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「生きもの循環論」からみる飯沼農法論の再検討

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(1)大阪経大論集・第72巻第1号・2021年5月. 127. 「生きもの循環論」からみる飯沼農法論の再検討. 德 序章. 永. 光. 俊. 私の飯沼農法論との出会い. 前稿(『大阪経大論集』第七一巻六号)では,加用信文の農法論について再検討した。 本稿では,飯沼二郎先生の農法論に関して再検討する。私はこれまで一度飯沼農法論を検 討したが(德永『日本農法の天道』二〇〇〇. 農文協,初出は『経済史研究』第一号. 一. 九九七) ,浅薄な評論で不十分であり,今回二〇年ぶりに全著作と論文を読みなおした。 はじめに誰も知らない飯沼先生の小さな秘密を暴露する。飯沼先生の最初の著書は,ご 本人自身の紹介( 「飯沼二郎教授. 略歴・著作目録」 『人文学報』第五一号. 「飯沼二郎著作目録」 『農業革命の研究』一九八五 第五巻. 一九九四. 一九八二,. 農文協,「著作目録」 『飯沼二郎著作集』. 未来社)も,他の紹介でも一九五六年の『農業革命論』(創元社)と. なっている。しかし,その前に一冊刊行されているのである。『世界農民史物語』 (一九四 七. 生活社)。飯沼先生の「辞書」からは抹殺されている。別に「大」秘密の本,稀覯書. でもなく,全国の図書館に所蔵されているし,古書店からも購入できる。 私は一九八三年にぶらぶら古本屋さん巡りをしていて,偶然,丸太町の古本屋さんで 隅っこに平積みされているのを「発見」して即購入した(一九八三年一〇月二三日/一四 〇〇円/不識洞,当時は奥付の隅に購入日/値段/店名を書いていた) 。そして関西農業史 研究会の懇親会で,飯沼先生にこんな本を見つけましたよと報告した。すると先生は「よ く見つけたね,若気の至りだったな」と苦笑いされて,少しだけ事情をお話しいただいた。 「農村のことをよく知らないので,京都府の南部の農村に住みこんだんだ。そこでこのよ うなものを書いたんだよ」。(以下では一部を除き,敬称を略する。) その書の序には,「若い農村の青年諸君の会合が機縁になって,わたくしはこの物語を 書くことになった。書いてゐるあひだ,わたくしの目の前には,いつも朝夕,顔を合はす 村の人たち,殊に若い諸君の顔があつた。……諸外国の農村の生ひ立ちを書きつづつた此 の拙ない書物が,今日この変革期における我が国の農村の現状と,その行くべき方向とを 考へる上にとつて,村の人びと,殊に若い諸君の何らかのお役に立つことが出来るならば と,わたくしは心から祈るのである。. 昭和二一年四月三日. 著者識」とある。そして,. 「数ケ月,関西の村に暮して」(同書二頁), 「この本を書いてゐるあひだ,私は朝から夕方 まで農業会につとめてゐた」(同書二七三頁)とあるので,当時の状況がある程度推察で きる。一九四五年六月から京都帝国大学農学部副手で,自由に動き回れる気楽な状況で あったのだろう(前掲『人文学報』第五一号)。最後は次の言葉で結ばれている。 「力の弱.

(2) 128. 大阪経大論集. 第72巻第1号. い多数の人びとの幸福になり,力の強い少数の人びとの不利益になるやうな改革は,弛ま ざる長いあひだの努力の末に,はじめて獲られるものである」(同書三一四頁) 。 二八歳で書かれたこの書や当時の状況について,飯沼はその後一切書いていない(たと えば「研究生活の思い出―大学を去るにあたって―」『農業と経済』第四七巻六号. 一九. 八一)。まさに「若気の至り」だったと思われていたのであろう。しかし,私はこの書に, その後の飯沼の研究や生き方の原点を見る思いがする。さらに飯沼は言われた。敗戦後の 混乱した当時はいろいろ悩んでいて,キリスト教に接したのもその頃だったとのこと。一 九四六年秋から下宿近くの洛西教会へ通い出し,翌年のイースターに受洗した。そして東 京の国会図書館,農林省農業技術研究所から京大人文研に転任された一九五四年には,自 宅近くの北白川教会で内村鑑三の薫陶を受けた奥田成孝師に出会われた(飯沼『わたしの 歩んだ現代』所収の島崎光正「飯沼二郎氏の市民運動」を参考にした。 基督教団出版局,および前掲『飯沼二郎著作集』第五巻. 一九八三. 日本. 一四~一五頁) 。. 飯沼は,一九四六年一〇月から大学院特別研究生となり,大槻正男教授のご自宅を一九 四六年一二月に訪ねられた。「何を研究しているか」の質問に, 「イギリス農業革命」と答 えられた。続いて「イギリスでは二毛作ができるかね」の質問に窮していると,「二毛作 ができるかどうかも分からなくて,農業革命が分かるかね」とダメ押しされた。当時のイ ギリス農業革命の研究は社会経済的な側面のみであり,農業技術的な面は全くされていな かった。この大槻の言葉により,イギリスなど西洋農業の技術史的研究を一九四六年一二 月から始めることになったのである。そして以後一貫して農業を社会経済的な面と技術史 的な面との両面から捉えようとすることになったと,一九八一年に回顧している(「大槻 農業経営学の根底に在るもの」『大槻正男―学と人―』大槻正男著作集別巻 楽游書房,前掲『飯沼二郎著作集』第五巻に所収 研究』二八九頁. 一九六三. 御茶の水書房. 一九八一. なお,『ドイツにおける農学成立史の. に大槻を訪問した件が書かれているが,一九. !. 四七年一二月となっている)。 迷える仔羊であった飯沼青年は,信仰を共にする大槻正男教授に出会い,生涯の恩師と 敬慕することになった。そして農法研究の道を歩き始めたのである。飯沼農法論の根底に は,大槻風土論と大槻農業経営学がある。. 第一章 第一節. 飯沼農法論の形成と展開. 飯沼農法論の出発(一九四六~). 飯沼農法論の大きな柱は,風土の違いによる四つの地域類型論と日本の農業革命論の二 つである。本稿では,そのうちの地域類型論についてのみ検討する。 飯沼は,一九四九年にドイツのテーヤの輪作論を「日本型輪作」の問題意識で研究し ( 『農業経済研究』第二一巻三号),次いで一九五〇年にリービッヒの輪作経営論を研究し ている(同第二二巻一号)。また「農村における社会と個人」でジャワ農村を紹介したり (『農業と経済』一九五一年六月号,一九五二年一月号), 「農村家政学の構想―走り書的覚 え書」 (『農業と経済』一九五二年一〇月号)を書いたりと,何かしらまだ迷走している。.

