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アビダルマの諸門分別 ― 内外門

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(1)

﹃倶舎論﹂︵ ① るとされる。︷ 説明している。

このように﹃倶舎論﹂界品は、まず一切の法を包摂する教義概念としての穂虚界を説明した後、そのなかでももっと

も広い十八界について二十二門を設け、種々の角度から諸法の意味を分析する。アビダルマ教義学とは法を簡澤する

ことであり、それは法の自相共相を確定することである。そしてそれはこの諸門分別といった議論を通して明らかに

ことであり、それは法の自相斗 なってきたものと考えられる。

本稿はその中の内外門をとりあげ、説一切有部の教義学の中でどのような議論がおこなわれてきたのかを概観する

② や虎についてではない。

て説かれているから、有漏の分類などがたしかに理解しやすいので、界についてのみ考察されるのであって、穂

これから、法の簡樺に役立つように、それらの意味の分類が考察される。その場合、界の中で色と心が区別され

アビダルマの諸門分別l内外門

の第一章が

安慧の注釈

1.倶舎論界品における諸門分別

﹁界品﹂と名づけられるのは、そこに十八界についての諸門分別が詳説されているからであ ﹃實義疏﹂︵目§§意︶は、十八界についての諸門分別がはじまるところで、つぎのように

宮下

20

(2)

内外門とは、諸法をいかにして内的なものと外的なものに区分するのかという考察である。この内と外の区分は、 ﹁内的﹂︵、忌葛ミざⅡ自己に属するもの︶という言葉が示すように、︿自己﹀を基準として、自己に属するものを﹁内﹂ とし、それ以外を﹁外﹂とする。したがってこの区分は、︿これは私のものである。これは私である。これは私の自己であ る﹀︵§胃営園蒼負§言営昌冒︾蔦吻。亀§己という経典の定型句に示される︿自己﹀の発想が前提になる。しかしこのよ うな︿自己﹀の発想こそが、仏教においては、自己認定を意味する﹁我執﹂︵、言ミ葡曽︶であり、苦しみの因とされる。 ︿自己﹀の発想を前提にして現われる事態についての言説は、いわゆる世間的言説といわなければならない。アビ

ダルマ教義学において存在するものは諸法のみである。いかなる事態を表わす言説もすべて諸法のもとに解体されて

観察される。したがってまた、諸法とはアビダルマ教義学の言説領域における諸存在である、ともいうことができる。 このアビダルマ教義学における諸法の言説がもっとも明瞭に出現したのは、縁起の教説を︿有情数縁起﹀と︿非有情

数有情数縁起﹀とに分節した﹁婆沙論﹂においてである。これによって﹁十二支縁起﹂と﹁諸法の縁起﹂とが区分さ

れることになった。この教義学において新しい言説領域が開かれたことの意義はきわめて重大である。それはやがて

大乗仏教の教義学を用意することにもなっていくのである。そしてまたこのような意味で、﹃婆沙論﹂における諸門

分別は、アビダルマ教義学のもっとも典型的な議論の端緒をなしたということができる。

アビダルマ教義学の諸法の言説は、当然とはいえ世間的言説と密着した意味連関の中で構築されている。そこでの

互いの差異は不断の議論を通して成り立っているかのようでもある。 最も古くに翻訳された﹃稗婆沙論﹂︵三八三年僧伽祓澄訳︶には、いわゆる﹁十門納息﹂と呼ばれる諸門分別を中心 ことにする。

2.阿毘曇毘婆沙論における内外門

ワ1 目 ユ

(3)

とした部分が伝えられているが、問題の内外門は見いだされない。 浮陀祓摩・道泰訳の﹃阿毘曇毘婆沙論﹄︵四三九年訳︶には、つぎのような議論が伝えられている。 ﹃阿毘曇毘婆沙論﹂は六十巻が存するのみで残りは焼失したといわれる。まだ他にも内外の議論があったのかもしれ ない。しかしここには、諸法の言説としての教義学が展開されていることが十分見てとれる。 まずい内的外的の区別は、︿法﹀によって成立するものかあるいは︿人﹀によって成立するものかであると提示され であるとすれば、” 外を定立できるか。 州答日。應作是説。以説法払 人。若無人者、云何右内外。 Q間日。云何立内六入外六T Q 旧 │H1婆 日 沙 ○ へ 云 巻 何 3 9 立、‐/

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外トL 六 一 入 ○ 即答る。このように主張すべきである。法を説くことによって内的外的な虚を定立するのである、と。一切の法について[内 外の定立をするの]ではない。用︲1]六識のために拠りどころ︵所依︶となる法が内的な虎であり、認知対象︵所縁︶とな るものが外的な虚である。用︲2]あるいはまた、知覚機能︵根︶が内的な虚であり、知覚機能の対象︵根義︶が外的な虚で ある。用︲3]また、知覚対象を有するもの︵所境界︶と知覚対象︵境界︶についても同様である。 蛇しかしこの内的外的な法というのは確定したものではない。もし自己が内的な虚であれば他者は外的な虚であり、もし他者 が内的な庭であれば自己は外的な腿である。 Q問う。どのようにして内的な六虚︵六入︶と外的な六虚が定立されるのか。人によってであるのか、法によってであるのか。 哩然此内外法不定。若我内入是他外入。若他内入是我外入。 入。根義是外入。[川︲3]所境界境界亦爾。 即答日。應作是説。以説法故立内外入。非一切法。町︲1]若法能與六識作所依是内入。作所縁是外入。用︲2]復次根者是内 ④ もし法によってであるとすれば、一切の諸法には作用︵尋国︶︵欲心︶がない。どうして内外を定立できるか。もし人によって であるとすれば、仏教の真実︵如實義︶においてはきわまるところ人は存在しない。もし人が存在しないならば、どうして内 爲以人故、爲以法故。若以法者、一切諸法無有欲心。云何立内外。若以人者、如實義中畢寛鉦 の 、 乙乙

(4)

諸法相互の関係を論ずる場合、そこにそれらの関係を生みだす︿作用﹀という概念をもちださずには、諸法の関係

を規定するものがない。﹁婆沙論﹂の中では、この︿作用﹀という概念は多義的に用いられているし、訳語としての

﹁作用﹂に相当する原語も一つではないと考えられる。ここで﹁諸法には作用がない﹂という場合、暑§3国あるい は尋sなどの原語を考えることができるであろう。それは例えば、︿諸法の内部にはたらく人﹀︵園員ミ曼息ミ§ミ曽富︶を想 定しての︿働き﹀や、磁石が鉄片を引き寄せたりする︿作用﹀であると説明されている。そのような︿作用﹀が諸法に

おいては存在しないという意味である。しかしいかなる意味でも︿作用﹀がないといっているのではない。教義学中

で諸法の時間的況位を規定するものは︿作用﹀︵きき︲亀︶と呼ばれている。この︿作用﹀は、法が現在にあることを示 す徴表とされている。それはまた諸法の本質規定をする場合に用いられる諸法の固有の︿作用﹀︵訂ミ§︶と解される 場合もあるが、諸法の本質︵自性︶が時間的況位によって変化するという事態を避けるために、︿作用﹀︵ざミミ︶と ⑤ は結果を生ずるための原因の況位になったこと︵取果︶を表わすと解されてきた。

このように世間的言説がもっている概念のイメージに拠りながらも、議論を通しながら、その概念がもっている世

間的イメージが剥ぎ取られ、教義学の諸法の言説にふさわしいものへと作りかえられているということができる。

また内的外的の区別は世間的言説の︿人﹀によるのでもない。仏教の真実︵如實義︶の言説に︿人﹀は存在しない

のであるから。 このように、 というように議論が運ばれる。 を区分する原理として想定される︿作用﹀が諸法の間に存在していないから、内外の区別を定立することができない、

