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高崎における近代工芸運動の考察(3) : 評価試論

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(1)高崎における近代工芸運動の考察(3) -評価試論本. 松. A. Study. on. the班odern. 久. 士* J亡♪. Crafts班ovement. Hisashi. in Takasaki. MATStJMOTO*. 前二稿で,わが国でほ特異な形をとった高崎における工芸運動の経過について,その発 生から終息に至るまでを最近の調査によって追跡し,考察してきた.この工芸運動は,一 地方都市高崎を拠点として展開され,第二次大戦以前に終息した,いわば地方史の中のイベントであり,現在ではこの地方においてさえ,顧みられることは稀になっている。 滞日中たまたまこの工芸運動に関係することになったブルーノ・タウト(Taut,. Bruno. 1880-1938)の生誕100年を迎え1),近年タウト再評価の動きが内外でみられるようにな ってきているが,一時期彼にとって唯一の造形活動の場であった高崎の工芸運動について ほ,近代工芸史,デザイン史の中でこれまで光が当てられたことはない。造形に対するメ ウトの桐限や生き方が,現代においてなお新しい意味をもって再考される気運剛も大き. な意義を認めたい。しかし,日本とタウトについて考える場合,彼にのみ評価を集中させ 過ぎないようにしないと,事実を見誤ることにもなりかねない。 日本におけるタウトの作品は,彼本来の建築設計については日向別邸2'の一部があるの みで,その托かほ全て工芸であり,その大部分は高崎の工芸運動とのかかわりにおいてな. されたものである。タウトの本来の活動領域ほ建築にあったとはいえ,今日彼の評価を試 みる場合,滞日中の工芸とのかかわりを抜きにして考えることはできないであろう。同時 )と,高崎の工芸運動につ に,このための基盤整備の役割を果した井上房一郎(1898いても同様の配慮を必要としよう。本稿では,井上の工芸にかける理念がどのように時代 の先駆をなしたかを中心に考察し,ささやかながら高崎の工芸運動についての評価試論と したい。. 日本の地方工芸をみると,多くはその土地の特有の資源や風土と深く結びついて発生し, 地場産業としての発展の跡をたどっている。このような工芸とほ異なり,一個人の理念に ょって興こされ,特異な発展形態をとったのが高崎における工芸運動である。地方工芸の *美術教室(De中t.. of Fine. Art).

(2) 110. 松. 志. 多くは第二次大戦とその後の工業化の急速な進展によって,その形態は大きな変化を余儀 なくされたが,そのほとんどは今日もなお何らかの形で継続されている。この点地方特有 の資源に十分な根せもたない高崎の工芸3'は,時代の変化にほきわめて脆い基盤しか用意 し得なかったことになり,このような工芸もまた特異な例といえよう。こうした意味でほ, 工芸生産の拠点が高崎であったということにとどまり,本来の地方工芸の範時には入らな いものともいい得よう。ここではこのことが本旨ではなく,要はこの工芸運動の意味する ものを今日の視点でとらえなおし,近代の工芸史,デザイン史の中に,いささかなりとも. 位置づけを得ようとする.ことにある。 井上の工芸の仕事は,戦前いくつかの雑誌によってとりあげられたことほあるが4',戟 後に善かれた近代工芸やデザインの発展史の中にほ登場していない。大きな本流を見据え た限には,小さな支流ほ視界に入らないのであろうが,この小さな支流の中にもその意義 は決して小さくはない,むしろ現代の先駆をなした理念と仕事があることを見逃して古まな らないo大正時代から昭和初年にかけて基礎がつくられた日本近代の工芸,デザインは, 第二次大戦を経て今日まできわめて有意な発展を見 日本の造形史に頼まれな足跡を印す ことになったが,その造形思想の原形ともいえるものを,高崎を拠点としたこの小さな工 芸運動の中に見出すことができるo今日,忘れ去られようとしているこの小工芸運動をよ び起こし,その意義を再確認することは,今日転機を迎えた日本りデザインに,よき反省 材料を与えることになるばかりでなく,日本近代の造形文化史を考察する上でも欠かすこ とができない要件であると考える。 ⅠⅠ. このエ芸運動を理解し評価するには,先ずこの運動の発端をつくり,自ら推進の役割を 担った井上の工芸についての理念の形成から見てゆく必要がある。井上が画家たらんと志 して渡仏し・次第に建築,工芸-の関心を募らせていった経緯については前稿に記してき たが,先ず絵の道を選んだことに注目してみたい。 井上が渡仏した時期ほエコール・ド・パリの時代であり,パリの画壇ほ活況を呈してい たから,このいわばパリの栄光に若い夢をかきたてられても故ないことではない。外国作. 家にとっても,独自の絵画世界を形成するにほパリは絶好の芸術の都であり,井上にとっ ても,パリ以外に選ぶところほなかったであろう。ここでは,一つの知性がパリにおいて. 何を知り,それをどのように自己内在化していったかを知らなければならないが,それを みるのに当時の井上の心情をよく表した次のような一文がある。. 「その頃の私ほ・歴史と現在との関係については少しも知らなカ′ゝったし,私の育った日 本は雑然としており,私にその関係を教えてくれませんでした。尚更自分の立場と歴史と. について考える余裕もあらませんでした.然し向うの新しい人々の仕事に接し,古い大家 の絵に親しめば親しむ程・私がやっている写生や裸体のデッサンをまとめる技術が,絵全. 体の上にどんな意味をもつものか知るようになってきました。つまり絵にほ個人的感情や 時代的感情が表現されておりますが,それら以如こ是れほ又,時代や個人が異っても,何.

