大正期から昭和戦前期の東京府下四大学における教
員養成 : 教員就職者状況の比較から
著者名(日)
豊田 徳子
雑誌名
井上円了センター年報
号
8
ページ
129-168
発行年
1999-07-20
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002695/
大正期から昭和戦前期の東京府下四大学における教員養成
教員就職者状況の比較から豊田徳子ミ§量
一、はじめに 本稿は、東京府下の専門部を付設する四大学を比較し、どのようなシステムにより教員を養成し、実際にどれ だけの卒業者が教員として就職していたのかを分析することを目的とする。これまで東洋大学については、教員 養成システムとその数量的変遷、入学学生の傾向および卒業者の教員としての就職先を具体的に分析してきた ︵←。この調査結果をふまえ、さらに東洋大学を含めた他大学との比較を通して、私立大学における教員養成の 実態を明らかにしたい。 比較の対象として、東洋大学、国学院大学、日本大学、早稲田大学の四つの大学を選んだ。その理由は、以下 の諸点による。︵一︶これらの大学は、明治一〇年半ばから二〇年代初めに設立された私立の学校であること。 ︵二︶私立学校としていずれも最も早い時期に中等教員無試験検定の特典を申請・取得し、教員を社会に送り出し てきたこと。︵三︶また、国学院大学と日本大学および早稲田大学は、中等教員養成のための特別の課程をもつ、 高等師範部を設けてこれを養成していたということである︵2︶。さらに︵四︶四大学のうち東洋大学と国学院大学 は単科文科系の大学であり、日本大学と早稲田大学は多学部・多学科を持つ総合大学であることから、単科大学 12g 大正期から昭和戦前期の東京府下四大学にtsける教員養成各校の概観(歴史) 表1 東洋大学 国学院大学 日本大学 早稲田大学 ①設立年月および学校名 明治20(1887)年9月 明治23(1890)年7月 明治22(1889)年10月 明治15(1882)年10月 哲学館 国学院 日本法律学校 東京専門学校 ②無試験検定資格許可年月 明治32(1899)年7月 明治32(1899)年7月 明治34(1901)年10月 明治32(1899)年7月 ③高等師範部の開設年月
一
明治37(1904)年4月※師範部 明治34(1901)年10月※高等師範科 明治36(1903)年9月 ④専門学校令による認可年月 明治36(1903)年10月 明治37(1904)年4月 明治37(1904)年3月 明治37(1904)年4月 ⑤大学令による認可年月 昭和3(1928)年3月 大正9(1920)年4月 大正9(1920)年4月 大正9(1920)年2月 ⑥校名改称年月 明治36(1903)年10月 明治39(1906)年6月 明治36(1903)年8月 明治35(1902)年9月 →私立哲学館大学 →私立国学院大学 →私立日本大学 →私立早稲田大学 明治39(1906)年6月 →私立東洋大学 (各大学の年史等による) (注) 国学院大学と日本大学の③部分※印は開設当時の名称。 と総合大学の視点から大学における教員養成の位置づけを考察する。 次に対象とした時期について、大正中期から昭和=年までとした 理由は、一つはこれまでの研究との関連性をつけるためである︵←。 二つめは、この時期は中等学校教員の需要が激しく揺れる時期にあた り、私立大学の受ける影響をみる時期としてふさわしい点にある︵3︶。 教員養成の中心は、主に当時専門学校の地位にあった大学付設の専 門部︵高等師範部を含む︶であった。大正七︵一九一八︶年に制定され た大学令に基づき設立された大学の学部とは性格が異なる点から、専 門学校令による大学部︵大学令による大学昇格後に廃止︶・専門部・高等 師範部と大学令による大学の学部とを分けて検討する。なお、今回は 四つの大学における教員養成について、特に教員就職者状況を中心に 数量的側面から考察する。各校の沿革史誌においては、この数量的動 向に関する記述は少ない。このため本稿は、特に実態面にアプローチ するものである︵4︶。 二、教員養成の歴史 まず最初に、四つの大学の教員養成の歴史を表1をみながら概観し ておく。東洋大学の前身は、明治二〇二八八七︶年九月に井上円了により本郷区に哲学諸科を速成で教授する学校と して、創設された﹁哲学館﹂である。