大日向及茶羅儀相の再研究
主i語 .on.田
義
遜
法華経の偽教芸術に就てその中心を求むる友らぽ.宝塔口問の多宝塔に依る法華変相、即ち法華蔓茶羅に置かなけれ ばならぬ c 法華経学の上からも宝塔は証前起 後と呼ばれて、 一 一 世 の 前 後述本二 門は宝塔を以て結ばれ、 且つ此の宝 塔 を巾心として法華経の悌教芸術が発達したのも所以なきではなかろう。彫刻としての多宝塔は中国の雲同大同の岩窟 に見る幾多の多宝塔を始め、大和長谷寺の朱鳥元年の鋼板千悌多宝塔、法隆寺夢殴救世 観音の 光背刻出 の単層宝塔等 1 が挙げられ、若し建築物としては新羅法興 王 二十七年ハ叩五四O
︶創立の慶尚北道悌国 寺の多宝塔 、我が 大和久米寺 の多宝塔を始め幾多の多宝塔があるが、雲両等に見るものは多く三重層で一定して居らぬが、密教の伝来と共に南天 鉄塔の遺構と称せらる L 覆鉢塔形を模した、今日の多宝塔の如く重層と・なったのである口勿論絵画等にもとれを見る が、との両に摂すべきは我が多宝塔を中心とナる大憂 茶羅を挙 げ怠ければならない。而してその矯矢としては、不 空 の観智儀軌に見る法華経憂茶雑を挙ぐべきであらう. これ等に就ては先に大崎学報八ごすに ﹁ 法華憂茶羅と多宝塔﹂、並に八七号に ﹂ 両界の法華 憂茶 雑に就て ﹂ の 拙 稿 に 、 儀軌乃至両密の法華憂茶羅を以て成熟期、宗祖の大豊茶目維を以て完成期と述べ売のであるが、由来儀軌の 憂 茶 阿 維 は法 華法の憂茶羅で、儀軌の十 一 村 修 一 一 持妙法蓮華経一、若男若女則須 v依 下 修 − 一 真 言 一 行 一 一 密 行 一 菩 薩 道 上 応 当 下 先 入 一一大悲胎蔵大量茶雑 一 並 見 一 一護 摩 道 場 一 、 減 中 除 身 中 業 障 上 の文に依り滅罪生善頓証菩提の為に両部合行を以て法華経を修持し、 法華一乗の実義を開 顕ナるを秘旨とナる法華法 の憂茶羅である , 故に頼輸は薄草子口決第三法華法の条に﹃今此の経法は両部不二の法と習ふ友り、乃至三経合論し て 三 密 の軌則を述ぷる鰍﹄と見ゆる如く、軌中の五相成身の印明は金剛頂経.入悌法界生及び五供の印明は大日経、 二聖二天十羅利の印明は法華経に依るが、品主茶羅相貌の三重坦に就ては静 ’ 然 の行林抄十五に両部合行に就て ﹃ 軌 意 大 旨 依 一 一胎蔵 一 殿 、 而 兼 亦 説 一 一 五 相 成 身 一 乃 至中台尊 八葉胎蔵界也、 多宝塔婆金剛界意 也 乃至二悌一例台界史印、 一 仏 智 挙 ﹄ 毛穴、一一七︶等と述ぷるに依ても明らかである日若し三重担は全く両部の 三 重 却 一 に 依 れるととも明かである 。 〉 何れにせよ儀軌の根拠とする真 一言の金胎両部の憂 茶羅は 、大乗に於ける憂 奈維の中心であり 、三部 A 口 成 と 呼 ば る L 2 儀軌の憂奈維は、法華経に依て二悌並庄の多宝塔を中台に安じし、文殊、薬王、妙音、常精進、無尽意、観音、普賢、 ( 繭勅を八葉に、迦葉、須菩提、舎利弗.目連を四隅に配した、迩門中心の憂茶羅といふべきであり、 この間の消息を 論証し売のが、智証の両界和合儀並に講演法華儀である。今若し儀軌の憂奈羅を宝塔品の証前起後の中、迩門の証前憂 茶 羅 と 見 れ ば 、 とれに対して更に本門の起後長茶羅を明らにしたのが、近代或は智証作と称せられる、中古天台の一 秘経たる蓮華三昧経である・ とれに就ては既に 一両密の法華憂茶 羅 に 就 て L で詳説し党所である 。若 し要点を示さば 三昧経は初の総釈売る、遮門分には塔中の釈迦騨迦を中台、金剛界に類似ナる阿関.無量一寺、宝性、 天鼓音の四俳を 四方、胎蔵界と同じく揃助、普賢、文妹、観 音 の四五口隆を四維に配し、両部合探の八尊を八葉に列し。後の別釈売る 本門分には、中台に無 主審決定如来 r等主所顧心和尊の 別名?︶上白佐一寸心本化の四菩薩を四方、摘勘等の迩化の四菩
藤を四維し配して、台密の法華法の憂茶羅は正しく本門所顕の意なるを明にして居る。 人 で あ る . か L る厩史的過程を経て、本門の三大秘法の随一たる本門の本尊としての犬憂茶羅を完成せられたのが我が日蓮聖 一閤浮之内未曾有之大憂茶羅也﹄と讃文を添へらる L 所 乙れ宗祖が常に﹃悌滅後二千二百二十余年之問、 以である。されぽ佐渡還流に依てか L る本門の三秘を弘通ナベき導師、上行再誕たるととを発得せられたる宗祖は、 佐渡第一室問先る富木入道殿御返事に 去十月十日に付せられ候し入道、寺、泊より還し候し時、法門書き遣し候き、推量僕らむ巳に眼前也.悌滅後二千二 百余年月氏漢土日本一閤浮提の内に、 天親龍樹内鑑冷然、外適時宜云々、天台伝教は粗ぽ釈し給へども、之を弘め 残せる一大事の秘法を、此国に初て之を弘む、 日 蓮 宣 非 一 品 夫 人 一 乎 と述べ、関目妙には勧持品の色読に寄せて上行の再誕たる所以を明かにし、 3 一念三千の法門は法華経本門書景品の文の底忙しづめたり、簡樹天親知てしかもいまだひろいいださ示、但我が天 台智者のみとれをい理けり と釈し、本尊紗には大憂茶羅の相貌を述べ了って 此等の悌を正像に造り一聞けども、未だ需自主の悌有さ歩、末法に来入して始此悌像を出現せしむべ空敗 と念釈せられ、新尼御前御返事には新尼に憂奈維を授与せられて 此御本尊は教主釈尊五百躍点劫より、心中にをさめさせ給仏て、世に世現せさせ給びても四十余年、其後叉法華経 の中にも迩門はせナぎて、宝塔品に事を ζ り 、 寺 田 亙 品 に 説 き 顕 し 等を説き.日女御前御返事には
愛に日蓮いかなる不思議にてや侯らん、竜樹天親天台伝教等だにも、顕はし給はぎる大 長茶羅 を、末法二百余年の 比はじめて、法華弘通のはたじるしとして顕し奉る左り、是全く日蓮が 自 作にはあらや J 、 多 宝塔中の大牟尼世尊分 身の諸悌ナりかたぎたる本尊也 等とも 述 べ給へる如く、竜樹天親は勿論、天台伝教も未弘の末法始顕の大 憂茶 羅とは、宗祖弘通の法華本門所顕の大 蔓茶雑であ る 。 か L る憂茶羅は若し宗祖の相承より見れば、釈尊上行日蓮と次第ナる内相承の上のものであるが、宗祖は 法華 経 の 上に於ては内相承に立つ本門の外に、天台倖教に由漸ナる外相承をも認められて居るが、 憂茶 叩 維 の 儀 相 に 於 て も 上 述 の 如 く 、常に真言亡国と 批判 せられた密教に全く負ふ所なしとはいひ 得ないものがある 。 併し古来の宗学上には何等 の説を見ないが、曾て法華誌上ハ二三の四︶金沢本理性院血脈に就て 述 べ し 如 く . この血脈に依れば 宗祖は 、小野流 4 醍醐派第十九代理性院賢覚の後、矛廿四代真空より理性院芳廿五代の相承が伝へられ、中山 宝 蔵の五輪九字秘釈 の 奥 書に﹃建長三年十一月廿四日成時了、 五帖︵条︶之坊門︵富小路西南坊︶ ヨリハ南、富小路ヨリハ西﹄等に文は、右 の消息を 裏書ナ るものと見ゆるのみ友らや J、昭和定本の 初に見ゆる保田妙本寺の不動愛染感見記に 自 ニ 大 日 如 来 一 至 一 一 日 蓮 一 廿 三 代 嫡 々 相 承 、 建 長 六 年 六 月 廿 五 日 、 日蓮授 新仏 等の相承は、理性院血脈と共に宗祖に真言の相承のありしことを証ナるものである。併し 宗 祖がか L る相承を常に述 べられたかっ先のは、真言の空海等は法華を第三戯論、理同事勝等と庇せるが故であらう。
一
一