(3) 111. 高崎における近代工芸運動の考察(3). 等異ることなく一貫されているあるものの存在を知るようになったわけですo私は普遍性 について,仏人がいかに忠実であったかを知ると同時に,またそれが単なる絵画のみの問. 題でなく,造形美術一般の問題であることに気づいて驚きました。仲略)斯の如く私ほ; 絵から段々建築その他広範な造形美術-転換して行きましたが,とうとう私の社会的責任 紘,美術から建築,工芸を切り離して考えさせる様になってしまいました.+5) この一文から,井上がパ1)において芸術作品とどのように出会い,造形美術の歴史性と. その意味について,また芸術の普遍性の問題に思い至り,どのように造形美術観を変容さ せていったかがよく読みとれる。また若い知性にとって,このような芸術への接触と受容 が,いかに新鮮で衝撃的であったかがうかがえる。エコール・ド・パリの作家の多くは, パリにおいてはげしく自己の確立を希求し,そこにとどまって造形活動を続けたが,井上 の場合パリでのこうした体験が,日本における社会的使命感を醸成する方向をとったこと 「日本文化を見直すことに努め,進んで現代日本の美的貧 になる。そしてこれは帰国後, 困を蒐服すること+のために「当時日本にとって必要不可欠な運動,生産と芸術とが並行 して結合しうる社会運動+ら). -と結晶していっている。当時日本における造形の世界にほ. パリに限らずヨーロッパの新思潮がいろいろな形で押しよせて釆ており,その受容に追わ れている中で,単なる受容にとどまらず,それを造形活動を通しての社会運動-と変容さ せていった井上のような例は,きわめて稀といえよう。社会的影響の大きさを抜きに,そ の目指す理念に着目すれば,近代ヨーロッパにいくつかその典型がみられる造形運動に比 することもできよう。 近代のヨ-ロヅJ叩こおいてほ,ウィ1)アム・モ1)ス(Morris,. William. 183411896)に. ょる美術工芸の社会的活動があり,その後にアールヌーボー,ドイツ工作連盟,パウ-ウ スなどによる造形活動の大きな波がある。これらは造形理念においても,活動の実際にお いても,その内容の相違こそあれ,社会変革の運動としてとらえることができるものであ る。日本においてほ,単なる西欧文化の受容にとどまる限りにおいては,このような独自 な運動-の発展は期しがたい。この点井上の活動が,造形史の中ではいかに些細なもので あったにせよ,造形活動による社会運動-の志は,近代の日本においてはきわめてユニー クなものとして,高く評価されてよいであろう。 次に別の角度から,井上が時代感覚や感受性をどのように高めていったかをみてみよう。 その経緯をたどってみると,興味あるいくつかの事実に遭遇する。先ず彼が回想の中で挙 げているものの中に,山本鼎や片上伸などから「最新の社会芸術思想の洗礼を受けた+7) と記した一文がみえることである.井上の青年期は第一次大戦後であり,大正デモクラシ ーを背景とした社会変革期にあたっている。こうした時代においても井上の出自を考えれ ば,当時農民美術の運動を提唱していた山本や,プロレタリア文学理論を展開していた片. 上に,強く共鳴したことにはやや意外性が感じられる。一見矛盾にみえるこうした現象ほ, 内面的成長期の-特質と解釈できようが,井上の社会芸術思想の芽ばえが,このような葵 磯をもっていたことは注目、に価する。銃敏な感受性の触角には,社会変革の思想ほその当.

(4) 112. 松. 志. 否を超えて,最も機敏に感応するものであると考えられる。また情報伝達の未熟な時代に あってほ・若い限には社会の現象面が,強くドラマチックに見えても不思議ではない。井 上にとって全く新しい農民糞術や自由画教育の思想,それにロシア革命の実見によって提 唱されたプロレタリア文学理論に,新しい時代を予見するような社会芸術思想や時代感覚 が・かなりの刺激性をもって読みとれたものと思われるo井上の思想形成にこのような契 機があったが,彼の思想の中に左債化の時期ほ認め難い。彼の心中に深く痕跡ほ残したと 考えられるが,これによって海外の新思潮に触れようとする意欲をかきたてられたのだと. する彼自身の述轡'を信用すれば,このことは何よりも渡仏の動因として働いたことにな るo経済的裏づけほ既に手中にあったにせよ,渡仏の実機にはこのような思想性があった ことほ注目されることである。. 青年期には,井上は父親との間に思想上の断絶があったと述懐したことがある9)。その 原田については語られていないが,その一つに上記のような井上の新しい時代思潮への共. 鳴があったであろうし,またそれに関連した内的葛藤もあったと推測される。こうした井 上の芸術的,文化的な志向性と自己沈滞的性向ほ,当然事業的,営利的志向とは対極をな さしめるo父親の生粋の事業家としての思想ほ,井上の芸術,文化への渇望とは,次元の 異なる思想世界を形成していたほずである。父親の事業家としての面目は,後に高崎郊外 の丘陵に白衣大観音10'の建立となって現れることになるが,これが民衆の心胆を奪うよう なものであるにせよ,その芸術的,文化的評価についてはもとよりここでとりたてて論議 すべきものでほないo井上の志向するものが,事業スケールの大きさはともかくとしても,. このような思想債向になかったことは容易に考え得ることである。 このように見てくると,逆説めくかも知れないが,渡仏の初期の目標である画家井上の. 成就はならず,社会運動家,事業家-の移行がむしろ自然にさえ感じられる。山本,片上 の理論にしても,またヨ-ロッ′叩こおいて触れた造形運動にしても,井上に強く社会との. かかわりを要求するものとして感得されたものと思われる。これが自身の内部で次第に力 を得ていった状況は想像に難くない。また彼が純粋美術-の頗倒を経て,広汎な造形美術 への理解を得,さらにそれを社会運動的,事業的にとらえなおしてゆく過程をみると,そ こにほやはり彼自身の出自の因果を認めないわ桝こほいかない。上記したように,父親と は思想世界を異にしていたとほいっても,エコール・ド・パリの作家のように,自己の個 性をうたいあげる世界のみにほ生きられなかったのは,彼の出自があずかって大きいとい えようo彼にほ事業的な感覚や視点ほ,すでに青年期に至るまでに,きわめて自然な形で 身についていたと考えてよい。芸術の普遍性や社会的造形-の理解も,こうした内的な力 にあるといってよかろうoまた,ヨーロッパと日本との社会や美的状況の格差を認めたと き,単なる作家の領域にとどまり得ず,前記したような社会的使命感の自覚に至らしめた ものも,こうした要田が少なからず働いたものと推察される。以上記したように,文化 的,芸術的思想を支えとした事業家の,日本でほきわめて特異な誕生の例をここにみるこ とができる。. 井上の工芸運動の出発は一つの事業である以上,営利の要件が加わるのほ当然のことで.

