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明治儒教と教育 : 1880年代を中心に

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(1)明 治 儒 教. と. 教 育. 1880年代を中心に 久. Confucianism. and. 木. 幸. 男*. Education. Ytlkio. in. Meiji Era. EISAKI*. 序 明治儒教ほとくに教育史の革域でほ,保守反動の思想とみなされることが多い。 1880年 代における一「保守反動の政策1)+の中心をなすものほ,元田永字による「学校教育-の儒. 教道療の導入2)+でこ慮ったと,通常考えられている。元田が「きわめて廃守的な思想家S)+ ●. ●. であるこ.とも定評があり,彼は「近世儒教道徳による国家統一+. (圏点引用者)を日ざした. との評価さえなされたことがある4)I.元田が近世思想をそのままで保持していたのか否か. Fとっいてはのちにふれるが,彼がもし明治腐教を代表する人物とみなされうるなら,彼に よって代表される明治儒教もまた,保守反動の思想と評されてよいこと紅なるであろう。 確かに彼ほ,明治期の儒学者として最も著名な一人であった.岡松褒谷(1895年死),川 田褒江(96年死),島田重礼(98年死),根本通明(1905年死),南摩綱紀(o9年死),岡千偲 (14年死),亀谷省軒(15年死),三島中洲(15年死)などにくらベて,元田の知名度は造か に高い。しかしその知名度ほ,侍補・侍黄という当時の儒学者として最高の政治的・社会. 的地位を永年にわたっ七占めつづけたこと,その地位を利用して「教育主本の轟立にJjい ての業績を残した5)+ことに由来しており,その儒教思想の卓越性や儒学者としての業揖 によるものではない.彼の思想を体系的に展開した著書は一冊もないし,`経学に対する理. 解の程度を示す著作も,その生前には公にされなかった6'o儒学者キしては見るべき業蹟 を全・く残し七も、ない.元田をもって明治儒教を代表せしめること町ほ,席蹄せぎるをえな いのである。. 「教育主本の確立についての業績を残した+ことは確かであるが,それは主として,敬 官数語の起草について井上毅に協力したことを指すと解すベきであろう1).. 1880年代に彼. が推進した■T保守反動の政策+紘,はとんど「業績を残+さなやゝった,換言すれば元田に iも十分に成功したとを早い阜なし、のではないかと思 よる「学校教育-の儒教道徳の導入+ われる。. 80年代め元田の'r保守反動の政策+と1890一年の教育勅惑わ発布とを一連のもの. としてとらえる見解は,こんにちにおいてもなお有力であり8), *教育学教室(Dept.. of. Education). 'そのようにみなしうLる-.

(2) 252. 久. 木. 幸. 男. 面があることをあながちに否定しない.しかしもし80年代の「保守反動の政策+が十分 に成功しておれば・あえて教育勅語を侯つ必要もなかった書である。 それではどのような点で「学校教育-の儒教道徳の導入+に成功しなかったのか。儒教 一般が国民の拒否反応に遭ったのか・それとも,前述の如く元田ほ明治儒教を代表しうる 存在ではなく・拒否対象になったのはいわば「元田的儒教+のみであったのか,またもし 後者であるなら明治儒教の中にほ他にどのような潮流が存在したのか.これらの点につい て逐次検討を試みたい。. 注 1. 土屋忠雄『明治前期教育政策史の研究』 (1962年) p. 230. 山中永之佑『日本近代国家の形成と官僚制』 (1974年) p. 150. 3 沼田 暫「元田永字の思想形成一明治保守主義思想研究の前提として+ (弘前大学『文経論 叢』巻12, 4号,史学篇Ⅹ・EI・孔1977年3月, p.1). 4) 国立教育研究所編『日本近代教育百年史』巻1 (1974年) p. 119. 5) 海後宗臣『元田永字』 (1942年) p. 2. 6) 元田の死後公刊された天皇への進講録『経楚進講象』 (1900年)紘,刊行当時その所論が「無 法の結凱「暴削との酷評をうけている(松野琴「『経塞進着劉を読みて世に警告す+, 『毎日新聞』明治33年3月21日). 7)元田が教育勅語の起草にかかわったことは,すでに明治期にかなり広く知られていた.注6) にあげた松野の書評でも「余は元田男の事業・通暁を知らず,只だ彼の『教育勅語』は菓牲男 の筆に成れることを東はるのみ+と述べている. 8) 高橋真司「『教学聖旨』再考+ (伊藤弥彦編『日本近代教育史再考』 1987年, p. 105)は,その 2. 一例であろう.. 元田が「学校教育-の儒教道徳の導入+を日ざして直接行なったのが,次の諸事項であ ることはよく知られている。. (1). 「教学大凱(「小学条良二件+を含む)の執筆および天皇を介しての政府高官へ の提示(1879年). (2)教師を「覇東湖軌し・. 「教師訓粂+を潮定するべきだとしてその「大主凱 を列挙した「教育令改正以前に施行すべき件+の執筆と文部省への提示(1880年). (3) (4). 「第2次教育令+. 「小学校教則綱領+等の「旨趣ヲー貫シ徹底セシ+めよ,との 勅諭の,文戟卿への伝達(1882年) 『幼学綱要』の編纂と,宮内省を通じての各学校等への配布(1882年). このうち(1)の「教学大削が伊藤博文との論争をひき起こしたこと,この論争を通じ て元田の主張は退抄られ・. 「一定の枠内にお汁る『地方自冶制』の容認1)+の笹宛をもつと. いわれる「第1次教育令+が制定されたことなどほ・広く知られているところである。し かし同じく周知のごとく・. 1880年の「第2次教育令+およびその付属諸塊定では,一転し て「教学大凱の趣旨が相当程度採用される。この採用を,伊藤ら官僚沢が「元田等の徳.

(3) 明治儒教と教育. 253. 治論約数化論を『近代官僚体湖』の下に組みこめる自信をもったことを示す2)+ものだと する森川輝紀の解釈ほ,恐らく的を射ているだろう。以下に述べるように元田の主菜ほ全 面的に採用されたのではないo官僚御のもとに組みこまれたとみなしうるはどの,限定的. な採用にすぎなかった.その上,その多くは実施段階でみじめに失敗しているのである. (2)の「教師訓粂+を儲定せよという元田の意見は,やがて文戟省案「教員制限訓条 汰+を経て,. 「小学校教員心得+において実現をみるが,. るものでないことも,すでに知られているとおりである。. 「訓粂+問題が元田の発議にかか 「教官ヲ約束シ,教官訓条ヲ施. 行シ, '其t,ヲシテ自ラ御行ヲ謹ミ,言議ヲ平カニシ,生徒ノ模範タラシムべシ+と最初に. 提案したのは伊藤であった。元田ほ「至論ナ1)+として賛成したにすぎない。そしてのち 紅なって,改めて「訓粂+制定のことを述べたのである。もっとも伊藤の発議も,東京師 範学校制定「小学教師心得+ (1976年)早,それにならって各府県が「小学教師心得3)+を それぞれすでに潮定していたことを知った上でのことであったのか否かo元田はもちろ. ん,伊藤もまた,恐らく「教師心得+の存否を含めて教育の実情については詳細に把捉し ていなかったのであろう。伊藤や「教育義+を草した井上毅が数多くの「教師心得+の存 在を知っていたら, 「教官訓条ヲ施行シ+ではなく, 「教官訓粂ヲ改正シ+と述べていた筈 だからである.. 「トップレベルにおける教育論議4)+が,実情認識を欠いた議論になりがち. なのは,こんにちまでしばしば見られるところである。. ところで,伊藤,元田は上述のように「訓粂+制定自体については意見が一致していた が,その一致は制定するベき「訓粂+の内容にまで及ぶものではなかったようである。伊 藤の揖案が簡単にすぎるため断定ほ難しいが,彼がとくに強調したかったのは,教師の 「音義ヲ平カニ+することであったと思われる。教師が「制行ヲ護ミ+,. 「生徒ノ模範+に. なるべきだということほ,東京師範学校や各府県の「小学教師心得+にもすでに見えてい る。その「御行+の内容や範囲についてほ議論の余地が残るかもしれないが, ミ+,. 「潮行ヲ謹. 「生徒ノ模範+になるということは,ある意味でほ常識的なことだともいえるo. これ. に対して,教師の「言議ヲ平カニ+すること,つまりその政治批判・政府批判を押倒する ことこそが,民権運動対策に腐J亡)していた伊藤が, 「訓条+に最も期待したところだった のではないだろうか6)。そして教師の政治批判を抑制し,彼らを政治から隔離しようとし 「政治及宗教ニ渉1)執扮矯 た,つまり政府の施策に盲従せしめようとした伊藤の意図は, 激ノ言論ヲナス等ノコトアルべカラズ+という「小学校教員心得+. (以下単に「心得+と略. (以下単紅「大 一方元田の「教師訓条+の「大主旨+ 主旨+と略称)でも「政治法令を遵守+するべきことを挙げているが,それ旺「生徒に注. 称)において,みごとに実現されたb. 入するベき項目+の一つであって,教師に「政治法令の遵守+をとく紅求めているのでは ない(次京第1表参廃)。元田ほ民権運動を抑圧するベきだと考えていたとは思われるが, 彼はそれよりも「天皇の尊崇+や儒教的徳目を生徒に注入することの方に,強い関心をも っていた.従って,. 「訓条+制定をめ(oっての伊藤・元田の意見一致ほ,いわば同床異夢. 的な一致だったというベきであろう6)、。 鹿上のごとく伊藤の意図が「心得+において一応実現されたとみられるのに対し,元田 の「大主旨+ほr心得+の中にどのように活かされ,あるいはされなかったのかo. 「大主.

