• 検索結果がありません。

ゲーテの美学論草稿

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "ゲーテの美学論草稿"

Copied!
12
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

著者

長谷川 茂夫

雑誌名

VERBA

24

ページ

139-149

発行年

2000

URL

http://hdl.handle.net/10232/16439

(2)

ケーテの美学論草稿

長 谷 川 茂 夫 1.はじめに 1794年に深まったゲーテとシラーの交友は、多くの芸術作品として結実し、 ドイツの文化史に豊かな稔りをもたらした。そして、二人が互いに与えあった 刺激は、文学の領域にとどまらない幅広いものであった。その一端が、ケーテ の生前には出版されなかった一つの草稿に見てとれる。ハンブルク版ゲーテ全 集に「美とは自由を備えた完全性であるという理念は,どこまで有機的な自然 存在に対して適用されうるか」という標題のもとに収録されているこの短い文 章は、「むしろ会話のための下準備で」’)あり、「ひょっとすると、かなり以前 にもうメモとして書き留められたものが、自然と芸術をテーマとした会話を機 会として再び取り上げられたものかもしれない」2)と推測されている。この草 稿に呼応するシラーの思想は、ケルナーに宛てた1793年2月の書簡に含まれ る文書の、「現象における自由は美と同一である」と「芸術における美」として、 私たちの手元に残されている。本論の目的であるゲーテの草稿について考察す るためには、まずシラーの美学理論を概観することが必要であろう。 2.シラーの理論 「美が客観的な特性であることを十分に証明したい」3)という希望のもとに、 シラーは、対象が「自由」を備えていることを美の基準として据えようとする。 しかし、「美は、現象の領域だけに住んでいる」4)のであり、「感覚世界におい ては何物も、実際には自由でありえず、単にそう見えるだけ」5)という認識も あえて否定できない。この認識にそのまま従えば、美が観察者の主観に依拠す ることを認めざるを得なくなるであろう。この組鋸を解消する「客観性のある 根拠」6)を提出するためにシラーの援用した概念が、対象の「自律(Autonomie)」 である。自律を持つとは、対象が「それ自身によって規定されているように見 −139−

(3)

える」7)ことであり、それによって、「事物の表象が、私たちの内部に自由の理 念を想起させ、そしてそれを対象へと関連づけるように、まさしく私たちに強 いる」8)という結果を生み出す。 またシラーは、「自由」を「自然的本性(Natur)」と呼び変えて、説明を試みも する。−「自然的本性という言い方の方が、私には自由という言い方よりも 好ましい」9ーそして、自然的本性は「事物の形態の根拠として見た場合、 形態の内的必然性なのであり、形態は、本来の意味において、同時に自己を規 定し、かつ自己によって規定されるものでなければならない。」’0リ 即ち、事物の本性のうちに自律の存在を認め、それが必然的に形態に刻印を 記すという論理立てである。この論理を、自然の産物ではなく、人間の生産し

た工芸作品にまで押し進めるためには、更に「手法(Ibchnik)」という概念の導

入が必要となる。それは、後に論ずるゲーテの草稿のテーマを越えるものでは あるが、シラーにおいては、「完全性」への橋渡しをなす概念であるがゆえに、 これを避けて通ることは出来ない。 シラーは「規則を示唆する(ある規則に従って取り扱われる)形態を、工芸 的(kunsmBig)もしくは手法的(technisch)」と呼ぶ。’1)「規則」という言葉は即 座に他律田eteronomie)を連想させるといっても,誤りにはならないだろう。そ のためか,シラーが手法を自由と結びつける論理展開は,幾分逆説的に成らざ るを得ない。即ち,「外部から規定されているという状態の否定は,全く必然的 に内部から規定されているという状態の,もしくは自由の,表象へと通じてい る」12)ゆえに「自由は,手法の手助けを得てのみ,感覚的に提示され」13),従 って「手法は,自由についての私たちの表象の不可欠な条件である」’4)と,シ ラーは説く。そして自説の正しさを証明するために,カントを援用して,こう 述べている。「カントはその判断力批判で、きわめて実り多い命題を立てている。 そして私が思うに、その命題は私の理論を閲することによって初めて、説明で きるものなのだ。彼の言うところによれば、自然的本性は、それが工芸のよう に見える場合に美しく、工芸はそれが自然的本性のように見えることで美しい。 この命題は、それゆえ手法を自然本性美の本質的な必需要素としており、自由 −140−

(4)

