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保険の集団性といわゆる協同体理論 : 保険集団論の一部として

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保険の集団性といわゆる協同体理論

        一保険集団論の一部としてー

西

 さきに、私は、保険集団論の序説として、その社会学的性格を論じ、ロールペックやテンニースの見解に触れるところ があった︵本誌、第三+五号︶。そこで、次には、その集団の構造について、ひとり社会学的考察としてではなく、また経済 学的考察としても、どのような理論が成り立つであろうかという点を、少しくながめてみたいと思う。  さて、社会学の課題が、一面に於て、集団としての構成体の構造を明かにすることにありとすれば、このようないわゆ る形式社会学的考察は、特殊の構成体たる保険団体についてもこれを試みること、もとより不可能でもなく、また意義な きことでもない。その場合に、保険が、協同社会と利益社会とのいずれの性格を持つかということが、しばしば問題とせ られるのである。  私見によれば、保険団体は、構成体の実体を、いわば人格的結合として捉えたものであるが、この人格は、いうまでも なく、経済主体としてのそれである。それゆえに、保険は、多数の経済主体が、加入者として結合す.ることによってのみ、 その成立が可能となる。ウェルナー︵名。旨①♪O・︶が、保険の形成ということを一つの過程として見るとぎには、経済単    保険の集団性といわゆる協同体理論       、 四一        ︹

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   保険の集団性といわゆる協同体理論      四二         位の結合に他ならぬとしているのは、また、この事実を指す。  ところで、この保険団体の形成を、一つの過程と見るべきか、もしくは、その過程の結果としてのある状態と見るべぎ かは、いま特に問題としない。しかし、ともかくも、経済生活の確保という点では、共同の目的を持つひとびとによって、 保険団体が形づくられるということは、多くの学者がこれを認めている。ワグナー ︵奢轟屋♪b・︶は、この点を捉えて、 この共同欲望は、協同体生活︵ΩTO奉〇一昌皿Oげ騨団叶ロ自一①びO冨︶のうちに現われ、むしろ、この協同体生活を通して始めて作り出される、          とするのである。      ﹁   いま、共同欲望が、右のように協同体生活によって作り出されると見る場合には、保険団体は、きわめて特殊の性格を .持つと考えざるを得ない。元来、この種の見解によれば、この共同欲望は、多くめ個人欲望を基礎とし、それが何らかの 点で利害をたまたま同じくする場合の、その.欲望でなく、むしろ逆に、ひとびとの集団生活︵5PO昌胆aP犀Oぽのひロ 国βの僧寺匿のβ一Φび2P︶ から必然的に発生し、これとともに発展すべき欲望を指している。  すなわち、それは、個人がその一環として所属するところの協同社会の目的により、人の集団生活の諸関係から生ずる          という意味に於て、協同社会と運命をともにするものである。いわば、それは、人間協同社会への依存︵bお。ぎ轟犀㊦菖        ④ を意味し、人の社会的性格の一つの帰結たるものに他ならない。  およそ人間欲望が、たとい右のように協同社会的のものであるとしても、あるいはそうでないとしても、ともかく、こ の欲望によって保険団体が形づくられるという点から見れば、保険の集団的性格の分折は、前号に触れたように、いわば 社会心理学的考察のもとになさるべぎことを意味するのである。しかし、この欲望は、実は、いわゆる協同社会そのもの であり、個人が、個人としては、独立にその存在を主張するを得ぬこととなろう。

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 この個人は、保険に於ては、いうまでもなく、加入者であるが、それは、もはや、保険団体のもとにあっては、その個 別的存在の意義を失う。このようにして、本質的に存在し、したがって、本来の考察対象となるべきものは、保険団体そ のものとなる他はないであろう。ただ、その集団を具体的存在と見るか、もしくは、単に抽象的存在と見るかについては、 問題がないわけではない。いずれにしても、それが保険団体として特殊の集団性を持つことは、他面に於て、.保険技術の 特殊性にもとっくのである。  いま、保険団体の存在が、具体性を持つにしても、抽象性にとどまるにしても、それが集団としての統一的意志を持つ と見るか否によって、その意義も、また異るはずである。たとへば、リンデンバウム︵目邑。嘗睾β角︶は、これを抽象的       ⑤ 存在として理解し、また、その団体意志︵ΦΦ日O一βωOび暫隔紳ロ帥び己ロ一〇げけ︶の欠如を主張するのであるが、その点から見ると、少くと も彼は、保険団体の協同社会的性絡はもとより、それの団体性をも否認することとなる。  ところが、ワグナーは、これに反して、保険団体は、単に危険団体︵φ①営年魯鵯暮舅。冨h叶︶として存在すれぽ足るとし      ている。このことは、彼が、保険の技術的特徴を特に問題とした結果と見られるのであり、その意図は、もともと保険で はない、いわゆる自巳保険をも、保険に含ましめることにある、ということができよう。  しかし、また他方で、彼は、この危険団体は、個人が、協同社会に参加、依存し、したがって共同欲望の充足に協力す          るものであるから、たとい危険団体そのものが抽象的存在であるとしても、これの成立の基礎として、彼は、少くとも、 協同社会の具体的存在を認めている、といい得よう。  ところで、ワグナーが共同欲望の充足ということがらを強調し、しかも、それが、協同社会の成立の本来の意義をなす         と考える点から見れば、彼に於ける保険団体の構成が、多分に倫理性を含むことを知り得るのである。この点に於て、保 険の協同社会的性格を説ぎながら、それが、単に、状態︵N房苗昌晒︶としての保険の理解に終ったウェルナーと、根本的に    保険の集団性といわゆる協同体理論      四三

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   保険の集団性といわゆる協同体理論

異るものがあるといい得る。われわれは、ロールベツクを中心とする当時のナチス学者の、

ける倫理性の先駆を、既にこのワグナーに見出すことができる。

  四四

いわゆる保険協同体理論に於

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白9㈹唐♪b.一Uo胃聾轟け犀昌臼量。。<o廣ざびgβ冨αq。。ぞΦ。・o♪ 一。。o。一層の.c。      , 宮9琴材Qごb=瞬。已の首。<Φ窮号げ霞自β碧ざ腎ρ一露O一鉾一〇

