谷崎潤一郎全集逸文紹介 ; 3
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(2) (70) 云 ふ のは、 方 言 で はな く て 一種 の階 級 語 な のであ る。. 言 葉 と し て の美 し さ が あ る。 然 る に ﹁遊 ば せ言葉 ﹂ と. ろが あ る にはあ る が 、 聞 き 馴 れ て見 る と 皆 そ れぞ れ に. と 云 ふや う な方 言 に は、 野 卑 な と ころ や おど け たと こ. た や う に脚 ふ。 月 随 驚 ヽ 熊 植 驚 ヽ 搬 藪 魔 ヽ 腱 田驚 、 な ど. 人、 令 嬢 、 小間遣 ひなど が 使 つてゐ る のを 聞 いてゐ て. う と 思 つても 員 似 られ な いが 、 た ま たま 山 の手 の夫. な り は しな いか。私 な ん か は下 町 の町 人 の子 で具 似 よ. す と し た らど う な るだ ら う。 結 局 面 倒 で詳 し切 れ なく. にあ る貴 族 の婦 人 た ち の會 話 を、 ﹁遊ば せ言 葉 ﹂ で評. も 、 少 し話 が込 み入 る と矢 張 り 云 ひ難 さ う であ る。 そ. し て 自 然 な、 す らす らと し た、 な だ ら かな 感 じ が な. い。 さ う かと云 つて決 し て上 品 な 氣 も 起 らな い。 妙 に. るば か り で 言 葉 と し て の事 J さ が な い。 第 一完 全 な. が 、 ど う考 へても ﹁遊 ば せ言葉 ﹂ に は愛 な イ ヤ味 が あ. て置 く 方 が よ いし、 李 民 も そ れ を 學 ぶ べき であ る。. でも 下 町 の 町家 の 娘 でも 、 女 學 校 へ通 ひ出 す と い つ. の生徒 た ち は大概 これ を使 ふや う であ る。 貧 乏 人 の娘. な ら、 さ し て氣 にな る問題 で はな いが、 近 頃 の女學 校. 尤 も 此 れが 員 に上流 の家 庭 でば か り 使 はれ て ゐ る. 冷 た い、 わざ と ら し い心持 ちが す るば かり であ る。. ﹁遊 ば せ言 葉 ﹂ で細 か い事 柄 を 一か ら 十 ま で 述 べよ う. の間 にか ﹁遊ば せ言葉 ﹂ を覺 え込 ん で、 學 校 内 で は勿. 論 のこと、 友 達 の同 士 の間 でも 、 自 分 の家 へ婦 つて来. 遊 ば せ﹂ と 云 ふ代 り に ﹁お出 でな さ いま し﹂ と 云 つた. す ﹂ と 云 ふや う にな つて は厄介 至極 であ る。 ﹁お出 で. が、 ﹁私 は女學 生 生活 を し たも の です ﹂ と 云 ふ 一つの. 親 た ちも あ る。 ﹁遊ば せ言 葉 ﹂ を 器 用 に使 ひ得 る こと. にな つた、 これも 女學 校 へ行 つた お蔭 だ と喜 ん でゐ る. ても ﹁遊 ば せ﹂ が 出 る。 中 に は娘 の言 葉 づ か ひが 丁寧. ら そ れ で澤 山 で はな いか。 若 し西洋 の戯 曲 や 小 読 な ど. も の で ござ いま す か ら、 何 々 遊 ば し た ので ござ いま. た と へば ﹁何 々遊 ば し ま し た らば 、 何 々遊 ば しま し た. とす る と非 常 に云 ひ廻 しが億 劫 で耳鯛 り が 悪 く な る。. み てみ も ヽ 配 ヽ 寺贋蹴味 協 の手 し 味 若 くはメ郡が藤が中を雅 ふ ご 織の符 肛なのである。縛ぽ慨も懺縫語 はすところの一 だから、貴族趣味だから悪いと一 概にケナスのではな み みで る らばま ︲ 柄し い。卦贋蹴味 でもそれがいい蹴味 あな 保. 谷崎潤一郎全集逸文紹介 3.
(3) 見えにさ へな つてしま つてゐる。此 の工合だと女子教 報が響灘するL亀つて、 ﹁ 運ばせ議熟﹂はいよいよ凱 延するかも知れな い。. あ ら う。 思 ふ に女學 校 の先 生 た ち は、 ﹁遊 ば せ言 葉 ﹂. を 以 て祀 儀 作 法 の 一つと考 へ、 自 分 等 も 使 ひ、 學 生 た. ち にも 使 は せ る や う にす る のであ ら う が、 こんな イ ヤ. な 、 時勢 おく れ の ﹁お上 品趣 味 ﹂ は 一日も 早 く 止 めた. ば使 はな い言葉を使 ふ。だから日本 の小諭中に出て来. だ つたら ﹁ 存じませんわ﹂とか、 ﹁ 知らなく つてよ﹂ とか、 ﹁ あたし知らな いわ﹂とか、 兎 に角女でなけれ. 舘 に要 ず 像 場でも ﹁アイヽ ド ント、 ノー﹂生 rふ。 、辞群 輸 r 漁ひかダ 鳥ふo薯札 がヽ 卜村 では対標 のみが中. の云ひ廻しが同じである。 ﹁ 私 は知らな い﹂と云ふ場. 滑 稽 であ り哀 れ な氣 持 ちが す る こと さ へあ る。. が 主 人 に 、 ﹁遊 ば せ言葉 ﹂ を使 つてゐ る のを 展 々見受. 學 校 ば かり でなく、 山 の手 趣 味 の家 庭 で は、 さ した. 方 が い い。. る會話は そ れ が男 の言葉だか女 の百葉 だ か、 一見し 多 て藤ちに外る。雌れは酔村許 の牡黙があ つてヽ短れ靴. 西洋 の 言葉 には 人稗代名詞に性 の匠別は あるけれ ど、男が 口で話す言葉 と、 女が 口で話す言葉 と はそ. 光. な いほど不自然にな つては、沙汰 の限りである。殊 に じ し 競時係 の思 離 の戦 にぃき んとするだ製獣たちがヽ却配 じ ゐ ど 運ば せ証難﹂をほ ふぷ肇が何 慮に 時係 の遺夕 である ﹁. ﹁サ ンデ ー毎 日﹂ 昭和 七年 十 二月 十 一日号. 軽卒 に騒ぎ立 てることを戒 む﹄. 2。N女性 の自覺﹄何物ぞ. いと思 ふ。. が 、 同 時 にも つと のんび り と、 自 由 に、 快 活 にあ り た. 教 養 のあ る女性 の言葉 は優 雅 であ つて欲 し いも のだ. け る が、 これ な ぞ は最も 不愉 快 であ る。 不愉 快 以 上 に. る 大 家 でも な い のに、妻 が 夫 に、 子 が 親 た ち に、 女中. 江. らしい優 しい言葉を使 ふのは非常に結構なことではあ ど す るが、そ のほしさも属度配日 である。はしさが過ぎて 許酔下客 になり、伊きいきとした外射ヽ膵藤〆雅 はせ. 細. (71).
(4) (72) 谷崎潤一郎全集逸文紹介 3. ﹁サ ンデ ー毎 日﹂ で は、 昭 和 四年 八月 十 一日号 か ら、 コ 恥上 裁 判 ﹂ と いう シリ ーズ を連載 し て いて、 昭 和 四年 八月 十 八 日号 の ﹁誌 上 裁 判 ﹂ 第 二回 ﹁カ フ エー は撲 滅 す べき か﹂ にも 、 谷 崎 は ﹁陪審 員 ﹂ と し て意 見 を述 べ て いる。 ただ し、 これ は記 者 と の対 談 の形 にな って いる の で、今 回、 翻 刻 は 見 合 せた。 ﹁ 女 性 の自 覚 ﹄ 何 物 ぞ ﹄は、同 じ 璽 恥上 裁 判 ﹂ シリ ーズ の 一つ ﹁結 偽 らざ る世 評 に 婚 解 消 問 題 裁 か る ゝ男 性 ﹂ の中 の ﹁ 聴 く ﹂ と いう 項 の冒 頭 に掲 載 さ れ たも のであ る。 こ の ﹁ 結 婚 解 消 問 題 ﹂ と いう の は、 新 婚 初 夜 に新 郎 が 過 去 に性 病 に罹 って いた事 を告 白 し た所 、 新 婦 が 直 ち に結 婚 を解 消 し て、 披 露 宴 出 席 者 に結 婚 解 消 の挨 拶 状 を 送 った事 が 、 ジ ャー ナリズ ムに大 き く取 上げ ら れ て話 題 にな った事 件 であ る。 谷 崎 の他 に、 文 学 関 係 で は、 武 者 小 路 実 篤 oさ さき ふさ o千 葉 亀 雄 ・倉 田百 三 ・柳 原 俸 子 ・長 谷 川 時 雨 ・長 谷 川 如 是 閑 ・直 木 三十 五が 、 意 見 を寄 せ て いる。. ﹃女 性 の 自 覺 ﹄ 何 物 ぞ. 軽 卒 に騒 ざ 立 てる こと を戒 む. 谷 崎 潤 一耶. 結 婚 初 夜 の出 来 事 など そ の営 事 者 以 外 に は誰 も わ か. るも ので はな い。 わ からな い のに門 外 か ら かれ これ と. 批 評 す るな んて大き な見営 違 ひ で はな いか。 私 の身 邊. に ついても 同様 わ から な いで世 間 にさ わが れ た た め甚. だ 迷 惑 し た こと が 少 く な い。 だ か ら新 婚 営 夜 の夫 婦 だ. け が 知 つてゐ る事 件 に ついて知 ら な い他 人 が 批評 す る. こと はさ し ひか へた方 が よ ろし い。 ◇. 女 の父 が 公表 し た のは相 手 方 に迷 惑 を かけ ると いふ. こと は考 へてゐ な いで軍純 な通 知 状 に よ り ﹁娘 は虎 女. 性 を失 つてゐな いから良 縁 が あ つた ら ど こ へ で も ゆ. く ﹂ と 知 人 に知 ら せただ け であ るが 、 親 のな さけ が 過. ぎ た た め、世 の男 達 は ﹁そ んな に冷 静 な女 性 で は⋮ ⋮﹂.
