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たのむべき杖はこのふみ : 正岡子規・俳句革新への道のり

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Academic year: 2021

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たのむべき杖はこのふみ(半田)

    

たのむべき杖はこのふみ

      

  正岡子規・俳句革新への道のり

  

  

  

    

〈要旨〉 本稿は、現在確認できる子規十六歳の時の短歌を始発に、所謂〈俳句革新〉までの道のりを、子規自身の文章を 通して時系列的に検証したものである。子規は、まず古典の世界に分け入り、特に西行、芭蕉、蕪村の人生と文業とを分 析した。その過程において、和歌と俳諧の相違、歌人と俳人との違いを指摘した。やがて、俳諧(発句)に内在する美の 意匠に着目し、芭蕉と蕪村の作品世界を比較考察しながら、みずからの〈写生観〉を確立してゆく。   本稿では、我が国の古典を近代文学の土壌に蘇生させた子規の情熱と軌跡を辿り、その成果を確かめ、また、その結果 において形成された彼の作品世界についても考察を加えた。俳句と和歌(短歌)は、子規文学の両輪を為し、相乗的に成 果 を 齎 し た 重 要 な 表 現 形 態 で あ っ た。 そ し て、 そ の 完 成 は、 生 と 死 と を 凝 視 し た 肉 体 と 精 神 の 均 衡 の 瞬 間 に 訪 れ た の で あった。 〈キーワード〉 子規と、子規以前    西行と芭蕉    芭蕉と蕪村    牡丹の花

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たのむべき杖はこのふみ(半田)

  

 

はじめに

  

  杖あらばいかなるものもこえぬべし   子規は、十六歳の夏に、次のような短歌を作っている。      壬午の夏、三並うしの都にゆくを送りて    隅田川堤の桜さくころよ花のにしきをきて帰るらん   壬 午 の 夏 は 明 治 十 五 年( 一 八 八 二 )、 幼 な じ み の 三 並 良( み な み・ は じ め、 慶 応 元 年〈 一 八 六 五 〉 〜 昭 和 十 五 年〈 一 九 四 〇 〉) が 上 京 す る こ と に な っ た。 七 月 十 六 日、 伊 予 の 国 か ら 志 を 抱 い て 上 京 す る 心 友 へ の 餞 別 歌 で あ る。 「 来 年 春、 隅 田 川 の 堤 に 桜 の 花 が 咲 く 季 節 に は、 貴 兄 は き っ と 錦 を 着 て 郷 里 に 帰 っ て く る だ ろ う 」 と。 も ち ろ ん、 こ の 歌 に は 子 規 自 身 の、まだ見ぬ東京への憧れも籠められている。   明 治 十 五 年 七 月 三 十 一 日 付 三 並 良 宛 書 簡 で は、 初 句「 隅 田 て ふ 」 と あ る。 『 太 平 記 』 に「 落 花 の 雪 に 踏 み 迷 ふ、 片 野 の 春 の 桜 狩 り、 紅 葉 の 錦 を 着 て 帰 る、 嵐 の 山 の 秋 の 暮 」( 巻 二 ) な ど と あ る。 俊 基 朝 臣 が 陰 謀 の 咎 で、 再 び 関 東 へ 下 向 を 命 じ ら れ た 件 で あ る。 『 太 平 記 』 で は「 故 郷 の 妻 子 」 を 残 し た「 心 中 の 哀 れ 」 を 謳 い あ げ て お り、 子 規 の 短 歌 は、 そ の 場 面 を必ずしも重ねたものではないかも知れぬが、異郷の地で修学することになった友を送りだす心境としては、近いものが あったかとも思われる。      五月二十九日、帝国大学の競技会にまかりて競走を見る    千さと行くたつの馬とても及ぶまじまなびの道もかくやいそがん   明治十九年(一八八六)五月二十九日の作。この日、帝国大学の運動会が行われた。子規は、明治十七年九月十一日に

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たのむべき杖はこのふみ(半田) 東京大学予備門に入学。子規の通う東京大学予備門は、明治十九年四月二十九日に第一高等中学校と改称されている。同 年 に、 東 京 大 学 は 帝 国 大 学 と な っ た。 以 下、 子 規 の 短 歌 は 帝 国 大 学 の 運 動 会 の 描 写 が 続 く。 「 か く ま で に 高 く も 人 の あ が る な り い か で 我 名 も あ が ら ざ る べ き 」( 高 飛 を 見 て )「 し が ら み を 早 く こ え こ え す ゝ む 也 世 の さ ま た げ も こ え て ゆ か ま し 」 (柵飛を見て) 「杖あらばいかなるものもこえぬべし我たのむべき杖はこのふみ」 (竿飛を見て) 。   正 岡 子 規( 慶 応 三 年〈 一 八 六 七 〉 〜 明 治 三 十 五〈 一 九 〇 二 〉) は、 維 新 後、 日 本 が 近 代 化( 欧 米 化 ) に 向 か っ て 疾 駆 す る時代に、伊予松山の期待を担い、政治家を志して上京する。知られるように、秋山好古、真之兄弟たちもその群れの中 にいた。しかし子規は、やがて哲学や文学に心をひかれ、和歌や俳句の森に分け入ることになる。理由は後に述べるが、 子 規 の そ の 後 の 歩 み は、 先 の 短 歌 に 詠 ん だ よ う に、 「 ふ み 」 を「 た の む べ き 杖 」 と し て 歩 む こ と に な っ た の で あ る。 そ の 活動を支えたのは、新聞『日本』社長陸羯南であった。月給は十五円だった。司馬遼太郎『坂の上の雲』に「子規には、 数字の観念がある。俳句という十七文字を数学的に分析するという奇妙な試みをやった人物であったが、しかし、生活の なかに計算機をもちこむという才能はほとんどない。しかしそういう子規でも母親と妹と三人で東京でくらすには、月二 十五円の生活費は要るとみていた。 」(第二巻、 「日清戦争」 )とある。   子規の給料は入社翌年に二十円に、やがて三十円になる。そして、明治三十一年には、日本新聞社から、四十円の月給 を 受 け 取 る こ と に な っ た( 子 規 自 作 墓 誌 銘 等 )。 他 の 新 聞 社 な ら ば 初 任 給 三 十 円 か 五 十 円 は 可 能 な 俸 給 だ っ た が、 子 規 は 断 っ た。 「 幾 百 円 く れ て も 右 様 の 社 へ は 入 ら ぬ つ も り に 御 座 候 」( 明 治 二 十 五 年 十 一 月 十 九 日、 大 原 恆 徳 宛 書 簡 )。 明 治 二 十 五 年 十 二 月 一 日、 日 本 新 聞 社 へ 初 出 社。 数 え 年 二 十 六 歳 の 子 規 は、 俸 給 よ り も 仕 事 の 環 境 を 選 ん だ の で あ っ た。 そ し て、 何 よ り も 人 間 関 係 を 大 切 に し た。 ち な み に、 明 治 二 十 八 年( 一 八 九 五 )、 松 山 中 学 へ 英 語 の 嘱 託 教 員 と し て 赴 任 し た 夏目金之助(漱石)の月俸は八十円であった。校長・住田昇(高等師範卒)は六十円、教頭・横地石太郎(帝大卒)は八

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たのむべき杖はこのふみ(半田) 十円である(半藤一利『漱石先生、お久しぶりです』平凡社、平成十五年二月) 。   前後するが、明治二十二年(一八八九)に、子規は漱石と親交を結ぶが、この年不幸にも喀血する。この時「卯の花の 散るまで鳴くか子規」など、時鳥の句を四、五十句を作った。それが子規という俳号を名乗る契機となる。数え年二十三 歳の時であった。   俳句革新の源流となったのは、明治二十三年(一八九〇)より常盤会寄宿舎で開催された「もみじ会」である。そこに は、 後 の 俳 句 界 を リ ー ド す る 内 藤 鳴 雪、 藤 野 古 白、 五 百 木 飄 亭 ら が お り、 そ の 後、 河 東 碧 梧 桐、 高 浜 虚 子 が 加 わ っ た。 〈俳句革新〉 に向けての烽火は、明治二十五年 (一八九二) 年六月二十六日から新聞 『日本』 に連載した 「獺祭書屋俳話」 であった(十月二十日まで、計三十八回) 。   こ の 頃、 《 僕 は 小 説 家 と な る を 欲 せ ず 詩 人 と な ら ん こ と を 欲 す 》( 虚 子 宛、 五 月 四 日 付 書 簡 ) と 書 き、 ま た《 人 間 よ り は 花鳥風月がすき也》 (碧梧桐宛、五月二十八日付書簡)とも記して、当時の心の裡と決意とを吐露している。   「 獺 祭 書 屋 俳 話 」 は 明 治 二 十 六 年 五 月 に、 日 本 新 聞 社 よ り 出 版 さ れ る。 そ の 執 筆 の 意 図 は 明 治 初 期 に 至 る ま で 続 い た 「 宗 匠 俳 句 」 を 批 判 し、 俳 句 を 新 し く 改 革 し よ う と し た も の で あ っ た。 「 宗 匠 俳 句 」 と は、 芭 蕉 以 後 の 門 弟 た ち が、 そ の 宗匠の作法や指導により、理屈や観念の世界に遊んだ俳諧世界のことである。子規は、そのような世界の傾向を糺して、 写 生 に 基 づ く 実 作 を め ざ し た。 そ の 態 度 や 方 法 は、 俳 諧 の 世 界 の み で は な く、 文 章 作 法 や、 和 歌 世 界 に ま で 及 ん で い っ た。

