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[A Study on Almanak Melajoe]

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東 南 ア ジ ア研 究 30巻 2号 1992年 9月

ア ル マ ナ ッ ク ・ム ラ ユ 論

土 屋

治 *

A St

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KenjiT sUcHIYA* は じ め に Ⅰ 植民 地政府刊 行 の アルマ ナ ック 1. 植民 地 時代 の アルマ ナ ック 2. 政府刊 行 アルマ ナ ック

アルブ レヒ ト版 アルマ ナ ック及 びバ ライブ ス タカ版 アルマ ナ ック 2. 読者, スポ ンサ ー,販売政 策 (1) ブニ ン社 の性 格 と広 告主 (2) 販売 ネ ッ トワー ク (3) アルマ ナ ックの読者層 3. アルマ ナ ックをめ ぐる時 間 と空 間 (1) 時 間 の 区 分 と並 列- カ レ ンダーの 1. アル ブ レヒ ト版 の アルマ ナ ック ・ム ラユ 意味論 2. バ ライブス タカ版 の アルマ ナ ック ・ム ラ E? (1) 刊行 当時 の状 況 (2) 読者 数 (3) 読 者 層 (4) アルマナ ックの性格 と機 能 Ⅲ ブニ ン社 版 ム ラユ語 アルマ ナ ック 1. 体 裁 , 内容 の概観 (2) 官僚 共 同体 の時 間 と空 間 Ⅳ シ ャイ-ル とその時代 1. タ ン ・チ ュ ック ・サ ンの シ ャイ-ル 2. シ ャイ-ルの時代 (1) 同時代性 (2) 闇の世界 のかがや き (3) タ ン ・チ ュ ック ・サ ンの時代 お わ り に

Thisarticledealswith theAlmanak Melajoepublished in Indonesia during theperiod ofDutch

colonialrule・ From the latterhalfof-the nineteenth century variouskindsofalmanacswere

publishedinthelargecolonialcities・ Thesewerewidelycirculatedalloverthecountrywiththe

developmentofcolonialbureaucracyand thespreadof'publishingfirms・ AsfarasIknow,there

werethreemainAlmanakMelajoe,almanacswrittenintheMalaylanguageofthosedays. Onewas

published by Albrecht,Batavia;oneby thegovernment-sfX)nSOred BalaiPoestaka)Batavia;and

onebyBuning,Yogyakarta・

Ofthesethree,theAlmanakMelajoepublishedbyBuningisthemostinteresting,sinceitportrays

vividlytheeventsthatoccurredinYogyakartaeachyear・ Theseeventsarenarratedinthestyle

orsJa汀,traditionalMalayverse,andweremostlycomposedbyTanTjookSam,aPeranakanabout

whom we know very little・ He edited the Almanakand composed theSJairduring the years

between 1889and 1904・ ThesubjectsofthesJaけVaryfrom theproliferationofbanditsinthecity

totheofhcialvisitofKingChulalongkorn toYogyakartain 1897,and thespreadofoplum firms

acrossthecountry.

The丘rstchapterorthisarticlediscussestheoutlineofthe almanacs・ The second chapter

* 京都 大学東南 アジ ア研 究 セ ンター ;TheCenterfわrSoutheastAsianStudies,KyotoUniversity

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東南 アジア研 究 30巻 2号

describesthefirsttwoAlmanakMelajoe,publishedbyAlbrechtandBalaiPoestaka,focuslngmainly on theirreadership and usage. Chaptersthree and fourmainly discussthe Almanak Melajoe publishedbyBuning・ ChapterthreeoutlinestheAlmaTZak什om theperspectiveofitsreadership andthepublisher'sstrategy丘)rincreaslngSubscriptlOnS・ The丘nalchapterdescribesinparticular thesJaZraPPearlngin theAlmanak・Thesehaveneverbeen considered by thosestudentsofthe socialhistoryoH ndonesia. ByexaminlngthesesJalr,afullerplCtureCanbeobtainedofcolonial societyinthelatenineteenthandearlytwentiethcenturies.

じ め

アルマナ ック (英語表記 で almanac,イ ン ドネシア表記で almanak)は,本来,磨,暦書 を 意味す るが,転 じて世界各国の国勢 ・スポーツ ・娯楽 な どの記録,情報 を集 めた年鑑, ガイ ド ブ ックの意味で も用 い られ る。 そ もそ もは ヨー ロ ッパ の伝 統 的 な生 活磨, 日の出や 日没 の時 刺,月相,聖人祝 日,祝祭 な どのほか,重要 な歴史的事件 や健諺 な どを記載 した ものであ る。 もともとヨーロ ッパで生 まれた アルマナ ックはい まや世界 中に行 き渡 っているが, イ ン ドネ シア とて例外 ではない。町の本屋 に入ればアルマナ ック とい う名 を冠す る と否 とにかかわ りな く,年 間の暦 と祭事 と公式行事 を記 したほか, さまざまに有用 な情報 をコ ンパ ク トに も り込 み,個 人の予定表 や備忘録 と しての機能 を併せ持 った出版物が,幾種類 も出 まわ ってい る。 それで は,現在 の ことは ともか く, この ようなアルマナ ックは,いつ頃 どの ように して イ ン ドネシアに出現 したのか。 また, アルマナ ックには どの ような種類 の ものが あ り,それぞれに どの ような内容が盛 り込 まれたのか, さらに,それ らは時 とともに どの ような変化 を示 したの か。 あ らためてい うまで もな く,人 々が アルマナ ックにな じみ始める時代 とは,伝統的な年 中 行事 や暦法の上 に,別の新 しい暦が提示 され る とともに,時の推移が印刷物 によって示 される 時代 であ る。個 人の生活史や季節 の変化が, 「客観 的」 な共通 の尺度 において計 られ るよ うに なる時代である とい って もよいだろ う。 これか ら本稿で取 り扱 うのは, イ ン ドネシアにおけるアルマナ ックの起源 と展 開 とい うこと で あ るが, と くに,19世紀 末か ら20世紀初 めの状 況が重点 的 に扱 われ る。 それが アルマナ ッ ク, とくにムラユ語版 (イ ン ドネシア語版) の アルマナ ックにつ いて考 える上で重要 な時期 で あるだけでな く, オランダ植民地支配下 にあ ったイ ン ドネシア, とくにジ ャワ島の社会 と文化 のあ りようとその年 々の変化 をユ ニークな視点か ら示 している と考 え られるか らである。 だか ら以下 で扱 われ るの は,暦 とか カ レンダーその ものである よ りも,「アルマナ ック」 と い う名 を冠 されてい る出版物 その ものであ り,それが年 ご との社会 と文化 をどの ように反映 し ていたのか とい うことが らである。 それに して も, アルマナ ックその もの を考察す る とは どう い うことなのか。何故 そ うす るのか。先ずそれ につ いて述べ てお きたい。 筆者 はこの数年来, 19世紀末か ら20世紀初頭 にかけてのイ ン ドネシアで新 しい タイプの都市

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土屋 :アルマナ ック ・ム ラユ論 文化 が生 まれ,それが植民地社 会の各地 に拡散 ・拡大 してい くこ とに関心 を寄せ て きた。新 し い様式 の風景画, クロ ンチ ョン音楽,新 しい様式 の大衆演劇 な どがそれであ り,それ らは, 20 世紀 に先が けて時代 の新 しい気分 を伝 える とともに, イ ン ドネシアにお ける文化統合 を 「草 の 根」 の レベ ル で す す め て い く もの と して, と りわ け興 味 深 い もの で あ っ た [土 屋 1988; 1991] 。 筆者が ム ラユ語 の アルマナ ックに出会 ったの も19世紀末の文化状況 にかかわる史料 を渉猟 し てい る過程 においてであ った。 この こ とは,植民地 イ ン ドネシアにおいて アルマナ ックが商業 出版物 として出 まわる ようになる時期 が, はか らず も上 に述べ た新 しい タイプの都市文化 の誕 生す る時期 と重 な り合 っていた ことを示 してい る。 なかで も, これか ら述べ るアルマ ナ ック と くにジ ョクジ ャカル タで刊 行 されて いた ブニ ン (Buning)社販 の アルマ ナ ックが, ム ラユ語 の物語 や シ ャイ-ル (詩編) をさか んに掲 載 して いた ことは まことに興味深 い こ とであ った。それ らは, ジ ョクジ ャカル タとい うジ ャワの伝統 的王都がその当時 に どの ように して時代 の新 しい空気 を呼吸 していたか を生 き生 きと伝 えてい た。 それ はまたジ ョクジ ャカル タの時代状 況 を伝 える稀有 の作 品であ る とい うだけで な く,そ のテーマ と語 り方 において, まさにその当時 (19世紀 末年) か ら植民 地支配 の 中心都 市 バ タ ヴ イア (現在 の ジ ャカル タ) を主要 な出版地 として出現 し始 めたムラユ語大衆文芸 に連 なる も ので あ り,それ- のユ ニ ークな寄与 をなす ものであ った。 しか し, アルマナ ック とム ラユ語 の 文芸作 品 とい う組 み合 わせが思 いが けなか ったためか, これ らの諸作 品 はイ ン ドネシア文学 史 の上で まった く軽視 されて きた。そ もそ も当時 のムラユ語 の文芸作 品その ものが 「正統 な文学 史」 の彼方 にあ って長 ら く問題 とされて こなか った とい う状況 にあ った。 これ らにつ いて関心 が 寄せ られ るの は よ うや く近 年 の こ とにす ぎない [Pramoedya1982;Sumardjo1992;押 川 1986;土屋 1987] 。 そ して筆者 の知 る限 り, アルマナ ックに掲載 された諸作 品はム ラユ語 の大衆文芸 を論 じた近 年 の諸研究 において もまった く言及 されて こなか った。その意味で アルマナ ックは思 わぬ盲点 であ った とい って よいだろ う。 従 って以下本稿 で中心 的 な課題 となるのはこれ らの作 品群であ る。 しか し先ず はアルマナ ッ クその ものにつ いて論 じなければな らない。筆者 の主要 な関心 は, 19世紀 と20世紀 を断絶 の相 において捉 えるこ とで な く,それ を連続す る変化 のつみ重 な りとして捉 え ようとす るこ とであ り [土屋 1986], アルマナ ックはそれ を考 えるための一つ の有力 な手掛 りとなるか らであ る。 い うまで もな く, アルマナ ックこそ は 「年が経つ」 とい うその こと自体 をテーマ として これ を 印刷 とい う 「書 き言葉」 の うちに定位す るか らであ る。 以下 に本稿 の扱 う対象 と本稿 の編成 につ いて具体 的 に述べ てお きたい。