∪Φ話巴び。層Φξ巳蜜四8秘。同娼。澤ぎぼロ○。ざ8鼠㊦”目二=。。昆噂◎D9刈ρc。Pc。 蝉.即O二ψcOPcσ =旨q窪冨賃β岡;国冒く6塚8こ騨雪げ詳昌創。暮q窪目巴暫弓出ω夢8ユoqo弓く①登呂冨弓庫ロσQ響N讐や2騨自。昌舘鼻。⇔o旨寅 謡轟霧話ぐΦ暴δげ霞鐸ロ鴨司窃①♪oαoぎ目ぴΦ轟ω国薗ロμび庫魯創霞b9芭。。号魯O閑。ロ。日中9切Pド一。。Oc。一ω■⊂。ひO 騨.即ρ <σqピ∪①遷。ぎρO同目昌臼餌σq①♪ω・co刈刈 名O尾昌㊦屑 ㊤耀雲。.O.    り 一〇⊆ρO噂ω。刈刈 二  さて、保険に於ける倫理性の強調は、右のように、共同欲望の充足を明かにするにあると見られるのであるが、その場 合に、保険の経営者は、およそ資本主義とは縁遠いものとならざるを得ぬであろう。ロールペックが、保険の経営を以て、 加入者の共同意欲︵︵甲O臼O一口020げ四丁け。聰ミO一一Φ︶と協同体理念︵Φ.日①凶塁。冨津。。劉.。︶の表現であるとなし、このような経営では、資本        主義の高揚︵国琶芭二二げΦω悉σq。旨茜︶の余地はほとんどあり得ないと考えるのは、まさしくこのことを指す。  この場合に、 ﹁資本主義的﹂ ︵、.ざ露台ω静爵、.︶ということは、ナチスの見解に嘗ては、経営者が、その資本力を、国民       ② 協同社会の利益に反して、利巳的に心用︵垂下昌§σq巨・。耳雲㊦一善︶することである。したがって、ロールペックによれば、

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保険の経営は、これに託された構成員︵察けひ身財&3の協同体精神︵Φ。墓ぎ零屋穿㈹。蓉︶と協同的感情 ︵Ω貴Φぎの。童蒙窪も団冒q8︶       ③ なくしては、決して目的を達し得なかった、というのである。  このようにして、彼に於ては、保険は協同すること︵oΦ身熟ω魯塑穿霞び。5 を意味し、保険の祉会的任務は、まさしく協        ④ 働︵Q毒。言ω。葺穿鼠時巨㈹︶の促進ということにある。 これによって、われわれは、この協同ということが、彼に於ては、 保険の本質であり、契約上の取極め︵穿σq①︸毒σQ︶は、単に外面的の形式にすぎぬことを知り得る。そして、彼は保険契約を、 相互利益︵自。暮q①ω︶主義による双務契約と見るようなことは、自由主義経済時代の不幸︵d轟ぎ簿︶に他ならぬ、とまで     ⑤ 極言する。この思想にあっては、保険は、決して営利︵o①。。。冨3では,なく、また、加入者も、保険契約によって営利を企        ⑥ てる︵㊦δのOぽ凶隔叶 日勲OぽΦ鐸︶ことができぬのであるQ  このように、ナチス精神を強調し、これを保険にとり入れようとするロールペックにあっては、祉会構成体としての保 険施設︵<①邑島。旨轟。・Φヨ碁げけ夏蝉︶は、その経営が、つねに、このナチス的任務 ︵。・。N王氏蓉ぎb肖結缶9︶ によって遂行せら れるのであり、しかも、この任務は、国民のために活動せんとする単一の志向︵①ヨ匿集畠①≦葭§。・鉱。巨盲σq︶から生れるの である。そして、この場合に、始めて、保険企業︵切。録Φげ臥墨型巴も加入者︵O①出。奮。蜜寡巳けσ。ぽ鮎篭︶も、単に事業経営の       ⑦ ためではなく、危険協同体の構成員全体のために活動することとなる、というのである。  かるがゆえに、彼にあっては、保険は、保険としての経営の個有の理由から、社会構成体として考えられているのでは なく、実は、国民協同体のもろもろの目標︵N一9①昌︶や考慮︵9霞同①覧お魯︶ という点から、社会施設たり得るのである。 ここに於て、保険は、それ自体のために存在するものではなく、もつぼら、保険協同体の構成員全体の利益をはかるもの        であり、保険契約は、この全体の協同体意志の発露に他ならない。このようにして、危険団体の管理者は、保険協同体の 代表者であり、ひとり危険協同体に属する加入者の利害のみならず、また、国民財産︵<。憂奉昌£8︶の信託的︵霞①昌p昌,    保険の集団性といわゆる協同体理論       四五

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    保険の集団性といわゆる協同体理論      四六        ⑨ ぎ冨︶管理者たることとなる。  ところで、ここに注意すべきは、右の見解にあっては、保険団体と危険団体との区別が明かでなく、保険が一つの協同 社会であるというのは、私の見る限り、そのいずれについての考察であるかが、充分に示されていない。いなむしろ、危 険団体そのものが協同社会的性格を持ち、その点から、無条件に、保険団体が一つの協同社会として考えられている、と いうようにも理解せられる。すなわち、ロールペックに勝ては、保険団体は、そのまま危険団体と結論せられている、と 見るも誤りはなかろう。  このことは、仔細に観察すれば、彼が、保険団体の構成の倫理性を熱情的に強調しながらも、他方では、その技術的特 徴に着目した結果であると見られる。この特徴は、彼に於ては、つねに工業経営に対比せられ、工業が見本または雛形に よって完成品を提供するのと異って、保険が、単に輪廓的に示される保護の約束︵oQOげ賃けNく①呪己αb弓①Oプ①昌︶ を提供するにすぎ         ⑩ ぬとするところの、当然の帰結である。  このような場合、この保護に対する報酬たる保険料は、一般の価格とは、その構成に於て異るはずであるが、それは、 彼によれば、危険の程度︵︹甲屑㊤角 9①肖 奢餌㈹目一乙Qω①︶によって定められ、いわゆる生産費によらないものである。ここにあって は、捨値 ︵ωOげ一①口置O国冒屑①一㎝︶というようなものは、国民協同体そのものの生活能力を破るものであるから、健全な危険協同        体の構成員は、全然それに関心を持ち得ない、と彼は考えるのである。  すなわち、彼に於ては、このような危険団体は、国民協同体のうちから、かっこの国民協同体のために、諸事を集め、 価値を蓄積することによってその使命をはたすところの経済的な扶助手段︵HH一一bo9一β一けけ①一︶であり、その意味で、保険は、決        ⑫ して自己目的ではあり得ないのである。ロールペックによれば、保険は、あたかも、協同扶助︵Ω・O昌P①一︼PωO財9即け丁年︸hΦ︶を氏族

