顔 を し て い る 。 ﹁そうですか?﹂民子は薄く笑って、﹁でも、ずいぶん親 切にしてくれるでしょ?﹂
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16 ﹁ふん、おまえが妬いてるのか﹂ ﹁妬きはしないわ。ばかばかしい。でも、おせきさんがあ んたに親切にしてくれてるからわたしも助かるわ。だから こうして、あんたのことを安心しておせきさんに任せて勤 め ら れ ま す ﹂ ﹁安心してるかどうか?﹂と寛次は下から
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め上げるよう な眼つきで、﹁そ、それを幸いに、おれのことなぞそっち のけで客に抱かれてるのだろう?﹂ ﹁いい加減にしてくださいよ。わたしは一週間ぶっ続けで 働いて、身体がくたくたですからね﹂ ﹁何でくたびれてるかわかったものか﹂ ﹁まあ、いいように言ってください。わたしは自分で働か なければ、あんたも食べさせることができないし、おせき さんの給料だって出ないんですからね﹂ ﹁おれはな、おまえがそんな偉そうな口をきくのを見ると、 危ぐ 身体が丈夫だったら、思い切り殴りつけてやりたいのだ﹂ ︿ちょう L や ベ 寛次は舌だるい口調で言った。丈夫なときからよく喋る 男で、こういう病気になってもよく口を動かす。 ﹁おれはな、おまえが淫売してきた上がりで食べさせても らってるようなもんだ﹂ ﹁ひどいことを言うのね﹂ ﹁ぁ、当たり前だ。それでなければ、宿屋の女中ぐらいで、 おれにおせきをつけるほどの金にはなるまい﹂ ﹁前から何回言ったかわからないわ。あの旅館は客筋が違 うんです。それでチップが普通より多いんですわ﹂ ﹁そのチップが何の金かわかったものか。おまえの貰う金 はもっと多いに違いない。それを、どこかに配していて、 いぎというとき、おれから逃げるんだろう。ええ?民子、 そ う だ ろ う ? ﹂ 寛次の怒りは、いつもきまってその口智きに落ちてくる。 彼は民子から捨てられるという不安に、いつもつきまとわ れ て い る 。 を ま 二年前、寛次が倒れたとき、民子は僚にいた。彼は顔面 蒼白になって意識を失った。呼ばれた医者が来て診察した あと、脳軟化症だと一一言った。その病気がどんなものか、当 時の民子にはわからなかった。 ﹁脳軟化症ですね。脳の毛細管に血が詰まるんです﹂ ﹁このまま死んでしまうのでしょうか?﹂ ﹁ひどいのになると、すぐにいけなくなりますが、三、四 日経ってみなければわかりません﹂ ﹁助かっても、中風になるんでしょうか?﹂ 民子は限の先が真っ暗になってきた。 ﹁予後が軽かったら、それほどひどくはならないと思いま す。だが、気をつけないと、つぎに再発したときはもっと ひどくなりますからね﹂ ﹁原因は何でしょうか?﹂ ﹁だいたい、心臓の病気を持ってる人がなりやすいんです がね:・:奥さん、ご主人は悪い病気を持っていませんでしけものみち た か ? ﹂ 民子が、その心当たりはないと言うと、医者は病人の血 液を持って帰った。あとでそれが梅毒の検査だとわかった。 梅毒ではなかった。 氏子が寛次と一一緒になったのは、彼女がキャバレーで働 いているときだった。寛次は初めから氏子の客になって通 い続けた。金使いもきれいで、遊びっぷりもあっさりして いた。民子は寛次に申し込まれるままに一緒になった。 寛次は画商の外交員だと一言っていた。彼は、いま絵がよ ぶ あ い く動くので手数料がたくさんはいり、庖では歩合制度にな っているので金回りがいいのだ、と言っていた。実際、そ のころは景気がよさそうだった。しかし、一緒になってみ ると、寛次は爾商に勤めているのではなく、心当たりの買 さ a 主を捜してきでは、日本橋や銀座の画商の庖を回り、いく こ う せ ん ち ゅ う か い らかの口銭を取って仲介するだけのことだった。 その前の寛次は、ある生命保険会社の外交員だった。彼 はそこで高価な絵を買いそうな金持連と顔見知りになった う ま ど う 1 vん のである。