本稿 は, オラ ンダ王立言語民族文化研究所 (KITLV:KoninklijkInstituutvoorTaal-,La

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東南 ア ジア研 究 30巻 2号 envolkenkunde)所 蔵 の,植民地時代 にイ ン ドネシアで出版 されていた各種 の アルマ ナ ックの うち, とくにムラユ語版 アルマナ ックを対象 とす る。 本稿 はすで に述べ た通 り,筆者が これ まで にこころみて きたイ ン ドネシアの都市文化 の成立 と展 開につ いての研 究 とつ なが る一方,将来, アルマナ ックを用 いて よ り本格 的 な研 究 を行 う 際 の予備 的考 察 とな るべ き もので あ る。 と くに,後 に述べ る通 り,三種 の ム ラユ語版 アルマ ナ ックの うち本稿 で主 に と り上 げ るの は, ジ ョクジ ャカル タブニ ン社版 であ り, これ よ りは発 行部数が はるか に多 か った と考 え られ るバ ライブス タカ版 につ いては,その刊行主体 も時代状 況 もさらに形式 内容 もブニ ン社版 の もの とは大 いに異 なるので,後 日あ らためて論ず るこ とと す る。 以下本稿 の構成 は次 の通 りであ る。 Ⅰで は,KITLV 所蔵の もの に限 って どの よ うなアルマ ナ ックが植 民地時代 のイ ン ドネシア で刊行 され ていたのかが概観 され る。 なかで も,植 民 地政府 それ 自身が刊 行 して きた アルマ ナ ック (オランダ語版) は もっ とも基本 となる ものであ るので, その概要 が示 され る。 次 に, ム ラユ語 の アルマ ナ ック と して は三種 が あ る。 それぞ れ, アル ブ レヒ ト(Albrecht)

版, ブニ ン社版,バ ライブス タカ (BalaiPoestaka)版 と呼ぶ こ とがで きる。

Ⅰで は, これ ら三種 の ムラユ語版 アルマナ ックの うち, ブニ ン社版 の もの を除 く二つ の アル マナ ック,す なわちアルブ レヒ ト版 とバ ライブス タカ版 に限 ってその全容 を概観 す る。 併せ て 又,そ こに どの ような時代相が反映 されているのか とい うこ とについてい くつ かの要点 を述べ る。 Ⅲ以下で は, ブニ ン社版 の アルマナ ックが扱 われ る。先ず Ⅲで は, 1880年 か ら1912年 にか け ての編成 を年 ご とに概観 し, それ を通 じて この アルマナ ックの読者層 ,販売 ネ ッ トワーク,販 売政策 な どを考察す る。 さらに, この アルマナ ックが暦 日や カ レンダーを通 して どの ような時 間の観念 を導入 しようとしていたのか,その ような時間観念が植民地支配 の どの ような局面 と 関連 していたのか につ いて考究す る。 Ⅳで は, ブニ ン社 の アルマナ ックに載せ られたシ ャイ-ルに焦点が絞 られ る。先 に も述べ た ように, 19世紀末年 か ら20世紀初 め にか けて毎年 の ようにムラユ語 のシ ャイ-ルが載せ られて いた。 それ らの シ ャイ-ルの多 くは, さまざまなテーマ を扱 いなが らそれぞれ にその時 々の世 相 と事件 のあ りようを うたい上 げていた。 それ らは, この アルマナ ックを きわだ って特徴 づ け る ものであ った。 そ こで,Ⅳで はそれぞれにつ いて概観 しい くつ かの もの につ いてはやや詳 し く紹介 し,最後 にそれ らが時代 の状況 とその変化 のあ りようをどの ように反映 していたのか に つ いて論述す る。 なお,本稿 で頻 出す るム ラユ語 はマ レー語 ない しイ ン ドネシア語 と表記す ることも可能であ るが, ここで扱 うのが主 として19世紀 か ら20世紀 の初 め にか けての時期 であ るこ とと, アルマ

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土屋 :アルマ ナ ック ・ム ラユ論 ナ ックの タイ トルが何 れ も 「ムラユ」 と記 されてい るのでそれ に従 うこ とにす る。 また,綴 り 字 は何 れ もそれが記 された時点での綴 り方 に従 う。 従 って例 えば 「ムラユ」 は現在 の綴 り字 に よれ ばM elayuとすべ きだが, その当時 の綴 り字 で M elajoeと綴 られ る場 合 にはそれ に従 う.

植 民地政府刊行のアルマナ ック

植民地 時代 の イ ン ドネ シアで は さまざまなアルマナ ックが刊行 されていた。KITLV 所蔵 の もの につ いてその概要 を述べ てみ よう。 1. 植 民地時代のアル マナ ック 植民地時代 に どれだけの種 類 の アルマナ ックが どれだ けの期 間にわた って刊行 されていたの か をすべ て知 る こ とはで きない。KITLV の カ タログに限 ってそ こか ら窺 えるの は次 の ような こ とであ る。 (1) アルマ ナ ックはその タイ トルか ら察す る限 り,い くつ かの種類 の ものが数種 の言語 にわ た って刊行 されていた。 特 にキ リス ト教徒 向 けに作 られたアルマナ ック, 中国暦 を中心 に編集 されたアルマ ナ ック, ジ ャワ農民 の アルマナ ックな どの ように内容 の特定 された ものが,通常 の アルマナ ックのほか に刊行 されていた。 これ らの アルマナ ックの使用言語 も, ムラユ語, オラ ンダ語, ジ ャワ語 の ほか ス ンダ語 に まで及 んでいて, さまざまな読者層 が想定 されていた こ とを示 してい る。l) (2)これ らの アルマナ ックが刊行 された時期 もさまざまであ る。 次 に述べ る植民地政府刊行 の アルマ ナ ック (Regeringsalmanakken)はす で に18世紀 初 めか ら刊 行 され て もっ と も長期 に 及 んでい るが, これ を別 にす る と, 19世紀 の後半 に入 って, い くつ かのアルマナ ックが刊 行 さ れ始 めた ら しい。 そ の先 鞭 を切 ったの は, ジ ャワ語版 アルマ ナ ックで,1854年 以来刊 行 され,第12巻 (1865 午)以 降 は,当時の著 名 なジ ャワ語 ・ジ ャワ文学 の研 究者で あ った A.B.CohenStuart編 と銘 打 たれ スマ ラ ンのG.C.T.vanDorp社 を出版元 と して いた。 stuart編 とい う記載 は1878年 当 1)KITLV 所 属 の ア ルマ ナ ックの うち, これ に関す るアルマ ナ ック と して次 の ものが挙 げ られ る。 なお 記 載 され た年 度 は, その所 蔵年 を示す 。

AlmanakorangMafehipadaTahocn1881・

Almanakdcngant

a

felpembitjaraLi'nElkitab,jangloenjoek∫aJaharinal∫bagitahoen1891-96&1898-1901. Batavia.

Almanak(Ned.-Chin.)1861-1920. Batavia. 1908. Almanak(Soendance∫che)″oor1900,1903・

Almanak(Takwin)hitoenganhart,boelan,tahoenorangMaJehi. 1877. AlmanakTani. 1925-1933.

AlmanakTaniDjawa1929-30,

AlmanakuanbetIndoLogischeSiudentencorpsDoor1898199・ Delft・ 1898.