  

Ⅱ『獺祭書屋俳話』に書かれていること

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たのむべき杖はこのふみ(半田)     (1) 「俳諧といふ名称」   《 俳 諧 と い ふ 語 は 其 道 に 入 り た る も の ゝ 平 生 言 ふ 意 義 と、 一 般 の 世 人 が 学 問 的 に 解 釈 す る 意 義 と 相 異 な る が 如 し。 俳 諧 といふ語の始めて日本の書にみえたるは古今集中に俳諧歌とあるものこれなり。俳諧といふ語は滑稽の意味なりと解釈 する人多く、其意味に因りて俳諧連歌俳諧発句と云ふ名称を生じ、俗に又之を略して俳諧と云ふ。されど芭蕉已後の俳 諧は幽玄高尚なる者ありて必ずしも滑稽の意を含まず。こゝに於て俳諧なる語は上代と異なりたる通俗の言語、又は文 法を用ゐしものを指して云ふの意義と変じたるが如し。 》   以 下、 内 容 を 要 約 す る。 「 俳 諧 」 の 語 は、 日 本 古 典 で は、 「 古 今 和 歌 集 」 に「 俳 諧 歌 」 と し て 出 て く る が、 も と も と こ の 「 俳 諧 」 と い う こ と ば は、 「 滑 稽 」 の 意 味 に 用 い ら れ た も の で あ る。 そ こ か ら「 俳 諧 連 歌 」「 俳 諧 発 句 」 と い う 名 称 が 生 れ た。 そ の 両 方 を 合 わ せ て「 俳 諧 」 と 略 し て 呼 ば れ る よ う に な っ た。 と こ ろ が、 芭 蕉 以 後 の「 俳 諧 」 に は、 「 幽 玄 」 と い わ れる高尚な作品が含まれ、かならずしも俳諧は、滑稽な世界のみを表すものではなくなり、芭蕉の「俳諧」は、滑稽を離 れた文芸的芸術として確立されていった。   さらに、次のようにある。   《 然 れ ど も 普 通 に 俳 諧 社 会 の 人 が 単 に 俳 諧 と の み 称 す る 時 は 俳 諧 連 歌 の 意 に て 云 ふ も の な り。 而 し て こ れ と 区 別 し て 十 七 字 の 句 を 発 句 と い ふ が 通 例 な れ ど も、 「 俳 諧 を 学 ぶ 」 と か 又 は「 俳 諧 に 遊 ぶ 」 と か 云 ふ が 如 き 場 合 に は、 必 ず し も 俳 諧と発句とを区別せずして両者を包含する程の広漠なる意に用ふる事も少からず。 》   子規が俳句革新を目指した頃、 「俳諧」は、 「俳諧連歌」と「発句」が、混用して用いられていたことがわかる。子規の 言 説 は、 こ の 言 葉 の 混 用 を 整 理 す る と こ ろ か ら 始 ま っ て い る。 「 俳 諧 連 歌 」 と は、 「 洒 落 や 奇 知、 ま た は 俗 語 を 用 い た 諧 謔 味 の あ る 連 歌 」( 『 日 本 国 語 大 辞 典 』) を い う。 な お「 連 歌 」 と い う の は、 和 歌 の 形 式( 五・ 七・ 五・ 七・ 七 ) を、 二 人 の

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たのむべき杖はこのふみ(半田) 読み手が応答してよむ詩歌のこと。普通は、五・七・五(上の句)に、別人が七・七(下の句)を作って作品を完成させ るが、平安時代には、二人でひとつの作品を完成させる短連歌が流行っていた。しかし院政期(十二世紀半ば頃)から、 複数の人が上の句と下の句を交互に連ねてゆく長連歌に発達する。   こ の 長 連 歌 は、 中 世 時 代 を 経 て 芭 蕉 の 時 代( 江 戸 時 代 ) ま で 続 い た。 長 連 歌 は、 短 い も の で 三 十 六 句( 歌 仙 )、 四 十 四 句( 世 吉 )、 五 十 韻、 百 韻、 長 い も の で は 千 句、 万 句 等 の 形 式 が あ る。 そ の 第 一 句 を 発 句、 第 二 句 を 脇、 第 三 句 を 第 三 と 呼 び、 最 終 の 句 を 挙 句 と 呼 ぶ。 物 事 の 終 わ り を 意 味 す る 慣 用 句「 挙 句 の 果 て 」 と い う の は、 こ の 連 歌 の 言 葉 か ら 来 て い る。 江 戸 時 代 の 浮 世 草 子 作 者 と し て 名 高 い 井 原 西 鶴 は、 俳 諧 の 名 手 と し て も 有 名 で、 一 晩 に 二 万 句 を 作 っ た と も 伝 え ら れ、二万翁の号は、それに由来していると言われる。     さて、結論を先にいえば、子規の功績のひとつは、この俳諧連歌の「発句」を独立させて「俳句」と名づけ、単一の作 品として位置付けたことである。この場合「俳諧連歌」の「滑稽」とは、芭蕉とその弟子たちが試みた「幽玄高尚」を念 頭に置いたもので、通常世間が用いる「滑稽」ではなかったのである。このように、子規の言説とその時代とを検証すれ ば、彼は言語芸術としての「滑稽」を、 「発句」によって表現できると考えたのだと思われる。     (2) 「連歌と俳諧」   《 俳 諧 の 連 歌 よ り 出 で 連 歌 の 和 歌 よ り 出 で た る は 人 の 知 る 所 な り。 其 始 め は 一 首 の 歌 の 上 半 下 半 を 一 二 の 人 し て 詠 み た る程のものなりしが、後には歌の上半即ち十七文字だけを離して完全の意味をなすに至れり。 》   子 規 は「 俳 諧 の 連 歌 よ り 出 で 連 歌 の 和 歌 よ り 出 で た る は 人 の 知 る 所 な り。 」 と 記 す。 つ ま り、 俳 諧 の も と は 連 歌 で あ り、 連 歌 の も と は 和 歌 で あ る と い う の は 周 知 の こ と だ と い う。 日 本 の 俳 句 の 源 が 和 歌 で あ っ た こ と を 子 規 は ま ず 確 認 す る。 さ ら に 子 規 は、 次 の よ う に 述 べ て い る。 「 其 始 め は 一 首 の 歌 の 上 半 下 半 を 一 二 の 人 し て 詠 み た る 程 の も の な り し が、

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たのむべき杖はこのふみ(半田) 後には歌の上半即ち十七文字だけを離して完全の意味をなすに至れり。 」と。   ここでも子規は、連歌の発句を切り離して「完全の意味をなすに至れり」といい、発句が独立して「意味をなす」こと を認めている。子規の俳句革新は、ここを始点とする。   《 芭 蕉 は 趣 向 を 頓 智 滑 稽 の 外 に 求 め 言 語 を 古 雅 と 卑 俗 と の 中 間 に 取 り 万 葉 集 以 後 新 に 一 面 目 を 開 き 日 本 の 韻 文 を 一 変 し て時勢の変遷に適応せしめしを以て正風俳諧の勢力は明治の世になりても猶依然として隆盛を致せるものなるべし。而 して芭蕉は発句のみならず俳諧連歌にも一様に力を尽し其門弟の如きも猶其遺訓を守りしが後世に至りては単に十七文 字の発句を重んじ俳諧連歌は僅に其付属物として存ずるの傾向あるが如し。 》   「 発 句 」 を「 俳 句 」 と 命 名 し た 子 規 は、 芭 蕉 の 俳 諧 を 高 く 評 価 し、 そ の 趣 向 は「 頓 智 滑 稽 」 の 外 に あ り、 正 に「 言 語 を 古雅と卑俗との中間に取り」 、万葉以来の日本の韻文を一変させたとまで言い切ったのである。   子規の俳句革新への旅立ちは、まず日本の韻文を通史的に眺めたこと、そして芭蕉の俳諧に出会ったことにあったこと がわかる。     (3) 「俳句の前途」   子規が俳句の革新を目指した頃、日本は西洋の詩歌を移入して、それを翻訳(翻案)し、また西洋の詩を手本にして作 詩する動きが活発であった。一方、これまでの伝統的な和歌や俳句は、軽視される傾向が出てくる。子規は、そのような 時代に、伝統的な日本の文学を詳細に吟味し、考察を加えた。例えば、当時の風評を、子規は次のように述べている。   《 数 学 を 修 め た る 今 時 の 学 者 は 云 ふ。 日 本 の 和 歌 俳 句 の 如 き は 一 首 の 字 音 僅 に 二 三 十 に 過 ぎ ざ れ ば、 之 を 錯 列 法 に 由 て 算するも其数に限りあるを知るべきなり。語を換えて之をいはゞ和歌(重に短歌をいふ)俳句は早晩其限りに達して最 早此上に一首の新しきものだに作り得べからざるに至るべしと。 》

