ヘーゲル「精神現象論」における行爲について
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(2) 2. 沼. 滋. 田. 未. 然根源の学として一切を包む超郎勺全休を対象とし,この超趨的全休に於て倫理の根拠 杜把握ノされるべきで・ある。しかも超越するちの杜皇た何等か<の意味でこの現実の行為的. 生存に関係し,ここに内在するものでなければ,それ杜除塵の根拠たり得ないと言うべ r. きで・ある。・そして哲学が哲学として人間の生きた智慧であb得るの拭,超越的全体が 「下から」或牲「内から」求められるところにあると言えるとすれば,この点から言つ ても「倫理」の根源的な手巴撞にとって,. 「行為」昧極めて重要な意味をもつこととなる.. それで昧,へ⊥グ}L,の「精神現象論」に於ける「人倫」の成立にとって「行為」昧如. 何なる意味をも?であろうかこそもそも行為-t妖精紳の如何なる働きであるれわれわ 申杜紘次にこの課題の考察に進むために,現象論に於ける精神の廃展の運動全休につい て,必要と思われる点をまづ明かにして置かなければならない。 ■■■■ 二二=. --グルの哲学が偉大な綜合の哲学であ歩,分裂し対立する凡ゆるものを統一にもた らさんとすることが彼の生産を通ずる根本問題であったこと紘一般に謎められていると ころである。彼が精神の労苦に充ちた遍審の後.その哲学体系の第一部とじて「現象乱 の叙述をなさんと考えて,序文の中で, pmenologie. des. omenologie. S・. Geistes. heraus・. Yon. 「哲学昧本質的に普遍性を地盤とする.」 L.asson. S・ 4). (Ph邑n・. 「其なるもの′昧重体であるo」(Phan1. 14)と自負を述べるに至?た時偉大な統一の見通し妊成立したのである.. この対立せるものの統一(桝問題妊彼の個性によると共に,根本的に昧時代の精神状況が 彼に課したものなること昧言う迄もなく,精神史的に紘この間題昧苗代ギ.)シヤと基督 教との滑立の統-として一般に理解されるが,これをわれわれの問題の面から言えば,. 主観と客観,実践理性と理論理性,理想と現実,普遍性と特殊性,等hの問題となるわけ である。で昧かくの如き対立の統一昧如何なる立場で,如何にして其現されてゆくか。 周知の如くこれに答えるものが∴-グルの所謂絶対観念論の立場であゎ,弁証法の運動 であることに誤り紘如「oが,. 「享昆象論」杜この点に関して,完成せる知識の体系とし. ての「エンチクロペ.5?.-」と.,準が時代甲哲学を遍歴しながら畢の自己自身卑さがし求 める体系Jtの準備時代との中間に立つものとして独特の位置を占める.こ_の独特の位置. こ争この書が衣色の思想をで杜なく,最も阜hたる-∵グル自身を語るゆえんであって, われわれ披この点にこの書の重要さを考える.もとよ如、真のわれわれの間層昧--グ. ルの発展兜で昧なく,したがってここで・r現象論」の成立に至る歴史を逸ペる余裕昧率 いが・ただわれわれを3披このことを考慮に入れなカモら,イ現象論」,における参、の対立の 統一と言った精紳の自己運動,世界の自己運動と昧何を意味せるかを考えてみなければ ならない。. 「精神嘩琴韓」とは現象する知erscheinende Wiss.enの学であ・る.現象する知と昧 梼紳の定有Daseinとしての意識Bewusstseinであり・このわれわれがそれであ.ると. こ・ろの自然自勺意識であるo精神がこの意識とい亨形塵に於て自己の発展の轟列を経て自 己自身を完全に経験することよむ自らの其理を得るに至る道程の叙述が、「現象論Jであ.
