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体育現象の研究I : 自己活動の体育学的系統性について

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(1)象. 現. 育. 体. 研. の. 究.Ⅰ・. 一自己活動の体育学的系統性について仲. on. Gymnastic. studies. Culture. -physical. 文*. 卓. 安. Phenomena. in Self-activity-. Systematizability. Takufumi. 目. I・. YASUNAEA*. 吹. (``統一個''の働き). Ⅰ.研究全域の問題点と本研究のまとめ. 2.自己活動の第2階層-``対動性"-. Ⅱ.古典体育(身体教育)の矛盾. (1)対動性とほ何か. Ⅲ.自己矛盾の排除と統一 Ⅳ.自己活動一般と体育. 一意識の方向性-. 1.自己活動の意味. (2)対動性の質転化と個体変兵. 2.生活と自己活動. (3)対動性の方向選択 以下第二集. 3.自己活動と体育学 4.自己活動と体育運動. Ⅵ.変異と形質(1)一変異の過程-. 5.体育運動の矛盾を解く物差し. Ⅶ.変異と形質(2)-``自己活動の場''-. 6.自己活動の制御系. Ⅷ.変異と形質(3). 7.体育を知る物差し. -形質の連続性と不連続性一 体育哲学の問題として扱う. 8.はんとうの体育教育 Ⅴ.. 自己活動の系統と仕組み. 1.自己活動の第1階層-"自動性''-. Ⅸ.変異と形質(4). (1)自動性とほ何か. -発生の事実と発生の論理Ⅹ.方向選択と体育. (2) 1個の細胞の自動性. ⅩL. (3)自動性の仕組み. xB.自己活動の第3階層-"即動性''-. (4)自動性の転化. Ⅷ.結びと体育学の範噂. 体制と体育. Ⅰ.研究全域の問題点と,本研究のまとめ 体育の世界について何かを言わんとするとき_,先ずはじめに明らかにしておかなければ る観念の体育の世界(頭 (1)体育の知識とか考えが,歴史や個人に現れ ならないことほ, *体育教室(Dept.. of. Physical. Education).

(2) 24. 安. 仲. 単. 文. で考えた体育で,体育観の研究によって対象を明らかにする領域)と,. (2)生活とか実践. を遂行する実質(実態)が現している客観的な体育の世界. (考えに関係なく実態があらわ す体育で,体育現象の研究によって対象を明らかにする領域)とを区別し,これを混同し ないことである。. 前者体育観は,史的体育観の類型研究によって,観念の体育を客観的に取り扱う道があ り1',後者は前者の仮定の体育からみた実態2'を手がかりとして,体育現象を定性的に操 作する道がある8'o 本研究は,後者の問題の解析と総合で,その段取りは生活や生命現象 の中の自己活酢'を対象にその一般的構造と機能をとらえることによって,体育学的系統 性を見出すことである。 /. 形式的にほ,体育の認識の客観性ほ,前記二領域の総合となるo (それが不備なもの, 未知なものを含んでいてもー応許容することで始まる).それは(1)と(2)の相互作用 の積み重ね(主観的な基準を漸次客観的基準に止揚する弁証法的方法をとることをいう) の中でセレクトされ,総合に至る。補足すれば,操作の目的である主観性の排除は,方法 の手旗の厳密性と慎重な観察態度によって可能なのであって,そこから構造的機能を抽出 し占',系統性の有無を確かめるのである.観察の照準ほ,自己活動を支えている生体現象 (生命現象)の中の病理現象に対するく体育現象〉である6)o この研究のうち,体育の根本問題と体育学の基盤について要約すると, (1)自己活動ほ,個体の自動性ア)から生ずる.自動性の機能ほ,細胞の制御系によっ て的確(必然的)にコントロールされる.. (2)個体の自動性ほ,それぞれの種の定性的実質で,進化の歴史的因子を内蔵し継来 している(遺伝子の情報による必敵性と偶然性による)。 (8)人間の進化の方向性の中には,人間特有の体育がある.それほ人類の体育の連続 性であり,そこには生存を支配してきた自動性の原理がある。自動性の原理ほ体育の根本 原理(客観的原理)で体育学の基盤となる。 (4)現象的にほ個体の自己活動にその系統性が現れる.また個々の体育現象ほ生体現 象の中で生存に(+)となる現象をいうo一般に病理現象(自動性の変調をおこす状態). ・. (-)の現象との関係でとらえる. (5)体育という概念ほ,自動性の活動に伴う人類並びにその個体の発展の系統性を意 味する総括概念である(発展する実態と,それを助けているもの,手段や方法を含む)。 〔附記〕本稿は投稿紙数の都合で,前半のみ掲載することになった。従って結び文も省略してあり, 形をなさなかったことをおわびしておく。. Ⅱ.古典体育(身体の教育)の矛盾 今日の体育の世界は, 8POrtSでありrecreationだと思える様相であるo学校体育では, physical. trainingとかphysical. education,即ち,身体練習も身体の教育も体育といっ. ているo学校でする遊戯やsportsを体育という人は多いが,草野琴や子供達が駈けまわ り,木に登るのは遊びで体育ではないという人も多い8)。.

(3) 25. 体育現象の研究Ⅰ. sportsの種目や各種の運動(これを身体活動といってきた)に「教育」がつかなければ 体育ではないということが〔タテマエ〕であれば,さまざまな教育やその理念・慣習など に体育は左右され支配されることを東記したことになるo体育家がこのことをはんとう.に 認めるかどうかその〔ホンネ〕は別として,教育を離れて体育ほないという大方の見解と, 身体の教育というものがもつ性格とほ,本質的に一致しているのである。そしてその馴れ 合いが古典体育の〔現実〕である。 身体の教育や身体活動による教育のたてまえと,本音とその現実ほ,このような関係で っながっている。ここに主体性の失われた身体教育-体育の世界ができあがっているoま たこの馴れあい方式を維持しようとする今日のいわゆる体育学は,規範や目的原理の強化 と,それに伴う体育運動やsportsを諸科学を応用して研究することだといっているo. こ. れがいわゆる体育の科学である¢)0 このような目的原理に規制された体育を研究する体育の科学ほ,体育現象を研究する体 育の科学ではない。それほ他の科学の延長で,もともといろいろな科学がその科学の周辺 領域を拡大している知識や研究なのである。科学の対象ないし方法を現象の性質に応じて 選び,その領域の限界点(制御の可能性)での研究が他の科学の領域と交叉する部分であ ることを認識していないと,体育学ほそこで消滅することにもなりかねない。この問題点 紘,体育現象を全体的にどうとらえるか,それに伴い体育現象の性質をどうみているかが 明確に・されていなければどうにもならないであろう。 (1)人間が考えてきた体育即ち,観念となった体育の世界を対 体育の科学-体育学は, 象に研究するか,. (2)客観的な体育の世界を対象に研究するかの二領域にわかれ,. 特に体育の科学というときは,. (2)杏. (1)は体育史学またほ体育観学といい,これら一切の仮定. から離れ,その仮定をも研究対象にするものが体育哲学である. 体育学がその方法論の問題を解決するためには,今日の体育の科学が目的原理に規制さ 古典体育の技術学から抜け出すこ れた中での研究になることをはっきり否定しない限り, との出来ない宿命を背負ことになる.そこにはどう考えても体育学はあり得ないのであるo ィギ1)スのLocke,. (Jolm16a2-1704)ドイツのHerbart,. (Johann. Friedrich. 1776-. 1841)が10'教育を,知的教育・道徳教育・身体教育または知育・徳育・体育の三領域に分 けたところの体育ほ,教育の対象となる身体の教育で,体育学的対象概念としての体育と 同じものかどうかは疑わしい。従ってこの用語を使いわけることは非常に重要であるから,. 前者塞雛といい,後部蜘とすることに した。. 身体教育は身体活動という言葉と共に長く使われ,軍事的基礎訓練・体力・戦技・狭 けこ意志の修練など人々にとって多くの災いをもたらした歴史的事実早,身体活動が精神 活動の対語であり,身体だけの活動も精神だけの活動もそれ自体で実在するものでないこ と,あるいは前述の問題に横たわる矛盾の原因,何れも観念的な体育と客観的な体育の混 同からきているo. この混同という自己矛盾から抜け出す道を求めなかったところに2000. 年の間,古典体育が唯一の体育とされてきたのである11'.それは用語と共に実践の中に板.

