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史
(9) KC. Hurd−Mead, M. D.責昨
年9章第17世紀の女讐
博 入課
ヒロ ト第1節 第17世紀の概観
16世紀の二三の學者が,書面の猿面に着手したにも拘はらす,第17世紀も,その初期の間は鱒瀧漏する・とがなかった・騨1虻の鞘の間には・翻と轍との輪力・盛んであ筆
が,自然科學殊に昆虫肇,植物肇,天交學,及び三三の研究が,一般男女の間に擾頭して來た。併 し19世紀の末に,リスタが防腐出面置の革命的手法を稜明するに至るまでは,外科術はAlnbroise Par6の時代より何等進歩の欣を示さなかった。 1綱紀の外科齢非常髄さで・手足を切enする技能はもったが・細魚玉壷するなど言ふこ とは,夢にも知らなかった。被服なども河や池の不直な水で,之を洗って李氣で居た。:Louise:Bo urgoisやMauriceauの産婆術には,大改良が加へられたとしても,欧洲及びアメリカ植民地の産 婆は概して,Trotnla時代の技術にも寧ろ劣った手際で働V・て居た。不潔な手や長い爪を生やして 居て,塵婦に接して準氣で居るのだから,産婦や乳兇の死亡率の多かったのは當然の事であった。 肚會的にも政治的にも,この世紀は前世紀と大した相異はなく,if kツの「三十年職孚」の如き 内線が各所に行はれて居た6叉流行病も,前とは稻々その性質を異にしたとは言へ,やはりその猛 烈な黙に於ては,前と同様であった。1665年のロンドンの「ペスト」は,1666年の大火で漸くそ の絡焉を見た。英國やオランダに於ける猫立精紳の勃興が,英人申の清教徒をしてアメリカに移佳 せしめ,勇敢なzグノー(16,7世紀頃のフランス薪凶徒)をしてカナダに移住せしめ,イタリー 人申のWaldensiansをしてスイスに移住せしめた。 此の糧紀中に大學の数が倍加したが,讐科大學としては,やはりPadua, Leyden,パリー及びモ ペンリエの諸大學であった。ドイツ及びオランダに薪設されたユ4大學の,いつれもが女子の入學 を許可しなかった。解剖學は二三の囚人の丁丁か,3ζは墓地かちひそかに盗んで來た死艦で教授さ れたのである。完全な骨儲標本が,、初めてエジンバラ大白の教室に備へ附けられるに至ったのは, 1697年のことであった● 一 3D 一一一一一一審、、 ve .tt 鱒’1’幽 匹t 緊’ t t t
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(‘tDu Principe de Ia Gさndration de 1, Ilomme’, GulbeletのDj6cours,1603年から)
385 當時の女讐がなにか丁丁的の維験があったにしても,全くそれらの記録がない。多少の例外はあ るが,自分達の仕事を人に知らせることにすら男子二重の合言葉に墜倒されたようであった。.)b) N る一般的の女性の劣等感は,軍に長年の服從の結果であるか,或は出産IZ,頻繁や肉艦勢作に乏しい ために不健康であったのか,肉腿的に男性が優越して居ることに封して,無條件に』 j性を奪敬する 三態であるのか,はっきりしたことは分らない。
1697年にDaniel DefoeがEsgouy upon乃煽θ068を書いて,大いに女子教育の必要を論じた。 曰く「吾入は女子を卑下して,馬鹿だの無作法だのと罵るが・若し彼等に男子同様の教育を與へた としたら,彼等は男子にまさるとも,劣ることは断じてないと信ずる」。樹彼は女子の高等教育の案 を立てた。それは三二の頑迷なる尼院的な三度ではなく,EtOnやHarrQwの如き公立學校式のも のであった。 巫女や妖術を信ずるのも,男子よりは女子の方に多かった。少しでも斬新な意見を獲表すると; 直ぐ様巫女として刑罰に露せられた。 ==・=…一・tングラ.ンドだけで屯1692年の1ケ年聞に,20人の巫女が口試ssaehusetts州Sale蟄の 刑場の露と浩え去った。1618年には2入の罪なき老女が,英國Essex郡で火回加ζ慮せられた。 その罪妖はRutland伯の子を温む殺して,爾伯爵浸入に今後の出産を封じてしまったからだと言 ふのである。17世紀中だけでも,.4萬人ρ巫女が死刑に慮せら煎たと言ふ。 當時の女警には3種の別があった。第1種は最下級に属するもの脚ち看護嬬であって,尼櫓並び に:各宗派の魯員(s呈sters)。第2種は産婆であった◎これは1630年に:Peter Chamber五ellヵミ産婆 術に大改良を加へるまでは,重要な機關であった。第3種は女子藥剤師及び正規の開業者であっ た。 フランスでは女外科馨も,「外科馨組合」に一毛は加盟することが出來て居たが,男讐が載孚から 露って來てから,男外科馨が自然優勢を占めてしまった。1694年までは外科警の未亡人は,夫の 遺業を言承する二三を有して居たが,これさへ拒まれるに至った。女子に残された分野は,唯一つ の産婆業だけになったが,これも男子助産者の出現に依って,年々その業を奪ぼれて行った。かく して女子は三界から締め出される破目に二ってしまρた。 〒 第17世紀は物資増殖の時代であって,珈排,茶,馬鈴薯,チョコレートのやうな食糧晶が,影 回に輸入されるやうになった○ポルトガルの公使斑cot(1530−i 6eo)thS’Virgin拾からはじめて, 敏洲へ輸入した馬鈴薯なるものが,忽ちにして民間の流行食となった。申流記會の者が上流就會に 眞似て衣食佳の贅澤を競ひはじめた。されば諏mes 1世の時代に餌鯉の起つた節,法令を襲して 盤時の男が用ひた大きな「ひだえり(昔流行したひだとをとったカラー)」に糊を着けるのを禁じ た。それは糊着けに濡費するだけの澱粉を民衆に分配しようといふのである。 服装の贅言は飲食のそれにも増して烈しかったので,質素を旨とする清教徒やクエ 一一 ib ・一宗教は 口を極めて之を攻撃したのであった。二三の方面に於ても,内容淺薄にして表面のみを飾る風があ
るのを痛嘆した幾多の丁丁もあった6モリ’エールはその戯曲:Le Malade lmaginaireや:Les Fe・
mmes Savantes中に,當時の富者の不正實と馬鹿さ加減とを痛罵して居る。又そのゐ3心心。珈
mo.αZg・rg lzei中には,無二な三者と無智な患者と,出過ぎ者の看護婦とを,心理學的に解剖して居
る。1697年にはRavencr・丘とV・ふ英人が, The Anatomist或はSham Doetorと出する狂言を
書いて,種々i嫡庶を述べ,債1馨者がi無意味なラテン語を,えらさうに:使用して居る有様を描爲し た。どの時代でもさうであるが,.えらさうに構える讐者が,応力ある記者よりも,杜會から一六尊 重されて居たのである。 教會は本來から言へば,讐乱訴を建て讐學を奨働した本元であったのに,この時代になっては, すでに時代後れとなって,もはや無業といふSの玉重要な要約ではなかった。何病には何尊者と言 ふやうに,各々受持ちの守護神が,多激減當されて居たがラ耐會の信用は漸次に冷却して行った。 1例を墨げれば,St. Agathaは癌で死んだから,胸部癌を治癒することができると考へられたが, ただ當時の患者がそういふ手爾を嫌ったことによってのみ興味をもたれたにすぎない。そしてこう いふ奪者の塩冶へ巡禮にやられると,.家をはなれて死ぬので,かへって好都合と思はれた。 一 第2餓 英鰯1ζ触読馨:女二二科霧 産科だけが!7世紀の女1轡に残された唯一の分野であったればこそ,Ambroise Pa益が1573 年にフランスの産婆のために書を著はしs且自宅を提供して二二の講義所とした事が首肯されるの である。然るに彼の書はパリーの外科四達の怒りを招いた。と言ふのは,此の書がフランス語で書 かれてあるので,世間の人品を博するのを嫉妬したからである。この書が廣く忌まれると,これ迄 は男馨のみが手術して居たものを,女子も手術が二二て,自分等の仕事の領分を侵されると出訴し たからである。乱心際に此の世紀の初め頃から・難産の場合に度々,男欝が山留の手助けを求めた 事忌もあったのである。
婦人の愼み深いことを擁護したCosmo Viarde1(!671年頃の入)やiPbiiipPe Hec轡et(166!
