「会津・南蛮屏風」の謎
著者
駒井 義昭
著者別名
KOMAI Yoshiaki
雑誌名
アジア文化研究所研究年報
巻
39
ページ
73(60)-83(50)
発行年
2004
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00009374/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja1.会津扉風という名称 神戸市立博物館の常設展示室に入ると,正面 右側の大きなガラスケースの中に見事な南蛮扉 風が収められている。その扉風は『泰西王侯騎 馬図扉風j(重要文化財)と名付けられ,以下の ような説明文が付されている。 「キリシタン大名・蒲生家ゆかりの会津若松 の鶴ヶ城に伝来した八曲扉風のひとつO 片隻を なしたと思われる扉風は,旧会津藩主・松平家 から個人の所有を経て,現在サントリー美術館 に所蔵されている。左から神聖ローマ皇帝ルド ルフ二世, トルコ王,モスクワ大公,タタール 汗をあらわし,キリスト教と異教の王が対時す る図像。ルドルフ二世は反宗教改革の推進者 で,イエズス会と近しい思想的位置にあったこ とから,本図の成立にあたって日本布教を意図 する同会が関与したことを推測させる。主題, モチーフ,そして短縮法や陰影法を駆使した表 現などは西洋風だが,朱地に押された金箔,墨 線による下絵,彩色の顔料などは日本画の手法 で,高い完成度と品格をもっ和洋の折衷様式を 示している。!騎馬像の原図は,アムステルダム 刊行の1606-1607年のウイレム・
J
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ブラウ世 界地図を1609年に改訂した大型の世界地図(現 存しない)の装飾にあると推定されている。 17 世紀初頭に,世界地図の上部を飾る騎馬図を拡 大し,装飾性をもっ雄海で,全く独自な騎馬人 物図に仕上げた点,例をみない作品J
(同博物館 のホームページから)。駒 井 義 昭
簡潔で内容の濃い説明になっているが,この 扉風が大のお気に入りだ、ったかつての所有者で 南蛮美術の一大コレクター・池長孟は,いつも これを「会津扉風」と呼んで、いた。この呼び名 をもとに,またこの(扉風)絵が幕末の会津戦 争終結の時まで,会津城内の二百数十年の歴史 をひそかに目撃してきたことに思いを馳せ,本 稿の表題に「会津・南蛮扉風」の名称を使うこ とにした。擬人的表現をすれば,この扉風は蒲 生氏郷 (1590年/天正18年)以来, 280年にわた る会津藩の歴史の無言の証言者といえよう。し かし,この作品はかつて桃山時代の作とされて いたが,現在では研究者の調査により「江戸時 代初期」の作品であることが判明しているの で, 260年間の証言者というべきであろう。こ の扉風の大きさは「紙本金地著色・ 166.2cmx 460.4cm
J
と記録されている。コレクターの池長 孟について,また池長本人の手記も残されてい るので,以下に付記しておきたい。(
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南蛮堂コ レクションと池長孟』神戸市立博物館・2003年 刊) 「この扉風を池長は〈会津扉風〉と呼んで、い た。もともと会津若松城内にあったのを,維新 の動乱の際に,官軍側の前原一誠が講和の謝礼 として松平家から贈られたものだという。池長 が前原家より入手したときはメクリ(絵本体の み)の状態だ、ったが,自身が創意工夫をこらし て,このような豪壮な扉風絵に仕立てたのであ るJ
(94頁)という説明のあとに,池長本人の手 記がつづく。 「古代女帝にて縁をとり,紺青色を塗りし枠 - 73 -( 60)をはめ,裏面には柿渋を塗りたる上に紺青を刷 き,安土城天守閣をかたどりて銀箔をおきた り。表具師は千足道太郎。西洋紋章,切支丹学 林,南蛮船,海妖の図案を画家橋本錦埜を東京 より招きて作らせ,京都の金具商某(当時行幸 の風車の金具をつくりなる人。氏名を逸す。)の 手によりて,装飾金物を仕上げて,扉風の四隅 にはりめぐらせたり。総で池長孟の考案にかか る。
J
(94頁) もともと襖絵だ、ったと思われるこの絵を,メ クリの状態から豪華な扉風に仕立て上げるため の池長の熱の入れようは尋常ではなかった。装 飾用の材料を厳選し,腕のよい表具師を選び, 南蛮図案に詳しい画家を東京から神戸に呼び寄 せ,飾り金具を京都に注文している。現在,わ れわれが見るこの扉風絵の四隅には池長の証言 どおり,南蛮図案の飾り金具が打ち付けられて おり,その他に左2扇上部に iIQENAGAJ
,下部に「池長孟J
,右2
扇上部に「南費堂J
, 下部に iNa m B a n D 0J