(4) 26. 安. 仲. 卓. 文. 強く残されている。 既に十分知られている古代ギリシャでほ,ポリス防衛のための訓練(教育)に体育を用 いたoなかでもス′<ルタが強力な軍事国家で,ス′くルタ教育ほ徹底した防衛老養成を体育 によってその日的を果たすことであったoいわばス′<ルタの教育全体が体育であったoア テナイは民主的な文化国家でありながら,隣国周辺を無視できなかったため,防衛者育成 の体制を捨てられなかった。従ってプラトンの哲学もその体育論もポリスの防衛老育成の 体育の域を出なかったのである12)o このような状況にもかかわらず,歴史家・教育家・体育家は一様に古代ギ.)シャに体育 ははじまるといってきた。体育の始源をこのようなところに求め,その概念を国家権力の 教育に限定した古典体育論の根底には,二つの自明な誤りがあるo一つは古代ギ・)シャの 体育のようなものほ既にそれ以前に存在したということ18).第二に体育は,教育の目的に よって規定されるとしたことに対し,それ以前に自然の必然に規定されるものでほないか。 教育がなくとも,人間は生き続けるであろうし,人間の発生もそうしたものであるから, そこにも体育の成立する基盤があったはずである。そしてそこでほじめて教育も可能とな ったのでほないのかo体育教育とて自然の必然性に規定されるものであり,このことの方 がより根本的根源的といわなければならない。 この二つのことからだけでも,古典体育は唯一の体育の素材でも体育の基盤あるいは理 想となるものでもない。原始時代にほ自然の必然に応じた自然の体育があったし,平和な 世界には,共存の原理に応じた生活の体育が求められると考えることの方が妥当であり, 普遍性がある。 体育の始源は,人間の存在と共にあり,古典体育以前にほ,原始体育*があった。そし てこれからの体育が現代体育への移行であり,それほ体育教育の実践に待たねばならない。 日本が戦争に敗れたからというのでほなく,日本人の戦争放棄・平和宣言は,体育の問 題と無関係でほない。この自覚は政治の方針や教育の主張と関係なく,戦中派の日本人の 確かな体験が獲得した道ではなかったのか。今日学校という学校で,東京オリンピックを 契機として体力づくりという名目のもとに,学校(小・中・高・大学)をあげて体力測定 (スポーγテストも同じ)に青少年をかりたて一斉に競争させる.大勢を一律一斉にさば く訓練と共に,競争を手段に闘争心,根性をかきたてるような風潮も再燃しはじめ徐々に 日常生活に及んでいる。 防衛者の体育が実践方法の形式を残し伝えるこの種の行事は,明らかに体力増強のイメ ージとその体制のデモンストレ-ショソであるoわずかな予算がついているこの年間行事 紘,名目如何にかかわらず,そこに権力の介入がからんでいるこの仕組みがたった一度の 東京オリンピックという国家的行事で,今日の体育教育に現れたことほ,考えさせられる 問題である。戦争反省の自覚をも疑うものである。 古典体育についてほ,その実践の形式だけでほなく,常に根本的な問題について再認識 が必要でほなかろうか.. (体育観の研究でNationalismの体育をまとめたが,本研究でほ. *ニューギニヤやアフリカ大陸の奥地にほ文明と隔離された部落があり原始的生活がみられるo.

(5) 体育現象の研究Ⅰ. 27. 変異と形質の最終段階(体制と方向選択)でも取上げることにしている)o 人間が国家というような組織をつくり,大きな集団を維持しなければならなかった時に, その食糧を確保したり,それに伴う防衛や侵略ほ,為政者並びに民族の死活にかかわる問 題であったから,計画的に防衛者の養成を行なうことが多かった。体育はそこに組み込普 れ利用され,今日に至ったものとみて差しつかえないが,これは国家の防衛や戦争を必然 の前提とみる人々がいうところの,特殊な教育である。. 国家組織というような,人間の集団が形成される以前の小集団や個人間の闘争・動物と の闘い,自然現象との闘いを含めて,それらに打勝った者が生存を維持した(生存闘争に ょる強者生存-適者生存)というイメージは,冷戦という今日再び警戒心を高め,恐怖心 や不安をつのらせ,中には仮想敵国まで現れる始末である。 生物の世界,その歴史と時間の中に,生存の大きな流れをみるとき,世界ほ共存し直按 生存にかかわる問題のためにのみ,時折り闘わねばならなかったのであって,そこに適者 生存があるo自然は統一の原理によって成立ち,その排雅物が自然淘汰の現象である(必 然).イメージできめる前者対立の原理は,原理というほどのものでほなく,統一への段 階へ向かう過程の特殊な方法一手段とみなければならないo 人間に比べて動物は,それほど好戦家ではないo空腹や身の危険を感じて,はじめて闘 ぅのであって大方は必要最小限の闘いはするが・人間のような競争の生活や,限りない欲 望やにくしみゐ闘いはどこにも見られない.権力にからむ人間の欲望と敵対意識とが・・闘 ぅ生物のすさまじい世界だけをみて,生存闘争という対立を原理とする思想を生んだのだ と思う。. 闘ったという事実と,闘いを肯定することは別の問題であるo闘ったという事実(経験) から,闘いの否定が生まれなければ真の平和とか文化の発展はあり得ない。生物ほなぜ時 々闘わなければならなかったかoそしてどんな闘いが生存を維持しT=のか?闘はねばな らない原田となる仕組みの改善によって,闘いは解消できる種類のものではないのか14'o 闘いを否定し,平和に徹するということと,その仕組をつくるという運動が解決の道で ぁる。体育教育もこの基盤を外すことは許されないo闘争競争の原理ほ,強者の論理であ る。独善的な人為淘汰であり,弱者の切り捨てにはじまる生態系破壊の原理であると思うo 同時にこれ以上の人間疎外が他にあるだろうかo 以上の問題を要約すると,古典体育の基盤にほ,闘う人間,防衛者の育成という使命が ぁり,それは競争原理に支えられたものであるo闘わなければならない原田となる構造を 除くことが体育の問題としても重要な意味をもっているのであるo競争原理による現在の 実践体育の方法(特に競技主義)も,形式的側面からみると古典体育の軌道に乗っているo ここから競争-闘争一戦争という一連のイメージを取り除くことはむずかしいo 現代人が無意識のうちに,闘う人間の亡霊にとりつかれ,そのイメージに動かされるこ とは,何をおいても早急に取り除かなければならない教育の基本問題であると思うQ殊に. 青少年にとってこのことは重要かつ効果的である。体育学ほ,体育の問題の中に生存と矛 盾する闘いの因子となるものを基盤に置くことを否定し,排除しなければならない1さ)o.