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制度から貨幣経済に移したものに他ならない。かるがゆえに、保険の抜術的基礎によって行い得べき、偶然的な貨幣欲 求︵ΦΦHq㊦び巴餌隔︶の相互充足ということは、国民協同体のためにするという限りに於てのみ因承認せられることとなるので  ⑮ ある。

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國。ぼび①oぎく霧臨9霞詣昌σQ。・毒ぼ訂魯毬け吐口9<①匿ざげ窪5置σq・。︸Φぼρ 岱.僧Oζ己ロ、一ひ㎞前掲。 9.穿O.⋮前掲、 一九頁。 9.即.○二〇Q.一ジ一ひ前掲、一ご頁、 一九頁。 ㌍.即.○■”石Ω・一ひ⋮前掲、 一九頁。 帥.穿OこGa舳一〇噛悼Gρ⋮前掲、二三頁、ご八頁。 p即O・の●嵩1。。廟前掲、二一頁。 餌・9.Oこ㎞前掲、一=一二頁。 勲勲O.︸の.賠恥前掲、三六頁。 鉾即.O.”ロD.O切前掲、七頁。 即・穿○;ω二ω⋮前掲、一四頁。 騨即Oこψ8”前掲、二七i八頁。 費野Oξの・Pω−駆⋮前掲、二八頁。 一〇ωゴ0●一α一ひ㎞白杉三郎訳、独逸保険論、 一八頁。 三  右に述べたところで明かなように、ロール、、ヘックがいうところの協同社会的性格は、実は、按術的関連としての危険団 体に求められ、それが、そのまま、保険団体の性格として考えられている。彼は、保険団体の本質を危険団体に求め、こ    保険の集団性といわゆる協同体理論       四七

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   保険の集団性といわゆる協同体理論       四八 のことから、いわゆる協周体理論を導き出そうとしたのであるが、その点で、彼の所説は、さぎのワグナーのそれと、根 本的にはいささかの相違もない。ただ、ロールペソクに於て異るところありとすれぽ、それは、彼が協同社会的性格の根 拠を、強くドイツ国民経済そのものに求め、この国民経済が、ナチス的政治思想のもとに、協同社会たるべぎことから、 これを保険団体にまで反映せしめた、と認められるにすぎないのである。  いま、彼によれば、保険団体が協同社会的存在であるというのは、それ自身協同社会たるとろの国民経済のために、危 険団体が扶助手段たる任務を持つということの結果であり、その倫理性が強調せられるのである。しかし、私見によれば、 単にこのことのみでば、保険団体そのものの協同社会的性格が明かにせられるとはいいがたい。  いな、むしろ、彼がいうように、国民経済が協同社会であるとしても、この協同社会の上に成り立つ保険団体が、それ 自身持つところの特殊の構成のゆえに、かえって利益社会となり得ること、全くなしとしないであろう。保険団体が、国 民経済の性格を反映することそのことは、もとより疑うべきではないが、そうであるからとて、直ちに、両者の性格が同 じであると考えることには、多分に反省の余地を残すのである。  保険に協同社会的性格を認めることについての根幹を、危険の分担に求め、さらに進んで、右の危険団体にこれを求め る見解は、当時なおこの他にも、少しとしない。われわれは、その.例をフロム︵胃。目♪国.︶やりL、ヘゼル︵空。ぴ。隆ピ即︶ などにこれを見ることがでぎる。  いま、フロムによれば、保険は一つの協同社会であるが、それは、これを構成するひとびとについて、危険をこれら全        .員に分散し、これによって、危険の影響に関する不確実性を除去するものである。ところで、この場合に問題となるのは、 この協同社会全体としての効用や利害であって、個人に於けるそれらではない。このように、危険団体は、特定の危険に        さらされた者によってのみ形づくられ、これらのひとびとは、その盛衰に関して、相互に一体をなすというのである。

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 彼の見解によれば、危険団体の構成は、国民協同体のそれとは本質的に異るところはない。そもそも、国民協同体にあ っては、各員は、この協同社会の福利に奉仕し、また協同社会としては、各員の利益行為に制限を設ける。そのことは、 この協同祉会そのものの必要にもとずくのである。危険団体にあっても、同様に、各員は、意識的にせよ無意識的にせよ、 全体すなわちすべての加入者の結合たる協同社会の、一分肢に他ならない。いま、保険が、特に営利企業によって行われ る場合には、加入者としては、彼が危険団体の一員であるとの自覚は、あるいは存在しないであろうが、それは、協同社       ③ 会の本質にとっては重要なことではないと、考えられているのである。  また、リーベゼルの見解では、保険に於ける協同社会は、危険に応じてなされる醸出の手段としての結合であり、その 点で、共同扶助を意味するものである。すなわち、彼によれば、保険は、最少の出費を以て、偶然かつ評価可能な欲求        ④ ︵⇔⇔巴塑臨︶を平均するための、協同社会と解せられる。  彼が、右のように、保険に去て欲求の概念をとり上げながら、いわゆる生活経済学の理論と異って、この欲求の充足 ︵∪、。ぎ轟︶を考えず、その平均︵卜q駿・q一.一。げ︶を問題としたことは、注目すべきことがらであろう。このことは、彼の関心 がいわば、主観的に、加入者の立場から見る保険の効用に存せず、むしろ、いわば客観的に、保険団体に於ける偶然の除 去という、保険の技術に存した結果に他ならぬ、と考えられるのである。このようにして、彼が保険を協同社会として考 えるについての根拠は、保険団体としての危険団体に、これを求めることができる。  ところで、右のフロムに於ても、リーベゼルに於ても、保険団体が協同社会たる性格のうちには、多かれ少かれ倫理 性が包蔵せられる。いわゆる公益優先の一般原則や、 コ人は万人のため、図入は一人のため﹂という保険団体固有の原 則は、しばしば、保険成立の倫理的基礎とせられるのであるが、それは、彼らによれば、加入者も保険企業も、ともに保       ⑤ 険団体の犠牲に於て、不当の利益を獲得しない場合にのみ当てはまることがらであり、危険が同一性を持ち、かつ、その    保険の集団性といわゆる協同体理論          ,  @       四九