彼は口が巧く、それに強引だったので、保険の ば れ ︿ ぴ 成績もよかった。だが、使いこみが発覚て、そこを織首に なった。それで仕方なく、保険の外交当時に酔えていた得 意先をそのまま絵のほうに回したのだった。 一緒になってからそのことがわかっても、もう、民子は で き あ L どうすることもできなかった。克次は最初、民子を溺愛し て、彼女を手元に撞くために、懸命に絵のブローカーで働 17 いくらかの貯金まで いた。そのため生活はさして困らず、 月々残るようになった。 だが、それも一年たらずの問で、やがてほかにも女をつ くり、遊び歩くようになった。そのくせ、民子に対しては 脱 出 州 ぶ か い の だ 。 しかも、こういう病気で倒れてしまうと、その日から一 銭の収入もなくなってしまった。 民子は、毎日、新聞の案内欄をはんては職を捜した。もう 一度キャバレーに勤めてみる気がしないではなかったが、 え ら 結局、いちばん収入の多い高級温泉マークの芳仙閣を択ん だ。固定給もわりといい。それに客のチップも、そういう 旅館の性質上、予想外に多かった。そこに来る客は、ほと んどが女連れで、しかも、金を持っている者や、社会的に 地位のある者が多かった。そういう客は気前よくチップを はずんでくれる。 住込みという条件なので、そのころ病状が回復した夫に 近所のおせきをつけたのだった。彼女は、キャバレーの収 は た め い し よ う だ い 入が傍目で思うほど多くはなく、それに衣裳代に追われた り、友だちとのつきあいで無駄使いの多いのを知っている。 芳仙閣に勤めていれば、手持ちの着物で十分に間にあった。 り ん し ょ ︿ た それに朋輩はみんなすす椅だった。金を制掴めることに懸命 な の だ ら だが、寛次は、一週間ぶりに帰ってくる民子にいつも嫉 妬を燃やす。深夜、暗い天井を見つめて、妻が今ごろ何を
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18 もうそう やってるか妄想すると、気が狂いそうだとも言っていた。 寛次はあまり身体を動かせない。そのため、一週に一回 の休みで帰ってくる民子をほとんど一晩中放さなかった。 ゆ が 正常な身体でないので、寛次の欲望はしだいに歪められて いった。彼は疲れ果てて眠っている氏子の首筋に煙草の火 を押しつけたこともある。髪の毛をむしったり脇腹を伸び た爪で掻いたりした。 彼は民子が家にいると夜も尽一も彼女を求めた。本能がし だいに正常さを失い、思考力も記憶力も減退するが、一方 では衝動だけが強くなってくる。 寛次は民子に、男ができたんだろうと言って責める。事 実、そろ信じているらしかった。そのことが寛次の興奮を あ お し つ よ う 煽り、執劫にまつわってくる。 それも一つは、民子を失うまいとする彼の軌創があった。 そ の 晩 も 、 ﹁おせきとおれとは何でもない﹂ と寛次は片手をぶら下げて言い続けた。彼は民子の同情 を得ょうとするときだけ、わざと中風の恥郊を大げさにし て 見 せ る 。 ﹁妙に気を回さないでくれ。あの女はあんな薄のろだから、 世話をさせるのは使利だが、おれにはさらさらそんな気は な い よ ﹂ ﹁そんなこと、少しも気にかけてないわ﹂と民子は言った。 ﹁わたしも、おせきさんがあんたについているので、どれ だけ助かってるかわからないわ。まあ、あの人に昨められ たら、あれほどの代わりの人はいないわ﹂ ﹁おれもそう思っている。だからな、民子。おれはおまえ の言うとおりに、家でおとなしく寝てるんだよ﹂ ﹁ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ﹂ ﹁考えてもみてくれ。いくら病人でも、女房があんな旅館 に一週間も住込みで働いて帰って来ないでみろ。いろいろ や とヤキモチを妬くのが当たり前だ。な、そう思わない か ? ﹂ ﹁わたしは何も悪いことをしていないんだから、安心して い い の 、 よ ﹂ ﹁ほんとに安心していいな?