Author(s)
小林, 甫
Citation
沖縄大学法経学部紀要 = Okinawa University JOURNAL
OF LAW & ECONOMICS(7): 17-35
Issue Date
2006-10-31
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/5976
【論説】
生活経済学とソーシャル・キャピタル
小林甫 1.生活経済学登場の背景 戦後30年間続いた世界経済の枠組みが、1970年代の中頃に大きく揺らぎ始めた。1971年のニクソ ン・ショックによる戦後の為替固定相場制の崩壊と1973年のオイル・ショックに端を発した先進資 本主義諸国経済への衝撃は大きく、1979年の第二次オイル・ショックを経てそれが決定的となり、 従来の経済運営のフレームワークの変更が余儀なくされることになった。日本においても、それは 高度経済成長の終焉と低成長経済への移行という選択として迫られ、国民の生活観に大きな影響を 与えた。低成長経済への移行が高度成熟型社会の到来というタームで表現されることになり、成長 率の伸びが国民所得の分配の伸びを保証するという方程式が成り立たなくなった。 地球は一つであり、資本主義経済の行き詰まりは社会主義経済の危機として現出するという世界 経済システムのもとで我々は生きている。そこで当然のこととして、1970年代になるとソ連も成長 率が低下し始め、社会主義経済も行き詰まることになる。その間の経過を、AnthonyJonesと WilliamMoskoffは、次のように述べている。「1960年代には、ソ連邦における年平均経済成長率 は、なおかなり高く5%であった。しかし、1970年代初期には約4%まで下がった。そして、その 10年間の後半にはその下落はひどく、成長が年3%になった。さらに、1980年代前半には2%になっ た。成長の鈍化は、ソ連邦において採用された中央計画システムがこれまでのところ確実に作動し なかったという事実を反映している。」(1)この帰結は1980年代の終わりから90年代の初めにかけ ての東欧社会主義諸国とソ連邦の崩壊となって表れたことは周知のところである。 このような20世紀末の世界経済システムの地球規模で行き詰まりと新しいシステムへの移行の過 程で、経済学の分野においても様々な新しい理論化の試みがなされた。生活経済学の理論化の試み もその一つである。それは、概念化と体系化が意識されてからまだ間もないが、ようやく社会的認 知度が増し市民権を得つつあると言える。 以上のような大きな社会的変化を根底に持ちながら、1960年代に形成された消費経済論では対応 が不十分となり、1970年代の終わりに日本で生活経済論が登場してきた背景として以下の点があげ られる。 まず第一に、既に述べたオイル・ショックを契機として、それまでの大量生産・大量消費という 経済のあり方に反省が求められることになったことである。そこから、「生活の質」(QOL:QuaLityofLife)への関心が高まってきたが、それは60年代に消費者問題の登場とともに確立されて
きた従来の消費(者)経済論ではこの新しい事態に対応できなくなってきたのではないかという認 識から生まれたものである。この「生活の質」(QOL)への関心の高まりは、実は、「労働の人間化」(QWL:QualityofWorkingLife)への関心の高まりに対応した相互連関的な事態であった。
このことは、従来の生活概念の問い直しと、それを根底に据えた新しい経済理論を求めるものであっ た。 -17-第二に、70年代の終わりから80年代の初めにかけて成熟型消費社会の到来がいわれるようになっ たことである。そこから価値観の多様化を基礎とした消費者の個性化によって、生産者によって提 供されたものを受け身的に消費する従来の消費者像から、自らの意志によって自らの生活設計に基 づいて消費を行う積極的な消費者=生活者への転換が喧伝された。しかるにその一方で、資源・環 境問題の深刻化、高齢化社会の到来に伴う年金・医療問題、少子化や家族形態と機能の崩壊等々、 人間生活の基盤それ自体の根底に関わる諸問題が台頭している。消費者は積極的な生活者に転換し ているにもかかわらず、その一方で深刻な生活問題が台頭しているというこの齪鰭をどう理解しす ればよいか、そしてそれを理論的に解決する経済学のあり方とはいかなるものかが求められること になった。 第三に、そのような諸問題を解決する主体としてNP○、NGO、コンシューマリズムなどのカウ ンターベーリング・パワーの台頭とその社会的認知度の増大があげられる。そのことは当然の帰結 として、これら諸主体を理論的に組み込んだ経済学のあり方が求められることになる。 以上のような諸要因を背景として生活経済学が登場してきたと考えられる。そして、1990年代に なって、その本格的点展開が見られることになった。しかし、それは21世紀に入って新たな展開が 求められているといえる。 2.生活経済学体系化の試み そのような状況を背景として、日本ではこれらの諸問題に取り組む過程で「生活経済学」という 学問領域の体系化が行われることになるが、それとほぼ同じ時期にアメリカにおいてもThe EconomicsofLife'というタームが登場した。1997年にGarySBeckerとGuityNashatBecker によって'TheEconomicsofLife-FromBaseballtoAffirmativeActiontolmmigration, HowReal-WorldlssuesAffectOurEverydayLife-㈹が上梓された。(2)この著作は、80年 代から90年代に著者達が時々のトピックについて『ビジネス・ウィーク』誌のコラムに書いたもの をテーマごとにまとめたものである。本書のサブタイトルにも見られるように、従来の伝統的な経 済学の枠を越えて、現代経済における女性の役割の変化、移民権の競売、ドラッグの合法化、マイ ノリティヘの差別など、公共政策と個人行動との間で論議の的となっている現代生活の諸問題につ いて、経済と生活、個人の自由との関連を扱っている。しかし、これはいわば「日々日常の経済学」 と呼んでよいものである。すなわち、経済学の日常生活現象への応用としてⅢTheEconomicsof Life'という用語をあてはめたといってよい。 それに対して、日本の場合、生活を基礎とした経済学の体系化の試みとして「生活経済学」を捉 えるという発想が強かったといえる。例えば、角田修一が、生活=生命の再生産と理解し、従来の
経済学が生活に関わる重要な問題に十分に対処できなかった理由として「経済学の一般理論に『生
命再生産』を組み入れる装置がなかった」(3)ことをあげ、生活様式という概念をキー・コンセプ
トとして経済学を再構築しようとしたのもそのような試みであった。 ところで、1970年代の後半に生活経済論の体系化を図ろうとしたのは暉峻淑子であった。暉峻は、経済学の原理論と段階論を基礎とした現状分析として理論的に体系化されるのが生活経済論だとす
る。その際、「経済学の理論は消費の内容に立ち入るものではないから、G(貨幣)-W(商品)
の購買過程が終ってしまえば、消費生活を含むこれらの問題は、その範囲から脱落する」(4)とし、
