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The japanese Association for Philosophical and Ethical Researches in Medicine 病原生物との共生への一視座 動物の感染症の倫理的問題の検討をつうじて On the Coexistence of Humans and Path

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に不利益  苦痛や死  をもたらす可能性を有し ているからである。  かくして人間と病原生物の共生関係が問われる背 景には、感染症が人体にもたらす不利益  ここで は、ときに生死にかかわる深刻な不利益を「直接的 不利益」と呼ぼう  の存在がある。ゆえに、その 不利益にいかに対応するかが人類の主要な課題であ りつづけてきたし2)、その意味では劈頭の問いも手 垢にまみれたものである。とはいえ近年、その問い があらためてことさらに問われはじめたのは、感染 症の脅威がさらに増しているからである。なかでも、 新興(再興)感染症として衆目を集めているものの 多くが、人獣共通感染症(zoonoses)であるといわ れている3)  ところで、本論でとりあげたいのは、上述のよう な人間と病原生物の共生への問いではない。かかる 主題はもちろん興味深いが、ここではむしろこれま ですくなからず看過されてきた論点に目をむけたい。 その論点とは、病原生物と人間の関係に起因する   あるいはその関係から派生する  動物の感染

1.はじめに

1-1 論点の整理と抽出  こんにち社会生活のさまざまな領域において   日本ではとくに福祉・教育・医療の領域において   共生への問いがさかんに問われているが(cf. 川本 [2008: 3-4])、その問いは人間どうしの関係を こえ、人間と感染症(infectious diseases)  精確 にはそれをひきおこす病原生物(pathogens)  と の関係にまでおよんでいる1)。このような事態は何 故、生じているのだろうか。  端的にいうなら、それは、病原生物が私たちにと って「敵」だからである。そしてそう敵視される所 以は、「病気」という私たちにとって好ましくない 事態をひきおこすからである。のみならず、ときに 「死」という、より好ましくない事態をまねくこと さえあるからである。さらには、数ある病のなかで も感染症は、とりわけ看過できない性質をそなえて いるからである。すなわち、その伝播をつうじて (比較的)短期間のあいだに(比較的)大量の人間

Abstract:

This study had two objectives. First, we examined the possibility of animal infectious diseases being caused by humans, clarifying specific links between anthropogenic changes to freshwater ecosystems and the emergence (or spread) of Koi Herpes Virus disease (KHVD). Second, we considered related ethical problems. We concluded that there is no ethical justification for the KHVD case from a utilitarian per-spective. Furthermore, we should endeavor to promote precautionary environmental management to de-crease the number and spread of animal (and human) infectious diseases.

論  文

病原生物との共生への一視座

―動物の感染症の倫理的問題の検討をつうじて―

On the Coexistence of Humans and Pathogens:

An Inquiry into Ethical Problems in Animal Infectious Diseases

立命館大学 衣笠総合研究機構

 安部 彰

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問い」に分節可能である。そのうえで、いずれの問 いにフォーカスするかは問う側のインタレストによ るが、たとえば生物学(あるいは生態学)がもっぱ ら問うのは前者の問いである。そこでは、「共生」 は、価値(論)的には無記な包括的な関係概念とさ れ、関係間の非対称性や関係性にともなう不利益の 存在もまた共生の一形態ととらえられる6)。それゆ え、その関係のありかたの是非も主要な関心事とは ならない。  こうしたインタレストの制約は、もちろんそれじ たい難じられるべきことではない。とはいえ、それ を認めたうえでも、ケースによってはやはり事実に かかわる問いは規範にかかわる問いへと架橋される べきではないだろうか。すなわち当該の共生関係に は看過できない不利益が内在している  したがっ て看過すべきではない  とする、問う側の認識 (評価)が妥当であるケースについては。そしてむ しろかかるケースにおいてこそ、事実にかかわる問 いもその意義をいっそう増すだろう。規範にかかわ る問いを問うならなおのこと、それは実証的な知見 にもとづかねばならないからである。  かくして以上をふまえたうえで、本稿の目的はつ ぎのように定位される。第一に、人為による環境改 変によって動物の感染症が発生・拡大しているとい う問題をまさに上述したケースの一例として提起す る。それをつうじて第二に、人間と病原生物の共生 のあるべきありかたを再考する一視座の提起をここ ろみる。