(3) 「生きもの循環論」からみる飯沼農法論の再検討. 129. 飯沼の農書研究の始まりは先ほど書いたように一九四六年一二月の大槻訪問からである が,最初に発表されたのは一九五一年のアーサー・ヤングの書誌学的研究である(『農業 経済研究』第二三巻三号)。一九四八年からの国立国会図書館の仕事を経て,一九五一年 二月に農業技術研究所に移り,アーサー・ヤング研究が本格化する。『農業技術研究所報 告』H:経営利用で一九五二年から五四年にかけて,次々と研究を発表している。一九五 四年二月に京大人文研に転任している。 一九五五年の「西欧農法の近代的転換」(H 一六号)は,飯沼農法論にとって最初の 大きな転機となった論文であった。この論文において初めて,穀物段階(穀類)→牧草段 階(穀類+牧草類)→根菜段階(穀類+牧草類+根菜類)のシェーマが示されたのである。 そしてもう一つ,「耨耕的風土」・「非耨耕的風土」の概念を導入したことである。これは 大槻正男『第二日本農業の進路』(一九五四. 養賢堂)に示唆を受けたと明記している. (同論文六〇頁)。なお,飯沼はこの大槻の著作の校正を行っている(大槻著三頁)。そして, 穀草式から輪栽式への転換のシステムを,非耨耕的風土であるヨーロッパの耕地における 根菜類の導入による耨耕作業の創造こそが,「農業革命」であると定式化したのである。 さらにもう一つ,気候学の知見を新たに取り入れていることである。ドイツの世界的な 気候学者であるケッペンの気候分類を参考にして,日本,イギリス,ベルギー,フランス, ドイツ各国の幾つかの都市の毎月の気温と降水量を記し,同一の「温暖湿潤気候」に所属 していることを示す。そして,次の三つの地帯に区分している(同論文八九頁) 。 日本:冬季温暖・夏季酷暑・最雨季節夏季 イギリス,ベルギー,フランスとドイツの一部:冬季温暖・夏季冷涼・最雨季節秋季 フランスとドイツの一部:冬季寒冷・夏季冷涼・最雨季節夏季 さらには,W. G. Kendrew の研究に拠り(“The Climates of the Continents” Second ed. 1927, OXFORD 京大農学部所蔵本),一,四,七,一〇月の地域別雨量にもとづき,イギ リスやフランス西部,ネーデルランドなどの北部ヨーロッパは,冬季極めて温暖,夏季冷 涼,最雨は秋季,フランスの大部分とドイツなどの中央ヨーロッパは,冬季寒冷,夏季温 暖,最雨は夏季,東ヨーロッパは冬季極めて寒冷,そして地中海沿岸の四地域に分けて, ケッペンとの比較をする。ケンドリューの同書はヨーロッパだけでなく,世界の農業気候 について論じている。飯沼はベルギーのフランドル・ブラバン地方はまさに耨耕的風土で の「園芸的農業」で,先進的でありかつ限界も有していたと述べている。この点は,「園 芸的」な耨耕的風土での日本農法との比較において重要な点であった。なお,気候学に関 しては,本岡武京大農学部助教授の助言を受けたと記している(同論文八八頁) 。 そしていよいよ一九五六年に『農業革命論』(創元社)が刊行された。これは以上の研 究をわかりやすく取りまとめたものである。「農業革命」と銘打った論文,著作は初めて のことであった。ここで二つ注目しておく。一つは,「農業生産の最も基礎的な契機は, 主体的な人間と,客体的な自然である。自然はそれが自然であるかぎり,人間によって克 服されえない。農業生産における人間の営みは,つねに自然という枠のなかでおこなわれ.

(4) 130. 大阪経大論集. 第72巻第1号. る。で,われわれは,いままで,主として自然という枠について見てきたのであるが,し かし,それは,もちろん相対的なものにすぎず,人間の能力(労働と資本,即ち生産関係) に応じて異なるのである」(同書一五頁)と,注記している。もう一つは,次の四類型論 が提案される(同書一六~一七頁)。これは後の四類型論の原型と言ってもよかろう。 ①耨耕的風土(労力化の方向)で旧開地(労力化の方向),典型は日本 ②非耨耕的風土(機械化の方向)で新開地(機械化の方向),典型はアメリカ ③耨耕的風土(労力化の方向)で新開地(機械化の方向) ,典型はプランテーション ④非耨耕的風土(機械化の方向)で旧開地(労力化の方向) ,典型はヨーロッパ ただし農業革命により耨耕的作物(労力化)の導入による機械化 参考書として,大槻正男の『第二日本農業の進路』をあげ,「日本農業と西洋農業の自 然的,歴史的環境の差異から,具体的な農業技術の差違にいたるまで,きわめて明快に論 破された独自な研究である」(同書一五〇頁)と,紹介している。そしてあとがきにおい て,「わたしは,西洋農業技術史の研究をはじめるにあたって,たよりうる一人の著者も, 西洋において,みいだすことができなかった。かえって,日本のすぐれた農学者,大槻正 男先生の独創的な研究に,自己の出発点をみいだしたのであった。わたしの仕事は,ただ, 先生からあたえられた鍵をもって,西洋の諸著書に記されたデータを,分類し整理してみ たにすぎないのである。読者諸君に,本書の源泉まで遡って,その泉をくまれることを切 望している」 (同書一六一~二頁)と,結んでいる。 次いでそれまでのアーサー・ヤング研究をまとめて,一九五七年に『農学成立史の研究』 (御茶の水書房)を刊行する。ここでは,とくに序説において,寒冷―高温,乾燥―多湿 により,農業空間の自然的限界と発展方向をまとめた。ただし,「農業空間の『量的』お よび『質的』な自然限界なる概念は,もちろん,あくまで相対的な概念である。それは以 上のような種々の自然的障害を克服するに要する人間の能力(労働および資本の大きさ― 即ち生産力とその生産関係)に応じてことなる」(同書三頁)と,注記する。そして,農 業空間の発展方向を次のような図式にまとめている(同書三頁)。 寒冷 新開地. 高温. 旧開地. 新開地. 極地 乾燥. 極地 非耨耕的風土. 耨耕的風土. 多湿. そして大槻正男の「農業における労働生産性と雇傭の問題」( 『第二日本農業の進路』所 収)を紹介して,耨耕的風土においては労力化の幅(集約度限界)は広いが,機械化の幅 は狭く,逆に非耨耕的風土においては機械化の幅は広いが,労力化の幅は狭い。したがっ て,人間能力の増大につれて,農業空間の自然的限界は,漸次,耨耕的風土においては労 力化の方向へ,非耨耕的風土において機械化の方向へ拡大されていく。ただし,農業技術.

(5) 「生きもの循環論」からみる飯沼農法論の再検討. 131. や社会体制に,もしも革命的な変化が惹起されるならば,この関係はまったく逆になるか もしれない。この関係もまた相対的な概念である,と注記する。つまり,飯沼の風土論・ 農業革命論の根底には,最初から大槻風土論・農業経営学があったのである。 第二節. 飯沼農法論の飛躍(一九六一~). ゲルデス『ドイツ農民小史』(一九五七 史の基本性格』(共訳. 一九五九. 未来社)とマルク・ブロック『フランス農村. 創文社)の翻訳をしてから,次の転機となる論文一九. 六一年「農業技術論序説―農業技術における自然と社会―」(『人文学報』第一四号)を書 く。先に紹介した『農学成立史の研究』の「序説」をさらに展開したものである。この論 文において初めて,世界の気候区分と植生について論じ,マルトンヌの紹介もある。この 論文では現在一番よく知られているケッペンの分類により,世界の一一の気候帯を世界の 分布地図とともに紹介している。そしてステップ気候,温暖寡雨気候(夏雨と冬雨の区別 あり),温暖湿潤気候における農業と社会について論じている。そして,一九二九年の日 本の中央気象台編『外国気候表』より,世界の北半球二四八地点に関し,六~九月の平均 気温(T)と積算降水量(N),雨量因子(N/T)を計算して,表にまとめている。日本に 関しては,アメリカの資料の一九四一~五〇年の記録より四地点に関して,同様の数値を 紹介している。後のマルトンヌの乾燥指数を表す年指数と夏指数の原型が,ここで計算さ れている。飯沼の結論を私なりにまとめると,次のようになろう(同論文八〇頁) 。 遊牧業. 農業・地中海沿岸. 農業・西欧. 林業・北欧ロシア. ステップ気候(夏季寡雨)→温暖夏季寡雨気候→温暖湿潤気候→寒冷気候. 非耨耕地帯. ステップ気候 (冬季寡雨)→温暖冬季寡雨気候→より温暖湿潤気候→熱帯多雨気候耨耕地帯 遊牧業. 農業・華北パンジャブ. 農業・日本. 林業・東南アジア. このように見てくると,一九五五年→一九五六年→一九五七年→一九六一年と,飯沼の 「世界全体」を対象とした類型論が少しずつ形づくられていくのがわかるであろう。飯沼 は京大人文研の村落共同体研究会,人類生態学研究会の共同研究に参加し,計算に関して は後輩の川島東洋一夫妻の援助を受けたと,謝辞を述べている(同論文八二頁) 。 一九六三年の『ドイツにおける農学成立史の研究』(御茶の水書房)の「あとがき」に おいて,それまでの「耨耕」から「中耕」へと概念を変え,世界農業を「非中耕地帯」と 「中耕地帯」の二類型に変更した。それは旱地農業における「表土攪拌」による保水機能 に注目したからである。「中耕」という農作業の中に,旱地農業での保水を主目的とする もの,湿潤農業において除草を主目的とするもの,ともに含めて考えなければならないか らであるとする。この点を実証的に明らかにしたのが,「世界農業史上における古代パン ジャーブ旱地農業の位置について」( 『人文学報』第二〇号. 一九六四)である。. そして,一九六六年に論文「日本の農業革命」(『農業と経済』第三二巻六号)を発表し た。非中耕地帯では,中近東の乾燥灌漑農業から,地中海沿岸地方の二圃式による乾燥天 水農業である旱地農法へと伝播し,休閑地の犁耕が保水の目的で行われる。さらに北西.