法華経の行者を以て任じた宗祖は、 その宗とする法華経の弘通に就ても、天台に対して相承に内外の別を分つのみ な ら や J.像末理事の別を立つるに就ては、五綱の教判に立ち滅後三時の弘通を明かにし、四菩薩造立紗に 本謹二門の浅深、勝劣、傍正は時と機とに依るぺし、 一代聖教を弘むる時に=一あり、機もて商也、仏滅後正法の始 の五百年は一向小乗、後の五百年は権大乗、像法一千年は法華経の 遮 門等也、末法の始には一向本門也 等と一代聖教を三重に配当して、昔述本を以て正像末に配し、本尊紗、下山紗等に依れば、正法の初の小乗は迦葉阿 難 、次の五百年の 権大乗は屯樹天親 、像法一千 年の謹門は天台伝教、末法の本門は自らの弘通とな し 、 若し当時諸宗 中禅浄土真言等は方等部権大乗に摂し、無問、天魔、亡国の法として之を隠したのである む 翻って之を上 述 の 長茶羅 の 上 に 就 て 見 る に 、 真 畳 一口三部中大日経、金剛頂経所顕の胎金両部長 茶 阿 維 は 、 これ方等部権 大乗たる土日教の所顕であり、不 空 の依軌の法華法畳 茶羅 は 、 述 門宝塔口聞の儀相に依る故に、天台の法華機法の経巻本 ( 5 尊並忙擬然の伝通縁起に見る鑑真造立の唐招提寺の多宝塔を上壇に安置する三重の戒壇、弘仁三年俸教大師の法華三 昧院の﹃多宝塔一基、内安多宝飾像及妙法蓮華経︵開山親書︶﹄の本尊等と共に 迩 門の所顕に相等し、蓮華三昧経の 別緯の無
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. 専決定如来乃至上行等を中胎八葉に配ナる 憂茶羅 は 、 一往本門の所顕に摂ナべきであるが、併し真の本門 本尊とは本尊紗に﹃我等己心釈尊五百鹿点乃至所顕三身無始古俳也﹄等と説ける如く、生悌同体十界具足の大 憂茶雑 で ﹃ 今本時婆婆世界、離 一 一 三 災 一出一面劫一常住浄土、悌既過去不 v誠未来不 v生、所化以同体、此即己心三千具足 三種 世 間也﹄と説ける如く、寺景品所顕の十界常住を本体とナる故に 遮 門 十 四 口 問 未 v説 ν之 、 於 一 一 法 華 経 内 一 時 機 未 レ 熟 故 敗 、 此 本門肝心於 4一南無妙法蓮華経五字二悌猶文殊薬王不 ν付 ニ 属 之 − 伺 況 北 ハ 巴 下乎、但召 一如何千界一説 二八 口m − 付 一 一 属 之 、 共 本 尊 為 ν 鉢本師婆婆上宝塔居 v 空、塔中妙法蓮華右経左釈迦悌多宝悌‘釈尊脇士上行等四菩薩、文殊禰勅等四菩薩呑属居一 一 末 座−、遺化他方大小諸菩薩、寓民処二大地一如 ν見 二 雲 閣 月 卿 二 十 方 諸 悌 処 一 一 大 地 上 − 光 ニ 迩 悌 述 土 − 故 也 等と釈されたるが本門大蔓茶雑の相貌である。 今上述の如き昔遮本三重の憂茶羅に就て見るに、 一様に金胎両部の三重坦の様相に依るととは、観智儀凱は勿論、 凝 然 が 府 招 提 寺 の 戒 坦 に 就 て ﹃ 所 立 戒 坦 有 一 二 三 重 壇 一 、 表 − 一 菩 薩 三 衆 浄 戒 一 故 ﹄ 等 と 釈 し 、 真 一 マ 一 口 に 依 れ ば 仏 又 は 如 来 部 、 菩薩又は蓮華部、金剛部の 三 部より成り、宗祖の犬憂茶羅以前は併部を中心とナる、平面的三重壇であったが、我が 本門の犬憂 茶薙 は首題を中心とし最上部が働部、芳二壇究殊普賢乃至諸天等を菩薩部、 見 子 母 神 、 十羅利女、天台伝 教、天照八幡乃至二明王、 四天王紘一寸を第三金剛部とナる。前の昔述の憂茶羅に対すれば、立体的呈茶羅といふべきで 〉 あらう。而しでか L る昔迩本の相違は、第三重中胎八葉九尊に相等ナる諸尊の上に之を判ナべきである臼即ち胎蔵界 6 観知円儀抗、三昧経の両釈、宗祖の大島 工 茶 羅 の上に見作ば明かであるが、古来我が大憂茶羅に於ても、建治、弘安の儀相 〈 に就て再治未再治の論のある如く、文、水建治の遺文憂 茶羅 の上には昔胎の遺影が全然無い訳ではない。今宗祖以前の 止日胎の憂茶羅と、宗祖の文、水中平賀の二十枚継、建治元年十一月ハ元身延、遠泊亨師模写芳八図﹀等の併部に就て見 るに次の如くである。 ハ 位 置 ︵ 胎 蔵 ︶ ハ 儀 軌 ︶ ︵ 総 釈 ︶ ハ 別 釈 ︶ ︵ 文 永 ︶ ハ 建 治 ︶ 東 南 普 賢 薬 王 普 賢 全 無辺行 企 東 北 観 禰 動 全 全 上 行 全 南 方 華開敷 妙 音 宝 性 無辺行 善 徳 胎 大 目
東 方 宝 瞳 文 殊 阿 閥 上 行 胎大目 善 徳 中 胎 大 F』 二c. 無 回 一 期 一寺 如 来 首 釈 題 多 室 日 釈 多 迦 宝 全 迦 西 方 無量詩 無尽意 無量書 浄 行 金大日 分 身 jじ 方 天鼓音 普 賢 天鼓音 安立行 分 身 金 大 日 西 南 文 殊 常精準 文 殊 会. 浄 行 全 西 北 繭 事i 観 観 全 安立行 全 右の諸尊に見る如く、胎蔵界の中 尊 の大日外の八尊は四方は大目、四維は法華。一ニ昧経の中胎の二伸外の 八尊は四万は 金 剛 頂 、 四緋は法華の如く顕密ム n様であり、儀軌は遮門中心の二伸八菩薩、 三 昧経の別釈の中胎は﹃妙法蓮華久遠実
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成如来、本来多宝塔中湛然常住﹄といへば、正しく本門所顕の無量害如来、 四 方 は 本 化 、 四維は遮化の八菩薩である。 若し宗祖の憂茶羅も佐渡始顕等を始め文永建治のものは、中胎を首題とすれば四方に二悌善徳分身 、 四維に本化の四 菩薩が八葉八尊 ーに相等ナるが、若し右の文永建治の憂茶羅は、両部大日と結経の諮問徳分身を四方、本化の四菩薩を四 維に配すれば、首題即ち本悌宝号と境智の二悌とは総別兼挙の中胎本併と解ナる、九尊の形相と解ナべきである、建 治忙至つでも何段胎蔵の中胎八葉の形相の遺存することを見るのである .かく両部 大日が正しく胎蔵界の四方の二悌 に相等ナるととは、文 、氷十一年の法華取要紗に釈尊と諸併と因位の不同を明し、次に 叉 以 ニ 果 位 − 論 v之者、諸悌如来或十劫百拍千劫巳来過去伸也。教主釈尊既五百塵点劫巳来妙覚果満悌。大日如来 、 阿 弧 陀 如 来 . 薬 師 如 来 等 、 尽十方諸悌我等本師教主釈尊所従等也。天月寓水浮是也、華厳経十方台上毘慮遮那、犬日経金剛頂経両界大日如来、宝塔口問多宝如来左右脇 士 也、例 如 二世 壬 両 臣 一 此多 宝 悌寺 景 品教主釈尊所従也 と述べ、報思抄も亦両 部大 日 を 多宝 悌 の所従等 と 述 べ たのは常禅 紗の法華法 の下の本尊 異説事 の文忙 ﹃ 凡 秘 法 習 周 一 一 本 尊 − 有 二重々浅深二或観音、或不動、 持賢。又 塔多 宝 釈 迦 、或両尊、或 両部大日也﹄︵側 全 男 、 一 霊 ︶ 等 の 犬 、 に先の 静然の行林抄等の説に依られたものであらう。 上掲最上坦の九尊に就て見るに矢張上倒行林抄の﹃中台八葉台蔵界也﹄は胎蔵界の昔、 儀軌 並に 三昧経の総 釈は共 に 迩 、 宗祖所 顕は本と 憂茶羅 の上に昔 遮 本の相違は明かである o 若 し = 一 味経 の 別 緯は本門開 顕 の 意に依るも 、 八 葉 に二門の菩薩を配ナる故に 、 宗祖所顕とは全く別劣である。況んや多宝飾の所従売る大日を中尊と在す両部が 、 遮 門 の 憂 茶羅に劣 るととは明かである。されば曾谷 紗に は 不 空 三 蔵還渡 一 一 天 台 一 捨 − 一 真 言 二 来 一 一 臨於 漢 土 − 建 一 一 立 天 台 於 戒 壇 − 、両 界 中 央 本 尊 置 一 一於法華経 一等 是 也 ( 8 ) 等と不空の儀軌の憂茶羅を天台の戒曜に摂して遮門の 憂茶羅 と解せられるも、撰時紗 には儀執 の 無 責寺如来の真言に 就 て 、 無 骨 寺を繭陀の別号と解し ﹃寺景品を阿摘陀併とかけるは大僻見友り ﹄ と 賠 し 、 若 し 本尊問答紗には末 代の本 尊は、専長所顕の本悌宝号即ち﹃法華経の題目を以て本尊とナベし﹄ と在し 、法師 品の経巻 浬禦経の法、天台の法 華三昧の法韮ご部等の本 尊 と共に、儀 軌の二 伸を掲げて 此は法華経の教主を本 尊 とナる法 華 経の正意にはあ ら や J、上に 挙ぐ る 所の本尊 は、釈逝 多宝 十方の諸仏の御本 尊 、 法華経の行者の正意なり、乃至此御本 尊 は 世 尊説 き烏かせ給ひて後、 二 千 二百二十 余年 が 問 、 一 閤 浮提 の内にいま だひろめ先る人候はや J 等と述べられて、本門八 口 聞の儀相たる大 憂茶 羅を以て、末法の本尊と定めら れたるととは 本尊紗に﹃来 一 一 入 末 法 一 始 此