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保険の集団性といわゆる協同体理論 五〇       ⑤ 評価が可能な場合に、これらの原則が問題とせられるのである。  このように、彼らにあっては、いずれも、保険に於ける倫理性は、保険の技術的関連のもとで考えられるのである。い まそういう点では、やや微温的たるを免れがたいとはいうものの、それでもなお、ロ︼ルベックに通ずるものなしとせぬ であろう。  さて、いわめる公益優先の原則は、ひとり保険団体についてのみならず、一般に、国民経済そのものについて、特にナ チスが強調したところである。そして、それを倫理的根拠とする国民経済の協同社会的性格は、また当然に、ナチス思想 がその根幹としたところであった。  しかし、この国民経済と、これを基礎として成り立つところの保険団体との、それぞれの協同社会と.しての相互の関連 という点に至っては、私の見る限り、フロムもリーベゼルも、ともにこれを明かにしていない。いわば、これらの見解は、 保険の星団社会としての性格についても、また、その営む社会過程についても、社会学的な充分の説明が与えられていな いのである。  ここに於て、われわれは、何よりもまず、構成体としての保険団体そのものの性格を明かにし、さらに進んで、それの 成立基礎たる国民経済との関連を究めることこそ、意義あることとなる。この試みの最も明快なものとして、われわれは、 ’当時ロールペックの論敵であったワインライヒ︵混毛霞。ざF嗣・︶を挙げることができる。  さて、この点についての、ロールペックとワインライヒとの間の論争は、保険学に於ても屈指のものと考えられるので あるが、それによって、反面的に、ロールペック自身の見解が、さらに明かにせられるであろう。そこで、いま、私は、 この論争の所在を考察し、ふたたび、いわゆる保険協団体理論の主張を批判したいと思う。

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毒ぱ葺丙.β・⇒。日夢頃一U餌。。くΦ邑。冨箋護。・㈹Φ。・。罫津︸一89ω.悼。。. 9.ゆ二9層ω.2塗③餌.帥.○こ。。層こ。悼塗 空。び霧亀噌勺;UΦ9。・。9<①湊ざ冨目臼β鵯司貯寵。冨鉾㌔切警﹃oQ.一向ω凹 く馳.9函.○;鉾一B <σQピ奢冒爵β.蜀3臼β野9■○. 四  いわゆる保険協同体理論に対するワインライヒの反対は、彼の論文﹁社会構成体としての加入者の団体﹂ ︵..∪一、<Φ弓の一, 魯Φ§專ξb①9尻霞。芭窃O。菖号一国・b・Pσ舜・ヂ窯;一80、、︶に示されているQ この論文の冒頭で、彼は、世上まま、危険団体と いう言葉を以て、協同体思想に於ける精神的関係︵σq霧雲。9。ゆ①冒σq①︶を忽然としてよび起すことがあるが、それには、何ら        り 内面的必然性はあり得ないとして、痛烈な一矢を放っているのである。  ところで、そのワインライヒによれば、元来協同社会というのは、いやしくも社会的存在の根本原理︵φ霊⇔昔二二㊥で あり、人間生活は、ながい歴史を通して見れば、この協同社会によってのみ可能となるのであるが、そうであるからとて、 保険思想は、協同思想に於けるように、入間存在の基礎に対して、緊密にかつ直接に結びつくものではない。保険は、た だ、生活の外的確保︵窪ωωΦおu9。廣・・菖。円弼護︶の一つの特殊形態として、 一定の時代にのみ固有であり、 また、これに随        ② 伴すものにすぎず、決して、あらゆ﹁る文化や時代に、一様に、存在するものではないというのである。  これによって知られるように、ワインライヒは、何よりもまず、保険理論の展開を、いわゆる歴史的立場に求めようと する。いわば、彼は、さきの保険協同体理論の没歴史的倫理性の主張に反対して、保険の本質を、あくまで歴史性に於て 理解しょうとするのである。    保険の集団性といわゆる協同体理論      五一

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   保険の集団性といわゆる協同体理論       五二  すなわち、彼は、保険思想は、いまや既に、一般財︵匠曹旨。冒σQ9︶とまでなっているが、元来、それは西欧の精神的観 念世界︵<。陵亀目㈹覇葺︶ とともに変遷して来た。ところが、それが、保険として今日のような姿となったのは、その本        質上、必然的に、近代貨幣経済の出現によったのであり、その点では近代工業と軌を一にする、というのである。  このように、彼に於ては、保険思想と協同社会の理念とを対照せしめることは、まさしく、歴史の制約を受ける経済活 動の一つの特殊の形態を、最高の精神的地位 ︵蒼き撃︶ の一つの生活事実に関連せしめることに他ならぬが、この関連た るや、実は、単に従属関係︵φ暮Φき量目お︶ にすぎない。けだし、物的手段による生活の維持、ならびに確保に対する人 間意志の表現たる保険思想は、協同体観念のうちに組み入れられ、それに従属せしめられる︵①一嵩19目動−自富幹①壇O鴇魁嵩①昌︶ことに よって、換言すれば、協同社会に奉仕することによってのみ、その思想の意義や品位や限界が明かとなるからである、と       ㊥ いうのである。  右のように考えるワインライヒにとっては、加入者の団体を危険団体と呼ぶことは、いたずらに概念の混乱を来すにす ぎない。すなわち、彼に出ては、社会構成体としての加入者の団体は、近代社会学の科学的用語によれば、断じてこれを 協同社会と考えることを得ない。それは、厳密な科学的用語にしたがう限り、ぎわめて低位の社会秩序 ︵。。。.一、一.○胃朝雲養︶       ⑤ にすぎぬというのである。  もっとも、歴史的考察として保険の本質を問題とすることは、さきのロールペックも、全くこれを試みないわけではな い。すなわち、彼は、保険協同体の原始的段階は、.社会的経済体制︵。・。、更。ヨ暴魯帥穿謡当馬の。。q薦︶に基因するところの、個 別経済の困窮による結合であるとし、古代ローマの死亡金庫や、中世のギルド、ツンフト、慈母組合などを挙げ、なおこ        ⑥ の他に、海上保険の成立発展の根拠を明かにしているのである。  しかし、周知のように、今日の保険は、多少とも協同社会的性格を持つところの、中世や古代の相互扶助の制度から発