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東南 アジア研究 30巻2号 時 には表紙 か ら姿 を消 すが, vanDorp社 の刊行 物 と してそ の後 も出版 され,KITLVで は, 第52巻 1905年版 まで所蔵 されているので,少 な くとも半世紀以上 にわた って, この ジ ャワ語版 アルマナ ックが刊行 されていた こ とが窺 え よう。2) ム ラユ語版 アルマ ナ ックは後 に述べ る通 り少 な くと も三種 の主要 な ものが刊 行 され たが, もっ とも早 い ものは, 1877年以来 ジ ョクジ ャカル タのブニ ン社 か ら出版 された。 この版 は,第 36巻 1911年迄 の ものが所蔵 されて い る。3) (以下本稿 で主 と して扱 うの は, この ブニ ン社版 の アルマナ ックであ る。) このほか に, 1896年 か ら97年 にかけて,バ タヴイア (現在 の ジ ャカル タ) の アルブ レヒ ト社 か ら別 のム ラユ語版 アルマナ ックが 出 されて い る。4) しか しこれが その後 どうな ったのか は走 かで はない。 同 じくム ラユ語 の アルマナ ックで特 にキ リス ト教徒 向けに編纂 された と考 え られ る ものが, 1881年, さらに1891年 か ら1901年 にかけて刊行 されてい る。 こ う してみ る と, アルマ ナ ックはつ とに植 民 地政府 か らオ ラ ンダ語版 で刊 行 されて いた こ と, それが, 19世紀後半 になって先ず ジ ャワ語 の ものが 出 され, ひ き続 いて1870年代後半 か ら はム ラユ語 の ものが 出 され始 めた こ とが うかが える。 また, ジ ャワ語版, ムラユ語版 ともにバ タヴ イア, スマ ラン, ジ ョクジ ャカル タな どに所在す る民 間の出版社 か ら刊行 された こ とも知 られ る。 さて Ⅰ以下で ム ラユ語の アルマナ ックにつ いて詳論す るの に先立 って,植民地政府刊行 の ア ルマナ ックの概要 をみてお きたい。 これが唯一公式 の アルマナ ックであ る とともに, 1942年 日 本軍 の侵攻 に よって植民地政府 が崩壊 す るまで連綿 と して刊行 されて きた ものだか らであ る。

2.

政府刊行 アル マナ ック 現在 『政府刊行 アルマナ ック』 (Regeringsalmanakken)と して分類 されて い るアルマ ナ ック の うち,KITLV に所 蔵 されてい る もっと も初期 の ものは, 1735年版 であ る。以後 1736年 か ら 45年 にか けて,47年 か ら51年 にか けて, 1795年 か ら1802年 にか けての各年 は散逸 してい るが, それ以外 の各年 につ いて は,1942年 に至 る まで所蔵 されてい る。 これ らが植民地史,植民地政 策史,植民地統治機構 と人事等 につ いて基本 的 な資料 となるこ とはい うまで もないが, ここで は 「アルマナ ック」 とい う点 に視点 を限 って概観 してお こ う。 2)標題等は次の通 りである。 Almanak Uauaansche)Door1865-71,78179,81-85,87-89,1891-1901,1903-05(12-18),25-26,28-32,34-36,

38-48,50152,tahoen)onderredaktieDanA・B・CohenStuart・ Semarang,vanDorp.

3)標題等は次の通 りであるo

Almanak(Malei∫che)4-7Jaargang(1880-83)onderredaciiePanF・L・Winter13123(1889-99)en25127(1901103) ∫amenge∫telddoorTanTjiookSamYogyakarkz(1879-1902),28-36(1904112).Yogyakarta,Buning・

4)標題等は次の通 りである。

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土屋 :アルマナ ック ・ムラユ論 (1)先 に述べ た通 りこれ らは現在 「政府刊 行 アルマ ナ ック」 と して一括 されて い るが,実 は, アルマナ ックの語 が最初 に用 い られ る とともにその内容 に暦 にかかわ る情報が盛 り込 まれ るの は,1807年 の こ とであ る。 それ以前 は,植民地政府 に関係 す る人々の 「人名録」 であ り表 紙 に も 「名鑑」 (Naamregister)とだけ記 されてい た。例 えば所 蔵 中 もっ と も古 い1735年版 は 10×5cm程度 の小型版 でペ ー ジ数 も94ペ ージ, そのなか にオ ラ ンダ東 イ ン ド会社 及 び西 イ ン ド会社 関係 の人名が記載 されてい る。 このス タイルは18世紀 中 を通 して一貫 してお り、版 のサ イズが拡 大 した りペ ージ数が増 えた りは して も、会社設立以来の総督名,高級将校 と高級役 員,各職域 の担 当者名 を記載 してい く こ とは不変であ る。周知 の通 りオラ ンダ東 イ ン ド会社 は1799年 に解散 し,19世紀以降植民地 は オラ ンダ政府 の直接 支配下 に置 かれ るこ とになるが,「人名録」 (名称 は18世紀以 降Naamboek と変更) とい うタイ トル もその内容 も継承 された。 (2)ところが1807年以来 アルマナ ック として刊行 され内容 もそれに ともなって変化 す るよう にな った。 「イエ スキ リス ト生誕1807年 の グ レゴ リウス方式 に基づ いて新 し く改 良 された アル マナ ック」 とい う長 い タイ トルが表紙 に記 された。そ して アルマナ ック と改称 した こ とに とも な って次 の事項が新 たに記載 され るようにな った。それ らは,西暦年, キ リス ト教 の祝 日, イ ス ラム教 の12カ月の名称 , イス ラム教 の祝 日,星座表,12カ月の暦, 日の出 ・日の入 ・月のみ ちか け表,バ タヴ イア及 びその周辺 の定期市 ,重量等 の単位表,船舶運行予定 (到着 ・出発) 衣,香料 の値段表 であ る。 これ に加 えて,従来通 り人名録が載せ られたか ら, この年以来政府 刊行 アルマナ ックはアルマナ ック と人名録 とい う二重 の機能 を併せ もつ ようにな った。 (3)ヨー ロ ッパ の ナ ポ レオ ン戦争 の余波 が植民地 に も及 んだ結 果, ジ ャワは周知 の通 り, 1811年 か ら16年 にか けて英 国の支配下 に入 りラ ッフルズ (T.S.Rafnes,1781-1826)の下 で統 治 され るこ とになるが,その期 間 も引 き続 いて政府刊行 アルマナ ックは出版 された。1816年版 をみ る と,英語で 「ジ ャワ年鑑及 びアルマナ ック1816年版」 と表紙 に記 され,内容 も英語で記 載 されてい る。 その内容 は従来通 り暦 と政府高官,各職域官吏の名簿,船舶運航予定,度量衡 単位換算表,商 品情報等 を主 とす るが,新 た に次 の こ とが らが記載 されてい る。 す なわち,港 湾倉庫 に関 わる条令, これ に ともな う郵送料一覧,著名 なクラブ (Society)の編成, ヨーロ ッ パ 人居住 者 (ヨー ロ ッパ 人及 びその子孫) の職 業 と居住 地, 同 じ くヨーロ ッパ 人居住 者 の結 鰭,誕生,死亡者名 の一覧であ る。 ここに新 たにつ け加 え られた事項 はそれ以降 オラ ンダが植 民地 に復帰 したのち も引 き継がれ る とともに, アルマナ ックの重要 な記載事項 とな ってい く。 ちなみ に, この年約14,000名が居住者 と して記載 され,その職業 は貿易商,仕立商,床屋 , 靴屋 ,宝石商,書店主,械塔商 な ど,書記 や役 人 に限 らず各分野 にわた っていたO また, この 年 に はこの アルマ ナ ックの定期購 読者 一覧が記載 されてい る。 それ に よる と総計163名で全員 が ヨーロ ッパ名,その居住 地 はバ タヴ イアをは じめ, スマ ラン, ス ラバヤ, ボ ゴール, レンバ 119

