子どもの造形的な活動の論理と展開に関する研究
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(2) 目次.
(3) 一目次一 序. 1. 第1節 本論文の目的・. ・1. 第2節 本論文の構成・. ・4. 注及び引用文献……. ・7. 第1章 造形的な活動の可能性. 8. 第1節 「展開された場」の理論の意味……………. 一8. 8. 1 造形的な活動の開かれた論理へのアブm一チ 2 XXザリンド・クラウスの場の論理. 10. (1)論理的に「展開された場」. 10. (2)論理的構造と展開論理. 16. 3 媒体の意味と実践空間の論理. 21. (1)媒体の意味. 21. (2)論理的操作としての実践空間の論理. 26. 4 立体造形の論理. 32. 1 「造形遊び」の意味と論理 (1) 「造形遊び」の行為の意味. (2)子どものく私〉と近代性の構造 (3)子どものく私〉とく生〉の円還運動. 2 「造形遊び」の論理と制度 (1)立体造形概念の解体 (2) r造形遊び」の論理性 (3) 「制度」と「言語」. ① 「制度」と「言語」の過剰性. ②カオスモスの運動 (4)テクストとしての「造形遊び」 注及び引用文献・. ・・. 1. 6 36 36 39 36 44 54 56 59 59 59 6. 第2節 「造形遊び」の論理…………・・…・…. W3.
(4) 97. 第2章 造形的な活動の〈意味一過程〉. 第1飾 造形的な活動のく意味〉の問い………………………・…一…・…・一…………・……………97. 1 造形的な活動のく意味> 97 2 論理化による〈意味> 104 (1)論理化と前提 104 (2) 「読み」としての論理化 108 108 ①意味論的四角形モデルによる論理化 . ②円モデルによる論理化 110 第2節 論理化と〈意味〉………………・…一・…………・一…・…………・一・……………・一・…114. 1 論理化の過程としてのく意味〉の生成と展開 114. ①過程としてのく意味〉とテクスト性 114 (2)生成・展開のく意味> 126. 2 「差異と反復」の場としての「造形遊び」 138 (1) 差異と同一・1生 138. (2)差異と反復と生成 141 第3節子どものく意味〉の生成行為…・……………・……………一………………・…・一………151. 1 モデルによる実践と分析 151 (1)実践例 151 (2)実践分析 153. 2 子ども自ら〈意味〉をつくりだす行為の意味 160 注及び引用文献・……一…・……………・…・・……………・…・・…………・…・…・………・一……・……163. 170. 第3章 子どもの造形的な活動の論理. 第1節く身体性〉の働き………………・……・…………・・……・・…………・・…・……………………170. 1 〈身体性〉の意味 170 (1)〈身体性〉の可能性 i70 (2) 〈身体性〉の深み 182. (3)〈世界〉とく他者〉へ開かれたもの 190. 2 〈身体性〉におけるく意味〉の意味 196. (1)〈見る〉こと 196 (2)〈考える〉こと 202 (3)〈エuス〉としてのく意味> 205. 。− ・−.
(5) 第2節 く身体の深み〉の働き……………・・…・……………・…・・……………・……一・…………209. 1 分節化の過程としてのく意味> 209 (1)<言分けられた身> 209. (2)〈身体性〉とく意味〉の深み 216 2 分節化の過程としてのく意味〉の生成・展開の論理 230 (1) 「薫習」の意味 230 (2)分節化の過程としてのく意味〉の生成・展開 236. ① 存在と意識の分節 236 240. ②「深層的」イマージュ . ③「蕪習」のプmセスにおける分節化 242 第3節子どもの造形的な活動の実践場面……………一・……………・一・……………・一・・……246. 1 実践分析 246 (1)実践例 246. (2)実践分析 247. 2 子どもの造形的な活動の実際 253. (1)〈身体性〉の働きと子どもの行為 253 (2)個の深みへと開かれた行為 256. (3)子どもの造形的な活動と相互作用及び相互行為 260 注及び引用文献…………・……・…………・…・…・………・……・…・……・…・………・…・………………263. 269. 第4章 子どもの造形的な活動の展開. .................................・・・・・・・・・・・・・・… t・・・・… +・・・・・・・・・・・・・・… 269 第1節 実践分析の意味………・・……. 1. 子どもの造形的な活動の可能な展開 269. 2 実践分析の意味と方法 274. 第2節. 1. 自ら回しいく意味〉をつくりだしていく子ども………………・・一………………………282. 282. 実践分析. 282. ①場所をつくりかえる活動 題材名:「『かくそう』∼自分の発想で弔い・かたちや意味をつくりだすことを楽しむ∼」 薪潟県柏綺粥立柏婿小学校3年生 授業者:青木善治/記録:秋山敏行/平成10年6月22目. 288. ②構成的な活動 題材名:「竹ぐしをつなぐ一つなぐことから生みだされるなにか一」 新潟県立薪共高等学校2年生授業者:秋山敏行/記録:南伸裕/平成11年2月9E. 295. ③材料をもとにした活動 題材名:「ゆめのかたちってなんだろう∼ぼく・わたしのゆめのかたち∼」. iii.
(6) 長野県長野市立豊栄小学校2年生授業者:犬童昭久、秋山敏行、佐々木貴子/記録:韮澤均/平成11年6月14日. @. 305. えがくことからの活動(a). 題材名:「わたしのふしぎな世界をひろげて」 新潟県新潟市立木戸小学校4年生 授業音:秋山敏行/記録:北澤晃/平成11年9月14鍔. @. 319. えがくことからの活動㊨ 題材名:「わたしのふしぎな世界をひろげて」 新潟県薪潟市立木戸小学校4年生 授業者:秋山敏行/記録:北澤晃/平成11年9月21日. @. 331. いろいろな表し方を楽しむ活動 題材名:「すてきな木にまほうをかけたら」. @. 窟山県富肉市立豊田小学校4年生 授業者:笠井優子/記録:秋山敏行/平成11年10月21日. いろいろな材料をもとにした活動. 337. 題材名:「楽しいもの,つめて,つないで」. @. 富山県塞山市立豊照小学校2年生 授業者:大塚操/記録:犬童昭久/平成11年10月21目. 342. 材料からつくりだす活動 題材名:「ふしぎがいっぱい(ふしぎなもの) まるめたり、つめたり、…」. 自ら新しい〈意味〉をつくりだしていく子どもの活動. 実践分析のトランスクリプト. (1)実践分析のトランスクリプトー覧 (2) トランスクリプトに用いられている記号. ①場所をつくりかえる活動. ②構成的な活動 ③材料をもとにした活動 ④えがくことからの活動(a) ⑤えがくことからの活動(b). ⑥いろいろな表し方を楽しむ活動 ⑦ いろいろな材料をもとにした活動. ⑧材料からっくりだす活動. 63 13 13 23 33 93 94 14 34 25 3 4 5 5 5 5 6 8 2 5 85 0 1 3. 23. 薪潟県糸魚川市立上早川小学校1・2年生 授業者1秋山敏行、憲本千種/記録;犬童紹久/平成圭1年11月6日. 第3節 子どもの造形的な活動の展開の実際……一…一・・…………一…・……・………………549. 注及び引用文献………・………・・…………………………………………………・…・…・………………554. 結. 556. 参考文献一覧. 562. 蓬身寸辞’●….…●●・●…….’…’9・・… 。・・・・… 一・。・一。。・一・・一一… 一… 。・・い・■一・・一・・・・・… e・一一・。一■。・曾。・・… 。・・。一・・… 一●一・。・565. IV.