2.人為による環境改変と動物の感染症の

  発生・拡大  KHVD を事例として

2-1 開発原病というアイデアとその限界  すでにふれたように、本稿でとりあげる論点・問 題へのまなざしじたいは、けっしてあたらしいもの ではない。すなわち人為による環境改変によって感 染症が発生・拡大しているのではないかという洞察 は、「開発原病(developogenic disease)」というア イデアとして、かねてより提起されてきた。それに よれば、開発による生態系の変化は当該社会の疾病 構造をかえる要因となる。たとえば、開発の余波に より地方病(endemic)であった感染症が広域的な 流行病(epidemic)に転化することがある。また開 症の倫理的問題である。そしてその問題を構成する 動物の不利益はすくなくともふたつある。  第一は、人間活動が野生動物にもたらす不利益で ある。周知のように、近年では、グローバルな人の 移動や経済活動の進展により、外来種問題とともに 野生動物の感染症の拡大が問題視されている。だが それに比して認知こそされていないが、すくなくと も同等には重要な問題がある。それは、「人間が野 生動物の生育環境を改変することで、感染症(とい う動物にとっての直接的不利益)が発生・拡大して いる」という問題である。ところで以下にも詳しく みるように、この問題はかねてより気づかれてはい た。だがその因果関係についての実証的な裏づけが あまりに薄弱であっため、その倫理的問題もこれま で議論の俎上にのせられてこなかった。  他方、第二は、感染症が人間にもたらす間接的不 利益にかかわる動物の不利益である。すなわちここ で「間接的不利益」とは、感染症によって家畜が死 んだり、家畜の活動が阻害されることで食料生産が 脅かされるという不利益  要するに「経済的不利 益」  をさすが、そうした不利益への人間の対応   殺処分  によってもたらされる家畜の直接的 不利益のことである。そしてこれまでもこちらのほ うの不利益は、まさに倫理的な問題として認識され てきた4)。しかるにそれを主題的にあつかった先行

研究は、管見では Sandøe and Christiansen [2008] にとどまっており、今後の議論の蓄積がまたれる現 状にある5)  かくして研究動向に照らしても、以上の不利益と その倫理的問題の検討はそれぞれオリジナリティを 有している。だが紙幅の都合上、本稿では第一のも のにのみ焦点をあて、第二の問題については別稿に て十全な論考を期したい。 1-2 本稿の目的  ではつづけて、以上に抽出した論点とも関連づけ ながら「共生への問い」を問うことをつうじて、本 稿の目的について述べておこう。  「共生への問い」とひとくちにいっても、それは 厳密には「A と B はいかなる関係にあるのか」と いう「事実にかかわる問い」と、「A と B はいかな る関係にあるべきなのか」という「規範にかかわる

