ポーランドにおける宗教と政治─ポーランド政府の
共産主義政策におけるキリスト教的な観念と象徴
著者
マルチン リシェツキ
雑誌名
東北宗教学
巻
14
ページ
1-18
発行年
2018-12-31
URL
http://hdl.handle.net/10097/00127427
ポーランドにおける宗教と政治
──ポーランド政府の共産主義政策における
キリスト教的な観念と象徴
マルチン・リシェツキ
山田 仁史 訳
キーワード ポーランド、政治、宗教、カトリック教会、象徴、観念、儀式 1 はじめに──「ヘゲモニー」と「政治定式」 本稿を始めるにあたり、このテーマとこの研究視角にふさわしい、二つの引 用をあげよう。まず米国の社会学者ピーター・L・バーガーは有名な著書『聖 なる天蓋──神聖世界の社会学』(1967年)において、「人間の社会はすべて一 種の世界構築の営みである。宗教はこの営みのなかで、あるきわだった位置を 占めている」と記した(Berger 1967: 3[邦訳 : 4])。やや一般的なこの言明に 同意しないのは困難だが、ここでの「人間の社会」という概念を「国家」に置 き換えてみると、より興味深く重要なものとなる(cf. Buber 1952)。もう一つ の引用は、アメリカの人類学者デイヴィッド・I・カーツァー『儀式・政治・ 権力』(1988年)からで「政治は象徴をとおして表現される」だ(Kertzer 1988: 2[邦訳 : 11])。「宗教」「国家」「象徴」という概念同士を比較することで、 興味深い研究視角をとりうる。つまり我々は、政治において宗教が重要な機能 をはたすことを認めるべきなのだ。これはしばしば無視されるが、政治の意味 を理解するには大変有用である。したがって、政治学における様々な研究視角 を採用することで、政治の制度的次元のみならず、その再生産に向けた集団的 (および個人的)活動についても、いろいろな側面を吟味しうると考えてよい。 そして、政治基盤の理解を可能とするものが何かと問うなら、結局のところ政 治権力を合法的と認識させる理由は何か、示すことになる。この意味で政治権 力は、たとえば警察といった暴力を占有しているのみならず、市民に対してより巧妙な影響力を行使する多様な方法を用いるので、我々はこうして政治(よ り狭い意味では国家)と宗教の関係を考察しうるのである。 政治権力がその制度像を描き、また活動をおこなうために利用しているもの は何か、より容易に理解するために、社会科学には二つの興味深い理論的アプ ローチが見られる。うち一つはイタリアの哲学者アントニオ・グラムシ(1891 1937)による「ヘゲモニー」概念であり、その意義とは、支配を可能とする のみならず、それを合法ともしうるようなイデオロギー体系の創出を、あらゆ る制度は必要とする、ことにある(cf. Lisiecki 2012: 82-86; Laclau, Mouffe 2001: 67; Wróblewski 2016: 118)。二つめはイタリアの社会学者・法学者のガエ ターノ・モスカ(1858 1941)が創案した「政治定式」(formula politica)理論 である。彼によれば、政治的階級の権力が拠って立つような法的・道徳的基盤、 ないしは原則を支配階級は必要とするのであり、これを彼は「政治定式」と呼 んだ(Mosca 1939: 70[邦訳 : 77])。法的・道徳的基盤を承認する必要はこの 理由から生ずる。つまりそれらは政治的エリートが政治的・法的体系と自らの 活動を正統化するために、そして何より自分の権力は合法で、ゆえに──民主 的原則により──除きえないものだと市民たちを説得するために、欠かせない ものなのだ。「政治定式」の重要性を強調しつつモスカは、「支配階級は、ただ 事実上の権力保持だけによってその権力を正統化するということはなく、権力 の道徳的・法的根拠を発見しようとつとめ、権力を、一般的に認められ受け入 れられている学説や信条の論理的かつ必然的な帰結として表現しようとする」 と論ずる(Mosca 1939: 70[邦訳 : 77])。この場合結局は、ある社会において 拘束的かつ支配的な宗教が、もっとも堅固な基盤を政治エリートに与えること となる。広く認められ受け入れられた基礎に立って、導入された(または強要 された)政治・法的体系と、政治エリートおよび彼らの政治活動は合法だと、 認めさせうるからだ。宗教を「政治定式」の一つとして政治に含めることで、 超越との関係を「引き離し」うることも、強調に値する(cf. Maria ski 2000: 142)。つまり、規範・象徴・場所・人々あるいは神々の道具的扱いが、所与の 宗教体系にふくまれているのである。
