日本人の音楽観と
江 戸 そ 期の教育観
を 中 心 に し てII
は じ め に 戦後のわが国のピアノ普及率は、驚異的だといわれる経済復興にまさ るとも劣らないほどの、世界でも比類のないものである。その陰で音楽 産業はますます巨大化し、音楽は商品として大量に再生産されている。 一方では、音楽産業の商業政策の一環として音楽教室が大盛況を呈し、 じつに多くの幼児・子どもが動員されている。それをとりまくように音 楽私塾が林立し、学校音楽教育に’も強いインパクトを与える現状となっ ている。 このような状況は音楽産業の企業要求と、巧妙に操作された親の要求 とのバランスの上に作り出されたものである。この背景には、操作され やすい日本的状況といったものを容易に想定することができる。こうし た日本的状況を生み出す要因のひとつに、音楽とその教育に対する文化 。的土壌、つまり、日本人の音楽・音楽教育観の問題かあろう。 われわれ日本人には、音楽を非生産的な娯楽主義、虚飾的教養主義、 直接的な実利主義的側面においてとらえる精神風土か、連綿としてつづ いていると考えることかできる。また、これらとは全く位相を異にする かに見えながら、じつは同じ文脈上にある音楽に対する情操主義、徳育 主義的思考形態も根強く、音楽教育をもこれらの文脈でとらえる風潮 が、なお一般化していると思われるのである。 ちなみに、子どもにピアノを私的に学習ざせて・いる親の目的意識は、 一 ”‘ ’\’ ⋮⋮バヽへ ’︱ ・ 八 木 正 一 ︵教育学部音楽科教育研究室︶ ある文献によると、︲趣味または教養七して 口手に職をつけさせるた め 呻他の目的のため︵音楽教師、保母等にさせる︶固音楽家にさせる ため 向文化価値実現の担い手を導くため というようにまとめられて いる︵・︶。﹁あそこの家で習わせているのならうちの子にも習わせよう﹂ う﹂∼という動機が、子どもをピアノ学習にかり立てる親の動機として かなり一般化していることを考えあわせると、同を除くならば、ピアノ 学習には、先述した虚飾的教養主義、実利主義につながる目的意識が強 く働いていると考えざるをえない。 また、最近の大衆音楽とそれにかかわる国民大衆の動向を観察するに つけ、展望のない生活の中での、非生産的な音楽娯楽主義への傾斜をは っきりと看取することができよう。 このようなわが国の音楽・音楽教育観のひとつの遠源を、若干の飛躍 を覚悟で、筆者は、日本文化完結の大きな結節期であり、いわゆる邦楽 の大成期でもある江戸期に、仮説的に求めることにしてみた。現代とは 下部構造の大きく異なる江戸期に醸成された音楽・音楽教育観と現代の それとを直接に結びつける’ことは、あまりに短絡的ずぎるかもしれな い。しかし、一国の文化的状況の中で、両者が無関係たりえないことも また事実であろう。 ‘ い 本稿では、江戸期士庶の社会的位置、生活、文化的特質を明らかにし つつ、その中で彼らかどのように音楽や音楽の教育にかかわっていった かを浮きぽりにすることによってへ江戸期における音楽とその教育観を一 一 高知大学学術研究報告 第二十八巻 社会科学 一定明らかにすることにした。今日の一般化した音楽・音楽教育観をよ り動的に把握することと同時に、今日の音楽科教育の目的論、教育内容 論に対する、文化論・価値論的視点確立への一助となれぱと考えてい る。 なお、江戸期の音楽二日楽教育観を記述するにあたって欠くことので きない、儒教における音楽論の諸問題やわか国における儒教的音楽論展 開の諸相については、音楽科教育における目的論にからめて、稿を改め ‘て詳述することとしたい。 一、江戸庶民をめぐる音楽 ︵一︶ 庶民の位置と庶民文化の特質 戦国時代の混乱は信長・秀吉の統一によって一応の終止符を打たれ た。刀狩りに始まる秀吉の一連の兵農分離政策は、それまでの封建制の 基層的変換をもたらし、徳川幕府による後期封建制確立への重要な布石 となった。 徳川幕府の基本的な政策のひとつか、武士層を頂点とするヒエラルキ ーの確立−いわゆる士農工商に代表される身分制度の確立と維持︱− に求められることは周知の事実である。この身分制をアプリオリなもの としてそれぞれの階級に徹底させることが、江戸期を一貫して幕府の腐 心してきたことであった。したがって、これが幕府の教化散策の中核を なすことは当然であった。 以上を前提として江戸期における庶民の位置、庶民文化の特質といっ たものを省察してみよう。ここでいう庶民とは、士以下の農工商をさし ている。士農工商に入らない階層I公家、神官、僧侶・、山伏、学者、 医者、賤民等−をどう扱うかは問題であるが、ここでは農工商を庶民 として︵中でも特に工商の町人層を中心に︶論を進めていきたい。 さて、われわれから見れば身分制は政策的に作られたものに他ならな い。しかし、江戸期にあってそれはアプリオリなものとして正当化さ れ、﹁天地自然の’人倫﹂︵a︶として喧伝されたのであった。だか、いくら ﹁天地自然の人倫﹂とはいっても、いみじくも熊沢蕃山が﹁人は皆天地 の子孫なれば何のいやしきといふ者かあらん﹂︵‘︶と述べているような率 直な疑問か身分制に対して起ってくるのは当然であった。これらに対し てさまざまな正当化が試みられている。﹁人有二四等一 日士農工商。士 以上労y心。農以下労‘力。労‘心者在A上ll労・力者在’下。・﹂︵s︶という ような武士支配と身分制の合理化か計られる一方、身分制を具体的な職 分の違いとしてとらえるような正当化も行われたのであった。武士は ﹁民を育む守護﹂︵6︶であり、﹁物作る﹂のは農民であり、﹁有無を交易 して人々の用を足さしめ﹂︵7︶るのが商人であるというかその論法であっ た。 しかし、このように身分制を職分によってとらえ、さらに﹁農工商は くにの宝﹂i︸として庶民層を見るのは、あくまで表向きのことであっ た。その実支配層にとっての庶民層は、﹁分別もなく末の考もなきも の﹂︵Q︶といったような愚民でしかなかったのである。だからこそ﹁財の 余らぬ様に不足なき様に﹂(S0)庶民層を収奪できたのである。 ところでこの身分制は武力を背景にした絶対的権力をもって定立され ただけに、被支配層である庶民は公的にそれを批判するどころか、ただ ひたすらに遵守し、﹁少しも分限に過候事共無え﹂∼ように生活するこ とを余儀なくされたのである。幕藩が庶民に対して期待するのは、身分 制度の中でそれぞれの分限を守り、基本的な人間関係とその倫理を規定 した﹁五常五倫﹂∼に代表される儒教的モラルをもち、さらに‘、封建体 制を維持発展させるために法令を遵守し、職務を履行し質素な生活を送 りうる能力なのであった。 しかし、江戸中期に至って徐々に経済的実力を蓄えてきた庶民層は、
