III 研究会報告要旨
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月 1 日 D分科会
谷本光男(龍谷大学)
「個人主義への批判 ―『新しい公民教科書』から『真正さの倫理学』へ―」
この報告をしたのは、教科書問題が連日マスコミで大きく取り上げられていたころであ った。最近はあまり取り上げられていないが、これはどういうことなのだろうか。やはり 『教科書』(とくに『公民教科書』)の問題点をきちんと議論しておく必要があるように思 われる。 発表要旨を3枚くらいで書くように言われたが、発表が中間報告という性格をもつもの であったから、うまく要旨が書けない。たまたま原稿にしてあったから、そのまま載せて もらうことにした。続きは来年の『報告集』に発表する予定である。 * * * * * * * * * * * * リベラルな社会は寛容の価値を支持しており、この社会では寛容の価値を全面的に否定 する人はほとんどいないように思われる。しかし、それでも、寛容は果たして可能な徳で あるのかと問うことは可能である。本稿では、寛容をめぐる問題の一つである寛容の可能 性について考察する。そのための材料としてここで取り上げるのは、『新しい公民教科書』 (扶桑社)をめぐる諸問題である。 『新しい歴史教科書』と『新しい公民教科書』の出版を断固として支持する 『新しい歴史教科書』が文部科学省の検定を通過したのは、今年(2001 年)の 4 月 3 日 である。5 月 8 日には、韓国政府は 35 カ所の再修正を要求してきた。7 月 9 日に日本政府 の回答が出されたが、それは再修正をほとんど認めないというものであった。そして、つ いに「歴史教科書」の問題は、日韓の国交問題にまで発展し、例えば 8 月に札幌で行われ る予定のアイスホッケー大会に不参加など、民間レベルでのさまざまな交流が中止される に至っている。また、韓国内の動きはかなり激烈である。例えば、韓国では「日本人お断 り」の店が続出している。韓国現地法人で働く日本人の会社員は、「出張できた同僚と、韓 国刺身屋に行ったのですが、『歪曲教科書を作る日本人は出て行ってくれ』と追い出されて しまいました」と述べている。また、7 月 24 日付の『朝鮮日報』によれば、ソウルと釜山 を結ぶ特急「セマウル」「ムググ」の日本語案内放送が中止されるという。さらに、日本政府の再修正ゼロ回答以降、「(韓国の)新聞各紙は大々的に特集を組み、11 日には、約 300 人の警官が警備にあたるなか、韓国の日本大使館前では、過消費追放運動本部などの市民 団体 50 名が日本製品の不買運動などを訴え、空箱のマイルドセブンを燃やすデモを行った」 と報じられている(『週刊文春』2001 年 8 月 2 日号、pp.184-186)。 このように韓国国内では今にも国交断絶しかねない状況にあるが、日本ではどうかとい えば、一部のマスコミを除いて、多くの「国民」はほとんど関心がないように見える。事 実、わたしが教えている学生に聞いても、大半は関心がないという。むしろ、韓国の反応 をきわめて異常だと思っている学生が多い。日本人の大半はそうなのではなかろうか。あ るいは、もし日本が韓国の教科書に何らかのクレームをつけたら、韓国の人はどう思うの か、と反論してくる人もいるかもしれない。 そのような反応の背後には、『新しい歴史教科書』を読んでのある種の感想があるように 思える。この教科書は言われているほどそんなにひどくないと思う人が多いのではなかろ うか。例を挙げよう。教科書には「戦時下の生活」という項目がある。当時の国民の総動 員についていろんな事例を述べたあと、「だが、このような困難の中、多くの国民はよく働 き、よく戦った。それは戦争の勝利を願っての行動であった」(p.284)と述べられている。 このどこが偏向しているのか、事実はその通りではないのか、そう思う人は多いように思 える。ところが、教科書の上の記述に対して次のような意見がある。たしかに多くの国民 が戦争の勝利を願ってよく働き、よく戦ったことは事実である。「だが、問題は、それが国 家の戦争政策に無批判に追随したことと不可分の関係をもつことにある。私たちが戦後に 抱いた苦い悔恨の気持ちはそこに根ざしている。それを抜きにしてこの教科書が国民の戦 争協力を「よく」という肯定的な表現だけで述べているのは、やはり相当に意図的と言わ ざるをえないだろう。」(谷川道雄「私の視点」『朝日新聞』2001 年 7 月 29 日付朝刊)。こ の谷川氏の意見を読み、納得する人と納得しない人がいるであろう。それは当然だと思う。 事は歴史解釈にかかわる問題だからである。大切なのは、両者の間で大いに議論すること であって、断じて政治的な暴力を用いるべきではない、ということである。しかし、実際 にはそういう憂うべき事態が生じている。例えば、7 月 6 日放送のテレビ朝日制作の「ニュ ースステーション」で、朝日新聞の某編集委員は、次のように述べた。「中国や韓国の人が 悲しんでも怒ってもかまわないんだ、関係がないんだ、日本は正しかったんだ、友好とか 絆は求めないんだ、と考える保護者や先生はこれ(扶桑社の教科書)を選べばいいと思う んですね。」このような公共の電波を使っての一方的な発言は、教科書の採択妨害を意図し たものと受け取られても仕方がない(なお、19 日の同番組内で、採択妨害の意図はなかっ たという釈明がなされた)。 もちろん、インターネットで検索してみると、「歴史教科書」の多くの箇所に対して間違 い(?)が指摘されている。おそらく多くの間違いがあるのだろう。しかし、見方によれ ば、これほど教科書の一語一句、その問題点を指摘された教科書は、これまでなかったの ではなかろうか。その意味で、「歴史教科書」は議論を巻き起こすという出版の意図(の一
つ)を果たしたように思える。 正直に言って、『新しい歴史教科書』の内容に関しては、わたしには言うべきことはあま りない、というか、まったくない。そこに書かれている内容を判断するだけの豊富で正確 な歴史的知識をもっていないからである。ただ、わたしは修正を求めるよう政治的圧力を 加えたり、教科書の採択・不採択をめぐって、いかなる団体であれ、政治的な圧力を加え ることに対しては、断固として反対したい。というのも、政治的圧力をかけることが正当 化の議論とともにまかり通るようなことにでもなれば、それは不寛容な社会に通じること になると思えるからである。 同じことが『新しい公民教科書』(以下、単に『教科書』と記す)についても言える。わ たしはこのような教科書が出版されることを断固として支持する。以下において述べるよ うに、この『教科書』の内容にははっきり言って反対である。むしろ、ここに述べられて いる思想は、道徳的にまちがっており、かつきわめて危険なものであると考えている。し かし、それにもかかわらず、教科書の出版は断固として支持する。ここで、むかしヴォル テール(カラス事件で寛容を擁護したフランスの啓蒙思想家であり、『寛容論』の著者)が 述べたと言われる言葉が思い浮かぶ。曰く「わたしはあなたの意見に賛成はしない。しか し、わたしは、あなたがそのように言う権利は死んでも守る。」 よくできた教科書 この『教科書』は読み物としては非常におもしろいものである。公民の教科書をおもし ろく読んだのは初めての経験である。その例をいくつか挙げてみよう。「北朝鮮による日本 人拉致問題」というコラムがある。