清朝末期における権利の受容と変容 : 欽定憲法大綱と臣民権利
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(2) 横浜国際経済法学第14巻第2号(2005年12月). れまで消極的な評価や否定的な評価が多く見られた5)。確かに,現代中国法が 1949年2月の「中共中央の国民党の六法全書の廃棄と解放区の司法原則を確定. することに関する指示」. 6)に基づき中華民国法を全廃することから出撃し. ることに鑑みれば,中華民国法以前の清朝末期の欽定憲法大綱など否走すべき ものなのかもしれないょ もっとも,この欽定憲法大綱には「,EE民権利」が規定されていたことを忘れ ●. るべきではないだろう。憲法草案制定にあたり,、清朝政府は,西洋的な人権概 念を受容し,それを変容したかのように見えるのである。ここで想起して欲し いのは,制定法や制度の村象となる人々の意識,生活実態や,それを背景とす る制度の運用などは,法令の公布,施行で直ちに変わるものではないことであ る7)。清末に制定された欽定憲法大綱の「臣民権利」の中に,現在の中華人民 共和国政府の「人権」に対する考え方などにも通じる要素があるかもしれない のである。ところが,これまで「臣民権利」に焦点せ当てた研究は,あまり多 くなかったように思われる。 そこで,本稿では,近代中国における「法の継受と変容」という視点から欽 定憲法大綱を考察することで,清末に人権概念がどのように受容され,それが どのように変容したかということを明らかにしていく8)。. 第1節. 西洋の衝撃. (1)西洋の衝撃と洋務運動 中国における近代の始まりは,一般的にイギリスとのアヘン戦争(1840年) であるとされている。アヘン戟争敗北後,戦費と賠償金を支払う為に増税が課 され,また,各地で早魅や水害などの自然災害の発生も加わり,民衆の生活を. 非常に圧迫したことから,匪賊や流嘩が増え,地方の治安が悪化した。こうし たなか,洪秀仝らが率いる拝上会によって,太平天国の乱が引き起こされた。 そして,これに呼応した小刀会が上海を占領したことから,上海当局の要請を 30.
(3) 清朝末期における権利の受容と変容. 受けて,フランス軍は小刀会の反乱を鎮圧した。その後,英仏両国は;清朝の 苦境に乗じて公然と武力干渉に転じ,義勇軍を編成し,郷軍と協力して太平天 国の都である天京を包囲し, れに加えて,. 「アロー号事件」. 1864年7月に太平天国を滅ぼしたのであった。こ. (1856年10月)を契機とする英仏連合軍による. 首都北京への侵攻,円明囲まで焼き討ちされた第二次アへン戦争における軍事 上の敗北は,清朝政府にとって深刻かつ重大な事態の端緒となった。西洋の機 械技術の優秀さと清朝政府の弱体化が明らかになってきたのである。 こうしたことから,. 1861年に同治帝が即位すると,西洋の技術を積極的に. 導入することで西洋の侵入を防ぐという洋務運動が繰り広げられるようになっ た9)。この洋務運動は,. 「中学」を「体」となし「西学」を「用」となすという. 「中体西用」論10)に基づき,西洋の機械技術の根底にあると考えられた自然科 学の優越性を認め,それらを導入して中国の自強を実現するという,曾囲藩, 李鴻章ら洋務派による読みであった。この洋務運動では,西洋諸国に対応でき る技術の導入に主眼が置かれた11)。. (2)不平等条約の締結と『万国公法』の翻訳・刊行 清朝など中国歴代王朝は,そもそも自国と対等な他国の存在を認めてこなか. った。清朝と他国との間には,周辺の従属国の代表が定期的に中国を訪問し, 皇帝に貢物を差し出し,所定の儀礼的な挨拶を行い,皇帝に対する従属の意思 を表す「朝貢関係」と,周辺諸国の支配者が交代したような場合に,清朝から 冊封使が派遣され,新しい支配者の地位を公認する「冊封関係」が存在するだ けだった。. ところが,軍事上の敗北の結果,清朝政府は,西洋諸国と不平等条約を締結 することになった12)。不平等条約体制の下で,清朝政府は,西洋諸国を対等な 存在であると承認することになったのである。そこで,清朝政府は,従来の 「朝貢関係」 「冊封関係」において他国の代表を接遇する機関である礼部や理藩 院に加えて,外交機能を営む総理各国事務街門(総理衛門)を設立し,条約締 31.
(4) 横革国際経済法学第14巻第2号(2005年12月) 結国との関係を管轄させることにした13)。 こうした状況の中で,プレスビテリアンの宣教師として1850年に着任・した アメリカ人のWilliam ある"Elements william. Martin. (中国名,丁題良)は,. of International. Martinが"Elements. HenryⅥ1eatOnの著作で. Law"を1862年に漢訳することを始めた。. of International. IJaW"を漢訳した動機としては.,. いかに強国であれ,外交にお∨-ては自国の自由にはならか、という「諸国交際 の道」を示し,それによって,上述の「朝貢関係」や「冊封関係」を含む中国の 国際観念である華夷観念を打破する意図がこめられていたと言われている14)。 この訳書は,. 1864年に『万国公法』として刊行された。. この時期に注目すべきは,日本も植民地や保護国にならないという保障がな かったということである。こうした危険から逃れるために,日本は,主権を持 った独立国家として西洋諸国に認知される必要があった15)。そこで,. 1864年に. 刊行された『万国公法』は,翌年には開成所をはじめ松江,延岡なとの諸藩で 翻刻され,訓点本や和訳本,註解本などが出版されるようになった16)。そして, 日本では,西洋諸国との不平等条約の改正が国家的政治課題となっていったの であるチ7)。. その後1894年に,. 「文明国標準」に達することを国是として国際法18)を受入. れた自本は, 「朝貢関係」 「冊封関係」に固執する清朝と戦争を開始することに なった19)。この日清戦争での敗北を通して,清朝政府に近代西洋型の法観念が 徐々にもたらされていくことになるのである。. (3)博雲龍の日本の調査と大日本帝国憲法 ところで,清朝政府は,. 1877年に最初の常駐外交使臣として郭嵩責をイギ. リスに派遣した。これ以降,欧米及び日本に清国公使館が常置され,外交官が 派遣されるに至った。この外交官派遣と平行して,・清朝政府は,西洋諸国への 官費留学生の派遣を開始するこ■とになった。こうした外交官の派遣や官費留学. 生の派遣は,西洋社会をより正確に認碍し,その学問,技術を摂取しようとす 32.
(5) 清朝末期における権利の受容と変容. る努力の現われであった20)。 外交官の派遣や官費留学生の派遣に続き,海外諸国についての情報を直接獲 得すべく清朝政府が採用した方策として,清朝遊歴官による外国事情調査を挙 げることができる21)。この外国事情調査において,とりわけ注目されるのは, 憲法典との接触が見られたことである。西洋諸国の憲法については,. 『万国公. 報』 1875年6月12日号が「訳民主国与各国章程及公議堂解」という記事を載 せ,憲法に「章程」という訳語を当て,その由来及び三権分立を簡潔に説明し た22)。そして,大日本帝国憲法は,博雲龍23)の日本に関する調査報告書■『遊歴 日本国経』24)によって紹介された。これが,大日本帝国憲法の全文を中国に紹 介した最初の文献であると言われている25)。. 『遊歴日本図経』では,大日本帝国憲法について「光緒十五年,明治廿-, 日本,国会を議立するの前一年たり。すなわち憲法を定め,以って其をして下 さしむ。憲法の大要,首目に専権を立て,次に大臣の権を為り,次いで民人の 権を為る。此の三者を以って君民共治の例を為すなり」と記すのみであった26)。 当時,知識人の間では,各国の政体を専制君主制(君主),共和制(民主), 立憲君主制(君民共主)の3種に分けることが行われていた。したがって,この 簡単な記述から,博雲龍は日本を立憲君主国家とみなしていたことが分かる27)。 しかし,他の部分については記載がない。この時点で博雲龍は,大日本帝国憲 法の「臣民権利」には,注目していなかっ■たと推測できよう。. 第2節. 近代法の受容と伝統法. (1)戊戊の変法 日清戦争において清朝が敗北した後,中国大陸への日本,欧米列強の侵攻は 激しくなっていった28)。 1897年11月,山東省でドイツ人宣教師■2名が殺害され ると,ドイツ政府は軍艦を派遣して豚州湾を占拠し,そこを租借地とすること を1898年3月に清朝政府に承認させた29)。■ドイツ以外にも,ロシアが,. 1897年 33.