哲学館は開設後まもなくから教員の養成を目指し、明治二三年、二七年と 卒業生に対する中等教員無試験検定の特典授与の請願書を文部省に提出していたが︵いずれも却下︶、明治三二 (一 ェ九九︶年四月の﹁公立私立学校外国大学校卒業生の教員免許に関する規定﹂︵文部省令第二五号︶にもとづ き、同年七月に教育部倫理科・同漢文科の甲種に﹁修身﹂﹁教育﹂﹁漢文﹂の学科目についてその許可を得た。し かし、いわゆる﹁哲学館事件﹂によって明治三五年一二月に取り消され、専門学校令による設立認可︵明治三六 年一〇月︶を経たのちの明治四〇年五月になって、大学部に﹁修身﹂﹁国語及漢文﹂の、専門部に﹁修身﹂﹁教 育﹂﹁国語及漢文﹂の学科目について再許可が下りた︵5︶。なお、大学令による設立は他の三大学よりかなりおく れ、昭和三年三月に認可された。 国学院大学の前身は、明治一五︵一八八二︶年麹町区に全国の神職団体が国典・国学の研究機関として皇典講 究所を設立したが、その教育機関として明治二一二年七月に設置された﹁国学院﹂である。哲学館と同様、前述の 文部省令第二五号にもとづき明治三二年六月に中等教員無試験検定の取り扱いを申請し、同年七月﹁日本歴史﹂ ﹁国語﹂の学科目について許可が下りた。明治三七年四月、それまでの本科を師範部とし中等学校教員を養成す るものとした︵6︶。 日本大学の前身は、宮崎道三郎、金子堅太郎らの法律学校設立の趣旨に賛同した山田顕義︵司法大臣︶の参画 によって、明治二二二八八九︶年一〇月に日本独自の法体系の研究および教育を掲げて、皇典講究所内に開設 を認可された﹁日本法律学校﹂である。日本法律学校も明治三二年四月の文部省令第二五号を受けて、現在の中 央大学、明治大学、法政大学などの他の法律学校と教員養成課程の新設について会合を重ねたが、結局単独で文 131 大正mから昭N戦前期の東京府下四大学における教員養成
表2 中等教員無試験検定学科目一覧 ①大学部・専門部・高等師範部 校 名 許 可 学 科 目
東洋大学
修身・教育・国語・漢文 国学院大学 修身・歴史・国語・漢文日本大学
修身・歴史・国語・漢文・地理・法政及経済・英語・公民 早稲田大学 修身・歴史・国語・漢文・地理・法政及経済・英語・教育 (『専門学校資料(上)』文部省大学学術局技術教育課による) ②大学学部大学名
指 定 学 科 目東洋大学
修身・歴史・国語・漢文 国学院大学 修身・歴史・国語日本大学
修身・歴史・法政及経済・商業・簿記 早稲田大学 修身・歴史・法政及経済・商業・簿記・教育・国語・漢文・英 黶E仏語・独語・数学・物理・鉱物・鉛筆画用器画・化学 (各大学の年史等による) 部省に﹁高等師範科﹂の新設を申請した。そし て明治三四二九〇一︶年一〇月これが認可さ れ、﹁修身﹂﹁法制及経済﹂の学科目について無 試験検定の取り扱いを許可された︵7︶。私立の 法律系学校としては、次に述べる東京専門学校 ︵早稲田大学︶に次ぐものとなった。 早稲田大学の前身は、明治一五二八八二︶ 年一〇月豊島郡に大隈重信を中心に小野梓、高 田早苗、天野為之らにより、邦語による専門教 育を掲げ、政治経済・法律・理学・英語を教授 する学校として設立された﹁東京専門学校﹂で ある。早稲田大学も明治三二年四月の文部省令 第二五号を受けて無試験検定の取り扱いを申請 し、同年七月文学部に﹁修身﹂﹁教育﹂﹁英語﹂ ﹁国語及漢文﹂﹁歴史﹂﹁地誌﹂﹁地文﹂の学科目 について許可された。明治三六年九月、国語漢 文科・歴史地理科・法制経済科・英語科からな る高等師範部を新設した︵B︶。表3 大学部・専門部・高等師範部の構成(大正10年現在) 東 洋 大 学 国 学院大学 日 本 大 学 早稲田大学
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大学部王劃㌶ 第 1科3年 大学部磯㌶高等師範科 3年 大学部ロi鷲
政治経済科3年 @ 法学科3年 蜉w部 文学科3年 第2科3年専門学部 文化学科3年 法律科3年 ュ治科3年 商 科3年 搓H科3年 社会事業科3年 専門部 宗教科3年 @ 社会科3年 @ 商 科3年 ・門部繧猿。鱗