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東南 アジア研究 30巻2号 ン, ジ ョアナな どジ ャワ島の各地 に及 んでいた。 (4)上 に述べ たことは, ラ ッフルズ統治 の時代 にそれ以前 のアルマナ ックの内容が継承 され ただけでな く,新 たにい くつ かの情報が掲載 されそれが その後のアルマナ ックのス タイル を作 り上 げた こ とを示 してい る。 特 に ヨーロ ッパ人居住者 リス ト及 び結婚,誕生,死亡 な どの動静 は1865年 まで続 き, その人数 の増加 と共 に多 くのペ ージが それ につ いや され る よ うになった (例 えば, 1863年 には約270ペ ージ, 1864年 には約 280ペ ージが居住者 とその動静 にかかわる情 報 にあて られていた)。 (5)ラ ッフルズ統治以降の アルマナ ックについて生 じた主要 な変化 は次 の ような ものであ っ た。 アルマナ ックその ものの タイ トルは1817年以降, オラ ンダ語で 「オランダ領東 イ ン ドアルマ ナ ック」 と記 され、 1824年以 降は 「オラ ンダ領東 イ ン ドアルマナ ック及 び人名鑑」 と記 され, さらに, 1865年以 降は 「オランダ領東 イ ン ド政府刊行 アルマナ ック」 と現在ふつ うに用 い られ ている呼称へ と落 ち着 いた。名称 の変化 は何 回かあ り時 とともに内容 に も変化がみ られたが, アルマナ ック と人名録 を併せ もつ とい う基本的性格 は継承 されてい った。 1834年 には, キ リス ト教, イス ラム教 の月の呼称,祝 日に加 えて,中国月の呼称 と中国の祝 日が記載 されるようになった。 1843年 には, オランダ植民地の発展 に関す る簡単 な年表が付 される ようにな り,植民地の原 住民首長の名が記載 されるようになった。 1854年 はジ ャワ語版 アルマナ ックが創刊 された年であ るが, この年以降政府刊行 アルマナ ッ ク中に も, ジ ャワ暦 についての大変詳 しい紹介 と解説が付 されるようになった (これだけで20 ペ ージ もが割かれていた)。 1856年 にはさらにイス ラエル暦 とその祝 日一覧がつ け加 え られた。つ ま りこの年,キ リス ト 教 (西暦), イス ラム暦, ジ ャワ暦, 中国暦,ユ ダヤ暦 の5種 の カ レンダーが アルマ ナ ックに 並記 され ることになった。 1858年 には,暦 の記載部分 (全部で75ペ ージ),人名録部分 (全部で570ペ ージ, この内政庁 関係 名録343ペ ージ,残 りは居住者 リス ト等) に加 えて,66ペ ー ジの補遺 (bijlagen)が載せ ら れた。補遺では当時施行 されていた植民地基本法 (1848年制定,以後部分的 に修正) の全文が 記載 された。 この補遺部分 もこれ以後次第 に分量 を増 や しなが らアルマナ ックの必須部分 をな してい った。 1860年版以来, 1860年代 を通 じて,CohenStuart(ジ ャワ語 アルマナ ックの編者) が, ジ ャ ワ暦 とイス ラム暦 につ いて解説 を付 している。 1865年 以 来 植 民 地 の 人 口 統 計 が 記 載 さ れ る よ う に なっ た。 ヨー ロ ッパ 人, 原 住 民 (Inlander), 中国人, ア ラブ人,その他 の東洋外 国人 とい う 5つ のカテ ゴ リーが設 け られ,そ

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土屋 :アルマナ ック ・ムラユ論 れぞれの行政州 ご との人 口数が記 された。 この こ とと軌 を一 に してそれ までの居住者名簿,結 婚 ・出生 ・死亡者名簿が姿 を消 し,すべ て統計 で処理 され るようになった。 この年,植民地 に 居留 す る ヨーロ ッパ人 は33,194名であ った と記録 されてお り,それだけの数の人名 を逐一記載 す る手 間 とスペ ースが さすが に不足 していた と考 え られ る。 しか しそれ には また, ヨーロ ッパ 人 コ ミュニテ ィー自身がお互 いの名前 を名簿上で確認 し合 う状況か ら, もっと分節的な単位-と変 らざるをえない時代が到来 した ことを,併せ て示 してい るであろ う。 この年以来, アルマ ナ ックに載 る人名 は政府各官庁 の公務員,小数の原住民首長 に限定 され るこ とにな った。 1881年 にはアルマ ナ ックは2分冊 となった。補遺部 分が次 第 に量 を増 して きたの に対 応 し て, その部分 を分冊 と したか らであ る。 2分冊方式 は82年以降 も引 き継 がれ たが, 1冊 目を人 口統計,行政 区一覧,補遺 (新 しい条令,法令 の記載) と し,2冊 目を本来の アルマナ ックと 人名録 に充て ることにな り,以後 このス タイルが引 き継 がれてい った。 20世紀 に入 る頃か らア ルマナ ックは益 々分厚 い もの とな り,第2分冊 (暦 と人名鑑) だ けで しば しば1,000ペ ージ を 越 えるほ どになった。 そ して この ような体裁 を保 ちなが ら, この政府刊行 アルマナ ックは植民 地支配の尽 きる最後 の年 まで, もっとも重要 な政府刊行物 の一つ として刊行 され続 けた。 それに対 して, ム ラユ語 の アルマナ ックはこれ よ りもはるか に遅 れ, また民 間の出版社 か ら 出 された。 Ⅱで は,先ずその概要 につ いて述べ るこ とにす る。

アル ブレヒ ト版 アルマナ ック及びバライブスタカ版 アルマナ ック

上 にみ た通 り,植民地政府 が200年 にわたって アルマナ ックを刊行 して きたの に対 し, 19世 紀半 ば以 降 さまざ まなアルマナ ックが民 間の出版社 か らも出 されて きた。 この うち, 『ァルマ ナ ック ・ム ラユ』 とい うタイ トルの下 で刊 行 され, か つ KITLV に所 蔵 され て い るアルマ ナ ックとして は, 1877年以来の ジ ョクジ ャカル タのブニ ン社 出版 の もの, 1896年以来刊行 され たバ タヴ イアのアルブ レヒ ト社販の ものが19世紀 中に出 され, 20世紀初頭 にかけて刊行 された のに続 き, 1919年以来植民地政府文化局が スポ ンサ ーであ るバ ライブス タカか ら 「フ ォルクス アルマナ ック ・ム ラユ (ム ラユ語版民衆 アルマナ ック)」 (VolksalmanakMelajoe)が出版 され るようになった。 このバ ライブス タカ版 はそれ以降1940年版 まで ひ き続 いて出 され, またはは 同時期, ジ ャワ語版 とス ンダ語版 も出版 された。つ ま りバ ライブス タカは1919年以来, ムラユ 請, ジ ャワ語, ス ンダ語三種 の アルマナ ックを, さらに1921年版か らはこれにマ ドゥラ語版 を 加 えて毎年 出版 して きたのであ る。5) 5)KITLVに所蔵されているものは次のとおりである。

volk∫almanakMelajoc.(1919-1933,1936-1940)Batavia,BalaiPoestaka.(AMBPと略称される場合があ り)

volk∫almanakDjawi.(1919,1921-26,1928-33,1935-39)Batavia,BalaiPoestaka.

volkSalmanakSocnda.(1919,1921125,1927-33,1935139)Batavia,BalaiPoestaka.

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東南 アジア研 究 30巻 2号 以下,上 に述べ た三つ のム ラユ語 アルマナ ックつ ま りブニ ン社版 , アルブ レヒ ト版,バ ライ ブス タカ版 の概要 をみてお こ う。 この うち, ブニ ン社版 の アルマナ ックにつ いてはⅢ以下で詳 し く触 れ るので, ここで は,特 に アル ブ レヒ ト版 とバ ライブス タカ版 につ いて述べ てお きた い 。 1. アル ブレヒ ト版 のアル マナ ック ・ムラユ バ タヴ イアの アル ブ レヒ ト社 か ら1896年 に刊 行 された アルマ ナ ック (AlmanakMelajoe)の うちKITLVに所 蔵 されて い るの は1896年 と97年 の二年分 に しかす ぎないが, これ は アルマ ナ ック ・プ リヤ イ (AlmanakPriaji)と も称 されて ひ き続 き刊 行 されて いた と考 え られ る。 そ れ は Ⅰで述べ た植民地政府刊行 アルマナ ックが 1898年版以 降,その当時刊行 されていた種 々の アルマナ ックの名称 と出版社 の一覧 を記載す る ようにな り,その中に, ブニ ン社 の ム ラユ語 ア ルマ ナ ック,vanDorp社 (スマ ラ ン) の ジ ャワ語 アルマ ナ ックな ど と並 んで,AlmanakPriaji

(Maleisch),Albrecht&Co (Batavia),つ ま り 「バ タヴ イアアル ブ レヒ ト社 版 プ リヤ イ ・アルマ

ナ ック (ム ラユ語)」と記 されてい るか らであ る。 そ して この記載欄 をみて い くと, この アル

マナ ックは1915年 まで ひ き続 き刊行 されていた こ とが知 られ る。 しか し, 1916年以降 はその記

載欄 その ものが な くなるので, それ以後 の状 況 は さ し当 り不分 明であ るが ほぼその頃 に刊行 を 停止 したので はないか と考 え られ る。 ちなみ に また, ブニ ン社版 の アルマナ ックは1910年以降

記載 されていないが, アルマナ ックその もの はその後 も刊行 され続 けた ようであ る。6)

アルブ レヒ ト版 の編集者 は F・Wiggersとい う人物 で あ った。F.Wiggers自身 はかねてか ら バ タヴ イアで ジ ャーナ リス トと して活動 し, 『プ ンブ リタ ・バ タヴ イ』 (PemberitaBetawi )な どの編 集 に携 わ って いた。彼 は また親 中国派 と して も知 られていた。 『こ ヤイ ・イサ』 (1901 午), 『奴隷 か ら王様- 』 (1898年) (翻訳), 『ジ ャワ銀行襲 われ る』 (刊 行年不 明) な どの ム ラ ユ語 の作 品 を残 した こ とで も知 られてい る [pramoedya 1982:17-20]。 この アルブ レヒ ト版 が当時 どの程度読 まれていたのか, また どの ような読者層 が これ を購入 したのか は定 かで はない。ただ, 1896年,97年版 に さまざまな書状 の文例 , と くに,役所 ない し会社勤務 の人 々に必要 となるか も知 れない文書 の文例 が い くつ か載せ られているこ とか ら, 当時の イ ン ドネシア人下級官 吏や書記 な どを対象 と して この アルマナ ックが編 まれた と考 える こ とがで きるか も知 れ ない。 6)筆者は,ブニン社版ムラユ語アルマナックの1925年版 を目にする機会をえた。表紙に第49年度 と記さ れており,このアルマナックがひき続き刊行されていたことが知 られる。その体裁は1912年当時のも のと基本的に同一で,「政府刊行のアルマナックに準 じて作成される」 と明記されているほか,後に述 べるタン ・チュック ・サ ン時代のアルマナックにおいて精彩を放っていたシャイ-ルはまったく姿を 消 している。(なおこのアルマナックは五十嵐忠孝氏の好意により目にすることができた。記 して謝意 を表す次第である。)