(6) 横浜国際経済法学第14巻第2号(2005年12月). 12月に軍艦を送り,旅順,大連を占拠し,. 1898年3月に租借地として認めさせ. た。そして,イギリスが1898年6月に九龍半島と香港島周辺の島々を,同年7 月に威海衛を租借地とし,フランスも1899年11月に広州湾を租借地とした。 さらに,日本も,. 1898年9月に台湾の対岸の福建省の不割譲を清朝政府に約束. させた。このように国土が列強に よって分割されていくなかで,国内各坤では, 反侵略の気運が高まっていったのである。 1895年5月に約1300名の連署. こうした内外の危機を踏まえて,康有為は,. を得て「公車上書」を提出し,皇帝に対して内外の危機に対処するために政治 5つの国の歴史を『俄. の方法を変える「変法」を訴えた。そして,康有為は,. 羅斯(ロシア)大彼得(ピョ-トル)変改考』. 『突厭(トルコ)削弱記』. (ポーランド)分滅記』そして『法国(フランス)革命記』. 『波蘭. 『日本明治変政考』. としてまとめ,皇帝に進呈したのである。. 「近い国では,ロシアは元来小国でしたが,ピョ-トル大帝の時代にな. ってから発奮して変法し,北半球を制覇するに至りました。ドイツは特別 に大きな国というわけではありませんが,小国プロシアから始まってオー ストリア,ロシア,フランスに勝利して強大な国になりました。ウイルヘ ルム1世がよくビスマルクを登用して国を治め ■,今では仝ヨーロッパを制 覇しています」。. 「日本の領域の如きは,わが四川1省ほどしかなく,人民. もわが国の10分の1にすぎません。しかるに猛然と変法し,ついにわが大 国の軍隊を撃滅して,わが遼東,台湾を割き,. 2億両の賠償金を奪いまし. た」30)。. 康有為は,ロシアのピョ-トル大帝や明治天皇にならい,光緒帝のもとで清 朝を立憲君主国家へ改変しようとしたのである。 また,梁啓超も,軍隊の強化や鉱山の開発,通商に重点を置く洋務に代わる ものとして, 34. 「大成を為すには,官制を変ずるにある」. 31)と「変法」を重要視.
(7) 清朝末期における権利の受容と変容. した。そして,梁啓超は,. 「変法の本は人材の育成にあり,人材の興りは学校. の開設にあり,学校の設立は科挙を変ずるにある」. 32)と人材の育成を重視した。. ところが,富強を図ろうとしていた清末には各国の言語や人文知識に精通して いる人材が少なかったので33),梁啓超は,日本の学問を取り入れることを主張 したのである。. 「欧米で学びたいと欲するが,旅費が苦しい者は,日本で学べば充分な のである」. 34)。. 「日本は3つの島の広さの土地で,千里ぐらいの国であるが,最近泰西 に習い,政治を維新し,国勢の強さが西欧に等しくなっている。その原因 を推測すると,大体悉く西洋の書籍を翻訳し,広く学問・官僚を集めるこ とにある」. 35)。. 「わが中国では英語を重んじて既に数十年も経ち,それに通じる人も数 千人にのぼろうが,厳復36)を除いて誰一人,その学術思想を中国に輸入す る人がいない」。 「もし日本の学問を修めるなら,漢語に深く通じていれば, 1年間でほとんどその書物を読み尽くすことができ,何らの隔てもない」37)。. 梁啓超は,日本では西洋の書籍が翻訳され,維新が行われたことで,西洋と 肩を並べるようになったと認識していた。そして,漢語によく通じていれば1 年間で日本の書籍を読むことができるので,学問の習得に即効性があり,有効 であると考えていたのである38)。 こうして康有為,梁啓超らは,. 1890年代後半以降,中国の秩序体系そのも. のの変革を目指す変法運動を展開し,光緒帝に「万国の忠告を採用し,憲法の 公儀を行う」ことを要求した。そして,光緒帝は,康有為や梁啓超らの主張を 踏まえて, 1898年6月に「明走国是」の詔を発し,戊戊の変法を開始した。し かし,同年9月,保守派の西太后らが,衷世凱らと結んでクーデタを強行した ことから,光緒帝は宮中に幽閉され,譜嗣同ら6名は処刑され,康有為と梁啓 35.
(8) 横浜国際経済法学第14巻第2号(2005年12月). 超はそれぞれ亡命することになった。こうして戊戊の変法の動きは頓挫するこ とになっ.たのである。. (2)新政 ところが,. 1898年に「扶清滅洋」を掲げて蜂起した義和団が,. 1900年には,. 天津,北京の市内に進出し,欧米列強の公使館を包囲するまでに至った。日本, イギリス,ドイツ,ロシア,フランス,アメリカ,イタリア,オ∵ストリアの. 8カ国の軍隊は,同年6月10日,公使館保護を名目に天津から北京へ進入した。 このような列強に対して,清朝政府は,. 8カ国. 6月21日に宣戦した。しかし,. の軍隊が8月15日に北京を占領したことから,西太后,光緒帝は西安に逃げる ことになった39)。. 8カ国の軍隊による義和団の乱の鎮圧後,清朝政府は,. 1901年9月に日本,. イギリス,ドイツ,ロシア,フランス,アメリカ,イタリア,オーストリア,. ベルギー,スペイン,オランダの11カ国と辛丑条約を締結した。この辛丑条 約によって,清朝政府は,北京の一角の東交民巷を「外国使館区」として中国. 人の居住を禁止し,大活かう北京への通路上にある清側砲台を全面撤去し,北 京郊外の黄村カ.、ら天津を経て山海関に至る,指定された12の地域での列強の 駐兵権を認めることになった40)。このように列強の侵攻が深刻化するなかで, 清朝政府を打倒し,中国を近代的立憲主義国家として再生させようとする武装 蜂起が続発し,南方を中心に革命運動が起こってきたのである。. このような政治情勢を背景として,戊成の変法を弾圧したはずの西太后ら清 朝政府は,列強の中国侵略に抗し,内からの改革・革命運動に処して,清朝を 維持するべく「新政」を行うことになった。. 1901年1月,西太后は,西安の行. 在所で「新政」決行を宣示し,以下のように述べた。. 36.
(9) 清朝末期における権利の受容と変容. 「最近の西法を学ぶ者は,語言文字,機器の製造を学ぶにとどまってい る。これは西法の皮膚なものにすぎず,西学の本源ではない」。. 「本源を捨. てて学ばず,またその皮毛を学ぶのみで,精髄を極めなければ,天下はど うして富強となり得るであろうか。これを要するに,法令を変えず,また 因習を破らずにおいて,進歩発展を欲むようなものである。よろしく改革 を論議し,その可否を決める必要がある。軍機大臣,大学士,六部九卿,. 出使各国大臣,各省督撫は,早速各々の現在の弊害の実情と中国と西欧? 政治を参酌して,法律,国政,官吏,民生,学校,科挙,軍事制度,財政 の全てに渡って,残すべきものを残し,改めるべきものは改め,省くべき は省き,併せるものは併せて,いかにして国勢を興すか,いかにして人材. を得るか,いかにして財政を裕かにするか,いかにして軍備を充奏するか, それやれの知る所を挙げて意見を述べよ」 4.)。. この西木后の発言は,戊成の変法の際に主張された意見を超えるものではな かった。その後,向年5月に,衰世凱が最初の意見を提出した。そこでは,武 力を充実し,財政制度を改善し,.人民の教育水準を高め,留学生を派遣するこ となどが主張された42)。 また,劉坤-,張之洞からは,同年10月に,次のような意見書が提出され た43)。積年の旧弊を破り,中国の政治を改革し,西洋諸国と伍して行く.ために は,. ・育才輿学を第一とすべきである。そのためには,文・武の学校を設立し,. 外国遊学を勧奨すべきであり,学校設立にあたって依るべき学御‖才,西洋先進 諸国を模倣し,これを摂取して急速に発達した日本の例に学ぶべきであり,遊 学についても日本に留学することが一番早く効果がある。そして,立国の大要. には,治,富,強の三つの通があり,一に中法を整頓して治の道具とし,他に 西法を採用して富,強を謀るべきである。この・富,強を謀る11項目の第6項に は,碩律,商律,路律,交渉刑律を定めることが挙げられていた44)。そのため には,外国から著名な法律家を招聴して,法律の編纂に当らせるとともに,そ 37.
