身体,体育及び近代国家の起源
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(2) . 8巻 第1号 北海道教育大学紀要 (第2部C) 第4 l I i i ion 虹c)Vo lof Hokkaido Umver t ty ofEducat s on (Sec Jou lma ‐48 ‐ ,No. 平成 9年8月 Au t 玉里s ,1997. 身体、 体育および近代国家の起源 北洋 一利 北海道教育大学釧路校保健体育教室. ion ion and the M[。dern Nat The origin ofthe B0dy, PhysicaI Educat. Kazutoshi Ki tazawa Hu工nan Per formance Laboratory, (ushi ro Campus , i ion Hokkaido UI 1 iver ty ofEducat s ‐ Kush i ro085. Abstract ion turn the ir l icaland phi losophicalstudy ofjapanesephysicaleducat ti snecessarythathi stor inui ioninthe1860s i ion onthepol i irevolut icalandsocialdi tent ty ofthe Me t at j scont ‐. Mosthi ical stor. ical educat ion ln ical educat ion lgnores i t and pursues the orlgln of japanese phys study of phys icaleducat ionin the iqui ty‐ Thi sstudyinquiresinto 値e orlgln and 値econcept ofjapanese phys ant ion‐ se mode l rnizat process ofjapane Three reasons dhatlead t ic educat ion in the publ ion コ be govermment to fund physical educat idered‐ Fi systeln can be cons rst ・ edicine recasttheidea ofthe body in terlns of , modern VVestern lr iology and anato ]myintheend ofnineteenthcentury. Peoplebegantounderstandthattheycould phys irbody heal he thy by exerclslng‐ lr ーaket. Second the class ofso ldiers i leged class, f ivi tedfro ]m the pr ,. sの昭雄7 1 αZ ower class, peasants‐ ,to the 1. A new goVenl i i i フ vest tary to counter the 下 lnent needed a l l 1 .. Therefore ion,andtrythe tfarlners, who accountedfor9o percent ofthepopulat ]n ,they hadtorecrui ldier 1y,thenew governα1 i ics ica1educat ion t entcou1d achievecontrolofpol proーmote so . Fina1 . Phys has never been independent f ion s le t sought to lr ーake young peop rom government inte1vent lnce i. ical ly strong enoughtof i phys ght as soldiers‐. 1) は. じ. め. に. 体育は国民の身体資源の保護育成を目的とする近代国家政策の制度の 「呼称」 である。 体育は 明治5年 の学制公布の中で体術という名称で日本で初めて制度化されたのであって、 それ以前にこれに類似した制度 は存在していない。 体育という身体育成制度は、 江戸時代に各藩の藩校で行われた武芸稽古と比較すれば、 その対象とするところが武士などの特権階級ではなく 一般市民である点において明らかに異なる。 この制度 は、 明治維新政府が地方の各藩の技の伝承を行う稽古を禁止した後にもうけたものであり、 身体訓練の教本 を基 に全 国 的に統 一 した 内容 で実施さ れた も の である。 さ ら にこの制 度 が前提 して いる ところ の身 体 と は、. 我々がかつて身と称していた内部構造をもたない物質ではなく 生理学や解剖学的性質に基づいて発育・発 (1 33).
