偉
『歎異抄』 の宿業観
一十三章を め ぐ っ てー
張
一 三 二 「歎異抄」 は、 親鸞 白身の手で書かれた も ので はな く 、 親鸞に常につ き したがっ ていた弟 子唯円房が親鸞か ら じかに聞いた さ ま ざまな話 を書き記 した も ので あ る。 「歎異抄」 は、親 鸞の常常話す と こ ろ 、 考える と こ ろ をいきいき と伝 えてお り、 親鸞の息遣い と共に動いて いる言葉 を感 じ られ る。 親鸞がも っ と も他者に伝 え よ う と し た も の、 日々親鸞のそばにい て、 その声を聞いて いた人間の心にも っ と も深 く 残 された親鸞の言葉が 『歎異抄』 によっ て伝 え られてい る と い え よ う 。 喩 えて言 う な らば、 一語一語は鐘 の音のよ う で あ る。 音は、 人々の心を強 く う ち、 常識的な人間心理に揺 さ ぶ り をかけ、 またその響 き は時を越えて長 く 響いて い く と 言 う 感 じ を与 えて い る。 それに対 して、 『教行信証』 は親鸞の長年の思考の結晶で ある。 親鸞の優れた漢文の教養 と正確な仏教知識で書かれた 『教行信証』 は、 一文一文字を厳密に使い分け、 そ の一つ一 つに深い意味を こ めてい る。 「教行信証」 は冷徹な思考が深層の うね り にな り なが ら、 深い 感激の言葉が灼熱の宗教生命の火花を散 ら してい る。美 しい滑 らかな漢文で表出される『教 行信証』 を読む と き 、 そ の一行一行に深い悲 しみ と し み じみ と し た喜びが行 き渡 り広がっ てい く のを感 じ させ られ る。 「教行信証」 は、 本願海に生きて い る親鸞の深い信心 を人々の 感覚に染み込ませ る力 を持 っ てい る。 私は 「教行信証」 と出会っ て か ら十一年来 「教行信 証」 を繰 り返 し て読み続 けて きた。 そ のあいだ 、 そ こ に引用 された原典 も 、 た く さん読ん だ。 本論で は、 長年の学び を踏ま え、 仏教の基本原理 を根拠に し 、 「教行信証」 の言葉 を裏 付けに し な がら 『歎異抄』 の十三章の宿業の真意を忠実に探 っ て行 き た い と思 う 。 今までの研究によれば。 『歎異抄』 は異な る こ と を嘆ず る書物で ある。 何に異な るか。 何 を嘆ず るか。 『歎異抄』 の序によれば次のよ う で ある。 「歎異先師口伝之真信」 と、 真信に異な る。 真 (真如・大いな る真実) と信 (如来から賜っ た信心。 いずれ も 人間の計 らいの レベルのも で はない) は歎異のポイ ン トで ある。 真信には じ め
宿業 と 中道
異な る こ と を 嘆 く ので ある。 異な る こ と は、 具体的に言 えば、 「以 白見之覚悟」 「乱他力之 宗 旨」 「自見の覚悟 を も っ て 他力 の宗 旨を乱る こ と」 で あ る。 す な わち 、 他力 を基準に し て 、 人間の計 らいの不正を歎ず る。 『歎異抄』 の十三章は、 唯一の親鸞の宿業観を あ らわす ものと して注 目されてい る。 に のほかに親鸞の著作のなかに宿業 とい う言葉も ない し、 直接宿業を語る文も ない) -一 一 一 一 一 十三章は じ めに次の よ う に述べてい る。 「弥陀の本願 不思議におわ し ませば と て 、 悪をおそれ ざ るは、 また、 本願 ぼこ り と て 、 往 生かな う べか らず とい う こ と。 こ の条本願 を う たが う 、 善悪の宿業を こ こ ろ え ざ るな り。」 こ こ で 、 1 本願誇 り 2 本願誇 りへの批判 3 本願誇 り を批判す る も のへの批判 と い う 三つ の立場があげ られて い る。 1 本願誇 り 一 口に本願誇 り と言っ て も 、 具体的な 内容 を見れば、 自ら悪 を作 り、 往生 の因に し ょ う とす る 「自力作悪」 と 、 本願 に甘え、 附けあが り、 本願 を楯に し 、 本願の慈 悲に甘 えて 、 悪事 を慎むこ と な く 、 ほ しい ままに悪い こ と をす る 「作悪無碍」 と い う二種 があ る 。 2 本願誇 りへの批判 これは常識的な考え方で ある。 善悪平等に衆生 を救 う本願 があっ て も 、 悪 を恐れ慎み、 で き る限 り悪い こ と を し ない よ う に努力すべ し。 悪 を恐れ慎む こ と を知 らな い も の、 如来 の本願 を大事に し ない、 悪 を恐れ慎まない も のは本願誇 り と い う も ので あ るか ら往生がかなわない も の と い う。 浄土教が盛んにな っ た と き 、 本願 の大悲を誤 解 し、 こ こ に挙げ られたよ う な現実は確かにあっ た よ う で ある。 法然の七個条起請文にも 「弥陀の本願 を頼む も のは造悪を おそ る る こ となかれ と、 と く こ と を停止すべ き こ と」 とい う 門弟 の中のそ う い う 誤解 に対 し て戒 めを促す条 目がある。 (1) 親鸞の門下に も そ う い う誤 解 があ る よ う であ る。 親鸞の 「御消息集」 に 「往生に さ は り な ければ と て 、 ひがこ と を こ のむべ し と はまふ した る こ と さ ふ らわず、 かえす がえす こ こ ろ えずおぼえ さふ らふ。」 (2) と い う言葉に も 当時の時代現実が伺 え る。 3 「本願誇 りへの批判」 への批判 批判者が本願 を疑い、善悪の宿業 を心得ない と の批判 で あ る。 以上 は次の三つ の対立構 図に な る。 ① 本願誇り (作悪無碍・ 自力作悪) (絶対に本願に帰依する者) 一本願誇りの批判者 (賢善精進 ・ 自力作善) 誤 正 以上の正誤 関係 を逆転 し て 、 批判者 を批判 さ れ る場 にお く 。 ② 本願誇 り の批判者 (賢善精進 ・ 自力作善) 一 本願誇 り の批判者 を批判す る唯円房批判 され る内容で ある 「本願誇 り」 を 「絶対に本願 に帰依す る者」 と し て定め、 批判 さ れる方が正 しい と、「そ の人を も本願誇 りだ と て往生かな うべか らず と い う のは間違いで あ る」 とい う 。 すな わち、 批判 さ れる ものの身に焦点 を絞 り、 こ の人間について の正 と誤に、 唯円房 の立場を選ぶ。 批判 さ れ る も のを正、 批判す る方 を誤の場 にお き、 間違 っ た と 、 こ れまで の正 と誤の関係を逆転す る。 即ち、 本願誇 り を次元的に高め、 高め られた時点に唯 円房を置き 、 批判者に対 して批判す る。 こ こ で唯円房 と批判者の高い次元での対立関係が 成立す る。 曽我量深 はそ う い う香月院の言葉 を 引用 し なが ら、それを深 めて、 「人間の小 さ い計 らい で如来 の本願 を計 ら っ て い る」、 「自分は善 も悪 も 知 らな い も の」 (3) と述べて い る。 すな わち 、 唯円房の批判 を人間の身で はな く 、 往生かな う かかなわないか と い う人間の 計 らい にす えて い る とい え よ う。 曽我の言を踏ま えてみれば、 唯円房 は批判者 と批判 され 誤 正 以上によれば唯円房が、 本願誇 り の批判者 を賢善精進 ・ 自力作善のも の と し て批判す る 点につ いて は問題 はな い と思 う 。 こ こ で 、 唯 円房 の立場 につ いて 考え て い く と も っ と深い と こ ろ にい ける と思 う。 香月院深励は、 「本願誇 り を邪見の本願誇 り」 と 「信心を得た る本願 ほこ り」 に区別 し、 後者の願誇 りを絶対に本願に帰依す る、 本願に頼 る とい う意味で肯定的に解釈 し てい る。 香月院の受 けと め方は次のよ う で ある。 ③ 本願誇 り (絶対に本願 に帰依す る者) 一 本願誇 り の批判者 (賢善精進 ・ 自力作善) 正 誤 一 三 〇 る もののどっ ち の立場に立っ て い る ので はな く 、 批判 さ れる も の も批判す る も のも同 じ よ う に人間のはか らいで本願 を疑い、善悪の宿業 を心得ない も の と して批判 し て い る と思 う。 それは次に出て きた親鸞 と 唯円房 と の問答の言葉 にも はっ き り明示 さ れて い る。 唯円房は まず 自己の身を親鸞の立場において 、 「本願誇 り」 と 「本願誇 り の批判者」 を両極端に揺れ 動いて い る人間の計 らい の働 き と し て 同時に批判す るのであるが、 親鸞の言葉 を語 り伝 え る とい う と こ ろ で (そ の後の唯円房 と親鸞の対話 の中)、 「正」 におかれて い る 自己の立場 を根底か らひっ く り返す要素 を 自己の言葉のそのも のの中に用意 して い る。 それ は本願誇 り と本願誇 りの批判者 を見て い る眼差 し、 本願 と宿業 と い う 二重のま な ざ し に よ る も ので ある。 そ のまな ざ し に総て の人間がみ られて い る 。 人間は誰 し も そ のまな ざ し か ら脱 がら れな い 。 こ の十三章は第三章に照 ら されて みれば第三章 も 同じ よ う に受 け止 め られ る。 善人は悪 人よ り往生で き る と い う のが常識的な説で あ る。 悪人を他力 を頼み奉 る悪人 と と らえ、 悪 人は善人よ り往生で き る とす る と き 、 高い レベルの善・悪、 正・誤の対立関係が成立す る。 それよ り さ らに次元的に高 く な るのは、 親鸞の人間全体 を悪人 と して捉 え る と い う と らえ