(4) 254. 久. 木. 幸. 男. 第1表「教師誹条+の「大主旨+と「小学校教員心得+の項目対照 旨′ l. 大. 主. ①孝 ⑧忠. 信. ③礼. 儀. ④廉. 恥. 教. 節. 徒. ⑨報 ⑥仁. 国. iこ. ⑦正. 美. 注. ⑧節. 倹. つ. 入 す. ⑨勉. 励. 汁. 坐. る べ. き 項. 悌. 心. ③.辛. ⑪J節. 欲. ⑩守. 倉. が. 国. ⑬知識開発 ⑲身体健全.. ⑳品行・学識・経験 ㊧善良の性行. ⑯毒理推理の学. る べ. ⑲ 学校管理・. 普 項 目. ㊨ 校則の執行 熟練・懇切・租 ⑲ 勉. 重. 剛毅・、忍耐・威. (前)尊 王 ∫(訂皇室に忠. @ 重・恵琴・勉励 ㊨ 執劫矯激の言論 禁止. ⑯政治法令遵守 ⑰愛. 得. ⑭教育方法活用. ⑯国体尊信. ⑩長上革敬. 心. ⑫苦則外学科の学 ⑬心意の錬磨l. 中こ. ⑥卑幼を慈す. !. ⑲雲苗場劣の除 ⑪身心の健康. 身. ⑦自 ⑬天皇尊崇.. 旨. ㊧言行護守. ⑤朋友に宿. 目. 主. ㊨,品行端正. 恵. ⑲感一愛. 大. 待1I. ④長上を敬す (前)⑧愛 国. 荏) ○内数字は提示された順序,. (前)は前文. ⑧智心教育 ⑨身体教育. 冒+が覚書風のもので「心得+のように文辞が整っていないという事情はある■ものの,席. 者を対照すると第1表のようになる。一見して明らかなように,. 「大主旨+はその掲げる. 項目中19項目が「生徒に注入するベき項目+に・属し,. 「教師が身紅つけるべき項目+ほわ ずか2項目促すぎない。何を教える(注入する)べきかとい・う, 「教則+ででも扱う.J<き事 ●. 項を専ら取り上げていて,. ●. 「教師訓粂+紅ふさわしくない内容である。これに対してJ'r.b. 得+では「注入するペき項目+. 9,. 「身につけるべき項凱13,. ・しかもそれらは土屋忠雄が. 詳細に明らかにしたように,ウィ・ツカ-シャム(Wickersham,. J.P.)の『学校通論』 (1874 午)の影響・を多分にうけてい、る7'占「大主旨+と「心得+との全体構成の相違をも非常紀夫 きいといわねばならない。 「注入項目+に関しても一 ̄. 「犬主旨+が列挙する19項目中,. る徳目であって,非儒教的というペきほ⑤,. 12までが-i.応席数的といえ. ㊨-⑯,. ㊨-⑯の7項のみであるoそしで 12の儒教的腐日中'-「心得+が採用したのはおずか3項目にとどまるoこの点に関する便り・, 「元田の要求とは一定の対抗関係を蘇ちつら文怒省は(『心得』を).■具体イ,Eしたのではない か8)+という船寄俊雄の推謝ほ当っていると思われる′o■'Lかし非儒教的徳目についてほ丁犬 主旨+と「心得+との一致度が高い・のセ∴上記′「対抗閲係+が原著なのほ「大主旨+があげ ●. る儒教的徳目に関してやあるo. ●. ●. ・「大主旨+が「儒教的反動紛国家主義の廟金に貫かれたも.

(5) 明治儒教と教育. 255. (圏点引用老)であることほ確かだが,それが「殆どそのまま文怒省に愛吟容れられ 「愛国+など, た9)+とほいうことはできない.文部省に受け容れられたのは「天皇尊崇+ の+. 「反動的国家主義+の面だけであった。この側面こそが「大主旨+の限日だとみなしうる なら,元田の主張の中心的戟分ほ「心得+紅おいて実現されたということになるo. しかしそれにしても,ノ「大主旨+があげる「国体の尊信+が「心得+の採るところとほ ならなかった事実には,注目する必要があるだろう。. 「国体の尊信+とは,王統の継続性. を信じ,その点に天皇支配の正統性の根拠を求めることを意味するが,天皇制そのものが. 形成の途上期にあった1880年代紅に,. 「国体+の信仰をストレートに打ち出すことにほ,. 恐らく問題が感じられたのであろう。. 「心得+起草者ほ周知のように「水戸学を以て頭を. 鍛へた+と自称する江木千之であったが,′その彼にしても「心得+を勅諭の形で発布する ことを一旦考えながら,内容について「他より異論を挿まるゝの恐もある+という理由で 結局それを断念しているW). 「心得+ほ摩擦を起こさぬため,日立たない形の文部省連 (1881年9月文部省達19号)として発布せぎるをえない内容のものだと,当事者自身がみな 「異論を挿まるゝ恐+のさ していたのである。天皇制教育体制の未確立期であるだけに, らに大きい「国体の尊信+. た。-従って,. ・を盛り込むことが考慮されなかったのは,むしろ当然であっ 「大主旨+り文言からは必ずしも断言し難いものの,もし元田が「国体の尊. 信+を最重要項目と考えていたとすれば,彼の意図は「心得+には十分活かされなかった ということになるo元田が発布前に「心得+草案に目を通していたのか,それに同意を与 えていたのかほ明らかでないが11),いずれにせよ儒教的徳目の多くが顧みられなかったご と, 「国体の尊信+が採用されなかったこと,の2点において,. 「大主旨+の主張は.1「心. 得+の中に十分紅葉現されなか-らたとみるベきであろうo 次に元田が伝達したという(3)の勅諭に関しては,いうところの「第-2次教育令+串よび. その付属的諸規定の「旨趣+がどの程度に「-葺+. 「徹底+したのかということが問題に. なる。ただ「第2次教育令+はよく知られているように4年8か月しか存続しなかっ-たo 従ってそれが「一貫+しなかったことは改めていうまでもないo 教道徳の導入+という点に関しては,. しかし.「学校教育への儒. 「第2次教育令+で筆頭教科とされた修身科の小学. 校教科上の位置が第2次大戦敗戦まで変らなかったのであるから,そや限り「旨趣+ほ「「 貢+したということができるかもしれない.ただしそれが「徹底+したのか否かとい.,5こ とについては,教科上の位置のみからは速断することができない。. Lr第2次教育令+下の-. 修身科の目的や内容について,立ち入って考えてみる必要があるoところがそのことを述 べていてもよさそうな「小学校教則綱領+. (1881年)紘,修身科については「格言・事実等. ニ就テ児童ノ徳性ヲ滴養スペシ+とし,抽象的な規定をしているにすぎないo当時の「修身 科の内容構成の原理と教授法が最もよく示されている12)+のは,倉沢剛が紹介した「小学 校修身書編纂方大意+. (1882軌以下単に「大意+と暗称)であろう13).すでによく知られた 史料なので詳しく述べないが,その要点は, ①「道徳ノ主義+ほ「父兄ノ最モ借用スル所+ である儒教匠求めるベきであること,. ③、「初学ヲシテ我万世一系}天胤ヲ専崇;y,I:l・;:金時無. 欠ノ帝国ヲ愛重+せしめるベきこと,,⑨欧米の「修身学科ヲ踏襲+するベきでないこと, ㊨ 「学術諸派ノ争論ニ渉レル言語+;A:を避仕るベきこと,I ⑤生徒に教科書を瞭諭させるベ.