-18-この購買過程が終わった後の消費生活について、「こうして得られた生活必需品は、家事労働によっ て、よりいっそう効用を高められ、家族によって消費されることになる。この生活資料の消費の過 程こそは、労働力の再生産の過程であり、将来の労働力たる子供や、妻などの家族の生活も含む、 生活の再生産過程である」(5)とした。そして、この脱落した消費の領域をカバーする学問の分野 として「社会政策学における労働者の生計問題」、「家政学における家庭経済学の分野」、「消費(者) 経済学といわれる分野」の三つをあげている。そして、この三つの分野の学問領域を合流し、新し い体系づけを行おうとするのが生活経済学であるとした。 これに対して、伊藤セツから次のような批判がなされた。まず暉峻が三つの分野の学問分野の統 合によって生活経済論を構築しようとした点について、伊藤は、「暉峻が総合しようとする既存学 問領域での関連諸説のもっとも重要な内容のいくつかを、自らの体系の枠外にはずし、結果的に、 包みこむべき理論の幅をむしろ狭めることになってしまう」と指摘する。次に、暉峻が、G(貨幣) -W(商品)の購買過程が終ってしまえば、消費生活は私事であるから経済学の範囲から脱落す るので、三分野の学問統合に生活経済論の体系化をゆだねるとした点について、それでは「特に労 働者の生活過程(W…C…A)(Cは消費、Aは再生産された労働力)を資本の再生産過程の一 契機としてさえも、明確に位置づけられない」とし、それを生活経済論が現状分析であるとした暉 峻の経済理論的把握上の欠陥であるとして、「W…C…Aの過程」(6)こそが生活経済学の対象 だとした。 70年代後半以降、生活経済論の体系化の試みがなされてきたが、この暉峻と伊藤の論争の持つ意 味は決定的だった。何故なら、以上見たように暉峻、伊藤の両者とも、生活経済論の対象が、当初 から消費生活過程に限定されていたからであり、その後も理論的豊富化がこの学問領域で図られて きたが、今日でも生活経済論は消費生活領域を対象とするというパラダイムが存在しているからで ある。(7) しかるに、2000年に入って、激動の四半世紀を経た後の生活経済論の到達段階からの総括ともい える伊藤セツの「生活経済論のパラダイム」が登場した。(8)1985年に日本で生活経済学会が設立 されて以降、この分野での研究成果も急速に増えてきたが、この間の成果を踏まえて、伊藤は次の ように述べている。つまり、「経済学のなかの社会政策学、社会学のなかの生活構造論・生活調査 論、社会福祉学の生活福祉論・貧困調査、工学系の都市計画論・生活行動論は、それぞれに関連領 域の理論や手法を取り込んで、生活研究を行っている」ことから、「その意味ではこれまでと違っ て、それぞれの生活研究の独自性を強調する壁は崩れつつある」とし、それ故、「生活経済論につ いても従来のように、関連領域とどう異なった枠組み(パラダイム)を特徴とするかを説明する必 要はない」(9)という。このように、関連諸領域の生活研究の豊富化によって、その独自性の壁が 崩壊し、それによって生活経済論自体もその独自のパラダイムが説明できなくなったという認識か ら、生活経済論は、「家政学も含む諸科学の生活研究一般の成果を組み合わせて、生活維持のため の経済行為とそれを規定する法則を解明するための理論である」が、今後は「もろもろの生活関連 諸科学が、それぞれに生活経済に接点を持ち、生活経済論はそれらの影響を受け、それらを吸収し て発展していく」(10)だろうとの見通しを述べている。但し、生活維持のための経済行為とそれ を規定する法則を解明するための理論といっても、伊藤の場合、「生活経済では、個人的消費のみ を対象とする」(11)ということであって、生活経済学の対象はあくまで消費領域に限定される。 -19-
しかし、伊藤自身が、生活経済学の対象は個人的消費のみを対象とすると言いながら、同時に生 活領域の壁の崩壊を意識し、自らの編著である『ジェンダーの生活経済論」においても、「変わる 企業社会日本の労働と収入」(同書、第4章)や「生活経済とアンペイドワーク」(同書、第7章) といった労働生活に関わる分野をその対象として取り上げることになっている。また、川島美保や 伊藤によって「生活者の視点からの経済を体系化しようという試みである」(12)と評価されてい る御船美智子『生活者の経済』も、これまでの生活経済学に関連してなされた論争の成果を取り込 んでその体系化を図っているが、そこでは消費生活過程だけでなく労働生活過程も視野に入れた生 活経済学の構想を考えているといえる。 御船は、「生活者の経済」を考える前提として、まず「生活」を次のように定義する。「生活とは、 社会的な存在としての人間が、個人を取り巻く環境や一定の状況のもとで、資源を用いて、欲求を 満足させ、価値を実現する行為の時間的連続過程である」という。次に、「生活する人間が、主人 公となって生活を営もうとする意識的行為をともなって生活する時、生活主体となる」とし、その 「個人の生活主体を生活者と呼ぶ」(13)と「生活者」を定義する。以上を前提として、「自立的な 生活者がミクロレベルで経営する経済を生活者の経済とし、それを実現するマクロの社会・文化・ 制度を含んだ経済を生活経済として、生活経済と生活者の経済を関連付けて、豊かな生活を実現す る生活経済発展のあり方を考えていきたい」(14)とする。ここで、生活者が経営する経済に関連 していえば、御船によると、「生活経営は、生活状況を判断し、生活欲求と価値を認識して、それ らと生活資源を突き合わせ考慮した上で、生活目標を立て、その目標達成のための計画を策定し、 実行し、その結果を評価し、次の目標・計画・実行への教訓とすることである」(15)ということ になる。生活者としての「生活主体には必ずそれぞれの生活経営がある」(16)として企業経営の Plan-Do-Seeを個人の生活経営として生活者経済に応用し、他方、「生活経済は、生活者の経 済を可能とする社会経済システムを意味するとする。生活経済の目的は、人間発達であり、短期的 な利益に動機づけられた産業社会と区別するための概念として用いる」とし、そこから「経済を人 間発達に奉仕する手段として位置づけるために、貨幣経済を相対化する必要がある」(17)として、 生活経済を現在の貨幣経済に対するオールタナティブな経済システムとして位置づけている。 個人の生活主体としての生活者の経済と、社会経済システムとしての生活経済を概念的に区別し、 相互の関連づけを考えるという御船のスタンスには、何故両者を分けなければならないのか、そし て両者の相互関係がどうなっているのかということが不分明であるとはいえ、また著者自身のタイ トルにもある『生活者の経済」を経営管理の手法を応用することによって、個人の消費生活過程に 対象を限定してしまうという危'倶があるものの、しかし、それでもなお、生活経済をオールタナティ ブな体制転換の経済システムとして構築しようという積極的な意味を読み取ることができるという ことはいえる。つまり、御船においても、生活者の経済が、彼女のいう社会経済システムとしての 生活経済をその視野に含めて考察しなければならないということになっているのである。 以上検討したように、今日的段階においては、生活経済学の体系化をめぐる議論において、当初 の生活経済学を消費過程の分析に限定するという狭い対象的限定から、オールタナティブな社会経 済システムを求める経済理論へと議論が発展し、生活経済学の質的転換が見られるといえる。 -20-
3.生活経済学と労働力再生産過程論 先述の暉峻が、生活経済論を現状分析に属するとし、G(貨幣)-W(商品)という購買過程 が終ってしまえば、消費生活は私事であるから経済学の範囲から脱落するので、先の三分野の学問 統合に生活経済論体系化をゆだねるとし、生活経済論の原理論からのいわば上向法的な経済学的体 系化に対して否定的見解を示したのとほぼ同時期に、隅谷三喜男によって『労働経済論』が上梓さ れた。(18) 生活経済学の分野では、伊藤によって、暉峻が放棄した消費の分野を経済学的に分析するのが生 活経済学だとしたことは既に見た。だが、生活を生命の再生産であると捉えるならば、諸個人の 「生活をあらわす仕方がすなわち彼らの存在の仕方なのである」(19)ことから、この「生活をあら わす仕方」を生活様式(Lebensweise)と理解することができる。その実現のためには、まず人間 は、「生活の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意志から独立した諸関係に、すなわ
