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自然科学教育の目的について

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(1)Title. 自然科学教育の目的について. Author(s). 徳永, 好治. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. C, 教育科学編, 21(2): 156-169. Issue Date. 1971-02. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4615. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . l vo ,21 No ,2. i ido Uni i l。 f 日。 1 i t 0n l c) t journa On (Sec s くka ver y ○f Educat. Febリ ー971. 自然科学教育の目的について 徳. 永. 好. 治. 北海道教育大学函館分校物理学教室. YOShiharu TOKUNAGA :. on the ob ives of Science Education. j ect. 目. 次. 1. はじめに -論争の不毛にふれ て- ロ. 自然科学教育目的論の位置 皿, 科学と教育の主要な規定. 1. 皿‐ 1 , 科学は労働である. m‐2 , 教育は労働力の形成にある I V . 自然科学教育の目的 V, 結 語. はじめに--論争の不毛にふれて--. 近年, 教科教育は 「現代化」 とょを れて, 世界的にその改善・改革運動がすすめられてきてい るが, そ の世界的潮流とも関連して, 我国では教科教育に対する関心が高ま っ てきている. 日本 )昭和45年1月に教科教育学に関する研究促進が強くとなえられて, 「教科教 教育大学協会では,1 育学の確 立を期すために全国的組織をつくり, 共同研究を推進する」 方策をうちだした. 理科教 )が昭和41年から3か年実施され, 昭 育においては, 教員養成大学・学部教官研究 集会理科部会2 和43年の部会で初めて 「理科教育学を学問として設立する必要性」 が提案されている, そもそも学問には論争が つきものである. 学問が人間の社会的営みであっ て研究者 に謙虚な態 度が求められるのも, 論争が学問の存在形式の一つであるからである. ところが理科教育の研究 にはいままで異なっ た見解を多くはらみながらも, 論争らしい論争がほとん どなされていないと )たしかに教育には, その効果を評価するのに, 限定できない時間と単純化 3 みるのが現状である, されない要素によるところの困難がある, そのために成果として実を結ぶ論争が起こりにくいと いえる. それにしても理科教育が他教科 (特に数学や社会) にく らべてさえはなはだ論争にとぼ しい状況は, 理科教育学を学問として樹立させようとするとき, 軽視できないことである. 論争が展開されるまでにいたっていないが, 異なった見解の最も特徴的かつ理科教育の基本に 触れて いるものに, 「理科は自然科学を教える教科である」 とする見解と, 「理科は自然科学を教 えるのではなくて, 科学的見方をする態度を養成する教科である」 とする見解との相異がある. ところでこの両論が, 理科教育の基本に触れて重要であ るのは, 理科教育の 「目的・目標」 と して論じられている点にある. しかしながら, 「理科は自然科学を教えるのではなくて, 科学的 な見方をする態度を養成する教科である」 とする見解の者, あるいはこの両論を 扱って 「教科論」 を概論する者にあっ ては, その見解を理科教育の目的として扱ったり, 目標として扱ったり, 目 的・目標であったりで, 大 変混乱した扱いがなされていながらさほ ど気にもしていない状況なの -1 56-.

