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横浜国立大学教育学会第5回大会記録

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Academic year: 2021

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(1)I 【横浜国立大学教育学会第 5回大会記録】. 2 0 1 7 年3 月3 0日 横浜国立大学教育人間科学部7 号館.

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(3) 【1】個人発表一覧 [1J主体的・対話的で深い学びに及ぼす家庭での授業動画視聴の影響 —小学校体育実践から一. (横浜国立大学大学院・横浜国立大学附属鎌倉小学校)矢邊洋和 (横浜国立大学) 梅澤秋久. [2] 体育授業に対する動機づけが卒業後の運動実施にあたえる影響 (横浜国立大学大学院) 鈴木亜美 (横浜国立大学)梅澤秋久. [3] 音楽をつくること - Music-makingによる音楽行為の現象学的視点による一元論への導入∼ (東京学芸大学連合大学院)清水稔. [4] 協働的問題解決に対する認識と参加態度の関連 (横浜国立大学大学院) (横浜国立大学). 堀 優太 鈴木雅之. [5] ナラテイヴ論に基づく理科授業における「主体的・対話的で深い学ぴ」の意味に関する研究 (横浜国立大学大学院) (横浜国立大学附属横浜小学校) (横浜国立大学). 大木裕未 斉藤 武 和田一郎. [6] 理科における能動的な知識の関連付けの実態とそれを促す教授方略に関する研究 (横浜国立大学大学院) (東京都三鷹市立第二中学校) (横浜国立大学). 佐野菜実 宮村連理 和田一郎. [7] 小学校理科授業における社会的メタ認知の促進と育成に関する研究 (横浜国立大学大学院) (東京学芸大学連合大学院・三浦市立剣崎小学校) (横浜国立大学). 猪口達也 長沼武志 和田一郎. [SJ ある教師の生涯を軸とした教員史研究の意義と課題 —長島重三郎関係史料を手がかりに一. (横浜国立大学大学院). 真辺駿. (鶴川女子短期大学). 竹田恵. [9] 教員研修に関する一考察 —モンテッソーリ教育の実践講習会を事例として一. [ 1 0 ] 関東大震災後の神奈川県女子師範学校 一周辺化に抗う女性教師・女学生一 (横浜国立大学非常勤)上田誠二. -55-.

(4) [ l l ] 小学校体育授業における教師の「信念」変容の考察 -1年生「鬼遊び」を事例として∼ (横浜国立大学大学院) (横浜国立大学). 濱地優 梅澤秋久. [ 1 2 ] 協働的な科学概念構築過程に関する研究 (横浜国立大学大学院)坂井真海 (神奈川県立上溝南高等学校) 平瀬健太郎 (横浜国立大学) 和田一郎. [ 1 3 ] 対話的な理科授業が促す子どもの「科学的思考・表現」 (横浜国立大学大学院)田代晴子 (川崎市立東柿生小学校) 野原博人 (横浜国立大学) 森本信也. [ 1 4 ] フィードバック機能の自覚的な駆動を促す足場はずしに関する研究 (東京学芸大学連合大学院・三浦市立剣崎小学校)長沼武志 (横浜国立大学) 森本信也. [ 1 5 ] 学級での価値共有過程としての価値づけ (横浜国立大学大学院) (横浜国立大学). 関原良平 有元典文. 【2】講演会 子ども研究の現代的課題 ー教育• 福祉・地域融合への展望一 (沖縄大学名誉教授). -56-. 加藤彰彦(野本三吉).

