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宗 教 経 済 学 に お け る 合 理 性

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(1)

はじめに   ﹁宗教と経済﹂というテーマのうちには︑大きく二つの種類の議論が想定される︒⑴経済活動に対する宗教思想や宗教組織の影響の分析︒

⑵個人の宗教行為や宗教組織の活動を経済学の知見を援用して捉えようとする研究︒

  ⑴は宗教から経済を見るもの︵経済の宗教学︶であり︑⑵は経済から宗教を見るもの︵宗教の経済学︶と言えよ 稿

『宗教研究』91巻輯(2017年)

宗 教 経 済 学 に お け る 合 理 性

││

 

合理性の理論的位置づけについての試論

 

││

住   家   正   芳

(2)

う︒本稿が取り上げる宗教経済学は⑵の典型である︒宗教経済学は︑﹁宗教の合理的選択理論﹂とほぼ同義であり︑ 宗教経済学の理論的な中核となっているのが宗教の合理的選択理論ということになる︒このことは︑宗教経済学として実質的に宗教の合理的選択理論が紹介されていることにも表れている 1︒

  この宗教の合理的選択理論は︑人間は自らにとっての利益を最大化し︑コストを最小化しようとするものであ

る︑という人間観を起点として︑個人の宗教行為や宗教現象全般について理論的に把握しようとするものである︒一九九〇年代以降︑関心を集めるようになり︑一時はそれまでの世俗化論に代わる宗教社会学の新たなパラダイム

とまで持ち上げられた 2︒だが︑批判も少なくはなかった︒そのため︑結局は宗教社会学全体の方向性を決定づける までには至らなかったものの︑関連学会︵The Association for the Study of Religion, Economics, and Culture︶が組織さ

れるなど︑一定の広がりをもつ分野となっている︒

  この宗教の合理的選択理論については︑すでにいくつもの紹介があり︑批判の整理もなされている 3︒そこで本稿

では︑近年の宗教の合理的選択理論すなわち宗教経済学が︑そうした批判に応えるものとなっているのかどうかを

検討することとしたい︒その際︑特に合理性に焦点を当て︑宗教経済学が合理性をどのように設定しているのかを中心に検討することとする︒その手段として本稿では︑いわゆる﹁パスカルの賭け﹂と︑それをめぐる議論を参照

することで︑宗教と合理性について考察することとしたい︒以下︑まず宗教経済学の中心的な理論構成を概括し︑

パスカルの議論の概要を確認する︒そのうえで︑パスカルへの批判と宗教経済学への批判を重ね合わせて検討してゆく︒

(3)

宗教経済学における合理性

一  宗教経済学の理論的核 1  方法論的個人主義   宗教現象を︑個人による宗教行為の合理的選択から説明しようという方法論的個人主義が宗教経済学の基本であり︑まず次のような原則が設定される︒

個々人は合理的に行為︵act︶するものであり︑取り得る行為のコストと利益をはかりにかけ︑自分にとっての 純利益を最大化してくれる行為を選択する 4︒   宗教行為は︑そのために費やされる﹁コスト﹂である時間と財を勘案して決定されるということであり︑ある時点における宗教行為は︑その時点において使うことのできる時間と財を変数とする関数として表現

される=(, )︒そして︑最大化されるべき効用をとして︑は世俗的消費活動と︑死後の消費活 動を変数とするとされる=(1, ..., , )︒そして︑この死後の消費活動は︑生涯にわたる宗教行為によって作り出されるものとされる=(1, ...,  5) ︒

  こうした記号式自体は一九七〇年代の経済学的な宗教研究によるものとされるが 6︑ここで表現されているのは︑

宗教経済学および宗教の合理的選択理論の中心的な論者であるロドニー・スタークらがかつて宗教について定義した内容でもある︒スタークらは︑﹁死後の生﹂や﹁死の意味﹂などを人々に信じさせ︑超自然的な存在を想定する

ことによってそれを保証することに携わる組織が宗教であるとする 7︒したがって︑﹁死後の消費活動﹂というのは︑

﹁死後の生﹂があることを前提として︑そこでの﹁死後の幸福﹂という﹁利益﹂を願って現世で宗教行為を行うこ

(4)

とと解釈すればよいだろう︒   個人は宗教行為のために費やされるコストである時間と財を︑それによって得ることのできる利益︵と本人が感じて満足するもの︶である﹁死後の幸福﹂とのはかりにかけ︑利益が最大になる宗教行為を選択するものであり︑

その選択は数学的な計算として︑すなわち合理的選択として描き出すことができる︑というのが宗教経済学の基本

的な発想ということになる︒

2  ﹁賭け﹂としての合理的選択   このように宗教行為を合理的な選択として捉えるのが宗教経済学の理論的核であり︑そこでの合理性が意味する

のは︑関数として表現することのできる数学的な計算結果に基づく功利性とされている︒そして︑こうした宗教経

済学の利点が次のように主張される︒合理的選択には︑宗教行動︵behavior︶の多くは実に合理的であり︑単なる無知や迷信︑手前勝手な願望から のものではないことを︑はじめからはっきりさせてくれるという利点がある 8︒   宗教行為を合理的選択という観点から捉えることができるので︑宗教行為は合理的である︑というのである︒