の領域があることが示唆されている。つぎに、︿法﹀によって内外の区別が成立すると考えたとしても、諸法の内外

る。︿法﹀と︿人﹀という異なった指標を示すことによって、ひとまず世間的な言説だけではなく、仏教の諸法の言説

教義学中の内的外的の区別が世間的言説によっては成立しないことを﹁問い﹂によって示し、以下教認

(5)

義学の諸法の言説によって内的外的の区別がいかに定立されるかが示されることになる。

ここには三つの解釈が示されている。第一は、厄︲1]内的な法とは六識の拠り所︵所依︶となる法であり、外的

な法とはそれらの認知対象︵所縁︶となる法である、とする。第二は、[岬2]内的な法とは知覚機能︵根︶であり、 外的な法とはそれらの対象︵境︶となる法である、とする。第三は、[“︲3]内的な法とは対象︵境︶を有する法であ り、外的な法とは対象︵境︶となる法である、とする。

この解釈は、順に、識と根と境を中心として定立されている。しかし最後に、“このように諸法の言説によって内

的外的が定立されるにしても、︿自己﹀の定立の仕方によって内外が交替し相対的なものであるという解釈が附され

る。内外の成立はやはり世間的言説の︿自己﹀によることのほうが大きいというのであろう。 ﹃婆沙論﹂以後、有部の教義を整理した﹃阿毘曇心論﹂︵三九一年僧伽提婆訳︶の界品には、九門の諸門分別がある が、内外門は論じられていない・ 僧伽践摩訳﹁雑阿毘白雲心論﹂は、﹃阿毘曇毘婆沙論﹂より四年早い四三五年に訳出されている。ここには三十二門 の諸門分別が論じられている。その中の内外門はつぎのようである。 A答。托 非依者。 [偏に] A答。法故説内。柄 Q問。法故説内、︲ 内界説十二者、内 雑心論亀夢届︲勗 内的な界は十一一にであると説かれるというのは、内的な五色[界]と七心界というこの十二が内的な界である。[そ 内五色及七心界、此十二是内界。當知六界是外。 、人故説内耶。若法故説内者、一切法無自。若人故説内者、法無有人。 ・但非一切法。心心法所依故説内。彼意界亦依亦依者。彼五色界是依非依者。

3.雑阿毘曇心論における内外門

心法難是依者而非依。餘非依亦 24

(6)

玄英訳﹃阿毘達磨大毘婆沙論﹂︵六五六’六五九年訳出︶には、二個所で内外の区別が論じられている。巻第七四

﹁結穂第二中十門納息第四之四﹂における議論は、上述の﹃阿毘曇毘婆沙論﹂の議論に相当するものであり、ほぼ一

致した内容である。もう一つは巻第一三八﹁大種蘓第五中執受納息第四之二﹂に見られ、やや異なった視点で論じら

達磨大毘婆沙論﹂巻一三八に論じられる内外の第二の解釈[単2]﹁心心所の拠り所を内的と名づく﹂に拠るものと

の三つの解釈の中第一の、識を中心にした解釈に相当するものである。あるいはまた後で見るように、玄英訳﹃阿毘

念を用いていない。またこの﹁心心所法の拠り所﹂となるものを内的な法とするという解釈は、﹃阿毘曇毘婆沙論﹂

ここで内外門を導入する問題設定は﹁阿毘曇毘婆沙論﹄とほぼ同様である。ただ﹁一切法無自﹂とあって、作用の概

両論の相違点は、﹁婆沙論﹂では十二虎についての内外門であったが、ここでは十八界の内外門であるということ

である。そしてここでは七心界が内的であることは前提されており、五色界が内的とされる根拠のみが問われている。 また、意界や心所法に関説する点は、後の﹃倶舎論﹄や﹃順正理論﹂の議論に接続するものと見ることができる。 ⑥ も考えられる。 れ以外の]六界は外的であると知らねばならない。 Q問う。法によって内的と説くのか、人によって内的と説くのか。もし法によって内的と説くならば、一切の法には自己がな い。もし人によって内的と説くならば、法には人がない。 A答る。法によって内的と説くのである。ただし一切の法についてではない。心心所法の拠り所︵所依︶となるということに よって内的と説くのである。彼の意界は拠り所︵所依︶でもあり拠る者︵能依︶でもある。彼の五色界は拠り所であるが拠る 者ではない。心所法は拠る者であるが拠り所ではない。その他は拠り所でもないし拠る者でもない。

4.阿毘達磨大毘婆沙論における内外門

ワ貝 巳 L ノ

(7)

れている。順に見ていくことにする。 まず巻第七四における議論はつぎのようである。 即答る。ただ法によって定立するのである。しかし一切についてではない。すなわち凧︲1]六識身とは染汚と清浄法の拠り 所となるものである。六識のために拠り所︵所依︶となるものを内的な虚と名づけ、認知対象︵所縁︶となるものを外的な虚 と名づけるのである。それ故に法によって内的外的な庭という名を定立するのである。用︲2]またつぎに、もし法が知覚機 能︵根︶であれば内的な虚と定立し、法が知覚対象︵根義︶であれば外的な虚と定立する。用︲3]またつぎに、もし法が対 象を有するもの︵有境︶であれば内的な虚と定立し、法が対象︵境︶であれば外的な虚と定立する。 内外虚名。用︲2]復次若法是根立爲内虎。若法是根義立爲外虚。用︲3]復次若法是有境立爲内庭。若法是境立爲外虚。 州答。唯依法立。然非一切。[川︲1]謂六識身是染淨法所依止庭。若與六識作所依者名爲内庭。作所縁者名爲外虚。故依法立 云何建立内庭外虚。若依於我、我實性無。如何依我立内外虚。 Q問。云何建立内庭外虎。爲依於法、爲依於我。設爾何失。二倶有過。所以者何。若依於法、法無作用。於無作用一切法中、 婆沙︵巻刈︶闇旨匡︲悪 [川︲4]有説。依我立内外虚。我即是心。我執依故。於此心上假立我名。如契經説。 由善調伏我智者得生天 應善調伏心心調能引樂 既善調心即善調我。故知心上假立我名。此我所依立爲内庭、我所縁者立爲外虚。 哩然内外名非圓成實。謂於我是内者、於他名外。於我是外者於他名内故。而且依一立内外、非名非不決定。 Q問う。いかにして内的な虚と外的な虚を定立するのか。法によってであるのか、自己によってであるのか。もしいずれかで あるとしてどんな難点があるか。二つともに難点がある。いかなる理由であるか。もし法によってであるとすると、法には作 用がない。作用のない一切法において、どうして内的な虚とか外的な庭を定立することができるか。もし自己によってである とすると、自己の真実の本性︵實性︶というものはない。どうして自己によって内的な虎とか外的な虚を定立することができ るか。 26

(8)

先の﹁阿毘曇毘婆沙論﹂と問題設定はほぼ同様であり、同じ議論を伝えるものと見なすことができるが、﹁有説﹂[細 ︲4]として第四の解釈が挿入付加されているというところにきわだった相違を見ることができる。