特に商入層を中心にして、フレームの遵守を求める上からの要請に対し て、主体的なさまざまな反応を見せるようになる。商品作物・手工業製 品の生産を支える資本主義的経済の発展する中で資本家となった富有な 庶民層は、この身分制的思考と儒教主義的モラルを、自らの搾取形態擁 護のために積極的に取り込まざるをえなくなったのである。また、一般 の庶民層においても、忠・孝などの儒教主義的モラルを、自らの家父長 的家族関係を維持するために、ある程度内面化しなくてはならなくなっ てきたのである。 そういった一面がある一方、経済的興隆に支えられた庶民の自我が、 身分制との間に次第に軋蝶を引き起こしてきたことも事実である。しか しそれは、体制の打倒というような西洋型の形態をとらず、逆に、内向 的な解決の形態をとったといえよう。すなわち、絶大な経済力を背景に して武士の養子となって階層移動を計ろうとしたり(23f町人が自らの 子に武芸を習わせるといったような武士羨望的な形態として現われたの であった。 またもう一方では、﹁百年以来は、天下静謐の御代なる故、儒者・医 者・歌道者・茶湯風流の諸芸者、多くは町人の中より出来ることになり ぬ。水は万物の下にあって万物をうるほし養へり。町人は四民の下に位 して上五等の人倫に用あり。かかる世に生れかかる品に生れ相ぬるは、 まことに身の幸にあらずや﹂︵14︶というように、現実の制度に甘んじなが ら文化的側面において、あるいは観念的な意味で武士を凌駕しようする ような軋蝶に対する解決方向を歩んだのであった。 しかし、このような方向で支えられる庶民文化は、いかに洗練されて いこうとも、また、洗練されていけばいくほど、刹奈享楽的な、展望の ない娯楽に堕する危険を多分に内包しているものだといわなければなら ない。身分制的思考とそれにかかわる儒教的モラルの内面化、武士に対 する羨望と観念的反発−−これら庶民の反応の織りなす本質をぬきにし 一 一 -日本人の音楽観とその教育観︵八木︶ て江戸庶民文化は語りえないのである。もちろん、それは音楽について も同様である。 ゝ 。 ︵二︶ 庶民をとりまく音楽 江戸期に大成した近世邦楽は、浄瑠璃、長唄、筝曲、地歌、能楽、そ の他の音楽︵小歌はやりうた類、端唄、小唄などの小品歌曲類など︶の 六ジャンルに大きく分類できよう。まず、その中で劇場音楽として発達 し、庶民層に爆発的に流行した浄瑠璃と庶民のかかわりから簡単に見て みよう。このためには、庶民と芝居のかかわりをぬきにしては考えられ ない。まず、この点から見ていこう。ここでは三都を中心に述べていく か、交通網の発達した中期以降は、程度の差こそあれ、地方においても 状況は同様であったと思われる︵a︶。・ すでに元禄の頃から、芝居は庶民層に絶大な人気があったようであ る。たとえば﹁西鶴諸国ばなし﹂にも、多少の誇張をもってであるが次 のように記されている。。 ﹁浄瑠璃の太夫に、井上播摩とて、さまざまの節を語り出して、諸 人に口真似させける。ある時の正月芝居に、一の谷のさかおとしの 合戦を、五段につくり、人形もひとつひとつ、細工人こころをつく してこしらへ、役者もめいめいの魂入りて、源平西東にたて別れ、 大軍の所を遣ひけるほどに、大坂中うつして″、これ見物事とて、 ひさしくはやりける﹂︵16︶ ︵*大坂中の人がどこに移ったような超満員の盛況で︶ こうした芝居の人気は年を追うごとに盛りあがっていったのであり、 文化年間には、あまりの盛況のため芝居小屋か倒壊し、死傷者か出たと までいわれている︵U。まさに庶民層にとって芝居は ﹁楽しむ中の楽し み﹂︵18︶なのであった。男子もさることながら、酒色に楽しみを見い出す ことのできない婦女子にとってそれは無上の楽しみであった。﹁浮世風 呂﹂にも、芝居か子どもの遊びの中にまで侵透している様子がいきいき
四 高知大学学術研究報告’第二十八巻 社会科学 と描かれている︵a︶。’ 。・ このような芝居の流行とあいまって、浄瑠璃の盛況は大変なものであ った。すでに元禄の頃においてもそれは、﹁浄瑠璃隆興にして、‘’巷を過 る法師小童、頑愚言まじりなるも其一ふしの流儀ハおのづからそなハ リ﹂a︶というほどであった。この傾向は年とともに強まり、中期の元文 年間には、﹁⋮⋮向後一切上方ぶし︵豊後節︶ 浄瑠璃稽古者不及申、あ だロにも語中間敷旨急度可被申付候﹂︵a︶︵括弧内引用者︶というきびしい 停止命令か、幕府によって出されるほどの流行を見たのである’。しか し、このような布達も﹁其瑚ハ相慎有之候﹂’22︶程度の効果しかあげず、 町には稽古所が林立し、江戸後期に至っては、︲ ﹁新内と新内︵浄瑠璃の 一流︶がつきあた︵25︶︵括弧内引用者︶るような状況の中で、庶民層は浄瑠 璃と深くかかわっていったのである。 ’ このような浄瑠璃の爆発的な流行と平行して、筝曲・地歌も特に中流 庶民層に深く根をおろしていた。山田流が確立した江戸中後期には、 ﹁お釜さんは琴もなさいますネ。ハイ。生田を習せましたが、比間は 尼駄さま︵山田検校︶のほうへ上ました。もウ中許を取りましたヨ﹂︶ひ ︵括弧内引用者︶という会話が世間話の中で日常的に交されるほど、生田 ・山田二流を中心とした筝曲・地歌の教育か庶民層において行われてい たのである。 ところで、江戸期庶民に音楽が侵透していくようすについて、﹁民間 省要﹂では次のように語られている。 ﹁諸芸といへども、浄るり、小唄、音曲の数々、中間小物童男童女 の類に至迄、四座を学で俗を嫌ふ、昔は座頭猿楽の外には、かかる 芸は聞事なく、適々有といへど奇なりとして耳を驚せしに、段々近 年に至女中迄も皆学び得て、いつしか役者はあざむかれぬ﹂S︶ そして、ついには﹁町人は⋮⋮仮令困窮人といへども歌・浄瑠璃・三味 線・踊り・狂言・鼓・胡弓杯の稽古致させ﹂(g)'﹁繁花の市中に住ぬれ ば、一年三百六十日、糸竹のしらべを聞かぬ日もな﹂︵27︶い庶民の音楽状 況か生まれたのである。 このような状況の中での琴・三味線などの教習は、後の項でも述べ‘る ように、ひとつには庶民の教養、楽しみとしてなされたものであった か、それなりに庶民の生活の中で生きていることではあった。近隣の娘 たちが集まって琴や端唄を演奏して楽しんだり(fS)'﹁久兵衛が歌三味線 をひきかけると、内儀がきぬぎぬうたい出し、七つになる娘が度々の遊 山毎に、見覚へし舞をまふなど、かりそめにも比調子で楽む﹂︵s︶ような 光景は、相応の庶民の家庭では往々にして見られるものだったのであ る。