「1970 年代から 80 年代にかけて、日本の海岸や都市、 また海外の都市から日本人が忽然と姿を消す事件が多発した」という文章から始まり、新 潟の中学生横田めぐみさんの失踪事件に触れ、「ところがその後、韓国に政治亡命した北朝 鮮の元工作員(スパイ)の口から、横田めぐみさんらしき少女が、北朝鮮の工作員によっ て拉致され、北朝鮮で生きているとの証言が得られたとの報道がなされた」と述べたあと、 次のような一文が付け加えられている。「これが事実だとすれば、わが国に対する明白な主 権侵犯行為であるとともに、野蛮な人権蹂躙でもある。」(p.119)これはなんとも驚くべき 文章である。「これが事実だとすれば云々・・・」という表現は、従来の教科書では絶対に 用いられなかったものであって、これらの記述は従来の教科書の枠をはるかに越えるもの と言えるであろう。 女性に関する問題の扱い方もなかなかユニークである。「今日では男女雇用機会均等法や 男女共同参画社会基本法の制定に見られるように、男女の性別に基づく役割分担をこえて、 能力に応じて自己をいかす傾向が見られる。しかし、同時に男女の生理的・肉体的な差異 などに基づく役割の違いにも配慮しなければならない。」(p.64)これを読むと、この「しか し」以下の文章が一体何を意味するのか、考え込んでしまう。『教科書』の第 4 章に「家族 のこれから」という項目があり、そこでは、家族が単に個人の集まりと考えられたり、個
人が家族よりも優先されるべきだと考えられるようになると、「家族の一体感」は失われて しまう恐れがあると述べられ、家族を維持することの重要性が指摘されている。そして、「現 在の日本では、結婚した夫婦は、夫または妻の姓をともに名乗ることになっている。この 夫婦同姓の制度も、家族の一体性を保つ働きをしている」(p.180)と記されている。もち ろん、現在の日本では夫婦別姓は法的には認められていないが、最近「選択的夫婦別姓制 度」の導入に賛成する人の数は大幅に増えている(『京都新聞』「社説」2001 年 8 月 18 日 付)。ところが、上の記述からは、夫婦別姓は家族の一体性の維持に反するということにな りそうである。また、それに関連して、「家事は無償の労働か」というコラムがある。そこ では、家事を単なる「労働」(お金に換算されるもの)とみなす考え方に疑問を投げかけ、 家事は「家族生活の喜びや家族の絆を生み出す源である。家事は、お金にはかえられない 活動、お金だけでは価値を計れない活動でもある」(p.178)と述べられている。これらを 総合して考えるなら、先に述べた「男女の生理的・肉体的な差異に基づく役割の違い」へ の配慮が何を意味するのか、おおよそ見当がつきそうである。「いわゆる性別役割分業は、 「男は仕事に出、女は家庭を守る」という役割分担の仕方をさす。女性の社会進出が進む につれ、そのような分担は批判されるようになった。だが、育児・家事に専念する専業主 婦という形も、家族の協力の一つのあり方である。」(p.177) この『教科書』を非常に興味深いものにしている例をもう一つだけ挙げてみよう。巻頭 グラビアには、阪神・淡路大震災のときの写真が 5 枚載っている。この写真の説明文には 6000 人以上の人が亡くなったことが記されたあと、「懸命の救助作業にあたり、多くの被災 者の力になったのは、まぎれもなく自衛隊員だった」と書かれ、その説明文の上に「整然 と行われた」自衛隊員の救助活動の写真が大きく載っている。また、同じグラビアの「国 境と周辺有事」には、尖閣諸島に代議士が上陸し日の丸を掲げている写真が載っている。 さらに、本文の「国旗・国歌」の箇所には「国旗・国歌は国家を象徴するものであり、そ の国の歴史や理想をあらわしたものである。国を愛することは国旗・国歌を尊重する態度 につながる。また自分の国を愛することで初めて他の国を理解することもできる。私たち にはまず何よりも、自国の国旗・国歌を尊重する態度が必要である」(p.105)と述べられ ている。そして、「国旗・国歌に対する意識と態度」と題するコラムでは、2頁にわたって (コラムの中ではこれが一番分量が多い。いや、正確にはこれはコラムではなく、「考えて みよう」と題して、これだけが別枠になっている)、国旗を尊重することの大切さが述べら れている。そこでは、『ラモスの黙示録』から長々と引用されている(ラモスとはサッカー の元日本代表選手ラモス瑠偉氏)。「日の丸―。最高だ。こんなに美しい国旗、他にない よ。・・・ユニフォームの日の丸。スタンドで揺れる日の丸。日の丸が目に入ると、こんな ところで諦めていいのかって、また闘志が湧いてくるんだ。日の丸をつけて、君が代を聞 く。最高だ。武者震いがするもの。」(pp.106-107) 以上のことは、この『教科書』が従来の無味乾燥な記述に満ちていた教科書とはまるで 異なるものであることを意味している。読みながら、ふと立ち止まって考え込む箇所がた
くさんある。その意味で、この『教科書』を中学生に学ばせる教科書としてではなく、大 人に読ませる教科書としてみた場合、読み物として成功していると言えるように思われる (しかし、もしそうなら、「教科書」という形態をあえて取らなくていいような気もするが)。 道徳の教科書 この『教科書』が読み物としておもしろいのは、上に挙げた女性に関する問題、あるい は国家に関する問題からもわかるように、ある一定の立場が表明されているからである。 言い換えれば、ある特定の「善き生の構想」が明確に打ち出されているからである。その 意味で、この『教科書』は「公民の教科書」というよりも、全編「道徳の教科書」だと言 える。その「善き生の構想」がいかなるものであるかはあとで述べることにして、「道徳」 の教科書としての性格が臆面もなく顔を覗かせている箇所(「学校をめぐる問題」)を引用 しよう。「私たちは、他人を理解し思いやる心をもつとともに、人間としてやってはいけな い行為があることを忘れてはならない。・・・学校の中でルールが守られない事態も生じて いる。ルールが失われると、集団生活そのものが成り立たない。学校も一つの社会であり、 社会には守るべきルールがある。集団生活に参加する者は、ルールの意義を理解し、自分 の行動に責任をもつ必要がある。また、将来何をすればよいかわからない若者が多くなっ ている。学校を卒業して就職しても、すぐにやめてしまう。自分の人生の舞台をどこに求 めるのか、将来を考えて学校生活を送ることが大切である。」(p.182)これは、まぎれもな く高見に立つ、自らの人生にまったく迷いのない、自信に満ちた大人による説教である。 この文章を読んだときの中学生の歪んだ顔、「放っておいてほしい」と言いたげな顔がまざ まざと浮かんでくる。 しかし、そのように「道徳」が臆面もなく出ていない箇所においても、道徳がその背景 にあるのが、この『教科書』のきわだった特徴である。教科書の代表執筆者である西部邁 は 、 そ れ を 明 確 に 自 覚 し て い る 。「 新 し い 歴 史 教 科 書 を 作 る 会 」 の ホ ー ム ペ ー ジ (http://www.tsukurukai.com/interview/interviewd.html)に、「「人間のふくらみ」を教 える教科書」と題するインタビュー記事が載っている。それによれば、教科書の章別構成 には随分と気を配ったそうである。西部によれば、従来の教科書は政治から始まって、基 本的人権、民主主義、平和主義がいわばアプリオリに打ち出されている。しかし、それは 間違っているという。それはまるで「価値」が外からやってくるかのような印象を与える からである。西部に言わせると、「価値というものは歴史からやってくる」という。そこで、 教科書の序章「なぜ「公民」を学ぶのか」では「近代以前のこと」を取り上げる。近代的 な価値がどのように誕生し、それが現代の日本にどのように影響を及ぼしているかについ て考える。とくに、近代文明が「何とも言えない腐臭を発していることに子供たちも気づ いているはず」であるから、子供に希望を語るだけではなく、「文明の袋小路」についても 語る必要があるという。そして、現代の抱えている問題を取り上げることを通して「公民」 とは何かを考えてみる、と言われている。次に、時代の在り方を根本的に規定するのは「価