﹁宗教行為は合理的である﹂とみなすことは︑宗教経済学の図式で言えば︑﹁死後の幸福﹂という利益を得る可能性

に対して︑コストである時間や財を投じることは合理的な行為である︑と言っていることになる︒自己の利益の最

大化という経済学的な観点から︑﹁死後の幸福﹂を保証する宗教を信じることは︑十分に合理的な選択として捉えることができる︑よって宗教を信じることは合理的な行為である︑というのが宗教経済学の趣旨ということになる

のである︒

(5)

宗教経済学における合理性

  これは正しいのだろうか︒あるいは︑こうした宗教経済学の論の運びに問題は無いのだろうか︒本稿では︑宗教経済学の設定する﹁合理性﹂について検討するために︑宗教行為の合理性についての宗教経済学の理解を︑﹁死後

の無限の期間にわたる利益を当て込んで︑この世での有限な時間や財を賭けることは十分に有利な賭けである﹂と

いう定式化として捉えることとしたい︒宗教経済学の言う﹁合理的﹂とは︑行為の結果による損得を数学的な計算で測ると︑死後の無限の期間にわたる幸福のために︑この世での時間や財を消費することは得な行為とみなすこと

ができる︑ということだからである︒そして︑そのことを根拠として︑宗教行為の選択は合理的な判断のもと行わ

れている︑と言っていることになる︒このように捉えるのは︑宗教経済学の論点を︑よく知られた﹁パスカルの賭

け﹂と接合できるかたちにすることで︑﹁パスカルの賭け﹂をめぐってなされてきた合理性についての議論を参照

するためである︒

3  宗教経済学・宗教の合理的選択理論への批判   なお︑宗教経済学とその理論的核である宗教の合理的選択理論に対するさまざまな批判については︑ジェイムズ・ベックフォードがかつて次のように整理している 9︒

①個人行為者の心理から宗教集団に関する推論を構成することへの懐疑︒

②宗教の合理的選択理論が設定する﹁合理性﹂が功利性に限定されすぎていて︑他者への配慮という観点からの

﹁合理性﹂が考慮されていないことへの批判︒

③宗教の機能的合理性の側面に焦点を当てることが︑宗教の他の側面を不当に軽視し︑宗教の現実的なあり方を

ゆがめて描写することになるのではないかとの憂慮︒

(6)

④宗教の合理的選択理論が用いる﹁利益﹂や﹁コスト﹂︑﹁代償﹂といった概念の文化的偏差︑相違︑多様性が無

視されている点の指摘︒

  ベックフォードによるこの整理はすでに過去の拙論において引用したものであるが︑本稿においてもこれを参照

することとしたい︒その後︑宗教経済学ないしは宗教の合理的選択理論はこれらの批判に応えてきたのだろうか︒

﹁パスカルの賭け﹂をめぐる議論にベックフォードの整理した批判の論点を織り込むことで︑この点について検討することとしたい︒

二 

パスカルの賭け

1  ﹁賭け﹂の構成   いわゆる﹁パスカルの賭け﹂とは︑﹃パンセ﹄ラフュマ版の断章四一八にある﹁無限︒無︒﹂と題された議論 Aであ

り︑神の存在に賭けることが合理的であることを主張した独特の信仰擁護論である︒ここでパスカルの議論を持ち

出すのは突飛ではあるが︑宗教経済学が設定する合理性やその論理がはらむ問題点ないしは含意を検討する一つの手段として︑ここではパスカルの議論を利用することとしたい︒ただし︑筆者にはパスカルの議論とそれをめぐる

論争を整理する能力が無い︒そこで︑パスカルの議論を元に合理性の哲学上の議論を追った伊藤邦武の論考を参照

することとしたい︒よって以下︑伊藤の議論を詳細に追うことを許されたい B︒   伊藤はまず︑パスカルの議論を三つの部分に分ける︵12‑13︶︒一つ目は︑有限な存在である人間の知性によ って無限の存在である神が存在することを証明することは不可能であるとする部分である C︒無限な存在である神が

(7)

宗教経済学における合理性

何であるかも︑神が存在するかどうかも︑人の有限な知性によっては知ることができない︒もし人が神の存在を知り︑天国での幸福によってその性質を知るとすれば︑それは信仰によってであるが︑キリスト者がその自らの信仰

をさらに理由づけすることはできない︒

  二つ目の部分が賭けの議論の中心であり︑神が存在する︑または存在しないのどちらに賭けるほうがより損失が少ないか︑すなわちどちらの利益が大きいか︑というかたちで神の存在に賭けることが合理的であることが説かれ る D︒最後の三つ目の部分では︑こうしたパスカルの説得によっても信仰を持つことができない人に対して︑信仰を 持つ人々を模倣し︑信じているかのように振る舞えば︑おのずから信じるようになるだろうと論じられている E︒ 2  ﹁賭け﹂の議論   パスカルの賭けの議論の中心である二つ目の部分は︑さらにA︑B︑C︑Dの四つに分けられる︵14‑17︶︒

A神は存在するかしないかであるとする︒そしてあなたはどちらかに賭けなければならないなら︑どちらを選択

するのがより損失が少ないだろうか︒神が存在する方に賭けたとして︑もしあなたが賭けに勝てば︑あなたはすべてを得ることになる︒もし負けたとしても︑失うものは何もない︒したがって︑神の存在の方に賭けるこ