﹂ ﹁ い い わ よ ﹂ ﹁おれから逃げないな?ずっとおれが死ぬまでいてくれ る な ? ﹂ ﹁気の弱いこと一言わないでよ。いよいよ病気がひどくなれ ば、わたしも今の勤めを辞めて、あんたの刑制にかかりっ きりになります。そのためにはいま働かなきゃならないで しょ。少しぐらいの不便は辛抱しなさいね﹂ ﹁ う む 、 ゎ 、 わ か っ た ﹂ 言い聞かせると、究次も涙を浮かべてうなずくのだが、 そこまで持ってゆくまでがいつも騒 e き だ っ た 。 医者に訊くと、寛次の病気は長いという。また発作が起 こらないかぎり、あのまま生き延びられるだろうというこけものみも と だ っ た 。 民子は今さら寛次を捨てるわけにはいかない。それほど 深い愛情は持っていなかったが、憎くもなかった。一緒に μ ま なったときも、いわば寛次に半分間制された格好だったが、
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さりとて別れることもできず、ずるずると続いた同棲生活 ひ が、病人になってからも尾を曳いている。 しかし、ときどき、彼女は暗い穴の底にほうり込まれて いるような絶望感を感じた。旅館の女中生活が一週間で、 えさ 一日の休みに帰ってくると、床の中で飢えている寛次の餌 になるようなものだった。病気の回復は絶対に望みがなか った。すると、今後何年間寛次が生きるかしれないが、彼 む た し ほ 女は彼に縛られて空しく若さを凋ませることになる。 三十一歳といえば、まだ自分でも若いつもりだった。男 客からはいろいろと誘惑がないでもない。実際、彼女を名 指しで来る男の一人客も少なくはなかった。芳仙閣の女中 の中で、彼女ほどの女はほかにいなかった。 客だけではない。同じ旅館で働いている番頭にも、板前 にも、これまで幾度か誘惑を受けた。芳仙閣では夫がある とは絶対に言っていないのだから、そこは男の臨しさで浮 -﹄ ' ん ド レ 惨 A - a J 気の相手をさせようという根性かもしれないが、まんざら それだけでない真剣さを見せる男もいた。 き の よ う 客たちは、君ほどの線級を持っていて、なにもこんな所 で働くことはないじゃないか、と言ってくれる。そちらの 気持さえ動いたら、キャバレーでもパーでも、好きな所に 19 世話してあげよう、君ほどの女だったら、どこの庄でも歓 迎するよ、とも言った。 民子にも、事実、それだけの自信がないではなかった。 だが、一度その世界の水を知っていると、すぐには気持が 動 か な い 。 心に動くのは、何とかして今の閉鎖された生活から逃げ 出したいという希望だった。パーやキャバレーで働くのは あまりに安易すぎる。もっと本格的に自分の生活が新しい 世界で花を聞くようなことはないか。それもしっかり・とし た土台を持ってである。 そういう民子にとって、昨日の晩来た﹁白妙﹂の問の客 は、かなりな映像を彼女の心に残した。一言葉はいつも聞く ︿ ぜ つ ありふれた男客の口説に似ているが、彼女の受けとった印 象は少し違っていた。 ︿ちひげ あるいはそれが努の術策かとも考えたが、短い口髭の男 の投げかけた謎めいた言葉は、何か﹁事業﹂的な取引を想 b r り わせる。そこが民子の気持を捉えていた。 やっと一晩泊まりの休みが終わった。 ﹁おせきさん﹂民子は雇い女に一言った。﹁また行ってきま すからね。うちのを頼みますよ﹂ ﹁はあ。奥さん、行ってらっしゃい﹂ おせきは荒れた指先を前掛けで拭きながら見送る。 この女は寛次との関係を少しも悪いとは考えていないよ うだつた。震われているから彼の言いつけどおりになって20 いるといった表情だった。民子を見てもたじろぎもしない。 民子もおせきには何の感情も起こらなかった。むしろ自 分の役目をこの女に押しつけている気持だった。一週間、 覚次から逃れてほっとできるのも、おせきのお陰だった。 寛次は床の中で恨めしそうな顔をして、妻が出てゆくほ うへ騒を動かしていた。 その限つきが、民子は電車に乗ってからでも身体のどこ かに付着しているような気がする。