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「シャ-ロット・ブロンテの生涯」 ; 3

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Academic year: 2021

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(1)『 シャー ロット・ プ ロ ンテの 生 涯』 (3) ギ ャス ケ ル 夫 人 著 和知. 誠之 助. 第. 訳. 6章. お そ らくも うこの あた りで ミス・ ブ ロンテの容姿を す こ し述 べ て もよ い 頃 で あろ う。1831年 には彼女 は15才 に近 く,物 思 いにふ け る静 か な少女 で,大 変小柄 ―一 彼女 自身「発育 の とま った」 とい う言葉を 当 てて いた一― で あ っ たが,そ の手足 や 頭 は細 い虚弱 な体 つ きと均整 が とれてお り,け っ して無格 好 だ とは言 えなか った。 髪 の 毛 は柔 らか くて 濃 い くり色 で,日 は独 特 の もの で,の ち に私 が 出会 った時 のその 目の様子 は描写 しに くいが,そ の 日は大 き く形 も良 く色 は赤 味 を帯 びた茶色 だ った。 しか し眼球 の虹彩 を よ く見 ると非 常 に多 くの違 った色 合 いか らな ってい るよ うだ った。平 素 の表情 は物静 かで 人 の話 に耳 を 傾 け る知性 を 示 して いた が,時 折大 いに興 味 を持 った り正 当な 憤 りを感 じるの が 当然 の よ うな時 は,ま るで 精神 の灯 に火が ともされ たか の よ うに光 が輝 き 出 し,表 情 に富む 目の奥 で き らめ いた 。 この よ うな 目の輝 き を 私 は他 の人 に見 た こ とはない 。彼女 の容貌 の他 の部分 は,み な平凡 で大 き く,並 び具合 が悪 か ったが,そ れ らを一 つ一 つ並 べ上 げな い限 りその こ とは ほ とん ど気 づ かれ ない。 目と表情 の力 がす べ ての 肉体上 の欠点 を補 って余 り あ ったか らで あ る。 曲 った 日元 や 大 きな鼻 は忘れ られ て,顔 全体 が注意 を 引 き,彼 女 自身が関心 を 引 きたい と思 うよ うな人 び とはみな,す ぐに彼女 に 引 きつ け られ た 。彼女 の手足 ほ ど小 さいの は見 た こ とが ない 。 か つ て私 の手 に 彼女 の手 がのせ られ た時 ,ま るで手 の ひ らを小鳥が そ っと触れ たよ うだ った。 き ゃ し ゃな長 い指 は独 特 の繊細 な感覚 を持 って お り,そ のた めに どん な手 仕.

(2) Fシ. イθ. ャー ロット・ ブロンテの生涯』. 事一― 書 いた文字 ,裁 縫 ,編 物 一一 もす べ て非 常 にきっち りと綿密 にな され ていた 。彼女 の服装 はす べ て 目立 って小 ざっぱ り していたが,靴 や手袋 の合 い具合 は とて も気 に していた。 私 が知 り合 った 頃,彼 女 の顔 には昔 の ヴ ェニ ス派 の 肖像画 に見 られ る威厳 が見 られ たが,顔 に威厳 を与 え るま じめな落着 きは,大 人 にな ってか ら身 に つ け たので はな く,母 親 のいない子供 たちの年上 の姉 とな った子供時代 か ら の もので あ る ことは十分想像 が つ く。 しか し,や っと10代 にな ったばか りの い によ ると)「 古風」 だ と 少女 にあ って は,そ の よ うな表情 は (土 地 の言 方 にはま った古 めか し の 言 え よ うoそ して 今取扱 って い る1831年 頃 彼女 は,型 い少女 で ,態 度 は大変物静 か で とて も奇妙 な服 装 を して いた と考 えねばな ら さわ しい とす る父 な い。なぜ な ら,い なか牧 師 の妻 や娘 には簡素 な服 装 がふ 1)の 影 響 を受 け たが,そ の上 に姪 た ちの服装 につ いて お もに任 され 親 の考 え て いた伯母 は,8,9年 前 にペ ンザ ンスを去 って 以来社交界 には ま った く顔 を の ペ ンザ ンスの流行 を まだ心 か ら好 んで いたの 出 した ことはな く,8,9年 前 で あ る。 た この度 は ミス・ に 1831年 の 1月 , シ ャー ロ ッ トはふ たたび学校 送 られ 。 ロ ・ヘ ッ ドに住 んで お 学校 の生徒 として行 った のだが,ウ ラーは ウ. w_2)の. は ー ズか らハ ダー ズ フィール ドに り,そ の気持 の良 い 間数 の多 いいなか家 リ こ し離 れて建 っていた 。地 階3)か ら屋根 まで 通 じる道 の右手 の野原 の 中 にす のガウンを台 な しにした ことに表れているが)」 初版では この次 に「 (色 の長靴や絹 とい う但 し書 きがついている。 ・ とされていたが, ミス・ ウラーが 自分 初版 と第 2版 とには「 ミス ウラー姉妹」. OW一 」 となった。 し の名を出され るのを嫌 ったようで, その後 の版 では「 ミス のことで もあるので か し後 にはそう した気持 もな くなったようである。今は周知 OW一 ・ ウラー」 ミス とする。 ミス・ マー 」でな く「 本訳書 では,以 後は「 ミス においては ガ レッ ト・ ウラー (1792-1885)は 長女で,校 長 で あ り,学 校 の運 営 ロ ッ トは ミ シ ー た。 ンおよびイライザ も姉を助け ャ ン リ キャサ スーザ , 3人 の妹 こ ったが両 い した ともあ 一時仲違 ていたようで , じ に愛着を感 ス・ ウラーに非常 いた 。 者 の交 わ りはその後長 く続 ・ヘ ロ ドの」 とい う語がついている。 ツ ウ に この では 前 「 初版 ,. ,.

(3) ∩ く日目   国○“ ..

(4) イI. ギ ャスケル夫人著・和知誠之助訳. ジの猟 園 で に旧式 な半 円球 の窓が 3段 1)あ り,サ ー・ジ ョー ジ・ア ー ミテ ィ ッ を見下 ろ し あ るカー ク リーズの気持 よい森 まで続 いた牧 草 地 の長 い緑 の斜面 は の て い る。 ロ ウ・ヘ ッ ドとハ ワー ス は20マ イル と離 れ ていな いが ,そ 風景 ロ ・ ヘ ツ ド周 まるで気候が違 うか のよ うにま った く違 ってい る。外来者 は ウ しい軽快 さや 辺 のおだやか に 曲線 を描 き起伏す る風景 に接す ると,高 原 の楽 はま その下 方 の広 い緑 の 喫谷 の 日当た りの よい暖 か さがわか る。 そのあた り. ,. さに修道士 が愛 した所 で あ り,昔 のプ ラ ンタ ジネ ッ ト家. 2)の 時代 の痕 跡が. ,. に見受 け ら 今 日の ウ ェス ト・ ライデ ィ ングの工 場 関係 の もの と並 ん で至 る所 ー ク リーズ れ る。 その あた りには, 日当た りの よい林 間 の空地 が沢 山あ るカ と して い の猟 園が あ り,空 地 には非 常 に古 いいちい の本が点 々と黒 い 陰 を落 ロ ビン・ フ ッ ドが る。か つて「 自称貴婦 人 の館」 だ った灰 色 の建物 もあ る。 の ぐ外 寝 た と言 われ てい る森 の奥深 くには崩 れか けた記念碑 が あ り,猟 園 す 3人 には古 い石 の切 妻造 りの家が あ り,今 は街道沿 いの酒場 にな っていて ,「 の尼僧 」 とい う名 が つ いてお り,そ れ にふ さわ しい絵 の看板 が 出 して あ る。 の この風変 わ りな古 い酒 場 には,近 くの毛糸 工 場 か らや って くる作業着 姿 紡 ハ ー ズ フ ィール 績 工 が常 に 出入 り してい るが ,そ れ らの工 場 は リーズか ら ダ で て い る。 ドに通 じる街道 の あち こち に点在 し,後 にはそ こを 中心 に村 が き この よ うにウ ェス ト・ ライデ ィ ングを横切 って い る大街 道を旅 す る人 び との ン ドの どの地 ン 眼前 には,対 照的 な生活様式 と時代や季節 が現 れ る。 イ グ ラ 0ヘ ッ ドの あ る地域 におけ るほ ど数世紀 の ものが 密 域 を取 って み て も, ロ ウ ス ・ ウ ラーの家か ら 接 に奇妙 に結 び つ け られ てい る所 はな い と思 われ る。 ミ 3)__リ ーズか らや って来 れ ば道 の左手 一一 に現在 で は 〔6マ イル以 内 の所〕 は以前 サ カーデ ィガ ン卿 の所有 にな つて い るハ ウ リー邸 の跡が あ るが,こ れ レ ビル 家 の分家 の ものだ った。 この近 くに レイデ ィ・ ア ンの泉 が あ る。「 イ. 1)初 版では「 2段 」。 2)1154年 か ら1395年 まで続 いたイギ リスの王家。. 3)初 版では「 歩 いて行ける範囲内」。 この訳は第 3版 をもとにしてお り,初 版・第 2 版 と異 なる個所 は 〔 〕 の印をつ けて示 した O以 下同 じ。.