ち、彼らの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係」(20)にはいらなければなら
ない。このことは、生活を経済学的に分析する生活経済学は、消費生活のみでなく、それを規定す る「生産関係」のもとでの労働生活をも対象としなければならないことを意味する。上述の隅谷 『労働経済論』は、労働過程に分析の基軸を据え労働の経済学の体系化を図ろうとしたものである。 その際、隅谷は、「『労働力』商品の特殊性として、それがこの商品の所有者である労働者と不可 分であること」を重視する。そこから、「商品所有者である労働者の存在と機能を理論のなかに包 摂することによって、…労使関係や労働組合の問題はいうまでもなく、労働過程から労働市場や社会政策、さらに生活過程等の問題にも、解明の光が投じられることになる」(21)とする。隅谷
においては、労働者の「生活過程」とは、自己の労働力を労働市場で販売し、それによって手に入 れる賃金によって消費手段を購入することによって営まれる消費生活を意味するという認識上の問 題点はあるが、労働過程と消費生活過程を統一して「賃労働」の理論を積極的に労働の経済学とし て構築しようとする意図が見られた。 (図1)「
1--W,資本=G三二」41二頁mT-LvI;二三一
労使関係 賃労働==L(A)-(G)-……A--G  ̄ ̄ ̄ ̄ 労働市場労働過程・賃金 W2---L(A) 消費生活過程 (出典:隅谷三喜男『労働経済論』、筑摩書房、1976年、p50) 隅谷は、「『資本論』全3巻で分析されたのは、資本が購買する『労働力』であり、労働力の価 格としての賃金の形態を論じた箇所では、『かかる形態のすべてを叙述することは、賃労働の理論 にかんする特殊理論の仕事であって、本書の仕事ではない」(青木文庫版、(3)、850頁)とも記し ている」(22)と述べ、賃労働という形態をとった労働経済論を体系化するために、賃労働の再生 -21-産過程の分析の必要性を指摘している。そこから、「労働力の再生産過程を賃労働L(A)に置きかえ れば、その再生産過程は次の範式で示される」(23)として上記(図1)の資本と賃労働の相互関 連の範式に立脚して、それを以下のように説明する。 まず、L(A)-(G)が労働市場であり、そこでは労働力商品の取引をめぐる売り手と買い手の関係 が分析される。労働力の取引は、雇い主と労働者との間の雇用関係であり、労働力が売れないこと は失業を意味し、直接に生活問題と結びつく。そのような性格を持つ労働市場が第1過程である。 次に、売られた労働力は買い手である雇い主=資本のもとで消費される。それが、生産過程=労 働過程である…A…という第2過程である。この労働過程における問題は、労働者が労働力の使 用される場に自ら出向かなければならないことであり、また、そこでの労働力の消費=使用過程の 問題は、同時に個々の労働者の職場における労働生活の問題でもあるということである。 第3過程は、この労働過程をはさんで(G)…A…Gという形をとっている賃金の問題である。 ここで、(G)とGの区別であるが、前者は労働市場で決定される労働条件とこれに対する賃金率を 指し、それに対して後者は、その条件で労働力の支出が行われた後の現実に支払われる賃金である。 それは、実際に働いた労働時間、労働力の支出の様態、賃金の形態等によって具体的に決定される。 (G)・…Gはこの二つの段階の賃金を示している。そこから、労働経済論における賃金論は、労働 過程に媒介されて一段階具体化された現実に支払われる賃金であるGについて分析しなければなら ないとする。 最後の第4過程G-W2・・・L(A)は、労働力が再生産される過程であり、労働者にとってみれば 消費生活の過程である。この労働力の再生産過程=労働者の消費生活の構造は、先に見た労働市場 および賃金との関連でいえば、それらを規定する供給要因である。しかし同時に、この消費の場こ そは、一応、資本の支配の外にあり労働者の自主性の回復の場でもある。その意味で、労働者の自 主的活動の基盤となる戦略的な地点である。さらにまた、この生活過程を踏まえなければ、最低賃 金も失業保険も健康保険も、おしなべて社会保障そのものが、分析不可能になる。以上から、労働 力の再生産=労働者の消費生活の分析は、労働経済論の重要な一環をなしている。 以上検討したように、隅谷は、「資本の理論」ではまだ可能性として含まれていたにすぎない 「賃労働の理論」を、労働の経済学においてより現実に接近した上向的な領域の理論として展開し ようとしたわけである。(24)その際、隅谷は、富沢賢治の『唯物史観と労働運動』から「牛産過
程を主体的契機である労働の面からとらえた場合に、それが労働過程と規定される」(同書、p55)
という一文を援用し、生産過程は価値・剰余価値の生産過程であり、「生産過程の主体はあくまで 資本なのである」が、「労働過程にあっては、生産手段は客体的与件である。われわれは労働過程を生産過程との同一の面でとらえるとともに、その差異の面でもとらえ」(25)なければならない
とする。そこから、隅谷は、この「差異の面」として、マルクスの「経済学批判」体系プランの「賃労働」範囑を解明することを課題とし、先の賃労働の再生産過程を分析することが彼の「労働
経済論」の体系となる。 周知のように、マルクスは自らの経済学について、ブルジョア経済のシステムを「資本」、「土地 所有」、「賃労働」;「国家」、「外国貿易」、「世界市場」の順序で考察しようと考えていた。そして、「はじめの三項目では、近代ブルジョア社会が分かれている三つの大きな階級の経済的諸生活条件
を研究する」(26)することを構想していた。ということは、ブルジョア経済システムの叙述の体
-22-系がマルクスのブルジョア経済批判の経済学体系でもあることを意味し、もし隅谷の想定が正しい ならば、プラン「賃労働」では労働者階級の経済的生活条件、すなわち労働者階級の労働生活と消 費生活の総体、それを隅谷の「賃労働の再生産過程」といってもよいが、それを分析することが予
定されていたと想定される。しかるに、生活経済学においても、社会政策学から労働の経済学へと
いう隅谷の提唱のなされたのと同時期に生活の経済学的分析の必要性が提唱されながら、これまで 消費過程の分析に対象を限定することによって、隅谷が考察過程の対象としようとしたこの賃労働 の再生産過程分析を捨象してきたといえる。 4労働の経済学と生活の経済学 ブルジョア経済システムの主体は資本である。その経済システムを批判的に分析する経済学の体 系は、経済学批判体系という形式と内容をとることになる。しかし、資本が主体であるこのブルジョア経済システムの分析の一環としてのプラン「賃労働」範晴と、「国際労働者協会創立宣言」で、
「所有の経済学」に対する「労働の経済学」の勝利とマルクスが述べた時の「労働の経済学」範囑