換言すれば、政治エリート──すでに政治権力を行使している者もそれを得 ようと望む者も──がなぜ宗教に言及するのか示せるような諸概念を、社会科 学に見出すことができる。ただ心に留めておくべきことに、政治と宗教の関係 を分析するにあたっては、そうした関係を例証してくれるような特定の事例を 記述せねばならないのみならず、二つの重要な問いに答えもしなければならな い。第一の問いは「政治が宗教を必要とするのはなぜか」(あるいは「宗教が 政治を要するのは何のためにか」)であり、もう一つは「政治が宗教と(また は宗教が政治と)出会うのはいつか」だ。ここで言うのが、宗教が政治と密接 にかかわってきた伝統的社会の話ではなく、とりわけ今日の世俗的国家につい てである、ということは強調しておかねばならない。また重要なことにどちら の問いも、その機能が大部分、象徴と儀礼の手際よい利用に依拠し、その源泉 は所与の国で行われる支配的宗教体系と教理とに求められるような、国家制度 のある意義深い側面にかかわる。本稿で後述したいその答えは、第二次世界大 戦後に成立したポーランド政府とカトリック教会との関係に限定される。まさ しく1944年から1989年までの、ポーランド人民共和国 (Polska Rzeczpospolita Ludowa)の打倒に先だつ年月において、宗教制度にネガティヴな態度を持っ ていたはずの強権的政治システムは、カトリック的観念・象徴・儀礼を利用し た。現代ポーランドという国と、そこにおける政教関係を選択した理由は、キ リスト教的観念と象徴、およびカトリック教会という制度を政治エリートが利 用し、自分たちの活動を正統化しようとしたあり方を、かなり容易に示しうる からである。 同じく強調すべきことに、第二次世界大戦が終わり冷戦の一部として地政学 的体制が変わったことで、多くの社会・政治的変化がポーランドにもたらされ、 それにより当時支配的だった宗教組織たるカトリック教会と国家との関係にも 重大な影響がおよんだ。こうした変化が起きた理由は主として、ソビエト社会 主義共和国連邦(Союз Советских Социалистических Республик)の政治・ 社会・文化的影響圏に含まれたことで、迫害といった極めて否定的なアプロー チが、あらゆる制度および宗教的教義に対してとられたことにある(cf.
Berdyaev 1959)。事実上、「ソビエトの共産主義は世界を全体論的に解釈し、 神ならぬ哲学体系を装って、競合相手を認めなかった。スターリニズムは宗教 に取って代わろうとしたため、その類似物にさえなったのである」(Os ka 2007: 53)。ポーランド政府の戦略はイデオロギーに添うよう社会体制を徐々 に支配・改変することで、新体制構築の最初期にあって、教会と適切な関係を 維持する必要があった(Dudek, Gryz 2006: 13)。ポーランド政府はカトリック 教会との紐帯をしだいに切り離し、公共空間から宗教的象徴を取り除いたにも かかわらず、ローマ・カトリックの信仰者は戦前の約65% から90% へと増加 した (Dudek, Gryz 2006: 9)。この事実は、戦後ポーランドの文化・社会・政治 的特殊性を、とりわけポーランド国民アイデンティティの形成という文脈にお いて理解する上で、きわめて興味深い(cf. Chwalba 1992)。そして大事なことは、 ポーランド政府の政治的メッセージ中に宗教的象徴が存在した理由が、これに より説明される。すなわち、USSR に熱狂した1944年のポーランド国民解放委 員 会 (Polski Komitet Wyzwolenia Narodowego, PKWN) に よ る、 ま た 同 じ く USSRに 熱 狂 し た1948 89年 に わ た る ポ ー ラ ン ド 統 一 労 働 者 党(Polska Zjednoczona Partia Robotnicza, PZPR)によるメッセージ、である。さらに、ポー ランドのケースが特殊ないしユニークなのは、ポーランド政府と野党、とりわ け1980年に結成された独立自主管理労働組合「連帯」(Niezależny Samorządny