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展したものではなく、むしろ海上冒険貸借から生れ、その組織が、やがて火災保険や生命保険にも発達したのである。そ ういう制度を生み出したものは、いうまでもなく、根本的には、経済生活の確保という広い欲望であるが、その場合の経 済生活、したがって、確保を必要とする生活の不安定ということが、あらゆる社会や時代を通じて、決して不変の意味や 形を持つものでないということに、おれわれは注意しなければならないのである。 ・そういう点からして、右のロールペックの見解や、これと一群の関係にあるいわゆる保険協同体理論は、歴史の真実に 基礎を置かない誤謬である、というべぎであろう。この種の立論に対しては、われわれは、むしろ科学的根拠を求めるこ とはでぎないのである。  しかるに、このことを、ワインライヒは明瞭に指摘している。すなわち、彼は、古代や中世の協同社会的生活確保の初 期の形態から、近代の保険制度を歴史的に演繹することの許しがたいことを述べ、協同祉会たる初期の形態の、他面の本 質を充分に顧ることなく、あたかも、それが漸次に発展して、今日の保険事業と、それに適合する社会秩序とするに至っ       ⑦ たとする点に、この見解の誤りがあると説いているのである。  かるがゆえに、彼によれば、危険協同体という概念は、協同社会的秩序や準備︵<Q頴Q薦。︶たるこれらの初期の形態を、 いわば現代の生活のうちに、魔法を以てよび出すものに他ならない。それは、今日まで古い諸形態に光輝あらしめた、深 い人間性と、隣人愛との微光︵。Q。眠菖営8を、現今の冷徹な曾爵H窪冒9日琴ぽ。寒魯︶社会の形成にも利用しょうとする結         果であるが、そこに輝くのは、実は、借りものの光にすぎぬ、というのである。  もっとも、ワインライヒといえども、この危険団体について、危険協同体という習慣的呼称が、通俗的な印象︵<。H葬¢目− 巨Φ国巨博轟雛日田δを持つために、好んで用いられるということを、認めてはいる。しかし彼は、同一の利益のため、 多数の加入者が結合するという簡単な事実に対して、危険団体という誤った呼称を用いるために、真の協同社会のみが持    保険の集団性といわゆる協同体理論      五三

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   保険の集団性といわゆる協同体理論       五四 つべき、特殊の倫理的もしくは精神的な高い品位を、もともとそれが有するかのような観念を与えることありとすれば、        それは誤りであり、また許しがたいことであると主張するのである。  彼はさらにいう。いま、このようにして、保険思想の歴史的発展を考察するに当って、ローマ時代の埋葬組合 ︵8田σqす け上巳。箋日︶を始め、氏族団体、マルク共産体や中世の村落団体、ギルド、フンフト、同職親方組合︵ぎ昌q薦︶ などの形 態を問題にするならば、古い生活秩序の解消と個人主義の擁頭とが、全く新しい、比較を絶した精神的な祉会事実を創造 したということを、われわれは銘記しなければならない。これら初期の生活確保の形態は、いかにそれが保険に類似して       ⑲ いても、近代保険の基礎観念の発達以前の形態たるにすぎない。けだし、この保険の基礎観念は、隠隠主群的精神態度        ︵営象三q奏房蓼。90Φ一・。叶霧冨詳§・q︶によってのみ、可能となるからであるゆ  ワインライヒがその協同社会的性格を否認するところの危険団体は、もとより、私が保険の技術と呼ぶところのものに よって成立するのであるが、それは、彼によれば、個人主義的権利感情 ︵巨2<剴8房二二ΦゆΦ舜。。⑳。酔さ によるものであ り、神の意志のために、共同の犠牲によって隣人を救うというような、古い協同社会意識を克服するものである。このよ        ⑫ うにして、始めて、近代的の保険思想は、協同社会的生活確保の古い諸形態を取り去ることとなる、というのである。  右のように、ワインライヒは、危険団体の技術的基礎を強調し、その結果として倫理性を否定するのである。この技術 的基礎を明かにするという点では、ロールペックもまた同様であるが、ロールペックが、この点から、なお倫理性を強調 したに対して、ワインライヒは、これと逆に、そのゆえにこそ、まさしく倫理性を否定している。この対照は、まことに 注目すべぎことがらといわねばならない。  ︵∪ 宅Φぎ羅冒劃国’一∪δ<霞巴。げΦ詳oO弓β題。普。。む。o三巴Φ。・QΦ醒蜀9N■隔.臼σq.<,・賃.LOωO加.一罐  ㊥餌.鈍ρ