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土屋 :アルマナ ック ・ムラユ論 そ うす る と, このアルマナ ックが前述の ように 「プ リヤ イ ・アルマナ ック」 とも称 されてい た とすれば, ここでのプ リヤイは 「ジ ャワの貴族」 とい うことよ りも 「植民地政府の原住民官 僚」 とい うニ ュア ンスが強いであろ う。 それは19世紀末頃にプ リヤイ とい う語がその意味 を変 えは じめた,少 くともそ こに新 しい意味がつ け加 え られるようになったこ とを示す, ご く初期 の例であ るといえよう。7) ところで ここに挙 げ られた文書,文例 ・文案 は以下の ような もの を含 んでいた。民法上の訴 状 の文例 (あ るイスラム教徒 キ ダンなる人物が,商品の代金 を未納 に していることを訴 え出る 訴状 ,借金未返済者 の拘 留 を要請す る訴状,差 し押 さえを要請す る訴状),昇進 を願 い出 る書 状 の文例 (すで に15年 間書記 として働 き,何 の失敗 もおか きなか った,つ いては昇進 をお願 い したい云 々),病気 に よる休 暇願 いの文例 (医師の診 断書つ きで,2カ月間東 ジ ャワの高原の 保養地 トサ リでの休暇 を届 け出る)及 び休暇延長願 いの文例, オランダ領東 イ ン ドでの滞在許 可 を願 い出る文例 (このケースはあるアラブ人で税金 を もっと払い ますか らぜ ひ滞在許可 を下 賜 して下 さい とい うもの),逆 に税金の軽減 を願 い出る文例 な どであ った。 そ こには,公文書 を扱 うことを必要 とす る制度 と法令が次第 に出来上 りつつあ ったこと,そ れに呼応 して公文書 にな じもうとす る人々が確実 に増 え始めていたことが明示 されている。 そ れはまた,公文書 とお上が結 びつ き, これ を願 い出る者 は 「Lもべ」 として振 る舞 うことが次 第 に常態化 してい くこ とで もあ った。例 えば訴状 の冒頭 はつ ね に 「この卑 しきしもべ何 某 は

.

.

.

.

..」 ("Hambajangamatlaif,‥.M)で書 き始 め られ,一つの常套句 (ク リシェ) として確立 してい った。そ こには, 19世紀末の植民地官僚 の確立が,たんに法の支配 の浸透や郵便 ・鉄道 等 の イ ンフラス トラクチ ャーの発展 だけでな く, 日常生活の さまざまな局面で公文書が重要 な 意味 をもつ とともに,そ こに 「お上 としもべ」の間の脆拝 の構造があわせ て進行 してい く時代 であ ったことが,ゆ くりな くも示 されている。 このアルマナ ックが当時の状況 を反映 させ ている もう一つの ことが らは,書籍の出版広告で あ る。 アル ブ レヒ ト版 の巻 末 には 自社 の 出版広 告 が載せ られて い る。 正式 には Albrecht

&

Rusche,Batavia-Soloとあ り, ソロ (ス ラカル タ) にある Rusche社 と共 同出版 された もので あ る。 1896年 には全部で132点 の出版物 の広告が あ り,すべ て ムラユ語の書物であ る。 シ ン ド バ ッ ト, アラデ イン (絵入 り),千夜一夜 (絵入 り),サ ンペ ク ・エ ンタイ等 の物語のムラユ語 訳 (翻案) のほか,植民地政府の法律 ・法令集 (オランダ語) のムラユ語訳 も少 なか らずみ ら れる。 この うち法律 ・法令集の翻訳 には, オランダ領東 イ ン ド統治基本法,刑法,商法,警察 法 (hukum policie),宗教法,中国人の相続等が含 まれている。 7)周知 の通 りイ ン ドネシア人の編 集 になる最初の新 聞 は1907年 テ ィル トアデ イスル ヨに よって創刊 され たが, それはMcdanPrlj'ajiと称 した。 こ こで もプ リヤ イは,貴 族 階層 と限定 して い るだ けで な く,植 民地政府 の原住民官僚 を含 む よ り広 い概念 であ る と考 えて よいだろ う。 123

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東南 アジア研 究 30巻2号

1897年の アルマナ ックに も数多 くの本の広告が載せ られている。前年同様の書物 に加 えて,

料理方法 を紹介 した本や, さまざまな手紙の用法 を集めた文例集の広告がみ られる。

このほか両年 にわたって裏表紙 には次 の二つの広告 が出 されている。 一つ は,先 に述べ た rプ ンブ リタ ・バ タヴイ』 (PemberitaBetawi)とい う新 聞の広告で購読料 は年 10フロー リンと 記 されている。 もうひとつ は TambagaKuning製の氏 名印である。 これ らは二つ ともい うま で もな くアルブ レヒ ト社 か ら発売 されている。 これ らの広告 は物語 をは じめ とす る読物 と手紙の文例集の ようなマニ ュアル物 とに大別 され る。 とくに,先 に述べ た さまざまな訴状 の紹介 を含めて, このアルマナ ックによって生活の智 恵 ・マニ ュアルを得 よう (与 えよう) とい う傾 向が認 め られるのである。

2

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バ ライブスタカ版のアルマナ ック ・ムラユ バ ライブス タカは植民地政府が 1917年 に設立 した機 関で,図書 の選定,出版,回覧な どを通 じて,原住民 に良質な図書 を供給す ることを目的 としていた。そのオランダ語名 はフォル クス レクテユール Volkslectuurで民衆 図書館 の意であ る。 ここにい う 「良質 の図書」 とは植民地 政府 か ら見て健全 な図書 とい うことで,植民地社会の秩序 を乱す とみな された書物 は出版 を拒 否 された り書 き直 しを命ぜ られた りしてつねに政府 の検閲下 にあ った とされている。 バ ライブス タカか らは,娯楽的な読物や農業,畜産 な どの知識 と技術 をひろめる啓蒙書が刊 行 されたほか, イ ン ドネシア各地の民話 や年代記 が編纂 された り,西洋 の名作 が翻訳 された り,その出版の分野 は多岐 にわた り,その総 出版点数 も植民地時代 を通 じて約2,000点 に及ん でいた。その ような出版物の一つ として, 1919年版以来, ムラユ語, ジ ャワ語,ス ンダ語三種 の アルマナ ックが刊行 されたのであ る。 この うち, ム ラユ語版 に限 って以下 に概観 してみ よ う。 アルマナ ックの個 々の内容 にわたることが らについては後 日別 に考察す ることとし, ここ で はアルマナ ックのス タイルやその変遷,読者層等 について述べ るだけにとどめたい。 (1) 刊行当時の状況

ムラユ語版 アルマナ ックは正式 の タイ トル を volksalmanakMelajoe「ム ラユ語民衆 アルマ ナ ック」 とい う。volksは 「民衆用 の」 とい う意味 と共 に,Volkslectuurの Volksが重ね合 わ

されていると考 えられる。 その初 年度版 (1919年) は,前文 で次 の よ うに刊 行趣 旨を述べ てい る。 「ここに Volksa1 -manakつ ま り 『民衆 アルマ ナ ック (Almanakraijat)』 を刊 行す るこ とになった。 これ は, オ ランダ領東 イ ン ドのあ らゆる人々,プ リヤイに も農民 に もまた男 に も女 に も役立つ ことを目指 す。 ムラユ語だけでな くジ ャワ語 とス ンダ語のアルマナ ックも併せて刊行す る。 オランダでは 200年 を越 えて ひき続 き刊行 されてい るアルマ ナ ックがあ るが, この アルマナ ックも長 い寿命 を保つ ように と期待す る。」