(3) . 一i 謬 一利 北揮. 134. 達する物質である。 従って体育とは、 ①対象とする市民階級、 ②国家による実施権限の掌握、 ③科学的合理 性の確信の3点において、 日本人が江戸時代まで経験したことがない制度である。 これら明治維新の特殊事 情を考慮に入れると、 体育の起源を遠く古代の歴史に求めることはできない。 だがこれらの時代背景を考慮 ▼ に入れた体育史研究や、 あるいは体育の概念規定が行われた例は いまのところみあたらない。 体育の歴史に関する研究には、 すでに軽率に扱うことのできないほどの多くの蓄積がある。 なかでも今村 嘉雄と岸野雄三の2人の業績は傑出している。 今日の体育研究者の誰一人として今村が残した仕事をまねる こ とはでき ない だろう し、 岸 野 が提起 した 問題 をきち ん と消 化 して引 き継 ぐもの はでて い ない。 だが、 この. 2人の歴史家が描いた体育の歴史は、 体育が洋の東西を問わず人類の起源にさかのぼってまで認めることが できる普遍的な文化であるとする点で他の体育史研究の枠をでるものではない。 そしてまた次の重要な点、 すなわち、 体育の必要性が彼らの著作を通してより広く一般的に認められ、 なおかつ、 体育および体育教師 の社会的地位をより確かなものにしたいという2人の切実な希望がこめられているのを見過ごすことはでき ない。 本論を書く時点で、 私が彼らが費やした時間と功績には遠く及ばない蓄積しか持ち合わせていないこ とを十 分 に知 り ながら、 彼ら が生 涯か けて 行 っ た研 究 にある ウ ミ をあ えて探 し求 める なら ば、 彼 ら に とっ て. 体育の歴史研究とは、 体育が我々 の社会にとっていかに欠かせないものであるかを説得するための方便で あ っ た。. 本論文は資料の多くを今村と岸野が行った歴史研究に依存する。 彼らの提示した歴史は非の打ち所がない ほど繊密である。 しかし本論文では、 彼らの著作の中で広義に解釈され普遍的な定義を与えられてきた 「身 体」 と 「体育」 の両概念の形成過程を近代国家の起源に求め、 両概念を歴史から独立した概念ではなく、 歴 史に依存して規定される概念として修正を行う。 例えば、 体育を 「身体運動一般」 あるいは 「体を動かす文 化」 と規定 する 場合、 これ らはい っ の 時代 にお いて も 通用 する し 歴史に左右されないので歴史から独立し た定義であるといえる。 これに対し本論では、 身体と体育の両概念は近代という特殊な時代の歴史的産物で あると見なし、 両概念の起源がこの時代の特別な事情に派生するものであることを示してみたい。 体育だけではなく身体までが歴史的な産物であるというのは現時点においてきわめて異例に感じられるで あろう。 常識的にいえば、身体は生理学的解剖学的構造を持つ生物学的存在であると見なされて当然であり、 これを疑う余地はない。 ところが過去の日本の歴史を振り返ってみれば、 このように身体を見つめる習慣は 多く見積もっても10 0年あまりである。 生まれた時点では未熟であり、 適度な運動を継続した後に健康でた くましく発育発達する身体というアイ デアが、 近代特有の政治的要請を受けて発明されたイ デオロギーであ ることを、 さらにまたこの科学的なアイデアを広く一般市民に啓蒙する制度として体育が機能してきたこと を本論文は明らかにするであろう。 本論では、 はじめに身体概念の起源を確かめ、 これによって身体訓練法が伝統的な修行法から計算された 体操へと変わっていく経緯を追ってみる。 次に、 特権階級のみに許されていた身体訓練が下層市民を対象に 実施されるに至る幕末から明治維新までの政治的背景を明らかにしよう。 その上で、 体育の制度化には西欧 から移入した科学的な身体概念の一般化と、 明治政府による新たな中央集権国家体制建設のための政治的要 請 が 不 可欠 であ っ た こと につ いて論 じて みた い。. 2) 身 体 の 起 源. 身体の概念は、 生理学と解剖学によって身体内部の構造と仕組みが明らかになるにって大きく変わる。 日 本ではじめて解剖を行なったのは17 54年山脇東洋である。この時代に発行された解剖図を古い順に並べて比 較してみると、 当時の医師達がいかに身体の内部構造に無知であったかがよくわかる。 しかし、 現在よく知 (1 34).
