トマス・アクィナスにおける「至福」とvisio Dei について 一一SunvmatheologiaeI.12における一一 岡 崎 (人文学部 文 明 哲学研究室)
召gαだlz4ば0and visio I:)din Thomas Apuinas' Metaphysics
Fumiakl Okazaki (Department of Philosophy, Faculりof Hnmanttes) 概 § 序 〔1〕 §● 人間の認識能力 〔2〕 § comprehendereとcognoscere 〔3〕 § 神の木質は被造的知性によって見ることはできな い 〔4〕 § その理由-・一一被造的知性の自然本性的能力は神の 木質を「見る」(videre)ことはできないから〔5〕 § 被造的知性にvisio Dei の可能性か開かれている ことの要請による証明 〔6〕 要 § visioの成立条件 similitudoを必要とする 〔7〕 § 「見られる側」におけるsimi】itudoによっては visio Dei は不可能 〔8〕 § 「見る側」におけるsimilitudoによってvisio
Deiは成立する gratia, gloriaの光を必要と する 〔9〕 § 至福と愛 〔10〕 § 結論 〔11〕 〔1〕現代において「神」を問題として扱うことはいかなる意味を有するであろうか.特定の立 場にある者--一神学者や信仰者一一はとにかくとして,一般的な立場にある者にとって,この問題 は果してどのような意味を有するであろうか.今日「神」を扱うことは時代錯誤の感さえする. しかし哲学は,かかる問題を扱う一般的な立場を提供しうるように思われる. アリストテレスもヘーゲルも,哲学史を展開するにあたって,哲学を「万物の根源」の探究の学 と規定している1’. かかる哲学の規定に・立つ限り「神」への問は「万物の根源」への問となる.な ゝぜなら「神」は「万物の根源」として考えられているからである.ここに「神学」の立場ではなく て「哲学」の立場における「神」への問の場が開かれると思われる. 開かれはしても,その探究は,方法において慎重に検討されなければならない.拙稿では以上を 念頭に置きつつ, Thomas Aquinas が,かかる問題について,いかなる立場をとり,いかなる方 法を用いているか,その一端を明らかにすることを目的としている.そこで, Thomasにおける cognitio Dei をめぐって考察することにする. 「我々(人間)は神を如何なる仕方で(quomodo)認識することができるか」と問う場合,そ の問に対する姿勢は,アウグステ’イヌスとトマスでは異っている.アウグスティヌスの場合, quomodoは主として神を認識する実践方法を問うているのに対して,トマスの場合は,主として 神を認識するときに,それはどんな仕方でなされるのかという「神の認識の様態」を問う.この点 で両者は大きく相具するが,その相違の背後には両者の思索,生き方の根本的な姿勢の相異が窺わ れる.アウグスティヌスの場合には,絶えず祈りつつ自分自身を神に向けて神の思寵を待望しつつ 探究を進めるという,いわば主体的実存的な姿勢かあるのに対して,トマスの場合には,そのよう な姿勢は奥に退き隠れ,前面に押し出されているのは客観的ないわゆるスコラ的姿勢である.かか る点で両者は大いに相貌を異にする.
しかし両者は他方では次の点で共通している.人間は神に向けて造られたこと,そして人間の至 福は神において見い出されるという理解である.ここから「神の認識」という問題は両者にとって 共通の場を提供する. この問題に対して,トマスは先ず「神とは何か」を考察し,しかる後に「では我々かそのような 神を認識するのはいかなる仕方,いかなる認識様態であ’るのか」と問う順序を有している2’のに対 して,アウグスティヌスは「神とは何か」を先行させない,むしろ神に至る方法を探りつつ,神の 本性を顕わにしようという探究方法をとっている3’. 拙論では,アウグスティヌスとトマスの比較ではなく,その前に,トマスの「神の認識」につい て『神学大全』第1部第12問を中心に見ることを目的とする. 〔2〕トマスは人間のする認識を感覚的認識と知性的認識とに分かち,両者を比較しつつ知性的 認識の様態を分析することから出発する.