とをためらう理由は何もない F︒   神が存在する方へ賭けて信仰による生活を送り︑死後に神の存在と審判が存在することを確認することができれば︑﹁すべてを得る﹂ことができる︒たとえ神が存在せず︑賭けが失敗であったとしても︑すでに死後のことであ

るから︑何も失うものはない︒よって︑神は存在しないとするよりも︑神が存在する方へ賭けたほうが得である︒

見込まれる帰結の効用が優越する行為を選択するべきという原則に則れば︑神の存在に賭けるべきである︑という

(8)

のがこの部分の議論である︵18︶︒勝てば大勝ちで負けても何も失わないという賭けがあり︑なおかつ得をし

たいのであれば︑たしかに賭けない理由はない︒だが︑信仰による生活を送るのに︑それなりの時間と財が投じられるのだとすると︑﹁失うものは何もない﹂というわけにはいかない︒負けた場合に失うものがあるとすれば︑ど

うなるのか︒次のBの部分でこのことが論じられている︒

B勝つにも負けるにも同じ運があるのだから︑もしもあなたが一つの生命のかわりに二つの生命を得るだけだとしても︑賭けてもさしつかえはない︒しかし︑三つの生命を得ることができるということになればどうだろう

か︒勝ち負けの運が同等なのであれば︑三つの生命を得るために自分の生命を賭けないのは無分別である︒と

ころが︑神の存在に賭けて勝てば︑永遠の生命と幸福の生が得られるのである G︒   神が存在する確率は二分の一だから︑神の存在に賭けた場合の期待値︑すなわち見込まれる儲けが賭け金の二倍なら損にはならず︑三倍なら明らかに得であり︑それが無限倍ともなれば賭けない理由がない︑というのである︒

だが︑そもそも神が存在する確率は二分の一なのだろうか︒有限の存在である人は無限の存在である神について理

性では何も知り得ないというのであれば︑神が存在する確率についても何も知り得ないのではないのか︒神が存在する確率が二分の一より低い可能性も否定できないではないか︒そのような疑問に答えているのがCの部分である︒

C仮に無数の運のうちであなたに有利なのは一つだけだとしても︑二つの生命を得るために一つの生命を賭ける

理由があることになる︒そして︑無数の運のうちで一つがあなたに有利になる勝負で︑もしも無限に幸福な無限の生が得られるのなら︑あなたが三つの生命に対して一つの生命を賭けないのは無分別ということになるだ

ろう︒ところが︑神の存在に賭ける場合では︑無限に幸福な無限の生が得られるのであり︑勝つ運が一つであ

(9)

宗教経済学における合理性

るのに対して負ける運の数は有限であり︑あなたが差し出す賭け金も有限である︒無限を得ることができ︑そして勝つ運に比べて負ける運が無限でないなら︑一切を投げ出すべきである H︒

  賭けに勝つ可能性がきわめて小さいとしても︑二倍︑三倍の儲けが得られるのであれば︑やはり賭けるほうが

有利であるという︒まして︑神の存在に賭けて勝った場合の儲けは無限の幸福である︒伊藤はこの部分の議論を︑

﹁有限︵の確率︶×一回の生×有限︵の幸福︶﹇神の不在の場合﹈よりも︑有限︵の確率︶×有限回または無限回の生×

無限︵の幸福︶﹇神の存在の場合﹈はつねに大になる﹂︵19︶と整理している︒神の存在に賭けた場合の期待値

は︑神が存在しない方へ賭けた場合の期待値よりも︑すべての確率において常に優越することになる︒神の存在の

側に﹁無限﹂が設定される以上︑理屈としてはそうなるわけである︒パスカルは︑どこでも無限のあるところ︑そ

して勝つ運に対して負ける運が無限に大きいというのでなければ︑ぐずぐずしないで全てを賭けよという︒

D儲けられるかどうかは不確実なのに︑賭けの危険に身をさらすのは確実ではないかなどと言っても無駄であ

る︒賭けをする者は誰であれ︑不確実な儲けのために確実なものを賭ける︒有限なものを不確実に儲けるために︑有限なものを確実に賭けることは︑理性に反してはいない︒儲けの不確実さは︑賭けの勝ち負けの運の比

率に応じて︑賭けるものの確実さと釣り合う︒したがって︑勝ち負けの運が等しいなら︑賭けは対等に行われ

ていることになる︒だから︑勝ち負けの運が同等で︑無限を儲けるために有限を賭けるという我々の主張は︑無限の力を持ってくる I︒

  A︑B︑Cの部分が比較的明快であるのに比べて︑Dの部分は分かりにくく︑解釈の余地を残してもいるように

思われる︒このDの部分については︑後で﹁無限﹂の問題として触れることとする︒

(10)

三  パスカル批判と宗教経済学批判 1  ドグマ   伊藤は︑このパスカルの議論に対する主な批判を四つ挙げている︒

α死後に賞罰を与える唯一の神が想定されており︑その限りにおいてキリスト教のドグマが前提となっている

20︶︒

β神が存在する可能性がゼロではなく︑ある有限な値となることが前提されているが︑神が存在する可能性がゼ

ロであれば︑神への信仰は不合理ということになる︵21︶︒ γ信仰の問題が確率や儲けといった打算的な概念で論じられている︵22‑23︶︒δパスカルの議論では︑神の存在に賭けて勝った場合の儲けが﹁無限の幸福﹂となっているが︑このような無限