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土屋 :アルマナ ック ・ム ラユ論 初年度 の総ペ ー ジ数 は240ペ ージ, その後年 に よって増減 はあ るが ほぼ230ペ ージか ら320 ペ ージ位 の分量で推移 している。 なお初年度の定価 は0.6フロー リンであ った。 最初 のペ ージにオランダ女王 ウイルヘル ミナの写真が毎号飾 られた。その後 につづ くのは年 によって異動が あ ったが,1919年 についてみる と大略次 の ことが らが掲載 されていた。 オランダの王家 と王族 の誕生 日。 祝 日。 暦年 (西暦年, イスラム年, ジ ャワ年等 による暦年 の表示)。 1919年のカ レンダー。 ここまでが狭義 のアルマナ ックに当たる部分で この部分 はその後 もほほ一貫 して同様 のス タ イルで掲載 された。 これ らはペ ージ数 に して も全体の 1割程度,残 りは実 にさまざまなことが らか ら成 り立 っていた。その 目次 をすべて紹介す ることはで きないので,主 な もの またユニー クと思 われる ものに限 ってその項 目を書 き抜 いてお こう。 植民地人 口統計,中央政府 の機構 ,度量衡 と換算表,郵便規則,鉄道規則,マ ラリヤ と治療 秦,眼病,料理 の手引 き,家畜の飼育,茶の母木伐採禁止事項,ヤ シ樹 の生長, コーヒー樹 の 手入れ,馬屋 の手入れ,開田,質入れの規則,公務員規定,村長の義務, アルコール飲用,髪 の手入 れ,肌 の手入れ,子供 の族,学校 (8の公立学校,24の各種技 能養成学校 の紹介)。 そ の合 い間に,短詩や短編 の歴史物語や ことわざな どが挿入 されている。 この初年度版 はよ く売れた らしく, 1920年版の まえが さ中に,初年度版 はたち まち売れ切 れ たので再版 を した と記 されている。 また写真 を多用 したので今号 は0.75フロー リンに値上げ し た とも記 されている。 第 2年度分の 目次 は暦 を中心 とす る冒頭部分 だけが前年度 と同 じで,それ以下 は,病気 ・怪 我 の緊急治療法,婦 人生活百科,農作業案 内 な ど構成 ・内容 とも全 く異 なる記事 を載せ てい る。 ただ し,前年度 と同 じく,生活 に役立つ知識 や技術 の手本 を与 えようとす る編集方針 は共 通 してお り, この ような性格 はそれ以降 もつ らぬかれ ることになる。 (2) 読者数 それで はバ ライブス タカ版 のアルマナ ック ・ムラユ は どの ような読者層 によって どの程度読 まれていたのだろ うか。それ を推察す る手掛 りがい くつか示 されている。 先ず発行部数であるが,初年度第2年度 ともたちまち売 り切 れて増刷が くり返 され1920年代 を通 じて急上昇 してい った。 1929年の発表 によればそれは次 の通 りであ った。 1919年2万9千 那,1925年4万8千部,1927年5万8千部, 1928年8万5千部, 1929年約10万部。 これは驚 くべ き売 り上げであ る。 それについて1924年版 の序文 中には,「オラ ンダ領東 イン ドの当時の人 口は約4,000万人その うち23%は字の読み書 きがで き,読 み書 きで きるこれ らの 人々の約10%はわが アルマナ ックを読 んでいる」 と誇 らし気 に記 されている。実際 に計算 して み る とここにい う10%とは約92万人 になる。仮 にアルマナ ック 1冊 を10人位が 目を通す とすれ ば (その想定 はイ ン ドネシアの読書状 況 を考 える と比較 的現実 に近いであろ う),1929年 当時 125

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東南 アジア研究 30巻2号 の発 行 部 数 に お い て は100万 近 い 人 々 が これ らの ア ルマ ナ ック に 目 を通 して い た 可 能 性 が あ ろ う。 ま こ とに 日 を見 張 る よ うなベ ス トセ ラ ー, そ して植 民 地 政 府 の主 導 す る文 化 政 策 と して大 成 功 で あ った とい う こ とに な る だ ろ う。8) さて この よ うな成 功 の理 由 は い くつ もあ ったで あ ろ う。 第 一 は内容 が生 活 に役 に立 つ もの で あ った こ とが 挙 げ られ る。 政 府 条令 の 紹 介 を は じめ , 各 種 の生 活 情 報 (鉄 道 運 賃 , 郵 便 料 金 , 学 校 情 報 , 家 事 ,健 康 , 園芸 ,畜 産 , 農 作 業等 ) が も られ, そ の合 い 間 に軽 い読 み物 と詩 編 が 織 り込 まれ て い る とい う体 裁 は, 読 ん で利益 が あ る,換 言 す れ ば 「知 は力 な り」 とい う命 題 を 生 活 レベ ル で 実 現 させ る もの で あ った。 第 二 はバ ラ イ ブ ス タカ とい う公 立 の 出版 社 の もつ 力 の 大 き さに よる だ ろ う。 当 時 の群 小 の 出版 機 関 に比 して資 金 力 もス タ ッフ も全 国 ネ ッ トワ ー ク も 宣 伝 力 も, す べ て に わ た って 抜 きん で て い た。 中 で もユ ニ ー クで あ っ た の は 「タマ ン ブ ス タ カ」 (Taman-Pustaka)とい う移 動 図 書 館 を設 置 した こ とで あ る。 これ は車 にバ ラ イ ブ ス タ カ 出版 の書 籍 を積 ん で各 地 を定 期 的 に巡 回 し,低 額 の レ ン タル料 を とって貸 し出す シス テ ムで あ る。 この よ うに して貸 し出 され た書 籍 数 を表 1に掲 げ る。 相 当 な数 の書 物 が借 り出 され読 まれ て い た こ と, また, ム ラユ 語 , ジ ャワ語 , ス ンダ語 の そ れ ぞ れ の需 要 の相 対 的 な 関係 とそ の推 表1 バ ライブスタカ版図書の貸 し出 し数 (移動巡回方式) 1914 1915 1916 1917 1918 1919 1920 ム ラ ユ 語 ジ ャ ワ 語 ス ン ダ 語 マ ド ゥ ラ 語 10,132 14,809 18,533 25,297 29,063 100,652 174,668 166,5日 156,107 226,045 294,810 281,470 494,787 588,139 29,571 45,546 38,148 86,593 92,428 111,916 165,839 4,736 6,569 13,903 合 計 206,214 216,462 282,726 406,700 407,697 713,914 942,549 出典 :VolksaLmanakMeLajoel1922:254] 8)ただ しここで留意すべ きことがある。それはここに述べ られている読者層がバ ライブスタカか ら出版 されたアルマナ ックの うちはた して ムラユ語版 に限 られていることなのか,それ ともムラユ語版 のみ ならず, ジャワ語版 ス ンダ語版 の読者 を含 めたその総数なのか とい う点である。それ を確認するため にはムラユ語版以外のアルマナ ックに も日を通 さなければな らないが,本稿 を執筆 した時点ではその すべ てについてはなお未見であ る。 しか し1923年版,1925年版な どは,各言語のアルマナ ックを合本 して販売 されていた形跡があ る。1923年版 は, ス ンダ語版, ムラユ語版,ジャワ語版 に加 えてマ ドゥ ラ語版のアルマナ ックも合本 されている。 (1925年版 はマ ドゥラ語版 を除 く三言語のアルマナ ックが合 本 されている。) さて これ らのアルマナ ックやい くつかの年度 のス ンダ語版 アルマナ ックを見 る限 り,掲載 された広 告,カ レンダー,政府要人名鑑 などは各版共通であるが,読み物欄 (シャイ-ル,物語な ど) はそれ ぞれ独 自の ものが掲載 されてい る。その うち,後 に述べ る 「なぞなぞ」の懸賞 は各版共通で募集広告 が出 されている。 したが って, ここで挙 げ られている読者層 は,ムラユ語版 に限 らず各言語 のアルマ ナ ックすべての読者層であると判断 して よいだろう。その場合 には,その内ムラユ語版,ス ンダ語版, ジャワ語版 などのそれぞれの読者層が どの くらいであったのか を特定 しなければな らないだろ う。そ れを特定す ることが,可能であるか否か とい うことを含めて, これについては今後の課題 とした。 従 って以下本稿 に述べ るパ ライブスタカ刊行 のアルマナ ックの読者層 とは, ムラユ語版, ス ンダ語 版, ジャワ語版 さらにマ ドゥラ語版の もの を含めての数であ るとして論 をすすめてい きたい。なお以 上 については五十嵐忠孝氏か ら貴重 な資料 をみせて頂いた。