を工芸美の本質的な条件としている。しかしながら既にそれ自体として、工芸 美は手法の理念をともに含んでおり、また自然本性美は自由の理念をともに含 んでいるので、それゆえ美は手法のうちに見られる自然本性、工芸的なものの うちに見られる自由に他ならないことを、カント自身も認めている。 私たちはまず第一に、美しい事物は自然の事物であること、即ち、それがそ れ自体に準拠していることを知らなければならない。第二に、それがまるであ る規則に準拠しているかのように私たちに見えなければならない。というのは、 カントは、それが工芸のように見えなければならないと確かに言っているから である。それがそれ自体に準拠しているという表象と、それがある規則に準拠 しているという表象の両方は、ただ一つの方法でだけ統一出来る。即ち、それ が自分自身に与えた規則に準拠している、と言う場合である。手法のうちに見 られる自律であり、工芸的なもののうちに見られる自由である。,,5) 「美と完全性との相違」についての次の論述は,上に引用した「手法」の定 義を踏まえたうえでなければ,正しく理解できないであろう。 「すべての完全なものは,絶対的に完全なもの,つまり倫理的なものを除い て,手法の概念の下に含まれる。何故なら,完全なものは,多様なものが単一 へと合致することのうちに在るからである。さて手法は,それが自由の存在を 気付かせる働きをする限りにおいて,美に対して単に間接的に貢献するだけで あり,完全なものは、しかし,手法の概念の下に含まれているのであるから, 美を完全なものから区別するものは,手法の中に見られる自由だけであること は,即座に見て取れる。完全なものは,その形態がその概念に因って純粋に規 定された場合に限って,自律を有することができる。しかしながら,自己自律 (Heautonomie)16)を有することができるのは,美だけである。何故なら,ただ美 に関してのみ,形態は内的本質に因って規定されているからである。 完全なものは、自由とともに提示された場合、即座に美へと変化する。それ が自由とともに提示される場合というのは、事物の自然的本性がその手法と調 和して現れる場合である。つまり,手法がまるで事物そのものから自由意志に よって流れ出たかのように見える場合である。以上のことをこう手短に表現す −−141−

(5)

ることも出来る。ある対象は、それに関する多様なもの全てが、その概念の統 一へと合致する場合、完全である。その対象は、その完全性が自然的本性OVatur) として現れる場合、美しい。」'7) これが美に関わる「自由」と「完全性」についてのシラーの説である。 では,この説に触発されたゲーテの論述を全訳の形で次に挙げよう。 3.ケーテの草稿 美とは自由を備えた完全性であるという理念は,どこまで有機的な自 然存在に対して適用されうるか 有機的な存在は,どの一個をとっても,その外面に関して大層多面的であり, その内面においては多様で無尽蔵である。それゆえ,その生物を観察するため の立脚点はどれほど選んでも十分とはいえず,またその生物を殺傷せずに分析 するための感性をどれほど自分の身につけても十分とはいえない。私は,美と は自由を備えた完全性であるという理念を,有機的な自然存在に対して適用し てみたい。 すべての被創造物の肢体は,彼らが自分の現存を享受し,保持し,増殖でき るように形成されている。そして,この意味においてすべての生物は完全であ ると呼ぶことができる。今回は早速,いわゆる、より完全な動物に目を向けて みよう。 動物の肢体が,極めて限定されたやり方でしか,その生物の存在を表明でき ないように形成されている場合には,私たちはその動物を醜いと思う。という のは,器官の自然的本性が特に一つの目的に限定されていることによって,肢 体のあれやこれやの優勢が引き起こされ,その結果として,他の部分の随意な (willkiirlich)使用が阻害されざるをえないからである。 私がそういう動物を観察している間,私の関心は,他の部分に優勢している ところに向けられている。そしてその生物は,調和価armonie)を持たないので あるから,私に調和のとれた印象を与えることは出来ない。それゆえモグラは 完全であるが醜いということになるだろう。なぜならその体型は,モグラに僅 −142−

(6)