(4) . 玉ぁ の 身体、 日お び 、 体育および近代国家の起源 、. 135. ら れて いる よう な解剖 図 を作成 する ま で に費やさ れた 時間 はそ れ ほ ど長く は ない。この約 20 年後 の1771年、 杉 田玄 白による 「解体 新書」 は、 オ ラ ン ダ語 で書か れた 「タ ー ヘル ・アナ トミア」 を翻 訳 した もの である こ と はよく 知 ら れて いる が. これ は今 日の 解剖学 テ キス トの レベ ル をす でに整 えて いる。 多く の 医学 者 が これ. を目にするようになり、 次第に病気やけがの治療方針をこれらの生理学的、 解剖学的知識に基づいて決定す る よう に なる の である。. 西欧医学は 宣教師などが行う南蛮医学によって これに先んじて九州の一部の地方に伝えられていた。 南蛮医学は キリスト教布教のための一つの手段であり(菅谷 p 2)、 貧 しいものや 病 に苦 しむもの な どを 治療 して直 す こ とにより、 信 者 の獲 得 と同時 に徐々 に知 ら れる よう になる。 しか し. 日本の各地で試みられ. ていた医術のほとんどは皇漢 (漢方) 医学として独自の治療法をもってこれより先に確立して幕府にも徴用 されていたのであり、 南蛮医学が伝来と同時に速やかに全国各地に広がったわけではない。 フラ ンシス コ・ザ ビエ ル が1549 年 に渡 来 した のち、 1587 年の 秀吉 による キリ シタ ン弾圧や 1612 年のキリ. 0年足らずの間、 南蛮医学は九州の一部で短い期間 スト教布教の禁止を経て163 9年の鎖国令までのわずか7 保 護さ れた の み で、 こ れ以 降 はおお っ ぴ らな活 動 は でき なく なる。 鎖 国 中に は、 オ ラ ンダの 商人 を治療 する. ために彼らが滞在する長崎に、 わずかな数の医師が本国から派遣されてはいたが、 彼らからオランダ医学が 公式 に伝 え ら れる こと はなかう た。1720 年の 吉宗 によ る 洋書 解禁 ののち. し ばらく の 間オ ラ ンダ医学 を学 ぶ. もの が増 え、 先 に述 べた よう な 山脇 東 洋 の 「蔵 志」 や杉 田玄 白の 「解 体新 書」 の 出版 を みる よう になる。 と ころ が これもつ か の間、1820 年の シー ボ ル ト事件 により 多く の蘭学 者 が と らえ られ投 獄さ れ. 高野長英や渡. 辺華山の処刑、 さらに洋書の翻訳出版はすべて幕府が管理するようになる。 当時の幕府おかかえ医官は漢方 医であり、 彼らはこの期に便乗して奪われた主導権を取り戻そうと西欧医学の弾圧を行った。 結局 そ れも 焼 け石 に水 である こ とを明 らか に した の は、 1846 年か ら1847 年 にか けての 痘膚 の流 行 である(菅 谷、 p 6)。 西 洋 か ら もた らさ れた 痘 苗 が、 各 地 でよ い効き 目 を示 した の である。. 以上のような粁余曲折の後に、 西洋医学が公式に医療制度として採用されるには、1868年明治元年3月 7 日の明治天皇による西洋医術差許の御沙汰を待たねばならなかった。 医師養成のための教育制度や病院など がやがて西洋式で整備されるようになる。 明治7年の医制、 8年に設置された医術開業試験実施の方針によ り 漢方医はすでに開業していた者をのぞき新たに開業できなくなる。 これに反対する漢方医の中には 西 洋医学者には手に負えない病を治す者があり、 特に脚気をめぐり漢方対西洋の効果判定試合が行われたこと もある 0=上、 p1 53 )。 明治11年脚気施療院の遠田澄庵を含む漢方医と西洋医師達の腕比べには市民の関心 も 高か っ た が. 最終的には決定的な違いがみられなかった。 ところが経済的な力を貯えだした西洋医学者の. 勢いもさることながら、 西洋医学にはある理論が漢方にはなくこれを経験に頼るのみだったので、 漢方は次 第 に旗 色 が悪く な っ ていく の である ( j=上、 p157 )。 漢 方 医 自身 による 西 洋 医学 への抵 抗 は、 明治 30 年 頃ま で続 けら れた が つ い に は力 つき る こ と に なり. 公式に認められた医療制度ではすべて西洋医学による治療が. 行わ れる よう になる。. 西洋医学的に身体を理解するようになって. 日本人が新たに知ることになったのは腸や臓器など内臓の色. や 形 だ けに と どま らない。 身 体 は運動 して 鍛 える こ と でよ り丈 夫 に なる という 「発育 発達」 の しく みを 内在. していた。 この発育発達という考え方は次のような身体概念を前提している。 すなわち身体は、 生まれた時 点では未熟であるが適度な運動刺激を与えることによって筋肉が発育し呼吸循環系機能が発達する性質を持 つと認めているのである。 この知識は今日の運動生理学では常識になっているが、 明治の初期においてはま だ一般的にはなじみの薄いものであった。 そしてこの身体概念が広がっていくにつれて変わったのは、 身体 の発育が不完全な場合にこの責任を本人の 「努力不足」 に起因すると考えるようになる態度の変更だけでは ない。 身 体 の動 か し方 が大きく 変わ る の である。 (1 3 5).
