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ある倫理學徒の反省 (学長米壽記念号)

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Academic year: 2021

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倫理学は科学か哲学か、 という議論を、私は大学の学 生 附代に聞いた こ とがある 。 当時 そ の大学の講師をして い ら れ た某博士は 、倫理 学は朽学的でなけ ればな ら な い と論ぜ ら れ 、 吉田陣士は 、 それは科 学 であるとし て 、 科 学 的倫理 学を講 義さ れたむ吉国博 土 に よ る と 、 科学には事実的科学と 、 規純的科学と があ っ て 、 倫理学は規範的科 学 で あ る と さ れ て い た 。 現在の 大学 の 文 学 部 が 、 ま だ文科大学と 称 さ れていた 当 時 は 、 文科大 学 は 、 哲学科、文 学 科、史学科 、 宗教科 に分れ て い た u その哲学科には、倫理学 、 教 育 学 、心現学、社 会学 、 美学 、純 正哲学 などが含まれていた 。 それが 自然 に 、 科学とし て独立ナるようにな っ て 、哲学科から分離し 、 母休売る哲学と対立する 一 分科と在っ て しま っ た 。 倫理学 も 科学として取扱われるよ う にたって、私が在学中

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は、無論、倫叫 学 は、品性および 行為の両者 に つ い て研 究 する科 学 、と 定義さ れていた 。 倫理学が今日のよう

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、体系づけられたのは、英国においてであると思 う。英国は由来 経 験論の本揚 で あ っ て、科 学が早く から発 達 していた。との 英国流の科学的倫理学は、 かなり心 理学の基 礎の上に立 っ て い た し 、 心 副学 は 精神 科学として、急激な進 歩 をしたも の で 、 そ の 上 K 生物学の影響も相当 に 大 きいのである 。 − s e i −F t E ι ’

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モの当時、哲学的倫明学を唱えた人が、 いかなる根拠に立っていたかは、私には明瞭ではなかった。一冗来、哲学と は何であるが、 と定義ナるととからが、困難在問題であると思うが、大休哲学の問題は、認識論、形而上学および科 学やその他の総合としての価値論忙ついて論やるのが、普通の意味ではないかと思う。そこで認識論で、合理主義や 先験論に立っと、人格 主義 的 倫 理 学 や 、 理想主義的倫理学が考えられ、 経験 論に立っと、功利 主義 的倫現挙が考えら れてくる 。また形而上学を本 に し た も の は 、 アリストテレスの=コマキア倫副学、 スピノ 1 ザ の エ チ カ 在 ど が 最 も 代 表的の ものであり、儒教倫理も、形而上学忙基くものである。 科学的倫理学と、哲学的倫理学とを比較すると、各々一長一短があるので、何れが優り、何れが劣るかというとと は、簡単にはいうことはできない。科学的倫明学は、善悪の立場から、人聞の行為、品性を、 経験 に基き実証的忙究 明するのであ るから 、 ほ と んど疑惑をはさむ余 地は在いのであるが、 人に信念を あまりに現 実 的 、 説 明的になって、 与ゆる力が足り在いよう忙思われる。 哲学的倫理学は、世界観や宇宙論に基いて人生生活は いか忙あるべきかを論やるのであるから その理論は整然 主して、終始 一 貫しているのであるが、人間生活を、 上からの理論によって規制しようとナるので、 や L も ナ る と 、 抽象的と在り、 強 制的と 在り 、 官僚的となり 、現 実を無視する傾が生じてくる。科学的倫理学の民主々義的在のに比 し、封建的色彩を持つ傾がある 。 科学史の中忙流れている倫現時寸は、主として哲学的倫理学であって、科学的倫理学 は 、 主 として最近世のものである 。 前にも述ペたように、 私は科学的倫理学で育ってきたものであるが、 との科学的倫理学は、私には何か割り切れな いものを、常にい理かせてきたのである。それは、 現世の矛盾に対ナる不安と、生命の問閥、 つまり霊魂の問題の二 59

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つであった。むろんこうした問題は、哲学の取扱う課題で あるとか、宗 教学 の問題であるとして、顔をそむけて不問 に ふ し て お け ば 、 そ れでナむよ う 在ものであるが、宗教 教育 の友い、わが国の学校教育において、 いやしくも人 倫 を 説 く 以 上 、 そうした難聞に 出合 った時に、儒学者崩 れ の よう