(7) 序.
(8) 序. 第1節 本論文の目的 本論文の軍記は、今ffの子どもの造形的な活動にかかわる教育が、必ずしも、子ど もの論理に基づいたものではなく、子どもの期待にそえないとの認識から、子どもの 行為の実際をとらえるとともに、子どもたちひとりひとりの論理による多様な活動が 可能になる図画工作・美術教育の論理を構築し、その実践化を図ることにある。. 今Eの子どもの造形的な活動にかかわる教育の多くは、「制度」1としての大人の嘆 術」の枠組等の影響が強く、子どもたちの造形的な活動は、その表現の形式、方法な どが形式化、画一化されて、子どもたちひとりひとりの論理による造形的な活動は成 り立ちにくい状況に置かれていると考えられる。そのなかにあって、小学校学習指導 要領(図画工作)において、「造形遊び」が全学年に位置付けられるなど、子どもの 論理が生かされる配慮がなされてはいるが、その実際は、「制度」としての大人の「美 術」の枠組や基準のなかにあって、子どもの論理による行為は成り立ってはいない。 したがって、そこでは子どもたち飼々の存在性そのものが保障されているとはいえず、 今日の子どもと教育の問題の改善や解決に関与することはできないと考える。. そこでは子どもひとりひとりの感覚や思考など、個々の論理の立ち上がりは保障さ れることはなく、固定化された「制度」としての大人の「美術」の枠組や基準によっ て一般化されるとともに、他とのとりかえ可能なものとされ、子どもたちのく私一生 >2の意味は謡われることはなく、軽視ないし排除されることになっている。. そのことは四目のいじめや学級崩壊等の問題の根底の意味にかかわるものでもある と考えられる。つまり、子どもひとりひとりの存在性は認められていないため、子ど ものく私一生〉の意味が保障されず、その多様性の立ち上がりが保障されていないと ころでは、表層的な多様性にとどまるとともに、本来の多様性の意味は隠蔽され、子 ども個々のく私一生〉の論理とともに、その子の存在そのものも保障されることはな い。そのような状況において、無視され、隠蔽されている子どもたちひとりひとりの く私一生〉の論理とともに、そのかけがえのない存在の意味を立ち上げることを保障 することのできる美術教育の論理を構築し、その実践化を図ることは緊急の課題であ ると考える。. 1.
(9) このため、まず、子どもたちひと:りひとりの論理による行為を規制している「制度」. としての大人の「美術」の問題性をとらえ返すこととする。 嬬渡」という固定化し た論理に基づく枠組や基準は、子どもひとりひとりのく私一生〉の意味を画一化し、. 隠蔽しているといえると考えられることから、「制度」としての大人の「美術」のカ テゴリーの一つである「彫刻」を例として取りあげ、それをロザリンド・クラウスの 開かれた場の展開の論理等をもとにとらえ返し、「制度」としてのカテゴリーの問題 性を明らかにする。. その上で、そのクラウスの開かれた場の展開の論理と、子どもひとりひとりの論理 の成り立ちを可能にするものとして構想された「造形遊び」の論理との共通性や違い を明らかにするとともに、子どもの実際の授業等における開かれた場における活動を 観察・記述し、分析・考察を加え、子どもひとりひとりの論理による開かれた場にお ける閉じることのない多様な〈意味生成〉の行為の意味をとらえ返していくこととす る。. さらに、そのような子どもひとりひとりの論理に基づく閉じることのない〈意味生 成〉の行為を、子どもひとりひとりの存在の根拠である身体性によるく意味生成〉の 行為とともに、子どものく私一生〉、すなわち、〈身体の深み〉のかけがえのなさを 立ち上げ、新たなく私一生〉をつくり、つくりかえ、つくり続ける行為の過程に意味 があるものとしてとらえ返すこととする。つまり、従来のあらかじめイメージした作 品としての結果よりも、その〈意味生成〉の「過程」の意味に着目することとし、常 に自己の行為のつどごとに立ち表れるく何ごとか一意味〉にもかかわり、その多様な 関係性によって、新たな行為とともに意味をつくりだすという、従来の教育にみられ るような、課題、発想、計画、スムーズな実行・実現という一方向的な在り方とは異 なるく意味生成〉の行為の在りようこそが、子どもの造形的な活動の論理なのではな いかと考え、明らかにすることとした。. そのような子どもの造形的な活動の論理を、身体論や記号論、言語論などの新しい 成果を援用してとらえ返すとともに、造形的な活動にかかわる授業を実践したり、関 与的に観察したりして、それを記述・分析し、考察することを通して、子どもたちひ とりひとりの論理に基づく多様な活動を可能にする造形・美術教育の論理を構築し、 実践化を図ることを目指すこと:とする。. なお、研究の過程においては、常に、子どものく意味生成〉の行為が成り立つ場に 立ち合うようにすることとする。そして、子どもの活動の状況を参観授業などに参加 し、観察・記述、分析・考察を加えながら論を進めるとともに、造形的な活動にかか. 2.
(10) わる授業を実践し、そこでの子どもの活動の記録をもとに、そこで展開する〈意味生 成〉の行為の成り立ちとその過程の在りようをもとに論理化して、それを試論とし、 それを検証しながら、子どもの造形的な論理と展開の論理の構築を目指すこととする。. 3.
