<資料紹介>
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Comments on Materials
>明治期のロシア正教会による北海道宣教
:ニコライとセルギーの日記に注目して
Missionary Activities in Hokkaido by the Russian Orthodox
Church in Meiji Period
:
From the Diaries of Nikolai and Sergei
宮本 花恵*
MIYAMOTO Hanae
This article takes a brief look at the Russian Orthodox Missionary Activities in Hokkaido in Meiji period described in the diaries of Nikolai and Sergei who worked as missionaries in Hokkaido in 1898.
Hakodate, open port city, was the hub of Christian missions in Hokkaido. Christianity was introduced from Hakodate to Sapporo, and then to inland area including Asahikawa.
The Russian Orthodox Church in Japan began in 1858 when the first Russian Consul arrived in Hakodate, and the church was built in the following year.
In summer 1898, Nikolai and Sergei left Tokyo and went to Nemuro. They traveled to Nemuro by sea from Hakodate.
After visiting the Eastern Hokkaido region including Kunashiri and Etorohu, Nikolai and Sergei returned to Hakodate from Nemuro. Nikolai went back to Tokyo from Hakodate. Sergei separated from Nikolai and visited the Russian Orthodox members in Central, Northern and Southern Hokkaido. He worked very actively and kept a diary.
The whereabouts of the Russian Orthodox Christians in Hokkaido in Meiji Period are well described in his diary.
This article focuses on this aspect and examines how the Russian Orthodox Church was expanded in Hokkaido.
*北海道民族学会会員(HokkaidoEthnologicalSociety)
キーワード ロシア正教会、日本正教会、ニコライ、セルギー、北海道宣教
Keywords theRussianOrthodoxChurch,theOrthodoxChurchinJapan,Nikolai, Sergei,MissionaryActivitiesinHokkaido
宮本 明治期のロシア正教会による北海道宣教:ニコライとセルギーの日記に注目して 1 .はじめに 本稿では、明治31年(1898年)に北海道を宣教したハリストス正教会(以下、ロシア正 教)の宣教師ニコライ・カサートキン(注1)とセルギー(注2)の日記から、彼らの北海道での足 跡を整理し、明治期北海道におけるロシア正教の宣教について考察する。 北海道におけるキリスト教の宣教は、開港地函館を拠点として札幌に進出し、旭川をは じめ内陸へと展開した(鈴江2016:318-319)。ロシア正教の宣教は、安政 5 年(1858年) 初代ロシア領事として函館に着任したゴシケーヴィッチに伴い領事館付司祭イオアンが赴 任したことに始まる。翌 6 年には、函館のロシア領事館に祭祀堂が建てられた(函館ハリ ストス正教会史2011:12)。 日本ハリストス正教会の創始者として知られるニコライは、文久元年(1861年)に函館 のロシア領事館付き司祭として来日し、日本にロシア正教を広めた。ニコライに伴って北 海道を訪れたセルギーは、ペテルブルク神学大学を卒業した明治23年(1890年)に初めて 来日し、 3 年間滞在して帰国した。北海道宣教をした同31年(1898年)に、セルギーはニ コライの片腕となるべく再び日本へ派遣されたが、北海道宣教を終えた後にロシアへ帰国 している(宮田1972:224-225) ニコライとセルギーは明治31年(1898年)の夏に東京を出発し、函館から航路で根室へ 渡った。クナシリとエトロフをはじめ、道東地域を巡回した後、根室から函館へもどり、 ニコライは東京へと帰って行った(カサートキン2007
