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平安時代荘園整理令の基礎的研究

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Academic year: 2021

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(1)Title. 平安時代荘園整理令の基礎的研究. Author(s). 阿部, 猛. Citation. 北海道学芸大学紀要. 第一部. B, 社会科学編, 15(1): 10-23. Issue Date. 1964-08. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/3837. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第15巻 第1 号 B. 北海道学芸大学紀要(第一部). 昭和39年8月. 平 安 時代 荘 園 整 理令の 基 礎 的 研究 猛. 部. 阿. 北海道学芸大学釧路分校史学研究室 Z Takeshi ABE: A Study of sねoの2 Sd門 Re E h i He i A r a ion c t an ) nt e s . at (Manor Regul. 1.. は. し. が. き. する。 およそ政 平安時代の政治史的研究は, 日本史の諸分野の中 でも比較的おくれた分野に属 (政治過程) 的事件・ , 治史の 対象領域 と しては, ①国家の 統治機構 および形態, ②国家の政策, ③政治 最も 2 の分野は の政策史 第 ば , ④政治 家の研究を挙げるこ とができるが, 平安時代につ いていえ , る。 由があ 相当の理 1 ) ないのには 究の少 観点からの研 , たちおくれて いるように 思われる 。 政策史的 とる ) 徹度如 令の形を の貫 即ち, 特定の政策 が実際に, いかほどの効果を持ちえたか, 政策 (それは法 ・究が, 単なる法文史に 何という点が測定 しがたいからである。 その困難さのために, 政策の史的研 ) 政治 が2 終ることの多かっ たことは否めない。 法文史は, それじしん充分な意味を持つのではある , ) 史研究の 基礎の一部であるにすぎない3 。 とくに 平安時代の政策史 的研究を進 めるためには, 種々の角度からの試みが必要であろうが, う ないかと思 。 荘園整 10世紀以降について は, いわゆる荘園 整理令の考察は有効性の多いものでは と実施を 内容 理とは, ふつう延喜2年のそれを最初 とする, 幾度かの, 荘園に関する法規制の発布 行き とする政策全体を指していうのであるが, 以下, それらにつ いて, 法文に則 して順次検討して と思うが したい だけ捕捉 ,荘 たいと思う。 その際, 法の効果・ 法の発布を促 した諸条件を, できる 本稿は, 表題の如 園整理策全体の平安政治史へ の位置 づけについては将来別稿において 論じた い。 く, そのための基礎的作業たるに止 める。 95号) の指摘をみよ。 『思想』3 ) 石母田正 「政治史の対象にっ いて」( 註 1 参照 究 』 『 公家新制の研 2 水戸部正男 ) 例えば, 。 『史潮』80号) 3 ) 水戸部正男前掲書に対する拙 評( 。. 2 . 延害の荘園整理 を目 9 02 ) の荘園整理は, 同政策 の最初のもの とされて いる。 しか し大土地所有抑制 延喜2 年 ( なら する を広義に解 的とする法 令の発布は, 別に延喜2年に始まるわけの ものではない。 荘園整理 それが最初の整理と称されるゆえんは ば, 延喜以前から存在 する (後述) 。 にもか かわらず, 延喜の れた事実, その後において, 延喜整理令(格)が, 「格前」 「格後」 というように, ひとつの基準とみら 前年に その 2年といえば , それが10世紀初頭という, ある意味で劃期に当ることなどに ある。 延喜 左大臣 藤 原 時 平 で あ っ は右大臣菅原 道真が失脚 して大宰府に下っ ていた。 廟堂の中 心にいたのは ) ない1 。 た。 醍醐天皇は18歳の若年であっ て, 主体性を持っ た発言があっ たとは考え られ を知りう る 9か されて 条 3日の両日に出 1 2 と1 日 , いわゆる延喜荘園整理令は, 延喜2年3月 れ独立の 2 ) が, いま直接関連するものは 7か条である 。 7か条は, 現在 『類衆三代格』 に, それぞ ー lo -.

(3) . 平安時代荘園整理令の基礎的研究. 太政官符として伝えられて いる。 事書のみ列挙すると次の如くである。 0 ) ① 延 喜 2 年 3 月 12 日官符……応停止臨時御厨井諸院諸宮王臣家厨事(三代格巻1 ②. 同 年 3 月 13 日官符……応調庸精好事(三代格巻8). ③. 5 三代格巻1 同 年 3月 13 日官符……応勤行班田事( ). ④. 5 同 年 3月 13 日官符……応禁止田租徴穎事(三代格巻1 ). ⑤. 同 年 3 月 13 日官符……応禁制諸院諸宮及王臣家占固山川薮沢事(三代格巻1 6 ). ⑥. 同 年 3 月 13 日官符……応禁断諸院諸宮王臣家仮民私宅号庄家貯積稲穀等物事 ( 三代格巻1 9 ). ⑦. 同年3月13日官符……応停止勅旨開田井 諸院藷宮及五位以上 買取百姓田地舎宅占請閑地 9 ) 荒 田 事 (三代格巻1. 右の7か条は, それぞれ関連しあい, 以て院宮以下の大土地所有を抑制し, 班田制を維持し, 租税調庸の収取を確保しようと したものである。 ②は延暦14年・承和13 年・同14年の官符を挙げて,調庸粗悪の罪をのべ精好を命じたもので ある。 内容的には, 平安初期 以来一貫 して出されてきたものと同じであり, これがとくに延喜の 段 階で特色をもっとは認められない。 本官符の文面は, 国司と収納を掌る官司 の 「押怠」「疎略」 を責 ) め て い る の で あ っ て, 負 担 者 た る 農 民 側 は 問 題 に さ れ て い な い3 。. ④は参河国以下16国に対 して下した官 符である。 出挙本稲の少ない国では,あらかじめ宮に申 して, その年の田租を穎稲で収納 し , また封戸租を穎稲で収納することを許すが, これをよいこと 4 ) に して年料租春米 (大根米) を提出せず, また封租を提出 しない。 そこで講責を加えると, やむをえ ず不動穀を年料租春米に宛て, 正税穀 (動議)を 封租に流用する。 こうした弊害を生むからと, 田租 を穎稲で収納することを禁じた のである。 この問題は, 穎稲と穀稲の区分が厳 然としていて, 混同 ) を前提にしてのみ理解できる 本官符での主要関心は 動用 されることのない律令財政上の原則5 。 , 穀の流用と不動穀の消費をくいとめようとする点にある。 ③は, 一紀一度, 田を校 し, 授口帳を進上し, 裁をまっ て班給するよう命じたものである。 こ ) 校班田が励行されないため 不課戸が多く田曙を領 のとき班田が実行されたかどうか疑わ しい6 。 , し, 課戸が口分田をうけないという不合理,「荒熟之処逐年各異, 水陸之便随日不同」 にもかかわら ず田図に記された荒廃田のみとりあげ, 新たに墾開 した田を登録 しないので不堪佃田が増加の一途 をたどる結果を将来する。 戸籍においても 「一男十女」「無男」 というような 実態からはなれた表現 がふつうになり,「一国不課十倍見丁」 というありさまになる。 これまた 「戸田」 を貧らんがためで ある。 こう した現状を打破 しない限り, 租税調庸の収納は十分には行なえないというのが趣旨であ る。 この時代, 班田の廃絶--それは戸籍作成の不履行とあい応ずるが- -一によっ て, 租税調庸の 収取が不可能になっ たかというと, た しかに本来の令制徴税体系下のそれは不可能であっ た。 しか し, 田籍 (国図) にかわっ て桧田帳が作成されていたのであり, また 「名寄帳」 類似のものがあっ た ) 一方 この頃すでに正税出挙・調庸等が 「戸田」「営田」 の数を基準にして賦課されて 筈である7 。 , ) 政府にとっ て本来の意味での班田収授が必要だっ たかどうか 疑問なきをえ いるのであるから8 , , ない。 本来の意味での班田が行なわれた形跡のないことからゞ この法令が全く形式的な 無意味なも のだっ たと簡単に評価できないのではないか。 即ち, その実体と して, 検田帳・名寄帳の作成が励 行され営田の実態が把握できれば, 徴税には事欠かなかっ たのではないか。 ①は御厨のことである。 旬料・節料・御賛を貢する御厨は,志摩・近江・若狭以下か21国にあ り必要を満 している。 ところが頃年, 更に畿内や近畿諸国に御厨を増置 している。 その上, 王臣勢 家もこれに倣っ て国ごとに厨をたて, 多く山野を占有 して近辺の百姓の生産の 便を奪っ ている。 そ 一 11 -.

