1.はじめに 清帝国を崩壊させた「辛亥革命」が,内モンゴルにとって何を意味したのかについて,これまで中 国での公式的な見解では,終始「山西革命軍の北上(山西革命軍の内モンゴル西部地域への進出)」「帰綏 新軍の武装蜂起」「綏東地域の大衆暴動」などが主脈として描かれ,独立を宣言した外モンゴルのボ グドハーン政権に帰順を表明した内モンゴル各旗の運動や外モンゴル軍の内モンゴルへの進出は, 「内モンゴルの動乱」「外モンゴル軍による侵略」として批判されてきた1。しかし,「北上した山西革 命軍」や「帰綏新軍の蜂起」「綏東地域の大衆暴動」などが,内モンゴルの近現代史においてどのよ うな位置を占め,どのような影響をあたえたのか,内モンゴルの多くの旗はどうしてボグドハーン 政権への帰順を要望し,独立を宣言したり,外モンゴル遠征軍の内モンゴルへの進出に協力したりし たのかなどについては,はっきり述べられていない。また,中国側の軍隊により外モンゴル軍を「撃 退」とかかれているが,その軍事的行動における中国政府側の具体的政策決定のプロセスなどに関す る研究はほとんどおこなわれていない。さらに,「動乱」に参加,あるいはかかわったにもかかわら ず,内モンゴル各旗の王公のほとんどは,のちに中華民国北京政府により,授爵されたり,職位が昇 進したりした。北京政府のこうした政策は,内モンゴルの王公に対する懐柔として認識されてきたが, 果たしてしからば,「辛亥革命」当初,内モンゴルはどのように扱われたのだろうか? 本論文は,中国内モンゴル自治区の各文書館,モンゴル国立中央文書館,台湾の国史館,中央研究 院近代史研究所文書館に所蔵されている一次資料に基づいて,内モンゴルをとりまく国際的状況を視 野にいれ,中国の研究書に述べられている内モンゴルで起きた「蜂起」「暴動」の性格を検証しなが ら,「辛亥革命」に対する内モンゴル人の認識や行動を検討する。また,内モンゴルに進出したボグ ドハーン政府軍(そのなかに内モンゴルの部隊もふくまれていた)に対する中国政府側の対応の詳細や, 北京政府の内モンゴルに対する政策転換などをも分析し,辛亥革命における国民国家統合と非漢民族 の民族主義運動との相克という課題を問う。 2.20世紀初期における内モンゴル地域の政治,社会状況 内モンゴルにおける「辛亥革命」を検討するには,モンゴル人自身の行動やモンゴル民族と漢民族 との歴史関係のみならず,モンゴル地域をとりまく政治,社会状況,国際関係をも考察する必要があ る。 もともと,マンジュ人にとって,モンゴルは大清国(ダイチングルン)の最も重要な属領であり, 最大の盟友でもあった。大清王朝がモンゴルを成功裡にコントロールできたのは,「通婚」(大清の王 族はモンゴル諸部の貴族と姻戚関係をもつ)2をふくむ,行政軍事法律宗教などにおいて有利な措 学苑 No.864(38)~(55)(201210)
内モンゴルにとっての「辛亥革命」
ボルジギンフスレ(呼斯勒)
置をとり,モンゴル人は高度の自治をも享受していたからである。しかし,19世紀なかば以降,モ ンゴル地域における行政軍事法律宗教などの状況は次第にかわっていき,とりわけ,世紀の変 わり目の 19世紀末 20世紀初頭になると,近代世界システムに組み込まれた北東アジア社会のなかで, モンゴル地域をとりまく内外情勢は極めて複雑になった。 すでに知られているように,清朝初期,朝廷は内地の漢人の内モンゴルへの入植を禁止していた。 雍正元(1723)年の「借地養民」政策の実施にいたるまで,漢人農民の内モンゴルへの入植は若干あ ったものの3,牧畜業社会に危機をもたらすほどではなかった。「借地養民」政策の実施でも,最初は, 漢人農民の入植に対する制限がおおく,自由に耕作できるわけではなかった。しかし,内モンゴルに おける土地開墾の推進にしたがって,本来,冬には内地にもどらなければならなかった漢人農民たち は,各自のふるさとに帰らず,次第に内モンゴルで定住化してしまった。乾隆 13,14(1748,1749) 年に,清政府は数回にわたって,漢人農民の土地開墾の拡大や転売禁止などの「封禁令」を発布した が4,漢人農民が無断でひそかに内モンゴルに侵入し,土地を開墾することを完全に禁止することは できなかった。19世紀なかばになると,内モンゴルの,万里の長城と隣接する地域で開墾された土 地は,相当な規模になった。さらに,清朝末期,とりわけ光緒 26年 12月 10日(1901年 1月 29日) に,内地農民の内モンゴル地域への移住や牧草地の開拓を奨励する「移民実辺」政策を含む,「新政」 の実施が清朝政府によって決められ,漢人はぞくぞくと押しよせてきて,開墾された土地も激増した。 「新政」が実施されてから「辛亥革命」の勃発にいたるまでの 10年間に,内モンゴル東西地域で開 墾された土地は 10万頃(1000万ムー)330(4950ムー)以上にのぼり,入植を管理する墾務機関が 徴収した「押荒銀」は 800万両をこえると言われているが,これらの収入は国庫におさめられたため, モンゴル人遊牧民の生活は貧困化したのみならず,モンゴルの旗政府は独自に租を徴収する権限すら うしなってしまった5。それと同時に,内モンゴルでは庁,県,州,府,道という漢人の行政機関が 大幅にふやされた。うえで述べた,大飢饉に陥った内地の漢人被災者の内モンゴルへの移住,入植を ゆるす「借地養民」政策を実施した雍正元(1723)年に,清政府は,熱河直隷庁をもうけ,ジョソト 盟とジョーオダ盟地域における漢人入植の事務を管理させていた。その後,乾隆 39(1774)年まで, 清政府は,内モンゴルで計 16の庁をもうけた。その内の四旗,塔子溝,三座塔,オラーンハダの 4 庁は乾隆 43(1778)年に豊寧,建昌,朝陽,赤峰の 4つの県にあらためられた。これらは,清朝時代 内モンゴルで最初に設置された県である。それ以降百年の間に県は増設されなかった。しかし,移民 のおおはばな増加にしたがって,清政府は光緒 3(1877)年から 15(1889)年までに,ふたたび奉華, 懐徳,康平,農安という 4つの県を新設したり,庁から県への変更をおこなったりした。そして, 1901年の「新政」の実施にしたがって,内モンゴルで,さらに 3つの道,2つの府,10の庁,13の 県が増設され,また 1つの府,2つの州への変更もなされた6。これは「新政」を実施する前7にくら べ,倍以上の数である。このように,内モンゴルのほとんどの地域では,モンゴル人の盟旗と漢人の 州県という二重支配体制がうみだされた。 清政府の漢人のモンゴル地域への移住,入植をゆるす政策の実施,道州府庁県の設置によって,本 来のモンゴル人の土地が,漢人の州県などとしてあたえられ,モンゴル人の旗に属する土地が減少し た。また,これら内モンゴル領域内に設置された州県などは隣接する漢人の各省に属していたため, 内モンゴルにおけるモンゴル人の権益は次第にうしなわれていった。「新政」が実施される前,モン ゴル人はすでに土地所有者としての支配権をうしないはじめ,単に地代(いわゆる「蒙租」)をうけと