(5) と おそ れ を抱 く こと にな り は し な いだ らう かP. ﹁娘 が 投げ た 一石 で世 の男 子 達 は少 し品行 を つゝし. てしま ふだらう。それを女性 の自覺と か向上と か いつ. 事件 を、 た ゞ新聞紙上 の出来ごとと して間も なく忘れ. を高 めたわけ で稗費 に債すると、 よろこぶ人があ つた ら、少 々物 を知らなさ過ぎ る。世 の多く の女 は今 回 の. む だ ら う﹂ など と甘 く男 を 考 へる のは間 違 ひだ 。男 性. て騒ぐ のは間違 つてはゐな いかP. ◇. は た ゞ 一つの話 題 を提 供 さ れ た と いふ程 度 であ らう 。. ら れ た ら勇 敢 に出 し たら い ゝで はな いか。 も し ﹁病 氣. 格 も知 らな い、それ に結婚営夜 の出来事を知 るよしも. と にかく私 は女 の不素 の行動も知らな いし、男 の性. ◇. だ から 断 る﹂ と い つたら ﹁さ う です か﹂ と ア ツサリ手. も し勇 敢 な女 性 から結婚 のた め に健康 診 断書 を要 求 せ. を ひ いたら よ ろ し い。. も知らな いで是非 してはならな いと思 ふ。. ど ちらが 正しいか 決 めるわけ には ゆ かな な いのに、 い。また世間 の人もそ んなに個人 のや つた ことを内容. 長 岡 學 士︶ が も し性 病 を 秘 して無 理 に結 婚 し よ 男 ︵. ◇. う と し たな ら本 人 に責 任 も あ るが 、男 女 間 の問 題 を た. 無 題︶ 3 。歌 ︵. 男 に封 す る婚 約 破 棄 のガ ツ チ リ し たや り方 は、蒻 き 地. 女 ︵ 静 子 さ ん︶ が 投げ た性 病 も しく は童 貞 を失 つた. う同じ題 で、直木 三十五 ・タゴー ル o長谷 川如是閑 o. 売 新聞﹂ の ﹁文芸﹂欄 には、 ﹁ 自 己より社会 へ﹂ と い. この前後、 ﹁ 谷崎 の肉筆 を写真版 で載 せたも の。 読. ﹁読売新聞﹂昭和 八年 五月 二十日朝刊 ︵ 四︶面 ﹁文芸﹂欄. 位 にあ る我 國 の女 性 に大 き な衝 激 を興 へ、 女 性 の位 置. ◇. こと は遠 慮 す べき であ る 。. か ら結 婚 営 夜 の様 子 を知 らず に想 像 を たく ま しうす る. ゞそ れ だ け で片 づ け ると い ふ の は軽卒 で はな いか。だ. 江. 光 細. (73).
(6) (74) 谷崎潤一郎全集逸文紹介 3. 菊 池寛 な ど 著 名 人 の肉筆 写 真 が 連 載 され て いた。 こ の歌 は、 ﹃春 琴抄 ﹄ 執 筆 を 兼 ね て、 こ の年 四 月 に、 松 子 と京 都 嵯 峨 近 辺 に遊 んだ 時 の作 と推 定 さ れ る。 文 壇 や社 会 の動 き に左 右 され る事 な く 、 我 が 道 を行 く と いう 宣 言 をも 含 んだ 、 自 信 に温 れ た歌 であ る。 花 押 は ﹁順 一﹂ で、 コロロ物 五出 の 弥 市 を 気 取 った も のであ ス リ。 な お、 谷 崎 の歌 の 隣 に は、 偶 々江 戸 川乱 歩 の 随 筆 ﹃探 偵 小 説 と潟 泄 ︵ 上と が 掲 載 さ れ て いた ので、乱 歩 ち な み に 乱 歩 の ﹃探 偵 小 説 四 十年 ﹄ に言 及 が あ る。 は、 昭和 十年 十 二月 の ﹃幻 影 の城 主﹄ で、 谷 崎 に ﹁う ば たま の夜 のまぼ ろ し夢 な らば 昼 見 し影 を何 と いふ ら む ﹂ と いう半 切 の歌 を書 いて貰 って、 床 の間 に掛 け て いる と書 いて いた。 ﹃谷 崎 潤 一郎 家 集﹄ の歌 ﹁うば 玉 の夜 の幻 か夢 な ら は昼 見 るも のを 何 と いはま し﹂ の原 作 か改 作 であ ろ う かP. 4 。コ ロ 葉 ﹄. 家庭と 七︶面 ﹁ ﹁大阪毎 日新聞﹂昭和九年 三月 八日 ︵ 学芸﹂欄. 緑 文中 に、引用され た吉井勇 の句 は、喜多村 緑樹 ︵. 万太郎︶共編 の句楽会 の句集 ﹃も 郎︶ o久保 田傘 雨 ︵. 定本吉井勇全集﹄ ず のに へ﹄ の冬 の部所収 のも ので、﹃. マンボ ウは 第 八巻 ﹁雑纂﹂ の 部 に 収録され て いる。. 九︶に出 て来 る。谷崎 は、﹃卍﹄執筆当 ﹃細 雪﹄ 下巻 ︵.
(7) 光 細 江 ( 75 ). 美 食 家 であ る せ いも あ ろうが 、 こ の頃 、佐 助 の様 に下. 就 中 、 最 後 の所 で魚 の違 いを 言 って いる のは、 谷 崎 が. の違 いに注 意 す る事 も多 く な って行 った のであ ろう 。. と の関 係 が 深 ま る に つれ て、 日 々 の生 活 の中 で、 言葉. 時 から、 関 西 の言 葉 に関 心 を抱 いて いた訳 だが 、 松 子. い京 阪 の言 葉 を思 ひ出 す ま ゝに 二三拾 つて み る。. と を カ タ スと も い ふ。 だ が 此方 で は 云 はな いと 見 わ て、 カ タ スと 云 つたら謝 しまれ た。今 、 東 京 で通 じ な. ウと は何 の こと かと 聞 かれ た。東 京 で は カ タヅ ケ ルこ. 奴 は薪 ザ ツポ ウ のやう な奴 だ﹂ と 云 つた ら、 薪 ザ ツポ. が 此 方 の人 に通 じ な い こと も あ る。或 る時 私 は、 ﹁彼. ド ウ ラ クーー 道 柴 と 云 つたら、東 京 で は放 蕩 の意 味. 男 と し て松 子 に仕 え ようと し て いた事 から、 こ の方 面 に谷 崎 の 注 意 が 向 いた ので はな いか、 と も 考 え ら れ. か、 本 業 以 外 の余 技 の意 味 に解 す る。大 阪 でも さ う 云. んノヽ 東 京 にも輸 入 さ れ、 一般 に使用 され な いま でも. エゲ ツ ナイ、 ヤ ヽコシイ等 の開 西語 が だ ケ ツタイ、. ゾ ロツペ イ も 亦 大 阪 人 に は通 じな いであ ら う 。 筒 つい. つであ る。 そ し てド ウ ラ クが 東京 人 に通 じ な い如 く 、. を異 にす る 二個 の方 言 が び つたり該営 す る稀 な 例 の 一. O。 Z. ふ意 味 が あ る こと はあ るが 、 し か し ﹁ド ウ ラ クな﹂ と. 云 ふ風 に形 容 詞 的 に使 ふと、 ゾ ンザ イ なと か、 グ ラ シ. のな いと か 云 ふ意 味 にな る。 これ は東 京 人 に は紹 封 に. 意 味 だ け は理解 さ れ るやう にな つた今 日、 も はや互 に. でなが ら、 大 阪 で は放 蕩 の意 味 の道業 に は極 道 と 云 ふ. 准 〓 特 だ r4. 通 じ な い言 葉 な ど はな いやう に思 はれ るが 、案 外 さ う. 通 じ な い。と ころ で、東 京 にゾ ロツペイと 云 ふ言葉 が あ る、 これ が 大 阪 のド ウ ラ クに完 全 にあ て はま る。 土 地. でなく 、 日常 茶 飯 の簡 軍 な こと で、 と き ハヽ 私 に此 方 の人 の云 ふ こと が 分 ら な い 場 合 が あ る。 叉私 の 言葉. 語 を使 ふ のが 普 通 のや う だ が 、 これ は 東 京 に も 通 じ る。吉 井 勇 の句 に 曰く 、 ﹁ 極 道 に 生 れ て 河 豚 のう ま さ. 葉.
