• 検索結果がありません。

<論文> 『玉あられ』受容史

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "<論文> 『玉あられ』受容史"

Copied!
36
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)﹃玉あられ﹄ 受容史. をデ 1 タ 化 し 、 係 り 結 び の 法 則 を 定 式 化 し た 。 そもそ. 集﹂や﹁八代集﹂を主な素材として、膨大な数の和歌. する文法研究、とりわけ係り結びの研究である 。﹃ 万葉. される 。 第一は﹁てにをは紐鏡﹄ ﹁ 詞の玉緒 ﹄ を代表と. 進めた 。 宣 長 の 語 学 研 究 は 大 別 し て 二 つ の 範 障 に 分 類. 品の注釈を行うのと並行して、国語学に関する研究を. 本居宣長は﹃古事記伝﹂をはじめとする古典文学作. 音のうち、古くに伝わった呉音・漢音とその後に伝来. 書の用例に照らして考究したものである 。後者は漢字. あてるのが正しいか、ということを、やはり膨大な古. る研究である 。 前 者 は 漢 字 の 字 音 に ど の よ う な 仮 名 を. 音考﹂に見られる、日本に渡来した漢字の字音に関す. ことができる. の延長として、用言の活用に関する研究を位置づける. 近 代 的 な 国 語 学 研 究 の 幕 開 け を 示 し て い た 。 この研究. 第二として、﹃字音仮字用格﹂﹃漢字三. も係り結びについては、中世歌学や近世堂上歌学にお. し た 唐 音 に つ い て 検 討 し た も の で あ る 。 このような二. D. い て 、 そ の 一 端 は も ち ろ ん 知 ら れ て い た 。 だが、これ. つの系列に分類される宣長の国語学研究は、それぞれ. 洗練させたのは宣長の功績である 。 係り結びの研究は、. 康. を文献実証主義に基づいて実証し、単純な法則にまで. て﹁玉あられ﹂というジャンル. 田 中. 司lム. ll ﹁ ﹂. ﹁11﹂.

(2) 盤 を 創 っ た と 言っ ても 言 い 過 ぎ で は な い だ ろ う。 それ. にすぐれたものであり、現代の古代日本語の研究の基. の間で大いに称揚されたが、近代以降にはそのような. ということを常とした近世期には、主に国学者や歌人. 国 学 と い う 学 問 が 有 す る 本 来 の 特 徴 を 考 える上で大い. 需 要 が な く な り 、 顧 み ら れ る こ と も な く な っ た 。 そう. に意 味 が あ る と 言 え よ う。 ﹃玉あられ ﹄ という書物は、. らの 宣 長の 著 作 は 筑 摩 書 房版 ﹃ 本居宣長全集﹄の第五. ﹃ 玉 あ ら れ ﹄ は 広 い 意 味 で は 語 学 に関する業績ではあ. 当 時のジャンル 意識 では、ある面で歌学 書 とも 言 える. いった意味で、 ﹃ 玉あられ ﹄ は歴史的役割を終えた書物. る が 、 知 上 の 二 系 統 と は 一 線 を 画 す る 研 究 書 である 。. し、考証随 筆 にも分 類 できる. 巻にまとめて収録されている 。 その当該巻の中に﹁玉. そ の 違 い を ひ と 言 で言えば、 二系 統 の 語 学 研 究 は あ く. 有している 。 し か し な が ら 、 そ れ ら の ど れ に も ぴ っ た. ということもできるが、近世後期における受容史は、. までも古代語を後世とは異なる 言葉として客観的に考. りとあてはまることがない 。﹃ 玉あられ ﹄ の刊行は、新. あられ ﹄ が収録されているのである 。. 究するアプローチであり、 ﹃ 玉あられ﹂は対象とするの. たに﹁玉あられ﹂というジャンルを作り出したという. ま た 、 語 学 書 の性格も. は古代語であるが、それを用いて和歌を詠み、和文を. のが 実情に近いのではないか. D. 書 く時に必要な知見を過不足なく提示するという、 実. D. 践的アプローチである 。 誤解を恐れずに抽象化すれば、. て踏まえつつ、あらたな見解を付け加えながら修正さ. になる 。 二系統の語学研究は、官一長説を先行研究とし. それゆえ、それらの受容のされ方も自ずと異なること. 意 味 や 用 法 に 始 ま り 、 敬 語 の用法に至る、計百十項目. れ﹄ は 歌 の 部 と 文 の 部 の 二部 構 成 で 、 助 詞 や 助 動 詞 の. 行の経緯、およびその意味を明らかにしたい 。 ﹁玉あら. 玉 あ ら れ ﹄ の成立、刊 容史を検討するが、その前に ﹃. 玉 あられ ﹄ の 近 世 後 期 に お け る 受 そこで本稿では ﹃. れ 、 近 代 以 降 も 厚 い研究史を形作 っている 。 その 一方. より成る 。 詠 歌 や 作 文 に 必 要 な 知 見 を 網 羅 的 に 集 成し. 純粋研究と 実作応用の相 違ということができるだろう。. で、﹃ 玉あられ ﹄ は古 語を用いて歌を詠み、和文を作る. [2].

(3) る。 翌 月 の 十 月 七 日 に は 本 居 春 庭 宛 に 次 の よ う な 手 紙. 年九月九日には松坂の書捧柏屋兵助に版下を渡してい. た も の で あ る 。 ﹃著述書土木之覚﹄によれば、寛政三. 候。 以上 。. ハパ、御清童日井此間之系、此方へ御越し可レ被レ下. 召 候 御 儀 ニ 御 座 候 ハ パ 、 岩 崎 へ 相 頼 可 レ申 。 左 様 候. 候。 左様御心得下レ被レ下候 。 夫 共 是 非 他 筆 ニ と 思. 序文の表現や内容に満足しているようで、これを高蔭. を送っている 。 玉あられも弥京都ニ而願相済、早々板行ニ取か、. 自筆で仕上げることを提案している 。 ただし、区切り. ゃ仮名の清濁については一任してほしい旨を伝えてい. り候筈ニ候 。 高蔭序、出来申候 。 三都への流通を意図して、京都の書臨時を通じて出版許. る。 ま た 、 他 筆 と す る こ と も 可 能 で あ る と 記 し て い る 。. 末尾に﹁急用書﹂とあることから、用件を急いでいた. なお、奥付には、﹁京都書林﹂. として林伊兵衛と銭屋利兵衛の二障が名を連ねている. ことがうかがえるが、総じて順調な滑り出しであった. D. が、主版元は銭屋利兵衛と推定される 。 また、巻頭に. と考えることができる 。 それから二回の校合刷りの確. 可願が出された由である. 掲載される三井高蔭の序文が出来てきたことを伝えて. 認をして、寛政四年五月八日には版本を落掌した 。. 版本は門弟の許へも届けられたようで、同年六月七. いる 。 つ ま り 原 稿 が す べ て 整 っ た わ け で あ る 。 この書 簡を書いた四日後の同年十月十一日付の高蔭宛書簡に. 存 候 。 然パ板下御自筆ニ御認被レ成候而可レ然奉レ存. 一拝見一候処、甚見事ニ奉レ 御清書御見せ被レ下、致 一. 愈 御 安 全 御 坐 被 レ成 候 哉 。 承 度 奉 レ存 候 。 然 ば 序 文. 市 能 広 マ リ 申 候 由 、 追 々 承 り 、 大 悦 仕 候 。 此節ハ. 候段被一 一 仰下一、大悦仕候 。 此 書 ハ 京 都 ニ 而 も 別 召一. 御 紙 面 、 拝 見 仕 候 。 本 仕 立 あ ま り 悪 ク も 不 レ被一白必. 一、 先 達 而 玉 あ ら れ さ し 上 申 候 処 、 被 レ入 一 一御念 一 候. 日付横井千秋宛書簡には次のように記されている 。. 候。 夫故料紙為レ持上申候 。 此間之系ニ而御認可レ. 定而御地書林へも廻り可レ申と奉レ存候 。. は、次のようなことが書かれている 。. 被レ下候 。 尤 句 切 リ 濁 リ 等 ハ 、 此 方 ニ 而 付 ケ 可 レ申. [3].

(4) 二度の校正をおこなったにもかかわらず、誤植の見落. でもよく売れていることを聞いて大喜びしているごと. 返 答 が あ っ た こ と を 喜 んでいる 口 そ れ に 加 え て 、 京 都. としがあったようである 。 それでも千秋からは満足の. 取ることができる。 要するに、体系的に構成された書. るま、に﹂というところに、本書の叙述の特徴を読み. る よ う に 知 ら せ る こ と が 目 的 で あ る と い う口 ﹁おもひ出. 近年の歌文の悪癖を指摘し、これを改めることができ. へでもさとりねかしとぞ 。. く で あ る 。 官一 長は名古屋の書林でも取次販売が行われ. 物ではないというのである. 注1) (. ることを希望しているのである 。 この他に萩原元克や. ほ い と 多 か る ﹂ と い う と こ ろ を 見 る と 、 官一 長の死後に. また、﹁もらせることはな. 辻守瓶など、各地の門弟の許にも届けられたようであ. ﹃玉あられ﹄関連童日が次々と 刊 行 さ れ る こ と を 予 感 し て. ﹀. とを記している 。. ( 注3. ではなかったようである 。 しばらくして次のようなこ. であったが、その目的は必ずしも門弟に伝わったわけ. 玉あられ ﹄ 出 版 は 門 弟 へ の 指 南 の た め このように ﹃. 目的としているというわけである 。. 名の通り、学びの窓に集う人々の眠りを覚ますことを. D. ( 注2) る。 本童日が初学者をも射程に収めた門弟のために出版. いたかの よ う で も あ る 。 そ れ は と も あ れ 、 本 書 が そ の. そ の こ と は 序 文 に も 書 か れ て い る 。 ﹁玉あられまな びのまどに音たてておどろかさ、はやさめぬ枕を﹂とい う歌を巻頭に置いて、﹁玉あられ﹄刊行の意図が記され る。 のりなが、近きよの此わろきくせを、世人どもの さもえさとらで、 た γよしとのみ思ひをるが、. 宣長ちかきころ玉あられといふ書をかきて、近き. 世にあまねく誤りならへることどもをあげて、う. たはらいたさに、それおどろかさまほしくて、常 にみ﹀なれたることども、 お も ひ 出 る ま ﹀ に 、 こ. ひ学のともがらをさとせるを、のりなががをしへ. 子として、何事も宣長が言にしたがふともがらの、. れかれと書出て、 い さ さ か づ 、 さ だ め い へ り。 も らせることはなほいと多かるを、 そ は み な な ず ら. [4]. されたことがわかる 。. か.