の黄銅色の金具が 付されているのが確認される。これらの繊細・ 入念な装飾から,この扉風に込めた池長の並々 ならぬ情熱が感じられる。この豪華な装飾枠 が,勇壮で優雅な四面の騎士像を一段と引き立 たせていることは明らかである。このことは, も う 一 点 存 在 す る 「 泰 西 王 侯 騎 馬 図J
(肖像 図・東京サントリー美術館所蔵)の簡素な外枠 と比べてみれば,一目瞭然である。 池長孟年譜によれば,彼(当時42歳)はこの 絵(
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泰西王侯騎馬図』戦闘図)を1932(昭和 7) 年6月13日に萩の前原家より 22,500円で購入し たことになっている。また,この絵の騎馬図の 一部を模写・改変・借用していると推定される 『四都図・世界図扉風jを京都の富田熊作から 18,000円で購入したと記録されている。ちなみ に1936 (昭和 10) 年12月16日の記録には,大正 9年,大阪千提寺村(現茨木市)の東家で発見 さ れ た 『 聖 フ ラ ン シ ス コ ・ ザ ビ エ ル 像 』 を 26,250円で購入している。その代金支払いのた め,垂水に所有していた別宅を売却したと記さ れているから,r
会津・南蛮扉風J
も当時として はかなりの高額で、あったろうし,これを豪華な 扉風に仕立てる際の装飾にもかなりの費用をか けたものと思われる。 池長の手記から判明することは,r
会津・南 蛮扉風J
は,もともと「メクリJ
(切り取られた 絵)だ、ったこと,そして会津松平家の手を離れ た後, 1932年まで、は萩の前原家の所有だ、ったこ とである。いい忘れたが,筆者はこのf
会津・ 南蛮扉風J
を「戦闘図」と呼ぴ,これと対をな し姉妹扉風と考えられている東京サントリー 美術館所蔵の同名の『泰西王侯騎馬図扉風.1(藤 井明旧蔵)の方を「肖像図」と呼んで区別する ことにしたい。 注*
解説文中のルドルフ二世 (1552~1618/在位 1576~1612) は,オーストリア・ハブスブルク 家のマクシミリアン二世の王位継承者としてス ペインで生まれ,当地の宮廷で19歳までイエズ ス会の厳格なカトリック教育を受けた。 24歳の 時,レーゲンスブルクで皇帝に即位すると,直 ちに父の宗教寛容策を停止してプロテスタント を弾圧し,カトリックによる対抗改革運動を帝 国内に展開した。その結果,宗教紛争の激化・ オーストリアの農民反乱やハンガ、リーの反乱, さらに「対オスマン朝防衛戦」と絶え間ない紛 争への対応に迫られ,徐々に政治への関心を 失って,芸術・学問・自然科学などに関心を移 し,帝国の首都をウィーンからプラハに移して 学芸の都・丈物の一大コレクションの地とし た。彼の肖像については宮廷画家フォン・アー へン (1552~ ? )による定型的肖像画 (1604年 頃)が残されているが,上記の南蛮扉風に見ら れる細面のすっきりとした顔立ちとは異なり, 小太りの油ぎった中年男の風貌に描かれてい る。また,彼のお気に入りの画家・アルチンボ ルド (1527~93) はローマ神話の花と果実の神 ウエルトゥムヌスに擬して描いたルドルフ二世 像 (1591年頃)を残している。当該の南蛮扉風 のルドルフ二世{象は実在のルドルフ二世の顔立 ちとは無関係に,絵師たちが数少ない手元の西 洋画や図版から「戦う騎士像J
(トルコ王と戦う 勇姿)に相応しい絵柄を選び出し,借用・改変 したものと考えられる。 74 -( 59)図1
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泰西王侯騎馬図j(戦闘図) 神戸市立博物館蔵(重要文化財) 左から神聖ローマ皇帝ルドルフ二世とトルコ王,モスクワ大公とタタール汗との戦闘図。2
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もう一点の『会津・南蛮扉風j (肖像図) ここで主題にした『会津・南蛮扉風』の「戦 闘図」にはタタール王を含めて 4人の西欧諸国 の騎士が戦闘像として描かれており,他方の 「肖像図j にはエチオピアの黒人王を含めて4
人の西欧諸国の王侯の温和で、平和的な肖像が描 かれている。描かれている人物から見て,I
泰西 王侯J
という名称は不適切かもしれないが,南 蛮人がもたらした原本の模写または題材にもと づいて製作されたことから,一般に「南蛮扉風J
の名称で呼ばれ,そこに描かれた人物も「南蛮」 概念で総括されている。戦闘図の方は現在,神 戸市立博物館に常設展示されているので入館者 はいつでも鑑賞できるが,他方,肖像図の方は 東京サントリー美術館に所蔵されているもの の,常設展示されていないため筆者も未見であ る。 桃山美術の傑作といわれる,これらの南蛮扉 風がいつ,どこで,なにを手本に描かれたのか, また誰が描かせたのか,少しばかり検討してみ たい。 現在,国内には7