(5) イ2. 『 シャー ロット・ ブロンテの生涯』. デ ィ ・ ア ン」 はその泉 のそ ばにす わ っていた時 ,狼 に噛み つ かれ 食 い殺 され た と言 い伝え られていて,バ ー ス トール や バ ッ トリーの毛織物工場 の あ い染 め職人 が以 前 には復活祭 直前 の 日曜 日に,水 に著 しい薬効 が あ ると してその 泉 によ く出か けた ものだが,そ の 日の 朝 6時 には,水 が 奇妙 な種 々の色 を帯 び る, と今 で も信 じて い る人 もあ る。 ハ ウ リー邸 の残 った建物 に住 んで い る農民 が所 有 して い る土地 の 回 りには. ,. 現在 の石造 の 家が あ り,そ こに住む人 び とは, この 古 い邸宅 の所有者 た ちを 侵害 して 追 い 出す毛織物工 場 で生計 を立 て 財産 を作 って い る。 この よ うな古 い邸宅 は至 る所 に見 られ ,絵 の よ うに美 し く,切 妻 が多 く,紋 章装飾用 の家 紋 の大 きな石 の彫 りもの が つ いて い る。 そ れ らは衰微 した家族 の所有 だ った が,彼 らの先祖伝来 の土地 は,金 持 ちの工 場主 た ちが それを 必要 だ と言 い立 てて 無理 や りに次 か ら次 へ と奪 い取 ったので あ る。 煙 で すす けた大 気 が,以 前 の ヨー ク シ ャー地主 た ちの これ らの 古 い家 々を 取 り巻 き,家 の上 に茂 る古 い樹木 を 枯 らし黒 くして い る。 そ して石炭 が らの 敷 かれ た小道 がそれ らの邸 に通 じて いて,周 囲 の土地 は家 を建 て るため に売 られ て い る。 しか し近 郊 の人 び とは今 では異 な った暮 らし方 を してい るが. ,. 彼 らの先祖 がそれ らの邸宅 の所有者 に頼 って農耕生活を していたの を覚 え て お り,何 世紀 も前 に生 きていた身分 の高 い家族 にまつ わ る言伝 えを大事 に し てい る。 オー ク ゥ ェル 邸 の例を とってみ よ う。 それ は本街道 か ら四分 の一 マ イル ほ ど入 った〔牧草 地〕1)に あ り,バ ース トー ルの毛織物工場 で使われ る蒸 気 エ ン ジンの忙 しくブ ンブ ン回 る音 か ら,四 分 の一 マ イル しか離 れ て い な い 。 だか ら食 事時 にバ ー ス トー ル駅か らそ こまで 歩 いて行 くと,毛 糸用染料 で青 く染 ま った職工 の群 が,本 道 に接す る石炭 が らの敷 かれた小道 を腹 を すか せ て ザ クザ クと音 を立 てて 急 いで い るの に 出会 う。本道か らそれて右 に向か い. ,. 古 い牧草 地 を 登 りぬ け ると,「 血 まみれ の小道」 と呼 ばれ る短 い わ き道 に 出 る一 一 これ はステ ュアー ト王 朝時代 の近 くの古 い邸 の放 らつ な持主 キ ャプテ ン・バ ッ トとか い う人 の 幽霊 が よ く出る小 道で あ る。木 々に おおわれた この. 1)初 版 で は「 荒 れた牧 草地」。.

(6) ギャスケル夫人著・和知誠之助訳. イ3. 1)に 入 って くる。 その邸. 「血 まみれ の小道」 か らオ ー クウ ェル邸 の あ る〔野〕. ・ヘ ッ ド」 と し は この あ た りの人 び とには, シ ャー リーの住 む「 フ ィール ド て て 描 かれた所 と して知 られ てい る。『 シ ャー リー』 には次 の様子 が描 かれ い る一一半分 が中庭 ,半 分 が花 園 にな って い る正面 の 囲 い地 ,廊 下 で まわ り に あ る寝室 に通 じて い る,鏡 板 を張 った大広 間,桃 色 に塗 られ た下 品 な居 間 で くう 柔 らか な色 の 鳩 が今 も好ん で 日なた で クー ター鳴 いて気 どった様子 歩 の しろの芝地 とテ ラスが庭 の戸 口を通 して見 え る明 るい望 楼 な ど。そ の小説 このす ぐ近 くで 情景 はす ぐ手近 にあ り,そ れを思 いつかせ た実際 ので き事 は. ,. 起 こ った ので あ る。 と 人 び とはオー クウ ェル邸 の一 つ の寝 室 の血 によ ごれ た足跡 を見 せ ,そ れ この家 に地 じる小道 にまつ わ る話 をす る。家族 はオ ー クウ ェル にいたが,キ る冬 の ャプ テ ン・ バ ッ トは遠 くに出か けて不在 だ と思 われ て いた 。 そんなあ で り 夕方 ,薄 暗 が りのなか,彼 がそ の小道 づ た い にゆ った りと した足 ど り 帰 て しま 大広間 を通 りぬ け階上 の 自分 の部屋 に入 ったが,そ こで 彼 の姿 は消え. ,. ロン ドンで 決闘 で った。彼 は1684年 ,そ れ とち ょう ど同 じ12月 9日 の午後 , 殺 されて いたので あ る。 この 邸宅 に用 い られ て い る石 は,も っと古 い牧師 館 の一 部 だ ったが ,そ れ のだ っ はキ ャプテ ン・ バ ッ トの先祖 が宗教改革 に続 く動乱期 に奪 い取 った も た。 この ヘ ン リ・バ ッ トは平気 で い くつ も家 や 財産 を手 に入 れ ていたが,つ いにバ ース トー ル教会 の大鐘 を盗 み,そ の不敬 な盗 み に対 してそ の土地 に罰 な 金 が課せ られ , この 邸宅 の持主 は今 に至 るまで その罰金 を支払わ ね ばな ら い。 しか し,オ ー クウ ェルの所有権 は18世 紀 の初 めにバ ッ ト家 の手 を 離 れ ,傍 ので あ る。 系 の子孫 に相続 され ,彼 らの住 んで いた この美 しい跡 が残 され た この大広間 には一対 の大 きな鹿 の角 が掛 けて あ り,そ れ にぶ ら下 げて あ る 1 枚 の札 には,1763年 9月 1日 に大 がか りな狩猟大会 が あ り,そ の時 この鹿 を 射止 めた こと,そ して この猟 には14人 の紳士 が加 わ り,邸 の所有者 フェア フ. 1)初 版 で は「 荒 れ た野」。.

(7) イイ. 「 シャーロッ ト・ ブロンテの生涯」. ァックス ・ フ ァ_ン リ郷士 と に この 共 広間で 獲物 を食 べ た こ とが は っき りと 記 され てい る。 まぎれ もない 「昔 の 勇士」1)14人 の名が記 され て い るが,そ の 内,法 務長 官サ ー ・ フ レ ッチ ー ・ ノー ン バ ャ ト と ー チ陸軍少将 だ けが,1855 に 年 私が 何 らか の交 際を した人 で る 物 あ 。ォ ー クゥェル か ら進 んで行 くと ,. 左 右 に数軒 の家が あ り,そ れ らは シ ャー ロ ッ トが ロ ゥ・ヘ ッ ドにいた 頃,快 く迎 えて くれ た数人 の学校 だ の 友 ち 家 と して ょ く知 っていた家 で あ る。小 道 は 〔3,. 4マ イル の間 に〕2)さ らに幾 つ か に 分 かれて,そ れ よ りさ らに高 い. 所 に あ る荒 野や共有地 に通 じていて. ,休 日の楽 しい散歩道 にな ったが,そ れ か らロ ゥ・ヘ ッ ド自体 に通 じる 牧草地 の小道 の入 口に あ る 白 い 門 に達す る。 べ に 前 述 た気持 のよい望 楼 の あ る 1階 の アー チ型 の窓 のつ いた部屋 の一 つ は 居 間で,も う一 っ は教室 だ った。食堂 は 回の 戸 片側 に あ り,道 路 に面 して い た 。 シ ヤー ロ ッ トのい た 1年 半 の 3)の 間 生徒 数 は 7人 か ら10人 の 間 で あ り,生 徒 の宿 泊 に は全 館 を必要 と しなか ったので , 3階 は幽霊 のよ うに思 われて い た一 婦人以 外 には使 われて お らず , 2番 目の階段 の下 にいれ ば時折 その婦人 の ガ ゥ ンの絹ずれ の音が 聞 こえ ること もあ った 。 ミス・ ゥ ラー の母 のよ うな優 しい性質 と,少 の 女 数が少 ない こ とで,こ の 学校 は学校 とい ぅょ り個人 の家庭 の よ うだ った 。そ の 上 ミス・ ゥラーは大多 数 の生徒 と同 じく, ロ ゥ・ ヘ ッ ドの周辺地 区 の生 まれ だ った 。ぉそ らくハ ヮ ースか ら来 た シ ャー ロ ッ ト .ブ ロ ンテが 最 も遠 くか ら来 た こ とにな ン4)の 家 は 5マ イル ばか りの所 に あ った し ,他 の二 人 の. 1) 「 創世記」604。 2) 〔 〕の部分は初版 にはない。 3)初 版では「2年 間」。 シャー ロ ッ トが ロゥ・ヘ ッ ドで. る。 エ レ. 仲良 し(『 シ ャー リー』. 学 んだのは1831年 1月 か ら1832 年 7月 までなので「 1年 半」が正 しい。 4)初 版で もその後の版で も「 E.」 とされてい るが,こ れは この 学校で知 り合 って以 来一生を通 じて シャー ロ ッ トの真 の友 となったェ レン 。ナッシー (1817-97。 4 月22日 生 まれなので ち ょうど一っ年下)を さす。 彼女は シ ー ロ ッ トか ら全部で ャ 約500通 ,エ ミリか ら2通 の手紙を受 け取 ったが,そ れ らは本書 のみな らず ブロ ン テ姉妹の研究のための貴重な 資料になってぃる。 現在では名を伏す必要 もないの で以後は原文 に「 E.」 とぁって もすべて ェ レンと す る。彼女の家は当時バ ース ト ール にあった。1837年 以後は同 じ州 のブル ック ロィ ドに 住んだ。.