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土屋 :アルマ ナ ック ・ム ラユ論 移がみて とれる。 この ようなシステムを通 して アルマナ ックも各地に浸透 しそれが また新 たな 需要 を喚起 して購買層 を増や していった と考 えられる。 第三のそ して もっとも直接 的な理 由はアルマナ ックの読者 に貴品付 きで クイズ を当て させ た ことである。 クイズは 「なぞなぞ遊 び」 の形式でた とえば1925年の問題 は 「私 を見なさい,す る とあなた 自身の顔がみえます。私 は誰で しょう」,それに対 して読者 は 「鏡」 とい う答 えを アルマナ ック中の指定ペ ージに住所 ・氏名 とともに書 き込 んで返送す るもの とされた。 この クイズの賞品は大変 よい ものであ った。た とえば,1923年 は 1等 自転車,2等金時計, 3等金 メ ッキペ ン (2名),4等辞書,5等 目覚 まし時計,6等 『ジャワ史』 の本 (8名)であ り,1925年 には,1等 は何 とフォー ド車 (この価格 は1,825フロー リンと記載 されてい る)以 下 2等 ダイヤモ ン ド,3等 自転車,4等金の腕輪,5等 ミシン,6等金時計,7等時計,8等手 提 げ カバ ン (3名),9等 目覚 ま し時計 (5名),10等 ボールペ ン (6名), 11等事務用 カバ ン (5名),12等絵入 り地 図 (6名),13等銀 のイ ンク差 し,14等 『サ リ ・ヒンデ イア』 (書籍) (12名)であった。 問題のや さしさに加 えてこの ような景品が射幸心 を煽 ったことは想像 に難 くない。1923年 に は正解数6,428名,1925年 には回答者25,644名,正解者20,332名 と報告 されている。 先 に1925 年 の発行部数が4万8千部 とされていたことを考 える と, この応募者数 は驚異的 な比率 であ る (購 買者 の53%が クイズに回答 した ことにな る)。 また,その前年 には応募者総数が余 りに多 かったので賞品の獲得者 を急連40名か ら50名 に増 や した とも記 されその熱狂振 りが うかが え る。 ところが,1926年 を以 って クイズは中止 された。「クイズの賞品だけが 目当てでアルマナ ッ クを購入す る人が余 りに多い」 とい う教育的理 由か らであ った。 だが刊行当初の懸賞 とい うこころみはこのアルマナ ックに対す る読者の関心 と需要 を高める とい う点で直接 の要因 を作 ったのであ り,その ことをはずみ として前 に も見 た通 りアルマナ ッ クの売上部数 はその後 も伸 び続 けたのである。 1930年代 にこのアルマナ ックが どの程度売 られていたのかは定かで はない。ただ,理 由は述 べ られていないが,1935年か ら再 び 「なぞなぞ遊 び」が掲載 されている。今度 はクロスワー ド パ ズルで,賞金付 きとされ た。 1等1,000フロー リンか ら7等 10フロー リンまで合計3,500フ ロー リンの賞金が懸け られていた。9) ところでそれに対す る回答者 は1935年 は約4万 (内正答 は約3万2千), また1936年 は約7万 (内正答 は約4万8千) と記録 されている。仮 に回答者 9)1928年当時の通貨換算の比率がアルマナックに載せられているが,それによれば,当時1ドルが2.5フ ローリン,また 1円は1.17フローリンであった。従って3,500フローリンといえば約3,000円。ちなみ に1927年当時のわが国では,国産目覚 まし時計が2円15銭,白米10kgが2円30銭,国産乗用車で 1,650円程度であったから,バライブスタカの賞金は相当大きかったと考えることができる [週間朝日 1988]。 127

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東南 アジア研究 30巻 2号 の 2倍 の人々が アルマナ ックを購入 していた とすれば, 1935年当時で約 8万,翌年 は約 14万 に 急上昇 した ことになるだろ う。 これ らか ら窺 えることは, 1930年代前半 は10万部未満で横 ばい し,後半 に入 って,再 び懸賞 をはずみ として発売部数が伸 び,10数万部 に達 していたのではな いか とい うことであ る。 ちなみ に, ム ラユ語版 自身の価格 は1928年 にそれ までの0.8フロー リ ンか ら0.64フロー リンに値下げ されて以来, 1940年迄一定であ った。 大変廉価 であ った とい う ことがで きる。 政府がスポ ンサ ーであ ったこと,発売部数が多か った ことに加 えて,大量の広 告が掲載 され広告収入が もた らされた ことがその理由であろ う。 広告欄 は1922年以来設 け られ,年 ご とに数 を増 してい った。例 えば 1929年 当時 の版 をみ る と,広告 された件数 は48件,広告欄ペ ージ数 は56ペ ージに及 びアルマナ ック全体 の 6分の 1近 く占めている。広告 の内容 もさまざまで,それぞれの時代 に どの ような賞品が さかんに宣伝 さ れていたか とい うことの一端 をここか ら知 ることがで きるが,それはさ し当た り本稿 の範囲外 であ る。 (3) 読者層 それで は次 にアルマナ ック ・ムラユの読者層 はどの ような人々であ ったのだろ うか。以下 は 上述 の読者数の場合 と同 じく, ムラユ語版 だけに限定で きず,ス ンダ語版, ジ ャワ語版 さらに マ ドゥラ語版 の もの を含 めて読者層 とい うことになるが, これについてはさ し当た り次の よう に推察す る しかない。 推察のわずかな手掛 りは,懸賞当選者の発表欄でそ こには氏名のほか住所 と職業が略記 され ているか らであ る。 目下筆者の手許 にあるのは, 1923年, 1924年, 1926年, 1936年か ら1940年 までの各年 に掲載 された当選者 のみである。 読者層 は時代 によって も変化す るだろ うし、地域 ごとに読者層が異 なる とい うこともあろ う。 しか しさ し当た りそれ らを考慮せず, ここにあげ られた総計255名の人々につ いて,その居住地域 と職業 を分類 してみ る と次 の ような結果 が得 られ る。 〔居住地域〕 スマ トラ 58(内訳 アチ ェ (6) 北 ス マ トラ ・メ ダ ン (12) 西 スマ トラ (ll) リアウ諸島 (3) それ以外 のスマ トラ諸地域 (26)) ジ ャワ 112(バ タヴイア (12) 西 ジ ャワ ・バ ン ドン(37) 中ジ ャワ ・ジ ョクジ ャ カル タ ・ス ラカル タ(40) 東 ジ ャワ(23)) カ リマ ンタン 5(バ ンジ ャルマ シ ン ボ ンテ ィアナ ックな ど) ス ラウェシ 5(マカ ッサル メナ ドな ど) 東 イ ン ドネシア 4(ス ンバ ワ ア ンボ ン タナ ・メラ)

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土屋 :アルマナ ック ・ム ラユ論 これ らの合計 が先 の255名 と比べ て大幅 に不足 してい るの は居住地 を記 してい ない もの, ま た,居住 地が分類不能 の もの を含 んで い るか らであ る。 先 に も述べ た通 り, この分布 を もって 全体 の読者層 の地域分布 に重 ね合 わせ るこ とには無理があ る。 ただ次 の ような傾 向 をある程度 うかが うことはで きよう。 (∋読者層 は植民地 の全域 にわた って まんべ んな く広 が っていた。 それ はスマ トラ西北端 の ア チ ェか らイ リア ンの タナ ・メラに まで及 んでいた。 それ はバ ライブス タカの ネ ッ トワークの広 が りを示す とと もに,郵便 制度 (郵便 物 の集配 と輸送,送金)が全域 にわた って円滑 に作動 し てい た こ とをうかが わせ る。 ② この うちスマ トラ各地 の読者 は主 として ム ラユ語版 を読 み, ジ ャワ島中東部 の読者 はジ ャ ワ語版, ジ ャワ島西部 の読者 はス ンダ語版 の主 たる読者層 であ った と想定すれ ば, ジ ャワ語版 の読者層 が断然多か った とい うことになる。 ③ 上 に述べ た こ とを裏打 ちす る ように, アルマ ナ ック編集部 は,各地 の読者が これ を求 めて い るこ とを再三誇 らか に言明 してい る。すで に1923年版序文 中に, フ ォル クスアルマナ ックが 「サバ ンか らメ ラウケ まで」広 く知 られて い るだけで な くオ ラ ンダ領東 イ ン ド以外 か らも注文 が きて い る と記 され翌24年版 には同 じこ とを 「サバ ンか らメ ラウケ まで ク タイか らクパ ンま で」 を読者 とす る方針が うたわれてい る。 つ ま り,植民地領土 の全域 , スマ トラのサバ ン (最 西端) か らイ リア ンの メ ラウケ (最東端) まで, カ リマ ンタ ンの ク タイ (最北 端) か らテ ィ ムール島の クパ ン (最南瑞) まで,すべ て をおお うとい うこ とであ る。 ④ この こ とは1926年 になる と別の, しか し注 目すべ き言葉 で表現 され るようになる。 その年 の序 文 に は 「(この アルマ ナ ックが) イ ン ドネシ アの住 民 に よって ます ます好 まれ る よ うに な って きてい る

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1926‥1]とい うように 「オ ラ ンダ領東 イ ン ド HindiaBelanda」で な く 「イ ン ドネシア」 とい う語 が用 い られ てい るのであ る。 同趣 旨の こ と

は1928年版序文 に さらに明確 に次 の ように述べ られてい る。 これ はアルマ ナ ック刊行 の趣 旨を

あ らためて再確 認 した もので あ る。

「フ ォル クス アルマ ナ ックは, イ ン ドネシ アの全 て の民族 (segalabangsa)に とって心 臓 に 当た る もので あ るが,バ ライブス タカはたんにそれだけに満足 してい るので はない。 さらに盟 むべ きこ とは,すべ ての イ ン ドネシア人 (semuaoranglndonesia)が ます ます数多 くの フ ォル クス アルマ ナ ックを読 み, ひ と りひ と りが これ を知 る よ うに な る こ とであ る

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1928:1]. く り返 す まで もな く, こ こで も 「原住 民」 (bumiputra)とい う従 来 のそ して オ フ ィシ ャルな呼称 に代 えて, イ ン ドネ シア とい う語 が用 い られてい る こ とにな る。 次 に当選者 として掲載 された人々の うちその職業 を記載 された もの につ いて,分類 を してみ る と次 の ような結果が え られ る。 129

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東南 アジア研究 30巻 2号 〔職業別分類〕 生徒 ・学生 30(中学生 高校生 師範学校生徒 その他 の専 門学校生徒等) 教 師 44 校長 ・視学官 6 書記層

