大正・昭和前半期の中等教員養成システムをめぐる
問題
著者
都築 亨
雑誌名
椙山女学園大学研究論集 社会科学篇
号
31
ページ
123-135
発行年
2000
URL
http://id.nii.ac.jp/1454/00001380/
大正・昭和前半期の
中等教員養成システムをめぐる問題
都 築
亨
Teacher Education in Secondary School Before The War Toru TSUZUKI1.問題の所在
昨年の研究論集では,『戦前の中等教員養成システムとその問題』として,明治以来,中 等教員の養成については,小学校の閉鎖的な師範教育とはかなり異なったシステムの上に 展開され,その養成システムは開放制とまでは言えないまでも,閉鎖的ではなく,また, 画一的でもなく,文部省が「中等教員無試験検定制度」を導入して以後,私立大学の卒業 生に対して,「無試験検定許可」を与え,臨時教員養成所を増設し,さらには「文部省検定 試験」(文検)合格者をもって中等教員の不足を応急的に埋めあわせるという形で,対策を 講じていたという経過について考察した。 学制で,小学教員は「年齢20歳以上ニシテ師範学校卒業免状或ハ中学免状ヲ得シモノ」 とされ,中学校教員は「年齢25歳以上ニシテ大学免状ヲ得シモノ」をもって充当するとさ れていたが,「学制」に基づく大学が存在しなかったため,1875年8月,東京師範学校に 「中学師範学科」を設置されたのが,中等教員養成の専門的機関が置かれた端緒であった。 1886(明治19)年4月10日に公布された「師範学校令」でも,中等教員免許の対象は, 必ずしも高等師範学校卒業生を主とするとも,大学免状を得た者とも確定してはいなかった。 1887年1月にドイツ文学,教育学担当教師として帝大に着任した,お雇い外国人ハウス クネヒト(Emile Hausnecht)が着任後,ドイツのHoch Lererseminarに倣って,高等中学 校および尋常中学校の教員養成についての特別の施設を設けることを提案し,89年に,帝 国大学に「特約生教育学科規則」が制定されて,「特約生教育学科ハ高等中等両中学校教諭 タルベキモノヲ養成スル為メ設立スルモノニシテ已二諸学科ノ学修ヲ了リシモノヲシテ尚 教育学及教授方ヲ研修セシムル」としたのも大学による中等教員養成の模索の一つであった。 中学校・高等女学校の教員の需要を確保するために,広島に高等師範学校が設立された のは1902年で,翌年の10月に開校したが,その年の中等学校の教員数は中学校4,581名, 高等女学校1,173名,師範学校の教員1,031名,合計6,885名であった。99年の「高等女学校 令」の公布により,第2女子高等師範学校の新設も日程に上ってきたため,1908年には文 部省直轄学校官制中に「奈良女子高等師範学校」が追加され,第2女高師が増設された。この当時,中等教員の全教員のうち,高等師範卒業生の占める割合はほぼ1割に過ぎず, 1904年でも8.03%に過ぎなかった。しかし,中等教員養成機関の本山とされた高等師範お よび女高師は,1910年以降,それぞれ2校ずっのままで,増設されることはなかった。 急増する中学校,高等女学校に対して,文部省は私立大学の卒業生に「無試験検定許可」 を与え,中等教員試験で無試験検定の指定を受けた私立の専門学校,物理学校,美術学校, 音楽学校などの出身者に免許を与え,臨時教員養成所の増設と「文部省検定試験」(文検) という装置を最大限に利用して,中等教員の最大の供給源としたのである。そのシステム は必ずしも閉鎖的ではなく,むしろ開放制と言われる現在の教員養成制度と比べても,緩 い側面を持ち,中等教育には自由度が保持されていたことは評価してよいことであろう。
2.20世紀初頭の教育状況と中等教員の確保策
日露戦争後には,初等・中等教育段階のみならず高等教育においても量的伸びが著しく, 1903(明治36)年3月27日,「専門学校令」(勅令第61号)によって,「一方に於いては各 種の官立専門学校を増設して学制改革の目的の一端を果たし,又一方……各多くの私立専 門学校を名実共に備わった立派な専門学校に」1)しようとする試みが実現して,官立専門学校は高等工業学校6,高等農業学校2,高等商業学校4,医学専門学校5,その他3。公
立専門学校は4,私立専門学校は42に達し,また,高等学校は第一ないし第七に,山口を 加えて8校となり,大学も1897年に京都帝国大学の設立後,1907年には東北に,1910年に は九州に帝大が増設された。その拡充はたしかに飛躍的であった。そして,1896年にわず か1,833名であった大学生の数は,1909年には7,559名にまで激増したのである。 1907年の「師範学校規程」で,師範学校に「本科第2部」が創設されたことは,それま で高等小学校からのみ優れた生徒を吸収して,国民教化の教育体制を固めることを第一に していた師範学校に,中等学校の卒業者を入学させることになって,師範教育と中学校教 育とをドッキングさせる結果になり,以後師範教育に「第1部」,「第2部」のいずれが主 流であるかの論議を起こすことになり,その「第2部」が後に専門学校昇格の基礎をつく るもとにもなった。 1910年3月,衆議院に根本正等によって『帝国学制案』が発議され,松田正久,原敬等 による,「学制改革に関する建議案」が提出されたのも,学校制度の根本的改革によってそ の行き詰まりを打開しようとの表われであった。