どろんと濁った、ねば い限っきだ。自分の皮膚まで粘汁をつけられたような気が す る 。 ││寛次から早く逃げなければならない。 ﹁白妙﹂の客の話が、そのきっかけのように思えてきた。 ーーその話が、もし、うまい内容だったら、覚次をどうす る か 。 民子はいつかその工夫に思考が傾いていた。 これまでも、そんな思案をしないでもなかったが、それ 也 の わ は本気ではなかった。いつも途中で泡のように消えてしま ・ 円 ノ 。 しかし、今度は自分ながら真剣になっていた。 それは、いつの間にかその分だけ、薄い口髭の客の言葉 を当てにしていたのである。 議暗くなってから、民子は芳仙閣の裏門をはいった。表 は立派な庭になっている。 ﹁ た だ い ま ﹂ と声をかけて上がると、女中頭が奥から顔をのぞかせ、 ﹁ 民 子 さ ん か い ? ﹂ と尖った声を出した。この女中頭は、ほかの女中が休み で外に泊まってくると、いつも機嫌が悪い。 ﹁ママさんがあんたを呼んでるよ﹂ 女中頭は、民子の身体を下から上までじろりと見て言っ た 。 民子は渡り廊下を伝って女主人の住居の玄関をのぞいた。 ペ つ む ね それはこの旅館の裏側に別棟で造られており、廊下で往き 来できるようになっていた。おかみはそこに、身の周りの 世話をするおよしという女中を使って、寝起きしている。 ﹁およしさん、何かわたくしに?﹂ 民子は声をかけた。 ﹁ あ あ 。 あ ん た が 来 た ら 、 部 屋 へ 通 す よ う に 一 一 言 っ て た よ ﹂ ぷ あ い そ う およしは不愛想に伝えた。 ﹁ H ど う も ﹂ 民子は奥へはいった。 ふすま 襖の外で、ごめんください、と一言うと、おかみの声が襖 越 し に 来 た 。 ﹁ああ、民子さんなの?﹂ ﹁ さ よ う で ご ざ い ま す ﹂ ﹁ お は い り よ ﹂ 義 母 ム U おかみは三面鏡の前に立って着物を着更えているところ
けものみち だった。外出着の黒っぽいスーツが脱ぎ捨てられてある。 ︿ ぴ む ぞ う さ その上に本ものの真旅の頚飾りが無造作に捨てられであっ た。民子がス l ツを片づけようとすると、 ﹁いいのよ。それはおよしがやるから﹂とおかみは止めた。 ﹁それよりも、この着物、どう?﹂ ひ と ご し す そ ま え おかみは今度新調したらしい一越の訪問着を着て、裾前 え ん じ ぼ た ん を合わせている。白っぽい地に、黒獅子と、時間脂の牡丹を あしらったものだ。葉に同色の濃淡がついている。それに 金糸が部分的に括つである。 ﹁ す ぼ ら し い で す わ ﹂ 実際、民子の眼にもいい柄だと映った。 ﹁そう。これ、どのくらいだと思う?﹂ ﹁わかりませんわ。ママさんのお召物なんか、わたくした ち に は 見 当 寸 か つ き ま せ ん ﹂ ﹁裏表仕立上がりで七万円よ﹂ ﹁ は あ ﹂ 民子は返事するだけだった。 おかみはしきりと着物を広げたり合わせたりして、立ち 舞うような格好をしていたが、 ﹁ あ ん た 、 こ の 筒 、 f 白 妙 e に来たお客さん、おぼえてい るでしょう?あの入、どんな人だと思う?﹂ と彼女を見下ろして訊いた。 ﹁さあ、どこかの旅館の経営者のように開いておりました が ﹂ 21 ﹁旅館にもよりけりだわ。あの人ね、 ホテルの支配人よ﹂ 民子は限をみはった。この前の、おとなしそうな、薄い 口髭の上品な顔が眼の前にひろがってくる。 ﹁はあ、さようでございましたか﹂ ﹁そこまでは想像しなかったでしょう?﹂ ﹁ は い ﹂ ﹁あのときは、ちょっと都合があって、あんたには田代さ こ た き んといっておいたけれど、本当の名前は小滝さんというの よ : : : ね え 、 い ま 、 何 時 か し ら ? ﹂ ﹁ 七 時 ご ろ だ と 思 い ま す が ﹂ ﹁そう。遅くなったけれど、あんた、これからニュー・ロ ーヤル・ホテルに行って、小滝さんに会ってくれない?﹂ ﹁は、わたくしがですか?﹂ こしひも おかみは腰紐を締めあげて、タクリを指先で直していた。 ﹁ええ、そうよ。話は小滝さんから聞いてよ。七時すぎと いう約束だったんだけれど、わたしの帰りが遅かったんで、 少し遅れたわね。いいわ、小滝さんにわたしが電話してお く か ら ﹂ ﹁ママさん﹂民子はおかみを見上げた。﹁わたくしに小滝 さんが、どんなお話があるんでございましょうか?﹂ ﹁心配しなくていいよ。わたしもよくは知らないんだけれ ど、なんだか、あんたに訊いてみたいことがあるんだっ て ﹂ ニ ュ l ・ ロ ー ヤ ル ・