(6) 256. 久. 木. 幸. 男. きこと,の5点にほぼ尽きているo倉沢が推測するように「大意+起草者が西村茂樹であ るのか否かは確かめ難いが,彼が編纂Lた『小学修身訓』 ところが多いともいわれる14)o確かに同書ほ,. (1980年)ほ「大意+と符合する. 『中庸』冒頭の「天ノ命ヲ性卜謂ヒ云々+ 「大. を上巻の最初においているところからも知られるように,儒教主義の教科書である. 意+ ①③④⑤にはよく一致していると認められるoところが②に関する君臣関係にふ れているところほぉずか2か所(『孟子』の「君臣義アリ+,. 『静語』の「君君タリ,臣臣クリ+を. 引く),しかも天皇には全く言及していない.その上同書は内容が難解で中・高等科で主に 使用されたので, 「初学ヲシテ我万世一系ノ天胤ヲ尊崇+させるものとほなっていない。 儒教主義の教科書として初等科で広く用いられたのは亀谷省軒『修身児訓』. (1880年)であ. るが,同書巻1は,孝弟,養生,師友,学問及勉強,言語,容儀窮行という構成で,天皇 はもちろん君主一般紅ついてほ一全然ふれていない.巻2. ・巻3でほそれぞれ1か所ずつ君. 臣関係のことを取り上げ,巻5には「報国+の課もあるが,全巻を通じて天皇や「万世一 系+に言及する、ところは1か所もない。同じく各地で採用された木戸麟『小学修身書』 (1880年)も初等科用の範囲では,天皇はもちろん君主一般に対する道徳紅ついてさえ全く 然殺している。このように「大意+ ①と一致した儒教主義の修身教科書も②にほ無線で あったのであり,このような教科書を用いた修身科は勅諭にいう「旨趣+の「徹底+の場 となりうる筈もなかった15)0 ただし「旨趣+. 「徹底+の回路となりえた小学校教科は,実は修身科のみでほなかった。. 読書科・歴史科も見のがすべきではないのであるoそのうち歴史科についてほ先行研究で も論及されることが多く新たに付加するべきことは少ないので16),とくに立ち入らないo. 読書科に関してはそのうちの読方紅おいて申・高等科で「漢文ノ読本+を用いること,作 文において口上書軒・日用書類(初等科),日用書類(中・高等科)を扱うことを,. 「小学. 校教則綱領+が規定している点は看過し難いo. こめ規定に基づいて,各府県では中・高等 科読書科読方の教科書として『孝経』, 『小学』, 『論語』,『孟子』, 『古文真宝』などの漢籍 古典, 『日本外史』,岩垣松苗『国史略』,大槻磐渓『近世史談』などの漢文体日本史書, さらに『十八史略』などの中国史書を採用している(繁雑にわたるので,どのテキス、トをどの 府県が採用したかほ省略)。作文では教科書は余り使用されていないようであるが17),数少な い使用例の一つである埼玉県の場合をみると,小倉鍛『小学文林』が採用されている18)。■試 みに筆者架蔵の中等科用の同書をみると,中等科1・ 用文・記事文の文例集であるb. 2年生用は書翰文例集, 3年生用ほ公 公用文は願書′・証書(借用証など)・商業証書(売渡証など). 雑事文(委任状・離縁状など)計41文例,記事文ほ地球・煙草など70文例を収めている托 か,受取・送状・届書・書面取扱心得・電停文など57例を頭書に掲げている。きわめて 実用的な文例集であって,同書全体がいわゆる消息科往来物の明治版とでも呼ぶペき内容 のものである(なお初等科習字科で江戸時代の往来物をそのまま教科書紅用いた地方もあ った)0 読書科においてこうLた教科書が用いられたことほ,一種の復古主義とでも呼ぷべきで あろう.とく匠漢籍の採用が「学校教育-の儒教道徳の導入+そのものと見られることは いうまでもない。しかし上記作文教科書(教科書を使用しなかった府県でも同じような指導が. ・.

(7) 明治儒教と教育. 257. 行われたと思われる)や習字科教科書としての往来物は,民衆の生活紅直ちに役立つ実用性 をもi,ており,その限り民衆の要求にこたえるものであったことも明白であるoまた前記 「大意+ ①が,儒教ほ「父兄ノ最モ信用スル所+と述べたように,漢籍の使用にほ民衆の 抵抗感卑よ恐らくなく,むしろ歓迎されさえもしたであろう。つまりこの時期の教科書の復 古主義は,一面民衆の要求を酌み入れつつ,他面「学校数育への儒教道徳の導入+という 元田の政策意図にこたえるものとして出現したのである。ただし漠籍使用は「儒教道徳の 導入+には役立つにしても,元田が考えたような「国体の尊信+を生徒紅注入するには直 捷役立たない。漢籍古典に「国俸の尊信+という思想が含まれている筈がないからであ る。従って「国体の尊信+や「天皇尊崇+の注入のためには漢籍は極めて不十分であり不 備でさえあった.その上漢籍を使用したのは中・高等科においてであったが,当時中・高 等科生徒数は,全小学校生中の10-307oQ5どにすぎなかった19)。小学生の圧倒的多数ほ漢 籍学習の機会をもたなかったのである(このことは歴史科についても同じである)o 読書科は,. 要する紅. 「旨趣+ 「徹底+の場に一応はなり.えたけれども,きわめて不十分なものだった. といわざるをえない。元田が『幼学綱要』の編纂を意図したのは,あるいは叙上の漢籍の 不備性に気づいていた結果かもしれない。 以上のはか「第2次教育令+の付属的規定のうち「学校教育への儒教道徳の導入+施策 として見落すことができないのは,. 1881年7月の「小学校教員免許状授与方心得+の改定. である.この改定によって,次の第5条が新たに加わった. 第五条 碩学老儒等ノ徳望アリテ修身科ノ教授ヲ善クスル老,若ク-小学各等科軌 土地ノ情況ニ因リテ加フル所ノ農業,工業,商業等ノ学術ニ長ズル者-,学力 ノ検定ヲ要セズ,特ニ該学科教授免許状ヲ授与シテ訓導トナスコトヲ得 但本文ノ場合ニアヲテ-,本人ノ姓名履歴等ヲ具シテ文戟卿ノ認可ヲ経べシ20) 学力検定抜きでの特定教科教授免許状(こんにち夙にいえば「特別免許状+)授与を定 めたこの規定は(条文引用は省いたが,第1泉の唱歌・体操・裁縫・家事経済などの技能教科につ. いての無試験教授免許状授与制ととも紅),当時もr姑息ノ手段ニ似タ1)+と批判され,また 教員不足対策として「止ムヲ得+ないとも受けとめられた皇1'oただしこのような論議の対 象になったのほ加景教科(第5条後段)や技能教科(第1条)の教授免許状であって,. 「儒. 教道徳導入+政策の一環として持ちこまれた修身科教授免許状紅ついてではなかった.後 者紅ついてほ,逆効果紅しかならなかったとする江木千之の回想が有名であり,発行研究 でもたびたび引用されている弼oしかし江木が語っているのは1884年から実施きれた中 学校におけるケースである.硬ほ小学校の修身科教授免許御紅ついてほ何も述べていな いo恐らく彼の記憶紅残るような事例がなかったのであろうが,このことほr墳学老儒+ 紅修身科教授免許状を授与する制度が成功したためでほない。菜は,3、学校でほこの競走の 適用例は経とんど皆無紅近かったのである。 1882-85年匠73、学校修身科教授免許状をう けた「硫学老庸+は改頁第2表紅示すよう紅全国合計31人にすぎない。. ・85年当時の小学 校有資格教員(訓導・準罰尋)の虚数約3.1万人のO.1Tvという倣々たる数字である。当 時論議の対象にならなかったのも,江木の記憶に残らなかったのもふしぎではない8 滞催された学事諮問会で文戟省当局ほ,. 82年 「墳学老儒+への修身科教授免許状授与紅ついて,.

(8) 久. 258. 木. 幸. 男. 「地方ノ小学校二於テ各々此満足スべキ教師ヲ備フルコト,. 第2表. 小学校修身科教授 免許状授与者数. 固ヨリ望ムべカラズ。故二二三ノ小学校連合シ或-ー郡区 県. 内ノ小学校連合シテ之ヲ聴シ,各小学校ヲ輪次巡回シ,或. 名. 員. I人. -生徒ヲー処二集メテ之ガ教授ヲ為サシムル等ノ事,最モ 「望ムべカタ+ざることを 便法ナルべシ28)+と示諭したo. 神. 川. 2人. 兵. 庫. 3. 恐らく東知の上での,. 茨. 城. 4. 重. 3. 山. 梨. 1. 青. 森. 5. 秋. 田. 12. 島. 1. 「特BIl免許状+御慶の創始であった. 奈. ことがうかがわれるo文怒官僚が不可能不条理と知りつつ. 上層部の意向に無定見に迎合・追従することほ,こんにち までたびたび見られるところであるが,この「特別免許 状+制度ほまさにその一事例であったo. 鹿. 以上,元田が文部卿に伝達した勅諭にいうところの「旨. 合. 児. 計. 1. 31. 顔+がほとんど「貫徹+しなかったことを概観した.とこ 注)各年度『文部省年報』 (各県年報)による. ろが元田自身は,勅諭伝達をもって彼の意図が十分に「貴 徳+したと自ら認めていたのであろうか,伝達が終った紛 10日後の82年3月1日,次のような,いわば「勝利の詩+を詠じている。 (紛). 粉々党議互争私. 紛々たる党議,互いに私を争う. 世態民情可料知. 世態民情,料り知るべし. 整頓紀綱人自在. 紀綱を整頓するは人おのずからあり. 講明道学我当為. 道学を講明するは我れまさになすべし. 見竜飛躍豹方変. 見竜飛躍し,豹まさに変ぜんとす. 陰鶴和鳴雛亦薄. 陰鶴和して鳴き,雛もまたよろこぶ. 真理感通如指掌. 真理感通,たなごころを指すが如く. 今来天下更何思24). 今釆天下,更に何をか思わん. 14年政変後の世情・政情の中で「道学の講明+老をもって自任するとともに,自らを飛 「天下+のことは何一つ心配することはないと豪語 竜に聴え, 「真理感通+は思いのまま, するなど,得意然たるものがあった。しかし彼の政策意図は上乗みたよう軒こ,ほとんど貫 徹していなかったのであるo. 3年余をこわたって編纂を進め刊行も間近かに迫っていた(4). の『幼学綱要』も,彼が期待したような効果をもたらさなかった。元田が『幼学綱要』編 纂に着手するのほ彼の回想によると1879年であるo天皇の命令による編纂という形式を 踏んでいるが,その理由を「明治五年以来欧風流行シ,教育モ欧米ノ法則ヲ用ヰシニヨ (ママ). リ,国史漢書-廃棄ノ勢トナリ,進講モー時専ラ洋書ノ翻訳本ヲ用ヰルニ至1)タルニ,聖 上---・・教育ノ謬1)ヲ御着被アラセラレ永字ニ命ゼラレ+た,という点に求めている26)o しかし「廃棄ノ勢+となった漢籍講読を復活するためなら,別に新しく幼学書を編纂しな ければならない必然性はないo前紅少しふれたように,彼ほ漢籍古典紅あきたらぬものを 『幼学綱要』の編纂過程に立ち入る余裕はないが, 感じていたのセはないかと思われるo すでに海後宗臣が明らかにしているよう、に当初の「編纂主意+でほ,第一に「君に事ふま つるの忠+を置き,以下「親に事ふまつるの孝ム「兄弟の愛+という,儒教の常識を無視.

