激動の時を生きる : 戦前・戦後における沖縄出身
者と同郷者集団
著者
山口 覚
雑誌名
人文論究
巻
53
号
1
ページ
58-73
発行年
2003-05-10
URL
http://hdl.handle.net/10236/6183
激 動 の 時 を 生 き る
──戦前・戦後における沖縄出身者と同郷者集団──
山
口
覚
I.はじめに
かつて沖縄出身者は「本土」社会でしばしば差別の対象とされ,企業への就 職が困難であったり,「日本人か沖縄人か」という問題に悩まされる者も少な くなかったという。冨山(1990)の『近代日本社会と「沖縄人」』を基礎にし つつ,「本土」在住沖縄出身者に関する研究はここ数年でも進展してきた。 これまで関東の沖縄出身者を調査してきた桃原(2003)は,沖縄出身者を 記述することが「日本社会」や「日本人」の所与性を「告発」する可能性を持 つかどうか考察する。「日本人」でなく,「日本人」の他者として表象される 「沖縄人」でもない在り方が,関係性の変化を本質とする「都市」の日常生活 の中に追求される。仲間(2001)のような詳細な歴史的記述もある。同稿で は戦時体制下の大阪における沖縄出身者の生活状況が,戦前に発行されていた 機関誌『大阪球陽新報』の新規発見分によって明らかにされた。沖縄出身者に 対する「日本人」化の強調は,「戦争」というコンテクストにおいてもっとも 明確に立ち現れてきたのであった。また稲垣(2002)は,これまで研究の進 んでいなかった神戸市内の沖縄出身者を対象とした。たとえば神戸市内では沖 縄出身者の同郷者集団があまり発達しなかったが,大企業就職者が多く,労働 者としての結束が強かった同地域の特性にその要因を見出している(1)。 筆者もまた都市で生成する多様なネットワークの重層性を重視しつつ,主に 戦 後 に お け る 兵 庫 県 在 住 沖 縄 出 身 者 の 生 活 状 況 の 解 明 を 試 み た(山 口, 582002)。「沖縄出身者」という差別的で一元的な社会的カテゴリーを生きねば ならない状況下で,彼/女らはある時には「沖縄」を旗印に団結し,またある 時には個人レベルで「抵抗」を試みたのであった。沖縄県人会兵庫県本部・支 部という集団を中心にしつつも,阪神間都市に生きる人々の関係はより複雑な ものだったのである。 しかしながら紙幅の都合上,同稿では調査結果の一部しか示せなかった。本 稿の目的は前稿を補足し,かつ新たな知見を提示することにある(2)。次章で はまず本稿の課題を示したい。ここでも冨山(1990)の説明の一部に対する 検討が出発点となる。なお,データが限られるため,試論的な内容にとどまる ことを最初にことわっておく。 以下の行論では県人会や同郷団体といった集団が重要な位置を占める。同じ 県の出身者によって構成される県人会に対し,県よりも小さな単位,すなわち 出身市町村や集落・学区を「同郷」の単位として形成される集団を同郷団体と する。また県人会や同郷団体の総称として「同郷者集団」(松崎,2002)の語 を使用する。かつての沖縄人連盟兵庫県本部,現在の沖縄県人会兵庫県本部お よび各支部がここでの主な対象となる。必要に応じて大阪市(府)下の集団に も言及したい。
II.兵庫県における戦前・戦後の沖縄出身者
(1)兵庫県下の沖縄出身者 沖 縄 出 身 者 は 1930 年 代 の 不 況 下 に あ っ た 大 阪 に 数 多 く 来 住 し,冨 山 (1990)が「沖縄的労働市場」と呼ぶ低賃金労働市場に包摂されていく。当時 の在阪沖縄出身エリート層は同郷者に対する差別的状況を打破するため,沖縄 的生活習慣を捨てて「正しい日本人労働者」とするための生活改善運動を展開 する。しかし沖縄出身者の中には「気楽な生活」を求めて兵庫県内の未開発の 土地へ再移住し,新たな集住地区を形成する人々もいた。そこでは沖縄的生活 習慣が保持されたため,生活改善運動の標的とされていく。 59 激動の時を生きる冨山の研究におけるこうしたアウトラインについて異論はない。しかし兵庫 県下の沖縄出身者に関するいくつかの説明は検討を要する。