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江州中井家帳合法の記帳技術 : 金銀出入長と大福帳

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(1)

江州中井家帳合法の記帳技術 二二

江州

中井家帳合法の記帳技術

      ーー金銀出入帳と大福

帳ーー

一 は し が き

       

 中井源左衛門家の帳合法については、すでに﹁江心中井家の決算報告法について﹂及び﹁江州中井家の本支店会計法に

   

ついて﹂の二試論を発表して、その決算報告書たる店卸目録が財産計算と損益計算の複計算体系をもつた完壁なものであ

ることに併せて、望性金と呼ばれる資本概念が定立されていることをはじめとして、徳用積金や出精金、望性懸につけら

れる利息等による資本蓄積、総意計算による経営能率の管理等のすぐれた会計制度をもっていた事実、及び、進んだ本支

店合併決算とそのための本支店会計組織をもち、このような分肢経営たる支店枝店の経営管理と本支店会計の必要こそが

中井家帳合をしてこれ程にまで完成せしめた原因であったに違いないという私見を披露したのである。

 しかし、このような結論的な問題と取組む以前に、そのためには日常の記帳技術が明確にされていなければならない筈

であるが、この点になるとある程度の疑義なしとしなかった。勿論、前論文に於て極あて断定的解釈を下しているからに

は、それ相当の根拠が基本的記帳技術の面で樹立されていたわけであるが、今一息のところ自信をもって報告するには至

らなかったのである。

(2)

 その理由の第一は、この帳合法についての経験者はもはや存果しないし、[[伝や文書も現存しないらしい。只今目を通 した範囲ではそのような史料は発見されていないということが、断言をはばからしめていたのである。

 今日残されている手がかりは帳簿である。帳簿の記載状況を検討し、その些細な点を綴合はせて、多分こうもしたであ

らうという手順を推定しなくてはならないのであるが、これは独断的な得手勝手な解釈になる危険が多い。その上、史料

そのものにも本来的に若干の誤謬や手落もあったと考えねばならないので、困難性は一層増大するのである。

 理由の二は、史料不足にある。中井家の史料は、滋賀県日野町の中井本家から出たもので、支店に保管さるべき文書は

散逸してしまっている。史料の総数は一万五千余点に達しその半数は会計史料である。会計史料でないものは多くは書翰

であるから、量的には会計史料が圧倒的に多いのであるが、何分にも一世紀半に亘る史料であるから、年々について見れ

ば極めて一部のものでしかないことになる。会計史料の半数余が支店から本家に送られて来た決算報告書たる店卸目録で

ある。本家から出た史料であるから、これは当然のところである。その残るところが帳簿類であるが、これは支店のうち

で、閉鎖の止むなきに至ったものや、何らかの事情のあったものに限って例外的に基本帳簿を本家に集めたものと思われ

る。それもその年の帳簿の全部でなく検査に必要なものに限られたのであらうか、とにかく同一年代の、使用帳簿の一揃が

全部残っているのではなく、明らかに欠けているのである。従って研究方法としては、年代的にはずれていても、とにか

く同じ年代のもの二冊つつがあれば、その相互の関連を辿ることにして、そこで発見された記帳原則を、他の年代の他の

帳簿との関連のうちに代入させるというやり方で、一部分つつの帳合法を組み合せることによって、やがて全帳合法を解

明する手がかりとするはかなかった。  理由の三は、大福帳という名の帳簿が存したことにある。周知のごと・く大福帳は我が国古来の、最も普及した帳簿であ

り、その故に大福帳式と称されているが、その実体はあまり進歩していない便宜的不合理な記録本位の簿記法の呼称とな

     江州中井家帳合法の記帳技術       二三

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     江州中井家帳合法の記帳技術       二四

割引居り、素朴不完全な簿記法のことになっている。中井家の史料の中から四冊の大福帳と呼ばれる簿冊が発見されたと

きに、筆・者はいたく失望したものである。  しかし、仔細に検討してゆくうちに大福帳を再認識する必要を痛感するに至った。

 大福帳式一般はさ程に進歩したものではなく、中井家の場合が特に発達していたと考えるのが穏当であるということを

       

