「法の下の平等」に関する新トマス主義的発想(I) : 「中世法思想および新トマス主義法理論に関する小研究」(18)
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(2) . ido Uni i i lof Hokka i Jour t la on (Sect on IB) ver 1 s y of Bducat. Vol .21 No ,2. 「法の下の平等」 に関する新トマス主義的発想. Feb . ,1971. 1. 「中世法思想および新 トマス主義法理論に関する小研究」18. 宵 同. 坂. 直. 之. 北海道教育大学旭川分校 法学・政治学教室. Naoyuki K6sABA: Neo一Thomi iC Conception of”豆qual i ty under the La“′“ st. i 一--Short Stud 【 es on M edievaI LegaI Thought and Neo-Thomi i i t i s sprudence Ser es 18 c Jur. 次. 目. はじめに 1 中世に影響した古代の平等思想 1 1 平等に関する中世の法理念 1 , 法に対する服従義務の平等. は. じ. め. 2 , 中世における平等理論の貢献 111 「法の下の平等」 に関する中世と近. 世の相違. に. l l idge) ini ty Co 中 世 の 法, 政 治 思 想 学 者 と し て 有 名 な ト リ ニ テ ィ 大 学 (Tr ege , Cambr. 評議員. ter U l I 1mann) 博士が述べ ているように,註) 法は人類の理想に着実に近 づいてい ア ル マ ソ (Wa. る文明の表現であり, 法理論ほ ど時代の精神をよく反映するものはどこにもない. 神学的, 政治 学的また社会学的著作のなかに表現されている中世の精神は, しばしば現代における好研究課題 となっ てきた. しかし中世文化の最も著しい徴候の一つである中世法理に ついては, ほんのわず かしか考慮されな かっ たというのが事実である. ところがここ数世紀間忘れられていた中世法の内容や目的が, 今世紀に入って再認識されるに 至ったのは, まことに喜ばしいことである, 14世紀と15世紀にかけて, 中世における法科学はイ タリアの諸大学で全盛を誇った. 少なくとも中世の最盛期3 00年間は中世を代表する法律家を輩 出し, それはしばしば中世法それ自体の観念を形作る期間であったといっ てよい. ともあれ19世 紀までの中世法学に対する軽視ないし閑却は, 実に驚くほど理解に苦しむ. 現在われわれの法科学が最初中世イタリアの法律家によ って発生させられたとするならば, た といそれがかれらの先祖の天才による発現であると仮定しても, かれら中世の学者の理論上の知 識が現代の諸問題をよりよく 理解するのに大きく貢献していることは事実である, したがって現. - 52 -.
(3) . 第 21 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要 (第一部B). 昭和4 6年2月. 代の学者がその精神的な祖先を無視することは, 異状なほど不合 理であるといわねばならない. 現代の法理 想が, それゆえ, 本質的に十分中世法理想の所産であるとするのは, 決して前記アル マ ソだ け で は な い と 思 う,. 現今における法的主題の目的は, 新実証主義に基 づく法理を除けば, トマス・アクィ ナスの法 に関する主なる教義の再構成にあるといっ ては言いすぎであろうか, 法と哲学とを調和的に結合 するのがかれの真意であった, かれを魅力あるものとなし, またかれに法の深 遠さを知り尽させ たのは, まさにこの調和である, イギリス への強い影響がとくに興味ある法知識を 生ぜしめ, そ してイギリスの法思想に新しい情報を 提供するに至ったのは, 実にこのような関係な のである. 今日まで培われてきたイギリスの経験主義と同じく, トマスにとっても, 合理的明証性のない 法理表現は全く妥当性を欠き, また実際の経験から出発しない事実の認識をかれは決して認めよ うとしない, 新トマ ス主義と実証主義とは, 科学的証明に関してかなりの隔たりを見せ てはいる が, あらゆる種類の非合理主義を排 撃する点においては共通している. ただ法理論は可変的な科 学的仮説の上に のみ考えられるとする人には, ネオ・トミズムに基 づく法理を単に法理論史上の 流れの一つとしか受け取 られないであろう, しかし法理的考察は平常の経験に基礎をおく もので あり, 形而上学はこの経験と密接不轍に あると信ずる人には, トマ スの法理が絶えざるイ ンス ピ レー シ ョ ン の 泉 と な っ て く れ る は ず で あ る,. 今 世 紀, とく に 後 半 に な っ て 新 し い ト マ ス の 認 識 が. 再燃したのも, 決して偶然ではない. ’ z ”” ‘ 履如 of ム粥,α 1mann 婚勿α c q s de pe e s貌毎メ リ ム‘ sγゆγ B Mi 註) W, UI , New , “z. York . ,1969 ,PP. ′ 、 ーV I I I I I V. イ ギ リス の 著名 な プ ラ ト ン 哲 学 者 ポ ッ パ ー (K, R,Popper) は, ナ チ の 感 覚 - - 「支 配 権 を 有 1 ) と い う の は, か れ は ギ リ ツ ブ 人 が も つ す る 人 種」 の 考 え 」 - を プ ラ ト ンの な か に 感 じ取 っ た.. 道徳的不平等観と人種的優越性を主張するこ とで, 他民族への伝統的な敵対意識と長年に わたる 軍事上の脅威を認めないわけにはいかなかったからである. し か し こ う い っ た 考 え 方 は, わ れわ れ に と っ て い さ さ か 理 解 に 苦 し む. 古 代 に お い て は, あ ら. ゆる社会に奴隷が存在していたことを疑うものではないが, プラトンの 「国家論」 では奴隷を公 認していな いし, またかれの 「対話」 のどこにも, 野蛮人は生まれつき奴隷であるとは述べ てい な い. も しも ベ ル シ ブ 人 が ギ リ ツ ァ 人 と の 戦 い に 勝 っ た と し た ら, ギ リ シ ァ の 各 市 民 に 混 血 と 外. 国への売却が実現されたであろう, プラ トンは決して攻撃的戦争を弁護してはいない, かれは若 い 時 代 か ら, ギ リ ツ ァ の 各 都 市 が ベ ル ツ ァ そ の 他 の 国 々 と の 間 に 交 し た 戦 い が, 自 衛 上 の も の で あ っ た と 教 育 さ れ て き た の で あ る。. か れ の 壮 年 期 に お い て は, 事 実イ オ ニ ア に お け る ギ リ シ ァ 各. 都市が屈辱的な態度でベルシフに服従 した. だがその結果, ギリシァ 人が抱いた 「奴隷制への恐 怖」 の度合いは, かれらの 「尊大な人種的偏見」 の強さと相等しいものとするポッパーの皮肉な 見方には賛成 できない. ポッパーはまた プラトンが単なる外国人と居留外人とを, 市民として政治的ないし法的平等を 63A) で述べていることを批判している, しかしいままで歴史 認める べきでないと 「国家論」 (5 に知られている国 で, あらゆる外人に対し制限なしに完全な平等を認めた例があったろうか, こ の点に関して現在の標準で判断すれば, アテネ人は偏見をもっていなかったといえる, プラトン 9E-730A) において幾分詳しく説き, アテネ人はあらゆる不公正か はこの問題につき 「法」(72 一 53 一.