(3) . 第 21 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要 (第一部C)・. 6年2月 昭和4. は一体どうしたことなのだろうか, 「理科は自然科学を教える教科である」 とする見解は真船和夫 を提唱者として, 科学教育研究協議会の中心部分をなす者の主張であり, 文部省学習指導要 領に 4 )の中で詳述し 対する批判の基底におかれて積極的である. 真船和夫はその見解を 「理科教授論」 ているが, その扱いは, 理科は 「何を」 学習する教科か, といっ て, 「目標」 の用語を一貫して使 用せず意識された慎重さがうかがえる, だが真船にして 「目的」「目標」 の用語規定は十分である と は い えな い,. 前述した理科教育部会が研究成果の集大成としてまとめた 「理科教育の研究」 の第一章 「理科 教育学の学問的位置と性格」 の中から, 理科教育研究の内容 (項目) に関する表現をひろってみ ると次のようなものがある, ① 「理科の目標論・方法論・教材論などから各論まで」 ② ⑧. 「歴史, 目的論, 教育課程, 理科の心理」 「①理科の教科論 (目的, 役割, 構造, 科学基礎論等) ②理科教育史 (比較教育史を含み,. 科学史とも関連) ③理科の心理学……」 ④ 「目的・内容・方法にわたって範囲が広い」 ⑤. 「理科教育目的論一理科教育目標論一理科教育課程論一理科学習指導方法論」. ⑥. 「目的論, 教材論, 方法論」 このように文脈の違いがあるけれども目的論と目標論の位置は同じようにみえてそれほど 明 確 ではない. 結局 「目的・目標論」 にしておくことが一番無難であるということになる. そして無 難である限りでは, 理科教育学が自然科学と教育学との境界領域であるといってみても何ら本質 的進展はえられないであろう. 以上のように理科教育の目的, 目標の用語規定が不確定であることが, 論争にまで進展しない 原因のように思われる. 更に理科教育における論争の不毛な原因として, その目的, 目標の用語規定が不確定であると はいいながら, あまりにも目的を軽視し, 目的をないがしろにした目標や内容の議論が多くみう けられる点があげられる, 昭和43年7月およ び12月に, 文部省小学校学習指導要領および中学校学習指導要領が改訂され た, そ こ には 理 科 に つ い て の 目 標 が あ げ られ て い る,. と こ ろ で, そ の 目 標 に み られ る 表 現 そ の も. のについては, 的確 であるかないかは別として, それが誤りであると指摘する者はおそらくいな )が 当っ てい いであろう, しかしながら内容の項にいた ると, 科学教育研究協議会の多くの批判5 る個所 が山積しており, 改めて 「なんのためにこのような内容でなければならないのか」 の間を 投げざるをえなくなる. 決してその目標が答えを与えてくれはしないのである. このような原因 は目的にたいする軽視に求めざるをえない, )の中に 「目標についての考え方」 として次のようないい方がなされ 「中学校指導要領解説書」6 てい る.. 「理科の目標は, 何のために理科を教えるかにこたえなければならない, しかし, この 『何の ために』 は人びとによっ て理科に期待するところが異なるように, 一義的に定めることはきわめ てむずかしい. 何のためにという問題は, 一つの答えを用意すればまたそれは何のために必要な のかという次の間が常につきまとう運命をもった命題である, したがっ て次から次へとエスカ レ ートして, 期待される中学生像は何かという人生観や世界観と切り離しては考えられないきわめ てむずかしい問題にぶつかる,」 (傍点 : 筆者) 一1 57-.