る権利を保留されていたにすぎなかったといえるならば,「新政」の実施にしたがって,漢人農民は 耕作している土地に対して所有権がみとめられ,その地券として戸部執照があたえられたのであって, 漢人は土地所有権を獲得したのである8。さらに,モンゴル人の旗の最高長官ザサグの爵位は漢人の 県の知事よりたかいが,司法権においては県の知事よりひくいため,モンゴル人と漢人のあいだにお きた訴訟の結果は,おおくの場合漢人に有利であった9。このように,モンゴル人の政治的地位,生 活遊牧の環境などが,危機にさらされるようになった。 モンゴル民族と漢民族との関係から辛亥革命前後の内モンゴルの状況を分析すると,移民入植をめ ぐって,モンゴル人と漢人との間の対立はますます激しくなっていたことがわかる。モンゴル人側か ら漢人や政府の官僚に対してさまざまな訴訟をおこなったが10,それほど効果はなかった。このよう な状況のなかで,漢人の移民入植,州県の設置に反対する運動は,「新政」実施前からすでにはじま り,内モンゴル全域にひろがっていた。もちろん,漢人側の反乱もあった。ダムピルやワンダンニャ ム,バヤンサイン,メンフザヤーらが指導し,おおきな勢力となった「ドゴイラン運動(大衆運動)」, トグトホタイジ11,バヤンダライ,バヤントグスらが指導する漢人の移民入植に反対する運動など があれば,漢人移民が数万人のモンゴル人を殺戮する「金丹道暴動」12もある。指摘に値するのは, 1911年,外モンゴル代表が帝政ロシア政府に提出したモンゴルの独立に対する援助をもとめる書簡 のなかで,清政府が内モンゴルでおこなった移民入植,州県の設置,旗の権利の弱体化,漢人軍隊の 恣意的駐屯などさまざまなうけいれがたい暴政を列挙し,そのなかには金丹道暴動もとりあげられて いるということである13。これらは,モンゴルが清朝から離れて,独立する理由の一つにもなった。 ロシア帝国などの列強の侵略によりもたらされた「辺疆の危機」に対抗するため,清政府が中国内 地の過剰な農民の内モンゴル地域への移住,漢人の新軍の配備など,いわゆる「辺疆地域の整頓充 実」をおこなったという論理は,これまでの研究ではよくくりかえされてきた14。しかし,1860年 代から 1890年代前半にかけて,ヨーロッパ文明の科学技術,とりわけ軍事技術を導入し,国力をた かめることを意図する「洋務運動」をおこなった際,清政府はどうしてモンゴル人の軍隊の近代化を はからず,かわりに内地農民の内モンゴルへの移住,州県の設置を推進したのかということを,ここ であえて問いたい。 本来,「国家の塀」として位置づけられたモンゴルは,外敵の侵略の阻止や対内的支配の維持な ど,大清王朝の安定をたもつ,もっとも重要な軍事的柱であった。1857年,アロー戦争勃発後,天 津防衛の欽差大臣として任命されたセンゲリンチンが率いるモンゴル騎兵は,決死の覚悟をもって戦 い,1859年に大沽で近代的武器で武装した強力なイギリスフランスの連合軍を破った。しかし, 翌 1860年に土重来したイギリスフランス連合軍に対し,センゲリンチンのモンゴル軍は徹底抗 戦をしたものの,その主力は通州でほぼ全滅し,むだにおおきな犠牲をはらった15。にもかかわらず, 再編されたセンゲリンチンのモンゴル騎兵はやすまず,同年,捻軍を掃討する任務をあたえられ,直 隷,山東,河南,安省などの地域を転戦させられた。一方で,咸豊 10年 12月初 1日(1861年 1月 11日)からはじまった洋務運動では,江南製造局や天津機器製造局,金陵機器製造局,西安機器局, 漢陽兵工場,福州船政局などに代表される武器製造場や造船場が各地にもうけられ,北洋水師,南洋 水師,広東水師,福建水師という海軍,新式の軍隊をふくむ,軍の近代化がはかられたのに対し,モ ンゴル地域では,いかなる近代的武器を製造する工場,軍事的基地もつくられなかった。さらに, 1865年のセンゲリンチンの死後,清朝の軍事権はマンジュ人,モンゴル人の手から漢人の湘軍,淮
軍のもとに帰すことになったこともよく知られている。清末に「新政」で,全国に新式陸軍 36鎮を 設置したが,そのなかに,モンゴル人により構成されたものは一つもなかった。近代的武器を装備さ れた内地の新軍とくらべ,内モンゴルのモンゴル人の軍隊の装備ははなはだしくおとっていたとい う16。 宗教の視点から考察すると,清朝後期のチベット仏教の指導者と中央政府との関係が大きくかわっ たことも一目瞭然である。清政府がモンゴル諸侯との同盟関係を維持するうえで,仏教は欠かせない 要因であった。しかし,19世紀になると,清朝政府はモンゴル,チベットの仏教指導者をそれほど 重んじなくなり,逆にその権威をよわめようとした。外モンゴルを例にとると,道光 4(1824)年, 外モンゴルのチベット仏教の最高位に位置するジェプツンダンバホトクト 5世が北京におもむき, 皇帝と面会することをもとめたが,「年齢が幼い」という理由で拒否された。道光 20(1840)年にや っと道光帝に謁見することが許可されたが,「費用はみずから負担し,随行員をへらし,数名のみと する」という条件が付けられた。それ以降,歴代のジェプツンダンバホトクトはいずれも北京にい る皇帝に面会することはなかった17。清政府のモンゴルの仏教に対する態度を目にしたロシアの著名 な研究者ボズドネエフ(1851~1920年)はその名著『モンゴルおよびモンゴル人』のなかで「最近 50 年間(中略)哲布尊丹巴の呼弼勒罕[ジェプツンダンバホトクトをさす 以下[ ]内はフスレによる]は,帝 に賞を受けざるのみならず,1840年以降,1人として清帝に謁見したる者なく,輓近に至りては北京 の中央政府のみならず,庫倫[フレー]の地方官すら呼図克図[ジェプツンダンバホトクト]の威厳の特典 に対して容喙するに至れり」と述べている18。清政府のそっけない立場とは対照的に,ロシア側は逆 に機に乗じて,ジェプツンダンバホトクトに敬意をしめし,恩恵を施しつづけた19。結局,1911 年 12月末にジェプツンダンバホトクトはモンゴル国の国王として即位し,独立を宣言した20。 内モンゴルの場合,清政府は,ジェプツンダンバホトクトの内モンゴルでの影響力をよわめるた め,チャンキャホトクト(章嘉呼図克図)に内モンゴルの仏教を統括する任務をあたえ,ドローン ノールに駐錫させたのみならず,その転生はモンゴルからではなく,チベットからによるという成文 化していない規定を形成させた21。ドローンノールは 1691年,ハルハモンゴルが清朝の傘下に 属すことを確認した会盟がおこなわれた地であり,内モンゴルのもっとも重要な仏教聖地でもあった。 しかし,清朝後期になると,ドローンノールの寺院の衰微が象徴しているように,内モンゴルの各 寺院の規模,資金が次第にへるようになった。 他方,20世紀前半,モンゴルの運命と直接関連した国は中国,ロシア,日本の三国であった。周 知のように,東清鉄道(中東鉄道)の建設により,帝政ロシアはフルンボイルに進出でき,内モンゴ ル東部地域にも影響力をもつようになったが,日露戦争の結果,とりわけ 1907年 7月 30日に調印さ れた「日露協約(第一次日露協約)」は,ロシアの外モンゴルでの特殊権益,日本の南満洲,朝鮮での 特殊権益を互いに認めた。1910年 7月の「第二次日露協約」ではさらに,両国の満洲権益を確認し, 1912年 7月 8日の「第三次日露協約」では,北京をとおる 116°27′の経線によって,内モンゴル東部 は日本の,同西部はロシアの勢力範囲ときめられた。また,帝政ロシアは 1899年に揚子江地域をイ ギリス帝国の勢力範囲としてみとめ,イギリスは万里の長城より北の地域における鉄道特権に関与し ないということについて,両国は共通の認識に到達した22。さらに,帝政ロシアとイギリス帝国は 1907年 8月 31日にチベットに関する協定を含む「英露協商」を成立させた。そのまえの 1902年 1 月 30日に第一回日英同盟協約の締結によって,日本とイギリスが同盟関係となったことはすでによ
く知られている。これらは,のちのロシア,日本,中国の内モンゴルに対する政策に大きく影響する ことになる。 3.内モンゴルにおける「辛亥革命」の虚と実 さて,「辛亥革命」の時の内モンゴルの動きを検証してみよう。 まず,内モンゴル全体からみれば,武昌蜂起の際,その擁護を表明した王公や大衆運動の指導者, あるいは僧侶は,まったくいなかった。「駆除韃虜,恢復中華(韃虜を駆除し,中華を恢復する)」とい う辛亥革命のスローガンは,「革命」の対象とされるモンゴル人にとって,決して歓迎されるもので はなかった。当初,モンゴル人が「辛亥革命」をモンゴル語に翻訳する際,「革命」を qubisqalとせ ず,gaming(geming)と音訳したねらいは,「敵対する意識をしめす意味であり,モンゴル人を圧迫 する漢人軍閥をさす悪称」とすることであった23。 歴史資料や当事者の証言によると,いわゆる「帰綏新軍の武装蜂起」は,1911年 11月 9日に,帰 綏のパトロール隊の数名の軍人が夜中にわずか数発を鳴らし,火をはなとうとしたができず,包頭に 逃げたにすぎなかったので,その当日,地元の住民すら知りえなかった。