一!737)は書を著はして,男讐によって牽科術を横領されることの非を鳴らした。}/eegttetは言っ た,「可憐な産婦が,恕す知らすの男に,礎を燭れられる苦癌を:察しても見よ。」V諭de1は言った, 「若し産婆が無智だと言ふなら,公費を支出して,彼等に充分の藪育を與へたら良いではないか。」 叉曰く「少数の産婆が無智だからと言って,産婆全艦を非難するのは不當である。」
オランダ及びドイツでは,男の助産者を利用することに就℃は,何等問題は起らなかった。He−
lldrik Van Deventer(16う1一1724)やH:endrik von豆◎onhuyze(ユ625年生)の2人は産婦入科
轡あって,助灘並に骨盤の構欝罐婆鰍授した・1652年にG…撚、We紬醐版した
約2000頁の大著Heb細menbuchは非常に論れ行きが良かった。叉ラテン語の譲める入にとって はSpachの大冊あ夢。Schenckの書あ夢,:Fortisの著もあって,いつれも挿緯が澤山に含まれて 居た。されど一般的に評すると,男の助産者なる者は,やはりおせっかい屋であるとされた◎ 産婆中の託る者は,’祉會的の地位も高く,高慣な報酬も受けて居た。:RaynaldのByrthe of Mankyndeが山回された時には,麟諜者はその序文中に,「この書は産婆に取っては助けにな夢,産 嬬に取っては慰安となった」と記した。Jane Sharpが1671年にMidwife’s:Bookを著はして, 一42.387
その申に,「普通人も高貴の人と同様に,此の書に依って安全且つ迅速に出塵することを得ん」と書 いてある。法律に從はなかったために度々曝壷に曝された・Jang SharpとMrs. Collierとは熱心 に,産婆教育の向上を其の筋に請求したが,馬耳東風に閑却されてしまった。
1646年にPeter ChamberlenはA. voice in Rhama或はThe Crie of Womall and Ch{ldren
と即する書を附けにして,當局に産婆教育の改善を勧告した。Mrs. CollierはJane Sha・rpとは異 って,温良な性質の人であるから,Sharpのやうに喧嘩腰しにはいです,諄々として自証を述べ立 てx行った。彼女は「産婆がみつから進んで業務に精心し,研究を進めるのでなければ,到底産婆 の地位を向上することは不可能である」と論じた。彼女は王に歎願書を奉って,すべての産婆を勅 許欣による組合に團結するように要請した。James 2世は此の案に同意はしたが,絡に實施され なかった。 ( :36) ・l
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Mrs. Collierの肱mes 2世に奉りし 王立病院に面する歎願書 (H:arleian Mi8c.1V.4p.136・一40.1795。大 英博物館の好意による。) その後Mrs・Collierは統計を作って,適切 な盧置をすれば防止することの出來る産婦筑兇 の死亡率を示した。面皮の言ふところによれば 1642年と1662年号の間に去て,6,000人Q母 が出産で死亡し:・13.onvO木の胎児が死産し, 5,000入の薪国見が生れると直ぐに死亡して居 る。その藪の3分の覧2以上が,産婆の無能と不 注意とに原因すと明言して居る。面皮の建議に 依る王立病院が,その立案通りに實施されたと したら,その隔心や偉大なものであったと考へ られる。惜熔かな,政府の不誠實と輿論の歓乏 と,産婆組合の卑屈とthg,この名案を不結果な らしめてしまった。 女讐の姓名が當代の學者の著作中に屡々散見 されて居る。或る論証は高貴の夫人であり,困 惑る品詞は無教育な下流の女子であった。箭者 は産婆學を教授し叉著作をなした。後者は只巧 みに助産をしたと言ふに過ぎなかった。女讐の 評剃の善し悪しは,その手腕の善し悪しよりも, その親切の有るかないかに依ったものである。 それ鱒また,貧民のために無料で仕事をして居さへすれば,現認から敵意を招く恐れもなかったわ けである。併し女島が貧民のために,無料で働らいてばかりは居なかった事は勿論である。Alice DennisとかMargaret Mercerとか言ふ産婆は,王室や貴族の聞の御用をつとめ多額の報酬をう けた。
一43一
女子が外科欝の免許状を獲得することは,1614年以後は殊にむつかしくなったっ冤許欺を得る ためには,・ンドンの二丁の試験を通過しなければならながつた。しかしその試瞼なるものが,志 願者の馨師としての資格をためすと言ふよりは,その女子が異端者であるか巫女であるかを,槍討 するのを目的として居た。16且7年に藥旧師が初めて雑貨商から分離されてから以後は,女子が藥 剤師の冤許状を得るのも困難になってしまった。もし女子が法律に違反して,外科書又は内科讐と して働いた場合には,入牢を申し波された。しかし法律通りに虚罰を受けた者も出たが,又もぐり 馨者として成功して居た者も多数に存在したことは勿論のことであった。 第3節 内科警としての英三女聲 この寸懸己に於て内科も外科も共に行ったイギリスの女瞥のうちには,イタリア.の大學で修業した 幾名かの貴族が居った。L之↓dy Wi110ughlアはその父と共にイタリー大事で修行して,露國後開業 したのであったっ英霊では内爾しのため旧師が不足したので,女讐は大v・に漱迎された。Lady Wξもr− wickやLady Arulldelも評判が良かった。その外にLady Alice Lucy,:Lady Falkland, Lady
Maillard,:Lady Catherine IiNeville, Etizabeth Bury等,いつれも貴族の出身嵩であって,讐術に
たつさはったのである。
Auue Mooleyは1674年にPh ce }’mrtco,oolizLm”3泌効∼漉88θ∬螂を著はした。これはドイツ語
にもフランス語にも翻諜された。Keiit伯夫人:Elizabethは1670年にManu鴇10f Choice Re.
mediesを著はした。:Newcastle公爵夫人はPhysic and Chyrugeryを著はした。 Lady Ann Cli ff
ordは病院を建てたり貧者の施療に墨力しつs,一方には又丈學及び科肇にも堪能であった。 1豪
璽
tt■..D身 .嫌 参・Q.・ r. 1retat.tfs. 覧 1繋 . t 1 ’s一’ ・亀・1・1”1’rofessor Anne “lorandi iManzolini
が朕を解剖して居るところ (イギリス女馨’會の好意によって複篇) ヨ
闘
− Lucy Hutchinsollとその.自、 (大英博物館の版電から複爲)一44一
3S9
曝露.