(5) 113. 高崎における近代工芸運動の考察(3). あるが,彼の理念からすれば,必然的に造形文化運動の様相をとることになるoそこに成 立と推進の困難さがあり,また他からの圧力や時代の波に対する脆さを内包したままの継 続を余儀なくされている○小規模営利事業の通常のパターンと異なり,井上は自己の造形 活動の幅を短時日のうちに横に広軌漆,木工・染色,境織・金属にまで至らしめる方向 をとっているo 1932年に発表された作品11'の中には,日本でほ最も早い金属の曲げパイプ と藤の組合せによる椅子,構成主義的なデザインによる小箱や界風などがあり,多彩な作 品系列を示している。当時の日本ではこうした作品の理解層・受容層は・一部特別な階層 に限られていたはずであるが,敢えてこのような作品を製作発表したところに,井上の期 するところであった「生産と芸術との結合のための社会運動+を示す・実際行動の初期の 現れをみてとることができるoともあれこうした活動が・先ずは事業である以上外部に向 けては「私の仕事を余りに理想論のみから解釈されることなく,. -溶分的な高級な要或に. 標準を置かれぬようお願いする+1乏'という弁解の表現がなされることになるが・ここでほ その背後にある井上の本来の意志を正しく読みとる必要があるo一地方の小工芸運動の出 発が,造形文化の形成を志向していたこと,また事業と文化創造とを不可分の理念として いたことは,今日の視点からも高く評価されるべきであろうし,これが時を経て現代に投 げかける大きな問題としても理解されなければならないであろうo. 以上井上の思想形成について考察し,これを背景にした工芸運動の出発までを記してき たのは,この運動の精神的基礎をみるばかりでなく,この小工芸運動が,タウトを迎え入 れることができた思想的基盤整備についてもみておく必要があったためであるo ⅠⅠⅠ. ここで視点を変え,当時の地方工芸振興の状況を考察し,これとの対比で高崎の工芸運 動をみることにする。まず地方工芸振興の中心的役割を担った国と地方自治体による工芸 指導所の設立を通してこの問題を考えてみる。 日本の近代工芸に関してほ,明治期は賓明期であり,大正期から工芸の産業化の進展に ともなって社会的な問題が発生してくることになる。ここでは大正斯こ入ってからの工芸 行政についてみておくことにする。まず特記されることは,束京工業学校長手島精一らが 「工芸行政の強化+等に関する要望書13'を農商務省に提出したのが1912年のことであり, これによって工芸行政に関する問題が提起されるようになったとみてよい。この要望は当 時としては画期的なものとされているが,これを受けて翌年,図案および応用晶展が具体 化された以外紅ほ, 1925年商工省の設置まで,国レベルでの工芸振興策にみるべきものは 見出せないo政府が地方の有力県に工芸専任職員を配置して,その指導をおこなうよう紅 なったのほ1925年以降のことになる。この間,いわゆる大正年間において特筆されるこ とほ,地方自治体による工芸・工業の試験機閃の設立である.国立工芸指導所設立まで紅 開設された地方自治体を,年代を追ってとりあげてみると次のようになる14'. 山形県山形,山口県 1919年 宮山県 1913年 1914年. 高知県. 1928年. 山形県米沢.

(6) 114. 松. 1916年. 長野県,大阪市. 志 1921年. 京都市(染色). 群馬県,岩手県 長崎県・(窯業). 1917年. 兵庫県,奈良県,徳島県. 1922年. 北海道,青森県,鹿児島県. 1918年. 山形県鶴岡,岡山県. 1924年. 鳥取県,岐阜県(陶磁器). ■上記した地方の機関ほ,一部窯業や染色などの特殊試験壊閑を除いてほ,全て工業試験 場であり,エ芸に関してはこの一部門としての扱いになっている。当時ほ工芸と工業ほ未 分化のまま一体化した形で,地場産業を形成していたことになる. 国立工芸指導所が,工芸の国家的施策遂行のために仙台に開所したのは,. 1928年11月. になってからである。上記したように,地方自治体による工芸の振興は,小規模ながら地. 方ごとに行なわれており,政策的にも技術的にも横の連絡,協議すべき中央の検閲の必要 性は,地方において芽ばえてきており,国策による何らかの工芸指導機関設立の下地ほで きあがりつつあったことほ伺える。. 1927年になって商工省がようやく工芸行政にのり出. すことになり,指導所設立の予算の計上にあたったが,これの単独案でほ東認が得られる  ̄可能性ほなく,当時重要施策の一つであった東北振興策にからめて計上し,かろうじて設 立をみたものとされている15)o. 当時商工省工政課長として,工芸指導所設立の立案を担当した竹内可書は,次のように回 想を記しているo. 「工芸というものを産業的な見地から振興を図るため,一応まとまった. 予算をとって新しい施設を作るということほ珍らしいことであって,久しく商工行政を見 てきた世間にとっては,たしかに一つの驚きであったに相違ない.+16)上記のことから,当. 時国政段階における工芸振興に野する理解のレベル,および社会的認識の実態がどのよう なものであったかをよく知ることができる.1ドイツにおいてほ,工作連盟が設立後すでに 20年余を経ており,バウ-ウスの教育も最盛期にあったことを考え合せると,日本の工芸 に対する意識や活動が,いかに立ちおくれていたかがわかる. 当時為政者の認識レベルをみる上で,国立工芸指導所開設にあたって商工大臣中橋徳五 郎が述べた告辞があるので一部引用してみる。 「我国ニ於テ-,在来アッタ手工業ト言フモノモ,甚ダ多数雑然トシテ存在シテ居ルノ デアリマス。而シテ之等ノ手工業-,多少共ニ何レモ特殊ナル技能ヲ必要トスルモノデア リ、マスカラ,手先ノ巧赦ナル我国民ニ取ツテ-最モ適当シテ居ル産業ダト思ウノデアリマ ス。■(中略)従来国家産業トシテ之ニ特別ナル注意ヲ払フコトヲ怠リ勝チデアックノデア 1)マシテ,偶々之ヲ重視スル者ガアツテモ,ムシロ美術工芸トシテ取扱フニ過ギナカッタ. ノデアリマス。ケレドモ私-我国国有ノ手工業ナルキノ-,我ガ国民経済上頗ル重要ナル 地位ヲ占ムべキモノト信ジテ居リマス。+17). との一文から,工芸に対してそれまで国ほ無策であり,認識を新たにして工芸を振興さ せようとする気概は読みとることはできる。ここで,前項の井上の工芸に対する理念と対 此させて考えなければならないが,彼が工芸生産を遺して「美の貧困の蒐服+・「生産と芸 術との結合+などを目指した理念紅比肩し得る表現ほ,ここではどこをtも見出せない.行 政側からは必然的に生産そのものに重点がおかれ,生産方式の近代化,最新技術の適用,.