たとえば大阪と比 較したとき,新しい集住地区では同郷団体がほとんど設立されなかったが,そ れについて「組織する者」が相対的に少なかったことをその理由として挙げて いる点である(p. 225)。 冨山は同郷団体について「具体的対面関係」による集住地区内での相互扶助 組織と見ているが,実際にはこの前提から正しくない。集住地区をはるかに超 える広域の同郷者によって組織され,親睦活動を中心とする同郷団体は珍しく なかったからである(3)。当該団体にすでに所属しているのであれば,再移住 後に新たに同郷団体を設立する必要もそれほど大きくないはずである。加え て,当該集住地区住民の出身地が沖縄県全域に及んでおり,出身市町村レベル での同郷者数が限られていたことも重要である。そもそも兵庫県在住の沖縄出 身者は大阪府よりもかなり少なかった。フィッシャー(1996)が言うように 下位文化集団の生成には一定の人数が必要であろうし,「地域の和」が乱れる のを避けるため,同郷団体の設立があえて抑制されていた良元村(現宝塚市) 高松の例もある。これらは同郷団体を組織する際のマイナス要因となる。一方 でこうした新しい集住地区では沖縄出身者全体を網羅する「県人会」的な組織 が 1930 年代にすでに形成されていたし,集住地区がほとんどなかった尼崎市 南部でも同様であった。このことはそれらの場所における有力者の存在を示唆 してもいる。兵庫県内の集住地区内で設立された「県人会」とはどのようなも のであったか,改めて確認する必要がある。 さて,「敗戦当時の権力構造に対応した日々の生活のための『沖縄人』とし ての主張は,生活基盤が弱く『名士』も少ない兵庫においてより浸透したと考 えられる」(p. 261)との説明も検討に値する。上述のように「県人会」など の同郷者集団は兵庫県内の各地で戦前に設立されたが,それらは終戦直後に活 動を再開している。戦前の有力者が終戦直後にも引き続き重要な役割を担った からである。しかし一方で大量の同郷者が戦中・戦後に流れ込んだことによ り,兵庫県の沖縄出身者社会が激しい「混乱」の中にあったという冨山の説明 60 激動の時を生きる
はおそらく誤りではない(p. 254)。この点について冨山の説明に欠けている のは,有力者でない人々の「混乱」した日常生活の実相であり,そうした人々 にとっての同郷者集団の意味である。果たして「沖縄人」としての主張は「混 乱」のさなかにあった沖縄出身者全体に「浸透」したのであろうか。 そしてまた,終戦直後の日常生活や人間関係は,その後の同郷者集団の在り 方に大きな影響を及ぼしたはずである。特に終戦から一定の時間が経過した 1950 年代においてはどうであったか。同年代の沖縄出身者の活動は資料上の 制約からこれまであまり知られてこなかったが,沖縄返還運動との関連からも 興味深い時期であることは間違いない。 (2)本稿の課題 以上の問題を受け,次の 3 点の解明がここでの課題となる。①集住地区の 形成期(1930 年代)における生活の場を作り出すための取り組みと集団形成 (III 章)。②終戦直後における一般の沖縄出身者個々人の生活と同郷者集団の 意味(IV 章)。③終戦直後の「混乱」から抜け出しつつあった 1950 年代にお ける沖縄出身者の同郷者集団の在り方(V 章)。冨山の知見を検討する①と② は聞き取り調査結果などによって明らかにする。③は新たに得られた資料『球 陽新報』(4)を利用し,尼崎市および大阪市議会選挙における沖縄出身候補者の 落選理由を中心に見ていきたい。 以下で扱う課題は一見すると些末なもののように思われるかもしれない。し かし苦境と混乱の中で人々がいかに生活し人間関係を構築したのか,個々人の 間や集団と個人の関係はどうであったのか,そうした都市社会の様相を知る上 で重要なものとなろう。
III.集住地区の形成と人々の活動