(5) 研 究 論 集 第 5号 :0 0-0 0 .2 0 1 8. 【講演会記録】. 子ども研究の現代的課題 教育・福祉・地域融合への展望 加藤彰彦(野本三吉) (沖縄大学名誉教授). はじめに 人には自らの生き方の原点になるような体験がある。中でも特に〈子ども〉に関心を持ち、子どもに関する研 究をしようとする場合、何らかの形で子ども時代の経験が大きいように思う。 私自身の場合、三オの時に起った「東京大空襲」の体験と記憶がそれに当たる。 東京の墨田区に住んでいた私の家族は、 1 9 4 5年 3月 1 0日の米軍による集中爆撃を受け、 1 0万人余が亡くなる という大惨事の中で妹を失った。 まだ生後十ヶ月の娘を失った両親の悲しみを見て、ぼくの中に戦争への拒否感と共に幼い生命が理不尽に奪わ れていく、社会の不条理への反発が大きく根付くことになった。 また、教員を志望していた父が、戦争とその後の混乱期の中で自らの夢を果たせなかった思いを長男である私 への期待として託された思いの中で、教師になっていくという選択とも重なってくる。 さらに大学に入学した直後に起った事故で生死の間をさ迷い、その中で子ども時代のさまざまな記憶が蘇え り、子ども時代というのは人間の原型質であるという思いがハッキリとぼくの中に定着したことなどがある。 こうした幾つかの体験が一つに結晶して、子どもという存在への関心として、ぼくの中に定着してきたような 気がする。 こうして私は 1 9 6 0年に横浜国立大学に入学することになった。. I . 子ども研究、序説 横浜国立大学では教育学を専攻し、子どもを育てることに関心を持っていた。 当時、カリキュラム論の講義を担当していた伊籐忠彦先生の授業を聞き、子どもが育っていく背景には、単な る学校教育ではなく、もっと幅広い生活の領域全てが存在することを知るようになった。 伊藤忠彦先生は、戦後まもなくアメリカで開発された「コア・カリキュラム」の思想と実践を日本に導入した 東京大学教育学部の一貝として、その翻訳と定着のため、日本各地でのプロジェクトに参加をし、指導してきた 方であった。 関西出身の伊藤先生は、兵庫県の魚綺プランに実践者としても活動しており、その講義は実践的で魅力的で あった。 教科を中心としたプログラムから、生徒中心のプログラムに変えたカリキュラムは、生活体験を中心にして組 み立てられていた。 さらに、私自身が学んだ横浜市立豊田小学校では、この「コア・カリキュラム」授業の実践校で「お店屋さんごっ こ」「魚屋さんごっこ」などに参加した体験もあったので、伊藤先生の講義は、小学校での体験を理論化する上. -57-.

(6) 講演会記録. でも貴重なものであった。 「コア・カリキュラム」運動の理論的背景にはジョン・デューイの経験主義の哲学があり「経験と教育」など は夢中になって読んだ。 子どもは教室に坐わり、座学で学んでいくのではなく、自ら体験し、実際にやるという経験を通じて、さまざ まな学習をしていくという「体験学習」の考え方もスッキリと浸み込んでいった。 こうして私は、伊藤忠彦先生のゼミ(演習)に参加し、一対一のマンツーマンでの指導を受け、よくご自宅に も伺い貴重な著作を読む機会も与えていただいた。 子どもは暮らしの中で学び、育つという理論の原型は、伊藤先生との関係の中でより深まったという気がして いる。 伊藤忠彦先生は、デューイ理論の影響もあって、よく子どものいる現場へ出かけられ、学校教師や、児童文化 活動をしている実践家の方々との交流も広かった。 そうした伊藤先生との交流の中で影響を受けたのが、川崎で小学校教師をしていた阿部進さんである。 阿部進さんはユニークな実践家で、子どもたちの暮らしの中に入り込み、そこから子どもたちの実像をつかみ 出すことが上手な方であった。いわば「子ども民俗学者」のような視点を持った方であった。 その阿部進さんがまとめた『現代っ子」という本が出版され、それまで学校内の教育実践の中だけで描かれて きた子ども像が一気に新しいステージに上がることになった。 当時、子どもたちが影響を受けていたのはテレビ、ラジオ、子ども週刊誌、漫画などであったのだが、それま で教育学の分野では全く無視されてきていたのであった。 そうした子どもたちの実像を描いたということで、その評価をめぐっても当時のジャーナリズムは、阿部さん の「現代っ子」像を大きく取り上げることになった。 伊藤忠彦先生は、この阿部進さんの子ども像、社会の影響などについて受けとめねばならないと提案して「現 代子どもセンター」という研究所が設立されることになった。 漫画家の手塚治虫さんや、児童文学者の佐野美津男さん、詩人の寺山修司さん等著名な人々も参加し、毎月研 究会も行われ、ぼくは伊藤先生と一緒に参加し、新しい子どもに関する思想が生まれ出る動きに興奮していたの をよく覚えている。 こうした状況の中で、私は大学を卒業するのだが、この時に書いた卒業論文は『大衆児童文学論」である。 教育界では無視されている子ども文化をもう一度見つめ直してみたいという発想で、大正時代に影響を与えた 『少年倶楽部』という少年雑誌の創刊号から廃刊号までを全て、出版社であった諧談社を訪ね、約二年間かけて 読破し、その内容と影堀についてまとめたものである。 当時の編集長であった加藤謙ーさんにもお話を伺い、いろいろと指導も受け、三 00頁を越える卒論としてま とめたのだが、卒業後すぐに起った横国大の火災のため、消失してしまった。当時はコピーもなく控えもとって いなかったので幻の卒論となってしまった。 (この内容も含め、後に『子ども観の戦後史』野本三吉著、現代害館、 1 9 9 9年刊、としてまとめておいたので読 んでほしい). l l . 教育現場での実践と子ども研究 私が小学校の教師になったのは 1 9 6 4年からである。当時は現場教師による実践記録が盛んであったので、私 も毎日、学級通信を発行し、同僚の仲間たちと交換したり、学習会をしていた。 中でも楽しかったのは、新卒の教師仲間とやっていた「新米教師の会」。 毎月一回、土曜日に横浜の喫茶店に集まり、実践記録を持ち寄り、交流し討論をしていた。 特に問題を抱えた子どもたちにどう対応したのかという内容には関心が高く、熱心に話し合い、参考になる本. -58-.