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点余の南蛮扉風が残されて おり,それらの中には南蛮人や南蛮風俗と接触 した桃山時代の絵師たちの驚きと好奇心による 画像が描かれているが,王侯や武人だけが描か れた『会津・南蛮扉風J
は,それらの絵とは明 らかに趣を異にしている。南蛮扉風は一般に, 「日本画系」と「西洋画系」とに分けられ,その 特徴は「前者には当代の金碧濃彩の特色が生か されて,漢画より引きついだ伝統的な墨線がよ く発揮されているJ
ところにあるとされ,大和 絵風の南蛮扉風とは異って「後者は彩色の濃淡 や凹凸をもって画面に変化を与え,遠近,陰影 を表す油彩,勝彩の洋画として,その破格な描 法と色彩とをもって西欧の代表的人物,都市, 戦争などを紹介したJ
(岡本良知『南蛮美術J
平 凡社.1
3
9
頁)とされている。ここで主題とする 『会津・南蛮扉風』はもちろん西洋画系の代表 的作品であり,その傑作である。これらの扉風 について,井出洋一郎の解説文によれば,I
この 二点はもと会津若松城に伝えられ, (省略)若松 城落城の際の官軍の将,前原一誠に松平家より 贈与され,長州の某家から池長コレクションに 加えられた。(省略)扉風の形式は現在異なって いるが,元来両者は八曲一双扉風をなすべきも のであろうJ
(坂本満ほか『南蛮風俗』講談社・ 95頁)とされる。ここで「長州の某家」と言わ れているのは,コレクター池長の手記にあるよ うに前原家のことである。この扉風絵の流転に ついては後述するとして,ここではこの傑作扉 風が二百数十年の間,会津若松城の襖絵として 75 - ( 58)尚武の心を鼓舞してきたことを指摘しておきた し、(1)。 j主 (1 ) この扉風絵が若松城落城の際,城内から持ち 出された経緯について,星亮一『山川健次郎伝
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(平凡社・2003年)に以下のような記述が見ら れる。「会津落はこの時点で一文なしであった。 秋月はこの十一竿のなかに刀剣,書画骨董を忍 び込ませ,なにかのたしにしたいと考えた。域 内の収蔵庫には天下の名品がいくつもあった が,持ち出せる量は限られている。(秋月さん, 泰西王侯騎馬図を長持に入れてくれ〉といった のは梶原平馬だった。蒲生氏郷が会津に遺した 世界の名画である。くなるほど),健次郎の兄大 蔵はこういうときにその絵を思い付いた平馬の 判断に,さすがとうなずいた。官軍にはリスト を出さなければならないが,この絵は南蛮渡来 のものだが作者は不詳である。そこがつけめで もあった。〈いつか役に立つであろう)。平馬は 小万でこの絵をはぎ取って長持に入れた。長持 の上には[無落款扉風はがし絵]と付婆をつけ た。これは金扉風に描かれた四人の騎士の勇姿 で,動の図と静の図の二枚があった。のちにこ の絵の一枚は長州藩参謀前原一誠に贈られ,健 次郎と深いかかわりが生まれる。そしてこの絵 は現在,東京のサントリー美術館と神戸の神戸 市立博物館に収蔵され,国の重要文化財になっ ている。すべては秋月の機転の賜物であった。」 (90頁以下)。文中の山川健次郎 (1854-1931)は 少年時には白虎隊士で,維新後に物理学者とな り,第六代東京帝国大学総長を努めた。山川l大 蔵 (1845θ8)はその兄で,のちに浩と改名し, 斗南藩大参事を経て貴族院議員となった。蒲生 氏郷 (1556-95)は安土桃山時代のキリシタン大 名で,織田信長,豊臣秀吉に仕え,会津92万石 を領した。前原一誠 (1830-76)は松下村塾出身 の長州藩士で,戊辰戦争では会津征伐越後日総 督付参謀として活躍し,のちに越後府判事,参 議,兵部大輔を歴任したが,政府と意見が対立 して官職を辞し,萩の乱を起こして斬罪され た。 また,この扉風が前原一誠に贈られた経緯に ついて,星亮ーは1869(明治2)年の出来事とし て,以下のように記述している。「奥平が健次郎 らを連れて転がり込んだのは,なんと長州藩の 江戸屋敷の一角だった。(大丈夫だろうか),健 次郎と伝八郎は顔を見合わせた。ここの長屋の 二階に前原一誠が住んでいた。前原は暗殺され た大村益次郎の後任として明治政府の参議,兵 部大輔の大役を仰せっかっていた。兵部大輔は 陸軍・海軍両省を統括する大物である。(省略) 主君松平容保が西洋の騎士の絵を前原に贈った のはこの頃であった。健次郎らの面倒を見てく れただけでなく,会津藩のお家再興について陰 に陽に助力を惜しまなかったことに対する謝意 だった。J
(131頁以下)。星の記述では,この絵 の贈与経過がいかにもありそうな筋立てになっ ているが,この絵が「南蛮渡来のものJ
という のも,また「蒲生氏郷が会津に遣したJ
という 記述も,現在の研究では否定されることにな る。 図2