b
:153-160)。ニコライと別れたセル ギーは、道央、道北、道南地域のロシア正教徒の家を訪問するなど精力的に活動する。つ まり、セルギーの日記(注3)から北海道における明治期ロシア正教徒の所在を知ることがで きる。本稿では、この点に着目し、ロシア正教における北海道進出の道程を考察する。 2 .ニコライの宣教方針 日本へ渡る前、ニコライヘフスクで越冬していたニコライは、アラスカにおけるロシア 正教の宣教者として知られるインノケンティと出会い、薫陶をうけた。インノケンティは ニコライに聖書と、ロシア正教で「奉神礼」と呼ばれるミサに相当する祈祷で使う書物を、 改宗した民族や国民の言葉に翻訳し、ロシア正教の「土着化」を図るよう教えた(中村 2007:24)。この教えはニコライの日本における宣教の明確な方針となった。すなわち徹底 した日本語の習得である。 ニコライは文久元年(1861年) 6 月にロシア領事館付司祭として来日すると、猛烈な勢 いで日本語を学び、漢文や日本の歴史も修学した。ニコライの日本語修学の特徴は、漢学 の素養が深い点である。ニコライは『古事記』、『日本書紀』、『日本外史』などの歴史書や 『法華経』などの仏典を原文で読み、後に日本人の神学生に講義したほどであった(中村2007
a
:25)。 ニコライは明治 5 年(1872年)から公然と布教をはじめる。明治 8 年(1875年)には、 日本人司祭をたて、教会の中枢に日本人を入れ、その後も日本人聖職者の養成に注力した。 ニコライは、日本人の信徒に短期間、神学教育を施し、「伝教者」として各地に派遣する方 式で信徒を広めていった(中村2007a
:25)。この方針は、北海道においても適用された。 前述のように、明治31年(1898年)に北海道をまわったニコライの下で、セルギーも直 ちに日本語の習得に取り掛かり、神田駿河台の神学校において、日本語で神学を講義でき るまでに上達した(佐藤 1999: 7 )。なおセルギーの最初の来日は、主として神学校での 教授の任が目的であったと思われる。初来日したセルギーは 3 年間滞在した後にロシアへ 帰国し、ペテルブルクの神学大学の教授となった。この時に正教会での位が上がり「掌院」 となっている(宮田1972:224-225)。 またニコライの宣教方針として、日本人聖職者の養成と、ロシア人宣教師による現地語 での布教が試みられた。ニコライの日記には「北海道の諸教会を訪ねる旅」(カサートキン 2007b
:181)と書いてある。しかし、当時の北海道には函館や札幌、根室のような主要地 域以外には、ほとんど教会が建っておらず、実際は、北海道の各地に暮らす信徒を訪問し ている。 さらにニコライにとって根室教区を訪問することは、根室教区の管轄となっていた千島 列島で信徒である千島アイヌのもとを訪問することも意味した。ニコライが尊敬するイン ノケンティと関わりのある千島アイヌと会うことは、日本で活動するニコライにとって、 文化の異なる民族に宣教したインノケンティの成果を辿る事は意義があったと考える(注4)。 3 .ニコライとセルギーの旅程 次に、ニコライとセルギーの日記から、それぞれの明治31年の旅程をみていきたい。な おニコライの日記にはロシア歴が使用されていたので、セルギーの行程と比較するため太 陽暦に直した。宮本 明治期のロシア正教会による北海道宣教:ニコライとセルギーの日記に注目して ニコライの行程 東京( 8
/
5 )→青森→函館( 8/
6.
7)→根室( 8/
9 )→根室・和田( 8/
10)→シコタ ン島( 8/
13)→エトロフ島紗那( 8/
14)→エトロフ島留別( 8/
15)→根室( 8/
16-22) →函館( 8/
23.
24)→青森→東京( 8/
25) (図1)ニコライの行程 地図2 セルギーの行程 留別 留別紗那紗那 8/14 8/14 8/15 8/15 8/13 8/13 8/9、8/16〜22 8/9、8/16〜22 8/6・7、8/23・24 8/6・7、8/23・24 函館 函館 青森 青森 シコタン島 シコタン島 根室 根室 根室(和田) 根室(和田) 8/10 8/10セルギーの行程 東京( 8
/
5 )→青森→函館( 8/
6.
7)→根室( 8/
9 )→根室・和田( 8/
10)→シコタ ン島( 8/
13)→エトロフ島紗那( 8/
14)→エトロフ島留別(8/
15)→別海( 8/
17)→標 津( 8/
18)→薫別( 8/
19)→根室( 8/
20-22)→函館( 8/
23 ~)→室蘭( 8/
27)→札 幌( 8/
28 ~)→岩見沢・幌向( 8/
31)→三笠・イチキシリ( 9/
1 )→室蘭( 9/
2.
