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長篇小説の戦略 : あるいはカフカの『審判』

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長篇小説の戦略 : あるいはカフカの『審判』

著者

吉澤 賢

雑誌名

人文論究

57

2

ページ

106-122

発行年

2007-09-25

URL

http://hdl.handle.net/10236/1266

(2)

長篇小説の戦略

──あるいはカフカの『審判』──

些末事に聞こえるかも知れないが,論を始めるにあたり予め一言断わってお きたい。“審判”という語を筆者は表題に用いたけれども,これはドイツ語の 原タイトルで は “ Der Proceß ( 下 線 部 は カ フ カ の 綴 り 間 違 い 。 正 し く は Prozeß)”であり,法律用語であるから,本来ならば“訴訟”と訳されるのが 妥当である。 作家自身が生前この長篇を発表する事は遂になく,彼に代わってその労を執 ったのは,最初の遺稿管理者となった友人,マックス・ブロートである。“審 判”という従来の訳語に,作家と同じくユダヤ人として,また熱烈なシオニス トとして行った彼の,作品に対する最初の解釈が反映しているのであろう事は 想像に難くない。実際にはこの小説は未完であり,主人公ヨーゼフ・K(Josef K.)も逮捕,告訴はされたものの罪状は明かされぬまま,丁度一年後に,得 体の知れぬ二人組にひっそりと消されてしまう。つまり,奇妙な事に,審理は 行われるのに判決が下されない訳で,しかも逮捕から処刑に到るまで劇的な事 件や展開もほとんど無いのであるから,“審判”なる訳語は少々仰々しい嫌い もあるのだが,一般的な認知度に従い,本稿ではやはり“審判”という表記を 用いる事としたい。 さて,前述のブロートの遺稿管理者としての姿勢には,以前から疑問が持た れていた。それ故,原テクストが彼の手を離れたのを機に,再び大規模な編集 106

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作業が行われたのであるが,その中心となったのが二番目の遺稿管理者となっ たマルコム・ペィスリィ(Malcolm Pasley)である。 カフカの手書き原稿を仔細に検討したペィスリィは,この作家の特異な執筆 方法に関して次の様な報告を行っている,「想像されたものはただちに文字に 変容し,文字は絶え間なくイメージを定着させ,具象的に存在するものとして イメージにさらに次の方向を指示するのが認められる」(1)。分かりにくいかも 知れないが,平たく言えば「構想も何もなく,書きたいように書いていく」(2) という事である。 この様なカフカの執筆方法の一端は,『判決 Das Urteil 』という小品に寄せ た 1912 年 9 月 23 日の,作家自身の有名なコメントからも既に窺われてはい たのだが(T : 460)(3),ペィスリィによる諸草稿の詳細な検討の結果,これが 『審判』のみならず,他の多くの小説群にも共通して認められる書き方である 事が,文献学的に証明されたのであった。 このペィスリィの報告をもとに,『審判』の文体を分析し,そこに秘められ たカフカの,長篇小説執筆にあたっての戦略の一側面を明らかにして行くの が,本稿の目的である。

書き出しのヴァリアンテ

まず書き出しの問題である。考察を始めるために,続けて更にペィスリィの 発言を見てみよう。以上の事からカフカには,小説の執筆にあたって「いつで も初めには──少なくともこれぐらいは想定しなければならないであろうから ──なんらかの含蓄のあるイメージ複合体,充実したダイナミックな発展可能 性を含む,なんらかの創作された,もしくは〈着想された〉光景を除いて, 〈なにもなかった〉〈なにもあたえられていなかった〉ことを意味するであろ う。」(4) カフカが『審判』に着手したのは 1914 年 8 月の事であるが,その五ヶ月程 前,3 月 9 日頃の日記に,レンゼ(Rense)という人物を主人公にした小説の 107 長篇小説の戦略