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泰西王侯騎馬図j (肖像図) 東京サントリー美術鎗蔵(重要文化財) 左から神聖ローマ皇帝カール五世,フランス王アンリ四世,アピシニア王,ペルシア王。 - 76一(57)3
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襖絵の発注者と画中人物 『会津・南蛮扉風』の解説を書いている井手 洋一郎によると,この絵には「イタリア・ル ネッサンス美術の 14世紀様式(トレチュント) を反映して,画面の明るさを増すために金地の 下に朱が塗られて」おり,I
豪壮華麗な画面は桃 山芸術の中でも特筆に値する」とされ,I
正確な デッサン,彫りの深い明暗効果,豊かな色彩等, どれをとっても初期洋風画において最も優れた 作例と認めてよいJ
a
南蛮風俗.1 95頁)と絶賛 している。作品を一見すれば,このことは筆者 のような門外漢の目にも明らかである。美術史 上,桃山芸術とは安土桃山時代から江戸初期ま でを含めた呼び名であり,その特徴は豪壮な城 郭や社寺の造営やその内部を飾る障壁画が発達 した時代で,民衆の生活を示す風俗画が描か れ,工芸技術に進歩を見せた時代であった。現 在,z
種類の『泰西王侯騎馬図」扉風として伝 えられているこの『会津藩・南蛮扉風』は,も ともと襖絵として若松城の広聞を飾っていたこ とは確かなことである。 近年の研究では, 4人の騎士が剣を交えてい る「戦闘図」の人物が特定されている。日本式 にいうと,向かつて右から「タタール王J
対「モ スクワ大公J
,I
トルコ王」対「神聖ローマ皇帝 (ルドルフ二世)Jの戦いであり,キリスト教国 の王が異教の国王とそれぞれ交戦するという構 図になっている。この扉風の正式名称『泰西王 侯騎馬図.1C
戦闘図)の体裁細目は,I
渦紙本金 地著色・四曲一隻・重要文化財・神戸市立博物 館蔵・ 166.0cmx 468.0cmJC W南蛮風俗.1)となっ ているが, W南蛮堂コレクションJ
誌面では,や や小さめの166.2x 460.4cmと表記されている。 他方,馬上の 4人の王侯がポートレート風に 描かれた「肖像図」は2枚ずつに分かれており, そこに描かれた人物は,右隻右から「ベルシア 王J
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アピシニア(エチオピア)王」左隻右から 「フランス王アンリ四世吋「カール五世(幻」と推 定されている。解説者の井出洋一郎によれば, 「右のベルシア王を除いて左のカトリック教国 の3人は武器ではなく王妨」を持っているの で,I
カトリック教の平和的性格を表現したも のであろう」としている。これらの画中人物の 多くは, 1606年にアムステルダムで刊行された ウィレム・ブラウの『最新世界地図J
を模写し た「万国絵図扉風(二十八都市・世界図扉風)
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(宮内庁蔵)の周辺画から借用されたり,また改 変して拡大されたりしているが,さらに同時代 の『ローマ皇帝図集』から馬や服装やポーズな どを借用していることが研究者により考証さ れ,人物の特定が可能となった。それらの手本 とされた人物原画の大きさは僅か 10cm程度の もので,それを等身大の大きさにまでバランス よく拡大した絵師たちの力量には目を見張るも のがある。そこで,これらの絵を描いたのは誰 か,そして発注者は誰かという問いが生ずる。 多くの研究書や図録にはただ「蒲生氏郷以来の 会津藩に伝わる……」という紋切型の表現L
か 見られないが,井手洋一郎はその発注者を「会 津藩主キリシタン大名蒲生氏郷の子,秀行に帰 し,イエズス会が秀行に改宗を促すために,ア ンリ四世の意義(王はプロテスタントからカト リックに改宗し,宗教戦争を終結に導いた)と してその紋章を描き入れた」とのA.H.ブラ ム女史の解釈を紹介している。 CW南蛮風俗.1 95 頁) この肖像図の正式名称、も紛らわしいことに, やはり『泰西王侯騎馬図.1C肖像図)であり,そ の体裁細目は「紙本金地著色・四曲一双・重要 文化財・各 1伺.Ocmx
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3
1.0cmJ CW南蛮風俗.1) となっており,こちらは2枚に切り離されてい るが,z
枚合わせた大きさは戦闘図の大きさと ほぼ同じ寸法である。この絵の発注者を蒲生秀 行としたA.H.ブラム女史の説を検討するた め,下記のような関係年表を作成してみた。 注 (1 ) アンリ四世 (1553-1610/在 位1589-1610)は ブルボン王朝の祖で,新教・旧教の改宗を数度 くりかえし,最終的にカトリック教徒となり, フランス国民に信仰の自由を与えて多年の宗教7
