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価値と交換価値
荒 木 夫 1 経済学においては,在来,「価値,使用価値,交換価値」および「価格」につ いて,極めて多くのことが語られてきたが,かつては,例えば,かのW.ペテ ィなどは,価値の一語でそのすべての内容を使いわけていた。『租税貢納論』 1) (1662)しかり,『政治算術』(1690)もまたしかり,である。このことは,約 80年後,大陸の経済学者,A. R. J.チュルゴォにも引きつがれた。すなわち,『富 2) に関する省察』(1766)などがそれである。しかし,体系的にそのおおよそに相 応した名称をふりわけたのは,周知のごとく,A.スミスの,『省察』に10年遅 れの『国富論』(1776)であった。彼によれば,まずなによりも,「価値」は二 つにわかれる。一つは「ある特定の物体の効用」,他の一つは「その物体の所有 がもたらすところの,他の財貨を購買する力」である。かくて,前者を「使用 価値(value in use)」,後者を「交換価値(value in exchange)」としよう, 3) というものである。しかし,「交換価値」と「価格」の共用はなお許している。 さらに,D.リカードにいたると,「使用価値」と「交換価値」に軽重の差を 1)Ref. Wi11iam Petty:ATreatise of Taxes and Contributions.……….(大内兵衛・松 川七郎訳:租税貢納論,岩波書店,1952.参照),Political Arithmetik,……….(大内兵衛 ・松川七郎訳:政治算術,岩波書店,1955.参照) 2) Ref. Anne Robert Jacques Turgot : Reflexions sur la Formation et la Distribution des Richesses.(永田清訳:富に関する省察,岩波書店,1934.参照) 3) Adam Smith : An lnquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations, London (The Glasgow Edition of the Works and Correspondence of Adam Smith, HI, vol.1, Oxford(Clarendon Press),1976, pp. 44∼5(水田洋訳:国富論(上),河出書房新 社,1965,31頁))264 越後和典教授退官記念論文集(第273・274号) つけ,前者を与件とし,専ら経済学の根本課題を後者とした。しかも,この交 換価値の「源泉(sources)」を「稀少性(scarcity)」と「それらを取得するの に必要な労働量(the quantity of labour required to obtain it)」の二つとし, 稀少性を労働の脇役におきかえつつ,加えてこの交換価値を「絶対(absolute) 価値」と「相対(relative)価値」にわけ変えた。そして,検討課題中の課題を 「労働の比較量(the comparative quantity of labour)」としての「相対価値」 4) にしばり,事実上,「価値」を「交換価値」と同i義化したのである。ただし,彼 も交換価値と価格の混用は残した。 ところで,かかるD.リカードに発する,二つないしそれ以上の異質商品の交 換比率を全商品に共通な第三者に還元・計量するとの,課題設定は恐らく現代 までの絶対多数の経済学者をとらえて離さないものであろう。D.リカード対 5) T.R.マルサスの論争もこの共通土俵のうえでの「投下労働」対「支配労働」の 対立を終幕とするものであるし,古典学派対K.マルクスの争点もD.リカー ドの結論をめぐってのものであった。新古典派の台頭とて例外ではない。これ らの主流派にたいし,A.スミス以降,反論もないではない。 J. M.ローダーデ
6) 7)
一ルやR.トレンズは,かかる第三者の探索を「philosopher’s stone」を求める 錬金術師の仕事に比し,強く異を唱えたし,また,S.ベイリーも「絶対価値」 8) の第三者化の無用を広く訴え,交換価値そく相対価値の独自説を示している。 4) David Recardo: The Principles of Political Economy and Taxation (The Works and Correnpondence of David Recardo, vol. 1, Cambridge, C. U. P., 1970, pp. 11−20 (『デイヴィド・リカードウ全集(第一巻)』,雄松堂,1972年,13∼78頁))なお,リカード には絶対価値追求の晩年の草稿も残っている。(ibd., vol.4,1966, pp.399∼412(『全集(第 四巻)』,1970年,476∼90頁)) 5)Ref. Thomas Robert Malthus:Definitions in Political Economy,1827(玉野井芳郎 訳:経済学における諸定義,岩波書店,1950.参照),The Measure of Value…・…・・.,1823 (三辺清一郎訳:マルサス・価値尺度論,実業三日本社,1944.参照),Principles of Political Economy……….,1820(小林時三郎訳:経済学原理(上・下巻),岩波書店,1968.参照) 6) Ref. James Maitland Lau’derdale : An lnquiry into the Nature and Origin of Public Wealth…’・’…., 1804 7) Ref. Robert Torrens: Essays on the Production of Wealth, 1821 8) Ref. Samuel Bailey : A Critical Dissertation on the Nature, Measure, and Causes of Value;・・……・., London,1825(鈴木鴻一郎訳:リカアド価値論の批判,日本評論社, 1947.参照)価値と交換価値 265 総ずるに,これら全体の議論を通じての根本の共通点とは,使用価値を質と し,交換価値を量とすることにあるといえるであろう。すなわち,「有用性 (usefulness)」としての商品の「使用価値」は,国者間の交換割合としての商 品の「一般的購買力(general power of purchasing)」ないし「その物の所有 が与えるところの,購買することができる商品一般に対する支配力(the com− mand which its possession gives over purchasable commodities in general) 1 としての「交換価値(value in exchange or exchange value)」によって数値 9) 化されるとする理解など,その一典型であった。しかし,そのことは,はたし て誤たぬ学的課題であったのか。 II マルクスが,渡英後,本格的な経済学の研究にはいり,最初に手がけた1857 ∼8年『草稿』「二 貨幣に関する章」(ノート第一冊)での,彼の「価値,交 換価値,価格」の区別と関連の記述は極めて興味深い。