西川孝次郎氏は指摘されたのであるが、氏の助言は尊重しなくてはならないであらう。中井家に止まらず、近江商人の他

の諸家の史料も順次検討したいと思っているが、その結果、中井家と同程度に進んだ梶野法、あるいは、全く同じ帳合法

をもっていたものが発見される可能性は相当に大きい。何故ならば、、中井家が他店を墨型合併する場合の﹁約定書﹂には

別段の註釈を附さずして会計上の術語を用いているのである。これは、この優合法がある程度広く普及していて、常識と

さえなっていたと思える節があるからである。それにもかかわらず大福帳一般ということになれば通説のごとく貸借記録

を中心とした部分的会計記録であったに違いない。これは筆者等もその祖父の代にその事実を見ているのである。

 ただ次のことがいえよう。大福帳を含む帳簿組織全体を指して、大福帳が含まれている故をもつて大福帳式簿記法であ

ると呼んで、その内面的記帳法まで同一視するのは当を得ていない。大福帳を含むという外形的事実にかかわらず内容的

には既に試論に掲げたごとき複式の損益計算を行うことのでぎる体系を備えたものにまで進歩しているものがあるのであ

る。

 このようにして、日常の記帳法に関する研究の発表は順序としては逆になってしまったが、決算構造の解明にカづけら

れて、これを手がかりとして逆に推論されてゆくこととなって、遅れて今日に至ったわけである。  本論の史料としては伊勢の国︵一一董県︶香良州︵一志郡矢野町川口︶にあった太田屋︵中井家が買堕して支店とした︶と称する 酒造店の嘉永二・三年の帳簿が中心となっている。

(4)

 別に、仙台店の帳簿も相当に現存しているので補完的に利用したが、これは仙台店の場合だけを単独に切離して後の機

会にまとめて見たいと思っている。

       

 太田屋は天保六年︵一八三五年︶以降の決算書が現存し、嘉永三年︵一八五〇年︶に閉店している。僅か十数年しか存続し なかったし、規模も他の諸支店に比し遙に小さく、その上、四代目源左衛門光基の代の経営である。  また天保十年と嘉永元年に行った良士合併の報告書が保存されている︵天保十年亥九月改、引受諸調帖。嘉永元年申十月、諸 色下様控帖︶ところがら、 しばしば合併が繰返された模様であって安定した支店ではなかったらしい。閉鎖直前になると

年々欠損となり、これを繰越欠損金勘定に相当する﹁年々店卸二毛﹂を資産の部に計上している。このように何かと問題

も多かっただけに、本家との連携も密であったのであらうか、本来は出店史料の筈の基本帳簿類が、事件の都度本店に送

付されたものであらう。地理的にも近かったためか、交渉が多いのである。

 太田屋は嘉蔵名儀の造り酒屋で、伊勢一帯をはじめ、伊勢湾の対岸三河方面から遠く江戸にまでも卸.弄し、店売もし

た。使用人は二十名を超え、持舟も持っていた。酒蔵での醸造工程は仕込帳で計算し、春屋並蔵江米渡帳にはじまり、仕

込月〆帳、心月酒弓鳴を経て酒切手附立帳に到る内部生産過程め物量記録が含まれている。この一群については工業簿記

乃至原価計算の史料として興味ある研究テーマとなるが、これは押立の醤油醸造店の場合とともに後日の研究に委ねたい

本稿ではこの側面は別にして他の一群、即ち、商的活動の記録計算に限ることにした。       

 既に指摘したように、太田屋の時代は、四代目源左衛門、即ち、筆者のいう中井家第三期に属することにも注意願い度

い、これはすべてに完成した時代である。  現存史糾は次のごとくである。  ︵決算報告書︶店卸目録一一貸借差引帳を含むーーは大略揃っている。      江州中井主旨合法の記帳技術       二五

(5)

   江州中井家帳合法の記帳技術      二六  天保六年︵︷八三五︶未九月申八月晦日迄店卸.目録︵即ち一八三五年九月一日一一八三六年八月三十︷日の一年間︶からはじ

 まり四年分欠けて、天保十一子年店卸書入、十二年丑八月改店卸目録といった具合に年々作成されたものである。

 ただ決算日が毎年八月末日であるから、年度表示が紛らわしい。 ﹁巳九月朔日より午八月晦日まで、弘化三歳午八  月改、己年店卸目録﹂とあるように、弘化ご年︵己年︶九月から弘化三年︵午年︶八月までの一年度について、決、算

 を行った三年午八月の日附で、その年度がはじまる集め十二支を冠した標題をつけるのである。即ち、前年の年号

 がつけられるのである。例えば﹁嘉永三曲八月改、盛年店卸目録﹂は酉年たる嘉永二年の九月朔日にはじまり、翌、

 戊年たる嘉永三年分八月に終る年度の決算報告書である。

  以上のうち二二二の重複があって、合計十六冊が現存している。

︵帳簿︶よくは揃っていないが他店よりは遙によく保存されている。 天 保 二 申天保五年 天保十年亥九月改

天保十年

天保+年亥年 庚天保+一年 天保十二年 弘、化二年己四月

弘化元年

金銀出入帳

酒切手番附 午正月吉日、

引受諸調帳

大  宝  恵

古貸書抜帳

店卸残物附立帳︵子九月吉日︶ 酒出高有酒調子帳︵辛丑六月改︶ 辰冬仕込月〆書本帳

月〆認手本帳

(6)