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書き出しの様なものが見られる(T : 502)。が,これは途中で放棄されてお り,この文章自体は問題とならない。重要なのは,やはり同じ人物を主人公と して新たに書き始められた,次の断片である。 学生のレンゼは,中庭に面した小さな自室に座って勉強していた。女中が やって来て,若者が一人,レンゼと話したいそうだ,と告げた。一体何と いう名前の人だ?と彼は訊いた。女中は知らなかった。(T : 503) 見知らぬ人物の突然の訪問,というモチーフがここに現れている。これが,恐 らくは数日後(正確な日付は付されていないが,3 月 15 日より以前のもので あろう)の記述においては,主人公の固有名は消えて単に学生(Student)と のみ記され,劇の台本風にアレンジされたものが登場する。 ある小さな貸し間。乱雑。学生はベッドに横になり,壁の方を向いて眠っ ている。ノックの音。静かなまま。更に強いノックの音。学生は驚いて身 を起こし,ドアの方を見る。 「おはいり」 女中(弱々しい娘):お早うございます。 学:どうした?まだ夜だろう。 女:申し訳ありません。男のかたがあなたにお会いしたいそうですので。 学:僕に?(口ごもって)ばかな!どこにいるんだい?…〔後略〕(T : 509 −510) 先程の書き出しの前半部がここで,寝込みの襲撃という形に変更されているの が認められる。更に 3 月 15,乃至は 16 日の記述になると それはある冬の日の事だったが,朝 5 時頃,服を半分着ただけの女中が やって来て,学生に客が来たと告げた。「何?一体どういう事だ?」と, 108 長篇小説の戦略

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まだ寝ぼけたまま学生は尋ねたが,その時にはもう,女中に借りた火のつ いた蝋燭を手に持って,一人の若者が入って来た。(T : 511) 主人公の自室への,訪問者の無許可侵入というモチーフが付け加えられてい る。そしてこの記述の後に区切りのための横線が引かれ,その下に ある期待の他,何も無し。永遠の寄る辺無さ。(T : 511) との書き込みがある。期待(Erwarten)とは意味深長である。カフカが短時 日の間に,見知らぬ人物の突然の訪問というスケッチを繰り返し三度も描いて いる事からも,彼がこの主題に対して何らかの“期待”を寄せていたであろう 事が窺えるし,しかも書き直す度に,寝込みの急襲,部屋への訪問者の侵入 と,イメージのヴァリアンテが試みられている。そして,この時点で既に, 『審判』の書き出しの場面に必要な要素はほぼ出揃っているのである。あとは 主人公の名前と,訪問の用件が確定しさえすれば良い。この二ヶ月程後の 5 月 27 日,初めて K という名前が(T : 517),更に 7 月 23 日にはエリアス・ カネッティの指摘した法廷(Gerichtshof)が(T : 658),そして 29 日に,ヨ ーゼフ・K. という名前が(T : 666)日記に現れる。カフカが『審判』の執筆 を開始するのは,その数日後の事である。 かくしてカフカは物語を書き始めた。明星聖子氏の言葉を借りれば,「作者 自身でさえ物語の行く末を知らないまま,ペンの動きだけを信じ」(5)書き進め た。 だがテクストを見ると,こうした指摘から当然連想されるはずの無制限な書 き方とは対照的に,叙述にあたってほとんど常に,幾つかの規則が遵守されて いるのが分かるのである。次に,その特徴について考察を進めて行きたい。 109 長篇小説の戦略

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語りの特徴

まず,語り手が何処から語っているか,即ち,語り手の視点が何処にあるか という問題である。『審判』の場合,彼はテクストには姿を現さないものの, その目は主人公 K の傍から片時も離れない。この事は,カフカも一時期傾倒 していたフロベールの『ボヴァリー夫人』と比較してみると,一層はっきりす る。例えば次の様な箇所では, (シャルル・ボヴァリーは)妻の櫛や肩掛けにたえずさわりたくてたまら なかった。ときどき,その騁に口いっぱいに音のするキスをしたり,また は彼女のあらわな腕を指先から肩までそっとキスをつづけたりし,彼女は つきまとう子どもにするように,半ばほほえみ,うるさいというふうにお しのけるのだ。 結婚するまでエマは恋をしているように思っていた。しかしその恋から くるはずの幸福がこないので,あたしはまちがったんだ,と考えた。至福 とか情熱とか陶酔など,本で読んであんなに美しく思われた言葉は世間で は正確にはどんな意味でいっているのか,エマはそれを知ろうとつとめ た。(6) 物語の冒頭からシャルルの側に立って報告を続けて来た“私”と名乗る語り手 が,パラグラフの変更とともにエマに視線を移し,以後は彼女の側に立って物 語を進めて行くのである。 語り手の視点のこの様な移動は『ボヴァリー夫人』には幾つも見出せる。第 二部で彼の不倫相手となるロドルフが登場すると,視点はエマから彼の側に移 る(7)。また,彼がエマを口説き落とす農事共進会の朝の光景は,宿屋のおか みの側から語られる(8)。そもそも第二部の冒頭,ヨンヴィルのタブローでは, 語り手は人物の傍にすらいない(9)。従って,『ボヴァリー夫人』における語り 110 長篇小説の戦略