2

3

(各職域 において書記 秘書 司書 会計係 と記載 されている もの) 政庁 の役人 13(各省庁 を職業 として記 してある もの 軍人 警官 ジ ャクジ ャカル タの王宮付 き役人 を含 む) 村落 レベルの役人 ・村長 18 公営質屋勤務 3 その他の役人 8(電話局 電報局の勤務 港湾主任等) 年金生活者 1 会社員 4 企業主 農園主 3 商店主 4 商人 7(本屋 衣服商 バザ ール商人) その他の専 門職 8(運転手 自転車修理 ラボラ トリウム 建築 ・設計技術者) (なお,中国名 を持つ者10名が この中に含 まれている。) これか ら,読者層全体 の性格 を推察す ることはさらにむつか しいが,次の ような傾 向が うか がえるか もしれない。 ① 学校 の教 師,校長,学生生徒 な ど教 育 関係者が全体 の半 ばに達 してい る(上表 に従 えば, 176人中80名が これに該当す る)。 ② これ にひ き続いて教育職以外 の公務員 (中央 ・政府 ・村落 レベル を含 め る)が多数 を占め る (上表 では書記層 か ら年金生活者 までの66名が これ に当たる)。つ ま り, 日常 的 に 「書 き言 葉」 (公文書,教科書,筆記, ノー ト等) にふれてい る人 々,換言すれば公文書 を扱 うことを 職業 にす る人々ない しその予備軍 (学生生徒)が アルマナ ック読者層 の大半 を占めていること になる (上表 に従 って単純 に考 えれば176人中の144人,つ ま り82%が これに当たる)0 (参しか し,数 は多 くない ものの読者層 は さらに広 くさまざまな人々 を含 んでい る。商店主 (その多 くは中国名 を持つ人々),運転手,商人な どの個人業主がそれである。

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土屋 :アルマ ナ ック ・ム ラユ論 (4) アルマナ ックの性格 と機能 この ように して推察 された読者層 は, それでは何故か くも熱心 にアルマナ ックを手 に したの だろ うか。値段 の安 さや懸賞金付 きであ ったこと, さらにさまざまな読者投書欄 を設 けていた な どが考 えられ よう。 とくに投書欄 についてみ ると, アルマナ ック編集部 は当初か ら,投稿 と くに写真 の投稿 をさかんに募 っていた。 これに対 して多 くの反応があ り, また読者投稿 の記事 と写真が紙面 を飾 ることもしば しばあ った。 この ような,読者 と出版社 との交流が アルマナ ッ クへ の需要 を高めていたことは想像 にかた くない。 しか しよ り重要 な理 由は次 の ところにあ った といえよう。それは一言でいえば, このアルマ ナ ックが, もはや本来のアルマナ ック (磨) としての機能や年報 とい う機能 よ りも,当時の植 民地社会 において生活上役 に立 ちかつ公 的に認め られた知識 を碇供す るとい う機能 を果 た して いた とい うことである。 この ように述べ るためにはアルマナ ックの内容 に触れてみなければな らないだろ う。 それ を 逐一す ることは別の機会 に譲 るとして,少 な くとも目次及びい くつかの掲載記事か ら窺 えるの は,次 の ような特徴である。 何 よ りも先ず顕著 な こ とはすで に再三述べて きた ように, この アルマナ ックが生活上 のマ ニ ュアル (手引 き) としての性格 を強 く示 していることである。 それは,個人個人が生 きてい く上での主要 な第一の関心 を 「日々の安穏 な生活」 を維持 しさらには 「よ りよい生活」 を実現 す ることに向けている ところで成立す る。 出産,育児,病気 や怪我 の治療,料理法,子弟の教 育,衣服の裁断,家事,その他実 に細部 にまでわたる生活上の知恵 (例 えば1924年版の 「家庭 生活の必要」 Keperluanrumahtanggaの欄 には, ラ ンプの光 を明 る くす る方法,ヤ シ油 の保

管方法, 自ア リ駆 除,玉子 を落 として割 った時の処理, アイロンのかけ方,長 く使 わなか った 布 が黄 ばんだ場合 の手 当て, ボールペ ンの保存,靴 の手入 れ,銀細工 の手入 れ,サ どの取 り 方,等 々が載せ られて い る [volkSalmanakMelajoe(AMBP)1924:Ⅲ∼Ⅳ]) につ いての記述 が アルマナ ックの中心 をな している。 それは厳密 にプライバ シーの空間であ ってそれ をここち よ く維持す るための手引 きが示 されてい る。 そ こで は, 「日常生 活 の必要」 (Keperluansehari -hari)とい う言葉がキーワー ドとして くり返 し用い られているのである。 次 に,毎号多 くのペ ージを飾 りしか も年 ごとにその量 を増 や してい く広告欄が, このプライ バ シーの 日常生活 をよ り快適 にす る もの として展示 されている。 この ような生活上のマニ ュアルの延長 として,社会生活上の知識が提供 され る。 銀行,公営 質屋 ,鉄 道運賃表 (旅客,貨物双方),郵便 に関す るさまざまな情報 に加 えて,度量衡,通貨 の交換 比率 な どの一覧が表示 され る。 これ らもほ とん ど毎号 の アルマナ ックに掲載 されてい る。 そ こで は,値段表 (tarif)と計測単位 (ukuran)とが, くり返 し用 い られ るキー ワー ドで ある。 131

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東南 アジア研究 30巻2号 やや図式的にいえば, この ような 日常生活,その延長 としての社会生活のその外側 にこれ を と り巻 くように して, オラ ンダ領東 イ ン ド植民地政府が厳然 として存在 してい る とい う構 図 が, アルマナ ックには明示 されている。 それは,各年度の巻頭 に必ずおかれているウイルヘル ミナ女王の 肖像写真,王族の名鑑一覧 とそれに関わる写真,植民地総督 (写真付 き)以下植民 地高位高官,植民地各行政区の主要 な官吏の人名録である。 この ような個 々の人物名の次 に, 植民地政府 の制定 した主要 な法律 と条令が掲載 され,併せて,税金支払 いについての情報が毎 号の ように掲載 されている。 この ような構 図には,植民地社会の安定性 と不動性がゆ くりな くも示 されているといって よ いであろう。 変わ らざる王家 と王族,政府 の構成,ゆるぎない規則,それ らを前提 として交通 と通信 のネ ッ トワークが円滑 に作動 し,借用経済が成 り立 ち,生活の向上 に資するさまざまな 商品が市場 に出 まわる。 そ してそ うい うものに取 り囲 まれて,安定 した個 々の家庭が無数 に存 在す ることになる。 アルマナ ックは, この ような個 々人に有益 な 「知識」pengetahuanと 「技

能」kepandaian を提供す ることを主 目的 とす るものである。 だか ら,創刊 以来の方針,「すべ

ての人々に役立つ こと」 [

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1919:1]また,すべてのイ ン ドネシア の人々が 「もっ と多 くの知見 (ilmupengetahuan)を持つ こ と

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1928‥l]は,各年度 の編別構成 とその内容 とにおいて見事 にいか され,つ らぬかれた といって よい。 アルマナ ックその ものが植民地社会の 「秩序 と安定」の ミニチ ュア版 として作 られていると い うことを逆説的に示 しているのは, ここにみ られる徹底的な非政治性,非歴史性である。 こ のアルマナ ックが出版 されていた1919年頃か ら1940年頃 までのイ ン ドネシアは,い うまで もな く,内に激 しいナシ ョナ リズム と反植民地運動が もえさか り,スカルノ, タン ・マ ラカ,ハ ッ タ, シャフ リル,チ プ ト・マ ング ンクスモ をは じめ とす るす ぐれた民族指導者が続 々 と登場 し, そ してこれ らの人々が次 々 と逮捕 され流刑 されていった時代であった。 まだ国際的状況 も 第二次世界大戦-向か って, とくに, 日本 の脅威が次第に深刻 に感ぜ られる時代であ った。 しか し, アルマナ ックが出版 されていた全期 間にわたって,その ような動 きに触 れた記事 は まった く見事 な くらい, どこに も見 当た らない。それは,KITLV に所蔵 されている最後のア ルマナ ックである1940年版 において も同様 である。 しか しなが らその ことはアルマナ ックがナシ ョナ リス トの政治運動 に直接 に敵対 していた と い うことで はない。それはアルマナ ックの非政治的 ・非歴史的な性格 を終始一貫示 していたこ とであった と述べ て よいだろ う。 アルマナ ックが何 よ りも目指 したのは,既 に述べた通 り,生活の役 に立つ 「知識 と技能」 を 読者 に提供 し伝達す ることであった。そ こに認め られるのはす ぐれた啓蒙主義的な性格であっ た。 ここでい う 「知識 と技術」 とはたんに役 に立つだけでな く,植民地社会の秩序 と安定 とい う観点か らみて無難 な もの, さらに 「秩序 と安定」 に対す る読者の志 向性 を強める ものであっ

表 2 1 903 年 1月の カ レンダー
表 3 つづ き Vo l k J al mana kMe l a jo c( Ba l a i Po e s t a k a,Bat a v i a ‑C)

参照

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