その『帝国学制案』は衆議院さえも通過 しなかったが,「現今ノ学制ハ修学年限長キニ失」し,「教育機関ノ不足ナルカ為幾万青年 ヲシテ空シク路頭二迷ハ」しめ,「衒学ノ悪風ヲ助長シ……之カ改革ノ必要ハ焦眉ノ急ニ迫 レリ」2)として提出された「学制改革二関スル建議案」は衆議院を通過した。 その趣旨説明に立った鳩山和夫は,「学制ノ改革ト云フコトハー時ノ問題デハアリマセン デ国家ノ繁栄国力ノ消長二関シ頗ル重大ナ問題デ」あるとして,次のように述べている。 「今ノ制度トイウモノハ所謂詰込主義デ無闇ニ教師ノ知ッテ居ルコトヲ生徒二授ケル, 其ノ教師カラ授カッタトコロノモノヲ能ク記憶シテ,教師ノ意二合フヤウナコトヲ答案 二書ケバ試験二及第スルト云ウコトニナッテイル。斯様ニシテ拵ヘタトコロノ学ガ世ノ 中二出テ何ノ役二立ッカ……学問ト云フモノニ向ッテ国家ガ費用ヲ用ヒ,税ヲ以テ学校二用ユルトシマシタ以上ハ善良ナル国民ヲ作ルト云フヨリ外ニ目的ハアルベカラザルモ ノデアル」3) 小松原文相はその学制の改革案を8つの諮問案として,高等教育会議に諮問4)したが,諮 問第1号の高等女学校について,1910年10月に「高等女学校令」(勅令第424号)が改正さ れ,技芸専修科の規程を改めて,家政に関するコースとして「実科高等女学校」を設け, 「其ノ学科課程ニ於テ特ニ裁縫ニ重キヲ置キ実業ヲ加」えるとともに,その高等女学校の教 育内容を祖先教農本主義教育体制の一環に位置づけ,「良妻賢母主義」によって女子教育を 導こうとする意図も持っていた。 11年5月「師範学校教授要目」が改正(文部省訓令第13号)され,さらに,12年7月に は,「中学校令施行規則」(文部省令第26号)「中学校教授要目」が改正(文部省訓令第15 号)されて,かって国民教化コースと区別されて,高等諸学教授のための基礎教育とされ た中学校の教育は,今や内容的には小学校→師範学校の教育と同じ路線の上に進められ, また,体制側の警戒の目はその中等・高等教育に対して,より厳しくなってきたのである。 日露戦争から大正政変にいたる明治末の「桂園時代」は,政治史的に見れば,伊藤・山 県という明治の政界をリードした第一級の元老が,政界の第一線を退いて,ブルジョア的 勢力を代表する政友会と,山県派官僚との間において政治ヘゲモニーをめぐる争奪が繰り 返された時代であり,「天皇機関説」と「白樺派」に代表される新しい価値観を醸成しなが らも,他方には以前の「健全なナショナリズム」が歪められて,「家族国家観」と「祖先 教」,農本主義によって骨組みを形成されたオールド日本の教化イデオロギーを民衆に浸透 させ,時代閉塞の状況を生みつつあった。
3.臨時教育会議とブルジョア的的教育改革路線一大正期の教育動向一
1912(大正元)年12月19日,大正政変の幕開けともなった「憲政擁護」の第1回大会 は,歌舞伎座で開かれたが,24日に第30議会が召集されて,その運動は一段と高揚した。 翌1月の再開国会において,首相の施政方針演説のあとで,「内閣弾劾決議案」が上程さ れ,冒頭で尾崎行雄の「玉座をもって胸壁となし,詔勅をもって弾丸にかえて政敵を倒さ んとする」との有名な演説が行われ,議会は再度停会された。そして,民衆の激昂と怒号 のなかに桂内閣は倒壊した。 この大正政変は,「民衆の力が政府を倒した最初の事件であり,それゆえにまた日本近代 史の画期的な事件であった」5)が,政権の帰趨は決して民衆の手に委託されることはなく, 依然として元老の手中にあった。その元老の手によって成立したのは,桂に代わった海軍 閥,薩摩出身の山本権兵衛内閣であった。陸軍から海軍へ,長州から薩摩へ,与党が同志 会から政友会に移ったのに過ぎなかった。 山本内閣の文部大臣奥田義人はこうした政治的状況のなかで,明治末期以来の懸案であ る「教育の刷新」,「学制改革」の問題に当たらなければならなかった。貴族院の決議に従っ て,『高等教育会議』を廃止し,『教育調査会』を設置したのは,この学制改革の重大な問 題に対処するためであったが,この教育調査会の構成は「大物を集めて健全なる全局に通 ずべき調査を実施する」6)ためのものであったといわれ,極めて特色あるものを持っていた。25名の委員中で政界からは3名を数えるのみで,あとは,澁澤,豊川などのブルジョア ジー,および江木,岡田などの官僚政治家で占められていたことは当時の政治的バランス, ブルジョアジー対絶対主義的官僚の接合点の上に学制改革を行う意図を表明していた。 シーメンス事件によって山本内閣が倒壊した後,長老大隈重信が組閣したが,大隈は, 高齢にもかかわらず,「事あるごとに国民に自由独立の大精神,大元気,権利義務,立憲制 についての知識を涵養する」7)必要を説く進歩的思想の持ち主で,その文部大臣となった一 木喜徳郎は山県系の能吏ではあったが,同時に天皇機関説の美濃部達吉に最も大きな影響 を与えた8)一木憲法学の樹立者としての側面を持っていた。この教育調査会で,大学制度 の改革がブルジョア的意向にそってかなり徹底して取り上げられたのもその故であった。 しかし,高田早苗等のかなり前向きの大学改革案に対して,官僚グループの阻止工作は, 枢密院,貴族院に依拠して,執拗なまでに続けられ,また贈賄事件に端を発した内相の辞 職という失態もあって,貴族院と内閣の対立は元老山県有朋の調停で辛うじて乗り切るこ とが出来たという程の末期症状を呈していた。そして,間もなく内閣が倒壊したこともあっ て,「教育調査会」は積極的な結論を出すことなく,解散した。 