(4) . VO1 ,21 No.2. i lof Hokkaido Un i f Educat i i journa ty o ve rs t on (Sec on I B). Feb . ,1971. ら保護されたはずであると主張している. このような見解は, 空想的理想主義の立場からすれば 単なる一地方民の問題にす ぎないとして非難されるかも知れ ないが, 少なくともギリシァ 人の支 配的人種理論のみをもっ て, かれらの公正を疑うのは決して正当とはいえない. 誤解されたプラ トンの人種偏見的全体主義によって隠蔽されたとはいえ, アテネにおいて民主 ‘Great Generat 的, 平 等 主 義 的 自 由 主 義 者 が 数 多 く 輩 出 し た 時 代 を ポ ッ パ ー は ‘ ion“ と 呼 ん で. いる. そして平等主義の論点から プラトンに反対した民主主義者のこの 「偉大な時代」 における 指 導 的 学 者 は, ソ フ ィ ス トの ア ン テ ィ フ ォ ソ (Ant iphon) と 哲 学 者 ア ン テ ィ ス テ ネ ス (Ant i thenes) の 二 人 で あ る と い う .. アンティ フォ ソはギリツァ 人と未開人との差異に反対し, これを攻撃して, むしろ人間の本性 そのものに興味をもった. そこでポッパ ーはかれを平等主義者とす るのである, これはある意味 では正しい けれども, 正確にはかれが残したいろんな 断片的見解を総括してみなければ明らかに ) ア ン ティ ld) に よ れ ば2 ならないと思う. テイ ラ ー (A. B, Taylor) と フ ィ ー ル ド ( G, C, Fie ) 社会的配慮の フォソは自愛的快楽探求者であるといい, グリー ン (W,C eene) によれば3 ,Gr ま た ウ ィ ソス ピ ア (A. D. Winspear) は か れ に 民 主 主 義 原 理 的 4 ) ポッ パーはこれに同意し 「アテネ人の奴隷制反対運動」 ( 性格があるとする. the Athenian 強 い 功 利 主 義者 で あ る と い う.. ,. ) 決定的確信を与え movement againsts l ave ry) という表現を用いて, かれを支持しているが,5 るに足る証拠はない, 非常に限定 された証拠を過度に想像して解釈することは厳に警戒を要する. ポッパーは, アン ティ ス テネスに対してはもっと精巧な論述によって, かれをアテネの自由・平等主義者の 「偉大 な時代」 における最後の人であるとする重大なケ ースを作 りあげた. かれによればアテネの自由・ 平等主義者は, 反奴隷制と反国家主義との基本的教義を発展させた人びとであるという, すなわ ち世界国家の信条を有し, 人類の統一 (ギリツァ 人と未開人との兄弟愛--‐基督教界の慣用語で もある) を信じ, 平等主義の代言者として外見上まことに自由で人道主義に満ちた人たちである と い う, し か し, す べ て こ の こ と は, 紀 元 前 6 世 紀 ベ ル ツ ァ の 絶 対 専 制 君 主 キ ル ス (Cyrus) を,. 賢明な帝王のモデルであると当時考えていた人びとについていわれることに 注意すべきである, そ れ ゆ え, プ ラ ト ン を 無 条 件 に 不 平等 論 者 と は 見 られ な い と 同 様,. ア ン ティ フ ォ ソ と ア ン ティ ス. テネスを無条件に平等論者とするわけにはいかない. 次にアリストテ レスの平等論である が, これは余りにもトマスと密着するために, 次章以下に 譲らなければならない. ただ一般的にいえば, かれの見解である 「国家は自由かつ平等な人の共 同社会である」 は, ローマ法における 「すべ ての人に影響を与えるものは, すべての人によって r- 承認されねばならない」 という平等に関する法諺に発展し, これが別の形でマルシリオ (Ma i l i s o) の論文のなかに見られる, しかしそれらに根本的な重要性があるのでなく, アリス トテレ g スにとって, 階級が違えばもちろん, 同じ階級のなかでも, 平等は服従の蓋然性に影響を及ぼす 一つの事実として取り扱われていたことに注目すべきであろう. 一般的事件について世論の一致 6 ) が望ましいがゆえに, これを獲得する手段として平等 が擁護されていたのである. 最後にローマ 人の平等観は, 大体においてギリシァ のそれを 継受したものといって差しつかえ ない. 完壁を誇る実証法文化を支える精神的背景は, す べてギリツァの法哲学そのものである. ただしギリツァ の見事な法哲学をロ マナイ ズして, 顕著な特徴は見られないにせよ, 一応変わっ た形で再生したも のもないではなく, 平等理念もその例にもれない, ローマ の法律家たちにとって平等は自然法の 「こだま」 であり, 内なる声の命令であっ た. 事 - 54 一.