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たのむべき杖はこのふみ(半田)   和 歌 は、 原 則「 五・ 七・ 五・ 七・ 七 」、 俳 句 は「 五・ 七・ 五 」 の 字 数 で 完 結 す る。 従 っ て、 数 学 的 に 考 え れ ば、 和 歌・ 俳句で表現される世界は、いつしか限界に達してしまい、やがて一つの和歌や俳句も産出されなくなるだろうという考え 方である。   数学者たちのこのような考えに対して、子規は次のように述べている。   《 和 歌 も 俳 句 も 正 に 其 死 期 に 近 づ き つ ゝ あ る 者 也。 試 み に 見 よ 古 往 今 来 吟 詠 せ し 所 の 幾 万 の 和 歌 俳 句 は 一 見 其 面 目 を 異 にするが如しといへども、細かに之を観、広く之を比ぶれば其類似せる者真に幾何ぞや。弟子は師より脱化し来り後輩 は先哲より剽窃し去りて作為せる者比々皆是れなり。 》   子規の分析によれば、古来、明治までに詠まれた和歌や俳諧を作者別に分類して比較すると、類似の作品が多く見られ たのである。   も ち ろ ん、 日 本 に は「 本 歌 取 」 と い う 方 法 が あ る。 「 和 歌、 連 歌 な ど を 作 る 際 に、 す ぐ れ た 古 歌 や 詩 の 語 句、 発 想、 趣 向 な ど を 意 識 的 に 取 り 入 れ る 表 現 技 巧 」( 『 日 本 国 語 大 辞 典 』) で あ る。 例 え ば、 万 葉 集 の 作 品 が 後 世 の 作 品 に 粉 飾 さ れ て 登場する例を、私たちはよく知っている。この場合、万葉集を本歌という。後に作られた作品は本歌を基に創作されたも ので「本歌取」の作品ということになる。このような創作の仕方は、新古今集の時代に最も盛んに行われたのはよく知ら れている。   子規自身は、短歌の習作期においてこのような本歌に基づく作品を多作しているが、後にそれらを墨滅している。その 背 景 に は、 こ の よ う な 作 歌 法 を 嫌 い、 「 終 に 一 箇 の 新 観 念 を 提 起 す る も の な し 」 と 断 じ た 創 作 に 対 す る 考 え が あ っ た も の と思われる。   な お「 本 歌 取 」 は、 時 代 が 下 っ て も 引 き 継 が れ、 子 規 の 時 代 に な っ て も、 作 品 の 創 作 方 法 と し て 流 行 し て い た の で あ

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たのむべき杖はこのふみ(半田) る。子規は「世の下るに従ひ平凡宗匠、平凡歌人のみ多く現はるゝは罪其人に在りとはいへ、一は和歌又は俳句其物の区 域 の 狭 隘 な る に よ ら ず ん ば あ ら ざ る な り。 」 と、 そ の 世 界 の 狭 さ を 指 摘 し、 こ の ま ま だ と 俳 句 は、 明 治 の 時 代 と と も に 消 滅するだろうと述べている。また和歌は、雅言のみが用いられているので、その消滅するのは、俳句よりも早いだろうと も言っているのである。

  

 

芭蕉との出会い

『行脚俳人芭蕉』について   子 規 没 後 に 刊 行 さ れ た『 行 脚 俳 人 芭 蕉 』( 金 尾 文 淵 堂、 明 治 三 十 九〈 一 九 〇 六 〉) は、 子 規 自 筆 の 毛 筆 で 和 紙 に 書 か れ た 原稿を、そのまま複製したものである。この中で、俳人・芭蕉と、歌人・西行とを比較した子規は、俳人と歌人の違いを 分析し、また俳句と和歌の違いについても興味深い考えを述べている。   《 抱 負 あ り て 世 に 用 ゐ ら れ ず 才 学 あ り て 人 に 知 ら れ ざ る 者、 世 を 捨 て 人 を 厭 ひ 或 は 跡 を 山 林 の 間 に く ら ま し 或 は 興 を 塵 埃の外に求む。しかも彼猶枯木寒巌の如く無情なる能はず、懐を風月に寄せ情を吟詠に発す。歌人西行俳人芭蕉の如き 是なり。 》   まず、歌人西行と俳人芭蕉の共通点について、志があっても世に用いられず、また才能があり学識があっても人に知ら れることがない人物だと子規は云う。そして、彼らは世捨て人となって、世間から姿を隠し、山林での生活に楽しみを発 見し愉快に思うようになる。けれども、彼等は、枯木や岩のようには無情ではなく、自然の風物に心を寄せ、感じたこと を詩歌に表現したのだと。  

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たのむべき杖はこのふみ(半田)   次に、西行が求めた和歌の世界については、次のように説明する。   《 和 歌 は 古 今 集 以 後 漸 く 天 然 を 写 す の 傾 向 を 生 じ た れ ど も 其 材 料 は 極 め て 少 く 其 意 匠 は 前 人 の 陳 套 を 脱 す る を 得 ざ る が ために全く天然を離るゝに至れり。 》   この箇所を要約すれば、次のようになる。   即 ち、 和 歌 は 古 今 和 歌 集 以 後 に「 天 然 」( 自 然 ) を 写 す 傾 向 が 見 ら れ る。 け れ ど も、 そ の 材 料 は 極 め て 限 ら れ た も の で、その世界は狭いものである。なぜなら、歌人は古人の意匠を用いて作品を作るからであり、天然を詠んでも、その天 然は已に古人が作品に表現した世界である。名所を詠んでも、その作品の意匠は、前人によって已に表現されている。子 規は「歌人は居ながらにして名所を知る」という諺を紹介し、西行も例外ではないという。   その昔、公卿たちは生涯京洛(京都)に居て、全国名所の歌を詠む方法を学んだ。西行の和歌も、それに近いのではな いかと分析しているのである。子規の西行に対する評価には厳しいものがある。確かに西行は、旅を重ねて山水を歩き、 見聞したものを歌に託して詠んだけれども、それらの作品には 「詩趣」 がなく、従って 「自然」 に関しては、 「山岳河海」 や名所旧蹟を詠んでも「名所其物」を「写す」のではなく、 「名所に対する自己の感慨を漏らすに過ぎず。 」と批評する。 こ れ で は、 他 の 凡 庸 の 歌 人 と 同 じ で は な い か と い う の で あ る。 そ し て、 「 西 行 は 深 く 詩 趣 を 解 せ ず 」 と 表 現 し「 真 個 に 天 然の趣味を探り得て之を歌ひたる者は実に芭蕉を以て始となす。 」と断じたのである。   官職を辞し、旅を重ねて文学を志した境涯は、二人に共通しているところである。子規は、その共通点を認めた。そし て芭蕉は、先人としての西行を尊敬したことは周知である。しかし、二人の相違点を子規は次のように述べるのである。   《 相 異 な る 処 は、 芭 蕉 が 善 く 天 然 を 描 き 得 し の み な ら ず、 歌 の 代 り に 俳 句 を 用 ゐ た る と、 且 つ 其 俳 句 は 自 家 の 発 明 に か かる事なり。 》

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たのむべき杖はこのふみ(半田)   つまり、芭蕉は巧みに「天然」を描き、その表現形式が「俳句」であったこと、そこが西行と違うというのである。西 行 は、 俗 塵 を 離 れ て、 確 か に「 高 潔 の 士 」 で は あ っ た け れ ど も、 尊 敬 す べ き 歌 人 で は な か っ た と 子 規 は 言 う。 「 天 然 」 を 写す独自性が西行にはなく、西行は、これまでの伝統歌人のひとりでしかないと子規はいうのである。ここには、子規の 評価軸としての、 「天然」を写すことに重点を置く「写生」と、表現形式としての「俳句」の重視がある。   それでは子規は、芭蕉のどのような作品を認め、どう評価したのか。次に、幾つかの例を採り上げて、それを確認して みることにする。 ○芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな   芭 蕉 四 十 歳 の 時 の 作。 江 戸 深 川 の 庵 に 花 木 の 芭 蕉 一 株 を 植 え た 桃 青( 芭 蕉 の 旧 名 ) は、 こ の よ う な 句 を 作 っ た。 す で に、 当 時 よ り、 人 び と は 桃 青 を「 芭 蕉 の 翁 」 と 呼 び、 そ の 住 居 を 尊 敬 の 念 を も っ て、 「 芭 蕉 庵 」 と 呼 ん だ と い う。 子 規 は、芭蕉が四十歳で「翁」と呼ばれたことに触れ、それは人びとが芭蕉を尊敬したからだと推測している。芭蕉の葉が、 冬の嵐に靡いている。どこからか盥に雨水が落ちる音が聞こえてくる。あたりは森閑とした漆黒の夜である。この句の評 価を、子規は直接には下していない。だが、この句には、確かに天然と詩趣との交織した世界が漂う。 ○野ざらしを心に風のしむ身かな   四十一歳の時、芭蕉は江戸を発って帰郷する。その紀行文は、この句に因んで「野ざらし紀行」とも言われる。霧の箱 根 山 を 越 え て、 大 井 川 付 近 に 捨 て 子 を 見 つ け た 芭 蕉 は、 「 い か に そ や 汝 父 に 憎 ま れ た る か 母 に う と ま れ た る か 」( ど う し て お前は父に憎まれたのか、母にもきらわれたのか)と問いかけ、食べ物を与えた。そして、父も母もお前を嫌ったのでは ない、捨て子となった汝の天命なのだと言って去った。子規はここに、芭蕉の「観念と特殊の句法」とを指摘した。 ○道の辺の木槿は馬にくはれけり