仏像可 v A P 一 一 出 現 − 歎 ﹄ 、 並 に 報 思 紗 に ﹃ 一 閤浮 提一同に 教主釈尊 を本尊とナペし﹄等と 述べら れ た る 如 く 、 末 法 の 憂 茶 離は真雪 口両部、儀軌天台等の昔謎に勝る t h 、本門所顕 大 憂茶 羅在る所以を明にせられたのである かく宗祖が寺景所顕の教主釈尊を中尊とナる晶玉 茶羅を以て末 法の正意となし、悌滅後二百 二 十 余年未有の讃 究を以 て之を明にせるは、 ﹃ 然 我 実 成 悌己 来 無 自 在 一無辺﹄等と塵点 実 成を明かにし、 又 ﹃於是中間 我説然燈 悌 等 ﹄と説空 、大日 姉陀等を 悉く釈 尊の垂 逃 所従と説けるに由来ナるのである。而して上 述の 憂 茶 羅に於ける 土 問 迩本 の 興廃は 、 全 く等量 所顕の法中論三の法身悌と述門始覚の釈迦並に大日繭陀 等と相対し て判やるものである。か t h る法 身仰と始覚の釈迦 等と簡ぶために 、 そ の 宝号 の首題を以て顕はし、妙法 憂茶羅 供養には﹃此 憂茶 緋は文字は 五 字 にて候へども、 三 世諸 9 悌の御師 ﹄ と釈し、本 尊紗には犬憂茶薙の相貌を説いて﹃如レ是本尊在世五十年無 ν之﹄と説君 、新 尼御前御 返事 に は 、 ﹃此の五字の犬憂 茶羅﹄と い仏、日女御前御返事には﹃天台妙楽等#んにも顕はし給はぎる 大 憂茶 羅 ・ : : ・ 塔 中 大 牟 尼世 尊分身の諸悌ナりかたぎたる本尊也﹄等と、宗祖は常に 憂茶 羅即本尊 、 本 尊 即 岳 民 十 余 羅の意を以て解さ れるのである 。 由来 憂茶 羅の語は 真言密 教 に 出 で 、 方 同等に区劃せ ら れたる地域の 壇忙 、 衆生が来集し 集 団するの 義である。 故に 大日経疏固には 夫憂茶 一 羅 者 名 為 一 一 葉 集 − 、 今 以 一一如来真実切徳一位ヂ一右一処二乃至十世界徴塵数義別智印輸同宿湊 、 習 二輔 大 日 心 王 − 、 使二切衆生普門進趣−、是故説為 一 一 茶 憂 雑 一 也 ︵ 一 元 、 六 一 宍 ﹀ と見ゆる如く、如来 真実の功徳集 た る 故に差 別の 衆生が輪同轄湊し 、悌 陀の慈允に依て悉く例果の浄土を 具 現 する
の意である。右の﹃ 普 門 進 趣 ﹄ と は と . れ 妙楽 が ﹃ 一 身 一 念遁於法界﹄と説き 、宗 祖 が ﹃ 所 化同休﹄と釈せらるも亦同 意である.叉 真 一 士 一 口 に 於 ては本尊に 普 門 一 刊 の別を 分ち 、 諸棋の修法即ち弧陀法 、 薬帥法等に於 て、各々禰 陀 薬 師を以 てその本尊とするが、大日を本地諸悌を茸迩となし、 垂迩の諸尊を本尊とナる は一門の本 尊 . 大日法身を 普 門の本尊 説くが、若し本門開顕に依れば大日調 陀等 は悉く一門の本尊、寺 黄 口 聞 の 仏 を 以 て 普門の本尊と呼ぶべきである。古来 本尊に本来尊 一 輩、根本尊崇等 の 義 の 存ナる は 全 く 右の意に依るもの で あ る 。 か L る 意に依れ ば等 量開顕は諸経諸宗の 一門の本尊を統括したる普門の開 顕 であり、且 A J 一 切 衆生 をして普門 進趣せ しめたる所化問休の本尊在 る故に 、本門 観心一体の本 尊 で あ る U 阿 沙婆妙、覚禅紗等も憂 茶羅と本尊 を同 義に僻ナる が真 実同義では友 いのである し か L る 所 化同体教翫一休の本尊のみ真の普門本尊で本尊卸 髪染経と解 し縛るのである υ とれ日女御前 科返事に憂 奈維 の 相 貌 を説き終づて﹃妙法蓮華艇の光明にてちされて、本有の 尊 形となる是を本 尊 とは申ナ也 ﹄と も、草木 成 仏口 決 に 大 憂
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茶羅を以て﹃当世の習そと友いの学者、ゆめにもしらざる法門也﹄等と説ける如く、宗祖の大憂 茶羅 と そ 真 の憂茶羅 即本尊、本尊即憂 茶羅 と呼び符るのである。これ宗祖が常に本尊と 憂茶羅とを 同義と 解せらる L 所以である。 故に首題即ち無作三身の宝号を以て顕はさる L 中尊は、若し本尊義よりは根本 噂崇 の 本 尊 で あ る が 、 諸 法 実 相紗に ﹃釈迦多宝の二併と云ふも用の桝也、妙法蓮華経とそ本併にては御座候 へ ﹄ 等と見ゆる如く、俳界の 二併 も愉ほ休の 本併の用とすれば、他の九界は勿論悉く用で、休用一門 普 門の上に輸問 具 足十界常住の大 憂茶 雑を成や Jる の で あ る 。 而して二門開顕の十界円具常佐の意に依れば、憂 茶羅勧請 の諸尊は独り法 華 文上に見ゆる 諸尊 に限定ナる必 要 ない故 に、文 、水建治の交に両部大日を始め、矛六天魔王、千眼天 王 、摩崎 首羅 、因陀羅 王等 が見え.叉 最初より不動愛染 の 二朋 王 、広日、増長の二天王、並に簡樹、天親、天台、 章安 、 妙 楽 、 修 禅 、 寂 光 紘 一 寸 三 国 の 人 師 、 天照八幡等の 諸 神の勧ム ー E eJ ! ? J Z
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請を見たる所以である。就中二明王は建長六年の感得に由来し、国神の勧摘は安然の普通広釈の広願の文に﹃天神地 紙衆﹄等︵七四、主さと見ゆる由来ナるものであらう。 今現存の御真蹟の憂茶羅に依て諸尊勧請の変遷に就て見るに、勿論佐前にも一週首題はあったのであるが、遠流当 時の所 J問佐渡百轄の一週首題に起り、間もなくで一明玉、釈迦 多 宝 の 二 悌 、 四菩薩位一寸が共矛に加へられ、文永十年の所 謂佐渡始顕の頃組ぽ諸尊が整備し胎蔵界の中胎相等に 首 題︵本門︶二悌︵ 透 門︶に依る本 法 休用始本二覚の中心が糞 定せられ、諸尊に於ても文永よりは建治、建治よりは弘安と次第に 整 備せられ、広義の開顕の意に依る諸 尊 も、法華 中心に弐第に純化せられ、 犬 、水建治の交の両部大日普徳 分 身も除かれて上 壇 は 二 尊 ︵ 用 ︶ 四士、中 壇 に於ても文殊 普 賢 の次の摘勤︵右︶薬王︵左︶は何故か位置を替へ、常に右方が二一尊多い左右の諸尊も次矛に省略せられ.人師も後に ( 11) は天台伝教のみとなり、四天王は儀軌の究漢︵東漢、 三 党︶に依る、右の東南左の西北も弘安以前には位置、名称 の党漢不定も三漢北党に統一せられ、且つ弘安元包花押の変化等に依て全く寺田 電 所頴の犬 憂茶羅 に純化せられたこと は古来再治未時治の諭ある所以である。是等の詳細なる相違に就ては、先年本 誌第 廿二号儀相研究に諸山の御真蹟ニ 四、亨師模写の一九、御本 尊 写真鑑の二二、御形木四、計六O