3)→美唄・ ヌマカイ( 9/
4.
5)→旭川・永山( 9/
6 ~)→深川( 9/
9 )→秩父別( 9/
11)→増毛 ( 9/
12)→稚内( 9/
16 ~ 22)→増毛( 9/
24)→小樽( 9/
24 ~)→岩内( 9/
29)→倶 知安( 9/
30 ~)→寿都(10/
5 )→歌島(10/
6 )→黒松内(10/
7 ~)→小樽(10/
11) →室蘭→函館(10/
12) 上記の行程から、北海道宣教において、その大部分を担ったのがセルギーであった事が 分かる。なお佐藤氏訳のセルギーの日記では、「士別」と訳されているが、中村氏訳のニコ ライの日記と宮田氏訳のセルギーの日記では、「標津」とある。セルギーの日記をみると、 現在の別海町を通って薫別(標津郡標津町)へと到る途中なので、これは「標津」が正し い。 (図2)セルギーの行程 8/15 8/158/148/14 留別 留別紗那紗那 函館 函館 青森 青森 室蘭 8/27、9/2・3 室蘭 8/27、9/2・3 シコタン島 シコタン島 別海 別海 標津 標津 8/18 8/18 8/19 8/19 9/6〜 9/6〜 9/16〜22 9/16〜22 9/4.5 9/4.5 9/1 9/1 8/31 8/31 8/17 8/17 8/13 8/13 薫別 薫別 旭川(永山) 旭川(永山) 稚内 稚内 利尻島 利尻島 焼尻島 焼尻島 増毛 増毛 増毛峠 増毛峠 美唄(ヌマカイ) 美唄(ヌマカイ) 三笠(イチキシリ) 三笠(イチキシリ) 岩見沢(幌向) 岩見沢(幌向) 秩父別 秩父別 深川深川 9/11 9/11 9/99/9 小樽 小樽 倶知安 倶知安 岩内 岩内 歌島 歌島 寿都 寿都 黒松内 黒松内 10/11 10/11 9/29 9/29 10/6 10/6 10/5 10/5 10/7〜 10/7〜 8/6・7、8/23〜、10/12 8/6・7、8/23〜、10/12 根室 根室 8/9、8/20〜228/9、8/20〜22 根室(和田) 根室(和田)8/108/10 札幌 札幌 8/28〜 8/28〜 9/30〜 9/30〜 9/24〜 9/24〜 9/24 9/24 9/12 9/12宮本 明治期のロシア正教会による北海道宣教:ニコライとセルギーの日記に注目して さてニコライは主に函館、根室、シコタン島、エトロフ島をまわり、その後に函館を経 由して東京へと戻った。函館でニコライと別れたセルギーは、函館から室蘭行きの船に乗 り、鉄道で札幌へ向かった(セルギー 1999:106-124)。セルギーは、札幌駅で出迎えた札 幌正教会のニコライ桜井神父の案内で、札幌から岩見沢、旭川や稚内などに暮らす信徒の 家を訪問した。セルギーは、北海道各地に居住する信徒たちの家々を訪問し、道内の各地 域の信徒名簿や、洗礼を受けた信徒の信仰が保たれているかなどを確認して回ったのであ る。 4 .北海道宣教と教会 セルギーの日記によると、北海道の教区は大きく函館、札幌、根室の 3 つに分かれてい た(セルギー1999:15)。ニコライがセルギーを伴い北海道を訪問したのは、主に根室の教 区を回るとともに、セルギーに宣教師としての経験を積ませるためでもあった(カサート キン2007
b