かな,限定された行動しか許容せず,ある特定の部分の優勢がモグラを全く不 格好にしているからである。 ということは,或る動物が不可欠な,限られた必要だけを阻害されることな く満たすことが出来るためには,その動物は既に完全に器官が整備されていな ければならない。しかし,必要を満足させる他に,随意的な,幾分無目的な行 為を企てるほどの余力と能力がまだその動物に残されているのならば,その動 物は外面的にも私たちに美の概念を与えてくれるだろう。 それゆえ,私がこれこれの動物が美しいというとき,その主張を数字または 尺度からなる何らかの均整『roportion)によって証明しようと欲するのならば, それは無益な試みをしていることになるだろう。むしろ美しいという言葉で私 が述べているのは,もっぱら次のようなことなのだ。即ち,その動物において は,肢体のどの部分も他の部分の機能を妨げることがないような関係に立って いるのだと,いやそれどころか,それらの肢体の完壁な平衡によって不可欠性 と必要性が隠され,完全に私の目に見えなくされた結果,その動物がまるで自 由気侭(nachfreierWillkiir)に行動し機能しているように見えるのだと。その肢 体を自由に用いている馬を目の当たりにしていることを思い起こして頂きたい。 さて考察を人間の高さにまで移してみると,人間がついに動物性の拘束から ほとんど解き放たれていることを見いだす。その肢体は優雅な服従関係と協調 関係のうちにあり,他の何らかの動物の肢体よりもっと意志の支配のもとにお かれていて,またあらゆる種類の用向きに適合しているのみならず,精神的な 表現にも適合していることを見いだすのである。私はここで身振り言語につい ては一瞥を与えるだけにとどめておきたい。それは,育ちのよい人間の場合控 えめになり,また私の見解では,言葉を使う言語と同様に,人間を動物より上 位に置くものなのである。 この道筋を辿って、美しい人間という概念を自分に形成するためには,無数 の関連を考慮に入れなければならない。そして,自由に関する高逼な概念が, 同様に感覚的なことがらにおいても,人間の完全性に王冠を授与できるため には,実際,多大な道程を要するのである。 −143−

(7)

私はこれとともにもう一つ述べておかなければならない。我々は,或る動物

が自らの肢体を気侭に用いることが出来るという概念を我々に与えるとき,

その動物を美しいと呼ぶ。その動物が実際に肢体を気侭に用いるやいなや, 美の理念は即座に,優雅さや快適さや軽快さや壮麗さなどの感性によって呑 み込まれてしまう。それゆえ,美においては,力を備えた静止,能力を備え た無為が、もともと見込まれていることがわかる。 動物の身体または肢体の一つに関して,力の発現という考えがその現存在 とあまりにも密接に結びついている場合には,美の精霊は即座に私たちのも とから飛び去ってしまうように思われる。それゆえ,私たちの美を把握する 器官である情感をここでも魅了するために,古代人たちでさえも彼らのライ オンを最高度の平穏と無関心の中にいる形で造形したのである。 それゆえ,私としてはこう言いたいのである。或る完全に器官の整った生物 を私たちが美しいと呼ぶのは,その生物が望めばすぐにすべての肢体の多種 多様な自由使用が可能であると,その生物を目にしたときに私たちが思い浮 かべられる場合なのだ,と。それゆえ,美の最高の感情は,信頼と希望の感 覚と結びついているのである。 動物と人間の姿態についての,この道筋に沿った実験が行われれば,見事な 眺望を開いてくれ、興味深い連関を提示してくれるに違いないと,私には思 われるのである。 とりわけ,既に上で考察されたように,私たちが常に数字と尺度でのみ表現 すべきものと思っている均整の概念は,それによってもっと精神的な定義の 語句の形を取ってうち立てられることになるだろう。そして,こう希望する 事が出来るのだ。つまり,この精神的な定義の語句が,私たちの時代まで作 品群が残されているもっとも偉大な芸術家たちのやり方と結局のところ合致 し,また同時に,折に触れて私たちの周りで生きた姿を見せてくれる,美し い自然の産物をも包括するであろうことを望めるのである。 すると,いかにして美の領域から踏み出すことなく諸々の特性を持った存在 (Charaktere)を生み出すことができるか,いかにして自由を損なうことなく特 −144−

(8)

定のものに対する限定(Besch伽kungと決定(Detennination)を現出させること が出来るかという考察が,極めて興味深くなる。 そのような措置が,他の措置と区別され,また将来の,自然と芸術の愛好家 のための下準備として真に有用となるためには,解剖学的,生理学的な基盤 を持つ必要があるだろう。しかしながら,それ程多様でそれ程素晴らしい全 体像を提示するための,適切な発表形態の可能性を考えてみることは,非常 に困難ではある。 4.考察 シラーの「一見、異端のように見える見解」’8)にゲーテが興味をそそられた であろうことは確実だが、それは完全な同意を意味するものではない。シラー の前提に立ってみると自らの問題意識にとってまだ答えの出ない事柄に、どの ような解決の糸口が見いだせるのかを、ゲーテがこの草稿で試みている様子が 窺えるのである。その態度は,美学に新説をうち立てようという意図に基づく よりもむしろ,彼の自然科学における努力,即ち,植物学,鉱物学,形態学, 光学,気象学などと同じく,自然認識のための手段の一つを求めるものである。 美について論じていながら、先ず「醜い」動物を考察の対象に挙げているとい う奇妙さも,この観点から説明することができる。ゲーテは,自分の美的感覚 からして醜いと思わざるを得ない生物が存在する事実と,すべての存在が完全 であるという前提との間の矛盾にシラーの説が明‘快な解答を与えてくれると考 えたのであろう。しかしその際に,ゲーテが厳密にシラーの方法を踏襲してい るとは言い難い。当然のこととして、この草稿の基本的な志向や立論の仕方も ゲーテ独自のものとなっており、また「自由」という用語のニュアンスさえも、 両者の間で微妙に異なっている。シラーの「自由」が観念的な「自律」と「他 律」という観点から規定されているのに対して,ゲーテの場合は判断の基準が より具体的となり,或る器官が他の器官から束縛を受けているかどうかに主眼 が置かれている。言い換えれば,或る存在を可能にしている規定が,その存在 に内在している独自のものであるかがシラーにとって重要であるのに対し,ゲ −145−