(6) 132. 大阪経大論集. 第72巻第1号. ヨーロッパに伝わると三圃式の湿潤天水農業となり,休閑地の犁耕は除草目的となる。そ して,三圃式(穀物段階)は以前の『農業革命論』で論じたように,改良穀草式(牧草段 階)から輪栽式(根菜段階)へと農業革命が進む。 一方,中耕地帯では,北西インドおよび華北で成立した乾燥天水農業(旱地農法=中干 法)がアジア地域に伝播するに従い,湿潤天水農業(湿潤灌漑農業を含む)へと移行して いった。日本での農業革命の可能性を論じたこの論文は,大きな反響を呼んだ。加用信文 は,「風土決定論」として,即座に否定した(『農業と経済』第三二巻七号. 一九六六) 。. この論文は,一九六七年の『農業革命論』(未来社)の第二部「日本の農業革命」とし てそのまま収載された。そして,論文執筆後の一九六六年の四月から五月にかけて,南ア ジア,東南アジアの農村を四〇日間歩いた。 「私は人文研で,今西錦司先生の研究会に参加していた。この研究会のメンバーには中 尾佐助,梅棹忠夫,川喜田二郎氏など,豊富な海外調査の体験の持ち主が多く,書物によ る知識は軽蔑され,実際の見聞が尊重された。そこで,それまで一度も海外調査をしたこ とのない私まで,ついに重い腰を上げて,南アジアの農業調査に出かけることになった」 (前掲「研究生活の思い出」)とある。 これにより,雨水の乏しい乾燥地の天水農業と灌漑農業の実態,雨水が多すぎる湿潤地 の農業をつぶさに見ることとなった。そして農業の進歩を収量の増大だけで測るのではな く,それ以上に自然に対する統制の増大で測る必要がある。さらに水を確保するための灌 漑による自然の統制より,多すぎる水をいかに排水するかの方がはるかに難しいというこ とを痛感したという。この点は,きわめて重要な気付きであった(「<現地通信>南アジ アにおける乾燥農業と湿潤農業」 『東南アジア研究』第四巻三号, 「南アジア農業調査旅行」 『農林業問題研究』第八号. いずれも一九六六)。. そして,調査によりそれまでの研究は大きく変わることとなった。西南アジアのような 極端な乾燥地帯があり,保水のための中耕が行われているのを見た。それから,次に紹介 する飯沼独自の四地域類型論へと発展する。「この考え方を今西先生の研究会で発表した が,メンバーの多くが納得してくれたことで自信をえ」(前掲「研究生活の思い出」) ,一 九六八年論文, 『風土と歴史』(一九七〇 第三節. 岩波新書)へと結実していくのである。. 飯沼農法論の完成(一九六八~). 一九六八年のヴェルト『農業文化の起源』(共訳. 岩波書店)の翻訳を経て,最大の転. 機となる論文を一九六八年に「乾燥地農業と湿潤地農業」( 『人文学報』第二七号)として 発表した。これにより,飯沼の地域類型論は完成する。初めてマルトンヌによる年乾燥指 数と夏乾燥指数が利用されることとなった。とくに六~九月の夏乾燥指数を取り入れ,五 以上の夏作限界線を境として,夏雨地帯と冬雨地帯とに分けたところが飯沼の工夫である。 ヨーロッパについては一九六一年の論文でも使った中央気象台編『外国気候表』(一九二 九) ,アジアについては畠山久尚編『アジアの気候』(一九六〇)により,世界の四六八地 点の両指数を計算して,Ⅰ:年指数二〇以下・夏指数五以下. うち年指数〇~一〇が七一,.

(7) 「生きもの循環論」からみる飯沼農法論の再検討. 133. 一〇~二〇が二八地点,Ⅱ:年指数二〇以上・夏指数五以下が四四地点,Ⅲ:年指数二〇 以下・夏指数五以上が一〇地点,Ⅳ:年指数二〇以上・夏指数五以上が三一五地点に分け, 地図(同論文折り込みの第1図,『風土と歴史』四二~四三頁)に落としていった。ただ し注意すべきは,ユーラシア大陸のみであり,アメリカ大陸や南半球は入っていない。 Ⅰ地域は西南アジアなどで,乾燥した砂漠で乾燥地天水農業である。Ⅱ地域は湿潤冬雨 地帯で,ヨーロッパの地中海沿岸地域である。Ⅲ地域は乾燥夏雨地帯で,中国・華北とイ ンド・パンジャブである。Ⅳ地域は湿潤夏雨地帯で,広範である。夏指数がほぼ五~一〇 の北ヨーロッパ,ほぼ九~三〇の東アジアを取り上げる。三〇~一〇〇の東南アジアは検 討外としている。そして,「世界における農業技術体系の区分」として,次のようにまと めている 乾燥地帯 ↓ 保水農業. 湿潤地帯 ↓ 除草農業. より乾燥的. 休閑保水農業. 休閑除草農業. (休閑農業). より湿潤的. 中耕保水農業. 中耕除草農業. (中耕農業). 飯沼のその後の著作では,必ず出てくる図である。これまでの何度かの検討を経て,た どり着いたものである。この図で二つ指摘しておく。一つは,「非中耕」が「休閑」に変 わったことである。休閑地に対する犁耕による保水または除草が行われるからである。つ まり休閑することが指標ではなく,「休閑耕」なのである。大変重要な点であり間違って はいけない。 もう一つは,飯沼農法論にとって問題点となるのだが,「もちろん,第二表は天水農業 のみに限定される。なぜなら,灌漑はかならず何らかの変化をもたらすからである。すな わち,乾燥地農業を湿潤地農業化し,また湿潤地農業における中耕除草を不要ならしめる ことがある」と,注記していることである。この点も次章で検討する。 一九六九年の『明治前期の農業教育』(京大人文研)で福岡県農学校の教育内容を翻刻 した後,一九七〇年『風土と歴史』を出版し,飯沼農法論は広く世間に知られるようにな る。 「動態的風土論」(同書一頁),和辻哲郎らの「従来の静態論的な風土論にたいして, いわば動態論的な風土論」(同書六頁)であると主張した。内容は,それまで述べてきた ことと同内容である。「風土というものは,人間の力ではほとんど変えることのできない 自然のワクではあるが,しかし,それをどう利用するかは,人間の側の主体的な条件(端 的にいうならば,資本と労働の在り方)のちがいによって変わってくる」 (同書六頁) , 「風土には貴賤はない。あるのは,ただ,それにかかわりをもつ人間の在り方のちがいの みである。それは,具体的には,資本と労働の在り方ということになろうが,さらに根本 において,それを規定しているものは,個人の人格であろう」 (同書二一〇頁) 。ただし, 「動態的風土論」という表現は,その後の著作では見られない。 論文「乾燥地農業と湿潤地農業」はそのまま『日本農業技術論』 (一九七一 未来社)に 収載され,以後の著作や論文でこの枠組みは,一切変わらなかった。一九七七年に D. グ.