(10) 横浜国際経済法学第14巻第2号(2005年12月). れらの法律を学ぶための学校を設け,ここで教授させることが求められた。そ して,西洋諸国の法律に倣う場合にも,日本を範とし,日本に遊学してこれを 摂取し,また西洋諸国の法律を翻訳する際にも,日本語訳から重訳することが 時間の節約になると説かれたのである。 この劉坤-,張之洞からの意見書も,戊成の変法の際の主張を超えるもので はなかった45)。しかし,その後■の清朝政府による体制改革は,この意見書にほ ぼ沿っていくことになったのである46)。. (3)近代西洋型法典の編纂と伝統法との相克 清朝政府は,専ら西洋諸国で行われているものと同種の法律を整え,富強を 図り,それによって,治外法権など不平等条約を撤廃しようとした。このこと は,. 1901年に締結された「中英通商航海条約」に,. 「中国は自国の律例を整備. し,西洋各国の律例と同一のものに改めることを深く望んでいる。英国はその 実現のためにできる限りの協力をなすことを認める。中国の律例の情況及び裁. 判の方法を調査し,一切の関連事項が全て妥当なものとなってから,英国はそ の治外法権を放棄することを認める」. (第12条) 47)と規定されていたことから. も窺えるであろう。 そこで,清朝政府は,. 1902年3月,衰世凱,劉坤-,張之洞らに,中・西の. 法律に熟知している者を慎重に選任することを命じた。そして,同年5月には, 沈家本,伍廷芳に一切の現行律例を検討すべきことを命じる上諭が発せられた。 その後, 1904年5月には修訂法律館が設置され,さらには,伍廷芳の上奏48)に よって1905年に法学教育等を行うための京師法律学堂が設立されたのである。 修訂法律館において近代西洋型法典を編纂するにあたり,治外法権撤廃のた めには,西洋諸国の法制と見合う近代化された刑罰法規が求められた49)。また, 伝統的に中国の国家法は,刑事法及び行政法といった公法分野に限られ,私法 分野には存在しなかったので50),私法の整備も求められた。. もっとも,この私. 法の整備には,民族意識に支えられた異民族支配排斥の革命運動を回避して清 38.
(11) 清朝末期における権利の受容と変容. 朝を保持するという目的もあった51)。 ところが,近代西洋型法典を編纂するにも,当時の国内状況から見ると,西 洋の法律に精通している者が非常に少なかった。当時,西洋の法律を理解して いたのは,おそらくイギリスで学業を修めた法学博士であり,香港で裁判官を 務めたこともある伍廷芳だけだったようである。したがって,清朝政府が近代 西洋型法典を編纂するには,外国人を招聴する以外に方法がなかったのである52)。 このような状況の下で招聴された4名の外国人専門家は,全て漢字を使用する 日本人であった53)。岡田朝太郎(刑法),_松岡義正(民法),小河滋次郎(監獄 学),、志田押太郎(商法)の4人は,修訂法律館での調査,刑法・民法・商法 などの草案の編纂に加わり,京師法律学堂などで法律の教師を担当し,法律学 を教授した54)。これら日本人専門家が加わり編纂された主要な法律草案には, 大清商律草案,大清刑律草案,大清刑事訴訟律草案,大清民事訴訟律草案,大 清民律草案などがある55)0 もっとも,伝統的に中国では,儒家思想の礼(立場ごとの人間関係の規範) が重んじられ,皇帝は,天命を受けて,礼の定めるところに民を導くとされた。 このような皇帝の意思として定められたのが国家法であった56)。中国では,こ うした国家法の中の刑罰法典として律が伝統的に存在していたのである。とこ ろが,近代西洋型の刑法典には,礼に反する行為に対する刑罰が規定されてい なかったことなどから対立が生じることになった57)。・この対立は4つの場面で 生じたと言われているが58),欽定憲法大綱制定以前には,次のような対立が見 られた。. 1906年に,沈家本が西洋型の刑事民事訴訟法草案を立案し上奏した際に, 張之洞は,この草案は中国の礼教を破壊するものだと批判した。沈家本は,宿 朝と西洋の裁判制度が異なることが西洋との間に問題を引き起こしていると指 摘し,訴訟の法の改正を訴えたが,張之洞は,治外法権撤廃のために訴訟制度 を変化,適用させることには納得するとしながらも,刑事民事訴訟法草案が西 洋の制度を導入したため,中国の伝統的な教えに反するなどと批判したのであ 39.
(12) 横浜国際経済法学第14巻第2号(2005年12月). る。この対立の結果,清朝政府は張之洞の見解を採用したので,刑事民事訴訟 法草案は公布されなかった59)。 また, 1907年に岡田朝太郎の起草による大清刑律草案が上奏された時にち,. 沈家本と張之洞の見解が対立することになっ:た。大清刑律草案を用いることに 賛同していたのは,沈家本である。それは,従来の刑事,軍事,民事,商事, 訴訟問題など全てを包括する律という方式を採らず,刑事のみを扱う刑律を編 纂する必要があり,その編纂には各国共通の良規を折衷し,最新の学説を取り 入れ,なおかつ伝統の礼教,民情に背かないことを主旨としているからであっ た。これに対し張之洞は,律の複雑な点を改めることが必要なことであるとし たうえで,大清刑律草案は時期尚早であること,日本人の起草であったため, 中国の礼教に反するものとなっているとして反対したのである60)。. こうした沈家本と張之洞の見解の対立を踏まえ,清朝政府は,. 1909年に国. 家統治の根本である礼に関わる条文は変更してはならないとの諭を下すことに なった61)。. 上述の2つの場面での対立に,欽定憲法大綱制定後の2つの場面での対立も 加えてまとめると,次のように言うことができるだろう。沈家本らは,列強の 納得を得やすい刑法典の編纂を急ぎ,新たな刑法典では,体裁が西洋的になっ ていれば良いのであるから,. 「暫行幸程」など別の形で刑法典から削除された. 従来の刑罰を残し,これらの刑罰を必要に応じて中国人に科しさえすれば,国 内統治に支障は生じないと考えた。逆に,張之洞らは,治外法権撤廃の重要性 は感じていたのであるが,従来の法典を形式的に覆すことですら国内治安の乱 れに繋がるのではないかと恐れ,先ず国内の民を教化し民の程度を高め,その 後に新たな刑法典を編纂し,治外法権を撤廃することに導くという手順を踏む べきであると考え1=のである62)。 つまり,両者ともに,刑法典を形式上どのように組み替えるかという点で意 見の相違があったのであって,国家統治の根本である礼を法の中から除去する ことは考えていなかったということができるだろう63)。 40.
(13) 清朝末期における権利の受容と変容. 第3節. 欽定憲法大綱の制定. (1)日露戦争における日本の勝利と政治視察団の派遣 「新政」の実施によって,日本の法制度から学び,体裁を近代西洋型法典に しつつも国家統治の根本である礼を維持することで,自らの体制を保持しよう とした清朝政府に,. 1905年の日露戦争でのロシアに対する日本の勝利は,さ. らに衝撃を与えることになった。日露戦争における日本の勝利は,張審が衰世 凱に宛てて書いた手紙で語っているように,. 「君主専制」に対する「君主立憲」. の勝利として受け止められたのである64)。 このよう別犬況のなかで,自らの弱体化という危機意識を持っていた清朝政 府は, 1905年7月に,載沢,戴鴻慈,徐世昌,端方らを東洋・西洋の各国に分 けて赴任させ,政治を視察し,調べさせることを皇帝に進言した65)。.そして, 清朝政府は,同年8月に載沢,戴鴻慈,徐世昌,端方,紹其の5人を「欽差出 使各国考察政治大臣」. (以下,考察政治大臣とする)に任じた66)。当初,考察. 政治大臣の派遣には,ポーツマス会議で束三省(奉天,書林,黒龍江省)に村 する清朝政府の主権の確保を要求するという政治的意図があった67)。 しかし,. 1905年9月に,戴鴻慈,端方,載沢,紹英,徐世昌の5人の考察政. 治大臣一行が正陽門外の北京駅から出発の途をこつく際に,革命派の呉越による 爆弾暗殺未遂事件が起こった68)。この事件によって,. 5人の考察政治大臣のう. ち,徐世昌,紹其の2人が欠けることになり,尚其亨,李盛鐸が新たに考察政 治大臣に着任すること_になった。そして,考察政治大臣の派遣目的も,憲政視 察と親善使節に限定されることになったのである69)。 こうして,同年12月に戴鴻慈,端方がアメリカ,ドイツ,ロシア,イタリ ア,オーストリアなどに派遣され,そして戟沢,尚其亨,李盛鐸が日本,アメ リカ,イギリス,フランス,ベルギーに派遣された。考察政治大臣が視察する 国家には,立憲君主制度を実行していた日本,ドイツ,イギリス,オーストリ・ ア,イタリア,ベルギーなどが含まれており70),清朝における立憲政の実行可 41.