(5) . 第 21 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要 (第一部B). 昭和46年2月. 物に内在する 「事物の本性」 の原理は, この声をかりてわれわれに語りかけるのである, 平等は i nn) 実証法が制定されている場合でも, なお語りかける法的良心である. それは実証法の精神(S にほ かならない, した がっ て法の適用は, 一般的規定に論理的, 自動的に従うことなく 「平等」 7 ) に応じて解釈すべきであるというのがかれらの主張であった, が ん らい 軍 神 マ ル ス (Mars) の も と に お け る ロ ー マ 人 に 対 し て 服 従 を 求 め る の は 容 易 な こ と で. はない. そのうえかれらの間では支配者の統治権などにとらわれないという, あるいはかれらが 順次交互して統治する経験を得てきたという理由から, ローマ人の自信は政治的平等の獲得には, 8 ) い まことに大胆であっ た. また支配者に対する服従を不本意であるとした幾多の事例もある. うまでもなく政治的支配には寛容が必要である, それにローマ の統治形式は支 配者が人民の法の 形式に従うものであっ たから, 領主の行動は大幅に制限され, かれの意思がす べて神の摂理によ るとは到底思われなかった. むしろ法の下においては 領主もローマ 人もす べて平等であるという 意識が強かったといえる, しかるに基督教が国教となってからでも, かれらが他民族への蔑視な いし不平等な取り扱いを当然であるとしていたのは, いかなる理由による のであろうか. ローマ法学の底流をなすス トア学派の理想は, 人類 の堕落に先立つ原罪な き時代に関する基督 教理論に適合していた, また教会における初期の教父たちは, 罪なき人間の平等な生活を方向づ けてきた自然法の原則と, 「堕落」 後人間の欠陥による不幸な事実 (平等の喪失) に触れて発展 した人民の法 (万民法) との間に巧妙な差別を設けた, これをローマ 人は当然のこととして受け 9 ) は, とめていたにすぎない. しかし 「あらゆる物 の共同所有およびあらゆ る人間の平等権」 自然法に ium の政治制度, 財産制度や奴隷制度とはまこ とに対照的である. このように jus g ent 基づく平等と当時の実定法との矛盾に対し, 中世人に法理念の混乱を招いたことは否定できない, 註 8 0かの2 So c返り の扇 互s E橋 脚 認, London 1) K. R, Popper 2 .134~135 ,PP ,1945 , rメ d l d ed London, 1927 e 腎 も弟 ” 掘 ! P超わ 海 山 筋 l ぢ 3 r 2) A,B, Tay ” “ s or “ ,271; G. C, Fi , rみe , , pp , , , , 仔 k N Y Pみぎわ知力みy o 8 9 9 9 ′ P超ね eW or ,1 4,Pp, . i dge 3) W, C, Gr eene ,238 ,pp , Ma繁, , 1944 , Cambr , ルあかα Y ,1940 Z so o“gZ Z / P‘妨げs “z nspea T彰 C伽耀! 4) A, D. wi ,pp .146 , New ork す ご 5) K. R, Popper , ,95 ,563 , 物,c ,PP l Z Z ! d 履 紹s P M ご i メ 姑迄 c s O 6) E, 繋}wi リ ,26 ,1 , London,1954, pp ,vo , i αP徹 郎 物産y ds f rans ゐB Mの“ ‘”タ s oか のz z oば彰Z z , 7) H,A, Rommen, 71 テメ Z期w,αs幽妙 ofZ曙α ,by T,S ,t S L i D ‘ [ l Han ′ 、 ′ 1 9 2 7 2 8 t 9 4 o u s o ey , , , , ,pp , . 8) 〆疑〆 , .293 ,pp i dorus の言葉で, かれの ”βリブ l l ”〆増加e” に s a のl 9) これは8世紀のアソス ィクロ ペディストである Sevi. c γ磯 捌 にまで おける論議は理性的自然法, 本能的自然法 (初期の自然法) の微妙な混乱を示している. De i us と U1pianus と の 引用されているかれの善意に満ちた論説は, 中世の教会法学者と神学者に対して Ga 法思想的区別をしようとした際に遭遇した難問よりもなおいっそう理解し難い問題を提供したといわれる. he み 云 Z r腐りγ夕 方zす l l l l !防げyof 朋幼紅e β W8 s (R, W, Car c α e & A,J e ジメ PO励ま ,1一一t y y ,vol , Car ,A 猛 himpression, Edinburgh,1950, pp,106~110) t h--4 2nd c t ,to the9 1 l. 1, 法に対する服従義務の平等 ) 中 世 の欄 熟 期 と い わ れ る13世 紀 の 法 律 家 で 注 目 に 値 す る も の は ボ ン コ ン パ 一 二 (Boncompagni ” ” 疋ゐ8わ” 解 鋼was覇ブ terbo) の ヨ ハ ネ で あ ろ う. 前 者 の 著 ”α は1235年 の 作 と ヴイ テ ル ポ (Vi. であるが, かれはそのなかで皇帝と法との関係につき明確な見解を表示 している. とりわけ 「あ t r o r a rum impe らゆる自然法 と市民法とを心の殿堂に守り続ける最も沈着なる 皇 帝」 (Romano 一 55 一.
(6) . VO 1 ,21 No .2. i i ion IB) ido Uni t t ver s Journalof Hokka on (Sec y of Educat. 1 ・ is is arcano servat ia jura Pector l ia et Civi i cuncta natural Serenlssln 〔 le.,..,.qu .. Feb , ,1971 尺ゑ8-. の重 わγ”α 漸o諺ss〆 “ zα , v, 4) と い う 示 唆 的 な 字 句 を 用 い た 箇 所 が あ る, ま た か れ は, 市 民 法 i l 「領 ス 主 は egbus 要 性 を 述 べ た と こ ろ で は, テ オ ドシ ウ ス と ヴ ァ レソ テ ィ ニ ア ヌ の 有 名 な 言 葉 lutus で は あ る が, abso. 自 ら が 法 に よ っ て 束 縛 さ れ て い る こ と を か れ は 確 認 す る」 に 言 及 し て い. る. これより多分おそく書かれたと思われる ヴィ テルポのヨハネの著書では, 自然および聖俗二 権力関係につき重要な論議を重ねたその過程で 「神は皇帝を法に服従させ, 人民への 生 き た 法 i et l i tl egem animatam eum ec eges imperator と し て, こ れを か れ に 与 え た」 (Deus subj i t hominibus s mi ,. 1 ) これらを綜合してみる DB 丑増 加z 〆“e Cれ”の““ 2 ,128) と 述 べ て い る,. と, 皇帝は明らかに legibus absolutus でありながら, 法に対する服従 義務が強調され, 少なく ともその点において自ら一般民衆と平等な義務性を認めているといってよい. egibuS solutus で も っ と も, ロ ー マ 法 に 親 し ん だ ロ ー マ 市 民 や 著 作 家 た ち は, 皇 帝 や 領 主 が l. あるという言葉をしばしば用いている, しかしこれを無条件に認め るために引き起こされる誤解 idus) や ボ ン コ ン パ 一 二 の よ う な は, 極 力 避 け ね ば な ら な い, な る ほ ど オ ドフ リ ドゥ ス (odofr ロ ー マ 市 民 は よ く こ の 言 葉 を 引 用 し た が, テ オ ドシ ウ ス や ヴ ァ レソ テ ィ ニ ア ヌ ス の 勅 書 に あ る 言. 