舗 に 亘 っ て 、 とれを女 、水を練 麿 期、建治の整備期を前 後 、弘 安の完成期を前後の五期に分ち 、諸尊の配列 を悉く表示して、各時代に於ける諸尊勧諸式を明にしたが 、 と れ に依て憂 茶 羅の御執筆時代を容易に知り得ると同時に、坐配に依て真偽の判定等も容易に知るととが出 来 る の で あ る 。 然るに去る昭和廿七年四月廿八日、千葉市長洲町の立正安国会の片岡随喜氏が、 全国に一且って現存の宗祖真蹟を蒐 集し、実に百二十三舗が在来のコログイブ版に勝る L 勝 妙 版 に 依 て 、 一 紙 憂茶羅 の実物大に印刷し、御本尊集と称し て目録と共に山中喜八氏に依て編 集刊行せられたことは、誠に悦び忙堪 え在い所である口全集の内容は時代別に文 永一二、建治二一、弘安七七幅を年月順に編し、 目 録 に は 一 御 願 一 不 年 月 日 、 二 御 讃 文 、 三 御 授 与 、 四 先 賢 添 書 、 五 幅 尺 、 六 週 称 ‘ 七現在宝蔵に亘って詳細忙記録し、備考段には遠山泊亨師の模写御本尊写真帖、妙宗先哲本尊鑑を始め、 聖伝古記録に亘って考証せられて居る。依て我等は重ねて是等全体に就て、 現存の御真蹟、確実在る模写並に御形木 に 亘 っ て 、 宗祖の蔓茶羅の全貌を明にせんとしたのが本篇 で あ る 右の如く現存御真蹟は組ぽ御本尊集の一二三、更に本誌廿二号に発表の六
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に就て見るに、御本尊集と重複ナるも の 文 永 建治に各三、弘安に二六、御形木四、計三六を除いたこ問、右の外遠浩亨師模写二八中先般割愛したもの九、 その中女 、水に摂ナ.へき阿仏房へのこと、立安元年日頂授与の三は御本尊集と重複、 その他中文永十一年十一月の同日 = 一幅、並に同年十二月︵面 一 品 、 塁 。 一 、 七 七 ︶ と 此 年 に 摂 ナ ペ き 二 悌 四 菩 薩 の み ハ 面 二 、 七 五 一 、 回 O ︶と唯一の紺紙金泥 子 商 二 、 室 、 一 、 三 ︶ へることが出来る o その中紳本尊集に友き三三の中御形木の三、先哲仰本 尊鑑 の法華経 寺の稗 子日家 授与 の模写、京c
12) の六模写、御形木四中本誌前表三一は新曾に真蹟存せし故除き三の、計主− 一 と御本尊集の一二三を合して一五六幅を数 都本国寺の目頼授与、妙覚寺の日澄母尼授与、本法寺の沙禰日識ハ表二五、二六、二八、三九︶の四︵亨師模写の法 華経寺目 、水授与の十一枚継︿表八︶ 一、所在不明の日行日興等授与 \ ハ 表 七 、 二 ハ 、 = 一 二、六O
︶の四と、御本尊集と 重複を除いた粗ぽ二二幅は、曾て身延山宝蔵に在したが明治八年御遺文七十二篇と共に烏有に帰したのである。四
上述の如き粗ぽ一五六幅に就て、本誌廿二号の如き勧 請表ど試みたが、煩雑は勿論であるが該表最初の文永十年七 月八日の佐渡始願︵模写︶以前に就ては、御本尊集第一は文永八年一月九日依智に於て認められた、立本寺蔵の揚子h m 馳 蛇 本尊と呼ぶ一週首題で、芳二京都妙蓮寺蔵九年六月十 三 日佐渡伺作、首題の外 二 悌二明王︵面 一 、 歪
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勧請 の も の は第七の頂妙寺蔵迄は同様である。第八の本土寺蔵︵面て 一 一 一 一 、C
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至 っ て、右の二悌二明 王 の中聞に 右の南無智積 一 品 、 四 O ︶ には上掲 諸 悌の外上段に 二併の外十方分身、遍十方併、四菩薩 . 右に舎利弗、迦葉、迦加延、目連、須菩提、左に大林 九 天 王、釈提 桓困 の 勧 請 を見たのである.第十揚子本尊は 首題の右 に 日 月 衆星 、 左に 四大天王のみの略本尊に 共で佐渡 始頴となるのである。 十羅剃、左に普賢、文殊、鬼子母神を加へ、芳九佐渡妙宜寺の十八枚継 合 間 五 、 一 八 佐渡始頴に於て諸尊は組ぽ整備し、爾 来 の憂茶羅に於ける時代的の 著 し き変遷 に 就 て は先に述 べた如くで あ る が 、 諸尊勧請の具略は面積の大小等に依て随宣に図示せられた様である. 若 じ 著 しき変牝は文 永期の 総帰 命 、 建 治 以 後 の 四 聖 帰 命 で あ る が 、 若 し讃文に於ける 単複並 に二十三十の相違、花押に 於け る弘安期の 変 化の二点に就て は後 に 述 べんとするものである u 諸尊座配等の相 違 等は本誌廿二 号 の附図と殆ん ど同様 な る 故 に 、 全 体に亘る図 表は今 回は割c
13) 愛ナることにナる u 若し是等の儀相に就ては、近頃山中 喜 八氏は大崎学報一O
二 号 於 て 、 首題 中心︿ 二門﹀と二尊 四 士具足に総帰命︵二門︶と四聖帰命、更に四聖帰命中分身 諸 併の在不︵ 五 門﹀の大別四類、細別九門、細 分百二 十 八 種に見る如く、同類のものは極めて少数である。我等は先に練 ト 磨 、 整備二期 、更に 大 別 に 文 、 水 、建 治 、 弘安の三 期 、 更忙建治、弘安前後二 分 の五朋に分 ったが、併 し全体を 一 往 時間的K
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川 類 す る ことは出 来 る が、併し必やし も時間的 に分類出来ないものがある。故に今は二 尊 四士の中心に就て、先づ広略に 分 ち、略を 二尊在不 の 二 類 、 虞を先づ 総帰 命、四聖帰命の二類に分ち、更に二類の下前者二門三類、後者を二門四類、即ち各随自随他の二門に分 ち、両 部大日 と響徳分身を随他、二尊四士を随自と友し、花押の変化、薬王嫡勅の変位を後の随自とし、 更 に 述 化 声聞並 に経疏の 讃文の有無等に依て二類に分ち、都合十類に分ったのである。即ち四 聖 帰 随 随 自 他 | |
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略 | 一 一 | 二 明 王 四 天 王 等 ・ : : : :・:::j
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一 一 一 ﹁ 普 徳 分 身 ・ ・ : 全 一 一 l l総帰 命式l
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二 尊 四 士 一 !広︵二尊回全︶! 文 『主 女 タT℃ ガt 水 十 十 7K 治 一 冗 建 治 八 年 九 年 年 建 ヱ証A (J:l フE 年 年 ( 14) 以上の中略は且らく措き、広中の随他は自ら練磨期、随自を以て整備期即ち本門の大豊 茶 羅の完成と見るべきであら う 年次に見るに文永=二 ハ年次なきもの一五︶建治三一 以下更に右一 E 六幅に就て総括的に、先づ執筆年次、授与道俗、素材法回豆、真蹟所在等に就て述 、ぷるならば、先づ執筆 文永八年ハ一︶ 九 年 ︵ 七 ︶ 十 二 年 ハ 九 ︶ ︵全上二﹀弘安九四︵全上五︶計一五六を更に各年に細分すれば 十 年 ︵ 二 ︶ 十 一 年 ︵ 一 一 一 ︶ 建治元年ハ一O