教義学の諸法の言説として内外の区別を定立するという目的のために、法によって定立するという立場からする解

釈がとられてきた。しかしここに付加された解釈は、世間的な言説である︿自己﹀という概念によって内外の区別を

定立するという解釈である。もちろん素朴に世間的な言説が援用されているのではなく、その自己概念の成立根拠を

諸法の言説の中の︿心﹀という概念に返して論じられている。﹃阿毘曇毘婆沙論﹂の“の議論に内在していた問題を

より教義学の言説に近づけて論じたものと見なすこともできよう。 つぎに巻第一三八にある議論を見よう。 [この経文によって]すでに、心を制御することがすなわち自己を制御することなのである[といわれている]・それ故に心に 対して自己という名を仮に定立するのであると知ることができる。この自己の拠り所︵我所依︶を内的な虚と定立し、自己の 認知対象︵我所縁︶を外的な虚と定立するのである。 ⑨ “しかし、内的外的という名は、確定的に実在しているもの︵圓成實曾菖ミ弓§ミ︶なのではない。すなわち自己にとって内 的であるものは他者にとって外的と名づけられ、自己にとって外的であるものは他者にとって内的と名づけられるからである。 だからしばらく一つの点から内的外的と定立するだけであり、[実在を指す]名ではないしまたどちらとも決定できないわけ でもない。 うに説かれている。 は]自己認定の拠胎 [川︲4]ある者たちはいう。自己によって内的外的な虚を定立するのである、と。自己とは心のことである。なぜなら[心 邑自己認定の拠り所︵我執依︶だからである。この心に対して仮に自己という名を定立するのである。経典の中につぎのよ c よく自己を制御することによって、知者は天に生まれることになる。 ⑧ よく心を制御すべきである。心が制御されれば楽をもたらす。 ワワ ム 』

(9)

この議論は十二虚や十八界の諸門分別の一つとしてではなく、諸法を内外に区分する三つの観点を取りだしたもので

岨このように説くものもいる。他の主張を止め自らの見解を明らかにするためである。すなわち異なった主張があり、内的外 的な法はみな実在するものではないと説いている。いまその見解を排し、内的外的な法はみな実在するものであることを明ら かにしようとする。それ故にこのような論を作るのである。 堀しかしながら、内的外的な法を区別するに三つの[論じ方が]ある。尾︲1]一つは、身体の連続︵相続︶における内外で ある。すなわち自己の身体のもとにあるものを内的と名づけ、他者の身体および衆生と呼ばれないもの︵非有情數︶のもとに あるものを外的と名づける。尾︲2]二つには、庭における内外である。すなわち心心所の拠り所︵所依︶を内的と名づけ、 認知対象︵所縁︶を外的と名づける。尾︲3]三つには、衆生と呼ばれるものと衆生と呼ばれないものにおける内外である。 すなわち衆生と呼ばれる︵有情數︶法を内的と名づけ、衆生と呼ばれない︵非有情數︶法を外的と名づける。 M[発智論の]ここではただ身体の連続︵相続︶によって論じているのである。 なら難責する必要はない。 川答る。その論を作るも︵即答る。その論を作るものの意向がそうだからである。その意向にしたがって論を作るのである。ただ法相に違背していない Q問う。何故に[発智論で]このような論を作るのか。 Pもし内的な法であるなら内的な虚に包摂されるのか、等々と説かれている。 M此中但依相續爲論 所縁名外。尾︲3]一所縁名外。[“︲3]三情非情内外。謂有情數法名内、非有情數法名外。 “然内外法差別有三。尾11]一相續内外。謂在自身名爲内、在他身及非有情數名爲外。尾︲2]’一虚内外。謂心心所所依名内、 哩有作是説。爲止他宗顯已義故。謂有異宗説内外法皆非實有。今遮彼意明内外法皆是實有故作斯論。 即答。彼作論者意欲爾故。随彼意欲而作論。但不違法相便不應責。 Q問。何故作此論 P若法是内彼法内虚攝耶乃至廣説︽ 婆沙︵巻珊︶昌謄届︲弓 28

(10)

ある。ここに見られる︿自己の身体﹀についての言及が世間的言説によるものとすれば、これまでの議論よりもやや

後退したもののように見える。ただ議論の設定は、内的外的な法がみな実在するという点にある。したがって、内外

の区分の基礎になっている尾︲1]︿身体の連続﹀や尾︲2]︿虚﹀や尾︲3]︿衆生と呼ばれるもの﹀はみな、諸法の言

説によって論じられていると考えることができよう。これまでに見てきた﹃婆沙論﹄の議論は、ここでの第二の観点

である尾︲2]虚における内外のみに関するものであり、さらにそれを識根境それぞれによって内外の区分を論じた

ものである。また同様に﹃雑心論﹂の議論もここの庭における内外の区分を十八界の内外の区分にまで拡大したもの

ということができる。このように見てくると、﹃婆沙論﹂巻七四の﹁有説﹂厄︲4]はどの議論よりもやや特異なも

のであるということができよう。 ﹃倶舎論﹄の内外門の議論はつぎのようである。 色などを除く。︵路号︶ [色などの六つの対象を除いた]六識と六つの拠り所︵斑、皇国︶、これらが十二の内的な界である。他方、色などの六つの対 象︵§皇国︶という界は外的なものである。 “自己含ミミ我︶が存在しないのに、どうして内的含号急曽浄園自己に属するもの︶とか外的といえるのか。心は、自己認 定︵亀言営閻昌我執︶の拠り所となるから、自己であると同認︵§画3愚仮説︶されるのである。 qどれだけが内的な界︵aごミミ割き目画ご§︶で、どれだけが外的な︵訂どき︶[界]か。 シ六四.画式岸昌、︵四昌岸②④mご 十二が内的な[界]である。︵$塵︶ 十二が内的な 一とはどれか。

5.倶舎論における内外門

29

(11)

自己をよく制することによって、知者は天に至る。 と説かれている。また他のところで世尊は、心を制することについて説いている。 心を制することはすばらしい。心が制されるなら楽がもたらされる、と。

だから、眼などは、自己に類似した心にとっての拠り所という況位︵罫引亀8獄昌︶から見て、近接した況位

⑩ ︵営葛曽旨言善§冒昌︶の故に内的なものであり、色などは対象という況位︵鳥昌§訂昌︶の故に外的なものである。 叩そうだとするとその場合、六識界は内的ではないことになる。というのは、まだ意界の況位︵ミミ・詮目晨昌︶に到達してい ないこれら[六識界]は、心の拠り所とならないからである。 いかなるときも、それら[六識]は同一のままであるから、[意界]の性格︵奇雷§口相︶を越え川ることはない。というの は、もしそうでなければ、意界は過去のもののみであって、未来や現在のものはないことになるからである。 また、十八界は三世に属するものであると認められている。またもし、未来や現在の識に意界の性格が無いとするならば、 過去世において意界は定立されないことになる。というのは、存立性格︵昏雰§画相︶が諸世にわたって変化する ︵昌息言3量︶ということはないからである。 ここに見られる議論は、玄英訳の﹁婆沙論﹂巻七四の﹁有説﹂[“︲4]にもとづいたものであることは明らかである。 心は自己認定︵我執︶の拠り所であるから、心を自己と同認︵仮説︶する。そしてそのことの証左として﹃婆沙論﹂

とまったく同じ経文が引用される。そして﹃婆沙論﹄は、自己の拠り所を内的と説き、自己の認知対象を外的と説く

としているが、﹁倶舎論﹂は、それをより精確にして、自己に類似した心の拠り所が、近接した況位にあるから、内

的と説かれ、対象の況位にあるものが外的と説かれるとする。 内外という概念が︿自己﹀に端を発するものであるかぎり、︿自己﹀を諸法の言説のもとに定位し直すことが必要と なる。ここではそれを﹃婆沙論﹂にならって︿心に対する自己の同認﹀として論ずる。そして内外の区分は、同認され ている自己ではなく、同認の根拠となっている、心を基準にして定立されるとする。そして﹃婆沙論﹄と同様、その拠