(7) 子ども研究の現代的課題. 教育•福祉・地域融合への展望. を探したのをよく憶えている。 このメンバーの中には、後に不登校に関する活動をする奥地圭子さんもいた。 また、単なる研究会ではなく、教育内容や教師の運動とも関わりつつ、制度の見直しなどにも視点を広げて学 ぴ合う「教育問題研究会」が行われるようにもなった。 教育行政や経済白書などもレポーターを決めて学習会をしたり、日教祖の活動分析をもやったりした。 この仲間には、村田栄一さんや武藤啓司さんもいた。 そして、子どもを育てるという仕事は、教師自身の生き方と重なっており、自らがどう生きていくのか、どん な時代を作っていくのかというイメージや社会像を持たなければいけないのではないか、という発想までに高 まっていった。 この頃、東京大学の教育学部で行われていた教育運動の研究会にも、村田さん、武藤さんと私も参加していた。 当時の研究会の事務局長は、大学院生であった里見実さんであった。五十嵐良雄さんや津田道夫さんなどユ ニークな研究者も参加しており、私は現場の実践と、理論とのつながりを模索していたのを記憶している。 そして、その結論は現場での実践が一番の基本であり、そこから理論や思想をつくり出したいという形でまと まっていった。 この中から村田栄一さんの「戦後教育論J(社会評論社)が生まれてくる。 そして、私自身は、教師が通信簿をつくり、子どもを評価していくシステムはいらないのではないかという結 論になっていった。 学ぶことは、生きていく上で基本的なことなので、学ぴたいことをドンドン学んでいくべきだし、教えてもい く。学び合いもやっていく。 しかし、それを相対評価し、それが進学や就職にもつながるような形で、活用するのはおかしい。 クラスの中では、どの子も自分が何ができ、何ができていないのかはよく判っている。 それなのに、客観的評価をし、知らせていくことは必要なのか。 横浜市内の小学校では、通信簿をつけない運動も起ったが、評価を必要とする教育委員会や国(文部省)の圧 カで押しつぶされていった。 結局、私の結論は、現在の学校は国家による選別の機関となってしまっているという考え方にたどりついてし まった。 学ぶことは、もっともっと自由で広い、そして深い作業なのに、教えるという側面のみに力が注がれ、学校は 子どもが生きる場ではなくなっていると感じたのであった。 私が教師をやめたのは、 1 9 6 8年末。 子どもが大好きで、学ぶのも大好きだったが、学校教育とは異った形で、子どもと関わりたいと思い、退職した。 そして、さまざまな現場で暮らし、子どもをどう育てているかを実感する旅を、約四年間することになった。. 皿 . 日雇労働者の街と子どもたち この四年余りの放浪の旅の記録を 1 9 7 1年に「不可視のコミューン」(野本三吉著、社会評論社)という本にま とめた。 結局は、誰もが安心して学び、暮らせそして生きていける自由な地域社会(コミューン)ができなければ、子 どもたちも幸せには育たないということが、この旅の中でわかってきたことであった。 だとすれば、その思いをどこか具体的な場の中で実現してみたいと、私は思った。 そして、たまたま中学校時代の恩師から声をかけられたのが、横浜の日雇労働者の街、寿町にある「寿生活館」 の生活相談員(ソーシャルワーカー)の仕事であった。. 1 9 7 2年から私は再び横浜市の職員となり、産業予備軍として不安定な就労を強いられている肉体労働者の住. -59-.