(5) ましてのりながが教をよしとて、したがひながら、. まちにさとりて、 ひそかに改むるたぐひもあるを、. る か ほ つ く れ 、 げ に と お ぼ ゆ る ふ し んt ¥は、たち. ざるを、それだに心さときは、うはべこそ用ひざ. や。 此童日用ひぬよそ人は、いふべきかぎりにあら. なほ誤ることのおほかるは、いかなるひがことぞ. 其後の此ごろの歌文に、此書に出せる事どもを、. めの参考主目だったのである 。. あ ろ う。 すなわち、﹃玉あられ﹄ は門弟の歌文指南のた. を尖らせていることを鑑みて、本書の意図は明らかで. 然として門弟が歌文を作る際に過誤を犯すことに神経. である 口こ の よ う に ﹃ 玉 あ ら れ ﹄ を 出 版 し た 後 も 、 依. もいい加減に考えているからであると憤慨しているの. も 心 が 虚 ろ な た め に 忘 れ て し ま う の か 、 いずれにして. 改めざるは、此ふみよみても、心にとまらず、や な ほ ざ り に 思 へ る か ら 也 。 つねに心にしめたるす. あるが、前節でも述べたように、官一長の許に届けられ. ﹃玉あられ﹄は、奥付には﹁寛政四年壬子春発行﹂と. 二、江戸派の批判│﹁玉あられ論﹄・ ﹃ 玉霞付論﹄. ぢは、一たび開ては、しかたちまちにわする﹀物. た の は 寛 政 四 年 五 月 入 日 の こ と で あ っ た 。 それから一. がてわすれたるにて、そはもとより心にしまず、. にはあらざるを、よそ人の思はむ心も、はづかし. 年 ほ ど 経 て 、 批 判 書 が 記 さ れ た こ と を 知 る 口横 井 千 秋. 一、玉あられ難論、井ニ高蔭返答共入一 一 御覧つ甲候 。. からずや 。 こ れ は 玉 あ ら れ の み に も あ ら ず 、 何 れ. ﹃玉あられ﹂を出版したにもかかわらず、門弟たちが同. 右新書故、方々見申度望申候者有レ之候問、何とぞ. 宛書簡に次のような文面がある 口. じ過ちを繰り返していることを嘆いているのである。. 早く御返し被レ下候様仕度奉レ希候 。 (寛政五年八月. の量目見むも、おなじことぞかし 口. 門弟以外の者でも密かにこれを読んで参考にしている. 十一日付横井千秋宛宣長書簡). ﹁玉あられ難論﹄というのがそれであるが、三井高蔭が. のに、門弟の過誤が改まらないことに苛立ちをおぼえ ている 。 ﹁玉あられ﹂を読んでいないのか、読んでいて. [5].

(6) 作なのか 。 宣 長 は こ れ を 小 沢 蓬 庵 だ と 考 え て い た よ う. がわかる 。 それでは、この﹃玉あられ難論 ﹄ は誰の著. この時点で ﹃ 玉あられ﹄ の批判書を目にしていたこと. を 考 え た の か は 不 明 で あ る 。 それはともあれ、官一長が. 熱心であったからであろうが、両書を借りて千秋が何. について出版早々に、官一 長に自らの意見を伝えるほど. これに対して反論を著したという。 千秋は﹃玉あられ﹄. り、そこには次のように匿名で記されていたのである 。. に﹁玉薮付論﹂というものが合綴された形となってお. である 。 ﹁玉あられ論﹄は標題の﹁玉あられ論﹂のほか. 者が﹁江戸表ノ人﹂であるという情報に合致するから. い口 そ れ は 三 井 高 蔭 の 反 論 が 備 わ っ て い る こ と と 、 著. もされた﹁玉あられ論﹄であると同定することにした. ここで、この ﹃玉あられ難論﹄について、実際に出版. 玉あられ論│優婆塞壁一躍. ( 注 4). である 。 やはり千秋宛書簡の中で、次のように記して. ていなかったことが千秋宛書簡からうかがえる 。 この. この三人の匿名著者について、官一長が正確には把握し. 政ー宝田村のくすし. 玉薮付論│浅草の里人. 一、玉あられ難文之儀、京都蓋庵と申候ハ相違ニ. いる 。. D. ことについては、官一長の没後になって平田篤胤から松. 而、麓庵ニ而ハ無二御座一、江戸表ノ人ニ而御座候 江戸より参申候 。作者ハ相知レ不 レ申候。 此方より. 一、江戸にて申ふらし候は、玉あられ論は、春海. 返答ハ三井高蔭書申候 。 (寛政七年正月二十日付横. ﹃ 玉 あ ら れ 難 論 ﹄ の著者が蓋庵であると伝えていたのは. ち、春海が元より故翁の御もとであやまり申入. 坂に、次のような情報が寄せられた 。. 誤りで、﹁江戸表ノ人﹂であると訂正しているのであ る。 そ の 返 答 は 高 蔭 が し た と い う。 高蔭の返答の件は. 候やうに噂仕候 。 いか?に御座候哉 。 (文化二年七. 井千秋宛宣長書簡). さきの書簡にも言及されていた事実である 。 それでは、. 月 一日付本居大平宛平田篤胤書簡). とみつ子がしわざにて、高蔭ぬし御弁めされ候の. なぜ﹃玉あられ難論﹄の著者がわからなかったのか口. [6].

(7) ( 注8). のほとり﹂であったこと 。 玉霞付論﹄ の序に、 宣長 と﹁浅草の里人﹂が旧 三、 ﹁. 噂では﹃玉あられ論﹄は﹁春海﹂と﹁みつ子﹂の仕業 であるというのである 。春海は村田春海で、﹁みつ子﹂. 知であるというのは、天明八年 三月に春海が松坂. ( 注5). は安田県弦である 。 高 蔭 の ﹁ 弁 ﹂ が 出 て か ら 、 春 海 が. を訪問した時のことであること 。. する 議 論である 。 このことにより﹁玉あられ論﹄に お. いうことを立証するものであって、十分に説得力を有. 以 上 の 四 点 は ﹃ 玉 霞 付 論 ﹄ の著者が村田春海であると. 聞は議論に長けた春海に似つかわしいこと 。. 四、﹃玉最付論 ﹄ ﹁文の部﹂における長文の論理的展. 宣長に謝罪 し た と い う の で あ る が 、 こ れ に つ い て は 真 偽のほどは明らかではない 。 と も あ れ 、 江 戸 在 住 の 篤 玉 あ ら れ 論 ﹂ の著者について、噂のレベルで 胤でも ﹃ しか知らなかったということである 。 同じく江戸在住の斎藤彦麻呂は﹃玉あられ論﹂ の著 ( 注6). 者について、それぞれ次のように推定している 。. ける匿名の正体は、必然的に次のようになる 。 優婆塞佐一理 u加藤千蔭. 優婆塞竺種目村田春海 浅草の里人 H加藤千蔭. 浅草の里人 H村田春海 宝田村のくすしリ安田県弦. 宝田村のくすし リ安国民弦 ( 注7). 玉あられ論 ﹂ この彦麻呂説に基づいて、鈴木淳氏は ﹃. この推定には、斎藤彦麻呂説によって異説を唱えた鈴. むしろ、匿名であったからこそ、それに対する反論が. 代においては匿名性は保持されていたと考えてよい 。. のであって、斎藤彦麻呂がそうであったように、同時. る資料 が現れた現在において正しい説であるといえる. ( 注9). の 著 者 を 一 旦 は そ の よ う に 推 定 し た 。 しかしながら、. 木淳氏も賛同している 。 もちろん、この説は根拠とな. D. その後、揖斐高氏が次の四点について吟味し、鈴木説 に反論した. 一、天理大学付属天理図書館春海文庫蔵﹁玉最付論﹂ が春海自筆で伝存すること 。 二、寛政四年当時の春海の住居が﹁浅草寺中姥が池. [7].