値」であるから、「歴史に基づく価値の体系としての文化」を第1章「現代文化の価値と規 範」では取り上げる。西部は次のように述べている。「人間精神のベースには宗教、生活規 範、道徳を含めた価値観というものがあると思います。人間というのは価値に対して究極 の関心をもつ生物なんです。それはなぜかと言うと、おそらく人間だけが自己の死という もの、有限の生というものを自意識の中に持ち込める動物だからです。そのために、人間 は自分がなぜ、何のために生きているのかを見いだそうとする。・・・人間だけが生の中で 意識的選択をする。そうすると、何を選んで何を選ばないかという点において、否応なく 価値の問題が浮上してくるわけです。したがって、人間なり時代なりの根源には価値とい うものがあるんだと、そう言っていいんじゃないでしょうか。」そして、第1章の「文化論」 のあとには第2章の「政治論」が続く。「価値」が目的として具体化され、人々の「活動」 としてあらわれるのが政治の場であるので、「政治論」が続くという(これは、『教科書』 の「構成について」(p.4)の箇所に書かれている)。第3章は、「経済」である。政治によっ て定められた国家・国民にとっての目標を物質的、技術的、情報的資源を用いて実現する のが経済の本質的役割である、と言われている。第4章は社会の問題が取り上げられる。 西部は次のように述べている。「社会において機能するのは、習慣なんですね。・・・習慣 の役割というのは、家族、学校、コミュニティ等々のさまざまな集団、共同体、その中で 文化におけるありうべき混乱、政治におけるありうべき闘争、経済におけるありうべき不 均衡、そういうものを調整する役割なんです。それが社会である。言い換えれば社会的交 流の場なわけですね。現代は、それがかなり破壊されています。学校が破壊され、コミュ ニティが破壊され、都市が混乱させられ、田園が荒廃させられ、近代がいかに習慣に基づ く社会を破壊し、政治的イデオロギーと、経済的効率によって編成させられてしまったか、 こういうことも子供に伝えようと努力しました。」そして、最後の章では、これからの社会 がどのように変わっていくか、われわれの社会をよき社会にするためにはわれわれはどう すればよいかを考えてみる、と言われている。 少し長くなったが、また論理のつながりがわかりにくいところもあり、あるいは取って つけたようなところがなきにしもあらずであるが、要は、『教科書』の根底には「価値」に 対する関心が一貫してみられる、ということである。われわれはどのような価値に基づい て生きているのか、また、どのような価値に基づいて生きていくべきか、という倫理的な 関心がこの『教科書』全体を貫いているのである。そして、それが他の教科書でも取り上 げられている、日本の政治の仕組みや経済の仕組みについての記述をも精彩のあるものに しているように思えるのである。(とはいえ、わたしの感想では、第2章の「国の政治組織」 の 85 頁から 102 頁までと、第3章「現代経済の仕組みと働き」は単なるお勉強の趣があっ て、あまりおもしろくない。) 「公民」の道徳 では、『教科書』にはどのような「善き生の構想」が打ち出されているのか。もちろん、
これを取り出してくることはそれほど簡単ではない。というのも、論文として書かれてい るわけではないからである。しかし、あえて一言でいえば、「歴史を共有する共同体に根ざ した道徳」と言えるように思える。ここには個人主義への批判がある。そして、キーワー ドは、「アイデンティティ」である(この用語は『教科書』では用いられていないが)。こ のことを家族を例にとって述べてみよう。 現代の豊かな社会において、社会の歪みとでも言えるさまざまな現象が生じている。そ の一つは家族の絆の希薄化である。それにはいろんな原因が考えられる。父親の単身赴任、 共働きの夫婦が増えたこと、子供の習いごとが一般的になったこと、子供の部屋の普及な どが『教科書』では挙げられている。それに加えて、『教科書』が強調しているのは、次の ようなものである。「家族生活よりも、個人の生活を優先させるべきだという考えや、家族 に束縛されずに個人が自由に生活できるほうがよいとする考えも、家族の絆を弱くさせる 大きな要因といえる。」(p.176)そして、結婚を望まない人の増加や、離婚する人の増加の うちに、肯定的に人間の生き方の多様性を見るのではなく、家族の危機のあらわれを指摘 する文章が続いている。では、家族の役割とは何か。われわれは誰しも家族の中に生まれ、 家族の中で人格を形成していく。「家族は、共同生活を通して、相手への思いやり、同じ家 族としての一体感、互いの協力、それぞれの役割や責任の意識を、個人の中に育てていく。」 (p.179)これらの文章はごく当たり前のことを述べており、何も問題がないように思える かもしれない。しかし、『教科書』で強調されているのは、家族において個人が尊重されね ばならないということではなく、むしろ個人のアイデンティティの形成には家族という共 同体がきわめて大きな影響を与えているという点である。「個人の多様な生き方を尊重する 現代の社会は、そのような可能性(家族の一体性を失わせる可能性)をもっている」(p.180) と述べられている。 同じことは地域社会についても言われている。「個人生活を重視し優先する傾向が強まる と、地域社会は人々のつながりを失い、単なる住民の集合でしかなくなってしまう。地域 の住民が互いに助け合ったり、協力し合ったりすることが困難になるだけでなく、公共心 が失われ、地域生活のルールやマナーが守られなく恐れも生じる。」(p.188)また「地域コ ミュニティを維持していく上で重要なのは、個人や家族の生活が地域コミュニティととも あることを意識するとともに、地域コミュニティの一員としての公共的な精神を各自がも つことである。」(p.190) これらの文章が示しているものは明らかである。すなわち、歴史を共有する、それゆえ に価値観を共有する共同体の中にわれわれの「善き生」がある、という主張なのである。 この主張は、個人主義の原理を次のようなものだと理解すると、個人主義とは明らかに異 なっている。すなわち、「人には自分自身の生活形態を展開する権利があり、何が実際重要 で価値があるかは自分自身の判断に基づくものである。人々は自分自身に忠実で自己実現 を図らねばならない。究極のところ、人はそれぞれ自分自身を決定しなければならない。 誰も自分の代わりにその内容を命ずることはできず、またそうすべきでもない。」(Charles