(8) 講演会記録. む 、 ドヤ街で生活に困難を抱えた人々の相談にのることになった。 この街での仕事が決って、すぐ私はこの街のドヤ(簡易宿泊所)の一つを借り、この街の住人の一人として生 活を始めることにした。 そして、勤務時間は生活相談員としてあらゆる相談にのることになり、仕事が終われば、一人の住民として、 人と話し自由に相談にのり、一緒に問題を解決していく日々となった。 どこまでが仕事で、どこからが個人の時間かわからない生活だが、私には生きていることそのものが全て仕事 であるという実感があった。 しかも地方公務員なので、一定の給料が入る。 一人ひとりが個人的な悩みを持って相談にやってくる。この仕事をしていると、多くの人が同じ問題で困って いたり、苦しんだりしていることがわかってくる。 それなら、同じ問題をみんなで力を合わせて解決していけばよいのではないかと気付くことになる。 そこで、街の中に二つのことをつくることになった。一つは、誰でも自由に厚集まってきて話ができる場。学 び合い、閉き合い、話し合えるようなサロンのような場。 もう一つは、多くの人が共通の話題が見えてきたりハッキリしたら、それを実現するにはどうしたらよいかを 話し合って、解決するための場、これは町内会や自治会、あるいは市民議会のような場。 そこで、前者のような場を「寿夜間学校」として、毎週、夜に生活館に集って話し合い、学び合う場(学校) をつくった。 特に、文字の読み書きができない人がいたので、その人たちのための「あいうえお教室」(寿識字学校)もっ くられた。 もう一つの方は、「寿住民懇談会」として、寿の街の団体やサークルの代表が集って、話し合う場として定着 するようになる。 特に「寿夜間学校」は、私にとっては、住民にとっての学びの場(学校)のイメージがハッキリしてくる場となっ た 。 この場は自由な話し合いの場なのだが、集ってきた人の中から、聞きたいこと、知りたいこと、学びたいこと が出て、まとまってくると、そのことをテーマにして学び合う場になっていった。 例えば、日雇労働者は働いても働いても、賃金は低く、ボーナスも退職金もない。 また、保険もない。病気になっても、お金がないので病院にも行けない。 自分たちは、今の日本の中で見捨てられた人間なのか、という疑問が出てくる。 そこで、日本国憲法のことを学び、労働法を学び、社会保険や生活保護法について学ぶようになる。 あるいは、この街に住んでいる一人ひとりの人生史(自分史)をお互いに知りたいというので「自分史講座」 が開かれ、自分史を語っていくことになっていく。 お互いに知っていくと、話すことが楽しくなり、仲間が増えていく。. 8 0 0 0人ほどの日雇労働者の街は、何年かするうちに一つの共同体(コミューン)にも変わり始めてきていた。 街の人が、生活相談をし、葬儀をみんなで行い、無料診療所ができていく。 自分たちの街は自分たちでつくつていこうという思いが生まれ始める。 すると、この街の子どもたちを放ってはおけないということで、学校に行かずに街でブラプラしている子ども たちの集れる「寿学童クラプ」がつくられる。 また、食事もとれない子のための「寿子ども食堂」がつくられたりもした。 また、夜間パトロールも行われ、路上で寝ている人を休ませ、食事を提供する活動なども行われるようになっ ていったのだった。 けれども 1 9 7 0年代の後半、日本全体に大きな構造不況が襲うことになった。. -60-.