大の効用を仮定することは行為選択の論理そのものを無効にしてしまうのではないか︵24︶︒   まず︑αの批判については︑パスカルはキリスト教のドグマを出発点として議論を組み立てているのであって︑そうした前提を無意味と考えるのは各人の自由でしかなく︑その前提に立ったうえでの論理が有効かどうかとは無 関係であると反論することができる︵22︶︒また︑βに関しても︑パスカルの議論は﹁我々は神が存在するか

どうかを全く知らない﹂状態を想定したものであり︑神が存在する可能性がゼロではない場合︑どう考えることができるかを論じたものである︒﹁神が存在する可能性がゼロの場合﹂は﹁神が存在しないことを知っている﹂状態

であり︑別の問題ということになる︵22︶︒αとβの批判は︑パスカルの議論そのものではなく︑パスカルの議

(11)

宗教経済学における合理性

論の前提を批判したものであって︑そのためパスカルの議論の筋道を否定するものとはなり得ていないのである︒

  宗教経済学に対してもこれとよく似た批判がある︒ベックフォードの整理による④の批判である︒宗教経済学が

用いる﹁利益﹂や﹁コスト﹂︑﹁代償﹂といった概念は︑文化的偏差︑相違︑多様性を無視しているという指摘であ

る︒たしかに︑宗教経済学が前提としている﹁利益﹂としての﹁死後の消費活動﹂や﹁死後の生﹂﹁死後の幸福﹂というのは︑多分にキリスト教的ないしは一神教的と指摘されてもしかたのないものである︒

  だがこれも︑宗教経済学は︑ある程度限定された文化的同一性を想定あるいは設定して︑その範囲における﹁利

益﹂︑﹁コスト﹂︑﹁代償﹂を概念化したうえで︑先に見たような記号式を適用しようとするものであると反論するこ

とができる︒﹁利益﹂や﹁コスト﹂︑﹁代償﹂といった概念の文化的偏差︑相違︑多様性は︑無視されているわけで

はなく︑論理展開のスタート地点において︑前提として設定されるものであり︑その設定のしかた自体はさまざま

に調整することができるはずである︒記号式の変数はあくまでも変数として設定されているのであって︑その内容

がさまざまだと言ったところで︑それは当たり前の話ということになり︑記号式自体の論理を批判したことにはならないのである︒

2  無限   αとβのような外在的な批判とは別に︑よりパスカルの議論に内在的な問題点の指摘となっているのがδの﹁無限﹂の報償が設定されている点への批判である︒パスカルの議論Dの部分では︑﹁無限を儲けるために有限を賭け

る﹂とされている︒選択した行為の帰結の効用が︑このように無限大のものと仮定されると︑賭けそのものが成立

しない可能性があるのである︵24‑26︶︒

(12)

  こうした批判が妥当であれば︑﹁死後の幸福﹂という原理的には無限なものとなる利益が設定されている宗教経

済学の論理構成も無効となる可能性がある︒だが︑﹁無限大の儲けは確率計算にもとづく行為決定を無効にするのではなく︑むしろ反対に︑極端に蓋然性の低い信念にもとづいた賭けにも合理性を見出すことができる場合があ

る︑ということをドラマティックに表現するための︑不可欠な前提であった︑とも理解することができる﹂︵28︶ことを伊藤は示している︒﹁無限﹂を設定することがはらむ問題からは︑必ずしもパスカルの議論を全面的に否定することはできないのだという︒

  しかし︑この点については︑パスカルの議論をどう解釈するかという問題が絡んでおり︑一定の結論を導き出す

のは困難なようである︒そのため︑この点に関してはパスカルの議論を宗教経済学の検討に用いることは差し控え

ることとしたい︒

3  利他性   次に︑残されたγの批判について見てみよう︒信仰の問題が確率や儲けといった打算的な概念で論じられている

というγの批判は︑宗教行為は功利性についての数学的な計算の結果として選ばれるようなものではないという立場からのものと考えられる︒

  宗教経済学に対しても︑宗教行為があたかも自己中心的な損得勘定で選択されているかのように取り扱われるこ

とへの疑問が呈されている︒宗教の合理的選択理論が設定する﹁合理性﹂が功利性に限定されすぎているという︑ベックフォードの整理する②の批判の前半部分である︒この②の批判の後半部分では︑他者への配慮という観点か

らの﹁合理性﹂が考慮されていないと指摘されている︒人は利他的な観点から行為選択することもあり得るが︑宗

(13)

宗教経済学における合理性

教経済学の功利主義的な行為理解はその点を捉え損なっているというのである︒

  こうした批判に対して宗教経済学は︑効用の最大化という考え方を宗教に適用するに際しての本質的な批判であ るとしつつも J︑利他的な行為が効用の最大化と矛盾しているように見えるのは︑観察者である我々が個人の合理的

な選好と︑その報いとして見込まれる結果をすべて把握していると思い込んで︑より大きな報いを見落としているからに過ぎないとする︒たとえば︑誰でも死にたくはないものだが︑親が自分より子供の命に価値を見出し︑自ら