(11) 第2節 本論文の構成 本論文は、以下の4章によって構成している。 第1章「造形的な活動の可能性」では、子どもの造形的な活動の可能性を明らかに し、実践化するには、子どものく私一生〉に基づく行為の成り立ちを規制している「制. 度」としての大人の「美術」の問題性に対して自覚的に向き合う必要があるとの認識 から、 「制度」の意味を解体するために、実践の場の開かれた展開の論理といえる、. ロザリンド・クラウスの展開の論理をその手がかりとして提示し、それをもとに考察 することとする。そこでは、「美術」という「制度」によって露定化された膨刻」 というカテゴリーに対する考え方を、ロザリンド・クラウスの展開の論理によって解 体し、媒体やカテゴリーの意味に制限されない開かれたものとしてとらえ返し、「立 体造形1というより開かれた考え方を提示し、子どもの造形的な活動の論理の構築の 基本的な考え方を明らかにする。. その際、近代性の構造によってつくられた9制度」がもつ制度性の問題、すなわち、. 窮屈な枠組や基準によって無視あるいは排除される状況にあった、子どものく私一生 〉に基づく行為を実現可能にする場として構想された「造形遊び」との関係について も明らかにすることとする。すなわち、「造形遊び」の論理は、 「彫刻」をクラウス の論理によってとらえ返すことで、開かれたものとされた「立体造形」の論理以上に、. 子どもの論理に近いと考えられ、それを明らかにすることとする。また、子どもの論 理による造形的な活動の論理の可能性を探るために、丸山圭三郎の「〈生〉の円還運 動」の論理を援用してギ造形遊び」の論理の再検討も併せて行うこととした。. 第2章「造形的な活動のく意味一過程〉」では、子どもの造形的な活動の「過程」 の在りようと、その〈意味〉を問うことによって、子どもたちの造形的な活動は、多 様な関係性による多義的で多方向的な行為を目指し、より開かれたく意味生成〉空間 へ展開するとともに、その「過程」において、そのつどごとの薪しいく意味〉を立ち 表していることを明らかにすることとしている。 また、その「過程」におけるく意味〉を立ち表す多様な論理的な構造についても、. クラウスの展開の論理の構造図を手がかりに、独自のモデルを考案し、それによって 考察することとする。さらに、子どもの行為の過程では、ジュリア・クリステヴァの 言述のように、例えば、囲いのうちに外を設定することによって中心をずらし、多義 的で多方向的な行為の領域へと開かれ、その行為のつどごとに新しい何かとしてのく 意味〉をつくりだしていくことになり、そこには「制度」というような固定化された. 4.
(12) ものは存在しないことをみることにする。しかし、このような子どもの行為の在りよ うを教育実践につなげるようにするためには、行為のたびに立ち表れる限りないく意:. 味〉の意味と、その立ち表れの、決して固定的でない構造をとらえるために、クラウ スの論理的構造の考え方に基づいて「論理化」を行ない、そこでつくりだされたもの をテクストとしてとらえ、クリステヴァのテクスト論を援用してく意味生成〉の在り ようについて考察する。. そこで立ち表れるく意味〉は、テクストの表層と深層との動的な関係性から生成さ れる開かれたものであるとともに、その〈意味生成〉の主体もまた、その表層と深層 を同時に生きる「過程」にある主体であると考え、そこに「造形遊び」の論理が函指 した、〈原一私〉を根拠としたく私〉の成り立ちの可能性について論述する。. それは、自らのく身体の深み〉へと降りることによって他なるものと出会い、その あいだで規制されることのない多様な相互作用、相互行為によって、表層との関係を つくりかえ、新たなく私〉にとっての意味の生成・展開に開かれていく存在であると とらえ、〈意味生成〉の在りようを「差異と反復」の論理を援用してとらえ返すこと. にする。そこでの反復とは薪たに差異化する展開であり、生成する展開であって、同 じことが繰り返されることはなく、それは、丸山の〈生〉の円還運動の論理に通じる とともに、 「造形遊び」の論理に通じるものであると考えられ、そのことについても 論究する。. 以上のような考えをもとに造形的な活動にかかわる授業、すなわち、規制のない開 かれた場における実践をし、子どもたちが自ら〈意味〉をつくりだすようにするため に必要な、〈場や状況〉及び教師のかかわりについても考察し、明らかにすることと する。. 第3章「子どもの造形的な活動の論理」では、子どものく私一生〉を根拠とする〈 意味生成〉の行為の立ち上がりを可能にする多様な造形的な活動は、子ども個々のく 身体性〉の働きによるものであるとの考えから、まず、そのく身体性〉の意味につい て考察する。. そして、その意味としてのく身体性〉の働きによる造形的な活動においてつくりだ される〈意味〉の意味と、その生成と「過程」の意味をとらえ返し、子どもの存在の 根拠としてのく深層の意昧〉を立ち上げる子どもの造形的な活動の論理と意味につい て考察することにする。. なお、ここでとりあげるく身体性〉とは、心身の分けられることのない統合体のこ とであり、子どもひとりひとりのく私一生〉の存在性を保障するものであるとともに、. 5.
(13) モーリス・メルm=ポンティによってく肉〉といわれるく生〉の多様性の領域へと開 かれ、かかわり、かかわられる存在として、〈対象や他者〉へと開かれているものと とらえることとする。. そして、ここでとらえ返された意味でのく身体性〉の働きによって、〈対象や他者 〉との、規制されることにないかかわり合いが可能になり、多様な展開と多義的なく 意味〉の立ち表れの可能性を含みつつ、子どもひとりひとりのく私一生〉による、す なわち、〈エUス〉としてのく意味生成〉の行為が成り立つものであると考える。 その考えをもとに、小学校において造形的な活動にかかわる授業を実践し、それを 記述・分析し、検証したうえで、子どもの造形的な活動の論理の試論を提示すること とする。. 第4章「子どもの造形的な活動の展開」では、前章までの考察に基づいて、子ども の造形的な活動の論理の展開の問題について考察する。すなわち、子どもたちはどの ような関係性によって新しい〈意味〉を立ち上げ、生成しているのか。それを可能に するためにどのような活動の場や状況を構想する必要があるのか。さらには、教師は そのような子どもたちの活動に対してどのようにかかわっていくことが必要なのかな どについて、考察の上で授業を構想し実践する。. そして、そこにおける子どもの活動をビデオ・カメラ等で記録し、それをもとにそ の行為を成り立たせる関係性をとらえるように独自に考案したトランスクリプトにし て、そこで展開するく意味生成〉の行為の成り立ちと、その「過程」の在りようを分 析・考察するとととともに、他の授業などにおける子どもの行為についても同様に扱 うこととする。そして、子どもの造形的な活動の論理と、その展開の論理の試論を構 築するとともに、それを検証しながら、子どもたちひとりひとりのく私一生〉の論理 に基づく多様な活動が可能にする造形・美術教育の論理の構築と実践化の在り方を明 らかにすることにする。. 6.