り所であるか対象であるかによって内外が区分されることになる。しかしさらに、心にとって近接しているかいなか

qハ LJ,〃

(12)

いま見てきたように、﹃倶舎論﹂の議論はほぼ全面的に﹃婆沙論﹂に拠ったものといえ、また有部教義学の諸法の

言説に厳密に則って論じられている。それにも関わらず衆賢の﹃順正理論﹂は、﹃倶舎論﹂の議論を総じて否認し、 論駁している。しかし論点はほとんどかみ合っていないといわなければならない。また﹁上座﹂の説を批判するが、

それは内外門の議論というよりむしろ﹁法界﹂の定義に関わったものである。智言§畔冨は、この上座説に関説して

⑬ いる。﹃顕宗論﹂では内外門についてわずかに定説を述べるのみで沈黙しているかのようである。 念が、﹃倶舎論﹂においては、︿近接した況位﹀と定義されたことになる。

というあらたな根拠を持ちだすことによって、内的か外的かを定立しているのである。したがって︿内的﹀という概

﹃倶舎論﹄の最後に附された配の議論は、いま見た内外の定義からすれば蛇足ともいえる。内外を区分する基準自 体を内的ということに何の問題もない。むしろ意界の定義に関する議論を反復しているものということができる。

直前に過ぎ去った識を意界と規定すると、十八界すべてが三世にわたって存在するという規定と矛盾することにな

る。この点に関して﹁倶舎論﹂は、識蒋を説明し終わった直後に意界の定義を示し、特に阿羅漢の最後の心もまた

⑪ ﹁意という況位をもって存立する﹂と説いている。これは、未来や現在の心も意界という性格をもっているというこ とを意味することになる。したがってここでの議論は意界の規定の再説である。

またこの意界の議論は﹃婆沙論﹄に拠って論じたものでもある。それによれば、十八界はそれぞれの性格︵冥旨曽

相︶によって定立されている。意界も直後の識の拠り所となるという性格によって定立されているのであり、等無間

縁のような識の拠り所となるという作用︵胃ミ§用︶によって定立されているのではない。したがって、過去のみで

⑫ はなく、未来や現在にも意界の性格は存立しているのである、と。

6.順正理論と酎茸乱耳鼠における内外門

31

(13)

が、判然としない。 安慧の冒営到凰言には、﹃順正理論﹄への再批判が述べられている。以下その部分の紹介をもって本稿を終える。

この奇妙さの理由は、旧婆沙にはなかった一婆沙論﹄の﹁有説﹂[岨︲4]の成立事情と絡んでいるのかもしれない鉈

﹃玉石︵8︶﹄蛍︶いいI目四国ず野ヨンQ︵昏○︶崖○割凹司l﹄o④ケ蝉F玉で︵旨︶、④mm1④﹄四房Fジロ︵。p︶﹃、四m1割@ず吟 十一一が内的な[界]である︵患脚︶と。これは何が限定されているのか。[十二と内的との]両者とも限定されて ⑭ いる。これによって、それ以外のものは外的であると述べられたことになる。 ただ数を示しただけでは個々に[界]を理解することにはならないから、十一一とはどれかと問うのである。そ の[十二を]制限するために、色などを除く︵囲四ごと説いている。 ⑮ ﹁自己について﹂ということが﹁内的に﹂である。﹁内的に﹂とは﹁内的なもの﹂ということである。 説く。なぜならば、[臣カナーダ派の者たち︵鴨曾翻§賞罰菖島︶などは、自己認定︵急言ミ奇昌︶は]自己の属 性︵噌首︶であるか、あるいは自己の認識主体︵爵昌暮︶であると考えていることからも理解されるからである。 ⑰ また自己認定は、心を拠り所としているのである。なぜならその[心]を除いて自己は存在しないからである。 その[心]において自己判定︵ミミ園ミミ我慢︶が定立されるe碁晶冒︾s§画き§§︶のだから、、心が自己に他な らない・諸心所もまた心を拠り所とするから、心に対してのみ自己が同認されるのである。 ここで心を自己であると定立している︵喜唄き︾膏&員遭ミ蝿偕菩憩哀︽曽琶恩蕎冒ふ暮亀§︺負寒曽圏暮§︶というこ と同じである仮 邑醒自己が存在しないのに、どうして内的とか外的といえるのか。例えば、戒がなければ、戒に関する学習がないの ⑯ 心は、自己認定の拠り所となるから云々と。自己の存在を、王張する者たちは、自己認定の拠り所は自己であると

(14)

であるなど[心所は心に随転するものであるのに]、心は内的であり諸心所は外的であるというのは何故か﹂と。 色などは、知覚対象という況位であるが故に、遠くにあり、外的な因であり、そして眼などの[知覚機能]は、

心心所の拠り所という況位であるが故に、近くにあり、内的であるとすでに述べられているではないか。そのよ

うに述べられていることの理由について[さらに]理由を問うのは、ただ論述を埋め合せするだけに過ぎないと

﹁自己﹂という語は心のみを意味していると知らねばならない。 を制することについて述べている。それ故に、自己をよく制することによって、知者は天に至るというこの場合の 示すために、また他のところで世尊は云々と説く。そのところで心が制されるなら楽がもたらされるというように、、心 これは他のアーガマと関連して同一のことを証する根拠︵笥智鼻亀︶であって、単一︵旨言習、胃︶ではないことを のことはまた、どうして理解されるのか。それ故に、自己をよく制することによって、知者は云々と言う。さらに、 拠り所という況位から見て、近接した況位の故に。眼などの[知覚機能]のもとにあるものは色などの[知覚対 ⑱

象]には存在しないが故に、知覚対象に住立していない︵セミ目§瞥畠曾︶心には、何か拠り所という況位があ

るのか。[知覚機能と知覚対象には]ある差異があるから、心はそれら[知覚機能]の変化に順じて︵員己§昌爵 ⑲

ミミミ園爵︶変化する。また、それらの変化に順ずるが故に、その識は、知覚対象に住立していても、眼など

[の知覚機能]においてのみ命名認知される︵鳶運員、︶のであり、色など[の知覚対象]においてではない。な

ぜならば、楽や苦の受と連合するものは、身体の部位において判別されるのであり、色などの知覚対象の部位に

おいてではないからである。だからこのような差異にもとづいて、眼など[の知覚機能]も色など[の知覚対

象]もともに識を生ずる原因であっても、[それらのうち、前者は知覚の]拠り所であり、[後者は知覚の]対象 であるということが成立している。そのことによってまた、内的と外的ということも[成立する]のである。 ⑳ このことに関して、上座サンガバドラは言う。 ⑳ ﹁晨心と心所は、生起と存続とが同一であり、消滅と果が同一 | 電 }3

(15)

思われる。 ②

の拠り所となるということから心を[自己であると]定立するのは不適切である﹂と。自己を認識対象とするも

のが自己認定であるということは、自己の存在を主張する者たちの中で成立していることなので、それ故にまた

[本論の中で﹁心は自己認定の拠り所となるから自己と同認される﹂と]このように説いているのである。自己 ⑳

という況位が自己認定の拠り所となるのだから、心が自己であると同認されるのである。それにもとづいて、内

的、外的と区分定立するのである。

によって、内的でありまた外的であると認めるとすると、眼など[の知覚機能]は、[諸識に]共通ではない

このことも、さらに不適切であるように思われる。なぜなら、[知覚に対する]資助︵§画閻昌︶が近いか遠いか ⑳ [特別の]拠り所という況位にあるから、[知覚への]資助という点で、近く、内的であると言うべきであり、