(9) 明冶儒教と教育. 259. した配列になっている26)。この非常識な配列は,流石に81年2月の「編纂稿本+では「孝 行第一+, 「忠節第二+という順に訂正され,むろん完成本(刊本)でも孝・忠の順になっ ている.ところが刊本は孝を第一におきながら,その例話として神武や仁明の神話・伝説 を初めに掲げるこ′とによって, 「天皇専崇+を鼓吹する形になっているoその上,序文で 繰り返し強調している「仁義忠孝+のうち, た。. 「君臣の義+. 「義+はそれ自体としてははとんど無視され. (序文)という一面のみを取り上げ,あるいは「廉潔+と関連づけて述べ. 「義+のもつ多面申な意味のうち,正義,公義,人びと. るにとどまっている(廉潔第十四)0. のための自己犠牲,権利(right)などに通じる側面ほすべて黙殺している27)o. 『幼学綱要』. は儒教道徳宣揚の書としてみても,よくいえばきわめて特異な,端的にいえば非常識極ま りない書というはかはない.元田が儒教とは全く異質の「天皇尊巣+を無理に組み入れ, 「天皇尊崇+を中心に儒教道徳を再編しようとしたからであろう. このような内容上の問題の上,元田の「幼学+観念には明白な混乱があり,そのためこ の善がどんな発達段階の読者を対象にしているのかが不明瞭になっている。元田ほ序文で 「幼帝之児+を対象とする旨を述べ,例言でも「此編専ラ幼童初学ノ為二設ク+と繰り返 しているo. これをそのまま信ずれば『幼学綱要』は小学生,とくにその低学年児を対象と. していることになるが,内容上彼らにふさわしいものでないことは明らかである。このこ. とにかかわって海後が,元田の「真意が何処に存するかを容易に理解し得ざる如く感ぜら れる乏8)+と述べたのは当然であったoただ元田紅は,幼学を「幼童初学+とみる幼学観の ほかに,儒教古典にみえる幼学観をそのまま踏襲したのではないかと思われる点がある。 儒教古典の幼学観とは具体的には『礼記』曲礼上の「人生十年,日幼,学+ (人生まれて十 午,幼という,学ぶ)の疏(孔穎達)の「幼者,自始生,至十九時+ より,十九に至るの時なり)を指す29)o. (致とは,始めて生まるる. lO歳以上20歳(宙冠)未満,つまり10代の少年が. 幼とされているのであるが,これに従えば『幼学綱要』が海後のいうように「中等学校生 徒にして読み得る内容30)+であるのは,何らふしぎではないo恐らく元田は曲礼の幼学観 を一方では下敷きにしながら,. 「天皇尊崇+をできるだけ早い時期から子どもに注入した. いという思いがあったため,小学校低学年児(「幼童初学+)にふさわしくない内容を, 学+の名で与えようとする結果になったのであろう。内容が儒教から逸脱している点も, 幼学観念の混乱も・. 「幼. 『幼学綱要』が勅諭付きで刊行配布されキことによってT一般の批判. を免れることができた。天皇の命令による形式を踏んだのが,こうした批判をかわすため の「深謀遠慮+であったか否かほ推測が難しいが81),結果的にほ動静が批判を逃れる隠れ 蓑になったことは確かであるo配布をうけた各学校の対応は区々であったであろうが,富 山県伏木小学校「沿革史+が伝える次のような対応は,かなり一般的なものではなかった かと思われる。 S+*+. 当時御発布ノ幼学綱要-・益本科(-修身科)ノ骨子タルペ牽モノ,然モ恭シク.区 真二蔵ミテ,周歳職員ノ手二触レザル事往々ナワト8望)o 注. 1)山中永之佑『日本近代国家の形成と官僚制』. p.. 127..

(10) 260. 久. 木. 幸. 男. 5. 森川輝紀『近代天皇制と教育』 (1987年) p. 131. 各府県「小学教師心得+については,船寄酸雄「明治初期府県制定小学校教師心得軒こみる教廊 像の性格一日本塾小学校教師像の形成過程+ (『教育学研究』巻51, 4号, 1984年12月, p. 389ff・)が詳細に分析している.なお船寄はふれていないが,それらの中には職員会議を校内 (1877年)第2 の議決榛開として公認した大阪府のようなケースもあった(「大阪府小学校則+ 章教員須知, 『大阪府教育史』巻2, p. 45). 倉沢剛『小学校の歴史』 Ⅱ (1965年) p. 92. 海原徹『明治教員史の研究』 (1973年, p. 55)など土のことを指摘する克行研究は多い.. 6. 伊藤・元田の意見一致は「教官ヲ約束+すること,つまり教師紅法的親潮を加えることについ. 2) 3). 4. てもみられた(ちなみにこの「約束+を「教師の契約委嘱+とみる〔石戸谷哲夫『日本教員史 研究』く1967年) p. 96〕のは誤解であって, 「制約拘束+の意味である).しかし伊藤提案も,. それ紅同意して「学校数繭たるものを覇束簡約せよ+と述べた元田の意見も非常に抽象的なの で,両者の同意の範蹄や程度は明らかでない. 7) 土屋忠雄『明治前期教育政策史の研究』 p. 255鼠 (『日本教育 8) 船寄俊雄「1880年代前半における教員政策の転換と小学校教師像の日本的変容+ 史研究』 5号, 1986年7月, p. 22). 9 石戸谷哲夫『日本教員史研究』 p. 96. 10 『江木千之翁経歴談』上, p. 56. ll 「脳充血ノ病二羅り+,以後 元田は「心得+発布(1881年6月18日)の直前に当る6月13日 病臥している(元田永字「古稀之記+, 『元田永字文書』巻1, p. 184).曜病以前に「心得+辛 案を一覧した可能性ほあったと思われるが,むろん確証はない. 12) 国立教育研究所編『日本近代教育百年史』巻3, p. 1027. Ⅱ, p. 1043f. 13) 倉沢 剛『小学校の歴史』 14) 荏)12に同じ. 15) 『小学修身訓』『修身児訓』 『小学修身書』(木戸)は,いずれも『日本教科書大系』近代締,巻 2所収.. 16) 17). 土屋忠雄『明治前期教育政策史の研究』を始め, 1980年代の「学校教育への儒教道徳の導入+ 問題を扱う研究で,このことにふれていないものは少ない. 「国語教科書総解説+ (『日本教科書大系』近代編,巻9, p. 513ff.)ち, 「小学校教則綱領+のも. とでの作文教科書については無視している.使用例が非常に少なかったからであろう. 18) 『埼玉県教育史』巻3, p. 638. p. 994f. 19) 国立教育研究所編『日本近代教育百年史』巻3, 20) 『明治以降教育制度発達史』巻2, p. 522. 21) 「山梨県年報+ (『文蕃省12年報』く1884年)付蘇, p. 178). 22) 『江木千之義経歴談』上, p. 123f. 23) 国立教育研究所教育史料調査室編『学事諮問会と文部省示静』 (教育史資料1) p. 76. p. 270). 3月1日条(『元田永字文書』巻1, 24) 「明治十五年(日記)+ p. 元田永字「古稀之記・+ (『元田永学文書』巻1, 182). 25) 26) 「幼学綱要編纂主意+ (海後宗臣『元田永苧』 p・ 155乱) 27) 『幼学綱要』稿本,刊本は,国民精神文化研究所縮『教育勅語換発関係資料集』巻1による. 28) 海後宗臣『元田永字』 p. 68. 29) 儒教古典紅みえる発達段階区分が,すべてこのような大まかなものだったわけではない.同じ 『礼記』でも「内則+にみえるものは「曲礼+のそれとは相違している. 30) 注28)紅同じ. 31)㌔ 当初元田も冒助学綱要』が公刊されれば「攻撃ヲ受ケ+るであろうと予想していた.尤もその 理由を「文部省ノ教則ニ抵触+するという点紅戒めている.しかし元田が『劫学綱要』編纂に 「抵触+しようはないので 着手した1879年当時「文部省ノ教則+なるものは存在しないので, ある.彼が教則の存否さえ知らぬはど教育の実情に無知だったのか,それとも儒教の常識軒こ 「抵触+することを東知していながらそのよう削ま言い兼ねて,存在しない「文部省ノ教則+ p. を持ち出したのかの,いずれかであろう(元田永字r古穂之記ふ『元田永字文書』巻1,.