(6) 28. 安. 仲. 卓. 文. 註. 1)体育観の研究Ⅰ -Ⅸ昭28-37日本体青学会(読)発表安仲。 2)身体活動physical activityは個体の身体の活動,個体を精神と身体とした身体から求められ たものである。個体のレベルを指すものほ個体自身の現実でなくてはならない。自己活動とか 自己運動self-activity or self-motionは個体すなわち自己自身を指す活動であるo 3) (1)が論理的系統logical systemであるのに対し,科学的系統scientific systemを求める こと。. 4)自己活動ほ個体にみられる特殊な系の活動o生命から出ている活動. self-?ctivityほ哲学の立場で次のような,論理的発展(史的過程)をみることが出来るo self-motionといわれるもので運動が外部のものによってひき起こされるものではなく,運動 しているもの自体にその原田をもつこと,自己運動というカテゴリーほ,世界のはじまりを, このものの外にもとめるか,現実の世界そのものから出発するかという問題から発して,世界 の運動,すなわちその変化発展を説明することに関係して生じた.古代から唯物論者ほ現実の 物質世界が根源であり,その運動の源泉を自己自身のうちにもつとした。たとえばェソペドク レスほ世界の物質的元素をもとにしてそのく質〉と〈量〉に,またデモクリストほ原子を世界 の基礎とし,このく原子〉とく空虚〉とに,運動の源泉をみた。ところが,世界の成立とその 運動を,この現実世界の外にもとめると,古くはプラトンの観念論にみられるように,世界を 超越的くイデア〉をもとにし,これに対比して現実世界の運動を説明することになる。近代に なってからほ,このカテゴリーは,スピノザの実体-自然が他のなにものにもよらずく自己原 因〉であるとされたことにもみられるが,やがて--ゲルが弁証法を自覚的に解いてく矛盾の 展開〉をもって自己運動の成立を明らかにした.かれほこの点に大きな功績をあげたが,それ ほ観念論的であり,現実世界を精神の自己頗現としたのであった。マルクス・エンゲルスの弁 証法的唯物論ほ,弁証法を唯物論の立場からとらえて,現実の物質世界そのもののうちにある く矛盾〉〈対立物の統一と斗争〉が自己運動をなりたたせるとし,これをもって自然および社会 の運動,変化,発展を明らかにする道をひらいた。 哲学辞典p. 171古在由重外青木書店。 5)自己活動を可能にしている構造を機能の上から見出すことをいう。 464A, 6) Platon,ゴルギアス450A, 464BC-403自己活動と体育,体育哲学mode1 4参照. 7)個体すなわち生きものほ,その発生から,それ自体で動く性質を備えている。これを自動性と いう。生きものの特性を最も素朴具体的に取りあげ言いあらわしたものであるが,自動性は, 生きものの構造と,それを機能さすもの内至エネルギーをさし,そこには制御系の存在と機能 を同時に備えていることを示す名称である。 40, 41年の調査,大学生約1500人3回小学校教師450人(5回の延人員) 8)昭和39, 60ヲち80% に達したo 645 「体育についての科学的研究を否定しないとすれば,今のところ体育学はさ 9)体育大辞典p・ まざまな科学の方法をもって研究することであって,これらの研究が組織化体系化せられるに つれて体育学そのものは,自ら顕わにするであろう」.といい,また方法論として「生物学的研 究・ J[♪理学的研究・社会学的研究・歴史的研究をあ杭 教育学に対する教育のような関係にな る」。といっている。また日本体育学会の論文発表にみてもこのことは大同小異である。 101 Herbartの根本思想ほIJOCkeの経験主義に頗る近いものであり, 10)篠原助市教育断想p1 Lockeと共に彼もまた教育に絶大の力を附与した. ll) 「人間存在と共に古い体育を,我々の資料のある限り遡ることも意味のあることであるが,戟. 12). 13). 々は現今の体育を理解し,その意義を考察`しようとする立場に立つ限りギ.)シャ体育からはじ めてよいと思う」.重田定正,体育学p. 4世界書院o 「勿論アテナイの教育もスパルタのそれも「国家と個人」の関係において,すなわちポリスは すべてであり,個人は単なる単位であるという点でほ同一であった」。重田水野共著同上体育 の歴史的考察アテナイの体育p. 160 Hegel: Vorlesur)gen aber die Philosophie 392。 der Geschichte,鈴木訳p..

(7) 29. 体育現象の研究Ⅰ エジプトー競走・レスリング・水泳・ダンス・軽業・球遊び. る競技,中国一医療体操・その他,インド-gymnoSOphist, ヵ,ニューギニヤの奥地の未開部落の生活踊り等にみられるo 14)方向選択と体育,場と人為選択の項参照。 for Peace,周郷博訳p・ ll,岩波o 15) H. Read, Education. ペルシャ-乗馬・弓矢・槍によ 騎馬民族未開人の踊り。アプリ. BI.自己矛盾の排除と統一 体育の問題ほ,体の問題である。体のどんな問題かということを慣を追って整理してち ると,それは生きた体,その存在の問題という究極の問題に到達するQそれはとりもなお さず人間の問題ということでもある○何ものにもまして自己が生きるということの重大さ と,関心事が根底にあるがゆえに我利ま直接生存にかかわる問題に対処する行動と,その 技術を身につけようとするのであるoこれを直ちにスポーツや古典体育をすることに直結 してはいけない。ここでいっていることは,それとほ別の問題(一般論)で,これを混同 してほしくないのである。. 生存の歴史の類型にほ,このことからみて二つの異なった立場があるo人類は,自然の 仕組みの中で発生し,生きてきた一人間が生存し得たのは自然の仕組みによるものであ る-ということと,生きるために闘わねばならなかった一間って生き残ったのだという二つの考えである。. 闘いや教育などを前提とし目的的に扱われる体育. (藩)...(.杏. -古典的体育の考え方 (身体教育による体育). 人間の考えできまる(主観的). 体を育てる一育成・飼育・教育・訓練・陶冶 (pllySicaleducation)人間が左右する. 体育の世界. 育つ体一自然的存在・自動的・必然 (self-activity)自然の仕組みが左右する 自然生活を維持してきた原始的な体育. -原始的体育の考え方 (自動性による体育). 自然の仕組みがきめる(客観的) 育つ体を育む一体青学による体育教育 (culture of self-activity)自己活動が左右する *Ⅱ. 生存の基盤を支え進化の方向選択を助ける体育. -現代体育の方向 (体育学による体育). 系統的な自己活動がきめる(主体的) (科学的) 〔付記〕 Ⅰ, ⅡからⅢを求めたことに閲し' 体育すなわち体を育むものは,自然か人間かと問われるならば,人間もまた自然から生じ, 自然の一部であるが卸こ,それほ自然全体ということになる.自然全体つ人間ということの意 味ほ,科学技術や権力の驚異とか崇拝など,その昔定・否定にかかわらず,このことに対する 人間の確かでない意識(観念的)一人問の思いあがりやその主観性-を捨ててかかることが l統一する活動に当る) 主体的人間の客観性であると考えⅢに到達したo (体育哲学model.

(8) 30. 仲. 安. 卓. 文. この間魔の是非は,二者択一の不可能な過去の事実で,ある時は確かに闘ったのである。 しかし生きるということに対し(存在の問題)何れがより根源的な問題かということから いえば,それは前者によって成り立つのであって,生きるために闘う意志とか行動は,堤 実に生きる人間の主観性によって左右され,あとから現れるもの,あとできめたものに過 ぎない(実践の問題)0 動物の防衛本能?. (様相)をみても,むやみに闘争するものではない。また闘うもの. 強大なやのが必ずしも生き残るとほ限らないo闘って生き残るということは,生存のすべ てではない。. 我々ほここでどう生きるかという二者択一をしなければ,系統的な知識の統一を可能に する道を開くことほできないであろう。これほ,体育論の基本問題として,見のがしてお くわ捌こはいかない理由がある。前者は客観的な見方であり,後者ほ主観的な見方で,立 場ほ全く異なったものである。異なるというだけではなく体育論では,全く相いれない内 容となるのである.戦いは生存の否定につながり,生存ほ戦いを排除する.古典体育で取 り扱ったすべては,このことの理解に結びついているつもりである。 体育を体育学の対象としてみるか,体育を身体教育(論・説)の対象とみるかの違いは,. く物質(生物)的・自然的-客観的〉 〔体育哲学model l二体育現象と個体〕より 催)現代人1万年,ホモ・サビュソス3万年,原人50万年,猿人100万年。 進化は漸進的連続的(時間)な形貿(質的)変化と不連続性の変化によるo古 典体育は古代ギリシャより現代に至る3000年とする。 ・.

(9) 体育現象の研究. 31. Ⅰ. 対象を客観的にみるか,主観的にみるかの違いだといえよう。 体育学の研究対象は,体育を客観的存在とみるから,その実態とか現象を対象として, 研究することをいうのである.一方体育を主観的観念的存在とする立場をとると,古典体 育にみられるように,体育を目的々にきめ,その規範や理想などを原理とするものになら ぎるを得ない.そこで身体教育説があらわれるのであるo 体育学の研究は,そのはじめに確かな体育の現象を見出すことが出来なければ,体育は 架空のものとなり,積み重ねも進展もあり得ない。従って,体育現象の研究ほ,体育学に とってもその基盤をつくることに対しても中心的な課題であり,そこから体育学の系統的 (図示model参照) な知識が整理され,ひろがりと積み重ねのきく体系が現れるのである。 (古典体育論の人間). (観念論の人間). (唯物論の人間). 観念論 culture.. physical. Shh芸Ss至cc芝i etrdauiCnaitnigT. 精神現象 (精神活動). ヽ ヽ ヽ. ヽヽ r--------1. 人間の学. physical exercise. play and ga.me. dance and sports. recreation. etc.. 〉く. 身体活動 X. X. 、過重嘩嘩」′. (はたらき) の活動-・人間 人間(重きも窟). (. ・. ------------一丁----ノ. 現実の学 (生存の科学) 主体的実践的. ーーー・ニJ!---1「. (self-a.ctivi ties) -. _. 「 l. ;く生存の原理〉 : (生命の活動中原理). 実験的分析的. __J___i___J. 生命の科学. _. _. _. _...I.. ■一.. -. -. -. ・--. -. -. ● ■■. 「. r--I------I. 論理的総合的. く心的作用の原理〉 心理学. l. ⑳の方向の現象--`体育現象''. 一ーー-ヽ. 0の方向の現象一癖理現象I. --生活現象<. l. 生理学 く生物の生活の原理〉 〔体育哲学mode1 4,体育観の破究カテゴリー〕より. Ⅳ.自己活動一般と体育 1.. 自己活動の意味. 自己活動ほ, self-activityの訳語で,自己運動や自発活動ということと厳密な区別をし ても無駄で,その性質や内容(構造や系統性)が意味をもっている。その見方*もどこを *観念的にみるか物質的にみるか,現実的・場所的にみるかを指す. また体だけで現れる 〔付記〕一見方と予測について-.活動は心的なものだけでは現れないo 個体と ものでもない.個体のレベルの問題であるo機能ほ個体を統一しコントロールしているo 自己活動は相互に量質の転化をおこないながら,次々に発展(相関的)し,統一の段階に向かうo そうした生きものの活動,活動のもとのもの,同時にそのメッセンジャーに当たるものが自己活 動である。.