22 え り か 彼女は衿を掻き合わせながら、鏡に向かい、首をしゃん と 玄 て た 。 ﹁小滝さんは、わたしもよく知ってるけれど、いい方よ: ••• ﹂ ﹁ は い 。 で も : : : ﹂ ﹁あんた、なるべくいい着物を着て行きなさいね﹂ ﹁でも、わたくしなんか一枚っきりですもの。 7 7 さんの ように、結構なお召物がたくさんある方とは違いますわ﹂ ﹁ふ、ふ。まあ、そうね。でも、わたしだってこうなるま では、苦労してきたのよ。あんただって、いっ、こうなる かわからないわよ﹂ おかみは謎めいたことを言った。 あ か き か 民子は、タクシーを拾って赤坂に行った。ニュ!・ロー ヤル・ホテルというと、東京では一流だった。三年前に新 築されたもので、赤坂の台上に八階建の巨大な町田+京都え て い る 。 ニ ュ l ・ローヤルの支配人が、どのような用事で自分を ︿ちぷり 呼ぶのだろうか。あのときの口吻では何かありそうだった が、それがこんなに早く交渉が始まろうとは思わなかった。 もちろん、自分をニュ l ・ローヤルに引き抜くというよう なことではない。 じっとん ママと支配人とは、どうやら児懇のようだ。いったいに 日本に来た外人観光客は、畳の部屋にすわりたがっている ο ニュー・ローヤルが満員のとき、やむなく邸れた客を芳仙 閣に回してくれる。そんなことで支配人とママとは懇意な のであろう。二人の仲が特別な意味を持っている様子はな か っ た 。 ニュー・ローヤルで自分を使うつもりではないとしたら、 支配人の用事は何であろうか。それに 7 7 との聞にだいた り ょ う か い いの了解ができているようだ。民子は芳仙閣からニュ l ・ ローヤルに着くまで、いろいろ想像をめぐらした。 7 7 が 最後に、あんただって、いつこうなるかわからないわよ、 と言った言葉が、妙にそこにかぶさってくる。 タクシーは、斜面にジグザグにつけたホテル専用の舗装 ひ 道を滑るようにのぼって行った。ホテルの灯の光で、建物 に じ を包んでいるあたりの閣が渉むように明るくなっている。 ダ じ よ う へ い 玄関の正面に着いた。外国の儀佼兵のような青い服をいか めしく着たドアマンが走り寄って車の扉を開けてくれた。 民子は恥ずかしくなった。 ﹁支配人の小滝さまはいらっしゃいますでしょうか?﹂ おもは 彼女はフロントにはいって訊くのが面映ゆいので、ドア マ ン に 言 っ た 。 ﹁はい、たぶん、いると思います。どちらさまでしょう か ? ﹂ ﹁民子とお伝えください﹂ この名前なら、この前﹁白妙﹂の間で支配人に伝えてい る 。
けものみも ﹁どうぞおはいりください﹂ まぶ ドアマンは民子を肱しい玄関の中に導き入れた。ガラス のドアは、フロントの前にはいるまで一二つついているが、 歩くにつれて魔法みたいに勝手に開いた。 右側に大理石のカウンターが長々と伸び、明るい灯の下 で、従業員が蝶ネクタイをつけて、忙しげに動いている。 青い服のドアマンがその人に屈みこんで届けと、事務員は び ん し よ う 敏捷な動作で受話器を取った。短い話が終わって事務員が そ こ 其処から、立っている彼女のほうに小腰を屈めた。 ﹁どうぞ、ロビーのほうでお待ちくださいますように﹂ ロビーには、外国人と日本人が半々ぐらいに酷いていた。 クッションも、身体を不意に沈めるぐらいに深い。間接光 ふ m v μ 刷 、 線が天井の四隅から穏かに流れ落ち、ところどころ、フロ いさりび アスタンドが漁火のように立っている。ー