:192)。そのため、ニコライは道内各地に暮らす日本人の信徒に案内をさせなが ら、セルギーに各地を巡回させたものと考える。 ニコライと別れたセルギーは、函館から札幌へ移動し、札幌教区のニコライ桜井神父と 合流する。 8 月28日に札幌教会で信徒名簿を点検し、教会ができてから152人が洗礼を受け たこと、そのうち83人が死亡したか別の土地に移動したこと、 6 人の信仰心が弱まったこ と、36人の状態が不明なことを確認している。その後に信徒の家で行われた「親睦会」に 参加したりニコライ桜井神父の家を訪ねたりしている。さらに29日には、朝 8 時半から夜 6 時半まで信徒の家17軒、30日には14軒を訪問するなど精力的に活動している(セルギー 1999:124-144)。 さらに31日には札幌から江別へ鉄道で向かい、そこから馬で幌向にある信徒の家を訪問 するなど、札幌から東へ移動している。その後もニコライ桜井神父を伴い、岩見沢を拠点 に、室蘭方面の信徒宅を訪問し、美唄から旭川へと向かった。ここまでは順調な旅程であっ たが、 9 月 6 日に降り出した雨が止まず、洪水となり、旭川から身動きがとれなくなって しまう(セルギー1999:186-191)。明治31年に台風が原因となりおこった石狩川の洪水は、 死者112名を出す大規模な災害であった(国土交通省北海道開発局札幌開発建設部ホーム ページ)。 鉄道で小樽へ向かう予定であったセルギーは、やむなく旅程を変更し、陸路で峠をこえ て増毛へ、海路で増毛から稚内へ、稚内から小樽へと向かったのである(セルギー1999: 200-208)。このように、旅程の変更を余儀なくされたが、結果として、セルギーは増毛で は 5 軒の信徒宅を、稚内で 9 軒の信徒宅を訪問したのである。セルギーとしては、思いも よらず、道北地域の信徒宅を訪問する事になったのである(セルギー1999:209-228)。 その後、セルギーは小樽から岩内、寿都、黒松内を回りながら10月12日に函館へと戻った(セルギー 1999:280-284)。 8 月 5 日に東京を出発してから、およそ 2 か月間の北海道 宣教の旅となったのである。 5 .北海道に移住した信徒 セルギーが訪問した後に建てられた教会に、中標津町の上武佐ハリストス正教会と苫小 牧ハリストス正教会がある。このうち上武佐ハリストス正教会は、酪農地帯である上武佐 に建てられた教会で、現在の会堂は昭和53年(1978年)に建立された。会同内には、日本 人最初のイコン画家として知られる山下りんが描いた12大祭の聖像が掲げられている。こ の教会を組織したのは、屯田兵として入植した伊藤繁喜(ヒリップ伊藤)であった。セル ギーは 8 月19日に、当時、伊藤が勤務していた薫別(標津郡標津町)まで、伊藤に会うた めに出かけている(セルギー1999:85)。 伊藤は、小川文治(パウエル小川)の経営するサケのふ化場に勤務しており、セルギー が訪問する前年の明治30年10月に根室教会のイグナチィ加藤神父に洗礼を受けた。セル ギーの日記にも、小川のふ化場を訪問し、伊藤とも対面したことが書かれている。その後、 伊藤は、大正 5 年(1916年)に上武佐駅逓の取扱人となり、その地に教会が誕生した。は じめの会堂は、大正 8 年(1919年)12月に「標津原野武佐教会」として建てられた(上武 佐ハリストス正教会1986: 1 -17)。戦後には、クナシリ島から引き揚げた千島アイヌのう ち、教会を頼り上武佐に移住した人もおり、戦後の千島アイヌの足跡を知るうえでも重要 な教会である(宮本2020:63-69)。 また苫小牧ハリストス正教会を建てたイリネイ佐羽内(佐羽内良介)もまたセルギーと 会合していた一人であった(苫小牧ハリストス正教会1998: 1 -30)。明治28年(1895年) に、宮城県涌谷から北海道へ移住した佐羽内家は、はじめ幌向(現在の岩見沢市)に入植 した。佐羽内良助の父黄吉は明治12年(1879年)に、良助は明治14年にロシア正教に入信 した(門脇楠野1998:32-44)。佐羽内家は親類縁者も含めて、熱心に信仰していたようで、 セルギーの日記によると、幌向に 8 軒ある信徒の家の内、 6 軒は佐羽内の娘婿らか子ども の家で、 7 軒目の家は、黄吉の弟の家であった(セルギー 1999:145-154)。