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みかさねられた実証研究をつうじてあきらかとなっ た人為による環境改変と動物の感染症の発生・拡大 のメカニズムの一端を紹介する9) 2-2 KHVD の特徴と展開  まず KHVD の特徴とその展開について確認して おこう。  コイヘルペスウィルス(KHV)はその他のヘル ペスウィルスに類似しているが、最近ではアロヘル ペスウィルス科に分類され、CyHV-3(Cyprinus Herpes Virus-3)とも呼ばれる。マゴイおよびニシ キゴイの幼魚と成魚を宿主とするが、マゴイには野 生型と養殖型がある。野生型は琵琶湖・淀川水系・ 関東平野・四万十川に生息し、日本在来種と考えら れている(川端 [2010])。また野生型と養殖型では 感受性がことなっており、ニシキゴイの感受性もマ ゴイよりもたかいといわれている(飯田 [2005])。  症状としては、行動緩慢・摂食不良・鰓の退色・ びらん・壊死・眼球のくぼみ・膵臓・肝臓の肥大な どがある。潜伏期間は2~3週間で、室内感染実験 による致死率は水温18-28℃で80パーセント以上 とされる(内井・川端 [2009])。感染部位は鰓もふ くむ体表と推定されるが、直接の死因は不明であ る。治療法としては、30℃以上での飼育により治療 効果があると考えられているが(飯田 [2005])、完 全にウィルスが体内から排除されるかは不明であり、 キャリアーとなる可能性は大きい(飯田・佐野 [2005])。不活性ワクチンは効果が低く、生ワクチ ンが有効といわれている(Ronen et al. [2003])。 また、感染を耐過するとコイは免疫を獲得すること からワクチンによる予防は可能といえるが、免疫を 獲得したコイがキャリアーとなる問題はある。感染 を耐過したか否かは血中の抗体を検出することで簡 単に検査可能だが、キャリアーとなっているかを検 出する方法はいまのところまだない(飯田 [2005])。  発病しやすい水温は18℃から25℃であり、13℃ 以下では発病しない。また30℃以上ではウィルスは 増殖できないため、ヒトに感染することはないとさ れ る。 感 染 経 路 は 水 中 で あ り(Hedrick et al. [2000])、環境水中で感染力を維持できるのはなが くても3日とされる(Shimizu et al. [2006])。拡大 経路としては、感染ゴイの放流・移動が考えられる。 発がこころみられたところでは、生態系の撹乱やラ イフスタイルの変化が生じ、あらたな流行病が発生 することがある(池田 [2007: 248])。  歴史をひもとけば、こうしたアイデアは1970年 代以降、途上国、とくにアフリカにおいて外圧とし ての近代化にともなう諸矛盾があらわになり、環境 問題への関心がたかまるなかで注目をあつめるよう になった。ただし、開発原病そのものは近代特有の 現象ではない。むしろそれは古代農業革命以来、不 断に環境を破壊した人類の宿痾である(見市 [2001: 4-5])。とはいえ、開発原病は流行病の発生原因に 注目してカテゴライズされた病気の総称であり、か ならずしも特定の病気(内容)を規定するものでは ない。また、すべての開発が病気をひきおこすわけ でもない。じっさい開発のうち病気をひきおこす原 因としては、「環境改変すなわち周辺生態系への影 響」、「開発現象がひきおこすライフスタイルの変 化」、「環境汚染という個々の要因ないしはその複合 的相互作用によるもの」が多いとされる(池田 [2007: 248-249])。  そしてこれまでにも開発原病の事例はいくつか指 摘されてもきた。主なものとしては、エジプトにお けるアスワン・ハイ・ダムの建設と住血吸虫症の流 行(山本 [2011: 146-147])、中国における森林開発 や農業とマラリアの流行(飯島 [2009: 146])など である7)。だがこれらの事例も、「仮説」をささえ る傍証の域をでないという限界を有していた。すな わち開発(人為による環境改変)と感染症の発生・ 拡大のメカニズムは、実証的に裏うちされたもので はなかった。それゆえまた、環境倫理や生命倫理の 主題となることもなかった。  とはいえ、以上の限界は、ひとえに開発原病論に のみ帰責されるべきものではない。その背景には、 「自然環境中における病原生物の動態と病原生物を 生み出す背景と考えられる人間と環境との相互作用 環の理解が著しく遅れている」(川端 [2011: 83]) という、より一般的な現状があるからである8)。し かし、だとすれば、課題はいまや明白である。かか る「相互作用環の理解」を深めることができれば、 さきの限界もまた自ずと克服されるはずである。そ こで以下、コイヘルペスウィルス感染症(Koi Her-pes Virus Disease: KHVD と以下表記)を事例に積