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高等師範部 4年 (『文部省年報』その他による) これら四つの大学の中等教員無試験検定の許可あるいは指定学科目 を一覧すると表2の①・②のとおりである。 大学部・専門部・高等師範部をみると四校に共通しているのは、﹁修 身﹂﹁国語﹂﹁漢文﹂であるが、特に日本大学は﹁修身﹂﹁法政及経済﹂ を明治三四年一〇月の最初の申請時に許可された後、後述する学部・ 学科の拡大に呼応して検定学科目を拡充していったことがわかる。 ︵表2①︶ 専門学校が中等教員無試験検定の許可学校であるのに対し、大学は 指定学校にあたる。四大学のうち、特に早稲田大学は学部とその学科 の内容を反映して分野も多岐で学科目も多数にわたっている。︵表2 ②︶ 三、東京府下の四校︵大学部・専門部・高等師範部︶における教員養成 以上、四大学の教員養成の歴史を概観した。次にその実態を明らか にするために各校の学科等の構成、卒業者数における教員就職者数、 さらに教員就職者数が学校全体の就職状況の中でどのような位置にあ ったのかをみる。 133 大正期から昭和戦前期の東京府下四大学における教員養成︵一︶ 構成 表3は、各校の専門学校令による大学部・専門部・高等師範部について、その構成を大正一〇年現在でみたも のである。 東洋大学は、大学部・専門学部とも文系のみの学科構成である。このうち両者のいずれも第一科と第二科が教 員養成の主体であった︵大正一〇年の学科改正で従来の専門部を﹁専門学部﹂と改称、昭和三年再び専門部とした。大 学部は昭和五年度で廃止︶。 国学院大学も、文系のみの学科構成である︵大学部は大正一二年度で廃止︶。中等教員養成のための高等師範科 ︵大正一二年=月、高等師範部に改称︶を設置しており、昭和二年度からは神職部︵後に神道部、修業年限三力年︶ を開設した。 日本大学は、法商文系の多数の学科による構成である︵大学部は大正=二年度で廃止︶。中等教員養成のための 高等師範部︵明治三六年八月、従来の﹁高等師範科﹂を改称︶を設置している。この後さらに、専門部は歯科︵大正 =年度、修業年限四力年︶、医学科︵大正一四年度、修業年限四力年︶、文科︵大正一四年度、修業年限三力年︶、土 木科・建築科・機械科・電気科︵昭和四年度、修業年限三力年︶を増設した。また大正一五・昭和元年度から高等師 範部を増設し地理歴史科・英語科を設置した。 早稲田大学も法経商文理系の多数の学科をもち︵大学部は大正一〇年度で廃止︶、日本大学と同様、中等教員養 成を目的とした高等師範部を設けている。また、大正=二年度からは、政治経済科・法律科・商業科からなる早 稲田専門学校︵修業年限三力年︶を新たに設置した。
︵二︶ 卒業者数における教員就職者数 次にこれらの大学部・専門部・高等師範部卒業者のうち、どれだけの者が教員として就職したのかについてみ ていきたい。 表4−1は、大正七年度から昭和一一年度までの四校の大学部・専門部・高等師範部卒業者数における﹁教育従 事者﹂数とその割合を調査したものである。なお、﹁教育従事者﹂の調査状況は、卒業した翌年三月現在のもの である。 この期間で合計した﹁教育従事者﹂数が最も多いのは日本大学で、二二六五名である。次は東洋大学の一三四 二名、早稲田大学の=〇二名、国学院大学の一〇三〇名の順となる。﹁教育従事者﹂は四校中、日本大学が圧 倒的に多い。これを卒業者数における割合でみると、四校のうち平均で最も高いのは、国学院大学の四〇・一% であり、次いで東洋大学の三一・六%である。人数で最も多かった日本大学は、学校全体の卒業者の割合からみ ると 二・八%となる。国学院大学よりやや多くの者が教育に従事している早稲田大学は、学校全体の卒業者に 占める割合は、平均でわずか五・四%であり、四校のうちで最も低い︵個々の学校の人数・割合については、表5お よびグラフ2の部分で記述︶。 日本大学、早稲田大学がともに﹁教育従事者﹂の全体での割合が少ない結果となっているのは、大学部と専門 部および高等師範部が多数の学科で構成され規模が大きいことによる。各校の教員養成課程である高等師範部に 目を向けると、表4−2のとおりとなる。 これをみるとおり、高等師範部卒業者における﹁教育従事者﹂の平均の割合は、四校ともに高くなる。高等師 範部を設置していない東洋大学の場合は、中等教員無試験検定を許可された学科の卒業者を調査した。表4−1 135 大正期から昭和戦前期の東京府丁四大学における教員養成