(8) (76) 谷崎潤一郎全集逸文紹介 3. く て員 似 が し にく い。. ヒ ロウ スーー ガ ン モド キ の義 であ る。大 阪 で ガ ン モ. か な﹂ と 。 ジ ユンサイー ー これ はど う書 く のか、 植 物 の尊 楽 の. ド キと 云 へば 知 つてゐ る人が な いでも な いが 、 東 京 で. も の、 つま リ ガ ード のや う な所 を 云 ふ ので ﹁マンプ 越. ンブ ー或 は マンボ ーと 云 ふ。 ト ンネ ルの短 か いや う な. マンプ ーーー これ も京 都 だ が 、 田合 の方 へ行 く と マ. ユツタ ンボ と 云 ふから、 開 西 一帯 の方 言 であ ら う か。. が 、京 都 で使 ふ。 ヌカ ルミ の こと であ る。 長 崎 でも ジ. ジ ユク タ ンボー ー これ は大 阪 で は聞 いた ことが な い. と書 いてあ つた やう に記 憶 す る。. ヒ ロウ スは全 く通 じ な い。昔 の料 理 の本 に は ヒ レウ ス. 字 を営 て る のか、 よく 知 ら な い。 好 い加 減 な と か出 鱈 、み t 目 な と か云 ふ意 味 ら し い。 ド ウ ラ ク の方 は語 源 が 分 る が 、 こ の語 は何 に由 来 す る のか、 私 に は見営 が付 かな い。 以 上 二 つと も 、 私 は賞 に最 近 に至 つて使 用 法 を 知 つた のであ る。 ト ウ ライーー 人 に よ り 所 に よ つ て トウ ライ と も 云 今 日 は トウ ライ寒 う ござ り ま す ﹂ など と挨 拶 さ ふ。 ﹁ 云 ふ字 を営 て る のか、 ジ ュンサイ よ りも 更 に 分 ら な. ゆ るれば 山 科 や﹂ と 云 ふ唄 さ へあ ると か。 言 海 を見 る. れ る ので、 早 く か ら 此 の語 は耳 に ついてゐ たが 、 ど う い。甚 だ と か、 非 常 にと か云 ふ意 味 であ ら う と推 量 さ. ︶と 云 ふ和蘭 語 だ とあ る。 さす れば 矢 張 り と 〓 ︰ u8 ν. オ ンビ キーー ヒキ ガ エル、 も し く は ガ マの こと であ. あ る。 そ れ ら は名 が 違 つてゐ る場 合 と 、魚 そ のも のが. シ、 ヨ コワ等魚類 の名 で は東 京 に通 じ な いも のが 澤 山. アブ ラ メ、 ハマチ、 サゴ そ の外 、 ハツ、 ウ ヲゼ、. にだ け 残 つてゐ る外 来 語 であ る のが 面 白 い。. 長 崎 あ た り から侍 は つた のかも 知 れ な いが 、 京 都 附 近. れ る。 、 由 来 の遠 い古. ホ タ エルー ー 犬 や 猫 が ジ ヤ ン ル 時 に 使 ふ 動 詞 であ る。 これ は萬 葉 の歌 な ど にもあ る か ら. る。 大 阪 人 は オ ンビ キ の ンに力 を 入 れ て、﹁ウ ー﹂と 鼻. な い場 合 と あ る。 例 を拳 げ た ら まだ ノヽ 幾 ら も あ る筈. 語 であ る こと は確 かだ が 、 東 京 で は全 く 聞 か な い。. 晋す る。東 京 人 に は中 々むづ か し の奥 で呻 るや う に嚢 一.
(9) 江. 光 細 ( 77 ). だ が 、 今 ち よ つと 思 ひ 出 せ な い のが 残 念 で あ る 。. 5 。﹃身 邊 雑 事 ﹄ ﹁サ ンデ ー毎 日﹂ 昭 和 十年 六月 十 日夏 季 特 別 号第 十 四 年 第 二十 九 号. に こ の頃 から谷 崎 の内 に芽 生 え始 めて いた事 を 示 し て. 後 述 す る ﹁トリ オ座 談 会 ﹂ も こ の いる から であ る。 ︵. 問題 に関 連 す る。︶ こ の発 言が 、 書 き 悩 んだ 末 中 絶 に. 終 った ﹃聞 書 抄 ﹄ の苦 労話 や前年 二月 二十 四 日 に 四十. 四歳 で世 を去 った歴史 小 説 作 家 直 木 三十 五 に対 す る賞. 賛 と も 羨 望 と も つか な い言 及 と 共 にあ る事 は、 誠 に意. 味 深 い。 何 故 な ら こ こから は、 谷崎 が 、 ﹃聞 書 抄 ﹄ の. か ら、 そ の少 し前 であ ると推 定 さ れ る。 ﹃谷 崎 潤 一郎. ﹃淡 泊 仮 屋 漫筆 ︵3︶ ﹄ で こ の文 章 に言 及 し て いる事. 吉 井 勇 が 昭 和 十年 六月 三 日 の ﹁報 知新 聞 ﹂ に掲載 し た. る。谷 崎 が 、 こ の後 、 十年 あ ま り歴史 小 説 を断 念 し、. な お歴 史 小 説 に 未 練 を 残 し て いた 事 が 分 る から であ. 一旦終 止 符 を打 と う と 心 に決 めた事 、 し か し、 み に、. ﹃盲 目物 語 ﹄ ﹃武 州 公 秘 話 ﹄ と 続 け てき た歴 史 小 説 の試. 挫 折 を機 会 に、 昭 和 二年 の ﹃顕現﹄ 以 来 、 ﹃乱 菊 物 語 ﹄. 文 庫 月 報 9﹄ の ﹁﹁伝 記 谷 崎 潤 一郎 ﹂拾 遺 ︵五と で、. ﹃細 雪﹄ の準 備 に入 り、 ﹃ 細 雪 ﹄ 完 成後 、 す ぐ に ﹃少 将. こ の夏 季 特 別 号 の実 際 の発売 日 は六月 十 日 で はなく. 野 村 尚 吾 氏 は、 ﹃身 辺 雑 事 ﹄ は幽 霊 作 品 であ ると 断 じ. 滋 幹 の母 ﹄ で再 び 歴 史 小 説 に挑 戦す ると いう道 筋 が 、. 既 に こ の 一文 の中 に窺 われ る のであ る。. て いた のだ が 、 氏 の見 落 しだ った 訳 であ る。 こ の随筆 は、松 子 と 正式 に結 婚 して間 も な い頃 の谷 崎 の生 活 実 態 が 窺 わ れ ると いう意 味 でも興 味 深 い文 章 今 ﹂れ から は現 代 も であ るが 、 そ れ 以 上 に、 谷崎 が 、 ︾ と 言 って いる ので 阪 神 地方 の有 閑 階 級 を書 き た い。 事 が 、 注 目 に値 す る。 これ は、 ﹃細 雪 ﹄ の構 想 が 、 既.