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勲空O;oΩΨ一翻1︽ 野穿O. 國。巨び8到勲塑.O.︸鉾δ⊥一⋮ 零①ぽ犀。ざ∬即.黛O. 鉾鉾ρ 評聾○. 即帥.O二の.一ま 騨.鉾O曜 p餌.OこoD.、一昭 白杉、前掲、九一一〇頁。 五  さて、倫理性を否定するということは事実をあるがままに観て、これに当為的な意味︵ωo目。謬︶を与えないことである。 このような立場から、ワインライヒは、危険団体に於ける危険の結合関係を認めながら、そうであるからとて、それによ って集団として成立する構成体を、協同社会と呼ぶべき理由はないと説いている。けだし、彼によれば、入のあらゆる結 合が、協同社会であるのではなく、ただ、その存在意義そのものを実現し、したがって、必然に存在する生活単位︵u9.享         ・冒冨δのみが協同社会であるからである。  およそ協同社会の本質は、彼の見解によれば、個人が自己の全存在を以て広い範囲に入り込み、それのために身を捧げ るということにある。ただ今日では国民団体︵昌餌什一〇昌勲一〇 φO唐ΦぼPω05暫㎞叶︶とその細胞、すなわち家族、氏族、種族以外には、 この呼称を担い得る協同社会は、全くあり得ない。したがって、馬漕社会的性格を持つあらゆる結びつきは、この国民協    保険の集団性といわゆる協同体理論      五五

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保険の集団性といわゆる協同体理論 五六       ② 同体思想の反映たるものであり、その生活力をこの思想から抽出したものである、というのである。  この意味から見れば、右の技術的基礎たる危険団体は、すべて人の献身︵臼房器︶ を要求し得るものではなく、せいぜ       ③ い、部分的利益の一致︵邑冒駐。H暮霞Φ器Φ9Φσq㊦σq巨昌σq︶が見られるにすぎない。  このようにして、彼によれば、加入者の団体は協同社会ではなく、それは、利益構成体 ︵ぼ琶①。。。。Φお①び費。︶ にすぎぬも        のであり、目的によって制約せられた団結︵N潮8ぎ①象轟8国議勲謹白Φ昌蜜。。・。爵σq︶に他ならぬのである。この点については、ワ ーゲンフユール︵零帥σqΦ昌一目げ胃闇 HH・︶がいうように、近代の保険団体は、物的利益社会的︵の器葛魯・σq①。・①房。冨h島山︶なるもので        ⑤ あり、それは、人間相互の最少限の関係︵り肖一昌一目P餌曄くO同げ騨犀5溢︶を示すにとどまるのである。      ・ ・このように見ると、加入者の結合によって保険団体が構成せられるのは、決して協同体意識からではなく、したがって、 また、保険団体としての内的必然からでもない。それは、人間的意識から生れ出たも、のであり、保険による自己の確保と いう特殊の目的が、単に自己のみでなく、他のひとびとの結合によってのみ実現せられるという、合理的考慮によるもの と考うべぎである。かるがゆえに、ワインライヒにあっては、相互利益主義という連帯性 ︵の〇一肝心︸詳聾け 伽φoα 月畠蜘O β帥 qΦロαwり︶の        ⑥ 合理的思想が、保険団体の組織を支配することとなる、というのである。  ところで、われわれが注意すべきは、ここに彼が連帯性というところのものは、利己的意味からではない個人主義思想、 すなわち、各自の利益︵<o罫Φ印︶自体が、他人との同行︵国費き日宇σq98︶ によって最も容易に達せられる、という思想を ,意味すること、これである。ところで、この個人主義思想は、彼に於ては、自己の立場を合理的に維持しつつ、しかも、         自己を放棄することなくして、この結合を可能ならしめるものと理解せられている。ワインライヒによれば、このような       ⑧ 合理的な目的行動︵夕雲駐。§背切睾。降ω琶凄気σ蒐︶こそ、利益構成体として考えられるものである。

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 もとよりハワインライヒも、当時のドイツ国民経済が、よかれあしかれ、一つの協同社会として発展しつつあったこと は、充分にこれを認め、.また、この発展に対して大きな熱意を示している。それにもかかわらず、彼は、なお、保険団体 が、この協伺社会としての国民経済に基礎を置くことによって、その利益社会としての本来の性格を発揮することができ る、との主張を捨てなかったのである。  そもそも、ナチスが目指したところは、国民的革新によって、永遠の協同体思想を獲得し、これを人間生活の本義と深 く結びつけるという点にあった。ワインライヒは、この思想に対して冷静に批判を加え、 ﹁敬愛に値するが、なお誤謬た るを免れぬ、このナチス的保険協同体の見解も、やがてこれを放棄せざるを得ぬであろう。﹂と考えたのである。 いま、 彼のこのような見解によれば、保険思想が形成せられるに当っては、ただ連帯性の精神の働きのみがあり、保険思想は、 国民協同祉会に奉仕することによって始めて、この協同体思想との正しい関係を再獲得することができる、というのであ  ⑨ る。  ところで、この連帯性は、保険が貨幣経済のもとに行われる限り、いうまでもなく、多数の加入者の保険料の醸出と、 これに対する保険企業の保険金の支払という、全体としての関連によって実現せられる。ワインライヒが、保険を指して、 すべて洗練された組織︵σq爵。旨89σq窪冒呂8︶の成果となし、その本質が、組織的、技術的かつ経済的給付にもとずぐと       ⑩ いうのは、この意味のものと見るべきであろう。  近代保険が貨幣経済のもとに現われると見る点では、ロールペックも、ワインライヒと異るところはない。しかるに、 ロールペックは、ワインライヒが右のように本質と考えている連帯性を、自由主義経済組織の産物として排斥し、これを 打破すべき幾多の方箆言及してい鱗この点に於ても・ルベ・クの見蟹最初から当為的の立場に立ち、多分に倫理 的もしくは政策的意義を持つことを、うかがい得るのである。    保険の集団性といわゆる協同体理論      ,    五七

