開会挨拶 滋賀県社会教育研究会会長 川東 昭男 来賓挨拶 滋賀県教育委員会事務局生涯学習課課長 田中 秀和 講 演 「東日本大震災とボランティア活動」 阿部 圭宏(しがNPOセンター副代表理事) 「減災を考える」 山 古都子(滋賀大学名誉教授) 主催 滋賀県社会教育研究会 滋賀大学生涯学習教育研究センター 後援 滋賀県教育委員会 滋賀県社会教育委員連絡協議会 滋賀県公民館連絡協議会
フォーラム「現代社会と生涯学習」
震 災 か ら 学 ぶ も の
日 時 10月6日(木)午後1時30分∼4時30分 会 場 滋賀県庁東館 7階大会議室目 次 1.被災体験から減災へ 2.減災とは 3.減災の4つの断面 ・1次災害を減らす ・2次災害を作らない ・3次災害を生まない 4.「減災」の事例紹介 5.「減災」教育 6.まとめ
1.被災体験から減災へ
滋賀大学の山崎です。 今日は皆様の前で、減災を考えるというテーマでお話する機会をいただきありがとうございます。 宜しくお願いします。話の大筋は目次に掲げていますのでご覧ください。 (1)伊勢湾台風の被災 目次にも書きましたが、私はこれまでに2度、巨大災害に被災しました。その経験から、2003 年に減災活動を始めました。第1回の被災体験は今から52年前に発生した伊勢湾台風です。私の村 は揖斐川とその支流である牧田川に囲まれた多芸輪中の中にあります。伊勢湾台風は昭和34年9月 26日の未明の出来事でしたが、それに遡る1ヶ月半、3日間間断なく続いた豪雨で堤防が決壊し、 輪中は泥の海に変わりました。そして、伊勢湾台風で再度同じ所が決壊し、この年に2回の洪水に 見舞われました。ご存じの方がおられるでしょうが、輪中は読んで字の如し、堤防が輪になってい ますので、一旦入った水の出口がありません。さら に海抜0メートル以下の地帯ですので、ひたすら水 をポンプで汲みだす作業を繰り返し復旧されまし た。 折しも当時は高度経済成長の入り口に当たりま す。根底からダメージを受けた農業に対して、村人 は日銭稼ぎの出稼ぎが始まり、それが若い人々が兼 業化するきっかけとなり、長い間兼業化は村の農業 に大きな打撃を与えました。講演 減 災 を 考 え る
山
崎
古都子
(滋賀大学) 写真1 多芸輪中の洪水(2)阪神淡路大震災の体験 次の被災経験は阪神・淡路大震災です。この災 害は皆様のご記憶にある戦後の巨大な震災の一つ になりました。写真2はご近所の様子を写してい ます。 写真3は私の書斎兼寝室です。ここに散在して いるのは、ラワン材で作った本棚とその中にびっ ちりと詰まっていた蔵書です。この本棚は壁に立 てかけただけでしたので、私を直撃しました。こ こに見えているのが布団です。この本棚は起こし て壁に釘づけにしています。また、子ども達が独 立したので、寝室と書斎を分離し減災しました。 この時、夫は隣に寝ていましたが、私が地震と 言って突き飛ばしたので無事でした。彼は「助け てやるから持ってろ」と言って部屋を飛び出して いきましたが、待てど、戻ってきません。そのう ちに、外で緊迫した人の声が聞こえてきました。 待っても助けてくれる様子はないし、持ち前の 好奇心が働いて、私は自力で這い出し、さらに寒 がりなのでコートを羽織って外に出ました。と言 っても床は食器が散乱し、危険な状態でしたので、 部屋の縁を壁伝いにおそるおそるつま先立ちで通 るという状態でした。やっと、外へ出てみると、 隣家が完全に崩れ落ち、屋根だけしかみえません。 中には女性が一人埋まっていました。夫はそちら を助けるのに一生懸命で、妻の存在など全く忘れ ているようでした。 このことについては後ほどお話しします。 (3)底知れぬ自然の脅威 さて、私の被災体験だけでも相当に非日常的だと思いますが、その後、日本だけでなく世界中で 巨大地震が相次ぎ、ありえないと思う災害が続発しています。その中でも、スマトラの津波、山古 志村の山崩れ、そして今年の東日本大震災は完璧に打ちのめされた出来事です。 