(1)集住地区の形成と有力者の登場 良元村(現宝塚市)高松,尼崎市戸ノ内といった兵庫県下の沖縄出身者集住 61 激動の時を生きる地区は,大阪からの再移住者を中心に 1930 年代に形成されたものである。こ のうち,高松では当初「気楽な生活」が営まれていたと言われており,生活改 善運動を進めていたエリート層がもっとも「改善」すべき場所と見なしてい た。しかしながらこれらの地区住民は単に「気楽な生活」を送っていた訳では ない。いずれの地区も河川敷や氾濫源などの居住環境が劣悪な場所にあり,イ ンフラ整備もなされていなかったのである。だからこそ安価に土地を入手でき たのだが,同時に自らの手で場所を作り上げる必要があった。高松に電気が通 されたのは地区内の代表者が電力会社と交渉した結果であった。 ここ電気が入ったのが昭和 8 年やからな。……関西電力に行って相談し て,「こんだけ人がおるから電気引いてくれ」言うてな,だから柱なんて 一本もなかったよ。今は高司いう名前に変わったけど,そこの村しか〔電 線が〕ないねん,そこから引いてきたんや(S. N. 氏)。 こうしたインフラ整備に関する話は各集住地区で聞くことができる。たとえ ば終戦後に尼崎市東部を流れる藻川の中州に居住していた O. Y. 氏(神崎支 部)によれば, 中州だからね。どっからも水道管引いてなかった。……だから川渡って, 松本さんやったかなあ,……みんな水くみに,水もらいに行ったもんや。 そこのおばあちゃんがほんとようできた人でねえ,何も言わんと,快く水 くれとったよ。そうしている間に,F さんいう人が……上江洲さん(沖縄 出身の尼崎市議会議員,後述)といろいろ交渉しとってね,戸ノ内からち っちゃな橋がかかっとってね,それに沿わして水道なんかを引いた。共同 水道。 水道,電気,電話などのインフラは各地区の有力者の尽力によって徐々に整備 されていく。そしてこのことからも明らかなように,もともと有力者がいた 62 激動の時を生きる
か,あるいはこうしたインフラ整備などの過程でも代表者が生み出されていっ たのである。他者の目には「気楽な生活」と映ったとしても,そこで生活が 日々営まれる以上は誰かが中心になって動かざるを得なかったし,そうした人 物によって地区内で何らかの集団が設立されることも珍しくなかった。 (2)集住地区内での同郷者集団の設立とその意味 集住地区では実際に様々な集団が形成されていった。高松では 1935 年頃に 「沖縄県人同志会」(後に「中高松同志会」)が,戸ノ内でも 1937 年に「戸ノ 内親友会」が設立されている。聞き取りによれば,後者は「事業家の,目立っ た人々」の集団であったという。さらに戦時体制下の 1940 年には町内会の設 置が全国的に義務づけられた。沖縄出身者の新しい集住地区も例外ではなく, それは「隣保」などと称されていた。そして次のような組織さえ作られた。 『大阪球陽新報』第二十六號(1938. 9. 15)には「戸ノ内在郷軍人會 一周年 記念」という記事が掲載されている。 神崎川畔の通稱モスリン橋一帯の縣人を以て組織せる戸ノ内在郷軍人會創 立一周年記念式が来る十八日に同橋下廣場に於て催されるが當日は皇軍の 武運長久祈願を為すと共に出征家族の慰安の為め銃剣術等の餘興もある 由。 つまり戸ノ内親友会と同じ 1937 年に「戸ノ内在郷軍人会」が結成されたので ある。沖縄出身者は「沖縄連隊」に所属しており,当時大阪を中心に活動して いた関西沖縄県人会の会長・豊川忠進の名で「在郷軍人で住所の通報を怠って ゐる者はないか 沖縄聯隊區司令官から豊川縣人會長へ傳達依頼」といった記 事が『大阪球陽 新 報』に 掲 載 さ れ る こ と も あ っ た(第 三 十 三 號,1939. 2. 15)。沖縄出身者もまた「日本社会」に生きていたのである。 もっとも,こうしたことは集住地区において生活改善運動が徹底して励行さ れたという直接的な証拠にはならない。「日本社会」全体での圧力を背景に 63 激動の時を生きる
「正しい日本人」として生きるよう強要したエリート層に対し必ずしも絶対的 には従わなかった可能性もある。戦中・戦後においてこうした集住地区がヤミ 取引の主要な舞台となってきたことはその傍証となろう。もちろんそれは生き るために必要な行為であった。 1930 年代後半には「気楽な生活」のために形成された集住地区でも有力者 が登場しており,同郷者集団が設立された。こうしたことは集住地区だけでな く,尼崎市南部のような分散居住地域でも確認される。しかし同郷者集団が設 立されても,沖縄出身者のすべてがそうした集団に強力に組織されていたかど うかは別問題である。