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たのむべき杖はこのふみ(半田)   こ の 句 は、 即 景 の 句 で あ る と 子 規 は 断 じ た。 「 即 景 」 と は、 対 象 を 見 つ け て、 す ぐ に 作 品 に す る こ と で あ る。 「 即 興 」 と 同 じ で、 興 味 を も っ た 場 面 を 即 座 に 表 現 す る。 芭 蕉 が 伊 勢 の 知 人 を 尋 ね、 し ば ら く 滞 在 し た 時 の 作。 「 道 の ほ と り に 咲 い ていた木槿は、通りすがりの馬の餌になってしまった」の意味で、西行が滞在したと伝承される「西行谷」へ行き、芋を 洗う女たちを見かけた。この時、芭蕉は「芋洗ふ女西行ならば歌よまん」の句を残している。俳人・芭蕉が感じた歌人・ 西行との差異がこの句には表現されている。芭蕉の即興の句には、どこかユーモアが漂い、子規もそのユーモラスな世界 に共鳴するところがあっただろう。 ○月はやし梢は雨を持ちながら   芭蕉庵のある深川の近くから舟に乗り、月見の名所鹿嶋を目指した芭蕉は、途中利根川に沿って移動し、鮭の網代漁を 見学する。夜になり漁師の家で一休みした芭蕉は、月明の下、夜舟に乗って鹿嶋まで行く。翌日は大雨で月光は出ず、仕 方 な く 近 く の 根 本 寺 に 宿 泊 す る。 翌 暁 方 近 く、 顔 を 見 せ た 僅 か な 月 明 も、 日 の 出 と と も に 見 え な く な っ た。 「 月 は や し 」 とは、月が姿を消す早さを恨む気持ちであり、その一方で、木の梢には、まだ雨の残滴がある。月が、雨の残滴に変わる 皮肉なユーモアが詠まれている。 ○父母のしきりにこひし雉の声   高 野 山 で の 作。 山 間 に 響 く 雉 の 鳴 き 声 を 聞 き、 亡 き 父 母 へ の 思 慕 が 抑 え が た く 湧 き 上 が っ た。 「 山 鳥 の ほ ろ ほ ろ と 鳴 く 声 き け ば 父 か と ぞ 思 ふ 母 か と ぞ 思 ふ 」( 行 基 菩 薩 ) を 踏 ま え た。 西 下 し て、 歌 枕 を 踏 ま え て「 行 く 春 に 和 歌 の 浦 に て 追 付 き た り 」 と 詠 ん だ。 「 行 く 春 」 は、 古 来 和 歌 に お け る 旅 人 の 譬 喩。 古 刹 や 旧 蹟、 ま た 歌 枕 を 訪 ね た 芭 蕉 は、 高 野 山 で は 伝 承歌を基に哀愁と詩情を帯びた句を詠み、和歌の浦の作では面白みの世界を包含している。 ○夏草やつはものどもが夢の跡

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たのむべき杖はこのふみ(半田)   平安時代末期、奥州〈平泉〉を拠点にして栄華を極め、やがて没落した藤原一族を詠んだ周知の作。栄枯盛衰は世の常 ではあるが、芭蕉は 「国破山河在。城春草木深。感時花濺涙。恨別鳥驚心。 」(杜甫 「春望」 ) 踏まえた。ここでは、 「詩趣」 は「無常」と通じ合う。   そ の 他、 子 規 は「 荒 海 や 佐 渡 に よ こ た ふ 天 の 川 」「 菊 の 香 や 奈 良 に は 古 き 仏 だ ち 」 等 の 句 を 挙 げ、 最 後 に 辞 世 の 句「 旅 に病んで夢は枯野をかけめぐる」を紹介している。   子規は、芭蕉が江戸を出立してからの旅中吟を中心に鑑賞を加えた。それは、芭蕉が旅に出た四十一歳から没年に至る 五十一歳までの作品である。子規は「火宅の如き三界に固より定まりたる住処も無ければ妻子珍宝に後髪ひかるゝの憂い も 無 く、 野 に 臥 し て は 草 の 露 に 身 を は か な み 山 に 寝 て は 松 の 風 に 夢 を 驚 か す。 」 と 記 し て、 芭 蕉 の 境 涯 を 説 明 す る。 子 規 が、 芭 蕉 に 共 鳴 す る の は、 そ の 旅 に 一 生 を 賭 け た 生 き 方 で あ っ た。 「 火 宅 の よ う な 三 界 」、 つ ま り「 人 間 の 煩 悩 が 渦 巻 く こ の 浮 世 」 に お い て、 妻 も 子 も、 ま た 財 を も 持 た ず、 旅 そ の も の が 人 生 で あ り、 野 に 宿 し、 松 風 に 驚 い て 目 を 覚 ま す  

  そ れが芭蕉の一生であったと。   そ し て、 「 吾 れ 日 本 二 千 余 年 間 を 見 わ た し て 詩 人 の 資 格 を 備 ふ る こ と 芭 蕉 が 如 き を 見 ず。 」 と 評 し た。 子 規 は、 「 行 脚 俳 人」としての「芭蕉」を深く心に刻むことになったのである。それは、数え年三十一歳の時のことであった。

  

 

蕪村の発見

  そ の 後 子 規 は、 「 俳 人 蕪 村 」( 新 聞『 日 本 』( 明 治 三 十 年〈 一 八 九 七 〉 四 月 十 三 日 〜 十 一 月 二 十 九 日、 十 九 回 連 載 ) の 執

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たのむべき杖はこのふみ(半田) 筆 に 取 り 掛 か る。 こ の 文 章 は、 後 に 修 正 を 加 え て『 俳 人 蕪 村 』( 明 治 三 十 二 年〈 一 八 九 九 〉、 ほ と と ぎ す 発 行 所 ) と し て、 一冊にまとめられた。   与謝蕪村は、芭蕉よりも約七〇年遅れて生まれた人。江戸時代中期から後期にかけて、俳諧の世界でも活躍したが、む し ろ 画 人 と し て 知 ら れ て い た。 子 規 は、 芭 蕉 の 功 績 を 陳 述 し た 後 に 言 う。 「 芭 蕉 は 無 比 無 類 の 俳 人 と し て 認 め ら れ 復 た 一 人 の 之 に 匹 敵 す る 者 あ る を 見 ざ る の 有 様 な り き。 芭 蕉 は 実 に 敵 手 な き か。 曰 く 否。 」 と。 そ し て、 蕪 村 を 対 置 さ せ て、 そ の比較検討を実行したのである。   以下、子規が指摘した蕪村の句の美の意匠について検討する。蕪村の美の意匠について、子規は以下のように分類し、 その名称を付している。   ○積極的美   美には積極的美と消極的美とがある。積極的美とは、その意匠の壮大、雄渾、勁渾、艶麗、活溌、奇警なものを指し、 これに対して、消極的美とは、その意匠が古雅、幽玄、悲惨、沈静、平易なものを指す。概観すれば、東洋の美術文学は 消極的美であり、西洋の美術文学は積極的美の傾向がある。また、時代的に眺めれば、洋の東西を問わず、上世には消極 的美が、後世には積極的美が多い。但し、日本の古代文学(例えば万葉集・古事記等)には、壮大で雄渾な積極的美の世 界に触れることがある。以上が子規の説明する内容である。   ち な み に 芭 蕉 は、 中 国 唐 代 の 文 学 を 学 ん で、 み ず か ら の 文 学 世 界 を 確 立 し た 詩 人 で あ り、 そ の 俳 句( 発 句 ) の 世 界 に は、消極的な美の意匠が多く見られる。芭蕉の後継者たちの俳風を「蕉風」と呼ぶが、彼らもまた、その消極的美を受け 継 い だ と 言 え る。 日 本 で は、 そ れ ら の 意 匠 を「 幽 玄 」「 閑 寂 」 の 境 地 と 言 い、 「 さ び 」「 し を り 」「 細 み 」「 軽 み 」 な ど と 表 現 す る。 ま た「 蕉 風 」 は「 正 風 」「 蕉 流 」 と も 言 い 換 え ら れ て、 江 戸 時 代 中 期 か ら 俳 風 の 主 流 と な っ て い っ た こ と は 俳 諧