を犠牲にすることもある︒このように︑利他的な行為の多くは実のところ︑個人的な損得勘定を犠牲にする代わり

に︑将来的に報いてくれる仲間を助けるものであるとする K︒   このことが数式としては︑先の=(, ) という式に︑社会関係資本的なものを意味する変数として を加えるかたちで表現されている=(, , )︒この変数は︑他人との関係性やそれに伴う感受性︑

対人関係における技能といったものの蓄積を意味するとされ︑そうした蓄積がある時点において︑その人が宗教行

為から得る利益︵実際の利益であれ︑本人が利益だと感じるものであれ︶を左右するものとされる︒また︑この変数は霊的な資本︑宗教的な習慣をも含むとされる L︒

  だが︑γの批判のような︑こうした変数を用いた数学的計算として宗教行為を描写すること自体への批判ないし

は反感にはどう対処すべきなのだろうか︒γの批判に対して伊藤は︑パスカルの議論は信仰を有している者に向けたものではないことを指摘している︒パスカルは︑自らの議論がすでに神の存在を信じている者にとって意味があ

るとは言っておらず︑まだ神の存在を信じていない者に向けて︑理性にかなうかどうかという観点から神の存在に

賭けることを論じているのである︵23︶︒

(14)

4  信仰と﹁自然の光﹂   ここで注意すべきなのは︑賭けの議論全体のうちの一つ目の部分においてパスカルが︑人は神の存在も性質も知らないとしながらも︑﹁信仰によって﹂人は神の存在を知り︑天国での幸福によってその性質を知るであろうとし

ている点である︒パスカルは︑キリスト者は自分では理由づけることのできない宗教を信じ︑そのことを公言して

いるとする︒なので︑もしキリスト者が自分たちの信仰する理由を知性によって説明したり証明したりすれば︑それは自分の言ったことに背くことになる︒そのうえで︑﹁今は︑自然の光にしたがって話そう M﹂と切り出して︑信

仰とは異なる知性の観点からのものとして議論を設定し︑信仰選択の功利性すなわち合理性を証明する議論へ進ん

でゆく︒

  このことからは︑信仰そのものからの視点︑すなわち宗教信仰を選択する当事者の観点と︑主に二つ目の部分で展開される確率論的な計算による神の存在への賭けという観点が別のものであることが示されていると解釈でき

る︒パスカルは︑信仰を選択することは確率論的に合理的であると描いてみせた︒しかし︑そのことと︑信仰その

ものが合理的であるかどうかは別なのである︒だからこそ︑パスカルは﹁信仰﹂ではなく﹁自然の光﹂に照らして論じていると考えられる︒

  ある行為選択を一定の合理性を持つものとして描くことができるということと︑その行為選択そのものが合理的

であるかどうかは別の事柄なのである︒よって︑功利的計算による神の存在への賭けの論理は︑信仰の当事者の論理とは別に立てられていると考えられる︒信仰の当事者が宗教信仰を選択し︑宗教行為を行うに至る論理と︑それ

を﹁自然の光﹂で外在的に観察して得られる論理は︑別のものとして捉えられるべきであることが示されていると

(15)

宗教経済学における合理性

いえよう︒

  これを宗教経済学にあてはめると︑信仰の当事者にとっての論理と︑宗教経済学が功利的すなわち合理的な数量

的計算として提示する宗教行為選択の論理とは︑重なり合う部分がある可能性までは排除しないにしても︑両者が

同一のものであることを自動的に保証するようなものは無いことになる︒ただし︑このことが宗教経済学の観点や論理の有効性を全面的に否定するわけではない︒

5  外在的観点   宗教経済学に対しては︑そもそも利益の最大化という想定自体がトートロジーだとの批判がある︒たとえば︑あ

る経済学者が﹁ある消費者AがYというブランドではなくXというブランドの商品を買うのは︑ブランドXの商品がAの求めるものをもっとも満たしてくれるからである﹂と説明したとする︒では︑その経済学者はブランドXが

Aの求めるものを満たしてくれる︵XがAの効用を最大化する︶ということをどうやって確かめるのだろうか︒そ

れは︑AがXを選択することを︑その経済学者が観察したから︑ということになってしまう N︒   これは個人の選好を前提することへの︑よくある批判である︒これに対して宗教経済学は︑たしかにこうした立

論はトートロジーのように見えるかもしれないが︑数学的定義や公理から導き出されたトートロジーには並はずれ

た有用性があり︑ユークリッド幾何学がその好例であると反論する︒ユークリッド幾何学とは別の説明様式による幾何学を作り出すことも可能である︒しかし︑だからといってユークリッド幾何学が人間の目の前に広がる空間を

説明できることを否定することにはならない︒同様に︑効用の最大化という経済学の前提から導き出されたトート

ロジーは︑かつてないほどの価値を持つ知の体系を社会科学的な記述︑分析︑理論化にもたらすのだという O︒

(16)

  たしかに︑学問的な営みとしての観察にとっての目的は︑外部の観察者の立場から︑AがブランドXを選択する

という事象について︑ブランドXの選択という結果に至るAの過程として︑あり得る一つの説明なり仮説を提示することのはずである︒だとすると︑この場合︑効用の最大化という観点からAの行為にどのような合理性が外部の