(5) . 北鐸 一利. 136. 3) 発育・発達概念と体操の起源. 83 9年、 イ 体操は身体概念の形成に少し遅れて日本に取り入れられた、 もう一つの西洋的な文化である。1 ギリス と中国 (清 国) との間 で起 こ っ たア ヘ ン戦 争によ っ て、 日本 が これま で大 国 と して 考 えてきた 中 国が. あっ けなく大敗してしまう。 このころちょう どシーボルト事件の後で蘭学に対する幕府の厳しい管理が行わ れていたのであるが、 長崎奉行の高島秋帆は幕府に 「天保上書」 を提出し、 西洋砲術による軍備の強化を上 申 して いる (松本、 p 4) 。 さらにその後、 幕府の支配力の低下や尊皇擾夷運動の高まりに伴い、 各藩が独自 に藩の軍事力強化をおこなったが、 この時期に西洋式兵法の移入は加速することになる。 1 808年にイ ギリス軍艦フュートン号が長崎港に侵入して以来、 海防の強化が急務とされ主に西洋式の火. / / / / / / /. 、、、 、・‘ 、 、 \ 、 / ・ 、・ 、 . 黍 . 月り. 図i. 森. 一一一 弓術. に各 藩共 通 して 広く 行わ れていた 弓、 馬、 槍、 剣、 砲、. ー---- 馬術. 柔術と兵学の中でも、 砲術が占める割合はそれほど高. 、 、 、 、 、 、 、 .. 一一--砲術 働一一 柔術. 一-- - 居合. . . 羅. 蓬. . . 政. 応. 明治維新. . 点に注意が払われるのが常である。 確かに、 江戸時代. ー--“剣 術. . ′ ・ . . 一-- 兵学. - 槍術 ー----. / . メ ー クご - ‐ - - ‐. 器、 操練法が導入された。 軍事史では、 この時代の特 に幕府や各藩による砲術の改革に力を注ぐようになる. 藩学における稽古時数比率 (今村嘉男1967 、 p482をもとに作成). く はなか っ た。 こ れが江戸 の終わ り に近 づく につ れ、. 図1にしめされているように各藩の藩校の中で砲術に かける時間数が他に比べ圧倒的に増加していくのであ 2 )。 西洋式兵術は砲術だけを変え 8 967 る (今村1 、 p4 たのではない。 さらに武士の身体を訓練する体操を多 く 取り 入 れた の である。. 幕府の兵制改革では、 陸軍は仏式、 海軍は英式を採 用するが、 この仏式では基本訓練として近代的な体操 が含まれていた (今村1967 )。 明治維新後の新 、 p514. 政府の兵制が当初仏式を採用したため、 幕府陸軍所兵 制は新政府になってそのまま引き継がれて発展し、 基礎訓練法としての体操は陸軍の 「体操教範」 として出 版さ れる よう に なる。 体操 はす でに幕末の 各 藩 でも導入さ れて いた が、 こののち 全 国 的 に広 が っ て いき、 明 治5 年の学制 に はこ れが 一 つ の教 科 と して 採用さ れる に至る の である。. 体操は、 身体各部を動かすことによって身体内部の性質を変化させるものである。 体操が、 江戸時代まで の武術の稽古と比較してもっ とも大きく異なる点は、 身体を動かすことによって期待される効果の場所であ る。 弓、 剣、 柔 術 では、 稽 古 の成 果 は相 手 に致 命傷 を負わせ る こ とが でき る か どう かの 巧 みさ に関わ っ て お. り、 稽古の結果は動作の質的な要素の改善、 すなわち手足の無駄のない動かし方や間合いの取り方、 スキの 攻め方などを 「上達」 させると考えられてきた。 これに対して体操は、 身体各部をまんべんなく動かした結 果、 この効果は身体内部の筋肉量、 神経伝達などを向上させようとするのである。 体操の解説書には、 首の 回旋や手足の屈伸などの定められた動作を繰り返す 「反復回数」 がはっきり決められている。 この反復回数 が意味するのは、 身体に効果をもたらすのに十分な強度であることと、 さらに過酷になりすぎないような配 慮である。 さらに体操が持つ画期的なアイデアは、 誰でも同じような効果が期待できる点と、 医学に裏付け られた科学的な方法であることである。 剣術や柔術などでは、 技の巧拙は各自が生まれながらに備えている天分の資質にゆだねられる部分が多 かった。 まず武士は百姓と違い、 この才能を持って生まれる。 優れた剣術家の子弟は同じくその資質を分か (136).
(6) . 玉易 の およ び、 身体 体育および近代国家の起源 、. 137. ち 持ち、 代々 直伝 の 流派や 教典 を持 つ ことさ えある の である。 さ らに武 芸 は 「血統」 の 観念 を強く 持ち、 そ. のため誰にもまねのできないワザを持つ者がいても不思議ではなかった。 これに対し体操は、 すべての人が 同 じ 「身 体」 という 財産 を持 っ て いる と前提 し、 誰 に でも でき る 訓 練 を考 える。 従 っ て、 階級差別 的 では な. い。 また体操が定める動作は、 誰でもすぐ行える軽度の運動から熟練を要する鉄棒や肋木まで 運動強度の バリエーショ ンが幅広く用意されており、 年齢別の発育段階に対応することができる。 