とは同一のダイメンションでは論じられないものである。マルクスは「労働の経済学」の勝利の実 例として「外部の援助をうけずに自力で創立した協同組合工場」をあげ、それを「偉大な社会的実 験」として評価し、次のように指摘した。「近代科学の要請におうじて大規模にいとなまれる生産 は、働き手の階級を雇用する主人の階級がいなくてもやっていけるということ、労働手段は、それ が果実を生みだすためには、働く人自身にたいする支配の手段、強奪の手段として独占されるには およばないということ、賃労働は、…一時的な、下級の形態にすぎず、やがては、自発的な手、 いそいそとした精神、喜びにみちた心で勤労にしたがう結合労働に席をゆずって消滅すべき運命に あるということ、これである。」(27) このマルクスの「労働の経済学」における主体は労働者階級である。その経済学は資本主義社会 における資本を主体としそれによって規定される生産一分配一交換一消費という経済の総過程とは 異なる内容をもって展開されることになる。先に指摘したマルクスの生活様式に触発されて、松原 昭は、生活様式範蠕について、「社会と個人の生活活動のすべての形態を表現する」(広義の規定) ものであり、その生活活動は、物質的生活の生産によって規定されることから、それは「社会的な、 生産、分配、交換および消費の支配的な形態をも表現する」(狭義の規定)のであり、そのことか らそれは、「一定の社会によって条件づけられる自然的および社会的生活条件を創造し発展させる 方式」(28)であると概念化する。人間生命の発現活動である生活活動という総体とその物質的生 活の場における生命の発現形態を生活様式範囑から捉えるというこの視点は、経済学を考える際の マルクスとエンゲルスのものであった。 エンゲルスは、『反デューリング論』において、「経済学は、最も広い意味では、人間社会におけ る物質的な生活資料の生産と交換とを支配する諸法則についての科学である」(29)と広義の経済 学を規定している。それと同時に、「人々が生産し交換するさいの諸条件は、国ごとに異なってお り、またそれぞれの国でも、世代から世代へと変わってゆく」ことから、「経済学は、本質上一つ の歴史科学である。それは、歴史的な素材、すなわち、たえず変化してゆく素材を取り扱う」もの である。この両者の関係については、「まず、生産および交換のそれぞれの発展段階の特殊な諸法 則を研究する。そして、この研究が終わってはじめて、生産および交換一般にあてはまる、少数の、 -23-まったく一般的な諸法則を打ち立てることができるであろう。だが、その場合、特定の生産様式や 交換形態にあてはまる諸法則は、そういう生産様式や交換形態を共通にしているあらゆる歴史的時 期にもあてはまることは、いうまでもない」(30)と指摘している。「分配」については、「ある特 定の歴史的社会の生産および交換の仕方とともに、またこの社会の歴史的先行諸条件とともに、生 産物の分配の仕方も同時にきまってくる」(31)として、それが特定の歴史的段階の生産と交換に 規定されること述べている。エンゲルスは、以上をふまえ、ブルジョア経済にたいする批判はマル クスによって完全になされたが、「けれども、さまざまな人間社会が生産し交換し、またそれに応 じてその時々に生産物を分配してきた、その諸条件と諸形態とについての科学としての経済学一 こういう広義の経済学は、これからはじめてつくりだされなければならない」と、その意義を強調 している。そして、この広義経済学をふまえることによって、経済学の任務として、「新たに現れ つつある社会的弊害が現存の生産様式の必然的な結果であると同時に、またこの生産様式の分解が せまっている印でもあることを立証し、そして、この分解しつつある経済的運動形態の内部に、そ ういう弊害をとりのぞくべき将来の新しい生産および交換の組織の諸要素を見つけだす」(32)こ とが可能となるとしている。 この視点はマルクスにおいても変わらない。但し、マルクスはクーゲルマンヘの手紙の中で、そ れを、社会的総労働の配分の解明が経済学であるという視点に立って、社会の物質的生活を存続さ せるうえで、「それぞれの欲望の量に応じる生産物の量には、社会的総労働のそれぞれの一定の量 が必要だ、ということです。社会的労働をこのように一定の割合に配分することの必要性は、社会 的生産の確定された形態によってなくなるものではなく、ただその現われ方をかえるだけのことと いうのも、自明のところです。…歴史的にさまざまな状態のなかで変わり得るものは、それらの 法則が貫徹されていく形態だけなのです。そして社会的労働の連関が個々人の労働生産物の私的交 換をその特徴としているような社会状態で、この労働の一定の割合での配分が貫徹される形態こそ が、これらの交換価値にほかならないのです」(33)と指摘している。 以上の観点を前提として、マルクスは『資本論』においてブルジョア経済システムの分析を開始 するわけだが、その分析の端緒に商品を置く。その際、商品は、まず人間のなんらかの欲求を満た す使用価値でなければ商品となりえないことを明らかにし、それを素材的担い手として価値形態の 分析をおこなっている。そのように商品が使用価値と価値・交換価値との対立の統一であることを 解明して、使用価値を体現するのが具体的労働であり、価値・交換価値を体現するのが抽象的労働 であることを明らかにする。この観点は、労働過程と生産過程の分析においても変わりなく、マル クスは、まず、労働過程の分析を次の言葉をもって始める。「使用価値または財貨の生産は、それ が資本家のために資本家の監督のもとでおこなわれることによっては、その一般的な性質をかえる ものではない。それ故、労働過程はまず第一にどんな特定の社会形態にもかかわりなく考察されな
ければならないのである。」(34)そして、「労働過程の単純な諸契機は、合目的的な活動または労
働そのものとその対象とその手段である」(35)として、それら諸契機それ自体の分析とその相互 連関の考察をおこない、「要するに、労働過程では人間の活動が労働手段を使って-つの前もって企図された労働対象の変化をひき起こすのである。この過程は生産物では消えている。その生産物
はある使用価値であり、形態変化によって人間の欲望に適合するようにされた自然素材である。労働はその対象と結びつけられた。労働は対象化されており、対象は労働を加えられている。労働者
-24-の側に不静止の形態で現われたものが、今では静止した'性質として、存在の形態で、生産物の側に 現われる。…この全過程をその結果である生産物の立場から見れば、二つのもの、労働手段と労
働対象とは生産手段として現われ、労働そのものは生産的労働として現われる」(36)と述べてい
る。以上の考察から、「労働過程は、使用価値をつくるための合目的的活動であり、人間の欲望を満足させるための自然的なものの取得であり、人間と自然とのあいだの物質代謝の一般的な条件で
あり、人間生活の永久的な自然条件であり、したがって、この生活のどの形態にもかかわりなく、 むしろ人間生活のあらゆる社会形態に等しく共通なものである」(37)と結論づけるのである。 このように、人間生活の存続に必要な使用価値を生産する具体的有用労働がおこなわれる労働過 程の分析に規定されて、価値増殖過程とその資本主義的な形態である剰余価値生産過程の分析が可 能となるのであるが、そこには、使用価値と価値の対立と、使用価値の価値に対する規定性が貫か れている。その矛盾は「世界市場」まで、一貫して貫かれていくのがマルクスの経済学批判の視点 であると考えられる。 以上のような視点を保持していた故に、ドイツ労働者党綱領の「労働はすべての富とすべての文 化の源泉である。また有益な労働は、ただ社会のなかで、また社会をつうじてはじめて可能だから、 労働の全収益は、平等な権利にしたがって、社会の全員に帰属する」という一文にたいして、『ゴー タ綱領批判』において、マルクスは次のように批判したのである。まず、「労働はすべての富の源 泉ではない。自然もまた労働と同じ程度に、使用価値の源泉である。…労働そのものも-つの自 然力すなわち人間労働力の発現にすぎない」のであるから、「人間があらゆる労働手段と労働対象 との第一の源泉たる自然にたいして、はじめから所有者として対し、この自然を人間の所有物とし て取り扱うかぎりでのみ、人間労働は、使用価値の源泉となり、したがってまた富の源泉となる」 (38)のであり、それは労働手段を共有財産に転化したあとの社会において実現する。