IV.終戦直後の混乱の中で
兵庫県下の沖縄出身者の同郷者集団は終戦直後に活動を開始した。それらは 1945 年 11 月に設立された全国組織である沖縄人連盟の支部として再編され ていく。1946 年には大阪・兵庫・和歌山 3 府県下の諸集団が沖縄人連盟関西 本部に編入され,同年中に沖縄人連盟兵庫県本部が独立した。統制経済の破綻 によって物資が不足し,個々人が自助努力によって生き抜かねばならず,その 上復員などによって人口が急増するという混乱した状況において,沖縄人連盟 は一般の沖縄出身者にとってどのような意味を持ったのであろうか。本章では 尼崎市南部という沖縄出身者が分散して居住する地域と,良元村高松という集 住地区の 2 つの例を見てみよう。 Y. S. 氏(長洲支部)は沖縄出身者が分散居住する尼崎市南部に居住した。 同市南部は明治期より工業化の進展による市街地化が進み,賃貸住宅地となっ ていた。沖縄出身者の集住地区が新たに形成されることはなかった。同氏は郷 里(当時の北谷村内,現在は嘉手納町内)との連絡によって沖縄戦による郷里 の壊滅的な打撃を知ると,尼崎市への定住を決め,ヤミタバコの商売を開始し た。そうした中で沖縄人連盟の結成を知ることになる。 64 激動の時を生きるいつでも,同じ沖縄の人間は兄弟や。終戦後はみんなそんなんだったよ。 それも,沖縄への引き揚げが始まったら,それもだんだん薄れてしもうて ね。あれは終戦から 21 年 4 月,引き揚げが始まるまではな。みんな沖縄 出身者は集まって,話し合いしたりしよったけど。ここで永住するいう人 たちは人たちでまた,助け合いするし,「……2∼3 カ月後,半年後はもう 帰るわ」いう人たちは,帰る段取りせないかんからね。2 つに分かれてし まうわけや。……僕らなんかはもう「もう永住や」いうかたちで決めとる から,県人会が「どこそこに集まってくれ」言うたらもうパッと集まる し。「もう帰るわ」言う人たちはそんなとこ来いへんわ。 このように Y. S. 氏は沖縄人連盟兵庫県本部の存在を知り,また参加してもい た。同地が連盟の拠点だったことも無視できないが,混乱した状況であって も,沖縄出身者は沖縄人連盟と一定の関係を有したのである。聞き取りによれ ば,同氏はヤミ市において同郷者と日常的に顔を会わせてもいた。 しかしながら買い出しとヤミ市における多忙な日々を送っており,連盟との 関係は特定の時間・場所に限定されたものであった。同氏は沖縄出身者だけで なく様々な人々との相互扶助の中で生きていたのである。近隣には沖縄出身者 以外の人々が居住し,他方で沖縄人連盟は日常生活を支えるものではなかっ た。連盟は米軍支配下の沖縄の処遇問題や沖縄への帰還者輸送といった政治的 な課題に重点を置いていたからである。連盟によって物資の配給がなされたこ ともあったが,それは一時的なものであった。 次に良元村高松について見てみよう。高松では中高松同志会の後身である良 元村沖縄県人会が終戦直後にただちに結成され,翌 46 年には沖縄人連盟関西 本部に組み込まれている。同地区住民であった仲里(1980)は次のような興 味深い記述を残している。 戦中戦後の沖縄県出身者の生活はひどいものでした。昭和二〇年には,沖 ママ ママ 縄人の生活と権利を守るために,沖縄県人会連盟が結成されていまして, 65 激動の時を生きる
支部の機能はなかったんですが,食べる物が何一つ手に入らない時代だっ たんで,弟の祥盛などと知恵を合わせて動き出したわけです。つまり,沖 縄県人会連盟宝塚支部消費者組合の名刺を作って,それを持って島根,鳥 取県あたりにイモを買いに行ったんです。 この文章によれば,有力者の手になる同郷者集団それ自体はそれほど機能して おらず,仲里は独自の判断で「沖縄」を語りながら活動していた可能性が高 い。彼は「貧乏や苦しいときをどう切り抜けていくかは,多くは本人の努力に 負うことだと思う」とも記している。つまりは集団によってではなく,個人レ ベルでの「抵抗」が重要だったということである。また同地区では,土地をめ ぐるトラブルから日本共産党と結びついた者もあり,そうでない者との対立も 生じてくる(1948 年)。