トマスは認識主体として,単に現世に生きている人間知性だけではなくて,「被造的知性」(intelle-ctus creatus)一般を考えている.即ち肉体を脱いだ人間の分離霊魂(anima separata),天使の知
性(intellectus angelicus)を含んでいる.少なくとも第十項迄は「こめ世」の生においてではなく, 「あの世」即ち「終末」時における人間の知性のvisio Deiが念頭に置かれている様に思われる. トマスは知性(intellectus)で認識することを「見る」(videre)と言って,感覚(視覚)の働 きと同じ用語を使用する.何故であろうか.人間知性には二つの働きかある.一つは「推理」(ratio -cinatio)である.これは或る命題から別の命題に推移していくときに導きの働きをする.もう一 つは端的な受容を意味する「知性認識する」(intelligere)であるo.この働きは知性によって, いわば一撃の下に行なわれる.それは丁度閉じていた目を開いた時,眼前にある風景か一挙に目 の中に飛び込んで来るのを視覚が一挙に捉える(apprehendere)のと同じである.この作用を 「見る」(videre)と言うのである.トマスはこれを知性認識作用にも用いて,「知性認識する」 (intelligere)を「見る」という5).それ故,知性か神を認識,洞察することを「神を見る」(visio Dei)と言う6).そしてかかる意味で「見る」ことかできるのは,被造的知性すべて(人間,天使 の知性)に共通する. . 〔3〕次に「把握する」(comprehendere)の意味について述べよう.或るものを「把握する」 とは可認識的(cognoscibile)であるまさしくその限りを尽して認識される完全な認識を言う.例 えば「三角形の三つの内角の和は二直角である」という命題を,単に知者かそう言っているからと いって信ずる(credere)のではなくて,またそう臆測するのでもなくて,論証によって受容する ・ことである.この限りにおいてこの命題は「把握された」と言うことかできよう7’. 「把握する」(comprehendere)に対して「認識する」(cognoscere)という言葉かある.これ は最も広い意味において「認識する」ことを意味する.感覚的認識,知性的認識を問わず,更に不 完全な仕方による認識であってもよい.それゆえ「把握する」.は「認識する」の一部に含まれる. 〔4〕「神は認識されうるか」と問う時の「認識」は知性による認識,つまりintelligereを意 味する.そして「知性認識をすること」(inteliigere)は:「見ること」(videre)であった〔2〕. それ故,「神は認識されうるか」は「神は見られうるか」と言い換えることができる. そこで次に,「神は認識さ(見ら)れうるか」の考察に進もう.結論から述べよう.トマスは神 の本質を,どんな被造的知性も,自らの自然本性的な能力によっては見ることは不可能であると断 言する8’.以下その理由を見ていこう.認識は,認識対象か認識主体において何らかの仕方で存在
2ろ する時に成立する.ところで認識対象(cogniturh)は認識主体(cognoscens)の自然本性的な様 態に従って存在する.それ故両者の存在様態(modus essendi)が異なれば,認識が成立しないこ とになる9’.まさに被造的知性・(認識主体)が神の本質(認識対象)を見ることが不可能であるの はこの理由に基づく, 〔5〕我々はこの事態を詳しく見るために,被造物と神の存在様態の考察をなそう. 個体的質料において存在する事物(i .e物体的事物)は,その本性(natura)を質料において 保持する10) 非質料的実体即ち知性的実体(i .e天使)は質料を持たない.知性である本性(natura)のみ が自存(subsistere)している. しかしその存在(esse)は自らのものではなく,神から受けてい ることは上の物体的事物の場合に共通する11)
それに対して,神は創造主(creator)として自存する.自らの存在(suum esse subsistens)であ