すなわち,「価格」とは 「交換能カー般」としての能力が量として比較可能であり,したがって「等価 物」として等しい「労働時間」を「対象化」しているものでなければならない。 そのかぎりで,「価値」と「交換価値」とは同義である。また,「価格」は,「交 換価値」そのものの「代表」たる貨幣のもつ「一般的等価物」としての「交換 価値」であり,かくて,「価値」を規定する「労働」そのものが「価格」の表現 10) 要因を直接なすものではない,と。以上の見解で刮目すべきは,「価値」と「交 9) John Stuart Mill: Principles of Political Economy・一・…一一・., 1848 (Reprints of Classics, New York, A. M. Kelly,1965, p. 437(未永茂喜訳:経済学原理(三),岩波書 店,1960,21頁)) 10)該当箇所は次のとおり。引用はK.Marx F. Engels Gesamtausgabe, zweite Abteilung Band(1・1)(『資本論草稿集(1)』大月書店)。以下, MEGA, Abt. B.『草稿集』のごと く略記。 「価格は価値に等しくはないからこそ,価値を規定する要因一労働時間一は,諸価格が 表現される要因であることはできない。………(ここで同時に,価値関係が貨幣において, どのようにして,またなにゆえに,一つの物質的な,また特殊化された存在を受けとるの かといりことについて,光が見えてくる。この点はさらに詳論しなければならぬ。)」(110 一一 1頁,SS.57∼8) /
266 越後和典教授退官記念論文集(第273・274号) 換価値」を事実上,「吃語同義」化したことである。そのかぎりでは,古典学派 の影響から十分に抜けきったとはいえず,後年の「価値形態」の萌芽さえもち ろんのことみられない。「貨幣」も商品仲間のせいぜい「代表」の扱いをうけて いるにすぎず,三者の区別も結局のところすべて形式的なものに止どまってい る,のである。 1859年刊の『経済学批判』にいたるとその「第一編 資本一般 第ユ章 商 品」の書出は「一見したところでは,ブルジョア的富は一つの巨大な商品の集 まりとして現われ,個々の商品はその富の要素的定在として現われる。そして, どの商品も,使用価値と交換価値という二重の観点のもとに自らを表わしてい 11) る。」となっており,同章のその後の展開も使用価値に対立する内容は,おおむ × 「商品(生産物または生産用具)は,いずれも,一定の労働時間の対象化に等しい。商 品の価値,すなわち商品が他の諸商品と交換され,あるいはまた他の当商品がその商品と 交換される割合はその商品に実現されている労働時間の分量に等しい。………商品か価値 (交換価値)であるのは,交換(現実の交換であれ,表象された交換であれ)においてだ けである。この商品の交換能カー般だけではなく,商品の特有な交換可能性が価値なので ある。………価値としては,商品は同時に他のすべての商品にたいする,一定の割合での 等価物である。価値としては,商品は等価物である。等価物としては,商品のすべての自 然的諸性質は,商品において消失している。………価値としては,商品はつねに交換可能 であり,現実の交換では,商品が特殊の諸条件を満たす場合にだけ交換可能である。……… (簡単にいえば,貨幣の特殊な諸性質として数えあげられているいっさいの諸性質は,交 換価値としての商品の諸性質なのである。つまり生産物としての価値とは区別された価値 としての生産物の諸性質なのである。)(商品それ自体とならぶ特殊な存在としての商品の 交換価値が,貨幣である。つまり,すべての商品がたがいに同等化され,比較され,測ら れる形態である。すべての商品がそこに解消していく形態であるとともに,それがまたす べての商品へと解消していく形態でもある。つまり,一般的等価物なのである。)」(112∼ 4頁, SS.75∼7) 「………商品は,交換される前に評価されるが,商品を評価するためには,相互に一定 の数的関係にもたらされなければならない。」(114頁,S.77) 「したがって,過程は,簡単に次のようである。すなわち,生産物が商品になる,すな わち,交換のたんなる契機となる。商品は交換価値に転化される。商品を交換価値として の自分自身に等製するために,商品は,交換価値そのものとしての商品を代表している一 つの章標ととりかえられる。次いで商品は,ふたたび,こうした象徴化された交換価値と して,規定された割合で他のいずれの商品とでも交換されることができる。」(118頁,S.79) 11)MEGA,2Abt 2 B, S.107(「草稿集 (3)」,213頁)
価値と交換価値 267 ね一貫して交換価値で統一している。ただし,交換価値を量的な割合として比 較考察するばあいにかぎり,予め確定される各商品の交換価値の量を「価値」 と表記することもなくはないが,これとて『草稿』(ノート第1冊)執筆時のマ ルクス自身の考えの再認以外のなにものでもない,といえよう。したがって, 本書は,草稿期の同じ対象が交換されるまえは価値,交換時は交換価値といっ た形式的区分の大幅整理でしかないのであり,わずかに,価値形態に脱皮・発 芽すべき内容の割込が,後年の『資本論』への橋頭墜を築き,マルクス独自の 片鱗をのぞかせているにすぎない,のである。 しかし,それから8年後に出版される『資本論』(第1部)(初版)にいたる や,本文では,「交換価値」を大きく二分して,「交換価値の実体(Substanz)」 ないし【単に「価値」というときは「交換価値」の異名とする旨の注記をつけ て】「(交換)価値そのもの(schlechthin)」と「相対的な(交換)価値の形態(Form des relativen Werths)」ないし「(交換)価値形態(Werthform)」とするにい 12) たった。要するに,交換価値を使用価値の対概念とし,交換価値を一本化して, 交換価値の実体と形態の色分を試みるにいたったのである。このことは,本書 におけるマルクス独自の「価値形態」論の提起と恐らく不可分であろう。この 価値形態の特質を一言にしてつくすなら,交換はいついかなるときもなんらか の商品がつねにそのイニシアティブをとる,ということである。価値形態は価 格の一方的強制的な他商品獲得力の理論的源泉である。この理論の苦心の,し かし見切発車的な処理が一方で労働を交換価値と区別しかつ同化をも止むなし, としたのである。 ’ 『資本論』も1872年の(2版)では,特に(初版)の「本文」と「付録」に 両分併記された「価値形態」は「付録」中心に改良一本化されるが,編章節も 細分され,冒頭部分は「第1部 資本の生産過程 第1編 商品と貨幣 第1 章 商品 1)商品の二要因:使用価値と価値(価値実体,価値量)」となる。 そして,この価値形態論の整備と平灰を合わせるかのように,少なくとも交換 12)MEGA,2Abt.5B, SS.17∼51(江夏美千穂訳「初版・資本論』,幻燈社,1983,17∼69 頁)