(3) 3. --ゲル「横軸現衆論」に於ける行:籍忙ついて. る.精細と紘Lj<+グ)i/にとって世界の経体であれ,卜粒体のうちにあ:る原理であるoそれ 昧主観に対する客観でもなく,審掛こ対するこの主観でもなく,. `それ等の対立を内に含 むところと全体であ歩;二哲学が求めて止むことのない事象そのものである.或経せ界杜 紳のう.ちにあわ,紳昧世界のうちに,あるという意味での紳であり,「或昧巽在Wesenそ の恵ものである.かくの如き帯締が,自己が何であるかその実実の姿を顕紘にすること, 一口に言えばこれが精神が真理を得るという意味である。この精神の真理の顕現が意識 と■いう形態に於てなされてゆくそq)道程の叙述が;いま言つ如く一「現象論」であるが, この道程の叙述昧精神の真理の節点からなされと共に,自然的意識が自ら発展してゆく という過程に於てなされるもので・ある.ニのような二重の叙述昧「現象論」のさきに述 べた特殊な位置から来ると考えられるものであって,われわれの問題にとって極めて重 要な意味をもつ。. ところで精神の真理或昧真理と昧何であるか,意識o)発達過琴Q)意味を知るためにこ の点をもう少tJ明かにして置くことが必畢である。. 「真理と昧出来上った形で与えられ. ていて,寛ぐにわが物とすることの出来る貨幣で昧ないこと一缶主張しなければならぬo」 (Phanome.、S.. 26)と言われる如く,真理と昧認識主観から分離している轟邑体者の如き. ものではない.真理と昧主観客観の対立を包む絶体的主体であるQ轟邑体的主体と昧それ を外からみるこの出来ないところの実在そのものであるo. --i-グルが青年時代に既に一. 方に於七極め七内面的主体的な実践の立執こ立ちながら,他方に於て客観的なる理論 の立場をもまた重税して,その両方面の.合一に傾注していたこと拭そ0)著作の京す通り' である.. --グ)i,に於て真理とは何よりもこの両方向の合一するt'ころ に求められるも gesarh・. ので急ければな,6なかった. meltざSchriften. る「生」. -ディ.)レタ・イが紳痕朗勺汎経論と名づけ′た(Dilthy Hegels) Bd.- 4j1. Die: Jggendgegchichte 、フ_デンクブルノト時代に於け. Lebenの哲学が更にイエナ時代に於でh・ン.1tL,フ'Lイヒチ,.シュ1) yグを通ず. る主観客観の関搾の問題を解決する時F現象論」が現れ得たことから もわかるように, 両方向の合;-と紘最早主客何れかの優位における合一でもなければ,:神秘的直観の合一 でもなく,分離せる童観客観を自己の契機とする七ころの絶対的主体の統一なのであ る. 従って絶休的主体と嬢患た運動することに於てあるものでなければ在らず,真理は 遊動に於てあるのでなければならない.静止せる主体を考えるならそれ株主体を相対的 なものにひ音別車る:=とになり・.,かかる.もの杜抽象であって現実的な其哩蛮族寂くなる であろう.. 「真理と昧主体であり,真理昧弁証法的蓮軌即ち自己自身を生産し3#-'反しな. が阜,I, しかも自己の中に復帰する運動に外ならないo」 (Phanome・. S・ 44). ・次に実在の真理がかく,-q)如く考えら昨a',とすわば,メ-其埋の認識と昧如何なる意味t羊′於 ても実在に対して外的な仕事である・ことは出来ないことと怒る。即ち実在が一方の側屯羊 あ歩,◆認識は他方の側にこの対象から分離されているという.如きこ七昧考え得ないので. ある.認識娃対象な加工する主音具.We鴫zeug`lであって拭な.らず,真理の光がそれ夜通 してわれわれに達するヾところの媒体Meditlmpでもない.. (Ph邑nome.. S. 54)そうで昧. なく.て認識と杜絶対的主体である実在その ものの運動の自覚以外のもので紘なV、ことと.