その後,同月 16日,陶林 で地元の農民より組織された,いわゆる「農民軍」が陶林庁の巡査を殺し,蜂起した(「綏東民衆暴動」)。 しかし,彼らはチャハル正紅旗のモンゴル軍の攻撃をうけ,寧遠(現在の寧城県)に逃げたが,直ち に,チャハル右旗の軍隊に壊滅させられた。辛亥革命で,内モンゴル地域に進出した,よりまともな 「革命軍」は,閻錫山が率いる「北上」した軍隊であった。10月 29日,山西同盟会会員閻錫山は, 趙戴文らと協力し,新軍により太原蜂起を発動し,山西軍政府の成立を宣言したが,清軍の攻撃をう けた。翌 1912年 1月,閻錫山の軍隊は,内モンゴル西部のオルドス地域に逃げた。閻錫山の新軍は 帰綏(フフホト)の占領をめざして,包頭をとおって,サラチに入った。この新軍はオルドス各旗を とおった際,またトゥメド旗に入った時も,モンゴル人の「共和」への支持をよびかけたが,いずれ も呼応を得られなかった。綏遠城将軍蘰岫は満洲歩兵,トゥメド旗の歩騎兵,及び漢人の巡防隊を 動員し,帰綏に近いトスホー(地名)で新軍と激戦した。その結果,新軍統帯王家矩が命を落とし, 閻錫山の部隊は山西に戻った24。 これらの帰綏新軍や山西からやってきた革命軍,綏東地域の住民の暴動は,大きな事件とはならず 短命で幕を閉じ,内モンゴルの近現代史にそれほどの影響をあたえることはできなかった。それと比 較すると,内モンゴル各盟旗のモンゴル人の運動は,注目に値する。 1911年 7月,ジェプツンダンバホトクトが,フレー(現在のウランバートル)でハンダドルジら ハルハの王公たちを中心に会議を招集し,独立を計画した際,内モンゴルのハイサングン(海山公) が参加し,またロシアに援助をもとめる代表団にもくわわったように,外モンゴルの独立運動は最初 から内モンゴルと密接な関係があった25。またどのように行動するかということが,その後の内モン ゴルの王公たちの直面する課題となった。 この時期,在日モンゴル人留学生をふくむ,内モンゴルの知識人のほとんどがかんがえていたのは, 主にモンゴル民族の振興と内外モンゴルの独立ということであった26。 1911年 12月,ジェプツンダンバホトクトがイフフレーで独立を宣言した式典に,1907年にす でに外モンゴルに行ったジョソト盟ハラチン右旗ハイサングン,移民入植に反対し,南北地域を転 戦しつづけたジリム盟ゴルロス前旗トグトホタイジなど内モンゴルの代表が参加した。そして,フ
ルンボイルの各旗は率先して呼応し,内モンゴルのほかの地域のおおくの旗もあいついで帰順を表明 したり,独立を宣言したりした。 モンゴルとの同盟関係の締結は,マンジュ人のアジア大陸東部に覇業をつくりだした前提条件であ った。そもそもモンゴルと大清国との関係は同盟関係であることは強調したい。複数のモンゴル語と マンジュ語,漢語の資料は,この歴史事実を証明している。すでに研究者によって指摘されているよ うに,1619年 11月,モンゴルの内ハルハがマンジュ人のダイチングルンと同盟を締結し,その盟 誓において,「両国を天地が慈しみ,道理を持して,議を一にして暮らそうと講和したのにより,我 が両国が天地に誓う」と述べられている27。すなわち,両者は平等な関係となっている。1628年 8 月 31日,ラスキャヴ等ハラチンモンゴルの最高指導者はホンタイジのダイチングルンと,互い に平等な身分をもって,盟友関係をむすび,「マンジュ,ハラチン,わが両国は仲よくつきあうため (Manu,Qaracin,bideqoyarulus,nigen-ey-e-beryabuqu-yin tulada)」と天にちかったのである28。 1636年,内ハルハ,ホルチン,ハラチンなどモンゴルの諸侯がホンタイジをハーンと推戴し,国号 を大清とあらためたが,その際,マンジュ人とモンゴル人の間は「もし本王朝が崩壊することになっ た場合,互いに本来の法則にもとづくことになる」,すなわち,モンゴル人も,マンジュ人も互いに わかれ,本来の自分自身の国の状態にもどると約束していたのである29。要するに,遊牧民族国家の 法則としては,複数の遊牧民族国家が共同の利益をもって,ある強力な指導者の指導のもとで,同盟 関係をむすぶことによって一つの国となるのであるが,その同盟関係が存在しえなくなるとき,この 国家は崩壊し,各民族がそこから離れ,もとの国家状態にもどるということは珍しいことではなかっ た。17世紀,モンゴル人がマンジュ人の指導者をハーンとし,同盟関係を締結し,一つの国を形成 したが,これは遊牧民族国家の間にしばしばみられ,歴史上,中央アジア諸国の間でも同様であっ た30。 実際,1911年 12月のモンゴルの独立宣言のなかにも,「われらモンゴルは,もともと独立した国 家として存在していたのであり,いまや本来の例に倣って,みずからの権利を他人におこなわせず, われらみずからの国家を樹立することにきめた」と述べられている31。また,ボグドハーン政権に 同調したフルンボイルの指導者も,「もともとモンゴル人はみずからの意志により清朝に帰順したの であり,武力により征服されたのではなかった。現在,共和が樹立され,清の朝廷がなくなった。わ がモンゴル人はみずから行動し,フレーのホトクトと連合し,内外モンゴルを一つの共和国として樹 立し,けっして漢人の共和国に附属しない」と宣言したのである32。したがって,1911年 12月の外 モンゴルの独立と内モンゴル人の参加はモンゴル人の内在的要求であって,それはモンゴル人とマン ジュ人の同盟関係がくずれたことによる結果であるといえよう。 ボグドハーン政権に対する内モンゴル人の行動について,すでにおおくの研究者により研究され, その歴史事実は少しずつ明らかになりつつある。そのうち,藍美華は,ハイサングン(海山公), オダイ,ダムディンスレン,トグトホタイジ,ラシミンジュール,バボージャブ等内モンゴルの指 導者の行動を追跡したうえで,「モンゴルの独立はことなる地域のモンゴル人の共同の努力を物語っ ている」と指摘し,モンゴルの独立が消されたあと,内モンゴル人が直面した「外モンゴルに残るか, 内モンゴルに帰るか」というジレンマとその選択を考察し,示唆に富んでいる33。ポールハイヤー は,外モンゴルの独立に対するシリーンゴルやオラーンチャブ,とりわけハラチンの貴族の動向を 検討し,新たな論点と問題を提起している34。橘誠の研究は,内モンゴルのシリーンゴル,ジョー
オダ,イフジョーの 3盟およびジャロード左旗,ヒシグテン旗のボグドハーン政権に帰順した時期 と背景を明らかにした35。同政権に帰順した内モンゴルの旗を 38旗だとする,タイブン(Taibung) の研究は,フレーを訪れた内モンゴルのハイサングン,オダイ(烏泰)など 43人を確認できた36。 私の調査では,1912年 1月以降,ボグドハーン政権を訪問し,帰順を表明した内モンゴル人につ いて,さらに,下記の 8人を確認できた。すなわち,ハラチン右旗のソドノム(蘇子余),同旗福会 寺のダーラマロブサンチェジュル,フルンボイルのリンシェン(凌陞),ジリム盟ホルチン右翼前 旗のメーレン(梅倫)チメドツェレン,ジャライド旗の協理タイジサンピルノルブ,管旗ジャンジ ン(章京)セムバ,三品頂戴(副章京)ウルゴンゲー,トゥメド旗の佐領候補(副章京)トゥセンエ (図森額)である37。 これまでの研究では,ボグドハーン政権に届けられたハラチン右旗ザサググンセンノルブ(ハ ラチン王)の書簡の日付は 4月 1日であることがわかっているが38,グンセンノルブが実際にどの使 者を派遣したかについては,はっきりしていない。フレーを訪れた「ハラチン右旗三杰」の一人ソド ノムは,ハイサングンの親友の身分でボグドハーン政権に参加したのであり,グンセンノルブを 代表していない。グンセンノルブの使者はかつて福会寺のダーラマであったロブサンチェジュル (1866~1944年)である。1908年,ダライラマ 13世トゥプテンギャツォが五台山に駐錫した際, ロブサンチェジュルはグンセンノルブと一緒に頂礼しに行った。同地で,ロブサンチェジュルは,ダ ライラマの外交官ともいわれる,ツェンシャブをつとめるアグワンドルジーエフともあった。