方 で あ る 。 「凡夫はも と よ り煩悩具足 し た る ゆへ にわ る き も の と お も ふべ し 。」 (4) こ のよ う に し て第三章の言葉に照 ら して 見る と 、本願 と宿業 とい う二重のまな ざ し に見 られた のは、 人間存在の絶対平等性、 悪 と して の絶対平等性 とい う こ と で ある。 こ うい う親鸞の言葉に う らづ け られて、 唯円房の歎異は現実性 と普遍性 とい う二重性を 持 っ て く る。 まず時代 の現実性で ある。 すべて の仏教の教 えは、 当時の時代の現実の出来 事や具体的な 人間存在 に応 じて生 じ る も のなので ある。 それがな ければ、 現実の中で生き る教 え と は言 えまい。 しか しそれだ けな らば、 一時一地の教えにな り、 長 く 生 き続 けてい く はず はない。 すべて の人間を同 じ悪 と し て捉 え る こ と に よ っ て こ そ 、 具体的な時代、 具 体的な 出来事、 具体的な人間を越 えて、 も っ と も普遍的な 意味を も っ て く るので ある。 唯 円房の歎異は仏教 の基本原理か ら見れば、も っ と も普遍的な人間救済の意味を持 っ て く る。 それは仏教用語で言えば、中道の立場に立っ て、人間の計 らいの両辺見に対す る歎異で ある。 仏教の中道 とは次の よ う で ある。 仏教に よれば、 目に見 え る現象世界の中に、 大いな る 真実が働 いて いる。即 ち世界は現象 と大いな る真実 と い う二元的な存在で ある。それは 『教 行信証』 のな かで 、 有為法 と無為法、 世間 と超世間、 広 と 略等の関係で表 されてい る。 そ う い う二元的な世界は、 「異而不可分一而不可同」、 「広略相入」 (5) と し て の存在で ある。 そ れ を如実 に一如 と して と ら え る と き は と ら え られ る世界像 は真如 ・自然 ( じねん) で ある。 し か し 、 人間の心 は。 現象 に と らわれ、 形のある も の し か見 えな く な っ て し ま う 。 そ し て 、 有か さ も な ければ無 と 、 も のご と を 両極端に と ら え る こ と にな っ た。 有に偏 る こ と を執着、 無に偏 る こ と を虚妄と い う。 そ うい う人間の心を仏教用語で言えば 「両辺見に陥る」、 妄念 に と らわれ る とい う こ と で あ り、 無明 と い う。 「無明何義。 謂体非明。」 (6) これは 目に見え る よ う な 形 と して の明がな い とい う意味で はな く 、 明が体 と し て働いてい るが、 形のある も の しか見え ない人間の心が明 と して働いてい る体 を感 じ られな く な る こ と を意味す るの で あ る 。 無明 ( 「悪慧」、 また 「疑」 な ど と もい う) は。 「覆蔽疑網」 (7) と いわれる よ う に人間の心 を覆 っ て 、 真実に出会 う 障 り にな る。 両辺見に陥っ た人間には、 命の有無に、 生 と死、 財 産の有無 に貧 と富、 知識の有無に賢 と愚、 道徳の有無 に善 と悪 と い う ふ う に有無を基に し て さ ま ざ まな差別観念 が生 じ て く る。 そ い う辺見を破 り、 大いな る真実に 目覚めさせ るの は、 仏教 の人 間救済の 目的で ある。 二千五百年前に、 釈尊は生 ・ 老 ・ 病 ・ 死 とい う人生の問題に直面 し、 それ を解決す る道 を求めるために、 出家 して求道の道を歩んでい っ た。 そ し て釈尊は大いな る真実に 目覚め 覚者 (仏) にな り 、 それを人夕に伝 え るた めに、 人間救済の道を 開いた。 その道 を仏教用 語で 中道 とい う。 「有」 と 「無」 と い う 両辺見を破 り、 人間を大いな る真実に 目覚めさせ る 「正念」、 「正覚」 の 「中」 で ある。 それ は儒教思想の 「中庸」 と根本的に異な っ て い る。 儒 教思想の 「中庸」 の 「中」 は、 人間の智慧によ っ てバ ラ ンス を と り、 物事 を両極端に し な 一 二 九
宿業 と縁起
い よ う に保つ、 人間の計 らいで のも ので あるが、 仏教の中道は、 人間の計 らい を根底か ら 破 る と こ ろ に実現 され る絶対の 「中」、 大いな る真如 ・ 他力に よ っ て実現 さ れ る 「自然法 爾」 の 「中」 で ある。 「随順法相、 不乖離法本」 (8) の 「中」 で あ り、 大い な る真実に出会 う こ と によ っ て得 られ る 「中」 で ある。 -一 二 八 宿業観 とい う言葉は 「歎異抄」 の中で 、 特に第十三章の中で 強 く 位置づ け られてい る。 仏教に見 られる人間存在の絶対平等性、 本願 と宿業のまな ざ し によっ て もた ら された悪 と して の絶対平等性 と前に述べた が、 宿業だ けのま な ざ し に見 られ る と こ ろ に、 そ の絶対平 等性が現れ るはず もない。 宿業のまな ざ しは、 善 と悪の差によ っ て人間の六道の中の存在 す る場 を決める も ので ある。 宿業のまな ざ し こ そ も っ と も差別 の色が強い も ので ある。 む し ろ宿業 こ そ根深い人間差別の元 と言え よ う 。悪 と し ての人間存在 の絶対平等性 は、 なぜ、 宿業に よっ て見 られ る のか。本願 のまな ざ し があ るので あ る。本願 のま な ざ しが現れ る と、 宿業 も また見 られ る も のにな る。 そ こ に初 めて差別の色がな く な り、 同 じ よ う に宿業に操 られ る衆生の絶対平等性が見えて く る。 そ して。 「如来観知。 歴々瞭然 ( 中略) 業果法然、 衆無錯失。」 (9)業 も如来 のま な ざ し に収め られ、 業因業果、 業、 全部如来 の所為で ある。 「業 果法然」 と いわれた よ う に業の因を も業の果 を も 法はそ う させたので あ る。 「本願 を うたが う 、 善悪の宿業 こ こ ろ え ざる な り」 とい う言葉に表 さ れた よ う に。 『歎異 抄』 の宿業 につい て語 る と こ ろ に、 本願 がついて いな い と こ ろ がないので ある。 本願 と宿 業、 それは ど うい う 関係な のか。 またそれぞれ ど うい う ふ う に衆生に働 いて い るのか。 こ のと こ ろは、 「歎異抄」 において のさ ま ざまな謎を解 く 結び 目にな っ てい る。 いままでの研 究はこ の と こ ろ に焦点 を搾 っ て い る よ う で ある。 これが解ければ、 た く さ んの疑問が解 け てい く と思 える。 た と えば、 宿業観 は暗い、 消極的な宿命観を も た ら し がち で あるが、 そ の宿業観がなぜそれほ ど親鸞に よっ て強調 され る のか。 すな わち、 こ の如来 と衆生の間に なぜ宿業のまな ざ し を入れな ければな らないのか とい う 問題で ある。 今まで、 諸先学はこ の問題 を解明す るた めに心血を尽 く し、 努力 されて き た よ う で る。 た く さ んの説の中、 理解の踏み台にな る廣瀬呆 と 曽我量深の教 え を あげてみ よ う。 廣瀬呆 は、 「人間の 目で見 る宿業観 は暗い。」 (10) と述べて い る。 すなわち、 宿業は人間のまな ざ し で捉 え よ う とす る と実体化 され る こ と にな る。 そ のと お りだ と思 う 。 そ こ に仏典の根拠 も ある。 釈尊が菩提樹の下に一週 間座 り 、 大いな る真実に出会 う こ と に よ っ て悟 り を開き 、 如来にな っ た。 悟 っ た 内容は、 最初。 三明 と して 表 さ れた。 三明の一つ は、 す な わち宿命 明 (宿業明) で ある。 (それは、 後四諦 と十二因縁 に と して理論化 さ れた 。) す な わち、 如来と し て悟 り を 開 く こ と に よ っ て初 めて宿業 を知 る。 逆 に言 えば、 悟 り を得て いな い人間、 無明にな っ た 、 形のある も の しか見えない人間は宿業 を知 るはず も ない。 