7
一(56)紛争を終結し,国内統ーをはかった。 (2) カール五世 (1500~58/ 在位 1519~56) はカ ルロス一世 (1516~56) としてスペイン王と なったが,祖父マクシミリアン一世の後を承け て神聖ローマ皇帝 (1519) となった。これによ り彼は,全ヨーロッパに散在する諸地域を手中 に収めた。また宗教改革には反対したが,最終 的にアウグスブルクで宗教講和を締結し (55),
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言仰の自由を認めた。 「会津・南蛮扉風」関係年表 1384(元中 1)年:藍名直盛,黒川(会津若松) に築城。その後,蓮名氏全盛時代を迎える。 1576(天正4)年:京都に南蛮寺完成 (86年に破 却)。キリシタン絵が描かれ始める。 1579(天正7)年:オルガンテイノ,安土に教会 堂を建立。 1582(天正 10) 年:天正遣欧使節団 (~90年)。 織田信長死す。 1583(天正11)年:イタリア人画僧ジョヴァン ニ・ニコラオ (1560~1626)が西洋画指導の ため来日(後にマカオで死亡)。この頃,国内 のキリシタン信徒が十数万人で,r
五万枚の 聖画が必要J
(ルイス・フロイス)とされた。 1587(天正15)年:豊臣秀吉,パテレン追放令 を出す。 1589(天正17)年:麗名氏を打ち破った伊達政 宗が米沢より黒川に入城。 1590(天正18)年:伊達政宗,米沢城へ移る。 秀吉,黒川城に入り奥州仕置きを命ずる。 蒲生氏郷,伊勢から黒川に入城 (42万石)し 若松と改称。これに伴いキリシタン信徒も流 liち ら お 入。この頃,有馬領内(肥前)八良尾の神学 校で西洋画の指導が行われたとの記録あり, 志岐・長崎でも絵画指導が行われる。 1593(文禄2)年:氏郷 (95年死亡),城を大改 築し, 7層の天守閣を完成。この頃から京・ 畿内で南蛮趣味が大流行し,十数年続く。 1596(慶長1)年:長崎で26聖人殉教。 1598(慶長3)年:蒲生秀行,宇都宮に移り, 上杉影勝が若松に入城。 120万石となる。 1600 (慶長 5) 年:関ヶ原の戦い。 1601 (慶長 6) 年:蒲生秀行,再び若松に入城。 この頃,キリシタン信徒30万人以上。 1605 (慶長10) 年:ニコラオ,長崎の画学舎長 となる。 1608 (慶長13) 年:洋風絵師・信方(落款画を 残す),このころ活躍。その他,レオナルド木 村,ヤコブ丹羽(後にマカオに逃避=中国 名・悦一誠),山田右衛門作(? ~1655) ,山 田藤七,野沢久右,生島三郎左,ルイス・シ ズオカ,ペドロ・ジョアン,オータ・マンシ オ,ジョアン・マンシオなどの絵師の名が伝 えられる。 1609 (慶長14)年:ブラウ「世界地図J
(改訂版) 刊行される(会津南蛮扉風の人物借用園)。 1612 (慶長17) 年:直轄領(幕領)にキリシタ ン禁止令。 1613 (慶長 1)年:この頃,フランシスコ会のソ テーロが東北地方に布教を始める。慶長遣欧 使節団 (~20年)。 1614 (慶長 19) 年:高山右近,内藤如安,ニコ ラオらキリシタン1
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名をマニラ,マカオに 追放。 1622 (慶長 8) 年:キリシタン 55名,長崎で処 刑。 1627 (寛永 4) 年:加藤嘉明,若松に入城。 16訂(寛永14) 年:島原の乱 (~38年)。 1639 (寛永16) 年:ポルトガル船の来航禁止。 これ以後,西洋画の技法が途絶える。 (1576年 にキリシタン絵が描かれ始めてから 63年目に その技法が断絶する) 1643 (寛永20) 年:保科正之 (1611~72) ,出羽 山形より若松に入城, 23万石を領す。以後, 幕末まで保科氏の代となるが,後に松平姓を 名乗る。 18臼(慶応 4) 年:会津戦争で白虎隊が奮戦。 9 月22日に会津藩,薩長箪に降伏。降伏式出席 者は薩長軍:軍監・中村半次郎(桐野利秋), 寧曹・山県小太郎,使番・唯九十九。(前原一 誠は不在)。会津藩:藩主・松平容保,喜徳 (養子),家老・梶原平馬,軍事奉行添役・秋 月悌次郎ら 12名。 - 78一(55)1874 (明治 7) 年:若松城,解体される。 はじめに,我が国で最初に行われた西洋画の 指導について述べておきたい。イエズス会の 1592年の報告書に有馬領内八良尾の神学校で行 われていた西洋画の指導に関する次のような記 事が見られる。 「学生のうちには,それぞれの晴好にした がって(正規の修学以外の)他のことも練習し ております。例えば,絵画を習い,印刷もしく は画像の版画を彫ることを修める者のごときで あります。彼らの技は非常に有用でございま す。というのは,彼らは立派な,かつ巧妙な腕 をもっていて,とても容易にそれを修得するの をみますと,ただただ驚嘆するだけでございま す。もし(イエズス会総長)貌下がこれら初心 の少年たちの作ったものをご覧になりますなら ば,お悦びなさることでありましょう