(11) 261. 明治儒教と教育 183). 32) 『富山県教育史』巻上,. p. 256.. ⅠⅠ これまで元田の政策意図の成功と失敗の跡を辿ってきたが,つづめていえば彼の諸企図. のうち「儒教道徳の導入+は一定程度成功したが,その儒教を元田流に再編ないし改編す ることには失敗したといえるであろう。一定程度の成功の基盤をなしたのほ,前に少しふ れたように,当時の国民の間に儒教に対する肯定的評価が広く存在したという事実で蕗ろ うo渡辺和靖は,明治20年前後以前,つまり1880年代末から90年代初頭までに生まれ た人びとにとって,儒教がその思想形成・人間形成上にもった重みがどれ程大きいもので. あったかを,いくつかのケ-スに即して蒐明に分析している1).しかし儒教の深い影響を 受けていたのは,彼があげた西田幾多郎・桑木厳巽・幸徳秋水のような著名な思想家だ汁 ではなかったであろう(これらの思想家のみが取り上げられたのは,史料上の制約によるものと. 思われる).当時漢籍を読み儒学を学び,席数思想の影響をうけていた人ほ非常に多く2), 更に進んで漢文・漢詩を作成する能力をもつ人も少なくなかった。そしてこうした漢籍人 口・漢詩人口は,各地にあった大小の漢学塾(儒学塾)によって,不断に再生産されていた と思われるo当時の全国漢学塾数はとくに組織的をこ調査されたこともなく,従って詳細は 不明であるが,. 『日本教育史資料』が明治期の開塾とする約180という数字は,まさに九. 牛の一毛というベきであろう。. 漢詩人口(多くは非専門家の,漠詩作老数)については,. 1886年当時の数字として全国絵. 計約14万人という推計がなされているS)。当時の町村数は約7万であるから,平均して1 村FL_2人の漢詩作者がいたことになるo. これを多いとみるか少ないとみるか,また14万. 人という推計の当否についても,種々議論の余地があろうが,試みに讃岐高松で刊行され た漢詩薙誌『星山旭影』の場合を取りあげてみよう。同誌は81年7月から83年4月まで, つごう2等号(「号外+と称する創刊準備号を含む)が発行されている。和歌・俳句も掲載し ているものの中心は漢詩であって,漢詩頼誌と呼んでよい内容のものである。漢詩作者 (掲栽者)は第3. ・第4蓑のとおりであるが(作者数はいずれも実人員),旧高校藩儒片山禅堂 や旧丸亀藩備中村三蕉が中心であるため,讃岐,とくに高松在住者が多い。しかし作者の 分布ほ東北から九州の全国にわたっている。日本在住の戟鮮人・中国A(多くほ外交官)の ほか,朝鮮・アメ1)カの在留日本人からの寄稿もある.大江敬香夫妻・藤川三渓・藤沢南 岳など讃岐出身の著名人からの寄稿も多く,内藤素行(のちの鳴雪。漢詩作者としての旋号は 南頻)の寄稿も同県(讃岐は当時愛媛県管下)の簸であろう。その他亀谷省軒・土屋風潮・ 尾崎行雄4). (誰号琴泉)の名を見出すこともできるo. しかし寄稿者の大多数ほ,いわゆる無 名の詩人である。年齢・階層,ときには実名さえ不明(誰号で寄稿しているため)の場合が 多いが,比較的年少者としては高松の黒木安雄(81年当時16歳),阿波の本田種竹(同じ く20歳)などの例があるo讃岐在住寄稿者の郡別分布は第4表のとおりであるが,当時の. 12市中,実に11郡から作者が輩出しているo. しかも讃岐で発行された絵集形式の漢詩集.

(12) 262. 久. 木. 幸. 男. 第3表『産山旭影』作者の地域(旧国)別分布 地. 地 l作者数[l地 域l作者数fl. 域. 2人. 大. 和. 1. 大. 坂. 26. 野. 1. 神. 戸. 常. 陸. 2. 下 東. 紘. 6. 相. 陸 陸. 輿. 下. 1人. 域. 】作者数. 長. 門. 1人. 路. 2. 34. 淡 讃. 岐. 117. 摂津(警姦苧) 河 内. 9. 阿. 波. 12. 2. 伊. 予. 8. 京. 37. 和. 泉. 4. 土. 佐. 3. 摸. 2. 丹. 波. 1. 琉. 前. 2. 甲. 壁. 2. 但. 馬. 4. 筑. 後. 1. 伊. 豆. 1. 因. 幡. 1. 肥. 1. 駿. 河. 13. 美. 作. 6. 薩. 前 摩. 逮. 江. 2. 播. 磨. 29. 中. 国. 人. 9. 局. 求. 2. 備. 前. 1. 朝. 鮮. 人. 2. 伊. 輿. 1. 備. 中. 7. 在. 外. 国. 2. 加. 餐. 4. 備. 後. 5. 不. 明. 1. 西. 京. 4. 周. 防. 3. 前. 合. 計. 1. 375. 第4表『星山旭影』讃岐在住作者の郡別分布 部名. 作着数. 郡名. 作真数. 大内. 2. 高松(町). 48. 寡)f'_l. 3. 香川酢を 阿野■. ll. 0■ 4. 鵜足. 7. 那珂. 20. 木 山田. 小豆. .1 ̄. 14. 部名. 作着数. 多度. 3. 醇 豊田. 合計. 1 4. 117. には,本誌寄稿者以外の作者を数多く見出すことができるので,この117人という数字が 讃岐漢詩人口の全部でないことがわかる上に,寄稿者を中心に十数名に及ぷ漠詩サークル が結成されている例もある6'.寄稿者は讃岐漢詩人口の一部にすぎず,他にその何倍かの 漢詩人口が潜在していた.それが当時の讃岐の町村数400の2倍に当るはどであったか否 かは確かめ難いが,と紅かく漢詩人口ほ相当の拡りと厚みとをもって存在していたのであ って6),全国総計14万人という数字も,あながちに無梧のものとはいえないのではなかろ うか。. 漢籍人口は,しばしば漢籍に親しんでいる人に限るか,ひととおりの漢籍読解力をもつ 人まで含めるかによって数字は大きく変る筈であるが,仮に前者に限定しても,その数は 漢詩人口の何倍かに達すると考えられるoそしてこの漢籍人口は,族生する漢学塾を通じ て次々に再生産されていった.漢詩人口について讃岐を取り上げた脈絡から,同地の漢学 塾についていえば,. 1880年代に存在した漢学塾としてほ,高松の栄義塾(1875年開塾,以下. 括弧内は開塾年),訂正塾(76年),九恩義塾(80年),保真学舎(82年),静修学療(83年),盈 科塾(85年),三野郡の明道塾(82年),犀陽義塾(83年),忠誠塾(83年)などが従来から知.

(13) 263. 明治儒教と教育. られている7).しかし当時の讃岐が漢学塾一色に塗り潰されていたのではないo高松英語 79年6月・次のような「教育 学校(82年)が存在した抱か,民権結社純民社(78年)紘, 規則+を制定している。. 純民社教育規則 緒. 言. 学ヲ修メ識ヲ広ムルノ要-人皆之ヲ知ル,又弁ゼズシテ可ナリ。然レドモ知テ而シテ マ ̄ ̄マ. 実行セザルトキ-,知ルモノト何ゾ択バン。実行シテ而シテ堅忍ノ心二乏シク中道廃. 棄スル如キ-,実行セザルモノト何ゾ択バンo西暫ノ言ニ,天才衆二起立ルト錐ドモ 継続シテ勉強スルニアラザレバ成就スル地位二重ルコト能-ズト。又聞ク,許多ノ倣 べキ事アリテ之ヲ勉メ倣サント欲スル人-,必ズ許多ノ光陰ヲ尋ネ出スべシト。学ヲ 修メ識ヲ広ムル道,量勤メザルべケンヤ。蓋シ重壮空陸ノ返照ヲシテ,彼ノ政事上ニ '与-ソト期スo 規則第一 第一集. 散育法う分テ五類トス ー講. 義. 二会. 話. 三読. 書. 四作. 文. 五算. 術. 但シ学科-別表ヲ製シ本社二存置ス 第二粂. 社員ノ家族又-雇人等就学スルトキ-,某社員ヨリ左ノ雛形二照準シテ保証 書ヲ出スべシ 但シ当分男子二限ル(書式省略). 第三条. 退学ヲ欲スル老-保証人ヨリ其事由ヲ記載シテ申出べシ. 第四条. 書籍-ー切自弁タルべシト錐ドも本社ノ都合ニヨリ貸与スルコトアルべシ. 第五条. 学生若シ怠惰或-規則ヲ犯ストキ-,相当ノ徴戒ヲ加フべシ. 明治十二年六月改正. 愛媛県讃岐国高松兵庫町. 純. 民. 社S). 民権結社付設の学舎が計画されたわけであるが,この計画が果して実現したか否かは明 らかでない.計画の具体的内容も,第1粂但し書にいう「B[j蓑+が未発見であるため,不明 の点が多い.ただ第1粂にいう教育法一読義・会講・読書(-独看) ・作文-が・近世 「緒言+ 以来藩校や漢学塾で広く用いられた教育一学習方法であることほいうまでもない。 にいうとおり不断の学習を通じて政治的自覚と識見とを養成することを日ぎしたこの学舎 が漢学を主とするものであったのか,洋学を専ら学ぶことを構想していたのか,それとも 両者併修の計画であったのかは判らないが,その教育法に関してほ漢学のそれが強い影響 を与えていることだ桝ま明らかである。 ところが1882年になると,帝政党系といわれる地方紙『南海日報』9'が,次のような漢 学漢詩批判をその社説で提起している。. 古来儒者卜称スル者ヲ観ヨ。其徳行-則[)レ可ク,英文字-観ル可ク,高踏勇退ノ 風-尚プ可キも進デ天下ノ盤根錯節二当り其利器ヲ試ムルノ勇気ナク,退テ山野二 道逃シ月風二吟味セント欲スルノ計ヲ為ス老,最モ多キニ居ルガ如シ・--。泰西ノ学.