(10) (78) 谷崎潤一郎全集逸文紹介 3. 早 く 起き て仕事 は朝 のう ち にす ま せた い。 まづ 午 前 中. に は原稿 を書 いて し ま ひ、午 後 は午 睡 をす ると か、 讀. 年 を と つた せゐ と 、 家 庭 の人 にな つた せゐ かも 知 れ な. ると 目 が かす ん で書 く こと も讀 む こと も だ め にな る。. ち かご ろ原 稿 を書 く のが ど う も 心 苦 し い。深 夜 にな. いけ な い、 だ か ら食 物 に好 き 嫌 ひ は 一切 いはな い。 朝. ほど ほしく な い。 こと に、 も のを書 く に は美 食 し て は. いも のが 好 き だ つた、 いま でも 一週 一度 は食 べ るが さ. も のを書 くと き 食 事 に は用 心す る。 む か し は脂 つこ. 事. い。 私 の知 つてゐ る人 で、 ず ゐ ぶ ん煩 は し い家 庭 生 活. は味 噌汁 と 漬物 、 書 食 は ぬき にし て、 あ ま り杢 腹 だ と. 雑. を な し、 子供 を愛 し な が ら 立 派 に創 作 を つ ゞけ る人が. ト ー スト に林檎 く ら ゐ です ま せ、 夕食 だ け は自 分 の好. 邊. 少 く な い、 自 分 は これ ま で家 庭 に慣 れ な いせゐ か、 獨. き なも のを ゆ つく り食 べ る。 そ れ も、 べ つに注 文 はな. 身. の んび りと 自 分 の 時 間 を た のし み た 書 を す ると か、. 身 で身 軽 だ つた こ ろ は時 間 の考 へな し に書 け たが 、 結. い、家内 の つく つたも ので満 足 し てゐ る。 酒 は自 分 だ. い。. 婚 し て から は食 事 だ の、 入 浴 だ のと い ろノヽ 習 慣 が ち. け では飲 ま な いが 人 と い つし よな ら多 少 飲 む 。 上 山 草. 谷 崎 潤 一郎. が つて来 た た め夜 おそ く ま で創 作 に専 念 す る よう な氣. 人 あ た りと 會 つた ら 三合 く ら ゐ 飲 む。草 人 は酒 好 き だ. ◇. 分 が 少 く な つた。. む か し は夜 おそ く ま で起 き た か はり に朝 十 時 よ り早 く. べ つにお肴 の心配 も なく 、 あ りあ はせ のも ので話 し な. ゐ 飲 む。 そ こで 二人 で 五合 く ら ゐ と いふ こと にな る。. が 細 君が や かま しく て飲 ま せ てく れ な い ので 二合 く ら. 起 き る こと はまれ であ つたが 、 いま は七 時 、 おそ く と. が ら飲 む のが 二人 にと つて はた のし いこと であ る。. こ のご ろ は執 筆 す る の に早 朝 でな く て は いけ な い。. も 八時 ま で に は必ず 床 を はなれ る。 これ か ら はも つと.
(11) 光 江 細. (79 ). け に はゆ かな い ので困 る。 な んと かし て局 面 を打 開 し. ど 、 時 代 も のはあ ま り資 料 が かさ高 い ので旅 へ出 るわ. き つま ると 氣 分 を か へる た め に轄 地 し た ら よ い け れ. 庭 にゐ ると書 け な い ので ほ か に家 を借 り て書 いた。 ゆ. 新 聞 で ﹁聞 書 抄 ﹂ を連 載 し てゐ た時 に は、 ど う も家. 研 究 し た り家 庭 でも 大 阪 語 ば か り で十 分 わ か つてゐ る から業 であ る。. で阪 紳 地方 の有 閑 階 級 を書 き た い。用 語 な ど は落 語 で. べ た り、 書 き 方 に苦 努 を し たが 、 これ から は現 代 も の. 最 近 の創 作 は時 代 も のを書 いてゐた ので、 資 料 を調. 書 く のも 十枚 書 く のも 同 じ よう な苦 心 であ る。創 作 す. た ゞき た い⋮ ⋮﹂ と 頼 まれ るが 、自 分 にと つて は 一枚. き めてゐ る。 〓 枚 でも よ ろし いからぜ ひ執 筆 し て い. す る。 そ こ で執筆 中 に はな る べく 面會 を しな い こと に. に こび り ついてゐ る から結 局 はず ゐ ぶ ん時 間 のむ だ を. る。用 事 は 五分 でも 、 面 會 前 後 の印 象 など 、 なが く 頭. 面 會 を申 込 む の に ﹁五分 で結 構 です ﹂ と いふ人 が あ. そ んな場合 は 閉 口す 必要 な手紙 は 書 かねば ならぬ、 ア υ。. に専 心してゐ ると手紙 一本も書き たくな い、と い つて. 減 かいま の自分 には想像も つかな いこと であ る。創作. た いと 思 つて横 濱 市鶴 見 に住 ん でゐ る上 山 草 人 の家 に. る時 に は、 こんな煩 はし い こと から な る べく 遠 ざ かり. ◇. 行 つた 。 そ の時 はな る べく 書 物 を持 つてゆ く ま いと 思. た い、 と 思 ふ。. ◇. つたが 、 そ れ でも 、 騨 員 は書 物 の多 い のにび つく り し. し た苦 努 が あ る か ら苦 し い。 そ こ へな ると 直 木 三十 五. り書 け ず じ ま ひ で大 阪 へ帰 つて来 た。 時 代 も のは かう. や られ ると、 な んだ か妹 な氣 持 にな つて筆 はす ゝまな. のに は苦 しむ 。 こと に坐 り こまれ て、 火 の つく よう に. 新 聞 でも 雑 誌 でも 、 原 稿 が おく れ る ので催 促 さ れ る. ◇. 氏 な ど は、 いく ら 大 衆 文 藝 だ と 銘 う っても 、 新 聞 や雑. い。と い つて原 稿 が 遅 れ てゐ る のに捨 てて お かれ 、 な. た ほど だ 。 そ んな に苦 努 し てさ て行 つて見 ると や つば. 誌 に 三 つも 四 つも 書 いてゐ た のだ から偉 い、 年 齢 の加.
(12) ( 80) 谷崎潤一郎全集逸文紹介 3. ん の 音沙 汰 のな い のも 薄 氣 味 が 悪 いも のであ る。 自 分 の知 つてゐ る人 で中 央 公論 の瀧 田樗 陰 氏 など は 賞 に原 稿 請 求 の達 人 であ つた。 人 力 車 でや つて来 る、 家 に 入 つても 座 敷 に通 るわ け でも なく 、 ち よ つと書 だ け か け て お いて婦 つて し ま つた。す ると 私 は妙 にす ら. 6 。コ 近 畿 景 観 ﹄ と 私 ﹄. 十 三︶ 面 ﹁大 阪 毎 日新聞 ﹂ 昭 和 十 一年 四月 二十 一日 ︵. 元 社 昭 和 十 一年 三月 十 五 日発 行 ︶ の紹 介 宣伝 文 であ. 創 北 尾錬 之 助 の著 書 ﹃近畿 景 観 第 六編 近 江 山城 ﹄ ︵. Л童日 ﹂一 憫 ﹁一. で は な か つた ら し い。 夏 目 漱 石先 生 のと こ ろ へ揮 宅 を. る。 以 前 、 永 栄啓 伸 氏 が ﹃谷崎 潤 一郎 ︱資 料 と動 向 ﹄. ノヽ と 原 稿 が 書 け た。 瀧 田氏 の書 か せ上 手 は原 稿 だ け. 頼 み に行 く と 、 傍 にす わ り、 た んね ん に墨 を す り なが. 昭 和 十 五年 十 月発 行 ︶の 行 ︶ と ﹃同 第 八編 若 狭 紀 行 ﹄ ︵. こ の 文 章 を 縮 め たも の の中 で紹 介 され た 推 薦 文 は、. 昭和 他 、 ﹃同第 二編 大 和 河 内 ﹄ の改 訂版 ﹃聖蹟 大和 ﹄ ︵. ら 雑 談 す る。 夏 目 さ ん はど う し ても 書 かねば な ら な い. な ん でも な いよう だ が 、 原 稿 を集 め た り、 物 を書 か. 十 五年 二月発行 ︶ や ﹃同第 五編 京 都 散 歩 ﹄ の 改 訂版. よう に な つて、 何 枚 でも 瀧 田氏 の いふ通 り に書 いたさ. せ た り す る に は こ つが あ るも のであ る。 固 々し いと こ. 昭 和 十 五年 十 一月︶ な ど にも載 せられ ﹃新 京 都 散 歩﹄ ︵. 昭和 十 四年 十 二月 発 で、 ﹃近畿 景観第 七編 丹 波 但 馬﹄ ︵. ろが な く て、 た ゞな んと な く 氣 分 を ひき た て てく れ る. う であ る。. 人 に遇 つた ら か へつて原 稿 は よく書 け る。 つま り人 徳. て いる。. 北 尾錬 之 助 と 言 えば 、 昭 和 十 二年 十 二月 に、 創 元社. によ る のだ ら う と 思 ふ。 ︻ 終︼. 潤 一郎 六部 集 ﹂ の ﹃吉 野 葛﹄ で写 真 か ら 刊 行 され た ﹁. を 担 当 し て いる事 が 思 い出 され る。興 味 深 い事 に、 谷.