(8) 134. 大阪経大論集. 第72巻第1号. リッグの『世界農業の形成過程』を翻訳し(共訳 農書全集』第Ⅰ期全三五巻(守田志郎らと共編. 大明堂),一九七七~八三年に『日本. 農文協)を編集した。そして一般向けの. 飯沼農法論の著作を次々と出していく。「伝統にもとづく近代化」を唱え,小規模な複合 経営・家族経営・有機農業によって日本『農業は再建できる』(一九九〇. ダイヤモンド. 社)と,くり返し主張した。 149頁の第一図と第一表は,飯沼農法論の集大成と言える『農業革命の研究』 (一九八五 農文協)のものである。第一表の左横に新たに「夏に」と付け加えている。「休閑農業と 中耕農業における労働生産性」のグラフを新しく示し(149頁の第二図),休閑農業の労働 粗放化(機械化)と中耕農業の労働集約化(道具化)の方向を説明している(同書一八~ 二〇頁) 。これは149頁の第三図からわかるように,大槻の農業経営学の考え方を踏襲して いる。『増補農業革命論』(一九八七. 未来社)も全く同様である。. 飯沼はその後も倦むことなく農法研究を続け,一九八九年に李春寧『李朝農業技術史』 (未来社)を翻訳し,一九九四年に『飯沼二郎著作集』全五巻(未来社)を出版した。こ の著作集と『増補農業革命論』は,私が校正のお手伝いをした。一九九五年に“Japanese Farming : Past and Present”農文協)を出版し,一九九八年に一三〇〇頁にもわたる大部 の高橋昇の調査記録『朝鮮半島の農法と農民』(共編. 未来社)を翻刻した。. 飯沼の半世紀にわたる農法論研究に対し,心から敬意を表する。 第四節. 飯沼農法論の問題点. 以下では,飯沼の全著作・論文の再検討により,現在からみた飯沼農法論の問題点を率 直に指摘する。飯沼が尊敬していた恩師や先輩であった加用農法論や大塚史学,東畑精一 の「単なる業主論」を批判したように。以上のように書誌学的に見てくると,飯沼農法論 の地域類型論は当初から随分と変わってきたことがわかるだろう。『風土と歴史』や『農 業革命の研究』からだけの恣意的な引用ではわからない。旧開,新開が消えていく。極地 の遊牧と林業が消えていく。何よりも牧畜が消えていく。つまり,飯沼農法論はユーラシ ア大陸の旧開地の耕種農業に限定されているのである。一九六八年以降の飯沼の四類型論 は,世界農業全体の地域類型とはなっていないのである。この点を誤解して,これまで飯 沼農法論で世界全体の農業が論じられると思ってきたのである。 現在,世界農業の地域区分として一番通用しているのは,一九三六年に発表されたホ イットルセーのものであろう(水野一晴『人間の営みがわかる地理学入門』二〇一六 レ出版,福井英一郎ほか編『日本・世界の気候図』一九八五. 東京堂出版. ベ. などを参考に. した)。生産目的(自給的か商業的か),生産性(粗放的か集約的か),家畜と作物の組み 合わせなどに着目し,世界の農業地域を一三に区分した。飯沼が扱っているのは,北西 ヨーロッパの混合農業,その後,商業的混合農業,特殊園芸農業,酪農に分化専門化=休 閑除草農業,地中海式農業=休閑保水農業,集約的自給的なアジア式稲作農業=中耕除草 農業,アジア式畑作農業(集約的自給的畑作農業)=中耕保水農業だけである。 中央アジア・北アフリカ・北極圏などの遊牧,新大陸のステップ気候地帯の企業的放牧.

(9) 「生きもの循環論」からみる飯沼農法論の再検討. 135. (牧畜) ,自給的農業の焼畑農業(移動耕作),粗放的定住農業,新大陸・熱帯の企業的農 業である企業的牧畜,企業的穀物農業,熱帯の商業的プランテーションなどは,脱落して しまったのである。 なぜそのようになっていったのか。それは休閑除草地域の北西ヨーロッパの農業革命と 対比的に,中耕除草地域の日本の農業革命論を主張するために,単純化していったのであ る。農業革命研究上の戦略的なモデルであったのである。ヨーロッパの近代化を基準とし て,日本を比較していくという,一九五〇年代当時の西欧中心史観であったと,現在から は批判できよう。そのために南半球はもちろん,とくに一九七〇年代から地域研究が進ん でいった東南アジアや西南アジアは視野から落ちていったのである。 飯沼は人文地理学会の一九八〇年度大会特別研究発表で,「農学と地理学のあいだ」と 題して講演した。座長の上野福男は以下の所見を述べている。第一に単純化に徹した農法 の理論だとし,これ以上単純化しえない極限にまで純化した農法の理論を確立し,これに 基づいて世界の農業を類型化した。第二に適用範囲の問題に関し,熱帯農業を考えてもこ の理論で世界の農業に拡大適用することには説明の困難さと納得力の減少となる。第三に 農業的風土の特質と技術革新について,近代化と技術革新により日本と西欧,中耕農業と 休閑農業の差異は縮小し,新しい類型の農業が生まれる可能性もあるのではないか。第四 に農業は耕種農業に限定されているとして,温帯穀作農業の行われる地域における多様な 農業を,その間の農業特徴を純化した東西農法の比較という点で一貫している(『人文地 理』第三三巻二号. 一九八一)。この四点の指摘に,私なりの飯沼農法論の批判的検討か. らしても全く同意する。世界農業の歴史的現実を知っていれば,当たり前のことである。 しかし,飯沼が「世界農業の地域類型」として提示することで,いつの間にかこの四類 型が世界農業のすべてであるかのように独り歩きしてしまったのである。ちょうど和辻哲 郎がモンスーン型―インド中国も含めた東アジア,沙漠型―アラビア半島,牧場型―ヨー ロッパとしたように。歴史的現実と違っていても,「言説」として流布していく。加用信 文は,和辻が「ヨーロッパにおいては,ちょうどこの雑草との戦いが不必要なのである」 (『風土』岩波文庫版八七頁)と言うのに対し,「これは感覚的着想以外の何物でもない。 和辻風土論は,この着想に何らの検証も加えないまま,さらに主観的に紡ぎあげた砂上楼 閣的な虚構にすぎない。その虚構は,ちょっと農業生産の実態に当たれば,容易に崩れ去 るものである」 (『増訂版イギリス古農書考』三八二頁. 一九八九. 御茶の水書房)と,手. 厳しく批判している。和辻風土論を論じている論文や著作において,加用の研究を引用し ているのはほとんどないのではなかろうか。それは歴史的現実と違っていても, 「言説」だ から許されるのであろう。 飯沼農法論の地域類型論も,世界農業を語る「言説」として流布してしまった。宮下直・ 西廣淳『人と生態系のダイナミクス. 一.農地・草地の歴史と未来』(二〇一九. 朝倉書. 店)では,和辻の『風土』を紹介して,日本の自然と社会の特徴を「温帯モンスーンアジ ア」とし, 『風土と歴史』の飯沼は日本農業を「中耕除草農業」と名付けたとする(同書.

(10) 136. 大阪経大論集. 第72巻第1号. 五頁)。寺西俊一ほか編『農家が消える―自然資源経済論からの提言―』 (二〇一八. みす. ず書房)では,農業と気象・風土の関係について,飯沼の『増補農業革命論』より「世界 における農法の区分」の図を掲載して,近代以前の伝統的な世界農業を論じている(同書 六一~六五頁)。 中村哲『東アジア資本主義形成史論』(二〇一九. 汲古書院)では,農業における自然. 環境の決定的重要性から世界農業の基本的タイプを規定した飯沼二郎氏の農法論の貢献は 大きいとして,『農業革命の研究』と『増補農業革命論』をあげて,詳しく紹介している (同書一六~一七,三七~三八頁)。野田公夫は『日本農業の発展論理』(二〇一二. 農文. 協)で,飯沼の農法視点からの世界の農業類型は依然として有効であり,『農業革命の研 究』により飯沼の四類型論を詳しく紹介している(同書八〇~九一頁)。さらに野田の 『未来を語る日本農業史』(二〇二〇. 昭和堂)では,最初の第一章「日本農業の個性を知. る―飯沼二郎・世界農業類型論に学ぶ―」で,日本農業=中耕除草農業=環境形成型であ ると紹介している。 盛田清秀は「日本農業の構造変革と世界農業類型論」( 『土地と農業』第四四号 四. 二〇一. 全国農地保有合理化協会)を考えていくうえでは,「少なくとも農業構造問題への接. 近に向けて世界農業を類型化するうえでは飯沼二郎氏の整理に立脚することが有効であ る」 (同論文一〇頁)とし,野田の構造政策による四つの世界農業類型論を評価しつつ, 経営規模格差により世界農業の主要三類型として,日本を典型とする東アジア型と EU 二 五か国のヨーロッパ型の旧大陸型農業,アメリカを典型とする新大陸型農業を設定する。 梶井功は(『 「農」を論ず』二〇一一. 農林統計協会),飯沼の一九七三年の作物学会の. シンポジウムの資料(『日本作物学会シンポジウム紀事』第六集)から飯沼の図などを載 せている。飯沼は図のタイトルを示さず,「世界の農業地帯,特にここではユーラシア大 陸の農業地帯に限定している」(前掲資料一六頁)を受けて,梶井は「ユーラシア大陸の 農業地帯区分」と「正しい」タイトルをつけている(同書四五頁) 。 飯沼農法論がヨーロッパ農業の歴史的現実に合わないと,実証的に批判しているのは藤 田幸一郎である( 『ヨーロッパ農村景観論』二〇一四. 日本経済評論社) 。和辻哲郎『風土』 ,. 大塚久雄『共同体の基礎理論』に続いて,飯沼の『風土と歴史』を批判的に検討している。 藤田は,北ヨーロッパ農業を除草を目的とする「休閑除草農業」と見る点では,飯沼と加 用信文は完全に共通の立場に立っている。しかし両者とも三圃式農法の前に支配的であっ た畜産と結びついた粗放な穀草式農法を見逃しており,三圃式においても畜産との結合を 忘れてはならない。飯沼の休閑除草農業論は,畜産との結合を忘れた穀作重視の見方であ ると批判している(同書一五~一九頁)。 実際にアジア地域をフィールドワークした研究,たとえば京大東南アジア研究センター の渡部忠世監修による『稲のアジア史』全三巻(一九八七 『ユーラシア農耕史』全五巻(二〇〇八~一〇 ア環境史』全四巻(二〇一二. 小学館),佐藤洋一郎監修. 臨川書店),窪田順平監修『中央ユーラシ. 臨川書店)などでも,飯沼風土論は全く引用,活用されて. いないのである。ユーラシアの生態史として,砂漠と草原の世界,森の世界,海の世界,.