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たのむべき杖はこのふみ(半田) の歴史的な周知事項である。   子 規 は、 そ れ ら を「 寂 と い ひ 雅 と い ひ 幽 玄 と い ひ 細 み と い ひ 以 て 美 の 極 と な す 者 尽 く 消 極 的 に な ら ざ る は な し。 」 と 説 明して、俳句を学ぶ者は消極的美を「唯一の美」として尊ぶようになったと観察している。また、芭蕉は積極的美の意匠 を 表 現 し た 詩 人 で も あ っ た け れ ど も、 そ の 後 継 者 た ち は、 「 艶 麗 」「 活 発 」「 奇 警 」 を 邪 道 と し て 抹 殺 し て し ま っ た と 断 じ ている。子規は、その俳壇の傾向を批判し、積極的な美の復権を試みたのである。それが、蕪村の評価に結び付いたと言 える。   そ の 根 拠 を、 子 規 は 次 の よ う に 説 明 す る。 「 一 年 四 季 の 中 春 夏 は 積 極 に し て 秋 冬 は 消 極 な り。 蕪 村 最 も 夏 を 好 み 夏 の 句 最 も 多 し。 其 佳 句 も 亦 春 夏 の 二 季 に 多 し。 」 と。 こ の こ と は、 子 規 の 研 究 に よ れ ば、 他 の 俳 人 に は 見 ら れ な い 蕪 村 の 特 色 で あ っ た。 そ し て、 蕪 村 の 積 極 的 美 が 表 現 さ れ た 句 と し て、 次 の よ う な 作 品 が 紹 介 さ れ て い る。 「 牡 丹 散 つ て 打 ち 重 な り ぬ二三片」 「日光の土にも彫れる牡丹かな」 「方百里雨雲よせぬ牡丹かな」 。 ○客観的美   上世には主観的美が多く、後世には客観的美が多く見られる。子規によれば、主観的美は「自己の感情を直叙」し、そ れは作者が「自己を慰むる為」のものであり、また「当時の文学に幼稚なる世人」に理解させる為には、それは必要な表 現方法だったと言う。   子 規 は、 主 観 的 美 を 描 く 作 品 の 多 く は、 「 客 観 」 を 描 く こ と が 極 め て 疎 漏 で、 精 細 を 欠 い て い る と 言 い、 そ れ は 恰 も 「絵画の輪郭ばかりを描きて全部は観る者の想像に任すが如し」と説明している。ここで彼は「一部を描いて全体を想像 せしむるは観る者の主観に訴えるなり。 」と主張する。子規の「写生論」の骨格は、 「一部を描いて全体を想像」させる巧 にあるということになる。

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たのむべき杖はこのふみ(半田)   そ こ で、 芭 蕉 と 蕪 村 と を 比 較 し た 子 規 は「 芭 蕉 の 俳 句 は 古 来 の 和 歌 に 比 し て 客 観 的 美 を 現 す こ と 多 し。 」 と し な が ら、 そ れ は「 尚 蕪 村 の 客 観 的 な る に 及 ば ず。 」 と 評 価 し た。 子 規 に は、 「 極 度 の 客 観 的 美 は 絵 画 と 同 じ。 」 と い う 基 準 が あ り、 蕪 村 の 句 に は「 直 ち に 以 て 絵 画 と な し 得 べ き 者 少 か ら ず。 」 と 言 う。 し か も そ れ ら は 数 え き れ な い 程 の た く さ ん の 句 が あ るという。そのような俳人は、蕪村以前にはなく、もちろんその数において芭蕉とは比較にならないというのである。   子 規 の 選 ん だ 蕪 村 の 絵 画 的( 客 観 的 美 ) の 句 と は、 次 の よ う な 作 品 を 指 す。 「 釣 鐘 に と ま り て 眠 る 胡 蝶 か な 」「 夕 風 や 水 青 鷺 の 脛 を 打 つ 」「 四 五 人 に 月 落 ち か ゝ る 踊 か な 」「 鍋 提 げ て 淀 の 小 橋 を 雪 の 人 」「 水 鳥 や 舟 に 菜 を 洗 ふ 女 あ り 」。 確 か に、 これらの作品には、子規の言うように「一事一事を描き添へざるも絵となるべき」要素がある。つまり、句の一つひとつ が絵画となって読者に迫って来る。これが、子規の「写生論」の骨格であり、基本だった。それは、当時の俳句界におい ては、子規一流の画期的な主張であったとも言える。 ○人事的美   子規は、 「沈黙せる者」を写すのは易しいが、 「活動せる者」を写すのは難しいと言う。ここには、対象を「天然」から 「人事」へと推移させようとする子規の意図が見られる。   《 天 然 は 簡 単 な り。 人 事 は 複 雑 な り。 天 然 は 沈 黙 し 人 事 は 活 動 す。 簡 単 な る 者 に 就 き て 美 を 求 む る は 易 く、 複 雑 な る 者 は難し。沈黙せる者を写すは易く、活動せる者は難し。 》   つまり、古代においては、人間の「思想感情」は「単一」であった。だから、古代の詩歌が「天然」を写すことから始 ま っ た の も 当 然 な こ と で、 俳 句 も ま た「 天 然 美 」 を 発 揮 す る こ と が 出 来 た の も 道 理 に か な っ て い る。  

  こ の よ う に 指 摘 す る 子 規 の 眼 は、 日 本 文 学 の 特 色 と 推 移 と を 検 証 し た 結 果 に お い て の、 新 し い 俳 句 の 展 開 の 方 途 と し て、 対 象 を「 天 然 」 から「人事」へと変化させた。

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たのむべき杖はこのふみ(半田)   ここで子規の言う「天然」とは「自然」のことで、日本では歳時記に見られるように、四季があり、それぞれの季節に よって「自然」がある。伝統的な俳諧世界では、その四季を大切に考え、それぞれの特色を活かすところに作品の出来・ 不 出 来 の 基 準 が あ っ た の は 当 然 の こ と で あ る。 子 規 は、 俳 人 た ち に 向 か っ て、 「 一 山 一 水 一 草 一 木 」 を 写 生 し た の と 同 じ よ う に、 「 変 化 極 ま り な く 活 動 止 ま ざ る 人 世 の 一 部 分 」 だ け で も「 写 生 」 し よ う で は な い か と 主 張 し た の で あ る。 次 に、 原文を引用する。   《 只 俳 句 十 七 字 の 小 天 地 に 今 迄 は 軽 う じ て 一 山 一 水 一 草 一 木 を 写 し 出 だ し ゝ も の を、 同 じ 区 画 の 内 に 変 化 極 ま り な く 活 動止まざる人世の一部分なりとも縮写せんとするは難中の難に属す。俳句に人事的美を詠じたる者少き所以なり。 》   子規は、歴史的に見て「俳句に人事的美を詠じた」者が少ないのは、このことはとても難しく、至難のことだからと言 う。人事を「写生」して、これまでに成功した俳人は殆どなく、芭蕉やその弟子たちの多くは「天然」に重点を置き、ま た 芭 蕉 の 高 弟 宝 井 其 角、 服 部 嵐 雪 は、 人 事 を 写 そ う と し て 苦 し み、 結 局 は 失 敗 に 終 わ っ た。 こ の よ う な 中 で、 「 独 り 蕪 村 は何の苦もなく」 、思うままに「人事」を詠いあげた俳人だと高く評価したのである。   一 方、 芭 蕉 に つ い て は、 「 人 事 」 を 詠 ん で も、 そ れ は 自 分 の 境 涯 を 写 し た に 過 ぎ な い と 批 評 し て い る。 子 規 が 認 め る 蕪 村 の 人 事 的 美 の 発 揮 さ れ た 句 と は、 以 下 の よ う な も の で あ る。 「 行 く 春 や 選 者 を 恨 む 歌 の 主 」「 褌 に 団 扇 さ し た る 亭 主 か な」 「門前の老婆子薪貪る野分かな」 「旅芝居穂麦がもとの鏡立て」 「孝行な子供等に蒲団一つづゝ」等。 ○理想的美   ここで言う「理想」とは、人間の到底経験しないこと、または実際にあり得ないことを指す。子規の文学論は、古代の 事 物 を 詠 み、 ま だ 行 っ た こ と の な い 土 地 の 景 色 や 風 俗 を 写 し、 見 た こ と の な い 社 会 の 状 態 を 描 き 出 す こ と に あ る。 「 理 想 的」は「実験的」とも言い換えられ、 「文学は伝記にあらず紀実にあらず。 」という文学論を展開する。つまり事実をその