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民子は、蒲団 を照らしている﹁白妙﹂の聞の薄暗いスタンドを限に沼べ た。ぼんやり、珍しげにあたりを眺めていると、 ﹁ゃあ、お待たせしました﹂ と横で不意に芦が聞こえた。 この前﹁白妙﹂の聞で会った人が、チェックの服に同色 の蝶ネクタイをつけて立っていた。そのがっちりとした一肩 あ ら し ま 幅が、粗い縞の洋服によく似合う。支配人は片手にパイプ を握って薄い口髭を載せた唇が柔和に裳んでいた。その 締めた限が民子をまっすぐに見下ろしていた。 ﹁ゃあ、こないだは、どうも﹂ 23 あのときと違い、こういう場所に立たせると、さすがに 小滝は洗練されていた。外国人の多いホテルの支配人にふ さわしい、板についた柔らかい物腰のなかにも何となく威 厳を感じさせる。 す︿ 民子はこの小滝に、威圧されたような心の煉みを覚えた。 ﹁今夜はまた、わざわざ来ていただいてすみませんでし た ﹂ 小滝は民子の掛けていたクッションの横にならんで腰を 下ろした。彼は相変わらず丁寧な言葉を使った。クッショ ンは、大きな円柱をドーナツツのような格好で取り巻いて い る 。 ﹁いいえ、ママからお話があったので、さっそく、伺いま 市 ・ ぷ したけれど、なんだか、あんまり晴れがましくて、践しい 気がしますわ﹂ う つ む 民 子 は 拙 仰 向 い た 。 え り る し 小滝は彼女のきれいな襟足にふと限を止めていたが、 ﹁ママさんには、特にあなたに用事があると言って頼んだ んですが、ナニ、別に州事じゃないんですよ﹂ ﹁ ま あ ﹂ ﹁いや、この前、あなたの話がたいへん面白くていつまで も引き留めてご迷惑をかけたから、今夜はお茶でもご馳走 してお礼を言いたかったんです﹂ 小滝支配人は笑って言った。 ﹁あら、そんなこと﹂民子はあわてて、﹁仕事ですから、24 そんなふうにおっしゃられると、かえってどぎまぎします わ ﹂ ﹁いや、それではぼくの気持が済みません。あまりお時間 は取らせませんから、ちょっとだけ、このホテルのスナッ クパ│に降りてみませんか?﹂ ﹁あの、わたくし、お酒のほうは駄目なんですの﹂ ﹁じゃ、コーヒーでもいいし、ジュースでもいいですよ﹂ こういう会話のさ中にも、限の前のフロントには絶えず 人の出入りが続く。エレベーターを降りてドアのほうへま っすぐ進んで行く外人夫婦。用ありげにそそくさと外から はいって来て、フロントから宿泊人を呼び出してもらう日 本人紳士。まばらに置かれたクッションの一つに、声をひ え た い そめて話しあっている得体の知れない日本人のグループも あれば、絶えず笑い声をあげて首を振っている快活な外国 d 官 、 た , 、 人の組もあった。明るい照明が、豪華な調度と賛沢な空気 を浮き立たせている。 ﹁立派なホテルですこと﹂ 民子は今さらのようにぐるりを見回した。 ﹁あなたは初めてですか?﹂ 小滝は、やはり微笑しながら訊く。 ﹁ええ、わたくしのような者には用事はございませんから、 お
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いま初めて拝見したんです。あんまり立派なので傍きまし たわ:::ぁ、それに、まさかあのときのお客さまが、こん な豪華なホテルの支配人さんとは知りませんでしたわ。失 礼いたしました﹂ ゆ ﹁いや﹂小滝は広い肩を揺すった。﹁だから、旅館業に関 係があると、ぼくは言ったはずだが﹂ ﹁でも、まさかこういうホテルとは、夢にも知りませんで し た ﹂ ﹁とにかく、パーのほうへ降りてみませんか﹂ 民子は小滝に誘われてロピーを横切り、奥に近いところ についた広い階段を降りた。 そこは地下室になっているが、降りきったすぐ右側にス ナックパ!のしゃれた看板が出ている。 者そ 小滝がドアを右手で開けたままにして、民子を誘い入れ た 。 こぢんまりと落ち着いたパーだった。カウンターの中に はバーテンが二人いるだけで、女の子はいない。隅には、 泊まり客らしい外人夫婦がグラスを握ってひそひそと話し あ っ て い る 。 