(14) 横浜国際経済法学第14巻第2号(2005年12月). 能性も調査されることになったのである71)。. (2)戴鴻慈,端方による視察 戴鴻慈,端方のグループは,戴鴻慈の『出便九国日記』によると,. 1905年. 12月に北京を発ち,上海から神戸に向けて出発した72)。彼らは,日本73),アメ リカ74),イギリス75),フランス76),ドイツ,デンマーク77),スウェーデン78), ノルウェー79),オーストリア80),ハンガリー81),ロシア82),オランダ83),ベル ギー84),スイス85),-. イタリア86)の各国を訪問し,議会,動物園,博物館,学校,. 病院,工場などを視察した。そして,. 1906年7月に上海に帰国し,. 8月に北京. に戻った。. この戴鴻慈,端方のグループの行程の中で最も長期間滞在した国は,ドイツ である。戴鴻慈らのドイツにおける調査活動は,.他の訪問国に比べて,特に充 1895 実したものであった87)。戴嘩慈らの視察の案内を担当した人物の中には,. 年から広州領事,上海総領事などを歴任し,中国の事情に詳しかったDr.W. Knappeや,新たに駐九江領事に派遣されるVon 彼らの助力によって,. Lohneysenが含まれており,. 1906年3月7日から4月14日までの間に,ベルリンだけ. でなく,ドルトムント,エッセン,メッペン,ケルン,デュッセルドルフ,ハ. ンブルク,ブレーメンなどドイツの各地を訪問することができたのである88)。 このドイツ滞在中に,戴鴻慈ら峠,皇帝のヴイルヘルムと接見した.そこで,. ヴイルヘルムは,政治改革を行う際には全てを外国から学ぶ必要はなく,清朝 に適合するものを選択すべきであることや,軍事面を重視すべきであることを 彼らに語った89)。こうして,戴鴻慈らは,クルップ社の工場なども見学するこ とになり90),帰国後の1906年9月にドイツを主とした軍事制度の改革を皇帝に 上奏することになったのである91)。 戴鴻慈は,アメリカでの視察を通じて,アメリカが工業・商業立国であり, 民権を完全に信頼しているので,中国の政体をそれと強引に同じにすることは できない92)と消極的な評価をしたのに対して,ドイツについては,権力を打ち 42.
(15) 清朝末期における権利の受容と変容. 立ててから100年に及ばないのに,陸軍が強力であり,締兵を重視しているこ とから,国民には尚武の精神が有.り,服従を主義として・おらず,その人民は,. 勤倹素朴で,中国と最も似ている93)と積極的に評価した羊とは注目すべきであ ろう。. (3)載沢,尚其亨∴李盛鐸による視察 載沢,尚其亨,李盛鐸のグループは,載沢の『考察政治日記』によると, 1905年12月に北京を発ち,. 1906年1月に上海から神戸に向けて出発し,日本94),. アメリが5),イギリス96),フランス97),ベルギー98)の各国を訪問した。そして, 1906年7月に上海に帰国し,北京に戻った。. 載沢らの政治視察の日程の中で重要なことは,日本,イギリス,フランスで それぞれの国の憲法に関する講義を受けたことである。戟沢らは,日本におい て,内閣の斡旋により,. 1906年1月に穂積八束による憲法の講義を受けた99)。. その講義は,大日本帝国憲法における君主主権,議会,国務大臣,′■枢密顧問, 裁判所など統治機構の解説を中心に行われたのである100)。. また,載沢らは,伊藤博文総理大臣とも会談した。会談は;戟沢が立憲君主 刺,大日本帝国憲法に関することなどを質問し,それに伊藤が大日本帝国憲法 の規定に即して説明する形で進められた101)。この会談において,載沢は「立憲 君主国では国民に言論の自由などの権利を与えているが,民主国とどのような 区別があるのか」と権利について質問をした。この質問に対し,伊藤は「この ような自由とは,乃ち法律に定められた,政府の所与から出るものであり,而 るに人民の意のままの自由であらざる」と回答した。伊藤の考える自由は, 『憲法義解』において述べているように, 「秩序ある社会の下に棲息する者なり」, 「法律は各個人の自由を保護し,又国権の必要より生ずる制限に対して其の範 囲を分割し,以て両者の間に適当の調和を為す者なり」,. 「而して各個臣民は法. 律の許す所の区域の中に於て其の自由を享受し緯然として余裕あることを得べ し。此れ乃ち憲法に確保する所の法律上の自由なる者」. 102)なのである。こう 43.
(16) 横浜国際経済法学第14巻第2号(2005年12月). した理解に基づく伊藤の教示を,載沢は受けたということができる■だろう。 日本での視察を踏まえ,載沢は,日本を,明治維新以来全ての政治がヨーロ ッパを範としながらも人情や風俗の違いを掛酌しており,また,公議は臣民を 共にしているが政治上の権力は君主にあると認識したうえで,欧化,漢学を合 わせて鋳込むことが日本の特色である103)と積極的に評価していることに注目 すべきであろう。 その後,イギリ■スのロン.ドンにおいて,載沢らは,憲法に関′して政治学者で あるPercy.W.. L.Ashleyから講義を受けた104)。 Ashleyの講義は,三権分立,政. 府組敵地方自治制度,議院制度,司法制度,警察制度,学部制度など統治機 構のみに限られていた。イギリスの政治について,載沢は,立法は議会が行い,. 行政は大臣が責任を負い,憲法や法律は司法が掌り・,君主はそれらを統治する。 このように職権を分けることは,とても複雑で融通が利かない所があり,中国 の政体に適していないと消極的に評価したのである105)。. また載沢らは,フラン スのパリで,裁判官からフランス憲政の説明を受けた106)。 そこでは,憲法改正について説明を受け,当時の憲法における議員制度と大統 領の権限についての説明を受けただけであった。フランスについて,載沢は, 次のような評価をした。フランスは,イギリスと比べると,一つには,人民が まず自治の力を有しており,一つには,政府が全ての制度を実際に把握してい るが,人民も議論に加わっている107)。 以上から,載沢らが日本,イギリス,フランスの憲法の中で積極的な評価を したのは,日本だけだったということができるだろう。さらに注目すべきこと. は,権利に関する議義を受けたのは,伊藤博文による大日本帝国憲法の「臣民 権利」の説明だけであったということである。統治機構の講義は,日本以外に もイギリスやフランスの憲法を通じて受けていたのである。だとすれば,天賦 人権ではなく,大日本帝国憲法の「臣民権利」に関する理解が,欽定憲法大綱. において「臣民権利」を採用する際に反映された可能性は高いと推測すること ができるのである。 44.
(17) 清朝末期における権利の受容と変容. その後,考察政治大臣の現地報告を踏まえて「預備立憲の上諭」. 108)が公布. され,清朝政府の立憲政樹立への具体的な動きが開始されることになった。上 諭では,清朝の国勢が不振なのは,上下に互いに対立し合い,内外に隔たりが あり,官は保民ということを知らず,民は護国ということを知らないからであ るとし,逆に列強各国が富強であるのは立憲政治による君民一体化の成果であ るとしたうえで,. 「国家万年有道の礎」確立のため,統治権は朝廷が有しつつ. ち,庶政は世論に従う憲政を実現することが主張された。しかし,規則の不備, 民智未開の現状の下で,憲法の即時施行は空文に堕する危険性があるので,ま ず官制改革に着手して,法律などの諸般を整備し,立憲政樹立への準備態勢を 整える必要があるとされたのである。 こうして1905年11月に設立された考察政治館109)に改革準備の中心を置き, 考察政治大臣の収集した資料を基礎に中外古今の諸制度を参酌しつつ立憲政樹 立への準備が開始されたのである110)。. (4)憲政視察団の派遣 立憲政樹立への準備の過程のなかで,衰世凱は,. 1907年7月に2つのことを. 要請した111)。 1つは皇族子弟のイギリス・ドイツへの遊学であり,もう1つは 大臣を日本とドイツに派遣し,憲法の専門調査にあたらせることであった。そ れは,戟沢らによる政治視察が,政治全般に関するもので,憲法に焦点を絞っ たものではなく,僅か8ケ月と期間が短く,各国の政体のうちで清朝に近似し ていると認識された日本とドイツについてさらなる調査が必要とされたからで. ある112)。こうして,碍朝政府は, 1907年9月に,外務部右侍郎の注大嬰をイギ リスに派遣し,学部右侍郎の達寿を日本に,郵伝部右侍郎の干式枚をドイツに 憲政視察の為に派遣することになったのである。. 干式枚は,ドイツ-の憲政視察に際して,次のように述べた113)。日本は,ド イツの制度を多用しており,・中国の政体と最も近い。日本人は,日本の風俗・ 習慣などに基づき,ドイツの法を取捨選択して適用したのである。この発言か 45.