(4) 沼. 4. 田. 滋. なる。運動の自覚と拭それ自身また運動である.. 康. --グルに-・あうて昧認識Q)形式昧即ち. また存在の形式なのであるo毛れ故にまた真理と抵認識と存在との⊥致として,さきに 拳ゆた如く冥在の運動であ歩,蓮動に於でb/るものとしての主体であるわ抄である。か くして精神が右の如き真理を自ら顕わにし来るという,'=との意味昧明かであるoそれ杜 ●. ●. 精神の自己運動であり,自覚であり,精神が其の精神となるという意味で精紳の形成で ある。. ところで「精神現象論」と杜意識の形態における精神の運動の歴史であったd意識と 杜「論理学」に於抄る如き精紳の形而上学的概念でなくして,この自然的意識であるo精 細が自らを知っているBewusst・Seinという形において,自己自身を自己に現すときこ れが意識なのであ局.精神がかかる意識の形態に於て自己の否定と獲得との弁証法的運 動をくりかえしつつ自己の真理を得てゆく意識の経験の道程の叙述が「現象論」である. Das. この意識を地盤とする精神の運動が長い道程の果に到達する処杜--グ)i,が範知 absolute. wissenと呼ぷ段階であり,ここ昧精紳が完全に自らの真理を得たものとして, 概念の形態に於ける形而上学的実在の領域であるが,他方から言えばここが意識の自然 的なる発展の最高領域として,現実的なる人間の最高0)存在形態であると考えることが 出来るo '=の後の側面から意識の最高の段階身考えるとき,これ昧通常の意味での主観 的世界と客観的世界の対立を止揚し得たものであるから,も昧や単なる個人の内面的完. 成の如きを意味するもので旺ない。或昧個人が金棒自勺立場に立つと言っても不十分であ b,個人が即ち重体となるという意味でなければならない.個人が世鼎であゎ世界が個. 人であって,かかるもrのとして完全に自己自身を自覚せる意識,これが意…執の最高の段 階と考えられるo意識の経験す引整取と昧ただに認識内容の発展ではなくて,認識作用 の主体たる意…鼓そのもq)の形成であること昧既にみてきた通ゎであるoカン†の道徳の 定言命捷・r汝の意志の格率が同時に普遍的な立添の原理として安当し得るように行為せ. よo」√の命題に於ても個別性と普遍性との統一に準徳性の成立することを示しているの であるが,カントにあって昧右の統一時意識u)内面に於ける要求にとどまゎ,彼の遺徳 の本質怯この主観0)内面に存したのであった.行為主体妊主客の世界に五って個別と普 遍との統一を得ているので昧ないo. これに反して-ーグ}t,にあって昧,個別と普遍との. 統」妊主観客観の統一,艮Pち主観の発生なる客観化と客観の完全なる主観化に於ける抱■ 対的な■童韓に成立するものであって,これが意識の発展の朝温点をなしているのである。 ■. ====」. 毛こで今後のわれわれの問題杜意曲をこのような結果に到達せしめるもの昧,意識7) 経験の如何怒る性質と構造とにあるかという点であるo 既にみて来た如く意識が自己の何たるかな認書執してゆくこと昧r,意識がまた自己を自 ら形成して砕くことであった.このこと昧意識が理論的な意識であると同時に実践的な 意識であることを語っているo同時にと昧両者がひとつの意識の異なる部分で,あるとい うことヤなくて,同じひとつのものであるという意味であるo. ∵意識o>自己形成.と昧自己.
(5) 5. へ-ゲル「棉紳現象爵Jに於ける行為忙りいて. の自己に対する,超克を意味するが,自己が自己を超えてゆくの臥自己が自らに対立t,・ 自己が自らに矛盾するからであるo優るに自己が自らに矛眉し,それを超えるの払常に 自己が実践的であることによって,即ち思惟が実践的なものとして自己自身を強圧tj・</ 自己を動かすことによって可能なのでなければならないo単に理論的なる爵識にあって 臥.矛眉昧ただ避抄られるべきものであるに過ぎないo従って自己形成であると,ニろの 意識の認識と昧,認識がきた実践的であることを意味しているのであるoさきにいった 認識の形式がま仁存在の形式であるところの精紳の運動昧意識の地盤に於て払かくの. 知音実践的理論的なる自己形式の道程であり,をれ政にこそこの道程の到達点拭入間最 高の存在形態であることとなる.意識が自己をその真実態にまで形成すると払決して. 意識の思惟内容の展開で妊なくて,これを良らの発展の-契機とする意識そのも,のの発 展であわ,虞に適切に昧存在そのものとしての人間生命の発展なのである。