(14) 264. 久. 木. 幸. 男. ハ分析善ク行届キ区画井整トシテ紛乱セザルヨリ,人各々英才ノ長ズル所二従テ,育 学ナリ文学ナリ,法学二政学ニ,或-理学化学専一科専門ノ学二従事シテ,其材能ヲ 尽スヲ得ルノ便アリo. ・--日本ノ今日ヲ回顧スレバ,学者卜称セラル、者-共学識浅薄ニシテ-・・膚用ヲ世間二受クル事モ欧米ノ厚キ如クナラザレバ,其学ヲ以テ天下 蒼生ヲ誤マル等ノ如-万々之レ無力ル可シト錐も漢学ノ徒ノ其学ヲ以テ書画,囲 碁,翫弄ノ具卜一視シ,有用ノ文字ヲ綴ラズシテ無用ノ文字ヲ腰列シ,彫虫ノ工風ヲ 競フテ以テ学問ノ犬用ヲ知ラザル-・実二無益ノ甚シキ老ナリ。而シテ此弊ヤ,讃州 地方二於テ吾人-其最モ著ルシキヲ知ル.識者以テ如何けスヤ1e). 漢学批判といっても道学批判ではなく主として漢詩盛行風潮への批判であるが,さりと て同紙が道学擁護論を述べているわけでもないoさらに別の社説では批判の鋒先を漠学塾 に向けている.そして高松の漢学塾が「日一日ヨリ盛ナルヲ加へ,殆ド讃地書生ヲ債クル. ノ勢+になっていることを憂慮し・それは父兄が「好ム所ノ漢学二癖スル+ためだとし て・このような漢学噂好を否定しなければ「讃地ノ開明-将二何レノ日工決スルヲ知ラザ ルナリ+と論じている。漢詩盛行のみではなく漢学全体を「開明+の妨害ととらえ,結論 として漢学塾が「暗中学ノ則二照シ+た教則をもつ学校になることを望む,と述べてい 揺ぼ. る11'o漢学や漢学塾を保守派が支持し・民権派がそれに反対したという単純な図式が成立 しないことは,叡上の事例からも容易に判明するoただし一方には漢学・洋学併用論も現 われており12'・讃岐でも様々の対応があったことがうかがわれる。しかしこれらの論議が いずれも儒学盛行の所産であることほ確かであり,さら虹その背後には儒教に対する肯定 的評価が広く存在していたことが知られるのである。 しかしながら,. 「儒教道徳の導入+を容易にした,儒教に対するこのような肯定的評価. は・儒教と無関係な「国体の尊軌を儒教紅接合しようとした元田の意図を阻む力にもな つたと思われる。儒教が肯定的評価をうけその内容が広く理解されていればいる程,元田 の意図が無理なものであることにも気づかれやすいからである.先述のように「小学校教 員心得+から元田が求めた「国体の尊軌が削除され,また彼自身『幼学綱要』の「編纂 主旨+の徳目配列を結局托ぼ正常な慣序に改めたのは,いずれもこの力の存在がいわば瞭 然のうち紅感ぜられ七いたためではなかったかと考えられる. いうまでもなく「国体の尊信+を儒教の論理から導き出すことほ,どんな筋道を辿るに. しても・とうてい不可能でぁる。元田自身もこれを知悉していた筈であって,このことは 1881年以降彼が政府官僚の一部を相手に行なった『論語』連綻詩義の中で次のように述べ ているところからも,たやすく知ることができる。. 迂老二於テ-初二申ス如ク,神道-戟敬ナリ,孔子ノ書-神道ノ注釈卜自ラ倍ズル 故・別二神道トテ我朝ノ学者イカニ云テモ,孔子ノ説ク所ノ奔倫道徳ヨ.)清純ナルコ ト、ナキ蕃卜思フナリ18)o 「孔子ノ書+とほ直接紅は『論語』,広くほ儒教を指すが,それが「神道ノ注釈+だとい. うのは・層教によって神道-「国体の尊信+を証明しうるということではないo元田は事 実,そのようなことを全く試みていない。また儒家神道的な神儒習合静に立っているので もない。. 「国体Jほいぉば「孔子ノ書+を内に含んでいるというのであって,そのととは.

(15) 265. 申治儒教と教育. 証明も説明もできないけれども,元田が「自ラ信ズル+膚伸だというのであるo中国儒教 にくらペて多くの変質・変容をとげた近世儒教の中にも,このような「信仰+は存在しな かったoそれほ全く元田独自のも・のであるo近世儒教を彼ボ継承したとほとうていいえず,. そもそも席数の名に値するかも疑問であるが,あえて儒教と呼ぷなら,儒教の再編ないし 改編とでもいうベきである。しかも席数と「国体の等倍+との接合が,元田の「倍ズル+ (A). ようFL成立しているかというと,ノ′実ほいくつかの疑問が残るのであるoその一つは, 儒教の天命・放伐思想と,. (B). 「国体の尊信+との間の矛盾である.矛盾ほ次のようにま. とめることボできるであろう.. (A)前者は君主支配の正統性を天命という形をとる民衆の支持に求める。従って君主 にほ民衆の支持を失わないための仁政・徳治が当然要求されるo (B)後者は君主支配の正統性の根拠を王統の継練性に求め,かつ無条件にその現在・ 将来をこわたる継続性を東認するQ従って王位の保持は民衆の支持とは無関係であり,君主 ほ有徳の君主であることを必要としない。 両者は全く相容れない思想であるのに,どうして前者が後者の「注釈+でありうるの か。元田はこの点剛ま何一つ答えていないo尤も彼は放伐を否認してほいないのであっ て,. 87年頃の『書経』商事の講義で,湯玉が夏王を放伐したことについて,. 「天下ノ為メ. ニ暴ヲ除キ民ヲ救フ-,天下ノ公義,天命,人心ニ応ジテ己ム容カラザルノ事ナリ+と述 べている。単紅過去の事実についての説明と解せられるかもしれないが,つづいて「後世 ノ当ニ師トスべキ所+と湯王を称揚している14).. 「後世+という以上,元田ほ放伐が普遍的. に正当だと認めていたことになるo中国VL限ることで,日本にほ該当しないなどとは一言 もいっていないo. (B)ほ忘れられているとでもいうほかほないo. いま一つの疑問は,第一の疑問とも関連するが,侍補・侍講としての彼の地位・役割Fかかわる問題である.上述のよう紅「国体+が「尊膚Jされるならば,君主が英明有徳で あるか否かは問題にならない筈であるo. 78年の下津体也宛書状で彼は明治天皇を「全体. 遅鈍ノ御天資ニ而15)+と評しており,非常に低い評価を与えているQもちろん儀礼的に称賛 している場合が多いのであるが,宿挺する郷党の先輩宛書状なので,思わず本音を洩らし たのであろう。. 「国体の尊信+を強く打ち出す以前の時期であり,当時の元田は上記(A). の立場に専ら依拠して,. 「遅鈍+の君主を有徳の王たらしめるベく「輔導+に努めていた. のであろう。或はその効果が挙らなかったため(B)に移行ないし(B)を採りいれたとも (B)は上述の如く「君徳+を必要としない。従って「君徳輔導+の必要が. 考えられるが,. なくなり,侍講の役割も消滅する筈である.もし彼が(B)を純粋F-信じていたとすれば, すでに成人に達していた天皇側近の地位を去るベき筈であった.侍補制廃止(1879年)醍. ょって政治的野心を断たれたのもも,侍講の職にとどまったのはなぜたったのであろうか.. この元田の「思想と行動+との矛盾について推謝をめぐらすなら,元田ほ実は(忠)を信 じていなかった,あるいは侍舌の役害抵とどまるため(A)を(B)の「注釈+だとする 「膚仰+を宣言した,などの場合を想定することも可能であろうが,推潮を重ねることほ 慎しみたい。ただそれがどのような意図から発したものであった乾せよ,彼の儒教思想が 明漁期軒こおけるそれとして,極めて特異なものだったという事実は残るのであるo.