実は、阪神大震災の後に、私は状況写真をある方に見てもらおうと思ったことがあります。とこ ろが、その方は「僕は丹後地震を経験しているので特に驚かないし、興味ないですね。」と言われ たのです。その方は、(阪神・淡路大震災と騒ぎすぎではないのか、確かに大規模震災だけど、大 都市だから当然でしょう。リスクを承知で都市を築き、住む選択をしてきたのではないのか)と、 人災だと言いたかったのかもしれません。もっといえば、研究者は震災研究に浮き足立っているの ではないのかと批判されたのだと思います。 しかし、スマトラ、山古志、東日本の発災はそれとは明らかにことなり、自然の底知れぬ偉力を 写真2 阪神・淡路大震災の倒壊家屋 写真3 阪神・淡路大震災の自室の様子 写真4 完全に倒壊した家屋
知らされました。人間は科学技術を競い、各種の夢を実現したと自慢しています。しかし、それは 地球の背中を借地して、プラモデルを乗せているのに過ぎない、にもかかわらず、人間はそのプラ モデルに囲まれていることを幸せだと思い、そのプラモデルを守ることに尽力を挙げています。 しかし、それらの行動の全ては、プラモデルのメカニズムの内部を触れるのに過ぎず、地球の偉 力に何も影響を与えていません。私たち人間はそのことをどこまで自覚しているのでしょうか。 地球の背中を借地して生活しているとはいえ、私たちはやはり命はいとおしい、悲しみを減らし たい。ならば借地人としての分をわきまえて、何ができるかを考えることの方が、悲しみも、重荷 も減るのではないか、そう考えるようになりました。そこから生まれた言葉が「減災」です。
2.減災とは
「防災」ではなく、「減災」を使う理由 「減災」という概念は、従来型の被害をあらかじめ想定した範囲で防災をする方法には限界があ るという認識が前提にあります。 そもそも現在の生活様式や行動エリアは、あらかじめ想定して対策を立てる防災と不適合を起こ しています。 アルバムをはじめあらゆる物が集められて展示してある様子です。地域の人のみならず被災地外から 来られた方々が縁者のゆかりの品を探しに訪れる。 閖上地区は過去の経験から3.11までは到達するだろう津波の高さを低く想定していた地域だそう です。この小学校も混乱しましたが、最終的に3階と屋上に避難し、子供たちは助かりました。 写真5 新潟県山古志村の堰止め湖 写真6 いわき市豊間地区(壊滅的被害) 写真7 宮城県名取市の閖上小学校の体育館例えば、大地震発生時に走行中の電車や自動車が負うリスクはあらかじめわかっていますが、だ からといって阪神・淡路大震災あるいは3. 11東日本大震災以来、新幹線に乗る人が減ったという 話を聞かないし、高速道路の利用者も減りません。外出を控えた人は無いとは言いませんが、極め て少ないでしょう。これは典型的な例です。 私はハンドルを握る時、エンジンキーを入れながら「ハンドルを握れば事故に近づく」と思うの です。こんなことを考えて運転していたらストレスが溜まる一方なので、私は必要最小限しか運転 しません。しかし、こんなこと考えているドライバーはあまりいないのではないでしょうか。 心理学では人間には「正常性バイアス」が働いていると考えるのだそうです。「理論的には危機 があるかもしれないが、現実の世界ではそんなこと起こるはずがない。リアル(現実)ではなくヴ ァーチャル(仮想)にしか連想しない、現実にあり得ないこと、あるいは千年に1度起きることを いつもいつも考えていたらストレスが溜まる一方で、何もできない。ならば考えるのをやめよう」 という思考停止が起きます。そして平然と日常を送ることになります。そこには「多数派同調バイ アス」も同時に働いていて、この行動をとっているのは自分だけではない、あるいは多くの人が無 関心で生活しているのだから大丈夫と言うことになるでしょうか。原発推進派の人々や、原発を運 営管理してきた人がこの心理に陥っていると言えます。 