268 越後和典教授退官記念論文集(第273・274号) 価値の実体にあたるものから交換の2字が消え,価値なる用語は交換価値の略 称なりとの付記も除かれ,かかる実体を交換価値と呼ぶときは「世間なみの流 儀で(in der gang und gaben Manier)」用いても許されるときにしか使うま 13) い,とするにいたっている。ほぼ同時期の本書(仏語訳)もマルクス自身目を 通したうえで,冒頭表題中の「使用価値と価値」を「使用価値と交換価値また は厳密な意味での価値(valeur proprement dito)」と改め,価値の単独使用に 14) 細かい気配りをみせている。しかも,交換価値なる用語は価値形態の別名とし 第3節の表題も(初版)「付録」と異なり「3)価値形態または交換価値」と し,「価値実体:価値形態」には「価値:交換価値」という用法をようやく定着 15) させたかにみえるのである。 周知のごとく,『資本論』にいたるや,(初版)で示すなら,「使用価値」は「交 換価値」の「素材的担い手」とされ,その交換価値もさしあたりは偶然的な「交 換しあう割合」「量的な関係(das quantative Verhaltniss)」として現われる が,それも,「適切な(richtig)割合)」にありさえずれば,「内在的な(交換) 価値(valeur intrins6que)」「(交換)価値そのもの(schlechthin)」としての「共 通な社会的実体(die gemeinsame gesellschaftliche Substanz)」,「結晶した 16) (krystallisirt)労働」を第三者的に抽出しうるとされている。だが,このこと は,古典学派の「使用価値=質」,「交換価値=量」の区分法のあからさまな焼 直しである。そして,この交換価値=使用価値の量的関係からする「(交換)価 値実体」論は,「(相対的)(交換)価値の形態」論にも「同等性関係」として再 登場することとなるのである。 しかしながら,マルクスの『資本論』壁頭の真骨頂は,「価値形態」論にあ る。そこでは,等価物としての商品が交換力(交換可能性)を直接,持つとさ 13)MEGA,2Abt.6B.(ドイツ語2版), S. 92 14)MEGA,2Abt 7B.(フランス語(ロア)版), p.19(なお,全集ではditeとあるが,復 刻版(極東書店>1967年参照) 15)MEGA,2Abt.8B.(ドイツ語3版), SS.63∼111およびMEGA,2Abt.,9B.(英語 版),pp.29∼73 16)MEGA,2Abt.5B.(ドイツ語初版〉, SS.18∼20(邦訳,18∼21頁)
価値と交換価値 269 れ,他商品を一方的に購買(交換)しうるとされているのであり,それは,交 換の六六が特定商品の一定数量を囲いこむことを宣言するものとされているの である。かくて,交換価値は,商品の使用価値とならぶそれとは別箇の質なの であり,商品は二本立の質よりなる混成品をなすのである。したがって,第三 の共通物を求める作業を始めんとするやいなや,貨幣生成の論証は諦めざるを えまい。それは,直接交換,相互取引,全面交換の永久保証をこそ約束するも のであれ,間接交換,売買取引については一片の弁明の労すらとるものではな いからである。マルクスが,実在のバーターにたいしてけんもほろろの態度を 17) とるのも十分わけありのことなのである。にもかかわらず,価値実体のとりだ し操作には直接対面の商品をもちださざるをえないし,価値形態の同等性論議 18) には,物々交換の例証をすらもちこまざるをえないのは,マルクス自身,交換 価値の実体・形態を一括して商品の量関係とする陥穽にみすみすはまったから に他ならない。こうしてみると,マルクスの「交換価値」と「価値」との区分 の執拗な作業には,結局のところ,古典学派の丁丁なしとしないのであり,形 式的な区分から十全には免れていない,というべきである。あたかも価値の交 換価値への転化が直接可能であるかにみえるのは,同じ生産商品のみを所与の 対象とし,その各所有量の三一の時点での輪切転写を同時公開するからにすぎ ない。正にこれこそマルクスの最も忌むべき同義反復に甚だ近い。 III いったいに古典学派以来,商品には二つの要素がある,一つは使用価値,他 の一つは価値ないし交換価値であり,そして,貨幣の交換価値に限って価格と するとされ,今日に至った。この不動の多数説にたいしては,価値と交換価値 の峻別を説くマルクスの見解が大きくたちはだかるが,その価値を交換関係の なかで確定せんとするマルクスの試みにたいしては,数々の異論が出されてい 17)例えば,現行『資本論』の冒頭(第2章「交換過程」)をみよ。 18)MEGA,2Abt.5B., S.628(邦訳,883頁)
270 越後和典教授退官記念論文集(第273・274号) 19) る。しかし,マルクスを含め論者全員の共通の土俵は,少なくとも1:1の商 品関係のなかに共通な質を第三者的に抽出せんとするものである。それは,所 有や支配(一通説でも言葉の使用はあるが事実上は骨抜一)とは全く縁切りの 内実である。所有は,もともと人がものを人が人を一方的にわがもの化するこ とであり,いわば,異なるもの同士の関係であり,共通な質を予定したうえで の量的関係などでは毛頭ない。しかし,叙上の理解にもとつく価値の内容は, 当然のことながら労働か効用かの争いとなるのであり,所有論から本来的には 免訴さるべき労働を交換割合のなかに導出せんとする企てにも及ぶわけなので ある。 そもそも歴史的な度量衡(weights and measures)(長さ・容積・重さ)の 用語などで始まる計測は,いまや日常的なものから応用を含む科学的なものに までおよび,『計量法』にもとつく「長さ・質量・時間・電流・温度・光度」の 基本量から,はてはそれらの誘導量などに拡張・体系化されてきていることは 周知のごとくである。とはいえ,広く一定の同質の対象の大小・多寡などを数 値化する点においては今日とて昔となんら変わりはない。わが商品世界におけ る計測も,個々の同種商品は伝統的な計測法にのっとり,日々計量されよう。 しかし,交換を軸とする関係計測はことほどさように簡単ではない。なぜなら, その試みは,本来,質を異にするからこそ取引される商品間に改めて量的比較 を求めんとする学的営みを意味するからに他ならない。究極の事態は貨幣での 比較である。しかし,資本ならばいざしらず,なぜ,貨幣でならば商品世界の 異質の組合せを同質化することになるのか。また,そもそも,商品(貨幣用金 も含めて)全体の異質を楯にとりつつも,その一部に同質(労働や効用など) を認め,この共通質を基準とする数値計測とて,はたして十分,論理妥当的な 19)宇野弘蔵氏の場合も,価値の実体と形態を区別されるが,冒頭では,前者を存在はする が無規定のものとし,単に「質的に一様で量的に異なるもの」とされている。そして,規 定されるべき内容を「産業資本形式」を介して導出され,価値の実体と形態を改めてドッ キングされている。そのかぎりでは,価値と交換価値は一体の二面とするマルクスの見地 の踏襲であり,また,いずれも二者自体の量的比較を基本とする点は大よその経済学の延 長線上にある。(『宇野弘蔵著作集(1)(2)(3)』,岩波書店,1973参照のこと)