(11) 「生きもの循環論」からみる飯沼農法論の再検討. 137. 野の世界を論じた高谷好一もまた,飯沼農法論を引用しない(『新編「世界単位」から世 界を見る』二〇〇一. 京大学術出版会)。. 飯沼農法論は,繰り返すが世界農業を論じていないのである。飯沼農法論の農学史的意 義と限界を正確に厳密に論じるのは,後進である私たちの学問的責任ではなかろうか。. 第二章 第一節. 飯沼農法論の批判的検討. 戦後の農法論研究をめぐって. 最初に確認しておきたいのは,飯沼農法論は,大槻正男の風土論と農業経営学の延長で あるという点である。飯沼の全く独創ではないのである。飯沼はその点をはっきり述べて いるが,その後の研究者は,ここを見逃している。 大槻自身, 「私はわが国の農業や一般文化現象を,それらの基底をなして動かざるもの としてのわが国の風土との関係において理解しようとした……不勉強にして,私はこの方 向の科学的研究に立ち入ることを怠ったが,飯沼二郎君のような有為の士が出て,深い研 究に専心していてくれることを,私はこよなくうれしく思うのである」 ( 『稲と杉の国』三 頁. 一九六七. 富民協会)と,述べている。. 一方飯沼は,『大槻正男著作集』第六巻「風土論」(一九七八. 楽游書房)を編集し,解. 説において「先生の風土論の根底にはつねに弱き者,小さき者の人権を守っていこうとす る人権思想がある」(同書四一八頁)と述べ,飯沼が再三再四引用する大槻六六歳(一九 六一)の晩年の論文「農業における労働生産性と雇傭の問題」に関し,「このきわめて独 創的な論文において,私は先生の理論的到達点をみるおもいがする。西洋の理論の直輸入 をもって足れりとする日本の学界にあって,私たち,先生の『弟子』たるものは,いよい よ先生の切り開かれた道を,おしすすんでいかなければならない。先生にお出会いして, 直接ご指導を与えられたことは,私の生涯の最大の幸福であった」(前掲『大槻正男―学 と人―』一六一頁)と,述べているのである。それでは,大槻は何ゆえに風土論に興味関 心を持ったのかは重要な問題であるが,本稿では割愛する。 戦後の代表的な農法論研究をまとめたものが150頁の第二表である。とくに強調したい のは,加用農法論と飯沼農法論の理論的構造は大きく違わないということである。加用農 法論の段階論と飯沼農法論の類型論は,これまで対比的に捉えられるのが常であったが, 第二表をみれば驚くほど基本的な枠組みは似ているのである。問題意識は,遅れた日本農 業をいかに近代化していくかである。ヨーロッパ農業の歴史的展開,農業革命の捉え方は 全く一緒と言ってよい。労働手段を重視して,労働対象への関心が薄いのも同じである。 そしてどちらも農民がいない。 飯沼は「休閑」を言うが,問題は「休閑耕」による除草・保水機能なのである。休閑に 対しては「連作」が問題となるのであり,「中耕」ではない。 「休閑耕」と「中耕」が対概 念であり, 「農業革命」ではどちらも労働手段が問題となったのである。飯沼と加用との 違いは,自然・乾湿を入れたこと,日本で農業革命があるといった,この二点である。 二人の農法論の問題点を指摘したのが,磯辺俊彦である。西欧近代を基準とするマクロ.

(12) 138. 大阪経大論集. 第72巻第1号. 的農法論であり,各段階が内包する歴史的矛盾の構造を通しての内生的な発展・止揚・移 行の論理と農法変革の主体が欠落しているとする(『共の思想』二〇〇〇. 日本経済評論. 社) 。それではどう考えれば,比較農法論としての動態的風土論を構築できるのか。 第二節. 動態的風土論に向けて(1). 田中耕司の研究. 飯沼は,乾湿からいきなり中耕・休閑へと飛んでしまった。土地を改良して水田や畑に 耕地化するための「土地改良」がすっぽり抜けているのである。四類型は,「天水農業の みに限定される。なぜなら,灌漑はかならず何らかの変化をもたらすからである。すなわ ち,乾燥地農業を湿潤地農業化し,また湿潤地農業における中耕除草を不要ならしめるこ とがある」と,注記していたにもかかわらず,結局具体化できなかったのである。これが 飯沼農法論の最大の欠陥となった。しかも,ヨーロッパの場合,「用水」だけではなく, 畑地にとっては「排水」が大きな問題となるが,「保水」しか問題にしなかった。 二圃式から三圃式,さらに穀草式や輪栽式への転換では,土地改良や新たな耕地造成が 大きな問題となったであろう。イギリスでは,一九世紀前後から「テナントライト」補償 (離作料支払い)が問題となり慣行から法律化にまで至るが,その際に土地改良,特に排 水工事が大きな問題となっていた(椎名重明『近代的土地所有』第二・三章. 一九七三. 東大出版会)。D. グリッグによれば,一九世紀初めに蒸気機関による排水機が導入され, 水を排水路から河川や海へと排水できるようになった。北ヨーロッパの湿潤な地域では一 九世紀からの「もぐら暗渠せん孔機」と陶管パイプの製造により,重粘土質土壌の耕地が 改善された( 『西洋農業の変貌』二一頁. 原著一九九二. 訳一九九七. 農林統計協会) 。. いわんや,タイなどでの農村調査旅行で見たはずの,デルタ地帯での稲作では有り余る 水をいかに制御するかが問題となるが,結局東南アジアは射程外となってしまった。 それでは,どのように土地改良や用水・排水の問題を取り扱うか。これに関しては,石 井米雄を始まりとして,京大東南アジア研究センターで開発されてきた,「農学的適応・ 工学的適応」 , 「立地適応型技術・立地形成型技術」の考え方が有効となるだろう。 福井捷朗によれば,「農学的適応」とは「与えられた条件に対して農学的な方法で適応」 することであり,「工学的適応」とは「土木工事などによって自然を改造し,人工的な環 境を新たに創り出す」適応である(『稲のアジア史』第一巻三一〇頁) 。なお同シリーズで, 高谷好一は五つの稲作型の分布,歴史,特性」(同第二巻七三頁)を,海田能宏は「六つ の稲作生態区の水文と水利の様式」(同第一巻一〇六頁)を,応地利明は「アジアにおけ る犂型の分布と系譜」(同第一巻二〇六頁)をまとめている。 田中耕司は「農学的適応・工学的適応」に嵐嘉一の立地生態均衡系の考え方を導入して, 「立地適応型技術・立地形成型技術」の考え方を新たに提案した(「稲作技術発展の論理― アジア稲作の比較技術論に向けて―」『農業史年報』第二号. 一九八八. 会編,なおこの論文の英文版は『東南アジア研究』第二八巻四号. 関西農業史研究. 五六三~五七三頁. 一. 九九一)。田中によれば「立地適応型技術」とは,与えられた立地(環境)を改変せずに むしろそれにうまく適応しようとする技術である。それぞれの環境にふさわしい品種を選.