しかしながら、そもそも「自然災害」は自然の物理的現象ではなく、社会の脆弱性が物理的現象 に誘発されて露呈する状況であると言われます。その上、技術の進歩が脆弱性を覆い隠し、危険な 環境を拡大しています。(文献1) 一方、災害因である自然の破壊力は人間の想像を超えており克服することができないのです。に もかかわらず、人間は脆弱性を改善するどころか、「防災活動」を努力すれば災害を防げると信じ てきた。そして、自然現象の規模や様相を予め「想定し」、その対策を図ってきたのです。人間の 活動はリスクを拡大する方向へのシフトを強めました。 例えば、眼と目を合わせて、肌のぬくもりを感じるコミュニケーションが随分と減少し、メール や携帯への依存度が極めて高まっていますが、日常におけるこれらの変化は距離感を薄め、手を取 り合って逃げることの妨げとなります。 文献1 浦野正樹, 災害研究の成立と展開, 災害社会学入門, 弘文堂 , 2007, p21 これに対して「減災」は社会の脆弱性を改善することによって被害を軽減しようとします。 「減災」の視点からざっと整理するだけでも、現代は自然活動が活発になっただけでなく、社会 の仕組みや人々の営みのリスクが大きくなりすぎたことに気がつきます。 以上から、自然現象を制御したり、克服はできないけれども、脆弱な社会事象は人間が作った のですから、これは人間の手で改善することができるはずであるという「 減災」に到達します。 「 減災」は自然の破壊力に目を向ける防災とは違い、人間自身の営みによって蓄積拡大した脆弱性 に視点を据えます。そしてささやかな、「一人でも多くの命と、一つでも多くの財産を守る」願い を満たすべく、価値観や生活様式に切り替える謙虚な営みです。 なお「減災」は事前だけにとどまらず、事後の行動、すなわち、発災後避難生活や復興過程も含 んでいます。
3.減災の4つの断面
「減災」には、①1次災害を減らすこと、②2次災害を作らないこと、③3次災害を生まないこ と、④減災教育、という4つの断面があります(1)1次災害を減らす その第1は何といっても、安全・安心な住生活環境を確保する努力をしているかどうかの点検で す。住宅を取得するときに、あなたは安全性に費用の何割を当てましたか。これは自然現象に照ら して生活をチェックすることです。たとえば、埋め立て地は便利だから、あるいは見晴らしが良い からと、上ばかり見て住宅地を選んでいませんか。住宅は敷地の上に建っています。宙に浮いてい るわけではありません。上を見る前に、足元をまず固めなければなりません。3. 11の地震では非 常に沢山の宅地が液状化し大きな被害を受けました。多くの人々が、高額のローンを契約して買っ たのに、と悲嘆に暮れていました。 戦前の持家率は半数にも達していませんでしたが、現在の日本は持家率が60%以上です。私はこ れだけ自然災害が多い日本において、高額のローンを頼みに持家を持つ仕組みが既に矛盾を含みす ぎていると思います。もし借家住まいが多ければ、もっと身軽に住宅や、住宅地を選ぶことができ るし、住宅の復興についても家主にターゲットを絞って、よりシンプルな制度を作ることができる のではないでしょうか。 こうした社会の仕組みにおいても脆弱性は拡大する一方です。 (2)2次災害を作らない この写真は豪雪の屋根から雪下ろしをしているものです。2005、6年の豪雪は若者が離村した過 疎地を直撃し、高齢者が雪下ろしをする姿が目立ちました。そして100人もの方が屋根から落ちた り、屋根からの雪崩で亡くなりました。豪雪は自然現象ですが、高齢社会は人的条件です。 現代社会で2次災害を作らない最も大事なキーワードが「つなぐ」「つながる」です。電話を緊 急性の高い人に開けてあげましょう。道路や電話を 必要な人への配慮をすることも見えない人とつなが って、共助をしてるのです。 このことは後ほど改めて取り上げます。 (3)3次災害を生まないこと 3次災害って何と思われるかもしれませんね。