観察者によって見出されるかを示すことが主眼であって︑Aが主観的に効用の最大化を感じているかどうかは︑極

端に言えば無関係でもよい︒AによるXブランドの選択という行為を︑Aの効用の最大化という仮想的な観点から説明することで︑観察者が一定の妥当性を得ることができれば︑それでよいのである︒

  よって︑問題はトートロジーかどうかではなく︑宗教経済学によって提示された仮説や論理にどれほどの論理的

な整合性や説得力があるか︑ということになる︒その意味では︑﹁宗教の機能的合理性の側面に焦点を当てること

が︑宗教の他の側面を不当に軽視し︑宗教の現実的なあり方をゆがめて描写することになるのではないか﹂というベックフォードの整理する③の批判についても︑宗教経済学はあくまでもある一つの観点からの説明を提示するも

のであって︑﹁宗教の現実的なあり方﹂を包括的に描写しようとするものではないと反論することが可能であろう︒

  さらには︑そもそも﹁宗教の現実的なあり方﹂を包括的に描写することに成功した理論など︑かつて存在しただろうかと︑宗教経済学の側から反問することもできよう︒現に宗教経済学は︑科学的な理論の役割はすべてを説明

することではなく︑より明確に説明すること︑そしてどのような現象が理論の視野を超えるものなのかについて︑

いくつかの指針を提供することであると述べている︒もし︑効用の最大化という前提が当てはまらない事象に出くわしたなら︑それを説明できるような新たな原理原則を模索すればよいのであり︑それが現に経済学者たちのやっ

ていることであるという P︒宗教経済学は信仰の当事者とは異なる外部からの観点による観察と記述なのであり︑そ

(17)

宗教経済学における合理性

のことは宗教経済学の限界を示すと同時に︑宗教経済学の観点を擁護してもくれるのである︒

  しかし︑先の﹁合理的選択には︑宗教行動︵behavior︶の多くは実に合理的であり︑単なる無知や迷信︑手前勝 手な願望からのものではないことを︑はじめからはっきりさせてくれるという利点がある Q﹂という引用部分では︑

宗教経済学が宗教行動を合理的選択として示すことが即︑﹁宗教の合理性﹂を示すことになるかのように述べられていた︒宗教経済学が示すものと当事者の論理が別のものなのであれば︑こうした論の運びは論理が破綻している

か︑少なくとも論理の飛躍があるということになる︒では逆に︑だからといって︑そのことが﹁宗教の合理性﹂を

否定することになるのだろうか︒さらに﹁パスカルの賭け﹂をめぐる論争を追うこととしたい︒

四  根源的な合理性 1  チャールズ・パース   ここまでに見たパスカルの議論に対する批判とは位相の異なる批判を提起した人物として︑伊藤はパースを挙げる︒パスカルの議論は︑数学的な期待値として推論できる賭けの結果が明白なのであれば︑どちらに賭けるかとい

う行為選択も疑問の余地なく行われる︑という論の進め方になっていた︒これに対してパースは︑﹁我々はなぜ︑

合理的な推論にもとづいて賭けを行うことそのものを︑合理的と判断するのか﹂︵317︶という問いを提起する︒そして︑その疑問を浮かび上がらせるためにパースは︑厳密には数学的期待値が個人の個別の行為選択に対して意

味をなさない不確実な状況においても︑人が数学的期待値を自らの行為選択の基準としようとする事例を示す︵

320‑3 R21︶︒

(18)

  本稿にとって参考になるのは︑人は﹁自分の行為選択ができるだけ合理的なものであることを願い︑そのために さまざまな不確実な事象についても︑できるだけ整合的な︑数学的観点からみて正当な信念の利用を図ろうとする﹂︵316︶ということをパースが示し︑それはなぜなのかという問題を提起した点である︒

  パース自身は︑この問題に対して︑人が合理性を追求したり論理的に思考しようとするのは︑疑いから脱しよう

とする努力であり︑感情的な要素が関与しているとする︒すなわち︑無限な共同体への関心︑この関心が至高のものでありうる可能性の承認︑知的活動の終わることなき継続への希望という三つの感情にもとづく社会的衝動が理

性の働きの根源となっているという︒そして︑この三つの感情は︑キリスト教の慈愛︑信仰︑希望に重なるもので

あるとする︵326‑3 S27︶︒   こうしたパースの形而上学的解答︑さらにはそのキリスト教との重ね合わせの妥当性についてはさておくとしても︑パースの解答は︑合理性が社会的な基礎を持つことを指摘したものと捉えることができる︒何らかの論理によ

って合理的であろうとすることは︑自分さえ納得できればよいということではなく︑そうした論理を他の人も納得

するであろうことを求めていると考えられる︒合理性の追求とその担保は︑他者の存在を想定することを抜きにしてはあり得ないということである︒よって︑他者もまた納得することを求めるという点において︑合理性は他者と

の社会的共同性をその基礎とする︒パースの解答は︑そうした指摘として理解することができる︵328︶︒ 2  ヒラリー・パトナム   こうしたパースの考え方を批判したものとして︑伊藤はパトナムを挙げる︒パトナムはまず︑パースの想定の非