知 っ た かのよ う に思 っ て も 、 それは人間の計 らいの レベル に引きず り下ろ された も のにな り 、 実体化す る も ので あ る 。 曽我量深 は次のよ う に述べてい る。 「宿業の内に我等は如来に出会ひ、 また宿業 を通 して 仏は衆生に く る。 宿業の内に於て如来 と衆生があ る。」 (11) 宿業の中にこ そ、 私た ち と本願 と 出会 う場 があ る。 如来 の不思議 はわれ らの宿業を通 して感 じ させ られ る。 宿業 を通 さ な ければ、 本願 の不思議を知 る こ と はで き な い。 これ も私た ち が親鸞の宿業観 を理解す る う えでの重要な足がか りだ と思 う。 『教行信証』 に引用 された善導の二種深信についての言葉 もそれ を裏付けてい る。 (12) 信 は如来 よ り賜 った信心で ある。 衆生の身にいただい た信の中 に、 宿業 と如来 とっ なが り、 また こ の信の中に、 衆生 と宿業、 衆生 と如来 と つな がる。 仏教 の基本原理にも っ と も 導いて く れ る教え は、 『教行信証』 の中での親鸞 の次の言葉で あ る。 「弘誓強縁多生巨値」 「遠慶宿縁」 (注 宿は、 仏教用語 と し て 、 過去世 を意味す る。) (13) 弘誓 と宿業は縁によ っ て重な っ てい る。 また 、 「値 う 」 と 「慶ぶ」 の主体に よっ て、 衆生 は如来、 そ し て宿業 とつ ながっ て く る。 「縁」 は一字千鈎で あ り一字で仏教の宿業観のエ キ ス を捕 ら えて い る と思 う 。 こ の親鸞の教え を手がか り に し て仏教の宿業観の基本 的な知識 と原理 を元に し て、 『歎異抄』 が伝 えて き た親鸞の宿業観の真意を探 っ て いき たい と思 う。 業はある行動が起 こ っ た後、 残 された未来の行動に影響 を与え る潜在力を意味す る。 宿 業は過去世に残 された、 現在世に影響 を与 える業で ある。 人間が業 に操 られ る と 六道 に落 ち、 六道 を め ぐ り輪廻転生を続ける。 いわゆる生死流転はそれ を意味 し てい る。 業に善業 と悪業があ り、 善業は人間を三善道にいかせ、 悪業 は人間を三悪道 にい かせ る。 善業 も悪 業 も 自我執着心の働き に よ っ て生 じ る業で ある ので 、 汚染業 と いい 、 人間が向かわせ られ る善道 も悪道 も六道の中の存在で あ り、 業 に操 られ る根土的な存在 であ り、 生死流転 とい う 生か ら身 を抜 き出す こ と はで き ない。 それに対 して如来の働 き に よっ て生 じ る業を清浄 業 とい う 。 それは人間を浄土にいかせ る。 人間に真の解脱 を与え る。 (浄業 一 清浄な る 業。 如来の働 き によっ て 生 じ る業。 浄土 と は清浄業 に感応 され る国土で ある 。) 仏教以前 に流布 してい た宿業観 において は、 業は人間の計 らい を超え て、 固定不変な因 果応報 を も っ て 、 人々の運命 を操 る。 それ は固定不変な因果応報 を強調 し、 消極的な宿命 観 を も た らす。 それに対 して 仏教 の宿業観 は縁起を強調 し 、 変化す る可能性 を も た らす。 仏教 は今 まで の宿業観 を説 き な が ら、 そ の宿業観そのも のの中にす え られ た消極的な宿 命観 をひ っ く り返す き っ かけを用意 し てい る。 そのき っ かけは、 即 ち縁起で ある。 物事は縁 によ っ て生 じ 、 ま た縁 によ っ て転換 し、 消滅 して い く と い う 説で ある。 一 二 七
縁起 を 中軸に し た仏教の宿業観は、 重層的な人間救済の機能 を も っ て働いて い る。 仏教 の宿業観は、 六道のイ メ ージ、 地獄の極苦、 宿業の恐 ろ し さ を語る が、 縁起に よれば、 そ のナベ て は、 非有非無で ある (有で も な い無で も ない)。 非有 と は、 有形のも の と して 、 こ だわっ てい けな い も ので ある。 非無 と は、 無視 し て はいけない とい う 意味で ある。 す なわ ち、 隠顕二意があ り、 有形のも の と して語 られ る のは、 顕意で ある。 そ の顕意は、 縁起に よっ て 、 裏に据 え られ る隠意にひっ く り返 さ れる。 し たがって 、 仏教の宿業観 が人々の人 生感覚に与え るのは、 具体的な も のへの恐怖 よ り 、 生死流転す る生の底無 し 闇への実感で ある。 仏教の宿業観はそれ以前の宿業観 と質的に転換する と こ ろ に消極的な宿命観の要素を切 り捨て た。 切 り捨て るべ き も のを切 り捨てず に従来のまま に受 け止 めたた めに、 「歎異抄」 の宿業観の解釈が藪に入 っ て し ま う よ う で ある。 今までの常識的な業 について の受け と め 方に、 業を悪い もの、 衆生側のもの捉えてい るのは大きな誤解 がある と思われ る。 縁起思想は、 宿業観 を通 し て 、 人生のすべて を救済の機縁に結び、 救済への通路を 開い てい る。 「業因業生業因業滅」 (14) 業は業 に よ っ て 生 じ 、 業によ っ て滅 し 、 ま た業そのも の によっ て転 じ られて い く 。 「業因」、 「業果」、 「業縁」 等の言葉に見 られ る よ う に、 業そ のも のは因で あ り、 果で あ り 、 ま た縁で ある。 業は縁で あ りな が ら、 業そ のも のも縁 によ って 生 じ、 縁によっ て滅 し 、 また縁 よ っ て転 じ られて い く ので ある。 縁起によれば、 人生のすべて は縁で あ る。 執着心は煩悩の根源で あ りな が ら、 それ も救 済 され る縁で あ る。 「一切無明煩悩等結悉是仏性」 (15) 「如人乗馬亦愛亦策。 ( 中略) 愛故受生 厭故観行」 (16) 人が馬に乗 る と き は、 愛 し な が ら鞭打つ。 人生を愛着すればこ そ、 それ を 自 己のも の と して 受け入れ よ う とす る と、 厭い を生 じ、 最も よい も のを求めるた めに仏道に 励む。 「高原陸地不生蓮華、 卑湿汚泥乃生蓮華。 是喩凡夫在煩悩泥中、 為菩薩開導能生仏正 覚華。」 (17) 罪悪煩悩の泥沼に もがいてい るか らこ そ、 蓮の花を咲かせる可能性がある。 仏教の宿業観 は、 縁起 によ っ て消極的な宿命観 を切 り捨て、 仏教以前の宿業観 に質的な 転換を も た ら し た。 親鸞の他力の救済が、 仏教の宿業観 を空間的 ・ 時間的背景に して展開さ れた こ とは、 親 鸞の言葉の背景 を探 っ て いけば、 異議のない こ と だ と思 う 。 『教行信証』 に も 「業」 と い う 言葉を た く さ ん使われ る し、 「業因」、 「業縁」、 「業果」、 「業系」 等の言葉 も表れ る。 と こ ろ が、 親鸞の著作の中で、 引用文にも 、 自身の言葉 にも 、 六道の具体的なイ メ ージ、 宿業の 恐ろ し さ を表す言葉は、 ほ と ん どな い。 親鸞の著作のなかの業の言葉は、 罪悪煩悩の根深 さ 、 救済の機縁の有 り がた さ 、 仏力の不思議 さ を強調す るのに使われてい る。 宿業の と ら え方に於いて は、 隠顕 と い う二重性 を持 っ て い る仏教の宿業観 の中の顕意が希薄化 され、 隠意がよ り明 らかに されてい る と考え られる。 宿業観に根源的な質的な転換を も た らす と こ ろ にも っ と も肝心な言葉がある。 それは清 一 二 六