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田浪 o ) 測幕汁帖 画柿蔀汁樟 ロ針汁帖 佃諮田汁緑 ご’ 山“一 河暗聖・掴﹁﹄啓・画網雪雷啓暢淋蹄六訪耳か薄瑚☆蝸で東洋大学は三一・六%であったのが三二・七%となり、その割合の変化はあまり大きくないが、国学院大学は、 四〇・一%から四六・一%へと高くなる。日本大学になると高等師範部の卒業者の五二・八%、早稲田大学も同 じく三六・五%の者が教育に従事しており、卒業者全体でみた場合よりもその割合はぐっと高くなる。特に、国 学院大学は大正一〇年度から二二年度にかけて、日本大学は大正九年二〇年度は不明︶から昭和二年度にかけ て七〇%前後から八〇%を越える者が教育に従事している。早稲田大学も大正一〇年度に卒業者の八〇・六%、 大正=年度から大正一五・昭和元年度にかけては六〇%前後の者が教育に従事しており、この養成課程におけ る実績の高さをものがたっている。 表4−1の﹁教育従事者﹂数を年度ごとの変遷でみたものが、グラフーである。 全体の傾向としては、大正=二年から昭和三年三月現在にかけて﹁教育従事者﹂が増加して、ひとつのピーク をつくっている。大正期後半は、中等学校入学志願者の増加によって、顕著な中等学校および学級の増設がおこ なわれた時期である。この﹁教育従事者﹂数は、注︵3︶に述べたように中等学校教員のみに限らず教員一般につ いてみたものであるが、この時期の増加は、中等教育の普及にともない中等学校教員の需要が高まったことを反 映したものと考えられる︵旦。また四校を比べると、日本大学の他校を大きく上回る人数での推移が目をひく。 ピーク後の昭和四年以降はやや減少傾向となるが、昭和九年以降には日本大学は再び増加の傾向をみせ、他校 は多少の増減をみせながら横ばい状態で推移している。 ︵三︶ 就職状況 以上、各校の卒業者数における﹁教育従事者﹂の数と割合に焦点をあててみてきた。では、この﹁教育従事 者﹂の数と割合はそれぞれの学校全体の就職状況の中ではどのような位置にあったのか。 139 大正期から昭和戦前期の東京府F四大学における教員養成
表5は、各校の大正八年三月︵大正七年度︶から昭和一二年三月︵昭和=年度︶の卒業者について就職者数の 多い就職先を順に一覧したものである。なお、この期間の卒業者数は、東洋大学と国学院大学は、大正八年三月 から昭和六年三月まで増加して昭和七年三月以降は減少傾向となっている。日本大学は昭和二年三月に減少した ほかは増加の傾向にあり、早稲田大学も増減はありながら全体として増加する傾向をみせている。 東洋大学の場合、﹁教育従事者﹂は大正八年から一〇年および大正一五・昭和元年三月、昭和二年三月のそれぞ れの卒業者が二位となっている以外は、すべて一位である。最も多いのは、昭和六年三月の卒業者で、一四四名 が教育に従事している。﹁教育従事者﹂数は他の就職者数を大きくはなしており、一位でない年も二位との人数 の差はごくわずかである。就職先として教育への従事の高いことがわかる。︵表5−①︶ 国学院大学では、昭和七年三月の卒業者以外は、この期間の卒業者数の多少にかかわらず、すべて﹁教育従事 者﹂が一位である。最も多いのは、昭和二年三月の卒業者で一〇〇名が教育に従事している。二位以下の就職先 も人数ではそのほとんどが﹁教育従事者﹂よりもかなり少なく、東洋大学と同様に就職先としてその位置の高さ を示している。︵表5−②︶ 日本大学の場合は、﹁教育従事者﹂はその年によって一位から五位と変動がある。また人数にも年によって開 きがあるが、大正一二年三月の卒業者以降は毎年少なくとも一〇〇名を越えており︵最高は昭和一二年三月卒業者 の一九六名︶、東洋大学および国学院大学と比較すると、はるかに多数の卒業者が教育に従事している。学校と して就職者の多い就職先は、﹁実業従事者﹂﹁官吏公吏等﹂﹁医術従事者﹂などである。︵表5−③︶ 早稲田大学は、﹁教育従事者﹂は大正八年、九年および大正一二年三月から大正一五・昭和元年三月の卒業者が 二位であり、それ以外は三∼五位の位置にある。人数も日本大学と同様に一位の﹁実業従事者﹂﹁官吏公吏等﹂
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表6 各大学の学部構成(昭和7年度現在) 東 洋 大 学 国学院大学 日 本 大 学 早稲田大学 国文学科 @ 哲 学 科文学部 教学科 ・学部 法律学科