(8) ギャスケル夫人著・和知誠之助訳. イ5. の ロ ウズ1)と ジェシー2)の ヨー ク姉妹 )は もっと近 くに住 んでいた 。 また 2,. 3人 はハ ダーズ フ ィール ドか ら,一 人か二 人 は リーズか ら来 て いた。 ここで私 は, これ らの竹馬 の友 の一 人 メア リか ら受 け とった貴重 な手 紙 か ら引用 しよ う。 これ は シ ャー ロ ッ ト 0ブ ロンテの親 友 にふ さわ しく,明 確 に 生 き生 きと表現 され た もので あ る。書かれ てい る内容 は,1831年 の 1月 19日 に シ ャー ロ ッ トが初 めて ロ ウ・ヘ ッ ドに来 た時 の こ とで あ る。 私が初 めて見 た彼女 は,大 変流行遅れ の服装 を して,非 常 に寒 そ うでみ じめな顔 で 幌馬車 か ら降 りると ころで した 。 ミス ・ ウ ラーの学校 に勉 強 に 来 たのです。彼女 は教室 に入 って来 た時 には違 う服 を着 てい ま したが ,同 じよ うに古 い もので した 。小 さな お婆 さん のよ うに見 え,ひ どい近 視 のた め,い つ も何かを捜 して いて,そ れを見 つ けるために頭 をあちこち動か し て い るよ うで した。彼 女 は大変恥ずか しが り屋 で神経質 で,強 いア イル ラ ン ドな ま りで話 を しま した。本 を渡 され ると,彼 女 は鼻 が本 につ きそ うに な るまで本 の上 に頭 を下 げ ま した 。頭 を上 げ るよ うに言われ ると,頭 と一 緒 に本 も上 が り鼻 に くっつ きそ うにな った ので,笑 わず には おれ ませんで 3) した。. これが ,後 に彼 女 の親 しい貴重 な友 とな った一人 に彼女が与 えた第一 印象 だ った。 も う一人 の少女 は, シ ャー ロ ッ トがや って来 た 日に初 め て 彼女 を見 たが ,他 の者 がみな遊ん で い るの に,彼 女が教 室 の 窓際 に立 って,外 の 雪景. 4)ェ レンは シ ャー ロ ッ トよ りも年 色 を見 なが ら泣 いていたのを覚 えて い る。 1). 2) 3). 4). す ぐあとに出て くるメア リ・ テイラー(1817-93。 10カ 月年下)を さす。 エ レン・ ナ ッシー と同 じくロ ウ・ヘ ッ ドで共 に学 んで以来生涯 の友 となった。 メア リ・ テイラーの妹 マーサ・ テイラー (1819-42)を さす。 これは1856年 1月 18日 ,当 時 ニ ュー・ジー ラン ドにいたメア リ・ テイラーがギ ャス ケル夫人 に求め られてシ ャー ロ ッ トの最初 の印象を書 き送 った手紙 の 1節 で ある。 この章 にお け る以後のメア リか らの引用 も同 じである。 これは文字通 りではないが,ア メ リカの『 スク リブナー ズ・マンス リ』誌 (1872 ・ブロンテの想い 出」 による。(CO 年第 7巻 )に エレンが寄稿 した「 シ ャー ロ ッ ト ショーター編『 ブロ ンテ姉妹 の生涯 と手紙』, I,84頁 参照).

(9) イδ. Fシ. ャーロット・ブロンテの生涯』. 下 だ ったが,そ の冬 の朝 ,新 しい初 め ての場所 の見 知 らぬ人 び との 間 で 「 ふ るさとを思 い涙をなが してい る」1)奇 妙 な服を着 た,奇 妙 な顔 つ きの小 さな 少女 の淋 しそ うな様子 に,優 しくも心 を動か され たので あ る。優 しさを あ ら わ に見 せ す ぎると,ハ ワースか ら来 たその人 慣 れ しない小 さな少女をお びえ させ ただろ う。 しか しエ レン. (『. シ ャー リー』 の 中 のキ ャ ロ ライ ン・ヘル ス. トンの 中 におぼろに表 されて い る人 )は ど うにか信頼 をか ち得 て ,共 感 を示 す の を 許 された 。 「 メア リ」 の手紙 よ りふたたび引用す ると一―. 私 た ちは彼女 を とて も無 知だ と思 い ま した 。彼女 は文法 を ま った く習 っ て お らず,地 理 もほ とん ど知 らなか ったか らで す。. 彼女が あ る面 に無 知 だ った とい う この記述 は他 の学校 友 だ ち も認 め て い る。 しか し ミス・ ゥ ラーは非 常 に聰 明な人 で,敏 感で優 しい思 いや りの あ る婦人 だ った。彼 女 の シ ャー ロ ッ トに対 す る最初 の取扱 い方 がそれを証 明 して い る。 この少女 はよ く本 を読んで は い たが,基 礎が あま りで きてい なか った。 ミス・ ウ ラー は彼 女をわ きに連 れ て行 って,彼 女が文法 の 知識 な どで 同年令 の少女 た ち に追 いつ け るまで, しば らくの 間残念 なが ら彼女を第 2の クラスに入 れ ね ばな らな い と思 うと言 った。 しか しか わ いそ うに シ ャー ロ ッ トは, この通 知を聞 いて大変悲 しみ,わ っと泣 き出 したので,優 しい ミス ・ ウラーは心 を 和 らげ, このよ うな少女 は第 1の クラスに入 れ て,十 分 で ない科 目は個人教 授 で 補 わせ る方 が よか ろ うと賢明 に も見抜 いたので あ る。. 彼女 は私 た ちがす こ しも知 らな い こ とを 知 つていて,私 たちを よ く驚か せ た ものです。私 た ちが暗記 しな けれ ばな らな い 短 い詩 を たいて 知 って い て,そ の作者 やその詩句 の あ る詩 を話 して くれ た り,時 には1,2ペ ー ジ暗. 1)ジ. ョン・キーツ (1795-1821,イ ギ リスの詩人)の オー ド』か らの引用 、. Fナ. イティンゲイルによせる.

(10) ギャスケル夫人著・和知誠之助訳. イ/. 誦 してその筋 を話 して くれ た りしま した。彼女 はイタ リック体 (活 字 ふ うの 書体 )で 書 く癖 が あ り,そ れを彼女 た ちの雑誌 に書 くこ とによ って 身 につ けた と言 って い ま した 。彼女 たちは月 に 1度 F雑 誌』1)を 発行 しま したが. ,. それがで きるだけ印刷 に見 え て 欲 しか ったので す 。 その 中 の物語 を一 つ話 して くれ ま した。 この雑誌 に寄稿 し読 んだのは彼女 と弟 と二 人 の妹 だ けで した 。 そ れ らの雑誌 のい くつ かを私 に見 せ て くれ ると約 束 しま したが ,後 で それを取 り消 し, どんなに頼 んで も見せ て くれ ませんで した。遊 び時間 には,で きれ ば本 を持 って すわ ってい るか,じ っと立 って い ま した 。一度 誰 かが彼女 にボ ニ ル遊 びで 私 た ちの 味方 に加 わ るよ うに勧め ると,彼 女 は遊 戯 を した こ とが ないのでで きない と言 い ま した。彼女 にや らせ て み ま した が ,彼 女 にはボー ル が見 えないのだ とす ぐわか り,仲 間か らはず しま した。 彼女 は私 た ち のす ることす べ てを 素直 に無 関心 に受 け とめ,何 に対 して も 『 いい え』 と言 お うと,い つ も前 もって覚悟 してい るよ うで した。彼女 は よ く運動場 の木 々の下 に立 ち,そ の方 が気 持 ちが よい と言 ってい ま した 。 彼女 は この こ とを説 明 しよ うと して 日陰 や ,す き間か ら見 え る空 な どを指 さ しま したが ,私 たちにはそれが よ くわか りませんで した。 カゥア ン・ ブ リッジで は小川 の石 の上 に立 って流れ る水を よ く見 つ めた ものだ と彼女が 言 った ので ,私 が 魚釣 りに行 けばよか った のに と言 うと,彼 女 は魚釣 りを したい と思 った ことは ない と答 え ま した 。彼女 は何事 において も体力 的 に 弱 い こ とをい つ も現 しま した 。学校 で は肉類 を ま った く食 べ ませんで した 。 私が彼女 を非 常 に醜 い と言 った のは この 頃 の こ とです。それか ら数年 後. ,. 大変失礼 な こ とを した と思 うと言 うと,『 あなたは私 に 随分 よ くして くだ 2)だ か ら悔や まな いで ち ょうだい」 と彼女 は答 えた ので す。 さったわ,ポ リ。 彼女 はい つ も私 た ちがそれ まで に見 た こ ともないほ ど上手 に しか も早 く絵 彼女 たちは 自分 たちで作 った雑誌を『 若者 たちの雑誌』 と名づ け,1829年 (シ ャ ー ロ ッ ト13才 )に 第 1集 (8,9,10,11月 号 と12月 号 2つ ),翌 1830年 に第 2集 (第. 1集 と同 じく全部で 6号 )を 出したが,そ の他 に も多 くの物語を書 き綴 っている。 メア リは友人に「 ポ リ」 または「 パ ッグ」 と呼ばれていた。.

