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中世三河における真宗教団の展開

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Academic year: 2021

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(1)中世ご河における真宗教団の展開 専攻    教科・領域教育学専攻 コース   社会系コース. 学籍番号  M1Oユ60H 氏名   三浦哲史 1.研究の目的. 第三章 一撰後の三河真宗教団.  三河における真宗の展開は、他国のそれと様.  第一節 石山合戦と三河真宗教団. 相が異なると思われる。それはr松平(徳川).  第二節 一向宗解禁とその後の三河真宗教団. 中心史観」による史料改変・抑制が行われた可. おわりに. 能性があるからである。r三河一向一撰」に関し. ての研究も、松平氏側の史料中心で、本願寺教. 3.研究の概要. 団側か一らの視点が欠如せざるを得ない。そのよ.  第一章では、第一・二節で、真宗がどのよう. うな状況下で、一門衆本宗寺やいわゆる三河七. に三河に進出して展開したのかという三河真宗. ヶ寺の末寺道場の広がり、教団内の位置づけに. の初期段階をみた。親鶯面授の弟子である専海. 関する考察など、一定の成果もみえる。しかし、. により三河国内へと教義が伝えられるが、その. 七ヶ寺など有力寺院の具体的活動は明らかにさ. 後の展開は、住持の系譜が複数伝えられること. れておらず、一向宗禁教下の三河門徒の活動も. や、永禄三河一撰後の亡命などによる文書や記. 指摘されていない。. 録類、美術品類の散逸によって判然としない事.  本研究では、中世三河における真宗教団につ. 柄が多い。蓮如による布教が始まると、三河真. いて、その中心にあった有力大坊主の活動を明. 宗も多大な影響を受け、多くの寺院・末寺が本. らかにすることで、有力大坊主が三河真宗の発. 願寺派へ組み込まれていった。本願寺直属の血. 展に果たした役割、三河真宗の特異性を考察す. 族寺院として三河門徒総与力の上に存在したと. ることを目的とする。その結果、本願寺・一向. いう土呂本宗寺は、史料から三河における本願. 一撰の「別物論」の議論に新しい視点を加える. 寺派教団の中心として機能したことは伝わるが、. ことができると考える。. 具体的な活動や門徒の実態は不明である。第三 節では、三河真宗寺院の金融活動を取り上げた。. 2.論文構成. 妙源寺は①祠堂銭の貸付、②本銭返し、③売券. はじめに. の3種類の書状から、金融資本的性格を持って. 第一章 真宗の三河進出と発展. おり、また、徳政令を意識した手段産用いてい.  第一節 蓮如以前. たことを指摘した。本願寺派寺院については借.  第二節 蓮如以降. 銭借米すなわち貸付(金融)を行っていたこと.  第三節 三河真宗教団の金融活動. を示す史料があり、有力寺院の金融活動がうか. 第二章 永禄三河一撰. がえる。しかしその詳細は不明であり、在地の.  第一節 永禄年間の松平氏と三河の状況. 土地権利関係などの把握が必要であろう。最後.  第二節 永禄一撰. に、一門衆本宗寺の性格について考察する上で、. 一298一.

(2) 不在の時期が多かったことは考慮されるべきで. た顕如・教如書状をみると、合戦中は七ケ寺(全. あると問題点を述べた。. てまたは一部)の寺名が記され、亡命中でも七.  第二章は、永禄6年(1563)に起きた永禄三. ヶ寺が機能していた可能性があると考える。そ. 河一撰について検討した。第一節で一撰の背景. して、石山合戦期に顕如が三河国内について、. として、今川義元の支配下にいた松平氏宗家と. r無退転、結句此頃者内々繁昌侯様にはきこへ. その家臣団や、その他の国人領主の動向を確認. 候」という内容の書状を三河に送っている。石. し、今川氏や反家康勢力などの政治的関係にっ. 山合戦期の本願寺支援も合わせみると、三河に. いてみた。永禄3年に今川義元が亡くなると、. おける一向宗禁教の実態は、坊主衆の追放のみ. 三河は混乱し、三河国内は今川、三河国策、織. で、国内での門徒の活動は黙認されていたよう. 田の勢力が同時に存在し複雑化するという状況. である。このことは、越前朝倉領国と小田原北. を確認した。第二節では、三河国内で家康と敵. 条領国における一向宗禁制下の実態と共通する. 対の姿勢を見せる国策が、反家康となった政治. 点が多い。ただし、一向宗解禁の時期が三河と. 的背景を探った。反家康勢力と三河本願寺教団. は異なり、三河では一向一撲の蜂起はできない. とのつながりが想定されるが、そのことがうか. 状況で、やはり、一向宗禁制の影響は大きかっ. がえる史料は見当たらない。今川氏と通じてい. たといえる。そして最後に、三河本願寺教団の. たことはほぼ間達いないが、その今川氏が武田. 赦免と、七ヶ寺還住がなされる経緯を見直した。. 信玄と通じている書状を示し、武田氏が三河国. 天正11年(1583)の赦免に先立ち、天正!0年. 策に向け反家康工作を仕掛けた可能佐があると. 12月と翌年2月に家康の叔母妙香尼の肝煎で、. 述べた。そして、永禄6年に始まる一撰の流れ. 家康に対して礼銭が送られた。従来この礼銭は. と収束の様子を確認し、最後に三河本願寺教団. 本願寺と家康の関係修復のためと考えられてい. と今川氏・三河国策がどのように関係し合って. た。しかし、この礼銭は三河門徒から集めたも. 一撲蜂起となったのかを疑問点として挙げた。. のであり、しかも、事前に近衛前久と家康の面.  第三章では、第一節で、永禄三河一撰後の一. 会があったことも指摘した。この面会は平地御. 向宗禁教の実態を、石山合戦・本願寺との関わ. 坊留守居の山本為次によって調えられ、家康家. りから考察した。門徒の活動拠点となるはずの. 臣石川家成が仲介している。ゆえに、天正10. 本願寺派寺領が、坊主追放後、松平家臣に宛行. 年12月と翌年2月の礼銭は、本願寺の関係回. われていたことが確認できるが、本願寺・一向. 復と同時に三河教団の赦免のためのものでもあ. 一撰と織田信長の全面対決である石山合戦の時. った。礼銭の支払いはその後も続けられ、天正. 期には、三河門徒も戦闘に加わり、または懇志. 13年10月28日の七ヶ寺還住に至る。. を送るなど,の支援を行っていた。戦闘に参加し.  以上のように三河真宗の考察を行い、有力大. ている事実は史料から明らかだが、参加した門. 坊主の金融活動と門徒獲得が三河真宗発展に大. 徒の規模や組織形態などは不明である。ただ、. きな役割を果たしたと結論づけた。. 勝髪寺が単独で進発したことを記す史料があり、. 三河門徒の一撰形態の解明に必要な具体例の一. 主任指導教員. 河村昭一. つである。また、石山合戦期の三河門徒に宛て. 指 導 教 員. 河村昭一. 一299一.

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