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、論 語 の 中の文何を引出し て﹁君子は怪力 乱神を 語ら や J﹂ と か 、 ﹁ 人 事 を尽 して天命を侠つ﹂と、急いで終止符を ﹁ 生 を 知 ら や Jしていづくんぞ死を知らん﹂ と ナ ま し て 、 ラ っ て 、悟ったよう在顔をしてばかりはいられない。何かしら 宗教 的のものを求めんとナる、 何も の かにか られるの で あ る 。 とのこと は私 だ け の 問 題ではな い 。 カ ン ト も道徳の 要請 と し て . 意 志 の自由 、 霊魂の不滅 、 認めざる 神の存在を を得在かつもん。また倫理学の創唱者といわれているソ ク ラテスも、神を信じ、神秘的左傾向のあったととは、彼がし ばしば、悦 惚として 、心中 のダイモ l ン の噺を聞いたととによ っ てもしら れ る 。 また十九世 紀の 始 K 出 た英国の哲学 者、ジョ ン ・ ス チ ユ ア l ト ・ ミ ル は 、 その天才をいかんなく発揮した経 アリストテレス以後唯一の論現学者として 、 験論者であり、倫則一学では功利主義を唱えた、科学 主 義 の 人 で ありな が ら 、 彼はその功利 主 義の難点を救う た め に 、 キ リ ス ト 教の黄金律の 中に 逃 げこんだ の で あ る 。 儒 教 は 孔 子 が 、 集大成したもの で あって 、 彼は 口 に は 語ら在か っ た が 、 霊魂の不械 を信 じ 姐 先 崇拝を認めたこと は、論 詩 の 中にほのめい て い る 。 とれらの人達は、 ほ とんど経験内 か ら ‘ はみ出 て は い な い そ の 倫理思想としては 、 のであるが、彼等の 思想の奥 に は 、 またその思想の 延 長 として は、常に宗教的のものを持っ ていたのである。 し か ら ばなぜこ ん友 人 達 が 、 宗教を口にしなかったか。 カ ン ト が い うよう に、宗教の世 界 は、悟性の対象とはなら 在い。悟性は感性を通したものを、 理論的 に 組立てるととは できるが、感 性を通ナ と と のでき ないものはどう ナると

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ともでき左い。 そ とでそれは 理性に よって 推 論 ナ る こ と ができ る だ け で あ る か ら 、 そ んな ことを論じ て い て も 、 二律 背 反 となる売けのことである。 ζ う い う彼 の 認識論 の 立 場 で 、 多 ︿ を論じ なか っ た 。 孔子あ たりも犬 休そ ん な立場で あったろうと思う。 その上に 宗 教 は 、 や L もナると 迷信 に お ちいり 易 い 。時 に は 常識を逸脱 し て 、伺人的にも 危険性 が あるし 、 団体 的 に は 社会の秩序を乱ナ こ と が あ る 。 そ れだか ら 昔 か ら 賢 哲 と称せら れ る 人 は 、 そうした世界のととを口に す るのを慣 む風 があった。特忙 近 代 の 科学者の多 く は 、 あ る 合理的の部分 だけ を認めて 、 をれ以 上深 入りしない 立 場をと っ て い る

私は 少 年 時 代 か ら 宗 教 に 関 心 を 持 ち 、 数 え 歳 十 八 歳 で 、 福 岡の聖 福寺 に 参 禅 し た 。 本寺は 僧 栄 西に よる臨済宗 の 名 利 で あ っ て、当 時 は 高徳の 師とし て 聞 え 売 。 東議禅師が い ら れ た の で 、 つ い て 教 を受けた 。 無論 、 若 年 で あ っ た か ら 、本 当 は何も分 ら や J 、 た y 無茶苦 茶 に修行しただ け で あ る 。 と の 寺 ば か りでは 在 く、他 の 諸 宗 派 の 名僧 達識 をも た 十ね て教 を 受 け た 。 そ れであるから、 後年 科 学的倫明学を 学 び 、 ま た モ れ を講 義 し て い ても 、 私 の 背 景 に は 漠 然な が ら 、 い つ も宗教観が つ い て い た のであ る 。 私は 教 壇 生 活 を 、 コ 一 十 幾年送っ て い る が 、 その半は教育行 政 官であった 。 し たがって 、 倫理学を講義したの は 、 当 校にくる ま で に 、 僅 か に 十 年位であ った。し かも その時は 、血 気に 溢 れ て い た の で 、 宗教観は影をひそめていた。モ の私が当 校 に く る と 、 二 人 宗教の 大本 山 と い う 、 宗 教的 環境 に 置 か れ 、 少 し づ っ仏教の研究をナ る に つ れ て 、 若 い 時 の 宗 教 に対ナる情熱が頭 を接 げ て き た 。 科学 的 倫理 学 を講義しな が ら 、 何 か しら 物 足 り なさを 、 ま た 感 じ 出し て き た。本校は宗教の学 校 だから、他によ っ て 十分捕 っ ても ら えるか ら よ い よ う 在もの L 、 とれが 普 通 一 般の 学校 で あ れ 61