(13) 「生きもの循環論」からみる飯沼農法論の再検討. 139. 択して,微細な地形に応じた水文条件の違いにうまく適応しようとする農学的適応の稲作 技術体系である。「立地形成型技術」とは,イネが栽培される立地(環境)に積極的に働 きかけて生産基盤を改良しようとするものである。もともとあった環境を改変して,新し い稲作のための立地を作り出す工学的適応の稲作技術体系である。 この二つの技術が交互に継起的に投入されて成立したのが東南アジアの大陸部の山間盆 地や中国,日本であった。とりわけ中国や日本では,灌漑・土壌改良・排水改良などの立 地形成型技術と,品種・施肥・防除などの立地適応型技術が相互に絡みあいながら,労働 集約的かつ土地利用集約的な稲作技術体系を作り上げていったとする(「水田が支えるア ジア生物生産」『岩波講座. 地球環境学6. 生物資源の持続的利用』. 一九九八. 岩波書. 店)。以上の田中の主張をまとめたものが,151頁の第三表と第四図である(「アジアの稲 作と日本―過去・現在・未来―」『阪南大学産業経済研究所年報』第二〇号. 一九九一) 。. 同論文において田中は稲作技術の段階的発展をモデル的に図示しているが,日本の場合 は立地形成型技術と適応型技術が交互に何度も発展し,明治になってこの階段の上昇がさ らに急速に進んだと考えている(同論文四六~七頁)。キーワードは「立地」である。 この点は,私が大和農法の一四世紀から二〇世紀後半まで実証してきたことと一致する ( 『日本農法史研究』二九五頁. 表五-一. 一九九七. 農文協)。ただし私は古代から条里. 制などが進んだ奈良盆地を研究してきたが故に,一四世紀から二〇世紀後半までの大和農 法の歴史的展開に関しても,新たな耕地の造成や用排水などの土地基盤整備に関して考察 が足りず,また入会地・里山などに関しても言及できなかった。つまり大和農法の特殊性 を十分意識できていなかったと自己批判する。次の実証研究のフィールドである庄内農法 に関しては,この点を特に意識して進めていきたい。 第三節. 動態的風土論に向けて(2). 応地利明の研究. 応地利明は,一九六〇年代から地理学の立場より西南アジアの農業農村をフィールド ワークしてきた。最初の論文は,一九六四年の「乾燥農業と灌漑農業の間に―北パキスタ ン農村でのフィールドノートから―」( 『人文地理』第一六巻四号)であり,一九六二年度 の京大の第三次イラン・アフガニスタン・パキスタン学術調査隊に大学院生として参加し た時の記録である。飯沼への謝辞が最後に述べられているが,この時にはマルトンヌの乾 燥示数は登場しない。 一九六四年度の第五次調査隊の折には,三か国で二二一の村を調査し,各国で一か村ず つ定点調査も行っている。そして西南アジアの農業農村を分類していくうえで,マルトン ヌの乾燥示数により,乾燥・灌漑農業(五~一〇),乾燥農業(一〇~二〇),湿潤農業 (二〇以上)の三タイプを設定して,分析を進めている(応地「西パキスタンの農業に関 する二,三の考察」『名古屋大学文学部研究論集』第四一号 至行・応地『西南アジアの農業と農村』一九六七. !. !. !. !. 一九六六,織田武雄・末尾. 京都大学(同朋舎) ) 。応地が引用して. いる Emmanuel de Martonne の論文は,“Annales de Géographie”の第五一巻. 二八八号. (一 九 四 二)二 四 一~二 五 〇 頁 の“Nouvelle carte mondial de l’indice d’aridité”で あ る.

(14) 140. 大阪経大論集. 第72巻第1号. (京大文学研究科図書館所蔵)。飯沼も同じ論文を引用している(『日本農業技術論』四二 頁) 。なおマルトンヌについては,谷岡武雄の紹介を参考にした(『立命館文学』一八五号 一九六〇, 『地理』第八巻八号. 一九六三)。. 応地は二〇一二年に回想している。「忘れがたい記憶がある。それは,一九六四~六五 年にイラン・アフガニスタン・パキスタンの三ヵ国で,耕種農法に関する臨地調査をおこ なったときのことである。その調査目的の一つは,穀物作物をめぐる灌漑農業と乾燥農業 (ママ). の農法比較にあった。帰国後,計二二二の訪問村落でのキキトリ資料を整理しつつ,『乾 燥農業の成立地帯の気候特性をいかに説明するか』という問題に苦慮した。そのとき, ドゥ・マルトンヌの乾燥示数をはじめて使った。その結果は驚くべきものであった。とい うのは,これら三ヵ国で乾燥農業のキキトリを得た村落は,すべて同示数一〇前後の観測 地点周辺に位置していたからである。それ以来,私はドゥ・マルトンヌ乾燥示数の信奉者 となった」 (『中央ユーラシア環境史』第四巻三四〇~三四一頁. 二〇一二. 臨川書店) 。. そして,応地はユーラシア大陸を152頁の第五図のように中心=中央ユーラシア―周辺 Ⅰ=巨大陸域周帯,周辺Ⅱ=巨大海域周帯に分けたうえで(同書一九頁),マルトンヌの 乾燥示数により村落内の土地利用編成を152頁の第六図のように説明している(同書三四 九頁)。中央ユーラシアでは集落を中心として,園地,灌漑耕地,非灌漑耕地,放牧地・ 採草地と同心円状に広がっている。乾燥地帯では沙漠・草地がある。一方,湿潤地帯では 一番外側は森林となり,ヨーロッパと日本の状況を図示している。 最後に応地と飯沼をめぐる小さなエピソードを紹介する。飯沼にとって最大の転機と !. !. !. !. なった一九六八年の論文で,飯沼は「灌漑」を除いて世界農業を考えた。乾燥地農業(乾 燥地天水農業=乾地農業と乾燥地灌漑農業)と湿潤地農業(湿潤地天水農業と湿潤地灌漑 農業)の二大別である。そして応地は西南アジアでの調査をふまえて,利水方式によって 灌漑農業(乾燥・灌漑農業と狭義の灌漑農業)と非灌漑農業(乾燥農業と湿潤農業)に分 けることを主張するが,応地には従いえないと述べている(ここでは論文をそのまま収録 した前掲『日本農業技術論』一〇〇~一〇一頁)。 一方,応地は一九八六年の学位論文で言う(『南西アジアにおける農業的土地利用の地 理学的比較研究』. 京大学術情報リポジトリ紅)。 「この分類に対して,飯沼二郎から『農. 業方式の区分を,……むしろ乾燥地・湿潤地の差異にもとづいて行なわれなくてはならな い』との批判をうけたことがある[飯沼二郎. 一九七一:一〇一]。しかし,ここでの分. 類基準は,水の人工的供給の有無に第一次指標を設けることに重要性があるので,この批 判により分類を変更することはしない」(同書二一頁) 。キーワードは「灌漑」である。 こうした田中や応地の地道なフィールドワークに基づく動態的風土論により,ヨーロッ パを除くユーラシア大陸の農業の豊富な実態が考えられるようになったのである。. 第三章 第一節. 川喜田二郎の「農業生態・経営地理学」. 温量指数,カロリー計算と農業経営の四大型. 飯沼農法論を動態的風土論としていかに発展させるかを検討してきたが,さらに緻密な.