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たのむべき杖はこのふみ(半田) まま表現するのではなく、自由自在に「天地八荒」を「逍遥」して、 「美趣」を求めるものだと主張するのである。   羽が無くても空に飛翔し、鰭が無くても海に潜り、また音無き音を聴き、色無き色を観る、それが「斬新奇警人を驚か す 」 秘 密 な の だ と 子 規 は 説 明 す る。 そ し て、 俳 句 界 に お い て、 こ の よ う な 俳 人 を 探 せ ば「 蕪 村 一 人 あ り。 」 と 言 い、 自 己 の境涯の「実歴」をのみ詠んだ芭蕉とは「両極端」に位置すると指摘した。ここでも、芭蕉の句を「平易高雅」としなが ら、奇を衒わず新を求めない俳人だったと言っている。従って、子規によれば、芭蕉は「理想的美」を詠んでいない俳人 ということになる。   蕪 村 の 句 中、 子 規 が「 理 想 的 美 」 を 発 揮 し た と 評 価 す る の は、 次 の よ う な 作 品 で あ る。 「 河 か は た ろ 童 の 恋 す る 宿 や 夏 の 月 」「 湖 へ富士を戻すや五月雨」 「名月や兎のわたる諏訪の湖」 「白梅や墨芳ばしき鴻臚館」 「 孑 ぼうふら 孑 の水や長沙の裏長屋」 。   蕪村の理想的美は、このような作品以外にも、歴史を踏まえた句が多く見られる。それらの作品は、叙事詩の趣きがあ り、 一 編 の 物 語 を 想 起 さ せ る と い う。 そ の 一 例 と し て、 「 高 野 」 と 前 書 の あ る 作 品 を、 子 規 は 挙 げ て い る。 「 隠 れ 住 ん で 花 に 真 田 が 謡 か な 」。 真 田 は、 安 土 桃 山 時 代 の 武 将・ 真 田 幸 村 の こ と で 関 ヶ 原 の 合 戦 の 後、 高 野 山 の 麓 九 度 山 に 隠 れ 住 ん だ。軍師の誉れ高く、徳川家康の軍を悩ませたことで知られる。子規は、この句を採り上げ「歴史を借りて古人を十七字 中に現し得た」能力を高く評価した。 ○複雑的美   子規は、和歌が「思想簡単」な時代の産物であることは、その千年余りの歴史をみれば分かるとして、むしろ形式の簡 単な俳句には複雑な意匠が見られると言う。例えば、漢語を借り、その直訳的句法を試みたのもその一例だとして、芭蕉 や そ の 門 人 た ち の 作 品 を 挙 げ て い る。 し か し、 彼 ら の 試 み は、 「 複 雑 の 極 点 に 達 す る に は 猶 遠 か り き 」 と、 そ の 成 果 を 否 定 し た。 「 複 雑 の 極 点 」 に 達 し た の は、 日 本 語 の 柔 軟 な 冗 長 に 飽 き て、 「 簡 勁 」 且 つ「 豪 壮 」 な「 漢 語 」 を 用 い て、 そ の 不

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たのむべき杖はこのふみ(半田) 足を補った蕪村だったというのである。   《 蕪 村 は 複 雑 的 美 を 捉 へ 来 り て 俳 句 に 新 生 命 を 与 へ た り。 彼 は 和 歌 の 簡 単 を 斥 け て 唐 詩 の 複 雑 を 借 り 来 れ り。 国 語 の 柔 軟なる冗長なるに飽きはてゝ簡勁なる豪壮なる漢語もて我不足を補ひたり。 》   子 規 は「 複 雑 的 美 」 を 表 現 し た 句 と し て、 蕪 村 の「 草 霞 み 水 に 声 な き 日 暮 か な 」「 燕 啼 い て 夜 蛇 を 打 つ 小 家 か な 」「 雨 後 の 月 誰 そ や 夜 ぶ り の 脛 白 き 」「 五 月 雨 や 水 に 銭 踏 む 渡 し 舟 」 等 の 句 を 挙 げ、 こ れ ら の 表 現 は 難 解 で、 こ の よ う な 表 現 を 「曲折せしめたる妙」と称えた。   《 曲 折 せ し め た る 妙 は 到 底「 頭 よ り す ら す ら と 言 ひ く だ し き た る 」 者 の 解 し 得 ざ る 所、 し か も 酒 堂 凡 兆 等 も 亦 夢 寐 だ に も見ざりし所なり。客観的の句は複雑なり易し。主観的の句の複雑なる「うき我に砧打て今又やみね」の如きに至りて は蕪村集中亦他にあらざるもの、若し芭蕉をして之を見せしめば惘然自失言ふ所を知らざるべし。 》   こ の よ う に 難 解 な 複 雑 的 美 は、 こ れ ま で の 題 材 や 用 語 と し て、 ま た、 そ の 句 法 と し て は 見 ら れ な か っ た も の で、 子 規 は、 そ こ に 蕪 村 の 句 の 特 色 を 見 出 し た の で あ る。 「 曲 折 」 の「 妙 」、 即 ち、 単 純 な 現 実 を 写 す の で は な く、 複 雑 に 曲 折 し た 情態や事情の変化を表現する意匠を指摘している。   こ の 主 観 的 複 雑 句「 う き 我 に 」 に つ い て 少 し 検 討 し て み る と、 句 意 は、 「 憂 き 身 を も て 余 し て い る と、 ど こ か ら か 砧 の 音 が 聞 え て き た。 そ の 哀 感 に 心 慰 め ら れ た の も 束 の 間、 単 調 な 同 音 の 繰 返 し が じ れ っ た く、 あ あ、 も う 止 め て し ま え。 」 ( 清 水 孝 之 訳 ) と な る。 芭 蕉 に、 「 う き 我 を 淋 し が ら せ よ 閑 古 鳥 」 と い う 句 が あ り、 李 白「 烏 う や て い 夜 啼 」( 『 唐 詩 選 』) の 詩 も 思 い出される。しかし、蕪村の句に子規が感じ取った「妙」とは、この心理描写の複雑とその推移にあるだろう。芭蕉の句 は直情的だが、蕪村の句には、確かに心理の「曲折」がある。    ○精細的美

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たのむべき杖はこのふみ(半田)   子 規 は 美 の 意 匠 を 分 析 し た 最 後 に「 精 細 的 美 」 を 挙 げ て い る。 「 精 細 の 妙 は 印 象 を 明 瞭 」 に さ せ る 為 に あ る と 彼 は 考 え た。芭蕉の句には、叙事形容が粗雑なものが多いのは、彼は「精細的美」を知らなかったからだと考えたのである。   《 外 に 広 き 者 之 を 複 雑 と 謂 ひ、 内 に 詳 な る 者 之 を 精 細 と 謂 ふ。 精 細 の 妙 は 印 象 を 明 瞭 な ら し む る に 在 り。 芭 蕉 の 叙 事 形 容に粗にして風韻に勝ちたるは、芭蕉の好んで為したる所なりといへども、一は精細的美を知らざるに因る。 》   芭蕉の精細的美が発揮された句として、子規は「 五 さ み だ れ 月雨 や色紙へぎたる壁の跡」を挙げる。句意は「いつまでも降り続 く 五 月 雨 の 陰 鬱 さ。 そ ん な 日 に、 名 残 を 惜 し ん で 見 め ぐ る 座 敷 の、 色 紙 を 剥 ぎ 取 ら れ た 壁 の 跡 形 」( 富 山 奏 訳 ) と な る。 これは芭蕉旅中の作。明日はこの部屋を去って行かねばならないという、別離と追懐の情とが、繊細に詠まれた作品であ る。   蕪村には、このような精細的美が詠まれた句が多いとして、次のような作品が紹介されている。その例句を検討してみ よう。 ○あぢきなや椿落うづむにはたづみ   「 あ ぢ き な や 」 は、 「 あ ゝ 驚 い た 」、 「 に は た づ み 」 は、 「 地 上 に 溜 ま り 流 れ だ し た 水 」 の こ と。 急 な 雨 の 為、 忽 ち 庭 に は 水が溢れだした。そこに椿の花が落ちて、水を埋めてしまった場面に驚いている句である。子規は、この句を指して「落 う づ む 」 と は 誰 も が 言 い 得 る 表 現 で は な い、 「 う づ む 」 に 力 点 が あ れ ば 平 凡 だ が、 「 落 ち 」 が あ る こ と( 字 余 り ) に よ っ て、 「 善 き 句 」 と な っ た と 説 明 し て い る。 つ ま り「 俗 な ら し め ざ る 」( 俗 で は な い )「 精 細 的 美 」 を 示 す 作 品 と な っ た と 説 明するのである。 ○鮎くれてよらで過ぎゆく夜半の門   夏の夜更けに門を敲く音がする。誰かと不審に思い外に出ると、鮎を置いてゆくと言って、知人は立ち去っていった。

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たのむべき杖はこのふみ(半田) 自 分 は、 キ ョ ト ン と し て、 去 っ て ゆ く 人 を 見 送 っ た の で あ る。 子 規 は、 鮎 を く れ た 人 に で は な く、 「 よ ら で 過 ぎ ゆ く 」 人 に比重を置く蕪村の「景写」 「情写」に「雅趣」を感じとっている。   「 意 匠 の 美 は 文 学 の 根 本 に し て 人 を 感 動 せ し む る の 力 」 で あ る と 子 規 は 言 う。 そ し て、 そ れ ら を 有 効 に す る も の は、 「用語」 「句法」 「口調」 「文法」 「材料」 「縁語及譬喩」等であると付け加えている。もちろん子規は、蕪村を研究するにあ たり、その時代、履歴・性行等を視野に入れて発言している。また芭蕉にも蕪村にも、素地となった漢籍の教養があり、 それらが作品の上に影響を与えたことは言うまでもない。   子規の俳句開眼には、芭蕉と蕪村とは不可欠な存在であった。彼は、両者を比較しながら、それぞれの作品の特色や相 違を指摘し、みずからの俳句観を確立していった。それは、子規以前にはなかった、子規の熱情と継続された努力の成果 であった。