(18) 横浜国際経済法学第14巻第2号(2005年12月). ら,干式枚は,ドイツの法制度を取捨選択して適用している日本の法制度によ り関心を持っていたのではないかと推測できるだろう。. 達寿は,日本への出発にあたって憲政編査館114)から調査項目を指示されて いたが,来日後,・伊東巳代治と相談して,憲政史,憲法,立法,行政,司法, 財政の6項目に分類し,講義を受けることになった115)。清朝政府から援助の依 頼を受けた伊藤博文は,韓国統監に在任中であったことなどから,自分ととも に憲法調査のため随員の一人として渡欧し,大日本帝国憲法の起草にも協力し た伊東巳代治に具体的な手配を委ねたのである。 そして,. 1907年9月から1908年8月までゐ日本滞在中に,達寿は,穂積八束,. 有賀長雄,そして,貴族院書記官長太田峰三郎らの講義を受けた。だが,達寿 は,はじめの3項目の調査を終えた時点で,理藩部左侍郎に着任するために帰 国することになった。. 帰国後,達寿は,. 「立憲政体の早急採用の必要性」と「欽定憲法たるべき理. 由」を進言した116)。 「立憲政体の早急採用の必要性」として,国民に納税兵役 の義務と参政権を付与して国家思想を一養成し,政治経済文化の各般に渡り国民 の国際競争力を滴養することから,立憲制は国体を強固にし,清朝を安泰なら しめるということを主張したのである。また,. 「欽定憲法たるべき理由」とし. て「欽定は以て国体を存し主権を強くする」ことを挙げ,君主,臣民権利,政 府,議会,軍隊の5項目に着目して,次のように述べた。. 君主について。ヨーロッパ各国の皇帝に比べて,天皇は12項に及ぶ稀 有の大権事項が憲法に明記され,なおも学者は遺憾の有無を論議している 有様である。宜しく参考とすべきである。 政府について。表面上国務大臣の権限が強大であるが,立憲政体の妙味 はここにある。君主の神聖不可侵が憲法の原則であり,国務大臣は議会に 対してではなく天皇にのみ責任を負い,天皇が任免権と承認の自由を保持 しているからである。但し専制の弊を防止する意味で,憲法違反の命令に 46.
(19) 清朝末期における権利の受容と変容. ついては大臣に副署拒否の自由があり,副署なき命令の行使は不可能且つ 無効とされている。これは,中国古来の中書省117)や封駁の制118)と期せず して一致する仕組と言えよう。 議会について。日本の場合,憲法に規定された協賛立法権,予算案議決 権以外は,悉く天皇の大権事項とされており,まさしく「純粋の欽定憲法」 というべきである。議会が君主権を侵害し,政府を牽制すると危供するの は,. -を知ってこを知らざるものである。. 軍隊について。日本の欽定憲法が統帥権を天皇に帰属卑しめているのは, 「世界無比の善制」であり,日本の強力なる所以である。宜しくこれを採 用すべきである。. そして「臣民権利」については,次のように述べている。日本では臣民の権 利自由は,法律の枠内に限定され,行政処分という強制権や戒厳令なる非常権 も認められている。従って,. 「臣民の権利自由は,要するに憲法上の外観を飾. り民望を慰撫せんとするアクセサリーに過ぎぬ。′以て『操縦の意知るべし』」. と評価.したのである119)。このような大日本帝国憲法の「臣民権利」に対する達 寿の理解も,欽定憲法大綱の「臣民権利」. ■に反映されることになったというこ. とができるだろう。 達寿の帰国後,残りの3項目に関する視察の任務を引き継いだのは,日本駐 在公使の李家駒であった。有賀長雄の講義は,. 1908年2月から数日おきに進め. られたが,李家駒から官制を中心とした講義への要望が出たためか,. 6月から. しばらく中断して11月に再開し,数日おきに1909年7月まで続いた120)。こう して講義の内容は,中央行政府の編成に重点が置かれたのであった121)0 この憲政視察団の派遣と前後して,中央の議会を開設する準備段階として資 政院の設立が要請され, 19・08年には諮議局章程が公布され,各省の議会を開設す る準備段階として諮議局が設立されるなど立憲政樹立に向けて進んでいた122)。 こうした立憲政樹立に向かう過程のなかセ,. 1908年8月に,大日本帝国憲法 47.
(20) 横浜国際経済法学第14巻第2号(2005年12月). を模範にして作成された憲法草案である欽定憲法大綱が公布された。憲政編査 館は,欽定憲法大綱の公布と同時に,議員法・選挙法要領及び逐年準備計画を 上奏した。 9年間の逐年準備計画では, に新刑律を公布し,. 1909年に法院編成法を公布し,. 1910年. 1913年に新刑律を施行し,民律・商律・刑事民事訴訟律. を公布し, 1915年に民律・商律・刑事民事訴訟律を施行し,そして1916年に. 憲法を公布することが詣われたのである。. 第4節. 欽定憲法大綱における臣民権利. (1)欽定憲法大綱の位置付け. .. 欽定憲法大綱は,. 「天皇」 「臣民権利義務」 「帝国議会」 「国務大臣及枢密顧問」. 「司法」 「会計」及び「補則」の7辛から成る大日本帝国憲法とは異なり,. 14箇. 条の「君上大権」と9箇条の「附臣民権利義務」の2つの部分から成る1?3)。し たがって,欽定憲法大綱は,憲法典と言えるものではなく,憲法典を将来に編 纂するために示された草案というべき-ものであった124)。 それでは,欽定憲法大綱において「君上大権」と「附臣民権利義務」は,どの ように規定されたのであろうか。以下では,欽定憲法大綱が模範にした大日本 帝国憲法はプロイセン憲法を継受したものだと広く言われていることから125), 大日本帝国憲法ヤプロイセン憲法126)と比較しながら考察を進めていく。. (2)君上大権 正文である「君上大権」では,大清皇帝を統治の主体とする基本的性格がま ず明らかにされている。第1条では「大清皇帝は大清帝国を統治し万世一系永 遠に尊戴す」と規定し,第2条では「君主は神聖にして侵すべからず」と規定 している。この2つの条文は,言うまでもなく,大日本帝国憲法の「大日本帝 国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」 ス」 (第3条)を参考に作られている。 48. (第1条)や「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラ.
(21) 清朝末期における権利の受容と変容. このような皇帝の有する立法,行政,司法などに関する大権については,第 3条以下に規定されている(表1参照)。立法に関して,第3条では「君主は法. 律を公布し,議案を発議する権限を有する」ことが規定されている。そして, 立法に関する君主の権限の強さの表れとして,第3条は「凡そ法律は,議院の 議決を経ていても,.公布者の批准が無ければ,施行することができない」と規 定し,プロイセン憲法第62条と同様に,議会が立法しても君主が同意しなけ れば法律は成立しないとしている。そして,第4条では,大日本帝国憲法の 「天皇ハ帝国議会ヲ召集シ其ノ開会閉会停会及衆議院ノ解散ヲ命ス」. (第7条). と同様に「議院の召集,■その開閉,停会,延期,解散を行う権限」が規定され ている。. 行政に関する大権について欽定憲法大綱は,様々な分野に渡って規定してい る`。 第5条では,君主は「官吏の俸禄や進退を決定する権限」を有することが 表1君主の権限 君主の不可侵. プロイセン憲法. 大日本帝国憲法. 欽定憲法大綱. 43条. 3条. 2条. 統治権の給撹. 4条. 法律の公布権. 45条. 5、6条. 3条. 議会召集権. 51条. 7、8条. 4条. 命令を発布する権限. 45条. 9条. 11、12条. 大臣の副署. 44条. 大臣の任免権. 45条 10条.. 5条. 11、12条. 6条. 官職の任免権. 軍の指揮権 宣戦布告.講和. 47条 46条 48条. 戒厳布告. ・13条 14条. 恩赦権. 49条. 16条. 勲章等の授与. 50条. 15条. 司法権の給撹 皇室経費制定権. 7条 8条. 9条 10条 13条. 皇室大典議定権. 14条 出典:高田敏・初宿正典編訳『ドイツ憲法集〔第4版〕』 (信山社, 2005年), 陳荷夫編『中国憲法類編』 (中国社会科学出版社, 1980年)より筆者 作成 49.