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2-3 岸辺の改変と KHVD 発症と拡大のメカニズム  では以上をふまえたうえで、人為による環境改変 と KHVD 発症と拡大のメカニズムを、実証研究に よってあきらかとなった諸事実と、その事実間の諸 関係の検討にもとづいて概括しよう。  まずいうまでもなく、病原生物が存在しなければ 感染症は発生しない。かくして自然環境中の KHV の動態を把握することが重要かつ先決課題となる。 そこで2007年に、自然環境中の KHV の検出法が開 発 さ れ た(Minamoto et al. [2009a]、Honjo et al. [2010])。そして、その方法をもちいて琵琶湖水中 の KHV の現存量を調査した結果、アウトブレイク 終息から4年を経ても検出が確認され、KHV の定 着があきらかとなった(Minamoto et al. [2009b])。 さらに同様の手法をもちいて、日本全国の多くの河 川で KHV が検出された(Minamoto et al. [2011])。  以上の結果が示唆するのは、KHV がすでに日本 全国の多くの自然河川や湖に蔓延していること、に もかかわらず KHVD が発症・拡大する場合とそう ではない場合があるということである。つまり KHVD の発症・拡大には、ウィルスの存在とはま た別の条件が必要となるということである。ではそ の条件とはなにか。  ここで自明でもあることをあらためて確認してお けば、ウィルスへの感染がすなわち発症を意味する わけではない。また、たとえ発症したとしても、か ならずしも拡大するわけではない。とすれば問題は、 宿主が発症しやすい状態にあるか、そして感染症が 拡大しやすい状態にあるか否かということになる。 そこで、そうした観点からさらに諸事実間の関係を 検討したところ、以下のふたつの条件が浮かびあが ってきた。  第一の条件としてはまず、水温変化とコイのスト レスとの関係が指摘できる。なだらかな形状をもつ 自然の岸辺には、多様な水温環境が存在する。とこ ろが、護岸工事などにより急峻な形状へと変化した 人工岸辺では、水温が均質化することがわかった (Yamanaka et al. [2010])。この事実が示唆するの は、水温分布の変化がコイの行動や KHV にたいす る免疫獲得、コイのストレス増加に影響をあたえて いる可能性である。というのもコイには行動性体温 調節があり、水温の多様性の喪失  これはコイに  ではつづけて、KHVD の歴史と展開に目をむけ よう。最初の発生は1996年の英国のケースである。 その後1998年に米国とイスラエル、2002年にベル ギー・デンマーク・ドイツ・オランダ・インドネシ ア・中国・台湾、2003年に日本・スイス・ルクセ ンブルク・イタリア・オーストリア・フランス・南 アフリカでそれぞれ発生が確認されている。  日本では、2002年にアジアでの発症が報告され 国内への侵入が脅威となったことから、KHVD は 水産資源保護法の指定伝染病、および持続的養殖生 産確保法の特定疾病に指定された。2003年5月に は岡山県の河川でコイの大量死が発生し、冷凍保存 されていた死亡魚のサンプルの検査結果から KH-VD が原因であることが判明、これが日本における 最初のケースと考えられている。また2003年10月 には、霞ヶ浦の養殖ゴイ(食用マゴイ)に大規模発 生が確認された。このときは、全養殖魚の1/4に相 当する1200トンが死亡、被害総額推計は約2億 5000万円ともいわれる。同年末には23都道府県で、 さらに2004年には琵琶湖で発生が確認された(10 万尾が死亡、死亡個体の過半がマゴイ)。また同年 には鶴見川で8000尾、多摩川で8000尾、多摩川・ 鶴見川・九頭竜川で数千尾、筑後川で数千尾の死亡 が確認された。2004年のケースの特徴は、天然河 川湖沼での発生があいついだことである。また日本 は KHV が自然水域まで進入した世界で最初のケー スと考えられているが、その要因は放流事業と推定 されている(飯田・佐野 [2005])。こうして2004年 末までに四国4県・広島県・山口県・長崎県・沖縄 県をのぞく39都道府県で発生が報告され(飯田 [2005])、2005年4月には長崎県で、同年5月には 徳島県・広島県で発生が確認された(飯田・佐野 [2005])。  このように日本では数年にわたり KHVD の発生 と拡大がみられたわけだが、その対策として各都道 府県では法令にしたがい、病魚を処分し移動を禁止 した。日本における魚類の防疫制度には、輸入防疫 として水産資源保護法、国内防疫として持続的養殖 生産確保法がある。完全な治療法がまだない現状で は、キャリアーをふくめ病魚の移動制限や禁止・処 分・排水の消毒が KHVD の拡大を防止する最良の 方法とされている(飯田・佐野 [2005])。