葉 「皇帝が自ら法の 下にあることを認めるのは正しい」 (Codりi ,14 .4) の付言をかれらは決し ま た ポ ー ヴ ェ (Beauvai s) の ヴィ ソ セ ン テ ィ ウ ス も, 明 ら か に ソ ー ル ズ ベ リ s nexibus l i egi (Sa sbury) の ヨ ハ ネ の 回 顧 録 に あ る と 思 わ れ る 言 葉 の な か で 「領 主 が ”l. て 忘 れ な か っ た,. l ut us” であるのは (かれは) 不正行為ができるからでなく, 衡平を追求する性格を有するが abs o ためにほかならない. その衡平追求も処罰の恐怖 からでなく, 正義の愛に由来する, なぜ ならか れは, 公のことが らに関 して法または衡平や共通善が要求するもの以外に (nisi quod lex aut i iat i t io Communi i l ) 何物 をも欲 求 できないか らであ tas per s induc s ut suadet aequi , .rat , aut ) 2 i る」 (S ’ i pβ伽Z“’ もi ,7,23) と 述 べ て い る,. 領主が自己の意 思や好みに応じて支配することが許されてよいという観念は, 純粋にアカデミ f世紀の終りまでは) 関係が なかった, ックな考えで, 中世における政治的原則には (少なくとも13 中 世 の 典 型 的 な 観 念 は ブ ラ ッ ク ト ソ (Bracton) の そ れ で あ り,. 前 に も しば し ば 触 れ た よ う に,. 3 )1 6世紀から18世紀 領主は神によって拘束されると同じく 法にも拘束されるということである, にかけて発展した専制君主政理論の普及がどのように説明されようとも, それは中世に とって全 く調和しない理論であった, 4 ) たとえ各地の実情は またそれは 中世初期のあらゆる憲法的伝統にも調和 しなかったと思う. 違っていた としても, 10世紀から13世紀に至る中世封建 制度の発達がそれを不可能にしたばかり でなく, 当時の人び とにそれが理解できなかったことは明らかである. なぜなら中世封建制度の 基本的性格は, それが支配者と人民相互の確固たる 義務体系であるという原則のなかに見いださ れるからである. 封建諸候の権利と家臣のそれ とは, すべての 点において同一ではなかったが, ‐世紀後期のボロニ 両者の権利は明確な決定的制限を受けた点において等しかったといえよう. 13 l l in Si l imani t ) ) も そ の 者 ” 刀β 冴e“〆Z s“ (fo ) ア の 法 学者 マ ル テ ィ ン・ シ リ マ ニ (Mar ,9 . , Ru l sernia) の ア ン ド ゥ リ ュ ー も ナ ポ リ 憲 法 の 注 釈 に お い て, に お い て, ま た 同 時 代 のイ セ ル ニ ア (. ) 5 同じ趣旨を表明している. r) と 同 様 に, 宗 教 的 事 件 に は世 俗 の 裁 判 官 nanoi さ らに ブ ラ ッ ク ト ソ は ポ ー マ ヌ ワ ー ル (Beaul. は何ら権限を有しない反面, 世俗的事件に対して教会裁判官は介入すべきでない. それはもっぱ ら王や領主の専権に属するとい っている. ただ一方は他方を助ける責務があるというだけで, 両 - 56 -.
(7) . 第 21 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要 (第一部B). 昭和46年2月. ‘regnum ” 事 件 に 関 す る 法 や 裁 判 権 は 明 確 に 分 離 さ れ る べ き で あ る と い い, “sacerdot ium” と ‘ ,. 6 ) 法の領域における互いの独自性尊 との間には大きな違いが存在することを明らかにしている. 重は法遵守思想の徹底をうながし, それが民衆に浸透してい ったことは想像に難くない, 因に, 後世誤り伝え られているような教皇の世俗的至上権所有の主張は, カーライル博士もいわれてい る よ うに, 当 時 の い か な る 国 に よ っ て 信 じ ら れ た の か 実 際 は 明 ら か で な い . fonso X) は 一方, ア ル フ ォ ソ ゾ 十 世 (A1 スペ イン法典のなかで王の地位を次のように強調 ,. している, すなわち王は世俗的事項 につき人民を公正に擁護するよう命ぜられた 「神の代理者」 ではあるが, とくに法に対しては無条件に服従する義務がある, とする教示である, そしてそれ についてかれは三つ の理由をあげた. 第一に王が名誉と庇護を享受するのは法によること, 第二 に王が 正義と権利を遂行するには法の助力を要すること, 最後に法の制定者は王であるが, 法 の 制定者こそまず第一に法に服従するのが正義 ( de ) である こと, 以上である, さらにかれ r e cho は暴力や欺圏によって国土を得た王はいうに及ばず, 適法な手段によっ て権威を獲得した王でさ え, もし法を無視してかれの権力を誤用するならば, それは暴君というにはばからないとい って い る.7). 王 が 法 の 範 囲 内 に お い て の み 行 動 しう る こ と は, イ ェ ル サ レム の 巡 回 裁 判 に お い て イ ブ ラ ソ の l in) とノ ヴ ァ ラ (Novara) の フ ィ リ ッ プが 宣 告 し た 憲 法 的 規 律 に よ っ て 明 ら ヨ ハネ ( Jean α1be. かである. すなわち, もし王がその領地の法廷で, かれに反抗する家臣の訴訟提起を許さず, あ るいは法廷における審理なしにある家臣を逮捕, 監禁するならば, そのときこそ王と家臣は互い に義務的 拘束を受け, 法廷の名誉を維持する責任を有すること, それゆえその家臣は王が論争中 の事件を法廷にゆだねるまで, そしてその判決を王が遂行するまでは, 王への服従を拒絶すると 8 ) 裁判を求める法的平等はかくして確保され, 次代に継承され 宣言してもよいというのである. て ゆく. inas ) は こ の 点 に つ い て どん な 考 え を も っ て い た か を 検 討 し た お わ り に ト マ ス (Thomas Aqu. い. かれは有名な 「神学大全」 第一部, 第二の問九十以下において, 人民はある場合自由であ り,かれら自身が 法を定立しうるけれども, 実際上こうい っ た立法権を有しない場合もありうる こ と こ ろ が あ る 箇 所 で は (S“’ ”, rゑeoZ .3;q .97 ,95 り la 口ae ,q ,a , l i bus j r o e s natu cum p a eb ) 混成憲法を是認した, ,4) 元老院議員が民衆と共に制定する (ma と に つい て 論 じて い る,. した が っ て あ る 説 の よ う に エ ジ デ イ ウス ・ コ ロ ナ (Bgidius Col ona) が 「王 に ふ さ わ しい 指 導 者」. l ( regimen r ) について表明している独断的なかれの好みにトマスの責任を追及するのは誤 ega e 同 じよ う に ト マ ス の 弟 子 で あ る ル カ (Lucca) の プ ト レマ イ オ ス が 政 治 に つ い て 一 つ り で あ る, の型 (社会の法による政治と支配者の意思による政治) に分けて無雑作に論じているいわば政治 ) カ ー ライ ル博 士もい わ れる よ う に 9 的 関 心 の薄 さ を ト マ ス の 責 任 に す る わ け に は い か な い. ,. ト. マスの法的および政治的理想は, 領主が人民の作出による 法に拠って支配することであった, 古 i i t cum “ はまさにこれを意味するのである, き良き法への 遵守の平等 ”regimen pol 2 , 中世における平等理論の貢献 中世の法・政治哲学を近代のそれと比較して, 一つ の明確な違いと思われるものは, 近代のよ うに個人に対して政治社会はそのもつ最高の存在価値に参画する平等な機会を かれらに保障しな ければならないという主張を, 中世の可能な平等論からは引き出しえなかったことである. しか し個人および家族生活の基底をなす自己保存, 財産の保障や適切な食糧などに関する諸要求につ. 一 57 -.