バーテンは支配人が一緒に来たので、多少緊張した顔で 民 子 を 迎 え た 。 ﹁あなたは、ほんとに何も飲めませんか?﹂ 小滝は民子に訊く。 ﹁本当ですわ。お酒のほうはさっぱり﹂ 民子は落ち着かなげにスタンドに腰掛けたが、バーテン 二人の限が自分の顔に集まってくるのに図った。 ﹁日本酒のほうも駄目なんですか?そうだ、この前はぽけものみも くの盃を三杯か四杯ぐらい受けてくれましたね?﹂ ﹁あれがせいぜいですわ﹂ ﹁じゃ、ためしに、甘いカクテルでも飲んでごらんなさい。 まさかこんなところでコーヒーでもないでしょう。:・:君、 ピンクレディを一つ頼む。ぼくはいつものとおりだ﹂ ば ね 立っていたバーテンが発条をかけたように動き出した。 ﹁本当はもっと早い時間に食事でもしたいんですがね﹂ ﹁ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ : ・ ﹂ ﹁このつぎは、ちゃんと予告して、早く来てもらうことに し ま す よ ﹂ ﹁あら、そんなにたびたび、わたくしをお呼びになるんで す か ? ﹂ 民子は小滝の顔を見たが、支配人は謎のような微笑でい る c ﹁あなたがお気に入ればですよ。::・さあ、来ました﹂ 民子は、カウンターに出された赤いグラスを手に持って、 ふち 小滝の黄色いハイボールと縁を鳴らした。 ﹁とてもおいしゅうございますわ﹂ 民子は一口飲んで限を輝かした。 ﹁そういうのをあまり飲んだことありませんか?﹂ ﹁いいえ。だって、こんなお高いお酒、わたくしなんかに は縁がございませんもの﹂ ﹁お気に入ったら、いくらでもお代わりをしてください﹂ ﹁それでは酔ってしまいますわ﹂ 25 民子は遠慮勝ちに訊いた。 ﹁こういう大きなホテルの支配人さんだと、いろいろ気苦 労が多いでしょうね?﹂ ﹁ そ う で す な ﹂ 小滝はグラスを口から放した。酒のために彼の唇が赤く ぬ ほ 濡れている。やはり限を細めたままだが、外国人並みに彫 りの深い顔だから、何となく表情に味わいがある。 ﹁ぼくも、もう、これで支配人になってから二年経つから ね ﹂ ﹁そんなにおなりになるんですか﹂ じ ゃ く は い ﹁支配人商売としては、まだ若輩のほうですな。しかし近 ごろは、何となく馴れたというか、気持のゆとりができて ね。ふらふらと遊んではいるが、要点だけはちゃんと締め ているつもりです・::なあ、そうじゃないかな?﹂ カウンターの中のバーテンに彼が顔を向けると、二人と も頭を癒いて笑っていた。 ﹁身の上といえば﹂と小滝は民子に眼を戻した。﹁こない だ、あなたの話を聞いたが、あなたも大変だったわけだ ね ﹂ 小滝には友だちの話を一一言つであるが、彼はそれを本気に 取っているらしい。 ﹁でも、今はもうすっかり、過去を忘れてしまいました わ ﹂ ﹁そう﹂小滝はうなずいて、﹁それじゃ、仕事に全身を打
26 ち込んでいるわけだね﹂ ﹁あら、そんなふうにおっしゃると、とても恥ずかしいわ。 だって、あんなお仕事ですもの﹂ ﹁いずれにしても、仕事に一生懸命になるのは惑いことで はない。それに、かなり誘惑も多いらしいが、それを撃退 して一人で生きているというのは、えらいですよ﹂ ﹁あら、この前は、支配人さんの聞き上手で、つい、ぺら L a T ぺ ドらと喋りましたわ。あんなこと、もう忘れてください。 憶えていられると恥ずかしいんです﹂ 民子はそんなやりとりを小滝としながら、いったい、何 の用事で彼が自分を呼び出したのかと考えている。まさか 彼が言うように、この前の礼心でお茶をご馳走するだけが 本心ではあるまい。何かいわくがなければならない。 り ょ う か 凶 芳仙閣のおかみにしても、小滝との聞に何やら了解があ りげだ。おかみが小滝の頼みで彼女に時間をくれたとは単 純に思えなかった。何かがある。 た ︿ ら この何かは、結局、自分が気づかないうちに小滝の企み の中にはいっているような気がしてくるのだ。それがどの ようなものかは、まだ、見当寸かつかない。芝居は始まった ばかりのようである。