クt'-ナ一 晩この点について,. r謡曲の問題昧鍍に於て体験Erlebnisの問題にまで深化し拡大する.. ∼_ゲルが現象論で経験となづ打たもの娃体験と呼んでいいのである.」 Yon. Kant. his. Hegel. II ′Bd.. (R・ Kroner:. -. S. 374)と言っているa. 'だがカントの道徳哲学も,道徳の単なる理論的な認識の如きものでなくして,実践理性 の事実として展開されたものであったoしかもカy・トにあっても実韓理性が理性である 限り_, ・それ紘決して理論的な契横をも欠いては小ないoそれ故この点に於て昧-⊥グル. 昧カyt.と立場を同じくする息のと考ぇられるが,それならば更に,--グルをLてカン トな超えしむるもの昧何であるか.即ちカントに放て妊内面的主体的立場の事実たるに とどまった道徳法則を,. --グ}L,に於て単に主体的にで昧なく,敵陣的主体的立場に於 て現実のせ剃こ実在することを可能ならしめたもの昧何であろうかoこれこそへ-グル の取上抄た行鳥の秘密であったと考ぇる。. ,丸ントに於て壊すペしにとどまるところのも. の′が,.--グルで除名されるのであるo但しこの場合行為昧主観客観の分離の合一であ. るが,合一昧また直ちに新し匂-L分離潜生むものであ歩,かくて意識妊-Tグ7yで昧拝み なき轟展の運動をなすわけであるo 「雰すべ′し」にとどまるところの実践理性昧まだ主 審の対立に於てある停止やる意志で参E),或練同じことであるが,対立の合一で参る運 動の結果をつねに静的に自覚するだけあって,運動し,発展するものとしての自己をそ の運動の過程に於て自覚していないというペきであろう.そのためこの場合に妊何処ま でも主客の対立がモミのま郎こ残らざる.を得ず,入間昧内面的主体的世鼎からだけ問題と なって,現実的な或娃重体的なものとな歩得なかったので・あるo. これに対して--ダ}L}. では実践的理静的なる意識娃,主客の分離と統一との停止することなき連動の過程なの て爵筆先行為する意識なのであるo真に行為しつつ参るもの紘つねに内が外に改野外が 内になるという遊動に於であるものでなければ怒らないo.もとよDかくの如き行為する 意改も,その連動が叙述される限り滴び主観的なる主客関係に陥る危険をも,つ可能性昧 あるが,(ヤーグル自身にあ?てもこの危険が全然無かつたかどうか昧別の問題と、して),. 「現象論」にあつで托その立場自身が行為する意識自身を離れないものでであつ缶こと. を認めね絃ならや,、モれ故に真に主客の区別を包申重体であ妙,範体的主体た歩得たと.
(6) 6. 沼. 円. 滋'^.夫→. 考えられるのであるoヲッソ:㌢娃現象論の解説で,-'r自己を自己の内で区即する精神と 昧生命で.ある.区別と`蓬勤,否定性昧生釦こ転有の原理であり,鳳隆の力で.あると同じ く膚在の力であるふ」. (Phanomenologie,. Einleitung. Von■ G.. Las。son. S/. 97)と述べて. いるが,I:この思惟のノjに,して存在の力である生命の原理こそ行為で急ければならない. 一般軌に言って,カントに始まるあの独乙,iデア.)スムスを通じての間執主観客観と その統⊥の問題に関して,. --グルがフィヒチ,シ去1]ングを超えて絶体的主体にして. 全体であるところの精神の弁証法に達し得たということ,このことを可能ならしめたも. .0)がまさに右の行為する意識の立場であったと考.i.得るので・あり,人間0)意識の行程を 叙述する「現象論」が彼u)体系の入口に位置しているということが,何よ少'この事情を よく語っていると思われる。. このようにわれわれ昧人間完成へ())道程昧行為する意識によってのみ可能な絶えざる .自己蒐服の道程であることを認めるが,■この道程を更に分けてみれば,この意識の運動 に牲なおいろいろな盛面を考えることが出来る。意識の経験の道程紘一般的に娃, 「意識 が自己自身に於て,即ち自己の知に於てと共に自己の対象に於て行うこの弁証法的運助 ●. ●. 昧'この道動から意識にとって新な対象が発生する慣ゎ,実に経験と呼ばれるものであ るe」. (Phahome・. S・ 61)と説明されるものである,o・即ちそこには,意識にとっての. 