興味深いことに同地区では「昭和 30 年くらい」(S. N. 氏)に「高松町自治会」が設立されている(5)。同地区で「隣保」と呼ばれ た町内会は GHQ によって 1947 年に解体されたはずであるが,それから約 10 年が経過し,地区住民の「生活が安定してから」自治会ができたのだという。 集住地区での集団性の弱さは,移動手段を有し代替選択肢がある場合には隣 人や親族との関係は強くならないというフィッシャー(2002)の知見によっ て説明できるかもしれない。つまり個々人が日々移動し,多様な人々との関係 を有するのであれば,同郷者や隣人以外の人々とのネットワークが形成される 可能性が高くなる。そしてこの時期,買い出しやヤミ市,あるいは職(食)探 しによる移動と無数の関係の明滅が生活の中心をなしていたのである。 それに対し,終戦直後の混乱の中で「沖縄」を前面に打ち出して集団性を強 化した例もある。たとえば尼崎市南部の難波支部ではヤミ市での自警団が支部 内で結成された。同支部は尼崎市の中心商業地区と重なっており,ヤミ市に一 定の地歩を築いていたからであった。同支部と重なるかたちで活動してきたと される頼母子講「難波親和会」では,のちに共同墓地建設の話合いもなされて いる(『球陽新報』第 137 號,1956. 3. 1)。同支部の人々の集団性は後々まで 持続したのである。 66 激動の時を生きる
終戦直後という混乱した状況において,誰とどのようにネットワークを築き 集団化するか,それは個々人が置かれた地理的・社会的コンテクストにおける 各人の選択によるものであった。「沖縄」を標榜して集団化することは,兵庫 県下でも選択的なものだったのである。
V.1950 年代における沖縄出身者と同郷者集団
(1)1950 年代における支部の再建・強化 1950 年代になると,沖縄出身の「同胞は近来その生活基磐が次第に固まり つつあ」った(『球陽新報』第 31 號,1952. 5. 11)。各地区の有力者や代表者 を中心に活動してきたであろう沖縄人連盟は,この時期に沖縄連盟(1948 年),沖縄協会(1951 年)へと改称されていく(6)。変わったのは名称だけで はなかった。特に大きな変化はサンフランシスコ講和条約の締結(1951 年), つまりアメリカ政府への沖縄の施政権の譲渡という事態に直面して「沖縄の本 土復帰」が以前にも増して強調されるようになり,各支部の再建・強化が試み られたことである。 さて,沖縄人連盟兵庫県本部は 1946 年 8 月に設立され,その傘下の各支部 もこの当時より活発に活動してきたとされている。しかしながら『球陽新報』 を見ると,一般の沖縄出身者に積極的な参加を求める活動の活性化という試み は 1950 年代以降のものであった可能性がある。「兵庫縣下の沖繩協會各支部 はその大半が結成大會を終え,大阪に一歩先んじて一齊に本格的運動を展開し た」(第 8 號,1951. 9. 21)。「昇り龍の年にうんと基礎を固めよう 沖協兵庫 本部の新年宴會」(第 19 號,1952. 1. 11)。「沖繩協會兵庫縣本部總會 劃期 的に飛躍を見ん」(第 41 號,1952. 8. 21)。こうして沖縄協会兵庫県本部は他 所に先駆けて活動が活発になったとされる。「沖繩連盟が沖繩協會と改稱し, 其の行き方も従来と趣を変える様に再出發したのは昨年の事だが,……兵庫縣 本部を除いては,お義理にも其の趣旨に添つた活動をしているとは申し兼ねる 状態である」(第 40 號,1952. 8. 11)。 67 激動の時を生きる「本土」で最大の沖縄出身者を有する大阪では兵庫県よりも活動が低調であ った。そこで戦前に活動していた関西沖縄県人会の会長・豊川忠進を沖縄協会 大阪本部の新会長として迎え,本部・支部の再建・強化が目指されたのであ る。それは沖縄返還運動のため,「協会も従来の如く単なる親睦機関では済ま なくなり,活發な政治活動が要請されるに至つた」(第 77 號,1953. 10. 21) ためだという。そして, 再建なつた沖繩協會大阪本部……。今後各支部の強化や再建を促がし,評 議員は各支部の意見によつて決定する事になつたが,支部の再建は大事業 なので本部も大いに努力する事になつた(第 92 號,1954. 