艮 O 弘化二年九月

弘化三年

弘化三年

嘉永元年申八月 嘉永元申十月

嘉永元年

嘉永二年

嘉永二年酉

嘉永二年

嘉永二年酉七月

御相仕別勘定之調

樽木有高帳

手船新造諸色帳

蔵有酒改帳

諸色下直控帳

飯 米 帳

給  金  帳 酉九月吉日

七月書出帳

津方地廻書出帳 書  出  帳

嘉永二・三年戊九月金銀出入帳

嘉永二年酉九月

嘉永三年

嘉永四年亥七月

不明辛+一年

〃 辰

〃 〃

問屋仕限帳

大  橿  帳 書  出  帳 給  金  帳 給  金  帳

樽:⋮貫目帳

酒売場控帳、春屋並蔵江蘇渡帳、蔵有酒蒸帳借貸書抜借口 江州中井家帳合法の記帳技術 二七

(7)

江州中井家帳合法の記帳技術 二八 以上の帳簿の中から、嘉永二・三年目一組が選ばれて、これを中心として、他を参考に供することにしたのである。 e

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拙稿、彦根論叢 第三十七号、昭和措二年五月。 拙稿、彦根論叢 第五十二号、昭和珊四年二月。 司法省編纂﹁日本商事慣例集﹂二色の調査、宮本又次教授﹁江戸時代の帳簿と帳合﹂大阪大学経済学六の三四。 原田敏丸﹁近江商人の経営形態に関する一考察﹂彦根論叢、秋山範二先生還歴記念論文集、第三十四号 人交七号合併、 拙稿 彦根論叢 第五十二号 四四頁以下 六九頁。

二太田屋の金銀出入帳

 太田屋の金銀出入帳はコ冊残っている。天保二年のものと嘉永二・三年のものである。前者はこれに照応すべき相手帳

簿がないので後者を用いることにした。嘉永二年目起筆したが余白が多く生じたので、続いて三年にも使用することにし

たもので、 ﹁二﹂と書いた上に紙を貼って、 ﹁二・三﹂と改めている。嘉永二年︵一八四九︶は零下の年で、太田屋の閉鎖

される前年である。会計年度の都合で嘉永二年九月朔日に起筆し、戊の年、嘉永三年の八月末日で一旦締切り、これまで

が酉年店卸に計上される。九月朔日付で残高を繰越し偉功がはじまるのであるが、九月十四日まで記帳し、ここで切れて

いる。   嘉永二酉九月朔日 八月廿九日勘定尻引受 一金七拾四両壱分ト函馴塑  銀九匁五分三厘 出金早期ト    一図  銀壱匁五分 正 有 船方吉蔵給金渡  嘉永二年八月に行はれた決算は﹁申店卸目録﹂にまとめられている。その中の ﹁有物之部﹂ ︵資産の部︶の一金七拾四両壱分ト九匁五分三厘出入帳尻〆が決算 日の現金残高でこれが嘉永二酉九月朔日付の﹁正月﹂である。  即ち、適切に残高の繰越が行はれているのである。他の勘定に於ても同じであ るが、残高の繰越は前朋の帳簿から﹁店卸目録﹂ ︵又はその内訳としての店卸目 録下雷︶に計上され、その金額が今期の帳簿の筆頭に記入されることによって繰 養

(8)

  右八月廿九日迄勘定差引額の分相済      ⋮中略 十月十三日十四日

山四匁卜 囲囮

入  五百八拾弐文墨上[   十五日

入九夏 ︵園

  右上当惑せん九両分 入金六拾弐両三分卜 銀七匁六分ト 山三拾三匁弐分七厘 〆此ぎん三十壱匁壱分七厘 銭五貫三百拾五文 此ぎん四拾九匁八分三厘 店売四舛三合六勺 売状入 銭相場徳 為金百六拾四両○弐朱ト     六匁壱分      出金拾四両弐分弐朱ト 銀四拾五匁四分 山八拾壱匁 三倍銀七拾五匁九分四厘 四貫四百九拾九文 此銀四十弐匁壱分三厘 為金拾七両壱分卜 江州中井家帳合法の記帳技術 越されるのである。この記載の下に一店卸[印が押捺されているのは、この手続が 正しく行はれたしるしである。  日常の取引は、 ﹁入﹂ ﹁出﹂の符号をつけつつ並列で記入されてゆく。正と負 の金額が並列に記載されるのは他の帳簿の場合でも同じであって、これが一般的 な方法であった。しかし他の場合にはこの符号すら示されず、下に書かれた摘要 書によって判断しながら計算するようになっているものもあるかと思えば、正の 金額を高く、負の金額はやや下げて位置せしめて区別している場合もある。  月末月初と十四日の二回、出金合計と、入金合計を求めて帳簿残高を算出する。 金額欄が設定されて居らす、記数法も面倒である上に、貨幣種類が多いので日々 の残高︵暑自ヨσqび巴き。Φ︶は算出されていない。実際にはしばしば検討して現 金の管理には万全を期したのであらうが、これを証すべき記事は見あたらない。  当時の通貨は金、銀、銭のほか、札があった。 ﹁山尽匁⋮⋮﹂とあるのは、他 の箇所では﹁山黒しと書かれ、また極く稀には﹁山田札﹂とあるように、山田藩 の発行した藩札である。  山田札は、この地方だけで通用したものである。即ち、最初は伊勢商人の間で 使はれた商人手形であったが、商人の信用を背景にして、良く流通し、後に山田 藩札となった。主として小額補助貨幣として用いられたもので、初期は銀兇換券 であったが、後に寛文年間に銀称呼の金兇換券となった。一匁・五分・三分・二       ① 分の四種があり、六十四匁をも.って両としたようである。即ち上の換算では銀六 十匁をもって金一両としている。しかるに、山三拾三匁弐分七厘は銀三拾壱匁壱 分七厘に相当するということは、六十四匁強に換算しているのである。因に、銀一 匁は銭﹁〇六文六分七厘、金︷両は銭六貫四〇〇文という換算率になっている。       二九   ●