(8) . Vo l ,2 ,21 No. Feb , ,1971. ion I B) i f Educat t i l of Hokkaido Uni c ty o on (Se s Journa ver. いての 「個人の平等」 理念は, 中世の法・政治哲学により (とくに中世 の欄熱期である13世紀 に) 唱えられ, また実際上も認められたことを知らねばならない, もっともこうい ったことは, パ ーク (E ) の 「あらゆる人は平等な権利を有する. ただしそれは等 しい財貨を求める権 ,Burke o ) と い う 言 葉 が よく こ れ を 要 約 し てい る と い え る, 利 で は な い」l. しかし国家の成因が本来 「生きるため」 ばかりでなく 「よき生活をするため」 に作られた もの である限り, 中世法 思想は人びとのなかに, かなりひどい不平等をも観念させなければならなか とし った. たとえ人間が共有する 「本質」 の認識が強力な 理性生活と道徳生活の完全な発動作用 の認 の実際的差異 ける人間 てみた 「人間の共通目的」 を明らかに したとしても, 身分や能力にお 識は, 人間の共通目的にかれらが等しくあやかることを保 障するい かなる真剣な企てをも成功さ せなかった. このように して中世の法思 想は, せいぜい共通善のための努力の 配分に関するアリ ス トテ レス派の概念と, 神の計画における個人の役割りに栄光を与えた階級組織に関するアウグ ス テ ィ ヌ ス 派 の 概 念 に ま で 退 か ね ば な ら な か っ た の で あ る.=). ここで中世人が実際には当時 の政治手段によってその目的を 達せられることになっ ていた 「人 権」 について考えてみよう. これに関 して中世思想と現代の個人主義思想との間に, 余りにも広 い不一致があることはいまさらいうまでもない, 中世人は人民全 体に奉仕す べく存在する組織や 体制 が, なぜ人民全 体によっ て支配されねばならないかを悟らなかった. そしてかれらが有した 人間の道徳的平等と責任に関する関心は, 人間が権威に対して積極的に参加 しうる平等権の認識 ) しかし13世紀になってトマスが 1 2 において, 現代の民主的結論には到 底およびもつかなかった, アリス トテ レスを継承し, 平等論の根拠である 「正義論」 (とくに交換的正 義と分配的正 義の対 比考) の中世化に成功したこと は, 平等に関する中世 の実証理論を大きく 推進させる結果になっ た,. がんらい交換的正義は一定の法則と算術的比例に従 っ て行なわれる. 契約しただけ のものは, 当事者の事情い かんにかかわらず返済しなければならない, それゆえ高官や王も, 普 通 人 と 平 等にその債務を履行しなければならぬ. それは平等者間の 関 係 を 表 明 するものであり, 代償物 (quid pro quo ) 引渡しの失敗は, いかなる ものであれ返却 の義務を負うことになる. その反面, 分配的正 義はこの意味に おいて平等 ではなく, むしろ排他的 でさえある, という のは, それは独 創力, 所有権や人格 の高潔で計れるものであろうとなかろうと, 各人の才能により変 わ っ た 割 1 3 ) ここ では正 義は不平等な 人間を不平等に取り扱う 合いで富, 名誉や仕事を与えるからである. こ と を 意 味 し, こ ん に ち い わ ゆ る 徴 分 を 考 慮 に 入 れ て い る と い う べ き で あ ろ う か.. こ うす る こ. とが究極において平等な 取 り 扱 いをしたことになるとはいうものの, ややもすればそれが情実 io per sonarum) とい う 悪 用 に 道 が 開 か れ る 可 能 性 を も つ, (accept. ま た 厳 格 な 正 義 に 対 し て,. 個人的に苦情を申し出る当事者もあるであろう. かれらに賠償を受領する完全な権利な ど絶対与 えられないとするのは どうであろうか. いわゆる悪行のうちにも, とくに不正でないものが想像 されるは ずである. こうい ったことがらに対する救済策を, トマ スは極力講ずるように主張して 4 ) い る.ー. およそ平等の原則は, とどのつまり各当事者の平等な取り扱いが訴訟手続のうちに保たれる も \ のであり その際 「情実」 と 「特権」 は絶対に排除されなければならない. アルマソ博 士もいわ , れるように, この取り扱いの均等は中世においては証拠が相手方の面前において提出されるべ き ことを要求し, 裁判官に任された原因調査も当事者双方が出席している際に行なわれるべきであ 1 5 i i ) 天 賦 の 平 等 (aequal tas natural s) は, る とい う 考 え が 支 配 的 で あ っ た, 一 58 一. あ ら ゆる 訴 訟 手 続.