5. 11)。 これらの現象が意味するのは,返還運動を盛り上げるために沖縄出身者全体を 掌握する必要があったということであろう。しかしながら個々の沖縄出身者は 生活実践において同郷者でない人々との間で多様かつ複雑なネットワークを作 り出していた。その端的な例が高松支部での共産党支持者であり,おそらく同 年代からは創価学会支持者も登場する。多様化した政治・社会意識をまとめる 作業は容易ではなかったはずである。それは地方議会選挙に出馬した沖縄出身 者がほとんど当選できなかったという事実から明らかになる。 (2)地方議会選挙における沖縄出身候補者と落選 尼崎市では 1947 年の市議会選挙において,沖縄人連盟の有力者の 1 人であ った上江洲久が当選した。しかし次の 51 年選挙では沖縄出身者が 4 人乱立 し,全員が落選した。沖縄協会が発足し返還運動を盛り上げるため,さらに次 の 55 年選挙ではどうしても市会議員を当選させる必要があった。ところが 55 年選挙でも 2 人が立候補し,共倒れに終わっている。 47 年選挙で上江洲が当選できたのは同郷者の票が一定程度まとまったとい うこともあるが,実際には候補者の乱立(141 人)による当選ラインの低下と いう要因も大きかった。この選挙における上江洲の得票数は 960 票であり, 68 激動の時を生きる
1946 年における沖縄人連盟兵庫県本部の尼崎市在住会員は 1668 世帯であっ た。沖縄へ帰還した人々の減少分を考慮しても上江洲の得票数は決して多いと は言えない。そして 51 年選挙では 4 人が乱立し,その中で最上位だった上江 洲は 833 票しか得られていない。これらのデータは沖縄出身者の集団性が必 ずしも強固ではなかったことの傍証となろう。 55 年尼崎市議会選挙では上江洲(左派社会党)と大西満次郎(右派社会党) が立候補し,選挙戦が実質的に始まる以前では砂川恵智(無所属)も出馬の意 向を表明していた。大西は戸ノ内を地盤にしており,同時に鹿児島県出身の日 本社会党代議士,山下栄二などとも親交があった。砂川は宮古出身者が主な支 持基盤であった。3 人の思惑や支持基盤がどのようなものであったかは別にし て,沖縄協会としては公的な場での代表者を得るために候補者を絞り込み,当 選者を出す必要があった。しかしながら同協会は会員と候補者に対し「一本の 候補者擁立に団結して頂く様」依頼するだけであった(第 108 號,1955. 1. 21)。こうした中,会員からは次のような意見もあった。「今度もまた三人も 出ると言ひますが,之ではとても駄目ですから,私は誰にも入れませぬ。こん な考の人が沢山おる事をご存じでせうか」(第 111 號,1955. 3. 1)。最終的に は「砂川氏の宏い心と高い視野」によって「砂川恵智氏と大西氏の協調成り こゝに上江洲,大西の二氏に絞り上げられて両氏共極めて有望」とされたが (第 113 號,1955. 3. 21),ともに落選した。 沖縄協会が候補者を絞り込めず,会員が団結して投票できなかったのは何故 であろうか。それは複数の有力者が市内各所に別個に存在し,また沖縄出身者 全体が一枚岩とはなり得なかったからであろう。こうした問題について,次に 大阪市議会選挙結果から見てみよう。 尼崎市など一般の市町村議会選挙では大選挙区制が採られているのに対し, 大阪市は区単位での中選挙区制である。選挙で当選するにはより多くの票数が 必要となる。大阪市議会選挙で沖縄出身者が初めて立候補したのは 1953 年の 西成区補選とされており(第 73 號,1953. 8. 21),その結果は次のようであ った。「わが郷出身長田茂候補は善戦し,人気は次第に上昇した。……西成区 69 激動の時を生きる