(13) が 竹 生 島 を訪 間 し た のは、 同 書 同章 に よれば 、 十 一月. ︾ と いう 一節 があ る。 北 尾 錬 之 助 常 に興 味 を惹 いた。. れ て、 最 近 に吉 野 へ行 つて同 じ も のを み て来 た ので非. 谷 崎 潤 一郎 氏 から小 説 ﹁吉 野 葛 ﹂ の写真 の こと を頼 ま. 、 は吉 野 の菜 摘 の里 の大 谷 家 にも あ つた。鼓 胴 の方 は. の ﹁初 音 の鼓 ﹂ に関 連 し て、 ︽同 じやう な ﹁初 音 の鼓 ﹂. の ﹁竹 生 島 ﹂ の章 に は、 宝厳 寺 の宝物 館 にあ る静 御 前. 崎 が こ こで紹 介 し て いる ﹃近 畿 景 観第 六編 近 江 山 城 ﹄. に至 って、 ﹃聞 書 抄 ﹄ を挿 絵 も なく 普 及版 にし て出 し. が 完 成 でき な い為 も あ って中 断 し、 昭 和 十 八年 十 二月. 真 入 り で同年 十 二月 に出 た後 、 恐 らく ﹃武州 公秘 話 ﹄. に、 ﹃吉 野 葛﹄ が 樋 口富 麻 呂 の挿 絵 、 北 尾錬 之助 の写. に、 ﹃盲 目物語 ﹄ が 安 田靭 彦 の挿 絵 で昭和 十 二年 二月. も 、 ﹃蓼 喰 ふ虫 ﹄ が 小 出 楢 重 の挿 絵 で昭和 十 一年 六月. 、 いる。 も っとも 、 谷 崎 の和 歌 は結 局 添 え られず 出 版. 添 へて、 傑 作 を永 久 に留 む 可き豪 華 版 ︾ と説 明 され て. 、 一冊 と し て 一流 画 家 の挿 画 を 加 へ 著 者自筆 の和 歌 を. た際 に、 時 局 に鑑 み て 六部 集 は中 止 す る旨 を宣 言 し て 終 った。. コ ロ野 葛 ﹄ の写 真 の事 であ る から、 昭 和 十年 の秋 に、 、 を 撮 り に行 ったと推 定 でき る。 即 ち、 六部 集 の企 画 或 いは少 なく と も 写 真 入 り の ﹃吉 野葛 ﹄ を出 版 す ると. ﹁ 近畿 景 観﹄ と 私 ﹄は、 谷 崎 が 自 ら の文 学 と 風 土 の 、 関 係 を告 白 し たも のと し て、 短 文 なが ら 大 いに注 目. いう 計 画 は、 昭 和 十年 夏 ま で に出来 て いた事 が 分 る の であ る。 谷 崎 が 、 珍 しく 他 人 の本 の提 灯 持 ちを引 き 受. に値 す るも のであ る。何 故 な ら、 本 文中 に言 及 され た. け た のも 、 版 元 の創 元社 、 著 者 の北尾錬 之 助 が 。 六部 集 の出 版 に関 わ って いた から であ る. ち な み に、 こ の ﹃第 六編 近 江 山城﹄ 巻 末 の ﹁創 元社. え て、 ﹃顕現 ﹄ ﹃乱 菊 物 語 ﹄ コ ロ野 葛 ﹄ ﹃春 琴 抄﹄ ﹃猫 と. ﹃少 将 滋 幹 の母 ﹄ など も含 め て、 関 西移 住後 の谷 崎 の. 細雪﹄ 庄 造 と 二人 のを んな﹄、 そ れ に こ の後 書 かれ る ﹃. 、 、 て、 ︽蓼食 ふ虫 、 盲 目物 語 、 吉 野葛 武 州 公秘 話 春. 関 西 各 地 の 風土 を 巧 み に 利 用 す る事 作 品 の多 く は、 琴 抄 、 聞 書 抄 、 右 六種 の傑 作 を谷崎氏 自 ら選 し. 、 各篇. 出 版 書 目抄 ﹂ に は、 ﹃潤 一郎 六部集﹄ の広 告 も 出 て い. ﹃薦 刈 ﹄﹃盲 目物 語 ﹄ ﹃聞 書 抄 ﹄ ﹃卍 ﹄ ﹃蓼 喰 ふ虫 ﹄ に加. 、共 に. 江. 光 細. (81).
(14) ( 82) 谷崎潤一郎全集逸文紹介 3. 月 号 ︶で、中 里 介 山 の ﹃大 菩 薩 峠 ﹄ を取 上 げ た時 にも、. だ から 谷 崎 は、 ﹃饒 舌 録 ﹄ 第 一回 ︵ ﹁ 改 造 ﹂ 昭 和 二年 二. 心 は、 常 に谷 崎 の念 頭 か ら 離 れ な か った の であ ろう 。. 始 め て以 来 、 関 西 の風 土 を モチ ー フと し た創 作 への野. 恐 ら く 、 大 正 十 四年 に ﹃友 田と松 永 の話 ﹄ を構 想 し. 取 材 し ようと し て失 敗 し た作 品 であ るが 、 ﹃乱 菊物 語 ﹄. さ れ る。 ﹁をぐ り﹂ と ﹁清 姫 ﹂ は、 共 に有 名 な伝 説 に. の ﹁清 姫 の帯﹂ のく だ り を惜 し ん で いた事 も思 い合 わ. 書 く 考 え はこ の頃 からあ った のであ ろう 。﹃大 菩薩 峠﹄. 六年 春 に道成寺 へ花 見 に行 って いる から、 ﹁ 清姫 ﹂ を. ﹁ 桜 襲 ﹂ 翁椅松 庵 の夢 ﹄ 所 収 ︶ に よれば 、 谷崎 は昭和. 言 って、 長 い間 構 想 を練 って いたと 言 う 。松 子夫 人 の. ︽京 都 か ら 大 和 紀 州 地方 を 舞 台 にし たあ た り、 ︱︱ 特. も後 編 で、 ﹁ 播 州 皿屋 敷 ﹂ のお菊 を出 そ うと し て失敗. で、 事 実 、 成 功 を収 め て いる か ら であ る。. に ﹁清 姫 の帯 ﹂ のく だ り な ど 、 折 角 い ゝ背 景 を使 ひな. し た。 ︵ 注 こ の点 に ついて は、 平 成 三年 十月 二十 五. 風 土 と密 着 した伝 説 を作 中 に取 り込 む 事 に いか に熱 心. も 失 敗 に終 って いる。 昭 和 六年 前後 を中 心 に、 谷 崎 が. 野 葛 ﹄ によれば 、 吉 野 の自 天 王 の伝 説 に取 材 し た小説. 物 語 ﹄ の典拠 に ついて﹄ と 題 し て 口頭 発 表 し た。︶﹃吉. 日 の日本 近代文 学会 秋 季 大 会 で、 ﹃谷 崎 潤 一郎 ﹃乱菊. が ら、 も う 少 し繊 細 に書 いてく れ た らば と 、 柳 か惜 し いやう な 気 が す る。 ︾ と 語 って いた のであ る。 谷 崎 は、 こ の他 にも 、 実 際 に は書 かず に終 ったが 、 風 土 を 活 か し た 作 品 の 構 想 を幾 つか 持 って いた ら し い。 例 え ば 、 昭 和 六年 八月 十 日付 け嶋 中 雄 作 宛 書 簡 の 中 で、 谷 崎 は、今 を ぐ り﹂ と 云 ふ百 枚 前 後 の物 を計 画. であ った かが分 ると 共 に、 既 成 の伝 説 を取 入れ る事 の. 困 難 か ら、 それ ら の殆 ど が 失 敗 に終 った経緯 も ま た、. 中 です 、 これ は小 栗 判 官 の事 を書 く つも り で秋 にな つ た ら熊 野 地方 へ行 つて実 地 を 調 べ て から取 り か ゝり ま. な お、 話 は余 談 にわ た るが 、 谷 崎 の死後 に残 され た. これ ら の事 実 から分 る の であ る。. し、平 山 城 児 氏 の ﹃考 証 ﹃吉 野 葛 L 所 収 ﹁樋 口富 麻 呂. 創 作 メ モに出 てく る ﹁ミゾ ロチ ミ子 ﹂ と いう名 は、美. 水 上 勉 ﹃谷 崎 先 生 の書 簡 ﹄ 所 収 ︶ と 語 って いる す︾ ︵. の談 話 ﹂ に よれ ば 、 谷 崎 は、 ﹁清 姫 ﹂ の こと を書 く と.