価値と交換価値 271 ものなのか。 ひるがえるに,古典学派に始まる商品聞の計測は,いわゆる「価値尺度」論 争をひきおこし,新古典派における労働よりの効用への基準変更にあたっても 最適な同質性をそのメルクマールとした。労働をあくまで標準とすべきとした マルクスでさえその論拠はあくまでベストな共通質である。しかし,この経済 学史上,ほとんど揺ぎない基本的な設定課題に決定的なミスはあるまいか。あ るいは,異質なものの交換に共通なある数量を求めることなど正にマーテルリ ンクの「青い鳥」を探す旅路やもしれぬ。現に,新古典派は,効用は全商品に 共通な質だが主観的なため少なくとも絶対的には数値化できないとの最終布告 20) をだし,マルクス学派も,経済質の量化への絶対的信認を立前としつつも費用 価格の一般的な生産価格化や結合生産物,複雑労働の数値化などの難題に死刑 宣告を発しかねている。いまや光さえ吸いこみそこからなにものも出ることが ないというブラックホールにわれわれは落ちこんでいるのではないか。もとも と商品を異質・同質のふるいにかけ使用価値と交換価値に両分した古典学派の 先達たちこそ,原罪の汚名をかぶるべきとも解される。
IV
なにはともあれ,生成序列に則すかぎり,商品の本源的規定は,使用価値を 獲得支配する源泉としてのなにかである。すなわち,交換価値発動のまえに予 め確保されるべき商品の準備規定である。交換を介して他の商品を獲得占有す る二次発生的所有のときは,効用と支配は独立・分岐するが,この原点の発生 的所有のさいは末だ効用と支配は分立せず,支配を語ることは効用について話 すことでもあった。したがって,商品の始源は,自然と社会の同化した未分の 20)Ref. J. R. Hicks:Value and Capital, Clarendon P.,1939(安井琢磨・熊谷尚夫訳『価 値と資本(1)(2)』岩波書店,1951), P.A. Samuelson=Foundations of Economic Analysis, Harvard U.,1947(佐藤隆三訳『経済分析の基礎』月草書房,1967), G. Debreu: An Axiomatic Analysis of Economic Equibrium, Yale U.,1959(丸山徹訳『価値の理 論』東洋経済新報社,1977),K. J. Arrow and F, H. Hahn:General Competitive Analysis, Holden−Day, inc.,1971(福岡正夫・川又邦雄訳『一般均衡分析』岩波書店,1976>272 越後和典教授退官記念論文集(第273・274号) 一つの質である。 いずれにせよなににもまして,商品は,第一次の所有下にある。すなわち, 効用の何かによる支配である。別して,最優先的には人間による自然差配であ り,人間による天然の加工であり,また,有用物の生産である。したがって, 人間に役立つもののみの獲得でありその囲いこみであるから,有用物の生成の プロセスに沿って一意的に支配占有も確立するのであり,効用は所有とともに 所有は効用とともにある。よって,自然と社会の混然一体物こそ,わが商品の 歴史貫通的な始源規定をなすのである。商品は,まずなによりも効用の占有で はあるが,そして,それがより根源的に人類史に要請すべき規定ではあるが, このことは,特殊な第一次所有はいうに及ばず,第二次所有も含め一切の領有 の少なくも横断的な量化・禁欲の人権宣言をなし,一応のところ経済学の学的 課題からの数量的検証のドラスディックでパーシャルな永久追放をも自認する ものであった。経済学には,第一・第二の所有(労働と貨幣)そのものの縦断 的な量的支配はともかく,それらの比較計量は所詮,無益のことであった。 いうまでもなく労働は,自然支配の本源的な基底的源泉である。労働による 生産はその生産物を労働する当人に帰属させるが,その所有はいわば経過的で あり,労働の一瞬ごとに帰属を始め,そしてまた,その痕跡も同時に消す。労 働者は誰彼の好みのものを応分に作りつつ,これを一先ず我が手中におく。こ の現場では,欲望と占有が不即不離の関係にあり,分業の存否や所有形式の区 分は不問に付す。すると,われわれがこのプロセスからえる素直な解答は,そ の当事者がいかほどの生産物を囲いこんだのかだけである。そして,改めてこ の所有を社会的分業下におき,ユニットを一個人にしぼり,さらに注文生産か ら除籍する手続きを採るなら,この特殊で新味に富む,生産交通は,消費王国 への通行札の一斉没収の憂目にあおう。かくて,商品社会は,流通増禍に衣裳 更えした生産者の登場を求め,各所有商品に別の商品を獲得する力を与える黙 約をさせ,消費王国への通行証の再発行に踏みきるのである。この第二の所有 演技は,直接的取引を始発とするが,所有様式の鉄則に照らせば,相手方の商 品のみの確保に一途なことだけがわれわれの知りうる最大情報である。この直
価値と交換価値 273 接の取引が間接的な取引に転化し,特定の商品に直接支配の権限を共託したと しても事情に全く変わりはない。すなわち,交換終了は,なにをどれだけだれ が手にしたか,である。要するに,第1次所有(基本(歴史貫通),特殊(歴史 限定)の如何を問わず),第2次所有のいずれにせよ,所有は,当の人にとって のみ有意味であり,他の人,他のものとの比較は全く無用のことであり,した がって,全商品の同質性探索の労苦は蟻地獄の穴への死出の旅路となるのであ る。 ところで,この第一次所有,労働にもとつく所有は,さらに,その労働の所 有者は誰か,の問題に収幽する。すなわち,人間各自の肉体に内存する労働力 ないし労働体をその当人が直接支配しているのか否か,のより根源的な課題で ある。ここには,所有の形式,共有(共同所有)と個有(個人的所有),社会的 所有と私的所有などの区分もわりこむが,当座のところ,私的・個人的所有の 枠内で議論したとしても,少くとも,自己労働にもとつくか他人労働にもとつ くかの区分は避け難い。いわゆる単純商品生産か資本制的商品生産かの区別で ある。すなわち,労働力を自分の所有下におきつつ,生産手段も分散的ながら 自分の差配下におくか,多くの他人労働力を自分の所有下におき,生産手段は 独占的集中的に自分の差配下におくかの分別である。 にもかかわらず,マルクスが,商品論冒頭で私的・個人的所有に結びつく, 労働にもとつく所有を展開できなかったのは,一つは,交換価値を単なる量的 割合として扱うことに関連しており,そのことは,私的・個人的所有一般,し たがって自己・他人労働に共通した私的・個人的所有しか前提する術なし,な のであるが,しかし,そのような空虚な抽象はマルクスとてもとうてい断念せ ざるをえなかったであろうからである。すなわち,単純商品生産にも資本制的 商品生産にも共通なものとして商品生産を扱うなら,それは,各生産関係をも 消去することとなり,一切の所有関係に無縁な,共通物としての労働に一本化 されるしかないのである。マルクスが,労働過程においても,価値増殖過程に おいてすら,所有論を説かない奇体さは,一にかかって,冒頭商品の内容構想 にかかわっているのである。要するにマルクスは,周知のとおり労働過程にお