現実性を非難する︒パースの考えに従えば︑人は自らにとって重大な決断を迫られた際にも︑自身の利害ではな

(19)

宗教経済学における合理性

く︑それを超越した社会的な感情や衝動といったものに基づいて判断する︑ということになるのではないか︒だとすると︑現実にそうしたことが起こっているとは考えにくく︑あまりにも現実離れした考えと言わざるを得ない︒

そもそも︑そのような社会的な感情や衝動といったものが存在するという根拠が示されていない︑という批判であ

る︵331︶︒   だが︑この点については︑合理性の社会的基礎という事態を表面的に捉えていると反論することができよう︒た とえば︑﹁社会は人間の産物である︒社会は客観的な現実である︒人間は社会の産物である T﹂というピーター・バ

ーガーとトーマス・ルックマンによる個人の世界観の社会性についての定式化を参照すれば︑社会的なつながりを

まったく持たない個人の世界観や知識といったものは︑そもそもあり得ない︒合理性もまた︑個人の世界観や知識の一部なのだとすれば︑その合理性が社会的な基礎を持つことはむしろ当然ということになる︒重大な決断を迫ら

れた個人は︑自らの利害を越えた社会性によって判断するのではなく︑判断するために動員されるその人の利害に

ついての知識自体が︑その人が社会化される過程において内面化された社会的な背景を持つ知識なのである︒パースがそもそも﹁エゴ﹂を単独で存在する自足的な存在とは捉えていなかったことも︵328︶︑こうした解釈を支

持するものと思われる︒

  パトナム自身は︑合理性の根拠をパースのような社会的感情に置くのでも︑素朴な科学主義のように無反省な客観的世界に置くのでもなく︑合理性自体を人間にとっての根源的で原始的な義務として理解しようとする︵332‑3 U33︶︒合理性への志向という人間の思考のあり方は︑それ自体の根拠を示すことができるものではなく︑合理 性は人間の思考にとっての﹁根﹂や﹁岩盤﹂のようなものであるとパトナムは説明する︵335︶︒

(20)

  こうしたパースとパトナムの議論について伊藤は︑人間の合理性追求を人間精神の根源的な希求とする点では︑ ほとんど類似の理論であるとする︵340︶︒いずれの理論も︑客観的な事実として合理性が存在するというような素朴な想定や︑そうした客観的事実としての合理性を科学が示すのだとする単純な科学主義を拒否する点におい

ては同じである︒ただ︑人間の合理性の究極の基礎をどこに置くのかという問題に対して︑一方でパースはある種

の社会性に置き︑他方パトナムは人間精神そのものに置こうとした︑ということになるだろう︒

3  ﹁宗教の合理性﹂   パトナムの主張を認めるとすれば︑人間には合理的であろうとする志向がついてまわることになり︑いかなる行

為を選択する人であれ︑その行為選択に至るその人の思考には合理性が存在していることになる︒また︑パースの

議論からは︑合理性には﹁他者も納得してくれる﹂という想定が含まれることになるが︑この﹁他者﹂はあくまでも行為選択する個人が想定し得る範囲での﹁他者﹂ということになる︒すなわち︑ある個人の社会的関係性の中で

設定された﹁他者﹂ということになる︒

  両者を踏まえると︑合理的であろうとする本質的な志向を持つ個人が︑自らの主観的世界における﹁他者﹂にとっても有効であり得ると推測されるものとして考え出す論理が︑その人の行為選択における合理性ということにな

る︒そして︑先に引用したバーガーとルックマンの観点からすれば︑その個人に内面化される主観的世界は︑その

個人が社会化される社会の世界観に多くを負っていることを考え合わせると︑個人の合理性には社会的な広がりと同時に︑社会的な限界も存在することになる︒言い換えれば︑いかなる人も合理的であろうとする志向を持つが︑

何が﹁合理的﹂であるかは社会的に規定される︑ということである︒そのように見れば︑数学的計算による合理性

(21)

宗教経済学における合理性

は︑合理性の一つでしかないともいえる︒

  合理性についてのこうした捉え方からは︑次のように考えることができる︒ある個人が行為選択をする際︑そこ

にはその人にとっての﹁合理性﹂が伴っている︒その人は合理的であろうとする志向を持つからである︒そして︑

そうした行為選択を︑他者の観点から分析して︑何がしかの﹁合理性﹂を見出すことも可能である︒ただし︑この二つの﹁合理性﹂は必ずしも同一ではない︒他者の観点からの﹁合理性﹂は︑行為選択をする本人とは別の他者が

社会的に身につけた﹁合理性﹂ということになるからである︒

  すなわち︑ある消費者AがブランドXの商品を購入したとして︑その行為にはA自身にとっての合理性が伴って

いることになるが︑その合理性がA以外の人にとっても合理的と見なし得るものかどうかは別の問題となる︒そして︑そうしたAの行為を観察する経済学者が観察者の観点から想定されるAの合理性として何らかの論理を示した

とする︒しかし︑それはその経済学者が経済学者として社会的に自己形成する過程において身につけた合理性でし

かない︒むろん︑経済学者が設定する合理性がA自身の合理性と重なる部分を持つ可能性を否定することはできないが︑同様に︑両者が同一であることを自動的に保証するものも原理的には存在しない︒経済学者は︑経済学者と