そうですね、たとえば、発災後の興奮した時期が 過ぎたころにやってくる被災者の孤独、あるいは孤独死があります。 ①私は阪神・淡路大震災の直後と、1年後に被災者のヒアリング調査をしましたが、当初は怖か った、大切な人・物をなくした悲しみ、経済的不安など内容が具体的でしたが、時間が経つと、忘 れられていく不安を訴えられる方がいました。また発災後でも被災地外に避難された方の中に同様 の不安があることを知りました。 マスコミを経由した視聴者は無責任です。発災直後は連日マスコミの報道があるし、信じられな い光景を見ることになるので、多くの人々にごく自然に痛みを共有する感情がわき起こります。し かし、やがてマスコミの関心が薄らぎ、それと共に「もう復興したんだ」と視聴者は思うようにな 写真8 2005、6年の豪雪で雪下ろしをする高齢者 (写真提供:NHK) 全国で約100人が死亡、豪雪は過疎・ 高齢地域を襲い、屋根の雪下ろし中に 多くの高齢者が死亡した。
ります。そしていつか「そんなことがあったよね」という反応に変わっていきます。 そのギャップが被災者の孤独感を深めていくのです。 ②次に、大量のがれきが引き起こす環境破壊などが最も典型的なものです。私は琵琶湖の周辺で 大災害が発生したら、土砂やがれきで琵琶湖の急激な汚濁が起きることを心配しています。 さらに、地元産業の崩壊も忘れてはなりません。そもそも、災害が起こらなくても、地域産業の 足腰が弱ってきています。災害はそこを直撃します。自営業者は生活の拠点が被災しただけでなく、 営業の場も被災します。そして、従業員も同じく自らが被災した上に職場をなくします。 ③それに加えて、被災地に集まる救援物資が地元での消費に影響を及ぼしているという指摘があ ります。救援物資は発災時にはなくてはならない物ですが、いつまで頼るものでしょうか。現地の 物流が復旧したら、物から貨幣に切り替えていくべきでしょう。ましてや新品を買って送るのであ れば、現地で購入した方がズーと効率的です。 細々した物流の動きが、地元の立ち上がる力を支えると思います。 名目別の寄付金を募って、それで被災地の経済を活性化することが大切でしょう。もちろん全て、 お金で解決できないことは承知しています。大事なのは硬直的な、マニュアルを重視した支援では なく、現場に立って考えることだと思います。
4.「減災」の事例紹介
(1)1次災害を小さくした例 私の郷里の輪中はしばしば洪水に悩まされましたが、かつては、発災直後はとりあえず物置や焚 き物部屋に使われている屋根裏に逃げて、濁流が収まったら脱出できるような小舟を軒先につって 置く習慣がありました。また地上げをした石垣の上に水屋をつくり、大切な物はこの中に納めてお き、必要な時だけ取り出します。私の子どもの頃は日頃は畳を上げておいて、法事や晴れの生活の 時だけ敷いている家庭もありました。小さな災害を受け入れて大きな災害を回避する祖先の知恵が ありました。 このような暮らしの典型的な事例はタイやカンボジアなどの高床住居です。伝統的な高床住居は 乾期には床下で家畜を飼い、作業をし、雨期になれば船で往来する。しかし、彼の国も都市化、グ ローバル化の中で、伝統的な住様式は姿を消し、洪水が襲う報道がされています。 このような例は各地で見られます。 そもそも日本の伝統的な生活様式は、何でもかんでも、生活空間に飾り立てるのではなく、蔵や 押し入れ、長持ちの中から必要に合わせて持ち出すものです。座布団すら客の人数分しか用意しま せん。日本の伝統的住様式には災害が多い日本で育った、日本独特の物が沢山あります。その中で も、室内に物を持ち込まない、家具を置かないという様式には、一切の無駄を省いた茶道の精神が 流れています。物がなければそれでけがをするリスクは大幅に減少します。私も蔵書を減らして図 書館を利用しておれば本棚の下敷きにならなくて済んだはずです。 次の事例は滋賀県の減災的生活史です。 この地図は、滋賀県の茅葺き住宅の種類の分布図です。