両者の違いが自覚された形跡は、 体操という教科名にも現れている。 明治5年の学制では 「体術」 とされ た教科が、 翌明治6年 「体操」 に直ちに訂正されているのである。 体術と体操の意味がたいして変わらない も の であ っ た な ら ば、 公布 した て の も の を変 更する 必 要 はない。 この 事実 が示 して いる の は. 運動に対する大きなパラダイムシフトである。 体操は容易な動作を何度も反復するため. 日本人の身体. それぞれの動作は. どれも 同 じ ことの 繰り返 しであ っ て、 そ の 一 回 一 回の 動 作 に経 験 的な 積 み重 ね が 問わ れる こ とはなく、 た と. えば首の回旋などは誰でも始めてでもできてしまう。 これに対し術とは、 経験的に養われて身に付いた技術 を重視する語であり、 これは江戸時代まで武芸の稽古の際に使われた動作の質を重視する観念である。 つま り術 寸が なく て も体 操 はでき る の であ っ て、 この観 念 は体 操 に はな じま なか っ た の である。. 4) 近代国家の起源と体操の貢献. 体操が特権階級の独占から離れ、 下層市民を対象に奨励されるに至った理由を知るためには、 この時代の 軍事史や政治史に注目する必要がある。 農民が兵士として動員されたのは、 公式には明治5年の徴兵令が最 初であるが、 これに前後して幕末の幕府支配力の低下と各藩勢力の台頭、 明治維新後の各地の内乱の鎮圧、 新政府による直轄軍隊の再編成、 そしてこの政府軍と薩摩藩の間で戦われた西南戦争は、 農民の兵力採用を 加速化させた特殊な事情である。 1 837年大阪奉行大塩平八郎は農民を駆り立てて乱を企てた。 乱はたった2度の抗戦しか交えず わ ずか 1 名の死者を出しただけで反乱軍はたちまち逃亡解散してしまう。 しかしこの未熟な反乱軍は、 当時の幕府の 軍事組織の退廃と無力を暴露した。1865年、 大村益次郎は長州藩の軍制改革を行って身分にとらわれない奇 兵隊を組織するが 庶民や農兵を含むこの長州藩軍隊は第二次長州征伐の幕府軍に対して勝利する。 これを 機に幕府も大政奉還の一年前に当たる1 867年 あわてて傭兵を組織するために農民を集めている。 軍事が農 民に拡張される傾向は、 明治5年の徴兵令によってついに制度的に確立する。 維新後の新政府は中央直属の 軍隊の整備を急務としていたが 中央集権化を達成するためにもこれを旧来の藩兵に頼ることはできなかっ たので、 徴兵令によって一般市民を募って新しい軍隊を確立しようと試みたのである。 江戸時代の中頃まで 武士以外の農民や一般庶民は、 秩序を乱す軍事的な力を持つ ことがないように武芸の稽古や武器に近づくこ とを厳しく禁じられていたのである が、 江戸時代末期から日本が近代化を進める過程で、 彼らが重要な戦力 と して注 目さ れた の であ る。. 明治1 0年の西南戦争は 軍事訓練に一般市民を多数動員する意味でも、また国内に残っていた反抗勢力を 一掃し中央集権化を名実ともに達成する意味でも非常に重要な事件である。 明治5年の徴兵令当初は、 徴兵 検査の基準が当時の人々の現実から考えると身長などの項目でかなり厳しいものであったことや、 血税-撲 とい っ て 農民 の 中 に は大 事 な働き 手 が徴兵 によ っ て と られて しまう こ とに対する 反抗 があ っ た り、 さ ら に穀. 物を作る農民をある程度保護するためにもうけた徴兵免除の資格がかなり緩やかであったために、 政府が期 待するほど十分な数の兵隊を集めることができなかった。 一方で征韓論で破れた西郷隆盛が薩摩に帰国した 後、 中央政府に反抗を続ける薩摩藩の武力は政府軍と互角以上の勢力を蓄えるようになる。 政府軍はこの薩 摩藩相手に開戦したもののはじめはこれに手こずり背走する。 そこで政府軍は足りない兵力を補うために (1 37).
(7) . 138. 北津. 一利. さらに徹底して徴兵を進め、 明治維新以後特権を奪われて東北地方でくすぶっている元武士達を巡査として 動員するなどの工作をして調達し、 最終的には勝利する。 この戦勝が結果的に政府軍がとってきた農民によ る軍隊建設の方策に自信を与えるのである。 西南戦争で西郷軍が負けたことにより、 西洋式の新しい兵力が日本の伝統的な兵力よりも優れていること を印象づけた。 政府軍は、 戦いの経験がない百姓上がりのこしぬけ兵士達であり、 対する西郷軍は精鋭と呼 ばれ、 江戸幕府を倒して勢いづく百戦錬磨の武将の集まりである。 そもそも西郷軍は西南戦争など1カ月で 片 づけられると考えていた(藤原、 p37 )。 命知らずの薩摩兵士の戦法は、 個人戦を主とする一騎打ちであっ た。 対する政府軍の兵士達はこれを大変おそれていたのであるが、 彼らのとった戦法は集団戦であった。 こ の集団戦法こそ西洋式戦法の特徴である。 