Taylor, The Ethics of Authenticity.Harvard,1991,p.14) 『教科書』が述べる「善き生」は、われわれが「公民」としての自覚をもつことを要求 するものである。『教科書』によれば、社会を作って生活する人間は、つねに二つの側面を もつという。一つは、もっぱら自分の利益を追求し、自分の権利を追求する面であり、も う一つは、自分の利益や権利よりも、むしろ国家や社会全体の利益から行動しようとする 面である。前者が「私」を中心とするなら、後者は「公」を中心としている。われわれは この「私」と「公」の二つの面をもって社会生活を営んでいるのだが、とくに後者を中心 にみたとき、これを「公民」と呼ぶ、と言われている(pp.6-7)。また、「「公民」とはただ 「私」の利益や「私」の好き嫌いの世界に安住するのではなく、その「私」が属している 国の歴史と文化を踏まえて、「私」の属する国の未来への展望を持とうとする「市民」のこ とをさす。そして、この高度に近代化した社会の中で「よく生きる」ためには、人は「公 民」としての自覚を欠くことはできない」(p.21)と述べられている。このような「善き生 の構想」からみると、個人主義は「私」の利益や「私」の好き嫌いの世界に安住する思想 であるように映るであろう。そして、それはまた自己のアイデンティティを失わせる思想 でもあるように映るであろう。『教科書』の思想が典型的に述べられている箇所を、少し長 くなるが引用しよう。「自由と秩序のどちらを取るか、というのは間違った選択である。秩 序のない自由は混乱を、そして自由のない秩序は抑圧をもたらすからだ。自由と両立する 秩序を求めることが大切であり、そしてそのような秩序は、各国の歴史、言い換えればそ の国の「国柄」に基づく秩序でしかありえない。なぜなら、個人の自由な振る舞いは、そ の人の個性に基づくわけだが、人間の個性はその人の属する国の歴史と国柄の中で育つも のだからである。歴史を踏まえた国柄は、個人の個性と社会秩序の両方にとって、もっと も基礎的なものであり、その基礎を大事なものとしている限り、自由と秩序が結び合わさ れうるのである。そのことは、健全な個人であれば、その欲望のうちに、私生活のみにか かわる欲望だけでなく、自分たちや自分たちの子孫の国柄や都市・田園の環境のあり方な どがどうなって欲しいかという欲望も含まれる、ということからもわかる。このことは、 これまでくり返し述べてきたように「国家や社会全体の利益や関心という観点」、つまり「公 共的な精神」に立つものとしての公民にあって、当然のことである。」(pp.208-209)ここ には、自己のアイデンティティを歴史的に形成される共同体に、とりわけナショナルなも の(国柄)に求める思想が明確に述べられている。なお、ここに述べられている道徳の根 拠としての「国柄」は、そのむかしこの国では「国体」と言われていたものである。西部 自身も、別の本でそのことをはっきり認めている。「言葉の本来の意味からすれば、国体、 国粋そして国柄の三者のあいだに本質的な差があるわけではない。」(『国民の道徳』産経新 聞社、p.396) むろん、このような「公民」の道徳が、われわれに訴えかける面をもっていることは認 めざるをえない。個人主義が自己中心的な形態へと向かい、その個人主義が人々に浸透す ることにより、人々は自己を越えた大きな問題に関心を向けなくなっているという傾向は
たしかに見られるからである。冒頭に述べた『新しい歴史教科書』に対する韓国の反応に 対して、日本の学生が無関心であることのうちに、そういった傾向を見て取ることができ るかもしれない。そして、このことがわれわれの生を非常に貧弱なもの、平板なものにし ているようにも思える。また、少年犯罪のような、社会の中で生じている多くの事件の背 後にも、人間関係の希薄化があり、そこに個人主義が多少なりとも関係しているというこ とも言えるかもしれない。さらにまた、「自分は何者であるのか」と問うたとき、居心地の 悪さを感じる人はおそらく多いであろう。共同体を道具的に理解し、自らのアイデンティ ティの根拠にすることを拒否する人が、しかもそのことに不安を感じ、自らのアイデンテ ィティを再定義する必要を感じている人が、『教科書』に述べられている思想に惹かれると いうのも理解できるように思われる。 しかし、そうであっても、この「公民」の道徳は、わたしには根本的にまちがっている ように思える。それは、個人主義の背後にある道徳的理念とその力を、この『教科書』が 認めようとしていないからである。その理念とは、「人は自分自身に対して忠実であるべき だ」というものである。これは「真正さ」(authenticity)と呼ばれるものである。この理 念に照らすことによって、『教科書』の問題点がよく理解できるし、また『教科書』の問題 点を共通の基盤の上で議論することができる、というのが、わたしがここで主張したいこ となのである。 しかし、「真正さ」について述べるまえに、どうして個人主義者たちが『教科書』問題に 的確に対応できないのかということを少し考えてみたい。それは、個人主義的な文化の中 では、ある種のリベラリズムが支持されているからである。そのリベラリズムとは、「中立 性リベラリズム」である。その基本的な教義の一つは、リベラルな社会では、善き生を構 成するのは何かに関する問題について中立的でなければならない、というものである。善 き生とは、人それぞれが自分たちなりに探求するものであって、この問題の裁定に当たっ ては政府は公平無私でなければならない。もしそうでなければ、市民すべてを平等に扱っ ていないことになる。こういうのが、「中立性リベラリズム」である。これは、「善に対す る正の優先」の思想とも言われる。このリベラリズムでは、善き生についての公共的な議 論は追放されてしまうことになる。そして、そのために『教科書』問題にうまく対応でき ないのである。というのも、『教科書』が提起している問題は、われわれにとって「善き生」 とは何かという問題だからである。(2001 年 8 月1日、未完、次回の『報告書』につづく。)
安彦 一恵(滋賀大学)
「「公共性」教育としての「社会科」教育─戦後「社会科教育」論争史を通して─」
本報告は、「公共性」の在り方を問うた拙稿「国家」のいわば応用編として、戦後日本の 社会科教育論争史の展開と関連づけながら、「公民」教育という観点から「社会科」教育の 現状を批判的に考察するものである。 戦後導入された「社会科」は、その核心に「公民」育成を課題としてもつものであるが、 本来、戦前の─宮台真司のタームを用いるなら─「枢軸国」型公民教育を否定して(リ ベラリズムの立場で)「連合国」型公民の育成を目指すものであった。しかるに、戦後「革 新派」の影響の下に、同一の「枢軸国」型理念の上で、いわばその右派的な在り方を左派 的な在り方に変革するという方向で、この「連合国」型公民教育理念はむしろ否定され、 また、その後の「保守派」の復権の下で、右派的な「枢軸国」型公民教育が復活してきて、 そこに、いわば革新派=保守派連合的ないしは呉越同舟的な「枢軸国」型公民教育理念が 結果として定着しているという現状に在る。 「社会科」全体として見るなら─「枢軸国」型公民教育は本来「歴史」(的公民)教育 (「歴史」(を中核とする国民文化)の共有をそのアイデンティティの核心とする「国民」 の育成)を核とするものであったが─このことは、「歴史」を中心とした「社会科」構成 として結果している。さらにその「歴史」は、人文主義的「歴史」理念も関わっている ─ここに「歴史科独立」の一要因が在るのでもあるが─が、(欧米諸国のとは異なって) 強く「通史」的なものとなっている。 この現状は─社会全体の「連合国型」化への趨勢との齟齬において─問題的である。 「社会科」は、「歴史」に関しては人文主義的なものに純化されると同時に、当初の「連合 国」型理念の再建として、「現代社会」を中心とするものとして再構成され、かつ、「公民」 性の一つの柱である道徳性について、この「現代社会」との連携をもって「倫理」におい て─御題目としての「道徳」教育であることを脱却し─てまさしく民主社会の構成員 として必要な道徳(的判断)能力の育成を図るものに構成されるべきである。その実現の 為には「倫理学」研究者も積極的に「社会科」教育に関わっていく必要が在る。8