(22) 横浜国際経済法学第14巻第2号(2005年12月). 規定され,第11条では「命令を廃布する権限」が規定され,第12条では「議 員の閉会時に,緊急の必要が有る場合,法律に代えて勅令を発することができ. る」ことが規定されている。また,軍の指揮権について,達寿が大日本帝国憲 法が軍隊の統帥権を天皇に帰属せしめているのは,. 「世界無比の善制」であり,. 日本の強力なる所以であるので,これを採用すべきであると述べていたことか ら,第6条では,君主が「陸海軍を統率し,軍隊を編成する権限」を有するこ とを規定し,第7条では,君主は「宣戟,講和,条約締結及び使節を派遣し使 節を接受承認する権限」を有することが規定されている。さらに皇室に関して, 第13条では「皇室経費は,君主により常額が制定され,国庫から支出される」 と規定され,第14条でも「皇室大典は,君主が皇室及び特派大臣を督率して 議定する」と規定されたのである。 これらの行政に関する大権については,議員や議院の関与が否定されている ことに注意しなければならないだろう。第9条では,栄典の授与に関して「君 主自ら与えるので,臣下が専断してはならない」と規定している。そして,読 員が関与できない事項として,第5条の「官吏の俸禄や進退を決定する権限」, 第6条の「軍事に関する∵切」が挙げられている。また,議院での議決に付さ れない事項として,第7条の「外交に関する事項」,第13条の「皇室経費」,第 14条の「皇室大典」が挙げられている。これに対して,プロイセン憲法では. 「国王のすべての統治行為は,それが有効になるためには,大臣の副署を必要 と」することが規定され(第44条),大日本帝国憲法でも同様に「国務大臣ハ 天皇ヲ輔弼シ其ノ責二任ス」. (第55条)■と規定していることに鑑みると,欽定. 憲法大綱における君主の権限の強さがここに.も表れているということができる だろう。. さらに司法に関しても,プロイセン憲法では「裁判権は国主の名において, 独立した,法律以外の権威に服さない裁判所により行使される」. (第86条)と. 規定され,大日本帝国憲法でも「司法権ハ天皇ノ名こ於テ法律二依り裁判所之 ヲ行フ」 (57条)と規定されているのに対して,欽定憲法大綱第10条では,君 50.
(23) 清朝末期における権利の受容と変容. 主が司法権を総撹するとし,プロイセン憲法や大日本帝国憲法よりも司法権に 対して強力な権限を有することが規定されたのである。 以上を踏まえると,プロイセン憲法の国王や大日本帝国憲法の天皇の権限に 比べ,. 「君上大権」では,君主の強力な権限が規定されていたということがで. きるだろう127)。. (3)臣民の権利 欽定憲法大綱では,. ∴権利・自由は「附臣民権利義務」に規定されている。こ の「附臣民権利義務」は,正文である「君上大権」とは異なり,表題に「附」 という語が用いられていることから分かるように付録である。付録であるとい うことは, 「臣民権利義務」の「細目は,憲法起草時に掛酌して決定する」と 規定されていることから,不完全な権利章典であるということを意味している のではないだろうか。もっとも,付録として「臣民権利義務」が位置づけられ ていることから,欽定憲法大綱では,皇帝の大権に関して規定している「君上 大権」に重きが置かれ,権利が軽視されていたと解することができるだろう。 「臣民権利」は,大日本帝国憲法と同様に,人間が生まれながらに有してい る生来の人権を確認するという形のものではなく,皇帝が「臣民」に恩恵とし て与えたものであった。 「臣民権利」の具体的な権利・自由は,第15条以下で規定されている(表2 参照)。第15条では,. 「臣民は法律命令の定める所の資格に応じ,文武官及議. 員に就くことができる」と公務就任権について規定している。そして第16条 で「臣民は,法律の範囲内に於いて,言論,著作,出版及び集会結社等に付き, 均しく其の自由を許可する」と,言論等の自由が規定されている。また,■. 人身. の自由が「臣民は法律の定めるに非ずして,逮捕,監禁,処罰を加えられない」 と第17条に規定され,裁判を受ける権利が「臣民は裁判官に事件を告訴し裁 判をすることができる」と第18条に規定された。そして,財産,住居の不可 侵が「臣民の財産及び住居は故なくして侵してはならない」と第20条で規定 51.
(24) 横浜国際経済法学第14巻第2号(2005年12月). 表2. 権利・義務. プロイセン憲法. 大日本帝国憲法. 欽定憲法大綱. 平等権. 4粂. 公務就任権. 4条. 19条. 15条. 人身の自由. 5葵. 23条. 17条. 住居の不可▲侵. 6条. 25条. 20条. 裁判を受ける権利. 7条. 24条. 所有権. 9条. 27条. 国外移住の自由. 11条. 居住移転の自由 信教の自由. 18条. 22条 12条. 28条. 学問の自由.教授の自由 20条 言論の自由. 29条 27条(意見表明の自由). 16条. 出版の自由. 27条. 29条. 16条. 集会の自由. 29条. 29条. 16条. 結社の自由. 30条. 29条. 16条. 請願権. 32条. So灸. 信書の秘密. 33条. 26条. 兵役の義務. 34条. 20条. 21条. 21条. 21条. 納税の義務 臣民の法律遵守義務. 出典:高田敏・初宿正典編訳『ドイツ憲法集〔第4版〕』 陳荷夫編『中国憲法類編』 (中国社全科学出版社,. 22条 (信山社, 2005年), 1980年)より筆者. 作成. されたのである。. このように「臣民権利」として規定されたのは5箇条で,大日本帝国憲法第 2章に規定されている12箇条の半分以下である。これは,欽定憲法大綱が憲法 典を将来に編纂するために示された草案であり,. 「臣民権利義務」の「細目は,. 憲法起草時に掛酌して決定する」とされていたからであろう。したがって,′ 定憲法大綱には,大日本帝国憲法に規定されている居住移転の自由(第22条),. 住居の不可侵(第25条),信書の秘寧(第26条),信教の自由(第28条),請 願権(第30条)や,プロイセン憲法では規定されていた法の下の平等(第4条), 国外移住の自由(第11条),学問の自由・教授の自由(第20条)が規定されて いなかったとも推測できよう。 52. 欽.
(25) 清朝末期における権利の受容と変容. 欽定憲法大綱における5箇条の「臣民権利」は,大日本帝国憲法と同様に, 法律の範囲内で保障されていた。これは逆に言えば,法律によれば「臣民権利」 を制限することが可能なことも意味していることに注意すべきである。さらに, 大日本帝国憲法が「本章二掲ケタル条規ハ戦時又ハ国家事変ノ場合二於テ天皇 大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ」. (第31条)と規定しているように,欽定憲法大. 綱も,第8条において,緊急の際に臣民の権利,自由は,詔を以って制限でき ると規定されている。したがって,欽定憲法大綱における「臣民権利」とは, 容易に制限することができる「憲法上の外観を飾り民望を慰撫せんとするアク セサリー」に過ぎないのである。 以上から,欽定憲法大綱に規定された「臣民権利」とは,人の生来の権利を 憲法において確認するのではなく,国家の存在を前提としつつ,それぞれの国 の国民としての資格において有する権利を国家が宣言したものである「外見的 人権」 128)であると言うことができるだろう。. (4)臣民義務 欽定憲法大綱は「臣民義務」を.,次のように規定している。まず,欽定憲法 大綱第21条では「臣民は,法律の定める所に依り,納税,兵役の義務を有す. る」と納税の義務,兵役の義務が規定されている。 欽定憲法大綱における特徴的な義務として,第23条は「臣民は国家の法律 を遵守する義務を有する」と規定している。ここに言う「国家の法律」とは,. 欽定憲法大綱第3条が「君主は法律を公布し,議案を発議する権限を有」し, 「凡そ法律は,議院の議決を経ていても,公布者の批准が簸ければ,施行する ことができない」と規定していることから,前述の礼の定めるところに民を導 く君主の意思が反映されているものということができるだろう。 ここで注目すべきは,欽定憲法大綱では,このような法律を遵守することが 「臣民」に対して義務として定められていることである。これとは逆に,例え ば日本国憲法第99条では,. 「天皇又は摂政及び国務大臣,国会議員,裁判官そ 53.