(9) 子ども研究の現代的課題. 教育•福祉・地域融合への展望. この時は、大企業の人々は失業保険その他で救われたが、日雇労働者には何の救済もなく、野宿者が増加し、 とても地域の力だけでは手に負えなくなっていった。 寿住民懇談会は、何とか対策を立ててほしいと行政に訴え、宿泊券と、食事券が配布されるようになったのだ が、それでもその網から洩れてしまう人が出てしまうのも現実だった。 そんな中、 1 9 8 0年代のはじめ、路上で休んでいる日雇労働者に暴行する集団が現れ、亡くなる人まで出てしまっ た 。 いわゆる「浮浪者殺傷事件」である。 そして、その犯人として捕ったのは、 1 0代の子どもたちであった。 後に、この少年たちは学校や地域社会からも排除され、どこにも行き場のなかった少年、少女たちであること がわかった。 おとなの社会での差別、排除だけでなく、子どもたちの現実にも差別、排除があり、その少年たちが日雇労働 者を殺してしまうという悲劇。 この頃、中学校を中心に、対教師暴力が起こっており、子どもたちの不満もたまっていたのである。 私は、もう一度子どもと関わりたいと思い、児童相談所への配置を希望した。. 1 9 8 2年の時である、教師ではない形で、子どもたちともう一度関わりたいと思ったのである。. 訊子ども相談と子どもたちの現実 私が児童相談所の児童福祉司(ケースワーカー)になった頃は、校内暴力に対しての管理体制が強化され、む しろ学校へは行かない「不登校」(登校拒否)の子どもたちが増加していた。 したがって家庭訪問をすると、家の中に閉じこもり、テレビやゲームをしている子どもたちが多かった。 人と会いたがらず、一人でポツンと閉じこもっている子どもたちは、無表情で生気もなかった。 こうした子どもたちに何人も会ううちに、人は一人では生きていく意欲すら失ってしまうのだということに気 付かされた。 心が通い合う仲間といること、人と触れ合い話せること、一緒に何かやれる中で、自分のもっている力や可能 性に気付き、意欲が出てくることがわかってきた。 そこで、こうした子どもたちと親しくなってから、少しずつ仲間と合わせ、一緒にやれることも増やしていく ことにした。 こうして少しずつつながってきたところで野外活動(キャンプ)に一緒に行くことにした。誰も体を動かすの はイヤだといっていたのだが、実際に参加してみると、食事づくりをしないと夕食が食べられないこともあり、 つくり始める。 また、火をたいてキャンプファイヤーをやると、終了しても火の側に座って、ジッと火を見つめていたり、夜 空の星を見つめていたりする。 そして、山登りから下って、汗だくなので、裸になって川に入るとキャーキャーいって騒ぎだす。 数日間のキャンプが終わると、今までにない退しい表情になっていたり、大声で笑ったりする子が増えるよう になる。 学校が、こんなふうな自由で、生活に密着した食事づくりや、ものづくり、農作業や、林や川の中で動くこと をやれば、子ども同志、先生と生徒もありのま、の人間としてもつながれるのになアと感じ始めていた。 もう一つは、児童相談所の職員だけでは、数多くの子どもたちの相手をすることは難しい。 時間の余裕のある自由なお年寄りにも声をかけ、児童相談所で小さな勉強会をすることにした。 子どもたちの年代に合わせた心理や、親子関係、身のまわりの自立作業など、さらには児童福祉法や、子ども の権利条約などについて学び合い、地域の子どもたちや、家族への応援をしていただくことも頼んでみた。. -61-.