月 25 日 A分科会
今村 光章(仁愛大学) 「教育学の目線」
【要旨】 教育学について、コミュニケーションできる環境が必要。 【キーワード】近代教育学の終焉、教育学、教育科学、教育の哲学、教育の臨床学、言説 1. 語源的考察 1‐1.Pädagogik (子どもを導く術:規範学としての教育学、芸としての教育学) 1‐2.Erzhieung (引っ張り出すこと:物語としての教育学、言説としての教育学) 1‐3.教育 (影響を与える、占う、たたく、エサの取り方を教える、強化) ヘルバルト、ペスタロッチ、フレーベル、ルソーらの規範学としての教育学の出発 2. 教育の三角形 2‐1.教育の三要素 (教育者・学習者・教材) 2‐2.教育的価値論 (教育言説を支える巷間の価値論と神の似姿としての人間形成の理想) 2‐3.教育学の構造 (図1) 規範学から、科学へ、いま実践学へ 規範学としての教育学の内実とその崩壊 3. 公教育の現象 3‐1.規制緩和 (外注・公共性の消失、選択の自由) 3‐2.自由競争 (品質表示・賞味期限、企業管理の発想) 3‐3.近代性の追求 (合理性・効率性・経済性の追求。近代性に合わないものは「いじめ」) 近代公教育の隘路は近代性に基づくもの? 4. 教育の「問題」の見立て方 4‐1.再生産論(図2) (再生産しかできない。再生産すらできない) 4‐2.三区分法(図2) (歴史的社会的な見方の紹介) 4‐3.全体→個→コミュニケーション (問題のない教育は最も問題) 5. 岐路に立つ教育学 5‐1.問題の意味を理解する教育論の出現 (臨床教育学の立場) 5‐2.教育的関係論の変革 (教師「として」見せることの限界) 5‐3.学びの共同体の構築 (規範学としての近代教育学の終焉、教育という物語の終焉)6. 教育の再構築の契機としての環境教育の可能性 6‐1.再生産機能から社会変革機能への転換 6‐2.環境改革から教育改革へ 6‐3.物語論的アプローチ(図3) 無理があるのは承知。しかし、「教育する勇気」を振り絞れという言説を立てるしかない 図1:教育学の構造 下位領域 性質 根拠 見方 基盤学問 教育の哲学 規範学 思考・思弁・歴史・推理 …べき (当為) 哲学、倫理学、人間 学、など 教育の科学 存在学 実験・実証・現実・理論 …である (法則) 心理学、医学、社会 学、栄養学、科学 教育の実践学 経験則 経験・体験・未来・立論 …する (決断・対話) 臨床心理学、 臨床教育学、コミュ ニケーション学
図2:日本のモダンの参考図 モダン 時代 区分 プレ・モダン 1872 以前 1890∼1945 1947∼1997? ポスト・モダン 1997?∼ 学校教育システム の構築・制度化 学 校 教 育 シ ス テ ムの安定化・固定 化 教育システム崩壊学 校からの逃走・流動 化 学校の状 態とその 役割 寺子屋・私塾 前制度化状態 混沌状態 文化的・社会的再生 産装置 社会的合意・社会変 革 教 育 モデル 農耕モデル (植物栽培モデ ル) 手細工モデル (職人・鋳型) 工場生産モデル (大量生産・組織 化) 人間モデル? 人間の陶冶性の迷走 社 会 の特徴 封建主義 地域主義 属性主義(身分 制) 独占主義 軍国主義 全体(国家)主義 学歴社会 禁欲主義 資本主義 個人主義 学歴社会 快楽主義 環境主義? コミュニティ主義? 不確実時代? 清貧主義? 考え方 非 合 理 性 神話・物語・迷 信・信仰・伝統・ カン・コツ・禁 欲・タブー 近代合理主義 ①科学主義・実証主義・客観主義 ②機械論的人間観・目的合理性 ③快楽主義・功利主義・自由主義 対話的理性 ケア 共生
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図3 これからの教育? 1980 年頃までの教育 現代の教育 これからの教育 メ タ フ ァ ーレベル 魚を与える教育 魚のとり方を教える教育 魚を獲ることの意味をと魚を獲ることの意味をと魚を獲ることの意味をと魚を獲ることの意味をと もに見いだす教育 もに見いだす教育 もに見いだす教育 もに見いだす教育 具 体 的 な 教育活動 大卒・免許・資格 to think 処世術・態度・マナー how to think 生きる意味を考える? to think how to think 教 育 の 性 質 権威主義的・目的的・ 固定的 友好的・操作的・マニュ アル志向的・ 互酬的・実存的・物語論 的・自己充足的??
宗像 惠(神戸大学) 「ジェンダー教育の現場から」
伝統的ジェンダー規範は現代社会の大きな倫理的問題の一つであるが、実際には、男性 研究者によって取り上げられることは少ない。なぜだろうか。私自身が男性として囚われ、 大学教育のテーマとしてジェンダー規範を取り上げ女性の問題にコミットすることになっ たとき、障害となった心理的困難が二つあった。一つは、女性を理解しようとして女性に ついてあれこれ調べることそれ自体が、セクシュアルな行為のように感じられてしまうこ とだった。およそ男性にとって女性を知るということは、通常は性的な含意をもつのでは ないか。もう一つは、欲望の対象としてではなく女性を理解しようとするときに感じる、 女性性の浸透を受けることに対する恐れの感情である。 このことを広く見れば問題なのは、女性を性的に見ないこと、性的関心をもたずに女性 の中にいること、つまり女性の仲間でいることは、男性として不能であると見なす、男性 文化であろう。 性をテーマ化し、ジェンダーという社会文化的制度として性について学ぶにつれて、眼 を見開かれることが幾つかあった。第一には、社会システムの中で、男性がつくっている 公的世界と女性に割りふられてきた私的世界が分離され、女性が果たしている社会的機能 が劣位に置かれ低い評価しか与えられていないこと、にもかかわらず、公的とされる世界 と私的とされる世界はともに社会システムの両輪として同等な重要性をもつこと、である。 こうした事実に気づくことは、私に男性や女性という性別が、自然的な性ではなく社会的 な制度なのではないか、と考え始めるきっかけとなった。 第二には、著作を通じて、性的マイノリティと言われる人々から発信された声を聞いた ときである。彼らの著作を通じて、人間の性を構成する要素の多様性と、それらの性の構 成要素におけるグラデーションという事実に眼を見開かされ、そうした差異を無視しカテ ゴリカルに裁断して性を二つとする性別二元制や、男性と女性という性別それ自体が、社 会制度でしかないことを納得させられることになった。第三には、著作を通じて、性産業 に従事する女性たちから発信された声を聞いたときである。