(7) 高崎における近代工芸運動の考察(3). 115. 輸出振興などが前面に押し出されるのほ止むを得ないとしても,一つの国家的事業におい て,その事業の精神性がはとんど語られていないのは,今日の視点からみれば奇異の感が あり,これが井上の場合とは正に対称をなすものとみてよい。 国立工芸指導所が開所して約1年半後の1930年5月に,商工省主催の第1回の全国工 芸技術官会議が指導所において催されている。この会議は,それまで各自治体ごとにばら ばらに行なわれていた工芸振興策を研究,指導両面から討議し,相互の連繋をはかろうと するもので,初めて地方工芸の問題を中央の狙上にのせることになった画期的なできごと 「工芸技術と経営の改善策+ 「工芸品 だったと考えてよい。だがここで討議されたことは, 美化の方策+などだとされ,更に政府-の要望事項として,主要生産地を巡る工芸品巡回. 展の開催,工芸指導検閲の拡充増設,国勧こよる工芸指導員の各県配置,工芸技術官の海 外派遣,海外宣伝および販売のための中央検閲の設置などが建議されたとされている18)。・ 工芸振興の草創期らしい内容としてほ評価できようが,この期になっても工芸のあり方 についての本質論的な討議には至っていないとみてよいであろう。討議の中にある「工芸 品美化の方策+の表現が,当時のデザイン意識のレベルをよく物語っていると思われる。 ここで考えられている方策とは,外力としてのデザイン行為によって形の化身をはかろう という,一種の付加価値高揚策と考えてよいであろう。実用を旨とした生活工芸の実につ いて,その本質論に容易に迫り得ないこの期の工芸観がよく読みとれる。 ここで少しばかり民芸についても触れておこう。上記のような意識レベルの中で,意外 な方向から発表されたのが柳宗悦の民芸糞論であり,エ芸の美における精神性が整然とう たいあげられたことは,期を画すべきものと考えてよい。ここで説かれた論理は,人間の 作る行為と物のあり方の根元の問題に迫るものとして貴重であるが,現実の生活工芸論, 量産工芸論の確立にまで至らなかちたことは惜しまれる.井上もタウトも柳とは接触を侠. ち,柳邸やタウトの醜心事で工芸論の花を咲かせている。工芸美における精神性の深みで ほ両者ほ結び合うものがあったと思われるが,現実の造形活動においてほ自ら立場を異に しているo上述の工芸技術官などとの意識レベルの差は確たるものであることは言う凌で もない。柳の思想ほ現代に即して,敷街的理解と新たな評価が必要と思われるが,ここで ほ日本における一種特異な工芸美論の発生を付記しておくにとどめたい. 井上が七りわけセザン剥こ傾倒し,セザ./ヌがタブローに試みた形の表現を,工芸をは じめ広く造形の世界に応用し得ると確信t/,工芸を通して生産と芸術の一体化をほかろう としたのは,人間の純な精神の表現としての形,そこに必然的に表わされる莫の形の考え があったからに違いない.これほ井上の証言19)にもあるように,在仏当時ミケランジェロ を初め歴史的作家の研究を通して,美と形について深く感得しえたものと考えられるQ井. 上がこうした理念のもとに,高崎を本拠キして工芸運動に着手したのが1930年であり, これほ上述の全国工芸技術官会議が初めて開かれた年に一致している0 以上大正期に入ってから,井上が高崎に工芸運動の端緒を開くまでの期間を概括してき.

(8) 116. 松. 本. 灸. 志. たが,これで明らかなように日本近代の生活工芸ほ,確たる工芸論を生む間もなく地方自 治件の振興策が先行し,これの延長上に国立工芸指導所の設立に代表される国の施策が追 ったことになり,これもようやく昭和に入ってからのことである。井上がエ芸運動に着辛 するまでほ,上述のような社会状況があり,工芸の問題ほ徐々に社会的課題になってきて いたのであり,彼がこれに主要な関心を注(oようになる紅はこうした背景を理解する必要 がある。. ヨーロッパに限を転じると,工芸運動の一つの典型と考えられるドイツ工作連盟の設立 が1907年であるから, (これほ民間主導形であり,政府や自治捧施策とは異るが)日本に おけるおくれほかなり大きいと言わなければならないo us,. Hermann. -ルマン・ムテジウス(Muthesi・. 186ト1927)を主導者とするこの工作連盟の理念ほ,芸術,産業,エ芸,商. 業の有機的な結合によって,製品の質の向上を目指すものであり,ここでの中心概念は 「単に優れた耐久性のある仕事をし,欠点のない真正の材料を用いるばかりでなく,それ によって隅々までザ-リッヒな,高貴な,さらにこのような意味での芸術的な,一個の有 機捧に到達すること+20)と定義されているo またムテジウスが1911年に述べた工作連盟 の目標の中にほ,工芸においてほ精神的なものが最も重要なものであり,そのための形式 紘,目的,材料,技術よりいっそう高い位置を占めるペきものであるとし,. 「文化というも. のは,形式についてほ無条件の尊重がなければ考えられない。そうして形式のないことほ 文化がないことと同義なのであるo+竜1)との記述がみえる. 技術の進歩と時代の流れの加速他によって,ややもすると工芸における精神性と,その 表現としての形式を失ないがちな頼向に対して,ここでほそれほ自身の文化を失うことと 同義であると警告している。日本におけるエ芸の振興は,冷細な地方特産工芸の奨励策を 主捧として初められているとほいえ,国立工芸指導所の目標の中にも,工芸におけるこの 日本の場合,生産性の向 ような芸術性,精神性が揖挺的に求められた表現は見当らないo 上「工芸品美化の方策+に象徴されるように,きわめて原初的な面での質的改良といった I/ベルの問題が,当面の課題であったのであるo. 上述のドイツ工作連盟の活動に続いて,ドイツでは,1ウ-ウスが開校し,進展する工業 化社会を予見して,エ芸デザインのあり方について果敢な実験,教育の実践が行なわれて いる。井上の滞欧期間はちょうどこの時期に当っておりを望),バウ-ウスの教育が「壮大な 実験+であり,正に「人輯史を賭した試み+28)だったと考えれば,井上のセンシティブな 感受性ほ,この造形の新思潮をかなり衝撃的に,またドラマチックに受容したものと思わ れる。. 日本の場合,エ芸の技術面ばかりでなく,指導理念においても,全く未熟なまま地方自 治体や国の施策として工芸の指導検閲ができあがったのであるから,ここでの指導者の意. 識レベルほ,ドイツの場合とほ本来同次元の埠較ほ無理なことと言わなければならない。 このことは,井上との比較においても同様に考えうることであるo. したがって,彼が日本. における「美的貧困の克服+を自己の使命と考えるようになったのほ,この点からもきわ めて自然なことと考えてよいであろう。.