(9)

江州中井家帳合法の記帳技術        五匁九分七厘  引 〆金亘ハ拾五両三分ト ・      七匁四分七厘     右江有金     一金百四拾三両   正・       弐分弐三富     一金拾爾三分ト   札      山弐分      此ぎん壱匁八分八厘     一金弐分二朱也   嫌金     一銀拾八匁や   札     一銭六拾七貫四拾九文      三三六百弐十八匁五分六厘      此金拾両壱分弐朱卜       六匁〇六厘     為金百六拾五両一一一分ト       七匁壱分九厘      引テ 弐分八厘 不足   酉十月十五日改

長銀弐分八厘㊨    勘定不足

出金壱分也  扇一    船の与助

  念い当百       かし

5 6 一圓 一沸 ひO冶 一冶 G、闃?モ㎝囲 三〇 ひ漉おO冶   δひ渇ひ融四三  さて入金合計と出金合計を別々に算出して︵その際第一段では金種別に合計し 第二段で金と端数は銀に換算し、これを﹁為レ金﹂と表はすしその金額に、期首 繰越高を加算して差引すると、当日の残高が算出されるのである。  このような算法は金種の複雑なことの結果自然に案出された算法であらうが、 はからずも洋式簿記に接近している。但し、その故に技術的に接近していると断 ずるのは穏当でなからう。発達の動機経路が異るからである。  このようにして求められた帳簿残高に対して、実際在高が﹁山江有金﹂である これは﹁正﹂ ︵正金︶ ﹁札﹂ ︵金札と山札︶ ﹁嫌金﹂︵別の箇所では悪金とあり︶ 等に詳しく金種別に計上されて、同様に換算されると、帳残との間に差額が生じ る。これ現金過不足である。

  蘇臨 

ぴ鯨副G。類   刈冶︽串刈團   満 製  一ひ㎝蕊ωゆ     刈冶一三O画   引 梱      O     悼融。。臨  さてこの現金不足は翌日付で﹁出﹂として記入されるが、これは原因不明の不 足であって、所謂﹁現金過不足勘定﹂に計上すべき性質のものである。中井家の 場合、大福帳には他の諸費用の勘定に並んで、 ﹁過不足﹂という口取紙をつけた 口座が設けられ、その頁は、 ﹁勘定﹂と標題がついている。この口座に転記され て、 一会計期間分が累計され、 ﹁年中金不足﹂という摘要書をつけて店卸目録の

(10)

     ⋮玉織      引て 右十九日勘定にて  店卸〆切致す。   嘉永三成    八月廿日引請

同し   商卸[

入金拾九両弐分ト    五匁壱分六厘 八月廿日 出五百七拾一文㊨ ︵前同様過不足計算をする︶

九分七厘不足㊥

是迄店卸二上リ済 右八月十九日受入相済 廿一日 出山壱匁弐分  ⋮⋮      ⋮ 中略 十月十日

出山三匁 ㊨

     ⋮中略 十月十一百 入金五拾壱両分卜 ︷㈲  正有金    〆 津在野村  清太良馬  かわら駄賃取かへし

魚三殿骨折

山村様より受取 江州中井家帳合法の記帳技術 損益計算書、 ﹁損の部﹂に上がるのであるから、今日の実践と全く同じである。 上記の﹁酉十月十五日改勘定不足しのところに㊧印かあるのはこの転記の証 である。  酉年決算は成の八月十九日付で行はれるのである。前と同様に現金過不足の計 算を行ったのち、﹁引て九分七厘不足﹂を記入し、これを大福帳に転注する。こ の技法は前とやや異るが、それは決算日であって繰越記入が必要となるからであ る。原理的に違うわけではない。  ﹁店卸目録﹂には実際残高たる﹁金拾九両弐分ト五匁壱分六厘﹂で計上し﹁是 迄店卸二上り済﹂となる。 ﹁右十九日勘定にて店卸〆切致す﹂が帳簿締切の形式 である。  ここで目印のため何頁かのブランクをつくり、これをこよりでとじている。  ﹁嘉永三成八月廿日引請﹂が繰越文句である。 ﹁引請﹂は﹁引受﹂とも書かれ 繰越を意味する。第一の記載は前述のごとく、店卸目録から転写することによっ てなされる。  十月十二日の記入は五一両一分なにがしの入金と、五〇両の出金の二コ入に分 けられているが、摘要書にあるごとく﹁内壱両壱分ト拾四匁七厘忠右工門殿から 受取⋮⋮﹂であって、実際に入金があったのはこの差金としての壱両壱分なにが しのみであって、店の残余財産の買受人たる山村氏の支払うべき.﹁金五⋮両一分 ト銀一四匁〇七厘﹂とこの差金との差額﹁金五十両﹂は山村氏が日野表で直接に 本家に支払うことになっているから、これは山村氏の勘定と、本家の勘定の間で 振替をすれば事足りる場合である。これを今日の技術でいえば、現金仕訳したの である。このような処理はさ程頻繁には行はれていないが、興味ある事例である。  さて最後の現金残高検討の計算を前述と同様に行って、過不足の処理をなした 一三