ett/”
2’Nnni‘ ]Iaria Von Scliurmann
1607 ・v78
(ロンドン國立美術館におけるLievens筆
の省像繋から)
」幽幽上口酬_幽』一
1)L) othea Christ ia.na Exleben,
.ILD. 175−1
(Sunnnos in medicina hont,res et doctoris
gradurn)
Lucy(Apさ1ey)Hutehinson(1620−1675)はその夫の下記を書V・たので著名である。 7歳の時
に5ケ國語を讃み書きすることが出來たほど早熟な娘であった○貴族である父は當時政治囚の牢獄
であるとともに王城であった・ンドン塔の副監督であった。・母は讐學の心得があって,夫の同僚の
家族の人々に白山をほどこした。塔に囚はれて居たSir Walter Raleighから化學や藥剤の知識を
與へて貰った。自分の9人の子供に讐藥の教育を與へて見たが,結局はLucyだけがものになっ
た。それはLueyが二二の事に生懸鯛堕{詑持って居たことs,又牛面には無旨蹴なので(顔にひど
い菊石があるので),いっそ猫身で通して,貧者病人に一生を捧げようと決心したからでもある。
この引け目にも拘はらす,18歳でHutchinson大佐に嫁した,晩年にはロンドン塔の囚人の讐者
として,政府から依囑された。
スコットランドの有名な女醤はAnna Ilalkett(1622−1699)であって, Dunferinline及び共の
他の職ひに軍留として勤務した。1650年1)unbarの戦の後,王から親しく感謝の式典を, Perth で基行して貰って大いに面目をほどこした。僅か116頁ではあるが,自叙傅がある。
第4節 アメリカ植民地に於ける監者及び産婆 .
第17世紀と共に新世界アメリカが轡學界に登場して來た。1607年に初めて永績的の植民地が, 英人に依ってバージニア州Jamestownに樹立された。
バージニアに於ける最初の馨者は,T・iotnas WottonとLa, wrence:Bohuneの2名に過ぎなかっ た。患者が多いので・初めの内は藥品や器械をしばしば本國へ注文した。もっとも土地の藥草を,
代三冠として間に合せだこと秀三々あったのである。:Bolλuneは1621年にスペイン人との二二中 に死亡したので,John Pott夫妻が其の後三者となった。この夫人の名はElizabethと言って,大 いに植民地の旧事を慨嘆し,ロンドンへ三って三三上の難問などに就ても,上局と談判の結果,圓 満の解決をつけ允功績がある婦人である。 宣教師及び知事の多くは,渡米前には大抵,欧洲の何回かの大回で三二を修めて來た入kであっ た。たとへばコネティカット州の知事WinthrOP、は比類まれなる警學の達人であった。その「病 .歴」は1667∼1669年の間にわたる記録であって・大いにわれわれの参考となるものである。E Dr・
Samuel Fuller メaフラワー號に便乗して,二=Mングランド州に上陸した最初の三者であっ
た。Fullerは1633年に天然痘で死亡した。その未亡人:Bridgetは巧みな産婆であった。この後
暫らくしてGiles Firminが渡來して, Ips卑ichに開業し折々解剖學を教授した。その後問も・なく
Dr・John C五arkがボストンに小さな讐墨校を設立した。1700年に此の三校の卒業生26名が二二
へ留學して,やがて姻へ錦を飾った・この頃三者の報酬は,法律で規定されて居た。免識ば
三者組合で試験の回附與された。ペストと黄熱に封ずる槍疫は1648年頃から,すでにボストンと Salemで行はれて居たが,天然痘は一般に蔓延した。 SavageのGenealogical Dictionaryによ れば,is継紀以前のアメリカにおける開業讐として,134人の轡者の名が暴げられて居る。その 内12名が外科馨ととなへ,宣教師が若干名,肉屋が1名,宿屋の主人が1名の割合ひである。
Cotton Mather(1633一一一1728)はThe Angel of:Bethesdaと言ふ著作を残して;その中に人間に
普通の二三の名を列學して居る。そしてそのうちの三分の一は慢性病で,男子は之を脾臓病と呼び 女子はヒステリーとなづけた。その治療には,敬塵な信仰をすxめた。彼は総べて二三の根元は, 室中の寄生動物の作用によると論じて居る。その寄生物は1種の虫のやうなもので,但し肉眼では 見へない程に微細なものであるが,なんとかして騙虫剤でも用ひて,之を驕除する方法はなV・もの かと蓮べた。彼は哲三者であり2年ほど馨學を研究した三二があったけれど,科二者ではなかった。 彼は疫病(多分天然痘)で,’不幸な土人が大量に臓滅されたのを紳に感謝して居るが,白人どもは 署者の努力にも拘はらす,感胃で死んでV・つた。 1δ世紀以前の二=・一6ングランドでの女警の名ぱぼとんど知られて居ない。かsる人々は,出 産のためた三三もの森林を馬に乗って行って,たまたま必要な轡療をしなければならなかった。Ann Mooreなる女馨が,自からガレンやパラセルススの直弟子であると揚言して居たのと, Mrs∴Beg一、 garlyなる女轡が一角獣の角を,萬病の難藥として使用して居たと言ふ位のところであった。 されど三門の植民地に,著名な看護婦と産婆がかなり多く存在した。判事SewallのH記には,
しばしば彼の家族をとりあつかった名があげられて居る。EliZabeth Weede11が判事Se waUの第 一子をとbあげて,その見を教愈へ洗禮に回れて行った話がある。産婆が二三兜を洗禮に連れて行
くことは,此の頃産婆の義務であった。Pr・FuUerの未亡人が名産婆であったことは,前節にも
す℃に記したところである。ボストンのAnne’ Hutchinsonは・・ =L 一nングランドの第2の産婆で 詩人Drydenのいとこr6Nあった。]・irs. Eli‘)tのためにはその勢に報ひて・1687年に軍念碑が建て
391
られた。Mrs. Wiat,]’(rs. Whitmorも, Mrs. Thomasは, V・つれも献身的に看護助産に鑑{卒した女 馨である。
ボストンのRuth Barnabyは40年間も,産婆として活動し,1765年に1◎1歳で死亡した。
死ぬ1年前に種痘を請求したほどの養生家であった。Sarah Alcock, Ma?garet Barnard, Margaret
Jones等は,いつれも産婆二女讐として評判がよかった。 1692年頃には= ・・ 一■ングランド地方では宗教きちがひが非常に多く,巫女糾問の爲め一時は, 100人以上の女子が牢獄に繋がれて居た。いはゆる巫女の多くは表刑ではなく絞罪に回せられた。 Cotton Matherの如き學者も,悪魔の化身など言ふことを信じて去たものである。1693年後にか sる庭罰に甥して反動が起って,少くともSalem監獄の囚人を全部解放した。回る時有名な異端 者狩りであった教譲師Nicholas Noyesが,將に絞殺せられんとする女に向って,最後の所禧を覆 みつN言った。「貴檬は巫女である」。するとその女は言下にやり返へして,r貴檬は嘘づきである」 と’言ったさうである。残念な事には,巫女の嫌疑を受けた者の多くは産婆であったことである。こ れがた勘に民衆は多大の損害を蒙むつて居たわけである。