(16) 266. 久 一木 幸. 男. そもそも明治儒教が近世儒教のそのままの継東であった筈ほなく`,近世儒教から明治儒. 教への移行が新しい変容を伴うものであったことも想像に難くない1¢)。元田における儒教 め改編も,この変容の一つとみることができる. な試みには,. 「国体+と儒教との接合という彼の無理. 1880年代紅おける天皇御国家の形成という問題に対する,明治儒教の側から. の一つのアプローチだといえる面が確かに存するのである。もちろん元田が提示したの が,当時における唯一の接近法であったわけではない.周知のように天皇制国家構想とは 多かれ少なかれ異質の国家形成を日ざす動きとして,自由民権運動があった。そして儒教 の側からの,この運動に対する活発なコミットメントもみられたのである。それほ,儒教 の元田的改編とは全く異質の潮流として,一定の拡りをもっていたのである. 明治儒教におけるこの潮涜は,大まかにいって次の3点を通じて検出することができ. る.第一ほ儒教的教養を土台としての民権思想の受容,理解ないしそれへの共感の諸事例 であり・第二は民権思想の育成に努めた漢学塾の存在であるoそして第三に運動に直接か かわった儒学者の活動を加えることができるoこのうち第一の諸事例ほ従来からすでに数 多くが知られているが,第二,第三のケースほこんごの発掘に侯つべき面が多いo第二が 教育史固有の課題であることはいうまでもないが,第一,第三も教育の問題と密接に関連 する.次に叙上の3点に即して既知のケースを簡単に整理し,さらに若干の新事例の提示 を試みる。. ー第一の,儒教的教養を基礎に民権思想の自覚に至ったケースとしては河野広中が著名で あるが17),反対に余り取り上げられることの少ない例の一つとして砂田定一をあげること ができる18?o儒教的教養が民権家としての活動を支えるバックボーンになっていることは, 次の詩2首からも容易に読みとることができるo前者は11878年の作,後者は翌年11月逮 捕された時の作である。 発高知再赴鎮西. 高知を発して再び鎮西紅赴く. 震蛍九州即此行. 九州を震塗するほ即ち此の行. 区々何抱別離博. 区々何ぞ抱かん,別離の博. 史夫成事君知否. 史美事を成すほ君知るや否や. 不在言論在至誠. 言論に在らず至誠にあり. 嘩-絶遠家. -絶を賦して家に遺す. 既以斯身供自由. 既にこの身を以て自由に供す. 死生窮達又何憂. 死生窮達又何ぞ憂えん. 丈夫心事人知香. 丈夫の心事,人知るや否や. 山自青i水白く洗19). 山ほおのずから青々,水おのずから流る. 河野や杉田のような全国的なリーダーではないが,三多摩民権家たちのケースほ色川大 書の研究によって広く知られている20).地方民権家の場合の類似の事例は非常に多いと思 われ,先にあげた『星山旭影』の寄稿者の中にもそのような例を見出すこと.ができるo.美 作の牧膜(雅号-鶴城)ほその一人であって21), 1882年の次の1首ほ「国会開設の詔+杏 「君民共治+を約束したものととらえている甘さを指摘することも可能であるが,それは.

(17) 明治儒教と教育. 267. いわば結果論的な批判というべきであろう。 新 年 作 新年の作 僻見隆治与歳新. 仰ぎ見る,隆治と歳の新たなるとを. 深仁沢及隠輪身. 深仁の沢は及ぶ,. 詔書己布君民政. 詔書己に布く,君民の改. 暦法正岡欧米春. 暦法正に同じ,欧米の春. 病裡齢加多感慨. 酔中詩就有精神. 病裡よわい加わり感慨多し 酔中の詩よく精神あり. 太平余事君看取. 太平の余事,君看取せよ. 也作吟峨頭世人望2). また吟噸を作りて世人を頭す. -隠倫の身. 民権思想の受容が儒教的教養を基盤として成立したという事実の背景として,儒教思想 と民権思想との思想的接続性ないし連続性の存在が推定されるが,このことについては儒 教の天観念と天賦人権思想との異同,さらには天賦人権(-自然権)概念にかかわる自然 法思想の近世儒教史の中での一定の発展などの問題が,これまでにも明らかにされてきて いる2S).そしてこうした思想史的背景からほ,民権運動紅直接参加しないまでも,少なく とも民権思想-の一定の理解を示す儒学者の輩出が当然予想されるが,そのような人物と して三島中洲があることがすでに明らかになっている24)。また明確紅理解をしていたとま で断定しうる史料ほないものの,少なくとも共感を示しているケ-スも非常に多い.たび たび取り上げてきた『星山旭影』漢詩グループにおいても,主宰者片山沖堂の「題木内宗 五郎決別囲+を中村三焦が「此篇蓋借往事粛当世老兵+ るものなり)と評点している皇6).小室信介『東洋民権百家伝』. (此の篇蓋し往事を借りて当世を魂す. (1883年)を引きあいに出す. までもなく,義民顧彰の形をとって政府批判や民権運動への賛同・共感の意思表明をする ことは当時広くみられたところであって,三蕉の評は当っているといえるoこの姪か高松. の民権派リーダ-佐々木清三郎と親交を結んでいた伊藤柴山26),のちに述べる土佐出身の 民権沢儒学者山本憲と交流のあった久保森谷27)なども,共感者に、数えてよいであろう.む ら.ん『産山旭影』グループには,. 「投標撰束応多誤・衆望所帰是巧狙+. (投票吏を撰ぷはまさ. に誤り多かるベし,衆望の帰する所はこれ巧狙)と,民選潮度に反感を■示すものもあった28)0 讃岐漢詩人口の主要部分を成すこのグル-プが思想的・政治的に雑多な債向の人たちの集 合であったことはいうまでもないが,その中の有力僚向として民権共感の流れは確か紅存 在したのである。 第二の,民権思想育成に努めた漢学塾としては,盾州松本武居用拙の猶興義塾,相州藤 沢小笠原東陽の耕余塾が著名である29).両塾とも意識的に民権思想の育成をはかってお り-,通常の漢学塾から民権派が輩出したというケースではない.後者の事例は全国到ると ころ紅あったと思われるし,民権結社が設立した民権学舎で漢学の教育が行われた事例も 少なくない。それらのいずれとも異なる上記二塾ほ,教育史上きわめて特色のある存在と. いえるoしかし類似事例が他に存在する可能性があり,それちの全体像を明らかにするこ とは,私塾(私学)教育史という面からも,こんごの大きい課題の一つであろう.. -「最後に,民権運動にかかわった儒学者の例としてほ,前にふれた山本憲(雅号-梅崖)が.

(18) 268. 久. 木. 幸. 男. あるo彼ほ土佐藩家老の釆邑学校佐川名教館教授職の家に生まれた儒学者であるが軸),氏 権運動とのかかわりほ,. 1885年の大阪事件の撒文を書いたことが,比較的よく知られてい. るo撒文起草は知友小林桂雄の依療によるもので,彼の法廷陳述でほ次のよう紅説明され ている。. 自分と小林とほ素より親密の交あり。然ども其為す処ほ大径庭ありて,政治土彼は 自由の主義を執りて之を貫かんとし,自分-祖先より儒を以て業とし,既に自分にて 六世も相伝へ,且近頃仝族中儒たるベきもの少なきにより専ら儒学を講じ,常に周公. 孔子の教へ,仁義礼智信の道を研究し,文学を以て世に立たんとするものなり。然れ ども小林等の意見を聞て,彼の朝鮮の国情の悼むベく英国民の憾むベきを感じ,之を して自主の国たらしめんとするは真に義勇の事業にて,古語に所謂己れ起たんとせば 先づ人を起たしめよと云へる如く,今日顧鮮をして自主の国たらしむる-独り彼れの 為めのみにあらず,延て東洋一般に関係することにて,真に小林等ほ感心の人なり, 故に自分も朋友の情義辞すべからざることゝ存じ,承諾せし次第なり$l) また板倉弁護人ほ,. 「正実質直の君子+であり, 「平生仁義の道を行ふて更紅余念なき+ 山本が,大井憲太郎や小林に利用されたものだ,と弁論している32'。以上によると,山本 の事件へのかかわりはかなり偶然的なものだったという印象をうけるが,実はそうでほな いo. 1880年,彼ほ『憤慨憂国論』一席を著しており,植木枝盛がとくに序文を寄せてい. る38'.. 「例言+に・ 「民権の何たるを知らざる+人を「諭す主意+だというとおり,民権思. 想啓蒙書であって,彼の民権運動とのかかわりは大阪事件だけではないのである。天賦人 あまつかみ. 権を「天神の特に人民に賦与+したところ(p.29)と述べるなど平易な叙述に心を配りな がら'「国は君主の国に非ぎるなり,人民の国なり・・・・・・政府は君主の政府に非ざるなり, 人民の政府なり+ (p.30)という人民主権の主輩や,. 「上古始めて国を造り始めて政府を置 きたるほ+人々の「約束+に・由来するという社会契約説(p.33f), 「人々は執も同等の人な り+. (p・35)という平等主菜などを展開している.そして「政府の権を限る+ベきこと(p.. 42ff),人民が志気を養い独立の気象を振作すること,生産を治め智識をみがくことが「民 権を主張+するため紅必要だと力説する(p. 52ff)o とくに注目されるのほ, 「民権あって の国権+という思想が『尚書』. (『書経』)の「民惟井本+. (民ほただ邦の本なり)にみられる. という指摘や(p.5), 『孟子』の「君之視臣如土芥,則臣視君如冠健+. (君の臣を視ること土. 芥の如くなれば,則ち臣の君を視ること冠健の如し)を引いて,「人民は政府の命令に抵抗せん と欲する理の固より当に然るべきを発見すべし+と,抵抗権思想を説いていること(p.10) などであるが,抵抗権思想を放伐思想と関連づけた説明もなされている(p.21)。このよ. うに儒教古典にみえる民主主義的側面の抽出に努めるとともに,百姓-探の伝統にも注意 を喚起する一方(p.21),儒教の仁君思想や王土・王臣観念ほ「漠儒+の誤りだとして切 り捨てている(p.42, p.48).啓蒙書という限界はあるものの,儒教思想と民権思想との接 続性が,相当程度明らかにされているといってよいであろうo. この啓蒙書刊行以外の,彼の民権運動へのかかわりについては,まだ不明の点が多い.. 疲がそもそも民権思想柾目ぎめた時期についても明らか紅なっていないが,本書刊行の 午,彼は小林ととも紅大阪から岡山-赴いて山陽自由党結成の準備的活動に従事している.