Związek Zawodowy „Solidarność”)の両者によって、似た内容・象徴・儀礼が
用いられたという事実にある。 2 ポーランド政府による象徴と儀礼 ポーランド統一労働者党および野党の政治的メッセージ中にカトリック的観 念が存したこと、そして与党よりも野党の方がこの種のモチーフを直接的かつ はるかに頻繁に用いたことを考えると、ポーランドの共産主義政治にとってキ リスト教の何が魅力的なのか、と問わねばならない。言い換えれば、政治が宗 教を必要とするのはなぜなのか、という上述の疑問に立ちもどる。この疑問は また、これら二つの領域は社会生活において対立しており、宗教研究において
は「聖」(sacrum)と「俗」(profanum)を区分しうる、という事実も含んでい る。つまり「聖」は宗教にかかわるもので、政治にかかわるのは「俗」とされ る。しかし社会生活を全体として扱うなら、政治的なるものと宗教的なるもの は明確に区別されず、二つの領域は多くの共通点をもつし共通の行為や目的を もって、しばしば一緒に現れることが分かる。本稿の関心から言えば、ポーラ ンド統一労働者党の場合には議論の余地なき共産主義ドクトリンへの追従が、 カトリック教会の場合にはカトリック・ドクトリンへの追従がなされた。また USSR──およびポーランドでも小規模な形で──については共産主義の政治 化が進むにつれて、それは「絶対的真理」となった。ニコライ・ベルジャーエ フいわく、「この絶対的真理は革命と独裁組織の武器である。だが全体主義ド クトリンに基礎を与え、生の全領域、たんに政治や経済のみでなく思想や意識 や、その他すべての創造的文化を抱擁するようなドクトリンは、一つの信仰対 象でしかありえない」(Berdyaev 1959: 121[邦訳 : 170])。この全体主義アプロー チは、過誤を修正しドクトリン内容を豊かなものとするような哲学的議論を欠 いていたため、政治は「政治的グノーシス」すなわち議論の余地なき信仰体系 と化した。重要なのは、ドクトリンの解釈は不可能だったか、あるいはその全 体性と有効性を危険にさらすことのない、この目的のため特に選ばれた人々に よってのみ、なされたことだ。また同じことが、より小規模ではあるがカトリッ ク教会の枠内にも見られる。 本テーマの社会学的アプローチに戻るなら、宗教的主題(ドクトリン全体で はなく)は政治において「政治定式」としてのみ存在し、政治的メッセージを 市民に受容できる形で形成することを意図する。加えて宗教に訴えること(ま たはその否定)は、ポーランド統一労働者党の追求した政策の支持者たちに、 アイデンティティ形成をうながした。さらに付言すれば、ポーランドとカトリッ クの政策は同じアイデンティフィケーションの図式を用いたのである。すなわ ち、
自己 他者 カトリック 非カトリック 共産主義者 反動主義者 しかしポーランドの場合はソビエト社会主義共和国連邦とは対照的に、これら 諸領域間における相互浸透の度合がより大きかった。興味深い例としてポーラ ンド統一労働者党の初期、新当局は新たな政治秩序を正統化するため、適切な 定式を求めた。ポーランドの政治家・イデオロギー保持者たちはキリスト教の モチーフや象徴のみならず、儀礼をも用いたのである。この文脈で想起すべき はデイヴィッド・I・カーツァーの言葉である。彼は 政治的儀礼はただ現状をささえるに役立つのみだとする一般的見解に、反 対の主張をする。儀礼は政治にとって、それどころではなく重要だ。たし かに王たちは自分の権威をささえるために儀礼をつかうが、革命家も君主 を打倒するため儀礼をつかう。政治エリートは、その権威を正統化するた め儀礼を採用するが、反逆者も正統性剥奪の儀礼でまきかえす。