274 越後和典教授退官記念論文集(第273・274号) いては所有論,彼の言を借りれば,「自分の肉体のいわば延長にすぎない,自分 自身の自然的前提としての,これら生産諸条件にたいする関係行為」としての 21) 「所有(Eigentum)」論を展開しない。『資本論』草稿においても,その位置 は,「貨幣の資本への転化」の直前が初見であり,しかも『経済学批判』以降『資 本論』(初版)(2版)(3版)にいたっては,この部分は全面カットされてい る。「労働過程」においては草稿の初期から一切その記述なし,である。そのな ぜの問題は一先ずおくとして,このことから派生しうる重要な帰結の一つは, かかる労働過程の特性をもってするなら,先の価値論議にかかわる共通物捜索 と相連動し,「商品流通」を生産の結果とみなすかぎり,わが労働を十分,候補 最適者として推薦させうる論拠あり,ということになる。マルクスの「価値」 概念には,一面で,かかる量的計測役の労働を古,典学派から不用意に引継ぐ土 壌もあったのであり,そのことは,同じ労働が価値形態としての交換価値に転 化し他商品を獲得支配する力となる他面とはげしく競合するのである。一方は, 量的に計れ,他方は量的に計れない。 また今一歩掘りさげるなら,マルクスが労働過程やさらに価値形成過程です ら「所有」論を展開できなかったのは,一にかかって,資本の歴史的成立その ものが生産手段の強力による集中所有であることを知ることにあり,また,い かなる資本制以前の社会にあっても(原始の牧歌期にあるいはの推定ができな くはないが)社会存立の基盤に労働にもとつく所有を認めえなかったことに帰 しうるであろう。しかし,マルクスの試みる「本来的蓄積」と「本源的蓄積」 との間の中国手品にも見まごう絶妙な好技に照らしつつ,資本主義発端の強権 所有の,勤倹極まりない人々による一品も残さぬ生産物の集中所有への目にも とまらぬ変身を「かのごとくに」認知するなら,労働・価値増殖を一体とした 「所有」プロセスとの弥縫なき抱合にわれわれは目をつむることもできようか というものである。 21)MEGA,2Abt. 1・2B., S.395(高木幸二郎監訳『経済学批判要綱』(3),大月書店,425頁)
価値と交換価値 275
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そもそも,経済学は,近世にいたり,商品経済の根幹をなす商品につき数々 の検討を加え,ついに価値なる特異な用語を案出し,しかも,それを二様に使 いわけた。いわく,使用価値であり,交換価値である。いったいに,価値とは, 人に重くかかわるなにかであり,一方は,人が欲しいと思う自然対象としての ものであり,他方は,それの一部かそれと全く異なる人的な質をその自然対象 から切除したりまたはそれに追加して,この自然対象の共通な質としたうえで 交換の量的基準とするものである。交換の量的基準としての代表は,一は効用 であり,他の一つは労働である。このいかにも愕然たる設定は,もともと商品 の交換が,その自然的性質の異なるものの取りかえであり,しかも平等取引を 学的課題としてもちこむかぎり,なんとしてもこの自然対象の周辺にまつわる 人間独自の共通質を援軍にひきこまざるをえないことから生まれたものである。 交換とは,異なるものを等しい割合でとりかえうることであるとするなら,い まや一方の質の量への他方の質の量の密約代入となるほか策なしなのである。 しかしながら,交換価値とは,本来,使用価値の質を支える量的規定などで はなく,使用価値と並ぶ社会的な質とすべきはずのものである。それは,所有 規定であり,しかも第二次的なそれである。とすれば,第一次的な所有とも区 分される。いま,価値とは,使用価値と交換価値の二者に枝わかれするなにか ではなく,使用価値の所有規定の二段の第一規定のなにかとするなら,この源 泉の筆頭順位に労働にもとつく第一次の所有を改めて指名することができよう。 この一次と二次の所有は,いわばそれぞれ別箇のベクトルであり,異なる人的 源泉に根づく。一方は,むきだしの生産現場での人間労働であり,他方は,市 場当事者間の人間関係が物的なものに転写した特種な社会力である。したがっ て,当初,費用(労働)を費して生産され,わがもの化された商品は,やがて 全面武装解除され,再編のうえ,改めて,異別の所有権i原たる交換力に費用の 栄誉を譲りわたすのである。そして,そのかぎりにおける緩やかな関係しか労 働と他商品引渡要求力の間に残さないわけである。276 越後和典教授退官記念論文集(第273・274号) いうまでもなく,根底的な意味での所有とは,基本的には自らの欲する生活 資料を加工してその手許にすえることである。もし,加工して自らの手許にお くもののそれが自らの欲せざるものであれば,自ら欲するものを手許におく他 の人にたいし,商品社会の理神論的神の名において引渡の執行を命じ残務整理 の実をあげんとするのである。よって,この引渡力は加工力としての労働とは 一線を画し血脈を異にするのである。ただし,加工が相手方の自然から鋸一文 たりとも代償を求められないように,引渡しも相手方の商品になんらの補償も 与えない。ただ,その当人に不用のものを相手方に無理強いするが,これとて もあくまで無用の費用零の原則に徹せんがための苦肉の策なのである。かくし て,交換価値は,一方通行の交通規則の誉れ高き遵守者となり,自分がどれだ けの他商品を囲いこむかに専念するのであり,他商品がそのまた他商品をどれ だけ獲得するかについてはとんと無関心なのである。 さて,いったいに,経済の領域に登場する人は,対称的な組を一単位とする であろう。すなわち,一方にポジティブな,他方にネガティブな複数人をセッ トとし,そこからあらゆる経済行動が発進するとせずばなるまいというわけで ある。すなわち,単一の均質的個人にまで還元しての経済行為は事実隠蔽的で あり,自由人ないしいわゆる経済人を経済学の原点にすえることは抽象の過度 な行過というべきであろう。商品所有(生産)者が,経済的条件のすべてにお いて平等・公平であり,試行錯誤的な競争を十分に行うならば少くとも最適な 配分は確保する,とする理解またはバーター取引ないし実物経済こそ原理の要 なりとする解釈は,そもそもの出発点において疑義あり,なのである。そして, このことは,マルクスにおいてさえ,こと商品所有者の処遇に限っても同断で ある。すなわち,『資本論』にあっては,商品の直接的取引のなかから,比較可 能な価値実体としての労働を導出し,商品相互,ひいては商品所有者相互の互 換【生,同等性ないし相互性を期せずして確認している。この論定の不十分さは ともかくとして,ここには,A.スミスが提唱し, L.ワルラスなども継承した 市民的個人の実在は,マルクスの心情にも生き生きと脈うっているのである。 22) Ref. L, Walras: Elements d’econornie politique pure ou Theorie de la richesse sociale, Paris et Lausanne,1926(久武雅夫訳『純粋経済学要論』岩波書店,1983)