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って快楽がのぞましい価値を、苦痛がのぞましくな い価値を有していることをあらわしている。そこで 快楽功利主義は、かかる事実および推論に立脚した うえで、当該世界にある快楽を最大化する行為やル ールは道徳的に正当化可能であると考える。そうし て人間による種差別を批判し、感覚性  快苦とい う利害  を有している動物は平等な道徳的配慮に 値すると主張する(シンガー [2011])。さらには、 「ある道徳的責務をもつ0 0 のに必要な諸条件を、ある 道徳上の責務の受益者0 0 0 であるために必要な諸条件か ら、区別する必要がある」(レイチェルズ [2011: 78]、強調原文)11)と主張する12)  そして以上の快楽功利主義の見解と、現時点での 動物の苦痛についての生理学的な知見を組みあわせ るなら、つぎのような主張が導かれることになる。  まず道徳的行為者である人間が感覚性を有する脊 椎動物に直接的不利益をもたらす行為をなすこと は、世界に存在する快楽を減少させることになり   そのおなじ行為によって生じる世界の快楽がそ の減少分を上回ることがないかぎり  、道徳的に 正当化できない。そして上述の事例では、環境改変 (護岸開発)によって人間にもたらされる利益がコ イにおける KHVD の発症・拡大という直接的不利 益を道徳的に正当化するとは、すくなくともいえな い13)。というのは、こう考えることができるからで ある。  直接的不利益をもたらす行為は、消極的なもの (たとえば「援助を差し控える」)と積極的なもの (たとえば「虐待」)に分節でき、それぞれの行為に 対応する  もしくは行為を掣肘する  道徳原則 として「善行(beneficence)」と「無危害(nonma-leficence)」があるといえる。ここでのケースでい えば、以上の行為はそれぞれ「病気のコイを助けな い」が前者に、「コイを病気にする」が後者に対応 するだろう。そのうえで、功利主義における道徳原 理はもちろん功利原理のみであり、したがってあら ゆる行為は功利性以外の観点からは無差別にあつか われる。だが以上のように区別された道徳原則を R・ M・ヘアのいう直観レベルの道徳規則として解釈し なおすなら(ヘア [1994])、功利主義の観点からも 無危害への抵触はより道徳的な非難に値するといい うる。というのも一般に、善行はしばしば推奨され とっては水温の日内変動においてより大きな温度変 化にさらされることを意味する  がストレスの増 加につながり、KHVD の発症が生じていると推察 されるからである。そこで、水温とコイのストレス の関係をコルチゾールというストレス物質をマーカ ーに実験観測した結果、均質的な水温変化(上下 動)によって、コイのストレスが増加することがあ きらかとなった(Takahara et al. [2011])。かくし て、人為による環境改変により水温の多様性がうし なわれ、コイが水温の日内変動においてより大きな 温度変化にさらされることで KHVD が発症・拡大 していることが示唆された。  他方で、第二の条件としては、産卵に適した環境 の変化が指摘できる。コイの産卵はヨシ群落でおこ なわれるが、護岸工事によりヨシ群落が減少したこ とで、コイがかぎられた場所に産卵のため密集する。 こうして凝集度が増すと、ウィルス感染も拡大する 可能性がたかまることが示唆された(Uchii et al. [2011])。

3.考察

 では以上の事例の検討をつうじてあきらかとなっ た知見から、いかなる考察が導かれるだろうか。以 下では、動物倫理におけるあらたな論点の提起と、 それをふまえた病原生物と人間の共生のあるべきあ りかたにかんする展望をこころみたい。 3-1 「無危害への抵触」という倫理的問題  結論からいえば、我々は上述の KHVD の事例を 動物倫理におけるあらたな問題の一角を構成するも のと受けとめるべきである。そしてその論拠は、す くなくとも動物倫理(animal ethics)の領域におい て功利主義のアプローチ  快楽功利主義  が提 起する以下の見解は説得的であり、それゆえ本稿に おける分析視角としても有効だからである10)  一般に、動物の生にとって福利(well-being)は 最大の関心事である。福利とはなにか、それをどう やって計測するのかについてはいろんな立場がある が、事実として特定の動物は快楽をもとめ、苦痛を 回避する傾向にある。そしてその傾向は  人間以 外の動物にとっては、あくまで我々(人間)の観点 からする可能的な記述でしかないが  、個体にと