儀礼は反 動にとって不可欠かもしれないが、また革命の生命の血でもあるのである (Kertzer 1988: 2[邦訳 : 10 11])。 政治における宗教への参照は、政治体制の現状維持にとって重要なだけでなく、 政治的変化のイベントにおいても機能する、ということを理解せねばならない。 第二次世界大戦末期から戦後にかけてのポーランドで、新たな政治体制のヘ ゲモニー構造を創出するにあたっては、共産主義政府のメッセージがイデオロ ギー的に首尾一貫していると示すための、さまざまな観念や象徴を用いる必要 があった。それらは社会生活の全領域をカバーし、したがって貧困、社会扶助、 教育などといった主要な社会問題を理解し解決する可能性をもつと思われた 1。 1 この点で、たとえば全ての人々とりわけ被害を受けた者たちの運命と幸福に注意を払うな どの点において、共産主義のドクトリンはキリスト教と調和的であった。
新たな政治ドクトリンの魅力は、それがキリスト教を「政治定式」として用い て、新政治秩序は先行秩序より良いもので、ことにそれがソビエト社会主義共 和国連邦の場合とは違い、キリスト教とその象徴・儀礼にまったく反するもの ではない、と説明するところにあった。したがって政治的メッセージには象徴 のみならず、カトリックを信仰するポーランド人多数派の思考法に対する多数 の参照、たとえば終末的ビジョンとその恐怖や希望など、が存した。 本稿の目的はポーランド統一労働者党とカトリック教会の関係を分析するこ とである。もちろんそれは、社会空間にこれら両組織がいかに共存したのかを 示すだけでなく、それらがキリスト教的モチーフ・象徴・儀礼をもつポーラン ド政府により──イデオロギーにおいて不完全でかつ敵意さえ有しながら── いかに利用されたのか、示すことでもある。またこの共存は、宗教的観念が政 治的なそれと一致するという興味深く示唆的な事例でもある。具体的には、ポー ランド国民解放委員会の設立時に「独立記念日」(11月11日)2を祝い愛国的な 歌をうたった例がある(cf. Os ka 2007: 36)。最も重要な二つの歌は「誓い」(Rota, 1908)3 および「神よポーランドは汝のもの」(Boże, coś Polskę, 1816) 4で、とも
にポーランド国歌の代替物として機能した。これらの歌においては、宗教に直 接言及されている下りがあることに注意すべきだ。つまり「誓い」では、
Rota 誓い
Nie rzucim ziemi, skąd nasz ród. Nie damy pogrześć mowy. Polski my naród, polski lud,
我らが出身の地を棄てはしない 我らが言葉を葬らせはしない 我らはポーランドの民、ポーランドの族 2 「独立記念日」はポーランドの国家的祝日のうち最も重要なものの一つで、1918年のポー ランド独立回復にかかわる。 3 作詞者はポーランドの詩人マリア・コノプニツカで、作曲者はポーランドの作曲家フェリ クス・ノヴォヴィエスキである。 4 作詞・作曲者はヤン・ネポムツェン・ピョートル・カシェフスキ。重要なことに、これら の歌はソビエト社会主義共和国連邦の影響からポーランドが独立すべきだと表明する際、野 党がうたうものでもあった。
Królewski szczep piastowy. Nie damy, by nas gnębił wróg.
Tak nam dopomóż Bóg! Tak nam dopomóż Bóg!
ピャスト王家の裔 敵に抑圧させはしない 神よ我らを助けたまえ! 神よ我らを助けたまえ! 「神よポーランドは汝のもの」には次のようにある。
Boże, coś Polskę 神よポーランドは汝のもの
Boże, coś Polskę przez tak liczne wieki Otaczał blaskiem potęg i chwały, Coś ją osłaniał tarczą swej opieki Od nieszczęść, które przygnębić ją miały,
Przed Twe ołtarze zanosim błaganie: Ojczyznę wolną pobłogosław, Panie!