(11) イ8. 『 シャーロット・ブロンテの生涯』. を書 き,有 名な絵画や画家 について大変 よ く知 っていました。絵 や挿絵 を 調 べ る機会が 与え られた時はいつ も , 彼女は目を紙に 近 づ けて 1枚 ずつ 見 て行 き, あまりに長 く見 ているので,『 その中に何が見えて』 とよ く尋 ねました。彼女は常 に多 くのことに気づ くことができ,そ れを大変 うま く 説明 しました。彼女は少な くとも私 には非常 に興味深 い詩や絵 を作 って く れま した。その後私は,今 もそ うですが,そ のよ うな種類 のことについて はすべて,多 くの他 のことについて と同 じく,彼 女 にいろいろな ことを話 そ うと思 って,頭 の中で彼女 の意見を参照 してみ る癖がついていたのです が,彼 女 に話す ことは 2度 とない ことを思い出 してはっとす るのです。. この最後 の文章 の持 つ 真意 を 十 二 分 に くみ取 るためには一一 ミス ・ ブ ロン テが彼女 の真価 を認 め る ことがで きる人 び とにいか に不変 で鮮 明な印象 を与 えたかを示す ためには一一 この よ うに シ ャー ロ ッ トの意 見 を 常 に参照す ると 語 って い る1856年 1月 18日 付 けの この手紙 を書 いた人 は, シ ャー ロ ッ トに11 年 間 も会 ってお らず ,そ の 間 の ほ とん どを地 球 の裏側 の新大 陸 の見 知 らぬ場 所 で過 ごしていた1)こ とに言及 して おかねばな らな い 。. 私 たちは,1832年 には誰 もが そ うせ ず には おれなか ったよ うに,政 治 で 大騒 ぎを して い ま した。彼女 は二 人 の大 臣 の名前を知 って い ま した。一人 は辞職 した大 臣 で ,一 人 はその後を継 いで選 挙法改 正 法案 を通 した大 臣で 2)彼 女 は ウ ェ リン トン公 を尊 敬 してい ま したが,サ ー・ロバ ー ト・ピー した。 ル は,他 の人 の よ うに主義 で行動す るので はな く便宜主義 なので ,信 用 で きない と話 してい ま した。 私 は熱狂的な急進 派 で したか ら,『 誰がお互 い ′」 と言 い ま した。 す ると を信用で きるとい うの 。彼 らはみ な悪 漢 なの に。. 1)メ. ア リ・ テイラーは1845年 3月 にニ ュー・ジーラン ドの ウェリン トンに移住 した。 2)選 挙法改正法案が上院で却下 されて ホイッグ党のグ レイ卿は辞職 し, その後 トー リー党の ウェリン トン公が組閣 に着手す ると, 民衆が蜂起 して 国中が大騒 ぎにな ったので, ウェリン トン公は内乱を回避 し彼 の助言 で グ レイ 卿が首相 にな り法案 を可決 した。 これにより選挙権 が大地主 のみでな く中産階級 にも拡大 された。.

(12) ギャスケル夫人著・和知誠之助訳. イ9. 彼女 は ウエ リン トン公 を,そ の行動を 引 き合 いに 出 して 賞賛 し始 めた もの で す。私 は公 爵 につ いて何 も知 らな いのでそれ には反 論 で きませ んで した。 彼女 は 5才 の時 か らず っと政治 に興 味 を持 っていた と言 い ま した。彼女 の 意見 は父親 か らで はな く一一 つ ま り父親 か ら直接 にで はな く一― 父 の好 ん だ新 聞 その他 か ら得 た もので した。 これが真実 で あ る こ との例証 と して ,1832年 1)1月 17日 に ロ ゥ・ヘ ッ ドか ら弟 に あてて書 いた手紙 か ら抜粋 を しよ う一一 以前政治 に対 して持 っていた 関心 は,す べ て失 くした と最近思 いか けて い ま したが ,選 挙法改 正 法案 が上 院 で 却下 された こ とや グ レイ伯 の 除名 と 辞職 な どを知 って 私 は とて も嬉 しく思 い,そ れで私 が まだ政 治 に対 す る強 い好 みを失 い き っていない ことがわか りま した。 伯母様 が 『 フ レイザ ーズ・ マ ガ ジン』2)を 取 る ことを承諾 され て 本 当 に嬉 し く思 い ます 。なぜ な ら,大. 体の内容についてあなたの書 いたことか ら『 ブラックウッド」誌3)を 比べ れば幾分興味に欠けるのはわかっていますが,そ れでも1年 中どんな雑誌 も見 れず にい るよ りは ま しで す。私 た ちの住 んで い る小 さな未開 の荒 野 の 村 で は巡 回図書館か らそのよ うな雑誌 は借 りられ そ うにあ りませんか ら ,. 私 た ち はた しか に どん な雑誌 も見 れ な いで しょ う。今 の この気持 ちの よい 天 気 で,い と しいお父様 の健康 が完全 に元 に戻 ります よ うに,そ して 伯母 様 が故郷 の健康 によい気 候 を快 く思 い 出 され ます よ うに。云 々。 メア リの手紙 に戻 ろ う一― ウィニ フレッ ド・ ジェランの Fシ ャー ロ ッ ト・ ブロンテ』 によると1832年 ではな く1831年 (同 書69頁 ,ま たは同氏 の Fブ ランウェル・ ブロ ンテ』52頁 参照)。 この 手紙 は ロウ・ヘ ッ ドまでの14マ イルを ブランウェルが歩 いて不意 に訪れて くれた のをシ ャー ロ ツトが喜 び,弟 が帰宅後書 き送 った もの。 1830年 に,次 に出 る「 ブラックウッ ド』 誌をまねて創刊 された文芸雑誌で, 極端. な トー リー党的傾向をもっていた。 1817年 に創刊 された トー リー党的色彩 の濃厚 な文芸雑誌。.

(13) 5θ. Fシ. ャー ロット・ブロンテの生涯』. 彼女 はよ く,カ ウア ン・ ブ リッ ジで 亡 くな った二 人 の姉 ,マ ライ ア と エ リザ ベ スの ことを話 しま した。彼女 た ちは驚 くべ き才能 と思 いや りの あ る 人 だ った と私 には思 われ ま した。 あ る朝早 く,彼 女 は夢 か らさめたばか り で ,夢 の 中で居 間 に呼 ばれ ,呼 んだのは マ ライア とエ リザ ベ スだ った と言 い ま した。彼女 に先 を続 け るよ うに熱心 に頼 み,彼 女が それ で 終 わ りだ と. 言 うと,私 は Fで も続 けて/. 話 を作 ってよ.ノ. ぁなたな らで きるわ』 と. 言 いました。彼女は しないと言 い,夢 の続 きが快 くなか ったので見なけれ ばよか ったと言 いました。つ まり姉 た ちが以前 とは変わ っていて,昔 好 き だったものを忘れて しまっていたのです。姉 たちが流行 の服を着 ていて. ,. 部屋 に文句をつ け始めた りなどしたか らです。 現実 の生活では興味あ るものを一 つ も持たない子供 の多 くが, 自分 で興 味 あ るものを F作 り出す』 とい うこの習慣が彼女 には大変強か ったのです。. , 人物や事件を作 り上げました。 家族 の者全部 がよ く物語 を F作 り出 し』 私は時 々彼女 に,彼 女たちはまるで地下室の中で育つ じゃがいものようだ と言 い ます と,彼 女 は悲 しそ うに,『 そ うなの, わか っているの』 と言 い ました。 〔学校 で誰かが,彼 女は Fい つ も ジョンソン2)ゃ シェ リダ ン3)な どの才 気ある人 びとについて話 している」 と言 い ました。彼女は Fみ なさんは才 気 あ るとい う意味がわか っていないわ。 シェ リダ ンは才気ある人 だったか もしれない。ええ,才 気があ ったわ―― 悪者はよ くそ うだけど―― で もジ ョンソンはみ じんの才気 も持 ち合わせていなか ったわ」 と言 い ました。誰 もその意見 の真意がわか らず,「 才気」 についてつ まらないことを少 し 言 いましたが,彼 女 はそれ以上何 も言 いませんで した。 これが彼女 の生活 の縮図です。寮 での彼女 は人の話を辛抱強 く聞 くこと はほとん どあ りませんで した。彼女 は女学生 らしくなか ったけれ ど,私 た. 1)以 下 〔 〕内は初版 には省かれている。 2)サ ミュエル・ ジ ョンソン博士 (1709-84)。. 18‖ l紀 英文学界 の中心人物。 チャー ドOB・ シェ リダ ン (1751-1816)。 アイル ラン ド生 まれのイギ リスの劇 作家・ 政治家。. 3)リ.