(8) に出たということが確認されれば十分なのである 。. あられ﹄における注目すべき批判書が聞を置かずに世. 書かれたと考えることもできるのである。ここでは ﹃ 玉. 断したのである 。 それは、 ﹃ 玉霞付論﹂の中に真淵の名. 部﹂における批判が真淵の文章に向けられていると判. 江戸派の面々、 とりわけ春海は﹃玉あられ﹄﹁文の. 春海は三箇所で﹁賀茂の翁﹂に言及している 。 順に見. (賀茂の翁)を挙げて批判していることからもわかる 。. や春海は﹃玉あられ﹄を批判しなければならなかった. ていきたい 。. さて、それでは﹃玉あられ論﹄において、なぜ千蔭 のだろうか 。 千 蔭 と 春 海 は 天 明 末 年 か ら 寛 政 初 年 に か. (1) 某がしるす 某がいふ. き、翌四年正月六日付で宣長が返事を出している。そ. めたのである 。 そ の 書 簡 は 寛 政 三 年 十 二 月 に 宣 長 に 届. 集玉の小琴﹂における宣長説の引用について協力を求. りわけ、千蔭は﹁万葉集略解﹄を著すに際して、﹃万葉. ぐ事業である 。 そ の た め に 宣 長 に 協 力 を 要 請 し た 。 と. の編纂を始めたのである 口 いずれも師真淵の衣鉢を継. は﹃万葉集略解﹄の執筆を始め、春海は﹃賀茂翁家集﹂. て 真 淵 門 弟 と い う 原 点 に 回 帰 す る こ と と な っ た 。 干蔭. 事 は す で に 人 の 多 く と が め い ふ 事 な り 。 こは事さ. ︹ 付 論 ︺ こ は 賀 茂 の 翁 の 好 て か 、 れ し 事 な り。 此. だりなることもあるなり 。. なるを、近世人その味をしらざるから、か﹀るみ. なはぬこと多くて、思ひのほかにつかひにくき詞. べてのといひ、がといふことは、所によりて、か. ひ が こ と 也 。 此 詞 を お く べ き と こ ろ に あ ら ず。 す. を 、 六某がしるす、ぺ¥某 が い ふ と か く 。 此がもじ. ︹玉︺近きころの人、文のしりに、みづからの名. ( 注. のような真淵門弟同士の麗しい交流が始まったばかり. まなる事ながら、この翁のかく書れたる意は、人. m ). けて、それぞれの理由で人生の転機を迎え、期せずし. であるにもかかわらず、その年の九月には千蔭と春海. の書たらんごとくにわざといひなすを、おもむき. リリリ. は批判書を執筆したわけである 。 このことをどのよう. としてか、れしなり 。 こは漢文にか、る体あれば、. ソ レリ リ リ リ リ リ. に考えればよいのか 。. [8].

(9) 頭 が み づ か ら い へ る 詞 な り。 ま た 式 部 が 所 に と い. なにがしがおよぶべき程ならねばといへるも、馬. も 、 み づ か ら を さ し て が と い へ り。 箸木の巻に、. ら の 事 に い へ る 事 も あ る な り。 おのがわがといふ. な ど い ひ て あ る べ き な り。 又 が と い ふ 詞 を み づ か. た c好 ま し か ら ぬ 書 ざ ま な れ ば 、 な ら ふ ま じ き 事. く 斗 の 調 の 意 を わ き ま へ ざ る 事 や は あ ら ん 。 こは. り と お も へ る は 、 か へ り て 心 浅 か り き 。 此翁のか. なり。 こ れ を が も じ の 意 を 心 得 ず し て か ﹀ れ し な. せては人のうへをいふ詞なる事は、童もしれる事. そ れ を ま ね ば れ し な り。 き て 某 が と い へ ば 打 ま か. に用いることもあり、﹁おのが﹂﹁わが﹂というのも自. ておけばよいのだ 。 また、﹁が﹂という語を自分のこと. 方ではないから、見習うべきことではないとでも言っ. を知らないことはありえない 。 ここでは好ましい書き. かえって思慮が浅い 口 真 淵 翁 が そ の 程 度 の 言 葉 の 用 法. ﹁が﹂という語の意味を理解せずに書かれたと思うのは. 他 人 の こ と を い う こ と は 子 供 で も 知 っ て い る 。 それを. ねたのである 。 そ う し て ﹁ 某 が ﹂ と い え ば 一 般 的 に は. と い う。 そ の よ う な 趣 向 は 漢 文 に も あ っ て 、 そ れ を ま. のは、他人が書いたかのように装うことを趣向とした. うして反論を始める 。 真淵がそのような書き方をした. 最 後 に は 源 氏 物 語 の 用 例 を 出 し て 反 証 し て い る 。 この. 分 の こ と を き し て ﹁が ﹂ と 言 っ て い る の だ 、 と い う。 D. へ る は 人 を さ し い ふ 詞 な り。 か 、 れ ば 人 の う へ も 我うへも、いひなしによりて、がといふなりけり. ︹玉︺道ゆきぶ り とは、道にてゆきあひふれたるを. ようにさまざまな角度から反論を構成するのである 。. いふ 。 然 る に 此 ご ろ の 人 の か け る 物 を 見 れ ば 、 旅. ﹃玉あられ﹂に、文末に自分の名を﹁某がしるす﹂など り 、 ﹁ 某の﹂とするのが正しいとしている 。 これに対し. 路 の 日 記 の こ と を 、 然 い へ る あ り 。 いみじきひが. (2)道行ぶり. て ﹃ 玉義付論﹂は﹁こは賀茂の翁の好てか冶れし事な. ことな灼ノ 口. と書くが、その﹁某が﹂とするのは語法的に誤ってお. り ﹂ と 始 め て い る 。 つまり、当該項目が真淵の文章を. ニ キ. 対象にして批判していると認識しているのである 。 そ. [9].

(10) 付 ら れ し な り。 い と お も し ろ き 、 名 の つ け ざ ま な. 筆削せられし時、其道の記の名を、道行ぶりと名. り。 こ は 倭 文 子 が 伊 香 保 の 道 の 記 を 、 賀 茂 の 翁 の. りといへるは、事のよしをくはしくしらでいふな. ︹付論︺日記の事を道行ぶりといへるはひがことな. るものがあったのであろ つ。. に宣長批判を 書 き 付 け た の は 、 そ れ だ け 腹 に 据 え か ね. き ぶ り ﹂ の 意 味 用 法 が 誤 用 で は な い と 主 張 す る 。 最後. 春海はこれに続けて、いくつかの根拠を示して﹁道ゆ. この条項を真淵への批判と受け取ったと考えられる 。. 来を宣長が承知していたとは考えられないが、春海は. るはかたくなし 。 文 の み や び は か ﹀ る 名 な ど の う. をいにしへに例なしとて、ひがことなりとおもへ. くれとしるせるものなれば、ことわりもよし 。 こ. ( 3 ) 時代のふりのたがひ. は次のようなものである 。. 代 の ふ り の た が ひ ﹂ で あ っ た と 思 わ れ る 。 ﹃玉あられ﹄. おそらく春海が最も憤慨したのは、末尾の項目﹁時. h. りといふべし 。道の記は道行ぶりに見きく事を何. へにもたくみある 事 なり。 か﹀る趣にくらければ、. の 道 ゆ き ぶ り ﹄ に つ い て 、 当 初 は ﹁伊香保の道の記﹂. 頭にして反論している 。油谷倭文子の紀行文﹃伊香保. これに対して﹃玉薮付論﹄は、やはり真淵のことを念. うに表現するのは大変な間違いであると断定している 。. うことであって、旅日記のことではないとし、そのよ. ﹃玉あられ ﹄ は ﹁ 道 ゆ き ぶ り ﹂ と い う 語 が 道 で す れ 違. に﹁鶴﹂のような文章と感じられるというのである 。. えずに用いる弊害があり、それらが混在しているため. 和文を 書 く 際 に 、 選 択 す る 言 葉 に 時 代 の 新 旧 を わ き ま. むかし有けむけだもののこ﹀ちするぞ多かる 。. りなどして、 か の 鳴 声 ぬ え に 似 た り と か い ひ て 、. 又ふるきふりなる文に、むげに近き世の詞もまじ. ふ り な る 文 に 、 奈 良 以 前 の 詞 も 、 を りf¥まじり、. 今の人の文は、時代のわきまへなくして、中昔の. で あ っ た の で あ り 、 こ れ を 真 淵 が 添 削 して﹁伊香保の. 宣長自身は歌を詠む時にも、古風と後世風を詠み分け. 其かける文のったなきこそむべなれ 。. 道 ゆ き ぶ り ﹂ に な っ た と い う の で あ る 。 この命名の 由. [ 10].

(11) るということを提唱しているので、文章においても言. およそ文といふものは、唐もやまとも、後の世に. らず後の詞をあゃなして、古のすがたになぞらへ. ありて古のすがたの文をかくには、古の詞のみに. 此論は、賀茂の翁の文をそしる人の常にいふ事な. て い は で か な は ぬ こ と な り。 古 の 文 と 、 今 の 文 と. 葉 の 混 用 は 許 せ な か っ た の で あ ろ う。 こ の 批 判 に 対 し. り。 こ と わ り も て い ふ 時 は 、 古 ぶ り の 文 は 古 の 詞. 勢をよくうっす時は、後の世の詞も、古の文に交. て つ く ら る べ き も の に あ ら ず。 そ は 後 の 世 の 事 を. のみ用ひ、後の世のすがたの文は、後の世の詞の. ふべし 。 さ は た え ら み な く て み だ り に 古 の 詞 と 後. て 、 ﹁ 玉最付論﹄は敢然と反論する 。 長いので区切りな. み に て つ く る べ き 事 の や う な り。 さ れ ど こ は 文 か. の詞をまじへ用ふる時は、木に竹つぎたらんやう. 古にうつして書わざなれば、古になき事は、かな. く事をよくもしらで、たダことわりをもておして. にも見ゆべし 。 さ れ ど 上 手 の 書 た ら ん に は 、 さ る. がら見ていきたい 。. し か な ら ん と お も ひ て い ふ な り。. 判であることを重視し、是非とも反論しなければなら. れは﹃玉あられ ﹄ の末尾の項目でもあるので、真淵批. の 文 ﹂ を 攻 撃 す る 人 が 常 に 言 う こ と で あ る と い う。 こ. 葉の新旧は問題ではない 。 言葉の選択の問題である。. ﹁勢﹂があって、それを適切に模すことができれば、言. べ て を 書 く こ と は で き な い 、 と い う。 文 に は ﹁ 姿 ﹂ と. そもそも後世において古文を書く場合に古語だけです. け ぢ め を 人 に 見 す べ き も の に あ ら ず。. な い と 考 え た の で あ ろ う。 言 葉 の 新 旧 が 混 交 す る こ と. それがうまくいけば上手の文章になり、失敗すれば木. 新旧の言葉が混じる﹁鶴﹂のような文章は﹁賀茂の翁. がよくないというのは理屈の上では正しいとした上で、. 又古の詞のみをあつめたりとも、古のすがたと勢. に竹を接いだようになる、というのである 。. な い 者 の 机 上 の 空 論 で あ る と い う の で あ る 。 そうして. をうっきずは、 い か で 古 ぶ り の 文 と 見 ゆ べ き や 。. それを忠実に守ろうとするのは作文の実状をよく知ら 続ける 。. [ l l].