存在fiir,Bewusstsein・sein. としての知と,. ,この外仁あるものとして0),それ自身で. の存軒an・sich・seinrとしてめ対象とが区別されること,が,この対象は意識に対して もまた一「それ自身で」. an・sichある故に真理の二義性が生ゃること,共処で知は変化 して今までの第一のそれ自身での存在妊知の内容とな`ること.このこと妊また新しい対. 象が外に生ずることであること,かくの如き運動の繰り返しによる意識の深化が存す るoJこの場合われわ抑ま知の内容の変化昧,知と対象との切する働きそのものを契機と する1ものと考えねばならぬよこの契横が行為する意識の行為そものであると言え・よう. われわれはさらに,現象倫を人間形成の観点か.らみるとき,かく:0如き行為昧如何なる 意味をもち,如何に現れてくるかを,魂象論の行程のいくつかの段階について考えてみ ることにする。 四. まづ叙述される第一の段階で・ある「意喜艶」紘狭義の意識であって,,まだ主客の分離以 前であb. ;, ■ただ対象を本質として対象に直接結びついている対象的意識で象る■o次にこ. のよう.に対象に渡入して自己を知らない意識にとって,それ自体としての対象昧,′. こ′の. 私に対してあるものの意味をもち来E),私紘私を他者として自己から区別すると由時に; この他者がただちに私であるという段階に入る。このような私と他者との関係の内容で あゎ関係の働き卓のものである意識が自己意識Selbstbewusst岳einである.最初自己 意識は,. 「私は払自身から私を区別し,しかもこめ場合こ の区別されたものが区別-J'/;:普. もので・あるこ とを鮭牒介的に認めているo」 (Phanome.. S.`. 111)かかる白己意識は今後. 実践によらて自己白身を形成してゆぐものセあ.る.それ昧如何にしてであるか。.
(7) --ゲル・「構紳現象歯Jに於ける行為について. 7. 最初に登場する自己意識娃欲望一般B喝i_erdさiiberhaupしと規定されるも功である呂. 即ち自己意識の確信するところは,私に対・して存する対象は真実には自分だけの存在を もたないもので.あり,対象の本質昧私であって,それ敬白己意識往このような対象即ち 自己と.眉己自身との同一を得ろ蓮勤として現れるのである占・こq?場合申訳望の対象は ′. 第一には党の意識の内容をなしたものであるが,ニれ昧もはや自己意識Q)契墳と:して,-自 Negativeである。二第三g)対象は,彼 分だけで実在するものでなく瀦極的なもの.Pps がここで生命と呼ぶものであり,'これは硬の立場からは,右の第一q)対象と自己意識の 自分自身との合一として,眉己意識に対立するものと考え,られている{それではこのよ:.. うな対象に対.して欲望娃如何よ'うに実現されるか.この畢が本質で・あり'''ーこの対象の無 力であることを確信すろ自己意識は{対象を滅却して自己を実現し対象が自己であると いう満足を得るが,ノ自己意識扱この満足とともに実紋日分の対象q)自立性を経験しなけ. ればなら夜毎_坤で・&る。何故なら対象の滅却とは対象た草伸者q)存在を条件とし,.周象 の滅却に於て始めて対象は自立的&.もq):として自己を示サニtになろからである。この 自立的改野象に於て日己意識が満足を達成し得るためを羊昧,対襲自身が自己に於て否定 を実行するのでなけわばならぬわけである。ところが自立的であると同時に自己自身に. 於て否定的で・あるもの娃自己意識卑のであるoかくて自己意識昧その欲望の満選に放て 自ら他の自己意識に対立するも9)となる.このこと時自己意識自体が一歩生長したこと. を意味する。 自己意識革ま欲望の満足という実践即ち意識と対象との存在的な交渉^tこ卑て, 自己の真理へ,自己の現実化へと一歩を進めキのである_. しかし,欲望q)満足によって成立してくる月己意識と自己意識との対立をも′衆勧昧漢. だ両者をつなぐ普遍的なものをもたない無媒介の関係であり,単純な個印と個別との対 立Tl-.ある`..かかる個別的な自己意鞠娃-切の対象で.ある他割こ自分を奉る■ものであり, 自己意識をことって自立的な他者であるところのもの抹,消え失せるべき非実在的な対象 として存在する。かくの如き確信を抱く自己蓋静が個別として五に対立するのであるがi このままで昧自己意識の確信昧皇だ主観的であり,外に実現されて昧いない。`で妊この. 自己意識の形態にある個人郎口何にして更に自己形成の道を進むかo苧れ昧彼が確信に 従って行為する'=とJによつ七でなければならぬ.