大隈内閣の倒壊後,長州閥,山県派の寺内正毅が組閣したが,この内閣で文部大臣に就 任したのは岡田良平であった。岡田は第2期国定教科書に報徳主義を導入した中心人物で あり,農本主義,祖先教に依拠する立場から「国家的没理想」の現状を打破し,懸案の学 制改革の問題に根本的決断を与えるべく,ブルジョア的意向の強い教育調査会を解散し, 異例の「天皇上諭」によって,『臨時教育会議』を召集し,教育の刷新を断行しようとした のである。 「臨時教育会議」は,1917年9月20日,勅令第152号によって官制が公布され,「一層教 育ヲ盛ンニシテ国体ノ精華ヲ宣揚シ堅実ノ志操ヲ涵養シテ自彊ノ方策ヲ確立」9)するために 設けられたものであったが,この「臨時教育会議」は山県腹心の平田東助を総裁とし,小 松原,一木という前文相をも含め,36人の委員をもって構成されていた。それはブルジョ ア勢力に対抗して,絶対主義的官僚の側からの巻き返しをはかろうとする方策でもあった。 10月1日に第1回総会が開かれて,19年3月28日の第30回総会により閉会されるまで,実 に1年有半,30回の総会のほかに,83回の「主査委員会」が開かれ,「小学教育」「高等普 通教育」「大学教育及専門教育」「師範教育ノ改善」「視学制度」「女子教育」「実業教育」, 「通俗教育」「学位制度」の9諮問事項にっいて「答申」,ないしは「建議」が行われた。 初等教育については,「国体観念」の涵養と「国民道徳教育ノ徹底」とを一層強調するば かりで,国民教育の内容的充実については何ら具体的な提言をすることはなく,改革の中 心は「教育調査会」の場合と同じく,高等教育の改革にあった。ようやく,この時期に高 等教育の改革が日程にのぼったのは,資本主義の発展に応じて,「学理ノ薀奥ヲ究メ学術ノ 進歩ヲ図リ以テ国家有用ノ人材ヲ養成」lo>するために,新しい大学・高等教育の充実が要望 されてきたからであった。 第1には,資本制生産の発展に即応する高度の技術・知識を備えた大量の人材に対する 要求の高まりであり,第2には,学制発足当初,「科学二進ムベク」方向づけられていた高 等教育を,体制側が国家の要請に応じて,「祖先教」,「国体観念強化」の方向に切替えねば ならぬとの危機感から,民本主義ないしは進歩的社会思想の潮流に対して,「剛健質実真に 国家の中堅たるべき人物を陶冶する」11)べき必要性を強く感じてきたからであった。
大学が今後その数を増すであろうとは当然予測されたことであり,また,それまで「専 門学校令」によっていた私立大学が,名実ともに「大学」となったのもその結果であった が,会議の基本的方針は必ずしも専門学校を格上げして,無制限に「大学」を増加させよ うとするだけのものでもなかった。答申の最後に,「専門学校二関スル規制ハ大体二於テ之 ヲ改ムルヲ要セサルコト」(21)とし,その理由のなかで,「専門学校ノ制度ハ固ヨリ教育 上必要ナルモノナレバ,専門学校ガ争ウテ大学トナラムトスルカ如キハ,厳二之ヲ防制セ サルヘカラス」12)としていた。しかしながら,大学・専門学校を次第に昇格させ,かつ急激 に増加させることによって,高等教育の内容は変わらざるを得なかったのである。今まで 帝国大学の予科的性格を強く備えていた高等学校の性格については,この答申で,「高等学 校ハ高等普通教育ヲ授クル所トス」とされて,国運の進展に即応しうる「中流以上の生活 に入る」者の完成教育段階にあてられようとしていた。 臨時教育会議の答申は,師範学校,小学校の教育内容について,「国民道徳教育ノ徹底」 についても一層強化する方向を打ち出し,小学校教育については「国民道徳教育ノ徹底ヲ 期シ児童ノ道徳的信念ヲ輩固ニシ,殊二帝国臣民タルノ根基ヲ養フニー層ノ力ヲ用フルノ 必要アリト認ム」13)とし,また師範学校の教育については,「教育者タルノ人格ヲ陶冶シ其 ノ信念ヲ輩固ニシ殊二忠君愛国ノ志操ノ涵養ニー層力ヲ致スコト」14)を強調していた。 道徳教育の徹底を掲げた体制側の危機意識の中には,「今日ノ東西両洋諸国……支那ノ如 キ……殆ド収拾スベカラザル状態二陥ッテイル。斯様ナル世界ノ大勢ガ向ッテ参リマスル ト云フト,余程吾々ハ少年子弟ヲ教育スル上二於キマシテ,吾々帝室,畏レ多クモ吾ガ帝 室ヲ尊崇スル観念ヲ深ク泌込マシテ行カヌト云フト此ノ国家ハ甚ダ危険ナ状態二囚ハレハ セヌカト云フコトヲ憂フルノデアリマス」15)という発言にも現れたように,何よりも社会主 義的,民主主義的な風潮に対する危惧から出発していたのである。 師範教育についても,「師範教育ノ改善ヲ講スルニ当リ,必要ノ事項一ニシテ足ラスト雖 モ教育者タルノ人格ヲ陶冶シ,其ノ信念ヲ鞏固ニシ,殊ニ忠君愛国ノ志操ノ涵養二力ヲ尽 スヲ以ッテ最大急務トナス。此ノ事タル,従来高等師範学校及師範学校二於テ最モ重キヲ 置キ其ノ効果ヲ収ムルニ努力スル所ナリト雖モ,其ノ実績二於テ尚頗ル遺憾ナキ能ハス」16) として,「忠君愛国ノ志操ヲ輩固ニシテ教育ヲ以テ天職トナシ,忠良ナル国民ヲ養成シ有為 ノ人材ヲ薫育スルノ最モ高尚ナル任務タルコトヲ確信スル」教育者をこそ,特にこの期に 及んで必要としてきたのであった。 この路線がこの時期の学校教育の場に導入されたプロセスを見ると,明治以来何度とな く取り上げられて果たされなかった学制改革……根本的には資本制生産の発展に応ずる高 等教育の体制の改革を中心としていた……の方向であり,基本的には森,井上によって案 出された国家教育主義の上に,ブルジョア的立場を包括しながら,その後継者たちが創出 した祖先教,家族国家観イデオロギーを,高等教育を含むあらゆる教育の場に浸透させて 民主主義,社会主義の風潮から我が国体を防護してゆこうとの意図を持っていた。それは, ファシズムというよりも前近代的イデオロギーであり,皇国主義,家族国家観であった。 当時,第一次大戦中の好景気で,日本の資本主義は飛躍的な発展の時期を迎えていたが, それとともに労働者農民の組織化も進み,民衆のエネルギーと大正デモクラシーの波は米 騒動の後に,本格的な政党内閣である原内閣を成立させた。 原内閣は政友会を基盤として,1918年9月26日に成立したが,その政策は4大政綱にま