そして、そ のような「生産手段の共有を土台とする協同組合的社会の内部では、生産者はその生産物を交換し ない。同様にここでは、生産物に支出された労働がこの生産物の価値として、すなわちその生産物 にそなわった物的特性として現われることもない。なぜなら、いまでは資本主義社会とは違って、 ここの労働は、もはや間接にではなく直接に総労働の構成部分として存在しているからであ る。」(39) もちろん、マルクスが、「ここで問題としているのは、それ自身の土台の上に発展した共産主義 社会ではなくて、反対にいまようやく資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会である。し たがって、この共産主義社会は、あらゆる点で、経済的にも道徳的にも、精神的にも、その共産主 義社会が生まれでてきた母胎たる旧社会の母斑をまだおびている。したがって、個々の生産者は、 彼が社会にあたえたのと正確に同じだけのものを-控除したうえで-返してもらう。個々の生 産者が社会にあたえたものは、彼の個人的労働量である。」(40)このように、資本主義社会の中か ら新しく生まれてきたばかりの社会においては、個々の生産者は自分があるかたちで社会にあたえ たのと同じ労働量を別のかたちで返してもらうという形態をとらざるをえないのだから、そこには 交換のメジャーが必要となる。したがって、「ここでは明らかに、商品交換が等価物の交換である かぎりでこの交換を規制するのと同じ原則が支配している。」だが、しかし、ここでは「内容も形 式も変化している。なぜなら、変化した事'清のもとではだれも自分の労働のほかにはなにもあたえ ることができないし、また他方、個人的消費手段のほかにはなにも個人の所有に移りえないからで -25-ある。」それでもなおかつ、ここでは、その「個人的消費手段が個々の生産者のあいだに分配され るさいには商品等価物の交換の場合と同じ原則が支配し、一つのかたちの労働が別のかたちの等し い量の労働と交換される」という形態をとらざるをえない。そのため、人間は皆それぞれ体の強い 人間もいれば弱い人間もいるし、また個人の能力にも違いがあるのだから、それらを考慮して権利 は本来平等であるよりもむしろ不平等でなければならないのだが、にもかかわらず、ここではまだ 「生産者の権利は生産者の労働給付に比例」していて、「平等は、等しい尺度で、すなわち労働で測 られる」ことにならざるをえない。だから、交換においては各人は対等・平等に相対するというこ とによって、「ここでは平等な権利は、まだやはり-原則上一ブルジョア的権利」(41)となら ざるをえない。それは、「権利は、社会の経済構造およびそれによって制約される文化の発展より も高度であることはけっしてできない」(42)ということによるのである。 以上検討したように、マルクスとエンゲルスにおいては、資本主義社会の経済分析は彼らの構想 していた本来の経済学の一部にすぎず、広義経済学の確立とポスト資本主義社会の経済学の解明を 目指していたと考えられる。それは、歴史貫通的な一般原則とそれが各特定の歴史段階でどのよう に現象するかを解明する。それは、人間が物質的生活を維持するための使用価値を充足するうえで、 各特定の歴史段階で社会的総労働がどのように配分されるのかを、すなわちそれは特定の歴史段階 においてとる労働様式といってもよいが、それを問題とすることから、人間の労働様式をも内に含 んだところの生活様式概念を基軸に据えた経済学、すなわち生活の経済学ともいえるものとなる。 したがって、生活経済学をそのような内実をもったものとして構想したいと考える。(43) 5.財の生産とソーシャル・キャピタル ところで、1970年代後半以降は、資本主義経済システムがそれまでのあり方からの転換期をむか えて、政府の規制緩和と市場原理の導入によって経済メカニズムを再構築することを意図した時期 であったが、同時に、それはまた、この時期に市場原理に対抗して、それまでの消費生活協同組合 だけでなく、多様な形態の協同組合の展開、さらにはNPOやNGOによる雇用の創出などの動きが みられた時期でもあった。そのような動きを背景として、国や地方自治体の側からも、大幅な財政 赤字を抱え、その組織自体も人員の縮小等を余儀なくされる傾向にあることから、従来、政府や地 元の行政機関が解決に当たってきた地域の問題を、地域住民自らが立ち上がって、コミュニティが 抱える問題を自分たち自身で解決させようという動きが出てきた。それが、政府、地方自治体によ るいわゆるコミュニティビジネスの創出、支援である。(44) 経済学においても、このような状況の変化を受けて、経済倫理学の分野で、従来の市場原理とそ れに基づく自由競争一辺倒の経済のあり方に対する反省と新しい経済倫理のあり方が探求されてい る。山脇直司は、倫理と経済活動を今日的次元で立体的に把握する理論パラダイムとして、「義務・ 徳.善=財」という経済を捉える倫理の三重の視座と、従来の公私二元論に代わる「政府の公.民 の公共.私的経済」という三元論を提示し、その相互関係によって経済倫理を考察しようとしてい る。(45) 山脇によれば、「現代の経済社会では、『プライベート(private)』が民間などの『私的』各部門を 表す形容詞であるのと対比的な形で、パブリックは『政府や宮』がかかわる各部門を表す形容詞と して用いられ、それとほぼ並行して、主流派経済学でパブリック・エコノミックス=公共経済学と -26-
呼ばれる分野では、…パブリックがほとんど『政府の(governmental)』の意味で用いられてい る。しかしこのような単純な二元論的パラダイムは、今日の経済倫理学を構想する上で、『民の公 共』『政府の公』『私的経済』の相互作用的な三元論というニュー・パラダイムへとラジカルに変容 されなければならない」(46)ということになる。そこから、パブリックの原義が人民を意味する ことから、「パブリック」と「国家(政府)の公」を同一視する現代の主流派経済学のパラダイム を批判し、H・アーレントやルハーバーマスに依拠して、国家や政府や官の「公」とは異なる 「人々=民の公共」を明確に定義づけて展開する必要性を指摘する。NPOやNGoも従来の営利企 業や政府に分類され得ない社会制度であり、それらの位相については、NPOは、「政府の公」を補 う形での「民の公共」の実践として民の福祉に貢献するという相互関係を有し、NGOは、国際レ ベルで活動する組織が多く「国家=政府の公」ができない「民の公共」をトランス・ナショナルな しベルで遂行する役割を持っているとしている。(47) 以上を踏まえそれとの関連では、「義務・徳・善=財」についていえば、特に経済倫理学的に、 「徳」論と「善=財」論が重要になる。まず、「現代の経済社会で最も重要な新しい徳論のテーマと なるのは『信頼(trust)』であろう。生産、流通、消費など経済ネットワークの相互作用を支えるの は、実に『人々の信頼関係』であり、その信頼度の大きさが経済社会の安定さを保障するといって も過言ではないからである。信頼の崩壊や波及を防止し、逆に信頼が信頼を生む形で信頼がネット ワーク化されるような、今日的表現を使えば、『ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)』…の 充実した社会の実現をいかに構想していくか、これこそまさに経済倫理学の主要な徳論的テーマと いえる」とする。