だが実払対立せる個人ノの一方の確信 の実現抵∵方の行創こよるだけでなく, ・また他方の行為によるのでなければ可能で拭な い.丁方の行為柱間時に他方の行為なの耳あるo然らざれば行為紘行為ではな舟く事行為. 紘魂韓の結果を生むこと紘出来ない紘ずである.かかる行為の連関が対立す.早.両者のそ れぞれの側から準えられるのであるが,ここで妊両者は共にただ自分だけでの存在の確 信な抱くも、甲である.ここに両者の生死を賭する戦闘中言始怠る。甲己者が相互に他方の死 年目指すこと払皇た相互に自分自身の生を賭することなのである。-ギがカサる行璃の 結果個人q)経験するの軌. 結果として生ずペき筈であった確信,自分だけで存在すると. いう確信の廃棄である.そこで私が私であり,対象たる他者が直嘩的に私である.という 白日意識払自己と同じ,く他者も革キ自分にとって本質的なものT:,あることを認める、よ うになるo_月己意識拭自らや止揚t}=のである'oこの段階昧普遍郷国別に於i.夢.るもーの′.
(8) 8. 沼. 田. 滋. 乗. として具体化されて来ること,或娃主客の統一が現実化へ更に歩を進めたことを意味す るが,このこと昧直援的主観的恵確信が外Jt自ら磯み出すことによ身自らを越えるとい う行為によって可能であったわけである。. 以上の段階を始めとして今後自己意藷抱いよいよ現実的なる自己の真理に近づき,精 神の具体的なる普遍性を獲得してゆく.そして個別的な自己意識が異に一切の実在であ ることの確信に達したものとしての「優性」杜,さらにこの確信を証示 して,個別が普 遍であり普遍が個別であることを,客観的に成立せしめてゆく。毒矢に「理性」から「精. 神」への段階をもう少し取わ上ることとする. .「理性の確信と真理」と題せられる叙述の始めの部分「観察薬理性」で柱間題紘,対象 的世界の観察に放て自己を見んとする意識であるが,、次の「理性的自己意識の自己自身 による実現」の部分に進んで斎散杜自ら行為するものと改り,そこに意識の現実的形成 がみられる.この実践的な理性的自己意識の最初の段階壮快楽Lustを求むる者の立場 である.自己意識吐ここで妊理性であり,即ち自らが存在との統一を得ている意識であ るが,ここで昧まだ個人的にそうなのであって,客観的にそれが展開されている0)で妊 ない.そこで自己意識の自分だけでのfGr sich現実に対して,其の存在昧外に対立し ているが,この場合自己意識が個別的存在者である自分を実現し,他者を自分自身と残 さんとするのが快楽の立場であるoだがここで自己意執二対立しているの昧,他者の自 Schein)である.そこで彼妊実践に臓. 立性という外観(実在性のない外磯wesenloser. み出すことによって,自立的であるように見える他者のうちに自己を実現Lたことを認 め,快楽を享受するが,この目的の到達妊,実は彼の個人性を止揚して彼の自己と他の 自己意識との統一を成立せしめているのであるo. しかしこの溌-紘まだ両者の直凄的攻. -であり.抽象的な形でしかないのであって,この統一の展開がここで昧必然性と呼ば れる.個人性を香定している肇固な聯関のことのことである.自己意識紘この必然性の うちに自分を韓発したと考えるのであるが,巽昧自己意識自体披この喪失を越ぇて生き いるのである。. こうして必然性を自己と-して知るようになった時意識杜新しい形態に進んでいること になるo des. これが「胸の法則と自負の狂気」. Das. Geset2: des. Herzens. und. del. Wahnsinn. E壬壷end血kelsの段階である.自己意識にとって直接的に自分自身のもめになって. いる法則,これが今後自己意識の実現せんとする目的であるが,この胸の法則に対して. 蛭なお現実が対立するo何故なら胸のうちに於て杜まだ自分だけでのものに過ぎサ,こ れに対して現実妊この意鞄の形態の先行の運軌であって,法則と個別との矛盾を含んで いる世間であるからである。そこで自己に対立せる現実の必然性を廃棄して,この法則 を以て世の事摘を実現せんとするのが胸に法則をいだくこの個人で.あるoかくて個人杜 自分の胸の法則を英現すべく行為するoだが現実化せられた法則と抹世間の一般的秩序 であゎ,廃棄さるペき筈であった現実の関係以外のもので妊ない。胸の法則昧それが現. 実化せられるやいなや,そのような法則たること産やめるのである。この結東破剛封入 性から純化されてゆくのであるが,. -般性を自分のこの私という形式に放てのみ認めよ.