コネティカット州の女子としては,,Jane Hawkins,:M:rs. Jacob Johnson, iNrrs. Huldah Good
Beachが著名であった。同ナ1}のニユーヘブンでは,1635.年頃にWidow Potter, Widow Bradle,
Wife:Beecher等が,三二として叉農業の指導者として奪;敬された。叉同州の=・・=L・一・Pンドンには, Joanna Smithが特にdc)ctress(心急)と言ふ:尊櫓を:受けて居た。 二=・・一ヨーク(一その頃はManhattanと呼ばれて居た)にはオランダ人Annetje Jansenが著名 な産婆であった。彼女はその娘が,・こNの開業讐Dr. Kier.itedtに嫁して居たので,移佳して來た のである。彼女は今日のeユーヨーク市の大部分の地主であった。 カナダではフランス高高が流行し,メキシコではスペイン流の讐術が行はれた。メキシコには一 時男女共學の山鼠校さへ建てられてあった。病院なども本國のそれと同様に偉大な建物であった が,暫らくして衰頽してしまった。1524年にCortezが建てたCor亡ez病院なども,今では見.る影 もなくなった。カナダではJe&nne Mance(1606−1673)が,1641年にケベックに移佳して3年 目に病院を建てた。それから数年後にSarrazinと言ふ三者兼植物墨者が,こ1,へ素話して來て, 瓢anceを助けてこの病院で働いて臭れた。その後Manceは資本を募りに一旦フラッスへ蹄國し,
その館りに3人の看護婦を件なって來た。その1入がJudith de:Bresolesであった。 Jud{thは晩 年をモントリオルに過し,藥草採集や病人看護や基金募集のために活動した。:Rlchelienの姪Ma− rgUerite Bomgo{sはManeeの病院近くに,あたらしい病院を建設した。 第5節 第17世紀に於けるフランスの女話 パリー・のH:6tel Dieu病院には牧容患者数が∫272入もあって,これが廣い78病室と,払い 33病室とに配置されて居た。Franklinの所読に依れば,設備が不完全であったと言ふことであ るが,1644年にパリーをおとつれたEvelynの所設に依れば, Charit6病院の病人は貴族K{1身の 男女によって實に蓬當にまたキリスト敢徒らしく看護せられた。1 −47一
パリーのII6tel Dieu内に於ける貴族夫人と尼/曾 (Nutting及DcckのAIIist・,ry of Nursing・Putnam・1907年から) オーストリアの女王Annと王女マリア,テレサは度々微行で,この病院を訪ひ事務を硯察した のみならす,みつから患者の看護にたつさはったとではれて居る。 MOnsの女牧師Melunは20年間も,諸所の病期及び家庭に病者を慰問したと言ふ。疫病や観 鰹のあった時に,病青の看護に蓋閉した貴婦人が熱熱に居った。彼等は孤見院や養育院を設立した カ>Nる1例として,オランダ人Madとmle de Coml》e(1692年死)はGood Shepherd孤児院を建 てた。Jeanne Biscot(16646ド死)はArrasに養育院を立てN,傷病兵や三兄を認容した。
St. Vincent de Paulが巡廻看護婦會を創立したのは,この頃のことであったり:Louise Marillac
(1591−1671)はこの會の主巧者の1人であった。彼女はLe Grasと言ふ忍者の妻であって,夫か ら馨學を教へられたのである。夫の死後は一生を病者慰安に捧げんと誓った。但し尼侮になったの
ではなく,俗人としてさう決心したのである。
393
Madame de SCvigBe(16£,{F−1696)は臨床讐ではなく,寧ろ病理肇者とも言ふべき人であった。 入尿や腹酒が讐藥として敷果がいちじるしV・と論じた。その外にMarqulse de Sartre, Caterina :BarbGusgen, Marie}10uquet, gi’A−uvergne等は著名な女讐であった◎FonguetにはRemedies!OT all diseαsesの薯があむ,d’Akivergneには1691年獲行した警學上の「秘傳」の著がある。 當時代に於け二女讐の重要なる仕事は,やは夢産科であった。Ambroise:Par6の弟子Louise Bourgeoisの事に競てはすでに遠べた所である。彼女の著ObseTbationsは妊娠の各回梯を詳述し, 異歌出産の取扱ひ法その他の事柄を解説して居る。彼女は産婆である外に,外科讐でもあb詩入で もあった◎晩年にその口承出たる娘に助言を與ふるため,一書を筆にして之を娘に與へた。この’書 を見ると,能く當時代の産褥の有様や迷信の様子を知るζとが出來る。
:Fremkiinはつぎのやうに云って居る。若し當時の産婆連がl Louise Bourgeoisの如く敏養あり
叉正直であったならば,あのやうな産婆間の軋礫や,二者との紛擾も無かったであらう。併し金銭 の慾が彼等をして,良心の光を失なはしめ,途に堕胎や嬰見殺しを敢て.せしむるに至ったのであ る。1635年に産婆達から,Louise:Bourgeolsが産科における公開講習を與へるやうに政府に嘆願 したが,若しこれが採用されたならば,馨已上における女子の敏育の全課程も憂化したであらう が,合憎とパリーの讐務當局は之を心用するには,馨師,理髪師・外科馨の紛箏にわづらはされ過 ぎて居た。1669年に至って法令に依夢,外科馨は産婆を揖導敏育して,試験に慮ぜしむるやう規 定された。産婆がとの試験に合格すると,外科讐組合に入点し得て,一藁葺者,刺話者,戯石手術家 ヘルニア手術家,歯欝者,眼科警と同列になれるのである◎そしてその修業期間なるものは短いの であった。たとへばH6tel Dieuで修業すれば僅か3ケ月で宜しいのである。又名のある産婆の宅 で見脅ひをすれば3ヶ年で宜しいのであった◎ L・・i忌・B・u・ge・i・の弟子の内で最も優れた者は鎚・・g・・rit・d・T・・treであった。この人は H6tel Dieuで長年在職して,「優秀の産婆」と呼ばれて居た。彼女は産婆訓練所を設け,3ケ月絡 了の教育を與へ,外科讐からの助力を受けすに,猫立して仕事が出漁るやうにした。1666年に弟 子達の爲めに産婆術の問答書を著はした。この書は第18世紀に,その弟子の1入ILouise Lebou− rsier’が加筆櫨大して以來,産婆學の教科書として廣く使用されたものである。 第6舞 第1ア訳出薩温温馨夢層ツの訴訟 第17世紀に於けるドイツの女書と産婆は,讐科大墨がなかったことN)30年戦争で混織して 居ったに拘はらづ㍉論義のそれより臨多数居った。教育は衰微し・財政は逼迫してプ大畢を設置し てまで女子教育の獲展を期するなど言ふことは,高ひも依らぬことであった○されど多くの貴族の
二二は識靴堪へぬ灘曝者を・家轡縦して話し義子の雌たる看護の淵龍以て
傷病者のために霊した。食料の不足を補ふために,幾多の有識な婦人は食餌法を研究し,廉便食を 考案して,これに關する書物を公けにした。こρ種の貴乱入の名を墨げればDuke A.lbrecht von Preussenの夫人Anna(1550年生),