(19) 明治儒教と教育. 269. こと,翌81年帰阪して『大阪日報』記者になっていること,. 83年大阪で漢学塾を開いた. ことなどが,これまで確認されているB4).その塾に,のちに大阪事件に連坐する讃岐の久 操財三郎家の子弟が学んでいることが知られるが85),それが民権漢学塾と呼ぶべき存在で あったか否かは明らかでない。大阪事件で禁鍋1年の刑をうけたのち,再び大阪で開塾し ているo. 1893年刊行の『四書講義』ほ,塾での講義に基づくものであろうoその中の「大. 学講義』で伝之十章の「是政言惇而出老,亦惇両人+. (このゆえに富もとりて出づるものは,. 「人君ガ非理ノ号令ヲ出セシ時-,氏-其命二違ヒテ仕返シヲスル. またもとりて入る)杏,. ナ1)$6)+と釈しているoかつて抵抗権思想を『孟子』に読みとったのと,類似の読み方が なされているといえよう。. 1880年代とは状況ほ一変したけれども,儒教古典は古典として. 厳存していたのであるo. しかし,天皇制教育体制が曲りなりにも成立した1890年代以降の. 問題は,また別の角度から眺められなければならない。本稿が主題とする80年代の儒教と 教育との関係についても,論じ足りぬ点を残しているが,序で提起した4つの問題にほ一. 応ふれることができた。残された問題については,更に他日を期したい。 (付記)本稿で利用した『産山旭影』については,山形大学石島庸男氏のご厚志にあずか った。とくに記して感謝の意を表する。 注. (『愛知教育大学研究報告』 1)渡辺和靖「明治思想史の方法と課題一億数的価値と近代認識論+ 26号,人文・社会科学, 1977年3月, p. 133乱)I 2) 儒教主義批判で有名な福沢諭吉が儒教から受けていた影響についてほ,三浦叶「福沢諭吉とそ の漢学観+ (『斯文』58号, 1969年10月, p・ 17ff・)が要領よく素描している. (『国学院雑誌』巻53, 3号, 1952年11月, p. 71). 3) 西岡弘「明治十五年当時の漢文+ 4) 尾崎の詩は『星山旭影』に3首掲載されているが,そのうち2首は『尾崎号室全集』巻12,請 敬(1956年)に未収である.この2首を次紅梅介する・ 善 感 感を暮す 平地風波勢潜天 平地の風波,勢,天紅はびこる 眼中忽ち閲す,幾雲姻 眼中忽閲幾雲姻 好く腕海を収む,回潤の手 好収腕準回潤手 去つてつちかわん,江南,二額の田(8号,4オ) 去好江南二頃田 量水探梅口占 畢水採梅口占 満天の雪意,日斜めならんとす 満天雪意日将斜 江上春光溌薯霞 江上の春光,挽きこと雷のごとし 寧ろ厭う凍風,寒くして骨をこ徹するを 寧厭凍風寒徹骨 多情是れを好み梅花を訪う(9号, 2オ) 多情好是訪梅花 5)例えば阿野郡小野村・羽床村では『屋山旭影』の寄稿者を中心に結成された「詩歌会+メンバ 6). -が15名に及んだ(『羽床村史』人物,竹内銭嶺). 1880年代の漢詩盛行については,色川大書『明治の文化』. (1970年,. p・. 129ff・)が詳しく論じ. ている.. 7) 8). 『高松市史』p. 251. 『香川県教育史』p. 511. この「教育規則+は「純民社規則+第10条「社員適当ノ教課ヲ置キ其家族-無論,雇人卜錐. モ碧二任七勉学ヲ許ス+に基づく.引用に当っては濁点,句読点を付し,合字は普通字に改め た.. 9) 10). 『香川県史』巻5, p. 218. 「能ク共学ヲ用ユ可シ+ (『南海日報』明治16年5月17日).

(20) 270. ll 12 13 14 15 16. 久. 木. 幸. 男. 「人其好ム所二於テ癖ス+ (『南海日報』明治16年8月26日, 9月2日) 「教学ノ改良ヲ論ズ+ (『布多部新報』172号,明治16年9月25日) 「論語講義+ (『元田永字文書』巻3, p・ 226)・なお84年の天皇への進講でも同じ趣旨のことを 述べている(同上,巻2, p.69). 「書経講義+ (『元田永寧文書』巻3, p. 149, p. 156)+ 「明治11年10月12日付,下津休也宛書状+ (『元田永等閑係文書』p. 149). 渡辺和靖「明治期『漢学』の課題+ (『愛知教育大学研究報告』35号,人文・社会科学, 1986 年2月・ p・ 131ff・)は, 「学術+としての儒学の変容を多面的に分析しており有益である.. 17. 『河野磐州伝』上,. 18. 21. 大槻弘『越前自由民権運動の研究』 (1980年)は,砂田に関する代表的研究である. 砂田定一『血痕集』 (1987年). 色川大書『明治の文化』 p. 99ff. 『岡山県民権関係史料集』巻1, p. 55.. 22. 『産山旭影』 10号,. 23. 森一貫「『天賦人権』思想と『天』の概念+ (『阪大法学』97・98号, 1976年3月, p.231.) 丸山真男『日本政治思想史研究』 (1952年). 福島正夫「三島中洲と中江兆民一兆民の新発見資料をめく小って+ (『思想』641号, 1977年11 月, p. 84圧.). 19 20. 24) 25) 26) 27) 28) 29). 30) 31) 32) 33). 『屋山旭影』 23号,. p.. 186.. 2オ.. 7オ.. 伊藤柴山「贈佐々木竹園秀才入英学+ (『屋山旭影』 3号, 4オ) 山本憲『煙霞漫録』 (1893年), 9オ, 12ウ. 石田狂痴「偶麿+ (『星山旭影』24号, 4ウ)・ただしこの詩に対する中村三蕉の評点では「髭 吏頂門金針+とあり,姦吏批判と読みかえている. 千原勝美「用拙武居彪伝考+ (信州大学教育学部『研究論集』 13号, 1962年3月, p. 9弧), 高野修「相州羽鳥耕舎塾と小笠原東陽+ (『地方史研究』141号, 1976年6月, p. 44ff.)が,そ れぞれについての代表的研究といえる・この托か,田崎公司「明治費明期の知識人+ (『歴史評 論』 458号, 1988年6月)が,会津在の民権漢学塾研幾重(渡辺思斎)に論及している. 寺石正路『商学史』 (1934年) p. 1048. 『大阪事件関係資料集』上, p. 43. 岡上,. p. 425.. この序文は「植木枝盛著作年表+. (家永三郎『植木枝盛研究』 1960年,. p.. 776)紅も1)スト. アップされている.. 34) 35) 36). 松尾貞子「小林樟雄小論+ (大阪事件研究会編『大阪事件の研究』 1982年, p. 243f.), 『大阪事 件資料集』上, p. 421. 山本意『煙霞漫録』 9ウ・なお『煙霞漫録』の発行人は久保財三郎である′. 山本意『大学黄義』・ p・ 221なお朱注ではこの箇所を一種の比晩(従って「言+を「君主の言+ とみない)として扱い,特別の説明をしていない..

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参照

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