(14) ギャスケル夫人著・和知誠之助訳. 5ゴ. ちの方が もっと偏狭 だ ったか らな ので す 。私 た ちは とて も実際的で,詩 は す べ て 軽蔑 して い ま した。彼女 も私 た ちも, 自分 た ちの考 えが世 の 中 の 常 識 あ る人 す べ ての考 えだ と信 じて お り,一 言 一 言 が よ く相手 を驚 かせ た も ので す …… 。学校 での シ ャー ロ ッ トは 自分 の置かれ て い る境 遇以上 の生活 は少 しも考 えて い ませんで した。彼女 は 自分 で生 計 を たてねばな らぬ こと を知 ってお り,職 業 を選 び ま した。少 な くとも一度 はそれを始 めよ うと し ま した。学校 にい る時 も彼女 が一番考 えて いた ことは 自己向上 とい う こと で,趣 味 を高 め る こ とで した。 きび しい実際性 や有益 な知識 は必然的 に押 しつ け られ るが,最 も必要 な ことは私 た ちの心 を和 らげ て 洗練 させ る こ と だ, と彼女 はい つ も言 って い ま した。彼女 は絵 画,彫 刻 ,詩 ,音 楽 な どに 関す る知識 は どん なに小 さな こ とで も,ま るでそれが黄 金 でで もあ るかの よ うに拾 い上 げ ま した。 〕. 彼女 の学校 時代 につ いて他 の人 び とか ら聞 いた話 は, このす ば らしい手紙 の 内容が間違 いない こ とを裏 づ けて い る。彼女 は常 に本 を 読み勉強 して い た 根 気 強 い生徒 で あ り,15才 の少女 と して は非 常 に異例 で あ るが,教 育 の必要 性 と価値 に強 い確信 を持 っていた。彼女 は一 瞬 と して 時 間 を無駄 に した こ と が な く,休 養 や遊 び時間 のために必要 な余 暇 さえ も惜 しんで いたよ うで あ る が ,そ れ は幾分 か は,近 視 のた めにす べ ての遊戯 が下手 だ ったためで もあろ う。 しか も, これ ほ ど非社交的 だ ったに もかかわ らず ,彼 女 は学校友 だ ちの 大 の お気 に入 りだ った。彼女 は無器用 だ と言 われ て ,遊 びか らの け者 に され て も悲 (し い とは思 わなか ったが,友 の望 む こ とはいつ で もや ってみ よ うと し た。そ して 夜 には物語 を話 して 聞か せ るので大事 に され ,寝 て 聞 いてい る友 を び っ くり仰天 させ た りした。あ る時 な どは,物 語 の きき目が 強す ぎて彼 女 も大声 で 悲鳴 を あげ るよ うな結果 とな り, ミス ・ ウ ラーが 2階 に上 が って来 た時 も, シ ャー ロ ッ トの話 を 聞 いて いた 内 の一 人 が興奮 して 激 しく震 えて い た。 彼女 の 飽 くな き知 識欲 に誘 われ て , ミス ・ ウラー は彼女 に しだいに長 い読.

(15) 52. 書 を宿題 に課す よ うにな った。そ して ,彼 女が ロ ウ ・ヘ ッ ドで 学 んで いた 1 年半 の終 わ り頃,彼 女 は予習が十分 にで きず初めて悪 い成 績 を とった。 ブ レ アーの『純文学 につ いての講 義』1)を かな り読 んで いな けれ ばな らなか ったが. ,. それ につい ての質 問 の 幾 つ か に答 え られな くて悪 い成績 を とったので あ る。 ミス ・ ウラーは残念 に思 い,〔 シ ャー ロ ッ トにそれ ほ ど長 い宿題 を 出 した〕2) のを悔 やみ,シ ャー ロ ッ トもひ ど く泣 いた 。 しか し,彼 女 の学友 た ちは悲 じむ どころで はなか った一― 憤慨 していたので あ る/. 彼女 た ちは, シ ャー ロ ッ. ト・ ブ ロ ンテに いか に小 さな罰を課 して も不 当だ と言 明 し―― 彼女 ほ ど宿題 を一生懸 命 に しよ うと した者 は他 にいないか ら一一 種 々のや り方 で怒 りを表 した。 ミス 0ウ ラー は実 はす ば らしい生徒 の初 めての失点 を喜 んで見過 ごそ うと思 っていたので,つ いにその悪 い成績を取 り消 し,少 女 た ち はみな もと 通 り従順 にな ったが ,「 メア リ」 だけは別 だ った。 彼女 は, シ ャー ロ ッ ト・ ブ ロ ンテに 〔その よ うに長 い宿題 を 出 した こ とで ミス・ ウ ラー は校則 に従 う こ とを要求 す る権利を失 った と考 えて〕3)そ の学期 の残 りの 1,2週 間 の間勝 手気 ままに した。 特定 の時 間 に一 定 の課 目に 出席す る こ とは大 きな学校 で は普 通 の こ とだが. ,. ここで は生徒数 が少 なか ったので ,き び し く強制 は され なか った。少 女 た ち は学課 の予 習が で きると, ミス ・ ウラーの と ころへ 行 って そ れを暗唱 した。 彼女 は生徒 たちに,学 ぶ べ きもの は何 にで も興 味 を持 たせ るす ば らしい こつ を心得 て いた 。生徒 は勉 強 に あ た って は,課 せ られ た仕事 ,す なわ ち ど うし て も終 えねばな らな い宿題 と してで はな く,健 全 な知 識欲を もって取 りかか ったので あ り,彼 女 は生徒 に知識を面 白 く味 わわせ るよ うに したので あ る。 生徒 た ち は学校 の 強制 的 な圧 力が な くな るとす ぐに読書 や 学 問をやめ るよ う な こ とは しなか った。考 え ること,分 析す ること,否 認す ること,正 し く評. 1)1783年 に発行 され た作文 や修 辞学 の参考書 で,広 く教 科書 と して用 い られ た。. 2)初 版 で は,「 それ ほ ど熱心 な生徒 に宿題 を出 しす ぎた」 3)初 版 で は,「 とて も準備で きな い ほ ど長 い宿題を 出 した ミス 。ウラーの不正 は, はや どの校則 に も従 わな くて もよい理 由 にな る と考 えて」。. も.

(16) ギャスケル夫人著・和知誠之助訳. 53. 価す る ことを教 え られ ていた 。 シ ャー ロ ッ ト・ ブ ロ ンテに とって, この学校 が彼 女 の 2番 目の学校 と して選 ばれた こ とは幸 運 だ った。生徒 の戸外 の生活 には健全 な 自由が あ った 。彼女 た ちは学校 の まわ りの野原 で楽 しく遊 び,土 曜 日の 半 どんの 日には遠 くまで散 歩 に 出て木陰 の多 い神秘 的 な小道を通 り. ,. 高地 に登 って行 き, この地 方 一 帯 を遠 くまで見渡 した りしたが,こ の土地 に つ いて は過 去 の こ とも現在 の こ とも語 らねばな らぬ こ とが非. 常 に多 い 。. このよ うな長 い散歩 の 間 に, ミス・ ウ ラーが話 した物語 につ いての生徒 の 思 い 出か ら判 断す ると,彼 女 は「 話術」 とい うフラ ンス人 の技術 に大 いに熟 達 して い た に違 い ない。建物 の年代 は色 々の こ とを連 想 させ るものだが,彼 女 は あち こちの 古 い家 や新 しい工 場 につ いて話 し,建 物 の年代 に伴 う変化 の 結果 生 じた種 々の社会状態 な どにつ いて も語 った。彼女 は次 の よ うな 日々の こ とを覚 えて いた 。見 張人 や 夜 中 に 目が さめ る人 び とが,い つ か正 義が権力 と戦 って勝 利を得 ると幻 の 中 で見 た輝 か しい 日に備 えて,極 秘 の軍事訓 練 を 受 けてい る何千 もの悲 し くも必死 の人 び との,規 則 正 しい行 軍 の足音 や,遠 くの命令 の言葉 を聞いた 頃 や, ヨー クシ ャー州 , ラ ンカ シ ャー州 ,そ れ に ノ ッテ ィ ンガ ム シ ャー州 の労働者 た ち に代表 され るイ ング ラ ン ドの人 び とが. ,. 彼 らの あわれ な真実 の苦情 が議会 に届 かないため,恐 るべ きス ロー ガ ンをか か げて 彼 らの声を届 かせ よ うと した時 の こ とな どを 。多 くの改 善 が急 速 にな され たため に,あ の半 島戦役 1)の 終 わ り頃の多 数 の労働者 の状態が どれ ほ ど 悲惨 だ ったか は,今 忘れ られてい る。 彼 らの不満 の うち幾分 ばか ばか しい もの が言 い伝 え られ て残 って い るが,真 に強烈 な彼 らの苦悩 は忘れ去 られて い る。 彼 らは気 も狂 わんばか りに必死 だ った 。そ して 多 くの人 び との考 え によれ ば. ,. この 国 は断崖 のふ ち に あ るよ うに見 えたが,少 数 の 当局者 の敏速 に して 決然 た る決断 によ って 初 めて 国 は危機を救 われたので ある。 ミス・ ウラー はその 当時 の こ とを 話 した。夜 ご との不思議 な訓練 ,人 里 離 れた荒 野 に立 つ 何千 も の人 び と,一 人 ひ と りがやむを 得ず無 理 に も用心深 くつ ぶや く脅迫 ,そ れ に. 1) 1808-14年 , ウェ リン トンがイギ リス軍を率 い, スペイ ン・ ポル トガル軍 と連合 して ナポ レオ ンの フラ ンス軍をイベ リア半島か ら駆逐 した。.