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   保険の集団性といわゆる協同体理論       五八  ロールペックを中心として、ドイツ保険学界を風靡したいわゆる協同体理論に対して、ワインライヒが公にしたこの反 対論は、当時のナチス的政治圧力とくらべあわせて、まことに敢然たるものがあり、時流の偏見に屈しないその強固な態 度は、また学ぶべき点を持つものである。しか一し、このような傾向は、単に彼のみにとどまるものではなく、たとえばワ ーゲンフユールも、明かに同様の態度をとったと見ることができる。  ところで、ワーゲンフユールにあっては、保険に於ける協同社会的性格は、あらゆる場合に否定せられている。すなわ ち、彼によれば資本主義時代に茂ては、保険は、純粋に利益社会的のものであって、その本質、起源、目的などから見て、 協同社会とは何ら関係のないものを、あえて協同社会と呼ぶことは許されない。そこにあっては、単に、集団だけが考え       ⑫ られるというのである。  このようにして、ワーゲンフユールによれば、保険関係は、社会学的には、相互の最少関係 ︵富冒巨9話筈毛玉。。︶ を示 すものにすぎない。すなわち、加入者は、最少の程度に於て、しかも、保険者を通ずる経済的迂路によって、保険団体に        ⑯ 結ばれることとなる、というのである。もっとも、彼は、今後の問題として、保険が純粋の協同社会によって行われるこ とを否定するものではないが、保険のみによっては、純粋の協同社会が成立するものではない、というのである。

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白①冒目ΦざF 塑.薗’O。 餌聾■O;の.一田一。◎ ㊤.騨.O● 騨’餌.O﹂oQ膠一巽 ゆ.90ご02﹂αc◎⋮窯騨09窪讐写一字.” 零Φ田目①ざF ㊤.餌.O“ 帥齢㊤.O甲 名西勲爵藁葺騨目口9負旨く①冨ざげ霞目ロσΩ乙・周①ω①塁”一〇ωQ◎一〇Q■㌣心

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窪.90こω.一G︻刈 騨.餌.O;o慶.一$ 鉾空O・ 国。ぼび①。ぎ9讐O.加﹄臨や⋮鉾刈㎝幣’嚇 薯露窪密ぼ”餌.990・︸酸.ら。 暫’帥●O’ 9帥・O.︸o厘﹁心㎏’ 白帆、前掲、二九頁以下、一〇八頁以下。 囲        六  右に述べたような、保険をその本質に於てむしろ利益社会とし、その協同転借的性格を否定する見解に対しては、ロー ルペックは、ふたたび駁論﹁保険協同体か被保険者団体か﹂ ︵.。<。邑。冨籍躍。・α電§①営。。σ無恥&㊤く①邑。鳴虫Φφ目唇冨”、.=OωO︶を 公にして、みずからの立場を明かにしようとしている。そこで、しばらく、これについて見ることとしよう。  彼は、まず、自己の見解の基礎が、ゴットル︵Ω6什け一,Oけけ犀属①昌昌①一画︸国■<嚇︶のいわゆる生活経済学にあることを述べ、経済学 は、欲求とその充足の持続的調和による人間共同生活︵N昌の餌日匿Φ昌H①び①昌︶の部分形成の意義であり、ここには、 ﹁共同生活       ①       ②        、 は、究極には協同生活である。﹂というシュタイン︵の酔①一口噂 ○・︶の言葉を引合に出している。  いま、ロールペックの言を待つまでもなく、保険は、もとより経済の一部門であり、それは、全体から分離することな く、つねに全体との関連を持つ。ところが、彼によれば、この自覚のうちにあって、われわれは、血の流れのみにしたが い、また、この故郷そのものに経済をみちびくことができる。われわれは、国民協同体としてのみ生活し得るのであり、 また、生活せんとするがゆえに、相互に防禦︵の昏9N︶し保護︵国冒。・。罐Φ︶しなければならない。このことのために、他の    保険の集団性といわゆる協同体理論      、     五九

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   保険の集団性といわゆる協同体理論       六〇         施設とならんで、保険が案出設立せられた、というのである。  ロールペックは、さきに、保険は、氏族制度に於ける協同扶助を、貨幣経済に移したものに他ならぬと強調したのであ       ㊨ るが、ここでは、その論調が弱められて、そのことは、特に問題としなくともよいと、消極的態度に改まっている。これ は、きわめて注目すべきことがらである。  しかし、ともかく、今日の保険契約の内容は、それが立脚するところの根本的権利義務という点で、この氏族制度の救 済にきわめて類似する。このようにして、保険施設︵<Φ邑。三塁おα①難詰。馨琶αq︶は危険協同体︵Ω①h魯おお舞①募。冨騰け︶を担う       ⑤       , ものであるとして、その説をゆずってはいない。  もともと、ロールペックは、技術的概念たる危険協同体から、直ちに協同体意志の精神を見出し得ないとするワインラ イヒの見解には、 一応の同意を表明している。しかし、そのためには、この危険協同体の実質を吟味しなければならぬと なし、彼は、もし、このような危険協同体の設立に対する究極の動機が、一定の危険︵Qo当千︶を共同して相互に防ぐと いう、国民の欲望︵ヒd①量旨隔三聖のうちに存在していたのでなければ、 このような危険協同体を構成し、かっこれを運営       ⑥ すべき可能性は、全く与えられなかったはずである、というのである。  このようにして、ロールペックは、協同社会的な扶助や準備︵自宅。巨9<。瑳。茜①︶ の初期の形態を、いわば現代の生活 のうちに魔法を以てよび起すものとする、ワインライヒの非難を一蹴している。そもそもロールペックによれば、経済は 真に生活であり、単に、 一定の現象の流れ︵b菖導b晩①設撃霞目話。冨一昌毒σQ窪︶や過程︵<。おき碧︶ ではない。したがって、あ 与ゆる構成体に於ても、同じ生活が実現せられなければならない。危険協同体は、たしかに、経済の形成︵三蓋。霊窓謬①        o。ω§貯護︶への能力と意志とを有する、というのである。  いったい、ロールペックにしたがえば、われわれは、どのような範囲で、またどのような場合に、保険施設が要求せら