(10) 講演会記録. 慣れないことで、中々引き受けてはくれなかったが、不登校の子の家の掃除に行ってくれた方が意外なことに 歓迎されたことが報告されたりして、家庭の片付け、庭掃除から、食事づくり、中には学習支援まで頼まれた人 も出てきて、地域で子どもたちを支援することも少しずつ始まりかけてきた。 ある父子家庭の女の子の父親がケガのため家事が出来なくなった時には、民生児童委員の女性の方がお世話し て下さり、父子共に安定したという結果も生まれてきた。 こうして、地域の中にお互いが支え合うような関係が生まれてくると、地域だけではやりきれない問題を行政 や専門機関が行うというやわらかな協力関係も生まれてくるように思えた。 この頃、私は児童相談所だけではやれることに限りがあり、地域にあるさまざまな団体、組織、そして企業や 個人の方々と連絡を取り合い、困難を抱えた家庭や子どもたちを支えるようなシステムができるといいな、と考 えていた。 そう考えると、学校はどこにでもある存在で、子ども全員通うセンターのような場所だなと思えてきていた。 もし学校が、子どもたちが昼間だけ通う、勉強だけの場ではなく、それこそ民生児童委員や、児童相談所の職 員もいて、相談が出来る場所であったら地域の人もいつでも行くことが出来、子どもたちゃ先生とも会え、地域 の人たちのセンターにもなるので、先生だけが課題を抱えなくても、地域の人みんなで力を合わせられるのでは ないかと考えていた。 しかし現実には、各家庭は孤立していて、もし子育てが難しくなっていたとしても近隣に相談することも出来 ないのだった。 家庭内の私事には入ってほしくない、秘密にしておきたいという思いが多くの人の中にあるような気がする。 そのため問題はドンドン深刻化し、児童虐待や家庭内暴力にまで発展しているのが現実だった。 こうした状況の中で、もう少し現状がどうなっているのかを多くの人が知って、その中から課題を見つけ解決 していける方法はないだろうかと考えていた。 そんな時、いくつかの研究機関、大学から子どもたちの実態を調査したいので協力してほしいという依頼を受 け、子どもの生活実態調査に参加することになった。 そして、子どもが何を求め望んでいるのか。 そのためにはどのような対策や支援が必要なのかということも少しずつ見えてきた。 私はもう少し本格的に子どもや教育、福祉などについて学びたいと思うようになっていた。. V . 社会臨床としての子ども研究 児童相談所で仕事をしている時、私は地域社会と人間との関係のことが知りたくて、慶応大学の社会学研究科 (大学院)で「コミュニティ心理学」を学ぶことにした。 当時、山本和男先生が講義をされており学ばせていただいた。 山本先生は、地域もまた一つの生命体(生物)と考えるという発想で、その生きものとして地域がどうしたら 生き生きしてくるのか。 また何が欠けると不活発になるのかを研究されておられた。 生きものは何か情報を得て、それに反応する形で行動を起こしている。 地域も同じで情報を受けとめ、地域全体で共有し、その反応で判断し、活動するというのがその原理であった。 情報が一部の人によってのみ受けとめられていると、常に一部の人(リーダー)によって行われ、指示され命 令されるという不信感が湧いて、活性化が失われていくというのだ。 私が横浜市立大学の教員になったのは、 1 9 9 1年のことであった。 調査研究を一緒にやっていた先生から声をかけてもらったのだが、それが現実のものとなり、私は社会福祉論 の担当となった。. -62-.

(11) 子ども研究の現代的課題. 教育•福祉・地域融合への展望. 社会福祉は、全ての人が「健康で文化的な最低限度の生活」が実現できるよう、生活の保障を行う制度である。 生きて行く上で何か困った時、その相談にのり、その解決のために支援していくための制度やサービス、人的 支援などが行われる。 ケアーとか支援と言われる内容だが、日常生活の中ではお互いに世話を仕合うという関係として具体化されて いる。 そこで私は、横浜市立大学では、地域社会の方々や専門機関の方々と「社会臨床研究会」という集まりを開く ことにした。 さまざまな困難や問題を抱えた時、どのようにして人々はその課題を解決しているのか。 また解決を難しくしている問題は何なのかを具体例をもとにして話し合う研究会を毎月開催していた。 この中で、大学のある金沢区での精神障がい者の地域作業所づくりと、その実際の運営のあり方。また金沢区 の不登校の子ども及びその家族の方々の相談活動、またフリースペースの取り組み、将来への進路保障などにつ いて、実際に取り組み、学生も含め参加して、その動きについても社会診断し分析もした。 こうした実践活動は、一定の成果をあげていくのだが、この過程でいつも学校教育との距離があることにいつ も気になっていた。 学校とは何なのか。また教育とは何なのかという課題がずっと私の中でも続いていた。 横浜市立大学での約十年間、子ども研究について私がまとめたのは、主に子どもの生活史についての研究で あった。 一つは、江戸時代末期の寺子屋から、第二次世界大戦までの時期の子どもの生活史。 これは「近代日本児童生活史序説」(野本三吉著、社会評論社)、もう一つは『戦後児童生活史』(野本三吉著、 協同出版)。 この二冊をまとめることで、子どもはその時代の社会背景による影響を受けているという事実がハッキリとつ かめたことと、子どもが暮らす地域による影響も大きということに気付課されたのであった。 こうした流れの中で、私はもう一度、小学校教師として出発した最初の課題に向き合うことになった。 それは教育学が、学校教育を中心において成り立つのだろうかという疑問である。 もう一度、子どもに寄り添う臨床や福祉という側面と、地域社会の中で育つ子どもという視点を含め、新たな 教育の構想をつくる時期に来ているのではないかという思いに向き合っているような気がする。. V I . 新たな課顆としての子ども研究 私が沖縄大学の教員として沖縄大学に赴任したのは 2 0 0 2年 。 私が六 0オの年である。独立した琉球王国であった一つの国が日本によって植民地化され、第二次世界大戦で は日本の捨て石として多くの犠牲を強いられ、戦後 2 7年にも渡りアメリカに占領され続けてきた。 1 9 7 2年に日 本に復帰したとはいえ、いまだ多くの基地を沖縄に集中したまヽ、現在も辺野古基地を増設しようとしている中 で、沖縄の人々が何を訴え、子育てをどう考えているのかという課題を抱いて、私は沖縄へ渡った。 沖縄大学では、 2 0 0 6年まで社会福祉文化学科で児童福祉論を担当し、 2 0 0 7年からは「子ども文化学科」で、 子ども論を担当した。 そして、 2 0 1 4年に大学をやめるまでの十二年間で、沖縄という島の風土と、子どもに関して以下のよう研究 をまとめてきた。 一つは『海と島の思想J (野本三吉著、現代書館)、もう一つは「沖縄、戦後子ども生活史」(野本三吉著、現代書館)。 「海と島の思想』は、沖縄にある有人離島四五島をめぐり、その風土と文化、そして歴史と現状をまとめたもの。 そして、現在の教育が、沖縄の歴史風土を無視して日本政府の論理を一方的に押し付けているという確認がで きたこと。. -63-.