実際に、楽器としての三味線もわりに手頃で、手に入りやすく、日 常的な楽器であった。﹁柏崎日記﹂には、三味線の値段や子どもに三味 線を買い与える時のようすか克明に記されている︵30︶。 また、三味線関係の音楽ばかりでなく、﹁嫁娶の節、祝言に小謡の 事、我等若年の頃は、庶民町家の婚礼に、親族盃事の時は、必ず一座の 者小謡を訊ふ事、定式にて有けり﹂︵い︶というように、謡も庶民の生活と それなりにかかわっていたものであった。後述するが、庶民の教育機関 ともいえる寺子屋においても、3Rsの他に謡の教育をするところがあ ったともされている。 さらに富有な町人層の間では、単に諸芸の教育を受けて楽しむだけで はあきたらず、その経済力にまかせてさらに大がかりな芸能−座敷能 や座敷狂言などI−を次のように生活の中に展開していたのである∼。 ﹁笛・鼓・太鼓をならべて、朝暮、座敷能を、善入、太夫をし給へ ば、四人の子ども、囃方を勤め、手代あまたあれば、ワキーツレ・ 地謡まで、家内にて仕舞ひ︵下略︶﹂︵9 ︵三︶ 庶民の音楽観 ひとくちに庶民の音楽観とはいっても、そう簡単に整理のつく問題で はないが、既述した庶民の位置、庶民文化に対する観点から、都市の町
人層を中心にして、庶民の音楽観に若干なりとも接近してみよう。 ﹁それ、人のもてあそびには、’琴棋書面の外に、茶の湯・鞠・楊弓・ 謡など、聞きよし﹂︵34︶ これは井原西鶴の言であるが、ここでいう﹁人のもてあそび﹂の﹁人﹂ とぽ、奈良茂や紀文などを代表とする富有な元禄町人をさしていると考 えられる。琴棋書画は当時の武士のたしなみとされた四芸であり、ここ では、﹃富有な町人のたしなみ教養が、武士のそれを模倣して設定されて いることに注意しなければならない。そこに、すでに述べたような武士 羨望的な意識を看て取ることができよう。 / 富有な町入層にあっては、武士階級を模倣する形で音楽および諸芸能 が、自らの経済的地位にふさわしい﹁たしなみ教養﹂としてまず位置づ けられたのである。それも次に見られるよ久に、実利的な意味あいをも もっているのであった。 ﹁茶湯・連俳・蹴鞠・楊弓・立花・碁将棋、並に謡舞・うち囃子等。 χ 一 一%一ls s% s l忽而遊芸之儀は、世間之交りも可二相成‘候得ば、少々心懸け候而も可y 然歎﹂︵35︶︵傍点引用者︶ また、このような実利志向は、若い時に金を儲けて年をとったら使って 楽しむという、一種の循環論的人生観c36︶とも密接にかかわっている。 これに関連して島井家訓には次のような一条が見られる。 ﹁薬・将碁・’平法・うたひ・まいのIふしにいたるまで、四十まで は無用候。何たるげいのう共、及二五十一候はくるしからず候﹂︵37︶ このような思考形態はじつに現世主義的なものであったと同時に、きび しい身分的制約のもとでの、経済力をもった町人のひとつの自己主張で あったといわなければならない。しかし、身分的制約下での現世主義に 支えられるたしなみ教養としての音楽・芸能観は、それが庶民のひとつ の自己主張であったとはいえ、経済力を誇示する虚飾的な音楽・芸能観’ につながっていったり、刹奈享楽・展望のない娯楽としての音楽・芸能 五 日本人の音楽観とその教育観︵八木︶ ・観につながる傾向を多分にもっているものだといえよう。J。 今述べたのはかなり富有な町入層についてであったが、このような思 考は、都市に住む一般の庶民層にも、徐々に見られるようになっていっ たのである。貨幣経済か進展する中で比較的自由な経済活動を行うこと ができ、それなりの経済的余裕をもちえるようになった商人層にそれは 著しかった。 ’‘ ’彼らの場合、自らのたしなみ教養としてもさることながち、特に娘の たしなみ教養として、音楽を含めた諸芸能に接したのである。それも、 どちらかというと娘自身のだめというより、親の虚栄を満たすために行 われたのである。つまり、次に引用するように、娘に琴・三味線の技能 を習得させることにより武家屋敷に奉公させ、それをもって娘のより良 い嫁ぎ口を見つけるIこれが親の誇りであり、娘の幸福に名を借りた 親の実利的要求だったのである。 ﹁女中も縫針稽古はさし置き浄瑠璃三味線を弾き何とも合点行ぬこ と也云々 守貞云女子三弦浄瑠璃を専と習ふこと既に百諒年前より の習風也今世益々比風にて女子は七八歳より学‘之母親は特に身心 を労して師家に遣る江戸は特に小民の子と雖ども必弓ず一葛を熟せ しめ夫を以て武家に仕へしめ武家に仕ざれば良縁を結ぶに難く一蓼 を学ばざれば仕ゆること難し依’之専ら三弦琴の類を学ぶ﹂︵38︶ 特に江戸では、全国の大名屋敷をはじめ旗本屋敷など、女中を必要とす る武家屋敷が非常に多く、その需要も大ぎかったのである`︵49︶。﹁町家よ り諸侯方へ勤め奉公に出づる女子は⋮⋮廿二能の試みを受け、堪能して召 し抱えらるるを当時の言葉に、お首尾したりという。故に素養の修行大 切なり﹂︵巴と述べられているように、事実、武家屋敷に奉公するために は芸能が必要とされたのであった。まさに﹁淘首尾したり﹂という・一語 のために、それなりの町家の娘たちμ芸能の修練に励んだのである。も ちろん、その芸能の主流が、琴・三味線であったことはいうまでもな
六 高知大学学術研究報告 第二十八巻 社会科学 余談になるが、娘にたしなみ教養として芸能を修練させようとする親 、の苦労と、いわばその犠牲になった娘たちの感覚とのくぃ違いはじっに 。興味深いものである。親−特に母親たちは﹁未に秘して費を弁﹂︵41︶じ てまで、娘の芸能修練のために腐心したのに対して、娘たちは﹁お稽古 のお休みか何よりもく最うくくくく一番よいよ﹂︵42︶といった 感覚でしかなかったのである。なぜなら﹁朝むっくり起ると手習のお師 さんへ行てお座を出して来て、夫から三味線のお師さんの所へ朝稽古に まゐつてね。内へ帰って朝飯をたべて踊の稽古からお手習へ廻って、お 八ツに下ツてから湯へ行て参ると、直にお琴の御師匠さんへ行て、夫か ら帰って三味線や踊のおさらひさ、其内に、ちイツとばかりあすんで ね。日が暮ると又琴のおさらひ﹂︵43︶をするほど、終日稽古に追われてぃ たからである。まさに現代の子どもの生活の引きうっしであろう。 さて、いくら武家屋敷女中の需要が大きかったからといっても、すべ 。ての町家の娘が奉公したわけではない。それなりの経済力と才覚をもっ た者たちがその恩恵に浴したわけであるが、これまで述べたような状況 と音楽観は、程度の差こそあれ、一般の庶民層に侵透してぃったと考え ら、れよう。 ’ 中には、﹁浄瑠璃三味線踊り狂言太鼓胡弓杯の稽古いたさせ、生ひ育 を遅しと待兼、未だ年の至らざるに或は遊芸者といたし、或は囲ひもの とすることを急﹂︵6︶いだり、また、﹁女子之手業ハ捨置、三味線其外遊 唇を而己重二為習候故、頃立候得ハ多く下賤恥を不存、娘を唇者叉者寄 セ浄瑠璃二差出、父母者陸︱渡世も不致、娘之稼キュ而暮候﹂柘︶という きわめて実利的な状況も見られたのではあったが、一般的であった女子 の音楽教育は、まず第一に嫁口のためのたしなみ教養として、武士階級 を意識しながら行われたといえよう。当然、この問題は、江戸期におけ る女性の位置、権利、女性観の問題と切り離しては考えられないであろ たしなみ教養としての音楽という点にもかかわって、ひとつつけ加え ておきたい。重複するようであるが、それは次のような地位・経済力の 虚飾としての音楽・・芸能観である。 ﹁有福の町人の娘共は、寵愛の除りに踊狂言を習はせ、錦金欄其外 芝居役者同様の衣裳を筋り、宿にて芝居を成、折々役者を招きて奔 走し、又は下た形といへる囃子方の啓子共を抱へ置、或は花見遊山 又は別荘杯へ連行て踊狂言を催し、世間の人に見せ振す他﹂︵46︶︵傍 点引用者︶ これと同じ文脈にある﹁素人狂言もあまりたわけと心づきて、それより 乱舞にかかり⋮⋮⋮金にあかせて、伝授事などすまし、能の装束何不足 なくこしらい、それよりよほど見識たかくなり﹂︵47︶などという価値ラン クづけ的な音楽観も、現代に深く根づいているものといわなければなら ない。 さて、身分制のわく組みの中で、きわめて現世主義的な音楽・芸能観 が庶民の間に生まれたことについては先述したか、それは次の一文に集 約されていよう。 ﹁金銀を儲ためても、来世へ持て行くでもなし、死ねば石瓦にひと し、人に生れた徳には、花奢風流も少しは好み、相応の楽しみも仕 て暮したし﹂︵48︵ 身分的制約下でのこのような現世主義は、音楽=娯楽観と容易に結びつ く。それも、﹁南錬壱片︵稽古のため浄瑠璃の師匠に支払う謝金︶を六十日 に割れ八、・上日十弐文ばかりにあたる。是にて昼夜楽しむこと奢に あらず、栄耀にあらず、程よき楽ミなるべし﹂︵49︶︵括弧内引用者︶とい ったような﹁相応の楽しみ﹂という意味での娯楽観に結びついていくの である。もちろん、庶民にとって、音楽は理くつぬきに楽しいものでは あった。三味線の楽しみは﹁おもしろさこつずいに入りて忘れられず。
夜のあくるを持ちかね永井方へ日々通ひ、後には四五日もとぅりうして 帰ら﹂︵50︶ないほどのものであり、琴にっいても、﹁サアくく今宵は 大だのしみく。⋮⋮⋮お琴では何にもいらず、まことにくぉ琴なら `最う﹂︵51︶。というように、それは同様であった。 しかし、このような音楽=娯楽観は、われわれが志向するような音楽 そのものの楽しみIII‘つまり音楽がわかることによる本質的な楽しみと は次元を異にするものであり、それは、いわば消費的、現実逃避的な意 味あいの濃いものなのである。いかに歴史的必然とはいえ、音楽の楽し みが次のような思考に帰着したことは大きな悲劇でさえあった。 ﹁さうさ、さうさ、字をしるよりか、三弦を習て踊の地を引く方が いい、むづかしい字をしる程、損がいくかと思ふよ﹂︵52︶‘ 二、武士層と音楽 ︵一︶ 武士の退嬰化 引きつづいて武士と音楽とのかかわりを簡単にまとめておこう。ま ず、江戸期。における武士の社会的状況といったものを省察しておこう。 武士は士農工商という大きなヒエラルキーの頂点に立つ特権的な階級 であった。もちろん、この武士階級自体、将軍大名そして何千石という 上級武士から何人扶持という下級武士にいたるまで、衣食住におよぶき びしい統制を伴ったヒエラルキカルな構造体であった。とはいえ、農以 下の階級に対しては、上級武士下級武士を問わず絶対的権力をもった支 配者としての存在であることには変わりはなかった。特に江戸前期には この傾向が強かったといえる。権力のひとつの象徴ともいえる豪華な武 家屋敷、格式をもった躾、和歌、筝、琵琶などの風流なたしなみI−こ れらは庶民層の羨視の的であった。 しかし、江戸初期に培われた武士の権力は、形式的にはともかくも、 実質的には次第に低落を余儀なくされたのである。武士の生活は江戸中 七 日本人の音楽観とその教育観︵八木︶ 期にいたって一変した。﹁弓は袋に剣は鞘に治まれる﹂CS33)大平の世にな り、武士は戦闘要員から文官としての存在に変化せざるをえなくなっ・て きたのである。しかし、文官として行政に参与できたのは中以上の武士 層であり、多くの下級武士層には、退屈な目的のない、形式的な動めし か与えられていなかったのである︵54︶。また文官として行政に参与した 武士も、硬直化したヒエラルキー構造の中では主体的に自らの職務を遂 行することはできず、あげくのはてには、田沼時代に代表されるような 腐敗の中に身を埋めていくほかはなかったのである。このような中で、 武士階級の全体的な退嬰化現象が生じてくることは当然であった。 もちろん、この現象を生み出した第一義的な要因は武士の。経済的困窮 にあった。江戸封建制は、農民に対する過酷な収奪の上に定立した形態 であった。したがって、農業技術の進歩や新田開発による農業生産の向 上により、そのかぎりでは、幕藩の経済も安定・’向上するはずであっ た。しかし、歴史の必然的な流れは、幕藩の思惑と真向うから対立した のである。貨幣経済化が進行する中で、商品流通、手工生産によって莫 大な富を蓄えた商人層が勃興してきたことは、幕藩経済にとって大きな 誤算であった。幕藩経済の深刻化は、このような富を蓄えた商入層に対 して、農民に対するほどの収奪ができなかったことから生じた結果でも あった︵55︶。 江戸時代も百年たつと、まさに﹁金が金を呼ぶ世の中﹂∼であり、そ こでの商人の力は﹁日本国中ヲ十六分テソテ、其十五八商頁ノ収納、其 一八武家ノ収納﹂色とまでいわれるほどだったのである。幕藩の財源で ある米も、商人の手を通さなければ流通はおろか、換金さえもできない 状況であった。手工業生産品に対する需要が日々増大していくにつれ、 旧態依然とした米経済を保守する幕藩経済が破綻するのはむしろ必然で さえあった。 幕藩経済の破綻は武士階級全体の困窮に結果したのであるが、特にそ