● ● 浄業 と い う 言葉で ある。 こ の言葉の最初の出所は 「観無量寿経」 で ある。 「汝当繋念諦観彼国浄業成者。 我今為汝、 広説衆響、 亦令未来世一切凡夫欲修清浄業者、 得生西方極楽浄土。 欲生彼国者、 当修三福。 ( 中略) 如此三事、 名為浄業。」 「如来今者、 為未来世一切衆生為煩悩賊之所害者、 説清浄業。 (18)」 清浄業について隠 ・ 顕 と い う二元的な意味を語っ て い る こ と か ら。 従来浄業は如来のも のか衆生の も のか と、 受 け止 め方 が二つ にわかれて い る。 す なわち 、 浄業は所観 (観 され る も の ・如来) にあ るか、 それ と も能観 (観ず る も の ・衆生) にあるか と い う こ と で あ る。 それに 「此三事 (修三福) 名為浄業」 と断言 し てい る こ と で 、 「浄業は能観にある」 と い う 捕 らえ方が圧倒的に多かっ た。 善導 こ そ 「浄業は能観 にある」 と は方便で ある と釈尊の真 意を と らえ たO(19) 、 親鸞は 『教行信証』 の 「化身土」 巻に 『観無量寿経』 の隠 ・ 顕二意を 明 らかに し、 浄業 は阿弥陀如来のも のだ と 断言 した 。 (20) それに よっ て 、 浄業の能源 を 明 らかに し た。 「教行 信証」 の中で 、 親鸞は 「清浄」 の 「浄」 を意図的に如来の もの と し て使 っ て い る よ う であ る。 た と えば、 「二河白道」 のな かで 、 浄土の道で ある 「白道」 を 「選択摂取之白業」 と し て と ら え、 「浄」 を如来 のも のを現す 「白」 と し て つ かっ て い る。 (21) 『大無量寿経』 を引用す る際に、 「如明浄鏡影暢表裏」 ゜2) とい う文を 「如明鏡浄影暢表裏」 (23) ● ● 一 二 五 に書き返す。 す なわち、 「浄鏡」 を 「浄影」 に とい う連体修飾語のあ と の修飾 された内容を 置 き換 え る。 そ こ に、 い っ そ う親鸞の 「浄」 と い う 言葉へのこ だ わ り が伺え る と思 う 。 ( 「浄 鏡」 の浄は常識的な きれい さ を表す こ と に対 して、 「浄影」 の浄は世間と 次元的に異な る如 来の レベル のこ と を表す。) 浄業、 こ の言葉の介入 によ っ て 、 業は新 し い深い源 を得て芯か ら色を変えた。 業は業の ま まにそ の働 き が転換 さ せ られ、 衆生への束縛力が解かれた。 衆生を機土に引きず り込む 力が衆生を浄土へ導 く 力 に転 じ られた。 衆生は宿業が内在す る ま まに、 業の操 り か ら解放 さ たので あ る。 宿業 さ え転 じ させ られ る と こ ろ に、 い っ そ う本願 の不思議な 「転悪成徳正 智」 (24) を感 じ させ られ る。 本願 の不思議 と い う こ と について 、 『歎異抄』 の歎異につ いて 。 従来の解釈、 異な り を嘆 く とい う受 け と め方のほかに も う 一つの読み方が可能だ と思 う 。 私見で はあ るが、 歎異を 不思議 を感 嘆す る との と ら え る読み方で ある。 そ の理 由は次の三つ ある。 一は漢文で は嘆 く のを表す漢字 と 、 賛嘆、 感嘆す る こ と を表す漢字を 「嘆」 と 「歎」 に使い分けてい る。 「嘆」 は 口で た め息 を漏 らす のを表す のに対 して、 「歎」 の 「欠」 は気持ちのよい表情を表 し てい る。 例 えば 「歓」、 「欣」。 表情を表す漢字の象形文字 は顔の形に由来す る。 た と え ば、 「苦」 「哭」 「眼」 な どがそれにあた る。 二は 「異」 は確かに異な り を表す が、 それは自 己を超 え る も のを表す文字で ある。 雛形は、 両手で高 く 上げるイ メ ー ジ を表す。 三は 『歎 異抄』 の序 の漢文 もそ う し た受け止 め方 を してい る よ う に読 める こ とで ある。 「先師の 口伝
宿業 と三帰依
の不思議 さ を感嘆す る」 と。 「歎異抄」 の全体の内容を見て も 、 他者への非難 よ り、 本願の 不思議 さ に重さ を感 じ られ る。 これは、 私が 『歎異抄』 や 『教行信証』 を読んでそ の中で感 じ取っ た こ と で ある。 こ の よ う に受け止めるな らば、 『歎異抄』 は時代や具体的な出来事を越 えて 、 も っ と普遍的な意 味を持つ ので はな いか と思 う 。 -一 二 四 「宿業 と三帰依」 について 『歎異抄』 の rうみかわに、 あみ をひ き、 つ り を し て 、 世 をわ た る も のも 、 野や ま に、 し し を か り、 と り を と り て 、 い のち をつ ぐ と も が ら も 、 あ き な い をも し、 田畠つ く りてす ぐ るひ と も、 ただおな じ こ と な り。」 とい う文を手がか り に して、 追求 し てみたい と思 う。 こ の文に挙げ られた例 は、 世間で差別 さ れた身分の低い も ので 、 こ う し た民衆 を愛す る 親鸞の姿勢 と解釈す る も のも ある よ うで ある。 親鸞が民衆の立場に立って いる こ とは間違 いで はないが、 そ こ に と どま る と世間的な上下関係や善悪対立を越え られない。 その裏に は民衆 と支配権力の二元対立が意識 されて いる。親鸞の立場は、仏教の普遍的な人間存在、 人間救済の立場だ と思 う。 「詰はよ ろづ のも のを う りかふ も のな り 、 こ れはあき人な り。(中 略) みな い し、 かは ら、 つ ぶて のご と く な るわれ らな り。」 (25) こ こ で の 「あき ひ と」、 「下 類」 と は、 常識的な社会身分制のな かの人間の中で の一部分を意味ナ るのではな く 、 (注 「よ ろづ」、 万で ある。) 万法一如の万、 「如」 に対 し て 「有」 を、 超世間に対 し て 世間 を、 如来 に対 し て衆生を意味す る。 大いな る真実を一如 と いい、 それ に対 して 、 すべて の現象 を万法 とい う。 「よろず のい き た る もの」 は、 世間に生き てい るすべて の命 を意味す る。 そ して 「- われ らな り」 といわれた よ う にそ の中に 自分 自身も含まれてい る。 したがっ て、 この 「同じ」 は、 先に述べた人間の絶対平等性のまな ざ しで ある。 悪 と し て存在の絶対平 等性 と救済 され る絶対平等性 とい う二重の平等性で あ る。 仏教の宿業観にはそ う い う根拠 があ る。 それは次の二つ面で説かれて い る。 一つ は人間にな る条件で ある。 (16) 「一者不殺。 二者不盗。 三者不邪婬。 四者不妄語。 五者不綺語。 六者不両舌。 七者不悪逞 口。 八者不貪。 九者不眠。 十者不邪見。 於十善業。 訣漏不全。 以是十業。 得人趣報。」 (26 『大蔵経』 第一巻 893 「仏為首迦長老説業報差別経」) 経典に拠れば、 人道 に生き る人は十戒を貫いて守 り な がら、 十善を果たせず に。 中途半 端に してい る と こ ろ に、 転生す る も ので あ る。 こ の人にな る条件はいい加減のよ う で ある が、 実は人間の身にな っ てい る私たちに と って は満たす こ と が不可能なので ある。 こ の人 生の 日々に十戒 を犯 して 一つ も守れないのが、私た ち の存在す る現実で あ る。 こ こ には隠。顕二意の仏教の教 えの特徴が伺 え る。 普通、 戒律 を定めるのは、 対象 を制約す るた めな の で、 対象 とす る者 が実行で き る程度で定めるはずで ある。 そ の時点で たつ と 、 対象 にな る もの とな らな い も の、且つ又実行で き る もの と で き ない も の と い う選別或い は差別 があ る。 しか し仏教が定めたこ の人間にな る条件は、 実は人間で あれ ば誰で あれ、 力 を尽 く して も 満たナ こ とがで き ない も のなので ある。 そ こ に人間の悪 と し ての存在の絶対平等性がおの ずか ら現れて く る。 こ のよ う に見れば、 生死流転 とい え ども 、 今人間界で生 きて い る私た ち に と っ て、 人間の身 を得る こ と は二度 と あ り えない。 その不可能性 に よ っ て得 られる悪 と し て の平等性で ある。 そ の二 は、 地獄 の条件がも た ら し てい る も ので ある。 そ う した人間の今生の後の行方は ど こ か。 「一者身行重悪業。 二者 口行重悪業。 三者意行重悪業。 四者起於断見。 五者起於常見 (筆 者注 断見 と 常見は、 非常非無常 と い う仏教の中道に反 して 、 常 と無常の両極端に執着す る こ とで ある。) 六者起無因見 (万有諸法は原因な く し て生ず る と 主張 し 、 執着す る)。 七者 起無作見 (仏教の 自然の無造作 を極端的に強調 し、 造作 を空無 と して否定す る)。 八者起於 無見 (空無に執着す る)。 九者起於辺見。 十者不知報恩。」 ゜7) と い う 地獄 に行 く 条件がこ こ に用意 されてい る。 そ う い う 宿業の条件で い えば、 地獄 こ そ私 た ち の来世の唯一の行 き場で ある。 逃れ られ る場 も な く 、 人間で あれば逃れ る こ と の で き る も のはいな い。 生死流転す る人生が終わ らない限 り、 地獄に行 く こ と は、 免れない こ と で あ る。 (筆者注 人間にな る業報につ いて 、 総報 と別報の説がある。 六道の中で人間 道に行 く こ と は総報に よ る。 人間道の中で の貴賤、 賢愚、 美醜等は、 別報に よ る と のこ と で あ る。 別報 は人間の差別 の眼差 し に応 じ て説かれ る方便で ある。) 「いずれの行 も及び難き身なれば、 とて も地獄は一定すみかぞかし」 とい う 『歎異抄』 の 言葉 は、以上のよ うな仏教の宿業観 によ っ て裏づ け られてい る と思われ る。 「一失人身万劫 不復」 (28) 「弘誓強縁多生巨値、 ( 中略) 此廻覆蔽迷網、 更復巡歴礦劫。」 (29) す な わ ち 、 「礦 (空 ・絶) 劫 (時間単位、 刹那に対 し て数え切れない大時)」 と い う よ う に時間が絶 し ない限 り、 「無有出離之縁」 (30) 六道の中を め ぐ るほかにな い。 六道 とい っ て も 、 地獄に生 き る ほ かに な い 。 人間存在の立場 に立 ち、 人間 と して の限界を思い知 り 、 絶望の どん底に落 と され、 も は や道 は絶 した。 悪 と し て し か存在 しな い 自己に深 く う なずき 、 地獄のほかに 自己の住む場 がな い と 思い知 り 、 なすすべ も な い と き、 如来の慈悲のまな ざ し は人間の尊い可能性を見 逃 し て はいな い。 罪悪 の泥土重 く 深 く 埋 もれ、 人間のま な ざ し は見え な い、 し か し な が ら、 人間 しか持ち得な い救済 さ れ る可能性 を見逃 し て いな いので ある。 それは、 宿業観 の眼差 し に見 られ る六道の中で の次のよ う な人間の特徴に う かがえ る。 一 一 一 一 一 一