の有権者十万二千に対し,三万の投票数で,……長田候補は,一二四〇票で七 位を得ている」(第 74 號,1953. 9. 11)。この記述では「善戦」とあるが,1240 票はあまり高い得票数とは言えないであろう。さらに 2 年後の 55 年統一地方 選挙では大湾宗英(西成区),伊佐理正(西成区),有利仁三郎(大淀区)の 3 氏が立候補したが,いずれも落選し「在住同胞の希望は達せられなかつた」 (第 115 號,1955. 4. 21・第 116 號,1955. 5. 1)。 大阪市天王寺区の沖縄出身者は「地方選挙に團結を望む」というタイトル で,こうした現象に関連する興味深い話を記している。「現存組織が政治団体 であるか,親睦団体であるのか,又は援護団体であるのかはつきりしない」 (第 99 號,1954. 9. 11)。おそらく沖縄協会の有力者にとって活動目的は沖縄 返還が中心であったに違いない。そしてまた,他の沖縄出身者もそうした問題 に強い関心を抱いていたであろうが,それは日常生活に直接関連するものでは なかった。もし日常生活に重点を置くならば沖縄返還のような問題に力を割く ことは困難となる(7)。おそらく沖縄出身者全体では集団の目的に対するコン センサスがなかったのである。 (3)沖縄返還運動と日常生活 59 年尼崎市議会選挙では 8 年ぶりに上江洲が再選された。彼は当選後,「生 活上で起こる,すべての問題」の解決を同郷者から依頼されるようになる。沖 縄返還運動の中心というだけでなく,生活を守り向上するための代表者として 期待されたのである。これは聞き取り調査においてしばしば聞く話だが,運動 には関心はあっても多忙な生活のために参加できない者も多かったという。つ まり少なからぬ数の沖縄出身者は「沖縄出身者」としてなおも厳しい状況に置 かれていたのである。 しかし上江洲が主張したのは沖縄返還であった。確かに沖縄返還は「沖縄出 身者」として生きねばならない困難を抜本的に解決する方法として無視できな いものだったはずである。しかしながらそれは日々の生活とは直結しない。実 際には,相当数の沖縄出身者が日常生活上の問題を解決する方法をこの時すで 70 激動の時を生きる
に自ら見出しており,生活が安定傾向に入りつつあったからこそ,沖縄返還と いう日常レベルを超える話題を論じ選挙戦で団結することが可能だったのでは なかろうか。特に 1955 年に始まるとされる高度成長期には激しい求人難が生 じたため,企業が沖縄出身者に門戸を開くようになったとも言われている。 1950 年代後半には生活が安定する者も増加していたであろう。 このとき,沖縄出身者個々人はすでに「沖縄」だけでカテゴライズされる存 在者ではなかったはずである。困難な生活の中で同郷者を含む多様な人々との ネットワークが形成され,移住先である関西の地に「都市人」として根付いて いたのである。そして「沖縄」という結集軸は,日常生活に多少なりとも余裕 が生じるようになって初めて有効に機能するようになったのかもしれない。
VI.おわりに
『球陽新報』の第 11 號(1951. 10. 21)には,「沖繩人ここに在り」という タイトルの次のような意見が掲載されていた。 近頃の球陽新報を見て私の嬉しいことの一つに,沖繩出身の同胞の出した 廣告の多いと言うことである。……号が重なるにつれて,實にいろいろの 廣告が現れて来て,こんなにも多くの同胞がいろいろの方面に活躍して呉 れているかと,涙の出る程嬉しくてたまらない。 この記事から 2 つのことが読み取れる。1 つは沖縄出身者の中に広告を出して 人を集められるような事業をおこなっていた者が相当数いたこと。たとえば終 戦直後から 1950 年代に至る時期においては,関西の映画館主の数割が沖縄出 身者で占められていたという(『青い海』編集部,1980)。そして映画館主だ けでなく様々な事業主がいたのである。しかしいま 1 つ理解されるのは,こ うした状況であったにも関わらず,沖縄出身者間では必ずしも密接な関係が築 かれていなかったということである。同郷者がどこで何をしていたか,それが 71 激動の時を生きる知られていなかったのである。 もちろん地縁・血縁関係者や同業者間での小規模な結びつきはあったであろ うが,難波支部の例,あるいは前稿でも示したような集住地区全体に関わる問 題が生起した時を除けば,「沖縄」という単位での集団性は完全には確立され なかった。「沖縄」を標榜する活動は日常レベルでは必ずしも多くなく,選挙 のような公的な場面では失敗することさえ少なくなかったのである。沖縄出身 者の同郷者集団の活動が誤っていたわけではない。