神よ、汝は何世紀にもわたり、ポーランドを 力と栄光の輝きに包まれた 庇護の盾によって 国を抑圧する災禍から守られた 汝の祭壇に我らは懇願す 我らが自由の祖国に恩寵あれ、主よ! これらの作品ではキリスト教の神への言及がとくに重要であり、国民アイデ ンティティおよび国家解放への奮闘と結びついていて、ポーランド人を選民と して描いてもいる。これらの歌は、当時やはり人気のあった、別の歌とともに 演じられたことも注目に値する。それは左翼運動の非公的な団歌たる「インター ナショナル」(L’Internationale, 1871年)5で、とりわけ次の歌詞だ。 L’Internationale インターナショナル
Il n’est pas de sauveurs suprêmes Ni Dieu, ni César, ni tribun Producteurs, sauvons-nous nous-mêmes
至高の救い主は存在しない 神も、皇帝も、護民官も。 生産者諸君、我ら自身でみずからを救うのだ。
ことに、神への否定的態度が表明されているのが興味深い。 ピョートル・オシェンカによれば、公的世界にキリスト教的な象徴を──マ ルクス主義の価値体系にも言及しつつ──含めるというのは、意図的または意 図せざるイデオロギー的折衷策の結果ではなく、政治的ゲームの一部だった (Os ka 2007: 45)。これが確認できるのは、カトリック聖職者が内閣政治に参 入し、「ドクトリン的綱渡り芸」というやや特殊な仕方で利用されたことによっ てである。すなわち「キリストは労働階級の庇護者である、なぜならその父親 は大工だったから」というものだ(Os ka 2007: 53)。とはいえカトリック的パ ターンの無意識的再生産を含んでいるにちがいない部分は他に見いだせるので、 今の見解はメッセージの特殊性全体を反映してはいない。それが見られるのは 次の一文においてだ。「もし地球上第六の部分において社会主義の語が生ける 体となるなら、それはひとえにヨシフ・スターリンの御業である」(Os ka 2007: 40)。重要なのは「生ける体」という語法であり、カトリックの教義で カトリック教会を指すものだ。それはまた、スターリンとキリストの類似も示 している。 3 ポーランド政府の祝祭、場所、国家「聖人」 新たな政治体制の形成プロセスの儀礼化は、アニエシュカ・カンプカによれ ば政治的変化の導入と関連しているが、それとともに新たな地名、暦、祝日も もたらした(Kampka 2008: 262)。ポーランド統一労働者党の支配期間には、 ソビエト社会主義共和国連邦におけると同様、地名の変更がおこなわれた。た とえば1953年にはカトヴィツェ市がヨシフ・スターリンの姓にちなんでスター リノグルード(文字通りには「スターリン都市」)に変更された6。地名の置き 換えというのは普通ではないが、まったく稀というわけでもなく、この行為に おいてはキリスト教にかかわりのある例はないようだ。しかし第二次世界大戦 後のポーランド新国家形成という文脈を考慮するなら、こうした行為は新出発 6 この地名は1953年から56年まで用いられた。もともとポーランドの政治家たちはチェンス トホヴァをスターリノグルードに変更するつもりであった(cf. Przybytek 2011)。
の神話であったのが明白である。「生ける体としての社会主義」についての引用、 およびスターリンとキリストの同一視を念頭におくなら、この関連性は明らか となる。換言すればスターリンは、救済をもたらし新時代を設立したメシアと して示された。そしてまた政治におけるメシアとしてのスターリンは、ポーラ ンド市民が共産主義コミュニティに属するという意味の形成に資したのである。 この目的のために街路名もまた、ソビエト社会主義共和国連邦とポーランド統 一労働者党の政治指導者たちを想起させる名に変更された。ポーランドでは、 路傍十字架、キリスト像、聖母マリア像、カトリック聖人像など多くの記念碑 も立てられた。 同様に重要なのは新たな国家的祝日の導入であり、新政府にとって重要なイ ベントを記念するとともに、ポーランド史上新たな時代が始まったことを示す 目的があった。ヨシフ・スターリンやウラジーミル・レーニンといったソビエ ト指導者にかかわる祝日のほか、「国際労働者デー」(Święto Pracy, 5月1日)、 「戦勝記念日」(Dzień Zwycięstwa, 5月9日)、「ポーランド再生の日」(Narodowe Święto Odrodzenia Polski,7月22日)、「ポーランド軍隊の日」(Dzień Wojska Polskiego, 10月12日)、「十月革命記念日」(Rocznica Rewolucji Październikowej, 11月7日)も祝われた。