赤い三角印は妻入り住居、青い四角は平 入り住居です。赤い妻入りが湖北に多いと思いませんか。 私は滋賀大学に就職して、間もない夏に琵琶湖周辺の民家を調査する機会を得ました。その時に、 湖北には妻入りが、湖南には平入りが多いことに気がつき、どうしてだろうと首をひねった末、自 分の経験を思い出しました。私の郷里は伊吹下ろしがきつい所です。雪が少なからず積もりました。私の家は平入りでした。私の経験からすると、 雪解けが始まる頃、軒先からの雪解けの落雪が 首筋におち、これを避けるためには油断なく覚 悟して、えいやと通り抜けたものです。そこで、 湖北に妻入りが多い理由はそれと同じではない か、つまり、妻入りは軒先からの落雪リスクが 少ないという仮説を立て、調査をしてみました。 湖北は日本でも有数の豪雪地帯です。先ほど の分布図に最深雪度等高線を重ねてみると、妻 入り住居の分布地域と重なることがわかりま す。 湖北でお話を聞いたところ、妻側、梁側は平 側・桁側に比べて積雪が少なく、根雪にならず に融けやすく、その分落雪の危険も小さくなり ます。したがって、出入り口は平側よりも妻側 の方が適しています。出入り口に積雪の上に落 雪があると、機能不全に陥りますので、その点 でも平より妻側に出入り口を設けた方が合理的 です。平入りでは軒先の雪かきが欠かせないけ ど、妻入りでは春まで放置することもできる。それから、降る雪は左右どちらの屋根にも公平に積も りますが、雪解けは日当たりは早く、日陰は遅いですから左右の雪解けの速度が異なると、重い屋根 の方に引っ張られ、そちらに家が傾くことになる。この左の写真は家が傾き始めたので支持棒で補強 してあります。 そもそも、日本の住居史では妻入りの方が古く、やがて平入りに発展していきます。雪のリスク が少ない湖南では平屋に発展していったのでしょう。ところが、滋賀県の豪雪地域では風土と折り 合いがよい妻入りを平入りに発展させる動機が少なかったのではないでしょうか。その後瓦葺きが 普及していく機会に平入りへの転換期を迎え、雪下ろしの事故で死亡する人が増えたと聞きました。 風土を知り、風土に寄り添って守られてきた妻入りに対して、建築技術に依存し、平入りに変えた ことは同時に「増災」につながったと言えます。 妻入りならば積雪が減るわけではありませんが、人命を救う比率は高いのです。 風土を熟知することから出発して、自然から生きる知恵の指導を受ける、かつての人々はそのよ うに過ごしてきたのでしょう。これは郷土が守っていた減災です。 (2)2次災害を作らない事例 次に2次災害を作らない例に移ります。 「減災」では自助、共助、公助というセオリーがあることをご存知でしょう。住宅を耐震化する、 家具を固定する、3日間の食料を備蓄する、洋服に名札をつけておくのは自助です。 それに対して、共助とは一人ではできないけれども、地域の力を集めれば実現できる減災です。 特に、近年は発災後に共助力が発揮されることが多くなり、その力に関心が集まってきました。 ここで陸前高田市広田町、長洞地区の避難生活のDVDをご紹介します。(DVD視聴)
これらの地区の例はあまりにもすばらしく、私たちのはとてもマネできないとギブアップしそう ですが、同時にこのような共助力が突然わき起こってきたのではなく、日常の中に潜在していたこ とを気づかれたと思います。 たとえば、日本には大掃除をすることを義務づけた清掃法があり、1950年代から60年代にかけ 長洞地区は、避難所に指定されていた公民館が津波に襲われた。しかし、同地区の住民では、地区 外にいた1人が死亡した以外の犠牲者がいなかった。地震直後、お年りたちは「こんな地震で何もな いわけがない」と、津波が来ることを予想して高台を目指したからだ。 207人の住民は、高台の二十数軒の民家に分かれて避難生活を送った。避難生活では9戸がリーダ ー役となり、手分けして、支援物資の食事などの配分、被災した住宅の後かたづけ、その他様々なボ ランティアを担う。 