そして、次に、「善=財」論(theoryofgoods)については、今日の財と善の概念 がオーバーラップする「公共財(publicgoods)」が、市場経済で取引可能な私的財との対比で、 「消費の競合`性や排除性を持たない財(非競争性と非排除性を特質とする財)」と定義されているに すぎないと批判し、この概念を「人々によって生みだされる(た)『公共的に善きもの」という倫 理的な観点から別様に把握されなければならない」とする。そして、「そのように公共財=公共善 を倫理的に捉えることによって初めて、公共財は単なる消費や効用の対象ではなく、人々の合意な いし是認によって成立し、人々のコストによって賄われ、人々の否認によって公共善たる資格を失 うというダイナミックな考察が成立する」ことになる。そのように「『理性によって組織化(蓄積) された善』という点から捉え直す」ことによって、「ソーシャル・キャピタルは、物質的なもので ないにもかかわらず、財=善論の対象」となりうるのであるとする。以上のように捉えることによっ て、「教育システムや医療・保健システム,NPOやNGOなどの諸制度、さらに貨幣の自己増殖を 防ぎ貨幣本来の機能(支払い手段)を取り戻すための実験として最近注目されている『地域通貨』 などをも支えるところの『組織化された善』として、社会的に機能するソーシャル・キャピタルを、 財=善論のテーマとする」(48)ことが可能となるのである。 以上述べてきたように、「政府の公」や「私的経済」とは異なった「民の公共」の領域において、 市場原理に対するオールターナテイブとして、「徳」論に基づく「信頼(trust)」関係形成を構築す るために、「善=財」論おける「善きものとしての財」を人々に提供していく上でソーシャル・キャ ピタルが重要な役割を果たすというのが山脇の主張であった。そこで山脇は、「理性によって組織 化(蓄積)された善」であるソーシャル・キャピタルを社会的な関係資本として捉えようとしたわ けだが、HenkFlapも、「ソーシャル・キャピタルは関係資源」であるとして、同様にそれを関係 -27-
概念から認識しようとしている。ただし、Flapはさらにそこから、ソーシャル・キャピタルは人 的資本のアナロガスであるとして、そこでのソーシャル・キャピタルの中心的な問題を、「いかに したらより効果的に…ある目標を実現」すことができるのかを考慮する上で、「ソーシャル・キャ ピタルが…人的資本をより生産的に形成することをいかにして促進するするのか、そして人々が これらの生産諸手段にどのように投資するのか」(49)という点にみている。 ここでは資本という用語が使われているのであるが、この用語法について、人的資本もソーシャ ル・キャピタル(社会関係資本)も、ともに「キャピタル=資本」であるかぎり、収益を生むよう な資本かどうかということについて、従来の資本概念のもつ問題点をイギリス政府内のPerfor‐ manceandlnnovationUnitは次のように指摘している。「古典派による金融的、物的およびその 他の有形的資産としての資本の分析は、価値を無視している。経済学的な狭い用語においてすらそ うである。その古典派の無視している価値とは、社会的ネットワークのなかに存在し、そのネット ワーク参加者の間の協同を促進するような、そういう共有された価値である。古典派がそのような 価値を無視しているのは、古典派がまさに、知識と技術の重要」性を無視しているからである。」(50) そのような古典派の無視してきた価値としての知識や技術のストック(蓄積、資本)の形成は、従 来、人的資本について指摘されてきたことであるが、ソーシャル・キャピタルの形成においても、 その意義をみようとするわけである。 ところで、人的資本について、稲葉振一郎は、『統治二論』におけるジョン・ロックの、「そこに 自己の労働が加えられている故に、自らの労働によってつくりだされたものは自己のものだ」とい う「労働による所有」論を批判的に吟味し、権利として確立された「所有」(property=本来の意 味は自分自身のもの)という言葉の多義性に注目し、その「所有物」が「財産」、「資産」となり、 古典派経済学の価値との関係でいえば、それが収益を生む事業に投下されて資本となるという、所 有=客体的対象物という見地からの資本概念把握は今日的段階では修正されなければならないとし て、デイヴィッド・ヒュームを援用して次のように述べている。「人的資本はいってみれば自然人 としての人そのもの、人から切り離すことのできないその身体的・精神的な能力、性質のことに他 ならない、というところに存します。人的資本はそれ自体を丸ごとその所有者から切り離して他人 に一切合財譲渡することはできません。」「この点興味深いのが、以下に見るヒュームの論法です。
引用しますと;我々の所有するところの善(よきもの、経済学的に言えば「財」)goodsには三
つの異なる種類のものがある;我々の心の内的な満足と、我々の身体の外的な優位と、我々が勤勉 かあるいは幸運によって獲得した財産の享受、である。第一の善を享受するにあたっては、我々は まったく安全である。第二の善について言えば,よしんば我々からそれを奪い去ることはできたと しても、それが強奪者にとっての利益となることはありえない。ただ最後の善のみが、他者による 侵害に晒されており、のみならず、いかなる損失も変更もこうむることなく、他者へと移転される ことが可能なのである。(Hume,Hm7zarzMztu7e,pp487-488,ヒューム「人性論(四)』59-60頁、 引用は私訳(稲葉訳)。)」以上のヒュームの見解に基づいて、稲葉は、「労働力=人的資本は基本的には第二の身体的な善、傷つけられうるが移転されえないもの、ということになります」(51)と、
人的資本を位置づけているのである。 そこから同時に、稲葉は、「傷つけられうるが移転されえないもの」というその所有者=労働者 との分離不可能性に、人的資本の長所をもみようとしている。つまり、現代の労働者は、自己の労 -28-働力商品を資本家に販売して得た賃金で単に労働力を再生産するというだけの存在ではなく、雇用 関係を取り結ぶにあたって、人的資本の所有者として資本家とその貸借関係を結ぶのだとし、その ため自己の人的資本が傷つけられないように保全する権利を有するとする。そこに福祉国家的社会 権として自己の財産としての人的資本の財産権の行使を実現していくことに展望を見いだそうとし
ている。そこでは、財産権として行使される労働力=人的資本は身体的善(よきもの、財=goods)
として形成されることによって価値を高めていくことに意義があるということになる。 稲葉は、人的資本から善=財goodsをみていこうとしているが、ソーシャル・キャピタルは、 「経済学者のいう人的資本(humancapital)の概念において強調されてきた技能や知識に加え、人々 がもっているお互いに提携し協力し合う能力が経済生活だけでなく社会的生活のあらゆる面におい て重要である」(52)というように、より広い範艤をカバーするものである。先に見た、古典派の無視した資本概念のもつ知識や技能を形成するという側面は財=善goodsの側面であり、したがっ
てソーシャル・キャピタルはその形成に大きな役割を果たすが、そこで形成される資本はやはり goodsとしての善=財という内容をともなわなければならないということである。 そういうわけで、人的資本として人間に対象化されたり、社会関係としてのソーシャル・キャピ タルとしてストックされるだけでなく、資本形成の前提であるその基本的要素としての物質的および非物質的な商品一般は、労働の成果一般がそうであるように、まず使用価値すなわち財(goods)