男性のセクシュアル・ファン タジーに訴えかけることを目的につくられる AV で、身体は女性だが人格は男性と変わらな い人物によって、女性のセクシュアリティが男性のセクシュアル・ファンタジーに忠実に 演じられるという事態に、女性とは男性がつくりあげた妄想に過ぎないのではないか、と いう感想を抱いた。 このようにして、男性や女性という性別の社会・文化的構築性を確信していくにつれて、 改めて問題として課せられたのは、それにもかかわらず女という制度が保持され続けてい るのは何故なのか、ということであった。 もちろん、差別問題として捉えるならば、この問題は、社会システムに組み込まれた差 別構造一般を視野に入れて、考察しなければならない問題である。しかし、性差別においては、社会の多数派の男女は異性愛的セクシュアリティを生き、性愛でもって結ばれてい るという、他にはない特異な面がある。しかし現在の異性愛的性愛には、男性性の中に含 まれているミソジニーの問題がある。男性文化に内在するミソジニーは、性的に女性を欲 望の対象とすると同時に、セクシュアルな面を除いた性的対象として以外の女性的なもの 全般を劣等なものと見なす。 男性の主体性とは、女性とのこのような相関性の中で、構築されているところがあるので はないか。先に述べた、自分が女になってしまうのではないかという恐れは、浸透してく る女性的なものが、男性的なものよりも劣位に置かれているからこそ生じる、抵抗に由来 するとも言えるだろう。そこには、女性的なものとまともに関わろうとすることは、自分 自身を女性の仲間と位置づけることにつながり、男性文化の中で恒久的に劣位に置くこと になるであろう、という予感が伏在する。 さらに言えば、ミソジニーは男性の異性愛的エロスの中にも浸透しているように思われ る。対象として従属化されることなく、主体として立ち現れる女性は、男性を性的に不能 にするのではないだろうか。そして多くの男性にとって、性的不能は男性性の喪失として 感じられるのではないだろうか。したがって、愛と呼ばれる物語を介して行われる、男女 の性愛による結合には、アンビヴァレントなところがあることになる。 しかし、そのセクシュアリティに関しても、女性たちが過剰にエロス化された女性の身 体を脱エロス化し、性的対象ではない女性の身体イメージを構築しようとする試みが、す でに始まっている。 経済的自立を果たし、性的対象ではなく性的主体として立ち現れる女性は、現在のジェ ンダー秩序をどのように変えることになるのか。男女という性的区分が曖昧になり、私的 領域で女性が果たしてきた社会的機能が、性別を横断して配分し直されることになるのか。 ミソジニーは、何に対する蔑視へと転換していくことになるのか。そのような社会システ ムにおけるセクシュアリティはどのようになるのか。ほぼ恒久的に劣位に置かれてきた女 性たちが男性と対等の地位に立つか、男性・女性の区分が曖昧化していくとき、社会哲学 は、その過程で生じるであろう諸問題に、あらかじめ見通しをつけておく必要があるよう に思われる。
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月 25 日 B分科会
霜田 求(大阪大学) 「遺伝子をめぐる言説の社会哲学的考察」
ヒトゲノム解析の進展に伴い遺伝子に関わる医学研究が急速に進む中で、遺伝子をめぐ る言説は、生物学的な位相にとどまらず、政治的・社会的・文化的あるいは哲学的な位相 にまで及ぶものとなってきた。もちろんそうした言説は、進化生物学、社会生物学(動物 行動学、行動生態学)、進化心理学、行動遺伝学といった分野においてすでに登場していた。 それらは大まかに言えば、一方の「人間の知能や行動は主に遺伝子によって影響を受けて いる」説に対して、「遺伝子決定論や遺伝子還元主義はでたらめだ」説による批判という構 図を形づくっている。しかしながら、文字通りの「遺伝子(生物学的)決定論」を唱える 論者はほとんどいないことから見て、この図式では問題の焦点を見誤ることになりかねな い。そこで対立軸と論点の再整理が必要となる。ここでは、人間存在の諸様態(意識、行 為、コミュニケーションなど)に遺伝子が及ぼす「影響」についての評価を軸に、「遺伝子 を中心とする生物学的組成が中心的・主導的な役割を果たす」という説(=遺伝子中心主 義)と、「遺伝子よりもむしろ社会文化的な環境や個人の自由意思といった要因が重要な役 割を担っている」とする説(=遺伝子中心主義批判)との対立構図を設定する。 前者は、「遺伝子発現プロセスにおける環境要因との相互作用や遺伝子相互の関係、ある いは個人の自由意思にも一定の役割を認めた上で、そこでの遺伝子の中心的・主導的働き を強調する」観点から、「個々の表現型は〇〇の遺伝子型によって決定されている」という 説(=遺伝子決定論)からは一定の距離をとる。その上で、「個人の遺伝子型がその性格や 行動といった表現型を生成させる発生メカニズムはほとんど未解明であるものの、表現型 における個人差が遺伝子型による統計的・量的な影響として数値化可能である」と主張す る。これに対して後者からは次のような批判が加えられる。「個々の遺伝子型や表現型がそ れ自体で完結した意味を持つもの(例えば「設計図」)として実体化されているのではない か」、「人間の性格・性向・行動を個々の反応・対応・動作といったそれぞれの要素を発現 させる遺伝子型へと還元可能と見なすことなどできるのか」、「生物学的な行動・集団と人 間の行為・社会との質的差異の軽視しているのではないか」、「社会工学的な制御(コント ロール)や設計(デザイン)の発想に安易に立脚し、知能や行動への遺伝的影響を強調す る“研究”が歴史的にどのように機能してきたかについて、その政治的・経済的・社会的・ 道徳的な連関を探ろうという姿勢に欠けるのではないか」、などである。 このような批判的論点を受け止めつつ、遺伝子医療に関わる倫理問題を検討するための 基本的視座を確立するために、先端医療をめぐって対峙する「当事者の選択の自由を尊重 する立場」と「生命ないし共同体の価値を重視する立場」という両陣営をともに超え出る 第三のアプローチの可能性を探ってみる。それは、「それぞれの〈問題〉の文脈に定位しながら、人がどのように他者に関わるのか、いかにして公共的な意見形成および意思決定を 行う(=他者との関わり合いを構築する)のかを問う」というものである。そこでは、「制 御」や「設計」の対象として他者を眼差すのではなく、「かけがえなき応答可能性」の担い 手である他者との固有の〈関係性〉を構想すること、それを様々なレヴェルで討議する枠 組みを創出していくこと、が目指される。
夏目隆(神戸学院大学) 「環境と経済の持続性」
「環境と経済の持続性」の問題とは、環境によって経済成長が持続可能となるか、とい う周知の問題である。ポール・エキンズはこの問題を『経済成長と環境持続可能性』(Paul Ekins, Economic Growth and Environmental Sustainability, 2000, Routledge) において、 経済と厚生に関する4資本の理論モデルによってとりあげている。この報告では、同書の 特に第 3、4 章を中心にこの資本モデルを紹介し、検討する。
1. 持続可能性と環境機能