(12) この姿といきほひをしることはかたき業にて、こ. うことである 。 ここには宣長と春海との間にある文章. ることから解放し、その言葉の用法に意を用いるとい. 実際のところ、宣長は真淵の文章について含むとこ. をみづからうつしか、んは、かたしともかたきわ. きほひをうっすにありて、詞はかならずいにしへ. ろがあった 。 少 し 時 間 は 前 後 す る が 、 春 海 が 上 京 し た. 観の相違がうかがえる。 ただ、そのような議論を展開. に の み な づ む べ き こ と に あ ら ず。 古 は 我 国 の 文 の. 天明八年三月十日、松坂を訪れ宣長に面会した 。会見. ざ な り。 また古の詞のみ、 っ た な く ひ ろ ひ あ つ め. うへのみならず、から人の古ぶりの文つくるも皆. の場で何が話されたかは定かではないが、賀茂真淵を. ん事は、わらべの業にもなし得つべし 。 さはた何. か く の ご と し 。 また 其 古 今 の 姿 と 勢 と を し り て よ. 顕彰する書物を著すことが話し合われたことは確かで. とであった 。. く詞をえらむこと明かならば、後の世の調の、古. ある 。 同 年 三 月 十 八 日 付 宣 長 宛 春 海 書 簡 に は 次 の よ う. するに至った契機は真淵の文章を非難されたというこ. ぶりの文に入べきをしり、又古の詞の後の世の文. な文面がある 。. のかたき事かあらん 。 されば古ぶりの文々、姿い. にまじふべきをしらん 。. のである 。 も ち ろ ん 、 そ の ﹁ 姿 ﹂ と ﹁ 勢 ﹂ を 知 る こ と. 諸事御腹蔵なく被一一仰間一候様仕度候 。 さ て さ て 近. 左 候 ヘ バ 右 遺 集 ノ コ ト ニ 不 レ寄 、 彼 是 御 疑 問 中 上 候 義も可レ有レ之候 。 必御厭なく御教示被レ下候様奉 一 一 希上 一 候。 も と よ り 学 業 ノ 上 ニ て ハ 非 他 ノ 拙 者 義 、. ﹁姿﹂と﹁勢﹂とが文章を構成する上で最も大切な要素. が至難の業であるが、それをマスターすれば和漢を問. 年 世 上 一統 ニ 御 盛 名 相 達 し 、 誠 ニ 的 差 仕 候 事 ニ 御. であって、単に言葉を羅列しただけでは駄目だという. わ ず 、 よ い 文 章 が 書 け る と い う わ け で あ る 。 この後も. 坐候. ﹁右遺集﹂(賀茂翁家集)について、忌俸のない意見を. D. 延 々 と よ い 文 章 を 書 く 極 意 を 述 べ て い る 。 それは ﹃ 玉 あられ﹄が古語か後世語かということのみに拘ってい. [ 12].

(13) 違いない 。 約 束 の 通 り 、 春 海 は ﹃ 賀 茂 翁 家 集 ﹄ を 編 纂. る。 こ れ は お そ ら く お 世 辞 で は な く 、 本 心 で あ っ た に. 名は江戸にまで届いているといったことまで記してい. うかがいたく教示を願い出ているのである。官一長の令. 奉レ存候 。 ( 寛 政 八 年 六 月 二 十 五 日 付 宣 長 宛 春 海 書. 而、一体奇絶ノ才識ある所ヲ、人もとり可レ申事と. 翁 ノ 集 精 選 ニ ハ 相 成 ま じ く 候。 誤謬ハさるものニ. 如 何 。 又さのみハ改めにくき筋も有レ之候 。 と て も. 文の部はさておき、歌の部における宣長の﹁校正﹂が. 簡). た。 す る と 、 思 い も 寄 ら な い 反 応 が 返 っ て き た 。 宣 長. 本文の﹁改変﹂になってしまっていることを春海は. とより改メ申候はあしかるべく、た. [ 13]. するにあたって、官一長に協力を求め、その草稿を見せ は 真 淵 の 歌 文 を 添 削 し て 寄 越 し た の で あ る 。 官一長に依. は な い か 、 と い う わ け で あ る 。 ﹁誤謬﹂もまた真淵の特. 訪っているのである 。 たしかに真淵の用例に誤りがあ. 翁 ノ 家 集 も 彼 是 故 障 有 レ之候而、今ニ上木不レ仕候 。. 徴 と 考 え る べ き だ と い う こ と で あ ろ う。 こ の よ う な 宣. 頼をしたのは確かであるが、まさかここまで真淵の歌. 文ノ部後便ニ可一一奉呈一候 。 御吟味可レ被レ下候 。 歌. 長の添削癖は、もちろん真淵作品に限ったことではな. り、それを批正した宣長の指摘は正しいが、それをこ. 一 一御尤なる御事と奉レ存候 。 乍レ. く 、 あ ら ゆ る 文 学 作 品 に 対 し て 行 わ れ た 。 こういった. 文に手を入れてくるとは思わなかった 。 すぐに春海は. 去先状ニも申上候通、翁ノ誤られ候事も、悉クあ. 宣長の校正意識は、本文を忠実に復元するという、現. とごとく直せば、真淵の作品ではなくなってしまうで. Yあ ま り 浅 は. 代の本文批評理論に照らせば、過誤に満ちた恋意的な. 次のような文面の書簡を宣長に出した 。. かなる誤のみを改メ申候様ニ奉レ存候 。 とても翁ノ. 本 文 観 と 言 わ ざ る を 得 な い が 、 官一 長の中では極めて正. ( 注H). 時 ハ 学 問 未 レ開 、 貴 兄 ノ 御 発 明 ニ 而 閲 ケ 候 事 ノ 多 候. しい処置であった 。宣 長 に は そ の よ う な 処 理 を す る 自. ノ部ノ御校正、. ヘパ、それらハ翁ノ集ハ、誤ノま、ニ仕置可レ申. 信があり、根拠があった 。 それは長年の間に培われた. ( 注 ロ). 候。 さ な ら で ハ 、 翁 ノ 心 づ か れ し や う に 人 存 候 も. ' . . 一 , ・ ..

(14) ような見識のほんの一部である 。 真淵の文学作品をめ. であった 。 ﹃玉あられ﹂に取り上げられた用例は、その. 古典研究の蓄積による見識であり、真贋を見抜く眼力. れば、 い と み だ り が は し う て 人 に 見 す べ く も あ ら. し ら れ た り。 この文どもとみに灯の下に、つつした. のったなきをさる事とおもひて見過したるにでも. そはかの玉あられの序文かける三井某が言葉作り. ﹃玉あられ論﹂と﹁玉霞付論﹄を総括する政文である 。. ぐる宣長と春海の見解の相違は、間違った本文でもそ. づいて改変しても構わないという方向性の違いと言つ. そこには宣長が学問的にはすぐれているけれども、歌. ずなん 。. てよい 。 ﹃玉あられ論﹄における春海の論難は、真淵作. 文 は 苦 手 で あ っ た こと を 指 摘 し 、 そ の こ と は 三井 高 蔭. れを尊重するという方向性と、本文を正しい法則に基. 品を平然と批判する宣長に対する憤慈から出発したと. の序文の拙さを見抜けなかったことに表れているとい. (注日). 言えるのではないだろ、っか 。. うのである 。 要するに﹃玉あられ﹄を全否定するとい. すぐに反論をしたため、宣長に見せた 。寛 政 五 年 八 月. う こ と を 表 明 し た わ け で あ る 。 これを見た三井高蔭は. 江戸派の 二人が匿名で ﹃ 玉あられ﹄を批判する文章. に は 高 蔭 の 反 論 が 出 来 上 が っ て い た と い う。 そのこと. 三、門弟の反論l 三井高蔭﹁弁玉あられ論﹄ をしたためたのが寛政四年九月、それに﹁宝田村のく. は前章で触れたとおりである 。. 自分の文章の拙さを指摘されるのは仕方がないが、. すし﹂(安田県弦)の践文が付されたのが寛政四年十月 であった 。 そこには次のような言説がある 。. それを見逃したということで、官一長先生のことまでも. 批判されたのであるから、黙っているわけにはいかな. 書にいへるごとく、本居のぬしは古の学に. たけたる人なれど、あまりにくはしきに過てな守つ. い。 そのように思ったことであろう。 ﹃ 玉あられ論﹂の. 止 H針. め る 事 も 多 か ん め り。 は た 文 か き 歌 よ む 事 を も と. ﹁くさ片¥﹂は次のように批判している 。. レ し. ざる所にてったなき事いふばかりなし。 より其得、. [ 14].