「欲有所作皆先思惟秤量観察。便於種々工巧業処而得善巧。以能用意思惟観察所作事故名 末奴沙 (人の別名)。 (中略) 多騎慢故名人。 以五趣 中騎慢多者無如人故。 (中略) 能寂静意故 名人。 以五趣中能寂静意無如人者。 ( 中略) 人有三事勝於諸天。 一勇猛。 二憶念。 三梵行。 勇猛者。 謂不見当果而能修諸苦行。 憶念者。 謂能憶念久時所作。 諸説等事分明了了。 梵行 者。 謂能初種順解脱分順決択等殊勝 善根。 及能受持別解脱戒。 由此因縁故名人趣 。 (31)(32) 経典にはさ ま ざまな人の特徴があげ られて いる。そ の中に も っ と も救済の縁を結ぶのは、 罪悪 ・ 煩悩、 そ し て抵愧で ある。 六道の中で人間 こそ 自身の存在 を罪悪 と して受 けと めら れ、 またそれ を煩悩 と して感 じ と り 、 更に晰愧に転 じ させ られ る可能性 を持っ て いる者で ある。 「無想愧は名づ けて人 とせず名づ けて畜生 とす。」 (33)(34) これ は比喩で はな く 、 六道の 中で の畜生 と比べて見える人間の特徴 と して いっ たので ある。 「逆誇閏提恒沙無明の川水 を転 じ て、 本願大悲智慧真実恒沙万徳の大宝海水 と な る。」 「煩悩の氷解けて功徳の水 と な る。」 (35) 「悪を転 じて徳 をなす。」 (36) ■ 「かな らず煩悩のこ お り と け す なわち菩提のみず と な る」 (37) 人間こそ、 「本願大悲智慧真実恒沙万徳の大宝海水」 に転 じ られ る 「無明の川水」、 「功徳 の水」 に転 じ られ る 「煩悩の氷」、 転 じ られ 「徳を なす」 「悪」、 溶 けて 「菩提の水」 と な る 「煩悩の氷」 と し て の存在で ある。 転 じ させ られるのは仏縁で ある。 真如か ら来生す る如来は、 人間界 に し か来生 し ない。 六道の中で は人間道 し か宿業の操 りか ら出 られ る出 口はない。 言い換 えれば人間界 にこ そ、 釈迦如来が身を も っ て 涅槃界へ の道を 開いた。 如来は罪悪深重煩悩具足で あ りな がら も っ と も救済すべき で あ る人間に救 済の機縁を恵むので ある。 「世雄悲正欲恵逆誇間提」 (38) 人間界に受生す る こ と は、 六道の迷い を脱 し、 永遠の生を得 る 唯一のチ ャ ンス なので あ る。 人間の身にな る こ と は、 あ りがたい救済の機縁に恵まれ る こ とで ある。 人身 を受 ける こ と は、 (此岸か ら彼岸へ と) 度す る お りがたい機縁で ある。 それ にこ の機縁は一 回だ けの 機会な ので ある。 こ の人生 こ そ、永遠 に終わ ら ない 人生 の道 を定 めな ければな ら な い課題が 「後生一大事」 (蓮如語) と し て課 されて い るので あ る。 こ の人生 をい い加減 に過 ご し て はい けな い理 由も こ こ にあ る と思 う 。 あ りがたい機縁、 一回限 りの機会はこ の人生に恵まれた。 「こ の身今生におい て度ずん ば、 さ らにいずれの生において こ の身を度せん。」 こ の人生こ そ、 宿業 に縛 られ、 生死流転 す る此岸か ら、 解脱の彼岸への道を た どる唯一のチ ャ ンスで ある。 そ の道 を求める人間に はまず三帰依の道が用意 さ れて いる 。 仏教の宿業観は、 衆生の恐 ろ し い宿業の闇への恐怖 を、 宿業の操 りか ら脱 出す る願 いに転 じ させ、 さ らに脱 出道で あ る三帰依 を与え る。 三帰依の道は、 大いな る真実への道、 また私た ちが歩 く こ と がで き る よ うな道である。 一 一 一 一 一
三帰依の道 は、 宿業の操 り か ら解放 され、 も っ と よい人生を求める衆生の願望に応 じて 与え られた道で ある。 それは私た ちの実人生の中に見える道、 自己の足で歩 かな ければな らな い道で あ る。 また、 それ は仏縁で あ り 、 宿業 を縁 に し て、 衆生を仏道 ・ 涅槃道に導 く 道で あ る。 人身受け難 し、 います でに う く 。 仏法聞き難 し 、 い ます で に聞 く 。 こ の身今生において 度ずんば、 さ らにいずれの生 にお いて こ の身を度せん。 大衆 も ろ と も に、 至心に三宝帰依 し奉 るべ し。 自ら仏に帰依 し たて まつ る 。 ま さ に願わ く は衆生 と と も に、 大道 を体鮮 し て、 無上意を 発 さ ん。 自ら法に帰依 し たて まつ る 。 ま さ に願わ く は衆生 と と も に、 深 く 経蔵 に入 りて 、 智慧海 の ご と く な ら ん。 自ら僧 に帰依 し たて まつる 。 ま さ に願わ く は衆生 と と も に、 大衆 を統理 し て、 一切無碍 な ら ん 。 仏教の人間救済において 三帰依の意味につ いて、 親鸞は、 「一切衆生怖畏生死故求三帰。 以 三帰故則知仏性決定涅槃。」 (39) と 『涅槃経』 の言葉 を持っ て示 して い る。 こ こ に帰依す る 側 と帰依 され る側 の二元性が語 られて い る。 帰依す る側で ある衆生はまず生死を怖畏す る 故に三帰を求める。 それは衆生の願い (人間の計 らい ・世間 ・形のある もの)。 しか しそれ を も っ て のゆ え に仏性 ・ 決定 ・涅槃 (大い な る真実 ・他力 ・如来 ・超 世間 ・無形) にな る。 そ し て 、 帰依 され る側 と して の仏 ・ 法 ・ 僧 も 同 じ よ う に衆生の願い に求め られる対象の一 面 (人間の計 らい ・世間 ・形 のあ る も の) と仏性 ・ 決定 ・涅槃 (大い な る真実 ・他力如来の 知恵 ・ 超世間 ・ 無形) と い う 一面 を持 っ て い る。 即ち 、 三帰依の道は仏教の宿業観 と 同じ よ う に、 方便 と真実 と い う二 次元的な人間救済の道が用意 され、 人間救済の法 と して働 く と き 、 有為法 と無意法 と 、 二 次元の世界の働 き を持っ てい るはずで ある。 一 一 一 一 聖典の扉 に書かれた こ の三帰依 の文は、 よ く 三帰依 は仏教の救済にお いて の意味を表わ し て い る。 それは大い な る真実 と 出会 う道で あ り 、 ま た私 た ち が両足を踏み し めて立 ち、 実人生の感覚 を以て歩む こ と がで きそ う な道で ある。 と こ ろ が、 「易往而無人」 (40)。 本 当の 道を見れば、 そ こ に 自己の足で歩いて い る者は一人 も いな い。 なぜか。 「其国不逆転、 自然 之所牽」 (゛ ゜)。 そ の国は人間の計 らいで いける と こ ろ で はな く 、 自然に引かれ てい く と こ ろ だ と い う 。 自我の計 らい を働 かせてい る人間の本質的な虚仮によ っ て、 三帰依の道は常に 人間の打算 に方向を変 え られ てい る。 人間はそれぞれ 自己の思い込みに よ っ て道 を定 め、 違 う道 を歩い てい る。 道が捻 じ曲げ られ、 真の行方が塞がれ見えな く な る。 「大道 を体鮮 し て、 無上意を発 さ ん。」 「衆生 と と もに、 深 く 経蔵に入 りて、 智慧海のご と く な らん。」 「衆