そ の後,具体的に言えば同年 6月(戊申年 5月),ロブサンチェジュルはダライラマの使者として選ば れ,ダライラマの北京訪問や内外モンゴルの仏教事務をおこなうことなどの交渉のため,北京に行 き,重要な役割を果たした39。独立を宣言した外モンゴル政権はジェプツンダンバホトクト 8世を 皇帝としており,グンセンノルブが使者としてロブサンチェジュルをフレーの新政権に訪問させた理 由は,そうした宗教的な要因も考えたのだと推測できよう。ボグドハーン政権への帰順要請に応じ た,著名なガンジュルワホトクト,ドローンノール彙宗寺のノヤンチョルジゲゲーン40,ジ リム盟ホルチン右翼前旗のシレートラマブフボヤンなど内モンゴルの高位の僧侶の活躍と,モ ンゴルとチベットの独立を相互に承認する「モンゴルチベット条約(蒙蔵条約)」の締結(1913年 1 月 11日)におけるブリヤートモンゴル人アグワンドルジーエフの役割などを総合的に考慮すれ ば,モンゴルの独立において,仏教の共有と,それによる内モンゴル,ブリヤートからの働きかけが, いかに重要であったかがわかる。なお陳崇祖はドルジーエフ(徳爾智)をチベット人としているが41, これは明らかに間違いである。 4.「辛亥革命」後の内モンゴル 1911年のモンゴルの独立運動は,ハルハの独立のみならず,内モンゴル,フルンボイル,タンヌ オリヤンハイなどをもふくむ,全モンゴルの統一国家の樹立という雄大な志をもったのであり42, 1913年にボグドハーン政権がおこなった,内モンゴルを中国の支配から解放するという軍事行動 もそうした夢を実現するためであった。この内モンゴルへの出兵について,すでに研究者によって, モンゴル国や日本の外交史料にもとづいて,すぐれた研究がおこなわれているが43,こうした軍事行 動に対する中華民国政府側の対応などについては十分検討されていない。 中華民国は,成立後しばらくはモンゴル地域の情勢に配慮する暇がなかった。袁世凱が民国の政権
を握ってから,1912年 4月にやっと内務部のもとに蒙蔵事務処をもうけ,7月に同処を蒙蔵事務局に 改編し国務院に直属させた。内モンゴルの外モンゴル政権への同調がおさめられない状況のなか,同 月,民国政府は旧来のモンゴルの制度の再編をはかりながら,王公の世爵,俸禄などの保留,ホトク ト,僧侶がもつ称号などの存続などをみとめる「蒙古待遇条例」を制定した。また,閻錫山はトゥメ ド旗など内モンゴル西部の一部の旗に,「五族共和」への賛成をよびかけ,はたらきかけていた44。 興味ぶかいことに,中華民国側は,ボグドハーン政権樹立後も,帰順を表明したフルンボイル,内 モンゴルの貴族に官職をあたえたり,爵位を昇進させたりした。双方とも内モンゴルの王公を自分の 立場につけようとしたことがわかる。 日本とロシアが「第三次日露協約」を締結したという情報をえた民国政府は 1912年 7月 25日,参 謀部をとおして,各省の都督に,日露協約の内容をつたえさせ,「ロシアの勢力範囲は外モンゴルと 満洲の北部,日本の勢力範囲は内モンゴルと満洲の南部になる。(中略)同条約に対して,イギリスは すでに賛成を表明し,かわりにチベットで自由に行動できる権利を手に入れた。アメリカとフランス 両国の領事は,[わが国に]同情はするが,どうにもならないと表明している。日本とロシアが協約を むすんだことには理由があり,われらは注意をはらわなければならない」と述べられているが,どの ように対応するかについては,具体的な指示をだしていない45。 これに対し,8月,広西都督陸栄廷,武昌にいる副総統黎元洪等がそれぞれ大総統袁世凱に電報を おくり,「イギリス,アメリカと連合し,気勢をたかめ,(中略)力をあわせ,ともに難関をのりきろ う」と外交の面ではアメリカ等との連合,国内では各勢力の団結ということをうったえているが46, より有効の方策を提出していない。 世論や山西省都督閻錫山などによる,内モンゴル地域における軍事勢力を強化すべきという要求が つよくなったなか,国務院は 10月 11日に張紹曽を綏遠城将軍兼墾務督弁として任命し赴任させ47, 同地域の軍事力の確保と移民入植の拡大をはかった。 フレーのボグドハーン政権がロシアと秘密裏に交渉していることは中国側の注目をひき,国民政 府は何度も駐ロシア公使劉鏡人に,情報の収集を強化するよう指示したほか,11月 7日,駐中国ロ シア公使クルペンスキー(B.N.Kroupensky)をよびよせ,「ロシアとモンゴルはいかなる協約を締結 しても,中国政府はみとめない」と声明した。翌 8日,クルペンスキーは正式に中国政府に,同月 3 日に締結された「ロシアモンゴル協定(露蒙協定)」の内容をつたえた。中国の国務院は副総統黎元 洪,および各省の都督に密電をおくり,同協定の内容を伝え,「ロシアとモンゴルの秘密協定はわが 国の領土主権を侵害しており,与論は普遍的に不満を噴出させ,政府に督促している」と述べ,下記 の指示をくだした。「建国早々,国家の基礎はまだかたまっておらず,領土を少しでも失うことはで きないし,列強があらそって蚕食してくるのも防がなければならない。したがって,今のところ,慎 重な立場にたって,対内的に情報をかたくまもるうえで,外交と軍事をたよって解決するよりほかの 方法はない。外交は中央政府により主導するが,軍事は各省の都督よりみずから軍備をそなえ,食糧 と給与を調達し,常に訓練する」。すなわち,国は外交と軍事の両手でモンゴル問題を解決するが, 外交は政府が努力し,軍事は各地方勢力に自己解決させるという方針をかためている。この指示では, また,「最近,一部の団体あるいは個人が ・征蒙(モンゴルを征服する)・を口実に,勝手に兵士を募集, 組織し,食糧や資金をあつめ,募金などをおこなっている。しかし,本年前半に各省では軍隊が林立 していたが,紀律がみだれ,数はおおいが,能力はない」と批判すると同時に,「もし勝手に決死隊
や ・征蒙隊・などを組織し,苛酷な重税をまきあげ,武器を購入するなどのことがあった場合,一律 にきびしく懲罰し禁止する」と警告している48。 当時,中華民国は成立したばかりで,地方にはさまざまな勢力が存在し,行政体制や軍事などは混 乱しており,外交を最優先に,モンゴル問題を解決するという方針は,ある意味では現実にもとづい たかんがえのようにおもわれるが,国力がひくいということも忘れてはいけない。 しかし,閻錫山など一部の省の都督は,早急に軍隊を組織し,まずは内モンゴルの事態をおさめ, それから,フレーに侵攻し,外モンゴル政権を平定すると中央政府に進言している49。実はこれら地 方の官僚は,「征蒙」を名目に,国から軍事物質や資金をもらい,みずからの勢力を拡大しようとい う狙いもあったことは否定できない。これに対し,国務院は閻錫山などの各省の都督に,「このこと に関連しているのは 1国だけではない。政府は各友邦に,[ロシアモンゴル協定を]承認しないことをつ たえると同時に,人を派遣し,各国の意向を収集し,策をこうじている。ただし,軍事配備と関連す ることは,各院部より協商し,統一的に方策をきめる」と回答し50,モンゴル問題の解決において, 外交の交渉を最優先に,軍事は国から統括するという姿勢をくずせなかった。これより前,フルンボ イルの動きに対しても,中国政府は同じく,外交で解決することをかんがえたのである51。 外交路線で「辺境危機」の窮状からぬけだすという主張を支持する人のなか,熊希齢は「欧米諸国 の例を参考にすれば,革命の時代にはほとんど国家が再編成され,その固有の領土はたいてい縮小さ れたことがわかる。モンゴルとチベットをくらべたら,チベットより,モンゴルのほうは重要である」 と指摘しながら,「作戦の準備もきわめて重要で,(中略)地方政府は一心同体で軍備や食糧をそなえ ることができるからこそ,中央政府は安心して大胆に[外交での]解決ができる」とかんがえていた52。 熊希齢は 1912年 3月に北京政府の財政総長をつとめ,7月に解任された。彼の提案は,財政の面の ありかたに重心をおいている。この提案の 1ヶ月後の 12月に,彼は熱河省都統に任命された。 