(15) ふ べ き を 学 び の 窓 と い ふ べ く や。 はた此書の序か. い ふ 事 古 く 聞 え ず。 こ と に 物 学 ぶ 人 の 家 の 窓 と い. こ れ い と 後 と も 後 の 詞 な り。 まな ぶなど. のはじめにかける歌に、まなびの窓とはなどよめ. て よ く 書 り。 し か あ ら た め ん と な ら ば 、 此 人 此 書. 近 き 世 の 人 の 好 み て 常 に よ む 詞 に 云 々 。 此条すべ. 弁云、まなぴの窓といふ事を難じたるは、此歌を. われる 。 これに対して高蔭は次のように反撃している 。. 真正面からの攻撃よりもむしろダメージが大きいと思. いだろうか 。 言 わ ば 揚 め 手 か ら 虚 を 突 く 攻 撃 で あ り 、. けられたのであるから、痛に障る思いがしたのではな. 上で、その議論における攻撃の鉾先を自らの文章に向. た方が適当かもしれない 。 ここでの議論には賛同した. D. けるも、此人にまなべる人なれば、此人のをしへ. 万 葉 古 今 集 な ど の 風 の 歌 と 思 へ る に や 。 此うたは. るにや. を守るべきに 言 の葉の道などいふ事をかき、さて. もとより後世風によまれたれば、後世の詞を用ひ. [ 15]. 文 の さ ま、名所をもていひつらねたるわたり、. ら れ た る な り。 す べ て 歌 も 文 も そ の 風 体 の 時 代 に. 応 じ て 詞 を も つ か ふ も の な る を し ら ず や 。 なほ玉. たなさいはんかたなきはいかにぞや 。 この項目は﹃玉あられ﹄においては、近頃の人が詠む. あられの書は大かた廿一代集の程はさのみわろき. 癖も見えずとある如く、中昔の詞はもとより捨ざ. 抑皇国の詞. づ か ひ の 本 を 以 て い は c、 い か に も 物 学 ぶ 人 の 家. D. ま ま に 具 体 例 を 列 挙 す る と い う も の で あ る 。 そして、. 此たぐひなほ多かるべし﹂と締め. るところなれば、なでふ難かあらむ. D. といふ事もひとつのわざの名となりたれば、その. の窓といふべき 事 なれども、中昔となりては学び. との正当性を認めた上で、改めるべき例として宣長の. 人のむすめの事に窓のうちなる程、又とりかへば. 学 び を す る 窓 な れ ば 、 何 事 か あ ら む 。 源氏物語に. 批 判 す る の で あ る 口 この場合、批判よりも榔捻といっ. ﹁まなぴの窓﹂と高蔭の﹁言の葉の道﹂を姐上に載せて. くくっている 。 ﹃玉あられ論﹄ はそこに書かれているこ. 世めきて聞ゆる也. 最後に ﹁右 の 詞 ど も 、 必 ひ が こ と に は あ ら ぬ も 、 近 き. 歌に﹁聞ぐるしき ﹂ 一 言葉が多いとした上で、思い出す. つ.

(16) は c、 万 葉 に す ら 遊 び の 道 な ど も い ひ、源氏物語. よ り こ な た 常 に 云 事 な る を し ら ず や 。 なほ例をい. びのまども言の葉の道{我道ともいへり 。︼も中昔. 又まなぶといふ事古く聞えずとはいかにぞや 。 学. 中昔以来の歌には猶いくらも難ずべき事あるべし 。. も 此 類 ひ こ れ か れ あ り。 ︻そは末にいふべし 。︼又. すべてまなびの窓などいへるを難ぜば、既万葉に. などいへり 。 これらも親の家の窓とはいはぬをや 。. や物語にも、窓のうちにこもり給へりしほどこそ. 箇所だけではなく、全く関連性のないところでも展開. ていると言ってよい 。 実 は こ の よ う な 反 論 は 、 こ こ の. て、受けた批判以上に証拠も取り揃えて周到に反論し. このように﹁まなびの窓﹂と﹁言の葉の道﹂につい. 先例と認められるかどうかは検討が必要な事柄である 。. るいは万葉集に前例があると主張しているが、それが. とは異なる観点で、源氏物語やとりかへばや物語、あ. れ は 鈴 屋 派 に の み 有 効 な 前 提 な の で あ る 。 また、これ. 義 を 認 め た 上 で な け れ ば 意 味 を な さ な い 。 そして、そ. というわけである 。 この反論は古風後世風詠み分け主. (注万). に は 匠 の わ ざ を 木 の 道 と さ へ 云 る を や 口 また序の. されている 。 文 の 部 ﹁ よ り て ﹂ の 項 目 で 次 の よ う に 述 ( 注 凶). ったなき 事 は さ る こ と な れ ど も 、 名 所 を 以 て い ひ. べているのである 。 ピ. つらねたるを論じたるなどは、すべて古への文章. ﹁まなびの窓﹂という言葉は後世の言葉であるが、後世. 勝手にまかせて立論のかはるこそをこなれ。学 び. あ ら ぬ を 、 何 と て と が め た る 事 ぞ。 己 が 勝 手 不. 学の窓言の葉の道などはいやしき言葉といふにも. 風の歌の中に詠まれたものだから問題ないというのが. のまど言の葉の道などは中古以来の風の歌にはい. を見たる事もなきいひざまなり。. 高蔭の見解である 口宣長は歌を詠むにあたって、古風. さ、かもきらふまじき詞なり 。. 高蔭はこれを受けて、﹁まなぴの窓﹂を古風歌に詠めば. われているという﹃玉あられ﹂を承認した上で、﹃玉霞. ﹁よりて﹂という語が漢文による類推で誤った用法で使. (注比). と後世風というこ様に詠み分けることを提唱している 。. 問題だが、後世風歌に詠み込んでも一向にかまわない. [ 16].

(17) ではないと留保した 。﹃弁玉あられ論﹄ はそこをとらえ. (3) 詳細な検討が及んでいないという非難。. ( 2 ) ﹃玉あられ﹄を誤読して難癖を付けていると非 難。. 付論﹄が漢文による類推は必ずしもすべてが悪いわけ. て、漢文の例に倣う用例が許されるのであれば、どう. との核心に、﹁まなびの窓﹂と﹁言の葉の道﹂を批判さ. かということではない 。 高 蔭 が ど こ ま で も こ だ わ る こ. がないというわけだ 。 問 題 は 高 蔭 の 反 論 が 有 効 か ど う. らましといふべきを、 しるらんとよむ 類 な り。 ま. ん と い ひ 誤 る 事 あ り。 た と へ ば 春 く る 事 を 誰 か し. 云々いへるはよし 。 さて後世ましといふべきをら. ︹論︺ましは又べきべしといふと大かた同じ意にて. まず (1) について、歌の部﹁ まし﹂についての 議論. れたことが大きな比重を占めているということなので. しは末をかねていふ詞、 らんは今、ったがふ詞なる. して﹁まなびの窓﹂や﹁ 言の葉の道﹂が許容されない. ある 。 つまり、自分の師と自分自身の言葉遣いを批判. をわきまへざるなり。. がこれに該当する 。. さ れ た こ と が 大 き い と い う こ と で あ る 。 反論をしたた. ︹弁︺弁云、これは玉あられにあづからざる事なる. のか、というのである 。 批判をする上で論理の 一貫性. め る 動 機 と い う の は 得 て し て そ の よ う な も の だ 。 単に. を、かくいへるはいかにぞや 。 但し此けぢめは此. 条又下なる春や来ぬらむの条などにでも、 おのつ. 学問上の正当性を争うということではないのである 。 こ う い っ た 経 緯 で ﹃ 弁 玉 あ ら れ 論 ﹄ は、﹃玉あられ. ﹁まし﹂ の 代 わ り に ﹁ べ し ﹂ で 代 用 す る の は よ い が 、. から明らかなるをや 。. て反論している 。 そこで ﹃ 弁玉あられ論﹂の実態を観. ﹁らむ﹂では代用できないという﹃玉あられ論﹂に対し. 論﹄ お よ び ﹃ 玉 霞 付 論 ﹄ が 批 判 し た 項 目 の 多 く に 対 し 察してみよう。 ﹃弁玉あられ論﹂が展 開する反論の様式. て成された反論である 。 関 連 性 の な い 事 柄 に 言 及 す る. ことを非難しているのである 。 これは問答が適正にな. を次の三種類に分類することができる 。. (1) ﹃玉あられ﹄批判になっていないことを非難。. [ 17 ].

(18) が問題にしているのは、近頃の人の文章の中に用いら. れる﹁道ゆきぶり﹂の用法であって、童日名を問題にし. D. 次に (2) に つ い て 、 文 の 部 ﹁ 道 ゆ き ぶ り ﹂ に お け. ているのではないというのである 。 むろん、真淵を批. されるべきとする厳格な立場から成された批判である. る議論がこれに当たる 。﹃ 玉霞付論﹄は前節で見たとお. 判する意図で宣長がこの項を執筆したのではないとい. う こ と に な る 。﹃ 玉霞付論﹂は﹃玉あられ﹄を誤読し、. りであるが、﹃弁玉あられ論﹂は次のごとくである 。 弁云、旅の道ゆきぶりに見聞たる事どもを記せる. 難癖を付けるために批判したということであろう。. 第三として、 ( 3) について、文の部﹁きこゆ﹂をめ. 意にて、その書の名を道ゆきぶりとつけたらむは 何事かあらむ 。 すべて書の名は心にまかせてつく. 論 者 い か に 見 そ こ な ひ た る に か 。 此ごろの. ゆきぶりと云ものぞと心得て然云がひがことぞと. 事 に は 非 ず。 此 ご ろ の 人 の す べ て 道 の 記 の 事 を 道. う な り。 万 葉 の は 、 い ふ 人 を う や ま ひ た る 事 と い. 葉にきこすとあるも、後のきこゆと同じことのや. ︹付論︺この論はことわりよきやうなり. ぐる議論がこれに当たる 。. なり. ふはいか cあらん 。 い ま だ く は し く 考 得 ね ば 、 さ. べ け れ ば な り口 玉 あ ら れ に 出 さ れ た る は 書 の 名 の. 人の書る物を見ればとあるを、かの岡部大人のつ. だかにいひがたし 。 重て考さだめて、童日加ふべし 口. ﹁玉叢付論﹂は旅日記の意で﹁道ゆきぶり﹂を用いたこ. 人 を 尊 み た る 詞 に て 、 の た ま ふ と 云 と 同 じ 意 な り。. き 事 に あ ら ず。 万 葉 に き こ す と あ る は 何 れ も そ の. されど万. けられたる書の名の事を指て云りと心得たるにや 。. ︹弁︺弁云、いまだ委しく考得ねば、さだかに云. とを、油谷倭文子 ﹃ 伊香保の道ゆきぶり﹂の書名に言. 後のきこゆと同じ意としては、その歌どもみな聞. D. もし此ごろの人の書る道の記、然名づけたるあり. が た し と は い か c。 考 得 ぬ 事 な ら ば 此 論 に 出 す べ. 及されたとして反撃したのであるが、﹃弁玉あられ論 ﹄. ぬ 事 な り。 そ は 委 し く 考 る ま で も な し 。 そ の 歌 を. D. など冶云れたらばこそとがむべけれ 。. はそれは ﹃玉あられ ﹄ を 誤 読 し た も の だ と い う。 官一長. [ 18].