とめられた。「国防の充実」,「教育の振興」,「産業の奨励」,「交通機関の整備」がそれであ り,最も力を注いだのは教育の振興であった。文部大臣に就任したのは大阪の実業家中橋 徳五郎であった。教育に対するブルジョアジーの主導権が初めて出現したのである。 中橋は述べている。「由来,日本国民は自ら治むるの民に非ずして他に治めらるる国民な り。是畢竟するに長き封建制度の余弊国民を駆って茲に致らしめたる者なるが,斯かる旧 き国民を有する国家は到底今日の如き激烈なる国際競争の勝利者たる能わず……忠君愛国 の教育主義は至極結構なるも教育の第一義は先ず完全なる人を造るにあり。」17)これは臨時 教育会議に示された理念とはかなり隔たったブルジョア的教育理念の宣言でもあった。 ブルジョア的立場における教育の振興の施策は,何よりも先ず高等教育機関の拡張整備 でなければならなかった。原敬は組閣後早々その資金的裏づけに苦心し18),その結果,公 債発行とともに高等教育機関の拡張のための御内帑金壱千万円の下賜を取り付け,それに よって,その財源4,450万円をまかなう目処を立てた上で,「大学令」(大正7年12月6日 勅令第388号),「高等学校令」(同日勅令第389号)が公布された。 大学令は,「国民二須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ,並其ノ薀奥ヲ攻究スル」ことを 目的とし,単科大学を認め,学部に研究科,大学院をおき,官立大学のほか公私立大学を 認めた点で,形式的には臨時教育会議の答申の線をほぼ忠実に継承したものではあったが, 原首相,そして中橋文相は,総合大学に学部を増設し,さらに専門学校を昇格させて単科 大学とし,高等学校,専門学校を増加させることによって,飛躍的に成長してきた日本の 資本制生産社会が要求していた大量の技術者,知識人を創出,確保しようとするものであっ た。 1918年には,5帝国大学,学生数9,040名であったが,19年以後,急速に増大し,官立 大学として大阪医科大学,東京商科大学が誕生し,公立大学は,愛知医大,京都府立医大 を加え,その他に私立大学としてそれまで専門学校であった慶応,早稲田,明治,法政, 中央,日本,国学院,同志社,さらには東京慈恵医大も加えて,1921年には大学の数は18, 学生数は26,000名,23年に,31大学,38,700名の学生数を持つまでに拡張されたのである。 高等学校も,18年の8校,学生数6,800名に過ぎなかったものが,21年には17校,10,200 名に,23年には25校,13,700名へと増加し,専門学校も,96校,49,000名であったものが, 21年には,108校,52,000名に,23年には121校,54,000名にまで達した。これに対して師 範学校は1918年に93校が,1926年に102校と,わずかに9校の増加を見るに過ぎなかった。 5年間にほぼ倍増する程の,空前の高等教育の拡張は,当然その社会的影響も大きく, まさしく,「中流以上の人材を」大量に創出して,産業界に投入するものであり,その点で ブルジョアジーの教育要求を満たそうとするものであった。そして同時に「中流以上の人 材」を基盤としていた政友会の地盤をも固める役割を演じてもいた。それは「普選」を拒 否して,「直接国税3円以上」に選挙権を認めた選挙法改正に見られる原内閣の姿勢と基本 的には共通する政治的観点であった。
4.師範教育の改善と高等師範学校の増設要求
明治以来教員養成の主体であった師範学校の在り方については,臨時教育会議以前から, 「第1部」,「第2部」の何れを重視すべきかとの点に関しては,幾度かの論議が重ねられ,1916(大正5)年に帝国教育会は,「戦後教育に関する調査」を行った上で,学制改革につ いての提案をしていた。師範学校については,「5力年制中学校,5力年制高等女学校の卒 業者又は之と同等の学力あるものを採り,2力年以上の師範教育を施すこと,師範学校の 卒業生には7力年制中学校と同一の資格を与えること」,また「中学校正教員は大学卒業者 にして師範教育を受けるものとする」などの提案であり,さらには「高等師範学校を漸次 大学に改造する」ことをも提唱していた。これらは師範学校の第2部主体案であり,師範 学校の専門学校への昇格,高等師範学校の師範大学移行プランであった。時代は変わりっ つあった。 臨時教育会議は,小学校教育に関する答申(1917年12月6日)において,「世上或ハ師 範学校ノ第1部ハ之ヲ廃止シ中学校卒業者ヲ入学セシムルノ第2部ヲ以テ之ガ本体ト為ス ヘシト説ク者」もあるが,師範学校の組織の本体としては,「其ノ第1部ヲ主トシテ,第2 部モ之ヲ存置スル」こととし,「堅実ナル教育者精神ヲ具有」する教員の養成は,「相当ナ ル年月ノ訓練ヲ」要し,中学校の教育課程とは異なったものでなければならないとしていた。 