(4) . .三 猛 、 、 向ノJ部,. へ ,とも こで, 内膳司所管の厨と, 禁野さ じでいる山河池沼の ほかは÷ 切停止するぢ .らのが趣旨 でおるふ この官 縮まのちの ⑥官符と ,同趣旨の もので ある;が, 内 膳司の御厨の増 加 をも阻 止 しようとした点に 注目すべきであろう。 御厨は, いわば天 皇領 どもいらべ ぎ性質を保有ずるのであう て, これを止め ) この禁 制 ・百姓の生 産の便を奪うを停止 す ,の主たる目的 が≠ 、 ることの意義は大きいのではないか9 。 ,な い か。 即 ち, 元 る と い う 点 に あ る こ と 明 ら か で あ る が,.同 時に 次 の 如 き こ と も 考 慮 さ れ る の で は. 9 ) は, 御厨・網代の賢人について, それが 「一向潔済 3 88 ) 10月 26 慶7 年 ( .日太政官符 (三代格巻1 うな連中が二「遍満国中」 する。 勤供御事」 むべきにもかかわらず,「不択土浪人」 費人に補し,このよ′ かれらは 「心挟遁役, 寄事供御, 動凌弱民」 する ・とのべている。 御厨の増設が公役をのがれる手段 にされ, また在地におけるかれらの濫妨の権威づけともなる事情もあっ たのではない か。 ⑤は延暦3年の格を引用 し,その趣旨を徹底 せ しめんとした もの。 「山川薮沢之利公私共之」 と o )の 確 認 で あ る い う 原 則l 。. ⑦は延喜荘園整理令の眼目 とみられる格である。 第1は勅旨田のことである。 格は 「頃年勅旨 開田遍在諸国」 とのべている。 勅旨田は空閑・荒 廃地を宛てたものであるが, 百姓の産 業の便を奪 「負作」 は 「請作」 とい いかえてもよい うというので, 悉く停止して 「令民負作」 めることにした。・ わけだが, 皇室領を停止して公田-即 ち地子田とした, ということで ある。 勅旨田は 9世紀を通じ. 3 ) 2 ) 勅 旨 所 が こ れ を 管 理 した1 1 ) 経 営 に は 公 水 を 用 い1 て 発 展 した が, 開 発 料 に は 諸 国 正 税 を 宛 て1 。 , ,. 4 )が明確な主張をしている 即ち, 勅旨田の設定 勅旨田の設定と停止の意義については石母田正氏1 。 は天皇権力の基礎を強化したことであり, その停止は藤原 氏による天皇制への攻撃であっ た 藤原 :÷ , 氏 は そ の ヘ ゲ モ ニ ー を 確 立 す る た め に, 機 構 と して の 天 皇 制 を 否 定 す る こ と は で き な か っ た が,,. . 個の大土地所有者としての皇室勢力を無力化 しな ければならなかっ た。 また勅旨田は直営方式を と , っ たと推測されるが, 「腐朽 した国家機構を利用して開墾し経営するその頒廃 した構造の古さ」 はぅ によ て 一片の荘園整理令 た っ 民を して負作せしめるという方式に転換しなければ維持できなかっ 。 勅旨田がもろくも崩れ去っ た理由もそこにある, というのが石母田 氏の主張である。 これに対して S )は 勅旨田を過大に評価するのは誤 りであること, 藤原時平 が法令発布の主導権を 林屋辰三郎氏I , とっ たとは考えられないこと, 荘園整理は受領層の要望として企 図されたこ と, などを主張した。 林屋氏は, また勅旨田が空閑・荒廃田であることから考えて, 実際に どれほど開墾さ れたか疑問だ と して い る。. 以上の両氏の論で不明確なのは 「民を して負作せ しめる」 という点である。 「直営」 から 「請作」 への転換であること, それは疑問の余地はない。 しか し勅旨田は停止されたのでる。 問題は経営形 736 ) 以後, 公田 態にあるのではなくて, 勅旨田を 「公田」 とする点にある。 少なくとも天平8 年 ( 1 6 ) 地子は太政官に送進されて中央官人の 給与に宛てられて いた 。 即ち, 勅旨田の公田への編入は, 皇室財政への圧迫であり, 中央官楯財政の補強となる点に注目すべきである。 次に, 林屋氏が, 勅 旨田には空閑・荒廃田を宛てたのだから, どれほど開墾さ れたか疑問だとする点について, 少しく 地 (三年以下の不耕地) 付加すべきことがある。 空閑地は措くとして, 荒廃田の ・場合には, それが旧耕 であることからすれば, 再開墾は比較的容易だっ たのではないか。 公水を利用できる旧耕地とは旧 口 分 田 に ほ か な ら な い。. 格の第2 の眼目は,「諸院諸宮及五位以上」 のものが百姓の田地舎宅を買取り, また閑地・荒田 を占請するを禁ずるという点にある。 即ち, 諸国の百姓らが課役を逃れんために豪家に嘱し, 田地 を寄進 したと詐称 し, 又は舎宅 を売与したと号 して 「加封立層」 てる。 国筒官人はその詐りである ことを知っ ていても, 権門の勢威 を禅っ て敢てこ .れにふれない。 そ して遂には, 百姓の田地は権門 〒 12 【.

(5) . 平安時代荘園整理令の基礎的研究. の 「庄」 となり, 百姓は田地を失い他境に流冗するようになる。 一方,.代々の格は百姓の開墾を許 して い る が, 高 貴 の も の の 墾 田 は 禁 制 して き て い る。 しか る に, か れ ら は 競 っ て 土 地 の 占 請 を な し. ている。 これらは停止すべきである。 ,但 し 「元来相伝為庄家券契分明」 なるもので国務に妨げなき も の は こ の 限 り で は な い, と。,こ こ に 一 貫 して の べ ら れ て い る の は, 権 門 に よ る 土 地 所 有 の 抑 制 の. ことである。 前者は百姓の寄進による大土地所有の形成, 後者は平安初期以来の山野占請禁令に通 , 前者は 10世紀 初頭という時期において極めて象徴的な法令といいう るが 実は後者もとも ずる 。 , に, こと新しいものではなく, 法史的には, 延喜以前の諸法令を継受 しているにすぎないといえる の で あ る。. 以上の如き権門の大土地所有抑制は, 延喜荘園整理令の中 心項目とされているものであるが, 券契分明で国務に妨げなきものはこの限りにあらずとされている点は注目すべきところである。 し からば国務に妨げある土地所有とは何か。 それは格文に明らかである。 一は開墾に 当っ て 「尽土民 之力役, 妨国内之農業」 という一般的な問題であり, 一は百姓らが 「出挙之日, 託事権門, 不請正 税, 収納之時蓄穀私宅, 不運官倉」 ということである。 前者は百姓の一般的な担税能力の低下を, 後者は租税対揮の具体的事実を問題としている。 後者はことに重要だと考えるが, これは次の⑥の 格と併せ考うべきものと思う。 ⑥は 「庄家」 の問題である。 権門が諸国に田地を有 してその経営のために 「庄家」 をたて, 或 は山野を占取 してその地利を収納するために 百姓の私宅を借りて稲穀等を貯え, これを庄家と号 し て, 国司が出挙 稲を収納 しようとしても応 じない。 天平9年・天平勝宝 3年格で, 臣家の物を諸国 に貯えることは禁断されているが, 重ねて禁断する。 但 し, もとから庄家と して認められているも の や 国 務 に 妨 げな い も の は 制 の 限 り で は な い, と い う の が 格 の 要 旨 で あ る。. 4 7 37 ) とは 「臣家之稲貯蓄諸国, 貸与百姓求利 )9月21日格(三代格巻1 格が引用する天平9年( 4 7 51 ) も私出挙を禁じたも の )9月4日格(三代格巻1 交関」 するを禁じたものであり,天平勝宝 3年( である。 これを前提に して延喜格を読めば, 権門が百姓私宅などに貯えた稲穀は, それが私出挙の た め の も の で あ る と い う こ と 明 瞭 で あ る。 した が っ て こ の格は, 梅 門 の 大 土 地 所 有 そ の も の よ り も. それを拠点として行なわれる私出挙の禁止に眼目があると考えられる。 延喜格が引用 した天平9年 格は, 私出挙の全面的禁止を令 したものと して知られているが, この政策は律令国家の基本政策と , 7 ) 延喜の直前 寛平7年( ) 895 いうべきもので, 平安期にも持続された1 )3月 23 日 官 符(三代格巻14 。 , は天平9年格を引用 し 「比年, 如聞, 或王臣家出挙私物妨民農業, 因弦租税難収, 調庸未進」 との ) は5 位以上 のもの の私営 田 べ, 私出挙を一切禁断 した。 ついで寛平8年4月 2 日 官 符 (三代格巻15 を禁じ 「或寄事負累, 責取五六載券, 至千収租拒揮不輪, 賦税由之不入」 とのべている。 これは,. 私出挙によっ て百姓が田地を失うことを示 している。 延喜の格は右の寛平8年 格を継承している。 大土地所有に関する従前の格が, 百姓の産業を奪 うからとか, 農業の便を失うから禁断すると しているのに対して, 寛平格では公出挙の妨げになる とい う 点 が 強 調 さ れ て い る。 「国 務 に 妨 げな き は 云 々」 と い う の は, ま さ に こ の 点 を 指 して い る。 10. 世紀のこの時期は, 令制租税体系が変質し, 出挙地税化の過程と して, 正税(出挙) が租税体系の中 8 ){こよ っ 心に 据え ら れて く る 時 期 で あ っ た。 した が っ て, 国 家 の 関 心 は 「庄」 を 拠 点 と す る 私 出 挙1. て公出挙の運用が妨げられるのをいかに して排除するかという点にあっ たのである。 以上がいわゆる延喜整理令の内容であるが, その効果を測定することは頗る困難である。 いわ 9 )が挙示 した3例がある 第1は 延喜4年3月 大和国 ゆる荘園整理についていえ ば, 川上多助氏1 。 , )3 月 10 司が弘福寺に寺田1町4 段50歩を 「返入」 した と い う も の で あ る。 こ れ は 延 長 4 年(926 一 13 -.