(9) 高崎にお汁る近代工芸運動の考察(3). 117. 井上が上記のような理念のもとで,どのように工芸運動を進めたかは前二稿に記してき たので,ここでほその代表作晶のいくつかについてとりあげるにとどめたい.工芸運動に 着手して2年後の1932年に,成果として発表した作品には次のようなものがある24)o 金属脚小椅子,ティーチ′-ブル,戸棚,小卓,安楽椅子,漆小箱,漆盆,本棚,事務 机,金属曲げパイプ椅子,漆犀風 このうち戸棚ほ今日一般化されたサイドボードであり,漆の作品は全て構成主義的なデザ. インになっている.前記した金属曲げパイjoと藤の組合せの椅子ほ,ミース・フアン・デ ル・ローユ(Miesvan. der. Robe,. Ludwig. 1886-1969)が1926年ト-ネット社のため. にデザインした金属曲げパイプの作品25)杏,明らかに意識したものと思われる.ミ-スが 座面と背もたれにレザーを用いたところを,井上ほ藤の編み組を用いている。デザインほ ミ-スの作品に範をとってほいるが,形,素材の使い方にほ井上独自の感覚が生かされて いるとみてよい.金属パイプと藤の組み合せはユニークであり,さわやかなデザインが成 功している.さらにこれらの作品にほ,当然のことながら多かれ少なかれ,冒-Pッパモ ダニズムの影響が表われているが,それに流されることなく漆や藤の東洋の素材によって, それが日本的感覚で手ぎわよくまとめられており,井上のデザイン感覚のたしかさを伺が 1920年代のヨーロッパデザインの新しい思潮を直. ぁせるものになっている。これらは,. 接感得し,その影響をいち早く日本的理解のもとにデザインし発表した,貴重な作品例と して記録されるべきものであろう。不幸にして高崎の工芸運動は,第二次大戦以前に終息 を余儀なくされ,上記した貴重な作品群はほとんど残されていない。日本の近代工芸史杏 研究する上でも,きわめて残念なことと言わなければならない。今後これらの作品の復元 研究が積極的になされる必要があろう。 ⅠⅤ. 高崎における工芸運動を評価する上で,県工芸所の設立を欠かすことほできない。設立 の経緯についてほ,前稿の執筆時入手できた資料にもとづき記してきたが,本稿でほその 後の調査もふまえた上での評価について考察してみたい。 1926年に設置 群馬県工業試験場高崎分場は,木製品製造業の指導業務を行う目的で, されている乞6)o井上ほ帰国後,自身の工房をこの分場に隣接したところに設立しており, この分場と一体化した形で工芸運動を推進する考えであったと思われる.帰国直後から井 上は,父親のすすめでこの分場の仕事にタッチする資格を得ており,この関係で後に商工 省貿易局嘱託として,この地方の工芸デザインの指導を委託されているから乞7),早くから この分場の指導者としてもふるまえたとみられるQ群馬県工業試験場工芸怒の沿革軒こよれ 1934年に分場に工芸部門が加わったと記されているが,これほ部門として正規に確. ば,. 立したことを意味しているのであって,井上が関係した1930年以降彼の指導のもとに, 工芸の研究は進められていたと解すべきである。 以上のように井上の参酌こよって,この地に工芸の独立した研究指導横国開設の機ほ徐 々に熟しつつあったといってよい。それまでに県レベルでの単独の工芸指導所が設立され.

(10) 118. た例は,. 松. 志. 1928年の福島県の漆器工芸研究所,佐賀県工芸指導所,それに1931年の佐賀. 県木工指導所が記録にみえるのみである望8'.当時国立工芸指導所長であった国井喜太肝 (1883-1967)の回想によれば・他台に続いて県の工芸指導所を6か所作る計酌鳩り,そ. れほ秋田・福島・神奈川,静岡,大阪,福由であった29'とされおり,この中には群馬県ほ 含まれていないoこの中で設立の最も早かったのが秋田だとされているが,これが記掛こ よれば1936年であり,群馬県工芸所の設立も同年であることを考えると,このことから も工芸所の設立は・他県の場合と比較して,かなり独自な形で行なわれたことが推察でき る。. 工芸所設立の趣意書を県に提出し,議会の東認を得るまでの行務は全て井上が果したも のとされているo現在この間の事情を説明した資料は見当らないが,かなり井上色を出し た独自性のあるものであ-jたと察せられる.独立した工芸の指導検閲設立の機は熟しつつ あったとはいえ・井上の活躍がなかったら,上記の事情からして,また元来工芸に関する 基盤の弱い群馬県に・いち早くこのような機関が設立されることは考えられないことであ るム井上個人にとってみれば,県の行政との結びつきを得ることによって,工芸運動をよ りよく組織化すること,タウトを嘱託として身分の安定をはかること,所長にかねてから 意中にあった上野伊三郎(1893-1972)をすえることによって,井上一夕ウト-工芸 所の結びつきを安定なものにすることなどが・思惑としてあったことは確かだと思われる。 これほ井上の立場からすれば・工芸所の設立は望むべく自らとった行動であったであろう。 いずれにしても,井上を中心とした工芸運動の一環として県に一つの指導機関を誕生させ 得たことほ,後にこの機関が社会的に果していった成果を考えれば,高く評価されなけれ ばならない。. この放閑の正式名称ほ,群馬県工芸所である。国や地方自治体に設けられる試験研究橡 閑にほ・. ′全て試験場,潤導所またほ研究所といった名称が付されており,エ芸所という名 称ほ今月に至るまで・他に付された例はない.これについて井上ほ何も語っていないが, これほ彼の意向をそのまま反映したものであることはまず間違いない。彼の考えとしては, 従来の工業試験場的な性格に枠組みされることなく,独自性のある新しい形態の運営を目 指していたと察せられるoさらに高崎の場合他の地方と異り,単に地場産業や地方特産工 芸の上に成立させるものではなく・より高い次元から,これからの真の工芸のあり方を求. めていたことほ前述の通りであり,地方特有の材料や在来技術に固執せず,新しい工芸を 生む母体としての構想をもって,彼自身ヨ-ロッーパで得た芸術観や工芸理念を,できるだ. けストv-トな形で生かそうとする考え方があったと推察される。上のため剛ま武験,指 導・研究などのいわば行政機構的に機能の枠をはめることは,むしろ意にそわないことに ・なる′o県の東認を得るに際して,井上がこの独自性に関してどのよ・うな説明を加えたかは 不明であるが,知事の理解,県議会の可決を経,商工省の承認を得て設立に至らしめた手 腕ほ,誠に見事というしかない。 この工芸所の名称に関しては,予期されたこととはいえ,後に問題を残しつつ尾を引く.