(9)

−テにとっては,その存在の自己発現が他の要因によって限定や阻害を受けて いるか,いないかが問題なのである。ゲーテはある動物を美しいと認める条件 として,「随意的な,幾分無目的な行為を企てるほどの余力と能力がまだその動

物に残されている」ことを挙げている。シラーとゲーテの観点のずれに呼応し、

「自由」がここでは「随意(Willkiir)」へと置き換えられていることに注意すべ きであろう。 目を動物から人間へと転じた時,人間があらゆる生物で最高の存在であると いう幸福な信条を告白し,人間の完全性に美の称号を与えるために,ゲーテは 再び「自由」を用語として採用するが、その意味合いは又してもシラーの「自 律」から逸脱している。そこでの自由は,「人間が動物性の拘束から解き放たれ ていること」,「肢体が動物よりもつと意志の支配のもとにおかれていること」 を意味する。即ち、人間には無限の可能性があることを暗示してくれるものな のである。ゲーテの言う「信頼と希望の感覚」は、この脈絡で解釈すべきであ ろう。

「自由」を出発点として、「随意」や「調和OIarmonie)」とも言い換えられて

きた美の基準は,最終的には「均整rIoportion)」の概念へと収散してゆく。し かし、実を言うと「均整」は、シラーが美とは無関係だと断罪している特性の 一つではある。 「合目的性,秩序,均整,完全性一これらは,そこに美を見いだしたと 人が長らく信じてきた特性である−は、美と全く何の関わりも持たない。 しかし、全ての有機体の場合のように、秩序や均整などが或る事物の自然的本 性の一部となっているところでは、それらはやはり当然のこととして損傷を被 ることはない。しかしそれは、秩序や均整自体のせいではなく、それらが事物 の自然的本性と分かち難く結びついているからなのである。均整のひどい損傷 は、醜い。しかしそれは、均整を守ることが美だからではない。断じて違う。 それは、均整の損傷が自然的本性を損傷することになるからなのである。即ち、 他律を暗示するからである。そもそも私の認めるところによれば、美を均整の うちに求めたり、もしくは完全性のうちに求めたりした人々の誤りはもっぱら -−146−

(10)

次のことに由来する。彼らは、均整や完全性の損傷が対象を醜くすると思い、 そこから彼らは全く論理に反して、こう結論付けたのである。つまり、美はこ れらの特性を正確に守ることのうちに含まれていると。しかし、これら全ての 特性は単に美の質料をなしているだけであり、質料は各々の対象の場合に変わ りうるのである。それらの特性は真の一部となることもでき、真はやはりまた 美の質料にすぎないのである。美の形態は、真の、合目的性の、完全性の、自 由な陳述に過ぎない。」’9) 言うまでもなく、この批判はゲーテに向けられたものではない。そして、ゲ ーテ自身も、旧来の「数字と尺度でのみ表現すべきものと思っている均整」に 対して疑念を表していることを見逃してはならない。ゲーテの言う「均整」は、 あくまでも人間の精神活動との関わりにおいて現象の意義を見いだそうとする 基本姿勢から発想されたものであり、そのことを「精神的」とゲーテは呼んで いるのであろう。また当然の帰結として、「均整」の定義が数値ではなく、簡潔 で包括的な文言で表現されることをゲーテは希求している。それは例えば、彼 が美を成り立たせる条件として述べた、「力を備えた静止,能力を備えた無為」 のような形をとるべきものなのであろう。その文言を持ってすれば、古典古代 の芸術作品と自然の産物も同一の基準で判断できるだけでなく、新しい作品に 現象世界の中で位置を与える際にも、即ち、限定され決定された存在として作 品を生み出す際にも、有用な基準が提供されるはずなのである。 作品の独創性や作者の個性を尊重する現代の芸術観に対して、極力作者の主 観を排除し、対象の自律を原理として確立しようとする、この試みは、いわば その対極に立つものであり、その根拠は、人間精神の普遍性という理念のうち に求められている。そして,このような普遍性への信頼は,ひとりゲーテのみ のものではなく,時代の精神であった。ゲーテとシラーが同じく影響を受けた 同時代の哲学者カントを、その代表として挙げることが出来る。カントは美の 判断に於ける主観的普遍妥当性に基づいて,その美学を展開し、美の判断が「あ りとあらゆる時代と民族が,およそ可能な限りお互いに一致する」20)と論じて いる。 −147−