(19) ことを受けて、﹁玉霞付論﹄ は﹁きこす﹂との相違が明. たを敬ふ語に用る詞也﹂として、その誤用を批正した. 玉あられ ﹄ が﹁いふ方よりあな ﹁きこゆ﹂について、 ﹃. 論﹂よりも﹁弁﹂の方が勝っていると述べて わらず、 ﹁. れが﹃弁玉あられ論﹂でも明らかであるというのであ る。 興 味 深 い の は 、 近 嶺 は 春 海 の 門 弟 で あ る に も か か. 有名であった 。 そ れ は 門 弟 の 代 に 至 っ て も 同 様 で 、 そ. 春海と宣長とがお互いを意識し、論争していたことは. より弁のかたまされりとなん、おのれはおもふ 。. らかではないという理由で、最終的には判断を保留し. いることだ 。. 見ればよく分れたる事なるをや 。. ている 。 このように判断を保留し、後考をまっとする. (注国). 態 度 を ﹃ 弁 玉 あ ら れ 論 ﹄ は 非 難 す る の で あ る 。 批判書 であれば、批判しきれないことは組上に載せるなとい う こ と で あ ろ う。 たしかに的を射た反撃であると言つ. このような﹃玉あられ論﹂ と﹁弁玉あられ論﹄につ. 居蔵板であるが秋田屋太右衛門(大坂心斎橋筋安堂寺. 元安民と広道の序に鈴木高鞠と広道の肢があり、出石. 小夜しぐれ ﹄ が 出 版 さ れ た 。 全 五 十 一 丁 で 、 秋 広道 ﹃. ﹃ 玉あられ﹄が世に出て半世紀を経た嘉永二年、萩原. 四、私淑する者の補遺│萩原広道 ﹃ 小夜しぐれ﹄. いて、同時代の評判が伝わっている 。 村 田 春 海 の 門 弟. 町)の﹁萩原度沼先生著述脱稿之部目録﹂が付されて. てよい 。. である沢近嶺﹃春夢独談﹂(天保八年成)に次のように. けり。 玉 あ ら れ の 論 と 弁 と を 見 て も 其 事 は し ら. れば其門徒も、なほわが師の大人をばそしられ. うときかたにて、かたみにそしりあひけり 。か﹀. O我師の大人と本居翁とは、心ゃあはざりけん、. たなき学びの窓を驚かさばや﹂によっていることから. れ﹄を著した 。 書 名 が ﹁ 小 夜 し ぐ れ ま た 音 た て て い ぎ. 宣長に私淑し、さまざまな面でその学説を祖述、発展 させた 。 語 学 面 で は ﹃ 玉 あ ら れ ﹄ に 倣 っ て ﹃ 小 夜 し ぐ. いる 。 広道は特に定まった師を持つことはなかったが、. (注げ). 記されている 。. る。 し か は あ れ ど こ の 玉 霞 の 論 弁 は 、 論 の か た. [ 19].

(20) びの窓におとたて、おどろかさばやさめぬ枕を、. のみだりがはしかりしをなげきて、玉あられまな. かくよめるゆゑは、先師本居翁そのかみの歌ども. 取り扱った八十六項目は、最後に﹁玉あられにならひ. 別 せ ず に 論 述 す る こ と に し た と い う口 ﹃小夜しぐれ ﹂が. に関して全八十六項目を選択し、歌の部と文の部を区. 嘆いているのである 。 そこで広道は、主に語棄や語法. 言葉遣いも混じるようになり、﹃玉あられ﹄で注意され. とて玉あられといふ書をかきあらはして、そのひ. て物せれば、かのふみにいひたるかぎりはすべてはぶ. も﹃玉あられ﹄ の 影 響 が 見 て 取 れ る 。 広 道 は こ の 歌 を. がこと γも を ろ う じ な ほ さ れ し に こ そ 。 こ冶らの. きつ﹂と書かれているように、原則として﹃玉あられ﹄. た事柄にも背くことが目立つのはやるせないことだと. 年をへてほ、ゆがみこし歌詞ども、ゃう/¥夜のあ. で言及されたものは含まれない 。 しかしながら、 ﹃ 玉あ. 巻頭に置いて、次のように序文を続けている 。. くるやうに明りもてゆきて、さるくね/¥しきく. られ ﹄ に 関 連 す る も の に つ い て は 、 必 ず こ れ に 言 及 す. 人の実名をおかしかくまじきよしは、玉あられ其. せ ど も は 大 か た あ ら ず な り に た る を 、 其 こ ろ より. りたゆめるけにや、なほ暁しらぬたぐひもありて、. ほかの物にもいましめられて (名をよぶ). るという形態を取る 。 次 の 通 り で あ る 。. さま件¥まほならぬ調づかひども、打まじり、ほと. 玉あられ一巻、だによめらむ人はさることはすまじ. はまたそこばくのとしを経て、 い つ と な く お こ た. /¥かのふみにいひおかれたる事をさへおか しいづ. きを、 いかなるゆゑにか、 い ぶ か し き 事 な り ( 名. これは玉あられにもいはれたることなれど(古語. るたぐひも見えしらがふなるは、いと/¥あぢきな. ﹃玉あられ﹄が 刊行されたお 蔭で 、 事 実 と 異 な る 歌 言 葉. をまじふる). をよぶ). が用いられるような過誤も少なくなったが、それから. またたぐひあらしは玉あられにいはれたるごとく. きわざになん 。. 年を経て油断し緊張が切れたからなのか、完全でない. [ 2 0].

(21) (いひかけ) いと、いふ詞のつかひざまは玉あられに委しくい. ところで、﹃小夜しぐれ﹄にはもう一つ特徴的な点が. ある 。 そ れ は ﹁ 玉 あ ら れ 論 ﹂ および﹁弁玉あられ論﹄. への言及が存在することだ 。 八 十 六 項 目 へ の 論 究 の あ. Y). はれたり(いといと. とに﹁付録﹂として次のように書いている 。. つけて(いま). わきまへて、三井高蔭といふ人のあらはしたる弁. の か け る 玉 あ ら れ 論 と い ふ も の あ り。 ま た そ れ を. 玉あられにいはれたる事どもをとがめて、ある人. やがてといふはすぐに、 そのま、にといふ意なる. 、 玉あられなどにもいはれたるが如くなるに. よりてといふことのひがことなるよしは玉あられ. 玉 譲 論 と い ふ 物 あ り。 と も に す り 本 に し て 世 に お. ト品 1). に見えたるを(よて). こ な は れ た り。 此 二 つ を 考 ふ る に 、 論 の ひ が め た. 学問研究の先達に最大限の敬意を表しながら、少しで. 上 げ よ う と い う 意 思 を 読 み 取 る こ と が で き る 。 それは. ず ﹁ 玉あられ﹂を尊重し、その上に自分の見解を積み. 玉あられ﹄への言及からは、取りも直き このように ﹃. ぞ、道のためなるべきと思ふばかりにわれだけく. ついでなるうへに、とにかくにわたくしなからん. いでわざなれど、玉あられにならひていへる事の. げ出して試に評ずべし 。 さるはをこがましきさし. ある条ども冶なきにはたあらぬを、今こ﹀にか、. ていひやぶらんとしたる事どもなれど、たま/¥理. マキ. 月こよひといふは玉あられにもいはれたる如く. る事は弁にことわりたるがごとく、大かたはしひ. も そ れ を 超 え る こ と を 目 指 す と い う こ と で あ る 。 要す. なりてなん. ノ. (秋こよひ). るに、﹃小夜しぐれ ﹄ の特徴の一つは、後世の言葉遣い つ、別の言葉に材を取って批正するということである 。. ﹁ 弁 ﹄ の方が﹃論﹄よりもすぐれていることが多いとし. ﹃玉あられ論 ﹄ と ﹁ 弁 玉 あ ら れ 論 ﹂ を 比 較 し た 上 で 、. D. の誤りを正すという﹃玉あられ ﹂ の精神を受け継ぎつ その点が単なる論難書とは異なるところだ 。. [21 ].