(6) . 阿. 部. 猛. 2 2 4号)に拠るものと思われ, 「延喜」 は 「延長」 の誤りであろう。 第 2は, 正 ‐ 日大和国牒(平安遺文1 5 4号)に, 藤原武智磨公施入田が 「去延喜之比収公」 されたと 3 ‐ 994 )9月 9 日栄山寺蝶(同2 暦5 年( 1 2 7号)に, 丹波大山荘について 「国 ‐ 9 20 )9月11 日右大臣家牒(同1 みえるもの。 第 3は, 延喜20年( 郡司随庄家開発収公為剰田」 とみえるもの。 川上氏は 「これ等の例はいづれも 延喜2年の ,整理令の 影響と見倣すことが出来るであらう」 とのべている。 この見解は誤りではないが, 甚だ不明確であ る。 た しかに実効がともなっ たことは疑問がないけれども, 延喜格が券契分明なるものとか, 国務 に妨げなき ものといっ たとき, その規準はいっ たい何であっ たろうか。 それが明確にならなければ 法が実効をともなっ たか否かを論ずることはできないのである。 単に券契不分明とか国務に妨げあ りとかいうのなら, それ以前の大土地所有抑制の法と異ならないのであっ て, たかだか, それが大 規模に行なわ れたとか, 強力に推進されたとかいう評価に止まっ て しまうであろう。 では延喜荘園 整理令が持つ特質は 何か。 0 )の提起 した 「免除領田制」 の問題である 元来荘園が不輸 ・ ここに注目すべきは, 坂本賞三氏2 。 ・省図・官省符・国判であっ て, それに不輸と注さ の特権をうる場合, その基準とさ れたのは国図. れている田地が不輸の特権 をうけえた。 荘園成立時の不輸の範囲は官省符に示されて おり, 国図は 班田 ごとに書きかえられ, 国判は国司一代限りの効力しか持たない。 ふつう省図 (民部省図) とされ ) およびその系統のものである。 官省符荘内 るものは四証図 (天平14・天平勝宝7・宝亀4・延暦5 如く, 開発するに したがっ て収公されるとい 先の大山荘の例の の地は不輸であるにもかかわらず, 90 8 )正月 25 日播磨国 う事態は延喜以降になっ て発生 してくる。 その初見と目されるのは延喜8年( 1 9 8号)であっ て, それによると, 新開発田について国収納使が租米を勘取し ‐ 某荘別当解(平安遺文1 たというのである。 荘田は 「本田」 と 「新開田」 に区別されているが, 新開田も国図に附図さ れて いる。 にもかかわらず新開田が収公さ れたというのは, 国図以外の基礎図の存在を明らかに物語っ ている。 その基準図こそ延喜格に基づいて作成されたものに違いない, というのが坂本氏の主張で ある。 この見解に は賛意を表すべきものと思う。 後世, 延喜の荘園整理令 がひとつの基準とされた 理由も, 単にそれが全国的に行なわれた ということだけではなくて, 不輸の範囲を修正固定して, それをのちの準拠と したという点に求 められるであろう。 かくみれば, 延喜荘園整理が施行の実際 についての史料を殆ど欠きながらも, 実効をともなっ たものとして, まさに後世への影響の大 きい ものであっ たと認められるであろう。 註 1 ) 公卿補任によると, 整理令発布時の廟堂の構成は次の如し。 左大臣~藤原時平, 右大臣~源光, 大納言~藤 ,参議~藤原有実・同清経・十世王・源癌・同昇・在原友千・ 原国経・同定国, 中納言~源貞恒・藤原有穂, 長谷雄 平惟範・紀 2 ) 3月 13日に 「応聴交替一度延期事」{三代格巻5)と 「応依式修造前司時破損官舎駅家器杖池堰国分二寺神社 ) の両格が出ているが, これを省く。 事」(政事要略巻54 ) 3 ) 調庸粗悪の問題にっいては, 拙稿 「桓武朝における地方行政の監察」(古代学協会編 『桓武朝の諸問題』 ,同 ) 参照。 「八~十世紀における寺院の造営形態」{昭史会編 『日本歴史論究』 『日本歴史』187号) 「 官簡領の成立過程」( 拙稿 ) 4 ) 薗田香融 「出挙」{大阪歴史学会編 『律令国家の基礎構造』 , 参照。 7号) 『日本歴史』16 5 ) 八木充 「古代稲殻収取に関する二, 三の問題」( , 同 「律令制における田祖」(歴史学研究 } 別冊 『現代歴史学の課題』 。 22頁。 66頁, 虎尾俊哉 『班田収授法の研究』3 』3 6 『 班田収授制の研究 ) 今宮新 0号) の 「播本帳」 の如き。 本史料の解釈にっいては, 拙稿 「摂 -24 7 ) 承平2年9月22日丹波国牒 (平安遺文1 ) 参照。 関期における徴税体系と国筒」(古代学協会編 『摂関時代史の研究』. - 14 -.