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れるかを問題にすれば、保険概念の決定には、すべての経済構成体︵名一月叶ωoげ餌bけ一一〇国Oひ慶 OT①ぴ一一動O︶に内在するところの協同社 会のために、最低の支出によって最高の効用を獲るという、この根本法則を指摘する必要はない。危険がどのようにして 形成︵α蔓撃手§︶されるかということ、たとえば、醸出が危険の程度に応じてなされるか否かというようなことは、実は、        ⑧ 経済そのものの意志活動︵毒一︸一Φ一Pの帥平げ︶であって、保険の本質的内容ではないと、いうのである。 ・さきに倫理性の強調の基礎とすら考えられた、彼の危険協同体に於ける技術的特徴は、ここでは全く無視せられて、た だ、正面から倫理性のみが説かれている。われわれは、ワインライヒとの論争に於て、彼の見解がむしろ一貫性を欠くと いうことを、示したものと見ることがでぎよう。  ところで、彼が社会構成体と名づけるものは、協同社会から生れるところの、国民に親しみある︵<O一柔取餌臨けO 葺]P曳くO︸貯昌餌げ①︶ 構成体なのである。しかるに、ワインライヒが強調する相互利益主義は、ロールペックに於ては、余りにも保険契約に捉 われた見解にすぎぬ、とせられている。そこで、彼は、この立場から把握せられた集団をして社会構成体たらしめる連帯       ⑨ 性は、そもそ.も如何にして生れるものであるか、と反駁するのである。  さて、 コ入ば万人のために、万人は︸人のために﹂ ︵、.嗣塁弓守居艶①︸詫①喝覧。ぎ魯、、︶ということは、しばしば、保険 の根本原則と考えられる。ロールペックも、また、この見.解を強く支持し、保険にもとずく賠償要求の是認は、何ら原則 たるものではなく、実は、協同社会が個人の要求を是認する結果の作用に他ならない。相互利益主義的立場の連帯化こそ         は、国民生活にまさしく反するものである、と断言するのである。  このような点から、彼は、国民に対して如何に役立つかという点からのみ、保険が冷静に判断し得られると考える。ゆ えに、彼によれば、いま国民経済に背けば背くだけ、保険の発展と影響力とは小となり、われわれが国民に献身すること       ⑪ が強ければ強いほど、保険の保護作用は、いよいよ欠くべからざるものとなる、というのである。    保険の集団性といわゆる協同体理論        ’      六一

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切。ぼび。。r<①話ざげ霞目ロσq。・月日Φ陣暴。冨坤09電毒塁δげ霞叶①Φ弓詳薯。”一N.h﹂白く㍉薯.讐一80閣oQ■8ひ 望Φ冒”○こ臼冨陶障冨首昌σ身一昌融①φ国臼昌臼9σq害く。旨零ぼ叶砿魯既諾8び8︸一80。層の.O㎝  保険の集団性といわゆる協同体理論 ㊤●塑・O・ 9.帥・O・ 欝.野O.       ’ 餌.90・ 餌・即’OこoQ.ゆ⊆ΩcQ一刈 騨.帥.O二砿・Pω刈 9’幽.Oご。Ω曹ゆωcQ 塑・9.O■ 髄●ゆ.O・ 六二 七  ロールペックは、右のように、ワインラインのぎわめて冷静な、論理的な見解に対して、いわぽ、必死の駁論を試み、 みずから多少修正を加えつつも、なおその所説を守ったのであるが、その反駁の最後に於て、彼は、構成体の成員の個人 的接触に言及し、これによって、彼自身の協同体理論を、さらに明かならしめようとしているのである。そこで、われわ れは、いま一度、この点に触れたいと思う。  すなわち、彼は、いわゆる協同体欲望 ︵Φ。日①巨の。げ騨穿び①量目b昌芭 を承認し、協同体精神を強調することは、ワインライ ヒに於ては、あたかも、危険協同体の成員の個人的感情︵冨屡。量器①屠琿巳§σ9︶を前提とするかのように考えられているが、

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それに承服することはでぎない。いりたい、国民経済といえども、国民全員に相互の個々的結束や関係︵<霧露拭ρ彊目巳 ヒdΦNざげ毒σq︶がなくとも差支えはなく、それは、標準的な統一意志力と意味の理解︵埼旨。口融犀同9睦琶臼。っロロ.、餌自h幽、。。§σq︶とを 有する血の協同体︵⇔d冨ひσ曵①尊覧・。9聾︶である。個々の場合に、不幸︵d口σQ園山︶に見舞われた人を救うためには、すべての 者が団結しなければならぬという認識に於て、国民はおのずから一致するのであるが、それこそ、まさしバ、保険に於て        実現せられる協同体意志に他ならぬ、というのである。  このようにして、ロ:ルベックに鞭ては、いまもし保険によって満足せしめられる玉入的欲望が、協同社会にも関係す る欲望とは見られない場合には、その責務を果す協同社会は、不必要となるであろう。すなわち、加入者の集団は、それ が社会的精神︵のON一勲一① ︵︸①一加什︶つまり国民協同体精神︵ΦΦ響亀霞く。貯躍。白①ぎ。。昌鋒︶によって実現せられる場合にのみ、社会 構成体となり得るのであり、これに矛盾する観念のもとに形成せられる連帯関係は、断じて社会構成体たり得ない。けだ し、経済構成体は、この国民協同体の奉仕者︵U帥朝霞︶であり、支配者︵切①げ①円胃乙慶Oげ㊦屑︶ではないからである、と結論せられ     ている。  右に述べて来たところで、私は、だいたい、保険集団を協同社会として理解し、これに多分に倫理性を持たせようとす る考え方のうち、特に代表的なロールペックの見解を、いくつかの点で明かにし、次いで、これに正面から反対するワイ ンライヒの所説に触れて、両者の理論を対比せしめたのである。前者の協同社会的性格の強調に対して、後者の利益社会 的性格の主張は、きわめて注目すべきものといえる。  そういう問題は、もとより、私がさぎに述べたように︵本誌、前掲︶、保険集団の構造そのものを、社会学的にどう見る かということに連るのであるが、また同時に、経済学的に、その構造が、どういう意味を持つかということにも、結びつ いている。いま、そういう立場から見れば、右に示して来たロールペックをめぐるいくつかの見解の展開は、そのことの    保険の集団性といわゆる協同体理論       六三

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   保険の集団性といわゆる協同体理論 うちに、多くの問題点を蔵しているのである。私自身の考え方も、また、 るはずであるか、これについては、他日、稿を改めて論じたいと思う。  ︵∪ 國。犀弓ぴ8置 帥’㊤●O。  ㊥  帥層9.O;oα.D器. おのずから、     六四 そういう取扱い方のうちに示され

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