(11)

江州中井玉帳合法の記帳技術  銀拾四匁〇七厘  右ハ立替物代金並店残品売払代〆高  委細は大鋸之山村様立替口に委しく 十月十二日  一團

出金五拾両也㊨   御本家かし

 右脳金五拾壱両壱分類拾四匁七厘之内  壱両壱分ト拾四匁七厘忠右工織殿から  受取残り五拾両也御本家へ貸に帳合  山村様より日野表にて受取申砿約定附替

     ⋮中略

十月十四日

出山四匁㊨     夜具そん料

 右ハ山村様御出しそえ茶伝殿払

     ⋮中略

入金五拾三両弐朱卜 銀弐拾壱匁八分七厘 山壱匁 〆此銀九分四厘 銭弐百五拾三文 旧臣弐匁三分四厘 為金五拾三両弐分卜    弐匁六分五厘    出金五拾六両壱分ト 三二 のち、残金は閉店の故に全部本家に送金して、帳簿は締切られている。この状態 を実物によって示しておこう。﹂  余談ではあるが、﹁過不足勘定﹂での記入状況を注意されたい。上下二段に分 けて、正負を別に記入し、その差引をしているのである。  我が国では粗面の美濃紙と、太い筆、漢字式の記数法と酬う全くの技術的な条 件と、記載形式を整えすとも算盤の上では容易に計算ができるという条件が結び 合って、二面形式の勘定が発達しなかったというのが全般的状況であるが、現金

(12)

 銀百四拾九両壱分弐厘 山五拾七匁壱分 〆此銀五拾三匁五分三厘 九貫百九拾文  白銀八拾四匁八分三厘     為金六拾壱両卜       弐匁四分八厘 差引

〆金七両募ト

    四匁八分六厘    右江有金    一二六両三分五朱卜    一山札三匁     玉目弐匁八分壱厘    ︷壱貫八百三十四文     三惑十六匁九分三厘    為金七両〇三一ト  ﹁團﹁       四匁七分四厘㊨    下之内金弐分三朱嫌金入    右ハ寅の年前より店に有来砿    又当百銭一文律せんあり     引て 一二匁八分七厘㊨勘定不足  右勘定残金平兵衛賠三請取本家へ相納申砿    戌十月十四日 江州中井家帳合法の記帳技術 過不足のごとき正負不定の勘定ではやはり二面形式が好都合なことに思い当るの であらう。  以上は﹁金銀出入帳﹂自体での記帳法について考察したのであるが、これに併 せて、それぞれの金額の下に一團㈲︶㊨一頭上一の印が押してある。この意味に ついて解釈しなくてはならない。  その詳細は後にそれぞれの帳簿について論ずるところであるが、論証はその項 にゆするとして、結論的に述べるならば、これは相手勘定への転記のしるしであ る。  相手勘定の多くのものは大福帳に口座を開設してある。即ち、大福帳は大部分

の勘定暴︵黒黒・肌委併せて︶をも・て居りさらに留た・.蟹仕膿・

﹁給金帳﹂についてはその総額でもって記入する口座をも備えたところの総勘定 元帳に相当する。これを大帳とも呼び、金銀出入帳からこの帳簿の該当する口座 に分類し上げたときには㊨印が押される。また、売立帳があって、これには 売上曲調の記入が行はれるのであるが、現金売については金銀出入帳にも記入さ れるから、その照合の証が一売上 である。摩一は問屋仕切帳、給金帳に設けられ ている人名勘定での貸借関係の決済について転記している証であり、︵⑬は特定 の検算照合を要する場合の突合せ結果である、このようにして、金銀出入帳と他 の帳簿︵勘定︶との閥で、取引複記が行われているのである。これは二面勘定形 式を用いて居らないので、洋式複式簿記にみるごとき巧妙な貸借複記の技術とは なり得なかったけれども、この取引複記原則が完全に守られている限り、その記 入を適当に組織立てることによって、貸借対照表の計算と、損益計算書の計算を して、 一致せしめることができる筈である。 三三