(11) 119. 高崎における近代工芸運動の考察(3) ことになる。. 1938年4月23日,県知事の要請で開かれた工芸所経営方針座談会におい. て,この庸に招かれた国立工芸指導所長国井喜太郎は,開口一番この問題を提起している。. 「第一工芸所という名前ですが,この名前ほ何だか物足りない気がする.仲略)今この工 芸所は指導が目的なのか,試験研究が目的かということを疑問に考えるのでありますo+苧o? と発言しているが,井上ほもとよりこれには何の回答も与えず,このあと所長事務取扱の しカラし,. 上野伊三郎の経営方針の説明に入り,この名称問題は切り抜けた形になっているo. 後の発言内容をみると,名称に限らず工芸所の独自の考え方が,、同席した国井や東京高等 工芸学校教授木槍恕-らにほ,不満として残されている。これは井上,タウトの理念に.も とづく以上,当然予期されたことといってよい。. 1941年になって,県商工課から工芸所の名称変更が発案され,再び同様の問題が振起さ れている。この場合ほ, 「高崎工芸指導所+81)案を有力案として提出されている。この時ほ 既に戦時体制下にあり,井上は実質的には工芸所の運営からは,手を引いた形になってい た時期である。商工省では,国の機関の名称変更と合わせて地方機関にもこれを及ぼす意 向であったが,この問題は進展しないままをこ終っているQ工芸所の機構内容は,戦時協力, 代用品研究など大きな変容を余儀なくされたが,名称に関しては井上の意としたものが, 1968年工芸所が工業試験場に吸収合併されるまで存続したことになる。. 高崎の工芸運動において,最も特筆されなければならないのは,ブルーノ・タウトの参 画である。タウトと日本における工芸デザイン指導とのかかわりほ,前稿に概略記したよ うに,かなり遇然性が支配している。 当時東北帝国大学を本務とし,工芸指導所の嘱託をつとめていた鈴木道次88)が,たまた まドイツ工作連盟について調査をしており,久米権九郎宅に滞在していたタウトに,. 、同連. 盟についての問いの手紙を期待薄ながら出したこと,その際,たまたま開かれることにな. っていた工芸指導所の記念展についての案内を追記したこと,記念展にタウトが来場した. 際,たまたまその会場に居合せた国井喜太郎が,タウトの指導所招蒋を決断したことなど. かなり遇然性の重なりがあったoこうした条件の一つでも欠いていたとしたら・タウト? 日和羊おける工芸デザイン指導とのかかわりほ・あるいは成立し得なかったかも知れない0 日本の工芸デザインほ,この偶然性を大いに多としなければならない.もう少しこの後の 事情をみてみることにする.. 三越における国立工芸指導所の初の記念展にタウトが訪れたのほ,来日した年の9月5 日であり,日本における最初の著書「ニッボンーヨーロッパ人の限で見た-+をちょ. うど聯稿した時期である.この著作に先だって,タウトは主に京都の代表的な工芸の工房 を訪ねあるき,日本の伝統工芸についてほかなりの理解を深めていたことに年るから,伝 統を背後にもたず,もっぱら産業工芸の確立を急(・工芸指導所の作品をこついての評価は卜 一層辛妹にならざるを待なかりたものと考えられる。また-ドイツ工作連盟の指導者の眼力チ らすれば,当時の日本の工芸デザインほ確たる理念の支えもなく,未熟なものに見えても.

(12) 120. 松. 志. いたし方ないことである。 工芸指導所着任早々こう,した状態を,一気に改善しようとして提出したのがタウトの事 業計画案であるが,これほ日本の実情からすれば,理想論に過ぎたといえよう.工芸指導 所とはいえ,国の行政棟閑であり,官僚機構のもつ組織と事業形態があり,そこには特有 の行務遂行姿勢が自ら存在することになる.タウトにほそれが組織の機動性のなさとうつ り,改革の困難さを嘆き,嘱託である-私人としての指導力の限界を感じても止むを得な いことであるが,これがタウトを仙台から去らしめたことになる。だがもっと本質的な問 題を考えれば,タウトと指導所との間の工芸軒こ対する理念の大きな差異にあるといってよ い.ドイツエ作連盟における試練を経てきたタウトと,かろうじて欧米追従を可能とする 程度の工芸指導所スタッフとの間の差は,自ら大きいといわざるを得ない。 こうしたことが,仙台を去る直前工芸指導所員を前にして,タウトに工芸の質の問題を 講演させることになるのだが83),この短時間の講演でほ当然,タウトの工芸の理念が十分 に話しつくされたことにほなっていないo工芸のもつべき精神性は,更に奥深いものとし て,感得させるものが残されたとみるべきであろう。とはいえこの講演に盛られた内容は, 今日読み返して尚新鮮味をもつものであり,戦後日本の工芸・工業デザインの理念形成に とって,先駆的な意味を含むものとして新たな評価が与えられてしかるべきであろう。. 国立工芸指導所での任務は,工芸デザインに直接タッチする,タウトにとってはいわば 画期的なできごとであったにもかかわらず,失望の度を深めていったが,同じ工芸の仕事 である高崎-の招聴の話には「これほ有望な仕事である+と乗り気を示している.これほ タウトが久米権九郎の紹介で井上に初めて会った時,井上の目指しているものが工芸指導 「これまでフランスやイタリアの美術を研究して得るところがあったから,. 所とは異なり,. 今度は日本人という自覚の上にたって,旧来の伝統に基づく最良の質を保持しつつ,新し い優美な型を創造したい+34) (1934年5月24日付日記)ことにあると理解したためであ る.同様に,後日タウトが高崎に井上を訪ねた時にも彼の意志を再確認するかのように 「(井上ほ)文化的関心を持ち,製品の質の向上と,これに日本的な性格を与えることを念 願としている+35). (1934年6月9日付日記)と受けとったことを再度記している.. このことほ国立工芸指導所では,意を満すことができなかったタウトの最大の関心事で あり,また課題であった工芸の質の創造が,井上自身のロから語られたこと-の共鳴であ ったことほいうまでもない。この時期,タウトは既に日本を離脱することの困難さを自覚 し,一種の諦観が支配していたと思われ,ある期間高崎-の定住もまた止むなしとの考え もあったと思われる。. タウトが高崎に来ることになった直接的理由は,タウトの生活を心配していた久米の側 からみれば,経済上の生活の方途を開いてやるために,当時としてほ「井上さんの希望よ りも,何とかタウトを押しつけようとするのが先であった.+36)ということになる。これ ほ事実であることほ間違いないとしても,これだけの理解ですますわけにはいかない。工 芸運動はようやく途についたばかりであり,当時35歳の井上が,タウトの理念-の共感.