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殲滅  関係の解消  を志向する点で、規範とし ての共生の観点からすれば、むしろ「非 - 共生的関 係」とでも呼びうるものである。とはいえこの立場 の難点はむしろ、事態の精確な認識にもとづいてい るとはいえないという点にある。というのも歴史を ふりかえっても、病原生物の根絶はそもそも不可能 であると考えるべき、もっともな理由があるからだ。 たしかに人類は、天然痘という感染症の根絶  た だしウィルスじたいは厳重に隔離されまだ残存して いる  には成功した。しかるにそれは、人類が根 絶に成功した唯一のケースであり(蟻田 [1992])、 むしろ私たちは現状では病原生物の居場所を特定す ることさえ、きわめて困難なのである。  他方で、「長期的な自己利益にもとづく共生」と でも呼べるものがある。これはかりに根絶が可能だ としても、それは私たちにとって得策とはいえない との理由から、(既存の)病原生物との共生を推奨 する。たとえば、つぎのような主張がそれにあた る16) 「1980年、世界保健機構は天然痘の撲滅を宣 言した。これは病原菌やウィルス・寄生虫に対 する絶滅の努力、つまり殲滅の思想の一形態で あるが、以後、撲滅できた感染症は存在しな い。むしろ、院内感染の流行でもわかるよう に、薬剤耐性菌が生まれ、新たな問題が生み落 とされている。異質な者の存在を許さない殲滅 の思想は、むしろ、主体の側にも不都合をもた らすのではないか。長期的視点に立てば、殲滅 の思想のもとで生じる困難の方が、不都合なも のの存在による不利益よりも大きいのではない か。多少不都合であっても、そうした存在とは 積極的に共存を図った方がむしろいいのではな いか。」(廣野 [2002: 251])  この主張はいっけん合理的で説得的にみえるが、 いくつか疑問を投げかけておきたい。  第一に、これは「根絶をめざすよりは共生のほう が得だ(マシだ)」という物言いにも響くが、それ は上述の引用の直前において「共生概念が新たな価 値体系の重要な構成要素たりえている理由」として 「異質な存在、自分にとって都合のわるい存在に対 るにとどまるのにたいし、無危害はより強力な道徳 的義務とされるからである14)。またこの観点からす れば、これまで動物倫理が(一部の)動物実験や食 肉を峻烈に批判してきたのも、それらの行為がまさ に無危害に抵触するからだと(再)解釈できるだろ う。さらには、動物実験や食肉のように人間がみず からの利益の増大のために意図的になす加害でこそ ないが、おなじ理由から KHVD の事例も倫理的に 問題があるといえるだろう15) 3-2 病原生物と人間の共生再考  以上、本稿では KHVD を事例に、人為による環 境改変と動物の感染症の発生・拡大が動物倫理にお けるあらたな問題として登録されるべき内実を有し ていることを指摘した。ただし、本稿の議論は以下 の限界をかかえているがゆえに、その問題をいかに 解決すべきかについては具体的な指針を提起するこ とも一般化することもできない。というのも第一に、 今回参照しえたのは、あくまで人為による環境改変 と KHVD の発生・拡大メカニズムの一側面にすぎ ないからである。また、より重要な点として第二に、 KHVD はあくまで数ある事例のひとつにすぎず、 そこであきらかとなった知見がその他の動物感染症 のケースにも適用可能であるとまではいえないから である。  とはいえ他方で、KHVD のように、病原生物が すでに自然環境中に遍在しているケースはすくなく ないとも推察される。そしてそのような場合、感染 症への対応として、従来のような水際対策には限界 があるともいえる。とすれば私たちは、あらためて 病原生物と人間の共生のありかたを再考すべきでは ないだろうか。そこで、かかる問題意識から以下に ひとつの展望を本稿の結びにかえつつしめしてみた い。  病原生物と人間の関係  感染症への対応  の あるべきありかたをめぐり、これまで提起されてき た立場は大きく以下の三点  「根絶」、「長期的な 自己利益にもとづく共生」、「予防」  に整理する ことが可能である。  まず乱暴な主張であるにもかかわらず、すくなか らぬ人々の直感に訴えかける点で無視できない立場 に「根絶」がある。これは関係をとりむすぶ相手の