そして一人一人ではたいした力を期待できない戦いの素人達を号 令とともに一斉に秩序正しく行動できるように訓練するのが体操の役目であり、 これによって大きな力を生 刊綿誤期間の短さにも関わ み出すように組織されたのが西洋式近代軍隊である。わずか1 0年あまりという試行 らず、 西洋式体操法が伝統的な修行法や稽古法より優れている証明となり、 全国の国民の前で西南戦争とい う劇的な舞台でこの決着がつくことになる。 体操の優位はこの時点で決定的になったのである。 近代的軍隊においては、 兵士は個人的な判断で臨機応変に戦うというよりも 集 団の 中にお いて あ らか じ め決められたわずかな役割を任命され、 合図に応じてこれを繰り返し反復するだけである。 遅れをとらずに 集団で一斉にこれを行うことで、 一人一人の力を合算するよりも多くの巨大な力を発揮する。 体操は初心者 がこうした集団行動に容易に参加できるように設計されているのであり、 近代軍隊育成のためにはなくては ならない訓練法であった。 要するに西洋式戦法では、 これらの微力な兵士の効果的な 「配置」 とこれを統轄 しや す い 「組織」 の 設計、 そ して 集 団の 「統 率」 が高く 維持さ れて いる こ とを重 視 する の であ っ て、 個々 の. 兵士の個人的な戦闘能力を要求するものではない。 江戸時代までの武芸稽古が戦いに際してもひるまず、 怖 じけづかす、 スキを見せず、 気迫で勝ろうと鼓舞する心構えを要求していたのに対し、 体操はあくまでも集 団の中に一体化、 同一化するようなメンタリティ を要求する。 幕末の長州藩高杉晋作は、 このような西洋式 戦法の本質をすでに見破っていた。 高杉は、 西洋式の「砲火による戦闘は、 団体の訓練を主にするものであっ て、 一個人の格闘力の ごときは問題ではない。 然るに個人的格闘力を誇りとするはずの門閥武士は、 太平の 久しき優柔の風に慣れてまた用ふべくもなく、 却ってこれを下士、 足軽、 若しくは百姓町人の階級にみるよ うになっている (松下、 p3 6 )」 といい、 長州の兵制改革を行う際に、 いち早く下級階級の市民に目を向けた の である。. 5) 明治期啓蒙運動と体育の起源. 明治新政府が幕府に代わってあらたな秩序を形成する必要にせまられ、 目前の直属軍隊を下層市民に頼る ようになったことは、 江戸末期の武士が精神的に堕落し弱体化していたからではなく、 あるいは、 封土の提 供と俸禄による封建的兵役の管理が経済的に大きな負担になるからでもない。 構想された近代的な国家体制 が封建主義的な階級支配の限界を乗り越えて、 中央集権化と国民皆兵により脅威となっていた海外勢力への 備えを万全にするものであったからである。 そのためには、 江戸時代まで被支配階級にいた9割近くの市民 をこれに見合うような資質を備えるものに養育しなければならなかった。 全国民を対象とする教育制度の必 要性は、 この時代の啓蒙的知識人達によって盛んに唱えられるようになる。 明治元年木戸孝允の 「普通教育の振興を急務とすべき建言書案」 の中に 「一般の人民無識貧弱にして終に 今日の対面を一変せざる時は、 たとへ二三の英豪朝政を補翼仕候共、 決て全国の富強を振起する能はずして、 いきほひ王政も亦専圧に陥らざるを得ず、 元来国の富強は、 人民の富強にして一般の人民無識貧弱の境を離 (138).
(8) . 身 体、 体 育お よ び近代 国家 の 起 源. 139. るること能はざるときは、 王政維新の美名も到底空名に属 し、 世界富強の各国に対崎するの目的も必ず其実 5 )。 同じように大久保も明治2年の建言書で、 欧米に習って「文明開化の教」 を失ふ」 と進言する(松本、 p4 を施し、 学校の制や 「洋行遊学の法」 を設け、 「人材ヲ作ル」 ことが急務であると説いている。 そしてこれが 実際に制度化されたものが明治5年の徴兵令と学制であった。 「体育」が公式に教科名になるのは第二次大戦後のことであるが、 明治時代以降体術や体操と呼 ばれた教科 が教育制度の中で果たした役割と、 今日の体育のそれとが大きく異なるわけではないので、 これらをまとめ て体育と呼べ ば、 学制公布とともに学校教育に設けられた体育は教育制度の中でもっ ぱら身体育成の役割を 追求することになる。 当時の体育でもっ とも注目すべき点は、 議論が医学的根拠に基づき科学的に進められ ていた点である。当初用いられた体操の解説書や手引き図は、 現在の我々 が見れば大変稚拙なものであるが、 彼らがこの時代に試みようとしたことは、 今日の体育研究者のそれと全く変わらない。 身体の発育発達を調. 査し年齢別に適切な体操を考案し 運動負荷が過度にならないように配慮して安全な体操を選定しようと努 めていたからである。 彼らはすでに生理学的な法則にしたがって成長する身体について十分な知識を持って いた。 明治11年に、 我が国の生徒に適合した体操を調査するために体操伝習所が設けられたが、 この伝習所 が体操の選定に科学的な態度で研究していたことを証明する資料にも事欠くことはない。 