(13)

     江州中井家帳合法の記帳技術       三四

 金銀出入帳は本来は現金の出入を記録し、現金在高を管理する帳簿であり、現金勘定に相当するのであるが、これが記

帳法は種々の条件に左右されて、相当不便な形式となっているけれども、今日現金の計算に要求されている多くの点を完

全に満足せしめている。即ち、機能的には笹色ない。のみならず、この帳簿は中井家帳合に於ける原始記録簿であって、取 引は現金取引である限り原則として先ずこれに記帳される。︵売上の記録は十月十三・十四日のそれのごとく後記帳になっている︶

 しかも、この記録を基準として、相手勘定に転記・転写されるのであって、この点で、特殊仕訳帳の役割を兼ねたもの

であるということができる。  ①堀江保蔵氏稿﹁羽書﹂日本経済史辞典、一三〇四頁  ②この推定は根拠を確認したものではないが、西川孝治郎氏の示唆もあって、論証の可能性を信じている。

三太田屋の大福帳

 大福帳は一般に掛売先を人名別にして口座を設け、当座帳という売上記録から掛売のみを抜出し転記するもので、時と

        しては売上全般に拡げるものもあるが、それは備忘として後日の紛争の際の資料にするためにすぎない。  これは別名﹁台帳﹂又は﹁大蒲﹂ ﹁懸帳﹂ ﹁本帳﹂であって債権の証明のため無期限保存とすべぎものとされ、重要視 されたものである。 ︵尤も、半期中の貸売高を総計するもので、計算済迄の保存とする例もある一i愛知県︶しかし、そ

の場合の重要さは簿記の計算体系からするものでなく、法的な側面についてである。簿記的に言えば、全勘定体系中の売

掛金勘定にすぎない。即ち、得意先元帳に相当する売掛金内訳勘定であるから、これが最も尊重されることろの大福帳式

簿記は体系的計算ではなくて、備忘証明資料の段階にあるものといえる。しかし多数の例について検討するに、大福帳だ

けでは満足していない。他に相当数の帳簿を備え、それぞれ計算体系の完成を期しているのである。

 さて、一般には以上のごとき状況であったが、江州では些か違った発達を遂げたのである。司法省編纂﹁日本商事慣例

(14)

類集しに所載の調査結果によれば、当時︵明治十四年頃︶大津地方での慣例として、大福帳には売上帳と買入帳に記したる

      

ものを、 ﹁其部類を分ち精細に復写せるもの﹂であって、部類を分つという状況が明らかではないが、少くとも債務にま

で筆蹟されている。因に、太田屋の所在した三重県一志郡についての当時の調査結果によれば﹁人名の口取をなしたる大

      

福帳へ拾い出し、其日限合計をなして売掛金取集めの用に供すしとあるから、一般の用法である。  中井家帳合に於ける大福帳はさらに一歩を進めて債権関係、出資関係をはじめとして、費用諸項目を含め、︵茨城県西葛

      

飾郡、猿島郡では﹄家の諸雑費を記す﹂とあり。例はなきにしもあらす︶問屋仕限帳、給金帳よりの総額附上げもやっているも

ので、その内容は遙に広く、総勘定元帳に近いのである。このような用法は他にもあったわけで、上記の調査によって東

京赤坂区麻生区では﹁大福帳、商家により諸翠煙此字面を表記し各種の名称を付記するものあり、又身代財産を記する元

    

帳をも称す﹂という実状であり、また兵庫の例で、 ﹁大冊、此帳簿は諸帳面中耳も枢,要にして、常に取引を為す先々各々 釜座を設け、夫々諸帳簿より図の如く︵出入帳と売日記より野帳へ転記線が引かれている︶転記す。又利子坐、銀行坐、引導坐 ︵登記の上故障の荷物ありて直引せし者等を窪める坐なり︶其他種々の坐を設け、帳簿の数を減じ簡便にする等、家に由て差異 ありと錐も、大同小異あるのみ、此帳中貸付金の到底取立てべき見込なきか、或は絶家せし等の類は、永代帳に転記す、

       

総勘定帳には、其永代帳転記の金高を記し、資本の勘定をなすものとす、其異名は大福帳・台帳・元帳・万留帳等なり﹂ とあり、むしろこの用法に近いものと考えられる。  以上に引用した日本商事慣例類集は﹁当業者商業団体及地方官国葬・へ諮問した答申書及直接対談の筆記等を纂下したも

のにして﹂明治十四年に、大政宮中へ商法編纂委員が設けられ、続いて又其の組織が変って、商法取調委員なるものが置

    

かれ⋮⋮しそれが調査した結果を集成したむののようである。解題者も言えるごとく、 ﹁答者の想像説多くして、事実の

拠証となし難き点少なからざるの憾なぎにあらざるも、⋮⋮多少の注意を払って之を選択取捨するの必要あるべきも、此

     江州中井家帳合法の記帳技術       三五

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     江州中井家帳合法の記帳技術      三六 の覚悟を以て之を利用する者には必ず多大の裡益なしと云う可らず。L 筆者の通読した範囲にも調査者、又は、答申者の