(7) . 平安時代荘園整理令の基礎的研究 『古代文化』9-4 ) 参照。 8 ) 薗田香融前掲(註4)論文, 拙稿 「青苗桧考」( 9 ) 但し御厨は内膳司領としての性格も有するのであって, ①格は官極領の形成を阻止する役割を担ったとも評 価 で き る。. 0 7‐1 『史学雑誌』6 1 0 ) ) 島田次郎 「九~十三世紀における私領の形成と鎌倉幕府法」( ,戸田芳実 「山野の貴族的領 9号) 弥永貞三 「 『ヒストリァ』2 律令制的土地所有 岩波講座 『日本歴史』3 」( ) 参照。 有と中世初期の村落」( , 9・田地条。 11 ) 類票国史巻15 4・大同元年7月7日条。 12 ) 日本後紀巻1 13 ) ) 角田文衛 「勅旨省と勅旨所」(古代学協会編 『桓武朝の諸問題』 。 1 4 ) 石母田正 『古代末期政治史序説』 第1章第1節。 } 『古代国家の解体』 15 ) 林屋辰三郎 「院政政権の歴史的評価」( 。 4号) 『書陵部紀要』1 1 6 ) 菊地康明 「公田賃租について」( 。 1 7 ) ) 吉田晶 「八・九世紀における私出挙について」(大阪歴史学会編 『律令国家の基礎構造』 。 8年( 876 72号)を挙げ 1 8 )近江国愛智荘定文(平安造文1‐1 ) 「庄」 を拠点とする私出挙を示す史料として, 貞観1 る こ と が で き る。. 1頁。 1 9 ) 川上多助 『日本古代社会史の研究』34 20 『歴史学研究』255号) 『日本 ) 坂本賞三 「平安期における荘園内治開田について」{ ,同 「免除領田制について」( 73号) 2号) 『歴史学研究』2 6 歴史』1 。 , 同 「延喜荘整理令の性格」(. 3 . 摂関期の荘園整理 984 永観2年の整理令 永観2年( )11月 11日に 「停止格後庄園」 する格が出された(日本紀略・ 後篇 8) 。 文中の 「格」 は延喜2年格を指す。 即ち, 花山朝永観の整理は, 延喜以後の新立荘園を対 象としたものである。 延喜格を継承する永観格が勅旨田にふれたであろうことも 容 易 に 考 え ら れ る。 永観2年12月 8 日,円融院の封戸・勅旨田のことが定められたというが (小右記) その内容は全 く つから な い。 しか し, そ れ が 荘 園 整 理 の 一 環 で あ る こ と は 推 測 で き る。 と こ ろ で そ れ よ り 3 日前 7 ) が出され,そのうち1か条が現 の 12月 5 日 「応勤行雑事式箇条事」 という太政官符 (政事要略巻5 在知られている。 諸国の大帳の記載する不課および半輸のものを調査し 「増益課丁」 することを命 じたものである。 これまた荘園整理と目的を同じくする。 花山朝2年間の実質的な政権担当者は, 天皇の外叔父藤原義懐で, 政策が彼より出たこと明ら ) したがっ て そ かである。 彼は廟堂において孤立した存在であり, 天皇出家とともに失脚 した1 , 。 ) の 政 策 の 効 果も 疑 わ しい2 。. 長久元年の整理案. 1040 ) に新立荘園の停止が議された。 史料は専ら 後朱雀天皇の長久元年 (. 『春記』 に拠るが, その経過は次の如くであっ た。 5月 2 日, 先ず諸国荘園停止のことがとりあげ られ, 関白頼通は奏上 し,「当任以往一両代以来新立庄園等, 長可随停廃, 若有阿容之心者, 課以違 勅之罪トヤ可被仰幾, 格後庄園可停止之由, 度々有官符宣旨, 然而一切無停止, 高家権門責陵国司, 或叉公文勘了之谷敷, 大非常也, 唯一両代以後庄園誠可禁止」 とのべた。 これに対して天皇は,「庄 園事指一両代, 為後代可在其難, 唯近代以来庄園長可停止, 若有容隠者, 可解却見任, 叉百姓之中 有募立之輩, 国司髄可召進其身之由可宣下歎」 といい, 頼通も賛成した。 そ して8日に, 天皇から 「庄園事国司所申請, 其任以後庄園可停止之由所申也, 依請可停止, 但国司猶有阿容不申事由, 井 」見任, 又百姓等中有募立 之輩, 国司槌長可追却其国境之由等同可仰下也」 と 不加制止之輩, 不解劃 の案が出された。 以上の経緯を整理すれば, はじめ頼通案では, 国司の当任以往一両代以来の新立 荘園を停止しようとしたのに対して, 天皇はその範囲を拡大し,「近代以来庄園」 を停止 しようとL ′ た。 と こ ろ が 8 日の案では, はるかに後退し, 当任以来の荘園を国司の申請によっ て停止する, と 修正された。 この間の事情は不明である。 荘園整理の企ては, これによっ て骨抜きになり, 公布さ - 15 -.

(8) . 阿. 部. ・猛. れても実効うすいものとなっ たであろうが, こ ・れが公布された証拠は現在のところ見出せない。 ) に 整 理令 が 出さ れた が そ の 文 は 現在 次 の 1045 )10月 21 日3 寛徳 2年の整理令 寛徳2年( , , 部分が知られる。 「内大臣宣, 奉勅, 停止前司任中以後新立庄園, 若不遵符有違犯輩, 国司解却見任, 永不薮用, 0年7月1 3日条) 「庄園之制, 先格所存, 後符頻下, 而時 百姓将処重科, 敢不寛宥者」(勘仲記・弘安1 代推移, 人心矯逸, 無恐憲法, 窓致濫吹, 或貧吏好利者, ト便宜構私地, 或平民顧己者, 寵膏腕失 6 8 1号) - 公田, 自国侵権勢威, 忽諸国郡事, 如此之漸, 国之彫弊也」(平安造文3 1050 ) 7月 21日太政官符案(同上月こよ この格の実効力を測定する史料は乏 しいが, 永承5年 ( れば, 余り効果をあげなかっ たとみられる。 右官符所引和泉国司奏状は 「前司季定任終, 去年之冬 遷替, 今春之所立加庄園五六箇所, 叉目本庄園所加菟寄人三百余 人也」「前司季定乍存此符, 猶以加 覚」 といっ ている。 これを更に明瞭に示すのは治暦元年太政官符(勘仲記・弘安10年7月13日条) 所引越中国解で,「髪寛徳二年以後庄園前司中依符旨悉所停止也, 而及得替期更以興立, 叉臨任終年 新 叉 加 立」 と い っ て い る。. 寛徳2年格は, その後ひとつの基準と して, しばしば史料に現われるのであるが, その理由は 必ずしも明らかでない。 ひとつの特色は,前司任中以後の新立荘園停止という原則の定立であろう。 即ち, 寛徳整理令は, 直接には短 期間の新立荘園を対象と したものである。 約150年を経た延喜格 を基準とすることは現実的でなく, 新しい原則による荘園整理令が要請されたのである。 また, 寛 徳格の原則に拠る永承5年官符が 「寄人」 のことを問題に している点は注目に値いする。 5 105 ) 3月 13日に, 寛徳2年以後の新立荘園を停止する格が出 天喜3 年の整理令 天喜3年 ( 4 ) た 。 現在知られる格文は次の如くである。 「右大臣宣, 奉勅, 宜仰諸国, 寛徳二年以後庄園, 且加禁逼永令停止, 且所好立之輩勘録子細 召進其身, 若致対禅, 早不参上, 槌注姓名須注言上, 国司且忘符旨無心勤行, 解却見任永不敏用」 0年7月 13日条) (勘仲記・弘安1. 即ち, 天喜整理令は, 寛徳以前の荘園を対象からはず し, 以後約10年間の新立荘園 を対象と し たものであっ た。 文の後段一対禅のものの交名を注進せしめるという点は旧令にみえないもので, 1058 )正月 8 天喜格の特色とすべ き点である。 天喜格文を引用する史料は他にみないが, 天喜6年( 1号) が引用する天喜3 年宣旨の文, 「寄事於寺社, 以公地謀成庄園之 8 8 - 日伊賀国司庁宣 (平安遺文3 輩, 早進摘其身, 若其力不及者, 可注申姓名之由, 奉行先了」 というのは, 天喜格の内容 を別な形 で伝えているものである。 天喜3年の方針はその後の整理令に引継がれて おり, 寛徳以後新立荘園 ) 停止は以後の原則であっ た5 。 1 0 6 9 延久元年の整理令 後三条天皇即 位の翌年, 治暦5年( ,4月改元延久)に, 寛徳2年以後の新 立荘園を停止する, いわゆる延久の整理令が出た。 のちに愚管抄は 整理令公布の理由を,「諸国七道 ノ 所 領 / 宣 旨 官 符 モ ナ ク テ 公 田 ヲ 椋 ム ル コ ト, 一 天 四 海 ノ 巨 害 ナ リ トキ コ シメ シ ッ メ テ ア リ ケ ル ハ ス ナ ハ チ 宇 治 殿 ノ 時, 一 ノ 所 ノ 御 領 トノ ミ 云 テ, 庄 園 諸 国 ニ ミ チ テ 受 領 ノ ッ トメ タ ヘ カ タ シ」 と の べ て い る。. さて延久整理令の本文はいま伝わ らないが, のちの幾つかの史料に部分的に引用されているの で, そ れに よ っ て 知 る こ と が で き る。. 「勅, 止寛徳二年以後新立荘園, 縦難彼年以往, 若券契不分明, 於国務有妨者, 同停止之」 , (扶桑略紀・延久元年2月 23日条). ④ ⑩. 「 (依今年二月 廿二日官符井同年四月十六日府符 同八月 廿三日到来庁宣云) 神社仏寺院宮王臣 - 16 -.