(4) . Vol .21 No .2. ion IC) f Hokka ido Uni i i lo journa t t r on (Sec ve s y of Bducat. こ の い い 方 は, は な は だ 「暴 言」 の そ し り をま ぬ が れ な い も の で は な か ろ う か.. Feb 971 , . ,1. こ れを ま, 目 的 ′. や目標の言葉の定 義があいまいなところによるとはいえ, 非教育的, 非科学的な表現であり発想 であると思われる, このような目的論の軽視自体が, いわゆる教育の階級性を如実に物語 っ てい る ことを示すものに他ならないし, 論争の基盤を失わせているものであろう, 更にまた論争の不毛な原因として, 目的論の軽視と関連するが, そもそも科学教育の目的を論 じた研究 がはなはだ少ない現状があげられる. 7 筆者の知るところでは, 田中実・富山小太郎の 「科学教育の役割と目標」 ,)吉本市の 「理科教 8 ) 育の目的観について」 がまとま りのあるものとしてあげられるく らいである. 田中実・富山小太 郎は科学教育の目的 (役割) として要約して, ①将来の社会成員として必要な労働能 力の知的基 礎を準備する. ②政治的判断の基礎として, 人間による自然支配の限りない可能性とさま ざまな 方式についての知識を与える. ③自然および人間についての科学的な一般的見解 (科学的世界観) の基礎をつくる, ④自然にた いしても社会にたいしても共通する判断と行動の基本形式を獲得さ せる, この四点をあげている. これらは, 吉本市や前述の真船和夫の 「理科教授論」 においても 同様にあげられているところである. 吉本市は上記の四点に更 に加えて, 「知識・思想を受容し, 形成する時の精神的姿勢の形成のため」 をあげている, これらの点は概括すれば科学教育の目的として設定することには賛成できる. しかしそれらが 論理的展開をも っ て十分説得のある目的になりえているかといえばそうではない. 以上のような, 目的, 日標の用語規定の不確立, 目的論の軽視, 目的論研究の過少が一体とな て っ , 理科教育が論争に進展しない原因となっ ているように思われる, 様々な異なった見解があ りながらも, それは世界観, 科学観, 教育観などの違いによるから, 水かけ論に終るのであっ て 論争してもはじまらない, といっ てかた づけられるとしたら, 現場教師が・一番迷惑するこ とにな ろ う.. ロ. 自然科学教育目的論の位置 理科教育の 「目的」「目標」 の用語規定は, 日本教育大学協会編 「理科教育」(昭和3 1年) での 規定をうけて, 一般的に次のようにまとめられている. 「目的は目標より高次概念で, 教育のめざす方向となるものである. 目標は目的を達成するた ) め 子 ども に 身 に つ け さ せ る よ り 具 体 的 な も の で あ る,」9. この規定ははなはだ常識的であっ て, 図式化して 「目標=目的の具 体化, 目的=目標の包括」 といっ てみても大方許されるのではなかろうか, 結局, 包括的か具体的かの域をでないあいまい な も の に な っ て しま う お そ れ が あ る.. ) o 「何のために (目的) 科学教育研究協議会の中心メ ンバ ーは,l , 何を (日標) , いかに (方法) 教えるか」 と規定している. 教育は価値追求を本源とするものだから, 「何のために, 何を, いか に」 の観点は必至である, その意味では, 明瞭・簡潔な規定といえる. だがこのような規定だけ では理科教育の目的論, 目標論を一様に扱う基盤にはならない, その規定が 「何のために (目的 .目標) 何を (内容) いかに (方法)」 とおさえる, あるいは 「何のた めに (目的) 何を (目標. 内容) いかに (方法)」 とおさえる仕方とどれほどの違いがあるのかが問われてくるだろう. そもそも 「理科教育目的論」 を設定することに無理があるのではなかろうか, 「理科」 という教科名は明治19年の 「小学校令」 において初めて使用され, それまでの博物・ 物理・化学・生理に分科していた自然科学系の教科の内容を (授業時間数においても) 縮少.改 -1 58-.