(17) Fシ. 5イ. ャーロット・ブロンテの生涯』. カー トライ トの工場の焼き討ちをはじめとする歴然たる犯行のことなどを。 ミス・ウラーの話 しを聞いた生徒の中で,少 なくとも一人の胸に, これ らの ことは深く浸み込んだのである。 カー トライ ト氏 は, ロ ウ・ヘ ッ ドか ら歩 いて行 け る所 に あ る リヴ ァーセ ッ ジの ロー フ ォル ズ と呼 ばれ る工場 の持主 だ った。彼 は思 い切 って毛 織物 の仕 上 げ に機械 を用 いよ うと したが,他 の多 くの状況 が重 な って職工 の生活が飢 え と貪 困 で 耐 え難 い ものにな って いた1812年 には,そ のや り方 は評判 が よ く なか った。 カー トライ ト氏 は非 常 にす ぐれ た人 物 で あ り,私 の 聞 いたの によ ると,外 国人 の血 が混 ざって いて,そ の ことはそ の長身や黒 い 日と顔色 ,そ れ に紳士 ふ うだが一風 変わ った態度 には っき り現 れ て いた 。 いずれ にせ よ彼 は外 国生活 が長 く, フ ラ ンス語 を上手 に話 したが,そ の こ と 自体 が 当時 の偏 屈 な 国民 には疑惑 を 招 くことで あ った。要す るに彼 は,毛 織物 の仕上 げ に人 手 の代 わ りに剪断機 1)を 使 う ことに踏み切 る以 前 か ら人気 のない男 だ った。 彼 は 自分 の不評判 な こ とも,そ のために起 こ りそ うな事件 に も十分気 づいて いて ,工 場 の襲撃 に備 え て お り,工 場 で寝泊 りし,夜 には戸 口に堅 固 にバ リ ケ ー ドを築 いていた 。階段 の一 段 一 段 には,暴 徒 がた とえ うま く戸 を こ じあ けて も階上 に上 が らせ な いよ うに,先 の とが った釘 を打 ちつ けた ロー ラーが 置 いて あ った。 1812年 4月 11日 の土 曜 日の夜 ,襲 撃 が行 なわれた。数百人 の飢 えた布地仕 上 げ工 が ,カ ー ク リー ズ近 くの, ミス・ ウラーが 後 に住 んだ家 か ら坂を下 っ た所 に あ る野原 に集 ま り,指 導者 た ちか ら ピス トル や 斧 , こん棒 な どの武 器 を与 え られ た。それ らの武器 の多 くは, 自己防衛 のために武 器 を備 え て いた 人里離れ た家 々の住民 か ら, この あた りを うろつ いて い る夜盗 が不 法 に奪 っ た ものだ った。む っつ りと声 も立 てない群衆 は,そ の春 の真夜 中 に ロー フ ォ ルズ まで進 んで行 き,そ こで 大声 を張 り上 げ たので,カ ー トライ ト氏 はかね. 1)シ. ョー ターの注 によ る と,こ れ は「 端切 り機 」 とす べ きで あ る。 剪 断機 は手 によ る毛 織物 の仕上 げ に用 い られ ていたか らであ る。 また, ラダイ ツが 暴動 を起 こ し. たのは,つ むいで ない羊毛 のためで はな く布地 のためだ った 。.

(18) ギャスケル夫人著・和知誠之助訳. 55. てか ら予想 していた襲撃 の 到来 を知 った。な るほ ど彼 は防壁 の 中 にいたが. ,. 狂暴 な数百人 もに対 して彼 を助 け る者 は彼 の工 場 の 4人 の工 員 と 5人 の兵士 だけだ った。 しか しなが らこれ らの10人 は マ ス ケ ッ ト銃 を勢 いよ く上手 に狙 いを きめて 打 ち続 けた ので ,屋 外 の群集 が 必死 にな って戸 を打 ち破 って無理 や り工 場 の 中 に押 し入 ろ うとす るのを失敗 に終 わ らせ た。そ して20分 続 いた 争 いで二 人 の襲撃者 が 死 に,数 人 が 負傷 したので,彼 らは混乱 して 引 き上 げ. ,. 後 に残 った カ ー トライ ト氏 はその争 いの勝利者 にな った。 しか し危機 が去 る と,彼 も目が くらむ ほ ど疲れ て いたので, 自分 が どの よ うな防備 を施 して い たかを 忘れ,階 段 を上 が りか けた時 ,と げ の つ いた ロー ラーの一 つ で脚 をか な りひ ど く傷 つ けた。彼 の家 は この工 場 の近 くに あ った。数人 の暴徒 は も し 彼 が 降服 しなけれ ば,工 場 を ほ ってお いて 彼 の家 に行 き,き っと夫人 と子供 た ちを殺す と言 明 した。〔 家族〕1)の 守護 には一 人 か二 人 の兵 しか つ け られな か った ので, これ は恐 ろ しい脅迫 だ った。 カー トライ ト夫人 は彼 らの脅迫 が どんな こ とかわか っていた。そ して あの恐 るべ き夜 ,彼 女 は足音が近 づ いて くるのが 聞 こえた と思 って,二 人 の幼児 を抱 き上 げ て篭 に入 れ, ヨー ク シ ャ ニ州 の 古風 な家 によ くあ る大 きな煙突 の 中 に入 れた。 この よ うに隠 された二 人 の子供 の うちの一 人 は,彼 女が大人 にな ってか ら,父 親 の工 場 の壁 に残 っ て い るマ ス ケ ッ ト銃 の弾痕 や 火薬 の跡を い つ も誇 らし気 に さ し示 した もの で あ る。 カー トライ ト氏 は,そ の 頃 まで にほ とん ど暴 動軍 の性格 を帯 び るほ ど 2)の 広 が るのに抵抗 した最初 の人 だ った。彼 の 多数 にな って いた「 ラダイ ト」. 行為を近郊 の工 場主 たちは大 いに賞賛 し, 彼 のた めにつ いには 3,000ポ ン ド に及ぶ寄付 に加 わ ったのであ る。 この ロー フ ォルズヘ の襲撃が あ って 2週 間 ほ どした 頃,そ の嫌われ てい る 機械 を使用 した他 の工 場主 の一 人 が, ク ロス ラ ン ド荒原 を横 断 中,真 昼間 に 打 ち殺 された。殺人者 たちはその 周 囲 に あ る小 さな農 園 に 隠れ ていたので あ る。 『 シ ャー リー』 の読者 は これ らの状況 を覚 え てお られ るで あろ う。 そ れ. 1)初 版 では,「 家」。 2)機 械 を破壊 した この職 工 た ちの暴動 は1811年 か ら1816年 まで続 いた 。.

(19) 5δ. Fシ. ャーロット・ブロンテの生涯』. らの状況 を ミス ・ ブ ロンテが話 して も らったのは事 件 の起 こったず っと後 で あ るが,ま さに事件 の起 きたその現場 においてで あ り,一 方 では生 命 や 財産 がおびやか され ,他 方 で はひ どい飢 え と盲 目的 で無 知な絶望 に苦 しんだ恐 ろ しい当時 の こ とを,よ く覚 えて い る人 び とか ら聞 いたので あ る。 ブ ロンテ氏 自身 も,1812年 に ロー フ ォル ズか ら 3マ イル も離 れ ていな い ハ ー ツヘ ッ ドで 牧 師を して いたので ,当 時 それ らの人 び との中で 暮 して いたの で あ り,前 に述 べ たよ うに,彼 が 弾 の入 った ピス トル を常時身 につ け る習慣 を 始 めた のは,そ の よ うな危 険 な時期 か らで あ る。なぜ な ら,彼 は トー リー 党 の政治観 を持 つ だけで な く,法 の権威を好 み尊敬 していたので ,附 近 の臆 病 な治安判事 た ちが ラダイ トた ちを恐 れ て ,財 産 の破壊 を防 ぐよ うに調 停 し よ うと しないのを軽蔑 していたか らで あ る。 この地方 の牧師 た ちの方 が は る 1) か に勇敗 で あ った。. 2)が ぃたが,彼 は プ ロ ンテ氏 の友人 で ヒール ド邸 の ロバー ソン氏 とい う人 彼 は ヘ ックモ ン ドワイ クとい う,ロ ウ・ヘ 大衆 の心 に深 い 印象を残 して い る。 ッ ドか ら 2マ イル も離 れ ていない,家 の まば らな汚 ない大 きな村 の近 くに住 んで いた。 この村 の お もな住民 は 自分 の家 で仕事 をす る毛 布織 工 で あ り, ヒ ール ド邸 は ロバ ー ソン氏 が教 区牧 師 を していた村 で一 番大 きな家 だ った。彼 は リヴ ァーセ ッジの彼 の家 の あ る丘 の 向か い側 の丘 に, 自分 の金 で立 派 な教 会 を建 てたが,そ れ は ウ ェス ト・ ライデ ィ ングで住民 の数 が多 くな ったため にその要求 に応 じた最初 の試 み で あ り,宗 教 的 に も政治的 に も生 粋 の 旧式 な トー リー党 的な考 えを持 って いた彼 は,そ のために個人 的 な犠牲 を多 く払 っ たので あ る。彼 は無秩序 の傾 向が あると思 うものは何事 で も憎 み,骨 の髄 ま で 教会 と王 に対 して忠誠 で あ り,正 しく真実 だ と信 じるもののためな らいつ 次 の 2つ のパ ラグラフは, 初版 ではいずれ も分 けられてお らず, 前 の文 にそのま ま続 いている。 ハ モン ド・ ロバ ーソン (1757-1841)。 彼は長年牧師を したが,1800年 にそれを辞 し,の ちに リヴァー セ ッジの教会 の建設 に尽力 し,1816年 に完成 したが,そ の教会 には彼を記念す る言葉が刻み残 されている。 彼は Fシ ャー リー』 に描かれたヘル ス トー ン牧師 の もとになったと言われている。.