  

 

子規の俳句観の確立

  正岡子規は、生涯に二五〇〇〇句余りの俳句を作った。それらの多くは、自筆原稿『寒山落木』と『俳句稿』に収めら れている。そこには、子規十八歳の時から没年の三十五歳に至る作品が収録されている、子規の俳句観、俳論の推移とと もに、その俳風も変化しているのを知ることができる。   文 学 を 志 し た 子 規 が、 当 時 の 風 潮 が そ う で あ っ た よ う に、 ま ず 小 説 家 を 目 指 し た の は 必 然 で あ っ た。 小 説「 月 の 都 」 ( 明 治 二 十 五 年〈 一 八 九 二 〉) を 書 き あ げ、 尊 敬 す る 幸 田 露 伴 を 訪 う。 だ が 期 待 す る よ う な 評 価 が 得 ら れ ず 小 説 家 に な る

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たのむべき杖はこのふみ(半田) ことを断念する。この年、子規は学年試験を落第する。これまでは小説家を志し、試験勉強を放棄しながら執筆を続けた のであった。試験落第の報を受けたのは、受験を済ませて帰省途中の船上であった。そのことは、彼にとって、これから の 人 生 の こ と、 家 族 の こ と、 生 活 の こ と な ど を 考 え る き っ か け と な っ た で あ ろ う。 こ う し て、 彼 は 退 学 を 決 意 し た の で あった。   この年、子規は俳論「獺祭書屋俳話」を書き始め、短詩形文学への意欲を示し始める。従って、子規の俳句革新への志 と、小説家としての断念の時期とが重なっていることがわかる。また、生涯にわたり深い親交を結んだ漱石と子規、後の 小説家・漱石と俳人・歌人としての子規。

  この二人の人生の岐路が、この辺りに見られることが確認できる。   日本近代文学史を展望すれば、西暦一八八〇年代末(明治二十年代初頭)頃までは、文学の主流は小説であった。坪内 逍 遥 が「 小 説 神 髄 」( 明 治 十 八 年〈 一 八 八 五 〉) に お い て、 近 代 小 説 の 規 範 を 示 し、 四 迷「 浮 雲 」( 明 治 二 十 年〈 一 八 八 七 〉) 、 鷗 外「 舞 姫 」( 明 治 二 十 三 年〈 一 八 九 〇 〉) 、 露 伴「 五 重 塔 」( 明 治 二 十 四 年〈 一 八 九 一 〉) 等 の、 当 時 を 代 表 す る 作 品が書かれた。また、日本最初の文学結社である尾崎紅葉らの「硯友社」が結成されたのが、明治十八年であった。この 頃の彼は、逍遥や露伴に傾倒し、古書店で「当世書生気質」や「風流仏」等を購い愛読していた。      逍 遥 は、 「 小 説 神 髄 」 の 中 で、 文 学 の 主 旨 は「 人 情 世 態 」 を 写 実 的 に 描 き 出 す 点 に あ る こ と を 説 き、 そ の 形 態 と し て 小 説と演劇とを挙げている。この時代、俳句や短歌ではこれらの目的を果たすことはできないと、逍遥はもちろん欧米の詩 歌を翻訳(翻案)した「新体詩抄」の詩人や文学者たちは考えていたのである。子規も例外ではなかった。だからこそ、 「獺祭書屋俳話」の中で、俳句も和歌もこのままだと早晩消滅してしまうだろうと書いたのである。この危機感こそが、 子規を伝統的な短詩形を「革新」に導いたエネルギーだったのである。   子規は、俳句の形式が日本の四季や自然を詠むのに適した表現形式であることに気づき、パリから帰国したばかりの中

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たのむべき杖はこのふみ(半田) 村不折 (慶応二年 〈一八六六〉 〜昭和十八年 〈一九四三〉 ) の写生法を俳句に取り入れることを試みたのである。洋画家・ 不折の写生の特色は、対象の取捨選択にある。また、色彩と全体の構図のバランスは不折の絵画の特色として知られてい る。子規の色彩への関心は、幼少時からの資質として見られるが、この洋画家との出会いは、蕪村評価の拠り所として見 過ごすことはできない。   中 村 不 折 と 子 規 と の 関 わ り に つ い て は、 中 原 光『 中 村 不 折 ― そ の 人 と 芸 蹟 』( 講 談 社、 昭 和 四 十 八 年〈 一 九 七 三 〉) に 詳 しい。筆者(半田)が、講談社企画室に仮設された子規全集編纂室に席を置き、愛媛大学の和田茂樹研究室と東京とを往 復しているころの著作で、とりわけ懐かしい著作である。中村不折は、一時日本新聞社に勤め、挿画を担当した。子規と の 交 流 も 深 く、 そ の 写 生 の 基 本 的 な 態 度 に 影 響 を 与 え た 人 物 と し て 知 ら れ る。 「 墨 汁 一 滴 」( 明 治 三 十 四 年〈 一 九 〇 一 〉) に、 雪 舟 の 画 を 評 し た 不 折 の 語 を、 子 規 が 書 き と め て い る。 「 不 折 君 は 余 に 向 ひ て 詳 に 此 画 の 結 構 布 置 を 説 き、 こ れ だ け の 画 に 統 一 あ り 少 し も 抜 目 な き と こ ろ さ す が に 日 本 一 の 腕 前 な り と て 説 明 詳 細 な り き。 」 と。 そ し て「 余、 此 時 始 め て 画 の結構布置といふことにつきて悟るところあり、独りうれしくてたまらず。 」と書いている。   子規は、絵画における「結構布置」という言葉を知ったが、これは画の均衡のことである。ここでは「画の統一」とい う 表 現 を 使 っ て い る が、 対 象 が 動 体 で あ っ て も 変 わ り は な い。 鳥 獣 戯 画 の 動 き を 認 め た 不 折 を、 「 洋 画 家 の 関 門 で あ る 動 物や人体の写生が、美術解剖学の示すところに合致していて、少しも無理がなかったことも大きな特色」であると、中原 光 氏 は 説 明 し て い る( 前 著 八 十 七 頁 )。 中 村 不 折 は、 子 規 に「 天 然 」( 静 体 ) か ら「 人 事 」( 動 体 ) へ の「 写 生 」 を 示 唆 し たことになる。これが、子規の写生観のひとつを形成したが、そのことは同時に日本の画壇が、約一世紀遅れて、洋画壇 に近接する時空とも重なっていたのである。   子規の「俳人蕪村」においては、芭蕉に欠如した傾向を指摘し、蕪村の作品が有する特色に対して、新鮮な驚きが綴ら

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たのむべき杖はこのふみ(半田) れていた。ここにおいて、子規の俳句観は、伝統的な花鳥風月を基軸として、その写生の方法に、独自な視点を持つよう になったと言える。さらに言えば、子規の中で、伝統的叙情の和歌と、叙事的俳句の世界が、はっきりとその輪郭を見せ て来るようになる。その時期は、子規の病魔が進み「死」をより自覚した時期と重なるように思われるのである。   子規の、現実的な死への自覚は、明治三十二年(一八九九)五月九日から十一日にかけて、みずからの心境を書き綴っ た「 牡 丹 句 録 」 に 見 ら れ る。 「 子 規 病 中 記 」 と 署 名 が あ り、 「 頃 来 体 温 不 調   昼 夜 焦 熱 地 獄 ニ 在 リ 」 と 冒 頭 に 記 さ れ る。 そ の子規を、牡丹の鉢を抱えた把栗、鼠骨の二人が見舞った。九日の朝のことである。見舞いの牡丹花は、次のような句に 置き換えられ、子規の心中を写すことになる。 薄様に花包みある牡丹哉/人力に乗せて牡丹のゆるぎ哉/鉢植の牡丹もらひし病哉/一輪の牡丹かゝやく病間哉/あ らたまる病の床のぼたん哉/政宗の額の下也牡たん鉢/蓑笠をかけし古屋の牡丹哉   こ の 夜、 時 鳥 の 初 鳴 き 声 を 聴 く。 「 発 汗 疲 労 甚 し く 眠 安 か ら ず 」。 虚 子、 西 洋 料 理 を 携 え て 来 る。 叔 父 の 拓 川 来 訪。 翌 十 日、 瓢 亭、 午 後 吉 野 左 衛 門、 ま た 夕 方 に は 中 村 不 折 が 来 て 牡 丹 の 画 を 画 く( 「 牡 丹 句 録 」 挿 絵 )。 こ の 時、 「 死 別 会 」( 生 前 葬 ) の こ と を 相 談、 そ の 内 容 を 吉 野 左 衛 門 が 代 筆 し た。 要 約 す れ ば、 《 参 会 者 に は 香 奠 の 代 わ り に 花 又 は 菓 子 を 求 め、 当 日は別れの句を詠んでもらう。自分は、たらふく菓子を食い尽くして、薬を飲み、菓子と花に埋もれてやすやすと眠りに つく。そうなれば、如何に嬉しいことか。 》となる。そしてまた、次の句が詠まれた。    林檎食ふて牡丹の前に死なん哉/牡丹散る病の床の静さよ/二片散て牡丹の形かハりけり