(9) . 第 21 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要 (第一部B). 昭和46年2月. 上の原則を説明する最後の拠点である, すなわち証拠の範囲はできうる限り広くあらねばならず , 「真実の原因」 と同じく 「公共の利益」 も可能な最大限の証拠を要 求することが中世の理想であ った. この理由から被告は, 自己の事件につき証人たりえないが, 同じ事件で他の被告につき証 言できるとされたのは当然であろう, このように 中世の平等理論は, 行政面においては実証的に 稀薄であるにせよ, 司法に関する分野では大きく 貢献しているということができる , l l l l 註 1) R, W.Car l i i e & A,J he Pol I Theory ofthe13th c--pp 6 e t y ca P y , Car , , V--t ,Q . 〆す , vo . .5 2) 必 ば, PP ,97 l i i l I Theoryf 3) 〆鰯α t v o rom the.○七h c ca o the13th一一PP , .t , , m --Po .38 l 4) Gf .ぞ鋭d , ,1 ,vo ,19 , ChaP 5) 必然,vol , V,PP ,100. i i i t l 6) Brac l t on l l ed by R, W, Car e & A,J l y e y ,8 ,5c , DB 乙噛め“s ,i ,Car , V,pP,363 , 噂,c仏 vo id る 7) す , ,98 ,PP 8) ず脱4,PP .113 る溺, 9) す 74 P P , , Z Z 10) E,Burke Zのめテメテ Verymads Lib c O郡 o” 豹e 尺勿o z Fγα”α, BI , 元e潟e , ,pp,56. B . ルーイス博士は, パ ークの組織的概念と 個別的概念との融和は多分に中世思想との妥協が見られ る. l と い て っ い る, (E, Lewi s .1 , 噂, dん vo ,pp,221) る溺, 11) す ,222 ,PP 12) めズメリ PP ,22・ 1 乃如Z 13) S綿粥, 7 la l lae , ,63 ,2 ,3 ,1 ,q ,a A.J idhe i Z“加ねず海g face 6 rbe s s , Fa , 上α 月潟ご免β Di , Par , ,1934 ,Pr T, Gi by l r彬 P 協 〆 ZT初 A 粥 ” h i r加 C ′ O 鯛 2 o 川 z ”鯖 q s c ago 壇 q , ,1958r pp , ,222 lae 14) Sの形 ,63 . rル勿乙 ,1 ,3 ,a ,4 ad 1 ,q , na l 1mann 15) w, U1 ,リム メん pp 133 皿. 古代ギリツァの都市国家においては, 市民が等しく政治に直接参与するという 「法の下の平等」 が存在した, ところ が政治社会における生活概念や生活環境が進展するにつれて, 法が慎重に改 正される方法の発見が重要視されるに至った. それ はつまり法改正を 必要とする環境の変 化が, 実定法変移の必然性を示したものといえよう. ただ問題は変移性の原因を何に求むべ き か で あ る,. 中世の初期においては, これを単純に人間心理の不完全性にあるとした, ところが現在の主な る傾向は法典各条項の可動性をむしろ外界の事情変更に求め, 無知が招来する法 の可動性とは明 確にこれを区別しようとする, ここでいう無知とは, 人間として認識可能なものに ついての無知 を指す相対的な用語でなければな らない. 個人差による自然法の変移性, そしてその結果, 外界 の変動によっ て生じたとみられる宣言的な実定法の変移は, 自然法の第二規律 ( s cunda p e r ae - a) の移動に伴う当然の帰結である, 少なくとも新トマス主義自 然法によれば, 無知の結果と cept してはならない. もっ とも逆説的にいえば, 法の変移性は人間の賢明すぎることに起因する のか も 知 れ ない,. し か し こ の こと は ト マ ス が 特 殊 事 項 の 偶 然 性 に つ い て ア リス トテ レス を 引 用 し て 述. ) 人間はいかに賢明であろうとも, その知識に必然する 限界があること そし べているように,1 , て人間通有性の功利的精神が事物の認識に差異を生じさせている事実を述べて, その誤りを教示 し て いる.. いずれにせよこの法改正の必要,法変移の必然性が, 中世になって良識人による素朴な代議制度 の誕生をみるに 至ったことは否定できない, それは決してイギリスだけに特有なも のではなかっ 00年前にスペイ ンでみられ, 13世紀と14世紀の中部および西ヨ- た. 少なくともイギリ ス より1 - 59 一.