生 と と も に、 大衆 を統理 して 、 一切無碍な らん。」 と願 っ て実行す る時、 最 も思い知 ら され たのは、 自己の足で はな かな か真の帰依すべ き処 ・ 真実の彼岸に到達で き ない遥遥た る道 な ので あ る 。 その理由について 、 『涅槃経』 に次の言葉が語っ て い る。 「讐如因樹則有樹影。 如来亦爾。 有常法故有帰依。 非是無常。 若言如来是無常者。 如来則 非諸天世人帰依処。 ( 中略) 讐如闇中有樹無影。 ( 中略) 汝不応言有樹無影。 但非肉眼之所 見。 ( 中略) 如来亦爾。 其性常住不変異。 無智慧眼不能得見。 如彼闇中無見樹影。」 (41) 衆生 の 自力の三帰依 を 、 闇の中の樹 と そ の影 を見 る こ と に喩 えて い る。 闇の中の樹の影 は、 肉眼で は見えな い。 「名一義異者、 仏常法常僧常。」 (42) 帰依す る対象で ある 「仏 ・ 法 ・ 僧」 は無常 ・ 世間的な一面を持ち な が ら、 常 ・ 超世間的な一面を も持 っ て い る はずで ある が、 衆生の 目には、 常 ・ 超世間的な一面が見えない。 そ う い う 人間の計 らいの と こ ろ に止 まれば、 真の帰依すべき処 ・ 真実の彼岸 に到達で き ない。 で もだ か ら とい っ て三帰依の道 が無用だ と は言えない。 「涅槃経」 の原文は、 次のよ う で ある。 「一切衆生怖畏生死故求三帰。 以三帰故則知仏性決定涅槃。 讐如群鹿怖畏猟師。 既得免離 若得一跳。 一跳則喩一帰。 如是三院則喩三帰。 以三跳故得受安楽。」 (43) 釈尊は、 三帰依を求める衆生のこ と を、 猟師を怖がる鹿の三跳びに喩えてい る。 一跳び を一帰依に喩える。 三回跳び、 安楽を得 られ る。 猟師に喩え られ る四魔は、 罪悪煩悩な ど の人間存在が持 っ てい る もので ある。 三跳び と は、 外の危険か ら逃げるので はな く 、 今ま でみえなかった 自身存在、 罪悪煩悩 と し て存在す る生の現実を三帰依の仏縁によ り如実の ままに見る立脚地 を得 られ、 立脚地が次元的に高 め られ る こ と によ り、 真の救済 (仏性決 定涅槃) を得 られ る こ と を意味 し て い る ので ある。 「知真実法身、 則起真実帰依也。」 ( ) 樹 と影が同時に見え る のは、 光 によ るが如 く 、 「仏 ・法 ・僧」 の常 ・超世間的な一面が見える のは、 他力の光によ るほかな い。 三帰依の道の方向を真実の彼岸に行 く よ う に保障 し て く だ さ るのは、ご存知の二河 白道に現 された如 く 釈尊の慈悲で あ り 、阿弥陀如来の智慧で ある。
四
宿業 と 他力の救済
次は 「歎異抄」 の十三章の 「ひ とへに賢善精進の相をほかに し め して、 う ち に虚仮をい だ ける ものか」 とい う言葉を手がか りに し て 、 宿業 と他力の救済について追求 し てい きた い と思 う。 こ の文の前に 「な んな んの こ と し た らん も のをば、 道場へい るべか らず」 と、 何か悪い こ と を した ものは念仏の道場 に入 っ て はな らない とい う具体的な例 を あげたので 、 こ の文 を挙げ られた具体的な現象に対す る批判 と し て受 け止 めるのも ある よ う で ある。 し か し、 この文は親鸞においては人間の本質を表す意味合い と して受け止め られている と思 う。 そ の根拠 は 『教行信証』 にある。 一 二 〇「外に賢善精進之相を現ず る こ と を得 ざれ、 内に虚仮を懐いて 、 貪瞑邪偽、 奸詐百端、 悪 性侵 め難 し 、 事、 蛇鰍 に同 じ」 (45 頁) これは引用 された善導の 『観無量寿経』 の 「誠」 と い う言葉について の解釈で ある。 原 文は次のよ う で ある。 「不得外現賢善精進之相内懐虚仮貪眼邪偽奸詐百端悪性難侵事同蛇獄」 漢文で は 「不得」 は禁止の意味合い で あ る。 原文は句点 と読点をつ けていないので 、 句点 と読点 のつ け方 に よ っ て 次の三つ の意味合い に受 け止 め られ る。 1 不得外現賢善精進之相 内懐虚仮貪賦邪偽奸詐百端悪性難侵事同蛇鰍。(外 に賢善精進 之相を現 じ、 内に虚仮を懐いて、 貪眼邪偽、 奸詐百端、 悪性侵め難 し、 事、 蛇録に 同 じ よ う にす る こ と を得 ざれ)」 読点をつ けず に、 最後ま で読む。 「得ざれ」 は、 文 の最後 に置き、 全部の内容を禁止の範囲に納 める。 2 不得外現賢善精進之相内懐虚仮。 貪瞑邪偽奸詐百端悪性難侵事同蛇獄。 (外に賢善精 進之相 を現 じ、 内に虚仮を懐 く こ と を得ざれ、 貪眼邪偽、 奸詐百端、 悪性侵め難 し、 事。 蛇鰍に同じ) 「得ざれ」 は 「虚仮」 の後ろ に出る。 外現賢善精進之相内懐虚仮 と い う 表 と裏は一致 し ない こ と を禁止す る。 3 不得外現賢善精進之相。 内懐虚仮貪瞑邪偽奸詐百端悪性難侵事同蛇鰍。 (外現賢善精 進之相 「外 に賢善精進之相 を現ず る こ と を得 ざれ、 内に虚仮 を懐いて 、 貪眼邪偽、 奸詐百端、 悪性侵 め難 し 、 事、 蛇熾に同 じ」 「得 ざれ」 は 「外現賢善精進之相」 の後 に置 く 。 3 は、 親鸞 のつ け方で ある。 「外現賢善精進之相」 だ けが禁止範囲に納め られ、 後ろ の文 意は人間につ いて の断言 にな る。 前の二つ の受け止め方 には、 次の特徴 がある。 1 人間の計 らいの働 きが要求 さ れて い る。 禁止 さ れた こ と は人間の努力が可能で ある こ と が前提 にな っ て い る。 2 禁止 さ れ る範囲以外の人間がい る と い う ニ ュ ア ンス が含 まれて い る。 そ う し た ら、 守れ る もの と守れない も のの差別 、 善悪の差別が免れな い。 す なわち、 差別のまな ざ し が言葉そのも のの中に潜んで い る。 親鸞の受 け止め方に よれば、 以上の二つは除かれ る。 虚仮、 悪 と し ての人間存在 を断言 し た。虚仮、悪 になすすべ も な い人間存在で ある。 も はや人間の計 らいが働 く 余地はな い。 人間の働 き が無効で ある。 また、 除外 さ れ る も のは一人 も いな い。 人間で あれば誰 も例外 な く 、 収 め られて いる。 言葉の内容の範囲以外 には、 も はや人間が存在す る場はない。 人 間に要求 さ れ たのは、 ご まか さず に 自身の悪 と して の存在 を直視す る こ と だ けで ある。 こ の と らえ かた について 『唯信紗文意』 に次のよ う に解釈 し てい る。 「不得外現賢善精進之相」 と いふは、 浄土をねがふひ と は、 あ らはに こ し こ きすがた、 善 一 一 九
人のかたち をふ るま はざれ、 精進な るす がた を し めナ こ とな かれ と な り。 そ のゆえは、 「内 懐虚仮」 なればな り と。 内は う ち と いふ、 こ こ ろ の う ち に、 煩悩 を具せ る ゆえ に虚な り、 仮な り。 ( 中略) いま こ のよ を如来のみの り に末法悪世 と さだ めた まへゐる ゆへは、 一切有 情ま こ とのこ こ ろ な く し て」 (46) ■ 煩悩具足であ るのが人間で あれば、 虚で あ り、 仮で ある。 特に末法において そ の特徴は い っ そ う現れて い る。 『歎異抄』 によ っ て伝 え られて い る親鸞の言葉を 、 こ のよ う に親鸞の著作の言葉 を裏付け と し て受け入れ るな らば、 そ のなかの親鸞のまな ざ し は、 具体的な対象、 個別な人間を見 るだ けではな く 、 人間存在の本質を見つ めているまな ざ しのはずで ある。 そのまな ざ しに 人間差別の色はな く 、 鋭 く 人間の本質的な悪 をみつめて いる。 悪 と しての絶対平等性 を見 るまな ざ し である。それはまた、親鸞の一貫 した 自分 自身 をも含んだ人間の と らえ方で ある。 そ こ には じ めて絶対他力、 絶対平等の人間救済の道の出発点が現れて く る。 次はまた他力 につ いて 『歎異抄』 の言葉の真意 を探 り なが ら追求 し てみ よ う。 「よ き こ と も あ し き こ と も業報に さ し まかせて、ひ とへに本願 を たのみま ゐ らすればこそ 他力 こ て はそ う ら え 。」 こ こ で宿業 と本願 を信 じ る と い う他力の二面性 を語っ てい る。 本願 をた のむのは念仏で ある こ と は問題 はな い と思 う。 唯円房に伝 えて い る のは音読な ので、 た のむ と、普通は 「頼 む」 (力 を貸 して も ら える) とい う意味合いにな る。 親鸞の著作の中の 「たのむ」 は 「憑む」 で ある。 「馬が走 るのは早い」 と い う語源か ら、 身 を任せ る と い う 意味にな る。 業報に さ し まかせる とはな にな のか。 こ こ は、 業の質的な転換 とい う前提がな ければ、 運命的な宿業 に任せ る意味合いにな る。 そ う した ら、 業報 にさ しまかせて 、 ひ とへに本願 をた のむ こ と は、 まず消極的な宿命論 に任せ 、 そ し て本願 にた のむ こ と にな る。 これについて 曽我量深の次のよ う に受 け止 め方 は重要な示唆を示 し てい る。 「すべて を与え られた業報に さ し任せ随順 し て、 それ に逆 らわず分別 を し ない。 その業報 に悩ま されてい る も のを哀れまれ、 其れ を正機 と して の如来の本願。」 (47) 随順す るのは業報で あ る。 それ を救済の機 にす るのは本願で あ る と のこ と で あ る。 衆生 は業報に さ し任せ随順 し て 、 其れ に逆 らわず分別 を し ない こ と で ある。 こ れ をふま えて 、 考え を深めてい く 。 業報は与え られた も ので ある。 そ の与え る主体は何な のか。 すなわち 業報の源はどこ か。 それについて 「教行信証」 は曇鸞の言葉を引用 して次のよ う に述べて いる。 「身業 ・ 口業 ・ 意業 ・ 智業 ・ 方便智業、 随順法門 ( 中略) 此五種業和合、 則是随順往 生浄土法門 自在業成就。」 (48 『真宗聖教全書J n 7・296 頁』 往生浄土の法門 (注 菩提門。 慈悲、 智慧、 方便。 如来の教えは法 とい う。 衆生 を真実に導 く に通る と こ ろ を門 とい う 。) に随順す る、 業そのも のは法門に随順す るので あ る。 こ こ で業報 の源が明 らかにな る。 こ れによれば、 業報は如来 に随順す る。 私た ち が業報に随順す る。 随順す る業報は如来の慈 一 一 八