してあり得ると想定される合理性の論理の可能性を提示するのであって︑その経済学者がそうした合理性の可能性

を示したからといって︑行為者A本人が合理的かどうかが決定されるわけではない︒

  そもそも︑パースやパトナムの議論からは︑外部の観察者が何かを言う以前に︑すでに人の行為選択には一定の

合理性が伴っていることになる︒人が誰しも合理的であろうとして行為選択するものなのであれば︑宗教行為の選

択に関してことさらに合理的であることを言いたてても意味はない︒

(22)

結論   以上より︑宗教経済学にとって︑これまでの批判は︑その合理主義的行為理解による立論を根底から否定され得

るような致命的なものではないため︑個人による宗教行為の選択を合理的選択として描き出す宗教経済学の観点が

一定の意義を有するものであることは認められ得る︒ただし︑それは外在的観点から個人の宗教行為選択における︑あり得る合理性を仮説的に提示し︑検証するという点においてである︒

  ﹁パスカルの賭け﹂をめぐる議論からは︑宗教を含む人間の行為選択には一定の合理性が存在することとなるが︑

そこでの合理性は客観的事実のようなものではなく︑当事者が社会化を通じて得た世界観のうちにおける︑いわば

社会的な合理性である V︒外部の視点から観察する観察者の見出す合理性もまた︑客観的事実ではあり得ず︑あくまでも観察者にとっての社会的な合理性ということになる︒そうした観察者にとっての社会的な合理性を提示し︑検

証してゆくことに貢献する点において宗教経済学は一定の意義を有するのである︒

  しかし︑宗教経済学が︑宗教行為を合理的選択として捉えることができるということをもって︑宗教は合理的であるとするのは間違いである︒宗教経済学の観点から宗教に合理性を見出せるから︑宗教は本質的に︑あるいは実

体として合理的なのだという論法になっており︑ここで宗教経済学は自らの観察的立場から見出した合理性を︑当

事者にとっての合理性にすり替えてしまっている︒これでは︑観察対象が合理的か否かを観察者が判定し︑断定していることにもなってしまう︒そうしたことに疑問を持たない点において︑宗教経済学は錯誤に陥っていることに

なる︒

(23)

宗教経済学における合理性

  宗教経済学がこのように﹁宗教の合理性﹂をことさら強調する背景には︑﹁宗教は誤りに基づくものであり︑有害であると断じられてきた︒宗教は合理的な思考を妨げることで個人を害し︑専制君主を聖なる存在とすることで 社会を害するとされた W﹂という認識がある︒こうした︑宗教を合理性に反するものとみなす考え方が︑かたちを変 えながらも﹁リベラルな宗教観を持つ社会科学者たちのあいだで特に広く行き渡ってきた X﹂というのである︒そうした﹁社会科学者たち﹂へ向けて︑宗教経済学は﹁宗教の合理性﹂を突き付けようとしているのであり︑その点に

おいては政治的でもある Y︒だが︑﹁パスカルの賭け﹂をめぐる議論から得られる知見が教えてくれるのは︑﹁宗教の

合理性﹂は宗教経済学の理論的営為とは別のところにあるということである︒﹁リベラルな宗教観を持つ社会科学

者﹂にとっての合理性との関係は︑そうした捉え方のうえで再考すべきものとなる Z︒

︵ , ed. by John R Hinnells (Abingdon; New York, Routledge, 2010), p. 462.   Laurence R. Iannaccone and William Sims Bainbridge, “Economics of Religion,” in 1︶

︵ States, , vol. 98, No. 5, 1993.”   R. Stephen Warner, Work in Progress Toward a New Paradigm for the Sociological Study of Religion in the United “2︶

﹂︵﹃︒ York; London, Routledge, 1997)   Laurence A. Young ed.,  (New 3︶

︵   Iannaccone and Bainbridge, op. cit., p. 462.4︶ , ed. by Steven N. Durlauf and Lawrence E. Blume (Basingstoke; New York, Palgrave Macmillan, 2008), p. 83.   Laurence R. Iannaccone and Eli Berman, Religion, Economics of, in 5“”︶

(24)

︵   , p. 83.6︶

﹂︵﹃︶︒稿 University of California Press, 1985), p. 8.   Rodney Stark and William Bainbridge,  (Berkeley, 7︶

︵ havior稿  Iannaccone and Bainbridge, op. cit., p. 463.actbe-8︶稿︑﹁

︵   James A. Beckford, “Choosing Rationality,” , vol. 12, 2002, pp. 6‑7.9︶

ters.︒﹂︵﹃︑﹇︶︒ Seuil, 1963) Electronic Edition (Charlottesville, InteLex Corporation, 2006), Accessed April 28, 2017, InteLex Past Mas- 10  Blaise Pascal, “Infini rien,” in , Présentation de Louis Lafuma (Paris, Éditions du ︶

11  ︶

︵ 12  Pascal, op. cit., p. 550.︶

︵ 13  , pp. 550‑551.︶

︵ 14  , p. 551.︶

︵ 15  , p. 550.︶

︵ 16  , pp. 550‑551.︶

︵ 17  , p. 551.︶

︵ 18  , p. 551.︶

︵ 19  Iannaccone and Bainbridge, op. cit., p. 463.︶ 20  , p. 463.︶

参照

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