︶ 二 年 ハ 一 五 ︶ 二 年 ︵ 六 ︶ 弘安元年ハ二一︶ 五 年 ハ 八 ﹀ 三 年 ︵ 三 五 ︶ 四 年 ︿ 一 七 ﹀ 二 年 ︵ 二 二 ︶に見る如︿弘安コ 一 年 の 三 五 一 悩 が最高であるが 、 こ れ が 宗組の御建康等に関係したことは 、 建 治 三 年六月頃より御病悩 四 年 七月頃より再発せ られたる事情も考慮ナ べ き で あ る . となり、弘安元年の秋頃一時快複されたが、 次に先づ授与の道俗に就て見るに、道 場の安 置或は 集団的の も のに特定の授 与 書のな い の が当 然であ 名が 、 全 体中 こ れ を 道俗に類 別すれば 左 の 如 z くである 沙門︵二
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︶ 、 授与書の記入なきもの七六、有るもの八 一 で あ る が 、 日 照 、 日 門 、 日 頂 、 日 目 、 日 向 、 日法 、 日 永 、 日 華 、 沙 噺 ︵ 四 ︶ 比 正 ハ 四 ﹀ 比 丘 尼 ハ 九 ゾ 天 目 ︵ 二 ︶ 、 日 与 、 日 家 、 日 額 、 日 寺 、 日徳、妙識︵以上集︶日 識 日 法 経 一 丸 、 日 賢 、 日 弁 、 乗 蓮 ‘ 妙 心 、 日 符 、 日 { 弗 日 長 、 日 問 、 優婆 塞 ︵ 一 二 ︶ 日 専 、 生 ︹ 以 上 集 ︶ 優 婆 夷 ︵ 二 ︶ 俗︵ 二 三 ︶ 童 子 会 一 ︶ 不 明 ハ 四 ﹀ 源日教 、 妙 日 行 、 日 命 、 日 興 ハ 以 上 集 外 下 全 ﹀ 日昭︵以上 集 ︶ 日 英 、 白 日 妙 、 日厳、持円、持 滞 ︵ 以 上 集 ︶日
澄
目 安 ︵ 妙 覚 寺 ﹀ 、 藤原清正 、 全広宗 、 全 日 日 大 、 日 春 、 真慶 、 摩 尼 女 日 頼 、 日限、吉 清 、 日常、守常、守綱、真 、 水 、 近 吉 、 安 妙 、 日 専 、 日 金 、 不 明︵以上 集 ︶ 亀若、亀姫、福満 磨滅等に依る不明のもの 日 用 、 l 印 、 1 1 ’ a n i 目安︵妙海寺︶、日久、 以上の ’川 く で あ る が 、 ム ハ 老 僧 の 長老 日昭は 是 茶羅 の 授与害に は最初日照とあp
、 天 目と共 に両 度の授 与 が あ っ た様で 大学亮 重 佐 、 日載 日 安 、 日円、藤原 因貞 、 日 肝 、 日 重 、 日 目 、 資 光 、 rti ( 15 )あ る 。当時本 尊の授与は容易で在かったことは、大尼御前に対して 此の御木 部と わたし奉るも fh ら ば 、 十円粧利定めて偏頗の法師とをぽしめ されなん 日蓮重思の人なれば扶たてまつらんために、 と終に授与せざりしに徴して明かである、 芳 三 に 素 材 と 法 日 亙 骨 一即ち紙絹と面積に就てであるが、素材は紙が通途で絹は希である中、佐渡始顕は絹地であったと とは、亨師が﹃絹地巾二尺六寸一 分、長五尺 八寸二分﹄と記されるに依ても明かである。その他現在京都妙満寺の文 、 永 一 、 一 一 一 一 一 一 ︶ の 二 一 怖と、身延焼失の建治二年九 十 一 年 天 目 授 与 ︵ 問 。 玉 、 八 一 一 . 二 、 六 一 一 ︶ 、 要 法 寺 の 弘 安 元 年 頃 ︵ 二 、 七 六 。 て 三 = 一︶等があったが、最小のものでも三枚継、最大のもの ( 16 ) 月 三 二 、 八 一 一 。 二 、 九 一 一 ︶ 、弘安 二 年 日載授与C一、二五 o は十八枚継に相等ナるのである。若し紙本としては一枚 三枚継が最も多 いのは、適当の法 日 本 の ためであらうが、最大 のものには大小二十八枚継がある。即ち法 量 の積類は左の如くである 枚 二枚継 三枚継 四枚継 六枚継 八枚継 四 九 ハ 長 一 、 幅 一 、 00 前 後 ︶ 五 0 九 ハ 長 二 、 幅 二 三 O 前 後 ﹀ 五 0 六
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ハ 長 三 、 幅 一 、 五 O 前 後 ︶。
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三、妙伝寺会一、八五。 一 、 四 五 ︶ 新 曾 妙 顕 寺 ︵ 四 、 京都妙顕寺︵= 一、 八 三 。 一 一 一一 一 。 一 、 八 一 一 ︶ 一 、 五 二 ﹀ 一、藻原寺︵四、二0
. 一 、 五 二 ︶ 一 、 玉 沢 妙 法 華 寺 ︵ 四 、 四 O o 三 、 二 五 ﹀十枚 継 十一枚 継 十二枚継 十八枚継 二十枚 継 大小廿八枚継 1『
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本閏寺︵五 、 。 回 、 三 、 二 ︶ 鎌倉 妙本寺︵五 、 三 三 、 三 、 一 二 九 V 元中 山法華経寺? 亨写 玉沢妙法華経寺 、 ︵ 六 、 三 二 。 三 、 五 九 ﹀ 佐 渡 妙 宣 寺 、 ︵ 五 、 一 入 ・ 三 、 四O
﹀ 平賀本土寺 、 ︵ 六 、 二 五 。三、七O
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︶元身延、︵五、入九。三、七 三 ﹀ 岡宮光長寺 、 ︵ 八 、O
五 . 四 、 一 一 一 ﹀ かくの如く、個人授与は一紙三紙が多く、若し六枚以上のも の は概ね 道場安置 であっ売と と は、玉沢外 藻原寺 、本 国 寺 、法華 経寺 、 妙宣寺 、 本土 寺 、 身延 、光 長 寺等、何 れも由緒あ る諸山に 存せ しことに 依 て も知るととが出 来 る。以 上は何れも絹紙墨書であるが、遠泊亨師模 写 中に ﹃紺紙金泥古損 、巾一尺八 寸二分 、 長二尺 七寸二分、外俵紙 有之 ﹄ ( 17) と添書せる 一幅がある の勧請式は首闇二悌四菩薩、文殊、普賢、繭勤、薬 玉 、二明王のみが下部に金泥の 青 蓮華 が 画 ﹃ 裏書元和元年乙 印孟秋修補 日遠 ﹄ とあるが 或は身延御 入山 当初道場安置 かれ、文永頃の勧請式 と拝 せられる L が のものかとも考へらる L が、紺紙金泥のもあったことは明か で あらう 。 山中、京都 三 九 。 示四に現在の 憂茶羅の所在 であるが、御本尊集二 コ ニ 幅を地方別に見れば 七 千 葉 静 岡 山梨、岡宮 各五 。 東 京 玉 沢 各 四 。 佐 渡 鎌 倉一
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u 所在不明各三。富士、滋賀、堺、埼玉、尼ケ崎 各 二 。 三条、犬坂、佐賀、桑名、和歌山、市川、高知、香川、熊本、横浜、 愛知 、 福 井、大村、各一、 右の如くであるが、其の他に焼失等三十内外を見るのである.右今日の所 在に依 て古来よりの宗勢 一 斑 を 窺 ひ 得 る如く、京都中心に三九他の記録と合して粗四十を数ふることは、 乙れ彼地一が往年諸本山の集団であった盛事を物語る一 史料である。身延の如、きは現に僅一幅のみであるが、往年の二十余幅存在の記録は、接神の道場として当然のととで あらう。又静岡は玉沢、岡宮、富士等を合ナればとれまた二十内外となるが、彼地は宗祖晩年に於ける有力なる壇那 の集固なりしことが考へられ、千葉も藻原、中山、市川を合して同様に考へらる L のである。以上の中捜与の道俗の 大半は、全く宗祖と如何様の因縁ありしか不明の侃処は、 これ等を対象として当年の子檀に就て一層の研究を要ナる ととを痛感ナるものである.