(15) = 魁魅 胆 魃 ︶ と 契 る小 女 に変 じ た みぞ ろが 池 の大 蛇 ︵ 栗 判官 の エピ ソ ード に、 ま た ﹁三条﹂ 姓 は小 栗 の父 三 条 の大 臣 兼 家 に、 ﹁甘 栗 ﹂ 姓 は小栗 に基づ く も のと 思 尾形 ﹂姓 の登 場 人 物 われ る。 ま た、 同 じ メ モに出 る ﹁. ﹃近 畿 景 観 ﹄ と 私. 谷 崎 潤 一郎. 私 は旅 行 は好き な方 だ が し か しあ んま り遠 走 りをす. ○. る こと は好 かな い。紹 えず 未 見 の土 地 を求 めて、 ま ん. これ によ り て姓 をば 尾 方 とぞ 申 しけ る︾ と書 かれ た大. た ち は、 ﹃延 慶 本 平家 物 語 ﹄ に ︽背 に蛇 の形 あ りけ り、. 蛇 の神 裔 緒 方 三郎 の伝 承 を念 頭 に置 いて構 想 さ れ たも. べ んなく方 々を見 て廻 ると いふ こと も 、 一つの方 法 で. はあ るけ れど も、 私 はそ れ よ りも 、 可へん氣 に入 つた. のであ ろう 。 こ の創作 メ モに、 関 伽 子 ・水 分 o真 名 井. て考 え ると 、 こ の作 品 は、 谷 崎 の他 の作 品 にも しば し. 土 地が 出 来 たら、 そ の同 じ 土 地 へ何 度 も行 つてみ て、. o采 女 な ど 、 水 と 関 係 す る名 前 が散見 す る事 を も併 せ. ば 登 場 す る、 水 と 蛇 と 女 を重 要 な モチ ー フと す るも の. そ のたび ご と に、 そ こか ら何 か新 し い嚢 見 をす る こと. 廣 く 、 洩 く ﹂ よ りも ﹁ 狭 く、委 し を楽 しむ。 つま り ﹁. から死 ま で の四十年 間 、 意 外 に根強 く 生き 続 け て いた. 小栗 判官 への関 心 は、 ﹃日本 に於 け る クリ ツプ ン事 件 ﹄. のと考 え ら れ る。 勿 論 、 推 測 の域 は出 な いが 、 谷 崎 の. 官 への関 心 が 、 大 正末 期 にま で遡れ る事 を 示唆 す るも. も古 典 に周 す るも の︱︱ そ れが甚 だ 私 の詩魂 を動 か. らく 日本 の風景 のう ち でも 最 も 日本 的 な るも の、 最. も 西 は播 州 あ た り から東 は江州 あ た り ま で、︱︱ 恐. と 、 大證 にお いて近 畿 地方 から中 國 地方︱︱ わけ て. そ んな ら私 の ﹁氣 に入 つた土 地﹂ と は何 虎 かと いふ. く ﹂ 味 はふ方 の旅 を喜 ぶ 。. と考 え ら れ る の であ る。. に於 け る ク リ ツプ ン事 件 ﹄ にも 見 られ 、 谷 崎 の小 栗 判. な お、 小 栗 と 尾 形 と いう 人 名 の組合 わ せ は、 ﹃日本. 江. と な る筈 だ った よう に思 われ る。. 光 細. (83).
(16) (84) 谷崎潤一郎全集逸文紹介 3. 瀬 田 の唐 橋 に ついてす ら、 随 分 細 密 な観 察 を途げ 、. 瀬田 唐 橋 の景 色 を見 る に は夏 の夕 ぐ れが い ゝと いひ ﹁. そ の古 典 的 な景 観 に近 代 性 を興 へてゐ る。 これ はた. の夕 照 ﹂ L は夏 の日没 時 の美 観 の こと だ と委 しく読 い. も 、 あ れ か ら 東 は、青 森 ま で 一度 、 仙 台 ま で 一度 、. ゞ に こ の 一部 分ば か り で はな い、 こ の書 の全翌 が 、. す のであ る。従 つて私 は、 そ の他 の地方 に は め つた. 行 つた こと が あ るき り で、 北 海 道 へは渡 つた こと が. す べ て かう いふ近 代 味 と 懐 古 味 と 科 學 的精 緻 と文 學. て ゐ るが. な い。 西 も 、 別 府 と 長 崎 と を 知 つてゐ るだ け で、 他. 的 潤 澤 と の、 微妙 な 組 み合 は せをも つて成 り立 つて. に興味 も 覺 え な いし、 行 つて み よ う とも 思 はな い。. の九州 の市 邑 は何 虎 も 知 ら な い。 富 士 や ア ルプ ス の. ゛ヽ 用 事 のた め に 東 京 ま で は 行 く け れ ど 私 は とき ノ. 山 々にも 、 一つも 登 ら な い のであ る。. 書 はさ う い ふ私 に取 つて、 賞 に打 つて附 け の好 著 な の. と ころ で、 北 尾 さ ん の ﹁近 畿 景 観 ﹂ であ るが 、 こ の. を勤 め るが、 旅が し たく て出 来 な い者 にも 、組 好 の. と にな り、旅 に出 よう と す る者 に はよき 参 考書 の役. 書 は紀 行 文學 にし て名 所 案 内 や史蹟 案 内 を かね る こ. ゐ ると 云 へる。 そ し て かう 云 ふ書 き 方 の故 に、 此 の. であ る。 なぜ か と い つて、 こ の書 の著 者 は、 私 の大 好. 件 侶 と な る のであ る。. ○. き な 近畿 地 方 を 、 や はり私 のよう な流 義 で︱︱ 一つの. であ る。風 景 に封 す る北 尾 さ ん の注 意 が よく行 屈 いて. 低 徊 し、 懐 古 し、 詠 嘆 し、 観 察 し、 描 篤 し てゐ る か ら. かも 私 など よ り は遥 か に丹念 に、 精 密 に︱︱ 踏 査 し、. と いふ こと を寸 時 も 忘 れ な い。今 の瀬 田 の唐 橋 におけ. ころ から、 いかな る天 地 の物 象 に封 し ても 、光 の効 果. る篤員 藝術 家 であ り、 常 に キ ヤ メラを携 帯 し てゐ ると. 北 尾 さ ん は有 敷 な る旅 行 家 であ ると 同 時 に、有 名 な. ○. ゐ る 一例 を拳 げ る な ら、 今 度 出 た第 六篇 近 江 山 城 の巷. る斜 陽 にし ても 、賞 にさ う い ふ心が け から来 た観察 の. と こ ろ へ何 度 も 何 度 も 足 を 運 ぶと い ふ やり方 で︱ ︱ し. の ﹁石 山と 瀬 田川 ﹂ の項 に お いて、 北 尾 さ ん は瀬 田 の.
(17) 光 江 細. (85). 向 け 水 や、 杢 や、 雲 や、 雪 や、 霧 や、 日光 やが 、時 々. 景 を見 ると 、著 者 は紹 えず 敏 感 な注意 を氣象 の憂 化 に. し てゐ る のであ る 。 たと へば 巷 頭 の ﹁湖國 早 春 ﹂ の叙. 結 果 であ つて、 そ れ が ま た、 こ の書 の 一つの特 長 を 成. 雄 にあ れ ほど の興 味 は抱 かな か つた かも 知 れ な い。 ま た亘椋 池 や、 大 淀 の流 れ や、 水 無 瀬 の風光 にあく. られ た のでな か つた ら、 恐 らく こ の 二人 の美 女 や英. 加 茂 の河 原 で 首 を刻 ね 佐 和 山 の 城 主 と な り、 て、. ま た 〓一 成 が 伊 吹 山 の麓 で 生 れ だ のでな か つたら、. 刻 々 に湖 面 の相 貌 を推 移 さ せ る有 様 を、鮮 や か に篤 し. が れ を持 つてゐ な か つた ら、 お遊 さ ん のよう な女 の. 幻 影 も 、 大和物 語 の連 想 も 、浮 か ん で来 な か つた に. 近 畿 地方 に 封 す る私 の 違 ひな い。 そ んな 次 第 で、. 取 つてゐ る のであ るが 、著 者 のよう な篤具 藝術 家 でな 。 け れば 、 な かノヽ あ ゝま で は行 き かね ると思 ふ さ う し てさ う いふ著 者 の長 所 は、 たまノヽ 近 江 と いふ よう. 執 拗 な偏 愛 は、歴 史 物 は勿 論 の こと 、 ﹁ま んじ﹂ や. ﹁蓼 喰 ふ虫 ﹂以後 の現 代 物 の舞 台 にま で影響 を及ぼ. な水 郷 の風物 を封 象 と す る場 合 に、頗 る活 燿 す る ので あ る。. 北 尾錬 之 助 氏著 、 四 六版 四 二〇 ペ ージ、 篤具 十 八葉. し てゐ る のであ る。︱︱ ﹁近 畿 景 観 ﹂ 本 祗 篤 具 部 長. ○ 、 余 談 なが ら、 歴 史 に、文 學 に、 地 理 に、美 術 に 甚. 入、定 債 二円、大 阪 西匠 靭 上 通 創 元祗. ︽谷 崎 氏 談 谷 崎潤 一郎 氏 を 阪神 沿 線 住吉 村 反 高 林 の. 一︶ 面. 十 ︵イ︶ ﹁大 阪毎 日新 聞 ﹂ 昭和 十 二年 六月 二十 二日 ︵. 談 話︶ 7 。無 題 ︵. だ趣 味 の廣 汎 な著 者 は、 私 の小論 の愛讀 者 でも あ る 盲 目物 語 や、 聞書 抄 等 の こと 声 刈 や、 と 見 え て、 を、 そ れ に関 係 のあ る土 地 々 々の項 で言 及 し てを ら れ るが 、 正直 のと こ ろ、 私が あ れ ら の作 品 を書 いた 、 のは、矢 張 あ ゝ いふ土 地 に封 す る愛 着 が 一つの重 、 要 な力 と な つて ゐ たと 思 ふ。 たと へば 私 は も し淀 君 が 小 谷 で生 れ て、 淀 の城 の主と な り、 大 阪 で死 ん.