したがって,表面的には臨時教育会議以後も,岡田良平の強い指導力によって,師範学 校の年限問題は据置きにして,「師範学校予備科ヲ設置」することによって代用するという 便法を公認することで応急の措置を取ったに過ぎず,“一部主体”のままに進展していた が,23年5月に結成された「師範教育改造同盟」は翌年6月の第1回大会で,「道府県師 範学校を専門学校程度に高め」,「職員俸給は国庫負担とし,其の他の費用は地方負担とす る」,こと,また「高等師範学校を昇格して師範大学とすること」等の改革案を採択した。 高等師範学校についてはそれまでに3次にわたる存廃論争があり,船寄俊雄氏によると, 1910年代には中等教員養成に関して,高師と帝国大学との相克が顕在化するとともに,高 等師範学校は廃止して,師範大学に昇格させるか,あるいは帝国大学における中等教員養 成機能を強化するかについて,論議が活溌に展開されていたという19)。高等師範が東京と 広島の2校だけの期間が長く続いて,第3第4の高師の増設が見送られてきたのも,その 論争の決着がつかないままに推移したからであった。 臨時教育会議は,高等師範学校の改革についても,「教員養成制度に関する答申」(1918 年7月24日)において,「高等師範学校ハ現在ノ如ク之ヲ特設シ其ノ職員ノ待遇ヲ高メ内 容ノ改善二力ヲ用フルト共二研究科及専攻科ハ之ヲ常設トシ,且普通教育二於ケル国民道 徳ノ徹底方法其ノ他諸般ノ研究ヲ遂グルカ為教授ヲ増員シ」,「収容力ノ増加其ノ他ノ適当 ナル方法ニ依リ有資格教員ノ増加ヲ図」ることなどを要望して,拡充の方向を打ち出して いたが,その一方で,「文科大学ニ教育学科ヲ置キ,其ノ施設ヲ完備シ」,「教員養成ニ関シ 帝国大学,高等師範学校ト相互二連絡ヲ保チ成ルヘク其ノ設備ヲ利用シテ研究上ノ便宜ヲ 図」ることをも答申に加え,高等師範学校の師範大学昇格を提案していた嘉納治五郎の主 張と,帝国大学における教育研究並びに教員養成を主張する江木千之提案の折衷をはかっ ていた。 第1次世界大戦の始まった1915(大正4)年から10年間に中等学校(中学校,高等女学 校,実業学校)の生徒数の増加は2.46倍に急増したのに,教員数の増加は,2.14倍にとど まっており,臨時教育会議前後にあっても,中等教員の養成は高等師範学校など,「教員養 成ヲ目的トスル官立学校ノ卒業者二対シテ試験ヲ須ヒス師範学校,中学校,高等女学校教 員タルノ免許状ヲ授与」するだけにでは対処できず,それ以外に中等教員の供給源を求め
て,帝国大学を始め,専門学校から昇格した多くの大学の「無試験検定」や,いわゆる「文 検」合格者,また1922年以後に復活,増設された臨時教員養成所を当てるなど様々なルー トによる教員養成の方策を講じていたことは確かである。それらの方策が十分に機能して いれば,必ずしも高等師範の増設を必要としなかったとも思われる。 【中等学校在学生徒数】 年度 中学校 高等女学校 師範学校 計 大正4(1915) 大正5(1916) 大正6(1917) 大正7(1918) 大正8(1919) 大正9(1920) 大正10(1921) 大正11(1922) 大正12(1923) 大正13(1924) 大正14(1925) 141,954 147,467 153,891 158,974 166,616 177,201 194,416 219,101 246,739 273,065 296,791 95,949 101,965 109,857 118,942 131,711 151,288 176,808 206,864 239,401 271,375 301,447 27,083 26,307 25,785 25,285 25,765 26,551 28,932 31,263 33,829 36,389 45,540 264,986 275,739 289,533 391,730 324,092 357,421 400,156 457,228 519,959 580,829 643,778 【中等学校教員数】 年度 中学校 高等女学校 師範学校 計 大正4(1915) 大正5(1916) 大正6(1917) 大正7(1918) 大正8(1919) 大正9(1920) 大正10(1921) 大正11(1922) 大正12(1923) 大正13(1924) 大正14(1925) 6,575 6,702 6,782 6,991 7,219 7,665 8,242 9,007 10,129 10,861 11,748 4,590 4,758 4,997 5,287 5,795 6,566 7,458 8,539 9,795 10,868 12,043 1,696 1,665 1,696 1,667 1,697 1,766 1,818 1,863 1,960 2,004 2,383 12,861 13,125 13,475 13,945 14,711 15,997 17,518 19,509 21,884 23,733 26,174 (日本近代教育史事典編纂委員会編『日本近代教育史事典』平凡社 1971より作成) 【「文部省検定試験」(文検)無試験検定合格者】 年度 文検合格者 無試験検定 合計 大正4(1915) 大正5(1916) 大正6(1917) 大正7(1918) 大正8(1919) 大正9(1920) 大正10(1921) 大正11(1922) 大正12(1923) 大正13(1924) 大正14(1925) 425 351 345 313 463 578 702 995 802 809 782 526 552 584 634 707 805 1,184 2,087 2,925 3,909 4,022 951 903 929 947 1,170 1,383 1,892 3,182 3,727 4,718 4,804 (寺崎昌男編『文検の研究』資料編 学文社 1997より作成)