(5) . 第 21 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要 (第一部C). 昭和4 6年2月. 変し, 一 つにまとめられて新設されたものである , とはいえ, この 「理科」 新設は機械的官僚的 統合であっ て, その意図がそれを軍国主義的な教育方針に合致させ , 科学的,合理的精神の養成 1 ) という意 味からして今日までの長い間日本の科学教育を規制す るき を排除することにあった,1 わめて重大な事件である, もっとも, 明治以前の日本には近代科学の自立的発展 (積み上げ) が 浅薄であっ たために, 皇国の実利にかなって容易に改変されていっ たのは必然ともいえる , この 点は今日, 理科教育を考える場合に強く教訓としなければならない . しかしながら, 筆者は, 今日, あえて 「理科」 の名称を否定しようとするものではない 筆者 . は 「『科学教育』 でも 『理科教育』 でも何の差しつかえもない」 1 2 )という意 味を是認するとともに , より積極的に理科を自然科学教育の一分野としてとらえ, 「理科」 は 「小中学校で児童 ,生徒に自 然科学を教育する公教育の教科」 として考えた い . ならば 「目標より高次概念」 である日的が, 理科教育という自然科学教育の一分野の枠の中で設定されうるであろうか . そこで筆者は次のように提言す る. 教育において目的は本質的規定であり, 目標は実体的規定と考えるべきである 本質的規定で , ある目的は人類 (史) にとっ ての価値基準として設定される 実体的規定である目標は 行動(教 . , 授) のスローガン, すなわち実践 を導きだすもので, 教授の対象, 条件 更にはその国の社会的 , 条件や歴史に照応して設定 される. 目的を抽象 的であると軽視し, 目標のみにとらわれて 目標 , の実用主義的・観念的方向に押しやられる危険がありえるが, 本質的規定である目的をぬきにし て目標は確かな位置を示しえない. このようにとらえるならば, 自然科学教育の目的および目標 は次のように位置づけられよ う,. 本質的規定. 自然科学教育目的論. 実 体的 規定 理科教育目標論 高等学校科学教育目標論 大学教養科学教育目標論 大学専門科学教育目標論 社会 (国民) 科学教育目標論. ここでは, 理科教育を自然科学教育の一分野としてとらえ, 理科教育目的論の自立した設定を 否定して, 自然科学教育目的論に止揚させた. そのことによっ て理科教育目標論を実体的におさ えることを可能にしようとする, m. 科学と教育の主要な規 定 自然科学教育の目的を論ずるに際して, その基礎である 「科 学とは」 , 「教育とは」 につい て論 及することが当然のすじみちであろう. 以下 「科学」 という表現の場合す べて 「自然科学」 の意 味で使用 す る. m- 1 . 科学は労働である, 一般的に自然科学は 「自然 を認識する作用 (方法) とその成果で ある自然の客観的法則の理論 大系‐ 」 として定義されてきた. 自然科学は他の学問と違っ て, 自然を認識す る学問であり, 人間 の感情や人間相互の関係をいっさい排除し, 物質に関する確実に累積された知識の総和である , その自然を認識する方法でさえ, 実験や観測によっ て導きだされた事実にもとづく筋道立っ た論 理・論証の展開であっ て, 人間の感情や思弁 を排除してなり立っている . そのために自然科学は -159一.

(6) . Vo l .21 No ,2. i i i f Bducat t ido Uni lof Hokka t on IC) on (Sec s Journa ver yo. Feb . ,1971. 芸鉾寺作品のように直接人間に訴えて感動を呼 び起こすものと考えられない. 叉自然科学には理論 があっ て思想 (こころ) がないとも受けとられる. そして 「科学を専門とする者にとっ ては, 既 成の知識体系を連かに習得して, その上に自己の問題を見出すことが必要であるが, 科学を専門 としない人が科学につい て何事かを知りたいと思うとき, その人 に何を提供すべきかはむずかし い 問 題」1のと な る,. ところで, ここであたりまえのこととして, 自然を認識することは, 人間の精神活動の所産な のであっ て, このあたりまえである人間活動が, 自然科学を語るに際して外界のもとにお きやら れる理由がどこにあるのであろうか. 