伝習所開設と同時 にアメリカから招請されたり一ランドはハーバード大学医学部卒業の医師であり、 坪井玄道によって翻訳さ れた彼の著書 「新撰体操書」 や 「李蘭土氏講義体育論」 には、 今日の運動生理学専門書にも勝るとも劣らぬ )。 活 68 高度な理論が解説されており、 伝習所で行われていた講義内容をつぶさに知ることができる(今村19 力検査と呼ばれる身体検査が行われたのもこの時期であり 明治16年文部省が明治維新以後全国的に禁止さ れていた剣術と柔術の教育上の利害適否の調査を伝習所に命じた際、 これらは多少の危険を伴い心身の発達 に応 じた 指導 が困 難 である と して 適 切 で はない と答 えて いる 点 でも 明 らか である。. 体育の目的は、 生理学、 解剖学、 栄養学の科学的知識を広め、 適切な運動に励むことで健康な身体を作り 上 げる こ とにあ っ た。 この 必 要 性はた んに国 の 政治 的要 請 と一 致 してい た の みな らず. 明六社の福樺諭吉や. 西周 を代表とする啓蒙論者によっても強調されたように、 一般市民の自立や幸福にとっても欠かせないもの であった。 明治の初期に 養生、 健やか、 達者などの言葉に代えて健康という語が新しく創案されたのは、 健康の概念が生理学的身体観を前提していたためであり、 運動によって身体をたくましく発育発達させるこ とができるという知識の啓蒙普及のためである(北洋)。 福揮をはじめとする啓蒙論者達が口をそろえて国民 の身体の完全な育成を説いたのは、 社会の政治的不安定、 貧困、 食糧不足、 コレラや赤痢などの伝染病流行 などこの時代特有の社会問題を克服するためには、 積極的に運動することによって丈夫な体をつくることが 不可欠と考えたからである。 従って体育とは、 教育制度の中でも特に異例なまでに、 時代の劇的な変動や社 会問題に対応するための社会的貢献を国や社会から強く期待されていたといえる。 体育とは何かを考える際 に、 この点 はいく ら強調 して も しす ぎる こ と はない だろう。. 6) 結. 論. 明治以降、 普通体操と兵式体操のいずれが学校で行われるべきであるかをめぐって繰り返された議論をみ れば 体育は国家政策から独立を保つことが難しい教科であることは明らかである。 文部省当局を巻き込ん 9年学校令から2 2年帝国憲 で兵式体操の強化 が議論された主な例は3つほどあげられる。 まず第一に明治1 法発布を経て23年教育勅語までの教育制度改革の時代、 第二に日露戦争後の明治4 0年前後、 そして第三に 4年頃である。文部大臣森有礼は、 欧化主義や自由民権運動などは 第一次世界大戦後に軍縮が叫ばれた大正1 知育のみに偏る教育の弊害で道徳が薄れたためであり、 これは 「身体に関する教育が低調で敢為進取の勇気 (1 39).
(9) . 140. 一= 逐 一利 北逐. にかけている」 ためなのでこれを補うために兵式体操を取り入れることを提案する。 この結果、 低学年では 普通体操や遊技が踏襲されたが、 中高学年では普通体操と兵式体操が併用されるようになる (今村1 97 0 、 3 )。明治11年以来リーランドによる軽体操を中心に進めてきた体操伝習所でも歩兵操練を中心とする教 p38 科に換え時代の要求に応えた (今村1 )。 これより第二次大戦にいたるまでの体育の方向性はこの 967 8 、 p87 時点で決定的になる (今村1 9 80 )。 日露戦争後には、 戦勝して帰国した兵士がだぶついて処理に困っ 67 、 p8 ている折りにこれを体操教師に再利用できないかと考え、 陸軍は学校で並行して行われている普通・兵式両 体操を兵式体操に統一し、 指導者としてベテランの兵卒を採用するように文部省に働きかけたのである (今 村197 0 )。 文部省と陸軍の共同による調査委員会が2回にわたり組織され検討した結果、 最終的に文 6 、 p46 部省は、 兵式体操の主要な部分である集団訓練を 「教練」 と呼んで体操から切り離し、 体育では陸軍も取り 入 れているス ウ ェ ー デ ン体 操 に統一 する こ とに なる。 兵卒 の教員 採用 につ いて は否定さ れた。 ス ウ ェ ー デ ン. 体操という呼び名は兵式体操と比べれば明るく進歩的で暗いイメージを持たないが、 内容はほとんど変わら ない。 第一次世界大戦後に軍備の縮小のあおりで徴兵の在営年限が短縮された。 そのため文部大臣岡田良平 は大正14年、在営年限の短縮に伴う 国防力の低下を軍事教練によって補い、 なおかつこれを増強するために 学校教育の兵式教練の振作を内閣総理大臣に建議する (今村1 97 0 )。 兵式教練は、 大正デモクラシー 30 、 p5 による自由主義思想が流行する当時の人々の精神的側面を善導する必要を説く保守的な支配層の意向によっ ても支持される。 