しかしながら,大正末期,すなわち大正14年から昭和2年になって,下記のように14都 市から高等師範学校誘致の要求が出されるという現象を見ていることは事実であった20)。 〈第50回帝国議会(大正14年)〉 (1)2月1日 北海道函館市 (2)2月24日 北海道札幌市 (3)2月24日 山形県鶴岡市 (4)2月24日 岩手県盛岡市 (5)3月24日 愛知県岡崎市 (6)3月24日 石川県金沢市 〈第51回帝国議会(大正15年)〉 (7)3月25日 山形県山形市 (8)3月25日 福島県若松市 〈第52回帝国議会(昭和2年)〉 (9)3月12日 福島県郡山市 (10)3月12日 宮城県仙台市 (11)3月12日 熊本県熊本市 (12)3月12日 福岡県福岡市 (13)3月12日 福井県福井市 (14) 3月12日 佐賀県佐賀市 この時期,高等師範学校を誘致する要求が噴出した当面の根拠は,臨時教育会議が1918 年発表の「師範教育改善ニ関スル答申」で,「高等師範学校ハ現在ノ如ク之ヲ特設シ,収容 力ノ増加……依リ有資格教員ノ増加ヲ」図ることを指示していたことにあったと思われる。 様々なルートによる教員養成の方策は講ぜられたにしても,中等教員,とくに中等教育界 で指導的役割を果すべき教員が不足していた,という事態は否定できないものがあった。 また,1918(大正7)年末に文部省が医専など5校の大学昇格を内容とする「高等教育 機関拡張計画」を出し,それが他の専門学校の昇格運動を刺激したことは確かで,東京・ 広島両高師の大学昇格運動もここから始まったことは船寄氏始め多くの指摘される所であ るが,そのなかで地域の専門学校の昇格運動(例えば四国)も,様々な形で展開していた。 上記14都市の場合も,近隣都市との競合や議会,政党の思惑のなかで展開したと考えら れる。そのうちで最後に残ったのは北陸地方の中心都市である金沢市と,県庁の所在地で はないが,三河地方の中心都市で城下町としての古い歴史をもつ岡崎市が,最初から政治 的立場の違いを越えて誘致運動で有利な立場を持った。そして,「岡崎市二高等師範学校設 置ニ関スル建議案」は,1925(大正14)年3月24日,第50回帝国議会に岡崎出身の近藤重 三郎議員から提出された。「国運ノ伸張二伴ヒ堅実ナル中等国民ヲ要求スルコト急ナルニ鑑 ミ之力教養ノ任二当タルヘキ優秀ナル中等学校教員ノ養成ヲ切実二感ズルモノアリ,然ル ニ東海道地方ニ之力機関タル高等師範学校ノ設置ナキハ甚タ遺憾トスル所ナリ,……」21)と の理由書を添えた案は直ちに「高等師範学校設置二関スル委員会」に付託され,委員会は 「本院ニ於テ可決スヘキモノトス」という結論を出し,議長に報告,本議会で可決された。
1925(大正14)年3月12日の委員会で,この建議に対して発言した河上啓太政府側委員 は「今回高等師範設置ノ建議案ガ非常ニ澤山各地カラ出マシタコトハ,……中等教員養成 機関ノ要求ガ,国民ノ間ニ熱心ニ叫バレテ居ルト云フ意味ニ解釈シテ居ル」と受けとめな がら,それを政策として具体化するに際しては消極的で,「今暫ク政府ノ最後ノ決心ガ出来 マスマデオ待チヲ願ヒタイ」と述べていた。すでにある東京高師と広島高師を大学に昇格 させることも考えられ,「高等師範学校ヲ澤山設ケルコトガ善イカ悪イカ,ソレヨリモ寧ロ 進ンデ大学程度ノ方面二力ヲ入レテ,大学教育二於キマシテ中等教員ヲ養成スル方ニー歩 ヲ進メルノガ宜イデハナイカト云フヤウナ根本問題」もあったという。東京・広島高等師 範の大学昇格は1922年には日程に上っていたにもかかわらず,審議未了と震災による予算 繰り延べで,その5年後の1929(昭和4)年4月,ようやく2つの文理科大学が誕生した のである。 5.昭和前半期の教育革新と師範学校の専門学校昇格問題 1924年12月10日,「師範教育の改善充実について」文政審議会に対して諮詞(文政審議 会諮詞第3号)がなされ,ここで,「師範学校ノ第1部ハ高等小学校第2学年修了程度ヲ以 テ入学資格トシ,師範学校第2部修業年限ハ男子ニ在リテハ1年女子ニ在リテハ1年乃至 2年トシ中学校高等女学校卒業ノ程度ヲ以テ入学資格」とするものとし,「師範学校ニ修業 年限1年ノ専攻科ヲ」置くものとしたのである。岡田文相も「師範学校を専門学校程度に 高めたい」との世論を一応認めざるを得なかったが,「経済状況から」見て難しいとし,あ くまで「1部主体」にこだわりながらも,専攻科の設置によってこの問題の解決の方向を 探っていた。 これに対して帝国教育会会長澤柳政太郎は,世界の動向は「教員の養成は大学程度に於 ていたしている所も少なく無い」状況になっていることを強く指摘して,師範学校を専門 学校程度に昇格させるのは単なる理想論ではなく,今や,その実現を図るべき時期である としていた。以後,これについて岡田元文相と澤柳政太郎委員などとの間にはかなり激し い論争が交わされてきた22)。“師範教育の改革”は早晩日程に上るべき事項であった。 1925年,政友会は,義務教育の年限を8年まで延長するとともに,師範教育の改善を含 む“教育革新案”を発表した。