八 高知大学学術研究報告 第二十八巻 社会科学︲ れは、階級内弱者である下級武士層に、大きなしわよせとなって表面化 したのである。江戸中期以降、下級武士の賃金としての蔵米は遅配か相 つぎ、﹁親の身代先祖の譲り武具馬具はもとより、女房子供の衣類諸道 具までしろなし﹂︵n︶という下級武士の状況さえ生まれたのである。しか し、さらに悲劇的であったのは、こうした経済面での実質的な地位と、 支配者としての形式的な地位との軋棒の中に武士たちが生活しなければ ならなかったそのことであろう。先の職務の問題とあわせて、このよう な状況か武士の退嬰化現象を導き出したのである。 ところで、江戸期における武士の庶民化ということがよくいわれる。 すべてにそれがあてはまるとは思われ広いが、こと音楽に関しては、そ の傾向が著しかったと考えられる。次項で考察するように、ヽ武士層は、 本来庶民の音楽であった三味線を中心とする俗楽の、積極的な担い手に なったともいいうるのである。全体的な経済的困窮の中におかれていた 武士か、多少の余裕をみつけては、浪費の対象でもある俗楽と積極的に かかわったことはじつに興味深い。武士の退嬰化という問題を等閑にし て、このことは考えられないであろう。庶民層が自らの俗楽を支えた意 識と、武士が俗楽にかかわっていった意識を比較する時、後者の方によ り深刻な問題が内在していたともいえるのではなかろうか。 ︵二︶ 武士をとりまく音楽および音楽観 武士層とかかわりの深かった音楽として、まず第一にあげなければな らないものは何といっても能楽であろう。能楽は、江戸時代に入って武 士の式楽として一般化され、幕府をはじめ多くの藩で、諸祝の節はいう に及ばず日常的に演じられていた。したがって、諸藩が能楽関係者を抱 えおくことは通例であり、藩士の中にも、これら専門家のところでその 教育を受けたものがあったであろうことは想像に難くない。﹃毛利十一 代史﹄には、次のような記載がみられる。 ﹁有時御能被遊候前日福島九郎右衛門へ何ヲー番勤ヨト被仰付候へ ハ俄事出来兼段々御断中上候得共御了簡無之九郎右衛門前夜イツレ ノ御座敷ニテカ終夜稽古仕翌日ノ御能宜出来御賞美アリ夫トナク御 納戸ヨリ何カ被遺候由﹂∼ これなど、武士のたしなみとして、能楽が必要とされたことを示す好例 であろう。 また藩によっては、武士の素養として、健康的なレジャーとして能楽 を奨励したところもあったようである。会津藩大学校︵至善堂︶におい ては、毎年春、校内に能舞台を設置し、全員で謡曲を歌い能を楽しむ催 が行われていたとされている︵60︶。同様に、松代藩文武学校では、その 教育の一環として、夕飯後謡の学習をしようとする試みまでなされてい た︵61︶。 このように能楽が武士とかかわった背景には、能楽自体に武芸の修練 と相い通ずるきびしさが要求され、それが武士の気質と︼脈通じた︵62︶と いうこともあろうが、それにしても、能楽と武士とのかかわりは、たし なみとして、公的な意味あいの強いものであったといえよう。 それに対して武士が私的にかかわったのは、三味線を中心とする俗楽 であった。かかわったというより、ある意味では、積極的な支持層であ ったといっても過言ではなかろう。﹁弓の代りに三味線を弾く武士﹂︵9 という鄭楡が端的に示すように、全般的な退嬰化現象の下で、深刻であ った経済的事情にもかかわらず、俗楽や酒色による遊興で口︰’々を送るこ とが、武士に一般化していたであろうことは容易に想像できる。﹁嘉永 日記抄﹂には次のような一文がみられる。 ブ ﹁八丁堀仲間といへば、酒席にて白髪あたまの手踊をする三味線を ひくは常のことには同心などの中には幇間も及ばざる芸人もあり﹂︵u︶ まさに、﹁琴・三弦互いに交響、酒行歌謡す﹂(§)る状況は、それなりの 経済が許す武士には日常のことだったのである。武士の学校である藩校 において、﹁文武ノ道相心懸中度候只ウカくト遊慰二傾牛音曲禽獣ヲ
好ミ云々﹂︵66︶に類した達が多くみられるのはこのためであろう。 江戸中期以降の爆発的な浄瑠璃の流行に対しても、武士ば無関係たり えなかった。中下級武士などは、庶民と同様、その積極的な支持層であ った。﹁鸚鵡中箭日記﹂の作者朝日文左補門︵名古屋藩下級武士︶は、浄 瑠璃のおもしろさを﹁からくりの奇妙さ、干花金字落五色彩雲流廻背楽 心能実盛﹂︵67︶とその日記につづっており、彼は編笠をかぶり裏道を通っ てまでして、倹約令の出ている中をせっせと浄瑠璃見物に出かけている のである︵68︶。こうした武士の行動に対して、﹁歌舞伎芝居丼右に似寄候 場所へ御家中一弁勤人之向見物に罷越候儀前より御制禁⋮⋮右等之場所へ 罷越候者有之候はx見附次第相改屹度可被仰付候﹂︵69︶といったような禁 令が出されるのは常であったか、それもほとんど効果をあげえなかった と思われるのである。 さらに、芝居浄瑠璃をただ見物するだけでなく、積極的にその教育を 受け自ら演奏する武士も多かった。著しい場合には次のような状況さえ あったのである。 ﹁次第に侍の風俗くづれ、乞食、河原ものゝ夙になり行き、小身衆 は豊後ぶしの会をなし会料をとり、或は太夫号を取とかや。’浄るり を上手に語れば。、太夫方より、何太夫という、太夫号を授くる。是 を番い思い手柄となし、何の誰という人も、上るり仲間にては、何 太夫とよびかわして通用す。侍の姓名をば、公儀事にのみ用ると心 得、太夫よりもらし太夫号を通用す﹂む また、自らは俗楽を学ぶことはなかったにしても、妻女にはその教育 を受けさせることが常であった。まさに、﹁この辺︵武家町︶両側の店 ども、女子に遊芸を習わしめざるかというに決してさにあらず。琴・三 味線の芸は勿論、手踊・笛・太鼓迄も習わしむること殊に甚し﹂∼︵括 弧内引用者︶い状況だったのである。 同様に、﹁世事見聞録﹂では若干の非難を込めて、﹁武士も⋮⋮娘に 九 日本人の音楽観とその教育観︵八木︶ 踊り狂言を仕込又は自身にも踊り、妻妾なるものに三味線太鼓なと取 りて鼠ひはやし、殊に下賤の者共を朋友にして放埓に暮すもの多く有 り﹂9というように述べられている。こうしてみるかぎり、武士をとり まく音楽、そしてその音楽観は、非生産的という点において庶民のそれ とほとんど変わることはなかったと思われるのである。 三、音楽教育の概要と音楽教育観 はなはだ粗雑な行論ではあったか、以上考察してきたような音楽観を 背景にして、どのような音楽教育が行われたかについて次に考えなが ら、音楽教育観について言及してみよう。 現代と同様江戸期においても、音楽教育は公的機関で行われたもの、 私的機関で行われたものの二つに大別できる。前者に該当するものとし て、藩校における雅楽を主体とした音楽教育があげられる。この教育の 実際や問題点についてはすでに報告ずみであるので︵73︶、ここでは割愛し ておきたい。 後者に該当するものとして、寺子屋における教育、各種私的教授所に おける教育など︵74︶か考えられる。当然のことながら、士庶を問わず積 極的にかかわったのはこの私的機関での音楽教育−特に琴・三弦を中 心とした私的教授であった。以下、これらについて、音楽観を視座にと りつつ概観してみよう。 まず、寺子屋における音楽教育について述べておこう。寺小屋は中世 寺院における世俗教育にその起源をもっているといわれるが’a︶、江戸時 代に入っての庶民の現実的な教育要求の高まりとともに、庶民教育機関 として飛躍的に発展したものである。もちろん、庶民側からの要求だけ ではなく、享保期以降増大した庶民教化に対する幕藩の関心が、寺子屋 充実の大きな要因でもあった。 さて、江戸だけで八百余あったとされる︵76︶寺子屋の教科目は、何と いっても、読み・書き・算の実科的な3Rsか中心となっていた︵77︶。こ