先の一般的定 義は, 一般大衆の判断によるところのふるい ) その 1 4 目を通過していない時代的制約のもとでの専門家の立場からの定義といえないだろうか. 専門家とは, 原水爆兵器による戦争犯 罪が出現して以来, 科学者の社 会的責任・道義が問われる ようになったが, それ が .概して科学者が科学する行為と独立して新らたに社会的意識を要請され るにとどまっ ている傾向となり, 社会的責任・道義が科学の自律機能として理解することを必要 とされない平均的専門家をさ している. 科学者の精神的活動が, 科学を専門としない人間のそれ にたいLて疎遠でなければならない根拠は どこにもない, 現在すでに, 多くの科学器械は日常 生 活の中に利用されて判断や生産 (人間活動) の手段とされている, 人間的活動すなわち労働のうちに科学をとらえなければ, 「自分自身のうちに不完全さを感じな )となって, 科学をその方法と理論大 系をして完結された絶対 的なものと思わしめ, 科学 1 5 い科学」 6 )ことになろう. の自治的 かつ閉鎖的領域への発展によっ て, その有用性も進むべき方向も失う1 1 8 )をマルクスの資本論を主に援用 1 )および 「科学・技術革命の理論」 7 芝田進午は 「科学労働論」 して詳述している. そ こでは, 科学は労働としてとらえられ, その科学的労働は 「普遍的労働」 「普遍的 生産力」 であっ て, それゆえに科学は連続的革命の性格をもっ てたえず発展する人間活 動の過程そのものとなる. そして, 大工業にあっ ては, 科学と技術の 距離は接近し, 緊密に媒介 し合って, 連続的な 「科学・技術 革命」 として規定される新たな発展が期待され, 科学的労働は あらゆる人間にとっ ての科学となっ て開花される. 科学を人間の永 遠の生存条件である労働の一つの 形態としてとらえることによっ て, 科学をし てすばらしい人間社会を予知することが可能となるであろう. 芝田進午の論述に負いながら, 科学の本質的形態である科 学の労働としての規定, およ び, な にゆえに 「普遍 的生産力」 であるかを述べる, マルクスは資本論の中で 「労働は, まず第一に人間と自然とのあいだの 一過程である. この過 1 9 ) 程で人間 は自分と自然との物質代謝を自分自身の行為によっ て媒介し, 規制し, 制御する」 と があ てい 一され る ) 規定する. この場合人間の 行為には精神的労働と肉体的労働 (本来的には統 ることはいうまでもない. この精神的労働の 一環として科学的労働がある. そして一般的労働お過 程は, 技術的過程 と組織的過程をもつ. 技術的過程とは, 人間の労働過程は動物のそれと違い労 働手段の使用ならびに創造という特徴をもち, 人間は自分と 労働対象のあいだ≧に一つの物あるい はいくつかの物からなる -複合体をさし入れてかれの活動の伝導体として役立たせるが, このよ うな過程をいう。 科学的労 働の技術 的過程は, 一般労働過程と同様, 労働そのもの, 労働対象, 労働手段の三契 機からなり立つ. 第一に, 人間と自然との質料転換は人間の行 為による自然質料の分析 (分割) と総合 (連関 づける) であり, すなわち労働は本質的に判断の過程 であるが, 労働の判断の過程 を反映した ものが大脳皮質の本質的活動としての分析と総合 であっ て, この精神的能力が科学的 -1 60-.

(7) . 第 21 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要 (第一部C). 昭和4 6年2月. 労働そのものである, 第二に, 労働が質料の分割・連関づけをくりかえしながら諸質料の形態を 転換するが, 物質の運動の形態転換が人間の思考に反映されたものが概念にほかならず, 科学的 労働の労働対象は物質的自然, 概念として反映された物質的自然の運動形態である, 第三に, 労 働過程はそのものが 人間と自然との直接的結合でなく, 労働手段を介した, 媒介的, 間接的な結 合であっ て, 自分自身はこの過程に干渉することなく, しかもみずからの日的を達成するのだが , この意味で, 労働過程は本来推理の過程である, 科学的労働はその推理過程を労働手段である実 験手段と計算手段 によっておこなう。 