(14) 注及び引用文献 1本論で用いる糊度」とは、実体化した言語によって作られた一義的な意味や価値のことで ある。それは、本来、暫定的な約束事として柔軟なものであるが、やがて惰性化して固定化 し、一種の強劇力と化す。そこでは、さまざまな差異は捨象され、一義化された論理に同一 化することを強捌されるため、〈私一生〉の多様性が保証されることはない。また、綱度」 とは、言語をその源泉とするため、我々の日鴬から切り離される問題ではない。それは、我々 ひとりひとりのく生〉の外部にあるというよりも、むしろく生〉に対する規制性として、実 体化した表層部分にあるといえる。したがって、固定化した言語による二項対立的な否定は、 薪たな固定化を生むとして、〈生〉の表屡部分における次の新しい1制度1の源泉となる。 ここで必要なのは、そのような「制度」に対する否定ではなく、その意味に対する自覚であ り、そのうえでの実践の論理の構築であると考える。主に次の文献参照。丸山圭三郎,『文化 のフェティシズム』勘草書房1984、『フmティシズムと快楽』,紀伊国屋:書店,1986、及び『言 葉とは何か』,夏黒書房. 2本論文で用いる〈〉は、とりかえることのできない深みを根拠にして生きる一般化できない ものを表す。たとえばく私〉とは、とりかえることのできない深みを根拠にして生きる一般 化できないく私〉のことであり、第3章において述べる〈身体の深み〉におけるく生〉の多 様性を生きるく私〉のことであって、その意味でく私一生〉と表記することとした。そのこ とから、〈私〉のく意味〉や、〈感じ〉やく考え〉、〈行為〉ということのとりかえのでき なさも理解できよう。また、「」は、とり換えることのできる表層のみを生きざるをえない 一般化されたものを表す。たとえばi私」とは、その表層において圏定化され、〈私〉の生 きる根拠を隠蔽された存在といえる。また、「綱度」とは、その本来的な柔軟性と切り離され て固定化された意味や価値を表わす。なお、以上のことは、西野範夫,呼どもたちがっくる 学校と教育 第5回 子どものく身体と想像力〉と造形活動」,(『美育文化』,美育文化協会)、. 及び「子どもたちがっくる学校と教育 第32露 状況を生きる子どもと造形遊び」(『美育文 化』,美育文化協会,1999.VOL49 NO.4)等によるものである。. 7.
(15) 第1章造形的な活動の可能性.
(16) 第1章 造形的な活動の可能性 第1節 「展開された場」の理論の意味. 1 造形的な活動の開かれた論理へのアブm一チ 現在の学校教育における美術教育の状況をとらえ返してみたとき、これまでに数多くの 優れた実践がなされてきたことは確かなことである。しかし、一方では学習指導要領等に. 代表されるような明文化された嗣度」のもとにおかれ、意味や価値が一義化された閉塞 的な状況の中に閉じ込められ続けてきたことも確かなことであるといえる。. 従来の美術教育における子どもの造形的な活動の扱いないし在り方は、子どもの論理に 基づいているとはいえない。すなわち、子どもが自己の可能性を立ち上げるはずの行為が 画一化された在り方に陥っており、今艮の子どもの問題に対応できないと考えられる。こ の子どもの論理を軽視する要因や意味等について考察し、社会や教育等の在り方は、子ど もの存在の根拠であるく身体性〉の意味を隠蔽し、子どもひとりひとりのく私一生〉のく 感じ〉やく考え〉、〈行為〉の多様性を規制することになる。. そのことから、現在の小学校及び中学校等における美術教育の状況や構造をとらえ返し たとき、そこに「制度」の制度性という問題を見いだすことができる。学習指導要領等に 代表されるような明文化されたものは「言語」によって形成されたものである。そして、「言. 語」は、我々のあらゆる文化的営為の源泉であり、あらゆる文化的惰性態とでもいうべき 「制度」の源泉といえるものであって、ここで「綱度」とは実体化した「書語」であると いえる。. また、本来「糊度」とは恣意的なものとして柔軟なものであったはずだが、それは、や がて避けることのできない一種の強制力になり得るものでもあったといえる。つまり、「制. 度」の制度性という規制性は、我々が言語を有する限り決して逃れることのできないもの である。. したがって、ここで問題とは、そのような「制度」に対して否定的に関与するというこ とではなく、イデオロギーと化す危険性を孕む「制度」の制度性に対する自覚化ないし相. 8.
(17) 対化であり、それを閉じることのない円環の運動に開いていくことであると思われる。な ぜならば、一方の極に停滞し、他方の極を捨象することは硬直化した状況を招くほかはな く、また、「制度」の制度性に対する二項対立としての実体論的な否定は、そのように否定 することによって、新たな「制度」を生みだすことにしかならないからである。. 以上のような考え方に立って、まず「制度1の制度性の問題を、モダニズムにおける「彫. 劾概念の中に見いだし、それをポスト・モダニズムにおける「展開された場」という論 理構造によってとらえ返し、その質的転換による新たな可能性への展開の必要性を示唆し たロザリンド・クラウス(krauss,Rosalind)の理論をとり上げることにする。. クラウスの理論は、子どもたちが展開する造形的な活動の意味の可能性について多くの 示唆を与えてくれると考え、その「展開された場」という考え方に基づいて、教育的文脈 において固定化された「彫刻」概念を解体するとともに、その質的転換を図るために「立 体造形」という考え方を提示することを試みたい。. その際、その考え方の教育的な可能性を検討するために、「制度」の問題を子どもひと りひとりのく私〉のく生〉の意味からとらえ返したといえる、西野範夫による「造形遊び」 の論理をとり一上げ、その意味について考察することとする。. さらに、「造形遊び1の論理が示す、子どもの造形的な活動のテクスト的なく意味〉生 成性の可能性を明確にするために、丸山圭三郎による「生の円環運動の論理、及びジュ リア・クリステヴァ(Kristeva, Julia)によるテクストに関する論理等をとり上げ、「造形遊. び」の論理をとらえ返すことにする。そのうえで、「立体造形」という考え方をとらえ返す. とともに、その教育的な可能性について考察することとし、既成の造形教育をとらえ返す 手がかりとすることにする。. 9.