Brandenburgの女王Elizabeth(1550年生),・ Saxony伯夫人Christina of Hesse(1578’)1658),
Quedlinbur9尼院長Anna S’oph;a of Hesse, Hessc n?hilipPstha1王女Wilhelmina Hedwig (1681年生),Sayn及Wittgenstein伯夫入Joham}etta, Saxony王女Erdmeithe Sophle(16猛一 1675),:Leopold一世の皇后Claudia Felicitas, Baden伯夫入Catherme Urg da, Bohemia王女 Elizabeth(1618−1680)難行ある。
貴族出のこれらの馨術に關係ある婦人中最有名なTroppau及・Jagc ndorf公爵夫入は数冊の回
書を著はした。全著書を一一・lllすると,1600頁に上る大冊となる。併し要するに,この書は皆,600
年前Trotulaが書いたものと大差ないのである。
Maric Colinetと言ふスイスの女難の事に就いてはすでに蓮べた。この外にVeronica Iberii],
蓋⊃1{z曲eth X既乱ret励Kei1(1699年死), Anna Elizabeth von E[orenbuf9等が,いつれも署書を
著はして居る。 この時代に男子と同じく,女子の昆虫學者や植物肇者が輩出した。就中蕊ぎarL SIbア甑Merian (1647−1717)は,その吟代のファーブルとも稻すべき人であった。父はフランクフルトアムマイ ンの讐者兼博物睾者で,昆虫に熱する智識を彼女に傅へた。Gr離と言ふ美術家に嫁して,夫妻合 作E’昆虫圖糟を著はした02人の娘があって.2入とも讐學を修めた。そのFトの自然二丁者には, 熱の傳染の稜見は,彼等のような上手 Justi pa Siegrnundの像i な婦人の分娩の安全な操作に關する唯 一一 sc 一一一
395 一の疑ひを晴らしたの6’ある。 第7節 第17灘紀に触渉為英図搦二二の二二 第17世紀には漱二心部地方では,オーストリアとハンガリーとが絶へす職孚をして居た。174C 年にマリア テレサが王位に登るまでは,二品らしい肇問がオーストリア大払ではなされて居なか ったのである。
英國のEl{zabeth Weston女史の令名が,鰍洲全土に響き渡った頃から50年して, Claudia
Felicit.as1 フ名前が現はれた。彼女は留藥と外科とを研究して,1677年にViennaの包園職中,男 子に劣らす病院で活動した。彼女はオース1・リア中の各病院を歴訪し,到る虚に叡山と讐業に就い て談じた。不幸にも女史の著作と直すべきものが一・つも今日に傳はつて居ない。 17世紀の絡に,あるオランダの省品書家達は・内科及外科に關ずる絡の一義を護照せしめた。 そのうちのFrederik:Ruysch(1638−173!)は解剖書を巧みにする著名な書家であった。その娘 Rachelは父ρ手助けをして働いて居る内に・解剖の智識を獲得し・やがては男子に劣らぬ病理學 者となり,絡には女子としては初めてめ,解剖博:物心長となった。この彼女の博勅館は之を参翻す るどの四一も,それを面訴しかったものであるが,絡に彼女は:Russiaの:Peter大帝に責銅つた された。 オランダの追払としては,Anna}魚ri乱von Sehurmannが最も擢んでx居た。一女皮は1607 年にCologneで生れ, Utrecht大學で法律を修め,卒業後は同大學で博言學,哲肇,史墨の教授 をつとめた。女皮は馨學をも研究し,アラビア,ジテン,ヘブラ■の警書を讃破し,なぼ数種の署 書をあらぼした。その飴暇には病院叉は病家を歴訪して,その治療看護に蓋した。女史ほ熱心な女 椹論者で,ラテン語の論交を書き「智識は性に逸せす・」と主張し,おほいに女子の向上山留を論議 した。女史は一生未婚で六つた。それは多分男子が女史に恐れを抱いて居ったからであらう。 ■タ ,」・・一の大學では女鳥海生は,‘昔のやうに多数は在漏せす,僅かに五六名に過ぎなカ・つた。 Carpegna伯爵夫人は博物學と署學と讐史を研究した。この外に著名な馨學研究者としては,斑ch・
01a細鴨99ia,}箆rg批re臨緬rrochi, Elle凱:L膿et輪C‘ornero(16’G6−16c$ii)等であった。 EIIem
は欝學と数學を講義し,3翁の著書を残して居る。 スペインの大學にても,女子で馨學を研究する者は殆んどなかった。彼等は好んで四点を研究し た。1629年にA.nne de Castraは哲肇書をものして,之を義心Philip 3世に戯じ,王から一室 された。Tei・esa Spaguolaは三跡植物を部隊し,諸病治療法の一一書を著はした。 Peru太守の夫人Chinchonはマラリヤを病んだ時,「山から取つで來た或る木皮」を服用して, 不思議と全快したので,麟國する際に此の木皮を多量にスペ■ンへ持ち蹄つた。折しもスペ■ンに はマラリヤが流行申であったので,この藥を用ひて多歎の人命を助けた。この木皮はベル・・一皮と呼 ばれた。叉ジェスウィット派の宣教師が,之を多く使用するのでジエスィタ粉とも呼ばれて居た。 その後100年して:Liunaeusは之をChinchona皮と命名して,その紹介者を記念した。 ポルトガルではRoderigues de Castroと言ふユダヤ入が,1662年に婦人向きの一書を著はし 一51一一
た。此の書はUni’veTsct ff12sliebrium盛歪brう。剛那]2ffedicieesと言ふ名で,大v・に當時の産婆術の歌態 を描濡して居る○ スエーデンでは名看Gastavus Ado}phusの治下に,教育制度が組織立てら敢,農民の子供に至 るまでが,護み書きの出來ぬ者は,.1人も居なbと誇れるまでになった。その娘Ch’cistii]a(1626一一一 1689)が帥位するや,その「男勝り」の気性をもち,彼女の興味のなV・學問ix一一つとしてなかった。 そして天文肇,世界誌,地質墨,二二を熱心に學んだ。つひに疾病を治すために入膿における種々 の化三訂の敷果について研究することに決心し,多歎のヨーロッパの男女の學者を宮廷に招いた。 そして自分の國より二二の女子高等教育に大なる影響を及ぼした。しかし,結婚を拒否し,薪二二 の君主でありながら,天主i教に改宗した◎二二沸騰の結果,自から邊位してローマに移り,讐學と 化肇の研究をつづけたが,1689年悲惨な最後を途げた。若し彼女の位置と教育とを以てして,衛 生自由主義高等教育,科學的研究のために留意したなら,定めし目畳ましい改革を齎らしたであ らう。その代Pl eZT.彼女の一一Lkは實際浪費したと思はれる。
蟹arie vOn I{ildenの事に就V・てはすでに述べたが,彼女は40同も帝王切開を行って皆成功を
した。女皮が1622年12月ig日, Michel Dilbergerを手術した光景を,其の日記に依って概要