黄吉は長老格 として敬われ、家事一切を良介にまかせ、自分はひらすら信仰生活に入り、自宅を教会と して伝教に努めた(門脇・楠野1998:32-44)。 旭川を襲った洪水は幌向にも甚大な被害をもたらしたため、佐羽内家は幌向から厚真へ 移住した。佐羽内良介は、大正 7 年(1918年)に苫小牧へ転居し自宅を祈祷所とした。こ れが、苫小牧教会のはじまりである。現在の会堂は、昭和50年(1975年)に建てられた(門 脇・楠野 1998:32-44)。セルギーが訪問した信徒らが中心となりロシア正教の教会が建て られたのである。これらの事から、北海道におけるロシア正教の広がりには、セルギーの 宣教も影響を及ぼしたと考える。
宮本 明治期のロシア正教会による北海道宣教:ニコライとセルギーの日記に注目して 6 .おわりに 1890年代、札幌の正教会はようやく基盤を固めつつあった(鈴江 2019:94)。さらに札 幌・函館に加えてシコタン島を含んだ根室教区が誕生したため、明治31年(1898)にニコ ライが訪ねることになり、セルギーはニコライに随行した(宮田1972:213)。 2 回目の来日となったセルギーに寄せるニコライの期待によるものか、北海道における 宣教は主にセルギーが担った。セルギーが訪問した地域には、ロシア正教の教会が建てら れていない地域もあったが、そのような地域にあっても信徒宅を訪問し、信仰が守られて (図3)北海道・東北のロシア正教会位置図(日本正教会ホームページをもとに作成) 斜里 斜里 中標津 中標津 釧路 釧路 小樽 小樽 札幌 札幌 苫小牧 苫小牧 北斗 北斗 大館 大館 盛岡 盛岡 遠野 遠野山田山田 白河 白河 大船渡 大船渡 ・一関・一関市市萩荘萩荘 ・・一関市厩町一関市厩町 ・・一関市大東町大原一関市大東町大原 ・・一関市大東町曽慶一関市大東町曽慶 ・・一関市大東町日形一関市大東町日形 気仙沼 気仙沼 奥州 奥州 一関 一関 栗原 栗原 加美町 加美町 石巻石巻 涌谷涌谷登米登米 東松島 東松島 仙台 仙台 函館 函館 ・栗原 ・栗原市市高清水高清水 ・・栗原栗原市若柳市若柳
いるかを確認した。当時、正教会内では、このような教区の巡回は例年の行事で、その際 にはほとんどの場合、ニコライが先頭に立って信者の家を一軒一軒訪問した(宮田 1972: 213)。 ニコライの宣教方法から見て、日本人の信徒を伝教者に育て、布教を試みた点に注目す る必要があろう。ニコライとセルギーの日記をみると、ニコライの方針が結実したのか、 道内の信徒のうち、伊藤繁喜や佐羽内親子のように、信徒らが伝導主体となったり、教会 の建設に寄与したりしている。このようにニコライやセルギーの日記から、明治期の北海 道におけるロシア正教の広がりを知ることができるのである。 ニコライとセルギーが北海道を訪問した明治31年以後、明治43年(1910年)にはロシア 正教の信徒数は 3 万 1 千人に達した。このうち信徒は、北海道と東北に多く(中村2007
a
: 28-29)、日本全国にある74の日本正教会うち、30近くの教会が、北海道と東北に存在して いる(表 1 )。北海道と東北にロシア正教が根付いた点を考察するには、伊藤繁喜や佐羽内 親子のように北海道へ移住した信徒の動向も追う必要があるのである。 (表1)北海道・東北のロシア正教会一覧(日本正教会ホームページをもとに作成) 番号 教会名 会堂名 伝教年 所在地 01 函館ハリストス正教会 主の復活聖堂 (安政 5 年)北海道函館市1858年 02 上磯ハリストス正教会 主の昇天聖堂 (明治17年)北海道北斗市1884年 03 札幌ハリストス正教会 主の顕栄聖堂 (明治27年)1894年 北海道札幌市豊平区 04 小樽ハリストス正教会 主の復活聖堂 (明治20年)北海道小樽市1887年 05 苫小牧ハリストス正教会 主の降誕聖堂 (大正 7 年)北海道苫小牧市1918年 06 釧路ハリストス正教会 聖神降臨聖堂 (明治31年)北海道釧路市1898年 07 上武佐ハリストス正教会 生神女就寝聖堂 (大正 8 年)1919年 北海道標津郡中標津町 08 斜里ハリストス正教会 生神女福音聖堂 (大正 4 年)1915年 北海道斜里郡斜里町 09 仙台ハリストス正教会 生神女福音聖堂 (明治 6 年)1873年 宮城県仙台市青葉区 10 中新田ハリストス正教会 前駆授洗イオアン聖堂 (明治17年)1884年 宮城県加美郡加美町 11 石巻ハリストス正教会 聖使徒イオアン聖堂 (明治12年)1879年 宮城県石巻市千石町 12 高清水ハリストス正教会 主の顕栄聖堂 (明治 8 年)1875年 宮城県栗原市高清水 13 十文字ハリストス正教会 会堂あり (明治 6 年)1873年 宮城県栗原市若柳川北十文字宮本 明治期のロシア正教会による北海道宣教:ニコライとセルギーの日記に注目して 番号 教会名 会堂名 伝教年 所在地 14 佐沼ハリストス正教会 主の顕栄聖堂 (明治 7 年)宮城県登米市1874年 15 上下堤ハリストス正教会 生神女庇護聖堂 (明治10年)宮城県東松島市1877年 16 涌谷ハリストス正教会 聖預言者イサイヤ聖堂 (明治15年)1882年 宮城県遠田郡涌谷町 17 気仙沼ハリストス正教会 聖使徒イオアン聖堂 (明治 5 年)1872年 宮城県気仙沼市沢田 18 金成ハリストス正教会 復活会堂 (明治 8 年)1875年 宮城県気仙沼市金成上町 19 盛岡ハリストス正教会 聖十字架挙栄聖堂 (明治 6 年)岩手県盛岡市1873年 20 岩谷堂ハリストス正教会 主の降誕聖堂 岩手県奥州市 21 山田ハリストス正教会 主の復活会堂 (明治12年)1879年 岩手県下閉伊郡山田町 22 遠野正教会 アウラアム・サッラ会堂聖太祖 明治~ 岩手県遠野市 23 盛ハリストス正教会 昇天聖堂 (明治18年)1885年 岩手県大船渡市盛町 24 一関ハリストス正教会 昇天聖堂 (明治 5 年)岩手県一関市萩荘1872年 25 大原ハリストス正教会 会堂なし (明治15年)1882年 岩手県一関市大東町大原 26 奥玉ハリストス正教会 会堂なし (明治13年)1880年 岩手県一関市千厩町奥玉 27 曽慶ハリストス正教会 会堂なし (明治15年)1882年 岩手県一関市大東町曽慶 28 日形ハリストス正教会 会堂なし (明治20年)1887年 岩手県一関市大東町日形 29 北鹿ハリストス正教会 生神女福音会堂 (明治25年)秋田県大館市1892年 30 白河ハリストス正教会 生神女進堂聖堂 (明治15年)福島県白河市1882年 注 1 ニコライ(1836-1912、イワン・ドミートリエヴィチ・カサートキンИван Дмитриевич Касаткин)の日記は、中村健之介の監修によって『宣教師ニコライの全日記 全 9 巻』が 2007年に教文館から刊行された。この日記は中村氏が1979年に当時のレニングラードに あった「中央国立歴史文書館(ツギア)」(現在のロシア国立歴史文書館)で発見したもの で、後に聖書学者のロガチョフ夫妻によって判読されたものを中村氏が中心となり日本語