(18) 2 ロザリンド・クラウスの場の論理 (1)論理的に「展開された場」. クラウスは展開された場」の論理によって、モダニズムにおいて「制度]化され固定 化された「彫刻」のとらえを解体し、より柔軟に論理的にとらえ返すことを試みている。 クラウスは、それをフェルディナン・ド・ソシュール(Saussure, Ferdinand de)による. 言語理論に則り、事物の意味や価値:、観念というものを歴史主義的モデルに、何らかの特. 殊な発展や歴史の結果に求めるべきではなく、時間上のある所与の時点に共時的に現われ る体系の函数1としてとらえるという立場から提案している。つまり、クラウスは、芸術作 品における意味や価値というものの特権性を否定し、それをある共時的な構造2の函数とし てとらえ返すことで、あらゆる芸術の形式の超歴史性を「制度」として批判し、その歴史 性ないし人為性を開らかにしたのである。. そのことから、クラウスは四刻とは歴史的に限定されたカテゴリーであって、普遍的 なそれではない」3として歴史主義的モデルを解体する。それは、膨劾と呼ばれる何も のかがあらかじめ存在していて、その形式の普遍性ないし超歴史性によってそのカテゴリ ーの存在が保障されるということではなく、ある暫定的な約束事によって「彫刻」という カテゴリーが形成(区分け)されてはじめて何ものかが「彫刻」として存在を開始すると いうことである。4 暫定的な約束事といえる共時的な体系というモデルにおいていえば、「彫刻」と名指され. 続けてきたものが四刻」であり続けてきた理由は、肯定的な根拠をもたない構造的同一. 性に起因するといえる。クラウスは、それを人間の雷語活動における「置蜘と喩名」 の機能に求めている。このことについて、ソシュールは次のように述べている。. 言語には差異しかない(中略)それだけではない=差異といえば、いっぱんに積極的 納期を予想し、それらのあいだに成立するものであるが、言語には積極的辞項のない 差異しかない。所記をとってみても能記をとってみても、言語がふくむのは、言語体 系に先立って存在するような観念でも音でもなくて、ただこの体系から生じる概念的 差異と音的差異とだけである.一個の記号のうちにどのような観念または音的資料が あるかということは、それがどのようなぐあいに他の記号に取りまかれているかとい うことに比べて、あまり重要でない.その証樋には、辞項の価値は、ひとが意昧にも 音にも触れることなしに、たんにそれに隣りした他のなにがしの辞項が変更をうけた. 10.
(19) ということだけで、変更しうるのである(後略).5. 以上のソシュールの言下にもとづいて、クラウスは次のように述べている。. ソシュールは、差異というものが一般に、比較された二つの実体項の函数だとされる 点に着目し、これと反対に、言語にあっては「実体項なしにもろもろの差異だけがあ. る1と主張した。この実体項の決定的な破棄によってソシュールは、意味を音声(な いし語)と、語がそのラベルとなる事物との相互関係から結果するものとして理解す る道を塞いだのである。そうではなく、ソシュールにおいて意味は、一個月体系全体 の結果、ある特定の語、例えば、〈岩〉という語を、〈石〉〈小石〉〈丸石〉<岩石 〉〈めのう〉〈鉱石〉……などの多数の選択ないし代用可能な語群の代わりに、駆使 するのを可能にする体系の結果と見倣されるようになった。この置換の体系の中で行 う選択は、尺度や、専門的な精通度(地質学の)や、生き生きとした感情や、言葉の 正確さや一般性において、はなはだ異なった一群の語彙に合わせて想定された一つの 系列全体を示しているのである。相互に関係し合った差異の一体系があるのであり、 〈岩〉という語がこの体系に入るためには、〈岩〉という語は、ただ単に、足元の一 塊の物体に縛り付けられていてはだめなのである。意味はある特定の事物のラベルで はないし、その像でもない。意味とは、構造主義者にとって、置換の体系の結果なの である。6. ある記号(語)の意味とは、そのときに選択されていない諸項によって決定され、そう した辞項として定立されるものであり、そこで「彫刻」とは、特定の、ア・プリオリなも. のではないということになろう。なお、そこで、膨刻」が膨劾であるということは、 ア・プリオリな何ものかとして措定されたものとの実体的な関係において成立するもので はない。それは歴史的に限定された暫定的で特殊な約束事、すなわち共時体系の在りよう によるものといえる。. クラウスの方法論は、芸術(彫刻)作晶を一個の有機体とみなし、その膨刻である」 ことの意味を、その根拠たるカテゴリーの普遍性を立証するための系統樹の構築や起源の 確定に還元するものではない。それは、芸術(彫刻)作晶を一個の構造とみなし、その意 味(「∼でなく/∼でもない」というような固有の実体的な自己岡一性を有さない、否定的. 11.
(20) な差異の対立化によって可能とされるもの)を、その根拠としての共時的な構造の函数と して理解しようとするものであるといえよう。7 また、そのことは、芸術(彫刻)作晶における意味の根拠としての共時的な構造(形式). を、非求心的な諸断片8としてとらえることにより、それぞれの共時的な「彫刻」における 構造の非連続的な歴蔓についての思考へのアプローチの可能性を示したものであるといえ るだろう。. そのようなとらえ方は、ポスト・モダニズムにおける「生産の視座」としての「論理的 構造]9という視座をもたらし、実践空間の論理を「意味」が対象化された特定の媒体との 直線的で固定的な実体性の関係から、論理的操作という流動的で非固定的な関係へと開放 するということになる。. また、「展開された場」とは、その論理的条件がモダニズムの枠内では記述できない状況. における論理であり10、クラインの群といわれる展開理論によって論理的に展開されたも のでもあるといえる。そこでは、その場を条件付け、構成する各地点はすべて論理的に導 出することが可能とされるものである。. そして、実践はその場に対する論理的操作によって規定されつつ、そこではあらゆる横 断的・交錯的な活動も論理的なものとして保障され、そのことが、モダニズム的気質に隷 属する、あらゆる固定的な諸関係から、さまざまな実践を解放するといえる11。. なお、クラウスは、ポスト・モダニズムという文脈は、モダニズムという文脈から歴 史的断絶」12を経て展開されたものに他ならないという。また、ジャンーフランソワ・リ オタール(Lyotard, Jean Francois)によれば、ポスト・モダニズムとは、「未来完了のパラ ドクス」13という形容でもって語られるものであるという。そのことについてリオタ・一一一ル. はさらに次のことを述べている。. プレザンタシオン. ポストモダンとは、モダンの内部において、提示像そのもののなかから「提示しえ ないもの」をひきだすような何かのことだろう。14. なお、守中高明はポスト・モダニズムについて、リオタールによる味来(post)完了 (mode)のパラドクス!を引きつつ、次のように述べている。. 「ポストモダン」における「ポスト」が示しているのは、下る様式から別の様式への. 12.