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は幻想であることが決定的になったという見方もあ る(池田 [2007: 246])。これらは、たしかに従来の 「予防」の限界を射抜いたものではあるだろう。だ がそれが限界であるなら、さらには人為による環境 改変が動物の感染症の発症・拡大をひきおこしてい る可能性があるならなおのこと、その倫理的問題へ の対応もふくめ、むしろこういうべきではないか。 すなわち、さらなる「予防」の観点の導入、たとえ ば「感染症の発生と拡大を未然に防ぐための感染症 が起きにくい環境、あるいは感染症が小規模で終息 する環境を明らかにし、感染症の予防と拡大防止に つなげる」(川端 [2011: 87])ことこそが、世界の 福利を最大化し  感染症がもたらす病苦と死を減 少させ  、それゆえ病原生物とのよりよき共生関 係を構築する契機にもなる、と17) 〈注〉  1)かかる問いを問うものに、たとえば廣野 [2002]、山本 [2011]。  2)じっさい感染症はすぐれて文明論(史)的な問題であり、 人類はかかる不利益とともに病原生物との共生関係をじつに ながきにわたり生きてきた。人口が小規模であった狩猟採集 時代から、人類の祖先はハンセン病・マラリア・住血吸虫病 に悩まされてきたと推察される(山本 [2011: 19-22])。また 人類史が感染症の歴史としても描きだされる契機となったのは、 農 耕 の 開 始・ 定 住 生 活・ 野 生 動 物 の 家 畜 化 で あ る( 山 本 [2011: 28-39])。そして爾後、感染症はグローバルな現代(共 時)的問題にとどまらない通時的な問題でありつづけている (cf. ダイアモンド [1997])。  3)山田章雄は、人獣共通感染症への関心のたかまりの理由に ついてこう述べている。「国内的には経済の発展に伴い生活様 式が変化し、動物とのつきあい方が変わってきたこと……高 気密住宅において、家族の一員として飼養される愛玩動物と の接触の度合いは、かつてなかった程濃厚なものになりつつ ある。また、社会の高齢化や高度医療の発達の結果免疫弱者 の数が増加し、結果として様々な感染症に対しての感受性ポ ピュレーションが増加してきている。……。一方、世界に目 を 向 け る と ウ エ ス ト ナ イ ル 熱 や 重 症 急 性 呼 吸 器 症 候 群 (SARS)のようないわゆる新興感染症……の多くが動物に由 来すると考えられており、結果として人獣共通感染症が注目 されるようになってきたものと思われる」(山田 [2004: 17-18])。 する許容」(廣野 [2002: 251])をあげる自らの主張 を裏切っていることにならないか。つまり「異質な 存在」への寛容という道徳的価値にたいする積極的 な評価ではなく、「共生があらたな価値体系の重要 な構成要素たる所以は自己利益にある」というのが この主張の要諦だとすれば、それはなんら目新しい ものではない。自己利益に訴えるのは、その是非と はべつに、手垢にまみれたやりかたにほかならない からだ。第二に、程度をどれだけ、いかなる基準の もとで見積もるのかという問題がある。「多少不都 合であっても」と述べられるとき、そこで許容され る「多少」や「不都合」は具体的にはどの程度のも ので、またそれはいかにして正当化されるのか   たとえばこの議論は全体論(holism)に与している が、そこでは個(individual)の利害はどのように 評価されるのか  、すくなくともこうした疑問に たいするなんらかの見解があわせて明示されなけれ ばこの主張は空疎だろう。第三に、もっとも重要な 点だが、病原生物の存在がそもそも問題なのだろう か。そうではないはずだ。というのも、たしかに 「病」はその個体にとって「悪」だが、病原生物は それじたい「悪」だとは一概にいえないからだ。す でに述べたように、体内に病原生物がはいりこんだ として、かならずしも発病するわけではなく、むし ろ発病する(しない)は、その個体の状態や周囲の 環境  栄養状態・衛生状態など  によるところ が大きいのである。  そしてまさにそのような認識に根ざした立場こそ、 「予防」にほかならならない。近代以降主流をなし てきたこの対応は、大きく三つに分類できる。第一 に、ワクチン接種や投薬、第二に、感染者の隔離や 移動制限、第三に、栄養条件の長期的改善および公 衆衛生改革。そしてじっさい、これらを組みあわせ た感染症の制圧や拡大抑制により、主要な感染症の 脅威は激減した。その意味でも「予防」の意義はこ れまでもこれからも強調されてよい。しかしながら 今日では、人口増にともなうグローバルな食糧不足 と貧困格差の拡大、それらがひきおこす不衛生と局 地的な感染症の流行が懸念されている。さらには、 新感染症の出現や健康転換による疾病構造の変化   感染症から生活習慣病などの慢性疾患へ  な ど、病気の質と頻度が変化するだけで、疾病の終焉