このような 契機を含んだ科学的労働の技術的過程を経て発 見された物質の法則が, 科学的労働の産物にほかならない, 次に科学的労働の 組織的過程に言及する, ここでも, 労働そのもの, 労働対象, 労働手段にそ てのべ られなければならない, 第一に, 人間はただ一人で孤立して労働するものではなく, 協 っ 同し相互にはたらきかけてそれをおこなう. 科学的労働にあっ ても, 一個人の認識や発見は他の 個人に伝達され認識過程が拡大しより客観的にな ることによっ て 科 ・学的法則の発見を いっそう容 易にする, 第二に, 科学的労働の労働手段 (研究手段) は簡単な実験道具から, 複雑な実験装置 , 実験工場へと発展し多数の科学分野にわたらざるをえなくなる. 例えば, 「ビックサイエ ンス」 と 呼ばれる核融合反応の研究や人工衛生打上げなどは その代表例である. 労働手段の発展が科学労 働の組織化をうながす し, また後者が一層前者を発展させる. 第三に, 科学的労働の労働対象は 概念に反映された物質の運動形態であるが, 物質の一つの運動形態は他の運動形態と密接に連関 しあっ ている. 自然そのものが運動諸形態の連続と不連続の統一をなし, また個別・特殊・普遍 の運動諸形態からなる弁証法的構造をなしているのだが, そのために科学の相互移行と相互連関 は本質的であり, 隣接科学をもたないような科学は一 つとして存在しないのである, 科学的労働 は, 労働対象からしても, 組織的過程であっ て, この過程の拡大, 集中化を必然にする このよ , うに, 科学的労働の組織の発展, 拡大, 集中化の過程は, 同時に認識の発展, 拡大, 深化の過程 を条件づけており, また後者は前者 を促進する, このような意 味で, 科学的労働は他のどのよう な労働にもまして組織的であり, 科学の主体はある意味で個人ではなく, 組織であるということ が で き る,. 以上科学が労働そのものであることを述べてきたが, ところで, その科学の成果が 「普遍 的生 産力」 として規定され, 普遍性なるがゆえに他の労働と区別される理由として芝田進午はつぎの 点を指摘する. ① 科学的労働によっ て獲得された発見は, 直接的生産過程に適用される場合, 機械などとは ち が っ て 摩 滅 し な い,. ②. 科学的発見は, 直接的生産過程に適用されるとき, その研究費をはるかにうわまわる富を 人類にもたらす, しかもひとたび発見された法則 は, 他の人間が新たに発見す る必要がなく、 無 償 に な る,. ⑧. 科学的発見は, 一般に地球上どこにおいても 適用可能であり, この点で資本主義・帝国主 義の不均等発展の法則と矛盾し, これを止揚す る可能性をもつ, ④ 科学は生産諸力の一つとして, 時代をこえ, 前の世代から次の世代へと継承され蓄積され る. こ れ らの 「普遍 的 生 産 力」 と し て の 理 由 は,. 0 )に お い て も 同 様 に い わ れ て い る と ス トル ミ リ ン2. 1 2 ) ころであり, 今日ほ ぼ国際的にも承認さ ‐れつつある, かくして, 科学を人間の永遠の生存条件である労働の普遍的な形態として規定することは, は -1 61一.

(8) . Vol .21 N0 ・2. i id。 Ut ivers i i lof 日o l d t journa t on (Sec on IC) く a l y of Bducat. Feb , ,1971. じめに述べた科学の一般的定 義をつつみこんで, 科学の主体にあくまで人間 の優位性を認めて人 類の共有財産とみることが可能となる. そして, はじめて自然科学は教育的価値が万人に認めら れかつ必要とされるのである. m- 2 . 教育は労働力の形成にある. 2 2 ) だが, それで 「教 マル クス主義によれば, 労働こそが教育の機能であり, 人格を形成する. 育とは」 をいいつくせるものではない. それは, 労働にこそ教育の本来的機能があるという, 教 育の本源的規定であっ て, 労働に階級性がないのと同様, 階級性のない規定である, 2 3 ) を問題にしてい さて教育学を研究す る立場からは, 「歴史的範噂として成立している公教育」 るのである. 