(9) . 平安時代荘園整理令の基礎的研究. 家諸庄薗, 或停止寛徳二年以後之新立庄, 或嫌傍偽地相博腐敗, 或窓駈平民寵隠公田, 或無定 1 0 3 9号) ‐ 坪備庄, 或諸庄薗所在領主, 田畠惣数, 槌注子細可経言上之由, 被下宣旨」 (平安遺文3 「 「 (治暦五年三月 廿三日下五畿内七道諸国官符儀)寛徳二年以後新立庄園永可停止」 加以雑往 ◎ 1 0 4 1号) - 古庄園, 券契不明有妨国務者, 厳加禁制, 同以停止」 (同3 ◎. 「可停止寛徳二年 以後新立庄園, 縦難彼年以往, 立券不分明, 於国務有妨者, 同停止之由宣 下」 (百錬抄・延久元年2月 23日条). }2月 23 日~④◎, 回 3月 以 上 ④ ~ ◎ に お い て, 先 ず 日 付 の 違 い が あ る。 ”)2月 22 日~⑩ 口 23 日~◎ となる。 後世の編纂物である ⑧◎ を一応措いて, ⑩ と ◎ の関係如何が残る。 これは内. 容の検討に拠るほかはない。 ⑩ の内容は ① 寛徳以後新立荘停止, ② それ以外で も 引 用 文 の 諸 項 (或-或-を指す)に該当するものについては, 田畠惣数 を注進せしめる, となる。 ◎ は ① 寛徳 以後 新立荘停止, ② 券契不分明なもの, 国務に妨げあるものは停止, となる。 ⑩◎ を比較す ると, ① は 共通の大目的であり, ② は具体的内容を示す。 ⑧ の ② と ◎ の ② をくらべると, 前者が後者の準 備指令であること明らかである。 とすれば,2月 22 日に荘園整理の方針が示され,3月 23 日に具体 的内容が公布されたと理解できる。 また ⑯◎ の内容は ⑧ に同じであるから, 扶桑略紀・百錬抄の ) 記事は3月 23 日官符を2月 22 日 に か け 誤 っ た も の と 考 え ら れ る6 。 延久整理に際して記録荘園券契所 が設置されたことは周知のところであるが, 設置年月 は不明 0月 である。 記録所の活 である。 百錬抄(第5)は延久元年閏2月 11日にかけるが, 同年の閏月 は1 1 4 0 3号)む 【 こ 「記録庄園券契所去正月 廿 動を示す初見史料は, 延久2年2月 20 日太政官符 (平安遺文3 ) 六 日 勘 奏 俗」 と み え る も の で あ る7 。. 4 ) の文は 延久整理に当っ て, 頼通の拒否にあい藤原氏の所領を対象から外したという愚管抄( 有名だが, 後述の如く, これは史実に反するようである。 しかし, 玉葉に 「延久記録所者, 被下庄 園券契, 勘文書偽許也」 (建久6年9月2日条) とあり, 延久整理がたいした効果をあげなかっ たとい う評価は鎌倉初頭頃にはあっ たのである。 藤原氏の荘園も整理の対象となり文書を提出した積極的 証 拠 も あ る。 後 二 条 師 通 記(承徳3年5月16日・6月13日条) に よ る と, 師 通 が 父 師 実 を 訪 い 「庄 園 事. 等」 を問い 「庄薗文書, 後三条御時 勢 依召所進也」 ということを聞いている。 師実は頼通の長子 ) に 「所領濫鵬者委見 1253 )近衛家所領目録8 であるから, 愚管抄の記事は疑わしい。 また建長 5年( 延久二年十月六日進官目録」 とあるのも証拠たりうるであろう。 次に, 延久整理の実施を示す史料 を列挙する。 1 0 3 9号) - ①格に基づき観世音寺領碓井封田坪付を提出(平安遺文3 ,,②格により東大寺領玉滝袖の 4 1 0 3号) 1号) - 1 0 4 - 本公験提出(同3 , ⑨記録所勘奏に基づき感神院に山城国愛宕郡の所領田 畠安堵(同3 1 4 4号) 0 ‐ ④弘福寺領近江国諸荘坪付提出(同3 ,⑤東大寺領美濃国大井・茜部両荘加納田畠を国司収公 9・4 640号) 9463 04 8・1 06 0号) 再 調 査 し 免 除(同3‐1 , ⑦記 録所勘 奏 , ⑥ 興 福 寺 大 和 国 雑 役 免 坪 付 作 成(同 ‐. 1 0 5 8号) - に基づき紀伊国薬勝寺領の田畠寄人 免除(同3 ,⑧記録所勘奏に基づき石清水八幡宮領につ き 1 1 9号) 7 1 3 0 8 3 - ‐ 号 ) 杵島郡中津荘収公(同4 ( 同 ⑨観世音寺領肥前国 免除・収公を定め宮寺に通報 , さて荘園整理の実際の手続きは, 例え ば延久3年6月 30 日 太 政 官 符 案 {同3-1060・1061号) に よ ると, 東大寺領大井・茜部両荘の場合次の如くであっ た。 先ず記録所は東大寺より両荘の坪付・ 解 状を徴し, ついで国司解状を徴して意見を聞き, 両者の主張について裁定を下し, それを太政官符 ) するのである そして新たに四至層示し確定する として寺家および国司に通告9 。 。 次に, 延久整理令の眼目は前掲 ⑩ に示されて いるが, 特色とみるべきものは以下の5 項目に要 約 で き る。. - 17 -.

(10) . 阿. 部. 猛. ①は 「窓駈平民寵隠公田」 即ち加納・寵作・出作田の整理である。 東大寺領美濃国大井・茜部 荘につき, 国司は 「件両庄本免田各廿町之外, 寵作公田フ 十八町余, 各称庄田不随国務」 とこれを 1 0 4 6号) - 収公した(同3 。 著名な石清水八幡宮領の場合にも, 本免田畠は免除されたが, 加免・新免 1 0 8 3号) 同3 - ( た 田は収公され 。 ②は 「無定坪備庄」 即ち浮免田の整理である。 石清水八幡宮領の場 合, 和泉国放生米代荘浮免田 40町と同国山本浮免田 3町が停止された(同上) 。 興福寺領大和国雑役 免荘の坪付が注進さ れたことは周知の事実だが, 浮免を整理の対象としたのは, 元来浮免は坪が定 まらず年々浮動するものであり国街の支配も安定しないからであろう。 したがっ て, 延久整理は浮 免の定免(定田) 化を促進する効 果を持っ た。 東大寺領雑役免(浮免)荘が坪を定め(方付) 定免化する o ) の が 院 政期 な の は そ れ を 証 す るl 。. ③は 「嫌焼イ角地相薄縞厭」 即ち相博のことである。 石清水八幡宮領河内国 矢田荘での実例があ る (同上) 。 但 し, ここに 注意すべきは, 相博一般ではなく, 荘田と公田の相博が対象となっ たと思 角」 を 以て 「縞腕」 にかえるというのは, 荘園間の相樗ではあるまい。 もし われることである。 「傷ィ そうなら, 国にとっ ては何らの影響もなく, 停止せねばならぬ必然性はないからである。 1 ) 整理令が寄人についてその本文に記 していたか否か分 ④は寄人の臨時雑役免除の件である1 。 明でない。 しかし関係史料によると, 寄人も審査対象に入っ ていたことは明らかである。 紀伊国名 1 0 5 8号) - 草郡三上院田寄人20人を免除(平安造文3 , 石清水八幡宮領では, 山城国久世郡・和泉国放生 米代荘・同御香園・美濃国泉江荘・丹波国氷上郡安田園等で寄人が問題にされている。 放生米代荘 では寄人40人で, 2 人を除き他は 「構入公民等」 たものだという。 寄人を停止する所以は, 右の 「構入公民」 という点, 即ち公 ,民が寄人と称し (また実際に寄人となり) 課役を免れようとする傾向の あること, また 「寄人住人等龍作公田, 不従国務」 とか 「 (神人) 作人偏募神威, 龍作公田不餅済所 当官物」 とい つれ る よ う に, そ れ が 加 納 ・ 出 作 田 に か か わ る 点 に 存 す る(同3-1083号) 。 1 4 0 8号)所引東大寺奏状に 「桑畠者, 従 ‐ ⑤は畠地の問題である。 延久2年7月 24 日官宣旨(同3 今年可国領者, 被尋問国司之処, 於畠条者, 依去年二月 廿二日官符, 所検注也」 とある。 畠地の丈 2 1 4 7号) という国例の存在も主張 ‐ 量については,12世紀においても 「於畠者, 更非国司所知」(同5 2 ) さ れているが, 延久整理令で, すでに畠地をも丈量の対象とする原則は確立さ れていたのである1 。 承保2年の整 理令 承保2年( 1075 )閏4月 23 日, 「寛徳二年以後新立庄園等可停止」 と整理令 1 1 1 8号} が出され, 東大寺領美濃国大井・茜部両荘は収公されんとした(同3 - 。 承保2年官宣旨案 (同 3 1 1 2 2号)所引東大寺奏状には 「寛徳以後新立庄園永従停止 加納田畠者, 不論起請前後, 一切禁掲, ‐ , 1 2 5号)に は 「縦難起請 以前之庄園, 1083 目録子細可言上事由」 とあり, 永保3年( - 0 )伊賀国司解(同4 有妨国 務者, 早随停止」 とも伝えられている。 これらを合せると, 承保整理令は, ①寛徳以後新立 荘停止, ②加納田停止, ③国務に妨げあるもの停止, を内容とし, 延久整理令の 継承であろうと推 測 で き る の で あ る。. ・ 以上摂関期の整理令を通観するに 通説の如く 延久令が劃期的なものであることが確認され , , る。 従前の整理令が専ら国家と荘園領主の関係で処理さ れ, 券文の審査に中心があっ たのに対して 延久のそれが, 当時の荘園の在り方を把握し, それに対拠しようとする現実的な施策であったこと a ) ・ が 認 め ら れ るl 。. 誌 . 1 ) 拙稿 「平安政治史上における花山朝の評価」{ -1 ) 『北海道学芸大学紀要』 第1部 BII 2 1032 1日, 後一条天皇から藤原実資に,権門の荘園にっき意見を求められたが, 実資は, 関 ) 長元5年( )正月 1 白頼通に仰せらるべき由を奏した (小右記) 。 他に史料なく不明だが, 計画も立てられずに終ったのであろう. - 18 -.