価値と交換価値 277 しかし,マルクスも,また,この第一局面で重大な見損じをした,というべき である。したがって,折角の価値形態を介しての貨幣の論証に不透明な影を落 すのは理の当然であった。貨幣取引(トレード)こそが理論の核心であり,実 物取引は正しくヴェールにすぎないとするのが,マルクスの商品論の正解のは ずだが,このことは,均衡論的発想とは大きく抵触したのである。 ところで,交換力は,自然力の重力,電磁力,強い相互作用および弱い相互 作用などとは異なり,人間独自の複雑な歴史的関係が作りだす社会力の一種で ある。まずは,社会的な分業が行われ,その構成員の最:小単位が二人一組とな り,改めて,分業の目的を果たさんとするとき,分業の対象物に社会が与える 力こそがわが交換力である。もっとも,個人に直接,備わる欲望や労働にかか る力はない。当然のこととはいえ商品の交換力とは,自らの肉体を与える代り に他の肉体を得る力をいうのであるが,そのさい,両者の問に共通ななにか(労 働や効用といった)が前提され,しかもその量的一致が保証されるといった関 係は微塵もないのである。交換力それじたいは,横断的な共通な質とは一意的 な関係をなんらもたないし,かりに,そのような一致関係と並行対面すること があるとしても,極めて稀なことであり,思わぬ不接触潔遁にすぎない。した がって,需給バランスのとれた均衡状態とは通常の取引はほとんど無縁なので ある。そして,不均衡さえも必然の関係にたたない。要するに,共通な質とは 超絶縁由となる。かくて,交換力こそ無政府的な私的な分業のメサイア中のメ サイアである。しかし,この交換力も,直接的取引たるバーターにあっては, 自ら与える身体が一先ず他人の欲望対象たる要件を付されるかぎり,その権限 発動に限界があるが,一般に他人の商品獲得の要求はあるもののその他人以外 の他人からしか自らの商品を欲求されない間接的なトレード方式になるや,唯 一の商品に特定はされるものの,その肉体が一切の他人の欲望から解約される がゆえに,その所有者はその交換力を思う存分,自在に活用できることとなる。 すなわち,貨幣はすべての商品を直接,獲得しうるので,逆に,商品所有者相 互の欲望が直接,一致せず,また,全商品に及ばずとも一切お構いなし,とい うことになる。すなわち,商品交換は,もともと一方的な交換力にもとつく取
278 越後和典教授退官記念論文集(第273・274号) 引であり,均衡排除的な取引である。また,不均衡も否認する。なぜなら,そ れとても量的概念だかちである。かくて,その対応は,全商品:全商品とはな らず,1:1の無限延長を許さない。したがって,少数取引ないし萌芽取引の 見本は,数箇のそれも不揃い箇数のバーターであり,多数取引ないし展開取引 の典型は,1:全体のトレード方式となるのである。十分に発展した商品生産 たる資本制生産であろうとそれ以前ではあるがすでに貨幣をおりこみずみの商 品流通であろうと,そのなかにはからくもバーターが内蔵されていよう。した がって,いわゆる価値形態(これも名称がえが必要だが)の課題も,バーター からトレードへの「なぜ・いかにして・なにによって」となろう。 かくのごとく,商品交換は,一方的な取りかえ指令にもとつく異物同士の質 的関係であるから,一商品の所有者にとって効用のある他の商品の所有者がそ の一商品にたいして効用をもつというバーター形式は,やがて,その周辺に三 角貿易のごとき三すくみセットや一商品の所有者にとって効用をもつ相手商品 は確実だがその一商品にたいして効用をもつ相手商品は存在はするものの特定 できないといったグループを雨後の筍のごとくに籏生させるにいたるであろう。 なぜなら,わが交換は,量的な同一関係の維持をモットーとするわけではけっ してないからである。かくて,かかる金縛り状況を打破せずばなるまいが,そ の突破口こそ,バーター形式のなかにある。バーターにあっては,自らの欲す る商品は全商品に及ぶことなく,自らを欲する他商品も商品世界の一小部分で しかなく,それが辛うじて一致したところで成立している甚だしくきわどい取 引を行なう。したがって,もともとこのバーターにも含まれるきわどさを予め 解決しておき,三すくみなどにもおさおさ備えるなら交換の円滑なバトンタッ チも計ることができようというわけである。ところで,その解の決手は,使用 価値と交換価値の分断・独立化である。使用価値の相互的な相対なくしては交 換力の実力行使はあいかなわぬという制約の解除である。すなわち,三すくみ などまでも包みこむ緩やかな相互需要のセット商品群の全集合を陽極におき, 陰極に特定のいかなるセットとも縁切りの直接的な交換支配力のみをもつ商品 を配するのである。この代償にその両極は,それぞれ商品の他の片面規定をそ
価値と交換価値 279 つくり返上放棄する。しかし,交換力保持商品は,それを手中にした商品所有 者ににわかに全商品の獲得欲望を与えるわけではない。相互需要のセット体系 はそのままにその所有の全面交代を完遂させることにより全商品の相互需要を くまなく実現させるのである。 ところで,商品は,商品流通を直接の対象とするかぎり,生産結果を外的所 与とする使用価値と交換価値である。その自然属性の一部ないし全部が他の(一 人ないしそれ以上の複数人)人間欲望にかかわるかぎりで使用価値である。ま た,その同じ自然属性を借りてその全体が他の商品を支配獲得する社会力とし ての交換価値でもある。そして,この両者は,他の商品との関係抜きには共に 存立しえないのである。自と他の区別が依存と対立の関係を誘い,両者の分離 ・独立を招いたのである。しかも,この分離はさらなる使用価値と交換価値の 背反を生み商品と貨幣,使用価値と価格の対立・依存の関係にまでいたるので ある。それにたいし,商品の生産規定は,関係発生直前の規定であり,効用も 支配も一つの自然体のみに照射されており,自他は未分である。 ひるがえって,商品が,他の商品を絶対的に支配しうるであろうケースは二 つある。一つは,つねにどこでも自らを他のすべての商品が欲求しているさい であり,他の一つは,逆に,つねにどこでも自らを他のすべての商品が欲求し ていないときである。前者は,バーター・モデルであり,後者はトレード・モ デルにあたる。前者は,実物経済を,後者は,貨幣経済を規範とする。ところ で,バーターのさいは,両当事者の商品にそれぞれ交換の権限を付すのだが, 交換のつどいずれの権限も同時発動するのである。すなわち,いまW。とWbが バーター取引にはいったとしよう。W。を所有するものが欲求するのはWbのみ であり,逆にWbの所有者はW。しか欲求の視野にいれないのである。W、の持主 はW。をもっことすら失念してひたすらWbをかちえんとするし, Wbの持手も W、のことしか念頭にない。おたがい,自己商品の評価点は0である。したがっ て,第三者的にはとりかえと映り,協議のすえの損得なしのseesawとみえる が,実のところそれはW。,Wbの所持者双方が独自に行なう一方的取引の切り はり合成写真なのである。当事者の立場にたつなら二重の→記号で示される一
280 越後和典教授退官記念論文集(第273・274号) 方通行と解されようし,けっして,→と←の相殺作用などではないであろう。 要するに,バーターとは交換力というより一方的な引渡強制力による異質物同 士の取りかえ執行がたまたま合流したにすぎないものである。異質なものの問 に共通な質が存在し,したがって,その等量の交換が均衡を保証するのではな い。異質なものを異質なものとして一方的に取りかえる力が闇雲の交換さえも 認知する万能ぶりを誇示するのである。 そもそも,バーターにあっては,1:1の関係にたつW。とWbの商品体その ものが,一面で,効用をもつ使用価値体であり,他面で,直接的な交換力(相 手商品を支配占有する力)をもつ交換価値体である,としてよい。そして,そ のさいその両者は相互補足の関係にある。したがって,労働は,少くとも流通 表層に限れば交換価値とは全く風馬牛であり,商品流通表面を前提とする商品 の内的規定からは排除されよう。かくのごとく,ともかくもバーター取引は, 最小限2商品間に成立する取引である。そして,両商品の当事者は相手方の商 品にそれぞれ効用を認め,とりかえの意志を示している。しかし,それだけで は交換は行われない。各商品に交換の直接指令を発する力が内存され,その社 会的な力の作動こそが交換の公約を実行に移すのである。いわば,商品の本体 が一人二役の役柄を前後に演じわけるもの,といってよい。商品に自然的な質 と社会的な質の二要素が当然に要請される所似である。いわば虚々実々の掛引 をともないつつの商談は商品の交換力への絶大の信頼あってこその前座行為な のであり,したがって,当事者間のぎりぎりの合意を持たざる交換の見切発車 さえ許されることもあるのである。このことは,バーターのみならず,売買(ト レード)においても加速・継承される。 したがって,所有ないし占有は,1:1の商品関係に第3の絶対的内容を求 めることを断念し,W、の交換価値はWbの数量で表わし,逆に, Wbの交換価値 はW、の数量で示しうるとする見解にたいしても,両者の比較計量を自明の前 提としている点で相容れない。所有は,たしかに関係の一種ではあるが,量的 関係のような相互関係ではなく,一方的な不可逆関係であり,たとい支配側の 力と被支配側のものとの間に共通に介在し,しかも客観化できる第3者の想定