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手の視点には,かなりの移動の自由が認められており,必要とあらば何処にで も位置を定める事が出来る。 このような自由はしかし,『審判』の語り手の目には与えられていないので ある。 ところが,フロベールの弟子であるモーパッサンの『女の一生』になると, 語り手の視点移動の自由は,師のそれよりもずっと制限されたものになる。人 の良い大男のフールヴィル伯爵が妻の浮気を知って激昂し,彼女と愛人を密会 中の小屋もろとも斜面から突き落として殺してしまう場面の様な例外を除け ば(10),語り手はいつも主人公ジャンヌの傍に立って語っていると言って良い。 更にこの作品では,主人公による外界の知覚,認識の描写が先鋭化されてい る。その事は次の箇所に最も顕著に表れている。 炬火は水面に,ゆらゆら動く異様な炎の尾をはわせ,葦におどる火影を投 げかけ,樅の林の大きな帳を照らしだしていた。と,いきなり,舟がぐる りとまわったかと思うと,異様な大きな影が,それは人間の影だったが, その明るく照らしだされた森の端に浮かびあがった。〔中略〕その大きな 腕は,いきなり上にのび,ついで下におりた。するとすぐに,水面を鞭で 打ったかのようなかすかな音が聞えた。(11) 場面は,伯爵の邸に招かれたジャンヌ達が,夜,池のほとりで,かがり火を頼 りに伯爵が投網をやるのを見ている所である。伯爵は客人達に漁を見せようと 夜の池に漕ぎ出したのだから,「異様な大きな影」は彼のそれである事を無 論,主人公も語り手も知っている。だが,叙述の中に“伯爵”という語は出て 来ない。影の動きだけが描写され,その腕が「上にのび」「下におり」,水音が した所で,彼が網を投げた事が知られるのである。ここでは,主人公達が暗闇 の中で知覚し得る情報だけが,語り手によって告げられる訳である。 主人公のその時の知覚に応じて,語り手が語る情報に制限を加える,という 叙述の仕方は,これほど顕著に技巧的ではないにせよ,『審判』にも見られ 111 長篇小説の戦略

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る。朝起きて空腹を覚え,呼び鈴を鳴らした K の前に現れたのは,朝食では なく「このアパートでは一度も見た事のない男(P : 7)」であった。 K はとりあえずは黙って注意力を働かせ,考えをめぐらし,実の所この 男は何者なのか見定めようとした。だが男はいつまでも彼の視線に晒され てはいず,ドアの所に行き,少し開けて,どうやらドアの後ろにいるらし い誰かに言った「アンナに朝メシを持って来てほしいんだとよ。」(P : 8) “誰か(jemand)”という箇所を強調したが,少ししか開かれない扉に遮ら れ,今の K には,その向こうにいるのが知人か否か,男なのか女なのかすら 分からない。故に“誰か”なのである。ここでも語り手は,主人公の知覚に応 じた限られた情報しか語っていない。 しかし,この様な描写の共通性にもかかわらず,両者の決定的な違いは, 『審判』の語り手は人物の心理を克明に報告しない,という点にある。先の引 用の少し後の箇所を見てみよう。K は隣室に誰がいるのか知りたがり,部屋 にいた方が良いという男の忠告にも耳を貸そうとしない。 「善意で言ったんだがね」と見知らぬ男は言って,今度は自分からドアを 開けた。K が自分でそうしたいと思ったよりもゆっくりと(12)部屋に入る と…〔後略〕(P : 8) 隣室にも誰かいると知って,自分の陥った事態を早急に見極めたいという K の焦燥感や苛立ちは,いや増しに募っている。しかしいざ男がドアを開け,K の入室に無言の許可を出すと,今度は躊躇いと警戒心が生じ,彼は恐る恐る部 屋に入って行く。そういった状況に応じて刻々と変化する K の心理を逐一報 告する代わりに,『審判』の語り手は,「自分でそうしたいと思ったよりもゆっ くりと」部屋に入るという,K の行動の様態だけを告げるのである。これは 『女の一生』の次の様な箇所とは,極めて対照的である。 112 長篇小説の戦略