(10) 32. 安. 仲. 卓. 文. どこから,どうみるかで主客転倒の危険性がある。 自己活動というのほ,それ自体の自発的な活動のことで,他から動かされたり,強制さ れた運動などの自発的でも自動的でもない活動との関係から想定されている1)。注1に列 記したが,自己活動ほ身体と精神の何れの活動にも取り壊われ,前者のものが多いo でもFr8belほ最もよく内容にふれていて,特に遊戯に典型的に現れ,将来の生活はこ こから発展するといっている。だが自己活動自体も発展するもの,そうした系統性を備え た活動(階層と方向性をもつ)である点にほ気づいていなかったようである。 教育学の基盤に自己活動を置く懐向ほ,近代の一般的傾向*だといわれ,教育の方法的 な原理の意味をもっている。自然科学の法則に当たるこの原理ほ,教育学の規範であるか ら,今日それは自明の概念とされているようである。それはそれとして問題点は,例えば 生物とは何かを規定するために「生物ほ生物から生ずる」を基盤としながら,より根源的 な無生物から生物への実証に生物学は取り組んでいる.生物をどうみるかほ生物学の基盤 の問題を定めることであり,その学の発展の度合いを示すものである。同様に体育学が自 己活動をどうみるかによって根本的な問題の違いにまで及ぶのであって,決して自明の概 念としてそっとしておくものでも,おけるものでもない。 自己活動が方向性をもち,連続性や系統性のあることを知れば,そこに構造をもった自 己活動の大きな流れがあり,必然性が現れてくるはずである。この研究ははじめ,生きも のの活動の中に,種によって(また個性によって)それぞれがそれに応じた一定の方向に 発展する傾向のあることに気づいた時,その活動の傾向と様相からみた性質と機能の予測 を表すにふさわしい"自己活動"の用語をあてたのであって,学術用語としての史的な内 容は,あとで知った。 自己活動の研究の意味ほ,自己活動が運動とか活動あるいほ生活の中にあって,元来人 間や生物の存在を可能にする活動として,それ自体も発展するsystemであることを実証 することだと思う。 2.生活と自己活動. 人間の活動ほ,横械の運動と同様な面と,そうでない性質がある。きまった運動の繰り 返しだけでなく,運動自体の発展がみられる。運動自体の発展ほ,本体の発展と相関があ る*1.これが体育の存在であり,体育を可能にするカラク1)である. 自己活動は,身体と精神に分けて観ることのできない活動(現象)である。それほ生活 の中にあって,生活に応じる個体が,それ自体の統一を維持する活動*2をしている2).そ れは生きものの運動であり,人間の活動ということになるが,人間の活動にほ自己活動に 反する運動も含まれているから同じでほない。自己活動ほ生きものの特殊な系による活動 であり,他をもって置きかえられない独立した系統の働きをいうoそれは人間の生存と発 展の原動力となっている。このことは体育の存在と原理を示すもので,体育学の系統性を も教えてくれるものである。. *篠原助市「教育断想」. p.. 268o. なか.

(11) 88. 体育現象の研究Ⅰ. 3.自己活動と体育学 人間の生活の中から,自己活動を引き出す意図ほ,生物一般にみられる生体の発展の原 理とか法則が予測されることと同様,あるいはそれにかわり得るもの,それに近い条件と 状態で人間即ち,体の発展法則をつかむことである。生物学と体育学の違いほ,その方法 の違いに過ぎないともいえる。 研究に当たり,実験観察は,生物を対象にした場合と人間を対象にした場合,科学的操 作の方法に問題が生ずる。人間にほ立ち入り禁止の絶対領域があり,自然科学的方法の最 も威力をもった定量的操作(直接解析)ほ,直接介入が閉ざされている。この絶対領域を コピーするのが自己活動である.コピーされた自己活動ほ生物一般との関係(観察・実験) *1. model自己活動の発展 D. 報源. A N・-. \ゝノ1}ノ ∝ゆ∝. ヽ. ヽ. 個体(本体). 媒報 系網 ヽ. -. R. A. ■. 加1場. *芝. ヽ. ヽ. -I_-J一三,自己活動(方向性) ). 運動(横能). ′. ′. ′ ′ ■■. --_. _-----. ヽ. 、ー-I_選_堅_-/′ 〔体育哲学mode1 3,生活と自己活動〕より 催). Low of opposites,対立物の統一と斗争の法則,唯物論的弁証法 of unity and conAict の根本法則,すべての実在に普遍的な法則であり,また人間の認識においてとらえ,そこに おこなわれている法則であるo対立物といわれるものほ,互に分ちえない統一にありながら, 互に排除しあい,互に浸透しあっている関係にあるものを意味し,矛盾しあっていることで ある。この場合対立物の統一ほ相対的であって,それらの喜藤(斗争)により統一を保って いる矛盾が不断に解決され新しい統一を生み,しかも存在する矛盾が解決されることで更に いっそう新たな統一へと不断に発展していく。すなわち絶ての運動(活動)は変化というこ ともふくめて,この統一における対立物の斗争を源泉としているのであり,従って自己活動 293o として理解されるのである。哲学辞典古在編青木書店1971版p..

(12) 34. 安. 仲. 卓. 文. で翻訳することができるo. コピーというと誤解が生じるかもしれないので,いいかえると,コピーグラフは試薬と か,レソトゲソに置きかえてもよいし,その機能からいえば数学の数に似ている。数は1 だけでほない。系統性・連続性それに不連続も数学は取り扱うし,空間というか次元の問 題に拡がっている。自己活動もそのような性質を備えている。 体育学でほ,科学のモデルがなくてほ自己活動を主観的にしか扱えない。数学ほそれ自 体で成立するから,その点が大いに違うといえようo 生命とか人間をみるのに,生物の生活現象(生物学・生理学)からみるか,精神現象 (哲学・文学・史学)からみるか,心的作用(心理学)からみるか,自己活動(体育草)か らみるかで,その方法や操作ほ異なる。自己活動でほ,自己活動の客観性をそのまま自己 自身の記憶や観念に写しとる。それをもとにして対象の思考に導く。そこで思考の生産・ 再生産が客観的な知識として定着する(記憶・観念)。即ち自己活動による操作を通し, 体育の客観的認識ができるということは,器械による操作が主観を排除できる原理と同様, 自己活動は,自然がつくり出した生きものの器械く物差し〉であるとみているのである。 この物差しの基準は種によって一定であるが,物差し自体が発展するから(同じスケール で精巧・精密になること),この物差しは不安定にみえる。このくみえる〉ほ主観の介入 であって,自己活動(自動性とその発展の総体)を直接主観でみるのではなく,科学の体 系的な知識により翻訳しなければ,いわゆる勘とか直観になっても,客観的な把撞になる とほ限らない。あくまで自己活動を科学の光にあててみることである。科学の知識が完全 であれば,その波長は合致する。合わないものは主観の介在か,あるいは科学の知識その ものに問題があるのかを再検討することになる。このような観察から自己活動自体は,確 実・絶対な"観察複写(製)器"に相当することを知ることができる。この段階で自己活動 に注意が集中し落書きや,それを破壊しないよう(主観を常に排除しながら)育てなけれ ば,器戒自体の精密さがうしなわれ用をなさなくなることを知るのである0 自己活動ほ体育の尺度であると同時に,現実や生活のすべてに対する尺度に育っていく のであるo. ここに体育のむづかしさと,理論と実践の統一が常に同居しながら発展する不 思議な面白い世界をみることができる(観念的なものを常に排除する仕拒みを指す). 自己活動自体の性能を高めることも,自己活動によって行なわれるから,操作自体の発 展も高次な性能の複製器に再生され,相互に発展が高まる。 今日まで自己活動の研究や知識が見のがされていたので,取っつきにくいし,わかりに くいのほ止むを得ないが,コンピューターを作り操作する人間に,このことがわからない ほずはないo自己活動は,人間の中に備えられたコンピューターという機械と考えればよ い。. 科学的な操作は,客観的な操作に器械を利用するが,最終的にほどうしても人間が関与 (操作)しなければならない。それをはじまりから人間が関与し操作してもおかしくほな い。人間はそれ程倍額のおけないものかどうか.何れにせよその主観性の排除が問題とな ることをどうするかということであろう..