J
(岡本良 知『南蛮美術』平凡社, 128頁)0 さらに1593年の報告書には次のような記述が ある。 は ち ら お 「この八良尾の神学校の学生の数人が,絵を 描き,金属版を彫っているのは,教会のため大 いに役立ちます。彼らのうち八人が水彩の,他 (の八人)は油彩の画像に,五人は銅版画に修練 を積んで、いますが,そのどれにもとても進歩し まして,わたくしたちを大いに驚嘆させており ます。といいますのは,日本人の公子たちが ローマから持って来たいくつかの最もよくでき た画像を,彼らのうちに彩色でも陰影でもそれ に近似することで完全にちかく,原画さながら に写す者がおるからでございます。 後になっ て,その関係の神父(パードレ)や修士(イル マン)たちの聞にも,そのどれが彼らの作った ものか,どれがローマでできたものかを識別で きない人が多く,行き過ぎだと思われるほどで すが,日本人の作品をローマから来たものと主 張する人さえいました。(省略)J (前掲書129 頁)。 この画学舎には1593年の時点で水彩画学生 8 人,油彩画学生8人,銅版画学生5人がいたこ とが確認される。これらの画学生たちが1609頃 『会津・南蛮扉風J
を描いたとすれば,その修行 期間は少なくとも17年(あるいはそれ以上)も あり,丙洋画の基本はほぼマスターしているは ずであり,さらに第二世代の絵師の養成もなさ れていた可能性もある。『会津・南蛮扉風」には 不思議なことにほとんど大和絵の匂いがないの は,この学舎で初めて絵の手ほどきを受けた者 たちが描いたからであろう。西洋画の技法をマ スターした彼らのうちの数人が都に上り,キリ シタン関係者(大名や豪商を含む)たちの注文 に応じてさまざまな絵を描いたということも充 分考えられる。現存する有名なフランシスコ・ サピエル像の聖画もそのような絵の一枚に過ぎ なかったのではなかろうか。 前掲の年表から推測すれば『会津・南蛮扉風 絵」の製作時期は,蒲生秀行の会津若松域入城 の1601年から画僧ニコラオがマカオに追放され る1614年までとするのが大ざっぱな見方になる が,描かれた人物像の手本となったブラウ『世 界地図J
の刊行が1609年であることを考える と,その時期はさらに短く, 1609~14年の 5 年 間ということになる。 織田信長の南蛮文化愛好と宣教師の保護によ り,都や畿内ではポルトガル人たちの伝えた華 やかな風俗が庶民の中でも人気を博し,流行 し,ある種のファッションと化し,大名や豪商 たちが狩野派の絵師たち(宗秀・内膳・山楽) に競って南蛮扉風を描かせた。南蛮船や宣教師 が描かれていようとも,それらは華やかな南蛮 風俗にすぎず,キリシタン信仰とはほとんど縁 のないものと見なされた。大名たちにとって は,南蛮文化の品々をもつことが一種のステー タスとなり,豪商たちは描かれた南蛮船を富を 運んでくる宝船(一般に画面の左側から入港) と見なした。おそらくキリシタン大名を父にも つ蒲生秀行もその例外ではなかったろう。父が キリシタン大名であることから,彼はイエズス 会の宣教師や画工房とも親しい関係があったと 推測されるし, 1601年の若松城入城を機に「南 蛮扉風J
を注文したとも考えられる。さらに推 79 -(54)測を重ねれば,ブラウ『世界地図jの刊行され た1609年から画僧ニコラオの追放の 1614年まで の聞に, A.H.フラム女史の解釈どおり,有力 な宣教師の指示でカトリック思想を込めたあの 二種類の扉風絵,戦闘図と肖像図が描かれたも のと考えられる。しかし絵の発注者としての蒲 生秀行は,画中に込められたキリスト教思想に 想いを馳せることなく,勇壮かっ優雅な武人 像,王者としての威厳と権威を象徴する武人像 として鑑賞したであろう。また,あの西洋画の ほぼ完壁なまでの描写はニコラオの指導なくし ては描けなかったであろう。ニコラオ自身の描 いた絵は現存しないが,彼はみずから描くより も,もっぱら絵学生たちがキリシタン信者用に 描く小聖画の模写・複製・改変の技術指導に専 念していたと考えられる。この作業が結果的 に,後年の『会津・南蛮扉風
J
をはじめとする 大作の修行になったものと考えられるのであ る。年表の 1608年の箇所に信方(落款を残した 絵師)ほかイエズス会の画工房で西洋画を学ん だ絵師たちの名を列挙しておいたが,おそらく これらの絵師たちの何人かを含んだ共同作業に よって, 2種類の『会津・南蛮騨風』が完成し たものと考えられる。描かれた場所はニコラオ のいた長崎とみるのが妥当であろう。 ここまで推理してきて,グレイス・ A.H. フラム女史の i(レパント戦闘図〉と〈世界地 図)扉風一双についてJ