また、色などは、知覚対象という況位にあるから、[知覚への]資助という点で、遠く、外的である。このよう

⑳ に[彼自身が後に]詳細に解説している。

また﹁晨いくらかの心が自己認定の拠り所となるから、すべてが内的であることになる。だから、自己認定

理由がないからである﹂と。自己認定の拠り所となるから、心が自己であると同認されるのであり、したがって

[実体的なものとして想定される]自己ではない。なぜなら、その自性は別のものだからである。他のものを自 ⑳

己と執しても矛盾はない。例えば蓮の花を持つ者のごとくである。貧などの拠り所となるから、その人の心はた

⑳ だ染汚されたのみであると同認されることはない。 また 彼[サンガバドラ]は言う。﹁晨自 手ま裾L ﹁夛諸心所は内的である。 ﹁室少︽負などの 拠り所となるから、すべてが煩悩と連合︵相応︶することになる。なぜなら、差 ⑲ 心に拠るもの

己はつねにそのように対象に対して[自在に活動するものとして]定立さ

という況位の故に近接しているからである﹂ と述べられている 異を立てる

34

(16)

もし内的な眼など[の知覚機能]が、識の拠り所という況位になるならば、﹁そうだとするとその場合、六識

界は﹂云々と。﹁というのは、まだ意界の況位に到達していないこれら﹂とは、直前に過ぎ去ったものという況

位に到達していない六[識界]である。現在や未来のものは心の拠り所にならない。直前に過ぎ去ったものとい

う況位は、眼などの識界として定立されないのである。なぜなら﹁六[識]のなかで、直前に過ぎ去った識が意

⑱ である﹂︵国囹ごと[本論に]述べられているこのところで意界が定立されているからである。

⑲⑩

いかなるときも、過去であっても現在であっても、︹それら]眼識界などは同一のままであるから、意界である。 識が過ぎ去った場合に、以前に無かった意界の況位︵壁ミ曹謹§畠ミミ︶に到達するにせよ、眼などの識界の況位

定の拠り所が心であると認めるのであって、認知対象という況位だけによるのではない。[だから]諸心所は自

は取蔑を対象とするからである﹂と。この場合、拠り所[という況位]と認知対象という況位によって、自己認

⑳ 己認定の拠り所ではない。 動するからである。例えば、心が調伏されることによって、諸心所もまた調伏されると説かれるごとくである。 自己と名↓、 ⑬ あるというようなことはない﹂と。 れる。そ これらの教説は心を主要なものとする。 ② ︵以下二行、意味不明︾目鈩又8苣臼区︲興目醇曼三○盲吊冥︲巴以下二行、 ︵量ミミ慧曽 また﹁弓 ヱン O︲一︲︲し 諸心所 言口J刈一旧人−V ﹁晨諸心所もまた自己であるとい れはま つ ご 画 嵩・ OO 園 ご ー 画 一

けられるということは]導出

意味不明 子一﹁ノ3一 Y ー =つ た自己 V一 ﹄も[自己と名づけられるということが]導出 が故に、また﹁[心は]独 一三,一 刃心﹂ 疋の ) 鋤 拠り所 詞 ノ一条 バュるか しな

うこのことについても、どの点から否認するのか。なぜなら、有身見

い。なぜなら[諸心所は]それ[心]に依ってのみ対象 っ、、bまつ りで働く﹂ 州#いてJ〃IUI丁ハ七三11j斤眼︲ ねに対象 、為自ら画、口雷ミミ︶と[経中に] 口K一声コリ源っ する︸ 口 ひ三 ︶とになるで辛 てお ,口1卜い﹂弐画糸〃しjて心 r″孝寺才力 〕 兄 そ 凶I︶一。、3j画,、﹁ のろう。[諸法は]意に従 し 1− 寺迅 蛙 弁−んら力ら の対象もなしに に対して活 「 − _ 一 諸心所も に従う ’ 35

(17)

略号

玉六m写﹂罫量言ミミざ骨罫團旨.両昌すぐ祠冠国島閏﹄︾らS 里ョ艸崔、固︻貝医記﹄屋汽p醤切顛虜︼塵︵︶、弓虐、日置乏口函口g§§白.ロ函崔目員胃︶固置.国富昌曙閉巨口︵嵐固冒ご少忌$ のシ巷営獄勲笥逵罫員言ミミざ39熱宮、両旦ごロ弓○四冨国ゞら思烏府冒冒弄らご ︵ミ崎一亀吻。甥曾ご曽言旨、鳥息亀薫言ミ吻喜員︶がすでに存在するにせよ、[意界という存立性格が]消滅するのでは ない。というのは、識は、他の識の拠り所という況位になることによって、意界として定立されるからである。 それ故に、[六識はいかなるときも]意界という存立性格を越え出ることはない。 もしそうでなければと言う。もし現在や未来の識が意界ではないとすると、過ぎ去ったとしても、意界でありか ⑪ つ眼など[の識]であると知られないであろう。そうであれば意界は過去のもののみとなる云々と言う。もし意界 が過去のもののみであるとすれば、どういう[難点が]あるのか。それ故に十八界は云々と言う。 ではなぜそのように[十八界は三世に属するものと]認められているのか。それ故にまたもし、未来や現在の識 に云々と言う。このことについての根拠を述べて、というのは、存立性格が諸世にわたって変化する一﹂とはないからで

あると言う。変化というのは、未来に他のものであり、現在に他のものであり、過去に他のものである、という

⑫ ことである。[このようであれば]あらゆる努力は無意味となるであろう。

ある存在況位とその存在況位にないものとについても、それが時によって、述定できあるいは述定できないと

⑬ いう点で相違するならば、その存立性格が一致しないが故に、相互に生ずることも不合理である。

諸識が他の識の拠り所になるという況位は、自性の上から、常時に存在することであるから、﹁六[識]のな

かで、直前に過ぎ去った識が意である﹂甲弓号︶というこのことは、[六識が]過ぎ去った場合、[意界として

⑭ また六識界として、その存立性格が]変化しないということを言っているのである。 qRU ツ

(18)