要するに体育とは、 成立の過程から絶えず国家の利害に直接浸食されていたのであり、 国 家の政策的要請を 「教育行政」 のなかに持ち込むことに忠実になることで一教科、 あるいは制度としての存 在をようやく保証されていたことを以上の事実は示している。 第二次世界大戦前夜の体育が行った貢献とい うのは、 教育行政と軍事行政の区別を取りのぞいたことである。 以上の体育の歴史には、 今村が生涯研究してきたような体育とその関係者が国や軍部を相手に交えてきた 葛藤の歴史が全部省略されている。 しかし体育が与えた社会的影響に忠実になればなるほど、 以上の歴史が 体育の歴史として厳格に受け止められねばならないものであることを疑う余地はないと思われる。 今村が坪 井玄道、 永井道明、 嘉納治五郎他幾多の先達の口をして彼らの教育的配慮や識見を語らせたとしても、 今村 自ら認めている次の事実、 すなわち 「体操であれ武技であれ、 心身を鍛練して護国の強兵をつくる」 のが体 育の 目的 である と考 えられていた点 につ いて は、 彼 らはす べて共通 して いる の である (今村 1970、 p363 )。. 今村がいうように、 彼らは確かに兵式体操に反対したことがあるけれども、 それはあくまでも身体発育の面 から過度な負担を指摘したにすぎないのであって、 国家のために献身する強兵をつくることに異議を唱えた ものではない。 彼らの教育的な配慮というのは、 優れた強兵をつくるために幼少時の身体に見合う訓練とし て妥当な体操を考案することであったにすぎないのである。 彼らは優秀な官吏であった。 今村や岸野が体育の歴史研究のなかで、 学校教育内部の一教科としての解釈を越えて、 体育を身体運動を ともなう人類共通の貴重な文化であるがごとく拡大解釈し、 その歴史的、 哲学的意義を強調しようとする理 由は、 軍国主義国家時代の国民皆兵政策の廃止とともに戦後は体育の存在根拠が極めて希薄になったためで ある。 彼らの著作はいずれも昭和3 0年代以降、 体育の社会的地位がきわめて不安定であった時期に書かれて いる。 昭和33年前後の教育改革にはじまり6 0年代の大学カリキュラム大綱化に至るまで、 体育の存在理由 が繰り返し議題に数えられてきた経緯を見れば、 体育の歴史や体育学研究が体育という制度の延命保身をは かる よう 卑屈 になる のも無 理 はない。. 体育は、 今後も国家政策からの干渉を免れ独立の立場をとることはできないであろう。 したがって、 体育 とは何かを考えるには、 近代という時代の特殊性、 体育あるいは国民の身体をめぐる政治的、 社会的関心に も っ と注意 を傾 けな けれ ばな らない。 した が っ て、 体 育 が今 後 いかにある べき か という 問題 に は、 国家 と は. 何であるかに関する検討を経た上でなければ答えることはできない。 国民の身体は政治や社会から全く独立 (1 40).
(10) . 体 育 お よ び、 国ぁ の 源 身体、 体育および近代国家の起源. 141. して存在するのではないのであるから、 実験科学による純粋な生理学的法則の究明によって身体発育にとっ てもっ ともふさわしい理想的な運動処方が発見されたとしても、 それをただちに子供を対象に学校教育の中 に取り入 れる こ とに は慎重 にな らね ばな らない。 我々 はま ず、 子 供の身 体 の 発育 を促 す制 度 と はい っ た い誰. のためのものであるのかについて、 子供の身体に干渉する前に十分検討しなければならない。 体育という制 度の中にある国家の政治的関心について十分に調査しなければならない。 参. 考. 文. 献. 9 ) 日本近代教育百年史 財団法人教育研究振興会 1 7 4 国立教育研究所 ( 井上. 1 東京大学 出版会 ) 日本 の軍 国主義 1、 1 清 ( 1954. 松本三之介 ( 9 9 6 ) 明治思想史 新曜社 1 ) 徴兵忌避の研究 立風書房 1 9 7 7 菊池邦作 ( 菅谷 章 ( 1 9 7 6 ) 日本医療制度史 原書房 川上. 武 ( ) 現代日本医療史 1965. 勤草書房. 9 6 8 ) 学校体育の父リーランド博士 不昧堂書店 今村嘉雄 ( 1 今村嘉雄 ( 1 9 7 0 ) 日本体育史 不昧堂書店 1 9 6 7 ) 十九世紀における日本体育の研究 不昧堂書店 今村嘉雄 ( ) 学校体育制度史 井上一男 ( 1970 藤原. 彰 ( 1961 ). 大修館書店. 軍事史 東洋経済新報社. 松下芳男 ( 1 4 1 ) 近代日本軍事史 紀元社 9 1996 ) 近代化に伴う 「健康」 概念変遷の系譜 健康文化 p 北浄一利 ( 7 3 ‐ 8 3 p . 9 岸野雄三 ( 1 7 3 ) 体育史 大修館書店 9 8 3 ) 近代日本学校体育史 日本図書センター 岸野雄三 ( 1. (141).
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