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たのむべき杖はこのふみ(半田)

  

 

おわりに

  牡丹散て   ―   ところで、 「俳人蕪村」の執筆は、 「牡丹句録」と同年の明治三十二年のことである。そこで子規は、蕪村句の特色の一 つとして「積極的美」を挙げ、その意匠の壮大・雄渾・勁渾・艶麗・活発・奇警等を指摘した。一方、芭蕉や、その継承 者 の 句 の 特 色 は「 消 極 的 美 」 に あ る と い う。 そ れ ら の 意 匠 は「 幽 玄 」「 閑 寂 」 に 比 重 が 置 か れ、 蕪 村 の そ れ と は 対 極 に 位 置 す る も の で あ る と 子 規 は 分 析 し て い る。 子 規 は「 消 極 的 美 」 を「 さ び 」「 し を り 」「 細 み 」「 軽 み 」 と 置 き 換 え て 表 現 し た。江戸時代に至るまで、特に俳諧の世界においては、それらは文芸の「美」の主流となっていたのであった。   子 規 は 云 う。 「 蕪 村 の 牡 丹 を 詠 ず る は 強 ち 力 を 用 ゐ る に あ ら ず、 し か も 手 に 随 つ て 佳 句 を 成 す 」 と。 そ し て 子 規 は、 蕪 村の「牡丹散つて打ち重なりぬ二三片/牡丹剪つて気の衰へし夕かな/地車のとゞろとひゞく牡丹かな/方百里雨雲よせ ぬ牡丹かな/金屏のかくやくとして牡丹かな/閻王の口や牡丹を吐かんとす」の句を選んだ。   子規の見た蕪村の「牡丹」は、まさに生気に満ちて、それは所謂「積極的美」の表象であったに違いない。その意味で 「牡丹」は、生への意欲を駆り立てるものの表象として、彼には自覚されていた筈である。しかし牡丹の花は、三が日で 散ってしまう。その時「牡丹散て芭蕉の像ぞ残りける」の、子規の句が残された。   俳 人 の 荻 原 井 泉 水( 明 治 十 七〈 一 八 八 四 〉 〜 昭 和 五 十 一 年〈 一 九 七 六 〉) は、 そ の 著『 芭 蕉・ 蕪 村・ 子 規 』( 千 倉 書 房、 昭 和 九 年〈 一 九 三 四 〉) で、 「 子 規 を 全 面 的 に 評 論 す る 為 に は、 子 規 の 短 歌 と い ふ も の を も 観 察 し な く て は な ら な い。 」( 七 十八頁)と述べている。そして、 「子規の短歌は余程心境的である。生活的である。 」と指摘している。子規は、俳句にお いては、その客観描写を重んじる余りに、自分の心境をできるだけ押さえて表現することを目指したとも言えるが、その 一方で、短歌はみずからの心の真実を映し出していると見ることができる。

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たのむべき杖はこのふみ(半田)   同 じ 牡 丹 を 詠 ん だ 子 規 の 短 歌 に は「 病 む 我 を な ぐ さ め が ほ に 開 き た る 牡 丹 の 花 を 見 れ ば 悲 し も 」( 明 治 三 十 四 年 ) と あ る。 牡 丹 の 花 は、 彼 を 慰 藉 す る 花 で も あ っ た の で あ る。 「 牡 丹 は 今 朝 儘 く 散 り 居 た り 」 と 記 す「 牡 丹 句 録 」 の 十 一 日 の 件 に は、 先 に も 引 用 し た「 牡 丹 散 て 芭 蕉 の 像 ぞ 残 り け る 」 の 句 が 置 か れ て い る。 な ぜ か。 「 積 極 的 美 」 か ら「 消 極 的 美 」 へ の回帰。生死の修羅窟を覗いた子規には、心の深部において、芭蕉の美の意匠をも理解することのできる次元に立ち戻っ ていたのかも知れない。それは、まさに蕪村から芭蕉への回帰を意味するのではなかったか。あるいは、芭蕉と蕪村両者 の意匠が、子規の美学として醸成され、彼の深部で結合したことを意味しているのかも知れない。   「 牡 丹 句 録 」 に 記 さ れ た 三 が 日 は、 子 規 が み ず か ら の 死 へ の、 そ し て 死 後 を シ ミ ュ レ ー シ ョ ン し た も の だ っ た。 牡 丹 の 花 は、 美 の 探 究 者・ 子 規 の 心 を 垣 間 見 せ て、 そ の 変 遷 を 示 唆 し て い る よ う に 思 わ れ る。 〈 俳 句 革 新 へ の み ち の り 〉 は、 彼 の知の世界に於ける、観念的な範疇を超えて、生と死の均衡が保たれた時間がもたらす瞬時の輝きとともにあったように 思われるのである。 ◇主な参考文献 『日本近代文学大系   第十六巻   正岡子規集』 (角川書店、昭和四十七年十二月二十日) 『明治文学全集   第五十三巻   正岡子規集』 (筑摩書房、昭和五十年四月三十日) 『子規全集   第四巻・俳論俳話一』 (講談社、昭和五十年十一月十八日) 『子規全集   第二十二巻・年譜資料』 (講談社、昭和五十三年十月三十日) 『芭蕉文集』 〈新潮日本古典集成第十七巻〉 (新潮社、昭和五十三年三月十日)

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たのむべき杖はこのふみ(半田) 『與謝蕪村集』 〈新潮日本古典集成第三十二巻〉 (新潮社、昭和五十四年十一月十日) 『研究資料現代日本文学第六巻   俳句』 (明治書院、昭和五十五年七月五日) 『子規百首・百句』今西幹一・室岡和子(和泉書院、平成二年五月一日) 『俳人蕪村』 (講談社〈文芸文庫〉 、平成十一年十月十日) 『竹乃里歌』 〈和歌文学大系第二十五巻〉 (明治書院、平成二十八年五月二十日) 『松山子規事典』 (松山子規会、平成二十九年十月十四日) 【 付 記 】 本 稿 に 引 用 し た 子 規 の 本 文 は、 原 則 と し て 講 談 社 版『 子 規 全 集 』 に 拠 っ た。 但 し、 漢 字 は 通 行 の 字 体 に 改 め、 必 要 に 応 じ て 句 読 点 を 施 し た。 ま た、 引 用 文 献 は、 そ の 都 度 本 稿 中 に 明 記 し た。 な お、 本 稿 は 第 百 十 八 回 子 規 忌 法 要( 於・ 松 山 市、 令 和 元 年 九 月 十 九 日 ) で の 記 念 講 演 資 料 を 基 に、 新 た に 書 き 下 ろ し た も の で す。 松 山 子 規 会・ 烏 谷 照 雄 会 長 初 め、 お 世 話 に な り ま し た 関 係 各 位 に 改 め て 御 礼 申 し 上 げ ま す。 そ の 後、 当 日 の 講 演 録 は、 『 子 規 會 誌 』 一 六 五 号( 令 和 二 年 一 月 ) に 掲 載 さ れ ま し た。 併 せ て ご 高覧頂ければ幸甚です。

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たのむべき杖はこのふみ(半田) Literature is What I Rely On ─ Masaoka Shiki: The Path to Haiku Reform ─ Yoshinaga  HANDA Abstract  This paper is a chronological investigation of the path to the so-called  “Haiku reform” that started with the tanka, a Japanese poem of thirty one  syllables, created by Masaoka Shiki at the age of 16 which can be confirmed  today, through Shiki’s own writings. Shiki started with efforts in the world of  classic  literature,  in  particular  analyzing  the  lives  and  literary  works  of  Saigyō,  Bashō,  and  Buson.  In  the  process  of  doing  so,  he  identified  the  differences between  (tanka poetry) and haikai (seventeen syllable verse), and  between poets and haiku poets. He eventually noticed the beautiful design  that exists in the haikai (the first line), and went on to establish his own  “outlook on sketching” while comparing the worlds of the works of Bashō and  Buson. 

 In  this  paper  I  verify  the  results  of  these  efforts  while  following  the  enthusiasm and trajectory of Shiki as he revived the classic literature of our  country in the soil of modern literature. I also include inquiries into the world  of his works which took form through those results. The haiku and waka  (tanka) are the two sides of Shiki's literature, and they are the vital expressive  form through which he created such synergistic results. I believe that the  path to haiku reform existed alongside a moment of radiance brought forth  from the time when the life and death are in balance, surpassing conceptual  categories in the world of his wisdom.  Keywords : Shiki and, Before Shiki, Saigyō and Bashō, Bashō and Buson, peony  flower

参照

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