一政党の立場からではあるが,“義務教育8年制”が提案さ れていたのである。しかも,その1925年には「1部」と「2部」の卒業生の数が逆転して, 「2部」の数が一部を上回るまでになり,師範学校の在り方を考えると,田中隆三文相は, 1929年,師範学校教育調査委員会の議をへて,文政審議会にこれを付託することとした。 全国師範学校長会議は29年12月に,「師範教育の改善に関する答申案」を採択し,「師範 学校に本科(3年,但し当分2年)および予科(3年)をおき,本科の入学資格は予科, 中学校,高等女学校卒業者,予科の入学資格は高等小学校卒業者とすること」,本科の卒業 者は「教員養成を目的とする大学に入学し得ること」などを提案し,最後に師範学校の専 門学校昇格とともに師範大学の設置を要望した。 文政審議会は「第2部ノ修業年限ハ2年」とし,単独設置も認めるとの文相の諮問を一 応は認める答申を出し,31年に「師範学校規程中改正」が行われた。これに対して帝国教 育会,全国連合教育会などの教育団体から構成される師範教育改善促進連盟は諮詞案を姑
息な案であるとして反対し,「師範学校教育を施行する学校は,師範学校及び師範大学の2 段階と」し,師範学校を専門学校程度とすること,「東京,広島の文理科大学を師範大学に 改め」,「東京・奈良の両女子高等師範学校を女子師範大学とする」ことを内容とする「師 範学校教育改善案」を発表した。 第2次若槻内閣は31年4月成立したが,与党民政党の政務調査会は31年7月,「中等学 校ヨリ大学マデノ修業年限ヲ短縮スルコト」とともに,東京広島両文理科大学ヲ師範大学 トシ両高等師範学校並ニ師範第1部ヲ廃止スル」ことを内容とする「教育合理化案」を発 表した。 阿部重孝は師範学校について,「現在の師範学校は依然として1部本体の如き観を呈して ・おり,従来の第1部を廃止し,第2部の修業年限を3年として,師範学校を専門学校 程度に昇格せしむべしといふ事は教育の効果を挙げる上から言えば甚だ喜ばしい改善案で ある。……が師範学校を専門学校程度とする以上はその卒業者の受ける待遇が一般専門学 校卒業者が受ける待遇よりも低い場合は師範学校に人材を招致する事が困難となる許りで なく,程度を高めた結果却って入学者の素質を低下する虞れがある。23>とも指摘していた。 「師範教育改善促進連盟」は文相を訪問して,師範学校,高等師範学校の昇格について要 望を重ね,さらに32年4月,「師範教育改革案」を文相に提出した。これらは鳩山文相が, 「学制改革は今や国民的要望に」なっており,「特に師範教育の教科内容は社会の進歩に伴 わずすこぶる非実際的である」から,是非「改革したい」との意向が表明されたことに期 待をかけての動きであった。ただし,この案に対しては,帝国大学,さらには私立大学か ら一斉に反対運動が起こり,厳しくこれに対処することを迫られた文相はついに譲歩し, 結局は,鳩山文相の辞任とともに潰え去った。しかし,その後も,師範学校の「1部廃止」 と「2部の専門学校への昇格」は懸案として上げられてきたのである。 教育審議会の第10回総会(1938年12月)において,「国民学校,師範学校及幼稚園ニ関 スル件」が決議され,「教育は第一に教師に人を得ることが大切である」という大前提か ら,「国民基礎教育義務制ノ刷新整備モ之ヲ要スルニ教員養成制度ヲー新スルニ非ザレバ所 期ノ効果ヲ」収めることができないとの認識の下に審議が進められ,師範学校は,「皇国ノ 道ノ修練ヲ重ンジ次代ノ大国民育成ノ重責ニ任ズベキ人物ヲ育成スルヲ旨トシ,其ノ程度 ヲ高メ人材ヲ招致スルノ方途ヲ」24)講ずべきとの方針を確認していたが,これは,いずれ最 終的には師範学校を“専門学校程度”に昇格させようとする意図を含むものであった。欧 米の主要国で小学校教員の養成には専門学校があてられているのが普通であり,それでも 不十分であるということで,最近では大学に高めようとしている,それに対して,日本の 師範学校が専門学校程度にも及ぼないのは時代遅れであるという各委員の共通認識を得て, 論議は師範学校の昇格問題から開始されることになった。 師範学校の教育が「師範型」といわれる教師の気質を形成していたことへの批判的見解 はしばしば述べられていた。たとえば,それまでの師範学校は社会から隔離されており, 世間知らずでつぶしのきかない教員をっくり出しているとか,師範学校の卒業生には「偽 善」,「卑屈」,「偏狭」などの性格的特長がある,という批判である。批判者たちはその理 由が師範教育が「不自然な基礎」,閉鎖的な制度の上に成り立っているからだと指摘した。 これに関して下村寿一委員から,1部生に関しては,「師範気質」が強いという批判もある が,第1部の制度は,「無産階級の秀才の一種の登竜門」という重要な役割を果たしてきた