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ジャンヌは乳母に嫉妬をおぼえた。そして,この乳に渇した小さな赤ん坊 が〔中略〕乳首をその貧欲な唇のあいだにくわえるのを見ると,彼女は, 青ざめ,ぶるぶる震えながら,この〔中略〕百姓女をぐっとにらみつけ た。息子を相手からもぎ取り,〔中略〕相手の胸をなぐりつけ,爪で引き 裂いてやりたい衝動をおぼえた。(13) W. ベンヤミンは,カフカの諸作品に現れる身振りの多様さと豊富さを指摘 しているが(14),以上の例に限らず『審判』では,主人公 K の心理は動作や身 振りによって表される,というより覆い隠されている事が多い。更に例を挙げ るならば,最初の審理の場で K は被告という立場にもかかわらず,自分の逮 捕は不当であると,審理室一杯の聴衆を相手に裁判所を批判して一席ぶつので あるが,その最後に,実は彼らもまた裁判所の人間であった事を知り,彼は驚 きと怒りに満ちて「腕を高く突き上げ(P : 71)」る。あるいは,裸にされた 自分の体の上を処刑人達のナイフが往ったり来たりするという,逃れようの無 い状況下にあって,再び K の心に新たな疑念と希望が湧き起こり,絶望の余 り「彼は腕を挙げ,全ての指を開(P : 32)」く。この様に『審判』の語り手 は主人公を外から眺めるに止め,内面には踏み込まない。 無論,その直前に体験話法(これについては後述する)で「一度も見た事の 無い裁判官は何処にいる?一度も行き着けなかった裁判所は何処だ?(P : 312)」と,K の内面の声が語られているので,彼の心理はここに全て集約さ れていると考える事も出来ようが,語り手が主人公の傍らにいながら,この様 な極度に緊張の高まったシーンにあって,それを報告する声の中に緊迫感が一 度たりとも表面化する事が無い,というのは,リアリズム小説の描写に馴染ん だ人間の目には奇異に写るであろう。この小説の語り手は,どんな時もいたっ て冷静なのである。 以上見て来た事を要約してみよう。『審判』の語り手は漓常に主人公の傍に 立ち,主人公の知覚や行動に則して報告を行いながらも,その一方で滷彼の内 面とは一定の距離を保とうとしているのである。 113 長篇小説の戦略

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内的独白と体験話法

カフカは小説を書き始めた時から,この様な語りの規則を自らに課してきた のであろうか?必ずしもそうではないようだ。この事は,彼にとって最初の長 篇の試みである『田舎の婚礼準備 Hochzeitsvorbereitungen auf dem Lande 』 (以下,『婚礼準備』とのみ記す)を検討すれば明らかである。 この草稿には A, B, C 三つのヴァリエーションがあり,第一のものは 1906, 07 年頃,後の二つは 08 年頃書かれたものと推定されている。主人公は“ラバ ン Raban”という青年で,ある雨の日に婚約者の待つ田舎へ向けて出発する のであるが,三稿ともに中断されたままで終わっている。 早くも漓の特徴は,既にここで確認される。語り手はラバンの傍にいて,彼 の知覚に則して報告を行っているのである。マンフレート・シュメリング (Manfred Schmeling)は『婚礼準備』とフロベールの『感情教育』双方の文 体を比較し,焦点化(Fokalisierung)(15)という語を用いて,カフカのテクス トから窺えるフロベールの影響について論じているが(16),先にも見た様に, 語り手がある特定の人物の側にだけ立って報告を進める,という点では,むし ろ彼の文体はモーパッサンや,イギリスならばヘンリー・ジェイムズのそれに 近いと言えよう。だが,知覚──とりわけ視覚──対象の描写が余りに微に入 り細を穿っているため,叙述がくだくだしく冗長になり過ぎる嫌いがあり, 『審判』や後の作品に見られる様な,文体のシンプルさとスピード感を獲得す るまでには至っていない。 しかし,この『婚礼準備』においてそれ以上に重要なのは,草稿 A には, 後の作品では余り例を見出せない,一人称による内的モノローグが頻繁に現れ る事である。これは『審判』との決定的な違いであり,先程の滷の特徴が見出 せないどころか,そもそも語り手が完全にテクストから消えてしまっている, というのも,内的独白は主人公自身が語るものだからである。それによって, 主人公の内面世界が,『婚礼準備』A 稿においては『審判』よりも生々しく 114 長篇小説の戦略