る12) さて人間は物体と天使の間に存在している.人間は魂を質料(肉体)の中に有する.それゆえ人 間の魂は二つの認識能力を有する.一つは肉体的器官の現実態である感覚である.その能力は,事 物を個体的質料の中に存在する限りにおいて認識する.感覚は個別的なものしか認識できない13)・ もう一つの認識能力は知性である.これは諸本性(naturae)を認識することができる.しかし 認識される諸本性(naturae)は個体的質料においてでなければ存在(esse)を有しないものであ る.個体的質料に存在を有する本性(natura)は感覚を通じて知性によって質料から抽象される限 りにおいて認識される.これが事物の普遍的認識である1o・ 他方知性的実体(i .e天使)の知性は個体的質料に本性を有しないところの自存する本性を認 識することができる.そしてこの能力は人間の魂の本性的能力を超えている15)
ところが,自存する自らの存在(suum esse subsistens)である神を認識することは人間は勿論
のこと天使-すべての被造的知性一一にニとってもその本性にかなわない.神を認識することは被 造的知性の自然本性的な能力を超えているのである.それは被造的知性が分有された存在(esse) を有するにすぎず,自存する自らの存在(Snum esse subsistens)とは本性的に異っているからで ある.それゆえ神を認識することが,その本性にかなっているのはただ神のみである16)・ それゆえ先に述べた〔4〕結論に至る,つまり,被造的知性は自らの持つ自然本性的能力をもっ てしては神の本質を見ることはできない. 〔6〕それでは被造的知性は神の本質を見ることは全く不可能であろうか.トマスは言う.「可 能である」と.先に被造的知性は自然本性的な認識能力をもってしては神の本質を見ることは不可 能であると結論されたのに,今度は「可能である」とは一体如何なることであろうか.次にその可 能性の根拠から見ていこう.結論を先に述べよう.自然本性的能力のままでは不可能であるが,恩 寵ないし栄光の光のもとでは可能である. さてこれを順次に見ていくことにしよう.先述の如く,神は自存する自らの存在(suum esse subsistens)である.これを別の側から見れば,可能態を全く含まない純粋現実態(actus purus) である.ものは現実態に従って認識可能であるゆえ神はそれ自体としては最高度に認識されうるも のでなくてはならない.では何故被造的知性にとって神は見られないのであろうか.トマスは視覚 と比較する.太陽はそれ自体として最高度に可視的であるか,こうもりの目には過度の光のゆえに 却って可視的とはならないように,入間も原罪によって,本性的に知性か弱められているので,神 の過度の可知性のゆえに,・神の本質を見ることはできないのである11)しかしだからといって,見 る可能性を全く否定するものではない.
トマスは神自体に即した考察から人間の側に立った考察へと転ずる.そして人間の存在の有様を 見,そこから可能性を肯定するのである.以下それを見よう. 人間の至福(beatitudo)は知性の働きの内に成り立つものであるから,もし神の本質を知性か 見ることができなければ,人間は至福になれないか,或は至福は神以外において成り立つことにな る. これは信仰に反する.また理性的被造物(rationalis creatura)の究極的完成はその存在の根 源に到達する限りにおいて見出される.その存在の根源は神である.そこに到達できなければ人間 は完成されたものとはならない.また人間は結果から原因を認識したいという欲求が自然本性的に 備わっている.もし第一原因である神に到達できないならば自然本性(natura)の欲求は空しくな る.これは理性に反するlai トマスはこのようにして,信仰と理性の側から見神の可能性を拓く.これは人間の側からの神の 認識の可能性の傍証とも言うべきものであるか,これはKantの実践理性の要請による証明を想わ せる. このようにして,被造的知性の「至福なる者」(beatus)のvisio Dei の可能性が拓かれるの である. 〔7〕さて先〔5〕において,被造的知性は自然本性的能力をもってしては神の本質を見ること は出来ないと結論された.ところが上では〔6〕「見るととができる」と結論された. この一見矛 盾する2つの結論はいかなる関係にあるのだろうか.我々は既に「恩寵」と「栄光」によると結論 を先取りした〔6〕が,以下,これを詳しく考察しな肘ればならない. そこで「見る」(videre, visio)の成立条件を考察しよう.既述の如く〔2〕「見る」は感覚的 認識と知性的認識に共用されたそれらの働きを言う.「見る」が現実的となるためには,条件を要 する.すなわち何らかの仕方で事物そのもの(res ipsa).か見る者(videns)の内に在らねばなら ないという条件である.