エキンズによれば、持続可能性とは、経済と厚生に対する人間と環境による持続可能性 のことであるが、その場合、資本概念が用いられて人間は人間資本 Human capital, 社会 環境は産物資本 Manufactured capital と社会・制度資本 Social / organisational capital, 自然環境は自然資本 Ecological capital となる。そこで、人間資本が行動主体となって、 社会資本のもと、自然資本に働きかけ、産物資本を生産・分配し、これを消費・消耗する と同時に自然資本に廃物を排出することによって、生存とその厚生を実現している。これ が経済・厚生の4資本モデルである。こうした資本の役割がエキンズでは持続可能性の概 念を構成する。しかし、厳密には、4資本の機能は、まず経済・厚生実現の「支持」機能 である。その上で経済成長と持続的厚生は資本の支持機能の「持続化」によるものとされ る。当然、そこでは資本ストックの変化とそれによる用役フローの変化が認められる。 2. 環境持続性 エキンズは持続可能性の概念を区別して、自然・経済・社会・倫理上のそれらを示して いるが、それらの概念は上述の四つの資本のうち、特にどの資本との関連を重視するかに よって持続可能性を規定しようとするものと解釈される。そのうち、注目されるのは、自 然資本による経済・厚生支持の持続可能性(略して環境持続性と呼ぶ)である。こうした 環境持続性について、自然資本への人工産物資本の代替可能性を問題にしたのが R.K.ター ナーである。ターナーによれば、両極端なケースとして完全代替と完全非代替のケースが あって、その中間に非代替を例外とする不完全代替(これを「弱持続性」という)と代替 を例外とする不完全非代替(これを「強持続性」という)のケースがある。いうまでもな く、代替の可能性が否定されるほど、経済成長・持続的厚生への自然環境の制約は「強」 となる。 3. 強環境持続性のもとでの経済成長 冒頭にあげた問題は、ここでエキンズによれば、自然環境による「強」持続性のもとで の経済成長あるいはグリーンな成長の可能性の問題となる。これに対する答えは、自然環
境資本というよりはむしろ、その環境機能が持続的に維持されるという条件のもとでのみ、 経済成長が可能となる、というものである。そのためには、次のような持続可能な経済発 展(厳密には持続的厚生の実現)のためのルールが守られねばならない。それは環境機能 の持続的利用のルールにほかならない。 まず、資源供給機能の利用については厚生的観点からみて不要な利用は抑制し、必要な 利用については効率化をはかる。最も短命な非再生資源の利用は代替資源の開発をにらん で進める。効率利用・資源開発の技術はこれを体化する産物資本による供給機能の代替を 意味する。そうした資本への投資には有限資源よりの収益を充当する。再生資源の利用は 自然環境の再生機能の限界内にとどめる。特にアメニティー機能についてはその資源価値 と同時に文化的・美的価値を尊重する。 次に、産物受容機能については廃棄抑制と自然への最終投棄を可能な限り制限するとい う意味での廃棄効率をはかる。そのためには、修理・再調整・再利用・再資源化の4Rを 進めるための技術と設備資本の開発が必要となる。これもまた人工資本による受容機能の 代替を意味することとなろう。特に有害廃物の人間資本への健康侵害は自然の浄化機能を 補完する処理技術の開発を急務とする。 資源再生・環境復元の環境機能に関してはエキンズは先の受容機能に含まれる「資本フ ィードバック効果」とみなしているが、これが経済・厚生とに供給・受容機能のようには 直結するものでないという意味から第3の環境機能として区別しておく必要がある。物質 循環によって再生復元をはかる自然資本(例えば多様な生物種・熱帯雨林)の存在は保護 されるべきであり、自然生態系における栄養循環は人工物資本の投入された人為生態系に よって完全に代替されるものでない。 最後に供給・受容・再生という個別機能を統合し、全体を保全する包括的機能を生命維 持・厚生実現の根本機能としてあげておこう。この機能については作用空間の広大さ、作 用時間の長大さの点から人工物資本による機能代替は全く不可能としかいえない。むしろ、 オゾン層破壊、地球温暖化にみられるように人工物による思わざる機能破壊を招くことの ないよう常に警戒するのみである。 以上の環境持続可能性に対して、社会制度よりの持続可能性に関連して自然環境の利用 上の社会的公正の問題が、利用成果の分配公正と利用アクセスの機会公平の問題として存 在していることを最後に指摘しておこう。
徳永 哲也(長野大学) 「福祉哲学とは何か」
1. 「福祉」という 21 世紀テーマ 20 世紀型の「福祉国家」戦略は、大きな曲がり角に来ている。先進諸国は、第二次世界 大戦後それなりの「豊かさ」を獲得し、社会保障制度も充実させてきたが、低成長や環境 問題が顕在化する中で、「バイ拡大による福祉への配当」という政策は限界を迎えている。 そもそも 20 世紀型高度成長自体が、地球環境への自浄再生能力を超える負荷と、南北格差 による安価資源と低賃金労働の収奪によるところが大きく、そこには人類総体の福祉など 構想されていなかったと言える。 日本でも福祉政策の危機が、財政、マンパワー、システムの各方面で喧伝されている。 高齢者福祉は、2000 年 4 月から介護保険制度が始まったものの、多くの問題点が予想通り 噴出している。それでも福祉は、数少ない「成長産業」として期待され、それはヘルパー 講座や福祉系大学の人気ぶりにも現れている。制度的調整もさることながら、やはりここ には、これからの福祉社会をしっかりと描き出す透徹した哲学が必要だと思えてくる。 2. 福祉にとっての哲学、哲学にとっての福祉 本研究は、福祉が社会哲学の重要なテーマとなりうるか、哲学に福祉を語る権能がある か、そしてその議論の先に「福祉哲学」なるものを構想しうるか、といった問いに、ある 程度肯定的な答えを出し、問題整理の起点を提示しようとするものである。 さて、福祉に携わる人々は哲学を求めているだろうか。「哲学」という言葉にどんな意味 を付与するかにもよるが、かなりの程度 YES と言える。福祉施設の指導者たちからは、「最 近働きに来る若者は、人間を相手にすることの根本的な哲学が抜け落ちている」との指摘 があるし、若い従事者たちからは、「福祉現場の実情は矛盾だらけ。福祉とは?いのちとは? を哲学として勉強し直したい」との声が上がる。また、理想に近い実践がなされていると 言われる施設を評する人は、「あそこの施設長には揺るぎない哲学があるから、若い連中も ついてくるし、利用者も信頼しているんだ」と語る。大学の社会福祉学科には「社会福祉 原論」という講義はあるが、彼らが要求する「哲学」はそれとも別物らしい。生命倫理と か人間論とかいった視点を含むものを欲しているようである。 他方、哲学に携わる人々は福祉に目を向けているだろうか。これにもある程度 YES と 言える。ケア論などの哲学的言説は出始めているし、そもそも哲学は、存在論や認識論と いった純理論的な領域を別にすれば、人間の善性、道徳意識、隣人愛など「福祉の心」の 種にもなるものをそこそこ論じてきたはずである。近代のカントの義務論、ヘーゲルの市 民社会論、ベンサムやミルの功利主義は、弱い立場に立たされた者をどう救済するかとい う着想を多く含んでいるし、現代のロールズの正義論は、まさに福祉社会を構想する原理 原則論である。3. 「福祉哲学」の性格と意義 福祉哲学は、生命倫理の知的蓄積は生かしつつも、応用倫理学の一分野として開拓され るものではない。