注 ①﹁界品﹂という品名について、普光は四つの解釈を示し、その第四解に﹁この品は広く諸門をもって十八界の義を分別す。 故に界をもって名を標す。纈虚はしからず﹂とする。﹁光記﹄︵仏教体系倶舎論第ご己弓参照。また法寶も同様に﹁この品 は、多門をもって界を分別するが故に、これに由るが故に分別界品と名づく﹂とする。﹁寶疏﹂︵仏教体系倶舎論第二で扇 参照。また圓暉﹁頌疏﹄︵仏教体系倶舎論頌疏第一︶℃急参照。 ②目背︵8百s&由︾具吾○︶獣隠出Q旧澤で言︶弓馬︲g巳匙︵2︶g農&敦埋文書の漢訳実義疏第三巻の相当個所はつ ぎのようである。﹁澤日。自下、簡拝諸法品類、委細分別有見等性。故有斯問謂お宮謂←餘︶如論文。何以此中唯分別界品 類差別、不分別悪虚之品類。約界分類、相貌易知文句簡略善。約瀕虎分別品類、即文句煩廣分別有漏等義理難見。是以唯約界 分別、不約蕊虎﹂︵﹁阿毘達磨倶舎論實義疏﹂整理者蘇軍gg目︾方廣錯主編﹃蔵外佛教文献﹄第一輯、北京乞顎︾己駒腫 ﹂助北京図書館収蔵ぞ侭誤呂︺第三○紙一五’一九行︶。また﹁順正理論﹄は﹁有見等門義類差別、界中具顯根境識故、諸 門義類易可了知。故今且約十八界群。由斯調虚義類已成﹂皀醒甜茜g︲届︶とする。また﹃阿毘曇心論経﹄には﹁境界最廣故 建立於界欲説種種義﹂S豈弓鵲︺三○勗臼ゞ困學扇︲E︶という。 ③この点についてはかって論じた。拙槁﹁﹁縁起﹂の意味領域l職伽行唯識学派の場合l﹂︵真宗大谷派教学研究所﹃教化研 究﹄一○六号ら自弓電︲$︶、および﹁無明と諸行l﹁倶舎論﹂における心と形l﹂︵﹁日本仏教学会年報﹂第五七号ら闇﹂ 弓51扇︶参照。 旧婆沙︾浮陀祓摩訳﹁阿毘曇毘婆沙論﹄︹淫弓鵲ゞ三○届合 婆沙玄英訳﹃阿毘達磨大毘婆沙論﹄の屋囿別室o勗怠 ○ヨ︽○宮口①“①目骨冒冨大正新脩大蔵経 zシゞ与国§屋畠亙昌玄英訳﹃阿毘達磨順正理論﹄Q肖陪︺岸︶勗馬. Fシ侶画訂§§震昌尋﹄﹃延寒武言、弓員ざ含熟画.FシつきH勺①匡晶&旨○口︵︵︺国昌z○.留置︶︾FシQ︷○角︶①侭①&筐○冒角:○百胃︶.邑呂︶ 一心画﹄︶ ﹃汚目ざ 目頁冒笥勲笥堅罫ミ言ご冨亀ざ奇罫掛旨熟画︲目睡で哺○H雨︶の置口、&冨○ごS国邑目zo閉計︶︼弓酔竺帛○胃.同︶の品の&昼○目角○言百三○ q 7 J 『

(19)

⑦冒冒ミミ曽阻弓且Q且自画や侭畠○扇廻

⑧国蜀曽ごS噌巴旨匡Q・国言目軍烏︾zo蔚巳 ⑨ある法が確定的に実在する︵菅、ミ智§冒さ§言嘗言菖菖︶か否かという議論は、嵐昌冨ご§言で臨畠ゞ臼畠︾爲毘にす でに見られ、それが認知対象の問題︵且婆沙閉浮辰︲庁︺旧婆沙隠留品吉躁塗罫ミ菅ご冒旨ご層R昌息訂運sと巴︲だ届︺zP 3号や巴において論じられ、さらに法の自性の問題︵&.識身足論農浮Pバミ言ご具言弓・畠?届岸婆沙匡胃ら︲g﹀ ].国匡由︺]ごzふゞ弓恩目、§言曽巳闇.E︲届巴﹄誤やゴミ員言ミミ忌竪舟凰計と巴︲お届︶にまで及ぶ。 ⑩厘冒凹穐隠匿○計の旨︵巨“︾、画曾い§嵩息冨目長勺印、、曽吻§薑ミ3sの指摘にしたがって、写本通りの読みを取る。 ⑪エ嵐国昏届目且白︲弓Ce︾§旨営ミ§・罫ききg昌蚤目ご胃 ⑫婆沙器弓届︲2旧婆沙胃豐届lg稗婆沙論︵瞳浮勗︲g︶にはこの議論なし。 ⑬Qめシち﹄︲とい p ⑭Qドル員互器農4F醇員。匡︶認農当¥﹁これは何が限定されているのか。つまり、十二は内的なものだけであるのか、 ロ。 ④原テクストには。切諸法無有欲心﹂とある。後に見る玄英訳の﹃婆沙論﹄の相当個所は﹁法無作用﹂となっている。この詔 ﹁欲心﹂も﹁作用﹂もともに、想定原語琴心の訳であると見なして論を進めることにする。 ⑤有部教義学にとっての最大の問題である三世実有説や作用をめぐる問題については、拙槁﹁﹃倶舎論﹂における本無今有論 の背景l﹁勝義空性経﹄の解釈をめぐってl﹂︵﹁仏教学セミナー﹄第四四号己憩︶参照。の背景l﹁勝義

⑥二十九頁参照

⑮Q,のP且腿︲腱︽﹁﹁自己について﹂ということが﹁内的に﹂である。あるいは﹁自己に関わって﹂ということが﹁内的に

とI

それとも十二だけが内的であるのか︵号員乱員ごミミ冨§画息乱烏冒昌忌旨言薄暮︶。両者とも限定している。限定によって、 それ以外は外的であることが成立する。﹂︵Ⅱの少量圏︾息言旨昌詮習︲§画ミ§ミ蔚司§ミミ亀愚昌S§§g冨言自尽爵尊言ミ︶ 傍線部四は侶醇の補足説明にあたり、傍線部ごはいシからの転用である。 傍線部が弓シと一致する。したがって﹁あるいは﹂以下はめ少の補足である。 る。﹂︵目量ミ塁ヘミ寄登ロミご一目曽自料︺s豆岑電目ごミョミ営量己、昼ご目曽画己.口匙琴廷目ミ&ミ⑮ご回へ琴︾一目害員居回唇︾曾琴廷画ご葛、ご動罫勵ご回国輿言冒、量訪、暑↑︶ である。﹁内的に﹂とは﹁内的なもの﹂ということである。あるいは﹁内にある諸存在﹂が﹁内的なもの︲一ということであ

(20)

⑳Q⑦姿置路︲計岸﹁では、近接した況位とは何であるか。それにしたがって識がその変化に順ずることになるものである。 識は眼など[の知覚機能]においてのみ命名認知されるのであり、色など[の知覚対象]においてではない、と[述べられて いる]・なぜならば、心は、知覚機能に関係している身体の部位において判別されるのであり、知覚対象の部位においてでは ないからである﹂念息曾巷暮営’画ご自画暮苫息薗ご§.蔦葛画胃冒園琶ミョ耳員凰闘昌量邑旨層ご員言蔦目雷震3s助どき画萱忌慧ミミ嵩︻息避ミ宛言色 、§国鳥ご旨貫冨量・ミミミミ魯畠S息員患、奇き§導曾ミミ号ミ蝿冒農亀ミミミ,︶ この議論は、シ︻国彦震鼠︲韻︵四目︲怠︶にもとづいている。そこで、知覚機能が識の拠り所とよばれる理由と、識が知覚機能 の名をもって命名される理由が述べられている。 ⑳この節弓客︵8︶]g司肖シ員go盲目烏︾感︻口吻ざ鼠曾⋮から弓菩︵8盲巴司肖エ貝吾○百呂司、司ミミミ邑鼠号までに