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我々の前に開かれているという訳である。この箇所では,語りの主体は一人称 ich であり,かつ動詞の時制が現在形(本来の語り手が語る箇所は過去形)で あるから,すぐにそれと見分けがつくのであるが,その数と量たるや,カフカ の作品とその文体に馴染んだ読者にとっては尋常ではない。たった 30 ページ の間に──A 稿は二つのセクションに分かれているのだが,第一のものに 9 箇所,第二のものに 2 箇所,計 11 箇所ある。最短のものでも 8 行からなり (NSF, I : 33),最長のものに至っては 44 行,2 ページに渡って続いている (NSF, I : 27−28)のである。 ところが,これが B 稿,C 稿になると,モノローグはただの一度も現れな い(尤も,C 稿の分量は 2 ページに満たないものであるが)。確かに,B 稿に はページの欠落している部分が幾つかあるし,途中から物語の展開に変更が加 えられてもいる。A ではラバンが雨宿りしている建物の軒下に数名の人間が 駆け込んで来るのだが(NSF, I : 13),B では一人の年配の紳士となっており (NSF, I : 44),ここから物語は次第に前者とは異なる方向へ進んで行く。だ が,この転換点の直後の文章は,ほとんど同じものが双方にあるし(17),A 稿 では,最初の内的モノローグはその直前に置かれているのである。にもかかわ らず,B 稿ではこれが消去されている。それより何より,モノローグの三番 目と四番目のものには,後の『変身 Die Verwandlung 』に登場する蟲の原モ チーフである,巨大な甲虫(ein großer Käfer)のイメージが現れている。6 年後に別の作品へと昇華させられる事になる,作家にとっては魅力的だったに 違いないイメージまでもが,B 稿から完全に抹消されているのだ。 繰り返すが,長い内的独白がこれ程頻繁に現れるのは,数あるカフカの小説 テクスト群の中でも『婚礼準備』A 稿だけであろう。そしてこれに代わり, 後に,主人公の内面を描写する際に用いられるのが,先に触れた体験話法であ る。 『審判』における体験話法の中でも最も印象的なのは,やはり K の処刑の場 面のそれである。いささか煩瑣にはなるけれども,原文を次に抜き出してみ る。 115 長篇小説の戦略

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Wer war es? Ein Freund? Ein guter Mensch ? Einer der teilnahm ? Einer der helfen wollte? War es ein einzelner? Waren es alle? War noch Hilfe? Gab es Einwände, die man vergessen hatte? Gewiß gab es solche. Die Logik ist zwar unerschütterlich, aber einem Menschen der leben will, widersteht sie nicht. Wo war der Richter den er nie gese-hen hatte? Wo war das hohe Gericht bis zu dem er nie gekommen war?(P : 312) 誰だ?友人か?良い人間か?関係者か?助けてくれるのか?一人か?皆い るのか?まだ助かるのか?異議が忘れられたのか?きっとそうだ。確かに 論理は揺るぎないもの,だが,生きようとする人間には逆らえまい。一度 も見た事の無い裁判官はどこにいる?一度も行き着けなかった裁判所は何 処だ? 強調箇所に注目して欲しい。主語は三人称“彼 er”である。が,これは実質 的には,K の内的モノローグと変わらない。つまり,主語を一人称の“私 ich”としても,即ち K その人に語らせても構わない所を,語り手がわざわざ 彼の声を代弁する,という形式を取っている訳である。この微妙なニュアンス の差を日本語で表現するのは極めて難しい。あえて強調箇所を訳し出さずにお いたのは,そのためである。 この,物語に特有な叙述の方法について,ケーテ・ハンブルガー(Käte Ham-burger)は次の様な興味深い指摘を行っている,「体験話法の形式が,必ずし もつねに〈語り手の声〉と明確に区分されるわけではないこと,すなわち,語 り手が語り止め,彼の言葉を登場人物たちに託すに至る境界線は必ずしもいつ も正確に示しうるわけではないことは,すでに繰り返し観察されている」(18) この指摘は裏を返せば,体験話法においては,それが実際には登場人物の生の 声であるにもかかわらず,いつも何処かに語り手の姿,気配が感じられる,と いう事である。事実,彼女は更に続けて言う,「小説の人物たちの意識的ある いは無意識的な想念の再現においては,語り手の解釈する声がほとんど気づか 116 長篇小説の戦略

