ひとりの「タウントゥー」 (異文化言い分EVEN)
著者
ネイ ミョウ アウン
権利
Copyrights 日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア
経済研究所 / Institute of Developing
Economies, Japan External Trade Organization
(IDE-JETRO) http://www.ide.go.jp
雑誌名
アジ研ワールド・トレンド
巻
193
ページ
71-71
発行年
2011-10
出版者
日本貿易振興機構アジア経済研究所
URL
http://hdl.handle.net/2344/00004144
71
アジ研ワールド・トレンド No.193 (2011. 10) ネ イ ・ ミ ョ ウ ・ ア ウ ン 。こ の 名 前 を 両 親 か ら 授 か っ た 。﹁ ア ウ ン ﹂と い う 言 葉 は 私 の 父 の 名 前 と 共 通 だ 。 こ のア ウ ン は 実 際 、 多 く の ミ ャ ン マ ー 人 の 名 前 に 使 わ れ て い る 。 我 ら が 独 立 の 父 ﹁ ア ウ ン サ ン 将 軍 ﹂ の 名 前 に も ア ウ ン が 入 っ て い る 。 彼 の 娘 は 民 主 化 の リ ー ダ ー 、 ア ウ ン サ ン ス ー チ ー で あ る が そ こ に も ア ウ ン が 含 ま れ て い る 。 ア ウ ン は 姓 で は な い 。 私 の 祖 父 の 名 前 は バ ・ カ イ ン で あ る 。 父 の 名 前 も 祖 父 と は ま る っ き り 異 な る 。 ミ ャ ン マ ー の 人 々 の 名 前 は 何 を 基 本 と し て つ け ら れる の だろ う か ? 人 々 が ど こ で 生 ま れ た の か 、 何 曜 日 に 生 ま れ た の か 、 何 時 に 生 ま れ た の か 、 等 々 が 命 名 の 際 の 決 め 手 に な る の だ 。 基 本 に な る の は 占 星 術 の 考 え 方 だ 。 も っ と 詳 し く 知 り た い か た は つ ぎ の サ イ ト を 訪 れ る と よ い 。 ミ ャ ン マ ー で 人 の 名 前 が ど の よ う に つ け ら れ る か が 分 か る 。 ht tp :// w w w .m ya nm ar s.n et/ m ya nm ar -cu ltu re /m ya nm ar -naming-system.htm. さて、 私自身の話に戻ろう。 私はミャンマーの中部に位置するマグウェイ県の プゥンピュー市に生まれた。プゥンピューという のは﹁白い花﹂という意味だ。白い花という街で 生まれたのであるが、 私の肌は茶色である。そう、 本当に茶色といってよい。私の父の母、つまり私 の祖母の名前はニョウである。意味は褐色の夫人 というもの。祖母はやはり中部に位置するマンダ レ イ 県 の タ ウ ン タ ー と い う 市 の あ る 村 で 生 ま れ た。祖母が何年に生まれたのか私は知らない。私 の父も同じ村で生まれた。我々は祖母を﹁マミー ブ ラ ウ ン ﹂︵ 茶 色 い ミ イ ラ ︶ と 呼 ん で い た。 我 々 は決して﹁おばあちゃん﹂とは呼ばなかった。私 の祖父は第二次世界大戦中、日本占領下にあった ミャンマーをイギリス軍が空爆したときに殺され てしまった。祖父は友人らとともに農作物を街で 売り歩いていたのだ。友人達は幸いにも爆撃から 逃れることができた。私の父は祖父が亡くなった ときまだ一歳の赤ん坊だった。祖母はこの事件を 信じることができなかった。そして夫が帰ってく るのを村の入り口で私を抱えて五年間も待ち続け ていた。本当に彼女は待ち尽くしたのだ。 我 々 の 子 供 時 代 は、 夏 休 み が 待 ち 遠 し か っ た。 毎 年 夏 に な る と 祖 母 の 生 ま れ 故 郷 の 村 に 遊 び に 行った。 そこを訪れるのは本当に楽しかった。 我々 の先祖は ﹁タウントゥー ︵高地の農民︶ ﹂ であった。 村に到着すると牛糞と土が入り交じったにおいが 鼻 を つ く。 ﹁ 茶 色 い ミ イ ラ ﹂ は い つ 我 々 が 来 る か 知 っ て い る の で い つ も 村 の 入 り 口 で 待 っ て い て、 我々を出迎えてくれた。彼女は神経系統の病気を 持っており頭がいつも震えていた。彼女には息子 が一人いるだけだった。父には兄弟がいない。祖 母の親類もきて我々を出迎える。そのほかの村人 も 実 際 知 り 合 い か ど う か に か か わ り な く 暖 か く 我々を出迎えてくれた。これは村のすばらしい習 わ し で あ る。 こ の よ う な 習 慣 は ミ ャ ン マ ー で は、 どの村でも見られるものである。父は近くの市に ある学校に進学した。というのも当時は、我々の 村には進学しようにも進学先の学校がなかったか らだ。父はマンダレイ大学を卒業した。大学の休 暇中は父は学校から村に戻ると、農作業を行わな け れ ば な か ら か っ た。 父 は 農 業 生 産 者 で あ っ た。 つまり﹁タウントゥー﹂だった。 そう、私は零細な﹁タウントゥー﹂一家の出身 である。この言葉は﹁タウンヤー﹂という語に由 来する。 ﹁タウン﹂というのは丘を意味し、 ﹁ヤー﹂ は丘陵地を耕してつくった畑作の一区画を意味す る。 ﹁ タ ウ ン ヤ ー﹂ 方 式 と い う の が あ っ て、 そ れ は 一 年 生 穀 物 の 生 産 と 植 林 か ら な る。 も と も と ミャンマーの移動耕作を示す言葉であった。森の 木々を伐採して焼き払い耕地とする焼き畑の技術 である。焼き畑農法は自家消費の穀物を生産する 農 民 に よ っ て 営 ま れ る 生 活 の 糧 の た め の 農 法 で あった。しかし、その後﹁タウンヤー﹂という言 葉は丘陵地の移動耕作だけではなく平野での灌漑 を利用せず雨水に依存する一般の農法にも使われ るようになった。耕地での田畑で穀物を育てる農 民は﹁タウントゥー﹂と呼ばれるようになった。 私の父、祖父、そして私の先祖はみな﹁タウン トゥー﹂である。昔から彼等は高地の土地を耕し てきた。彼等は自分たちで食べる作物を作ってき た。私自身は﹁タウントゥー﹂の仕事を継いでい るわけではないのだが、彼等の血はしっかりと私 の体内を流れている。彼等の習わしは我々の習わ しでもある。彼等が信じることを我々も信じてい る。彼等は村を愛していた。私自身もこれからず うっと﹁タウントゥー﹂のままでいたいと思う。Nay Myo Aung/アジア経済研究所海外客員研究員 Lecturer, Yezin Agriculture University
研究課題:Market-related Reforms and its Impact on Rice Industry