物体的な事物は本性を質料の中に持って存在している. これか視覚によっ て見られる時には質料を伴った本質がそのまま目の中に取り込まれるのではなくて,その事物の似 姿(similitudo)が視覚に取り込まれそれによって認識か成立するのであるII) 〔8〕では神を「見る」(videre)する時は一体どんな仕方によるのであろうか.神の似姿(si-militudo)によってであろうか.いや必ずしもそうではない.端的に言うなら,神を見る者の側に は神の似姿は必要である.しかし見られる神の側からは決して被造的な似姿(similitudo creata) を通じては見られ得ない20) 見られる側における似姿(similtudo)とは何であろうか.それは丁度石を見る時,石そのもので はないか,石の形相,似姿か視覚に取り込まれなくてはならない.そのような似姿を称して見られ る側における似姿という.神の場合その本質を表象している被造的な似姿は存在しない.なぜなら (1)神は単純であって存在と本質の区別はない.そのようなものを表わす被造的形象は無いからで ある.また(2)神は最高度に完全である.ところで上位に在るものを下位の似姿でもって,その本 質を見ることは不可能である.したがって神を受ける下位の似姿は存在し得ない. (3)神の本質は 無限である.しかし被造的形象は有限である.それゆえ神の本質を受ける形象は無い.以上の三つ の理由から神を完全に表わす被造的似姿(similitudo creata)はないと言わねばならない21) 〔9〕次に「見る者」の側における「神の似姿」とは何であろうか.被造的知性は自然本性的な ままでは神を見ることはできない.しかし何らかの仕方によって知性か高かめられて神を見るにふ さわしいものになる時にはじめて神を見ることができる.この神を見るにふさわしい迄に高かめら
25 れた知性を「神の似姿」(similitudo Dei)と言う22) ところで被造的知性を高かめるものは「恩寵」(gratia)の光か「栄光」(gloria)の光である. そして根源的知性(i .e.神の知性)を分有する被造的知性はこれらの光をより多く受けることに よって,より「神の形姿」(deiform)となる.これは即ち被造的知性の強化である. ここから先述した結論〔7〕に至る.すなわち,被造的知性は自然本性のままでは神を見ること はできない.しかし神の恩寵の光や栄光の光を受け高かめられることによって神を見ることができ る.それゆえ神の本質を見る可能性はすべての被造的知性に保証されていることになる. 〔10〕J21上から次のことが帰結する.思寵或は栄光の光をより多く持てば持つ程,被造的知性は 神の本質をより完全に見ることかできる.そしてより完全に見ることかできる者程より至福なる者 (beatus)である. ではより多く栄光或は恩寵の光を受ける者は,いかなる者としてあらわれるのであろうか.それ は,神をより愛する者,としてあらわれる. より多くの愛がある所にはより多くの欲求がある.欲求 は欲求する者に欲求の対象を享受するにふさわしい準備を与える.例えば神を愛する者は自らを浄 く保つ.そして神の恩寵の光を待ち望む.それゆえ神をより完全に見る事が可能となる.そしてよ り至福なる者となりうる231 神を見る者達の間で,より完全に見る者とより不完全に見る者とか居る.これはいかなることで あろうか.ここに神の本質を見る者は,神の本質を把握しているのではないということが明らかと なる.神の本質は無限である.それゆえいかなる被造的知性も神を把握することはできない.各被 造的知性は神から与えられた知性の言わば大きさにしたがって神を見るのである.丁度大洋に立っ て,器でその水を汲む時,より大きな器を持つ者はより多くの水を,より小さな器を持つ者はより 少ない水を汲むようなものである. 〔11〕最後に結論を述べよう.被造的知性にとって「至福」はvisio Deiである.しかし自然 本性的な状態のままではvisio Dei に達することはできない.恩寵や栄光の光を必要とする.と ころですべての被造物はその光を受容する可能性を有している.゛それは神に対する「愛」として表
われ,この愛の程度によりvisio Dei の現実化に差違が生じる.だがvisio Dei が現実化される
としても,把握する( (comprehendere)という仕方では不可能で,認識する(cognoscere)とい
う仕方で現実化することかできるのみである.