(20) ギャスケル夫人著・和知誠之助訳. 5/. で も誇 りを もって生命を捨 て る覚悟 だ った。 しか し彼 は厳然 た る意志 の持主 で ,そ れ によ って反対 を打 ち倒 したので,何 か不気 味 に悪魔的 な所 の あ る人 だ と言 い伝 え られ て い る。彼 はカー トライ トと親 しく,そ の工 場 が襲 われ そ うな こ とに気 づ いていた。そ こで ,彼 は 自分 も家 の者 に も武器 を持 たせ ,援 助 が 必要 との合 図 が 出れ ば救援 に 出か け る準備 を して いた と言 われ て い るが この点 まで はあ りそ うな こ とで あ る。 ロバ ー ソ ン氏 は平和主義者 だ ったが. ,. ,. 好戦 的 な心 も多分 に持 っていたか らで あ る。 しか し彼 が 評判 の悪 い側 に味方 した結果 ,人 び とは誇張 された彼 の性格 を 今 だに真実 だ と思 ってお り,次 の よ うな根拠 のない話 が伝 え られ て い る。暴 動 の次 の朝 ,彼 は馬 に乗 って 友人 の カー トライ トの所 に防衛成 功 の祝 いを言 いに行 った時 ,工 場 の庭 に取 り残 された負傷 した ラダ イ トた ち に水 をや る こ とを誰 に も許 さなか った と言 われて い る。そ の上 , この苛酷 で 大 胆 な牧師 は. ,. 近辺 の 防御 のために送 られ た兵 を 自分 の家 に宿泊 させ たので,兵 隊 に威嚇 さ れ る こ とにな る労働者 た ちを ひ ど く怒 らせ た。彼 は治安判事 で はなか ったが. ,. 上 に述 べ た闇 討 ち に 関係 した ラダイ トた ち の追跡 に労 を惜 しまず ,激 しい断 固 と した行動 を非 常 に うま くや ったので ,彼 は超 自然 力 に助 け られ て い るの だ と信 じ られ た。そ して そ れか ら何年 も後 の薄暗 い冬 の夜 , ヒール ド邸 の 回 りの畑 に忍 び入 った村人 たちは, ロバ ー ソ ン牧師 が不思議 な赤 い光 の 中 で 踊 って お り,黒 い悪 魔 が彼 の 回 りで ぐる ぐる と踊 り回 って い るのを窓 ごしにほ ん とに見 た と言 った。彼 は大 きな男子校 を経 営 して いて,生 徒 に尊敬 され る と共 に恐 れ られ て もいた。彼 はそ の意志力 に加 え て,冷 酷 な気質を持 って お り,そ の冷酷 な気質 は,言 う ことを きかない生徒 のために非 常 に変 わ った異 常 な罰を考 え 出 させ た。た とえば,彼 は言 う ことを きか ない生徒 に両方 の手 にそれぞれ重 い本 を持 たせ て教 室 の 隅 に片足 で立 たせ た。 またあ る時 ,一 人 の少年 が家 に逃 げ帰 ると,馬 に乗 って追 いか けて両親 に少年 を返す よ う求 め. ,. 少年 を 自分 の馬 の くらの あぶみ に ロープで縛 りつ けて, ヒール ド邸 まで の何 マ イル もの 道 の りを,馬 の横 を走 らせたので あ る。 彼 の性質 を明 らか にす る実例 を も う一 つ 示 そ う。彼 は女 中 の ベ テ ィに「 恋.

(21) 58. 「 シャー ロット・ブロンテの生涯』. 人」が い るのを 知 ると,好 機を うかが い,つ いに リチ ャー ドが 台所 にい るの を見 つ けて,生 徒 がみな集 ま ってい る食堂 に入 るよ うに命 じた。それか ら彼 は リチ ャー ドに ベ テ ィを追 い 回 して いたのか と詰問 し,彼 が本 当 の ことを 自 状 す る と,「 みん な, こいつ を ポ ンプの所 に連 れ て行 け/」. と命令 した。か. わ いそ うに この恋人 は 中庭 に 引 き 出 され,ポ ンプで水をか け られた。 そ して び し ょぬれ に され る度 に「 ベ テ ィの後を三 度 と追 い 回 さない と約 束す るか」 と問い つ め られ た。 リチ ャー ドが 大胆 に もなか なか屈服 しない と,「 さあ. ,. も う一 度水 をか けろ/」 とい う命令が飛んだ。そ して つ いにその哀 れな び し ょぬれ の「恋人」 は屈 して ベ テ ィを あ き らめ させ られ たので あ る。 ロバ ー ソン氏 の よ うな ヨー ク シ キー気 質 は,馬 に対 す る彼 の愛着 ぶ りを述 べ なけれ ば完全 に説 明 した とは言 えないだろ う。彼 は非 常 に長生 きを して. ,. 1830年 代 の終 わ りの1840年 近 くに亡 くな ったが,80才 を過 ぎてか らも じゃじ ゃ馬を馴 らす のが とて も好 きで,馬 を静 め るの に必要 とあ らば,馬 の 背 の上 で30分 以上で も じっと動かず にいた 。あ る時彼 はかん じ ゃ くを起 こ して妻 の お気 に入 りの馬を 射 ち殺 し,石 切場近 くにその死 体 を埋 めたが,数 年後 ,そ の土地 が不思議 に も 口を あけ白骨が姿 を現 した, と今 も噂 されて い る。 しか し真相 は こ うな ので あ る。年 とった馬を殺 して 楽 に してや るのは慈悲の行為 で あ り,馬 の苦 しみを取 り除 いてや るため に彼 は 自 ら射 ち殺 して埋 めたが. ,. そ こは後 に石炭採堀 のために地 盤が沈下 して骨 が 出て来 たので あ る。 この よ うに ゆがんだ話 が 伝 え られ て い る こ とか ら,彼 が今 も一 部 の人 び とに敵意 を もって見 られ て い る こ とがわか る。 しか し他 に彼を敬意を こめて思 い 出す近 郊 の牧師 もい るЭその牧師 は,老 齢 の彼がた くま しい 白馬 にまたが リーー 誇 りと威厳 に満 ちた態度で ,鋭 い 目を聖職 帽を深 くかぶ っておおい一― まるで よろいを着 た まま死 んで行 く忠実 な兵士 の よ うに 日曜 日のお 勤め に 出か け よ うと して一― 自分 の家 の あ る丘 を下 って行 く姿 を覚 えてお り,ま た彼 の良心 へ の誠実 ・ 義務 のた めに払 う犠牲 ,信 仰 の 固守 な どを 高 く評価 して い る。彼 が非常 な高 齢 にな った時 ,礼 拝規定会議 が 開かれ,そ の席 で 彼 と同 じ教 団 の 人 び とは,深 い尊敬 と敬 意を表 す感謝状を進 んで 彼 に贈 ったっ.

(22) ギャスケル夫人著・和知誠之助訳. 59. これ は ヨー ク シ ャー州 の イギ リス国教 会 の牧師 によ く現 れ る強 い気 質 の一 例 で あ る。 ロバー ソン氏 は シ ャτ ロ ッ ト・ ブ ロンテの父 の友人 で あ り,彼 女 が ロ ウ・ヘ ッ ドの学校 にいた 頃,そ こか ら数 マ イル も離 れ て いない所 に住 ん で お り,事 件 の処 理 に深 く関係 していた。彼女 がそれ らの事件 や彼 の果 た し た役 割 につ いて 聞 いたのは,事 件 の あ と間 もな い 頃 で あ った ol) ことで ロ ゥ・ヘ ッ ドの周 囲 の非 国教 徒 の特性 につ いて少 し述 べ てお こ う。 なぜ な らこの 「 トー リー党 の牧師 の娘 は」「 5才 の時 か らず っと政治 に興 味 2)非 国教徒 で 急進 派 の少女 たち とよ く討論 を重 ねて ,自 分 と意 を持 っていて」 見 を異 にす る人 び との状態 に最大限 に精 通 して いたに違 いないか らで あ る。 住民 め大半 は非 国教徒 で,お もに独立教会派 だ った。 ロ ウ・ヘ ッ ドがそ の 一 方 の端 に あ るヘ ックモ ン ドワイ クの村 3)に は, この宗派 の大 きな礼拝堂 が 二 つ とメソデ ィス ト派 の礼拝堂 が一 つ あ り, どの教会 も平 日に開 かれ る種 々 の祈祷集会 に多数 の人 が 出席す る上 に, 日曜 日には2,3度 満員 にな った こと が あ る。 この住民 は教会 に行 く習慣を持 って いたが,説 教 の教 理 には大変 批 判 的 で ,牧 師 に対 して横暴 で あ り:政 治面 で は激 しい急進 派 だ った。 シ ャー ロ ッ ト・ブ ロンテが学校 にいた 当時 のその土地 の ことを よ く知 って い るあ る 友人 は,当 時住民 の 間 に起 こ った幾 つ か の事件 につ いて述 べ てい る一一. ヘ ックモ ン ドワイクの分教会 で起 こ った一 つ の騒 ぎで その当時 の人 び と の こ とが少 しおわか りにな るで しょう。結 婚 したばか りの夫婦 が礼拝堂 に 現 れ ると,最 後 の祈 りの す ぐ後 で会衆 が礼拝堂 を去 りか けて い る時 ,結 婚 祝歌 を歌 う習慣 にな って いま した。 この 儀礼 をす る聖歌 隊はお金 が も らえ るのを期待 して お り,そ の夜 はよ く酒を飲ん で過 ご しま した。少 な くとも その土地 の牧師 はそ うだ と言 って, この 習慣 を止 め させ よ うと決心 しま し た。そ の礼拝堂 の多 くの信徒 や会衆 は, この こ とで牧師を支持 しま したが. 1)初 版では,次 の文は行を改 めてお らず,こ れに続 いている。 2)前 に引用 されたメア リの手紙 か らの引用。本訳 p.139参 照。 3)ロ ウ・ヘ ッ ドはヘ ックモン ドワイクか ら2マ イル以上離れている。. ,.