(12) 講演会記録. 『沖縄、戦後子ども生活史』では、日本復帰によってより一層、沖縄文化の日本化が進められているという現 実が明らかになったと思っている。 その意味では、沖縄という文化風土を大切にし、自立した学びの場、学校教育を確立することが求められてい ると思う。 教育は、そこに暮らす住民、当事者が考え、求めているものを中心にして行われるべきものだという確信が、 ますます明確になってきている。 沖縄での十二年間に、沖縄の方々とまとめた二つの白書がある。 一つは「沖縄子ども白書』(ボーダーインク、 2 0 1 0年)、もう一つは「沖縄子どもの貧困白書」(かもがわ出版、. 2 0 1 7年 ) 。 いずれも沖縄県内の実践者、関係者と共につくりあげてきたものである。 そして結論的に言えることは、人間が生きていくことで最も基本的な課題は二つに絞られるということ。 一つは文字通り「生きること、生き抜くこと」。人間が困難な状況の中でも生き抜くためには、どうしても同 じ仲間同志が力を寄せ合い、支え合って生きなければならない。共に生きること、それが必須の生きる条件だと いうことである。 そして、もう一つは「子どもを産み、育てること」、つまり世代継承をするということである。 人類がこれまで生き抜いてきたのは、子どもが産まれ、育ってきたからであり、この子育ては究極の人類の希 望でもある。 そして、その子どもが仲間と共に生きていくために助け合い、支え合う力を育てていくこと。 それが最も大切なことになる。 つまり、子育てという教育の最も基本的な要素は「相互扶助」、つまりケアー、福祉の精神ということになる。 だとすれば、現代の教育学は、単に学校教育、学力養成という狭い視野から、もう少し広い視点、つまり生き 抜く力(共に生きる力)をどう育て養っていくか、ということから、コミュニティ再生、地域再創造をも視野に 入れて、新たに展開される必要があると思えてならない。 そして、人類にとって「子ども」とは何か。 また、地域再生は、子どもを軸とした、新たな「子縁社会」の創造によってなしとげられるのではないかとい う課題も頭に入れながら今後とも、考えていきたいと思っている。 そう考えると、子どもを研究するということは、現代の閉塞した状況を切り開いていく重要な課題とつながっ ていることがわかってくる。 そして、その展開のためには、心理学、教育学の枠を越えて、共に生きることを甚本とした福祉の視点、さら に生きていく現場、つまり「地域(コミュニティ)」論とも重ね合わせることが必要になってきていると思えて ならない。 人間の成長と、ライフサイクルを暮らしの中で考察していくことが、現代教育学の課題だと思う所以である。. -64-.

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参照

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