オシェンカによると「当局の代表者たちが参加するこ となしには、いかなる共産主義の公的祝日もなされえない。公的儀礼は社会ヒ エラルキーと社会諸部門を受け入れるとともに、政府つまりはプロパガンダの 望むような態度を定めるのに寄与した。それらは、ほとんど神的性質を授けら れた国家指導者たちのイメージを構築した」(Os ka 2007: 150)。当時、宗教儀 礼に多く言及したポーランドの祝日として、重要なものは「国際労働者デー」 と「ポーランド再生の日」である。これらの儀礼はその頃、政治的共産主義を 国家イデオロギーの基盤として提示するプロパガンダ活動だけを含んだわけで はなかった。そこではポーランド統一労働者党の権威者たちを支持したカト リック大衆や司祭たち、および上述した宗教的・愛国的な歌つまり「誓い」と 「神よポーランドは汝のもの」の公的パフォーマンスも行われたのである(cf. Os ka 2007: 52 53, 116 117)。諸儀礼の重要な構成要素は人々の行進、集会、
そして国家高官たちのスピーチだった。さらに宗教儀礼への参照はことに「国 際労働者デー」に見られ、カトリックの祝日たる「キリスト聖体の祝日」(Boże Ciało, イースターの60日後)によく似ていた。後者では信者たちが市内で行進 し、祈り歌いつつカトリック聖人の像をまとうのである。「国際労働者デー」 においても、この祝祭に参加する人々は市内を行進しつつソビエト社会主義共 和国連邦とポーランドの政党指導者たち、および共産主義運動のイデオローグ たち、たとえばウラジーミル・レーニン、カール・マルクス、フリードリヒ・ エンゲルス、スターリン、ボレスワフ・ビェルトの肖像を歌い運ぶのである。 宗教と政治の関係を論じる際、戦後ポーランドにおいて重要な出来事は、 1966年におけるポーランド国家一千年記念式典である。これは、966年にラテ ン語圏キリスト教の儀礼によって行われたミェシュコ1世(Mieszko I)の洗 礼を記念したものだ。この出来事が重要なのは、ポーランドの伝統において 「ミェシュコ1世の洗礼」は「ポーランドの洗礼」つまりはポーランド国家の 開始と同一だからである(Urba czyk 2016: 15)。よってこれは、「ポーランド 的カトリック」というステレオタイプを含む、ポーランド国民アイデンティティ の柱の一つなのだ(cf. Zieli ski 1994: 115 117; Urba czyk 2016: 9)。またこの イベントが第二次大戦後に行われたという事実は、カトリック教会とポーラン ド統一労働者党の双方にとって特殊なイデオロギー的意義を有した。カトリッ ク教会の側では、キリスト教はポーランドの歴史において国家創設の当初から 刻印されており、重要な役割を果たしたとされた。ポーランド統一労働者党に とっては、自身が後継者たるポーランド国家の建国神話を創出するのが重要で あった。またどちらの場合でも、一千年つづく国家という神話を利用する目的 は、ポーランド国民アイデンティティの強化だった。ただし違いとして、カト リック教会の場合には聖職者たちがポーランドとカトリックの結合を強めよう としたのに対し、これはポーランド統一労働者党のメッセージには欠けていた。 とは言えどちらの場合でも、政治と宗教の間には明白な関係が保たれていた。 注目すべきことに、これらの祝祭は対立する双方それぞれにとって重要な日付 および場所と結びついた、象徴的な空間に刻印されていた。ポーランド政府の
場合、祝祭は1966年7月22日の「ポーランド再生の日」に行われたが、カトリッ ク側ではミェシュコ1世が洗礼されたというグニェズノ市(Gniezno)で4月 13 14日になされた(cf. Urba czyk 2016: 16)7。 本稿の終わりに、宗教信仰すなわちカトリック教会にとって重要な地名が、 ポーランド政府の共産主義イデオロギーとかかわる地名へと変更されたプロセ スにふれておきたい。興味深い事例としてチェンストホヴァ町(Cz stochowa) および、この町にあるヤスナ・グラ(Jasna Góra)というカトリック修道院が ある。ダミアン・ティリエによれば、「チェンストホヴァは単なる町ではない。 この町にあるヤスナ・グラ修道院はスピリチュアルな重要性をもつので、ポー ランドにおけるカトリック全員の国家的神話と歴史意識にとって固有の意味を 有する」(Thiriet 2002: 29)。