(15) 「生きもの循環論」からみる飯沼農法論の再検討. 141. 自然立地論・経営立地論を展開して,「世界農業」を論じた川喜田二郎の独創的研究を紹 介する。そして比較農法論を深めたい。私が川喜田二郎の研究を知ったのは,関西農業史 研究会の二〇一二年一二月の例会で,大島真理夫大阪市立大学教授(当時)が「地域認識 における風土論復権の試み」を報告されてからである。川喜田の名前は有名なKJ法で 知ってはいたが,農業地理学の研究などは全く知らなかったので,驚いたことを覚えてい る。大島は『土地希少化と勤勉革命の比較史』(編著. 二〇〇九. ミネルヴァ書房)の研. 究を進めていく上で,農学ないし地理学視点の復権の必要性を説いている。戦後日本の人 文社会科学における,農学や地理学に対する風土決定論という決めつけによって,空間的 差異を時間的先後関係へ解消しようとした動きを批判している(同書三七九頁)。大島の 報告はそのような問題意識にもとづいて行われたと思う。ただし当時の私はそこまで深く 考えられず,川喜田を素通りしてしまった。今回の飯沼農法論を再検討する中で思い出し, その独創的で先見的な研究に驚き,自らの不明を恥じている次第である。 さて,一九五〇~六〇年まで大阪市立大学に勤めていた川喜田の農業地理学からする研 究は,村松繁樹教授との共著『人文地理学入門』上下(一九五〇・五一. ミネルヴァ書房. のち一部を『川喜田二郎著作集』第二巻に「農業生態地理学」として所収,一九九六. 中. 央公論社)にまとめられている。ケッペンやマルトンヌなどの気候区分を批判して,吉良 竜夫と協力して独創的な温量指数(月平均気温が五度以上の月を植物の生育可能期間と考 え,月平均気温から五度引いた値を積算)を開発した。吉良は当時の思い出を「気候区分 事始めのころ」としてまとめている(『川喜田二郎著作集』第二巻. 付録1) 。吉良がまと. めた『農業地理学の基礎として東亜の新気候区分』(一九四五年五月. 京都帝国大学農学. 部園芸教室)の「あとがき」には,「本稿は当然川喜田二郎氏との共著となるべきであっ たが,同氏応召中のため止むを得ず単独で発表したことを遺憾とする」(同書二一頁)と, 述べている。川喜田と吉良による温量指数の成立経過については,小林茂がまとめている (「川喜田二郎教授と温量指数」久武哲也編『日本における文化地理学の展開』. 一九九一. 平成二年度福武学術文化振興財団研究助成 研究成果報告書)。 さらには各地の耕地一ヘクタールあたりの食料生産量を加工歩留りなども勘案しながら 独創的なカロリー計算を行なった。そして土地生産力指数を153頁の第七図のように,労 働生産力を153頁の第八図のように計算した。このカロリー計算は,世界・日本の各地の 生産力を定量的に比較可能にしたものであり,独創的で画期的である。 第七図で興味深いのは,日本列島の各地は生産力指数と温量指数が斜交してきれいな相 関関係を描いていることである。朝鮮半島の各地も同じく相関関係が高いが,日本列島よ り低い生産力指数である。ヨーロッパ各地も相関関係を示すが,温量指数が低いため土地 生産力も低くなる。そして,こうした各地域の違いは,自然条件だけでなく「文化」の違 いが問題となる,そうした創造の母胎としての地域個性を考えるには「風土」という概念 を活用すべきかもしれないと,川喜田は後年になって述べている(一九九四年一月一二日, 高谷好一らの重点領域研究「総合的地域研究の概念」の第五回研究会での発言 記録が『環境と人間と文明と』一九九九. 古今書院. その時の. である。同書二一,一七六頁) 。つ.

(16) 142. 大阪経大論集. 第72巻第1号. まり,農耕に関わり歴史的に蓄積されてきた農耕文化=農藝が問題となってくるのである。 また,第八図によれば,新大陸のオーストラリアとアメリカ合衆国が飛びぬけて高いこ とが分かる。飯沼が初期に分類した旧開地と新開地の違いが,見事に表現されている。 さらにはチューネンの農業立地論を参考にしながら,農業経営を園芸型,畑作型,農牧 型,放牧型の四大型に分類して,都市を核にして園芸型―畑作型―農牧型―放牧型が同心 円状に広がる状況をモデル化している。そして世界の主要な農業地帯を,154頁の第四表 のように,東亜の園芸型(淮河以南の中国領―朝鮮中部―津軽海峡を連ねる線以南の米作 を中心とする集約的園芸型)と畑作型(先ほどの線以北),ヨーロッパの畑作型・農牧型 (中欧北欧の純畑作・農牧型地帯と,南欧の冬雨型の果樹などの地中海農業地帯に区別さ れる),そして新大陸の温帯農業地帯(ヨーロッパ農業型に近い農牧型・畑作型農業)と, 区分している。それを土地生産力と労働生産力を合わせて図示したのが,154頁の第九図 である。そして重要性は低いが,乾燥地帯の放牧およびオアシス農業地帯,熱帯のプラン テーション農業および低位農業地帯があるとする。そしてツンドラ放牧地帯および北方森 林狩猟地帯,熱帯山岳農業地帯が続く(『川喜田二郎著作集』第二巻四四〇~四五一頁) 。 なお,一九五〇年の『人文地理学』上巻においては,表見返し頁に温量指数による「世 界の気候」がカラーで示され,裏見返し頁に川喜田の類型による「世界の農業地帯」がカ ラーで図示されていて大変参考となる。一九五四年の合本されたものでは省略されている。 一九五一年の『人文地理学入門』下巻の第九章「人口」では,人口分布や人口移動を論じ, 各地帯の農業生産力から可能な人口収容力を推定している。 この時期の問題意識について川喜田は,「当時の地理学の本には,農業地理学と号しな がら,単に作物の個別的分布ぐらいしかのべられていなかった。だから,農業地理学を, もっと農業経営地理学の方に近づけつつ,自然環境・交通環境などと密着させた点に, チューネンの『孤立国』などを乗りこえた新鮮味を持たせたつもりである」( 『川喜田二郎 著作集』第二巻へのあとがき. 七二一頁)。日本人は農業=作物栽培だと思っているがヨー. ロッパ人から見ると日本のは農業ではなく園芸になる。「農学的定義によれば,畜産・牧 畜も農業のうちなのです。そうすると,ヨーロッパが半農半牧だというのはよくわかりま す。それはそうなのです。温量が足りないから,ヨーロッパは半農半牧で落ちついたので す。この問題を考えるには,とくに農業経営地理学が必要なのです。お百姓さんの身に なって,ペイするかどうかという観点が一本入らないといけない。作物の分布だけを調べ る農業地理学では困る。経営の問題を入れて初めて出来るのです」(前掲『環境と人間と 文明と』一五~一六頁)と,述べている。こうして農業生態地理学は,農業経営地理学に まで広がっていくのである。自然立地だけでなく経営立地まで考える川喜田の世界の農業 経営類型論は,私の生存―生産―生活を一体として捉えようとする「生きもの循環論」に とってもまことに納得できる指摘である。残念ながらこの川喜田の研究は,その後の農法 論研究には全く活かされていない。しかし七〇年たっても全く古びていない。 川喜田はこの水平分布の視点をさらに海抜高度の垂直分布にまで広げて,実証していく。.

(17) 「生きもの循環論」からみる飯沼農法論の再検討. 143. 温量指数にしたがってヒマラヤの植物分布帯の垂直分布と,日本や中国からシベリヤを含 み水平分布は,見事に対応する(『川喜田二郎著作集』第二巻. ネパールヒマラヤの植生) 。. そして,ネパールヒマラヤの住民たちは,その高度で利用できる温量を最大限有効に活か そうと,そこに適した作物を組み合わせている(前掲書 『川喜田二郎著作集』第一〇巻ヒマラヤの文化生態学. ネパールヒマラヤの作物帯,. 四五五頁の図四) 。温量による植. 生・作物の水平分布と垂直分布の相似性を指摘する川喜田の慧眼に感服する。さらにはネ パールヒマラヤ文化の垂直分布まで論じているのである(『川喜田二郎著作集』第一〇巻) 。 第二節. 生命の多重構造. ここで,私が主張している「生きもの循環論」との関わりで,川喜田の「生命の多重構 造」論を紹介する。「私は『生きていて個性がある』のは,何も人間だけの特権とは思わ ない。それはあらゆる生き物が備えている基本的性格ではないか。動物ばかりでなく,草 木の一本ずつでさえそうなんだと,力強く叫びたい。それはよいとしても,次の点こそ, ここで特に問題としたいのである。すなわち,個人よりも大きな単位,たとえば家族・親 族集団・村落・学校・企業・国家・民族などもまた,生きていると言えるのではないか。 いやいや,それどころか,全人類,全生物界も,またそれぞれ生き物だと言えるのではあ るまいか。つまり,『生命の多重構造』を認める立場があるのではないか」 ( 『野性の復興』 五〇頁. 一九九五. 祥伝社)。川喜田はこの主張を晩年の一九九四年ごろから積極的に展. 開する( 『環境と文明と人間と』所収の一九九四年の講演,一九九五年の第一九回KJ法 学会基調講演「KJ法・コンピューター・情報」『川喜田二郎著作集』第六巻三四〇~三 五八頁. 一九九六)。「書斎科学」,「実験科学」に加えて「野外科学」を提唱し,デカルト. 的合理主義から全人的創造,創造的総合を展望する川喜田哲学の核心といえよう。 前半は私も考えてきたことなので納得できるが,後半の家族……は,川喜田の独自な主 張であり十分咀嚼できていない。これは今西錦司の考え方であるという。種は個体の単な る集まりではなく,種という一つの生命体の単位であり,種が集まって全体としての生物 社会がある。さらには生き物と環境も分離せず元は一つの渾然たる全体を考えているとす る(『環境と人間と文明と』一七七頁)。一九九七年には,「生き物」を固定的に考えない で,家族……を「生き物性」という度合いで扱ってもいいのではないかと提案している ( 『川喜田二郎著作集』第一三巻へのあとがき. 六七三~四頁)。一九四二年の今西錦司隊. 長の下での大興安嶺探検隊からつながりは連綿と続くが,五〇年後さらに今西の生物社会 論と結びついていくのである。今後「生きもの循環論」を深めるうえで,広義の農法の 「農事(イエ・ムラ・市場)」と関わる大事な点であり,検討していきたい。 川喜田は私の前稿(『大阪経大論集』第七一巻六号)で紹介した渡辺兵力(当時日本農 業研究所員)と,一九四七年に今西錦司のグループで奈良県中央部の平野村を共同調査し ている(今西錦司編著『村と人間』新評論社 五. のち『今西錦司全集』第六巻所収. 一九七. 講談社) 。渡辺は登山を通じて今西と親交があったのである(渡辺の登山歴について.