(11) . 平安時代荘園整理令の基礎的研究 6頁) (川上多助 『日本古代社会史の研究』34 。 3 ) 川上氏は永承5年官符案をみなかったので, 整理令の公布を,正月18日後朱雀天皇崩御後とのみ推定してい る(前掲書) 。 4 『律令制と貴族政権』 ) 竹内理三氏は, 治暦3年2月 6 日官符によって,天喜2年3月にも整理令が出たとする( 令停止寛徳以後新立荘 3 6号)とい 76頁) 「 去天害二年三月蒙官符 」( 平安造文 右官符の文は -101 第 江 部3 , 。 うのである。 但し傍証著なく, また右宮符は『紀伊続風土記・附四』所収のもので, 誤写の可能性も大きい。 1 065 『古代国家の解体』211頁) 5 )に荘園整理令が出されたの如くのべている( ) 林屋辰三郎三郎氏は, 治層元年( 。 3日条)に拠るので 氏は史料を示していないが, たぶん治暦元年9月 1日太政官符(勘仲記・弘安10年7月 1 あろう。 しかし右官符は全国的に公布された, いわゆる荘園整理令ではない。 93頁。 6 ) 竹内理三前掲書(註4)3 7 ) 宮川満氏は, 記録所の上卿・弁・寄人の構成を考えて, それが反摂関派貴族・受領層によって占められてい 「延久の荘園整理について」 滋賀県立短大雑誌1‐1 たとし, 延久整理の推進主体をまたそこに想定した ( ,但 し未見。『図説日本文化史大系』 平安朝・下の林屋辰三郎氏引用による) 。 しかし, 管見によると,そのような 適確な史料は見当らなかった。 45号)所引。 8 『日本歴史』1 講座日本荘園史・第26講」( ) 竹内理三 「 . 108 3号) は 9 ) 石清水八幡宮領につき, 記録所での審査の詳細を記した延久4年9月5日太政官符 (平安造文3‐ 2 3 5 8 以下 「 西岡虎之助 これについては 川上多助前掲書( 註 ) 後三条天皇の荘園整理政策 著名である。 頁 , , 『荘園史の研究』 下巻1)に詳しい。 下の石清水八幡宮寺領荘園」( 1 0 ) 竹内理三 『寺領荘園の研究』 , 渡辺澄夫 『畿内庄園の基礎構造』 , 拙著 『日本荘園成立史の研究』 など。 「加地子領主, 本所領家の権威にかくれて 1 1 「 の注申をも命じている 竹内理三氏は ) 延久整理令は 所在領主」 。 「 園制 としている( 平家及び院政政権と荘 」(歴史学研究225号) いる在地領主のこと」 。 1039 1 1 丈量した例として長暦3年( 12 )黒田新荘矢川中村夏見公畠取帳を掲 永原慶二氏は 世紀に国筒が畠地を ) 1134 4頁) 『日本封建制成立史の研究』22 )7月付のものである (平安遺文5 げているが( - , 右史料は長承3年( 2303号) 。 13 『真説日本歴史』3・貴族と荘園) ) 拙稿 「寄進地系荘園と荘園整理」( 。. 4 . 院政期の荘園整理 寛冶 7年の整理案. 109 3 )3月 3 日, 白河上皇は内大臣師通に荘園整理について諮問 寛治7年(. した(後二条師通記) 。 その案は, 延久以後新立荘を停止するか, 又は応徳以後・寛治元年以後, この 丈儀可被定申欺」 と答え いずれにするかというのであっ た。 師通は整理令公布には賛意を表し 「於1 . 朝弄無極,受領八年任巡不被留云々」 た。 しかし頭弁は 「更不可相叶云々」 「国司密々皆実所被立也, ) との べ た と い う。 史 料 を 欠 き 不 明 だ が, こ の と き の 公 布 は 沙 汰 や み に な っ た の で あ ろ う1 。. 康和元年の整理令. 1099 康和元年 ( ) 5月 12日 「新立荘園停止」 の宣旨が出された (後二条師通. 0号, 天仁2年9月26日官勘状案所引)の 事 書 が 知 ら れ て い る 71 平安遺文4 -1 記) 。 。 一 方,6月 22 日 宣 旨 案(. 即ち,「応不論神社仏寺権門勢家領任国司経申旨早停止 寛徳二年以後新立庄園井加納田畠等事」 とい 1 4 2 9号)に東寺領丹波国大荘につき, 国司高階為 ‐ うのである。 また康和 2年5月 23 日官宣旨案(同4 ) 「 章が 因准寛徳以後新立庄薗, 不弁古今理非, 致収公」 といっ ている2 。 殿暦・中右記天永2年9月条 ( ) 2 1 1 1 天永2年の記録所設置 天永 年( 1)記録所が設置された 。 9月 3 日記録所の上卿・弁をおくことを白河上皇から仰せ出され, 摂政忠実もこれに賛意を表 した。 9. 日に定められた記録所の構成は次の如くであっ た。 上卿~権中 納言藤宗忠, 排~蔵人左少緋雅兼, 寄人~六外記師遠・大夫史盛仲・明法博士信貞・ 六位史友貞・勘解由次官行盛 , 「是依延久之例被仰下」 というのであっ たが, その職掌は違っている。 天永記録所は 「国司与 本家相論之時, 可検知云々, 不申上者, 強不及沙汰敷」(中右記天永2年9月9日条)とされている。 10 一 19 -.