(22) 五 項 目 に わ た っ て 検 討 ( 評 ) さ れ て い る コ それは次に. い え よ う。 目 次 に は ﹁ 弁 玉 譲 論 評 五 条 ﹂ と し て お り 、. ように、学問における無私の精神、公明正大な態度と. 評するというのである 。 これは広道自身も記している. ながらも、﹃論﹄ の方がすぐれているものを摘出して批. 誠実さを反映していると言ってよい 。. 当性のあることは認めるという、広道の学問に対する. 私淑する宣長に対する批判であるにもかかわらず、正. 論 ﹄ を 擁 護 す る よ う な 表 現 も 出 る の で あ る 。 これらは. みながらひがことにはあらず﹂というように、﹃玉霞付. いへるかたまされるに似たり﹂や﹁論にいへる事ども. ウツシ マキ. Oわ が 友 松 岸 恭 明 の も と に 写 本 の 弁 玉 譲 論 を も て. いて次のよ、つに述べている 。. する論究である 。 まずはじめに、広道は当該写本 に つ. 置かれた﹃玉譲論弁﹄ の写本に関. ﹁ 小夜しぐれ﹂に内在する最も興味深い点は、末尾 に. あげるものである 。. O みだりにひたぶるにならひて物するから O そは皆なぞらへでもさとりねかしとぞ O されど久かたの雲の上云々 O何 事 も あ な か し こ こ と な る ゆ ゑ あ る こと な る べ け れば. の 如 何 を 問 わ ず 、 完 全 に 論 破 し な け れ ば な ら な いもの. 高 蔭 に と っ て 絶 対 に 看 過 で き な い も の で あ って、理由. する議論である 。 その四項目は前項で言及したように、. 中で最初の四項目は宣長の序文における言葉遣いに関. こ の 五 項 目 は す べ て ﹃ 玉 譲 付 論 ﹄ の議論であり、その. されどおほむね同じおもぶきなれば、其をぢ/¥. な だ ら か に し 、 少 し づ ﹀ は そ へ た る 条 も あ り。. ど、はげしく弁じたる詞どもをば大かた略きて. と見えて、初の条よりしていかなる粗忽ぞゃな. せし時などに、再びそへもはぶきもしたるもの. 案にすり本は世に出してあまねく人に見せんと. マキカハ. る を 見 る に 、 す り 本 と は 所 々 い た く 異 り た り。. であった 。 そ れ ゆ え 、 高 蔭 の 反 論 は 時 と し て 無 理 筋 の. くらべいはんもわづらはしくて、こ、にはもの. 。もじあまりの句. 反 論 と な ら ざ る を 得 な い こ と も あ っ た 。 だから、﹁論に. [ 2 2].

(23) 三 ひ ら ば か り の 紙 あ り て い へ る こ と 猶 多 か り。. といふ処にてとぢめたるを、写本のかたはいま. 篇のすがた勢などはこれをよく得て後の事なり﹂. せず。 た γ巻 の 末 の 処 、 板 本 の か た は 六 さ て 全. 四点である 。. 氏が指摘している 。 版 本 と 異 な っ て い る と こ ろ は 次 の. て公にするというのである 。 このことはすでに鈴木淳. ところがあり、それは初学者のために益があると考え. 岸恭明から借り出した﹁玉憲論弁﹄には版本と異なる. (1) ﹃弁玉あられ論﹂﹁時代のふりのたがひ﹂におけ. (注初). い ま こ 冶 に か 、 げ 出 し て 世 人 に 示 す べ し 。 さる ケヅへ. は削りたるも添たるも作りぬしのこ、ろありて. る写本にのみある文章。. (2) 本居宣長による﹃玉あられ論﹂への評。. せし事なるべければ、今さらにさしいで、いひ さわぐべきにはあらざれども、初学のためには. (3) 本居宣長による﹃玉霞付論﹂﹁時代のふりのた. ( 4 ) 稲掛大平による﹃玉あられ論﹂ への評. がひ﹂への添削。. いとやうある事ども﹀見えたるうへに、おほか たのありさまを推量るに、そのかみは論者にさ しむかひていへるなれば、しか心しらひせしも. (1) と (3) はともに﹁時代のふりのたがひ﹂をめぐ. 割愛したものと思われる 。 ( 2) は﹁玉薮付論﹄ の著者. のとおぼしけれど、今はさしもはダかるべきわ. ﹃玉霞論弁﹂の写本は松岸恭 明なる人物が所有していた. が主導権を持って﹃玉あられ論﹄を添削したであろう. る高蔭と宣長の論述であるが、少し冗長であるために. も の と い う。 松 岸 恭 明 は 明 治 十 年 代 に 大 阪 天 満 宮 の 儀. ということを推定している 。 ( 4) は大平が﹃玉あられ. ざともおぼえねばなり 。. 式に、寺井種清や近藤有字などといった神職とともに. 論﹄ を 読 ん で 感 じ た こ と で あ り 、 注 目 す べ き こ と が 書. Oわが同じ学の友なる稲掛大平が此論を見て云く、. かれている 。次の通りである 。. ﹁当番所雑記﹂に﹁出頭神官﹂として登場する人物であ (注目) る口幕末の大阪で国学者として活動した広道にとって、 天 満 宮 の 神 官 は 親 し い 存 在 だ っ た の で あ ろ う。 その松. [ 2 3].

(24) えを守らず、新古今集を最もすぐれた歌集とする方針. ガ. 此論者吾翁の歌文をさん許¥にそしりはそしりた. に異を唱え、﹁美濃の家づと ﹄ を批判した 。 大 平 は 大 平. ノ. れども、みづからかける此文を見るに、今のな. 匿名ではあるが、著者が江戸派であることは、官一長に. で、江戸派は真淵の歌論を祖述すると言いながら、そ. 論者は宣長の文章を誹諒しているが、その文章自体は. も大平にも薄々はわかっていたと考えられるからであ. み/¥の人の文とはちがひて近世のわろき癖もな. 近年の学者の悪癖もなく、また古学者の変な癖もな. る。 あ る い は 宣 長 が ﹃ 玉 あ ら れ 論 ﹄ を 受 け 取 り 、 三 井. れを曲解して広めているとして応酬したのである 。寛. いのは、﹁玉あられ ﹂ の効能が効いたお蔭であろうと、. 高蔭が﹃弁玉あられ論﹄をしたためた寛政五年から、. く、また古学者の癖もをさ/¥なきは、まさしく. 大. 政十二年以降はそのような間柄であるから、大平のコ. ﹃玉あられ論﹄の著者への賛辞を惜しまないでいる. あまり時をおかずに執筆されたのではないかと思われ. 良 薬 一粒 の 玉 叢 丸 の よ く ま は り た る 功 験 い ち じ. 平は宣長の養子となり、鈴屋を継いだ人物であるから、. 弁 る。 いずれにせよ、広道の補遺は当時存在した写本 ﹃. メントはそれ以前になされたものであると推定される 。. ﹁ 玉あられ ﹂ を 批 判 し て い る の を 見 て 、 反 論 あ る い は 非. 玉あられ論﹄の姿を復元しており、江戸派と宣長・大. る く 見 え て め で た し / ¥。. 難してもおかしくない 。 むしろ、大平の行動様式から. 平との関係を努霧とさせるものでもあって、はなはだ. D. すれば、率先してそのような行動を取る人物であると. 興味深い 。. (注 幻 ). 考えられる 。 そのような大平がこの文章を褒めるのは よほどのことであろ、っ。. 五、江戸派の手土産│井上文雄﹃伊勢の家づと﹄. ﹁小夜しぐれ ﹄ の出版から十年を経た安政六年、﹃伊. 大平は寛政十二年に、 ﹃八 十 浦 の 玉 ﹄ 編 集 す る に 際 して春海に協力を求めた折、春海との間で規範とする. 勢の家づと﹄が刊行された 。全三十二丁、巻頭には文. ( 注辺 ). 歌集をめぐって論争になった 。春海は宣長が真淵の教. [ 2 4].

(25) づと﹄ の成立もまた弘綱の存在が大きく関わっている 口. 弘綱の尽力により出版されたものであるが、 ﹃ 伊勢の家. (慶応三年刊)を出版した 。 ﹃調鶴集﹄は門弟の佐々木. 医を勤めたが、歌人として令名を馳せ、家集 ﹃ 調鶴集﹄. 純然たる江戸派直系の歌人である 。 文雄は田安家の藩. 文雄は岸本由豆流や 一柳千古を師として国学を修めた、. き 、 全 四 十 九 の 項 目 に つ い て 論 じ て い る 。 著者の井上. 雄と竹川政恕の序を置き、巻末には藤尾景秀の肢を置. あったのであるから、﹃伊勢の家づと ﹄ は江戸派が伊勢. 家づと﹄を意識した名であり、伊勢は宣長の故郷でも. いるというわけである 。 こ の 書 名 は 明 ら か に ﹃ 美 濃 の. からといって﹁僻事﹂ではなく、正しい事が書かれて. まえたものであって、書名が﹁伊勢の家づと﹂である. とは弘綱が伊勢に帰る時に持たせる手土産の謂いであ る。 ﹁ 証 歌 ﹂ は ﹁ 伊 勢 人 は ひ が こ と す ﹂ と い う 諺 を 踏. 申 し 出 て 実 現 し た 書 物 で あ る と い う。﹁伊勢の家づと﹂. に手土産として﹁玉あられ﹄のようなものがほしいと. (注お). 文雄は自序に次のように記している 。. 学のひとのために、彼玉あられやうの書また世の. 物学しつるに、此比国に帰りなんとて、いかで和. むしろ、 ﹁ 玉 あられ ﹄ の精神を受け継ぐ著 書 であった 。. に匿名にしなければならないような批判書ではない 。. もちろん、 ﹃ 伊勢の家づと ﹄ は ﹁玉あられ論﹄ のよ、っ. に送り込んだ手土産ということにもなる 。. ひとたちのかたくなに僻心得したる事どもかきあ. 文雄は 書 中 に ﹁ 玉 薮 と い ふ 書 ﹂ と い う 項 目 を 立 て て 、. いせの国ひと佐々木弘綱、去年の秋より我もとに. つめてたまはくなん、とこふにまかせてかくは物. 次のように述べている 。. けるはさきである 事 な れ ば 、 花 さ き し と は い ひ が. 書にいはれたることダもをかたく守りて、花のさ. 本 居 翁 の 著 は さ れ た る 、 玉 といふ 書、 初 学 の 人 薮 一 の か な ら ず 見 る べ き 書 な り。 但 し 今 の 世 の 人 、 彼. アラ. しつ 。とみの業なれば証歌なども唯おもひ出るま、 なれば、. 文雄. 僻事と人やみるらむおほかたのならひにたがふ いせの家づと. 弘綱が江戸に出て文雄の許で学問を修め、帰郷する際. [ 2 5].