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れぬうちに共鳴している。語り手たるもの,やはり作中人物たちの想念を自ら の言葉で考えるものであるから」(19)。これは,体験話法によって語られる内容 は,登場人物のものであるとともに語り手のものでもあるという事,更に言え ば,語り手がその内容を登場人物に完全に引き渡してしまう事は決して無い, という事である。つまり,主人公の内面描写と言えども,内的モノローグとは 違い,体験話法においては語り手が姿を消す事はないのである。ただ,厳密に 言えば,先の引用に一箇所だけ,K 自身の声が現れている。四行目から五行 目にかけての,“Die Logik ist . . .”で始まる一文である。だがそれでも,こ の事は今の見解を覆しはしない。K 自身が口を開くのは一瞬の事であり,そ の後ただちに本来の語り手が現れて,続く声を奪い去ってしまう。語り手は決 して K に続きを語る事を許さないのである,たとえ,それがたった二行に満 たない文であっても。

語り手の存在と,その役割

こうして見て来ると,書き手たるカフカは語り手の存在を常に維持し,常に 彼を仲立ちとしてのみ,主人公と接触を持とうとしている様である。更に,そ の語り手を必要以上には K の内面に立ち入らせない。かと言って,書き手自 身が深入りする訳でもない事は上に確認した通りである。つまりカフカはここ で,登場人物の内面に同化して語るという,物語の創造者にのみ与えられた大 きな特権を放棄してしまっているのだ。それは何故なのか。 語り手の視点をある人物に定め,彼,あるいは彼女の感覚や感情,思考を通 して物語世界を描こうという態度は,先にも述べたフロベールやモーパッサ ン,ジェイムズなどの,リアリズムの作家達が先鋭化させて来た手法である。 その点ではカフカの小説もまた,その様なリアリズムの小説に連なるものと考 える事も出来よう。だが『審判』に限らず,彼の長篇小説では,主人公の内面 生活が余りにも限定的にしか描かれない。彼らには,リアリズム小説の人物達 に特有の,あの人間的な生々しさが感じられないのである。『審判』につい 117 長篇小説の戦略

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て,作家ミラン・クンデラは正しくも,「K の内面生活はことごとく,彼がは まりこんでしまった状況にからめとられ,この状況をはみ出ているかも知れな いもの(K の記憶,観念的な考え,他人への思惑など)はいっさい読者には 明らかになりません」(20)と指摘しているが,彼が『審判』に欠けていると述べ るものこそ,本来,登場人物の姿をリアルに構成する要素なのだ。この点で 『審判』は,従来のリアリズム小説と袂を分かっている。 ここでカフカの執筆方法を,もう一度思い出してみよう。彼は,小説を書き 進めるための綿密なプランを予め作成したりはせず,書き出し部分の考察で確 認した様に“なんらかの含蓄のあるイメージ複合体”のみを足掛かりとして, 筆を進めたのであった。という事はつまり,書き手には書き出し以降,物語の 中で語り手を導いて行く指標の様なものは何一つ存在しなかった訳である。 この特殊な書き方を考慮に入れると,カフカが,あれ程までに語り手を主人 公に密着させておきながら,両者の間の距離は崩そうとしなかった理由,そし て自ら主人公の内面に立ち入らず,体験話法という形で語り手を介してのみ主 人公と接触を取りたがった理由が見えて来る。そこには,テクストの一見する とリアリズム小説的な外観にもかかわらず,リアリスト達とは全く異なる執筆 上の要請が働いているのである。 それを明らかにするために,もう少し体験話法について見て行こう。 先程も述べた様にこれは,一人称の内的独白に置き換える事,つまり,こう 言って良ければ,それまでの語り手とは別の人格に語らせる事も出来る。そし てもし,内的独白を採用した場合には,当然ながらそこから,語る主体の交替 が生じる。 語りの特徴を検討した際に見た通り,『審判』の語り手は,独自のメカニズ ムに則って報告を行っている。その一貫性が,テクストにあの独特なスピード 感とリズムを生み出してもいるのだが,もし仮に彼(語り手)が K の内面世 界を前にして,語る主体の座を K 本人に譲り渡し,一時的にせよテクストか ら姿を消してしまっていたとすれば,この小説のリズムは損なわれていた事で あろうし,物語自体がもっと別なものになっていたであろう。 118 長篇小説の戦略