モンゴル地域をめぐって,当時中国政府,およびおおくの官僚や知識人は欧米諸国と連合して日露 と対抗することをかんがえていたが,イギリスはチベットにおける権益を確保するため,日本,ロシ アとそれぞれ協約をむすんでいたし,中国は東アジアにおける国際情勢に対してそれほどの影響力は もたなかった。 1913年 1月末から,内モンゴルの解放をめざして,ボグドハーン政権の軍隊がそれぞれシリー ンゴル盟,オラーンチャブ盟,赤峰,フフホトなどの地域にむけて進軍した。中華民国政府は防衛 をこうじる必要にせまられ,軍隊を動員し対抗した。しかし,各地域で防衛する中国側の軍隊はあい ついで敗走し,シリーンゴル盟,オラーンチャブ盟の大部分の地域はただちにモンゴル軍の勢力下 にはいり,やがて経棚,ドローンノールなど内地の省と隣接する重要な地域も占領された。モンゴ ル軍が南進してから,前方で戦っている中国軍の指揮官たちは,それぞれ自らが所属する省の都督, 都統に,「陣地がまもれない,撤退せざるをえない。至急援軍の支援が必要」など頻繁に救援をもと めた。各省の都督,都統はさらに中央に,軍事物資資金の提供,公金備蓄の利用,あらたな軍隊 の募集,前線支援などを,つよく要求した53。中国の国務院,参謀部などは,緊急に部隊などを動員 し,前線の部隊に増援したが,戦局を逆転させることはできず,結局,1913年 10月まで,モンゴル 軍の進攻をほとんど阻止することができなかった。 ボグドハーン政権の遠征軍が,シリーンゴル盟,オラーンチャブ盟をこえて,遼源や張家口 (両方とも当時は内モンゴル領),滂江,林西,ドローンノール,包頭など内モンゴルの東,南地域ま
で長駆突入することができたのは,内モンゴルを解放するという使命にくわえて,同軍隊自身の戦力 のほか,内モンゴル人のひろい範囲からの支持を得たことも重要な要因であった。遠征軍のなかには, おおくの内モンゴル人の部隊もふくまれており,ハイサングン,ダムディンスレン,バボージャブ などは指揮官にもなっている。もちろん,中国側の軍隊の紀律がみだれ,士気が低下し,山西熱河 直隷黒竜江など各省の軍隊が利益をむさぼり,たがいの協力を欠いたため,その戦闘力を低下させ たことも疑いない。また,1913年 7月,中国で国民党勢力側が,袁世凱政権打倒のための第 2次革 命をおこしたことも,その原因の一つになっただろう。陳崇祖はモンゴルの遠征軍が「勢いに乗って 到るところ中国軍を追いまくった」理由について,「全くロシア将校が指揮したからである」として いるが54,これまで述べてきたように,このかんがえ方は客観的とは思われない。 失敗の原因について,前線の中国軍の指揮官や各省の都督,都統は,「敵軍がつよく,わが軍の数 がとぼしい」「内モンゴル人が[外モンゴル側に]動され,人心が離反し,敵の立場にたっている」 「地元の状況に不案内,救援がすすまない」「峠が険しく,地理が複雑,武器物資がたりない」「弾 薬がつきた」「モンゴル軍が外国からの支援をえている」「敵の攻撃がはげしく,ふせぐにふせぎきれ ない」などに帰し,責任を回避している55。また,「軍服や武器をすて,次々と敗退せざるをえず, 損失が重大である」と56,敗北した中国軍の困惑の極み,惨状をかくせなかった。たまに,個別の地 域で中国軍が有利になる場合もあったが,待っていたのはさらにおおきな攻撃であった57。 1913年末に,ボグドハーン政権の遠征軍が撤退するが,中国と台湾の一部の歴史書は,これを 中国政府が「侵犯してきたモンゴル軍を撃破し,外モンゴルの武力を以て汎モンゴルを統一する計画 を粉砕した」としている58。しかし,これまで述べてきたように,モンゴル軍の攻撃に対し,中国軍 はそれほど抵抗する余地がなく,惨敗しつつあったのが事実にちかい。実際,モンゴル軍の攻撃にせ まられ,中国軍が敗退しつづけ,内モンゴルと隣接する内地の各省の地域までが危険きわまりない状 態になった背景のなか,1913年 7,8月に熱河省都統熊希齢,直隷都督馮国璋,黒竜江護都督畢桂芳, 山西都督閻錫山,副総統黎元洪等がそれぞれ中国政府に,速やかにロシアと交渉しモンゴル問題を解 決するよう,つよく要求した。大総統袁世凱は 9月に孫宝琦を外交総長に任命した。ロシア政府との 交渉が再開され,中国はモンゴル軍の内モンゴルからの撤退をつよく要求した。ロシアは,中国との 交渉の場に戻る前,すでに,モンゴル軍を内モンゴルから撤退させるべきという立場にたっていた59。 ロシアの外務大臣セルゲイサゾーノフ(Sergey Sazonov)がフレー駐在ロシア総領事ミルレル(A. Ya.Miller)に,モンゴル側に中国と締結する交換公文の草案をしらせよと指示した。草案には「中 国は外モンゴルの自治権を承認するが,内モンゴルは除外する」とあった60。そして 11月 5日にロ シアと中国の交換公文が成立し,「露中声明」が発表された61。その後,ロシア側のボグドハーン 政権に対する撤退の要求があって,武器の供給も停止されることになり,モンゴル遠征軍は,やむを えず帰還したのである。 ボグドハーン政府軍の内モンゴルからの撤退は,「露中声明」の締結という背景のなか,ロシア 側のつよい要求の結果だということを無視してはいけない。そもそも,清朝崩壊後,中国における権 益をめぐって,列強はさまざまなやりとりをしていた。1912年 6月,イギリスアメリカフラン スドイツ日本ロシア 6国銀行団が袁世凱政権に善後借款の契約をむすんだ際,満洲北部と外モ ンゴル,新疆におけるロシアの権益,満洲南部と内モンゴルにおける日本の権益を妨害しないという 前提条件があった。アメリカは,1913年 3月に 6国銀行団から離脱したが,同年 5月に中華民国を
承認した。ロシアが袁世凱政権との交渉において,関係する諸国に牽制されたのも,事実である。 「露中声明」が発表された最初の段階では,モンゴル遠征軍の撤退がみえないなか,中国政府は何 度も,ペテルブルク駐在中国公使劉境人を通して,モンゴル軍の中国からの撤退をめぐって,ロシア 政府と交渉した62。ロシア政府はフレー政権に圧力をかけ,武器の提供も中断させ,結局,ボグド ハーン政府軍は内モンゴルから撤退せざるをえなかった。 対ロシアの外交が打開された状況のなか,中国政府は,地方の軍隊の配置を調節しながら,有効な 阻止措置をとることができなかった地方指揮官を解任した63。モンゴル軍の撤退後,地方からは,防 衛戦に参加した中国軍の報賞や昇進の要求があったにもかかわらず,政府はそれに応じなかった。た とえば,経棚地域を占領していたモンゴル軍と戦った熱河都統姜桂題が,所属部隊の将兵の報賞や奨 励を求めたが,大総統袁世凱はそれを拒否した64。 北東アジアをめぐる国際関係の枠組みからボグドハーン政権が独立を宣言したあとの,モンゴル 地域の状況を俯瞰しておこう。19世紀末以降,とりわけ「辛亥革命」前後,大国の間にむすばれた 国際条約により,モンゴル地域はロシア,中国,日本が覇をあらそう場になり,欧米諸国は関与しな い立場をとった。中華民国は,最初は欧米と手をつないで,ロシアと日本を牽制し,モンゴル地域に おける権益復活に向けて巻き返しをはかったが,アメリカとイギリスの同調をえておらず,ロシアと 直接,交渉することにした。ロシアは内モンゴルにおける日本の権益を認識しながら,モンゴル地域 をめぐる関係諸国の力関係を円滑に利用することができ,中国政府とやりとりをした。日本は日露戦 争で勝利し,「日露協約」によって,内モンゴルにおける利益をえたにもかかわらず,この時,バボ ージャブなどを支持したものの,内モンゴルをコントロールしうるような行動をとらなかった。この ような状況のなか,ボグドハーン政権は,孤立した空間のなかで,日本とヨーロッパ諸国との交渉 もこころみたが,唯一のうしろ楯ロシアからさえ支持をえられず,阻止され,また内モンゴルを統合 するための遠征軍の撤退をもとめられた。 他方,うえでも述べたように,民国政府は 1912年 7月に「蒙古待遇条例」を制定したが,内モン ゴルの外モンゴルの独立への呼応をおさえることができなかった。そこで,対応策の一つとして,政 府は内モンゴルの東部と西部の王公を組織し,それぞれ会議をおこなわせた65。