を基ぐれば,璽lchelは彼の刀の鞘の上に倒れ,9番目と10番目の肋骨に負傷し,苦痛で殆ど呼 吸ができなかった。そこC彼女は先づ器械を準備し,患者の胸を洗ひ,.催眠剤を輿へ,傷を開き,’ 骨の破片を二二して之を針金で縛り,切開口を閉ぢ,肋骨部に二布し,胸部を固く繍帯した。慣例 のやうに,三三が去るまでiG日聞患者の傍に居IP,必要の昂る度に苞帯交換をした。1ケ月で彼 はなほつた。現代の外科讐としても,これ以上の手當てを與へるごとは出山なV・費はなbか。
第8節 第17濾総の難馨
第i7世紀の男欝として,英國で最も著名な者は・William Harvey(1578−16昌7)と、Thomas Sydenham(162〈S一一一1689)の2入であった。ハーベイはKe電州Folkestoneに生れ,■タリーの. P・adua大學で讐學を修め, F&br置cius of
Aquapeiidente(1537一一1619)及び其の他の名山に師事して,4年間を過ごした。蹄國してJames 1世及びCharle・r 1世の二二となった。生理學の智識に討ては,當時その右に三つる者がなかっ た。彼が血液循環に關して初めて講演をした時は38歳であった。その後12年にして,穿ち!628 年に,彼の名著De躍eoize 6br蕗et醜箆σz廉商を著はした。その時には,生者は基って彼の薪読 を非難し,ガレンに野する異端者として,同僚からも亦患者からも,殆んど絶交されるに至った。 この時代には,「異端者」なる者が薔敏徒からも亦新教徒からも,迫害されたものであって,Char les 2世の沿下だけでも,二二を信じないと言ふ廉で80,000人が迫害され,8,000人が牢獄に投 ぜられた。1649年にCh訓os 1世が死刑に回せらるxや,ハーベイの三宅はクロンウエル窯のた めに掠奪され,72歳で中風に病める彼は,實に悲滲な目に逢った。彼は嘆息して言ったこξがあ る・、「吾力噺観を信じて果れる入は,40人に繰らないと購期して居たが・まさか醗の若 い弟子共が,これを僑じて呉れないとは案外千萬である。」又曰く「比較解剖を行って,犬や他の動 一 52’ pth一一
397 物を100以上も活艦簿剖をして見ても,ガレンの教ふるが如き,叉教會が金科ヨモ條として居る心 臓爾側に有孔室洞牽見出すことは不可能C’ある。」Halpigh{がその薪顯微鏡を用ひて,血液循環の 痴言實を獲する以前に,バーtベイが死んだことは惜しい事であった。ハ7ベイの講義の草稿が今日 大英博物館に保存されてある。4吋樹6気山の36頁の小冊子であって,筆蹟は明瞭ではあるが, 墨色はさめて居る。 Thoinas SydenhamJl(1624−1689)はバーーベイとは全く別型の人で,解剖肇者ではなく,臨床の大 家であった。性質温順で父母に孝であり,政治に:は全然關面しなかった。彼の治療法の主なる目的 は,まつ病氣の原因を見出し,注意して其の徴候を窺ぴ,そして患者を治療するにあった。その観 察力はぼとんど本能的であった。彼の唯一の氣散じはドンキホーテを讃むことであった。a・ =’一ネ と阿片丁幾と食餌と新鮮な室氣,これが彼の定論であった。1689年に死ぬ11年前から痛風に盗 んだ。この時代の人が多く中風に罹ったのは,多分マデーラ(マデーラ島産の赤葡萄酒の名)とポ TトワEンの常用に原因する急のらしい。 以上の2人の外に著名な懸者としては,Franci忌Glisson(1597−1677)とSir Thomas:Browne (1605−1682)である。Glissonは肝臓の繊維嚢の毒忌を()apsu]’a飾ro服2二命名し,拘優:病に就 いて論丈を書き,王立讐師魯の創立者の1人であり,Cambridge大墨の讐科の教授であった。 Br− owneは1643年に有名なEθ砂。 Mediciを著はした。8roWneは諸所を族如して博物學の材料 を蒐集する外に,叉10人の子供を教育し,病歴を記し,諸種の論文を草した。
Sir Theodore Turquet de Meyerheは英國の藥局方に,嘉島の莫大な用量を紹介した責任者であ る。彼を稻讃する人は多数に存在した◎
John R劉dcli臨(1650一一r’1714), tl’amuel Garth(1661∼1719), John Arbuthnet は, Viつれも4寺
讐であって,世間の評判も良かった。:Radcl三ffeはその大財産を,オクスホ9ド大壷に,圖書館, 附属病院・及び氣象壷のために寄附した。Garth律文才に窟んで居たので, The Dispensai’yと言 ふ物語り的の詩を書いて,讐者と藥馬面との職孚で,難者が絡に勝利する物語を書いた。
Thomas Willis(1621∼1675)は第11頭蓋耐【経と臓底に:ある「i環」一瞬ちCirculus arteriOsu呂
Wiliisiを初めて詳述した人である。彼は尿の味に依って糖尿病を診断し,はじめて産褥熱を命名 した。 短い産科鉗子の面明者Chamberlen家には,多出の子息や甥や孫達があった。いつれも自家嚢 明の短鉗子の使用の秘密を誓って,富豪の家庭を得意先きにして居た◎併しCh蹴berle鷺一家の内 には,優れた腕前の讐者も出たが,中には籔三者もかなりあった。その内2入偉宮廷助産者に任ぜ られ,五六人は普通の助話者として世聞の評判も良かった。この矩鉗子の秘密なるものが,この世 紀の絡りに至って,オランダのVon Roonhuysenに費られた。 フランスではデカルト(1596−16,50).やモリエール(1622−1673)やし駄:Fontalne(1621∼1695) の時代であって,3、入とも六二を少しづxは二つた入kである。デカルトはDe Homineと云ふ 生理肇書を著はして,精紳の所在を松果腺中に在りと臨じたり,叉反射運動の理論を述べた。モリ ww 53 一
“F 一一ルは之に反してその時代の盛者の大部分を詐欺師と罵った。物質に饗する精神の力を信じて,
帥ち病氣には精紳が大いにあづかって力あることを信じて,その所信をその謁刺的著作中に示さう
と試みた。
lLa:Fo・甑{ueはその童話や他の著作の外に,「キニ・・一ネ」に關する詩を良いで居るのは,實に珍
らしい事柄であると思ふ。彼はこの詩をAllne Marla Manciniに獄じた。この詩の中に彼はPe髪U
渡來の此の樹皮が,「マラリヤ」に封ずる敷高の偉大さに就いて讃美して居る。・これは實に,非詩 歌的題材に心する非詩歌的の併し面白い詩である。 Guillaurr.e de Baillou(1538−1616)はパリー讐師會會長で,内観申にも拘はらす李然として欝 書の著述に渡諭した。彼はリョウマチを病み,これに關する書を著はした。リョウマチと言ふ病名 を作ったのはこの入である。 Riolan(1577−1657)は有名な解剖話者で,ハーベイの睾理に反骨した。.血液循環に溢する争論 は約50年間も糧績したのである。RenatモiS蟹。「eallは1625年ltc−Z)e Vαletudine或はSehool Gf 8nle恥。と言ふ衛生書を著はして}之をCardin al Richelieuに獄じた。 Mauriceau(1637− !7G9)は産婆術に請する薪書を著はした。これにはうつくしい銅版の挿緯が多数に含まれてある。 爾この書は多くの外心語に麟課された。