(13) 121. 高崎における近代工芸運動の考察(3). から自ら招蒋するということほ考えられないoだが前記してきたように,井上には自身の 思想形成の道のりがあり,それによって培かわれた工芸に関する確たる理念があり・これ. に対するタウトの共鳴,井上の思想によるタウト-の理解があって,初めて両者の関係が 成立すると考えなければならないのは当然といえようo. タウトほ2年3か月の間高崎に滞在して,井上を中心とする工芸運動の一翼をになった が,この間にタウトがデザイン設計したエ芸品は,水原徳富の記述によれば紛650点むキ. のぼるという37'oこの中には設計段階で終ったもの,試作までの段階のものも多く,何点 が実際に製作され市掛こ出たかについてほ,正確な記録は現在求め得ないoだがタウトに ょって発想されたこの点数を信用すれば,今日のデザイン活動の常識から考えると,きわ めて精力的な活動の結果と判断され,一地方の工芸運動の中で果した役割の大きさは・こ の点数からも推しはかることができる。しかもこの間に,日本におけるタウトの最も代表 的な活動であった多くの著作を行っているのであるから,披がデザインした工芸品の内容 ほ別として,造形発想の豊かさほ驚異的なものであったことがわかるo. ここで高崎における工芸運動の中で,タウトの果した役割,功罪を運動の推進者側,即 ち井上の側からみてみよう.先ず経済的側面に限定して考えてみると,タウトの招聴で有 利に働いた要素はほとんど見出すことほできない。タウトの発想の豊かさ,デザインの質 のレベルほ評価できるとしても,それ故にこれらの試作にほ多額の費用が必要であったこ とほいうまでもない。タウト自身も,高くつく試作費を気にかけていることを日記に記し ていが8).. (1934年10月29日付日記). 工芸運動にかかる費用を少しでも潤沢にすべく,銀座に開店させた工芸品販売店「ミラ テス+紘,終始赤字経営のままであったと水原は記していが○'.さらにタウトの強い要望 で, 「ミラテス+でとり扱う工芸品は,全てタウトの設計か指導によるものに限る40'とした から,これらは当時日本の一般大衆の生活水準に即応させるにほ無理なものが多く,従っ て販売量ほのびず,これが一層資金繰りを苦しくしたことは間違いない。この上にタウト 夫妻の生活費の問題があるが,これほ前稿に記したので割愛する。工芸運動の未熟さほ, そのまま経済上の問題として現れていたことになる。. 一方社会的側面から考えてみると,タウトの参加によって工芸運動ほ一つの盛り上りを もたらされたこと,その一環として早期に県指導機関としての工芸所を誕生させ得たこと, タウトの強烈な個性ほ時に生産面に問題を生んだが,工芸の質は常に高レベルに保ち得た ことなど,評価できる点として先ずあげなけれはならない.それに高崎の工芸運動ほ・タ ウトの名によって広く理解されるようになり,時にジャーナ1)スティックなとりあげられ 方が,タウトの意を満たすものでなかったにしろ,工芸運動の推進には有効に働いたと考 えてよい。1935年11月15日から21日まで,日本橋丸善で開かれた工芸品展ほ,タウト の名によって成功させ得たイベントである。また宮中に書机や玩具の献上の栄に浴すこと 「ミラテス+の経営ほ常に赤字だった ができたのも,タウトデザインによってである41'o とほいえ,ここを通して多くの文化人,財界人,在日外国人など,井上-タウトの理解層.