⑲目醇頁8旨

り除いて読む ⑯QzP器gご︲扇︾﹁我禮既無、内外何有。非無淨戒、有淨戒依﹂。ここの﹁浄戒﹂は含亀に、﹁浄戒依﹂は﹁浄戒に依る [学]﹂あるいは﹁浄戒についての[学]﹂という意味で薫箇詮跳昌営に相当するであろう。 ﹁戒に関する学習﹂︵暮員き、言い曾冨息曾︺慧自忌曽ミ薯︶については、シ尻、写器図中勗参照昌彼らはなぜ有学︵奇爵園︶ であるのか。なぜなら、漏を断蓋するために常に三学︵窯§、暑画︶についての学習を常態としているから︵窯冨冒登ミ昌耳︶ である。[三学とは]戒に関するもの︵画き笥園ミ︶と心に関するもの︵負忌冒曽蒼︶と慧に関するもの︵画きせミミミ︶とであ る。さらにそれら[三学]は、戒と三昧と菫とを自性としている﹂。またaのシ留酌圏1g︾含鼠静ミミ一員言含§宮§員ミ ・rL 、、副 旨ごミ、、ご葛負旨量闇討鴬ごs§も貝冒自量昌. ⑰目菅︵8︶]g当月シ二宮○直S扇︽﹁なぜならその[心]を除いて自己は存在しないからである﹂︵号冒ミ倉蜘侭息ミミ高 昌鼠曾ご富﹃〃、。︶に対して、F少又豆$扇一門少員2︶認馬山Ⅱ﹁それはまた、分別[にすぎないもの]である自己は存在し ないのだから、人我の主張︵宮島as昌島︶であると考えるべきである﹂︵計旨億再品、a迂侭ミミ、a、富討討︺隠侭睡侭 曽曽昌冒、ざ国営旨、旦菅員曾、宮口巴と言う。 ⑱意味不明。弓曾︵8百gg時目醇曼昏○巨弓冨当︾量狩一画8噌曾ミミ葛員急智信︲暮崎鴨億吋尽き甥冒島哩亀婬員冒ご罵言言 、患い 卜 ︵8︶圃阜酌自鴻員寺︸5肩弓司“曽畠ミ曾司碁、堕曾冬曽ごミ信四冨匂曹智員テクストの否定辞は意味をなさないので、取 Q〔 J も

(21)

対応する文はFンにはない。後注⑯の箇所まで。 ⑳心随転︵ミミミごミ・誉︶については、シ︻囚冒麗 ⑳、自鍔其8︶畠︵︶弓1野弓少曼弓○百呂烏︲印惑奇 傍線部分はヱンからの引用と見る。Qzシ四g&ふ︾何縁一生一住一滅一果等心心所中、説心名内心所為外。 ⑳目鴻冥8︶届]烏山一目P員so︶ら辞令、出g侭雰言包曾穂︾萬冒ご忌畠胃、冒営吻奪o冒吻富へ旨、ミ冨含農冒﹃べ 傍線の部分はヨシからの引用と見る。Qz少尉OS“是能依性、対彼所依極親近故、転応名内。 ⑳弓シ其8︶届旨鰐目シ呉吾○苣吊呂志急であるが、曾吻と読む。 ⑳Q童少憩胃困︲器*若法與此似我之心為不共益、彼名為内。與此相違余法名外。故諸心所無成内失。 ⑳目菩︵8苣巴隠占肖醇員号。︶]吊島当︾腎畠旨畠§碧昌亀侭・旦園員ミ侭冨畠ミ瀞営曾等ミミ営曾ご曹勲言↓冨吻向員︾ミ侭 誉琶曽○N琴、い、口冨一、旨い園﹃謹製韓、園韓葛、苫ご司麓、画︺︽、討廷ごいへミいい種、赴冒晦吻、ロ、昌璋、幽屋旨晦怠、、 Qヨシ承胃巨︲屋︾又心少分是我執依、一切心依皆名為内。由此不応作如是釈、我執依止故、仮説心為我。 ⑳目曾︵8︶]巴農角シ員昏○百呂閏︾迂侭四号噌息こ、畠登侭冒幕営甘さ,§蔦言曾ご言︾・⋮ ⑳弓曾︵︽○百日昌自臣喜。盲呂匡︾曽畠旨畠迂頁&侭員亀さ頚曾ご§言薑曾ざ冒其言ご葛、ミミ。薑ミ§寝曾§侭ご畠言蓄頚 曾、︲罰ミg艮詐ご員曾、︲電ミ堕橦営鼠曾吻 Qヱシ忠言屋︲5又少分心負等故、応一切心皆成染汚。或少分心尋伺依故、一切応成有尋有伺。此既不爾。彼云何然。差 これに対し以下のサンスクリット文を想定する。 Dl、。 豈胃・凰畔3月諒嗜目量洋、、ご画、昌昌菖冒さ亀ミ、﹃画曇回旨ミミ罫回幅肉心一置屋ごS詞吻ミ画乱ご貝へ奇曽負営高角ご塁ご巳葛冒浄運員、 島ご侭馬営吻苛めタミ葛埆言ミミ冒奇、電種sN訂旨ミ習昌雪,冒詞罫へ吻鷺S侭旨ミk隠し 画 一 計 へ 言. 罪 ○ いき勗奪ご﹃§ミミsミミ、冒劃・題ミも畠、ご計ごN言いご園罫竪旨侭弓昌・写、愚ミ.a胃︶言言﹃卿↓詞侭§雷ミ ﹃。 、S︲ミミ碑、口︲壼狩ミ︵ ○﹄.zシい①CO﹄甲 別因縁不可得故、 これに対し以下のサンスクリット文を想定する。 s曾昔吻忌ミ旨、雪ミきき§言蜀忌罵。昌胃ミミ昌迂蒼冨ミミ営昌冒曽詞島葛冒︾静ミヨ目貫、罰営、 的ご鼠曾島畠瞥昌曾飼崎島畠函侭曾ご畠言鴨侭.奇農頃曾ミミ冒舌侭E ︾ 。︹.F醇謂︶︵旨︶④○四吟FPg︵。こ︶﹃④固い 闇︲望め︵匙目︲臼︶を参照。 奇弓S侭器量吻奇②ごミ旨晦昔ご冨弓厨奇暮言漣言四脚亀 旨い罫画忌司画吻画量叱●琴国辱︾ミ号園琴 鷺皇冒門司巴、苫へ冒蛸司厘毎負ミミ画媚

1 .()

(22)