として生産されなければならないのである。先に引用したように、マルクスも、『資本論』第1巻、 第3篇、絶対的剰余価値の生産、第5章、労働過程と価値増殖過程、第1節、労働過程で、「使用 価値または財貨(goods)の生産は、それが資本家のために資本家の監督のもとで行なわれることに よっては、その一般的な性格を変えるものではない」(53)と述べていた。しかし、自己の労働の 成果としての所有物を自己の財産としての権利的承認を前提として、それを商品として市場で交換 することによって、そこで得た貨幣を資本として蓄積する段階とは異なって、現代のマーケティン グの発展した段階では、すべてを使用価値=財(goods)としてそれを把握するだけでは不十分になっ てきた。マーケティング論でいえば、消費者にとってつくられた商品の使用価値の内容についてそ の製造過程が複雑になったため分からなくなるという、いわゆる品質乖離といわれる現象が生じて いる。そのため、有害商品問題が発生してくる。あるいはそれ以外の理由からも、様々な消費者被 害が発生しているところである。 その点に関して、池上惇は、「従来の経済学では『固有価値を活かした』利用価値という考え方 はなくて、単に、『人間の欲求を満たすもの』という考え方があるだけだった」(54)として、「ほ んもの」の価値を示す言葉として「固有価値」という用語を用いている。その理由としては、「一 口に『使用価値とは欲求を充足するなんらかのものである』というだけでは、…使用価値という 点では共通していてるとは言えても、なぜ、消費者の欲求が『ほんもの』に向かわざるを得ないの か、を説明することはできない。これを説明しようとすれば、…質的な区別を論証しなければな らない」(55)ということにある。そこから、この「質的な区別」を分かつものとして、「疎外され た使用価値」と「疎外からの回復を担う使用価値」とを弁別し、「疎外からの回復を担う使用価値」 を「固有価値」と定義する。そして、消費者による固有価値の評価と享受の過程が「いきがいを実 現する機会の拡大」(56)であり、あるいは「資源の固有`性を活かして人間的発達を担う利用価値」 (57)の実現の過程であるとする。 -29-イギリスのPerformanceandlnnovationUnitが指摘する資本の価値としての「古典派が捨象 した知識や技術」の側面、あるいは価値・交換価値と使用価値との対立において資本を根底におい て規定している使用価値の側面を、善(goods)の生産という視点から見るならば、「人間発達」 の形成に役立つ使用価値を疎外からの回復としての「固有価値」として位置づけること、および、 その生産と享受あるいは消費は、生活経済学の価値論の基礎となるものである。 6.生活経済学の体系化にむけて 以上検討してきたソーシャル・キャピタルについては、1980年代から90年代にかけて欧米で、大 きな政府の失敗とその後の市場原理至上主義の失敗の経験から、第三の道として、それらを補完す るものとして注目されるようになってきた。イギリス、ミドルセックス大学の社会科学調査研究所 のCONSCISEプロジェクトは、ソーシャル・キャピタルを、コミュニティ内部の諸資源から構成 される「信頼」、「互酬関係と相互依存性」、「共有された責任と帰属」、「公式および非公式の社会的 ネットワーク」、「効果的な↓情報チャネル」などであると定義している。(58)このソーシャル・キャ ピタルを構成する要素のなかでは、信頼(trust)が重要である。コミュニティ構成員の相互の信頼が あってこそ互酬関係やネットワークが形成可能であるからである。 RobertDPutnamuは、このソーシャル・キャピタルの生産的性格について、次のように述べ ている。「物的資本と人的資本、すなわち個人の生産`性を高めるところの道具と訓練、という観念 とのアナロジーからいえば、ソーシャル・キャピタル理論の中核的なアイデアは、社会的ネットワー クが価値をもっているということにある。」その社会的ネットワークの生産'性の増大は、社会的コ ンタクトが個人と集団の生産性に影響を及ぼすということによってもたらされる。このように、 「物的資本が物的対象に関連し、人的資本が個人の資質・資産(properties)に関連するのに対して、 ソーシャル・キャピタルは諸個人の間での結びつき(connections)に関連するのである。そして、 社会的ネットワークと互酬関係の規範と信頼`性が、そこから生じてくるのである。その意味で、ソー シャル・キャピタルは、『市民的な徳』と呼ばれるものに密接に関連している。ただ違うのは、『ソー シャル・キャピタル』が、次の事実に注意を促す点にある。すなわち、市民的な徳は、互酬的な社
会関係の濃密なネットワークに埋め込まれている時に最も強力であるということである。」(59)
そこで、生産性の増大に関連した生産的労働の根底的あるいは規定的側面についていえば、先に 引用したマルクスの文言にあるように、労働過程における労働それ自体は、「その結果である生産 物の立場から見れば、…労働そのものは生産的労働として現われる」ということになる。ただし、 マルクスは、この引用文の後に、「このような生産的労働の規定は、単純な労働過程の立場から出 てくるものであって、資本主義的生産過程についてはけっして十分なものではない」(60)と注記 している。資本主義的生産過程においては「資本主義的生産の直接の目的および本来の生産物は 剰余価値なのだから、ただ直接に剰余価値を生産する労働だけが生産的であり、直接に剰余価値を 生産する労働能力行使者だけが生産的労働者である。つまり、ただ、直接に生産過程で資本の価値 増殖のために消費される労働だけが、生産的なのである」(61)ということになる。これを、先に 見た使用価値=財goodsの視点から見れば、すべての労働は生産的労働であるが、しかし、善= goodsという視点から考えると、善きものとしてのgoodsを生産する労働、すなわち、疎外からの 回復を目指す使用価値としての固有価値を生産する労働こそが生活経済学の視点から見た真の生産 -30-的労働であるということになる。 その点で、江尻彰は、生活協同組合労働を把握する視点として次のような見解を打ち出している。 「労働の本源的規定とは、その労働の社会的分業上の位置である。商業・流通のうち、直接に商品 の売買にかかわる純粋の商業労働と商品の保管や運輸にかかわる労働は社会的分業上、異なった位 置にある。前者の商業労働は、『価値も剰余価値も創造しないのであり、ただ価値と剰余価値との 実現を媒介し、また同時に諸商品の現実の交換、ある人の手から他の人への商品の移行、社会的物 質代謝を媒介するだけである』(『資本論』第3巻、第4扁第17章『商業利潤』、参照)のに対し、 保管・運輸労働は、『流通過程のなかで持続する生産過程』であって、基本的には『社会的物質代 謝の媒介』でなく、『人間と自然との物質代謝を媒介』する労働である。それゆえ、前者は不生産 的労働であるのに対し、後者は生産的労働である。今日の生協労働者の労働も、基本的にはこの両 部門を含んでいる。地域担当や商品部の労働は「純粋の商業労働」であるのに対し、物流部門の労 働は、保管労働・運輸労働を担っている」(62)として、その生産的労働と不生産的労働が生協労 働において統一されているところに、生協労働の意義を見いだしている。 しかしこのような見解は、剰余価値を生産するかどうかという資本主義的生産過程から労働を把 握するという見地地にたっての協同組合労働の分析の域を出ていないものであって、生活経済学の 視点からは首肯できないものである。なぜなら、協同組合の本質は、利潤の追求を目的とするもの ではなく、組合員が自主的に福祉向上と豊かな生活の実現を目指すところにあるからである。その ような視点から生産的労働か不生産的労働かが問われなければならない。そこで、ソーシャル・キャ ピタルの重要な構成要素である生協を含めた協同組合労働は、組合員の豊かな生活の実現や地域コ ミュニティの発展に寄与するものでなければならないということであり、このような労働が生産的 労働であるという視点から、生産的であるか否かということを位置づける必要があるといえる。