(14) 122. -松. 本、久. 志. を生むことができ七ことも,、これによる後の利益を考え合せると,大きな意義といってよ い。. 以上経営上からみると,タウトの参画は功罪ともに存したことになるが,工芸運動とタ ウトについて今日の視点から再評価するには,こうした面からのみ考えるわけにはいかな い。タウトの高崎で果した役割は,この地方の工芸運動の枠の中でのみ考察することでほ, もとより十分でほないbこのささやかな工芸運動の意味するものも,タウトの仕事も,今 日日本のエ芸史,デザイン史の中で考察されなければならないことはいうまでもない。. 井上は事業の主宰者であると同時に,彼自身自由に発想するデザイナーであったから, 時にタウトとの確執もあり,タウトの理念が常に生かされるような理想的状況にあったわ けでほない。経営上からすれば,むしろタウトのデザインを無視することの方が有利な場 合が多く,実際にそのようになされることも多かったことは前稿にみた通りである。井上 の「美の貧困の蒐服+の理想も,タウトの「工芸の質+の理念も,当時の社会的現実の中 では常に苦難の道をしいられていた。しかし,このような困難な状況の中でも,両者互い の立場を理解堅時し続け,当時日本の生活工芸の中でほ,最も本質的に工芸の質の問題が 追求された典型的な例だと考えてよい。上記したように井上の初期の理想も,タウトの理 念も,むしろ意のようにほならず,タウトほその満たされぬ心を日々の日記にぷつけ,井 上は経営との板ばさみで苦しんだ。きわめて小規模な工芸運動ではあるが,当時の日本で 工芸の質の創造のために,このような生みの苦しみを味わいつつ,なお果敢に進められた 例ほ外にほどこにも求め難い。ささやかな工芸運動の中では,タウトが実際にデザインし. 得た作品は,若干の家具のほかはすべて小工芸品に過ぎないが,ここに盛・り込まれたエ芸 の質の理念を,転掛こある日本のデザイン界ほ改めて読みとる努力を必要としよう。 井上自身記しているように, 「ダウトの工芸指導の仕事は,日本のインダストリアルデザ インを結晶化する重要な基礎となった+42)のであり,同時にこのことほ,日本近代の工芸 史,デザイン史の中に,明確な位置づけをもって記されなければならない。小規模とはい え,. ・井上の先駆的な理念によって果敢に遂行された工芸運動についても,同様な評価が与. えられなければならないことはいうまでもない。. 今日まで日本近代工芸の放れは,中央に固定した限で大きな流れのみが追われてきたこ とほ否定できない。今後日本近代の工芸,デザインの発展の跡をみるとき,高崎における 工芸運動のような,隅の小さな星であっても貴重な光を放つ成果を見落すようなことがあ ってほならない。このような成果をことごとく拾いあげる作業が更になされる必要がある. し,そのひとつひとつに正しい評価を与えることによって,日本の工芸史,デザイン史は, さらに光彩を放つものになるにちがいない。 注 1). 1980年6月29日から8月30日まで,西ベルリンの芸術アカデミーでタウト生誕100年 記念展が開かれ,東ドイツでも同様の記念展があり,これを横にタウトの現代的意義が問い直 される気運がみられる.. 2)日向利兵衛の熱海別邸の南斜面部分について設計したもの.現在は日本カーバイトエ業株式会.

(15) 123. 高崎における近代工芸運動の考察(3) 社社員寮として使用されている. 3) 4) 5. 6 7 8. 一部榛名山ろくの羊毛,伊勢崎を中心とした網織物などとほ関連させていた. 「建築画報+建築画報社,第23巻6号(1932). 5, 6号(1932)第3巻3号(1933). 「アイ・シー・オール+洪洋社,第2巻4, p. 6-7. 井上房一郎:仕事-の道「建築画報+建築画報社,第23巻6号(1932) p. 53. 井上房一郎:私の仕事とその背景「上州路+あさを社,第2巻第9号(1975) 伺誌p.52. 9) 1979年5月19日井上工業株式会社において,井上房一郎が筆者との対話の中で述べら れたもの.. 10 ll 12 13. 14) 15) 16) 17) 18) 19) 20) 21) 22) 23) 24) 25) 26) 27) 28) 2 9) 3 0) 3 1) 3 2). 1936年高崎市郊外の丘陵に建立された高さ41・8メートルの日本でほ最も大きな観音像. p. 8-9. 「建築画報+建築画報社,第23巻第6号(1932) 同誌p.8. (1969) p・26. 国井喜太郎顕彰会編「デザインの先覚者国井喜太郎+ 1912年農商務大臣が,辛 島の姪か松岡寿,平山英三,執行弘道の4名匠「輸出振興問題に関して意匠囲案改善策+につ いて諮問し,これに対する答申として出されたもの. 中小企業庁,工業技術院編「公設試験研究墳開現況+ (1976). (1958) p. 290-291. 「産業工芸試験所30年誌+ 固誌p. 284. 「工芸二且-ス+丸善,第17巻2号(1949)本稿は「産業工芸試験所30+10年誌+ (1968) p・ 105-107に転載されたものを参考資料とした. 国井喜太郎顧彰会霜,前掲書, p. 39. (1958) p. 287. 「産業工芸試験所30年誌+ 1979年5月19日筆者との対話の中で述べられたもの. p. 24「25. 「モダンデザインの展開+みすず書房(1957) ニコラス・ペヴスナ-,白石博三訳: 24-28. ウル1)ッヒ・コソラーツ編,阿部公正訳: 「世界建築主言文集+彰国社, p. パウ-ウス・ワイマール(1919-1925),デッサウ(1925-1932)ベル1)ソ(1932-1933),井上 の滞欧期間は1923-1929で, ,:ウ-ウスの最盛期に当っている. 抄本俊多: 「バウ-ウス,その建築造形理念+鹿島出版会(1979) p. 8-9. 「建築画報+建築画報社,第23巻6号(1932) Herbert. Read. rART. AND. INDUSTRYJ. Faber. and. Faber. p.. (1953). 13.. p.. Ilo.. 群馬県工業試換場工芸部の沿革. p. 224. 横浜国立大学教育紀要,第18集, (1958) p. 290-291. 「産業工芸試験所30年誌+ p. 220. 国井喜太郎腐彰会編:前掲書, 「エ芸所経営方針座談会議事録+ (1938) p・ 24. 群馬県工業試験場資料. 1934年当時鈴木道次は,東北帝国大学美学教室の助手をつとめ,国立工芸指導所の嘱託を兼 ねていた.. 33). 34 35 36. 1934年3月5日国立工芸指導所で行った簾演.この原稿をもとに加筆されたとみられる3月 25日付の論文が,村岡景夫訳で1935年2月発行の雑誌「工芸+に掲載され,タウトのエ芸 観が一般の限にもふれるようになった. B・タウト: p. 292. 「日本一タウt.の日記+ 1934年,岩波書店(1975) B・タウト:前掲書, p.318. p. 25. 水原徳言:群馬県とタウトの関係について「上州路+あさを社,第2巻9号, No.. 37. 水原徳言:ブルーノ・タウトの工芸「暮しの創造+創芸出版社,. 38. B・タウト:前掲書, p.502. 水原徳言:群馬県とタウトの関係について, 「上州路+あさを社,第2巻9号, B・タウト:前掲書, p.383. B・タウト:前掲書, p.555. p. 54. 井上房一郎:私の仕事とその背景「上州路+あさを社,第2巻9号,. 39 40 41 42. 14, p.. 26.. p.. 26-27..

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