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赤玉神教丸と桂文之助

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Academic year: 2021

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赤玉神教丸と桂文之助

今年の春季展示では、有川市郎兵衛家と鳥居本宿の歴史を特集しています。江戸時代の有川家は 赤玉神教丸(あかだましんきょうがん)という有名な薬を製造・販売していましたが、この薬は鳥居本宿 の本店と、大津髭茶屋町の出店でしか扱っていませんでした。つまり当時の有川家にとって、主な顧客 は中山道や東海道を行き交う大勢の旅行者たちであり、神教丸は近江の土産物として購入されていた と考えられます。 しかし明治時代に入ると、有川家は大阪や京都に支店を置き、全国各地の業者と も請売の契約を結ぶなど、神教丸の販路を積極的に拡大する方向へ経営方法を変化させています。さ らに神教丸のビラの印刷や、新聞広告の掲載についての史料もあり、この頃の有川家では各種メディ アを用いた宣伝も活発に行っていたようです。そうした中、大阪支店の岡本友七という人物は、有川家 に対してあるユニークな宣伝方法を提案しています。 有川家文書中に残る岡本の書状(写真、年未詳)によれば、当時の大阪には落とし噺の名人として人 気のあった「桂文之助」という噺家(落語家)がいました。岡本はこの桂文之助に頼んで、神教丸の効 能を内容に盛り込んだ落とし噺か、「都々一(どどいつ)」や「よしこの」(どちらも俗謡の名称)を作っても らい、その上で難波新地法善寺の寄席で神教丸を配布することを有川家へ持ちかけているのです。 桂文之助(初代)は天保十三年(1842)生まれの噺家で、弟子の中には「オッペケペ節」の川上音次 郎もいました。彼は明治六年(1873)から初代桂文枝の門下で桂文之助を名乗りますが、同十九年に は「二世曽呂利新左右衛門(そろりしんざえもん)」と改名するので、先の書状はこの期間に作成された ことによります。 有川家文書中には文之助自身から送られた書状もあり、そこには「自分には『生焼けのお骨』という あだ名があるので、骨の柄の掛け物や額、彫り物などを集めた『野ざらし会』を開催します。御旦那様 (有川家当主)も是非何か出品してください」などと記されています。有川家と桂文之助とのやり取りを めぐる史料は、明治以降の商品コマーシャルと芸能との関係史を考える上で、たいへん興味深いもの と言えるでしょう。 (附属史料館 青柳周一)

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