この土地が特殊なのは主として、ポーランドのカ トリックが「黒い聖母」(Matka Boska Częstochowska または Czarna Madonna) と呼ぶ絵画が、この修道院に納められているからである。この聖母は不幸に見 舞われたポーランドを守ってくれると言われる。このためポーランド統一労働 者党は、チェンストホヴァをヤスナ・グラと結びつかない場所に変えて、その 意義と象徴を変えようと考えた。この目的のため、1952年にチェンストホヴァ にはポーランド最大の製鋼工場の一つが建設され、ボレスワフ・ビェルト鉄工 場(Huta im. Bolesława Bieruta)と命名された。当時ポーランド大統領だった ビェルトが選ばれたことから、スターリノグルードの場合と同様、メシア神話 と始原神話が結びついたのが分かる。換言すれば鉄工場は、戦前の技術的後進 性を帳消しするような、ポーランドの産業発展を示し、かつビェルトを理想的 な指導者として描くものとされたのだ。ティリエによれば、「チェンストホヴァ と鉄工場の関係は、ポーランドとビェルトの関係と同じだった。つまり、この 国を反啓蒙主義に陥れた封建的心性の名残を破壊し、まごうことなくポーラン ドを進歩の軌道に乗せた聡明な指導者、である」(Thiriet 2002: 75)。階級闘争 に直接かかわり、発展するポーランド像を創出するという、鉄工場の象徴的次 7 グニェズノはポーランド最初の首都とされ、ポーランドの伝説的な建国地である(cf. Urba czyk 2009: 19)。
元とならび、この工場の開所式における集会も注目に値する。人々がビェルト の肖像を身につけた様子は、ヤスナ・グラの集団ミサにおいて聖人像とりわけ 黒い聖母がまとわれたさまによく似ていた(PKF 18/52 [ „Huta im. Bolesława Bieruta , 1952年 ] Cz stochowa)。 結論 冒頭で米国の研究者たちを引きつつ述べたように、宗教は政治において重要 な役割を果たしてきたし、今も果たしている。それは結局、政治家たちが宗教 を「政治定式」として扱い、自分の政治権力を正統化するのに用いるからであ る。古代ローマの政治活動における興味深い側面に、ドイツの歴史家エゴン・ フライクが注目した。彼によればローマ市民はさまざまに儀礼化された方法を 用いて政治エリートを批判したが、政治体制そのものは侵害しなかった(Flaig 2003: 16)。英国の社会学者ポール・コナトンも同様の見解を述べている。つ まりフランス革命では革命家のみがそうした象徴的・儀礼的手続きを用いて専 政を排除したという(Connerton 1989: 8)。つまり権力正統化のプロセスは政 治家自身にかかわるのでは(ほぼ)なく、彼らの代表する政治体制にかかわる のである。そして非常にしばしば、企てられた革命行為に加えて、政治家は国 家の体制的・イデオロギー的現状構造を維持しようとする。フライクはそうし た象徴的・儀礼的行為の興味深い側面に目を向けた。つまりその著『儀礼化さ れた政治──古代ローマにおける記号・身ぶり・支配』(2003年)に彼は、こ う記している。 この制度外的ふるまいへの余地は、「警察」という重要な強制力の欠如 により生じた。もはや従順ではない大衆を前に、ローマの高官たちは無力 で無防備だった。高官らの階級に応じた人数で、彼らに随行したリクトル たちは束桿を手にし、時に秩序維持という任務をもったが、警察ではな かった。その機能はとりわけ記号的なものだった。つまり、一列縦隊で高 官の前をやって来る彼らは、その到着を告げるとともに、敬意にみちた距
離を高官の周囲に創りだした。この空間こそ、ローマの支配者層が豊かな 象徴を機能させるために、大いに必要としたものだった。なぜなら恭しく 取られた距離をみて初めて、当の高官が2人、6人、12人あるいは24人も のリクトルを伴っているのか、その束桿が挙がっているか下げられた状態 か、認知できたからである。市民がリクトルたちに場所をゆずったのは、 貴族たる高官が行使した権威ゆえであった。しかし権威とは、持つか持た ないかという実体物ではない。それは行使者に対し帰せられるものなのだ (Flaig 2003: 13 14)。 フライクの言葉はその歴史的意味を別とすれば、政治権力について重要な発言 を含む。それは与えられ、変わりうるということだ。換言すれば、政治権力を 条件づける政治体制だけが恒久的で(継続するか変化するかに関わらず、たえ ず適応し)、政治家たちはそれを保持しようと努めねばならないのである。 