(9) 9. --ゲル「輯紳現桑静」に於ける行馬について. う左する自意設抹この事実を容易に認めようとしない.かかる矛盾に狂う.ものが「自負 の狂気」である.即ち自己意識法胸の法則にのみ自分自身を認めていたのであるが,こ の法則に対立した世間の客観的秩序もまた右の法則の実現により自己意識にとって自分 の現実となっているのである.. 右甲矛盾せる意識が潮耶こ直接に結びついた個人性を否定することによつ耳のみ終期 払実在たり得るのを認めるとき,この意識形態が徳Tugendと呼ばれるものとなる.. このように徳の意識にとって港則が本質的なものT<,あり,個人性練馬乗せられるペきも ので.bって,それ披この意識自身に於でも世間の流れに於ても廃棄されねばならないo 法則昧世間の流れの秩序をなすもーのである故,徳と世間とに共通の契機で・ある申子,世間 の流れ昧徳の意識を出現せしめた克行の形態として個人性を本質とするもので・ありiこ. こで昧蕗則昧皇だ内面的実在であるにとどまっているoそこで徳昧自己の個人性をぎせ いにすることによって,世間の流れに秩序(法制)を実現せしめようとする。しかしこ のこ土紘矛盾しているわUである。何故なら法則を実現すること昧世間の魂巽或昧本質 であるところの個人性を克服することであるが,. :徳がそれを実現するということ昧徳. という意識の行為であ歩,行為と昧個人性を離れないものであって,巽絃この個人性の 側面こそ現実性Q)側面であるからであるbしたがって徳紘一歩を摺み出すや否や自らを 否定することになる.徳は世間に敗北するo. これ昧結局徳の抱いた普遍的なる法則が即. 自的で現実性をもたないものであったことに因るわけであるDしかし徳の意識紘かくの. 如き行為に於て敗北することにより,即自的な法則の外套壷除いで個人性こそ反って法 則の実在性であ0. ,意識に対立していた世間昧外観良寛いもので昧ないことを経験す るo徳の意識は止揚されたのであるoかくて個人陳個人であるま皇で普遍化され社会化. されることとなる。すなわち即自存在と対自在との,普遍性と個別性との,客観と主観 「それ自身に於て実在的であることを自覚せる との相互湊透DurchdringuI】gであり, an f故sich Die lndividualitat, :we16he und reell istが形成せられ先ので 由^」 ある.. い患や自己の前に自己と異なる現実をもつことなく,真理と確信との分離なく,行為 映それ自身に於てその真理と現実とであるに至ったが,なお意識が自覚を深化し「精神」 の段階に達するまでに昧意識娃さまざ恵な経験をなさねばならず,. 「精紳」の段痕はま. た更に長い発展の道程を持たねばならぬこと昧周知の適bT.ある.ここでも行為紘霊夢 な意味をもつが,これ以上それを辿る必要紘も紘やないであろう。 ′. 五. 以上の意識が自己白身に於て行う運動は現象論の全行程の趣く僅かな部分でしか恵bヽ が,これを以ってしてち; 「行環」が意識の自己形成にとって決定的な意味をもってい --ダ}L/ 一ること,及びモの「行為」昧意識の如何なる運動であるか抹大凡明かであるo 妊行為を所謂対象的世界或杜存在の面で把えるものでもなければ単に主観的な意識の爾. で捉ぇるものでもなく,此の南面に於てと共に此の南面の統一に於て捉え一るも▲のせ参.