いつれかに専門的素養が欠けていたために、焦点が定らない項があって残念であるが、我が国在来の簿記慣習をこれほど

までに広範囲に調査した文獄はなく、価値高い資料である。

 これらを大観するに、大福帳は本来は売掛金勘定であった。しかし、やがて債権債務一般に拡張使用されみに至るので

あるが、同時に、別個の用語例として諸雑費勘定を大福帳と呼ぶ慣例もあった。他の帳簿は夫々内容を表はす名称を附し

ているが、大福帳という名称は、美称であって無内容である。その売め諸種の帳簿に共通の標題となるこ・ともある。この ようにして、大福帳なる帳簿の内容は決して一義的なものではなくなったのであろう。

 大福帳が売掛金勘定に用いられる例は最も多いが、簿記法発達毅階的見地からは最も素朴なものである。大福帳が大帳

又は、総勘定元帳として用いられる庵のが最も進歩したものであると考えられる。

 太田屋の大福帳は毎年新帳を設けたもので嘉永三年九月起筆のもの、即ち、最終のもののみが保存されている。

 第一の口座は﹁御本家借貸口﹂で、この口座では本家から太田店への資本投下と八広の計算、及び、利息の加減算を行

うのである。支店への資本投下は他店との関係と同じ用語で、貸借関係に擬して表現されている。また、店は御本家から

      

預ったものであるという観念が根強く支配していたに違いない。しかし、既に指摘したように、初代開業の頃から程なく

正味身代という考え方が生じて、これが急速に展開されて、 ﹁入金﹂ ﹁出金﹂ ﹁仕入﹂ ﹁元金﹂等と呼ばれ、やがて一七 七四年には﹁望性﹂という独特の術語を生ぜしめたのである。

 出資者である本家、本店の側からは﹁差引残りかし﹂という用語が早々に﹁望性﹂に置きかえられるが、受ける側、支

店では、 ﹁有物引受﹂ ﹁引請高﹂ ︵引受は繰越の意にも用いられる︶という表現や、さらにもっと素朴な﹁引残り預り﹂の表

現がなされたものである。その計算を綿密に検討すると、これが支店の正味身代で、本支店会計に於ける本店勘定に相当

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するのである。   大福帳 御本家借貸口   年弐朱畢入  戌九月元      店卸  一金弐千四百七拾七両三分ト       拾壱匁九分三厘 引 引残り預り 八月廿八日    かつおふし 一 玉江附替  ・     九百巳代かし 右ハ魚新より取砿ふしなり書附参り砿節附分可申 臣事尤靴工より来砿書附より八掛糠蝦七掛位に直 段致本家貸二可致也、三毛相溜分ハ当店之二二附 可申砿事。 戌の十月十二日 一金五拾両也       山村様貸 右ハ立替物並店残品売払代の臨監五拾両也 江州中井家帳合法の記帳技術

戴灘

霧鐸

臨繊灘

, ・舞鰻鞭

        、裏

口三三騰、、

    毒.

轟傷蟹

   演

三七  西年店卸目録︵酉 籍永二年九月i成嘉 永三年八月未︶の本 家勘定は、貸借対照 表の貸方の主項目で あった。その計上額 金二、四七七両三分 ト一一匁九分三厘が この勘定に繰越記入 され、顧御一印が押 される。中井家の決 算では毎年本家下り 金をはじめ出資には すべて所定の利息が っけられるのである が、﹁年弐朱里入﹂ は﹁年利率弐朱﹂と いうことである。  かつおぶしを頼ま れて調達して送るが これは本家負担で帳 消されるのである が、値段不明のため 記録を中止し、後日 に委ねた。

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江州中井家帳合法の記帳技術 成十月十四日 九月預り分より 十月十六日盗 平兵衛給金 一金壱両弐分ト 一金七両三朱ト 五匁八分    四匁七分四厘 右巻内金弐分灘酒嫌金入、 借用 出入帳尻金 相渡し砿 右は寅の年前より店に 有来記田百銭壱文悪せんあり。 引戌十月十四日改  金弐千四百弐拾弐両壱分ト