@ 政治学科
@文学部 宗教学科 ・・蹴撰鶉法 学 部 支那哲学支那文学科 社会学科 @ 文 学 科、学部麟鶉
文学部 聹ヨ商 学 部 土木工学科 機械工学科 建築学科 電気工学科 工学部 機械工学科 理工学部 絃冶金学科 電気工学科 建築学科 応用化学科 (『文部省年報」その他による) 学科︵国文学科・哲学科・仏教学科・支那哲学支那文学科︶、三学科︵道 義学科・国史学科・国文学科︶で文学部を構成している。日本大学は、 法文学部︵法律学科・政治学科・宗教学科・社会学科・文学科︶、商学部 ︵商業学科・経済学科、昭和九年に商経学部と改称︶、工学部︵土木工学 科・建築学科・機械工学科・電気工学科︶の三学部からなり、早稲田大 学は、政治経済学部︵政治学科・経済学科︶、法学部、文学部︵哲学 科・文学科・史学科︶、商学部、理工学部︵機械工学科・電気工学科・採 鉱冶金学科・建築学科・応用化学科︶の五学部からなる。ともに総合大 学である。なお、修業年限は四大学ともに三力年である。 ︵二︶ 卒業者数における教員就職者数 それでは、各大学の卒業者のうち、教員として就職した者は、ど れくらいであろうか。 表7は、昭和六年度から一五年度までの各大学卒業者数における ﹁学校職員﹂就職者数とその割合を一覧したものである。 この期間で合計した﹁学校職員﹂数が最も多いのは日本大学の六 三六名である。次に国学院大学の三二三名、早稲田大学の二九四 名、東洋大学の一〇八名となる。日本大学に次ぐ国学院大学の人数 は、日本大学のほぼ半分であり、大学部・専門部・高等師範部の場 151 大正期から昭和戦前期の東京府下四大学における教員養成鮒∨ 戊斤暗S暢牒蝋警n世qぴ帖蕗翻⑭郭翻曲讐∩巾S聖鵬 品曽O∼ 嵩柏隔 柵 悦 淋 疎 ぱ 宗 ぺO 鳶 ﹃O 認 ω∨ ふO NO 已 +巴 幕汁 態顕櫛部薄蝋ぱ ︼N さ 声O o◎ 嵩 宗 冨 お ◎o さo。 梓 × トo 黶x に゜ω 一ω6 一声゜﹄ 品﹄ ︽ω゜N ホ゜O OO°O 謡゜o。 Nω﹄ 圃 掛 米 蝋 ぱ ぎ さΦ So◎ 一8 qっ
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設する国学院大学、日本大学、早稲田大学の三校は、ここから多くの﹁教育従事者﹂を社会に送り出していたと いうことである。また、これに対して東洋大学は、高等師範部のような課程は置かなかったが、教員養成のため の課程を整えていた専門部を中心に多数の教員を輩出していたことである。その中で、日本大学と早稲田大学 は、学校全体の中で﹁教育従事者﹂の割合は高くないが、さらに細かく高等師範部についてみると、高い実績を 上げていることを確認できた。 なお、全体の傾向として昭和三年から減少した﹁教育従事者﹂が昭和九年以降持ちなおすようになっており、 特に日本大学における﹁教育従事者﹂数の増加は著しい。この時期、社会的な需要に応じて、どのような学校 ︵中等学校.実業学校.小学校・各種学校等︶に就職していたのか。今後資料的に可能ならば検討してみたい︵11︶。 次に、大学の学部について大きな傾向としては、大学部・専門部・高等師範部と同様である。ただ、各大学と も人数.割合で大学部・専門部・高等師範部の場合より少なくなっている。また、総合大学の日本大学と早稲田 大学は、就職先が学部の構成を反映して多様であるため﹁学校職員﹂の占める割合は低い結果となり、﹁学校職 員﹂を主な就職先とする単科大学の東洋大学、国学院大学とは、その占める割合に大きな違いが出てくることに なる。 比較した四大学の大学部・専門部・高等師範部では、大正七年度から昭和一一年度までの間に四校合わせて五 七三九名の﹁教育従事者﹂を送り出しており︵表4−1︶、また大学の学部では昭和七年度から一四年度までの間 に合わせて一三六一名の﹁学校職員﹂を送り出している︵表7︶。したがって、四つの大学を合わせると大学部・ 専門部.高等師範部は、一九年間に毎年平均して三〇〇名強、学部では九年間に毎年平均一五〇名強の教員を送 り出していたことになる。さらに四校の専門部・高等師範部を比較して共通する傾向は、大正期後半から昭和初 165 大正期から昭和戦前期の東京府下四大学における教員養成