(26) 横浜国際経済法学第14巻第2号(2005年12月). の他の公務員」といった国家権力に参画している者に憲法尊重擁護義務が課せ られているのである。このことから,欽定憲法大綱における「臣民」の法律遵 守義務とは,法律を,為政者が民を治めるための『器』に過ぎない.とみなす中 国の伝統的法治文化的な発想によるものであるということができるだろう。そ して,現行中華人民共和国憲法第53条にも「中華人民共和国公民は憲法と法 律を遵守し,国家の機密を守り,公共財産を愛護し,労働規律を遵守し,公共 秩序を遵守し,社会道徳を尊重しなければならない」と同様の規定が存在して いることに着目すると,被治者の法律遵守義務は,中国における憲法の一つの 伝統となって今日に到るまでに生きているという■ことができるのである129)。. (5)小指 清朝政府は,戊戊の変法以来,明治天皇の下で,西洋の書籍が翻訳され,維 新が行われ,西洋と肩を並べるに至った日本を範として注目するようになった。 こうした経緯から,大日本帝国憲法を模範として,.欽定憲法大綱が制定される ことになった。. 欽定憲法大綱を,統治機構と権利章典から構成される西洋の憲法を真似て制 定することにより,皇帝の権限が憲法の範囲内で制限されて絶対ではなくな・り130), わずかにでも臣民に権利が付与されたことは画期的であった。 もっとも,欽定憲法大綱は,. 「君上大権」において,君主の権限が強い支配. 権力をより強固に合法的に確立しようとし,. 「外見的人権」である「臣民権利」. を設けること.で,被治者の要求を緩和しようとした。つまり,欽定憲法大綱は, 形式だけの近代立憲主義を受容したということができるだろう131)。しかも,欽 定憲法大綱は,. 「プロイセン憲法よりはるかにその外見的立憲主義の外見性に. おいてはなはだしかった」. 132)大日本帝国憲法よりも,その外見性が甚だしか. ったのである。これは,清朝による西洋法の受容が,その体制の維持のために 始められたことや,当時勢いのあった日本ヤプロイセンの憲法を参考にしたこ とによる限界でもあった。なおかつ,法律を為政者が民を治めるための「器」 54.
(27) 清朝末期における権利の受容と変容. に過ぎな・いとする伝蔵的な法治文化の発想の産物である臣民の法律遵守義務が 定められていた。これらのことが,欽定憲法大綱の外見性を強めることとなっ たのである。. したがって,国家権力を制限して広く人権を保障するという近代立憲主義を 忌避し,むしろ民を法律によって拘束するという,現在まで続く中国法の要素 の萌芽は,ここにあったことを確認すべきなのではないだろうか133)。. おわりに 本稿は,. 「法の継受と変容」という視点から,清末に制定された欽定憲法大. 綱において,人権概念がどのように受容され,それがどのように変容したかを 明らかにしていくことを試みた。. 歴代王朝の末南である清朝政府は,礼を中心とする伝統法に拘ってきた。だ が,中国での近代西洋法の受容は,清朝末期に早くも行われていたのである。 欽定憲法大綱は,プロイセン憲法に起源を有する大日本帝国憲法を受容するこ とで制定された。そこには,統治機構と権利章典から構成される西洋流の憲法. を制定しようという試みがあったのである。確かに,欽定憲法大綱で示された ものは「外見的人権」であったかもしれないが,憲法を定めること,つまり皇 帝の権限の限界を定めることは,長く中国史上に続いてきた皇帝の権威を,皮 肉にも自ら掘り崩したのかもしれなかった。. 1911年10月には,孫文(孫中山)を代表とする革命派による武昌蜂起を契 機として辛亥革命が勃発したことから,窮地に追い込まれた清朝政府は,同年 11月に,憲法重大信条十九条(十九信条)を公布した134)。しかし,この十九 信条では「臣民権利」に関する規定自体が全く無くなった。清朝の滅亡を目前 にして,. 「臣民権利」は,やはり「憲法上の外観を飾り民望を慰撫せんとする. アクセサリー」に過ぎなかったのである。 その後, 1912年1月の中華民国建国の宣言によって,清朝は滅亡した。. 1930 55.
(28) 横浜国際経済法学第14巻第2号(2005年12月). 年代後半以降,近代西洋型法制改革は実を結ぶことになるが,. 「これは近代西. 洋型法制改革の成果という面以上に,連合国による蒋介石支援および日本によ る江精衛支援という面があった」と言う135)。そこには,礼を中心とする伝統法 とは異なる近代的な法概念や権利概念が存在したのだろうか。とりわけ中華民 国において制定された憲法などにおいては,欽定憲法大綱の権利概念,つまり. 「外見的人権」は,そのまま引き継がれていくのセあろうや、。 それを検証することで,現在の中華人民共和国政府の「人権」に対する考え 方などにも通じる要素が存在したのかを明らかにすることができるだろう。こ うした点を検討していくことが,筆者の次の課題である。. (中華書局,. 1)張晋藩主編『清朝法制史』. 1998年) 21-27頁参照。. 2)例えば,林啓彦「清末における民権思想の研究-1900-1904年間の留日学生を中心として 50-62頁参照,横山英「清末立憲思想の研究」広島大学文. -」史学研究第131号(1976年) 学部紀要第38巻(1978年) 紀要第38巻(1978年). 149-169頁,楠瀬正明「何啓・胡礼垣の民権論」広島大学文学部. 170-186頁及び同「清末における立憲構想一染啓超を中心として-」. 史学研究143号(1979年). 1-10頁,手代木有見「清末における『自由』. 日本中国学曾報第40集(1988年). -その受容と襲容-」. 168-183頁参照,緒方康「立憲か?専制か?一清末政治. 思想の一側面-」愛知大学法学部法経論集第120. I. 121合併号(1989年). 199-284頁,土屋. 英雄「近現代の中国人権論」同編著『中国の人権と法一歴史,現在そして展望-』 店, 1998年) 45-73頁参照,及び同「梁啓超のL 『共同研究梁啓超西洋近代思想受容と明治日本』. (明石書. 『西洋』摂取と権利・自由論」狭間直樹編. (みすず書房, 1999年) 132-167頁参照,班. 偉「清末における『権利』観念の受容-梁啓超の権利論を中心に-」山陽論叢第6巻. (1999年) 47-63頁参照,李暁東『近代中国の立憲構想厳復・楊度・梁啓超と明治啓蒙思想』 (法政大学出版局, 2005年)などが挙げられる。. 3)土屋,同上(1998年),チ5-46頁参照. 4)欽定憲法大綱に関するものとして,以fの註で取り上げるもののほかに,宮津俊義・田中二 郎『中華民国憲法草案』 案』 (中華民国法制研究会,. (中華民国法制研究会, 1936年). 38-47頁,稲田正次『中国の憲法』. 1935年). 1-5頁及び同『中華民国憲法確定草. 56-60頁,高橋勇治『中華民国憲法』 (国土社,. 1948年). (有斐閤, 1948年). 7-13頁,石川忠雄『中国憲法史』. (磨. 麿通信, 1952年) 1-11頁,永井算巳「清末の立憲改革と革命派」歴史学研究第202号(1956 年) 1114頁,大隈逸郎「『欽定憲法大綱』の破産と『十九信条』の頚布.一宇亥革命前夜にお ける『君主立憲』と『民主運動』. (中). -」同志社法学第16巻第1号(1964年) ンドリュー・J・ネイサン「中国憲法における政治的権利」R・ランドル・エドワ-ズ-ルイ. ス・へンキン-アンドリュー・J.ネイサン著斎藤恵彦-興椙一郎訳『中国の人権-その歴 56. 1-17頁,ア.