王
以上蔓茶羅の勧請並に授与を姐つての総括的の研究を述べた故に、以下讃文に就てその一斑を見ょう、讃文の最初は ( 18 ) 平賀本土寺の文永十年頃の本尊で、本 尊 般に受持譲与を明してー経大に寄せて十界常住を説き最後事観決定 。 を証ナる に妙楽輔行の理観決定の﹃当知身土一念 三 千乃至一身一念遁於法界﹄の文を随義転用せられて居るが、右の同女を讃文 とせられて居るととは、此の憂茶羅と本尊紗との関係も考人られるのである.次には佐渡始顕であるが、上段は首題 二併、普徳、分身、四菩薩、中段は右に文殊、繭勤、焚天、日天、輪王、修羅、左に舎利弗、桓因、月天、電伸 一、天 照、八幡、下段は右に前五利女、天台。左に鬼子母神後五剃女伝教も 四天、二明王の総帰命式で、讃文には薬王口聞の ﹃此経則為乃至不老不死﹄の文に次で 長 永 八 年 ハ 大 才 辛 来 ゾ 九 月 十 こ 日 ‘ 蒙 一一 御 勘 気 − 遠 流 一一 佐 渡 国 一 、 同 十 年 ︵ 大 才 奨 酉 ︶ 七 月 八 日 図 ν之、此法華経大憂茶羅働減 後 二 千 二 百 余 年 、 一 閤 浮 提 之 内 未 ニ 曾 有 − v之日蓮始図 v之 . ﹃ 如 来 現 在 、 猶 多 怨 嫉 、 況 減 度 後 ﹄ 法 華 弘 通 之 故 有 一 一 留 難 一事悌語不 ν虚也 等 と 犬憂茶羅図顕の由来が明記せられて居る . 若し翌年六月天目授与の妙満寺蔵絹地には 、 警喰 、 法師、安楽行口問の三文と釈畿の一女の経疏四文の与で、 宗 祖の讃 文は依くが、同年七月藻原寺の六枚 継には ﹃ 甲 嬰 之 国 波 木 井 郷 於 ニ 山中 一図 ν之﹄と畝筆の 地 を明記 し 、 勧 請 は前二幅 より梢詳細で、党釈に無 量世 界 、 天照八幡に大日本国主冠らせ 、 始めて 天 熱提婆 、 未生 怨 阿闇世並に 竜 樹 天 親 をゐ 列 ね、その讃交は 六覚世尊入滅後二千二 百 二 十 余 年之問 、雄 レ 有 一 一経文二閤浮提之内、未 レ有犬憂 茶 羅也 、 得 意之 人察 v之 の一文のみを記し。同年十二月保田妙 本寺の三枚継に も山中 図之に次 で 犬覚世尊御入滅後、 経 歴 二 手二百二 十余年 、 雌 ν閥月漢日 三 ヶ 国之間未 ν有 v之 、此 大本 尊 或 知 不 レ 弘 v之 、 或 不 ν 知 ν ( 19 ) 之、我慈父以 一 一悌智 一 回 昭 一 一 留 之 − 為 一 元 代 一 残 レ 之 、 後 五 百歳 之時 上行 菩薩出 ご 現 於 世 一 始 宣 レ 之 等と見ゆる如く、御入山 当初 に は 未 だ 一 定 の 讃 文 友く、滅 後 三 国未有を右の如く表現したのである。然るに文、水十二 年四月の京都妙伝寺 、 堺妙国寺蔵等の議 文 に 至 っ て 悌 滅後二 千 二 百 品 川 余 年 之問 、 一 閤浮提之内未有大憂 茶羅 也 等と簡結の成語とな旬、 間来 常に同一の 讃交 が用いらる L 忙 至 っ た様である 口 右の如く蔓茶羅の讃文には右のん一訳祖白讃の三国未有の文に、上掲の経疏の文を使用せられるものとの こ 種である が 、 前者は必や讃文として用ゐられて居るが、 後 者は不 定と いふより時折 使用せら れたので あ る 。故に前 者を 通途 、後者 の 経 疏 の文を 別 途の讃文と分ち、上掲の御本幅集並に記録の 一 五六幅中 讃文の有 無 通 別並 に単複等に就て 之 を見るに
無讃文 ﹁ 二 十 単 通 讃 ︷ f 一一 十 単経疏 複 讃 文 十 十 討 − 一 一 一 ニ ︵ 集 一 六 模 ム ハ ︶ 五 一 一 一 ︵ 集 四 三 、 間 表 一
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﹀ 五七︵集四四、 旧 表 一 三 ︶ ︵ 集 ︶ 四ハ集 ! 日 表 一 一 ﹀一
一
、
九︵集 七 ! 日 表 一 一 ﹀ 一 五 六 ハ 三 一 一 一 ︶ 右の中複とは通別両殺を併用する場合であるが、弘安元年に花押も変へられ、三年頃からは全く経疏の讃文は見えな 大 量奈雑が粗ぽ完成 したものであらう。 ( 20 ) くなったととは、此の頃古来所謂再治 又 は随白と呼ばる L 如 く 、 若し通讃文の二十三十であるが、若し宗祖の遺文中に仰減年代を判然述べられたのは、次の諸簡で 文永十年 建治二年 弘安元年 ︵ 波 木 井 紗 ︶ 二千二百二十二年 ︵報思紗︶ 二千二百二十五年 ハ 妙 法 尼 妙 ︶ 二千二百二十七年 これは古来通途の周書異記に依るもので、二千二百一十余年は時国砂一篇のみであるが、大数に寄せて二百余年、二 百 二 十 余 年 、 二百三十余年の三種も何れも数篇を数へることが出来る。若し確実に二十余年は文、水九年後、三十余年 は弘安五年以後である。併し大 受奈羅の説文 に 於 て は 、 文永年聞に既に 三 十余年と記し、建泊三年に二百余牛が見え、 二十余年に至つては建泊元年より一一一年、弘安元年の末‘頃正に三年初闘にも使用せられて店ゐ u 古来本尊資料等に二十三十を弘安前後の別と在し、憂 茶羅 様式の再治未 一再 治 . 本 意 の 顕 未 顕 、 或 は 随 自 随 他 ︵ 一 、 ゴ 一 、 ゴ 一 一 一 。 ニ 、 二 っ き 等 の 分 別 と在ナことの、必十しも当ら在いことは、遺文に於ても亦同様である。故に今遺文讃文に於けるこ百、二十、=一十余 等の三種の表現に就てとれを見れば次の如くである 。 即ち文永元年の月水紗、南条紗、同八年の富木入道殿御返事、九年の関目紗、祈稽紗は二千二百年とナるが、 十 年 は佐渡始顕以前の故に且らく描き、文、水十年の妙法 憂茶羅 供養、本尊紗副状、顕悌未来記、富木殿御返事、同十二年 三月の曾谷入選殿許御書は二千二百二十余年に作り。若し 憂茶羅 に於ては十年の佐渡始額、十一年七月の藻原寺旗、 十二月の保田の妙本寺蔵等何れも二十余年に作って居るが、文 、 水 十二年四月の上掲京妙伝寺、堺妙国寺、鎌倉妙本寺 佐渡妙宣寺の四幅は 三 十余年に作って居る 。 その後に於ては遺犬、讃文 φ 行して、二百余年、二百二十余年、三十余 年等と随宜に記述せられて居る様である。建治元年の撰時紗には三十余年を見るが、 同 年
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法蓮紗.二年の単衣紗御 《21) 振舞紗等は、元年十月の新曾妙顕寺憂 茶羅 より同三年九月に至る御本 尊集 一回、旧表一二の組ぽ二十六幅は二十余年 に作り。建治三年の初心成悌紗、並に同年十月京都本能寺、本閤寺並に旧表一六の 三幅 は二百余年に作る口若し建治 三年当時二百年に作ったとすれば、憂茶羅中ι
もその後二百年に作ったものがない故に弘安元年九月の妙法尼御返事 二年五月の 宝軽法重 事は建治 三年に系 け る べ き で あ る 。 弘 安元年四 月京都立本寺 蔵 より同 二年 九月和歌山蓮心寺蔵 に 至 る = 一 三幅中、元年十月本園寺、二年二月中山浄光院のご幅のみ二十余年と作り、他の集一六旧表一三の二九幅と 元年七月の千日妙、九月の四条紗・、本尊問答紗は三十余年に作り、二年十月の聖人御難事、並に同年同月の新曾妙 顕寺蔵より十一月忙至る六幅は二十余年に作り、弘安三年二月初旬の堺妙国寺等の四幅は三十余年、同年二月の真間 弘法寺蔵より三年六月迄の組ぽ三O
幅は二十余年、三年十二月の四条八幡砂並に同年八月光長寺蔵工り五年八月所在不明の日 興授与 ︵ 表 六
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﹀の組 三 十 幅 ぽ 三 十余年に作って居る。 二OO
余年!建治三︵三︶ 二 二O
余 年l
文 、 氷 十 一 ︵ = 一 ︶ 建治元 | 宇 一 年 三 二 ハ ﹀ 区 安 二 年 一O
月 三 ハ ︶ 弘安 三 年 二月︵ 三O
︶ ノ\ 宜 二 三O
余 年 i 女 、 永 十 二 ︵ 四 ﹀ 弘安元l