民家に地区対策本部を置き、毎日午前8時と午後5時にリーダーが打ち合わせ をして、翌日の活動などを決めた。 住民の要望をまとめて市に伝えている。 長洞地区では毎年、新年会や地区総会などで年4回ほど会合を持ち、親交を深めてきた。「今とな っては、それが良かったのかもしれない。いつしかみんなの結束が強まっていたし、2年前の津波訓 練も効果があった」と話す。 仮設住宅が完成するまで、各住宅での避難生活が続く。仮設住宅の建設場所も、みんなで話し合っ て決めた。 長洞地区では住民が児童生徒のために被災を免れた民家を借りて現代版の「寺子屋「長洞元気学校」」 を、元中学教諭が中心になって発災12日後に開校した。「長洞元気学校」では長洞地区の小中学生約 30人が国語や算数(数学)を学び、天気の良い日は長縄跳びなど体育の授業もした。保護者や高校 生もボランティアで「先生」になって運営を支える。家族を亡くしたある高校生は「長洞元気学校」 でボランティアをしたことによって「みんなからたくさんの元気をもらえた」と感謝していた。 遠足では長洞地区から、避難所となっている小友町のキャンプ場モビリアへ経路を確認しながら往 復約12キロ歩き、展望所から広田湾と市街地を眺め「頑張るぞ」と声をそろえ叫んだ。 以上インターネットから引用 この写真も長洞地区と同様、3. 11ですばらしい教助力を発揮した地区の例 http://c.fc2.com/m.php? mfc2u=http%3A%2F%2Fbabanakayama.client.jpより引用 この建物が馬場中山生活センター 200人以上の人が避難し、共同生活をした 4月16日 深井戸の水汲みのために手動ポンプを設置 2次被害を減らした事例
南三陸町馬場地区の共助自立型避難生活
て全国で、地域一斉に大掃除をする習慣がありました。この法律は1970年に「廃棄物の処理及び 清掃に関する法律」に変わり、それに伴って大掃除も姿を消しました。 しかし、滋賀県の多賀町では1990年代にもまだ、この習慣が残っていました。春秋のお祭りの 前の日曜日にすることになっていました。この法律の成り立ちは伝染病の予防にありますが、所が なぜ多賀町で20年後までこの習慣が残っていたのか、それは単に伝染病の予防だけでなく、住宅の 点検、保全にとても有効だったからです。今日はこの話ではありませんので、これぐらいにします が、どうしてこれを取り上げたかというと、「地域一斉に生活を見直す」習慣が重要だからです。 共助力は災害だけを見据えてあるのではなく、日頃から共助をするコミュニティがあるから、そ れが発災によって形を変えて表現されるのです。共助の習慣はどこにでもあったはずです。 こんどは反対の例をお話しします。 冒頭で、我が家の隣家で女性が生き埋めになったことをお話ししました。彼女は1時間程立って、 自力で出てこられました。ご無事でした。なぜ1時間後だったのか、後ほど聞いた話では、彼女は 梁と並行に寝ていたおかげで、落ちてきた天井と梁の間に隙間ができて、立てないけど無事でした。 しかし、外では人声がする。パジャマのままでは外に出られないので、足で衣類をまさぐるのに挑 戦してみたがうまくいかなかったから、道路のみんながいなくなったら出て行こうと思ったそうで す。しかし、一向に人声が去らないのであきらめて、パジャマのまま出てきたと言うことでした。 私は羽織っていたコートを指し出したのですが、彼女は硬く固辞される、それでも無理矢理に押 しつけたら、「ではお言葉に甘えて靴も貸してください」ということになり、靴もお貸ししました。 彼女と私はその時まで、道で会えば会釈するだけで、声を聞いたこともありませんでしたが、コ ートが縁でその後うち解けたお話をするようになりました。 もちろん日頃から煩わしいコミュニティを作らなくても、緊急時には私のようなお節介な人がい るはずだ、と言う考え方もあるでしょう。