(12) . 阿. 部. 猛. 月 5 日に実際の事務が始まっ た。 延久記録所と同様, それは 「以太政官朝所,為其所」 した (中右記) 。 1 114 )8月 14日記録所勘 この記録所の活動を示すものと して,東寺領丹波大山荘に関する永久2 年( 1811・182 2号) - 奏 が あ る(平安遺文5 。. 11 56 )7月 に保元の乱が起り, その直後閏9月 18日, 新制7か条 保元元年の整理令 保元元年( が出された。 いわゆる保元整理令である。 兵範記同日条に全文が記されている。 以下内容を逐条み て いく。. 「可令下知諸国司, 且従停止, 且録状言上, 神社仏寺院宮 諸 家 新 立 庄 園 事」 ~久寿3年 1155 )7月 24 日以後 (後白河即位後) 宣旨を帯びずに立てた荘園を停廃 し注進せ しめる。 国司が容隠 ( ①. し上奏せぬ場合は解任 し, 違勅の罪に処 し , 子孫に至るまで任用 しない。 ② 「可令同下知諸国司, 停止同社寺院宮諸家庄園本免外加納余田井庄民濫行事」 ~右の社寺 以下の荘園の本免は, 官省符にのせ, 或は勅免地と して四至坪付は券契に分明である。 ところが, 加納・出作と号 し, 本免田以外の公田を押領 し , 率法を減じて官物を対拝する。 また在庁官人・郡 司 ・百姓を荘官に補任 し寄人と し , ほ しいままに 「募名田」 り課役を遁避する。 国司は荘園側とと もに加納田を注出 し, 濫行を停止 し , 国務に従わ しめよ。 も し理非をわきまえぬものあれば, その 状跡に したがっ て荘号を停廃 し, 荘司を召取り, 検非違使を遣わ し礼弾する。 但 し宣旨や白河・鳥 羽院庁下文を帯するものは, 領家は証文を進上 し天裁を待て。 ③ 「可令且下知本社且諸国司停止諸社神人濫行事」(伊勢・石清水・加茂・春日・住吉・日吉・ 祇園の7社宛) ~神人の定員が定まっ ているのに, みだりに公民を神人に補任する。 本神人の交名 および証文を注進 し, 新神人はこれを停止する。 ④ 「可令仰本寺井国司,停- 止諸寺諸山悪憎濫所事」(興福・延暦・園城・熊野・金峯山の5寺) ~悪憎らが, 僧供料と号 して出挙の利を加増 し , 或は会頭料と称 して公私物を掠取するを禁止する。 ⑤ 「可令下知諸国司停止国中寺社濫行事」 ~諸国の寺社が或は霊飼の末と称 し , 或は権門の 「所領社」 と号 して数千の神人を補任 し, 巨多の講衆 を定めて威を振い, 国務を妨げ, 郷村に横行 し国街を責煩する。 これを停止 し , も し好濫せば交名を注 し法に任せ決断せよ。 ⑥ 「可令下知諸社司, 注進社領井神事用途事」(伊勢・石清水・加茂・松尾・平野・稲荷・春 日・大原野・大神・石上・大和・広瀬・龍田・住吉・日吉・梅宮・吉田・広田・祇園・北野・丹生・ 貴布称の22社)~諸社司らは好んで公田を奪い神領とな し,最少の上分 しか供えず広博の地を奪う。 そこで, 社領と社用途を注進せしめることとする。 ⑦ 「可令下知諸寺司注進寺領井仏用途事」(東大・興福・元興・大安・薬師・西大・法隆・延 暦・園城・天王寺の10寺)~⑥と同趣旨である。 以上7か条であるが,諸社・諸寺には個別に宣旨が出されたものと思 つれ る。 閏 9 月 23 日 に 住 1号) ま た 翌 保 元 2 年 3 月17 285 吉 社 に 宣 旨 が 出 さ れ た が, ③ ⑥ の 2 か 条 の み 記 して い る(平安遺文6- 。 3 ) 87 6号) 「 日 に, ⑥ ⑦ を 除 い た も の を 雑 事 五 箇 条 」 と して 公 布 し, 重 ね て 励 行 を 命 じ て い る(同6-2 。. 保元の場合も記録荘園券契所が開設された。 愚管抄は, 延久の例に倣っ て設置 したもので, 信 西父子の主導するところといい, 今鏡も 「記録所とて, 後三条院の例にて, かみは左大将きむのり 弁 三 人, よ り 人 な ど いる 、物, あ ま た お か れ 侍 り て, 世 中 を した 〉 め さ せ 絵」 と の べ て い る。 ま た 平. 治物語は, 信西が 「保元元年ヨリ以来ハ, 天下大小事ヲ心ノ儀ニ執行テ, 絶タル跡ヲ継, 廃タル道 ヲ起シ, 延久ノ例ニ任テ, 大内ニ記録所ヲ置, 理非ヲ勘決ス, 聖断私ナカリシカ バ人ノ恨モ不残, 世ヲ淳素ニ帰シ, 君ヲ尭舜ニ致奉ル, 延喜天暦ノ ニ朝ニモ不堪, 義懐・惟成ガ三年ニモ超タリ」 と 讃 え て い る。 - 20 -.

(13) . 平安時代荘園整理令の基礎的研究. 記録所設置の年月 については, 百錬抄・皇年代記・帝王編年記などは,いずれも保元元年10月 20 日とし, 醍醐雑事記は2年5月としている。 従来これらによっ て設置年月は不明とされており, 川 )両氏も 単に保元元年閏9月 18 日 の 宣 旨(新制7か条)以 後 と の み い わ れて い る。 )・竹内理三5 上多助4 , ) に は こ の 日 記 録 所 寄 人 の 宣 下 が あ っ た と して 12 人 の しかし, 兵範記の保元元年10月 13 日 条6 , , 名を記した宣旨 が掲げられている。 これによると, 記録所の設置は10月 13 日 以 前 と い う こ こ と に な る で あ ろ う。. 記録所の構成につ いては, 上卿 が権大納言左大将藤原公教である こと今鏡の記するところであ る。 弁官は3人で, 権右中弁藤原惟方・左少弁源雅頼・右少弁藤原俊憲たろこと, 醍醐雑事記 (巻8) 0月 1 3日条)に み え る。 寄 人 に つ い て は,醍 醐 雑 事記 は 21 人 と し,玉 葉 (文治3年2 や 兵 範記(保元元年1. 2人だっ たと思わ 月5日条)は12人としている。 兵範記の記すところは12 人で,少くとも設置時は1 ) れ る7 。. 文章博士越後権介藤原長光・大炊頭兼大外記主税権助助 教備中介中原師業・修理左宮城判官兼 主計頭左大史算博 士能登権介小槻師経・治部権少輔兼摂津守藤原俊経・諸陵頭兼算博士長門介 三善行康・助 教兼越後介中原師元・散位小槻永業・直講兼周防介清原頼業・右大史三善為信・ 西市佐惟宗 成直・修理右宮城主典明法博士兼 左衛門大志坂上兼成・防鴨主典明法博士兼右衛門 2人) 少志中原業倫 (以上1 さて次に, 保元整理令の特質と 効果について簡単にのべてみたい。 新制第1条にみる如く, 停 止すべき荘園は久寿2年7月 24 日以後の宣旨を帯びぬもののみである。 即ち,新制公布の保元元年 閏9月 18日までの1年余の間の新立荘園のみである。 保元整理令が 「従来の荘園を停止するより ) 」 と評される所以である。 しかし宣旨によ も,将来の新立荘園を防止する効力に重きを置いたもの8 「 なか た 今日政 っ 。 兵範記に っ て立荘することは制限をうけ , 左衛門尉平康俊, 丹後国私領申成不 2日条)とある如くである。 1月1 輪租田之官符也, 勅定危急被仰下云々, 猶不可為後例歎」(保元2年1 第2条の出作・加納について, その実際を示す史料は多い。 東大寺領伊賀国黒田荘民が公田を 寵領し, 公田を寺領と称し, 段別3 斗の官物を遁避し雑事を対揮すると訴えた在庁官人の解(平安遺 2865号) の 提 出 は, 新 制 第 2 条 の 実 施 に よ っ て 惹 起 28 60号)と, そ れ に 対 す る 東 大 寺 の 反 論(同6- 文6-. されたものである。 第 1条が荘園の 券文を審査する, いわば荘園領主レベルでの 「整理」 であるの に対して, 第2 条は荘園現地での実検を必要 とするものである。 そのための書類は, いうまでもな く坪付・検注帳で ある。 もちろん第 1・第2 条は併行して行なわれる。 政府は先ず荘園領主に対し 2 8 8 9号) は東大寺に尾張国大 成荘の 「公験証 ‐ て文書の提出を求める。 保元2年6月 29 日宣旨(同6 文正文」 の進上を命じ, 「若加催之後, 空過廿箇日者, 処無証拠, 可勘決」 といっ ている。 東大寺は 2 8 9 9号)・ 2 8 9 8号)・播磨国荘園文書(同6 - 2 8 9 - 7号)・摂津国荘園文書(同6 ‐ 大井・茜部両荘関係文書(同6 2 9 5 7 2 2 4号)・下野国荘園文書(同6 - 9 2号}・山城国泉木屋文書(同6 - 2 9 0 - 筑前国観世 音寺領荘園文書(同6 2 9 7 3号} 同6 - 号} 等の文書類をはじめ, 諸国の文書を提出している( 。 提出先は記録所であり, 記録所 2 0 4号) 9 ‐ 寄人の文書請取状が東大寺に渡 されている(同6 。 要がある。 宣旨を下して, 田畠検注 ためには現地について検注する必 納・出作の実態を知る 加 の官使が派遣される。 不輸免の官符・宣旨のある土地につ いては, 証文等を期限を切っ て進上させ 2 1号) 2 9 - るが,進上せぬときは田畠地利を弁済せしめる--即ち収公する(同6 。 保元2年4月 東大寺 2 9 2 2号)・同日安祥寺領 6 2 9号}・3年5月10日勧修寺領田畠検注帳(同 ‐ 8 7 - 領山城国笠置荘 検田帳(同6 2 4 9 3~5号)等はこのとき作成されたも 2 - 2 9 3号).3年8月醍醐寺領坪付(同6 - 寺辺田畠在家検注帳(同6 2 9 1 9号) - のである。 検注は,領主側の使者と官・国筒使とがともに現地に 臨み行なわれる(同6 。 した 1一 一2.