価値と交換価値 281 などしたとしても,それは単なる観念的産物にすぎないであろう。W。の交換価 値のもつWbのα量を直接,支配占有する力は,バーター形式の交換に有効だ か,同時にW、のβ量がWbの直接的支配占有力を行使するものでもある。バー ター形式の下でさえ,その支配力行使権はつねにその双方の側にあり,ただそ の行使権者が直接,相対峙するだけの話なのである。量的計測対象が交換場に 残るとしたら,ただ一つ,交換相手の商品の計量や如何に,のみである。商品 相互間の比較など経済学の学的適性のとうてい耐えうる課題にはなりえない, のである。したがって,交換がトレード方式にスウィッチしたときでさえ,貨 幣は,その実在が歴史的に金による独占をうけ,一見,金の実在(質と量)が 共通質と混同されようと,あくまで,その実在の社会的な二二獲得力は,直接 的に計測可能でもなく,ましてや,その重さなどが他財の量の代役になどなり うべくもない,のである。
VI
いわゆる価値形態も,価値実体にたいする反対ないし現象の関係ではなく使 用価値と交換価値の2者関係(商品関係)の反転形式としてとらえなおすこと 23) が焦眉の急務である。すなわち,原理の始発は,使用価値と交換価値の2者の 関係である。ただし,使用価値が質,交換価値は量という関係ではない。使用 価値は,他人にとっての有用性であり,交換価値は他人の使用価値を直接交換 できる社会力であって,二者は相互補充の関係にある。そして,その他人はつ ねに同一人である。交換の基本はバーター形式で行われるであろう。しかし, 交換の拡張式は,その他人を別人同士の組合せとした場合の解を求める。別人 同士の組み合せの典型は三すくみ(three way deadlock)であり, W、→Wb→ W。→W、の関係である。この三すくみは,任意ながらW、の増分に全員合意の紐 つきなしの共同交換力を与え,かつその有用性に全員連署の封印をするならば, たちどころに解除する。そして,このW、のみが商品世界の全商品(少なくとも 23)筆者もかつて価値形態における=記号は,いわゆる等号を含む不可逆記号(→)との合 併記号の意に解していた。(拙著『「資本論」と価値論』,啓文社,1982)282 越後和典教授退官記念論文集(第273・274号) 1/3)との直接的取引の孤塁を守るかぎり,全三すくみ群への拡大・応用が 期せずしておこるのである。 ともあれ,われわれの前提によれば,商品相互の取引はたといバーターにし ても一方的な異質の関係であり均衡や不均衡にアレルギー反応をおこすもので あった。このことは,したがって,取引の実現,他の商品所有者の需要の確保 といったぎりぎりの想定ですら不確実なものとする。要するに,恐慌の瀬戸際 を極北ににらみつつ,売れるかぎり,投機局面であろうと不況のどん底であろ うとこれらを広く救いあげる領域を遊t対象とするのである。どころで,直接 的取引を間接的取引にきりかえる寸前の商品世界の映像をカットしてみるなら ば,幾つかの類型が解像される。バーターも残っている。W。→Wb→W,→W。 といった三すくみもある。また,W,→Wqだが, W。→W、でW、→Wkといった ケースさえみられる。しかし,われわれは,これら三者の共存を理論基盤とし ながら貨幣を導きだすのではなく,まずはバーターのなかにこそ三者一挙解決 的な解の存在を見いださんとするものである。 そもそも,バーター取引を間接的な取引の展開の基礎にすえるさい,その相 互取引も十分に数の多いワン・セットの例証を横に見すえながらのものでなけ ればならない。したがって,各商品にナンバリングするなら,Wl,………, W. (n≧3)となるものでないといけない。1:1の最:小のセットは不適である。 しかも,肝腎要なことは,相互に欲望が合致していてもやはり間接的な取引の ほうが取引として優i性であることの証明でもなければならない。すなわち,現 実のバーターのさいは,取引の決着はお互いの応酬のすえの力競べでっく。し たがって,いずれが優位にたち,交換のイニシアティヴをとり,その商品に伝 家の宝刀,交換刀を抜かしめるかは最後の一瞬までわからない。したがって, 商談にはいってからそれがまとまるまでには不定の時を費やし無駄な手間もか ける。もしも,間接的な取引となるなら,手間も省け,時の浪費も少なくなる か,である。しかし,これこそ「ロードス島の跳躍」にもまさるとも劣らぬ難 問といえよう。 かくして,もしも,バーターにおいて,間接的な回り道取引を有利とする解
価値と交換価値 283 を引きだせるなら,このことは,ただちに三すくみ取引などにも応用し,その 呪縛をとくことができようし,所有商品への執着者の特定をはかりかねている 取引の行きづまりさえ立ちどころに解決するであろう。当該商品への需要がと もかくも認知されるかぎり,そのすべてをあげて間接的取引により席捲するの である。したがって,貨幣登場の秘密は,バーター時代に別れを告げ,相互の 欲望に不一致の不協和音をかもしだす混沌のカオス期にようやく慎慮の士によ り解明されたのではない。それでは,こと,遅きに失するのである。商品世界 の社会本能そのものが少なくとも,バーター期の末期に周到な準備をなし,カ オス期の到来するやいなや,時を移さず,貨幣導入に踏みきったのである。 煎じつめるな舷バーター取引における商品こそ,使用価値と交換価値の内 在的具有者である。したがって,この取引を基準にしつつ間接的取引を展開し ようとするならば,価値実体の価値形態化ではなく,正に内在的交換価値の外 在化でなければならない。したがって,従来のいわゆる「価値形態」論は「交 換価値形態」論とでも改称すべきであろう。そして,その改称による内容の変 更も実質的なものとなる。なによりも決定的なことは,交換指示力が取りかえ 商品の同質化に無縁であることから互換i生を示す価値とはその当初から隔離し ておかねばならないということである。したがって,生産要因の一つでもある 労働とも,商品の要素とのかかわりをもたぬではない効用とも,さしあたりは 断交していてなんら差支えないのである。効用が一致しようとしまいが交換は 需要があり,供給もそれに応じうるならいついかなるときでも行われる。まし てや,労働の量との対応を一々検索しなくても,である。交換力それ自体の大 小を計れるかどうかはまた別問題なのであり,ここでの眼目は当の交換力が取 りかえの同質化に全く無関心であるということなのである。 VII 要するに,市場当事者は,なにはさておき,それ以上にはさかのぼりえず, また,人そのものとも区別されるなんらかの人的源泉にもとつく自己商品の所 有者でなければならない。そのうえで,この商品を担保としながらも,人その