張啓雄は,内モンゴ ル東部 4盟の王公が,1912年 10月,「長春で東モンゴル王公会議がひらかれ,全員が,外モンゴル の独立に反対し,共和制中国を擁護した」としているが66,実際に,1912年 10月と 1913年 10月の 2 回にわたって長春に召集されたのは,内モンゴル東部 4盟の王公会議ではなく,ジリム盟 10旗の 「王公会議」である。この会議と,1913年 1月の帰綏での「西モンゴル(内モンゴル西部)の王公会議」 のいずれも,袁世凱政権の武力による脅迫下でおこなわれたのであり,その宣言が内モンゴルの王公 の本来の立場を代表していたとはけっしていえない。 内モンゴル東部の場合,本来,現状にどのように対応するかなどについて,モンゴルの王公がみず から会議を組織し,家屯で開催する予定だったが,この情報を知った吉林省都督陳昭常が北京政府 に密告し,北京政府はすぐ対策を講じて,吉林省など地方政府に指示し,ボグドハーン政権に反対 する会議を,長春でおこなわせることになった。また栄勲などを派遣し,会議に参加させた。結局, 政府側の脅迫により招集できたのは,東部 4盟の会議ではなく,内モンゴル東部 10旗のみの王公会 議だった。モンゴルの王公会議であるにもかかわらず,同会議には,吉林省都督陳昭常,東三省西辺 宣撫使張式鑾,奉天民政使孫白斛,黒竜江提学使学風,および陸軍第 23鎮統制孟恩遠,第 24鎮統
制第 46協々統裴其勲など軍の代表も参加していた。『盛京時報』は,ジリム盟のビント王ゴンチグス レンも同会議に参加したとしているが67,実際には,ビント王はこの会議に参加しておらず,すでに フレーに到着していた。明らかに,彼はこの時,モンゴル側の代表の一人として,「ロシアモンゴ ル協定(露蒙協定)」の締結をめぐって,ロシア全権代表コロストヴェッツ(I.J.Korostovetz)と交渉 していた68。 会議で,政府側はモンゴルの王公の代表にボグドハーン政権への反対を要求し,「蒙古待遇条例」 に解釈をくわえ,宣伝したほか,「モンゴルの旗に国の軍隊を駐屯させる」「5色の国旗[中華民国の国 旗をさす]を掲げる」「王公たちは中央政府の許可なしに外国から借金することができない」などをも とめた。王公の代表も,「旧来のモンゴルの土地を保全する」「モンゴルの旗が自由に練兵する権利を もつ」「あらたに土地を開墾しない」「モンゴル地域で ・省・を設置しない」などを要求した69。大総 統袁世凱は 11月に,モンゴル王公の提案に同意し,また各王公に官職をあたえたり,爵位を昇進さ せたりした70。 つまり,この会議は,中華民国政府側と会議に参加したモンゴルの王公が互いにあゆみよったもの であった。中華民国政府側は予定の目的が達成できなかったため,翌 1913年 10月にふたたび長春で ジリム盟 10旗による「東モンゴル(内モンゴル東部)の王公会議」を招集した。同会議で,政府側, 漢人の省側の代表とモンゴル人の代表の間で,いくつかの問題をめぐって激しく論争がおこなわれた。 そのなかでもっとも対立したのは,政府と省の代表が提出した内モンゴルに ・省・を設置し,移民入 植を促進するという提案であった。これに対し,モンゴル人側はつよく反対し,会議から退席すると までいった。論争は,会議の後もつづけられた71。内モンゴルに ・省・を設置することについての論 争は「新政」実施のときもおこなわれたが72,モンゴル人側の強烈な反対によって,実行されなかっ た。 第 1回モンゴル王公会議後の,1912年 11月 23日,フフホトの官吏が武力をつかって,オラーン チャブ盟長ラワンノロブ等をフフホトに連行し,その場で強引に「共和を承認させた」73。その後, 同じ手法をつかって,イフジョー盟長アルビンバヤルをはじめ,同盟各旗のザサグをフフホトに連行 し,1913年 1月 23日に,茶番劇的な西盟王公会議を招集したのである。会議に参加したオルドス左 翼中旗協理タイジポンサグバルジルなどの爵位を昇進させたが74,すでに研究者によって指摘され ているように,その後,イフジョー盟各旗があいついでボグドハーン政権への帰服を表明したので ある75。 さらに,のちに北京政府は,内モンゴルの各旗の王公に対し「外モンゴル政府に内モンゴル[の王 公]に対する冊封を中止させ,内モンゴル[の王公]も今後,外モンゴル[政権]からの冊封を受けては いけない」などと数度も命じた76。 そのご,1915年 6月のキャフタ協定の締結により,外モンゴルの国家としての地位がうしなわれ ると,内モンゴルに対する影響力も次第に低下し,それと同時に,中国政府の内モンゴルに対する支 配が次第に強化されるようになる。 5.おわりに 「辛亥革命」のスローガン「韃虜を駆除し,中華を恢復する,民国を創立し,地権を平均する」で は,「韃虜」と「中華」を対立させており,創立すべき「民国」は「中華」の民国であった。すなわ
ち,辛亥革命自体,「韃虜」と「中華」を区別し,マンジュ人,モンゴル人などは完全に異質なもの だとされていたのである。したがって,中華の恢復と民国の創立は一致するが,「革命」の対象とさ れるモンゴル人にとって,「中華民国」は,決して歓迎されるものではなかった。 中華民国成立後,「革命派」あるいは政府側は「領土の保全」をはかったものの,モンゴル,チベ ットなどはそれに同調はしなかった。そもそも,モンゴル人とマンジュ人の協力関係があったからこ そ,大清国は長くつづくことができ,モンゴル人も自身の利益と地位を維持しつづけていた。しかし, そうした関係が崩れたとき,モンゴルが独自のいきる道を求めるのも当然である。ナショナルアイ デンティティ(Nationalidentity)の視点からみても,モンゴル人は大清王朝はうけいれたが,「中華」 の民国はうけいれがたかった。「辛亥革命」の目的が,清王朝を崩壊させ共和国家(国民国家)を建設 することであったといえるならば,内モンゴル人がその時もとめたのはモンゴル人自身の自立であっ たといえよう。 1913年以降,内モンゴル王公が北京政府に妥協し,外モンゴル政権の地位が一時的に独立から自 治へと後退したのは,モンゴル人自身の力が弱かったことが当然その要因であっただろうし,当時の 国際情勢や内モンゴルにおける諸勢力の影響も決して小さくなかったと思われる。辛亥革命後の時代 のながれと内憂外患のなかで,さまざまな力関係が総合的に作用した結果,当時内モンゴルの各政治 集団が,外モンゴル,日本,ロシア,中国などの複数の外部勢力と密接な関係を同時に保っていたし, 一方で内モンゴルは中国の各軍閥に割拠される状況に陥ったのである。 内モンゴルの分離をふせぐため,北京政府はさまざまな方策をとったが,移民入植のほか,内モン ゴル地域に漢人地域の行政単位とおなじような「省」を設置しようとするかんがえ方はその一つであ った。しかし,1912年,1913年の 2回にわたる長春会議で,モンゴル人側のつよい反発があったた め,「省」は設置できず,1914年に内モンゴルに 3つの「特別行政区」を設置した。これは「省」の 設置ができないかわりに,おこなったものである。内モンゴルへの省の設置は,中国国民党が政権を 獲得した 1928年まで,待たなければならなかった。 註 1 維民『内蒙古近代簡史』内蒙古大学出版社,1990年,pp.8586.同『百年風雲内蒙古』内蒙古人民出版 社,2000年,p.576.内蒙古社会科学院蒙古族通史編写組『蒙古族通史』(下)民族出版社,1991年,pp. 10891101.劉学銚『中国歴代辺疆大事年表』南天書局(台北),1987年,p.414. 2 モンゴル人と満洲人の「聯姻」については,杜家驥『清朝満蒙聯姻研究』人民出版社,2003年を参照。 3 雍正元年の「借地養民」政策の実施にいたるまでの漢人農民の内モンゴルへの入植状況については,チョイ ラルジャブ,ボルジギンフスレ『内モンゴル西部地域民間土地寺院関係資料集』(第 1集)風響社, 2011年,p.7を参照。 4『欽定大清会典事例』巻 979。この時期の「封禁令」を発布したプロセスについては,モンゴル研究所『近 現代内モンゴル東部の変容』雄山閣,2007年,pp.7184を参照。 5 蘇徳畢力格『晩清政府対新疆蒙古和西蔵政策研究』内蒙古人民出版社,2005年,p.84. 6 3つの道は昌分巡兵備道,西南路分巡兵備道,呼倫兵備道であり,2つの府は臚濱府,南府で,10庁は 興和庁,五原庁,武川庁,寧遠庁,陶林庁,東勝庁,大賚庁,肇州庁,安達庁,法庫庁で,13県は阜新県, 建平県,開魯県,林西県,綏東県,彰武県,靖安県,開通県,醴泉県,鎮東県,安広県,長嶺県,徳恵県で ある。府へと変更したのは朝陽府,州へと変更したのは赤峰州,遼源州である。趙雲田『清末新政研究