(21) 目的論的な進化}発展ではなく、或るパラダイムの別のパラダイムへの止揚の運動で もない。そうではなく、この接頭辞は、何であれ既存の諸ルールによっては支配され. ず解釈されないような咄来事」の生起が開く時間、すなわち、それ以後はじめて新 たなルールが確立したということになるであろうような咄来事」が開く時間を表現 している。15. そのうえで、守中は、「己れの内部には解消できない外部性の刻印を帯びた作晶・主体・. 記号の生成に『モダン』が己れの内部を差し出すとき、その不可能な領域を流れる時間が 『ポストモダン』と形容され得るわけである」16と述べている。. また、リオタールは「ポストモダン」とは、この味解完了のパラドクス」にしたがっ て理解されるべきであるとして次のように述べている。. プレザンタシオン. ポストモダンとは、モダンの内部において、提示像そのもののなかから「提示しえ. ないもの」をひきだすような何かのことだろう。不可能なものへのノスタルジーを共 フォルム. 有することを許すような趣味のコンセンサスの上にたってよい形式からもたらされる なぐさめを、拒絶するもの。新しいさまざまな提示を、それを楽しむためにではなく、 「提示しえないもの」がそこに存在するのだとより強く感じさせるために、たずねも. とめるもの。ポストモダンのアーティストや作家は、哲学者としての立場に立たされ ている。彼が書くテクスト、彼が作りあげる作品は、理論上、すでに存在する諸規則 によって支配されてはおらず、そのテクスト、その作晶にたいして既知のカテゴリー を適用することによる、規定的判断によっては、判断されえない。これらの規則やこ れらのカテゴリーこそ、その作晶あるいはテクストが探し求めているものなのだ。し たがって、アーティストならびに作家は、規則をもたないまま、aura 6t6飯t「これ からなしとげられているであろうもの、できあがってみてはじめてわかるもの」【前未 イヴェント. 剰の諸規則を確立するために、仕事をするわけだ。そこから、作品とテクストは事件 としての諸特性をもっことになるのであり、またそこから、それらがその作者自身に とってはあまりにもおくれてやってくるということになるのであり、あるいはおなじ ことだが、それらの作晶化[mise en oeuvre】は、つねにあまりにも早くはじまるという. ことになる。「ポストモダン」は、未来(p◎st)完了(mode)のパラドクスにしたが って理解されるべきだろう。17. 13.
(22) このことから、ポスト・モダニズムという文脈を単なる時代区分の問題に還元すること 自体が、依然としてモダンの文脈の内部(目的論的な進化一発展の図式の中)に閉じ込め られたままであるといえるとともに、そのような問題設定は、既存の諸ルールに束縛され た文法に則って成立しているといえる。 例えば守申は、「己れの内部には解消できない外部性の刻印を帯びた作晶・主体・記号の. 生成に『モダン』が己れの内部を差し出すとき、その不可能な領域を流れる時間が『ポス トモダン』と形容され得るわけである」と述べている。. そこでいわれている「外部性」という概念を実体的にとらえてしまうと、ポスト・モダ ニズムの意味するものは実体化し、モダニズムにおける進化一一発展の図式上に延長され、 その問題設定の圏内に拘束されてしまうことになる。. リオタールのいう「未来完了のパラドクス」を理解するためには、そのような実体的な 見方を除去する必要があり、「外部性」とは実体的にあるものの外側に位置しているものと してではなく、「内なる外」であるものとしてとらえられなければならない。したがって、. それは諸規則の手の届かぬ実体的な「外」ではなく、諸規則が解体されると岡時に薪たに 生成される関係性における内在的な「外」であると考えられる。 そうであるとすれば、ポスト・モダニズムという文脈は、モダニズムの文脈に対する「不 可能性」、あるいは「外部性」ということになり、その意味でモダニズムの文脈からは決定. 的な断絶を蒙ることになる。なお、その断絶は歴史的なものであるとともに社会的なもの でもあり、また文化的なものを蒙ったものともいえよう。. しかし、ポスト・モダニズムという文脈は実体的なf外部性1ないし断絶ということで はない。なぜならば、f外部性」を実体化するということは、ポスト・モダニズムの意味を 単なる時代区分の問題にするということになり、依然としてモダニズムの圏内に、あるい はモダニズムの諸規則のうちにとらわれていることになるからである。また、モダニズム の文脈は、あくまでも進化一発展のプログラムといえるものであり、ある固有の起源をも つ系統樹の構築の歴史に他ならないと思われるからである。 そのことについてクラウスは、次のように述べている。. 歴史主義に深く根差していたグリンバーグの方法は、芸術の領域を、時間を超越する と周時に、絶え問なく変化するものと見倣している。ということは、一方ではある一. 14.
(23) 定の事、すなわち芸術それ自体k徐冷、彫刻、傑作などが、普遍的で超歴史的な形式 だということであり、しかも同時に、これらの形式の命が、まさに生き物と同じよう に、絶え間ない再生に依存しているということが断書されることになる。18. ここでいうポスト・モダニズムという文脈は、モダニズムという文脈の内在的な外部に 生起した、それとは金く異質で別様な文脈であるということができ、クラウスによれば、 モダエズムを限界づける諸条件は、論理的に決定付けられた裂開を被っているということ になる。19. また、このクラウスの考えに基づくならば、それ自身の自律化及び純粋化を企てたモダ ニズム彫刻は、純粋な否定性として経験されていくことで、そうではないものでしか位置 付けることのできない何ものかとして現れるようになり20、彫刻は、純粋な否定性、つま り排除の組み合わせというリミットとしての形式に導かれることになる21。. クラウスによれば、彫刻とは、モダニズムのリミットにおいて一個の肯定性であること をやめ、非一風景に非一一建築を加えたものから帰結するカテゴリーという排除の語彙の組. み合わせの総計として、そうではない二つのものの間に特権的な中問項として宙吊りにな ったものであるとしている。23. 非 葬 したがって、それは共時的な構造の 1 ・ 建 ‘風. 瀬瀬篠灘籍 ∵ される鵬実体としては不在であ ∀・ り、その構造(モダニズム彫刻のリミ 髪. ット)を構造化している諸項に対する モダェズム彫刻のリミットの図22. 論理的な操作によってっくりだされる事後的な関係項であるということになる。 そして、そこでのカテゴリーの在りようは、絶対的で普遍的なものとしてではなく、あ る歴史的に限定された揚や状況に応じて、そのつどごとに形成されうる論理的な関係性か ら立ち上がってくる手がかりとして開かれているものということもできるだろう。. そのことは、クラインの群における展開理論24に従って、四つの論理的な場へと「リミ ット」として収束するのではなく、ポスト・モダニズムにおける「展開された場」へと、 そのま象展開されていくものでもあると考えられる。. なお、クラウスは、モダニズムにおける様々な媒体の純粋性と独立性とを要請する論理. 15.