仏教の宿業観 は, 仏教の人生 と人間存在の基本的な と ら え方にも な り , また仏教の人間 救済の前提に も な る も ので あ る。 と こ ろ が, 人間心理への深い配慮がこ められてい る, 多 元的な 人間救済の考えがこ め られた宿業観は, 無明にな っ た人間に働いて く る と き , 無明 のまま に と ら え られる こ と にな る。 真実を見失い, 形 の有 る も のだ けに 目を と らわれる人 間は, 有 と無 と い う 両極端に, 物事を捉 え る こ と しかで き ないので, 宿業 も 両極端に取る こ と にな る。 有に こだ わる と き, 宿業は固定不変な も のにな り, 逃れ られない業の束縛に な る。 無に こ だ わる と き, 宿業は無い物だ と思い, 宿業か ら人間を救い 出す仏教 も 無意味 な も の とす る。 結局, 人間を 闇か ら救い出す よ う に働 く べ き仏教の宿業観そ のものも, 闇 の中に引きず り込まれて し ま う。 「曹如有病須服薬可治。 若薬復為病則不可治。 如火従薪出以水可滅。 若従水生為用何治。」 (51) 薬 を以 っ て , 病 を治す が, 薬そのも のか ら病を生 じ る。 復水を持 っ て火 を消す が, 水その か ら も火 を生 じ る とい う こ と で あ る。 そ して時代の移 り変わ り に従い, 宿業はもはや時代 遅れのも のにな っ た。 今にな っ て宿業そのものについての解釈 も難 し く な る。 そ して, い かな る時間 と 空間の変化に も耐え う る力 を持っ て いる, 仏法の宝蔵の中の宝が人間に用意 さ れ た 。 悲、 智慧、 方便に随順す る も ので ある。 それはす なわ本願 に随順す る こ と で あ る。 前に引 用 された法性 に随順 し て 、 法の本に乖かない と のこ と で あ る (49 頁) 随順 は、 南無で あ り、 「南無」 は随順 で ある。 こ の 『歎異抄』 の文が主張す る こ と は、 明瞭で あ る。 念仏で ある。 二種深信、 機 の深信 と法の深信の立場 に立ち、 念仏を語っ てい る。 ただ の念仏で あ る。 こ れ こ そ親鸞に主張 され る他力だ と伝 えて い る。 こ こ において 『歎異抄』 の中で の宿業 と念仏の関係 も さ らに明 らかにな っ て く る。 すな わち宿業は信心念仏の中の二種深信 (機の深信 と法の深信) の機 の深信で ある。 「決定深信 自身現是罪悪生死凡夫、 昿劫已束、 常没常流転無有出離之縁。」 「決定深信彼阿弥陀仏四十 八願摂受衆生、 無疑無慮乗彼願力、 定得往生。」 (50) とい う善導の言葉に顕 された よ う に、 宿 業の 自覚はす なわち機の深信で ある。 機 の深信 も法の深信 も如来か ら賜 っ た も ので ある。 一 一 七 「大無量寿経」 で 次のよ う に述べ られてい る。 「吾去世後、 経道漸滅、 人民諮偽、 復為衆悪。 五焼五痛、 還如前法。 久後転劇。 不可悉 説。 我但為汝、 略説之耳。 仏語弥勒。 汝等各善思之。 転相教誠。 (中略) 当束之世、 経道漸 滅。 我以慈悲哀愁、 特留此経、 止住百歳。 其有衆生、 値斯経者、 随意所願、 皆可得度。」 (52) 釈尊 は 自分が こ の世 を去 っ て か ら人間の計 らい、辺見が盛ん にな り、改 めて人間を捉 え。 大いな る真実 を伝 えに く く な る こ と を予見 した。 そ こ で念仏は 『大無量寿経』 の中に深 く 、 重 く 、 大切 に残 さ れた。 深 く と は顕在の形で はな く 、 重層的な言葉に埋 め込んだ形で、 重
く と は裸の形で はな く 、 た く さ んの言葉 に包んでい るので ある。 大切 に と は 『大無量寿経』 とい う 「此経」 の中に丁寧に納 め、 残 し た。 大切 さ を感 じ させ る が、 念仏 につ いて の説明 は 『大無量寿経』 の中に して いない。 『大無量寿経』 に深 く す え られた真意は、 『観無量寿 経』 によ っ て 「隠顕二意」 に よ り、 また 『阿弥陀経』 に よっ て示 されてい る。 た と えてい うな らば、 お土産を あげる と き、 何 もいわずにただ丁寧に包装 し、 丁寧に手渡す。 大事 さ を感 じ させ る。 そ し て、 二冊の説明書をつ けて いる。 また、 「百歳 まで に」 と い う 時間の締 め切 り も あ る。(注 百歳 につ いて 末法時代の末期 に人 の寿命は八万歳か ら百歳 まで に減 る。 釈尊はち ょ う どその時期 に人間界に束生す る。 こ こ での 「百歳」 と は、 人の寿命が百 歳で ある末法時代の末期に生 き る一人一人の人の一生を意味す る。) 私 たち の百年の人生の 中に、 貴重な仏縁に恵まれ る機会が用意 されている。 言い換えれば、 こ の百年の人生こ そ、 その貴重な機縁に出会 うチ ャ ンスで ある。 締め切 り を過 ぎる と、 もはやチ ャ ンス を失って し ま う。 「弘誓強縁多生巨値」 (53) そ して、 いかな る人間の無明を も破 る 「無明闇を破 る」 慧 日と して 、 いかな る人間の力 もね じ 曲げ られない 「最勝の直道」 (54) と し て、 すべて の功徳の中の 「功徳の宝」 (54頁) と して 、 すべて の縁の中の最 も 強力の縁で ある 「弘誓の強縁」 ( 「増上縁」 と も 言 う 。 対象に 応 じ て増長す る力を も っ て い る) と し て 、 宝の中の宝の 「法宝」 で ある念仏は、 釈尊によっ て、 深 く 、 重 く 『大無量寿経』 の中に据 え られ、 伝 え続 けられ、 時間 と空間の限界を超え た 「弘誓の強縁」 と し て働 きつづ けてい る。 包みを開け内実の貴重 さ を 2 千 5 百年来の念 仏伝統によ っ て明 らかに し、親鸞はそ の伝承を七高僧 の教 えに次のよ う に く み上げてい る。 「憶念弥陀本願 自然即時入必定」 (龍樹) 「帰命無碍光如来 依修多羅顕真実」 (天親) 「報土因果顕誓願 往還回向由他力」 (曇鸞) 「万善 自力既勤修 円満徳号勧専修」 (道緯) 「光明名号顕 因縁 開入本願大智海」 (善導) 「報化二土正弁立 極重悪人唯称仏」 (源信) 「真宗教証興片州 選択本願 弘悪世」 (法然) こ の 「正信念仏偶」 の言葉は、 七高僧 に よっ て く み上げ られた 『大無量寿経』 の内実で ある と同時に、親鸞が釈尊の真意を源に して く み上げ られた念仏の伝統 と もいえ るで あろ う。 「夫顕真実教者、 『大無量寿経』 是也。 斯経題大意者、 弥陀超穂発於弘願、 広開法蔵、 致 哀凡小選施功徳之宝。 釈迦出興於世、 光閑道教、 欲批群萌恵以真実之利。」 (55) (念仏) 「通 正 ・ 像 ・ 末法之機。」 (56) そ の強縁 は、 煩悩の業 因を仏性へ と転 じ られ、 ま たそれ を仏果 と して成熟 され る。 即 ち、 「煩悩海」 を 「本願海」 へ、 「煩悩の氷」 を 「功徳の水」 へ、 「悪」 を 「徳」 へ と転 じ さ せる。 念仏 と宿業の関係について は、 次のよ う で ある。 一 一 六