20世紀初的中国辺疆』黒竜江教育出版社,2004年,p.152. 7「新政」が実施される前,内モンゴルには 3府,1州,11庁,8県があった。この時期の内モンゴルでの庁, 県,州,府,道の設置については,烏雲格日勒『18至 20世紀初内蒙古城鎮研究』内蒙古人民出版社,2006 年,pp.6677を参照。 8 今堀誠二『中国封建社会の機構 帰綏(呼和浩特)における社会集団の実態調査』日本学術振興会,1955 年,pp.62425. 9 札奇斯欽『羅布桑車珠爾伝略』内蒙古人民出版社,2007年,p.31.
10 Bacidulunalda・san・ocintaban-u・aar-igutegeukelduregulegsenbolbacuuda・adar・-amedegulugsen ・aar-ba qosi・un-uegun bara・un-u edeged ba ・aar-ibedeguleg-yieruqa・ulun sengeregulugsen toqai,(1907),オルドス市文書館,6016.Uusin qosi・un-u taiiqaranayiurmedegulku-yin ucir: saidur-a-yin qariyatu yiregsen ・ang gu-nerman-u qosi・un-uegunaq-a-baradarqo・uburla・san bugedaltamenguqol・asantoqaiucir,(1908),同,6017.
11 トグトホタイジの戦いについては,田中克彦『草原の革命家たち:モンゴル独立への道』(中公新書)中 央公論社,1990年(初版は 1973年),pp.715を参照。 12 金丹道暴動は,「紅巾賊之変」「紅頭蛆造反」ともいう。光緒 17(1891)年にジョソト盟とジョーオダ盟に 位置する平泉,建昌,朝陽,赤峰の 4つの県で,楊悦春らを指導者とする,漢人移民により組織された邪教 がおこしたモンゴル人を殺戮する暴動をさす。この災難で生きのこった汪国鈞が書いた『蒙古紀聞』では, 「勢いがつよく,モンゴル人を殺戮し,半年間もつづき,蹂躙されたモンゴルの旗は 10にもおよぶ。(中略) すべてのモンゴルの村落,チベット仏教の寺院,カトリック教の教会堂が焼き払われた。モンゴル人にとっ て 200年間,起ったことのない惨禍である」と述べられている。(汪国鈞『蒙古紀聞』内蒙古人民出版社, 2006年,pp.12,7,1819.)殺されたモンゴル人の数についてさまざまな説があるが,李玉廷「親歴記」 では「10万人」,『蒙古紀聞』の編者は,15~16万人としている(同書第 1節の注 22,pp.2931)。金丹道 暴動について,ことなる見解をもつ研究もある(佐藤公彦『清末のキリスト教と国際関係:太平天国から義 和団露清戦争,国民革命へ』古書院,2010年を参照)。ただし,ジャグチドセチン氏が指摘したよう に,「金丹道暴動の処理をめぐって,モンゴル人と旗政府は清政府の保護を得なかったし,朝廷より派遣さ れた葉志超は反乱を平定することにおいても弱かっただけではなく,モンゴル人に責任をなすりつけた」 (札奇斯欽,前掲『羅布桑車珠爾伝略』,pp.3031)ことは事実であり,1911年 12月ボグドハーン政権が 樹立後,ジョーオダ盟の多くの旗がより積極的にボグドハーン政権の独立に呼応したことや,ジョソト盟 のバボージャブの勢力が同政権に帰順し,その独立が消された後も,中国と戦いつづけたことが,金丹道暴 動と密接な関係があったのは間違いない。
13 BNMAU-yn ShUA-iin Tuukhiin Khureelen NAKhYa-ny Dergedekh Ulsyn Arkhivyn Khereg Erkhlekh Gazar,Mongolyn ard tumnii1911 onyundesniierkh choloo,tusgaartogtnolyn toloo temtsel,barimtbichgiin emkhtgel(19001914),Ulaanbaatar,1982,pp.16566.藍美華「1911年蒙古 独立運動原因之探討」『中山人文社会科学期刊』第 10巻第 2号,2002年,pp.99100. 14 趙雲田,前掲『清末新政研究 20世紀初的中国辺疆』,p.154. 15 札奇斯欽『我所知道的徳王和当時的内蒙古(1)』東京外国語大学アジアアフリカ言語文化研究所,1985 年,p.4. 16 汪国鈞,前掲『蒙古紀聞』,p.4. 17 妙舟『蒙蔵仏教史』第 5第 6,9節,江蘇広陵古籍刻印社影印本,1993年。 18 ボズドネエフ著,那珂通世校閲,東亜同文会編纂局翻訳『蒙古及蒙古人』三省堂,1908年,pp.67374.ロ シア語原文は ・.・.・・・・・・・・,・・・・・・・・・・・・・・・・:・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・,・・・・・・・・・・・・1892 1893・・.,T.2.・・・・・・・・・・・・・・・1893・.・・・.,・・・・.・・・・,1898を参照。
19 章京三多「呈報俄人籠絡活佛情形」(宣統 3年),外交部档,中央研究院近代史研究所档案館所蔵(台湾), 033213401028他。 20 チベット人の活仏ジェプツンダンバホトクトがモンゴルの国王として即位できた条件については,二木博 史「チベット人活仏がモンゴル国王として即位するための条件 19世紀すえのモンゴル語文書史料の分 析」『文書史料からみた前近代アジアの社会と権力』東京外国語大学 21世紀 COEプログラム「史資料ハブ 地域文化研究拠点」研究論叢(Web版),2007年,pp.7199を参照。 21 札奇斯欽,前掲『羅布桑車珠爾伝略』,p.62.なお,チャンキャホトクトとガンジュルワホトクトの対 立について,同『蒙古史論叢』(下)学海出版社(台北),1980年,p.1045を参照。
22 JohnV.A.MacMurray,TreatiesandAgreementswithandConcerningChina,18941919(Vol.2), (New York:OxfordUniversityPress,1921),pp.20408.藍美華,前掲「1911年蒙古独立運動原因之探
討」,p.104. 23 札奇斯欽,前掲『我所知道的徳王和当時的内蒙古(1)』,pp.12,87. 24 中国人民政治協商会議内蒙古自治区委員会文史資料研究委員会編『内蒙古辛亥革命史料』内蒙古人民出版社, 1979年,pp.215. 25 藍美華,前掲「1911年蒙古独立運動原因之探討」,pp.40406. 26 呉恩和「辛亥革命時期回憶録」,前掲『内蒙古辛亥革命史料』,pp.8789. 27『旧満洲档』(1)国立故宮博物院,台北,1969年,p.191.日本語の訳文と分析について,岡洋樹『清代モ ンゴル盟旗制度の研究』東方書店,2007年,p.27を参照。
28 Dumdaduulus-unteuke-yinnigedugerarkibnayira・ulba,Erdeniab-unLiBaowenemkidkeulatincilan keblel-du beledkebe,Arban doludu・ara・un-u emun-eqa・as-tu qolbu・daqu mong・olusug-un bicig debter,Obormong・ol-un ba・acud-un keuked-un keblel-un qoriy-a,1997,pp.3334,4546,81.烏雲 畢力格『喀喇沁万戸研究』内蒙古人民出版社,2005年,pp.8592.