284 越後和典教授退官記念論文集(第273・274号) ものとの同値化をうけ人の代役の大任を果たす貨幣に内存する獲得力を生かし て他人の商品を手中におかねばならない。市場人は他ならぬ貨幣なのである。 自己商品の処分を計りかねた商品所有者になりかわり,貨幣が市場での采配を ふるう次第である。したがって,商品所有者がいかにして貨幣を手にいれるか の問は免責される。強いて問おうものなら,売りを楯とするほかないが,これ は商品所有者全員が市場に買いを封じ全面売を命ずるとの奇怪な解となる。な ぜなら,商品を買いにでる貨幣所有者はその貨幣の根拠をまたまた売りによっ て答えざるをえないであろうからである。かくて,(自己)商品の第一次の所有 は人に属するなにかが行ない,(他人)商品の第二次所有は人のスタンド・イン たる貨幣に内属するなにかが果たすこととなり,価値と交換価値とは明々白々 に両分され区別されるはずのものとなる。要するに,第一次の所有は留保して も第二次の所有は市場枠の領分で十分,了知しうるであろう。価値のなにかが 判らずとも交換価値のなにかは解けるのである。前者は労働力の発動の結果で あり,後者は交換力の発揮の前提となる。 かくのごとく,第一次の所有にかかわる商品(使用価値と価値の体現者)を 基本とし,改めて第二次の所有を起点とする商品(使用価値と交換価値の具備 者)を基礎にその手掛かりをバーター方式に求め,しかも,マルクスのいわゆ る価値形態の三形態をも利用しつつ貨幣の論証を試みることもできなくはある まい,というものである。いわば,人の肉体の延長にも擬せられよう交換局の 結晶が物的代表に転化し,神性を発露するのであり,この人間関係は市場にお ける特殊な関係であり,生産の特定の関係ではないというのも,この論定の付 録となろう。 より端的にいうなら,商品の一次的獲得と二次的獲得の源泉の基本は労働で あり,二次的獲得の唯一の源泉は貨幣の引換活動である。前者は費用と化し商 品を実質的にかこいこむが,後者は費用の二番バッターを買ってでて商品の一 次的な支配の領分更えを行なうものの,単なる地図の塗りかえでしかなく形式 的な囲いこみにすぎない。とはいえ,等量の価値を含む異質商品のとりかえを 拒むことこそがその存念を誇示しているのである。要するに,この配分更えは
価値と交換価値 285 全くアット・ランダムなものであり,エラーの範囲をも大きくはずれる。貨幣 そのものは一次的獲得の源泉のなんたるかにほとんど無頓着であり,さりとて, 他の客観的な方向指示器を知るわけでもない。このドンキホーテはあとは野と なれ山となれ方式の一方的な商品獲得に狂奔するしか策をえないのである。 VIII ひっきょうするに,直接的交換可能性(「引渡強制力」といったほうがよかろ うが)とは,自ら所有する商品を手放して他の商品を手中にする能力をいうの であり,そのかぎりではギブ・アンド・テイクの関係であって,そのとんとん のところで質の合致を確認しうるとするは,不良の計器と無器用な測り手を喩 えにとればあながち一笑に付すこともならぬかのようであるが,しかし,あく までこのさいとても獲得の発動力ないし引力がその双方から同時作動するとこ ろに決定的に不審な点がある。そして,通常に反復して行われる交換こそ,な んらの等質の保証なき一方通行的取引なのである。かくて,交換とはバーター や売買の平均領域とても広く一方的な不可逆力の働きなくしては効験なしなの であって,なんとしても,交換から等質像を写しとることはできないのである。 いわば,バーターであろうと三すくみ取引であろうと交換実現の主動機は協議 にはなく(一方的)決定にある。したがって,その決定権行使の商品はこの一 瞬に例えば生活資料としての効用を代償とし,白紙の本体と化すのである。バ ーターのさいは一人二役で,トレードのさいは,商品世界の二元化により交換 の専権性を示し,同質宣言にとどめを刺すのである。 いま,商品はおしなべて生活資料とし,経済学の基底的対象を所有と関連づ けるなら,生産の局面は事実形成的に第一次の所有,交換の局面は論理生成的 に第一位の所有となり,前者は価値,後者は交換価値に割りふることができよ う。第一の第一次所有は自己生活資料の労働による獲得であり,第二の第一次 所有は他人の生産物なる銘柄消去の生活資料の収得である。そしてこの両者は, 合同的な意味合では直ちに対応することはない。たしかに,事実的視角からは, 前者はおおよそ後者を予定し,後者は少くとも基本的には前者なくして存立し
286 越後和典教授退官記念論文集(第273・274号) えない。そのかぎりで,一意的な関係ないし直接的な方程式関係なしである。 かくて,学的始源は最終消費への最短距離の場,交換の全体集合1生(生産はそ の部分集合)に逸早く着目することとなろう。すなわち,製ってわがものとし 24) た生産物を基準とせずして他の商品を手にいれる方式や如何にこそを固有の先 行課題となしうるのである。しかも,特殊な生産は独自で専一的な交通をその 条件とする。 ところで,まずは,商品交換における立役者は貨幣である。その貨幣をいか にして手中にしたかを不問に付せば貨幣占有者はひとしなみに最:終的な欲求対 象を我がものとする。しかし,なんらの代償も払わずして無前提に貨幣を占有 するものとこの無償所有者の分をも含む全生活資料の再生産の約束つくで貨幣 を提供せられたものとに改めて再編し直した狭義の,しかし安定かつ永続保証 つきの商品世界に絞るなら,直接,生産せざるものと直接,生産せるものとの 間での生活資料分割合戦となろう。そして,ここに登場するのが,原戸籍的な 価格増殖体としての資本G−W(Pm, A)………P………W’一G’である。資本 家は生産手段を準備し,労働者と雇用契約を結び労働体を商品化する。この労 働体こそ価値と交換価値の連結環である。労働体商品は,交換価値と使用価値 の統一体であり,その使用価値こそ価値の源泉となる。改めての生産過程での 資本の価値増殖と使用価値再生は流通場裡での価格増殖と使用価値のとりかえ を基底から支え価値と交換価値とのドッキングを行うのである。物的な商品に おいては一意的で決定的な直属関係を直ちには云々しがたい交換価値と価値も, いまや労働体商品においてはそうではない。生活手段を購入すべき力(交換価 値)の内存は,改めて当人の欲せざるものを生産させ,これを他人の所管にお きかえ,さらに余剰分の増産さえ強制させる(価値)のである。ただし,労働 体商品は,価値を作ることはできても価値を持つことはできず,その使用価値 も商品を作ることであって商品を使うことではない。さらに,その交換価値に 24)この点については,マルクス自身,自覚しており,この理解をVerrUcktheitとしたうえ でこの転倒に真の世界を求めたとする解釈もある。(R.P. Wolff:Moneybags Must Be So Lucky, U. M. P.,1988(竹田茂夫訳『アイロニーの効用』法大出版局,1989)
価値と交換価値 287 あっては生産をなんら前提しない。かくて,このすべての価値呼称において無 前提な労働体の商品社会へのとりこみこそが三者の三位一体的な内的連関を声 高々に保全するのである。ただし,ここでも労働体の生産商品との対話的特化 が一切の中核であり,人間生活の地底を牛耳る。