「門門不同八万四、 為滅無明果業因、 即是弥陀号、 一声称念罪皆除。 微塵故業随智滅、 不 覚転入真如門。 得免娑婆長劫難、 特蒙知識釈迦恩、種 々思量巧方便、 選得弥陀仏弘誓門。」 (57) 「於念念中除八十億劫生死之罪」 (58) 念仏 と 三帰依の関係 について は次のよ う で あ る。 「名号者是万徳之所帰也。」 (59) 「南無阿弥陀仏」 には三帰依の功徳 と あ らゆる功徳の真実の利益をナベ て含んでい る。 三帰依は念仏に よっ て 、 「仏性決定涅槃」 を知 るそ の転換す る と こ ろ に、 高次的な人間救 済の道にな る。 名号は、 大いな る慈悲 ・ 智慧 ・ 力の働き と し て、 人間の計 らい を超えて、 人々の心身に 響き続 き 、 信心を生 じ さ せ、 人々に真実に 目ざ めさ せ る道を与え る。 念仏者は深 く 阿弥陀 仏を信 じ 、 全心身を上げて、 名号 を唱 え る う ち に、 信心が守護 され、 大い な る眼差 し に包 まれ 、 大いな る命 と共 に生き る感覚が呼び覚ま され る。 名号に差別 はな い。 「不簡貧窮将富 貴 不簡下智呉高才 不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深」 (6°) こ こ に次の念仏の特徴が伺え る。 1 具体性 と普遍性 具体性- すべて の人、 異な る人生体験を持つ もの、 異な る時代のも の、 異な る文化背景 を持 っ た者に、 それぞれの生身の人間の体験を縁に して 、 受け入れ られ る。 名号はさ ま ざ まな 人生の中で さ ま ざ ま な形で働 いて い る。 普遍性- そ の言葉の深層喚起力 によ っ て 、 異な る人生体験 を持つ も の、 異な る時代のも の、 異な る文化背景を持 っ た者のそれぞれの生身の人間の体験の個別性 を超 えて、 言葉の 意味次元 を超 えて、 すべて の人の感覚に、 響き を与 え、 人々を一如の大いな る真実への道 へ導いて い く 。 2 超越性 と現実性 超越性一言葉の意味 を超 え る響 きは、 人間の計 らい を超 えて 、 大いな る真実 を人人に思 い知 ら さ れ て い る。 現実性一 日々の生活の中に生身の人間の声 と して 唱え られ、 私た ちの感覚の中に生 きて い る 。 「真実報土 のな らひ にて 煩悩菩提一味な り」 (61) と、 一味 にな る本願海に 「弥陀の智願広海に 凡夫善悪の心水 も 「帰入 し ぬればすな は らに 大悲心 とぞ転ずな る」 (62) 「摂取心光常照護」 と いふは、 無碍光仏の心光つねにて ら し、 ま も りたて ま う ゆへに無明 のやみはれ、 生死のな がき夜すで にあかつ きにな りぬ と知るべ し。」 「不断煩悩得涅槃 といふは、煩悩具足せるわれ ら、無上大涅槃にいた るな り と し るべ し。」(63) 一 一 五
終わ り に
「南無阿弥陀仏」 の救済への道は 「教行信証」 で は、 川 が海 にた どるイ メ ー ジに よっ て表 わさ れて い る。 「凡聖逆誇斉帰入、 如衆水入海一味」 (凡聖、 逆誇、 ひ と し く 回入すれば、 衆水、 海に入 りて一味な る がご と し)。 全て の川が入る海、 「逆誇戦閲提恒沙無明海」 と い う罪悪煩悩の海で あ りな が ら、 「転凡聖所修雑修雑善川水、 転逆誇戦閑提恒沙無明海水、 成 本願大悲智慧真実恒沙万徳大宝海水。」 (64) と い う転換す る場で あ り、 本願他力の海、 一味 (同じ味) で あ り、 絶対平等無差別で あ り、 隔た り のない海で ある。 川は海の吸い寄せる力 によ っ てお のずか ら低い と こ ろ に流れて いっ て海 にた ど りつ く こ と にな る。 海は最 も低い と こ ろ にあ り、 すべて の川 を受け入れる。 海 の世界は、 自然法爾の世界、 隔た り のない、 平等無差別 の世界で ある。 川が海に流れ込むイ メ ージはすな わち親鸞が身 を も っ て教えて いる念仏者の人生感覚だ と思 う。 それは悲喜の涙を こ ぼ しつつ ある親鸞 が身 をも っ て教 えて く だ さ る念仏者の道で ある。 罪悪煩悩に満ち た現実の大地 に両足 を し っか り と踏み し めて た ち 、 歩 き続 けて い く 。 歩 き なが ら絶えず勇気をいただいてい く 道で ある。 泥沼のよ うな生の現実を も がいて生きて行 く 、 闇を抱 え も がき なが ら も 。 それ に耐 え う る力 をいただいて い く 道だ と思 う。 「悲喜之涙」 に見 られ る よ う に、 親鸞に よっ て伝 わっ た念仏の教 えは、 ただ の言葉で はな く 、 日本の風土に生か さ れ、 日本民族の心のぬく も り を帯び る念仏の人生感覚で ある。 そ れは言葉の意味を超 えて 、 異な る人生体験を持つ者、 異な る時代の者、 異な る文化背景を 持っ た者に、 異な る民族の人々に訴 えつ づけてい る。 一 一 四 本論で は 「歎異抄」 の宿業観 をテ ーマ に し て、 十三章をめ ぐ っ て 、 宿業 と 中道、 宿業 と 縁起、 宿業 と三帰依、 宿業観 と他力 の救済について論 じ た も ので あ る。 そ の中で次の問題 を明 ら かに し た。 1 仏教の宿業観 と消極的な宿命論の関係一仏教の宿業観 は縁起 によ っ て消極的な宿命 間の要素を切 り捨て 、 宿業の質的な転換を実現 し た。 2 宿業 と本願 と の関係一清浄業 とい う言葉の介入に よっ て本願 は宿業 を浄化 し、 業の 根源的な転換 を も た ら し た。 3 親鸞の宿業観 の特徴一方便を希薄化 し 、 真実を顕す。 4 念仏は、 仏教の宝蔵の中の宝 と し て、 時間 と空間の限界 を超 えて 、 『大無量寿経』 に よ っ て伝 え られて い る。 私は、 親鸞のおかげで 、 貴重な教 えに出会 う こ と にな っ た。 そ の教え に心引かれなが ら、 それ に深 く 頷 く こ と がで き る よ う にな る まで に長い年月がかかっ た。 そ の間、 『教行信証』を繰 り返 し て読みなが らそ こ に引用 さ れた原典 も ほ と ん ど読んだ。 そ して ます ます親鸞に よ っ て伝 え られ ている仏教は釈尊の本心 と重な る と こ ろ がも っ と も大 きい と言 う こ と を確 信 し て い る。 懸愧、 回向、 宿業な ど、 一つ 一つの問題 を明 らかに して い く 過程 を経たか ら こ そ 、私は親鸞の 「ただ念仏」 と い う 言葉の深み と重み を感 じ る こ と がで き た。 こ う はいっ て も決 して 自分が仏典 を読ま ない方 よ り よ く 親鸞 を知 っ て い る と は言えない。 それぞれの ご縁があ り 。 他者 と比べ る も ので はな い。 自分 自身に と っ て、 長年の学びの中に、 前の自 分よ り親鸞の他力の救済のあ りがた さ を思い知 り、 感謝の気持ち があふれてい る とい う こ とで あ る。 そい う気持 ち を抱 えて 、 私 はこ の論文を仕上げた。 これか ら も そ う して こ の作 業を続 けて い き たい と思 う。 注 (1) 「法然 ・ 一遍」 「日本思想大系」 岩波書店 1971 『歎異抄』 の宿業観 (2) 「真宗聖教全書」 704 頁 ・ 573 頁) ・ 561 (3) 「曽我量深選集」 第六巻 弥生書房 平成七年四月 (4) 「真宗聖教全書」 659 頁 ・ 594 (5) 「真宗聖教全書」 二 111頁 (6) 「大正蔵」 第二十九巻 51頁 (7) 『真宗聖教全書』 二 1頁 (8) 『真宗聖教全書』 二 314 頁 (9) 『真宗聖教全書』 149 頁 ・333 ペ ー ジ。 (10) 『「歎異抄」 講話」 法蔵館 1994 年 10 月 (11) 『曽我量深選集』 第六巻 弥生書房 平成七年四月 (12) 「真宗聖教全書」 52 頁参照 ・ 215 ペー ジ (13) 「真宗聖教全書」 149 頁 (14) 「大正経」 第一巻 900 頁 6 (15) 「大正蔵」 第十二巻 571頁 (16) 「大正蔵」 第十二巻 576 頁 4 『大正蔵』 第四巻 801頁 (17) 「真宗聖教全書」 二 110 (288) (18) 「真宗聖教全書」 一 51 頁 ・ 94 (19) 『真宗聖教全書』 149 頁参照 ・ 334 (20) 『真宗聖教全書』 147 頁参照 ・331 (21) 『真宗聖教全書』 67 頁参照 ・234頁 (22) 「真宗聖教全書」 - 4 頁 (23) 「真宗聖教全書」 二 3 頁 (24) 『真宗聖教全書』 1 頁 ・ 149 (25) 『真宗聖教全書』 二 553 頁 (26) 「大蔵経」 第一 893 「仏為首迦長老説業報差別経」 (27) 「大正蔵」 第一巻 893 頁 (28) 「真宗聖教全書」 184 頁 (29) 『真宗聖教全書』 二 149 頁 (30) 『真宗聖教全書』 二 149頁 (31) 『大蔵経』 第二十七巻 876 頁 (32) 人の特徴にな る下慢 と寂静 と は、 仏教で の意味は次の よ う で ある。 僑慢 : 自ら高ぶって他を蔑む。 仏教で は、 僑慢はも っ と も根深い、 人間の心に最後まで にも残 され る煩悩 の一つで あ る。 一 一 一 一 一