(10) 10. 沼. 田. 常. 夫. るo..恵たこの両面の世界を統一し得た理由こそ彼が行為を両世界の軌点に吟て如実に捉 え得たという点にあると言うべきである.そしてかくの如き行為の媒介によってのみ人 間拭真に形成せらわゆくことを現象論娃われわれに語るので挙るo. 概括■して言うならば,行為と旺意識の自己自身と対立する現実との対立を止暢して両 者の成一に於て薪な自己を生ずることであると共に,この競-が直ちにまた行馬主休と しての自己と自己に対立する現実との新なる-分裂となることであるoいわばこの腰-と 分裂とに於ける右の両項の切点,これが行篤の本質をなすものである。或紘行碍と昧可 能性のうちに閉ぢ込められていたもの,意識が即白的にもてるものを顕牲して,意識7) 対自存在とする_こ.とであると共に,対自的なる対象の世羅を皇た自己自身の即自的なる ものとすることであわ,かかる転換によって意識が自己を止揚してゆく働きである.こ. の働きを,. --グルが「それ自身に於て実在的であることを自覚せる個人」で挙抄てい とに分けて考えれば次 と手段Mittelと仕事Werk る三つの契機,即ち目的Zweck. の如くなる.第一に行為昧目的の存するところに如まるが,目的と昧自己意詔如こ属して いる意識の知の対象であって,こわ昧現実の存在に対置されている.第二の契際である 手段と妊,意識に属する限りでは目的の運動の表象であ少,現実的手段として拭この内 的手段の現実的存在への園係づけであり,目的の現実-の移行であると共に現実の目的 -の移行である.第三に仕事と牲行為せる者が直接に自分のものであると意識している 目的としての対象で紘最早なくて,却って行為者から出て他者としてこれに対してある 限りの対象であるo. しかしこれ昧また意識が自分に与えた現実性であって,意言放抹ここ. でさきの自己を失っていると共に新なる自己を得ているのである.以上の如く意識と存 在との分離と統一との運動を考えることが出来ると思う.かかる運動の言わば螺線的な 繰秒速しによる上昇によって,意識と存在との完全なる一致に達するところ,ここが彼 GeistであE). sittliche Weltであゎ最後 ,人倫的世界Die もとより現象論紘 に意識自身がこの自己の本質を完全に捉えたところが巌休知であるo 意識の発展過程の凡ゆる段階と契機とを叙述するものであり,其処に紘たとえば「自己. のいう其の精神Der. wahre. 意識の自由ストイシズム」として挙抄られる如き,意識の自己自身の内部における鳳陛 と,. 「観察的理性」の如き対象的世外の単なる観察の運動も含まれているo. これらの場. 合に株主観と客観との相互浸透である行為はみられない故に,これらの態度をこれだけ でみるならば,ここに其の人間の形成は行杜れていないと言うべきなのであるoただこ れらの態度も行為への契機で・あることによって,人間形成の過程としての意味をもちう るものとなるのでなければならない。. なお意識が自己を克服しつつ自己を得てゆくというこの道動そのものが停止すること なくと昇或昧深化してゆくことの原因昧何で・あるか。即ち現象論の全行程を導く力昧何 であるか.こう考えるとき,それ杜異なるもの昧重体者であり精神であって,精神杜自. らの運動によって自らを実現することに於てあるということ,か.くの如き--グル哲学 の前提を以て一応紘答える_ことが出来るが,ニの前損昧決して単なる外的な前提で杜な いo-少くとも現象論に於て昧,この前提昧現象論の行程,行為する意識の前授たると共.
(11) --ゲル「横軸現象論Jに:酔ける行為妊ついて. ll. に前損自身杜またこの行程によって生れたもので・あると考えられるべきである.現象論. の叙述昧こ甲ことをよく語っているのであって,こ乳剤こ,.さきにふれた--グルの廃 展史におけるこの書の占める位置の一つの重要な意味が存するといわなければ覆らな い。. ^間の自己自身の真理を求めで虹むことのない愛の行為,常に自己の垂存在をかゅ. つつ自己の為したところを素直に認めるJところの意識の形態における行為軌右の赫揚 がぢ詮明きれ得るものであるが,避にまたかくの如き其塾なる行為の体験こそ-⊥グル 哲学の前提をなすものであると考えられるので.ある。.
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