(14) . 阿. 部. 猛. が っ て, 検 注 帳 に は, 寺 使 ・ 図 師 ・ 郷 司 ・ 国 使 ・ 宮 使 の 署 名 が 加 え ら れ て い る(同6 92 2・2 23号) 9 -2 。. 検注が必ずしも円滑には行なわれなかっ たこと, 大和国の例でも明らかである。 保元3年・ 6月 2 日藤氏長者御教書案(同6 2 9 5 5号) は, 「大和国検注之間, 出庄々図師相逢使者 任所進坪付可被注 - ,. 除之由, 可令下知給」 とのべてい るから, この年に大和国検注を行なう企ては6月 2 日以前に立て ら れ て い た も の と み え る が,7月 13 日宣旨が下され, 官使6 人を遣わし, 国司重能に目代を副えて 検注せしめんと した。 興福寺上座法橋信実は国司と親 交があっ たので, これを奉行せしめたところ 寺大衆らは不満に思い, 信実の住房を襲撃した。 信実も兵を整えて禦ぎ合戦と なり, 双方に死傷者 を多く出し, 死者数十人に及んだ。 この騒ぎに宮使は逐電 帰参した(兵範記・保元3年7月1 7日条) 。こ の直後, 興福寺衆僧らは, 山城・河内・摂津の寺領の収公を停止することと, 信実とその息を配流 7号) し, 郎 従 ら を 禁 獄 す べ き こ と の 2 か 条 を 言 上 し 政府 に 迫 っ た(平安遣文6-293 。. 保元整理令は第3条以下に寺社のことを掲げ, とくに寺社領整理に力を入れたとみられ,「大和 7日条)といわれた巨大な荘 国併春日御社・興福寺等負所寺僧領知無一歩公田」{兵範記・保元3年7月1 園領主興福寺 (春日神社) と, また東大寺に対して, かなり強い決意を以て整理を断行せんとした。 2 9 5 6号) 東大寺領については, 寺領検注は行なうが検注使供給は停止する旨を国司が約し(平安造文6 - 2 9 5 7号 同6 同趣旨の院宣も下っ た( ‐ ) 。 東大寺は所領の 「注文」(坪付か) を提出したが, 興福寺はいぜ 2 2号) 9 6 ん検注を拒否し続けていたようであ る(同6 - 1159 ) に至っ ても検注の努力は続け 。 平治元年 ( 2 8号) 9 7 ‐ られており(同6 , 東大寺領小東荘について, 東大寺公文所は 「近来当国沙汰盛興, 敢無遁避 29 85号} そ れ に 応 じ て 6月 に 小 東 荘 の 名 々 の 坪 付 之 所」 と い い, そ の 坪 付 を 進 上 す る よ う 求 め(同6- , ) 9 2 989・2 991~6号 ) そ して 9月 29 日 大和国在庁は広瀬郡に 東大寺使とと が 注 進 さ れ て い る(同6‐ 。 , ,. 3 0 3 0号) もに小東荘 の検注を行なうよう下命した(同6 - 。 1173 承安3 年の収公 承安3年( )興福寺が多武峯と争い, 6か所 の荘園を押領し廟を焼払っ た ことから, 多武峯の本寺延暦寺と興福寺の争いが起っ た。 延暦寺は近江国の南都七大寺領荘園を押 363 領 した の で 両 者 は 鋭 く 対 立 し, 興 福 寺 は 軍 兵 を 集 め て 参 洛 を 企 て た(多武峯略記, 平安遺文7‐ 7~43 ・ 3646号) 後 白 河 法 皇 は こ れ を 怒 っ て 11月 11 日 東 大 ・ 興 福 ・ 元 興 ・ 薬 師 ・ 大 安 ・ 西 大 ・ 新 薬 師 ・ 。 , ,. 大后・不退・法花・超証・唐招提・宗鏡・ 弘福寺の14力寺の末寺・荘園を没官し,仏聖油料・恒例 4 3 6 3号) 寺用は国司をして宛行わしむるよう諸国に命じた(同7 ‐ 。 このとき九条兼実は 「抑我朝者,偏 依荘園滅亡者也, 然者神社仏寺権門勢家之領, 併被停廃, 且逐延久之先符, 且反延喜之古風者, 非 1月1 2日条) 此限, 其条叉不可限南都之諸寺事也, 如何々々」 と日記に記した(玉葉・承安3年1 。 収公 された末寺・荘園は翌年正月18日に返付されたが,東大寺に下した宣旨によると,「但於悪僧井師主 2号) 3 6 5 ‐ 所領者, 可付本寺」 とされている(同7 。 史料もない ので測りかねるけれど, 期間も短かく, 実効のほどは疑わしい。 しかし, 後白河院政を物語る示唆深い事件というべきであろう。 註 1 1 094 ) 中右記寛治8年( )4月25日条によると, 美作守藤原基隆の申請により, 新立荘園停止のごとが議されて い る が, 全 国 的 な 整 理 で は な い こ と で あ ろ う。 お そ らく 国 司 初 任 の さ い の 申 請 に 基 づ く も ので あ ろう。. 2 1 10 8 689号)によると, 前年10月30日宣旨に 「応遣 ) 嘉承3年{ )6月 26 日美濃国安八郡司等解(平安造文4-1 官使, 令従停止寛徳二年以後新立庄園加納田畠等事」 とあったという。 これも国司初任のさいの恒例のもの であろう。 竹内理三 『律令制と貴族政権』 第 江 部396頁参照。 3 2 9 19号)によると, 保元元年開9月 23日に諸国に5か条の官 ) 保元3年4月伊賀国在庁官人等解(平安造文6- 符 が 下 さ れ た と あ る。 こ れ が 保 元 整 理 令 中 の 5 か 条 で あ る こ と は 文 よ り ほ ぼ明 らか で ある。. 4 ) 川上多助 『日本古代社会史の研究』407頁。 5 02頁。 ) 竹内理三前掲書(註2)4. 一 22 一.

(15) . 平安時代荘園整理令の基礎的研究 6 ) 史料大成本に拠る。 川上氏のみた兵範記は同日の部分が欠けていたということである。 2 904・2 905号がある。 なお記録所が一般の所領関係の訴訟 7 ) 記録所の構成を示す史料としては, 平安造文6- 9 6 6 2 3 号, 兵範記・保元3年11月 26 日条 な ど が あ る。 の裁定を行なった史料としては, 同 ‐ 4 4 0 4 8 頁。 ) 川上多助前掲書(註 ) 3頁, 拙著 『日本荘園成立史の研究』158頁参照。 な 9 ) 川上多助前掲書(註4)409頁, 竹内理三前掲書(註2)40 1・3 036号) 3 301 7・3 021・30 おこのとき, 高野山領荒川荘も検注をうけている(平安遺文6‐ 。 5 . あ. と. が. き. 以上, 平安時代のいわゆる荘園整 理令について, 解説的考察を試みた。 「はしがき」 でのべた如 き意図が果された かどうか疑わしいが, 後日の研究の基礎として, 一応掴筆する。 終りに今後の 課 )にお 題を2 ,3記 しておきたい。 第1は, 荘園整理令の目指したものと, それぞれの段階(また地域 ける在地構造の在り方とを関連させて 把えることが十分にできるかどうかということ。 第 2は, そ れぞれの整理令の公布にさいして主導権を握っ ていた人物, またそ れを支えた勢力はいかなるもの であったかということ。 第3は, 以上と関連して, それぞれの政権の性格を規定することができる かどうかということ。 総じて, 荘園整理策を通じて平安時代政治史をいかに描くことができるか, と い う こ と で あ る。 以 上 の こ と は, も ち ろ ん 荘 園 整 理 と い う 一 問 題 に 視 野 を 限 っ て い た の で は 解 明 し が た い。 そ れ. ・ は, 平安時代史全般の中では じめて把えうる筈のものである。 しかし,「はしがき」 でものべた如く ひとまず 「政策史」 の観点から問題に迫るために, その基礎作業を試みたのである。 (昭和 39 年 4 月 15 日稿). 一 23 一.

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