(29) 清朝末期における権利の受容と変容 (有信堂高文社,. 史と思想と現実と-』. 1990年). 113-117頁,林来焚「中国における立憲主義. の形成と展開一立憲君主制論から『党主立憲主義』まで-」立命館国際地域研究第3号. (1992年) 93-110頁などが挙げられる。 5)例えば,. 「『大綱』が実施されたとしても(という仮定すらも考えられないのではあるが),. この『憲法』の下では,いかなる人民の地位も高められるはずも7?かったであろうし,清朝 (大隈. の人民に対する圧迫が軽減されるなどということも,絶対にありえないはずである」 逸郎「清朝の『預備立憲』と『欽定憲法』一幸亥革命前夜における『君主立憲』と『民主 運動』 (上). 13頁)という否定的な評価や, -」同志社法学第15巻第6号(1964年) 大綱の上諭が,いかに荘重に『天下の臣民をして朝廷時に因って宜しきを制し変法図強する. 「憲法. の至意を暁然たらしむ』と告示したにせよ,その至意の実体が『臣民の保護』を粉飾した 『君権強化』のための立憲制であり,封建肘絶対主義的君主立憲体制確立志向以外の何物で (永井算巳『中国近代政治. もあり得なかったことは,最早否定すべくもない事実であろう」 史論叢』 (汲古書院, 1983年) 6). 228頁)という消極的な評価が見られる。. 「中共中央の国民党の六法全書を廃棄と解放区の司法原則を確定することに関する指示」の 邦訳は,宮坂宏編訳『増補改訂現代中国法令集』. ■(専修大学出版局,. 1997年) 19頁参照。. (有斐閣, 2003年) 2頁参照。 ,木間正道-鈴木賢=高見揮磨『現代中国法入門〔第3版〕』 8)もっとも,これらの検討を行う際に,注意しなければならないことがある。一般的に,近代 7). 以来の中国は,政治・法律の面において,かなり西洋の影響を受けてきたことに異論はない ものと考えられている。しかし,. 対応(甲estern. P・A・コ-エンが指摘するように,. impact-Chinese. 「西洋の衝撃-中国の. response)」という従来の中国研究のモデルは,往々にして. 中国自身に内在する変革への衝動を見落としているということである。したがって,本稿に おいて上述の設問を検討する際にも,中国自身に内在する変革への衝動にも着目する必要が あるだろう(P・A・コ-エン著,佐藤慎一訳『知の帝国主義オリエンタリズムと中国像』 (平凡社, 1988年) 3&95頁参照)0 9)洋務運動の時期は,. 1860年代半ばから90年代半ばに至る約30年間とみなされているが,こ. の期間は,明治前半期の日本の近代化と時期的にほぼ重なる。両者は,単に時期的に一致す. るだけではなく,対外的危機感という背景において一致し,かつ富国強兵という目的におい てもー致していた(佐藤慎一『近代中国の知識人と文明』. (東京大学出版会,. 1996年). 14頁. 参照)0 10)洋務運動期の「中体西用」と日本の明治期の近代化の際に用いられた「和魂洋才」との異同 については,井原津周「『中体西用』と『和魂洋才』」追手門学院大学文学部紀要24巻 (1990年). 133頁以下参照。. ll)例えば,江南製造局(上海,. 1865年),福川船政局(福州,. 1866年)や,上海機器織布局. (上海, 1882年)などのような兵器関係工場,運輸,通信機関,繊維工場,精錬所の設立や 各種鉱山の開発などが行われた。また,. 1885年には天津に武備学堂(士官学校)を設置し,. 北洋艦隊などを設立し,軍事力を増強しようとした(池田読,安井三吉,副島昭一,西村成 雄『図説中国近現代史〔第二版〕』. (法律文化社, 2002年). 4&50頁参照)。. 12)アヘン戦争に敗北することで,清朝政府は,南京条約を締結し,イギリスに対して2,100万 57.
(30) 横浜国際経済法学第14巻第2号(2005年12月) 両の賠償金を支払い,香港を割譲し,広州,アモイ,福州,寧波,上海などを通商港として 開放することになった。さらに,清朝政府は,イギリスL.こ対して,虎門案追加条約(1843年) を締結し,領事裁判権や片面的最恵国待遇などを設けたのであった。. 第二次アへン戦車後に,清朝政府は,イギリス,フランスと天津条約(1860年11月)を締 結した。この天津条約によって,外国公使が北京に常駐し,牛庄,登州,台湾,潮州,淡水, 漠口,九江,南京,鎮江などを通商港として開放し,領事裁判権を拡大することになり,イ ギリスに400万両の賠償金,フランスに200万両の賠償金を支払うことになったのである。 この第二次アヘン戦争中に,清朝政府は,ロシアと硬嘩条約,北京条約を締結し,. 144万平. 方キロメートルの領土を割譲されることになり,英仏と同様の特権を付与することになっ た。. 13)総理衛門は,英国股,法国股,俄国股,芙国股,海防股の諸機関から成る。その後,総理衛 門は,義和団事件後の辛丑条約により, 治制度与近代中国(増補本)』. 1901年7月24日,外交部に改組された(謝俊美『政. (上海人民出版社,. 1995年). 115-121,. 14)山室信一『日露戦争の世紀一連鎖視点から見る日本と世界一』. 135-138頁参照)。. (岩波書店, 2005年). 10頁参. 照。. 15)同上,. 6頁参照。. 16)同上,. 4頁参照。. 17)同上,. 6頁参照。. 18)日本で国際法という名称は,欧米諸法典の翻訳に当たり,日本への継受に努めた箕作麟祥が 1873年にウールジイ(T.. to the■Study. Woolsey)のIntroduction. を『国際法-一名,万国公法』として翻訳し,. of International. (1860年). hw. 1881年に東京大学で学科名として採用され. てから普及した。この国際法という用語は,日清戦争後に,日本留学生や翻訳書を通して,. 東アジアに広がっていった(同上, 4頁参照)。 19)同上,. 24-25頁参照. 20)佐々木揚「-八八○年代末における清朝遊歴官の外国事情調査」 と西洋観』 (東京大学出版会, 21)同上,. 194頁以下参照。. 22)同上,. 258頁参照。. 23)博雲龍は,. 『清未中国における日本観. 2000年) v-vi頁参照。. 1887年の遊歴官選抜試験に首席で合格し,日本及び南北アメリカを遊歴すべく同. 年10月3日に北京を出発した。以後,. 11月14日に長崎に上陸し,東京を拠点に各地を遊歴. した後, 1888年5月29日に横浜を出港し,アメリカ合衆国,カナダ,中南米諸国をめぐり, 1889年5月27日に横浜に戻り,東京で,著作の準備,刊行を行った後, 発ち,上海へ向かった(同上,. 252頁参照)。. 24)博雲龍の日本に関する調査報告書は, れている。. 「考工」. 流」 「重文志」. 「天文」 「地理」 「河渠志」. 「外交」 「中国交渉前事」. 「中国人記録日本事之書」. 記述されている(同上, 58. 1889年7月頃に東京で『遊歴日本国経』として上梓さ. 『遊歴日本国経』は,仝30巻で,. 「兵制」 「職官旧制」. 10月15日に横浜を. 253-256頁参照)0. 「金石志」. 「政事」. 「国紀」 「風俗」 「食貨」. 「大事編年表」. 「文学」 「学流源. 「文徴」 「中国人紀日本事之文」. 「叙例」が.
(31) 清朝末期における権利の受容と変容 25)同上,. 257-258頁参照。. 26)同上,. 258頁。. 27)同上,同頁参照。 (商務印書飴,. 28)干建勝-劉春蕊『落日的挽歌-19世紀晩晴対外関係簡論』. 2003年). 196-197. 頁参照。 29)同上,. 198-204頁参照。. 30)康有為「『日本明治変改考』序」西順蔵編『原典中国近代思想史第二冊洋務運動と変法運動』 (岩波書店,.1977年). 190頁。 『梁啓超全集第一冊』 (北京出版社,. 31)梁啓超「論変法不知本原之害」. 1999年). 15頁。. 32)同上,同頁。 33)銭国紅『日本と中国における『西洋』の発見』 34)梁啓超「日本横浜中国大同学校縁起」. (山川出版社,. 2004年). 316頁参照。. 『梁啓超全集第一冊』 (北京出版社,. 1999年) 323頁。. 35)同上,同頁。 36)厳復とは,清末民国初の思想家,翻訳家である。 国した。日清戦争敗戦に刺激を受け,. 1877年にイギリスに留学し,. 1879年に帰. 1895年より本格的な言論活動を開始した。そして,. 「天演論(H. ・ハクスリーのEvolutionandEthicsの翻訳)」を通じて,中国に初めて進化論を 紹介し,進化論を基本とした西洋近代思想の立場から,中国の現状を鋭く批判した。この他 J・ミル「自由論」,モンテスキュー「法の精神」などを翻訳し. に,A・スミス「国富論」,. (岩. た(天児慧-石原幸一=宋建栄芸辻康吾=菱田雅晴三村田雄二郎編『岩波現代中国事典』 波書店, 1999年). 『染啓超全集第・一冊』 (北京出版社,. 37)梁啓超「東籍月旦」 38)銭,前掲註33,. 265頁参照)。 1999年). 325頁。. 318頁参照。. 39)池田ほか,前掲註11,. 64頁参照。. 40)李新主編『中華民国史第1編仝1巻中華民国的創立(上)』. (中華書局,. 1981年). 37頁参. 照。. 『法制史. 41)宮坂宏「清未の法典編纂をめぐって〔附,清末・民団初期法典編纂関係略年表〕」 研究第14号別冊法典編纂史の基本的諸問題近代』 42)李,前掲註40, 43)宮坂,前掲註41,. (1963年,法制史学舎). 189-190頁参照。. 223頁参照。 190-191頁参照。. 44)この他に,遊学を広く奨励すること,外国式の軍事訓練,東西各国の書物の翻訳などが挙げ られた(同上, 45)李,前掲註40, 46)宮坂,前掲註41,. 191頁参照)0 ■223頁。 190頁参照。. 47)李貴連-松田恵美子「清末の立法にみられる日本人法律家の影響」名城法学第45巻第4号 (1996年). 9頁。. 48) 「奏請専設法律学堂摺」丁賢俊,喰作編『伍廷芳集上冊』. (中華書局,. 1993年). 271-273頁. 参照。 49)宮坂,前掲註41,. 193頁参照。 59.
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