(24) は、二つのもののあいだに形成された中性的なものとしての中間項に特権を与えてしまっ たとしてモダニズムの限界をみている。このことは、展開された場」が、論理的に保障す る複合的なものは、ポストールネサンス美術の閉域においては排除されてきたということ があげられるとしている。25. また、そのような論理は、歴史主義的な方法論によって支えられ、進化のモデルあるい は起源・実父の確定というカテゴリーの拡大にかかることでもある。もちろん、この歴史 主義的な方法論とは、絵画、彫刻などを普遍的で超歴史的な形式においてとらえるととも に、それらの形式を生き物の命と同じように、絶え間なく再生するものとしてとらえよう とするものである。そのことは異質な統一体間の関係について思考することを認めず、様 式の一貫性や形式の整合性といった概念から解放したりもしないということである。すな わち、そこには、彫刻という普遍的なカテゴリーが存在してしまうことになる。. 一方、クラウスによる方法論は、彫刻をはじめ、あらゆる普遍的なカテゴリーや形式を. 認めず、膨劾とは共時的な構造によるものであるとし、「彫刻」が名指す彫刻とは、特 定のア・プリオリなものではないということになる26。つまり、ポスト・モダニズムとい うモダニズムとは断絶され、そこで成立していたル・一一・・ルが解体されるようなところにおい. ては、「彫刻」というカテゴリーは普遍的なものではなく、「展開された場」という暫定的 な論理構造をかたちづくる一つの項として位置付けられることになるのである。. この「展開された場」とは、子どものく私一生〉の論理に基づく行為の多様な展開を規. 剃する糊度」としての「彫刻」というカテゴリーの意味を解体し、より柔軟なものへと 開いていくことの手がかりとなるといえる。. (2)論理的構造と展開論理 クラウスは、ポスト・モダニズムにおける「展開された場」という「論理空間」におけ る彫刻というカテゴリーは、特権的にその存在が保障されているものとしては理解されな いとしている。. なぜならば、それは、彫刻というモダニズムのカテゴリーがその間で宙吊りになってい る一組の対立関係を論理的に展開することによって生み出されるものだからである。それ は論理的に「展開された場」を構造化する文化的決定因子、すなわち、「風景」、「非一風景」、. 「建築」、「非一建築」に対する論理的操作によって、等しい権利をもって定立される函数. としての四つの可能的な地点のひとつにすぎないものとして理解される。そのことについ. 16.
(25) てクラウスは次のように述べている。. それらは一つの宇宙ないし文化的空間の一部分であり、その中で彫刻は単にそれとは 別の一部分をなしているだけである。それは私たちの歴史主義的精神が考えるように 岡じあのではない。それらの目的と快楽は、まさにそれらが対立し異なっているとい うことにある。27. エクスバンヂイドコツィ ルド. 展開された場はこうして、彫刻というモダニズムのカテゴリーがその聞で宙昂りに なっている一組の対立関係を問題化することによって生み出される。そしていったん そうした:事態が起こり、この展開に沿って考えることが可能になると、他に一論理的. に一三つのカテゴリーを想定することができることになる。三つのどれもが、この場 自体の一条件をなし、また三つのどれもが彫刻には同化不能である。何故なら見ての とおり、彫刻はもはやそうではない二つのものの問の特権的な中間項ではなく、他の 異なった仕方で構造化された可能匪が存在する、一個の場の外周上の単なる一項にす ぎないからだ。こうしてこれら別の諸形態について考える「許可」が得られたのであ る。28. 場所一構築 このようにクラウスは、この「展開さ ・ /〈\ ノ 風景’ \建築…・…・…………。…………。……蒼芝合曲. れた場」への展開を、モダニズムのリミ //\ 〆\\. 一クラインーれる展梅島(↓×\/ . 理論に基づいて実践した。 集風景\ プ腱築……“響’…………’”’…帖的 ノ \\ //. それは、ある一組の二元体(a,b) 覇. におけるその最初の対立関係(a−b) 構造図29 を鏡像化しつつ、矛盾関係を成立させる. 項(a:非一a,bl非一b)を対極に写像し、そうすることで生まれるもうひとつの軸 (非一a一非一b)及びそれぞれの対角線上の項(a:非一b,b:非一a)を合わせて 論理的に展開されたもの、すなわち同時に四元の場をもつ構造体(a:非一b:非一a: b)に変換するというものであった。. そのことを、この本頁構造図でいえば、ある一組の二元体、すなわち「風景」、腱築」 におけるその最初の対立関係、「風景」一騰築」を鏡像化しっっ、矛盾関係を成立させる. 17.
(26) 項、「風景」一「非一風景」、「建築」一「非一建築」を対極に写像し、そうすることで生ま. れるもうひとつの軸、「非一風景」一「非一建築」、及びそれぞれの対角線上の項「風景」 一「非一建築」、「建築」一「非一風景」を合わせて、論理的に展開された、岡時に四元の 場をもつ構造体、「風景」一「非一建築」一「非一風景」一「建築」に変換するというもの であった。. そのことから、そこでは、それぞれの地点において、すなわち「風景」一階築」では 「場所一構築」、「風景」一「非一風景」ではf印付けられた場所」、「建築」一「非一建築」. では「公理構造」、そして「非一風景」一「非一建築」では即刻」というフィールドが生 み出され、保障され、そこでの実践のフィールド(場)はすべて論理的に導出され、保障 されることになる。. 以上のような論理展開は、先のポスト・モダニズムに対する見解からとらえ返せば、「内. なる外」を読もうとする號み」3eの実践によるといえるものであると考える。なぜなら ば、ポスト・モダニズムとはモダニズムの内在的な外部を読もうとする「未来完了のパラ ドクス」における独特の文法であると思われるからである。したがって、ここでは、クラ ウスによる「展開された場」はモダニズムのジミットに対する一種の「読み」によって成 立したものであるとしてとらえ返すことにする。. さて、そのようにして導き出された構造は、それが一種の「読み」における論理展開に よって形成されたものである以上、何らかの実体性の枠内で「読む」ことはできない。し たがって、そのシステムを構造化している諸二項は自存的実体としてのそれではなく関係 的存在であるということになる。31. また、そのシステムは、ソシュールによる「体剰の概念との関係においてとらえるこ とができると思われる。. 例えば、、丸山圭三郎は「体系」についてソシュールの論理をとらえ返しながら、「意義と. か概念なるものはそもそも自存していない」とするとともに、欄係の世界においては個は 存在し得ないのである」として、「体系」(ないし構造)における「個」と「全体」との関 係32について次のように述べている。. <体系systさme>とは(中略)、全体があってはじめて個が存在するものであり、そこ. では独立した個々の要素が寄り集まって全体を作るのではなく、全体との関連と、他 の要素との相互関係のなかで、はじめて個の意味が生ずるような体系なのである。出. 18.