のであり,これを廃止することは,「教育の機会均等」から言っても大きな問題であり,「国 防ニハ常備軍ガ必要デアル」ごとく教育にも「一定数ノ常備軍」が必要で,従来通り第1 部・第2部を併置してほしいというかなり強い要望が出されており,その結果,師範学校 は中学校卒業者を対象とする修業年限3年のものを本体とするが,高等科卒業者に対して も師範学校入学のための適当な施設が設けられることが留保された。 三国谷三四郎委負(青山師範校長)は中学校卒業の2部生が専攻科1年を修了すれば, 専門学校程度の教育を受けることになるから,「之ヲ組織的ナモノニシテ,新シイ形態ノ師 範学校ヲ作ル,即チ専門学校程度ノ師範学校二作リ上ゲルト云フコトガ極メテ必要」25)なこ とであると強調していた。この論議を経て,師範学校の専門学校への昇格は実現した。残 された問題は高等科卒業者を対象とする「師範学校1部の存廃」についてであった。 43年3月8日教育審議会の答申にもとついて『師範教育令』(勅令第109号)が制定さ れ,師範学校は「皇国ノ道二則リテ国民学校教員タル者ノ錬成ヲ為ス」(令第1条)とし, 「皇国ノ途ノ修練ヲ重ンジ……次代ノ大国民育成ノ重責ニ任ズベキ人物を養成スルヲ旨ト シ,其ノ程度ヲ高メ,克ク皇国ノ世界史的使命ト国民教育ノ重大性トヲ自覚」させて,教 育の振興と翼賛の実をあげるために,その入学資格を引き上げて,「中等教育卒業程度」と し,その修業年限は3か年とされたが,これは,今までの国民学校高等科からの入学資格 を主とする“1部主体”の教員養成の在り方に対して,教員養成制度を大きく変革するも のであった。従来,「中学校程度」とされていた師範学校は,43年4月から「新制師範学 校」となり,中等学校卒業程度を入学資格とする「専門学校程度」に昇格したのである。 国民学校が41年から発足し,中等学校も43年には「中等学校令」で,カリキュラムが改 正されたが,師範学校の教科も『国民科』,『教育科』,『理数科』,『実業科』(女子は『家政 科』),『体練科』,『芸能科』,『外国語科』の構成になり,教育内容も改正された。「従来各 学科目が平均的に羅列されておった形……を,国民学校の教育に対応し,師範学校に於て も錬成面を幾つかの教科に分かって,さらにそのなかに文節として科目を立て全一的な錬 成を行って行く……専門学校程度では初めての試み」26)であると説明されていた。 35年4月から発足した青年学校が,39年度から逐年で,男子青年学校普通科の義務化が 実施されることになり,これに対応して,44年4月にはさらに『師範教育令』が改正され て,青年学校教員を養成する「青年師範学校」を発足させた。これは,従来の「青年学校 教員養成所」を官立師範学校と同様に,中等学校卒業を入学資格とする専門学校程度とし て位置づけたものである。ここで,青年学校本科卒業生にも同等の入学資格が与えられた。 青年学校の義務化とほとんど同時に,その卒業生の専門学校程度への入学資格を認めたこ とになる。 ただし,39年には普通科1年から,そして逐年進行によって義務化するという予定で あって見れば,45年が1回生の修了年度に当たるはずであった。これは大戦の最終段階で あり,閣議決定の「教育二関スル戦時非常措置」によって,国民学校の義務制の延期とと もに,青年学校についても「工場,事業場ニ於テ生産ニ従事スル生徒ニ付テハ教室内ニ於 ケル授業ハ之ヲ縮減」27)することを余儀なくされ,事実上「青年学校義務制」は無意味と なった。 青年学校の義務化とともに,師範学校の専門学校昇格は,明治以来の教員養成制度の歴 史で,画期的とも評価されるべき改革案であった。しかし,この時閣議では,1945年4月
から向こう1年間,国民学校初等科を除く,すべての学校の授業を停止するという内容の 『決戦教育措置要項』を決定していた。その改革の現実的意味はなかったのである。 もしあるとすれば,師範学校の昇格は青年師範学校も含めて,戦後の教育改革のなかで, 各県ごとに教員養成大学を出現させる基礎条件を整備したことである。 注 1)文部省内教育史編纂会『明治以降教育制度発達史』,第8巻,教育資料調査会,1939年 2)「学制改革二関スル建議案」,前掲書 3)「学制改革二関スル建議案」,趣旨説明,前掲書 4) 高等教育会議諮問(1910年4月),前掲書 5)信夫清三郎『大正デモクラシー史』,日本評論新社,1954年 6)木場貞長「教育調査機関設置の建議案についての説明」,前掲『明治以降教育制度発達史』 7)宮原誠一『教育史』,「日本現代史体系」,東洋経済新報社,1963年 8)家永三郎『美濃部達吉の思想史的研究』,岩波書店,1969年 9)「寺内首相の臨時教育会議開催にあたっての演説」,前掲『明治以降教育制度発達史』,第5巻 10)「寺内首相演説」,海後宗臣編『臨時教育会議の研究』東京大学出版会,1960年 11)「寺内首相演説」,海後宗臣,前掲書 12)海後宗臣,前掲書 13)海後宗臣,前掲書 14)海後宗臣,前掲書 15)「諮問第1号についての関直彦委貝の発言」,海後宗臣,前掲書 16)海後宗臣,前掲書 17)勝田守一・中内敏夫『日本の学校』,岩波書店,1964年 18)『原敬日記一首相時代5 』(大正7年11月14日),乾元社,1951年 19) 船寄俊雄『近代日本中等教員養成論争史論一大学における教員養成原則の歴史的研究一』, 学文社,1998年 20)中野光「岡崎高等師範学校の前史」(志村広明提供資料),『岡崎高等師範学校五十年史』,名 古屋大学岡崎高等師範学校同窓会,1999年 21)「第50回帝国議会衆議院議事録速記録」,近代日本教育制度史料編纂会『近代日本教育制度史 料』,第16巻,講談社,1956年 22)阿部彰『文政審議会の研究』,風間書房,1965年 23)阿部重孝『阿部重孝著作集第8巻 新興日本の教育問題一』,日本図書センター,1983年 24)前掲『近代日本教育制度史料』,第16巻 25)八本木 浄『両大戦間の日本における教育改革の研究』,日本図書センター,1982年 26)「稲田清助文部省師範学校課長説明」『講座日本教育史』,第3巻,第一法規 1984年 27)前掲『近代日本教育制度史料』,第7巻