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だが,それは表面的な事柄に過ぎない。語る主体が入れ替わる事の最大の問 題は,実は書き手たるカフカにとってのそれなのである。というのも,彼は, それまでの叙述とは別のメカニズム──K の内的世界の運動とリズムに身を 委ねなくてはならなくなったであろう事を意味するからである。 語り手を制御しつつ,窮屈な思いを強いられて来たカフカの想像力は,K の内面と完全に同化するや,一気に解放されたであろう。何故なら,心の中で はあらゆる事が言われ得るからである。人間は自分の知覚や思念に制限を加え たりはしないものだ。現実主義的に見える K も,実は恐るべき夢想家だった かも知れず,『婚礼準備』のラバンの様に,心の中で突飛もないイメージを生 み出していたかも知れない。例えば,最初の審理の日取りと場所を知らせる電 話がかかって来た時,彼は「日曜日には行こうとすぐ決心」し,「それは是非 ともそうする必要がある,訴訟が始まったのだ。これに立ち向かわねばなら ず,この最初の審理を最後のものにしてしまわなければ」ならないと考えるの だが(P : 50)(21),ふと,自分は何かの動物の姿になって布団の中でぬくぬく としており,裁判所へは分身を送り出しておく,という様な事は出来ないもの だろうか,などと思ったかも知れない。 ペィスリィの言う様に,ただ単にイメージにイメージを連ねて行くというや り方では,内的独白はともすれば止め処ない連想ゲーム,取り留めもないイメ ージの連鎖へ陥ってしまう落とし穴となる危険性がある。特にカフカの様な並 外れた想像力の持ち主ならば,尚更である。更に,それが魅力的であればある 程,彼はイメージを発展させたいと思ったに違いないであろうし,また,その 衝動に抗する事は出来なかったであろう──もしそうなっていたら,『審判』 という物語の統一が保たれていたか,どうか。 内的独白という手法の持つその様な側面を最も端的に示してくれるのは,他 ならぬジョイスの『ユリシーズ』である。だが,あの長大なモノローグによっ て構成される作品が統一を保ち得ているのは,ひとえに『オデュッセイア』と いう下敷きと,両者の進行を対応させる綿密な執筆プランがあったからこそで あり,この強固な足場を欠いていれば物語はいずれ空中分解し,“意識の流 119 長篇小説の戦略

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れ”を記述するという作家の目論見は失敗していたであろう事は疑うを得な い。無論,ジョイスを引き合いに出すのは極端ではあろう。しかし,書き手が 内的独白,即ち登場人物の想念の中でイメージの充溢に溺れず,道を見失わ ず,やがて本来の語り手を復権させて,物語を再び元のレールに戻すために は,そのための指標が是非とも必要であるはずだ。だが,繰り返すが,ジョイ スと違ってカフカはその様なものを事前に持ち合わせてはいなかったし,むし ろその様な状態で執筆に臨む事をこそ,自らの綱領としたのである。 その様な彼が長篇小説を書き進める上で,予期せぬ箇所での予期せぬ想像力 の爆発は,物語を離散させてしまう危険性があったであろう。先の『婚礼準 備』A 稿が途中で放棄され,新たに書き始められた B, C 稿では内的モノロー グが一掃されていた事の裏にこの様な事情があったと想像するのは,あながち 間違いではあるまい。 その様な危険を回避するために,カフカは,書き手たる自分と主人公との間 にもう一人の人物,即ち語り手を常に介在させる必要があった。そうする事 で,自らの資質と書き方の故に執筆の進行を妨げかねない情報やイメージの出 現の可能性を,極力排除し得たのである。そして,語り手にも主人公と一定の 距離を保たせる事で,彼を自らの水先案内人とし,未完とは言え,あれだけの 長さの小説に統一を持たせる事に成功した。無前提で書く事を自らに課したか らこそ,彼は,叙述上の規則をストイックに守らねばならなかったのである。 比類無い想像力は,制御されて初めて,真の創造力となる。 注 盧 クロード・ダヴィッド編『カフカ=コロキウム』円子修平ほか訳 法政大学出版 局 1984 年 11 ページ 盪 明星聖子『新しいカフカ 「編集」が変えるテクスト』慶應義塾大学出版会 2002 年 236 ページ 蘯 「この『判決』という物語を,僕は 22 日から 23 日にかけての夜,晩の 10 時から 朝の 6 時にかけて一気に書いた。(中略) ただこのようにしてしか,ただ身体と 魂を完全に開ききった状態でしか,書けないのだ。」 盻 『カフカーコロキウム』12 ページ 120 長篇小説の戦略