一〇 高知大学学術研究報告 第二十八巻 社会科学 のような寺小屋においては、体系的な音楽の教育を望むべくもなかった が、必ずしも音楽の教育と全く無関係であったともいえないようであ る。この点に関して、﹃南紀徳川史﹄に次のような記載がみられる。 ﹁習字の間に代師音頭を取り生徒一同に手本の読み又は八算九々の 呼び声を教授す是れ傍ら衛生発声の為なるへし⋮⋮⋮又師匠により ては折々習字を午後に止め謡曲を教ゆるあり衆生徒円座し同音に和 唱今の唱歌を教ゆるに同しといふ﹂︵78︶ これと同様の記述は、﹁小童の手習師匠は、稽古終には小童に謡を数ゆ る事、一統に有し﹂∼等々散見され、寺子屋におけるこういった謡教育 が、おもにたしなみとして、かなり行われていたことが推測される。 また、幕末にいたっては、一種の女学校的な寺子屋が出現するように なった。たとえば、現在の愛媛県温泉郡の女性寺子屋師匠であった、石 崎なかの経営した三津屋などはその好例であろう。﹁三津屋の師匠石崎 なかは博学多能の女師匠で習字読書の外、裁縫活花糸竹の道をも女児に 教へた﹂︵80︶とあるところから、女子のたしなみとして、琴や三味線など が教育されたと思われるのである。このような寺子屋がある程度あった ことは十分推測しえよう。 しかし、いずれにしても、これら寺子屋における音楽教育は、たしな み教養という倭小化された訓育レベルで行われたものと考えられる。現 代の学校のひとつの前身である寺子屋で、このような理念のもとに音楽 の教育が行われたということは、既述した音楽観を背景にした親や社会 的要求からの帰結でもあった。 さて、江戸期音楽教育の主流は、何といっても、浄瑠璃、長唄、筝 曲、地歌などの専門家による私的な教育であった。特に三都を中心にし てこれらの教育は、﹁師範軒を並て是を教ゆ﹂︵81︶というほどの盛況を呈 したといわれる。これらの私的教育には、それ者芸︵専門家養成教育︶ と素人芸かあったが︵a︶、広汎な士庶を対象としたのは、いうまでもなく 後者である。 ところで、このような教育は、わか国特有の家元制度に支えられたも のであった。雅楽はもちろんのこと、能楽、浄瑠璃、長唄、筝曲いずれ を問わず主要な近世邦楽のジャンルは、ニュアンスの違いをもちながら も、そのほとんどが家元を構成していたといっても過言ではない︵83︶。 ﹁秘密杯とて免許印可の巻に載、一子相傅などとて深秘する国風は浅は かなる次第ならずや﹂︵怒というような家元全般に対する批判をよそに、 このように家元制度が興隆したのはなぜであろうか。この点にもふれな がら音楽の私的教育を概観してみよう。 今対象としているのは雅楽を除いたいわゆる近世邦楽諸流であるが、 それらの家元構成の第一の要因は、近世邦楽か庶民層の絶大な支持を得 て、教養・楽しみとして、その教育を受けようとする数が飛躍的に拡大 したことにあろう。江戸期に入っての芸の専門化とそれを支持する層の 増大か、かつては河原者と賤視されていた芸入たちの自らの芸への自覧 を生み出し、それが西山松之助氏の指摘している﹁権威脆拝意識﹂︵a︶と 結びついて、わか国特有の家元制度か興隆を極めたといえる。またさら に、教育を受けようとするものの増大に伴なう経済的要因も、家元制興 隆の重要なポイントであった。事実、相伝による金銭収受が家元の大き な収入源であり、秘匿権をもつヒエラルキカルな家元構造は、こうした 経済的意味においてもじつに巧妙なものであったということかできる。 このような家元での教育の実際については、ほとんど推測の域を出な いか、多少とも専門的に学ぽうとする者は、師匠の見よう見まねを基本 にしつつ、﹁百篇弾﹂、﹁寒稽古﹂に代表されるような、精神主義的な 方法で練習に励んだのであろう。参考までにあげておくが、﹁寒稽古﹂ といわれるのは次のようなものであった。 ﹁中々ヒドイ寒中の修業をしたもので、二階ならその二階を丸で明 けっぱなしにして、そして大きな声で早朝の寒い時を撰んで五十日
とか百日とか毎日続けたものです。よくその頃を覚えております か、愈よ手が冷くなって凍えるとその手を水へつけて暖める、水へ つけて暖めるとは可笑しいが実際に手が凍えてくると水へつけると 暖かくなります、そして弾く曲は日によると五十弾きとか三十弾き とかをやります、何しろ昼は稽古の方が忙しいし、かうした練磨修 業はその外の時にして一心不乱にやります﹂︵86︶ まさに、これは﹁芸術はおもてより、内々の心がけこそ専一にて候 へ﹂︵87︶の実践版であろう。 このような精神主義的傾向は、儒教的音楽思惟形態の位相とかかわう てもとらえることができる。しかし、いずれにしても、これら精神主義 は、音楽のたしなみ教養観と結びつくことにより、情操主義的音楽教育 観に結果していったと考えることができるし、一方では、非科学的な音 楽の目標、教育方法論を生み出す温床を再生産しながら、現代の音楽教 育のひとつの遠源を形成していると考えられるのである。 ところで、先ほど述べたような方法は、近世邦楽の被教育者すべてに あてはまるものではもちろんない。じつに興味深いことに、素人弟子に 対しては、全く対照的な教育がなされていたのである。次の引用文から それを窺うことができよう。 ﹁素人げいこ、或は大名官吏はさらにもいはじ、持丸長者のとかく 所望してならふものゆへに、、まづ一通りすらりくと伝授するに・: ⋮⋮おiね慰にすると云こと有によりて、師匠も、わきて其男がし たiかつくしても″恥にならずと思ひ、習ふものも、其心得にて 一通りのけいこを得て、是で伝授ごとはすんだそうなと思ふもの 也﹂︵88︶ ︵*ひどいできぱえであっても︶ 主流であった町家の子女に対する琴・三弦の教授は、まさにこのよう な﹁一通り﹂の状況が一般的であったと思われる。浅薄なたしなみ、教 一 一 日本人の音楽観とその教育観︵八木︶⋮ ⋮ 養観、皮相的な娯楽観からの当然の帰結でもあろう。