(13) 35. 体育現象の研究Ⅰ. 器棟としての自己活動(自動性の発展)を維持し(自動性)発展させることが,体育と なり,自己活動を科学の知識の光にあてて観察し,とらえることが体育学の独自の方法で, この拡力与りの中の個別的な研究が,体育の科学の領域を形成するoまたこの知識を実践に 適用するものが体育教育である。 4.自己活動と体育運動 体育運動ほ, Physical. activities,の訳とされているが,この活動の突撃を どこにどうして求めるのであろうか.古典体育では「体育の目的を実現するために選ばれ education. た運動で,、教材となる運動は全部体育運動になる」というのである(体育辞典)o反論す るまでもないことであるが,これでは体育の目的や選ばれた運動に(誰が選ぶのかほ不明), 人間の方が合わせなければならないことを指示(命ず)しているようなものである。 操り人形のひもに当たるものが体育運動とすれば,ひもが切れたり,そこにないとき即 ち,子供自身でする活動(生活)からは体育なるものは現れてこないということなのであ. るo一方操る側の教師ほ,医師が薬の処方をするように,どんな運動を選べ嘩'一人一人 のための体育運動になるか,その処方に当たって体育になったかどうか確かな根拠を知っ ているとは思えない6それほ不可能に近いo. そこで馴れ合し.、の遊び・スポ-ツ・レク1)エーションとなるか・ひもが権力の道具にな るかである.体育運動という架空の言葉で操る古典的な体育教育ほ,中世的・非論理的な 体育運動という用語と共に今も生きつづけている。 例えば,労働ほ生産にたずさわる人間が行なう活動で,体育運動でほない。体育とほ相 反する活動だとし、うのが大方の見解である.しかし,労働によってその人間が発達し,健 康で活動も技術も,人並み以上すぐれるならば(+),体育として役立っているのである。 そんな人は多いし,これらの人々ほ体育運動とはあまり練のない人達であるoこの事実を. 肯定したくない何かがあって,体育の目的を達しても,労働ほ体育運動にほならないと強 弁する体育運動ほ,矛盾概念であり学術用語にふさわしくないo sportsで体をこわす人もあ_り,死を招く 8POrtBは体育運動であり体育だといっても, ことも少なくないoそれでもsp9rtSは体育運動であるというの紘,体育の本質理解を欠 く保守的な形式にこだわる教条主義者だと思う. 体育は事実(運動)の矛盾から生じるのであるから,. sportBはあくまでsportsである. ことが大切で,. sportsの種目が学校では事実上の体育運動となってきた今日体育運動とい う言葉はその存在理由を既に失っている。 このように事実の矛盾をアイマイにしてきた体育運動は,体育を理解させるために生ま. れ,体育の認識の道をふさ(o働きをしているoこの矛盾を除くことは簡単な問題でほない. 結局は体育の本質理解への道を別につけることであろう。そのはじまりは運動や活動(体 育運動でもよい)が自己活動(自発的な活動)であるかどうかを自分で知ることが重要な きめ手になり,判断の目安になる。体育という現象をとらえる最初の手段(第一の段階) は自己活動に気を配ることからはじまる。この素朴な方法は積み重ねによって,自己と体 育の弁証法的な発展となるのである..

(14) 86. 安. 仲. 阜. 文. 古.体育運動の矛盾を解く物差し 体育の本質は運動の矛盾の中から生じるものであるから,それを受取れるような教育を しなければならない。そのために自己が運動の中にほいらなければならない。自己と運動 の関係は,愉快だとか気持がよいとか,つらいとか,これはできないというようなことだ けでほない。このことは誰にもすぐわかっても,体育になっているかどうかはすぐにはわ からない。体育教育のむづかしさほここにあるのであって,運動や活動は触媒のような働 きをしている。触媒は二つのものをつなぎ,あることに対する関係をつける働きをするも のでなくてはならない。. 体育の触媒となる運動や活動は,個体がそれをつつみ,うけつけるものでなくてはなら ないo. ここに自己の自発性8)による活動・自己活動というものが仮定されたのであるo. の仕組みを人間の側から使うと,それが自己活動であるかどうかによって,体育になるか どうかのおよその目安がつくことになる.運動のエネルギーほ,現実では単純な予測は禁 物である。矛盾の拡がりほ死を意味する。この矛盾を一定のところにとどめ,かつ運動の 矛盾を解く物差しの役目をしてくれるのが自己活動である。 自己活動の第一段階は,体育学の一番荒目のフルイの役目をしてくれる物差しである。 この素朴な物差しは次のように使える。 労働といえども喜んで自発的な活動をしている間,それは体育として(+)である。 sportsも自己活動でないものは体育として(-)である。こうしたことから運動のもつ矛 盾を理解するようになる。いわば体育運動という架空の用語をむやみに使うよりほ,彼岸 の渡しを意味する自己活動を教える方が遥かに特策である。体育ほ運動の種類やある種の 活動で成立するものではなく,運動の矛盾によって成立する統一された現象をいうのであ る。それに対応するものが自己活動であって,運動や活動が自己活動であるかどうかを知 ることが,矛盾を止揚することにつながり,矛盾を解く物差しともなるのである。 ¢.自己活動の制御系 自己活動ほある状態でほ活発になり(開放),他のある状態でほ閉鎖する(シジミ・ア サ1)の観察).これは自動的に(-)の情報がチェックされる仕組みく制御系〉があるこ とを示している。自己活動に仕艇みや機能があるということほ,わかりにくい言い方かも しれないが,機能をもたない触媒がないのと同様,機能する仕組みもあり,それほ自動的 に二者を融合させる。自己活動にほこの自動的な性質く自動性〉が内蔵され,自己活動自 体をコントp-ルするo コントロールされている自己活動ほ,個体の運動・活動・生活を 自己活動自体がこうした制御系であるから,体育と切ってもきれない コントロ-ルするo 深いつながりをもっているのである。 体育の方法ほ,単なる活動でほ効果ほなく,期待もできない。. (-)にもなる。それが. 自己活動である限り,体育の方法の物差しとなりこの点は解消する。体育の方法の物差し 紘,先ず何をおいても自己活動を知るために,自己活動の自動的な性質を正確につかみ, それに従う観察態度から生れる。この観察でみられる発展する自己活動が体育を現してい るといってよい。. こ.