(23) δθ. Fシ. ャーロット・ ブロンテの生涯』. 民主 的な人 び とが非 常 に強硬 で,牧 師 は非 常 に激 しい反 対 に会 い,路 上 で たびたび侮辱を加 え られ ま した。一 人 の花嫁 が初めて姿 を見 せ ることにな って い る時 ,そ の牧師 は聖 歌 隊 に祝歌 を歌 わないよ うに と言 い ま した。彼 らが歌 うと断言す ると,牧 師 は聖 歌 隊が いつ もい る大 きな座席 に錠をお ろ し,彼 らがそれを こ じあけて 出 て くると,牧 師 は説教壇 の上 か ら会衆 に. ,. 聖歌 隊 の賛美歌 の代 わ りに 自分 が聖 書 の 1節 を読む と告 げ ま した 。牧 師が 最 初 の言葉を言 うか言 わない 内 に, 1人 の 背 の高 い恐 ろ しい顔 つ きの職 工 を先頭 に聖歌 隊が立 ち上 が り,職 工 が賛美歌 を歌 うと,み な声を 限 りにそ れを歌 い,礼 拝堂 にいた彼 らの仲間 も歌 に加 わ りま した 。聖歌 隊 のや り回 に賛成 せ ず に牧 師側 につ いてい た人 び とは,賛 美歌が終 わ るまで すわ った ままで した。それか ら牧 師 はふ たたびその 1節 を 示 して 読み上 げ説教 を し ま した 。彼 が ち ょぅど祈 りを終 え よ うと した時 ,聖 歌隊が立 ち上が. り,別 の 賛美歌 を声 を 張 り上 げ て歌 い 出 しま した 。 こ ぅした恥ず べ き騒 ぎが 何週 間 も続 き,そ の感情 は余 りに激 しか ったので,ぃ ろいろな人 び とが 礼拝堂 の 庭 を通 る時 たいて ぃ な ぐられ た りす るほ どで した 。 つ ぃに この. 牧 師は この 地 を去 り,会 衆 の 中 の最 も温 厚 で立 派な人 び とも牧師 と共 に 多 く去 って行 き,聖 歌 隊 の人 び とが勝 ち残 ったのです 。 この時 ,ヘ ックモ ン ドワイ クの本教会 で,牧 師 の選択 に 関 して非常 に激 しい論争が あ ったので,騒 じょう取 締 り令 1)を 教会 の 集会 で 読み上 げね ば 2) な らなか った と思 い ます 。. た しか に10年 か12年 前 ,ハ ワー スの レ ッ ドヘ ッ ド氏 を無理矢理 い 追 出 した 「 自称」 キ リス ト教徒 た ちは,一 方 は イギ リス国教会員 で,他 方 は非 国教徒 と呼 べ よ うが,ヘ ックモ ン ドワイ クの「 自称」 キ リス ト教徒 た ち と兄 弟 関係. 1)1715年 発布 された もので, 12人 以上の者が不穏な集会を催 した際, 官憲が この 条 令を読み上げ,解 散を命 じて も応 じない者 は重罪 に処せ られる。. 2)ヘ ックモン ドヮィクの非 国教徒は,. この話に大変立服 した。J・ J・ ステッ ド氏 がク レメ ン トoシ ョ_タ ー に伝えたのによると, 本教会 の牧師は1823年 満場一致 で選ばれ,1862年 に死去するまでその職 にあ った 。.

(24) ギャスケル夫人著・和知誠之助訳. δZ. に あ る大変異教 的 な人 び とだ った。 さきほ どその一部 を抜粋 した手紙 は,す べ て シ ャー ロ ッ ト・ ブ ロンテが学 生時代 を過 ご した場所 のす ぐ近 隣 の人 び とに関連 してお り,ま さにそ の 当時 の あ りの ままの様子 を描 いて い る。そ の手紙 を書 いた友人 は次 の よ うに言 っ て い る。. 農村地帯 の下 層 階級 におけ る礼 儀 正 しさに慣 れ ていた私 は,ヘ ックモ ン ドワイ クや ゴマ サ ルの労働階級 の人 び とが 階級 の上 の人 び とに対 して見せ. た非 常 ななれなれ しさが, 最初 はとて もいやで幾分驚 きました。『 小娘」 とい う言葉 はランカシャー州での F若 い娘」 という語 と同 じく, どの若 い 女性 にも気 軽 に使われていました。村人 の非常 にだ らしない様子 に,私 は 少なか らず驚 きました。もっとも,主 婦 たちを公平 に評す ると,家 自体 は 不潔 ではな く (商 売 が うま く行かない時以外は)農 村地帯 ではあまり見 ら れないほど大体裕福 そ うで した。家 の戸 回の片側 に積 まれた石炭 の山,そ の反対側 の ビール醸造用 の樽,そ れ に歩 いているとよ くにおって くるモル トや ホ ップ な どで ,た いて い どの家 庭 の炉 で も火 を もや し「 家庭醸造」 を して い るのがわか りま した。 また, ヨー ク シ ャー州 のお もな美徳 の一 つ で あ る親切 な もて な しも欠 けて はい ませ んで した。オ ー トミール 製堅焼 き ビ ス ヶ ッ トにチー ズや ビール が訪 問者 に惜 し気 もな く勧め られ ま した。 ヘ モ 『 講 義」 と呼 ばれ る半 ば宗教 的 で 半 ば社交 的なお祭 りが,毎 年 ック ン ドワイ クで開かれ てい ま した。それ は非 国教徒 の時代 か ら受 け継 がれ た 1)あ る平 日の夜 ,分 教会 で 誰 か外来者 によ る説教 が あ り もの と思 われ ます 。. ,. 翌 日には二 つ の説教 が続 けて 本教会 で され ま した。 もちろん,そ の礼拝 は 大変 長 い もので,時 は 6月 で大変暑 い こ とが多 いので ,私 と仲間 は少 しも 楽 し くない朝 の過 ごし方 だ と思 つて い ま した。その 日の残 りは親睦的な楽 しい もので した。見 知 らぬ人 も非 常 に多 くこの場所 に集 ま り,玩 具 や シ ョ. 1)こ れは1761年 に,当 時 ヘ ックモン ドワイクの組合教会派. (コ. の牧 師 だったジェイムズ・ ス コッ 卜師 によって始め られ た。. ング リゲイ シ ョナル).

(25) 62. 「 シャーロッ ト・ ブロンテの生涯』. ウガ入 り菓子 パ ンを売 る屋台店 も並 んで (一 種 の『祭 日の市 』1)),い なか家 もペ ンキや水 しっ くいを少 し余分 に塗 って,ま った く祭 日 ら しい様子 を見 せ ま した。 ゴマ サ ルの村 (シ ャー ロ ッ ト・ ブ ロ ンテの友人 「 メア リ」 が家 族 と共 に 住 んで いた所 )は ,ヘ ックモ ン ドワイ クよ りは るか に美 しい所 で すが,そ の村 に切 り整 えて ない粗 石 で造 った風変 わ りな建 物 が あ り,そ の石 の多 く はかな り突 き出て いて,無 恰好 な頭 と,に たにた笑 ってい る顔が彫 って あ. り,戸 日の上の石 には大 きな字で F恨 みの館」 と刻んで あ りました。 これ は村のある男が,谷 間の美 しい景色を見渡せ るすば らしい家を建てた競争 相手 の家 の向か い側 に建てたもので, この恐ろしい建物 はその眺めをまっ た く閉ざして しまったのです。 恐怖 の念 も持 たず一― 優 しい ミス ・ ウ ラーの 8,. 9人 の生 徒 は,こ の よ う. な人 び とを よ く知 って いたので,恐 怖 の念 も持 たず ,と 言 え よ うが一― この よ うな人 び との 中 で生 活 し,散 歩 して 回 ったので あ る。 ミス 。ウ ラー 自身. ,. この粗野 で 激 し く荒 々 しい人 び との 中 に生 まれ 育 ったので あ り,彼 らの荒 々 しい作法や反抗 的 なや り方 の下 深 くに,優 しさと誠実 さが あ るのを 知 ってい た。 そ して この少女 た ちは 自分 た ちの周 囲 の小 さな世 界 の こ とを,ま るで 唯 一 の世界 かの よ うに話 し, 自分 の意 見 を 出 した り会合 を した り,ま た年上 の 人 び と一― おそ らく目上 の人 び と一一 と同 じよ うに激 しい討論 を した 。そ し て 彼女 た ちの 中 で,だ れか らも愛 され尊 敬 され ,時 折 は少数 の人 か ら笑 われ る こと もあ ったが,け っ して 陰 で は笑 われ ることな く,一 人 の美 しくない近 視 の,妙 な服 装 を した学 問好 きの少女が 1年 半 の 間生 活 した 。 この少女 が シ ャー ロ ッ ト・ ブ ロ ンテで あ る。 (こ. れ は『 甲南女子大学 ・ 英 文学研究』第 12,13号 の訳. に続 くもので あ る。未 完 。 ). 1)復 活祭などの教会祝祭 日に開かれた市で,余 興や娯楽 も行なわれた。.

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