デンマークで有名謄者はNi・h・1・・St…e・(1638−i686)であった。 rSt・n・四割は彼の名 から出來たのであるOThomas:Bartholinus(1616−!680)は胸部やその他の淋巴管の名稻を作砂か つ記述した人である。
ベル%’・一ではおh油Ba・ptiste Van Helm・nt(1577−1644)ヵ靖機化學の大家であった。彼は
gasと言ふ語を護明した。この語は一時流行しなかったが,150年¢)後にラボアジエールが之を復 活させたのである。Heimontは胃と肝臓の分泌物を検査した最初の入であった。披はこれに依っ
て溝化作用を研究したのである。
オランダでは偉大なる面面鏡肇者,化肇者,生理墨者が輩出した。その内女讐の事業に關係を有
する人だけの名を継ぐればVon Leeuwenhoek(1632−1723), Swammendas(1637−1680), Tul−
IPius(16ア3年死),及び.Sy!vius of Leアden(!614−1672)である。盈egner de Graaf(641−1673)
は内分泌に關する研究の外に,回読の作用を初めて研究した人であり,叉卵巣のグラーフ氏濾胞の
名を與へた入である。.亙:i en drik von:Deventer(/651−!724)はオランダ入で産科を專門とした最
初の入で,異歌骨盤及びカ>Xる際の分娩の注意に就いて硯究をした。彼とRoonhuアzeとは一般産 婆の能力向上のために書物を著はし,かくしてオランダの母と子を救った。 :Leyden市には有名な讐學前壷あった。これはOrange公Wllli蹴が國葵佳に殉死した三兵を記 念するため,1575年に設立したものである。John Evelynが16紐年にLeydenに遊んだ時,同 大墨の建築が:Padua大學の規模をまねたものであることに感服して居る。併し女子はその後2GO 年以上も入湯を許可せられる機運に至らなかった。
ド・fツはJesuit僧1 Athensius Kircher(1602−1680)に依って代表される。彼は病原の槍査に
g.99 顯微鏡を組織的に使用した最初の温温者である。多くのド71ツの墨者と同じく,Kircherも蔀戸者 であの密婦家であ夢博物學者であった○彼は顯微鏡の下で膿綱胞を畿見し,養生學を研究し,ハー ベイと同じく自然獲生の理論を放棄した。Johann:Remme1 iv(!583年生)は紙製の人面模型を作 って,筋肉や機關を吾人に教へて呉れた恩人の1入である。 ■タリーでは麗arceUo漁1piンlhl(1628∼1694)が最も偉大な研究家であった。彼は法王イノセ ント歴世の侍留となったが,彼の名聲は組織學,稜鼻詰,生理學の研究に依って,永遠に傳へら ’ るべきものである。Malpighiの友たるGiovasnni:Bore;11(1608−1679)はGま1.lileoの弟子で,人 類愛からして輪業に從試した讐者であった。Santorio(!636年死)は臨床用言温計や,振搏時計を 獲明した。もっとも一般に使はれたのは,その後200年を経たけれども。 舞9簿 第17盤龍のタ購駿’ 第17世紀の中期に至ってはじめて,幾百年前からの蕾習たる理髪緬と外科警との聯盟が絡局を 告げた。併しそれは理論上だけのことであって,本論に分離し得たのはフランス革命の時であった 1695年に外科讐の學位が規定されて,記者は染めた誕を着け叉は髪を長く垂らすことになった。 外科讐の目標しとして,家の外は刺謄盤を出し,理髪を除いて外科一般の手術を施こす旨を標示し た。蓋し理髪は理髪師の專業として除外されたのである。 いはゆる裁石手術家と呼ばれた旋記者が居た。これは頭蓋から叉は膀胱たら,結石を蔵り取ると 嘗ふのである。頭から結石を取り去れば頭痛が治ほると言ふ山師欝者が流行した。無智な頭痛患者 が,山師の大道店で治療を受けると,やがて亡者の助手が,小石を盆に載せて,「これが面取つた頭 痛の石で御座る」と言って一見物入に見せ多。.そうすると患者も,「あXこれで,さっぱりした」と言 ふ顔附きをする。こう言ったやうな槍が,この時代の糟かきに依って書き残されて居る。 膀胱結石の場合には,この種の痴者は,見物人が患者を押へ附けて居る間に,會陰から手つ取! 早く手術してしまった。こんな手術で先づ5割位は成功して居た。:Frさre・Jean C6meと言ふ族曾 は,刺謄法も接骨も無冤許で,.こ¢)手術を千尋以上も行ったと言ふ。1653年に:Evelynの傳ふる所「 に依れば,或る男が食事中あやまって小刀を嚥下した。弔日待つた後,外科讐は患者の腹の上に 磁石を澤山に載せて腹の上部へ,その小刀を吸ひ幽させやうと苦心した。併しこれが無敷に絡つた ので,今度は患者を机の上に革紐で縛り附け,垂直切開で晦を開き,假肋骨の下に磁石を点てX) やっと胃からその小刀を引き出した。それから胃壁と腹壁とを能く縫合し,油と鶏卵の白身と粘土 とを交ぜた物を塗った。その後14日目に患者は,食事に注意するだけで本復したと言ふ。 スイスのMarie Coliuetに比敵すべき名女面が,英國にも1人だけ居たのは愉快である。この Mrs. Holderは「めづらしい女外科讐」と世評せられ,大手術に成功し, Charle32世の手の傷を. なほしたので有名である。17世紀の外科讐としてスaスのFabriciusほど上手なものはな》・。彼 につv・ては度々述べたが,彼は乳癌の手術に巧みであった。彼の意見では,乳癌は初期に手術すれ ば有望であると言ふ。英國のWisemanと言ふ外科馨も,乳癌の初期治療の必要を論じて居る。皮 膚病の治療には,すっと昔から王様には魔術的力をもつと考へられて,英國のCharles 2世の如
一55一
きは約10萬人の患者に手を乱れたが,民衆は:ともかくとして,「Wisemanの如き馨者は王様の接
鰐,魔術油,記法によって癌をなほす愚を笑って居た。
F抗briclmの外科書の外に,工610年頃Peter von Uffenbachに依ってフランクフルトから出版 された大外科叢書は,大濠紙120り頁の書であった。この書は印刷は鮮明であるし,Aτ1蒲oise :Par6やFabricusを初めとして,7人の老大家の專三論丈を集めたものである。この書の名は Thesαurus OlziTzsrgiaeと言ふ。 癩病はこの世紀申に,大部分繊滅された。多くの隔離病院を設立し,生活1酒毒に大改良を加へた からである。梅毒も水銀剤の御蔭げで,いちじるしく騙除されて行った。今やチフス,赤痢,天然 痘が流行病となって居た。壊血病が30年職無識,ドイツをあらした。腱虫獲生と彗星の出現と大 地震とが多くの狂人を造ったO Defoe,:Pepys,]yganzoniの如き丈士は皆,臨時のペストに就いて記述して居る。或る地方では 1,000人中僅かに1入が,傳染の難を逃れたと言はれて居る。De石6eは鼠が到る威に澤山居たと記 して居ながら,その蟹こそ病菌の媒介者であることを全く知らなかったのである◎モスコー市だけ でも,1(/Ol年から1665年までに127,GOO人が死亡し, nンドンでは1655年に 69,000入が死 亡した。ミラノ市では1630年に或る男が遇然,壁の上に汚れた手を拭いたら,それは故意に病毒 を人に急雨させやうとしためだらうと言って,民衆から大Nrs eC呵責された位に傳染の恐怖がはげし かったといふ。 第1⑪節 第17世紀の藥局方 病氣の種類は萬病と言はれて居るが,叉これに封憲する治療法も,莫大な数に上って居る。キッ プリングがその著Our Fathers of Oユd中に,17量紀の入々が使用したと言ふ藥草の名を列漏し