そ こで、生活=生命の再生産過程とする立場からいえば、生田靖は、労働者の商品の購買過程(G- W)を生協を通しての労働力の再生産過程として把握しようとして、かつて、それをA-G-W-A という定式で捉えようとしたことがある。この場合、A=協同組合員の労働力を販売し、G=貨幣 を取得し、それで、協同組合を利用して生活必需品=Wを購入し、自分たちの労働力の再生産= 生活を維持していくという過程を意味している。(63)ただし、生田にあっては、生活=消費過程 と狭く理解しているだけでなく、「商業利潤節約」説の立場に立って、協同組合を商業資本と同一 の機能を果たすものと捉えていたために、この定式から使用価値視点に立って論理を展開したいく ことがなかった。 生田の定式ではAを販売してGを得る先は資本主義企業であるが、雇用形態として、今日では協 同組合も生協、農協だけでなく多様な形態が発展している。また、社会的企業やNPOもその一翼 を担っているコミュニティビジネスの展開も見られる。それが、A-Gの過程となることIこよて地 域の雇用を創出し、そのあとの…P…も地域住民の人間発達に役立つ使用価値=固有価値の生産 を行う可能性をつくりだすことができる。そのようにしてつくりだされた…P…W,のW,の購 入もコミュニティによってなされることになる。そのW,の内容も、地域住民のための善=goods としての人間発達に寄与するものでなければならない。そのように第三セクター分野の総過程とし て定式化される範式を基礎に据えて生活の経済学は体系化されることになる。 -31-
[謝辞] 沖縄大学より学外研究員として2004年4月より2005年3月まで駒澤大学の瀬戸岡紘教授のもとで 1年間研究に専念する機会を与えられた。また、その期間、日本協同組合学会の相馬健次博士のお 力添えで明治大学の中川雄一郎教授のゼミに出席させて頂き、ソーシャル・キャピタルについての 教えを受けた。機会を与えて頂いた沖縄大学と瀬戸岡教授、中川教授、相馬博士に感謝したい。た だし、本論文において誤謬等がもしあったとしたら、その一切の責任は筆者にある。 [注] (1)AnthonyJonesandWilliamMoskoff,”KO-OPS:TheRebirthofEntrepreneurshipin theSovietUnionm,IndianaUniversityPress,1991,pxi (2)GarySBecker,GuityNashatBecker,”TheEconomicsofLife-FromBaseballto AffirmativeActiontolmmigration,HowReal-WorldlssuesAffectOurEveryday Life-m,McGraw-Hill,1997. GarySBeckerの理論については、居城舜子「消費生活経済学の新しい視角」(伊藤セツ・ 川島美保共編箸『新版消費生活経済学』所収、光生館、2002年)において、「ベツカーの理 論は、新古典派の理論枠組みをベースにしてはいるが、とくに、NewHomeEconomics (新家庭経済論、以下NHEと略す)といわれている」(同書、p21)という観点から、その 理論に関するトレースが行われている。 (3)角田修一『生活様式の経済学』、青木書店、1992年、p292。「生活様式」という用語に関す る経済学者の間での混乱を指摘し、その概念化を試みたものとして、拙論「生活様式概念と 生活協同組合の位置」、『日本流通学会年報流通』、日本流通学会編・発行、NC8,1995年 版所収を参照。 (4)暉峻淑子『生活経済論』、時潮社、1977年、pp44-45 (5)暉峻淑子、同上書、pp47-48 (6)伊藤セツ『家庭経済学』、有斐閣、1990年、ppl6-17 (7)拙論「生活経済学の対象と課題」、『沖大経済論叢」、第1号(通巻49号)、2000年3月、所収 において、1970年代後半から90年代の生活経済論の変遷をトレースし、その問題点として生 活経済学が対象領域を消費生活過程に限定していることを指摘した。当該拙論では、さらに 「生活」概念を吟味し、それを人間それ自体の生命の再生産活動として広く捉えることが必 要であると考えた。そして、それを広義の生活様式範礒から展開し、使用価値視点から労働 生活と消費生活を統合させた経済システム転換のための生活経済論を体系化する視座を提示 した。 (8)伊藤セツ「生活経済論のパラダイム」、伊藤セツ編著『ジェンダーの生活経済論』所収、ミ ネルヴァ書房、2000年 (9)伊藤セツ、同上書、pp3-4 (10)伊藤セツ、同上書、p4 (11)伊藤セツ「消費と人間そしてジェンダー」、同上書、p48 (12)川島美保「生産の経済学と『再生産』の経済学」、伊藤セツ・川島美保共編著、前掲『新版 -32-
消費生活経済学』所収、P9 御船美智子『生活者の経済』、放送大学教育振興会、2000年、pp27,28 御船美智子、同上書、Pl4 御船美智子、同上書、P31 御船美智子、同上書、p29 御船美智子、同上書、pp46,45 隅谷三喜男『労働経済論』、筑摩書房、1976年 マルクス=エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』、大内兵衛・細川嘉六監訳『マルクス=エ ンゲルス全集』第3巻所収、大月書店、1963年、pl7 マルクス『経済学批判』、大内兵衛・細川嘉六監訳『マルクス=エンゲルス全集』第13巻所 収、大月書店、1964年、p6。なお、生活様式範蠕が生産様式範檮よりも包括的であるとし、 生活様式範蠕の広狭二つの規定を試みた松原昭の指摘については、前掲拙論「生活経済学の 対象と課題」で触れている。また、そこでは、生活様式範嶬が包括的であることから、経済 システム転換の経済学を、労働の経済学からではなく、生活の経済学から構想する視点を提 示した。 隅谷三喜男、前掲『労働経済論』、pp4-5 隅谷三喜男、同上書、p27 隅谷三喜男、同上書、p46 隅谷三喜男、同上書、pp46-52 隅谷三喜男、同上書、pplO2,103 マルクス『経済学批判』、大内兵衛・細川嘉六監訳『マルクス=エンゲルス全集』第13巻所 収、大月書店、1964年、p5 マルクス『国際労働者協会創立宣言』、大内兵衛・細川嘉六監訳『マルクス=エンゲルス全 集』第16巻所収、大月書店、1966年、p9 松原昭「社会主義的生活様式の経済的考察」、『経済理論学会年報』第18集所収、1981年、 pl83 エンゲルス『反デューリング論』、大内兵衛・細川嘉六監訳『マルクス=エンゲルス全集』 第20巻所収、大月書店、1968年、pl52 エンゲルス『反デューリング論」、同上書、ppl52-153 エンゲルス『反デューリング論』、同上書、ppl53 エンゲルス『反デューリング論』、同上書、ppl55 「第三者への書簡;マルクスからクーゲルマンヘ、1868年7月11日」、大内兵衛・細川嘉六監 訳『マルクスーエンゲルス全集』第32巻所収、大月書店、1973年、p454 マルクス『資本論』第1巻、大内兵衛・細川嘉六監訳『マルクス=エンゲルス全集』第23巻 所収、大月書店、1965年、p233 マルクス『資本論』第1巻、同上書、p235 マルクス『資本論』第1巻、同上書、p237-238 マルクス『資本論』第1巻、同上書、p241 1JJ1J1j 3456789 1111111 くくくくくくく (20) (21) (22) (23) (24) (25) (26) (27) (28) (29) (30) (31) (32) (33) (34) (35) (36) (37) -33-