ところが、日本人はわたしのようなお節介なパーソナリ ティを育てるのがあまり得意ではありません。私もいつもお節介ではありません。どちらかという と口先だけで、とても人見知りが激しく、見て見ぬふりをすることの方が多いです。個人のパーソ ナリティに頼るのではばくちのようなものです。 だれでも自然に共助を担えるコミュニティを作らなければなりません。 私はかつて、コミュニティ計画実習の授業で「寝たきりの高齢者も参加するコミュニティ」計画 を課題に出したことがあります。「私作る人、あなた食べる人」と言うコマーシャルがジェンダー 論から問題になったことがありますが、今大規模避難所ではそうなっているように思います。みん なが困難を乗り切る力を集める、それが共助です。DVDでも指摘されていましたが、昔は長洞や 馬場地区のような能力は多くの地域が持っており、かつ地域にはそうした人材を育てる機能があっ たのです。今回、たまたま発災によって表へ出てきたに過ぎない。それがコミュニティ力だろうと 思います。 災害が起きるかもしれないからコミュニティが大事なのではなく、日常からコミュニティの共助 力が必要なのです。皆関心がないだけではないでしょうか。日常の中に共助力を活かす機会をみつ けることから始めたいものです。それができていれば地域全体に対する目配り、気配りがされるよ うになり3次災害は防げると思っています。
5.「減災」教育
「減災」の第4の断面は減災教育です。知識の流れからいえば教育ですが、力をつける人を主体にすると学習です。誰かが教育してくれるのを待つのではなく、自分たちで学習するという学習す る者の主体性を明確にすることが大切だと思います。現在のところ減災の教師はいませんから、み んなが教師だから、教育と言う言葉よりも学習の方が良いですね。 3. 11以来減災学習の必要性が強く認識されるようになりました。特に、釜石市鵜住居地区の小 中学校の児童生徒の見事な機転と連係プレイに減災教育の効果が実証されたことで、注目されるよ うになりました。「津波てんでんこ」ということばを覚えましたが、これはエゴイズムを強要して いるのではありません。「津波てんでんこ」は信頼感があってできる行動です。地域全体を包む信 頼関係を構築するために減災学習をするのです。 「減災学習」の第1歩として地元の過去を住民みんなが学ぶこと、ここでは知っていることでは なく、学んでいることを共有します。それを学んでいるという共有感を育てることを重視します。 滋賀県では全ての小学5年生が学習船「うみのこ」(湖の子)に乗船・航海し、宿泊をともなう 教育を実施していますが、全ての子ども達が学ぶと言うことは、いずれこの子ども達が大人になれ ば、フローティングスクールは誰でもが知る年中行事になるでしょう。 これと同じように、全ての人々が、発達段階の同時期の同じ日に、過去の災害を記した石碑まで の遠足や、石碑の廻りの草むしりをすることや、言い伝えを聞き取りしたり、古い写真を発掘する など、大人と子どもが地域の災害史を辿る学習を一緒にする日が年中行事になるのです。遠足をす る小学生の姿を見て、「そうか今日は10月6日、滋賀県減災の日だったな」と大人も減災を再確認 できるようになります。また遠足から帰った孫と夕食の話題を共有できます。 ところで、多くの人は教育というと、直ぐに小学校の児童と思いますが、私はまず、私たち大人 から始めるべきだと思います。そして地域で共有し、後世と共有します。つまり減災学習は空間、 時間、人間を超えて共有することが大事です。大人まで学校任せにしていませんか。 「減災」学習は極めて多方面にわたります。①社会教育、学校教育、家庭教育はもとより、地域 で自らが学ぶ、職場で学ぶ、というように学ぶ場、あるいは機会が多様ですし、②住宅や施設の管 理責任者として学ぶという責任のありようも多様です。
6.まとめ