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眈 『新しいカフカ』235 ページ 眇 フローベール『ボヴァリー夫人』生島遼一訳 新潮文庫 1965 年 47 ページ 眄 同上 173 ページ 眩 同上 176∼180 ページ 眤 同上 90∼94 ページ 眞 モーパッサン『女の一生』新庄嘉章訳 新潮文庫 1951 年 273∼279 ページ 眥 同上 205 ページ

眦 原文:Im Nebenzimmer, in das K. langsamer eintrat als er wollte, . . . 眛 『女の一生』189 ページ 眷 W. ベンヤミン『ボードレール 他五篇』野村修訳 岩波文庫 1994 年 25 ペ ージ 眸 フランスの文芸批評家,ジェラール・ジュネットの用語“focalisation”。詳しい 定義と分類については『物語のディスクール 方法論の試み』(花輪・和泉訳 水声社 1985 年)217∼227 ページを参照せよ。ここでは本稿に即した簡単な概 略のみを示す。ジュネットは物語の中で“誰が見,聞き,感じ,考えているか” という問題と“誰がそれを語るのか”という問題を分けて考えようとし,前者を “焦点人物 focalizer”と名付けて,後者の“語り手”と区別した。そして焦点人 物が一人である場合を“内的固定焦点化”,複数の場合を“内的不定焦点化”の 物語と呼ぶ。この定義に従えば,『ボヴァリー夫人』は内的不定焦点化の物語で あり,『審判』は,K 一人の知覚や思考のみを通して描かれるので,内的固定焦 点化の物語という事になる。

睇 Franz Kafka und die Weltliteratur / hrsg . von Manfred Engel und Dieter Lamping /Vandenhoeck & Ruprecht/Göttingen/2006

Manfred Schmeling : Kafka und Flaubert. Perspektive, Wirklichkeit, Wel-terzeugung S. 120−124

睚 A 稿:Er stellte den mit gewürfeltem Tuch benähten Handkoffer nieder und beugte dabei die Knie ein. Schon rann das Regenwasser an der Kante der Fahrbahn in Steifen, die sich zu den tiefer gelegenen Kanälen fast spannten.

B 稿:Raban stellte den mit schwarzem Tuch benähten Handkoffer nieder und Beugte dabei ein wenig das rechte Knie. Schon rann das Regen-wasser an den Kanten der Fahrbahn in Steifen, die zu den tiefer ge-legenen Kanälen sich fast spannten.

睨 Käte Hamburger : Die Logik der Dichtung/Klett-Cotta/Stuttgart/1957 S. 139 訳は植和田光晴訳『文学の論理』(松籟社 1986 年)132 ページを参照した 睫 同上 S. 139,訳は『文学の論理』133 ページ

121 長篇小説の戦略

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睛 ミラン・クンデラ『小説の精神』金井裕ほか訳 法政大学出版局 1990 年 30 ページ

睥 原文: . . . er war gleich entschlossen, Sonntag zu gehen, es war gewiß not-wendig, der Proceß kam in Gang und er mußte sich dem entgegenstellen, diese erste Untersuchung sollte auch die letzte sein.

強調箇所を見ても分かる様に,ここも体験話法である。

使用テクスト

Franz Kafka : Der Proceß /Kritische Ausgabe hrsg. von Jürgen Born, Gerhard Neumann, Malcolm Pasley und Jost Schillemeit/Fischer Verlag/Frankfurt am Main/2002 本文中では書名,ページ数を(P : 1−2)の様に略記する。 Franz Kafka : Tagebücher /Kritische Ausgabe hrsg. von Jürgen Born, Gerhard

Neumann, Malcolm Pasley und Jost Schillemeit/Fischer Verlag/Frankfurt am Main/2002 同じく(T : 1−2)の様に略記する。

Franz Kafka : Nachgelassene Schriften und Fragmente I /Kritische Ausgabe hrsg. von Jürgen Born,Gerhard Neumann, Malcolm Pasley und Jost Schillemeit/ Fischer Verlag/Frankfurt am Main/2002 同じく(NSF, I : 1−2)の様に略記 する。

なお,上掲書からの引用は全て筆者の訳である。

──大学院文学研究科博士課程後期課程── 122 長篇小説の戦略

参照

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