(15) 37. 体育現象の研究Ⅰ. プロのスポーツほスポーツではないといったり,体育でほないなどという会話をよく聞 くが,前述の例と同様主観的な判断であって,活動自体にはプロもアマもないのであるo ただスポーツで生計をたてているかどうかである。 自己活動とそうでない活動は,飽からみて正当な判断は必ずしもできるものとは限らな い.こうした特質もまた重要な問題である.誰でも運動とか,体育運動或はsportsの知 識をもっているが,それをほんとうに自己活動かどうかを意識して実践しているかどうか, ふり返ってみなければならない。古典体育の世界が考えてきたように,運動が体育だと思 sportsや体育運動といわれる種目のようなものがあらて,それをやれば体育に なると信じている大学生ほ驚くほど多い4)o 体育のための運動の選択は,個体(自己)の状態に応じた因果律に従って,処方されな ったり,. ければならない。体育の本質や客観的原理が明らかでないところでは,誰もこのことは教 えられるものではないし,処方集も出せないはずである。これに対して自己活動の制御は, 目的に合った客観的な処方を教えてくれる(自己活動の系統性と仕組み参照)。個体自体 が備えているこの物差しをよりはっきりと正確につかみ(みる)それを精巧なものにつく りあげる(再生産)ことが体育でなくてほならない。 7.体育を知る物差し 生物が自然に発生発育することと,人間の自己活動が発展してきたことの中に,体育の 客観的原理がある。科学的な処方集(教材)紘,この必然性に従わねばならない。客観的 原理の主体ほ,自動性の側にある。細胞の自動性が活動を媒介として個体をつくり,個体 の自動性の発展が,感覚-情動・情緒・感情・意志→思考一記憶・観念をつくるoこれは 無意識から意識におよぶ自己活動の系統で,それらぼ情報源の情報に従ってつくりあげる 活動で,主体の活動が個体の自動性の発展の中で,主体的な活動となることをいう(subject =主体ほsⅦbje血m基体の意)。しかし現実の人間の活動ほもっと多彩なもので,思考 が観念を生み観念ご思考の繰返しの中で,観念的なものを含んだ観念の世界ができあがり, その世界が主体の役を奪うとき主観的(観念的)な活動をはじめる。この主観的な活動は 主体を無視するから,自己が自己になる債任の所在)という主体的な活動からはずれた もので,自己活動の系統ではない。主体の延長(自動性-自己の観念)が主体的な活動を することと,観念の中の主観的な活動を明別するものもまた自己活動以外にはあり得ないo これを現実の問題に当てはめてみると,謹もが生活の中で無意識のうちに自己活動を物 差しとして使っている。. 例えば学校の体育の教材や年間プログラムをみると,大変な量が善かれてある。もし本 当の正直者がいて,この体育の目標達成に向かって,その全部を完全に真剣にごまかさず にやったとするとどうなるであろうか。だがそんな子供はいないようである。小・中・高 12年間の指導要領の基準全部の完結を目指せば,その間半数ほ死に,半数は入院療養と なるかも知れない。しかし今だかってそんなことはおきなかった。早くいえば,先生も生 徒も適当にごまかさなければならないのである。 だがほんとうほごまかしでほなく,そこには主体の命ずる働き即ち,自己活動という物差.

(16) 88. 安. 伸. 卓. 文. しが無意識に働いているのであって・指導要領がどんな基準を作ろうと,日々の実践活動 の中で自己活動が完全に機能し,四捨五入か切捨てご免という方法をとっているのである。 だがなかにほこのことで苦しみ,ひどいめに合う子供もでるo規制原理で教育が行なわれ るとき,そこに残るものほ人間的な要領であり,ずる賢しさである。入試制度がそうであ るように,スポーツテストも同様で,これを支えているのは競争原理といえよう。 8.ほんとうの体育教育 教育や学習において,真面目さや正直さを要求すればするほど,そこにほ無理が伴い (自己活動に反する)それに対する手段が必要となる。それほ巧妙になり,知的なごまか しや・みせかけ術を習得する結果を生む。自己の内を意識するのでほなく,他を意識し行 動の基準とする人間がつくられる。 体育教育が身体活動を通して,この種の能力を仕込んではいないだろうか。無意識にこ の訓練が学校という大きな組織を通して行なわれていると,やがてとんでもない大きな借 財の返済のために,国民全体が苦しむことになる.戦争・公害・インフレ・不安・道義・ 人間疎外・自然破壊ほこのことと無関係でほない。 ほんとうの体育教育ほ,神示や理想や規範・道徳・目的から出てくるものではない。こ れを捨て自己自身の内あるものをつくりあげることが,そこに到達する道であることを知 らさなければならないoその方法は自己活動かどうかを物差しとして,自己の運動や生活 を計りながら,それが人間の生存のあり方や,存在の問題につながっていることを自覚さ せなければならない。. 自己活動については,自己自身が最もよくわかっていることであり,自己自身に問うこ とを教えなければならない。そして自己が自己に責任をもつことを自覚したかどうかを目 安として,主体的な活動をつくりあげることである。 体育教育の任務ほ,主体的な活動をする人間をひき出すことであるといえよう。 註. 1). Nohl. (Hermann・. 1879-1960)生の教育学児童の自発性に基づく客観的文化内容のうちに求め. そこに法則が成立するとした。 Roussau. (Jean Jacques, 1712-1778)エミール教育ほ総て自然を基準にし「自然に従え」と 唱え自然主義開発主義児童中心主義を唱えた。 Fr6bel (Friedrich, 1782-1852)自由な発達を防げることを一切排除し,自己活動を善導 し,内部的発達を助長すべきである。遊戯ほこの自己活動の発現する最上の場であり,将来の すべての生活の萌芽であって'これを徐々に作業へと導く, 「遊戯から作業へ」という方法上 Ⅱ・ C・, Fr6bel Education by Self-activity. の一般原理としたo Bowen・ MacVannel and J・ A=. Educational. Pestalozzi. Theory. of Herbart. and. Fr8bel,. While,. T. Educational. ldeas. of Fr6bel.. (Johann Heinrich, 1746-1827) 「人類の発展における自然の道程についての探 求」 「人が人に対してなしうる最良のことほ,その自助(自らなすこと)を手助けするにある」 と自発性の原理に立脚する教育観で現代-の影響最も大なる教育者なり。 Ⅱesse (Hormann, 1877-1962) 「すべての人間の生活ほ自己自身への道である」シソクレー ル少年が・デミアンという年長の少年によって自己に目覚めてゆく道程を措いた長編小説がある. Kant (Immanuel, 1724-1804)ルソ-に強く共鳴した彼は, 「さまざまな自然の素質を調和 的に発展させ人間にその本嶺を全うさせること」と説いた○実践理性でほ主知主義を排し徳の.

(17) 39. 体育現象の研究Ⅰ 自己目的性を強調して幸福説を排した「汝なすべきが故に汝なし能う」という自覚を実践的自 由として示した。. 今世紀初頭の教育改革運動についてポルノウが「教育の科学的性格」に次のような註をつけ F.アべナリウス, K.フォン・ランゲ, A. 1)ヒ,トワルタらの唱導した芸術教育運動 G.ケルシュンシュタイナー, H.ガウティヒの作業学校 H.リ-ツの創設した田園教育塾G. ウィネケン, P.ゲへ-プの自由学校の自治体などで行われた新しい教育実践である。多くほ 児童中心的で青年の自発性主体性を教育の中心におき, 19世紀の旧い学校むこおける教師の威圧 的権威主義の態度と反対軒こ自発的活動によって主体的に成長してゆく児童や青年に対す理解と 教育的な愛を強調した。 (J鞄end bewegung)青年運動ほドイツで1900年頃青年固有の文化創造に立ち上った運動 で1898-1901年にかけてベルリソのギムナジアナの学生カール・フィッシャーが大都市の物 質文明に反抗し,若者らしい自然な生活様式を求めて組織した渡り鳥(Wandervogel)の運動 ているo. であった。集団で各地を徒歩旅行し夕べの集いで民族音楽や民族舞踊などによって自由な共同 生活を楽しんだ. 20世紀初頭,他のさまざまな青年団体が各地に発生し第一次大戦以後青年運 Wandervogelほ1806年プロシャの敗戦を 動は政治的宗派的に分裂し初期の性質を失っキ。 1778(Friedrich Ludwig, 磯におこった民族教育運動の指導者の一人ドイツ体操の父Jahn 1852)の創始にはじまるものとされている. 2)個体の統一を維持する活動-"復元の法則"一体内部の臓器殊にPHと生活現象でほ,血液の恒 K, Ca,P内 常性p. 189体温の恒常性p. 874炭水化物の恒常性p. 883脂肪・蛋白質塩類, 部の消毒に対し復元を求める自動性をいう経てのエネルギーおよび運動が恒常性によって自動 的に復元する.活動とこの復元の法則により発展が可能となっている唯物弁証法対立物の統一 375-p. 396. 轟,第16章p. (斗争の法則)参照,生理学概説,林 3) Eantの自発性Spontaneityは受容性Reeeptivityに対立するものを指し,印象の感覚と概 念の悟性とを区別し前者により与えられ後者により対象ほ考えられ二者により経験が成立する という。新カント派はこれを区別することからはずし自己活動と同義に考えている。知識を先. 験的法則に従って構成せられるとみる構成説は自己活動の原理に毒せぎるを得ずNatorpの教 育説にそれをみることが出来彼のPestalozziの教育説もこの思想に符号するとNatorpはい っている。. 4)大学生入学者の調査(昭41-48). 829ら-917oの間にみられた約2500人。. Ⅴ.自己活動の系統と仕組み 自己活動は自己自身による自己の再生産活動であり,有焼的な個体が構造と機能をもち, 統一を保ちながら,変化し発展するその仕艇みをつくる活動である。そこにほ必然性と偶 然性による現象がみられ,その発展には法則性があるo 1.自己活動の第1階層-"自動性''(1)自動性とは何か 人間の活動は,精巧な機械の運動に例えられ1)理解されるが,運動自体の発展は,機械 にはおこらないo況や機械自身による発展と、か,その再生産はあり得ないoただ機枕のす る自動的な運動が生きものの自動性に似ているのである。というより人間が自動性に学び 真似たものに磯雄があるといった方がよい.この生きもの特有の自動性と,その発展にみ られるものが,人間の自己活動である。 自動性というものは,それ自らが動く性質をもって㌧、ることで,自動的な運動をしてい ても,それ自身が自発的な活動を自ら行なうようなものでなければ,自動性をもつとはい えないのである。.