もう少し智たないと当人にも見当か っ き か ね る 。 ﹁ ど う で す 、 お い し い で す か ? ﹂ へ 小滝は、民子の手の液体が半分に減っているのを見て言 っ た 。 ﹁ええ、とても甘くておいしゅうございますわ﹂ ﹁だったら、もう一杯ぐらい、いいでしょう?﹂ ﹁あとで一どきに酔いが出てくるんじゃありません?﹂ ﹁大丈夫ですよ:::もっとほかにもおいしい酒がありま す ﹂ ﹁大変だわ、こんなお高いものをいろいろご馳走になって は ﹂ ﹁いや、気にしないでください。それより、ときどき、此 処に遊びに来てくれませんか?﹂ ﹁ええ。でも、用事もないのに、ご馳走になりにだけ伺う こ と は で き ま せ ん わ ﹂ 主 A Y 民子はそろそろ相手の目的を探りにかかった。 ﹁ナニ、そんなこと平気だ。こういうパ l は、用事のない 人がふらりとはいって来るところです。いつでもいらっし ゃ い ﹂ き ま た ﹁だって、お仕事のお妨げになるでしょ?﹂ ﹁今も言ったように、支配人といっても、半分は鵬つぶし にホテルの中を見回っているような具合だから、いつでも あ 身体は空いています﹂ ﹁あんまりたびたびこちらに来ると、ママさんに叱られま す わ ﹂ ﹁そんな遠慮は要りませんよ。ぼくからちゃんとママのほ うに断わっておくから﹂ ー
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何 か が あ る 。けものみち カウンターの片隅では、例の外人夫婦がまだ話を続けて い る 。 あ お ドアを煽って新しい客がはいって来た。六十過ぎと思わ れる年配で、背の低い、小柄な男だ。手には大型のスーツ ケースをさげている。 ﹁ い ら っ し ゃ い ま せ ﹂ バーテン二人が限をあげて、ならんでお辞儀をした。 ﹁ ゃ あ ﹂ 新しい客が声をかけたのは、支配人にだった。スタンド の椅子に尻を落ち着け、持っているスーツケースを隣の空 いている椅子に無造作に置いた。 ﹁ 小 滝 君 、 ど う だ ね ? ﹂ 支配人は椅子から下りて、その老人のほうへ身体を向け た。上衣の前を合わせるようにボタンに指をかけ、腰を折 っ た 。 ﹁ お 帰 ん な さ い ﹂ ︿ し め 民子は男を見たが、白髪まじりの頭にはちゃんと櫛目が 通 っ て い る 。 く ほ が ん か 窪んだ服寵の底にぎょろりとした眼が依まっていた。突 カ ん と 勺 忠 則 ご K が 起した額骨のすぐ下がすぼみ、顎が尖っている。頭が大き , b カ ぽ ち A Mた り ん か く いので深鉢型のような顔の輪郭だった。 支配人やバーテンの様子を見ると、この人はこのホテル に泊まっている宿泊人に違いなかった。しかも、小滝にこ んなふうに馴れ馴れしく口をきくところをみると、ここで 27 はかなり上容のようだつた。洋服も立派だった。 ﹁ い つ も の ﹂ かしこ と男はバーテンに顎をしゃくる。バーテンが畏まって棚 から下ろした瓶はコニャックだった。 ﹁小滝君、面白いことはないかね?﹂ ま ヒ つ ﹁一向に﹂と小滝は笑って、﹁面白いのは事昨先生のほう じゃありませんか。相変わらずお忙しそうですね?﹂ ﹁忙しい﹂と男はバーテンの出した蒸しタオルで顔をつる ふ や りと拭いた。血色がよく、痩せてはいるが、皮膚などはテ カテカ光っている。﹁どうも、この年寄りをあっちこっち へ引っ張り出してね﹂ ﹁結構ですよ。人問、いつでも健康で忙しいのが一番でご ざ い ま す ﹂ ﹁まあ、そりゃそうかもしれないな﹂ ﹁ 今 日 は ど ち ら へ ? ﹂ ﹁少し面倒な話があってな。工業倶楽部へ行って話し込ん で き た ・ ・ ・ ・ ・ ・ ﹂ そう言う聞にも秦野と呼ばれた男の大きい限は、小滝 の向こう陰に限を伏せている民子の横顔にちらちらと当た つ れ 九 。 ﹁面倒なこ土になると、いつも先生の活躍舞台ですね﹂ ぁ LA , ち 小滝が相槌を打った。 ﹁まあ、そんなことかもしれん:::おや、小滝君、今日は ご婦人連れか?﹂