に訳したものである。日記の刊行によって、日本におけるキリスト教の受容と近代におけ る日本とロシアの交流を知ることができる。 2 セルギー(1867-1944、イヴァン・ニコライェヴィッチ・ストラゴロドスキーИван Николаевич Страгородский)は、明治19年(1886年)にサンクト・ペテルブルク神学アカ デミーに入学し、同23年(1890年)に修道司祭となり、アカデミーを卒業する。日本正教 宣教団への派遣を希望したセルギーは、同年 8 月に宗務院の許可を得て日本へ出発し、10 月20日に到着し、ニコライの指揮下に入った(佐藤1999: 6 - 7 )。 3 セルギーは、北海道を宣教した翌年の明治32年(1899年)にロシアに帰国した。セル ギーの北海道宣教については、“По Японии”と題してロシアで出版された。1903年 1 月27 日付でモスクワ神学大学学監・アルセニイ主教の名で公刊許可が出され、同年トロイツェ・ セールギエヴァ大修道院所属の印刷所から、ロシアにおいて公刊された。初版はモスクワ で出版され、主教関係者だけではなく日本を知る手掛かりとして広く読まれた(宮田1972: 213)。その後、ロシアで顧みられることがなかったが、ソビエト連邦崩壊後に宗教関係の 本が出版されるようになると、1998年に“Материалы по истории церкви”(教会史の資料 集)に収録された。なお邦訳には、宮田洋子訳『掌院セルギイ 北海道巡回記』(キリシタ ン文庫シリーズ 6 、キリシタン文化研究会、1972年)と佐藤靖彦訳『ロシア人宣教師の「蝦 夷旅行記」』(新読書社、1999年)がある。
4 千 島 ア イ ヌ は、 ア メ リ カ・ シ ベ リ ア の 使 徒:
Apostle of America and Siberia
(Golubchikova et. al
2005:370)と称されたインノケンティによって洗礼を受けた。天保 元年(1830年)にパラムシル島とシュムシュ島を訪問し、洗礼をあたえた(ザヨンツ2009: 34-42)。 参考文献 門脇松次郎,
楠野四男 1998「北海道におけるハリストス正教会の足跡 その概括的一断面」苫小牧正教会八十 年記念委員会『苫小牧正教会八十年の歩み』苫小牧正教会:苫小牧pp.
32-40 上武佐ハリストス正教会 1986『上武佐ハリストス正教会開教70周年史』上武佐ハリストス正教会:中標津 札幌ハリストス正教会 1987『札幌正教会百年史』札幌ハリストス正教会:札幌 ザヨンツ・マウゴジャータ宮本 明治期のロシア正教会による北海道宣教:ニコライとセルギーの日記に注目して 2009『千島アイヌの軌跡』草風館:千葉 セルギー 1999『ロシア人宣教師の「蝦夷旅行記」』(佐藤靖彦訳)読売新書:東京 セルギー 1972『掌院 セルギイ 北海道巡回記』(宮田洋子訳・解題)キリシタン文化研究会:東京 鈴江英一 2016「キリスト教の流入」北海道史研究協議会編『北海道史事典』北海道出版企画セン ター:札幌
pp.
318-319 2019『札幌キリスト教史 宣教の共なる歩み』一麦出版社:札幌 苫小牧正教会八十年記念委員会 1998『苫小牧正教会八十年の歩み』苫小牧正教会:苫小牧 中標津町 1981『中標津町史』中標津町:中標津 ニコライ・カサートキン 2007『宣教師ニコライの全日記 1 』(中村健之介訳・解説・註解)教文館:東京 根室市 1968『根室市史』上根室市:根室 根室・千島歴史人名事典編纂委員会 2002『根室・千島歴史人名事典』根室・千島歴史人名事典刊行会:根室 函館ハリストス正教会史編纂委員会 2011『函館ハリストス正教会史』函館ハリストス正教会:函館Golubchchikova V.D. & Z.I. Khvtisiashvili
(eds.
)2005 Practical Dictionary of Siberia and the North