(18) 40. 安. 仲. 阜. 文. 生きものの体の特性(-自動性)紘,物質やエネルギーの出し入れをしながら増殖し, 生長発達することである。これをひと口でいうと,個体自身が自己の再生産活動をしてい ることなのである。生きものはそのはじまり(発生)から,こうした自動性をもってい る.生きていて動くという至極あたりまえの,わかりきったようでほんとうにほ分子生物 学が示したモデルのこと位しかわかってほいない不思議な性質を現すものが自動性であ る。. 物質(物体)が自動性をもつかどうかほ,これを地球上の問題に限定していえば,自動 性のないものは生きものではなく,自己活動もあり得ないとしている幻. 自動機械の自動的な性質は,それはほんとうの意味での自動性ではない。天体の運行も, 宰の移動も,大気も潮の満ち干も,岸に打ち返す汲も流水も,自然に動くのであるが,そ の自動的な運動の原田がそのもの自体ではあり得ないから,自動性をもつとほいわない。 自動機械・人造人間・コンピューターがどんなに精巧になろうと,また自然現象にみられ る自動的な運動のほとんどが,すべて他によって動かされていることを知れば,自動的で あるからといって,それ自体自動性を備えたものではない。それほ他から動かされている というのである.. しかし,原因がそれ自体にあるとする自動性も,地球が発生変化してきたのほ8),物質 の運動の中から生じたものの特殊な状態だとすれば,その中(地球)でもっと特殊な,生 命といわれるような運動の特殊な自動的なもの,自動性が出てきたと考えても,それほど 不可解ではない。そのはじまりは自然のエネルギーによって起きる自動的な物質の運動, 物質の特殊な組み合わせ,偶然現れる統一体,その統一を保つ系を備えたもの,そうした ところにおきる質転化による階層,その違いとみることもできる。運動から活動,自動的 から自動性を備える,自動睦がそれ自体で発展する。即ち自動性は,それ自体の再生産活 動を可能にするという事実を仮説とし(進化と発展の基盤として)体育学が成立する根拠 としたのである。. 物質の偶然の出合い(運動)による結合・統一・発展にほ,それに見合う組み合わせの 必然性がかくれているものと考える。統一体の発展が個体(統一個)を形成するために必 要なものは,一定の空間(場)と,長い長い時間をかけた自然の運動なのであるが(物質 と土ネルギ-),我々はこれらのことを歴史的な事実として,直接実証することほできな い.そこで生命の連続体として過去(歴史)の形貿(情報)を内にもつ実態を対象に,そ れを映している自動性とその発展を手がかりとして,実践的方法(現象と科学の知識をつ なくo活動を通して,自己の発展と統一をめざす活動)に立ってこれをみようというのであ るo. (2)一個の細胞の自動性 洋蘭を作る人にほ常識なのであるが,優れた新種を一度に大量増殖をする方法としてメ 7)クローン法というのがある(フランスで開発された)o蘭ほ殖えにくい(株分け)o種子 を播けば, 1000本に1本よいものが出ればよいといわれ,美しい花をつけるのに最低4 年はかかる.だから高価なのであるが,メリクローンほ,:ルブの先端即ち,最も勢いのよ.

(19) 41. 体育現象の研究Ⅰ. 単一酌環境提翌-甥場" ----. 1--. e出一排准 ⑳入一摂取 ∼. )癖半場-(監‡謂動,. 一 I. l. l l. 1. 結合 反擬分離 闘 う場 bの場-複夢二対立す毒筆 共存の場 i対立する活動)拒絶の場 2 3. a. +. 琵. ⑳◎0. 複合場の環境(董高-唱場鳩場) 刺激反応 る. 個体&内の矛盾(内部土ネルギー)ニ=場桝のエネルギー) ⑳発展 ノ. エネルギーめ出し入れ(代謝) ⑳ e. e退歩. 統一個a 場+¢. 〔体育哲学mode1. 2,個体一場一環境〕より. い生長点の細胞を取り出して,無菌培養をすると同じものが一度に大量に殖やせるo植物 (生物)では条件さえ整えば,個播の-細胞から同じ個体(Fl-FB)がつくれるo 一般的なFlの発生は,種子や受精卵からほじまるo人間についてみると・受精ほ精子 が卵に突入(結合)し,一個の受精卵という"統一体〃となる現象であり,減数分裂が復 元する変化のことで,これを自動性の〟第一次質転化〃ということにするo 統一体はそれ自体が直ちに分裂をはじめ増殖しながら,子宮の奥にまで進み付着(着床) し,そこで母親と共に双方二分の一ずつの物質を出し合って,胎盤を作るoこれまで一週. 間とされ,与れでエネルギーは尽きる。着床できないと,自動性を失い死滅し,母体から 排除されるo着床した統一体は,母体(外にあたる)からエネルギ-. (化学物質)を受け. 取り,内部の廃物を送り出しながら生長する.このことを可能にする胎盤は,内と外をつ なぐ重要な機能(場)をもっているo約10カ月280日を経過し,胎児(統一体)紘,完 全な"統一個"として出産するo統一個は全く新しい環境(外)との関孫を可能にしつくり, それを維持できる個体の完成に向かうが・統一個にほ方向性とともに選択性がみられるo 統一体ほ受精卵にはじまる。着床によって母体とつながり胎児として生長するo 統一個ほ出産にはじまり外界とつながる個体として成長するo 自動性の特質 ③. 精子が既に自動性をもっている。一必然性-.

(20) 42. ⑧. 安. 仲. 卓. 文. 卵と精子の結合は,鋳型や建と錠前にたとえられるように種の双方の遺伝子の構造. できまる。一法則的⑧. 統一体ではじめて細胞の分裂増殖を自動的にする.エネルギーの補給があれば,代. 謝も生長も継続する。一必然性法則的④. 受精卵ほ一週間分のエネルギ-を保有する。一必然性-. ⑤. 胎児の生活ほ280日前後で一定している.一必然性-. ⑥. 統一個は・統一体が外界とつながり,外における統一を保つ仕組みに質転化したも. のをいう(これを第二次質転化またほ変化という)。 ⑦ 肺呼吸のメカニズムが出産と同時につくられ内部構造に大きな変化が自動的におき るo. -質転化・必然性・法則的(3)自動性のしくみ ③. 細胞内の構造的機能(分子生物学). 1細. 職 1. "自動性". 核 DNA "Lock J). 細 胞 RNA酵素の and. 質. key". ・. ・層亙璽 働き‡蛋白azB&%&5?fE#BE.)増殖) i卿(外のエネルギー). メッセンジャー. ⑧. ・. 個体内の構造的機能(体育学) 儲酢逮応. i. "開閉"細胞の形 (制御系). (触媒系)「. ・;(i.:I:.. 獲得個体 変異 の再生産) ・ I;i:'・:. 】I. (生活のェ ネルギー). 円り. (環境とエネルギー). 人間の生活全域の活動の中で・体育ということを客観卿こみていくと,人間の発展の原. 動力は・個体を維持し統一を保つ体制をもった統一個の自己活動であり,体育かどうかを. 知る目安になるoそのほじまりほ,生きものの自動性であり,一つの細嘩がその構造と磯 簡を備え,-自ら制御し活動も個体もそれに支えられ漸次発展する自己自身の再生産活動で ある。このことは物質代謝の可能な構造が詳細にわかってきた分子生物の功贋であるが, 要は個体自身の再生産が自動的に可能であるという実証としてうけとりたい。 細胞の体制と個体の体制が相似性であり*,自動性の本体がI)NA,自己活動はRNA. の働きにより再生産活動を可能にしているという最初の見方(原型)であるo (4)自動性の転化(統一個の働き) 外(罪)と対立する遺伝形質の自動性ほ,対立の場をつくり,対立物に応じる動きをつ くりあげていく事実ほ自明のことである。 一般に贋応(性)や適応は・自動性の対立の産物であるが,対立をさける観念的な適応 *このことほ(前掲蓑)体制の系統性を示し,個体のレベルと細胞(分子)のレベルの研究の相互 対比から理論化が可能となることを示す。.