29 HerbertA.Giles,ChinaandtheManchus(Cambridge:CambridgeUniversityPress;New York:G. P. Putnam・s Sons, 1912), p.21. A.Baranov, Aimak Tsetsen-Khana(Harbin: Tipo-litografiia OkhrannoiStrazhiKit.Vost.Zh.D.,1919),s.30.藍美華,前掲「1911年蒙古独立運動原因之探討」, pp.10203.
30 ThomasJ.Barfield,ThePerilousFrontier:NomadicEmpiresandChina(OxfordandCambridge, MA:BasilBlackwell,1989),p.5.烏雲畢力格,前掲『喀喇沁万戸研究』,pp.17172.
31 BNMAU-yn ShUA-iin Tuukhiin Khureelen NAKhYa-ny Dergedekh Ulsyn Arkhivyn Khereg Erkhlekh Gazar,Mongolyn ard Tumnii1911 onyundesniierkh choloo,tusgaartogtnolyn toloo temtsl,barimtbichigiinemkhitgel(19001914),Ulaanbaatar,1982,pp.11011.
32 東三省都督,黒竜江省都督「探査呼倫蒙古人挙動情形彙録査照由」(1912年 3月),外交部档,中央研究院 近代史研究所档案館所蔵(台湾),033214801004.
33 藍美華「内蒙古与 1911年蒙古独立運動」『漢学研究』第 23巻第 1号(総 46号),2005年。
34 PaulHyer,・TheRoleofInnerMongolia in theIndependenceMovement,19111914・,Henry G. Schwarz(ed),Studies on M ongolia:Proceedings of the First North American Conference on Mongolian Studies,Bellingham:CenterforEastAsian Studies,Western Washington University, 1979.
35 橘誠『ボグドハーン政権の研究 モンゴル建国史序説 1911-1921』風間書房,2011年。
36 タイブン(周太平)「1911年のボグドハーン政権に帰順した内モンゴル旗数の再検討」『モンゴル研究』 第 19号,2001年。同「ボグドハーン政権と内モンゴル地域政治:1913年の中国モンゴル戦争を通じて の一考察」(博士論文),大阪外国語大学大学院,2002年。
37 Obormong・ol-unnoyadKitad-acasalauArumong・ol-taineyilekugegsenbicig,1913.11.6,モン ゴル国外務省中央文書館,512.「閻錫山電袁世凱等擬援清例派陸軍両営分紮蒙辺事防務両益」(1912年 10 月 11日),国史館(台北),1160101010001054.札奇斯欽,前掲『羅布桑車珠爾伝略』,pp.8083. 38 橘誠,前掲『ボグドハーン政権の研究 モンゴル建国史序説 1911-1921』,p.196. 39 札奇斯欽,前掲『羅布桑車珠爾伝略』,pp.6367. 40 ボルジギンフスレ『中国共産党国民党の対内モンゴル政策(1945~49年) 民族主義運動と国家建 設との相克』風響社,2011年,p.270. 41 陳崇祖著,古川園重利訳『外蒙古独立史 付記:遊牧民社会から社会主義への道を歩むモンゴル人民共和 国小史』蒙古研究所,1970年,p.49. 42 藍美華,前掲「内蒙古与 1911年蒙古独立運動」,p.417. 43 タイブン(周太平),前掲「1911年のボグドハーン政権に帰順した内モンゴル旗数の再検討」。同「ボグ ドハーン政府軍の 1913年の内モンゴルへの軍事行動についての一考察」『モンゴル史研究』第 7輯,2003 年。O.Tayibung,Uker-il-unuimegen-u gerelba seguder,Obormong・ol-un sur・an kumuil-un keblel-unqoriy-a,2006.
44「閻錫山函武爾功請随時鼓吹聯合除界限以為五族一家之義」(1912年 7月 15日),国史館(台北),116 0101010001047.同「閻錫山函阿靈額請随時聯合各蒙旗以期畛域化除同享五族共和幸福」(1912年 7月 15 日),1160101010001048他。 45「参謀部電各省都督俄日協約明定在我之利益範囲請注意為要」(1912年 7月 25日),国史館(台北),116 0101010001049. 46「陸栄廷電袁世凱等外患日迫禍在眉睫非内外聯合一気不足挽回危局」(1912年 8月 4日),国史館(台北), 1160101010001050.「黎元洪電袁世凱等期全国団結一致消弭見並共同協力共済艱難」(1912年 8月 11 日),同 1160101010001052. 47「国務院電閻錫山已任命張紹曽為綏遠城将軍並要求共同防衛以維辺局」(1912年 7月 15日),国史館(台北), 1160101010001055. 48「国務院電黎元洪等当前軍事外交宜由中央主持厳禁以団体或私人行動」(1912年 10月 28日[11月 10日]), 国史館(台北),1160101010001056.「俄蒙協約簽訂之経過及其内容:附俄蒙協約之経過及内容」(1912 年 11月),同 1160101010001063. 49「閻錫山電袁世凱等為維護蒙古領土主権請准親率士卒保内蒙庫倫」(1912年 11月 13日),国史館(台北), 1160101010001058.「各省都督代表電閻錫山政府誓不承認俄蒙協約請切実籌備兵力餉需」(1912年 11月 14日),同 1160101010001062. 50「国務院電閻錫山等俄蒙協約蔑侮主権中央已通盤籌劃請全国協力補救」(1912年 11月 16日),国史館(台北), 1160101010001059.「国務院電孔庚等俄蒙協約已飭外交部厳重交渉期保全領土為目的」(1912年 11月 18 日),同 1160101010001067. 51 外交部「呼倫事(電報)」(1912年 4月),外交部档,中央研究院近代史研究所档案館所蔵(台湾),0332 14801008.宋小濂「呼倫事(電報)」(1912年 4月),同 033214801009. 52「熊希齢電袁世凱等各省若不改革財政吏治武備則内政外交終将失敗」(1912年 11月 17日),国史館(台北), 1160101010001066. 53「閻錫山等電袁世凱蒙匪吃緊軍需浩繁請暫由河東塩款撥済軍餉」(1913年 5月 20日),国史館(台北),116 0101010001076.「閻錫山電復参謀部蒙事吃緊已由省垣先行開発歩馬各一営前往赴援」(1913年 5月 22日), 同 1160101010001079.「閻錫山電袁世凱等蒙匪南犯請准発支付命令因應軍需」(1913年 11月 17日),同 1160101010001126.「閻錫山電袁世凱定等前方戦事吃緊請俯念蒙辺重要即刻撥発弾薬支援」(1913年 11 月 19日),同 1160101010001130他。