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 9)本稿で参照する実証研究の諸知見は、私もその一員であっ た総合地球環境学研究所の研究プロジェクト「病原生物と人 間の相互作用環」のメンバーにより蓄積された。この場をか りて、関係各位には一連の研究成果への敬意を表するととも に、草稿に貴重なコメントを寄せてくだったことに感謝したい。 また拙稿の査読の労をおとりくださった先生からも、細部に わたり啓発的で生産的なコメントを頂戴し、衷心より御礼を 申しあげたい。 10)この点について、私はもちろん以下の制約あるいは限界を 認める。ある倫理的問題を問うとき、そこで採用する理論的 観点の相違により導き出される主張(結論)は一様ではない。 とはいえ本稿にのこされた紙幅において、かかる諸立場間の 網羅的で体系的な比較検討は望むべくもない。したがって、 この課題については別稿を期したい。 11)いいかえれば、道徳的行為者(moral agents)であるために 必要とされる条件と道徳的配慮の対象者(moral subjects)で あるために必要とされる条件とを区別する(バッジーニ・フ ォスル [2012: 160-161]、ただし訳文は一部変更してある)。 12)一般にシンガーは選好功利主義者としてしられるが、こと 動物にかんしてはしばしば快楽功利主義的な議論を展開して いる。またレイチェルズも「道徳的個体主義(moral individu-alism)」を提唱するなど単純な快楽功利主義者ではないが、動 物の福利にかんしては快楽功利主義的な見解をとっている。 13)むろん功利主義の立場からは、こうした主張も行為功利主 義の観点から両者の利益(不利益)の得失についてより子細 に精査したうえでなされるべきだろう。だがその批判を認め たうえでなお、後続する本論で提示する理路もまた妥当であ ると私は考えている。 14)たとえば T・M・ビーチャムと J・F・チルドレスはこう述 べている。「われわれの道徳の議論は、他人を傷つけない義務 が、他人に利益を与えるために積極的措置を取る義務と区別 されるだけでなく、しばしば(いつもというわけではないが) より緊要なものである、という確信を具体化しており、それ は妥当な確信なのである」(ビーチャム・チルドレス [1997: 143])。そのうえで、以上の引用にもかかわって二点補足して おく。第一に、善行や無危害は医療倫理の原則  医療プロ フェッションを対象とした倫理原則  としてしられている が、一般的な場面の倫理的判断においても妥当する。第二に、 ビーチャム・チルドレス [1997] においては、善行と無危害が 競合する場合、ケースバイケースで比較考慮のうえその優先 性が判断されるが、ここではそうした競合はそもそも存在し ない。むしろ無危害の義務がはたされないことは端的に我々(人  4)たとえば山内 [2010]、第63回関西倫理学会大会シンポジウ ム「動物  倫理への問い」における質問者と提題者のやり とり(工藤・江口 [2011: 53-54])など。  5)そこには、一ノ瀬正樹が剔抉するつぎのような消息がある のかもしれない。すなわち一ノ瀬も与する反 動物実験、反 -肉食の主張は「動物実験や肉食の範疇から外れる動物の屠殺、 たとえば鳥インフルエンザや口蹄疫などの発生の際にニワト リや牛や豚を処分(つまり屠殺!)するといった事柄につい ては沈黙している、ご都合主義の主張でもある」(一ノ瀬 [2011: 325])。そしてここで「ご都合主義」というのは「一旦自らの 生命や健康に直接の害が及ぶ可能性があると、おそらく人間 は「動物の権利」なとどいう言説など一致団結して封印して しまう」(一ノ瀬 [2011: 325])からであると自ら喝破する。 なるほど、この指摘は人獣共通感染症  人間と動物相互の 直接的不利益間の相克  については妥当である。だが動物 の感染症  動物の直接的不利益と人間の間接的不利益との 対立  にはあてはまらないだろう。  6)安部浩は、生物学における共生概念の推移についてこう述 べている。「我々が現在用いている意味での「共生」の語は、 明治期に生物学の専門用語として創始されたと推定される ……。〈mutualism〉(すなわち相利共生)の訳語としての「共 生」―おそらくはそれがこの語の本邦初登場である。……た だし今日の生物学では、「共生」はもっぱら〈symbiosis〉の訳 語として用いられ、「相利共生」(双方が利益を受ける状態) から「掠奪」(一方が利益を受け、かつ他方が損失を被る状態) および「競争」(双方が損失を被る状態)に至るまで、あらゆ る種間関係を指すのが通例である」(安部 [2008: 166])。  7)その他、中国における水田開発と日本住血吸虫症の流行(飯 島 [2009: 169])、ガーナにおけるボルタ・ダム建設と住血吸 虫症の流行、中国における三峡ダムの開発と住血吸虫症の流 行(山本 [2011: 146-147])、西アフリカにおけるダム建設と オンコセルカ症の流行(山本 [2011: 148-149])、カリブ海沿 岸における米作(灌漑開発)とマラリアの流行、マレー半島 におけるゴム農園開発とマラリアの流行(山本 [2011: 151]) が指摘されている。  8)その理由として川端善一郎は、「(1)既存学問分野において、 このような研究課題が緊要かつ重要な研究課題であるとは考 えられてこなかったこと、(2)研究を進める開発が遅れている こと、(3)実証研究が困難であること、(4)分子生物学から、 環境学、人間社会まで時空間的にレベルの異なるシステムの つながりに注目し、総合研究を進めようとする研究者や研究 チームが少なかったこと」(川端 [2011: 83])をあげている。

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