ここに引かれている教説については、b言蒼蒼§国島岸脚胃一婆沙目屋参照。 ⑭目渥又8巨巴藍︲即日津具号○︶己淫今印、画言曽曾罰鼠厨旨号心曽耳ミミ昌穂ミ吻冒辱塁畠ミミミ昌之ミミミ鼠奇曾ミミ ご冨冒,口唇馬忌固葡ミマ員四冒的琶昌、角ミ国営②訂竺胃冒葛匙震雰冒蕎、p韓侭廷種ミ冴言葛廻ざぎ量画蔦葛旨ミ、ざ苫画凰闘奇曽ミ旨冒鷺ミロ ミ苫園目逗画蒼胃侭冒迂頁曾ざ琶守恩鼠曾鴬登員曾ミミ冒尽畠四侭愚鳶置旨忌侭員典噌侭廻、ご腎稠言曽奇侭§ご堕忌ミ冴言旨 ︼■ 建具ごロ畠ご冨洩侭曾島感冒﹃︲“S冒鷺蒼堕胃ご瞳畠冒ミミ冨奇罫昌言︵[]内は割注・︶ ■︶ ⑮弓シ叉8︶屋房働弓シ員三○︶ご夢中@号‘旨畠ミ蜀逗碁増員旨侭吻亀萬冒ご種畠言ミミ鼠ご自信駐侭島畠凋磑暮品昌ミミ ︾甲 胃凰冒息、高貝鳥冒、旨畠昌、胃、ミ、a、言畠、3旨ご言、葛、ご号、貝 Qヨシ獣R扇︲品︾又彼何能遮心所等我執依性。以有身見縁五取穂為境界故。是故彼釈理定不然。 ⑳Fシはこの個所まで注を欠く。 ⑰弓醒又8巨罵巴︲蝉弓シ・言○百s巴︲陣曽吻言ミ頚冒号営倉琴侭冒葛吻、具習畠いぎ雰営ご島冒さ頚曾ご嵩ミョ苫、暮鴎、葛 Qz醒患胃畠︲g︾若爾何縁説心為我。恒於自境自在行故。我謂於自境常自在行。心曾無有時不行自境。故一切心皆名為我。 ⑬、艮冥8巨巴馬︲吟、目シ昊昏○百房菌︲跨い$言匂冒ご震畠冒量亀ミ員画旨畠畔言息ミ.巴S﹃・恩、ミQミ吻侭。蕾冒吋。胃ご曹、︲ 坤 島侭胃侭営s閏遭員冒、贈ミ︾頚、畠、ご腎罫ミ言ミミ§﹃鳶基固守§g画き。蕎回首罵曽哩ミ守艮、ご号馬ミの冒曾へ晶冒ミミ鼠 ごミ侭鷺曽吻罫畠守畠包ミ守邑、雰慰苫、ロー冨守忌守、ご侭圏、S︲冒冒葛も爲慧︼︲苫S旨いミ馬曽吻四呂冒吻討、 Qヱン患︵︶品︵︶︲闇︾非諸心所亦得我名。意為上首故。経説独行故。彼要依心能行境故。如諸心所雌亦調伏而但就勝説調伏心。 、、司曾︵8百智匡︲蝉目P昊吾○百品冨山︽鳥言、ビミ奇ざ§急ミ鴨言函智目、冨言旨慰冒一ミミ高島旨畠信ミ.瀞営、ミ ミ葛旨9s、ご計いき目ミ︾員胃置堂ミ尽琶ミミ罵詮胃﹀墓錆廻暮こ量営鼠曾︾︲電菖ご碁禽ご国言号言冨冒ごミ旨員、. ︾ この中の旨、罫言旨冒目︸ミに対して、号ミミミミ昌嵐晶鷺という割注がある。旨、&言間目§雷と読む。またミミ鐵を ⑳弓涯又8︶]臼鳥目シ貝吾。︶ ⑪自答︵8苣曽巨肖シ昊吾。︶ の箇所を巷gRミ首討と読む。 ○屍zシい⑦CO唖?いい+ 説我亦然。唯心非所。 苫回国畔宇と華叫辛ひ0 己浮陣旨罫言Qs蕾罵ざ富意味不明。 巳馨嘩冒曾冒曇ミミこの箇所に対して、量、言︾、ミミミ号という割注が与えられている。こ 41

(23)

Fシは次のように言う。 F菩言︶呂顧︲副Fシ昊且ごg︲いそれ故に、未来や現在の識の存立性格はまた過去の[識の存立性格]でもあり、未来や 現在の識はまた意界という存立性格をもつものとして定立されているが故に、過去の時にその存立性格が変化することはない。 a霞、言ご︲ミミョ官、息鴎冒ごミ。言鴨冒島菖廻s言、,ごミ飼言越菖吻言嵩ミミ習信旨忌曾号琶旨包謎冨冨ご寓侭旨謹ミミミ言曾、 辿 地 暮鴎曾雫ミミ鶴曾合琶廻島言竜ご慧畠冒旨員ビミ奪忌言蒼いざ辱冨き§ミミ、言S冨曾、瞥昌、ミ、ごきよぎ、ミミぃ旨器津 ﹃葛ご琴自蕎葛ご冠蕊挙琴、︲堂︷ご画﹃冨冗匙昼○手、 I︲ ト ⑭目曾︵8︶]箇馬︲野弓シ員吾o︶]g亘︲いへ鷺、言S雪曾弓匂言愚員ミミ言いき亀ミ曾識匂冒曾彌言雪題唇§冨巴貝唇︺息。量信鷺罫

⑨目曾︵8巨圏呂自鈩員

の︷.Pシ℃︵官︶①○ず岬ドジ・︿ ここはFシによって読む。 @日Pも︵8︶岳画匡一目シ﹂︵ Fシは、この一文を欠く。 ⑬弓曾︵日直尉匡︲岬弓シ ミ農守善口包、画︾逗、GSh富言画 ⑳弓曾︵8︶屋 門醇匹さ巳司①いい 山ざ 甲的吐 狩香S琶蜂﹃ごミヘミごミ萱、S‘伽凋雪国館、国ミロビミ巷。、 胃匪はこの一文を欠く。Q白LP又豆g“野旧ン︵兵o屋︶ご品 ⑬シ︻、声巨g︽冨菖園冒§画ミミミミ蒼己言§ミミミ尋葺き冒ミミ ⑲弓曾言︶届母砕弓シ貸昏。︶g苦いミ侭唱量§gミ堕冒曾薫言↓鼠奇鷺唄冒冬§ぬ鳥 国.Fシも︵旨︶g凹司FP昊目︶ご農“ミ侭四ミヘミgミ尋閣、昌寒園昌員昌8頚冒冬合唱ゼミ幕§四爵 明 目シ又8︶屋母旬日臣言○百83ミミ電熱冒営吻合侭ご烏昏きい愚昌忌鴎曾冨,営箒電ミ.、ミ 弓醇。諄○︶]いい四四 Fシによって読む。 ︹澪.Fシも︵旨︶@つ四、激 ロ也 自崖冥官這9脚ドジ貝o巳忌呂亀員曹専国ミミミ廻蒼侭奇旨噴曾、︲墨、息ミ︲菖食ミミ︶噂ミ︲ざ 旨いいず兵弓透旦︵吾○︶ ﹄絡匡︲岬弓冑兵吾○旨g当︲匡哩冬侭冒曾骨畠罫侭冒営ミミ曾島函奇旨侭旨忌倉ふざQ旨ご︲園へ葛詐ご口§、ミミ[幕 ミ、胃︾寺暮員曾曽鼠曾ミミダミミ言豈ご骨言蕎ミミミ↓ミ言斡、昌蔦︶尋喜§暮忌暮蔦的,曾旨員↓言司噴ミ意味不 ︾。 弓雷兵吾○︶罠石島は﹁意界ではない﹂とするが、ここは本論とFシによって読む。具旧曾言︶g“剤 ﹄○①虹司罫ロミ吻ら口乳﹀守口乳、画匙冨再ご尽乳、口、吋竺屋、︲、。、 42

(24)

Fンは次のように言う。 旧鴎頁岩︶琶司︲雷巴一F胄兵目︶ご窟︲吟それ故に、諸識が[他の]識の拠り所となるという自性は、常時存在するのではな く、﹁六[識]のなかで、直前に過ぎ去った識が意である﹂合︲弓号︶というように、過去の諸[識]を殊別しているのであ る。それ故に、過去・未来・現在の六識界がともに内的であるということが成立するのである。 号べ蔦旨、ミミ暮曾、碁困曾ミロミ員ロミロご息ミ暮閣、艮凰§電ご菖侭獄ご苫ミミミ罫S鼠。貝ご胃碁、苫、曾弓冨旨苫一ミミ侭営迂圏 営画罫画蝿曾旨、、苫ミ弓尋鴎叱●§埆旨高畠旨尽号恩a感冒、回、琶昌昌吻奇曽ご昌噌葛、S︲頚ミ胃蔦葛葛貝登璽菖旨、謎冒、口昌畠、言画昌噌 地 曾§冨廻島胃ミ営農畠守ミミミ急ミ碁禺、艮寒§厨尋侭、ミ旨侭言§蛸的ミミミN訂鈎ご凰冒、喝§営至 冨苫a、言宜宜○梗吾鴎銭gふく §§吻罫口ご萬向員鳥こ員貰い号ミ感冒旨ミミ菌ご藍、,昌曾蒼鼠号碁鴎雰言興国ミ式曽晦宮辻冨ご昌忌侭甘言、くぎS冨忌塵習長 43

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