本稿で分析したポーランドの事例はまた、政治エリートが交代し政治体制が 変形される時期には、同時にまた古い観念・象徴・儀礼の存在が明白に跡を残 すことも示唆している。このようにしてエリートたちは市民とコミュニケート し、自分が主張する権力と行為との正統性を納得させる。上掲の事例では、カ トリックの観念と象徴は新たな権力とそのイデオロギーをまず受容させるため、 「政治定式」として意図的に用いられた。このために彼らは「誓い」や「神よ ポーランドは汝のもの」といった愛国的で宗教的な歌を利用し、国家的祝日や イベントにはカトリックのミサを取り入れた。カトリック儀礼の参照は公的行 進のセッティングに見ることができる。たとえば5月1日の行事はイエスとそ の母および聖人たちを描いた図像をもって市内を行進するカトリック信者たち に似ている。本稿で論じた重要な点として、カトリックの象徴・観念に対する 無意識的な参照がある。これは、そうした観念が異なるイデオロギーを表象し つつも、ポーランド市民の間に深く根づいて判然たる重要性をもつことを示し ている。
訳者付記 著者マルチン・リシェツキ氏は、ポーランド・トルン市のニコラウス・コペ ルニクス大学で助教を務める国際政治学者である。氏は2018年6月12日、東北 大学で開かれた第104回宗教学研究会にて講演を行なったが、その内容に手を 加えた英語論文をこのたび寄稿された。それを日本語に訳したのが本稿である。 中に出てくる歌詞などにつき、直野洋子先生から懇切なご教示を得たことに感 謝申し上げたい。しかし不十分な訳文については、すべて訳者の能力不足のゆ えである。各位のご教示・ご指摘をお待ちしたい。 引用文献
Berdyaev, Nicolas. 1959. The Origin of Russian Communism. Transl. R.M. French. University of Michigan Press: Ann Arbor.(ベルジャーエフ『ロシア共産主 義の歴史と意味』ベルジャーエフ著作集第7巻、田中西二郎/新谷敬三郎 訳、東京:白水社、1960年)
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ReligionandPoliticsinPoland.ChristianIdeas
andSymbolsinCommunisticPoliticsofPolish
Government
MarcinLisiecki
The main purpose of this paper is to describe the relations between politics and religion in contemporary Poland. Namely, the Polish government, shaping the hegemonic structures of communistic policy, in connection with the USSR, used religion as a political formula to legitimize political power. The significance of this process lies in the fact that Polish government represented definitely negative approach to institutions and religious doctrines, especially to Catholic Roman Church. Notwithstanding communistic government in Poland used selected Catholic motives in the process of building a new political order.
For clarity of analysis, this text is divided into two parts. The first is connected with presence of Catholic symbols and rituals in politics of Polish communist government. The second part includes the analysis of signicifance of states festivals and other events that contained references to religion.