(10) . Vo l ,21 No,2. i ion (Sec i lo f Hokka ido Un i t Journa ty of Educat on IB) s ver. Feb , ,1971. ロ ッパにおいて発達した事実を忘れてはならない. これらの代議制組織の性質と機能は, 法によ る課税の公平 (比例的平等) に限定されていたというのが通説になっ ている, まことにその通り で, 収入に応ずる課税の 「平等」 こそ, 団体の権威に つい て最初から最も大きなものであった. と こ ろ が こ れ に 対 す る 反 論 が, い ま な お 有 力 な 学者 に よ っ て 説 か れ て い る.. な る ほ ど フ ラ ンス. 公 平 王 フ ィ リ ッ プ と 教 皇 ポ ニ フ ァ テ ィ ウ ス 皿 と の 争 い が ひ き起 こ し た ) ま た1188年 の レオ ソ (Leon) の 会 大きな問題を処理すべく1302年に召集されたものであった 2 に お ける 最 初 の 議 会 は,. . 議には, 立法および戦争と平和に関する 諸問題が付託されることになっ ていた, 各都市の代表 が, は じ め て 出 席 し た の は こ の と き で あ る.. しかも13 , 14世紀において議会は早くも, あるてい どとはいえ行政組織を支配する権利を主張 しはじめている, たとえば王の顧問や代理者をさばく権威, すなわちかれらの行為が公共の利 益 や人民の平等な取 り扱いに反するようにみえる場合, 議会はかれらの 辞任や処罰を要求する権威 を強調したことが知られている. もちろん現代にみられる大臣の議会 (下院) に対する責任は, ) や14世 紀 ions of oxford)3 s 王 の 行 政 に 貴 族 の 参 加 を 認 め た13世 紀 の オ ク ス フ ォ ド条 例 (Provi. のイギリスの弾劾制度, あるいは1355年から8年にかけてフランス議会の有した王の不公正な顧 問官排除要求の上程権などの不十分さとは比べものにならない. しかしこれらの主張は, 原則と して現代と質的には同じであると思う. すなわち共同社会 (公衆) は王に対 し, ある限度におい て立法や財政のみならず行政機構をもまた支配しうる, いわば平等な権限を 強調できるという意 味において, 中世における政治的権威の実際の性格は, 君主政体にのみそれが根拠づけられていたのではな く, 実にそれは混合された諸権威にも拠っ ていたのである, トマスはあらゆる分野の社会人が代 表されるべき制度に, 政治の最善の型を求めていたことは明らかである, かれはこの原型をモー 4 ) すなわち かれは平等な自 ゼとその後継者によるイエスラエルの政治に見いだされる と考えた. 由人の委任による政治を理 想としたに違いない. トマスは その当時行なわれていた実際上 の憲法 的な試みを, どのていど知っ ていたかは的確にいうことはできないけれども, かれの代議理論や 選挙方法に関する取り扱いは, 当時ス ペイ ン, イギリスおよびそのほかで行なわれていた実際上 の試みに, きわめて近いといえる, かれの推奨する政治がさきほど触れたように混合政体であっ ) と い う こ と は, た (Quorum unum est, ut oinnes aliquam parten・ habeant in principatu, かれの真意を十分汲みとっ たものと思う, これらはすべ て中世が現代に譲渡した 「政治における良心」 の伝統であり, 法に基づく個人の 平等の伝統であって, 正義の究極の権威にほかならない, 少なくとも13世紀における実定法はす べ てこれに基 づいて構成され, これに反する法は無効と して拒否されたのである, 共同社会 の最 高権威は実定法であるという原則は, 最初その共同社会の慣習のなかに具体化されたが, 後には 代議会のなかに, あるいはそれを通して表現された共同社会の意思のなかに体現されるに至った. しかし少なくとも中世においては, 宗教的信念あるいは法による 公平な取り扱いが助長する相互 信頼 がなければ, 共同社会意 思など実現されるわけがないと信じられていたことは事実である. べ 代議制度は16 , 17世紀から18世紀におい て理論としては中世に比 て格段の発達はしたものの, 実際は西欧の大部分が依然として絶対に近い君 主制を持続していたことも疑う余地はない, イギ リス, オラン ダその他少数の小国 のみが, 絶対主義阻止に成功しただけである, しかしこの絶対 主義を多くの国々 は (フラン スやスペイ ンでさえ) 一つ の新制度として受け取 っていたという事 実を認める のが, まず大切である. 限定的君主制という中世概念が, 当時なお残存していた のが 一 60 -.
(11) . 第 21 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要 (第一部B). 昭和46年2月. 何よりの証拠である, 各人の法の下の平等ないし良心を擁護する者は, 決して新しい原則を主張 していたのではなく, 中世の重要な法原理をただ言い換えていたにす ぎなかった これらの原則 . 6世紀と17世紀には極端な絶対君主主義が幅 をきかせたために, 中世で一般に唱え られてい は, 1 たよりもなおい っ そう論争的, 独断的な言語で表現された, そこで当時の法による 人民の平等な 取り扱いは, 王の絶対的権威という新しい 独断的主張によっ て危機に直面させられたはずである . た と え ば フ ラ ンス に おい て は 全 く 理 由 の 説 明 も なく ポ ー ダ ソ(J . Bodin) の 主 張 に よ っ て, ま た イ. ギリスにおいては政治的権威 はただ征服ないし 人民の無条件服従に基づくというジェームズ一世. の 主 張, そ して 同 じくイ ギ リ ス の “Convocat ion Boor 5 ) , B.Bossuet) , フ ラ ンス で は ボ シ ュ エ(j. が説いた王権神授の思想によ っ て, しかしもっと重要なことは, これらの学者が説いた絶対主義 「理論」 が 「実行」 的な絶対主義 に移 行 し てい っ た こ と で あ る. イ ギ リ ス で は あ る て い ど食 い 止 め ら れ た も の の フ ラ ン ス で は 完 ,. 全な移行が見られ, フランスを中心にほとんどの大陸諸国へ伝播した, そうい っ た王権絶対思潮 の結果, 形骸化された法による民衆の差別的処遇の頻発が,イギリスばかりでなく 当時のヨ ーロッ パ全体から恐怖と非難をも って見られていた 事実を, まだ一般には中世からの連続としか 認めて い な い よ う で ある, た だイ ギ リス で は, フ ー カ ー (R. Hooker) や ミ ル ト ン (J l ton ) か らハ , Mi l i fax) と ロ ッ ク (J L k リフ ァ ク ス (G. Ha c 一 の o e ) に 至 る 連 思 想 政 治 家 の 足 跡 どる を た こ とに ,. よって自ら氷解される問題である, つまり絶対君主制擁護論者の不合理性は, 政治的に訓練され たイギリス民衆の法による自由・平等希求の信念を引き戻せなかったといえよう. 常軌を逸した. ジ ェ ー ム ズ一 世 の “ True Law of Free Monarchies“ や フ ィ ル マ ー (R,Fi lmer) の “ Pの “αγ-. cたα” に示された絶対君主制のケ ースは, イギリスの1688年の革命と同じように, 法適用の不平 等に対する民衆の非難を集めたという事実がそれを証明している. 他方, ほとんどの大陸諸国では王の絶対権威が一時成立はしたけれども, 当時の王権擁護論者 である著述家たちの主張が, イギリス における場合よりも多く容認さ れたとは考えたく ない ポ . シュエの論述はフィ ルマーのそれと比較してみた場合, その形体においては実際ひどい不合理な 点はないが, 実質において民衆の権 限を無視したこと, 王のために法を歪曲したことは, 全く同 じ レ ヴ ェ ル に あ る と い える,. 専制主義理論への批判は, とくにフランス とスペインで慎重になされた. おそらくある意味に おいて最も重要な批評は, 直接表明されずに, むしろほのめかされたていどであっ たと思われる, 保身上そうすることが賢明であったのかも知れない, しかしきわめて保守的な法学者であったフ 6 ) や ル ワイ ソ ー (C.Loyseau) l le) ? )でさえ 王権 の伸長 と法軽 視に ラ ン ス の コ キ ー ュ (G . Coqui ,. よる人民の差別的待遇というこの新しい発展を, 一つ の新制度としてとらえ, 中世政治の伝統的 方法から逸脱した一つの現代的変貌として見ていたことが知られている, かれらがこの新しい権 威を黙認していたように世間が見ていたときでさえ, かれらにとっ てこの発展はまさ に 時 代 を 画したものと映じたに違いない. コキーュは, これらの変化を政治に 導入したのは ルイ 十 一 世 である とい い,. ま た ル ワイ ソ ー は 17 世 紀 の フ ラ ン ス 議 会 に よ る 課 税 の 不 平 等 に つ い て. io) を 引用 し てい る こ れ は な に も こ の 二 人に 特 有 な も の で は な く (Comminat , ,. 「強 迫」. 同 じ考 え を ジ. l ien) や フ ヌ ロ ン (F, S y) on) も 明 らか ョ リ ー (C.Jo . 豆,Jur , ジ ュ リ ア ン (J .P , M, Fenel ェ ) フ ラ ンス か ら ス ペ イ ン へ 目 を 転 じる な ら 議 会 の 憲 法 的 権 威 を ば に表 示 し てい る,8 , , ス ペイ ン に お け る 政 治 の 正 し い 伝 統 に 属 す る も の と 見 た り バ デ ネイ ラ (P. Ribadeneyra) とサ ー ヴ ェ ド ラ (L,Saavedra) を 挙 げ な け れ ば な らな い, -6 1一.