て居る。 :Lord Raconは老衰を避ける方法として,食餌と蓮動と面心とを提唱した。その藥品中特に黄金, 三二,腹の肉,萬年老,薦菅,及び晶出を推歯した。彼曰く「黄金は太陽を代表して居るから,最 も治療力が張い。豆肉はエチオピアの龍から來たのだから,どんな痛みをも取IE去る。」古いサレル ノ市の歌に次のやうな問答がある。「鼠尾草を庭に植えて置いて,入聞が死ぬことがあるか。」「無 アキノタムラソウ 乱言壽の藥草で,これに勝る竜のはないQ」 艦液病原論が溝滅したわけではなかった。それゆえ,すべての晶晶が多少とも謄汁と血液、とに基 礎をおいた。しかし,1618年に英國の讐師會から出版された藥局方の中には,古來の治療藥が悉 く謡言されて居る。172!年に此の書が縮刷された時,t/古來の妙藥が多く創除されてしまったが, 藥劃師は点心に從って調剤すべきやう,法律で嚴重に命令されて居た。此世紀の絡である1699年 にフランスでも科墨蹟會から浩齢な藥局方が禺版された。カ〉 Nるよい参考書が出版されても,頑固 な一面はギリシャの警墨書の著者であるDioscorides:Pedankisの蕉藥のみに固執して・.マラリヤ にキニー.ネを使用することを滴々實高しなかった。Charles 2世がマラリヤに罹った時,キ=一ネ を投回した塵が,そんな藥は法王の藥剤師に盧方されて居ないからと言って,断然服藥しなかった 一56一一
401 さうである。又Evelynの子供が4旧熱で死亡した時,彼は「女共が飴む毛無などで,子供を包み 過ぎたものだから,窒息して死んでしまったのだ」と嘆息した。彼は:Padua大副で留肇を修め, マラリヤがどんな容態であるか,叉キニーネがその妙藥である位の事は,百も承知であbさうなも・ のだのに,頑迷にして途にその愛児をうしなったのである。 17世紀に入っても,やはり一般に敷迎された治療法は,刺謄法と下剤であった。内科讐も外科 讐も刺謄法を行ひ,又患者自身もよろこんで此の治療を受けた。Guy:Patinは80歳の老人を6日 問に11同も刺創した・L・・i・!3津は1年間に47同も刺A各9た。この王は中毒豫防のために・ 薄肉を蜂蜜に浸したものと薔薇の祝慶を度々服用した。 一 :Le Sageがその著凹翻Ba.sの中に,この刺秘法を馬鹿にして論じて居るが,それは具眼の少数 者に限られて居た。潟血の外に嘔吐法も奉こなはれて居た。1700年にB・df・・d公が病氣の時, Dr・Radcliffeが相談を受けて,一目診断の後,「これ以上嘔吐をさせては,患者の艦力が持ち堪えら れないから止めよG」と外科讐蓬に命じたと言ふことである。 1660年にanedicus MierocOs・mnt,sと言ふ書が出版された。その中に組総のほとんど各部から造 られた藥品の名が無げられてある。たとへば尿,糞,髪,爪,唾,眼,謄,骨,精液:等。これに血 液を混じて製藥すれば,萬病に敷果ありと言ふのである。Melehisedec Barryは家傅の妙藥でもつ て,すべての皮膚病を治し,白髪止めをし,出産の苦痛を治し,新生児を救ふことが属來ると主張 した。Shakespeareの婿である.:Dr・John Ha11は,彼の萬能藥を以て有名であった。1657年に出 版された彼の著Marrow of Chirurger∫QCは多くの妙な古い藥をあげて居る○ 第網節 第書7琶紀の結論 この世紀中に女署はその向上の機をうしなったことと,一般女子が教育を高めるに非ざれば,赴 會に貢献し難いと言ふ観念を握り得なかったと言ふ,この躍占が此の世紀に於ける重要な事柄であ った。 女子の進出は行はれなかったが,讐墨の進歩には刮目して見るべきものがあった。}latvey, Sめ
denham, Malpighi・Von Leeuwenhoekの如き人ぼ,解剖學及び生理學に貢価したことは頗る多か った。複式顯働鏡や,産婆鉗子の如き新讐療器械が焚明された。薪食毒漁期畷表された。大鐘’ 場で解剖の實習がおこなはれたりした。女子教育を奨働した私立肇校も多く設けられたが,女子の 進展は遅kたるものであった。
1652年に:Pierre:Le MGyne.はその著Gallerie gf Heroick Wopnen申に:・女子の弱黙は教育の 敏陥と,蓮動不足に:因る過度め謙遜に基くと論じた。 i7世紀は種々の勲に於て活動的な世紀であった。新聞紙が初めて襲行され,警肇雑語も初めて 嚢刊された。慈善悪癖が初めてモンペ)」 zの讐者:Re]]audetに依って創立された。1606年の卒業 生19名の1人として卒業した後,直ちに歯応及び大陸の諸地方を遊歴し,組織的に貧民救助の實 を學げんと苦心した。彼は:Richelieu及びLouis 13世に講願して,貧民に職を與ふべき職業紹介 所設立の件を提案した。この請願は早速に採用された。次に彼は世界の溝息を傳へる薪聞の獲行を 一 57 ww
許可された。これは4頁もので,初刊から大成功であった。9年後になって,この新聞に馨事欄を
設けて,彼の死亡するまで,この欄を績揚した。
この外に當世紀の誇とすべき事項は次の如きものである。・}ansenと複式顯微鏡(1590)。バーべ e.と血液循環(1628)。Van Helmontと沿化及び醗酵の新化學理論(!640)。 De Gr掘£憾・も1pighi
:Bai”tholi軽us, V・ftn I・eeし珊e曲ockと性器作用に關する全理論を全く塗化せしめた獲見(164!−1677>
Dekkerと尿の蛋白の獲見(1673)。 Willisと尿中の糠の嚢見(1674)。更にNewt。nと重力の法
則の宣言(1682)。Wirsu1〕gs氏膵瞥。 H:ighmore氏i寳。 GILsson氏嚢。 WhartQn氏管。 WMis氏 環oHarver氏管。 Cowper氏腺。 Stells氏管。:Peyer氏集腺等。
この外に新治療藥としては:Peru木皮,アル=カ,纈草楓.ベラドンナ,ヂギタリス,阿片チン
カノコyウ
キ等。
馨書としては,Nieholas Culpeρerの漁le漁medica,翫r躍ltの:Pα}r IS・19ii’s DaiiγCompa−
nion,その/池Gabr{eL翼aud6,.. Wi liiam I・ily,」必n:Baptista Porta…等の著述がある。
藥草に關する書としては,’ GeradeのIE{erba 1, Jo!玉n ParkiEsonのParαdisi in Sole, Pce2・αdisus
TerTestTiss Everard“’EaynWarin9. フMedicus A.bso五ut鴫帥ちThe Compleat Physitian等がある。, 後者は山師の馨者のために書いたものである。