(21) 43. 体育現象の研究Ⅰ. 〔体育哲学mode1 5,一個の細胞の自動性と,個体・活動・場の関係〕より (解説)自動性のエネルギ-紘,細胞内の化学的エネルギ-である.化学的エネルギーは,炭水 化物その他の有機物に蓄えられたもので,動物ほ食物から,植鰍ま光合成でつくるo 全生物の エネルギ-源ほ,光合成で得られる.生活並びに自己活動に伴うエネルギー交代は,有機物を. 分解し,化学的エネルギーを放出させ, 体の構成物質をつくり,熟エネルギー(体痘)や機械 的エネルギー(筋の収縮),電気エネルギー(動作流),その他のエネルギーに転換利用する。. もあり,順応もふくめて背信とか偽装の姿をいう。それはどうごまかすかという意味の適. 応で知的なものを宿すから本質的な適応かどうかは疑しい。植物や動物が偽装しているの と同列にみてよいかどうかということであるoまた一般的対立は,自動性とその対立物と の力関係の問題として扱われているが,力関係は刺激反応を物理的作用反作用の公式にあ ててみることで,あてはまるものだけに適用され,全体(有機体)に及ぶことはあり得な いo従って生理学でほ自動性という概念ほ特別なもの以外はi持とんど使えないのであるo 情報と刺激と興奮(反応)は三つの別な,全く別の要素の運動で(必ずつながるものでは ない)それを現象との関係で解くことほ誰にもできない。方法がない。自動性をみるには, 情報・刺激・興奮(反応)の一つの場をみることで1:1 (自動性:場)の関係をつ′くら ねばならない。. 即ち,この場と自動性の関係から,かくれた形質を引き出すのであ畠.それゆえ,場の 問題は体育学の方法の中で重要な概念となる.. "Lock. and. key''ほ宝くじの番号のように. 何が当たるかわからないような偶然性が引き出されるのではない.形質には整然と仕紐ま れたプログラムがあり,それに場の条件が伴うことによって(形質:場-Lock:key),. 自動性ほ開かれ統一個の自己活動となり発展する。従って主導権(主体)となるものは自.

(22) 安. 44. 仲. 卓. 文. 動性の側にあるo知識や観念にほ観念的なものが同居しているから,それを排除しておか ないと結果の倍額度ほなくなる. 統一個の法則的な過程が現れる一つの新しい段階(自動性の第二次質転化)紘,新生児 の肺呼吸,乳を吸うなど新しい環境に対立する自動性が,それに対応する性質を現す.こ の外に対する動きの関係から自動性の場が見られ,自動性の形質を予測することができる。 ② 肺呼吸への転化 胎児の構造完成(量的)→出産,強く噂く(血液中の酸素不足) 噂く激しい活動で肺循環とそれに応じる心蔵内の通路改変がおこり,肺呼吸が機能する. 陣痛時はこの過渡期と思われるo ⑧. (ヒヨコの殻破りと噂く時期より推定). 物質とエネルギー交代. 芸冨芸芸*-∼-冨≡二芸芸:≡; i芸め言f噂くi芸芸卜休眠 ∨. 意識のはじまり(情報活動) ⑧. 感覚と感覚器構造の機能出現. 瞳孔反応一目玉が動く一物をみつめる一動くものをみる。. (視覚出現). 味覚・・臭覚・視覚・温覚・触覚・圧覚・聴覚・痛覚の順に出現。 ④. 四肢の運動機能の出現 手を握る一物を握る一つかむ-とる-おとす一投げるo ね返り一遍うー座る-ころぶ一つかまる-立つ一歩く一走る.. 二本脚の生活. 物にあたる-よけて通る一乗り越える一跳ぶ ⑤. 思考と記憶の出現. 物をかきまわサー箱をあける-こわす一探す一覚える 物と遊ぶ一物を覚える一知る一友達と遊ぶ一未知のものを探る一冒険する 自動性は,低次な活動から高次な段階に移行するが,生活環境(外)の条件である対立 の場が必要条件を満たすかどうかで変わる占). 自動性の活動ほ,環境に対し積極的に環境(物質とエネルギーを含む)を選択し,活動 の場を設定する.活動と環境ほ対立者であるが,場はこれを統一するもので,自動性ほ対 立に対する動きを引き出し,新しい動きをするo この新しい動きが可台酌こなる因子(形質 の情報掛こある)が自動性にあって,場の情報と結合して引き出されるのであるo. このこ. とは,自動性ほ元来他者(物)に対して(種の特性による範囲)動く性質("対動性")杏 もっていて,それが現れるものとみるのである。. 人間がいくら高跳びを練習したからといって,鳥のようにほ飛べない。人間には空をと ぶような構造や機能が現れる種的な遺伝子をもち合わせないから出てくるほずがない。他 に対して動くといっても,その範囲ほ遺伝子の仕組みに規定されているo このことほ遺伝 子が実証しているのでほなく,行動から遺伝子を予測して,それを信用した答であること に注目したい..

(23) 45. 体育現象の研究Ⅰ. 自動性ほそれ自身く対動性〉をもち,遺伝子の支配する範囲で他に対して動くことがで きる。上れを"自動性の対動性〃というo単に対動性という場合と異なるのは,・例えば他 者に対して動くあらゆる現象をみていると,全く予期しない新しい動きとみられるものも 少なくない。また新しい動きが発生する時期(年令)に一定の傾向があるのは,個体変異 とどう関係するのか疑問が多い。従って二つを区別することにしたo 自動性の発展には,二つの方向があるo多様な活動に向かうものと,活動の堪能さ(熟 練)に向かうものがある6). 多様な活動は,他に対して動く自動性の転化を含み,堪能さほ自己に対して動く反復 自動性. (練習)の中で得られるもので,磯雄のように自動的な活動に向かうものをいうo. からはっきりした他者に対して動く性質が現れるのほ,活動の新しい段階の仕組みができ たことを意味したその時からとする。 この内部変化は,意識の機能が同時的につくられていくことで,このかかわりあいのメ ヵニズムは大脳生理による予測と仮定に過ぎないが,人間にとって最も重要な課題の一つ であるd自動性の発展を可能にする重要な統一個の対立して活動する性質が対動性であり, 自動性の転化した新しい段階,第二の階層となって多彩な現象をみせてくれるo 2.自己活動の第2階層-"対勤性"(1)対動性とは何か一意識と方向性自己活動の第二の階層ほ,自動性の第二次質転化でほじまるo この対動性ほ,前述にもあるように自動性の中に既に確かに現れているo出産という人 間の最大事は,全く新しい外界に適応する機能の発現を示すモデルとして最も的確に質転 化の偉大なメカニズムの存在を教え,みせてくれるよい事例であるo このことは我々の無意識*1の中に既に対動牲が働いていることの実証でもあるo 無意識*2の中の対動性は,意識を引き出す接点で活動し自他の識別を対する動きの意識 として即ち活動によって引き出されている.植物にこのこと*3があるかどうかわからない が,このほんの些細などうでもいいような問題が意識の出現を決定していて,それほ直ち に広大な意識の領域の意識となり,思考を可能にする擁能の構造をつくりあげていく。 対動性は,意識と無意識のmOmen七に接触しこれを選択するo選択の意識が人間に現 れた時,人間はこれを体育の弁証法として-活動として表現してきたo意識の接点が対動 性であることを意識した生物が高度な知識と文化の世界をつくりあげたところの弁証法的 生物一人問で-その進化の方向性を対動性の活動によって決定してきたのであるo知識に ょる方向選択がmomentになるのではなく,意識と対動性の接点がmomentであり・ そこで進化の方向性が走っているoその方向性は対動性の活動(場に関係する)によって, その量質がきまるのである。対動性の活動は,自他を意識する活動で,その関係から生じ る活動ほその機能をつくり,その磯能ほその活動に関連するoそこで生産される知識や観 *1意識出現後の無意識 *2意識前の状態 *3向日性・食虫植物.

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