(11)

このような客観性は、現代人の目には、あまりにも理念的な楽天主義に見え

るかもしれない。しかし、普遍性という中心点を失った現代芸術の陥っている

混乱した状態を振り返って見るとき、この一見古くさく思える命題は、何度も

新しい光のなかで浮かび上がってくる筈なのである。

最後に敢えて言えば,「一般的な美の判断基準を特定の概念を通じて提示」し

ようとする,シラーの試みは,カントによれば「徒労」なのであった。

「何が美しいのかということが概念によって規定される,客観的な趣味の規

範はあり得ない。何故ならば,この源泉に由来する判断はすべてが,美的直感

による(asthetisch)ものだからである。つまり,その規定の根拠が客体の概念で

はなく,主観の感情だからである。一般的な美の判断基準を特定の概念を通じ

て提示するなどという,趣味の原理を探ることは,無駄な苦労である。そのわ

けは,それによって探し求められているものが,不可能なものであり,それ自

体が矛盾するものだからである。」21)

カントを十分に意識しつつ試みたシラーの、そしてゲーテの立論は、カント

が説明出来ていないことを説明しようとしたという意味に於いて果敢でもあり、

また一方、カントがそもそも説明不能だと見なした事柄に敢えて理論的解明を

加えようとしたという意味に於いて無謀であったかもしれない。しかし、単な

る思弁を越えて生産性の展望を示している点に、二人の、詩人としての偉大さ

をみることができるのである。 註 1)GoethesWerke・HambuIgl967,8.Aufl。,Bd・13,S・564 2)ebd、 3)Schi,leranKOmer:Jena,denl8・Feb、1893.1,:BriefWechselzwischenSchillerund K6meⅢMiinchenl973,S、166 4)ebd.,S、167 5)SchilleranKOmer:Jena,den23・Feb、1893,a・a.O、,S・’75 6)ebd 7)ebd.,S、174 8)ebd. −148.−

(12)

9) ebd ., S. 177 10) ebd ., S. 181 11) ebd ., S. 177 12) ebd . 13) ebd . 14) ebd . 15) ebd ., S. 183

16) シ ラ ー は こ の 概 念 を カ ン トの 『判 断 力 批 判 の 第 一 序 論(Die erste Einleitung in

die Kritik der Urteilskraft)』か ら借 りて い る 。岩 波 文 庫 。 『判 断 力 批 判(下)』279 頁 。

17) ebd., S. 184

18) Goethes Werke. Hamburg 1967, 8. Aufl., Bd. 13, S. 564 19) Schiller an Körner: Jena

, den 23. Feb. 1893, a. a. O.,S.185

20) Kants Werke. Akademie Textausgabe (Berlin 1968), Bd. 5: Kritik der Urtheilskraft. Erster Theil. Erstes Buch. § 17, S. 231f.

21) ebd., S. 231

参照

関連したドキュメント

ヒュームがこのような表現をとるのは当然の ことながら、「人間は理性によって感情を支配

( 同様に、行為者には、一つの生命侵害の認識しか認められないため、一つの故意犯しか認められないことになると思われる。

 筆記試験は与えられた課題に対して、時間 内に回答 しなければなりません。時間内に答 え を出すことは働 くことと 同様です。 だから分からな い問題は後回しでもいいので

【フリーア】 CIPFA の役割の一つは、地方自治体が従うべきガイダンスをつくるというもの になっております。それもあって、我々、

食べ物も農家の皆様のご努力が無ければ食べられないわけですから、ともすれば人間

神はこのように隠れておられるので、神は隠 れていると言わない宗教はどれも正しくな

自分ではおかしいと思って も、「自分の体は汚れてい るのではないか」「ひどい ことを周りの人にしたので

これも、行政にしかできないようなことではあるかと思うのですが、公共インフラに