(18) (86 ) 谷崎潤一郎全集逸文紹介 3. 新 た に創 設 さ れ る 事 にな った帝 国 芸 術 院 の会 員 に推. 然内 容 も 知 らさず に地方 長官 の異 動 のよう な電 文 を よ. 々東 京 へ引 出 さ れ る よう な こと が あ つて は困 る し、 全. し て早 速 断 つた わけ です 、 僕 は大 阪 にゐ る関 係 上、度. 挙 さ れ て、 断 った際 の 談 話 であ る。 松 子 夫 人 の ﹃主. こし て賞 は腹 を 立 ててゐ る よ う な次 第 です. 自 宅 に訪 ね る と語 る︾ と いう前 書 き が あ る。. おも む ろ に語 る の記 ﹄ ∩中 央 公論 ﹂ 昭和 五十 六年 六月. ︵口︶ ﹁東 京朝 日新 聞 ﹂ 昭和 十 二年 六月 二十 三 日 ︵ 十. 号 ︶ に よる と、 十 八 日 に推薦 の電 報 を 受 け取 り、 即 日 辞 退 の電 報 を打 った 。 断 った のは、 各 方 面 の交 際 が 煩. 一︶ 面. 一旦 は拒 絶 し た芸 術 院 入 り を、 翻 意 受 話 した際 の談. 林 の自 宅 で語 る︾ と いう前 書 き が あ る。. 術 院 入 を受 諾 し た谷 崎 潤 一郎 氏 は阪 神 沿 線 住吉 村 反高. ︽谷 崎 氏 受 諾 の弁︾ と いう見 出 しと 、 公 大 阪電 話 ︼ 芸. く な る のを嫌 った事 や 、 詳 し い説 明も な く、 電 報 で即 日返 答 を 迫 った文 部 省 側 の礼 を失 し た 遣 り方 に腹 を 立 て た事 な ど が 主 な 理 由 であ ったが、 政 府 の思 想 統 制 や 御 用 文 学 者 の扱 いを 受 け る事 も 懸 念 し た よう であ る。 談 話 は、 二十 一日夜 、 自 宅 に訪 ね てき た ﹁大 阪毎 日新. 話 であ る。 松 子 夫 人 の ﹃主 おも む ろ に語 る の記 ﹄ によ. ら 具催 的 にわ か ら ぬ の に去 る 十 八 日突 然 ﹁貴 下 を帝 國. 主旨 は大憂 結構 と 思 つてゐ るが 待 遇 報 酬 の貼 など が 何. にも 掲 載 され たが、 何 故 か途 中 を省 略 し てあ る ので、. たも ので、 ﹁大 阪朝 日新 聞 ﹂ 二十 三 日朝 刊 ︵ 十 五︶ 面. 午 後 、 自 宅 に訪 ね てき た ﹁大 阪朝 日新 聞 ﹂記 者 に語 っ. 聞 ﹂記 者 に語 ったも の であ る。. 谷 崎 は こ の時、 ︽友 人 に 泣 き 落 さ れ てと う ノヽ れば 、. 藝 術 院 會 員 に御 推 拳 致 し た し、 是 非 御 承 諾 願 ひた し、. ﹁東 京朝 日新 聞﹂ の方 を取 った。. 受 諾 し た︾ と松 子 に語 った と いう。 談 話 は、 二十 二日. 折 返 し本 日中 に御 返 事 を乞 ふ、 文 部次 官 ﹂ と の電 報 を 受 け た が 何 だ か人 を 馬 鹿 にし た よう な 仕 打 ちだ と憤 慨.
(19) 光 江 細. (87 ). 文 部 名 か ら藝術 院 に入 れ と い ふ交 渉 を藪 か ら棒 に電 報 一本 で云 つて来 た大膿 藝 術 院 はど んなも のか剣 らな い のにま る で私 に命 令 でも す る や うな證 を失 し た官 僚 的. 8。無. ﹁中 央 公論 ﹂ 昭 和 三十年 一月 号 グ ラビ ア. ﹁七 十 の年 輪 中 央 公論 と 同 じ年 に生 れ た谷 崎 潤 一. 郎 氏 ﹂ と題 し たグ ラビ ア の中 に、 無 題 で載 ったも のだ. の文 章 と推 定 さ れ る。 谷崎 は、 結 局 こ の 二年 後 、 昭 和. が、文 末 に ︵ 渥 渡 亭 主人 し るす︶ と あ る事 から、 谷 崎. 校 時 代 同窓 の友 人 大 岡文 部 名 監 修 官 が来 ら れ て藝術 院. 三十 一年 十 二月 八 日 に漏 渡 亭 を引 払 う 訳 だ が 、 や はり. そ の 最 大 の 原 因 だ ったと 思 われ 京 都 の冬 の寒 さが 、. 部名 の諮 間 に答 へたり何 か藝 術 院賞 候 補 者 の詮衡 に営. 會 合 に顔 を 出す 必要 も な いさ うだ し仕事 と い つても 文. は欧 羅 巴人 の故 郷 であ る﹂ と も 云 ふさ う であ る。 そ れ. と 云 ふ言葉 が 彼 の國 に はあ るさ う であ る。 又 ﹁ 佛蘭 西. ︱︱ ラ ・フラ ン ス ・工 ・パ リ。︱︱ ﹁巴 里 は佛 蘭 西 な り﹂. ス υ。. れば そ れ で よ いまあ私 を 表 彰 す る意 味 で入會 さ せる の. と 同 様 の 意 味 で ﹁北京 は 亜細 亜 人 の 故 郷 であ る﹂ と. 年 も 私 は此 の篤真 を撮 ると間 も な く 、 愛 す る古 都 に別. 本 人 の故 郷 であ る﹂ と は云 へさ う な氣 が す る。 が 、 今. 京 都 は日 は、 ち よ つと 云 ひ にく いやうだ け れ ど も 、 ﹁. だ さ う です. 大 岡君 の話 では最 初 顔 つなぎ さ へし て置 けば さ う度 々. 上度 々東 京 に出 て行 く のも 迷 惑 だ と思 つて居 ま し たが. 元来 私 は人前 に出 て喋 べる のが嫌 ひな方 で仕 事 の都 合. た ので、 そ れ な らば と快 く 受 諾す る こと にしま し た、. の目的 や内 容 に ついて詳 しく 説 明 され 入會 を懇請 され. 態 度 に憤 慨 し て 一應 拒 組 し た のです 、 所 が 二十 二日學. 題.
(20) よ い、今 後 は熱 海 にゐ る時 を 一日 でも 多 く 、 京 都 にゐ. 六十 を過 ぎ て か ら此 の土 地 で冬 を過 す のは止 め た方 が. 思 ふ。 而 も 警 師 は、 氣候 に馴 れ な い東 京 生 れ の者 が 、. で故 園 を捨 て て行 かうぞ と 、 自 分 は冬 が 来 る毎 にさ う. の土 地 が も う少 し暖 か でさ へあ つてく れ た ら何 を 好 ん. れ を告 げ て南 國 に寒 を避 け に行 か ねば な ら な い。京 都. て いる 事 実も 忘 れ て はな らな い。. ︾ と発 言 し いだ な と いう 感 じ はち っとも しな か った。. 可へん行 って いや にな った。 き れ き じ ゃな いん です 。. ビ 女 の秘 密 を語 る﹂ で は、 ︽僕 は ゲ イバ ー な ん か 好. 載 さ れ た若 尾 文 子 o岸 田今 日子 と の座 談 会 ﹁卍 の コン. れ る。 ただ し、 昭和 三十九年 九 月 の ﹃婦 人 公 論﹄ に掲. = 若 水 美 登 里 への言 及 など に通 じ るも のと し て注 目さ. 私 の言葉. 崎 潤 一郎 ︵ 作家︶. る時 を 一日 でも 少 くす る や う にと 云 ふ のであ る。 ︵ 滉 渡 亭 主人 し るす︶. 9 .﹃私 の 言 葉 ﹄ ︵談 話 ︶. ﹁週 刊 新潮 ﹂ 昭 和 三十 三年 一月 六 日増 大 号 ︵ 創 刊 百号 記念︶. 問 さ っそく ですが 、 正月 三カ 日は ど う お 過 ご し で す. 衛 星 など への言 及が あ り、 年 老 いてな お、 新 し いも の. ミ ュー ジ ック oホー ルで観 た ″ゲ イ oボ ー イ 〃 や 人 工. いて過 ご します 。 え え、 雑 煮 は、 東 京 の人 間 だ けど 、. お 正 月 はネ、 な ん です 、 毎 年 い つも 三 カ 日 は、 家 に. ?・. への関 心 を失 わ な か った谷 崎 の面 目が窺 わ れ る。 ゲイ ヘの関 心 は、 後 の ﹃嵐 頻 老 人 日記 ﹄ に於 け る若 山 千鳥. 日が 〃 家 族 のも のが 関 西だ か ら、 一日と 二一 関 西風 〃 で、 あ いだ の二日だ け を 〃 東 京 風 〃 にや る。ぼ く自 身. 記 者 の三 つの質 問 に対 す る 谷 崎 の談 話 であ る。 日劇. 谷た. (88) 谷崎潤一郎全集逸文紹介 3.