〆 壱匁七分四里璽

9 引残 預り 戌八月廿九日 かつおふし九百目代本家貸、 三八  前項にも解説したように、山村氏は閉鎖後の店残品一切を買取るのであるが、 その代金のうち、端数だけを太田屋に支払い、金五〇両は日野表で山村氏が本家 に支払う約定であったので、債権の振替が行はれたということであり、それだけ 本家勘定から差引くべきである。 ︵針蝿︶㎝O副︹E置︶㎝O副の振替仕訳となる筈 の取引であるが、それが現金仕訳に替えられたもので、前項に掲げた金銀出入帳 の十月十二日の出金五〇両に該当するものである。大福帳に転記するとともに ㊨印が金銀出入帳に押捺される。  平兵衛は給金帳では第[番に口座があるから、上位にいた人に違いないが、こ の口座には小口の前貸のみが出されていて、給金の計算が行はれていない。閉店 に先んじて本家に呼戻されたものかとも思う。その給金か本家で支払はれたので 本家勘定を増さねばならないのである。即ち、前二者が控除される項目であるに 対して、この項は附加すべきものであって、正反対の性質である。これを記入す るに当って正負号は附けすに、  段下げて記載することによって他と区別した。 ここにも二面形式が成立する崩芽が窺いている。  最后に金銀出入帳の残高は全部本家送りとなったのであるが、それだけ本家口 を減すべき性質のものである。かくて一切引残って、金二、四二二両壱分ト、一 匁七分四厘が店卸目録に計上され、この勘定には改印が押ざれている。改印は戌 年︵閉鎖の年︶の店卸目録に計上した証である。 大福帳にば種々の勘定口座が設けられている。 ﹁店入用﹂ ︵営業雑費︶ ﹁村入用﹂ ︵公課︶ ﹁音信口﹂ ︵通信費︶﹁薬礼口﹂ ︵医療費︶ ﹁飯米口﹂ ﹁味噌溜﹂ ﹁肴屋払口﹂ ﹁青物口﹂ ﹁割木口﹂ ﹁油蝋燭口﹂ ﹁荒物口﹂ ﹁四葉粉口﹂ ﹁金隠賃口﹂ ﹁路用口﹂ ﹁樽入用﹂ ﹁蔵入用﹂︵製造経費︶ ﹁手船入用目し ﹁普請方入用﹂ ﹁日雇口﹂ ﹁店給金口﹂ ﹁勘定﹂︵過不足︶ 諸色売上口︵雑売上︶等の費用牧益勘定、 ﹁貸型込﹂ ﹁万懸口﹂ ﹁仕切帳之部﹂ ﹁給金帳之部﹂ ﹁諸色仕入帳之部﹂ ﹁山

村様立替物書抜口L等の債権債務の勘定が含まれていて、売上牧益その他一部の別冊の帳簿が設けられている科目をのぞ

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いて、総勘定口座が設けられているのである。店入用口を引用して一例としよう。   店諸入用口 成九月

一壱匁八分岡倒

一  匁弐分  豊里  〆 四匁 戌八月廿九日 一四拾八文三木代    ⋮⋮⋮⋮ 省 十月十日 一山三匁 一尺二付三分六厘    白木綿五尺 一尺二郎四分    紺木綿五尺五寸  九月廿二日 一山壱匁 番茶三

略⋮⋮⋮⋮

      三又殿ノ骨折曽       十月十二日       入銀壱匁四分四厘 白木綿四尺       入銀弐匁     紺木綿五尺        売払  十月十四日 一山四匁 夜具損料 *  右ハ山村様御出しそえ 茶伝殿払  引 }銀 ワ分六厘ト 〆山拾四匁 一此銀十三匁壱分三厘   壱貫弐百六拾弐文     江州中井家学合法の記帳技術  店入用勘定は営業費勘定であるが、上例のように、前期の決算で棚卸され有物 之部︵資産︶に計上された未消費額が、店卸目録から移されてこの勘定に繰越さ れ、当期決算ではまた残品があるので、棚卸されるのである。費用勘定と資産勘 定が合体された形、英米式決算法での用法と同じである。この意味で大福帳には 資産勘定が含まれているといえる。  *印の項は前項に掲げた金銀出入帳の出金の記帳に対応するもので、金銀出入 帳には転記の証㊥印が押してある。  入団一匁四分四厘、入銀弐匁の二記入は、若しこの期が満足な一会計期間であ るならば決算整理記入たる棚卸高になる筈のところで、この期が閉鎖による残品 処分の期であるから、残品を費用から控除して﹁山村様江立替物書抜口﹂即ち買 受人に対する債権の計算に振替えたものである。  それらの差引として当期営業費が算出されるからこれが店卸目録に計上される のである。一篇 印はこれを証している。  その他の例としては前項に掲げた﹁過不足勘定口﹂の写真を参照されたい。 三九

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江州中井口回合法の記帳技術 四〇  此銀十一・匁六分五厘 為金壱分ト拾匁三分四厘 一關一  右十月十三日 勘定に出す。 ①

@@@@

宮本又次教授前掲論文 九一頁以下 司法省編纂、滝本誠一校閲﹁日本商事慣例類集﹂所載の調査解答の大多数がこの点で一致している。

同書 

五三頁。   ③同書

同書  二八九頁。      ⑥ 同書

同書 二三三頁。   ⑦同書

拙稿﹁江州中井家の本支店会計法について﹂   ﹁江州中井家の決算報告法について﹂  二九一頁。  二八四頁  一・二頁 彦根論叢 五二号 五一頁 彦根論叢 三七号 七四頁 戸 ‘ 、 、

参照

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