1 ) Hegel, Samtliche Werke 17 S. 48(グロックナー版),「哲学史序説」
2 ) Aristoteles, Mela夕りsica, A, 2, 982b9―10; Sumnta theologiaeでは,第1部第2問∼第11問に おいて「神は神自らに関する限りにおいてどんなふうにあるか」の考察か行なわれ,その次に(q。12)「我
々は神をいかなる仕方で認識するか」か考察される(I, 12, pr.)
3)例えばConfessiones10巻における「記憶論」や£)e trinitate.
4)Surmnatheologiae(以下Sumvia theologiaeを省く)I, 83, 4, c. Namintelligere importat ● ● 噸 ● ● ●I ● ●● ● ● ● ●● ` ● simplicem acceptionem al・lCUlUS rei : unde intelligi dicuntur propne pnncipia, quae sine coUatione per seipsa cognoscuntur. Ratiocinari autem proprie est devenire ex uno in cognitionem alterius ; unde proprie de conclusionibus ratiocinamur, quae ex principis innotescunt.
5)1, 12, 2, c. Respondeo dicendum quod ad visionem, tam sensibilem quam intellectualem, duo requiruntur.
6) I, 12, 1, Ad primum sic proceditur. Videtur quod nu1】usintellectus creatus possit Deum per essentiam videre.
7) I, 12, 7, c. Ad cuius evidentiam, sciendum est quod illud comprehenditur quod perfecte cognoscitur. Perfecte autem cognoscitur, quod tantum cognoscitur, quantum est cognos・ cibile. Unde si id quod est cognoscibile per scientiam demonstrativam, opinione teneatur ex aliqua ratione probabili concepta, non comprehenditur. Puta, si hoc quod est triangulum
habere tres angulos aeqales duobus rectis, aliquis sciat per demonstrationem, comprehendit Ⅲud: si vero aliquis eius opinionem accipiat probabiliter, per hoc quod a sapientibus vel pluribus ita dicitur non comprehendet ipsum, quia non pertingit ad ilium perfectum modum cognitionis, quo cognoscibilis eSt。
8)1, 12, 4, c. Respondeo dicendum quod impossibile est quod aliquis intellectus creatus per sua natura】ia essentiam Dei videat.
9)Ibid. Cognitio enitn contingit secundum quod cognitum est in cognoscente. Cognitum autem est in cognoscente secundum modum cognoscentis. Unde cuiuslibet cognoscentis cognitio est secundum modum suae naturae. Si igitur modus essendi alicuius rei cognitae excedat modum naturae cognoscentis, oportet quod cognitio illius rei sit supra naturam ilHus cognoscentis. 。
10) Ibid. Quaedam enim sunt, quorum natura non habet esse nisi in hac materia individuali : ’ethuiusmodi sunt omnia corporaria.
11)Ibid. Quaedam vero sunt, quorum naturae sunt per se subsistentes, non in materia aliqua, quae tamen not! sunt suum esse, sed sunt esse habentes : et huiusmodi sunt substantiae incorporeae, quas angelos dicimus.