(27) 発すべきは常に全体からであり、全体は個の算術的総和ではない。ラングを構成する 諸要素は、その共存それ自体によって相互に価値を決定しあっている。価値:は対立か ら生じ、関係の網の演に生れる。33. このことについてソシュールは次のように述べている。. 価値の観念は(中略)、辞項というものをたんにある音とある概念とが合一したものだ くらいに考えることの、大きな誤りであることを教える.そのように定義することは、. それが部分をなす体系からそれを切り離してしまうことになる;それは、下平から始 め、それらを加え合せて体系を構成しうるかのように思うことである、じじつはその 反対で、連帯的全一体から発して、その包含する要素を分析によってえなければなら ないのである.34. 言語は一つの体系であり、その予予はことごとく連帯的であり・そこでは一一一S¥項の価. 値は他のものの岡時的現前からのみ生じる(後略)35. このことから、「体系」をかたちづくる諸要素は、その共存自体によって相互に価値を 決定し合っているため、それぞれの「価値は対立から生じ、関係の網の目に生れる」とい うことになる。つまり、この橿開された場」、すなわち構造36を構造化している文化的決 定因子という差異の対立によって、この場自体を条件付ける各地点は、それぞれの意味を 生み出す(カテゴリー化される)ことになる。. しかし、同時にそこでは元の対立させられた差異は、その他に三つの異なった仕方で対 立することを許可されているため、潜在的には四つの地点が同時に存在しうることになる。. そして、それら諸地点同士の「場」というひとつの大きな構造における潜在的な対立関係 によって、それぞれの地点の他の地点に対する意味(カテゴリー)が決定されることにな る。. したがって、各カテゴリーにおける諸作晶の意味は、文化的空間内の諸項霞に対する論 理的操作37によって、すなわち「展開された場」という構造の函数として、あるいはネガ ティヴなものとして理解されるといえよう。つまり、「展開された場」における「彫刻」と は、「論理的構造」の視座によってもたらされ、それは彫刻からその特権的な意味を奪い、. 19.
(28) それをひとつの場の周縁の一項として、他の構造を持った可能な三つの項と関係付けられ ることによってしか意味をもちえない。. クラウスによれば、そこでは歴史主義的精神が「彫刻」の起源としたり、あるいはモダ. ニズムの論理においては許容されなかった複合的なものは、膨劾とは異なった仕方で構 造化されて(潜在的には岡時的に)存在しうる論理的なものとしてとらえられることにな. る。それらは歴史主義的な方法論が策定する「彫劾の初期の、あるいは退化、ないしは 変種としての形式ではないのである。そのことについてクラウスは次のように述べている。. それらは一つの宇宙ないし文化的空間のr・一一・r・・部分なのであり、その中で彫刻は単にそれ. らとは別の一部分をなしているだけなのである。38. 外開された場」という論理構造においては、それだけで成り立つような個は存在しな い。したがって、「彫刻」とは「展開された場Gをかたちづくる他の項との関係において決 定されることになる。. 以上のようなポスト・モダニズムにおける論理的に駿州された場」は、媒体の意味と 実践空間の論理に対して、その本質的な構造変換を要請することになる。このことは、「展 開された場」においては、「彫刻」という固定化された枠組みないし基準は解体されるため、. 子どもたちひとりひとりのく私一生〉の論理に基づく行為の立ち上りを保障することにつ ながるといえる。. 20.
(29) 3 媒体の意味と実践空間の論理 (1) 媒体の意味. クラウスの理論は、ポスト・モダニズムにおける「生産の視座」としての「論理的構造」. という視座をもたらし、実践空間の論理を「意味」が対象化された特定の媒体との実体的 な関係から、論理的操作という関係性へと開放するといえるものであった。そのことは、 媒体における媒介という竹下を記号概念からとらえ返してみればより明確なものとなろう。 ここでは、ひとつの媒体をひとつの記号、すなわち、ソシュールのシ・一一:: ・・39として「読. む」ことにする。. 丸山によるソシュール解釈に基づくならば、シーーニュとは、まず「記号」といえ、それ. はその外部に指差すべき指向対象を有する「記号」とは異なり、表現(シニフィアン)と 意味(内容1シニフィエ)とを同時に備えた二重の存在としてのく記号〉である。 シーニュにおいては、その意味自体は、記号の外部にあらかじめ存在するのではなく、 記号が意味をもち、その意味が外界に投影されてく指向対象r6f6rent>を区切るというこ とである。40ここでいうく記号〉、すなわちシーニュとは、あらかじめ存在するとされた 実体としての対象に貼り付けられたラベルではなく、それ自体が意味を有し、形成すると いえるものである。. また、それが担う意味、二次的なものとして区:切られること:になる指向対象とは、その. 意味ではあらかじめ決められたものではなく、シV一 :ユの出現によってつくりだされたも のとしてとらえられることになろう。そうであるとすれば、シーニュが指差す対象とは、. シーニュによってつくりだされた非在のもの、すなわちシーニュによって名指される前に は、今、それとしてあるものではない。それは、シーニュとの関係においてはオリジナル であることを立証することができないものであり、シーニュそれ自体も、〈記号〉という コピーである。. しかし、それはオリジナルなきコピーであって、シーニュとは、ある「体系」の函数と してあることによって意味を有し、それがある非在の指向対象に対する代理・代役であり 続けるようなもの、すなわち、その再現=表象(媒介)の条件が非在に基礎付けられた三 差的なものであるということになる。. また、それが媒介するものはもとのオリジナルで固有な対象、絶対的な何ものかではな く非在の指向対象であって何ものも名指さないものといえる。ただし、シニフィアンと、. シニフィエとが別々にあって、それぞれが実体的に結合されることによってシーニュが形. 21.
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