(W南蛮風俗.1)という論 文で注目すべ次の文章に出会った。 i(レパント戦闘図〉扉風に手本として使われ た今までに判明している版画は,総てフランド ル或いはオランダからのもので,年代的には, 1567年(コルトの「ザマの会戦J)から, 1606年 一7年(ブラウの世界地図))にわたっている。 このオランダの地図は 1609年以前に日本に達す るはずはなかった。というのはその年に束印度 会社商人達が将軍家康から許可を受けて,平戸 に貿易取引所を設けたのであるから。そこでこ の1609年がこの扉風の年記の上限で,キリスト 教が禁止され総ての宣教師達が日本から追放さ れた 1614年が下限となる。J
(前掲書137頁。傍線 は引用者) 上の文中の「レパント戦闘図塀風J
(153.5x
369.0/香雪美術館蔵)という名称は,i
会津・ 南蛮扉風」および「万国絵図扉風(二十八都 市・世界図扉風」という名称と入れ替えても, その趣旨はそのまま妥当するのである。 1609年 刊行の「改訂版・ブラウ世界地図』中の挿絵や 肖像画が,これらすべての塀風絵に登場してい るからである。この事実から,これらすべての 扉風絵は閉じ場所で,ほぽ同じ時期に,同じ絵 師集団によって描かれたものと考えられるので ある。あとは,描かれた順番が興味をヲ│く。絵 を描く技術としては,大きな絵を縮小して描く よりは小さな絵を拡大して描く方が容易であろ う。この視点から推測するかぎり,i
万国絵図扉 風J
と「レパント戦闘図扉風」が同時平行の作 業で完成した後で,改変拡大図としての「会 津・南蛮扉風絵」の二点が同時平行の作業で描 かれたものと考えられる。これらの絵に共通す る単独の人物画が数枚残されているが,それは 二つの作業の中間的産物であり,いわば「会 津・南蛮扉風J
という大作のための習作だ、った のではなかろうか。このように見てくると問題 の扉風絵は,ニコラオがマカオに追放される前 年の 1613年から 14年に製作されたものと推測さ れのであり,イエズス会の絵師集団の最後の傑 作が『会津・南蛮扉風』であったと結論される のである。 しかし,この扉風絵には不可解な部分があ る。戦闘図の左端に描かれている人物,神聖 ローマ皇帝ルドルフ二世の右肩(肩当て)に小 さく描かれた黒ずんだ顔である。ルドルフ二世 の守護神なのか,あるいは人面なのか獣面なの かも定かではない。この黒ずんだ顔の絵は,多 くの戦士が入り乱れている「レパント戦闘図(1)J の中の数人の騎馬兵の右肩にも描かれているの である。絵師が,たんに面白いと思って騎馬兵 の右肩の絵を借用してルドルフ二世の右肩に描 いたものか,あるいは,その黒ずんだ顔に特別 の意味を込めて描いたものか,それが謎として 残る。 - 80 -(53)注 (1)
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レパント戦闘図」は1571年のレパント沖の 海戦を描いたものであり,この海戦はギリシア 西部のコリントス湾にあるレパント沖でローマ 教皇庁・スペイン・ヴェネツイアからなるキリ スト教国連合艦隊とオスマン艦隊とが激突し, 連合艦隊が圧勝した戦いである。当該の扉風絵 では背景に海を配してはいるものの,陸上戦と して描かれているのは勇猛に戦う武人像を強調 する意図が込められているものと考えられる。 図3 1940年の「池長美術館開館記念ポスターJ
(r南蛮堂コレクションと池長孟]より) ルドルフ二世の拡大像の右肩に黒ずんだ顔が見える。(レパント戦闘図からの借用像)。 図4I
レパント戦闘図」六曲一双(部分)香雪美術館蔵(重要文化財)。左上にローマ王,その右にス ペイン軍旗。その右端の顎髭の騎士の風貌は,図2のカール五世に酷似している。また下部左端の騎 士と中央から右寄りの 2人の騎士の肩に人面か獣面か不明な像が描かれている。この像は,図 3のル ドルフ二世の右肩にも描かれている。 81一(52)4.南蛮堂主人・池長孟という人物。 『会津・南蛮扉風jこと『泰西王侯騎馬図』戦 闘図が海外に流失することなく,現在のような かたちで一般公開され,多くの人々の鑑賞に供 せられるようになったのは,南蛮美術の一大コ レクター池長孟の功績である。近年発行された 『南蛮堂コレクションと池長孟j
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年7
月1
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日・神戸市立博物館)の序文には次のような人 物紹介の記述が見られる。 「かつて神戸に池長孟(