(21) 光 江 細. (89 ). な いわ けだ が 、 一年 中 ﹁字 を書 け、 字 を書 け ﹂ と いわ. にあ いさ つの往 復 をす る程 度 だ ね。 あ と は大 し て用 は. の 一高 時 代 の同窓 ︶、 元 日 か ら 三 カ日 の中 には、 お互. 防 衛 庁 長 官 ︶ が療 養 に来 て ︵ 寿 一君 ︵ 両 氏 とも 谷 崎 氏. 君 ︵ 学 習 院 大 学 学 長︶ が 来 て いる し、 水 口園 には津 島. 慣 で、 こ の下 の岩 波 別 荘 に、 暮 れ のう ち から安 倍 能 成. ま り こな いね。 ただ、 こ こ四、 五年 く ら い前 か ら の習. 客 は、 正 月 で、 こんな と ころだ か ら、 かえ ってあ ん. 時 分 のこと を思 いだ す も ん で、 懐 し いも んだ か らね。. 理 立 てと いう ことも あ る し、 そ れ に昔 の こと、 子ど も. 京 も 懐 し さ と は別 に、 面 白 いこと はたく さ んあ る ね。. いる と いう じ ゃな いか。 ⋮ ⋮そ う いう 具 合 だ か ら、 東. 一ぺ ん い って み よう と思 って いる。 女 の客 を と られ て. バ ー の方 はまだ 行 った こと な いんだ けど ね、 そ のう ち. たが 、 そ う でも な いね。 わ り に面 白 か った よ。 ゲイ ・. に い った んだ け ど、 さぞ 気 持 が悪 いだ ろ う と思 って い. 日劇 ミ ュージ ック ・ホー ル ヘ、 〃ゲ イ oボ ー イ 〃 を 見. 京 の名 残 り が あ ってね。 こ の前、 東 京 へ行 ったと き 、. った。 む し ろ、 こ こら ︵ 熱 海︶に住 ん で いる 人 に昔 の東. が、 いま の東 京 は、 昔 の名 残 りが 全 く な く な って しま. だ んだ ん 歳 を と ってく ると、 東 京 が 懐 しく は な る. 最 近 の東 京 観 は ?. れ て、 恥ず か しく て仕方 が な いんだ が、 こ の機 会 に、. 〃 関 西風 〃 の方 が 好 き な ん です が、 ま ア、 東 京 への義. よ んど ころな いと ころだ け、 歌 を、 書 き 初 め の つも り. 問 昭 和 三 十 三年 も ″人 工衛星 ″ で明 け る わ け です が 、 ″人 工衛 星 第 一号 打 上げ の ニ ュー ス のと き は 、 ″ ど ん な 印象 を 受 け ら れま した か 。. で書 き ます 。 そ れ と年 賀 状 だ ね 。 近 ご ろ は年 賀 状 は暮. 賀 状 はや っば り年 の始 め に書 く から年 賀 状 な んだ から ね。. 思 わ な か った。 時 期 的 に早く来 たと いう感 じ ⋮ ⋮も ち. な か ったが 、 ま さ か、 生 き て いる う ち に見 ら れ る と は. そ う いう こと はあ ると 思 って いた か らび つく り でも. 問 東 京 を離 れ て、 す でに 三 十 年 以 上 と 、 お 聞 き し て. ろ ん関 心 はも ってる し、 記 事もず いぶ ん読 んだ 。 が、. れ の中 に書 く ら し いが、ぼ く は これ が き ら いでね、 年. いま すが 、 東 京 が 懐 しく は あ り ま せ ん か、 ま た、.
(22) (90) 谷崎潤一郎全集逸文紹介 3. な かなかむず かし いことが多 く て、判 らな いことがあ 〃 時間〃 のこと︱︱ アイ ンシ ュ る んでね⋮⋮とく に、 タイ ンの相対性 原 理が よく判 らな いよ、ど うも。 0 。﹃自 賛 ﹄ ︵ 談 話︶ 1. よう だ ︵ 談︶. 谷 崎 潤 一郎. ※ な お、 今 回翻 刻 は見 合 せ たが、 昭和 二十 三年 九 月 の. 雑 誌 ﹁読 物 時 事 ﹂ に、 渋 沢 秀 雄 o小島 政 二郎 ・高 田保. と の座 談 会 ﹁谷 崎 潤 一郎 を か こむ 座 談 会 観 る話 ・食. べる 話 ﹂ が掲 載 さ れ て いる事 を報告 し て おく 。. 連載 され て いた ﹁ 素顔﹂欄 に、 ﹁不敵 ﹂と題す る匿. 菊 原 琴 治 と の 鼎談 ﹁ト リ オ 座談 会 ﹂ が 掲 載 さ れ て い. 面 ﹁家 庭 と学 芸 ﹂欄 には、 日本 画家 西村 五雲 o地唄 の. ﹁ 朝 日ジ ャーナ ル﹂ 昭和 三十 七年 七月 二十九日号. 出 て い 谷崎 の 大写し の 写真 と重ねて、 名記事 の後、. る。 こ の鼎談 は、 昭和 九年 十 二月 二十 四 日 に京 都 南禅. ま た、 昭和 十年 一月 五 日 の ﹁大 阪毎 日新 聞 ﹂ ︵ 十 一︶. Z O。. 寺 畔 瓢 亭 で行 わ れ たも のであ るが、 そ の中 で、 西村 五. は まず 書 痙 で右 手 が 利 かなく な った 右 脚 も 悪 く て庭. 僕 の齢 で足 も 日も も っと達 者 な 人 も あ るだ ろ う 僕. のも の に五 六年 も か ゝら ねば な ら ぬも のも あ り ます か. 谷 崎 が 、 ︽そ れ は沢 山 あ り ます よ ︵ 中 略 ︶ 中 に は 一つ. が つけ ら れ な いも のが︾あ る か、 と 問 う た の に対 し て、. 雲 が ︽い つか画 か うと思 つても ついそ の暇 が な く て手. を 少 し散 歩 す る程 度 梅 雨 の ころ は よけ い手 足 の痛 み. らな︾ と 答 え て いる のが特 に注 目さ れ る。 こ の時 、 谷. 自賛. が ひど く な る 目も 悪 く な り 本 が 読 めな く て困 って. 崎 の念 頭 にあ った ︽五 六年 も か ゝ︾ る作 品 は、 ﹃源 氏. 物 語 ﹄ の翻 訳 か、後 の ﹃細 雪﹄ にあ たる作 品 か のど ち. いる 痛 み を忘 れ る に は 自 分 の小 説 を書 く のが 一番 い い.
(23) 先 に紹 介 し た ﹃身 辺雑 事 ﹄ 翁 サ ‘ アー毎 日﹂ 昭和 十年. ら か と 考 え られ る か ら であ る。 し かも、ン ﹂の半 年 後 に、 い のであ る。. 創 作 メ モが 書 かれ 始 め て いたと いう 可能 性 も な く はな. 六月 十 日︶ で谷 崎 が、 0 ﹂れ から は 現 代 も ので阪神 地 方 の有 閑 階 級 を書 き た い。 ︾ と言 って いる 事 と 考 え合 わ せ る と、 ﹃細 雪﹄ の構 想 は、昭和 九年 末 に、既 に漠 然 と な が ら、 芽 生 え始 め て いたと考 え た方 が 良 いよう に 思 わ れ る のであ る。 昭和 九年 末 と 言 えば 、 谷 崎 が ﹃源 氏 物 語 ﹄ 翻 訳 の 準 備 に 取 掛 かろ うと し て いた 時 であ り、 ま た 昭和 十年 一月 二十 八 日 に、 森 田松 子 と打 出 の. け れ ども 、 谷 崎 は、 ﹃源 氏 物 語 ﹄ の翻 訳 を引 き 受 け た. 自 宅 で結 婚 式 を挙 げ る直 前 でも あ る。 憶 測 に過 ぎ な い. 時 点 で既 に、 こ の翻 訳 で生 計 を 立 てな が ら、 松 子 や そ. 実 は昭和 十年 頃 か ら既 に、 ﹃細 雪 ﹄ の元 にな る か ら、. く 源 氏 翻 訳 と平 行 し て書 かれ続 け て いた と 推 定 でき る. 和 十 一年 十 一月 か ら 始 ま って いて、 創 作 メ モは、 恐 ら. 昭 和 十 三年 九 月 ま で か か って いる のに、 ﹃細 雪 ﹄ は昭. 源 氏物 語 ﹄ の翻 訳 には、 て いた ので はな いだ ろ う か。 ﹃. 大 作 ﹃細 雪 ﹄ の材 料 を 集 め てや ろ うと いう 目算 を 立 て. の姉 妹 や 阪 神 間 の有 閑 夫 人 たち から、 五 六年 が かり の. 江. 光 細. (91).
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