彼らにとっては、 稽古所に通うことに第一の意味があったのであり、音楽の質を問うこと なく一応のディプロマさえ手に入ればそれでよかったのである。このよ うな私的教育の状況は、被教育者の要求と教育者の利との合致点の上に 現出したものなのであろう。 現世享楽的な娯楽を求めて爆発的に被教育者か増大した浄瑠璃に、 こういった傾向はさらに著しくみられたのである。﹁蟻が涌くがごと く﹂︵9素人浄瑠璃愛好者が増大した状況下での浄瑠璃稽古屋の教育の実 態は、驚くべきことに次のようなものであった。 ﹁去るによ’つて稽古や殊之外いそがしく一町に三四軒程つゝあり て、末へ町なりとも稽古屋の無ハなし。先弟子より師匠足ざる故、 浄瑠利四五段おぼへると、進めて稽古屋となる。⋮⋮⋮先一封を持 参して、師弟の礼をなす。扨稽古と成るに、師匠の知らざるもの多 くあり。知らぬといはばI封逃ても去んかと、今晩は本見へず明日 と突延し、明朝早々に近附へ行て節を聞き、直様受売の片言交り、 師匠さへおぽえねバ、弟子猶どきくとして分らず。是ハ’余り六か ・敷なり、代物をかへんといふ。師匠悦びお前にハ是がよろしかるべ しと、少し覚人たるものを、進めて稽古する﹂︵90︶ これかそのまま事実であり、仮りに他の邦楽家元諸流に若干なりとも みられる傾向であったとしたら、皮肉なことに、家元にとって本来歓迎 されるはずの被教育者の増大という現象が、芸の水準を保とうという家 元制の本質のひとつの瓦解につながる危険性を生みだしたとさえいうこ とができよう。 さらにディレッタンティズムが進行する中で家元制そのものを崩壊さ せるような、また、現代の私的教育とも直接つながるような、次のよう な形態まで現出したのであった。 。﹁伊介といふものは絵双紙道行本の類取売の小商見世を出し置て、
一二 高知大学学術研究報告 第二十八巻 社会科学 伊介は浄瑠璃の指南太夫といふ程にはなけれ共、素人の分では巧者 な浄瑠璃、近所小息子、手代すんま、心安いを幸いに数十人程稽古 に行けるゆへ、毎夜く夜の深るまで三味線の音も聞へけり﹂︶91︶ 以上のスケッチから明らかなように、江戸期における私的機関を中心 にした音楽の教育は、前項までに述べてきた音楽観を直接反映して行わ れたと考えることができる。たしなみ・教養観、娯楽観、精神主義、実 利主義−これらの複雑なからまりの中に、江戸期に培われた音楽教育 観をみることができる。 歴史的条件をぬきにこの是非を短絡して問うことはできない。しか し、そのような音楽教育観は、学校概念としての音楽教育につながる方 向としてではなく、別の文脈において、われわれ大衆の社会的状況とも 深くかかわりながら現代に生きづいでいるということだけはできるであ ろう。 お わ り に 歴史と現代の問題点との接点をどう設定し、それに対してどのように 切り込むのかという問題は、歴史研究の根幹にかかわるきわめて重要な 問題であろう。このためには何之いっても、正確な事実認識が第一義的 な重要性をもっていよう。本稿の展開を顧みる時、こうした基礎的作業 が正確に行われたかどうかについて若干の疑問を感じざるをえない。ま た、音楽観・音楽教育観などという実体の把握しにくい、ある意味では 恣意的附会がまかり通るような問題を扱ったため、史料不足という現実 とあいまって、はなはだ客観性、論理性に欠ける展開になってしまった ことを痛感している。 本稿をこのように反省しながら、なおかつそこに、現代へかかわる一 定の意味が残されているとしたら、それはおよそ次のような文脈におい てであろう。音楽の教育は、社会の’音楽観、音楽教育観からの有形無形 のインパクトによって、実質的なその性格か決定される側面もある。こ のことから、現代の学校音楽教育にかかわって、必然的に次のことがい える。つまり、国民的な音楽・音楽教育観を変革することにより学校音 楽教育を変革することかでき、また逆に、学校音楽教育によって国民的 な音楽・音楽教育観を変革することもできる。前者は、国民総体か自ら の社会・文化・生活にどのような展望をもち、その展望に対してどのよ うな行動を組織していくかという問題にかかわっていくのであり、それ は民主的な学校教育全体の問題に収束していく。それに対して後者は、 直接学校音楽教育、つまり音楽科教育の問題にかかわっていく。すなわ ち、音楽の本質的な教育内容の措定とその教材化を通して、すべての子 どもに音楽がわかる権利を保障し、そのことによって子どもの全面発達 にあたうるかぎりの接近を果さなければならないという、われわれ音楽 科教育に携わる者にとって、きわめて現実的な課題に収束していくので ある。両者を相反させることなく、なおかつ後者のもつ問題に実践的に 接近していくことの現代的意義はきわめて大きいと思われる。 Λ注および引用文献∇ ︵︱︶ 大野 桂﹁こともの心理とピアノ指導法﹂ 二六∼三五ページ参照 ︵2︶ 同前 一九ページ ︵3︶ 中村幸彦校注﹁近世町人思想﹂日本思想大系59 八七ページ なお参考までに、荻生狙彿などはこのように考えず、身分制を聖人の作 為としてとらえている。︵﹁狙練先生問答書上﹂ ﹁荻生狙練全集﹂第六巻 一七六ページ参照︶ ︵4︶ 熊沢蕃山﹁夜会記﹂蕃山全集刊行会編﹁蕃山全集﹂第五冊一四五ページ ︵5︶ 雨森芳州﹁橘窓茶話﹂ 日本随筆大成刊行会﹁日本随筆大成﹂第二期第 七巻 三六七ページ ︵6︶ 熊沢蕃山﹁花園会約﹂ 文部省編﹁日本教育史資料﹂二冊 五八ページ ︵7︶ 山下 武﹁江戸時代庶民教化政策の研究﹂ 三七ページより引用 ︵8︶ 中江藤樹﹁翁問答﹂上巻の本 日本思想大系29 四一ページ