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という人 物がおりました。兵庫という古い町の名家の主 人でしたが, <つらつら世間を見るに,お金っか いの名人はあまり見当らぬ〉といいながら,そ の財産をつぎこんで南蛮美術を蒐集しました。 彼は〈蒐集は,ひとつの創作であります〉とい う信念を掲げ(日本で製作された異国趣味美術 品〉の集大成をめざします。エキゾチックに浮 き身をやつした池長は,みずから(南蛮堂〉と 号しました。昭和1
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には(神戸のよ うな国際大都市にして,美術館の一つも持たな いということは,国民教養の程度も察せられて 大きな国辱である〉と考えて,自分で美術館を 作り,コレクションを一般に公開しました。(以 下省略)J 池長美術館は1
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年(昭和1
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に完成し,1
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年に一般公開された。このときの「開館記 念展ポスター」には,池長お気に入りの「泰西 王侯騎馬図」のなかから神聖ローマ帝国皇帝ル ドルフ二世の絵を拡大して用いており,I
池長 美術館・南蛮美術の殿堂・日本製作の異国趣味 美術一堂に蒐まる・今期は主要秘宝の展観・紀 元二千六百年記念jなと守の文字が踊っている。 そして出品目録には,池長のコレクションへの 自信と鑑賞者への謙虚な姿勢が次のような言葉 で綴られている。 「お願い。貧しい私があっかましい考えを起 こして一個の力で建てた美術館,とても一時に は数多くを陳べきれない,狭小なみすぼらしい 建物であることをお許し下さい。そのかわり中 身は世界的に自慢しでもいいと自惚れていま す。又いかめしいそして千篇一律の博物館の多 い中に,こうした家族的な親しみのある,専門 的な美術館の存在も確に意義のあることと信じ ています。I
日蔵者の時代には,到底見せてもら えなかった秘宝が,沢山あります。素通りをし ないで,一品づっゆっくり鑑賞していただきた い。そして一度では分かりませぬ。二度三度と 御覧下されば,一層味わいがにじみ出ます。こ の宝物は既に皆様のものなのですから,充分そ の価値を認識して,皆様のお力によって,愛護 して下さいますように偏にお願い申し上げま す。」 彼が生存中に収集した南蛮美術品は7
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点を 超えるといわれるが,その中で彼がもっとも気 に入っていた絵画は『泰西王侯騎馬図J
扉風と 『聖フランシスコ・ザヴイエル像』であった。現 在の神戸市立博物館は,池長孟の南蛮美術コレ クションを基礎にして成立したものである。池 長の功績は,かつて朝敵とされた会津藩の襖絵 を情熱を傾けて優雅な「扉風絵」に仕立て上げ, 数々の南蛮美術品を海外に流失させる事なく保 存したこと,さらに国際都市神戸に自力で美術 館・博物館を建設したことにある。ここには真 の美術愛好者の神髄が見られる。また彼は,こ の美術館の建設によって社会教育の実践者を自 負していたことも付け加えておかねばならな ",(1)。 注 ( 1) 池長は育英商業学校(育英高等学校)の校長 を2
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年務め,社会教育の重要性を指摘してい る。彼は「浮世絵美術館一建設の機運-
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の中 で,それを次のように語っている。 i(省略)私 がここに,特に声を大きくして叫ばんとするも のは,教育に於て最も重要なる位置を占むべ き,社会教育の絶無である。我々大人の教えら ゑ守ものは,何一つ無い。子供の教育よりは, 親爺教育が日下の急務である。親爺が賢くなれ8
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ば,子供はひとりで賢くなる。然るにラジオは くだらぬものばかりを放送し,図書館では駄小 説のみを包蔵し,見るべきほどの美術館も持た ぬ。あまりに貧弱な文化施設を如何とかなす。 (省略)学校教育は重大である。併し,本末を顛 倒せず,教育の本義の理解から出発しなければ ならぬ。そして,学校教育は,社会教育の,ほ んの一部であることを知らなければならない。」 (r南蛮堂コレクションと池長孟j56頁)。 参考文献 岡本良知『南蛮美術j(日本の美術,第四巻)平凡 社,昭和40年 (1965)