他方、社会福祉学の基本的な議論は踏まえつつも、「福祉思想史プラス障 害者福祉・老人福祉・児童福祉・地域福祉」といった枠組みでの社会福祉原論を再考察す るものではない。むしろ、「いのち」「人間」「支え、支えられること」「生きる喜びと苦悩 のありか」「死の受容」を先哲の知恵と現代の技術を見据えながら考えるものである。それ によって、「共に生き、笑い、泣き、死を見送り見送られる」心の方位決定に多少なりとも 貢献する理論を整理していきたい。 哲学に携わってきた者は、先に指摘した福祉に目を向けた諸論への哲学史的知見とここ 30 年ほどの生命倫理学への目配り、そしてこれからの福祉社会への問題関心をある程度あ わせ持てば、福祉哲学を論じる試みに着手できるのではないか。それに哲学者は、言葉を もって議論を精緻化する訓練をそこそこ積んでいるはずなので、人々の生き死にと福祉社 会に伏在する問題を言説として明確にする役割も果たしうると考える。 4. 「福祉哲学」としての課題 紙幅の都合で当面考えている項目のみを挙げ、詳論は別の機会に譲ることにする。 (1) 個人の自立と、支え支えられることとの整合的議論、「自己実現」の意味 (2) 何をどこまで負担し、何を享受するか、その義務的側面とボランタリーな側面 (3) 福祉従事者の誇りと職業倫理、受益者側の権利とそれなりの倫理 (4) 長寿社会の医療と健康観、とくに財政危機喧伝と健康信仰の問題 (5) ポストゲノム時代の新優生主義と障害者・遺伝病者の福祉
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月 26 日 全体会
坂井昭宏(北海道大学) 「行財政改革と大学評価-大学評価の方法に代えて」
§1 8月末の研究会での発表の最初の目的は、わが国でいわゆる第3者評価が実施され るに至った経緯とその実状、すなわち一昨年4月に発足した大学評価・学位授与機構が行 う大学評価事業の、とくに私自身が関与している教養教育評価の概要を紹介することにあ った。具体的にいえば、大学教育の現状を踏まえて、教養教育の理念あるいは目的をどの ように設定すべきか、教養教育の目的をどのような授業科目群と履修基準によって実現す べか、個々の授業科目の教育目的を効果的に達成するにはどのような教育方法が採用され るべきか等々の諸問題を、評価という観点から検討することにあった。発表の表題を「大 学評価の方法」としたのは、そのためである。 大学評価・学位授与機構の評価は、各大学が独自に設定した目的および目標に即して、「当 該大学の行う諸活動がその目的及び目標の実現に貢献するものであるか、また諸活動の結 果がそれを達成しているかなどの視点」から行われることになっている。とくに教養教育 に関しては、いわゆる大綱化以降、各大学において独自の多様な試みがなされてきたこと を考慮して、教養教育評価専門委員会はそれに適合した形で評価を実施することを目的と して、まず評価の対象である各国立大学における教養教育の実状を調査することにした。 この調査の詳細は、「国立大学における教養教育の取り組みの現状−実状調査報告書」(平 成 13 年9月)に示されている。 大学評価・学位授与機構の評価事業は、大学評価委員会および各専門委員会の委員の多 くが大学教員であることから明らかなように、基本的にはピア・レビュー(対象分野の専 門家による評価)であり、教養教育専門委員会における討議も比較的アカデミックな雰囲 気のなかで進められている。したがって、少なくとも現状では、大学評価機関(仮称)創 設準備委員会「大学評価機関の創設について(報告)」(平成 12 年2月)に示された評価の 目的に即して実施されているといえよう。すなわち、それは以下である。 ①教育活動、研究活動、社会貢献活動など大学等の行う諸活動について多面的は評価を行 い、評価結果を各大学等にフィードバックすることにより、各大学等の教育研究活動の改 善に役立てる。 ②大学等の諸活動の状況や成果を多面的に明らかにすることにし、公共的な機関として大 学等が設置・運営されている点について、広く国民の理解と支持が得られるように支援・ 促進してゆく。 §2 しかし、ここから報告者の困惑と表題変更の理由が明らかとなるのであるが、昨年 6月、遠山プラン、正確には文部科学省経済財政諮問会議(第10会)への提出資料「大学(国立大学)の構造改革の方針」が新聞紙上等で公表された。そこでは、大学評価が国 立大学の再編・統合の手段として位置づけられている。 1.各大学や分野ごとの状況を踏まえ再編・統合、国立大学の数を大幅な削減を目指す。 →スラップ・アンド・ビルドで活性化 2.国立大学に民間的発想の経営手法を導入する。 3.大学に第三者評価による競争原理を導入する−専門家・民間人が参画する第三者評価 システムを導入(大学評価・学位授与機構等を活用)、評価結果に応じて資金を重点配分、 国公私を通じた競争的資金を拡充→国公私「トップ30」を世界水準に育成 まさに「中央省庁等改革基本法」(平成 10 年9月)以降の行財政改革の荒波が国立大学を、 いわゆる独立行政人化とは異なった側面から直撃したのである。 それにしても、なぜ「10」ではなく「30」なのか。また、このような国立大学統廃 合政策はどこで立案されたのか。同じ遠山プラン「大学を起点とする日本経済活性化のた めの構造改革プラン−大学が変わる、日本が変わる」では、「トップ30」(全体の約5%) という説明が与えられている。おそらく、これは「21世紀の大学を考える懇談会第3回」 (平成 13 年1月 31 日)の討議を踏まえたものであろう。そこで、阿部博之委員は「日本 の有力大学とアジアの有力大学の相対的地位は、今の延長線上で行けば、10年後の逆転 が明白」との意見発表を行い、これを受けて他の委員(氏名不詳)は「国際的に魅力のあ る大学を創出してゆくべきだとの定言に賛同する。今の大学院生が教授になるであろう2 0年後に国際的に評価される大学が5%はあって欲しいと思う」と述べている。 しかし、「21世紀の大学を考える懇談会」に具体的な数字を伴う政策を定言する権限は あるのだろうか。「国立大学の削減の議論というのは、どこでどのくらいの期間なされてき た結果このような方針としてお出しになったものでございましょうか。」(参議院文教科学 委員会会議録 2001.6.26 日下部委員の質疑)さらに、遠山プランは経済通産省「新市場・雇 用創出に向けた重点プラン」(平成 13 年5月 25 日)、いわゆる平沼プランに対応するが、 この点を踏まえて原山優子氏(経済産業研究所研究員)は以下の疑問を投げかけている。「遠 山プランは産業政策・雇用対策の一環として位置付けられるが、文部科学省の所掌事務の 範囲にある「高等教育政策との適合性は?」という疑問が生じる。・・・・・本来のミッション である教育機能の低下が問われ、問題解決の糸口もつかめていない状況にありながら、大 学には多大な役割が強いられている。また幾多の政策目標を達成する手段として、大学を ワイルド・カード的に動員する点にも問題がある。」いうならば、遠山プランは文部省の行 財政改革路線への悪乗りではないか、というのである。 それにしても、事態は深刻である。「大学改革」そのものは「われわれが不断の努力で常 に大学を見直し、改革を実行していくべき問題である。しかし、「今回の大学改革問題」は 行革の一環だ、ということである。“国立大学だけは例外”ということはありえない。国立