︵9︶ 山下﹃武 前掲書 三二ページより引用 ︵10︶ 藤原惺罵﹁本佐録﹂巻一 日本思想大系28 二八九ページ ︵11︶ 石井良助校訂﹁徳川禁令考﹂前集五 二五八ページ ︵りI︶ 五常とは、仁・義・礼・智・信の徳をさす。五倫とは、君臣、父子、夫 婦、長幼、朋友の人間関係をさし、それぞれの理想的なあり方として、 義、親、別、序、信が設定されている。 ︵13︶ 辻善之助﹁日本文化史﹂Ⅵ 一七五ページ参照 ︵14︶ 西川如見﹁町人嚢﹂ ﹁近世町人思想﹂ 前掲 八八ページ ︵15︶ 芸能史研究会編﹁日本庶民文化史料集成﹂第七巻 一〇∼一一ページ参照 ︵16︶ 井原西鶴﹁西鶴諸国ばなし﹂巻之四 ﹁井原西鶴全集﹂二 I四五ペー ジ ︵17︶ 加藤曳庵﹁我衣﹂ 谷川健一郎編﹁日本庶民生活史料集成﹂第十五巻 二I九ページ参照 ︵18︶ 菊地貫一郎﹁絵本江戸風俗往来﹂ 七二ページ ︵19︶ 式亭三馬﹁浮世風呂﹂、日本古典文学大系63 二二ページ ︵20︶ 竹本筑後禄段物﹁浄瑠璃当流小百番﹂ 前掲﹁日本庶民文化史料集成﹂ 第七巻 一三六ページ ︵21︶ 吉川英史﹁日本音楽の歴史﹂ 二六九ページより引用 。 ︵22︶ ﹁徳川禁令考﹂ ︵前掲︶前集五 四五八∼四五九ページ ︵23︶ ﹁浮世風呂﹂四編巻之下 前掲書 二九二ページ ︵24︶ 同前 一三一一ページ ︵25︶ 田中丘隅﹁民間省要﹂中編巻之一、国民精神文化研究所編﹁日本教育史 資料書﹂近世下 二八六∼二八七ページ ︵26︶ 武陽隠士﹁世事見聞録﹂前掲﹁日本庶民生活史料集成﹂第八巻 七四〇 ページ ︵27︶ ﹁我衣﹂前掲書 一五一ページ ︵28︶ ﹁浮世風呂﹂前掲書 二二八∼二二九参照 ︵29︶ 永井堂亀友﹁小児養育気質﹂ 帝国文庫﹁気質全集﹂七三一ページ ︵30︶ 渡辺勝之助﹁柏崎日記﹂ 前掲﹁日本庶民生活史料集成﹂第十五巻 六 七六ページ ︵31︶ 小川顕道﹁塵塚談﹂下之巻 前掲﹁日本教育史資料書﹂近世下 一三一 ページ ︵32︶ もちろん、これまで迷べてきた庶民層とは対照的に、﹁琴だの、胡弓三 弦だのと、あんなやさしい事をしてゐる。あれで間尺に合ふものかネ﹂ ︵﹁浮世風呂﹂︶という発言をしなければならない庶民層が多く存在して いたこと、そして、きびしい収奪のもとに、われわれが近世邦楽と通称し ている音楽にほとんどふれることができない農民たちか、圧倒的に多かっ 一 一 一 一 日本人の音楽観とその教育観︵八木︶ たということには留意しておかなければならない。ヽ ︵33︶ 井原西鶴﹁本朝二十不孝﹂巻二 前掲﹁井原西鶴全集﹂二 二三〇∼二 一己ページ ︵34︶ 同前巻五 前掲書 二九七ページ ︵35︶ ﹁幸元子孫制詞条目﹂ 前掲﹁近世町人思想﹂ 三八六ページ ︵36︶ 高尾一彦﹁近世の庶民文化﹂ 八ページ参照 ︵37︶ ﹁生中心得身持可‘致二分別‘事﹂ 前掲﹁近世町人思想﹂ 三七八ページ ︵38︶ 喜田川守貞﹁近世風俗志﹂ 一八四ページ ︵39︶ 森末義彰他﹁生活史Ⅱ﹂ 体系日本史叢書16 一四〇ページ参照 ︵40︶ 前掲﹁絵本江戸風俗往来﹂ 七二ページ ︵41︶ 同前 七五ページ ︵42︶ ﹁浮世風呂﹂二編巻之上 前掲書 一二九ページ ︵43︶ 同前 ︸八五ページ ︵44︶ ﹁世事見聞録﹂ 前掲書 七三六ページ ︵45︶ 東京大学史料編纂所﹁大日本近世史料﹂市中取締類集一 一七ページ ︵46︶ ﹁世事見聞録﹂ 前掲書 七三六ページ ︵47︶ 明誠堂喜三二﹁見徳一炊夢﹂ ﹁黄表紙洒落本集﹂ 日本古典文学大系 59 五九ページ ︵48︶ 岩垣光定﹁商人生業鑑﹂巻四 日本経済叢書刊行会編﹁日本経済叢書﹂ 第七巻 五〇六ページ ︵49︶ 太瓶楽居﹁音曲鼻けぬき﹂ 前掲﹁日本庶民文化史料集成﹂第七巻 二 三二ページ ︵50︶ 作者不詳﹁当世宗匠気質﹂巻之四 前掲﹁気質全集﹂ ︸○三九ページ ︵51︶ ﹁浮世風呂﹂三綴巻之下 前掲書 二二九ページ ︵りI︶ 式亭三馬﹁浮世床﹂ 日本古典全書﹁浮世床﹂ 一二一ページ ︵53︶ 升 瓢﹁世間旗本容気﹂巻之一 前掲﹁気質全集﹂ 八五ページ ︵54︶ R・P・ドーア﹁江戸時代の教育﹂ 一〇ページ参照 ︵55︶ 同前 九ページ参照 ︵56︶ ﹁世間旗本容気﹂巻之三 前掲書 一一九ページ ︵り一︶ 本田利明﹁経世秘策﹂下 前掲﹁日本経済叢書﹂第十二巻 七二ページ ︵58︶ ﹁世間旗本容気﹂巻之一 前掲書 八五ページ ︵59︶ 大田報助編﹁毛利十一代史﹂第六巻 七二三ページ ︵60︶ 前掲﹁日本教育史資料﹂ 一冊 六八五ページ参照 ︵61︶ 奈良木辰也﹁日本の藩校﹂ 一一八ページ参照 ︵62︶ 前掲﹁日本音楽の歴史﹂ 一九三ページ参照 ︵63︶ 南圭梅嶺﹁世間母親容気﹂巻之二 前掲﹁気質全集﹂ 三五ページ ︵64︶ ﹁嘉永日記抄﹂ 東京都立日比谷図書館東京資料室蔵
一四 高知大学学術研究報告 第二十八巻 社会科学 ︵65︶ 朝日文左蔵門﹁鸚鵡中気日記﹂ 加賀樹芝明﹁元禄下級武士の生活﹂ 一九八ページ ︵66︶ 高知藩教授館 藩主十五代山内豊信嘉永元年六月廿二日直達 前掲﹁日 本教育史資料﹂二冊 九〇一ページ ︵67︶ ﹁鸚鵡中気日記﹂ 前掲書 五五ページ ︵68︶ 同前 九〇ページ参照 ︵69︶ 堀田信編﹁南紀徳川史﹂十三巻 四一一ページ ︵`。︶ 財津種爽﹁八十翁咄昔話﹂ 前掲﹁日本随筆大成﹂第二期 第四巻 一 六一ページ ︵71︶ 前掲﹁絵本江戸風俗往来﹂ 一七五ページ ︵72︶ ﹁世事見聞録﹂ 前掲書 七三七ページ ︵73︶ 拙稿﹁江戸時代における音楽教育の研究田︱藩校音楽教育の概要とそ の問題点﹂ 中国四国教育学会﹁教育学研究紀要﹂第二二巻所収 ︵74︶ その他さらに広義に解釈すれば、一種の社会教育機関とでもいうべき若 衆連、若者宿などにおける民衆芸能、謡曲などの教育をも含めることかで きよう。たとえば、愛媛県教育会﹁愛媛県教育史﹂前編 六六二ページ参 照’ ︵75︶ 石川 謙﹁近世庶民教育史﹂ 二八五ぺIジ参照 ︵76︶ 内山克己他﹁近世日本教育文化史﹂ 三五ページ ︵77︶ 中世の寺子屋では、読み・書きの他に、仏典の学習、また歌道や管弦と いった音楽にかかわるものまであったとされている。︵前掲﹁近世庶民教 育史﹂二八九ページ参照︶ ︵78︶ 前掲﹁南紀徳川史﹂十七巻 一三三ページ ︵79︶ ﹁塵塚談﹂下之巻 前掲書 二二ページ ︵80︶ 前掲﹁愛媛県教育史﹂前編 四八〇ページ ︵81︶ 作者不詳﹁遊女濃安都﹂ 前掲﹁日本庶民生活史料集成﹂第十五巻 八 〇七ページ ︵82︶ 柳沢洪園﹁ひとりね﹂ ﹁近世随想集﹂日本古典文学大系96 八三ペー ジ参照。 また、これらはすべてはっきりと分れていたのではなく、たとえば浄瑠 璃の場合でも、素人弟子のうち成績の良い者が専門家になることも往々に してみられることであった。 ︵83︶ さまざまな近世邦楽の中で、家元を構成しなかったものもある。詳しく は、西山松之助﹁家元の研究﹂第四章を参照されたい。 ︵84︶ 本多利明﹁西域物語﹂ ﹁本多利明海保青陵﹂日本思想大系44 九七ペ ージ ︵85︶ 前掲﹁家元の研究﹂第二章一節三項参照 八 86 w ︵87︶ ジ ︵88︶ ︵89︶ ︵90︶ ︵91︶ 松島糸1 ﹁芸の昔ぱなし﹂ 八文字自笑﹁諸芸袖日記﹂ ﹁三曲﹂三年二月 二Iページ 大橋新太郎編﹁珍本全集﹂上 六七四ペー ﹁ひとりね﹂ 前掲書 八四ページ ﹁音曲鼻けぬき﹂ 前掲書 二三二ページ 同前 二三二ページ 永井堂亀友﹁赤烏子気質﹂ 前掲﹁気質全集﹂ 九五一ページ ︵昭和五十四年九月二十八日受理︶ ︵昭和五十四年十二月二十一日発行︶