そうではなく,激動の時を 生きるために人々が自らの生活基盤を確立する必要に迫られていた状況下で は,こうした結果はおそらく当然のものだったはずである。言い換えれば,他 者の目に「ムラ」的と映るような安定した集団化は,構成員が生活の糧を得る のに全力を注ぐ必要がなくなって初めて可能になるのではなかろうか。しかし このとき,「日本人」の所与性を「告発」(桃原)する可能性も小さくなろう。 〔付記〕本稿の作成でお世話になりました沖縄県人会兵庫県本部の皆様に心より御 礼申し上げます。 注 その他,沖縄返還後の在京沖縄県人会の活動を概観した牧野(2002)もある。 以下,前稿を引用する際にその旨を逐次注記することはしない。 戦前期の沖縄出身者のものとしては「大宜味村字根路銘出身の阪神沿線在住を以 て組織してゐる『阪神懇親會』」などがある。 『球陽新報』は 1951 年から 1956 年にかけて月に 2∼3 号のペースで大阪市西成 区 で 発 行 さ れ,沖 縄 連 盟・協 会 の 準 機 関 誌 の 役 割 も 果 た し て い た。第 1 號 (1951. 7. 11)の「創刊の辞」によれば「團員相互の親睦を圖ると共に知識の向 上を促して教養を高め,引いては團員の團結を基礎にして福利を増大し,この混 乱している時代に於いて,他の團体との競争にも常に有利な地歩を占めて行こう と言うのである」。文中の「團員」は沖縄連盟会員を指すものと思われる。なお 納富(2001)も言うように,同資料はこれまでほとんど活用されてこなかったも のである。 同地区での聞き取り調査,あるいは宝塚市役所での資料収集では,同自治会の正 確な設立年次は分からなかった。 沖縄県人会兵庫県本部 35 年史編集委員会編(1982)によれば,沖縄人連盟とい 72 激動の時を生きる
う名称から「沖縄連盟となり(昭和 25 年),沖縄協会兵庫県本部(昭和 27 年)」 へと改称されていったという。しかし『球陽新報』第 4 號(1951. 8. 11)などに よれば,沖縄協会への改称は全国組織と同じ 1951 年だった可能性もある。 例外ももちろんある。O. Y. 氏(神崎支部)は就職差別を受けたことによって沖 縄の問題を真剣に考えるようになり,沖縄返還運動に積極的に参加したという。 参考文献 『青い海』編集部(1980)「大阪の映画興行界を風靡した沖縄人館主たち」青い海 10− 8。 稲垣 暁(2002)「大都市圏における同郷コミュニティの研究──『南島』出身者社 会の移り変わり──」関西学院大学大学院総合政策研究科修士論文。 沖縄県人会兵庫県本部 35 年史編集委員会編(1982)『ここに榕樹あり 沖縄県人会兵 庫県本部 35 年史』沖縄県人会兵庫県本部。 桃原一彦(2003)「都市的身体の表象化と沖縄人ネットワーク」渡辺一郎・広田康生 ・田嶋淳子編『都市的世界/コミュニティ/エスニシティ──ポストメトロポリ ス期の都市エスノグラフィ集成──』,明石書店。 冨 山 一 郎(1990)『近 代 日 本 社 会 と「沖 縄 人」──「日 本 人」に な る と い う こ と ──』,日本経済評論社。 仲里祥光(1980)「奉公先を逃げ出して四十余年」青い海 10−8。 仲間恵子(2001)「日中戦争期の在阪沖縄人」大阪人権博物館紀要 5。 納富香織(2001)「在本土沖縄県人紙について──『大阪球陽新報』『球陽新報』『内 報』『自由沖縄』目録──」史料編集室紀要(沖縄県教育委員会)26。 フィッシャー,クロード,松本 康・前田尚子訳(1996)『都市的体験──都市生活 の社会心理学──』未来社。 フィッシャー,クロード,松本 康・前田尚子訳(2002)『友人のあいだで暮らす── 北カリフォルニアのパーソナル・ネットワーク──』未来社。 牧野眞一(2002)「沖縄の同郷者集団──県人会活動を中心に──」松崎憲三編『同 郷者集団の民俗学的研究』岩田書院。 松崎憲三編(2002)『同郷者集団の民俗学的研究』岩田書院。 山口 覚(2002)「複雑化する『結びあい』──戦後兵庫県における沖縄出身者の都 市生活──」地理科学 57−1。 ──文学部専任講師── 73 激動の時を生きる