二 年 ︵ 二 九 ︶ 弘安 = 年 一 月︵四 ︶ 弘 安 二 一 年 六月l
五 年ハ三O
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/¥ 七 かくの如 く 二 十 余 年 、 三十余年は 、必歩しも建治、 弘安の年次の相対では なく、随 っ て 蔓茶羅 の様式とは 直 接関係 はないのである o 即ち 遺文讃 交に於ける 三 様の年代的 表示 は、法華 経の末法相 応なる所以を時間的に 表示 したもので ‘ 啓蒙講師が遺文に見ゆる併法東漸年次の 表 現 に 就 て 、 ﹃ 若 過 若 減 背 存 大 数 ﹄ ︵ 啓 八 、 五 七 o 二 八 、 一 O 一 ﹀ と 会 四 押 せ る如く 犬数一を以て末法の表示したもの在るととは、犬憂 茶羅室 鎗秘決に﹃本 尊 之中弘安 三 年巳前 、 二 千 二百三 十 余年者 、 年 蓮 祖 一 代 顕 一 一本 尊 一 故 、 約 一 一 蓮祖巳前未曾 ’ 有 交 旨 − 、 或二十或三十書 ν 之 殿 、 若 週 来 減 品 円 存 斗 人 数 、 何 若減 可 ν諭 − 一 少数 −乎(
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紀 不 正 当 祇 以 一 一 大 途 一記 レ 之 ﹄ ︵ 資 料 二 、 三 四 二 ︶と会し、什門 θ 日 達は菰諦抄に とは先の両義を綜合したる会釈で、 全く本 門三秘の殊勝の 表 現に外ならぬのである。随 っ て 三 種はともあれ 二 十 三 十 の二種は随時意巧に依て用ゐら・れたものであらう。 若し別途の讃文たる経疏の交には 、凡そ 女の十元女を見るのである。 一 、 無 量 義 経 四十余年未顕真実の女 二、方便品 世 尊 法 久 後 、 要当説 真実 の 文 二、警諭品 今此 三 界、皆是我有、共中衆生、悉是吾子、市 h A寸此処、多諸患難、唯 我 一 人、能為救護の女 四 、 法 師 口 川 若於 一 拍中、常懐不善心、作色而罵悌、獲無 量 重罪、共有読前持 、 是 法 華 経 者 、 須嬰 悪加言、其福 後過 彼の文五 、 全 六、全 七、宝塔品 八、安楽行品 九、寺景 一 n m
一
O 、全 二 、 神 力 口 問 一 二 、 薬 王 品 一 づ っ 如 来 性 品 一 回 、 病 現 品 一 五 、 党 行 口 問 一 六 、 釈 一 七 、 文 句 記 一 八 、 輔 一 九 、 依 鳩 山 集 我所説経典、無畳千寓億、己説今説当説、而於其中、此法華経最為難信難解の大 雨此経者、如来現在、猶多怨嫉、況減度後の大 妙法華経 皆是真実の文 一 念 三 千 、 故成道時、称此本理、 誘者閣罪於無問、讃者積福於安明の文ハ金二、六O
四 ﹀ 以上の十九種で閉経惇教の各一文法華経の十一文、浬挺並に妙楽の各三文で、何れも経緯中の名文中の名文で、文、水す 年頃の平賀本尊忙輔行の一文を同ゐられしより、全十一 ’年妙繭寺本尊に誓聡品等の別讃の五文、建治二年四月の玉沢 一切世間、多怨難信、先所 未説 、市今説之の文 余失心者、見共父来、雄亦歓喜問訊、求索治病.然与其薬、而不肯服の文 是好良薬 今留在此、汝可取服.勿憂不差の文 以要言之、如来一切所有之法、如来一切自在神力、皆於此経、宣示顕説の文 此 経則篤 閤浮提人 、 病之良薬、若人有病、得聞此経、病即消滅、不老不死の文 諸併所師、所謂法也.日疋故如来、恭敬供養.以法常故、諸悌亦常の文︵一二、三八七︶ 世有三人、其病難治、 一誘大乗‘二五逆罪、三一間提、如是三病、世中極重の文︵全四三一﹀ 警如一人 、 而 有 七 子 、 是七子中 、 一 子 遇 病 、 父 母 之 心 、 非 不 平 等 、 然 於 病 者 、 心則偏重の文ハ全四八一︶ 畿 己今当妙、於技固迷 、 舌澗不止、猶為花報、誘法之罪、苦流長劫の文︵三下七九左︶ 有供養者 福過十号、若悩乱者 頭破七分の文︵一O
四 二 ︶ 行 当 知 身 土 、 一身一念、遁於法界の文︵五 三 二O
左 ︶ ( 23 )の 本 尊忙涌讃 −r 一 薬 王 口 川 雄 一 寸 別 讃 の 五 女 、 全年九月 身延焼 失 の 薬 主 口 問 の 外 、前 と 異 ゲ問讃 の五女 、 弘 安 一 冗 年 八 月海提寺 本 尊に通讃の外妙楽、伝教の二文、全年十月の二十八枚終等岡 山 引 いの二一帽に、右の外法師品の一文が加へられ党る等が、 別讃の片較的 多数 用 ゐ ら れたものであるが、弘安三年の本閏寺本 尊の今此 三 界が別 讃 の最後のものである 右の別 讃に就 て見るに中心讃文に依て、 旦 くこれを誓 倫品系 、薬 王 口m 系 、 妙楽等疏文系の 三 類に 分 つ と と が 出 来 旧 表 は を 以 て 御 執 筆 る J 今 煩 雑を避 く るため上掲経疏配列を番 号 を 以 て 示 し 、 憂茶 羅を示ナに御本尊集は単数 字 、 の 年 失を番載 に 依 て 、 三 系 統 の 八 す 類 を 示 さ ば次の如くである 口 CU ハ U , 6 9 一 . . − 一 、 壁 一 品 系 一 一 一 1 ︷ 五 、 六 、 八 ; ・ 一 六 ・ ︶ 28 29 ︵ 妙 浦 寺 ︶ 薬 王 口 r r日 系 九一。一 一一0
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最後に憂茶羅の芸術的商に就て見る忙、 密教の憂 茶羅 は両部は勿論観智 儀軌 も 、 皆彩色を以て 一 剛かれたる 絵憂茶羅である。併し増教にも周子を以て一聞かれたる法要 事 ノ羅があるが 、宗 祖 の 女 宇 品 克 容 ︵ 羅は同吃様忙依では法呈茶羅に暗示を 得たものとも考へられる。か︿絵蔓 草 川羅 から文 学長茶羅となったととは 、像法順縁の 多造塔寺時代は既に去づ て 、 末 注逆織の闘誇時代と在り、従って時代的忙簡素化せられぎるを得友かったととからでもあらう。況や開宗早々留 一難重 昼の瑚文字憂茶羅は 、後の広布の折の荘厳 道場の設計書とも いうべきであらう。とれ後世 二尊四士の造像を見た と と に徴して明かである.併し憂茶羅は単在る設計書でなく、信念の対象在る故に文字の羅列ではなく、中央の首題の如 きは日女紗に﹃妙法五字の光明にてらされて﹄と見ゆる如︿、自ら悌陀の犬悲の加被を光明点守 一 以 て 表 現 し 、 四方に 四 一 大 王 を 犬書し、就中両側の二明王下部の花押等は荘厳の意を加味して発字を用ゐ、品 瓦 茶 羅 としての芸術的要素は充 分 に観取ナるととが出 来 るのである・後世本 草 論 資 科等に見る光明点等に関ナる極々に口伝は全く此の事実を物語る も の で あ る 。 ( 25 ) 先づ二明王の勧請に就て考ふる忙 、全く法 華経に無きにも拘ら示 、 とれを勧請されたのは近ぐは建長六年の感得に 由 来 す る も 、 恐らく宗祖修学当時真 一 一 一 口 で行はれたるこ明主の一門呪習に由来ナるものであらう 。今 日に於ても両密共 に 日 常 行 事 に 、 大日真 言 を 一 間 ナ る 前 に は 必 歩 、 先 づ 愛染 の根本印呪と不動の慈救呪の真言を悶ふる風 習 があるが、先 づ愛染印呪を唱へて衆生本有の欲染煩悩を直ちに真浄菩提心となし、 次で慈救呪に依る本不生知日に住して、 欲染
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動 せざる堅固の菩提心たらしめんがためで、 朗門の二明 王勧請 を煩悩即菩提.生死即浬繋を表ナとは此の意である。叉愛 染は本門の随縁真如、 不動は 遮 門の不変真如で、 本誼二門境智定都一品を表す等々種々の釈を見るに至ったものである。 何れにせよ二明 王を不動の活恰 V W H 廿愛染の争時 げ ロ 目 の党字の障子を以て表し、両側に勧請せるは畳茶薙の芸術的 表現に由来するものである。次に聖人の花押も亦荘厳の意であるが、とれ叉憂 茶繰 の創造者といふより、御振舞 紗 に ﹃ 妙 法蓮華経の五 字 、 末 法 の 始に一閤浮提にひろまらせ給ふべき瑞相に日蓮さきがけしたり﹄の意を以て、御自身の花押 を 十 ヘ 書して、諸併の台座た る蓮華座に擬したものであらう。若し花押の文字に就ては日 実 の 本 尊 相 承口決 に は 、 愛染明王の種子 を 争 時 官 自 と い ふ が 、 日朝の御判 形 事を始め、朗門の大 憂茶羅 事 、 日 実 の判形口伝︵資科 二 、 二 三 、 六 o 一 、 二 = 一。 二 、 四 五 、 ご ご 入 ︶ 紘 一 寸 軌 れ も大日 一字金輪悌頂尊の種子歩勃幡町
