中世三河における真宗教団の展開
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(2) 不在の時期が多かったことは考慮されるべきで. た顕如・教如書状をみると、合戦中は七ケ寺(全. あると問題点を述べた。. てまたは一部)の寺名が記され、亡命中でも七. 第二章は、永禄6年(1563)に起きた永禄三. ヶ寺が機能していた可能性があると考える。そ. 河一撰について検討した。第一節で一撰の背景. して、石山合戦期に顕如が三河国内について、. として、今川義元の支配下にいた松平氏宗家と. r無退転、結句此頃者内々繁昌侯様にはきこへ. その家臣団や、その他の国人領主の動向を確認. 候」という内容の書状を三河に送っている。石. し、今川氏や反家康勢力などの政治的関係にっ. 山合戦期の本願寺支援も合わせみると、三河に. いてみた。永禄3年に今川義元が亡くなると、. おける一向宗禁教の実態は、坊主衆の追放のみ. 三河は混乱し、三河国内は今川、三河国策、織. で、国内での門徒の活動は黙認されていたよう. 田の勢力が同時に存在し複雑化するという状況. である。このことは、越前朝倉領国と小田原北. を確認した。第二節では、三河国内で家康と敵. 条領国における一向宗禁制下の実態と共通する. 対の姿勢を見せる国策が、反家康となった政治. 点が多い。ただし、一向宗解禁の時期が三河と. 的背景を探った。反家康勢力と三河本願寺教団. は異なり、三河では一向一撲の蜂起はできない. とのつながりが想定されるが、そのことがうか. 状況で、やはり、一向宗禁制の影響は大きかっ. がえる史料は見当たらない。今川氏と通じてい. たといえる。そして最後に、三河本願寺教団の. たことはほぼ間達いないが、その今川氏が武田. 赦免と、七ヶ寺還住がなされる経緯を見直した。. 信玄と通じている書状を示し、武田氏が三河国. 天正11年(1583)の赦免に先立ち、天正!0年. 策に向け反家康工作を仕掛けた可能佐があると. 12月と翌年2月に家康の叔母妙香尼の肝煎で、. 述べた。そして、永禄6年に始まる一撰の流れ. 家康に対して礼銭が送られた。従来この礼銭は. と収束の様子を確認し、最後に三河本願寺教団. 本願寺と家康の関係修復のためと考えられてい. と今川氏・三河国策がどのように関係し合って. た。しかし、この礼銭は三河門徒から集めたも. 一撲蜂起となったのかを疑問点として挙げた。. のであり、しかも、事前に近衛前久と家康の面. 第三章では、第一節で、永禄三河一撰後の一. 会があったことも指摘した。この面会は平地御. 向宗禁教の実態を、石山合戦・本願寺との関わ. 坊留守居の山本為次によって調えられ、家康家. りから考察した。門徒の活動拠点となるはずの. 臣石川家成が仲介している。ゆえに、天正10. 本願寺派寺領が、坊主追放後、松平家臣に宛行. 年12月と翌年2月の礼銭は、本願寺の関係回. われていたことが確認できるが、本願寺・一向. 復と同時に三河教団の赦免のためのものでもあ. 一撰と織田信長の全面対決である石山合戦の時. った。礼銭の支払いはその後も続けられ、天正. 期には、三河門徒も戦闘に加わり、または懇志. 13年10月28日の七ヶ寺還住に至る。. を送るなど,の支援を行っていた。戦闘に参加し. 以上のように三河真宗の考察を行い、有力大. ている事実は史料から明らかだが、参加した門. 坊主の金融活動と門徒獲得が三河真宗発展に大. 徒の規模や組織形態などは不明である。ただ、. きな役割を果たしたと結論づけた。. 勝髪寺が単独で進発したことを記す史料があり、. 三河門徒の一撰形態の解明に必要な具体例の一. 主任指導教員. 河村昭一. つである。また、石山合戦期の三河門徒に宛て. 指 導 教 員. 河村昭一. 一299一.
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