12)Ibid. Solius autem Dei proprius modus essendi est, ut sit suum esse subsistens.
13)Ibid. Ea igitur quae non habent esse nisi in materia individua】i, cognoscere est nobis connaturale : eo quod anima nostra, per quam cognoscimus, est forma alicuius materiae. Quae tamen habet duas virtutes cognoscitivas. Unam, quae est actus alicuius corporei organi. Et huic connaturale est cognoscere res secundum quod sunt in materia individuali: unde sensus non cognoscit nisi singularia.
14)Ibid. Alia vero virtus cognoscitiva eius est intellectus, qui non est actus alicuius organi corporalis. Unde per intellectum connatura】e est nobis cognoscere naturas, Quae quidem non habent esse nisi in materia individual!'; non tamen secundum quod sunt in materia indivi- duali, sed secundum quod abstrahuntur ah ea per considerationem intellectus. Unde secu- ndum intellectum possums cognoscere huiusmodi res in universali ; quod est supra facultatem sensus. 。
15)Ibid. Intellectui autem angelico connaturale‘est cognoscere naturas non in materia exis・ tentes. ‘
16)乃id. Re'inquitur ergo quod cognoscere ipsu巾 esse subsistens, sit supra facultatem naturalem cuiuslibet intellectus creati : quia nulla crcatura est suum esse, sed habet esse participatum.
17) I. 12. 1. c. Respondeo dicendum quod, cum unumquodque sit cognoscibile secundum quod est in actu, Deus, qui est actus purus absque omni permixtione potentiae quantum in se est, maxime cognoscibilis est. Sed quod est maxime c【jgnoscibilein se, alicui intel】ectui cognoscible non est, propter excessum intelligibilis supura inte】lectum : sicut sol, qui est maxime visibilis, videri non potest a vespertilione。propter excessum】uminis. Hoc igitur attendentes, quidam posuerunt quod nu】lusintellecfus creatus essentiam Dei videre potest・ 18)乃id. Sed hoc inconvenienter dicitur. Cum einm ultima hominis beatiudo in altissima eius operatione consistat, quae est operatio intellectus, si nunquam essentiam Dei videre potest intellectus creatus ve】numquam beatitudinem obtinebit, vel in alio eius beatitudo consistet quam in Deo. Quod est alienum a fide. In ipso enim est u】timaperfectio rationalis creatu- rae, quod est ei principium essendi : intantum enirn ur!umquodque perfectum est, inquantm ad suum principium attingit. - Similiter etiam esl praeter rationem. Inest enim homini naturale desiderium cognoscendi causam, cum intuetur efTectum ; et ex hoc admiratio in homini naturale desiderium cognoscendi causam, cum intuetur effectum ;et ex hoc admiratio in hominibus consurget. Si igitur intellectus rationalis creaturae pertingere non possit ad primam causam rerum. remanebit inane desider・ium naturae.
19) I. 12.2. c. Et in rebus quidem corpora】ibus, apparet quod res‘visanon potest esse in vidente per suam essentiam, sed solum per suam similitudinem : sicut similitudo Iapidis est in oculo, per quam fit visio in actu, non autem ipsa substantia lapidis.
20)Ibid,Sedex parte visae rei, quam necesse est alio modo uniri videnti, per nuUam simili- tudinem creatam.
21)Ibid, ヽ’
22) Ibid. Requiritur ergo ad videndum Deum aliqua Dei sitnilifudoex parte visivae potentiae, Qua scilicet intellectus sit efFicax ad videndum Deum. ‘
23) I. 12. 6. c. quia ubi est maior caritas, ibi est maius desiderium ;et desiderium quodammodo facit desiderantem aptum et paratum ad susceptionem desiderati. Unde qui plus habebit de caritate, perfectius Deum videbit, et beatior erit。
‥ (昭和56年9月25日受理) (昭和57年2月13日発行)