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と解して 居先 が、先 年 山川 博 士 は宗祖の花押は 二種 主 り と し 、 弘安 元 年七月の実相寺本尊以前、全年六日廿五日日女品々供 養以 前の遺文の花押は、悉く金剛界の大日如来の 種 子 の司銀 ︿卦で、同年七月以 後 は一宇金輸の種 子手勃 隠崎なりと 考 証 し た が 、 ︷ 一 亦 組花押にかくの如き相違のあるととは、御 本尊集等に依っても明かである 。 先の本 誌の稿 の如くであるが、然るに 昨年鈴木教授は大崎学報 百 号K
﹁ 日 蓮 聖 人 の の鎖も亦5
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自 で ︿ と ト の 中 聞 に2
があるが如き 巌を残 し て 居 る が 、由来金剛大日の種子 た る 銀字 は 、 略 出 軽 ( 26 ) 花押に就て﹂主題し、同様にその変 選 を認めたが、後の勃噌崎は婆σ
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ω 凶 器 店 鴫 向 摩 目 白 四 字 の 合字たる如 く‘前 一 に ﹃ 於 一一 虚 空 − 想 一 一 鍍 宇 一 為 一一見直遮那俳一﹄等と見ゆる如く、胎蔵界大日の 麗子 たる地 大 の 茶 阿 $ 字 に 対 し て 、 水 大 種子売る鋭 宇 を以てナることは、金剛井 県位 の大日は 銀字の太智 水を以 て、衆生の阿字理性の 地に癒ぎ、仏 種 をして 芽藍を生 長 せしむる議なりといひ.且ハ J 鋭 字 は 単 の 司 、 婆 ︿ 立 でたく宍の 上に空 点の目の あ る ・ 4 1 銀 字 で 成 身会の 大日 を表すとい︿ば、若し鈴木教授の如く銀︿釦 門 唱の中聞に2
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が あ り と す れ ば ‘ 一 宇 金 輸 の稜 子と同じ く ︿ 白 日 目 叉 はE
日目勃臨時で、同類の音となるとは悉曇学者の説である o 故に花押は前は可鋭、後は手勃噌崎が正しい様で あ る o 最後に問題となることは何故 真言 亡固と呼びつ L 、 宗祖 が大日の 種 子 を 花 押 に 用 。 、 又 何故に鍛を 勃 噌 崎 に 変 へられたかのととである。ム ﹁ 黒祖の焼事 一経の行法もんろ問日は、行法の形式としては舟怖忙類似して罵るが、 A K 怖が称名と在る如︿革に禰陀名 号と仰する左異り、経の間同たると同時に 真 言の意の存ナるととは、間同紗忙芳郎同品、 同 論 ず 一 義 一 記 、 害 時 疏 、 支 義 、 大智度論等を引用して具足の義を釈成し 妙 枠 内 調 謹 一 経と申十は演需品、 同氏には慌 − 書 購 ハ ザ 陀 判 制 蘇 冬 倒 閣 と 申 ナ 、 益 門 飢 一 畏三臓の法華純の肝心真吾一円に云、乃宅此 真 畳 一 口 ば 商 工 人 俳 一 一 の供一塔の中の法燕経の肝心の宜 、 昔 物 。 此 貰 昔 前 の 中 に 陪 哩 捧 磨 、 と 申 ず は
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. 法 た り 、 躍と申ナはF
一 也 、正 は妙也、古人枠内華妙法華是也口叉妙法蓮華経の主に南無の二字ををけり.南O
経とれ左り と釈し 、 木尊紗にも同一持文そ引き﹃怠加工会週一如 ν掠 二 本 文 − ﹄ と 述 べ て 、 直ち忙受梓譲与を説き 、報恩 紗 に は ﹃ 一 部八巻の肝心、亦復一切経の肝心﹄、 日女紗には﹃五椀頓修の妙行﹄と説ける如く、間目は若し単なる経題にあらや とすれば、韓尊の閃行果徳具足の真一吉と解し得るのである 。宗 祖は天台の一念三千観を像法過時、去暦時食と反して ( 27 ) 唱閤即観に飛躍ナるためには、加持的に悌所諜念の一念信解を止揚したくは友らぬ。二明王の勧請や、花押に大日の陸 子を用ゐられた乙とに、何等か関連した 意 味があるのではなからうか。加持とは顕教では桝所護念の意に外ならないの 若し花押に何等かの意味ありとナれぽ 、 題目より寧ろ量 茶羅 との連開を考へ在ければならぬ.宗祖は法華経の行者 を以て任ナる故に、長茶雑は上述の如く昔 迩 本の興肢を経先、本門観心の大 憂茶羅 である。故に讃文には 三 国未有と 述 ぺ て 居 る が 、 題目行を唱題即観と主張しつ L 、事観とい仏事の一念三千等と天台述語を捨て去れぎる如く、建治 に至るも向二部ム口論に立つ両界の大日を留め、 上段は維然胎蔵中台八葉九尊の形相を留めて居る 。文 永建治の交に常 忙鍵字即ち金剛界大日の種子を用ゐられたことは、憂茶閉維の形相に自ら両部合成の意を留めたものであらう。故に法 華二門開顕の意を両部合成の意忙寄せて顕したことは、 静念の行林抄赤十五に観智儀軌の本尊に就て抑此法本有師説不問、或云無量寺決定如来、或一式祝迦、或 一五普賢、此等之中正所伝受如何。私一式師一式法花大旨憂茶 羅 意 、 専 以 一 一釈 迦 一 可 為 一一 本 部 一 。 間 以 者 側 、 於 一一 法 語 経 一 為 一一 能 説 教 主 一 。 於 一一 長 治 維 一 為 一 一 中 台 噂 一 。 笠 岡 一 一 此 伸 一 求 他 尊 哉 と儀軌の本 尊を釈迦 と な し 、 ・ 更 に 行 法 に 就 て 問、今軌行法両部合説云々、其意如何。 答、師伝云台蔵金剛両部法印、回疋法華本述二門也.台膜症門即理界也、 金剛本門即智界也、 理 界 智 界 名 ド 依 ニ法華本迩二門 ︼ 也 ハ 正 七 六 、 一 二 七 ︶ 等と見ゆるに依ても明かである。然るに弘安以後に五つては、古来再治と呼ばる L 如く、上山地行林抄忙二仰を胎蹴定印 金剛智印となし、﹃或 長奈 羅 如 レ 此 絵 ν之、是等皆存一一両部兼顕之意一殿﹄等と見ゆる如く、両部の大日は勿論、普徳十方に 依る胎蹴八葉の形相を全く捨て L 、純法華本門所顕の憂茶羅となナに至った故に‘建治時代に残れる両部合成、 両 部 犬長茶羅の意を表したものでは在からうか。乙れ綱要帥の所諮﹃破 一一 彼 三 密 一 立 一 日 山 三 秘 一、 鹿 ニ 彼 両 部 小 憂 茶 羅 ︸ 顕 ニ 此 十 界 ( 28 ) 相対の意を捨て L 、花押も両部不二の法身、売る一宇金輸の大日の種 子 勃晦崎を以てし、始めて顕密超過の法華本門の 大憂茶耕−﹄等といへる如く、宗祖弘通の本門三秘妙行は顕密起過の行法なるが故である。 若し花抑の空点が鍵形よ り政形︿の変化に就ては、書き馳るにつれて絵画的芸術味が、何時しか加へられたものであらう・ 献 の J て思ふに従来︷一ホ門に於ては、常に本化別頭を標様、宗祖は天台伝教を外相承の師と仰ぎ、憂奈羅の讃文にも ﹃ ニ 一 国未有、或知不 ν弘 ν之﹄等と遊さるるにも抱らや J、承継等を悉く無視し、別頭とは全く別種のもの L 如く解ナる が、併し宗凪が常に天台伝教等を知て弘めや J とは、難修雑行を知ってといひ、専修易行の意を弘めや J解ナべきであら う ο 宗祖は真 一一 = 口 の 阿 関 梨 で も な く ‘ 天台の座主でも友く、 ﹁一向に他事を捨て L 題目を唱へよ﹂と叫ばれた、閤浮提 矛一の法華経の行者であられたのである。 ︵ 二 九 、 一 一 、 一 一 ゾ