(18) 144. 大阪経大論集. は渡辺『山旅の足音』一九八五. 第72巻第1号. 茗渓堂,日本山岳会『山岳』第一〇一号. 二〇〇六を参. 照)。渡辺は「農業における自然」(東畑精一先生還暦記念論文集『経済発展と農業問題』 所収. 一九五九. 岩波書店)を論じ,「環境論考」で生物社会における環境を考察して,. 今西錦司『生物の世界』から多くの示唆を受けたと明記している(初出は『農業総合研究』 第二九巻二号. 一九七五,『村を考える』一四二頁. 一九八六. 不二出版) 。. ついでながら,渡辺は一九六三年に東京大学カラコルム・ヒマラヤ遠征登山隊に参加し たが,その時のインダス河上流の山岳渓谷地域を通過した時の記録を「西パキスタン山岳 地方の農耕―乾燥・灌漑農業の故郷―」(『農業総合研究』第一九巻一号. 一九六五)にま. とめている。渡辺の「乾燥・灌漑農業」の範疇規定に関しては,応地も(前掲一九六六年 論文)飯沼も(前掲一九六八年論文)従っており,調査困難な時期における先駆的な研究 として高く評価されている。 川喜田はその後,一九五〇~五一年に現天理市の二階堂村を調査し,「明治以降の小農 化の傾向はいかにして起こったか」をまとめている(初出は大阪市立大学『人文研究』第 三巻四号. 一九五二,『川喜田二郎著作集』第二巻に所収)。大規模経営層は二町前後から. 七反前後になり,小規模層は六,七反前後になるという水平化,私の言う「ならし」の運 動があったとする。日本農業の経営規模の縮小はよく言われるが,川喜田の研究が引用さ れることはない。その時のフィールドノートがそのまま大阪市立大学文学部地理学教室に 残っており,後のカード式やKJ法の原型が見られて興味深い(高山龍三「二階堂村 喜田二郎のフィールドノート」『大阪市立大学史紀要』第五号. 川. 二〇一二) 。. 平野村は私の院生・OD時代に古文書調査でよく通った村であり,二階堂村は大学院農 史講座の古文書整理で,一九七六年頃に二階堂村富堂に通ったことがある。さらには,川 喜田は,一九九六年から山形県鶴岡市の地域活性化にKJ法を導入して協力し,一九九九 年には最後となる第一八回月山移動大学を行っている(鶴岡市・川喜田研究所・鶴岡総合 研究所『くらしと夢をめぐる住民の声―赤川流域地域連携構想策定業務報告書』一九九七, 川喜田二郎監修『月山移動大学報告書』二〇〇〇,笹瀬雅文・佐藤光治・青天目利幸「地 域社会の活性化とKJ法―山形県庄内における実践―」. 川喜田二郎記念編集委員会編. 『融然の探検―フィールドサイエンスの思潮と可能性―』所収. 二〇一二 清水弘文堂書. 房) 。私がやってきた大和農法とこれから行おうとしている庄内農法の研究の二つの地域 で,川喜田はすでに野外科学の手法で研究をしているのである。奇しきご縁を感じる。 第三節. 空間的配置に加えて時間的推移の導入. 川喜田は水平分布のみならず垂直分布まで視野に入れていたことは,画期的である。こ れらの空間的展開に加えて,時間的推移を検討すれば,農法の空間的時間的展開が明らか に出来よう。 『川喜田二郎著作集』第二巻へのあとがきで,川喜田はカロリー計算の研究 をさらに展開したものとして浅井辰郎の研究を紹介している(同書七二一頁)。浅井の研 究は,お茶の水大学を退官する時に『浅井辰郎気候学・地理学論文集』(一九八〇)とし てまとめられている。本稿での引用は,すべてこれによる。浅井は京大地理学教室で川喜.

(19) 「生きもの循環論」からみる飯沼農法論の再検討. 145. 田の二年先輩で,戦前には今西錦司らと内蒙古や内南洋を調査している。 まず浅井は,ドイツの W. Hollstein の一九三七年の研究を細かく紹介する。世界を四六 農業区に分けて,平均一ヘクタールの生産力を計算したうえで,穀物は一キログラムで三 三〇〇カロリーを有し,人間一人は一日に二五〇〇カロリーが必要として,世界各地域の 平均一ヘクタール当たりの可養日を算出した。川喜田が計算した一ヘクタール当たりのカ ロリー数を二五〇〇カロリーで割ると,両者は比較可能となる。川喜田の東北は三〇九〇 (ママ). 日でホルシタインは三三〇〇日,川喜田の本州中南部は四三四五日でホルシタインは四六 二〇日となっている。川喜田が一割ほど少なく出ているのは,ホルシタインが作物の茎葉 まで家畜を通してカロリー化しているためであると考えられる。それにしても,川喜田の 研究とホルシタインの研究は驚くほど一致しており,川喜田の研究の先見性,独創性がよ くわかる(初出は一九五六. 同書一九九~二一〇頁)。なお,川喜田は前掲『人文地理学. 入門』の第九章「人口」において,ホルシュタインの研究を紹介している(同書四三六~ 七頁)。カロリー計算にも示唆を受けたのではなかろうか。ホルシュタインの研究を日本 で最初に紹介したのは,一九三八年の多田文男の論文である(「世界の農業区と土地の評 価と可容人口」 『地理学』第六巻六号五八~六五頁,同七号二九~三八頁) 。 浅井は,川喜田の方法に基づきながら下北半島の昭和一~一〇年と二六~三〇年の時間 的推移(初出は一九五七. 同書二一一~二二二頁),大隅半島の昭和五~一〇年と二六年. ~三〇年の時間的推移(初出は一九五九. 同書二二三~二三〇頁)を明らかにしている。. そして,約三〇年間で土地生産力の上昇があったと,結論づけている。 さらに浅井は川喜田の一九二六~三五年データに基づく研究の三〇年後の変化を,一九 五九~六八年のデータにもとづき日本各地域と外国別に明らかにしている(一つの論文の 初出は浅井・瀬尾由紀「日本・外国の一九三〇~六〇年代間におけるカロリー法土地生産 力の上昇量」一九七二. 『日本地理学会予稿集』第二号であり,その後浅井「地域の細分. 度に応ずる地域相関量について」一九七八. 『お茶の水女子大学人間文化研究年報』第一. 号に所収,同書二三一~二三九頁。もう一つの論文の初出は浅井「『地理量』概念の設定 と気候学・生態学象限におけるその実例」一九七八. 『今西錦司博士古稀記念論文集』第. 三巻に所収,同書四六八~四八二頁)。土地生産力の時間的な推移を地域別にカロリー計 算で定量的に比較したものとして,きわめて貴重な研究である。 これによれば,湿潤気候地域においては,フィンランドを除きいずれも三〇年間で増大 しており,地域や国によって違いがある。日本列島内(全国平均の伸び率が一.四四)で 見れば,北海道(一.八二)と東北(一.七八)の伸びが顕著であり,それに比べると本 州中南部(一.二八)と四国(一.二六)が停滞的である。これは前稿( 『大阪経大論集』 第七一巻六号)で述べた,金沢夏樹らの生産力展開における戦前から戦後にかけての西日 本から東日本への生産力展開の移動の指摘を裏付けるものといえよう。 気候変動については,これまで樹木の年輪を使っての山本武夫(『気候の語る日本の歴 史』一九七六. そしえて)や,フェアブリッジ海水準変動曲線による磯貝富士男の『中世.

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