(26) む 詞 ど も は 、 今 も な ら ひ 物 せ ん に 難 な し 。 た?と. 一歌 を そ こ な へ り 。 す べ て 古 く 例 あ ら. りて一うたのにほひとなり、よき詞もいひなしわ. わたりのことわりを物せられしのみにこそはあめ れ。 そも/¥歌はわろき詞も取なしがらにて、かへ. 書は翁ふと思ひよられしまに/¥、筆にまかせて一. ほかるは、中々に翁の心ばへにはたがふべし 。 彼. 歌によむべからず、とやうにいひしらふたぐひお. たし 。とてもは無下の俗言なり。 蛍火一花などは、. うことである 。 こ の こ と は 必 ず し も ﹃ 玉 あ ら れ ﹄ を 論. 例にだけ従っていればよいというものではない、とい. を根底から覆すものではない 。 ﹁ 玉あられ﹂に記された. うことだ 。 た だ し 、 こ の 考 え 方 は ﹃ 玉あられ ﹄ の議論. 歌の中で言葉をうまく取り扱うことが重要であるとい. に盲従することの問題点をあげた上で、持論を展開す る。 すなわち、歌言葉の良し悪しはあらかじめ決まっ. ぎないからである。このようにひとしきり﹃玉あられ﹂. あられ﹄は宣長が思いついた順に書き付けたものに過. 以上を経て、修正すべきところが出てきたということ. ているわけではなく、すべて使い方に拠るのであって、. りなしがらのよきあしきを、習ひしるべき事を肝. 難しようというものではない 。 す で に 世 に 出 て 六 十 年. ﹃玉あられ﹄ は 初 学 者 が 必 ず 参 照 す べ き 書 物 で あ る と. なのである 。 ﹃玉あられ﹄の否定ではなく、むしろその. ろければ、. 要とすべし 。. いう前提のもと、その内容が必ずしも正確には伝わっ. さて、文雄がさきの引用に続けて﹁玉霞にいはれた. 精神を継ぐという意味合いが読み取れるのである 。 こ. うことはかえって宣長の精神に反するというわけであ. ること γも ﹂ と し て 姐 上 に 載 せ た ﹃ 玉 あ ら れ ﹄ の項目. ていないというのである 。 そうして、 ﹃ 玉あられ﹄ で言. る。 たとえば、﹁花のさける・:﹂(﹁詞に三つのいひざま. は、み・し・と:つくる上の格・かへて・見ゆる見え. のことは確認しておく必要があるだろう。. ある事﹂)、﹁とても﹂(﹁とても﹂)、﹁蛍火一花﹂(﹁ほた. て・なほ・いく・やらぬ・はて﹀・とても・物うき・. 及されている言葉を取り上げて、 その指摘に忠実に従. る火﹂)などといった表現である 。それというのも、﹃玉. [ 2 6].

(27) 注目すべきは、それらがすべて﹁歌の部 ﹂に. みといふ詞のいひかけ・文字あまり、という十八項目. 思ひぐま・おひ風・とぼそ・ほたる火・春をむかふる・. ん事難 なし 。 雁がねはもと雁が音なれど、いひな. しきとぼ そこそ云々などみゆれば、今 まねびよま. あけて云々、又夫木集品川一に、夕顔のみさへむな. 氏物 語若紫の巻に、おく 山の松のとぼそをまれに. D. 属 す る 言 葉 で あ る と い う 事 実 で あ る 。 おそらくそれは. れてはたデ雁のことにのみいへるがごとし 。. である. 文雄の関心が文ではなく、歌に集中していたというこ. つ戸﹂にだけ言うという口 ﹁玉あられ﹄が﹁ふるき歌﹂. ﹁とぼそ﹂は元来は﹁植﹂であるが、それが転じて﹁誰. 具体的に﹁とぼそ ﹂を例 に﹃玉あられ﹄と ﹃ 伊勢の. とだけ書 いていたものを、﹃伊勢の家づと﹄は ﹃ 源氏物. とであろ、っ。 家づと﹂を見ることに しよう。まず、﹃ 玉あられ﹄は次. の は 問 題 な い と い う の で あ る 。 さらに﹁雁がね﹂に 言. 語﹄ や﹃夫木集﹄の用例を明示して、そのように詠む. とぼそは、植字を書て、ひらき戸のほぞ也 。 然る. 転じて﹁雁﹂となった例を裏付けとして追加している 。. のごとくである 。. を 六柴 の 戸 ぼ そ な ど 、 た c戸 の こ と に よ む は い か f。 こはや、ふるき歌にも見えたれど、心得お. この議論は ﹃ 伊勢の家づと ﹄ の方に説得力があると思. 来の意味を逸脱して用いられていることに疑義を呈し、. ﹁とぼそ﹂について、それが﹁柴の 戸ぼそ ﹂などと、本. 玉 勝間﹄八の巻 考 え て い た か ら で あ る 。 たとえば、 ﹁. 意味について、語源 よりも用 法・用例が重要であると. われる 。 それというのも、そもそも 宣長 自身が言葉の. 及し、本来は﹁雁が音﹂(雁の鳴き声)であったものが. くべし 。. その誤用を戒めているのである 。 これに対して、﹃伊勢. ﹁言の然いふ本の意をしらまほしくする事﹂︹四二三︺. 物まなびするともがら、古言の、しかいふもとの. の中で、次のように述べているのである 口. の家づと ﹂ は次のように記している 口 もとの意は、植の字の意にて、戸のほぞの事なれ ど 、 転 じ て は 誰 つ 戸 の 事 に の み い へ り 。 はやう源. [ 2 7].

(28) 常也 口 然 い ふ 本 の こ こ ろ と は 、 た と へ ば 天 と い ふ. 意を、 し ら ま ほ し く し て 、 人 に も ま づ と ふ こ と 、. それぞれに説得力のあるものである 。 そういった意味. なかったということであろう。 ﹁とぼそ﹂以外の議論も. と、体得した法則を適用することは必ずしも容易では. して体得した 。 と こ ろ が 、 個 別 具 体 的 な 例 に 出 く わ す. アメ. は、いかなる意ぞ、地といふは、いかなる意ぞ、. ツチ. といふたぐひ也 。 これも学びの一にて、さもある. ところで、﹃伊勢の家づと ﹄ は﹁小夜しぐれ ﹂ につい. で、﹃伊勢の家づと﹄が指摘したことは、官一 長にとって. いふ本の意をしらむよりは、古人の用ひたる意を、. ても言及している 。 ﹃玉あられ﹄ 十八項目の検討の後に. べきことにはあれども、 さ し あ た り で 、 む ね と す. 、 よく よく明らめしるべき也 。 用ひたる意をだ に. ﹁さよし ぐれにいは まほしきこと ダも﹂という 一項目を. ﹃ 玉あられ﹄の好ましい修正と 言 ってよかろう口. あきらめなば、然いふ本の意は、しらでもあるべ. 置いている 。 ま ず は 批 判 の 対 象 と な っ て い る 萩 原 広 道. べ き わ ざ に は あ ら ず。 大 か た い に し へ の 言 は 、 然. き也 。. いるのである 。 ﹁天﹂や﹁地 ﹂というのは、言うまでも. からんとも思ひっかれず、いかで/¥と打かたぶき. 初学のともがら題をとりたるに、何事をいひてよ. ﹃ 小 夜 し ぐ れ ﹂﹁ 俗 情 俗 語 ﹂ を 見 て み る こ と に し よ う。. な く 古 事 記 冒 頭 の 言 葉 で あ っ て 、 ﹃ 古 事 記 伝 ﹄ にも同. をるほどに、後にはほけ /¥しくなりて夢うっ、の. 宣 長は言葉の原義を知ることよりも、言葉の用法・用. じ こ と が 記 さ れ て い る 。 当時は語釈といえば、 言 葉の. さ か ひ を だ に わ い た め ぬ や う に な る も の 也 。 さる. ﹁俗情俗語﹂の冒頭は次のとおりである 。. 語源を追究することによって語義を明らかにするとい. をりにはこのごろの俗情におもふま﹀の事をまづ. 例によって語義を探ることの方が重要であると記して. うのが普通であったごとくである 。 言葉の用法から語. 思ひかまへて、さて詞をばふもとの蛮、浜のまさ. 注お) (. 義 を 導 き 出 す と い う 考 え 方 は 画 期 的 で あ っ た と 言え よ. ご、なにくれの物をひろひ集めてものする事なれ. ヨゴ、ロ. う。 宣 長 は そ の こ と を 多 く の 古 典 文 学 作 品 の 解 釈 を 通. [ 2 8].

参照

関連したドキュメント

従って、こ こでは「嬉 しい」と「 楽しい」の 間にも差が あると考え られる。こ のような差 は語を区別 するために 決しておざ

と歌を歌いながら止まっています。電気きかん車が、おけしようを

  BCI は脳から得られる情報を利用して,思考によりコ

に着目すれば︑いま引用した虐殺幻想のような﹁想念の凶悪さ﹂

存在が軽視されてきたことについては、さまざまな理由が考えられる。何よりも『君主論』に彼の名は全く登場しない。もう一つ

式目おいて「清十即ついぜん」は伝統的な流れの中にあり、その ㈲

これらの定義でも分かるように, Impairment に関しては解剖学的または生理学的な異常 としてほぼ続一されているが, disability と

されていない「裏マンガ」なるものがやり玉にあげられました。それ以来、同人誌などへ