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ば、宗教科は在いのだから、 , どう し てもと の 倫理学 で、宗教 の役目おも果さ在ければならな い 。 とう考えてくると 、 今 更 、 責任 の重大さを感じ出したのである。 さて宗教を 加 味した科学的倫理学を 、 講歩る必要性を感やるとしても 、 そ れ は 決して 容易なことではない。モもモ も宗教という概念が、 とれまた極めて漠然たるものである。同じく宗教といっても 、 具 体的のものを考えてみると、 ク リスト教と仏教とは異っており、悌教と宗派神道とも異 っ て お る 。 もし ク リ ス ト教を中心 と し も ん 倫 理 な ら ば 、

れ は 神 学的倫理と呼ばれるものとなろうし、悌教倫理ならば 、 怨雲の 十類法語 と か 、釈尊の四諦八正道の 倫理と な っ て く る で あろう o と う したものを考えて く ると 、 それを現 代の科 学的倫理学 とどう融合 さず e へ きであろうか。考え始め てまだ日が浅いので、 無論、確 然たる答は出てとない。 あるいは私の生涯の仕事になるかもしれない。 そとで現在私の考えているものは、科学的倫肌学を 、 形而上学的に発展させてゆく と と で あ る 。 こ ﹀ フ い ﹀ フ と 、 そ れ はす で に カ ン ト 等 が考えたことではないか、 それとはモの形は似ていても 、 異るもの という非難をうけるだろうが、 である。在ぜな れ ば 、 カ ン トはグリ ス ト 教 的 な 、 宗教慨を持っていた としても、悌教的のものを持っていたかどう カ〉 またカント時代の倫理は 、 現代のような科学的の倫理ではなかったのである。 科学的倫理学においては、行為と品性を中心に、 人 間生活を取扱い 、善悪判断の標準としては、良心の直覚性を認 め 、佃人と 社会との関係において、道徳現象を見てゆ︿のが枠連のゆき方である。 行為と 口 問 性 と の 関係は 、常に 因果 律に基いている。ただ乙の因果律を、倫理学では、 目的論的に見てゆくの で あ る 。しかしど と ま でも 因果律モのもの は、根底に流れてい る の で あ る 円 し たがって 、 いかに自由意 志を認めて も、現世において三世を認めなければならな L え ん そとでとの現世のコ 一世を、未知の世界に敷街する。乙 L になると ぃ。とれは科学の立場からも、明瞭の事 実 で あ る

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科学の到達し得ない処であるが、 そとで哲挙的に形而上学の世界にはいる。 乙れは 経 験的には実証できないが、論理 的には矛盾しない。 零魂の不滅を認むることは、 必やしも非科学的ではないのである日たどし つまり来世の存在と 、 絶対的 友人格 神を認むるととは非科学的であ る 。 との意味において、私が現在考えている倫理学は、適当の言葉ではないかも知れないが、宗教的倫現学、 と呼び得 るのでは在いかと思う。人によっては、 無理に樹立ナる必要はないではないか、 と反駁 そんな 宗教 的 倫瑚学などを 、 ナるかもしれない。それは意見の相違荒からやむを得左い。しかし科学的倫理学は、客観的に、社会現象を批判する 力が強く、政 治 、 法律 、経済に 影響するととろは大であるが 、例入 の安心立命に資す る と と は 、 極 め て 弱 い の で あ る。それだから、意 志 の強くない者や、またそラでない人でも、不幸災難に出会うと、忽ちくつがえされてしもうで あ ろ う 。 これに反して、宗教的倫理学は、 現世においてのみ在らや、来世までその希 望 を持つことができるのであるから、 その実践力が強制であるばかりではなく 、 現世の悲しみを半減することができ、 現世の喜びを、更に倍加する乙とが できるであろう。 63・

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