①「減災」の第1は、まず安全を選ぶ姿勢です。 住宅を決める時、便利さや快適性に目を奪われていませんか。 地震、崖・土砂崩れの危険をどれだけ調べましたか、インテリアに関心を奪われて建物の堅牢 性をないがしろにしていませんか。 周辺から火事の延焼を受ける心配はありませんか。減災教育から減災学習へ
減災学習によって地域の信頼関係を構築する 知っていることではなく、学んでいることを共有する 減災学習の年中行事入り 減災学習は大人から 減災学習は空間、時間、人間を超えて共有する。 多方面からの減災学習非常時に救急自動車が入れますか。 建物の用途を違反していませんか。 何故そんなに沢山の物に囲まれて住んでいるのですか。 薄利多売につられて買った物が住居にあふれていませんか。 あなたの家はいつ点検・修理をしましたか。 日頃から安全を優先する住居観を培うことが大切です。 ②「減災」の第2は、リスクを減らす力をつけましょう。 年に1回減災キャラバンで地域を歩き、ガリバーハザードマップを作るなど、自分たちの目で 減災の効果を確かめましょう。 ③「減災」の第3は、自然と敵対しないということです。 ④「減災」の第4は、人間の絆を結び直すことです。 なぜ、現代の人は手を結ぶのを避けるのでしょうか。温かい手、冷たい手、硬い手、柔らかい 手、大きな手、小さな手、けがをした手、手入れがよい手、人の様々な生活を映し出す手をぎゅ っと握って、手をはなさいよと言う合図を送りたいものです。 ⑤さいごに 今日のお話の最後に「減災」の真手(までい)の構えを推奨したいと思います。 原発事故の被災地である飯舘村村長の菅野典雄氏は著書『美しい村に放射能が降った』の中で、 「真手(まて)」流飯舘村の未来について熱く紹介をしておられます。 「真手(まて)」とは、古語が語源で、左右揃った手の状態のことで、それが転じて、手間ひ ま惜しまず丁寧に心をこめてつつましくという意味で使われる東北地方の方言だそうです。菅野 村長によれば「スローライフ」と通じる概念だそうです。 村の未来は、手間ひま惜しまず、「丁寧に」「心を込めて」、利益優先の生活を見直し、じっく りと他人を思いやる精神の大切さを身につけた村民が担う美しい村である。 文献『美しい村に放射能が降った ∼飯舘村長・決断と覚悟の120日∼』(ワニブックスPLUS新書) 両手を合わせると言う意味から、ゆっくり真を生きていこうという意味が生まれたようです。 とてもすばらしい言葉だと思います。 最後に「までい」に生活をしてきた例をご紹介して終わりたいと思います。 多賀町萱原地区には1990年代まで大掃除の習慣が残っていました。大掃除なんて当たり前で しょと思われるかもしれませんが、私が取り上げる大掃除は家具を運び出し、畳を上げて屋内を 空っぽにする大掃除で、かつ地区一斉に実施するのが特徴です。 萱原に限らず、大掃除は1950年代から60年代にかけて全国で実施されました。なぜならば清 掃法という法律がそれを義務づけていたからです。しかし、1970年に廃棄物処理法に法律が変 わって、全国からは姿を消していきました。 それなのに、なぜ萱原ではなぜ近年まで残ったのでしょうか。萱原は山間の集落で、地下水が豊 富なところだそうです。日当たりの加減と、地下水が多いことから木材の腐朽が早く進む。しかし、 縁の下から天井裏まで隅々を掃除するので、雨漏りが見つかったり、縁の下の束が腐り始めている のを発見する機会になります。がんと同じで早期発見・早期修繕は長寿の秘訣です。そして、毎年 2回の点検がとても有効に働いていたというわけです。これこそが減災のライフスタイルです。 また、地区一斉にすることが、同じライフスタイルを共有することになるし、高齢世帯の状況を
知ることにもなります。これは共助の機会も作っていたのです。 「減災」だけを目的にした共助は、オオカミ少年のたとえがあるような油断を引き起こす可能性 があります。 日常の当たり前の生活の中で、近隣を知る、声が聞こえる、つながる必然性を見つけることが大 切ではないでしょうか。 以上で、私の話を終わります。ご静聴ありがとうございました。