(12) . VOL 21 No.2. i f Bduca i i ido Uni t ty o l of Hokka on I B) on (Sect s journa ver. Feb , ,1971. ま ず フラ ン ス と ス ペ イ ン の 学 者 に よ っ て 樹 立 さ れ た 16 , 7 世紀の一般的政治原則を通観する場. ち最も保守的な一人とされているスペイ ン 合, 注意す べき点 が三 つある. まず第一にかれらのう・ の 司 教 で 法 律 学者 で も あ っ た コ ヴ ブ ル ル ヴィ ア ス (Covarruvias) が 現 世 の あ ら ゆ る 権 威 は, 共. 同社会における本質的に平等な人びとに その起原を有する といい, 「王の聖なる権利」 学説をは っ き り否 定 し て い る こ と で あ る.. ion Book こ の 少 し 後 で, 王 の 絶 対 権 が イ ギ リ ス の Convocat. や ポ シ ュ エに よ っ て 表 明 さ れ た こ と は, す で に 触 れ た と お り で あ る. サ ー ヴ ェ ドラ や フ ラ ン ス の ジ ョ リ か 定 ら に し, そ の よ う な 不 当 な 権 威 は ー, ジ ュ リ ア ソ, フ ェ ヌ ロ ン が, 王 の 絶 対 的 権 威 の 否 を 明 第 二 に 前 記 ス ペ イ ン の コ ヴ ブ ル ル ヴイ ア ス, リ バ デ ネ イ ラ,. 暴君のみが自称するにすぎないとしたことである,. 第三に実定法が王より優越して至高性を有することを, ジョリーやフ エヌロソと同じくリバ デ ネイラとサー ヴエ ドラによっても明確に宣言されたという事実 である. 王が人民や家臣との間に 争われた不平等に起因する事件の裁決は, 法廷だけに課せられた義務であり, 決して王の役目で はないことも, すでに理論としては表明されていた, したがっ て王の権威は王と人民との契約に 基づく, と ジョリーが主張したのは当然である. とくに, いかなる君主政 体も, 貴族政体と 民主 政体の要素が混合され, 包含されていなけれ ば存続できないとしたサー ヴエ ドラの観察は興味が ) 9 あ る. こ の こ と は フ ェ ヌ ロ ソ が ” r弱み””q卿 ” で述べた趣旨と本質的に 一致する, が理念の世界に局限されたもので 最後にそれら 1 6 , 7 世紀の絶対王権否認論は, そのおおよそ あっ たことを否定はできない. かれらの理論が18世紀の実証化活動に対して理論的根拠を与えた 1 7世紀) 法の下における 民衆の平等は, 地域により多少の相違 功績は没すべくもないが, 当時 ( こそあれ, 期待の薄い存在であった, 前にも触れたとおり, 中世との区切りはまさにこれである. 教権が西欧のすみずみまで行き渡 っていた中世においては, いかなる 君主も法遵守の違反と法無視による人民の差別待遇は, 極端 な場合に破門という致命的な処置を覚悟しなければならな かった. 教権の衰えた中世末期以後の 人民に対する法的取り 扱いと相違がある のは, けだし当然であろう.. (未完). 北郷 Fo B i じZ”“S めγ Zば8 ”G l kamp i 乙伽鉱物腐り′ ?んの“紡ぎ t edby K, Kre 註 1) あろ V β豹, , ,Tんe 脳ゐ云ゆたys ,xvic D C 1 VVashington 1 9 9 6 1 3 . , , pp , . . f l ぞ S粥dy ed by s rans f i ,J , Woo , & adapt , u 2) A, Ma r ong ,t , A Cの“Pのの むB , 賊紹迄ジメ Pの瓦”’“のz London ′}99 ,pp.97 ,1968 k /肥 育/ f f i鯛Z r跨仰ぎZ ご みzf s Z Z g in lhva 2 C. H, Mc zo / POZ .223 ,pp , New Yor リ 1953 , rルe Cγo脚ご 7 3) 言薩d 3 5 P p , , , Z o 4) S”粥, T乃g .1 ,105 ,a , ,q , la 虹ae iu i Z 1 8 6 n 5) A. Mar c ong 噂 . ,Pp, , , . “〆 Z ・ 赫化〆 ?如”g/ 1 ” 豹β あす Z C蹴れ‘γy, London,1960,pp,373~374 / POZ 6) j en . W, AI , A 圧為わり o C α畝BAge Z r ’ ; Z ’〆 秘めdg ; 劫e MZ s” A l 賊紡 ′ B の cゆ云わゑ“’ Z L あ Z ろ C o A げγ げか, lye 7) , J , a , Po熔化α d L ′ } で”“e 8 6 3 9 6 3 5 1 n n o o s p p , , , ,. なく, 将来の実行しう 8) 湯緩, .73~74; ことにフェヌロソは単に過去の政治現象を論評したばかりで ,pp 唆を与えた 多大の 示 ・政治のあり方に る政治政 策を樹立して, 現代の法 . ろ紙,pp 9) 〆 .75~77. 一 62 -.
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