歴史が大工業へ進むにしたがい, 公教育は増々拡大され, その重要な役割は強まっ ていく, すなわち, 教育は労働による機能であるが, 直接的生産労働から分化自立し, 目的意識 的・計画的作用として公教育に確立され, その公教育は歴史の発展とともに重要となる. この日 的意識的・計画的作用からして, 公教育はいわゆる上部構造であっ て, 資本主 義社会にあっ ては 階級性がある. すな わち公教育としての教育は, 上部構造である政治的・法的・宗教的・芸術的 4 ) 人間を日的意識的に計画性をもっ て変革する行為と制度であ る か ・哲学的見解を総動員して,2 ら, 明らかに上部構造である. だが, 戦後の教育科学論争にみられた, 国分一太郎・大熊信行の 「生産力の再生産」 論争, 海 5 ) は, いま 後勝雄理論をめぐる 「教育構造」 論争, さらには 「生産主義教育」 論争などでの議論2 なお新しい問題として発展される必要性を残しているだろう. すなわちその論争の発想にある, 教育は上部構造であるとしても教育の超階級的価値があるのではないか, あるいは教育の中立性 をどうおさえるか, 教育の実用性をどうみるかなどの疑点 は解消きれたとはいえない. 結局 「教 育がも つ真実性と将来性, この二つを教育的価値を求めるよりどころとして, 社会の進歩を促進 2 ) という見方が一般的になっ 6 する教育的価値を照し出すことが, 私たちのよいいきかたである」 ているように思える, しかもここでは, 「教育のもつ真実性」 とは何かが概して不問とされること となっ て, 真実を教えることが教育の真実性であるとする域を出ないものに理 解することを許し て し ま う,. 7 )も指摘しているように, どのような社会形態にも共 教育が科学たりえるためには, 大橋精夫2 通し, 叉歴史的変化を貫く本質的契 機が反映された教育の一般的規定を, 客観的にあたえられた 教育現実から抽象しなけ ればならない. 最近の教育における矛盾の激化にともなっ て, 教育を受ける権利が人間の基本的人権の 一つと して強調されるように なり, 自由, 平等とならんで教育が人権として定着されつつある, 叉, 特 に重視されなければならないことは, 資本主 義の高度化は, 教師を増々労働者に仕立上げている ことである. まさに, よく いわれる 「す べての教育論は, それが教育論である限り, 必ず行きつ く ところ教師論に終る」 状況が一層現実の ものとなっている. 公教育が教 師集団すなわち精神労 働としての教育労働の分化なしには成立しえない, という歴史的必然を思いおこさせる, このよ うな, 教育の権利としての要求と, 教師の労働者化が, 客観的にあた えられた特徴的教育現実と して焦点をあてられなければならないのである, 教師の労働 (教育労イ動) は医師の労働と同様に物質的財貨に対象 化されないが, 労働力そのも 8 )である. 物質的財貨を のを直接に生産し, 形成し, 発展させ, 維持し, 再生産す る労働の 一つ2 生産しないために, 教育労働は生産的労働といえず, 生産力そのものではないのである, その意 味で教育を上部構造にたいする社 会の土台 (経済構造) とする考えは出しょうがない, しかし一 一162-.

(9) . 北海道教育大学紀要 (第一部C). 第 21 巻 第 2 号. 6年2月 昭和4. 方教育労働が 「労働力そのものを直接に生産する労働」 でもあるがゆえに, 上部構造としての教 育は土台にたいしてとりわけ積極的となる, ここで, 教育労働の労働力そのものを直接に 「生産 し, 形成し, 発展させ, 維持し, 再生産」 す る意味を便宜上労働力の 「形成」 として一言でいい 表わす, 叉労働力とは人間の肉体的能力および精神的能力の総体であって, この精神的能力には, 労働の社会性, 組織性からいっ て, 「情操」 や 「態度・思考力・感性」 など知的機能といわ れるも のも重視されなければならない. ところで, 教育労働はそれのみをもって労働力を形成しない, 被教育者の学習労働を媒介して のみ教育労働は被教育者の労働力を形成するのである. ここに教育は, 被教育者の学習労働と教 師の教育労働との相互作用によっ て成立する労働の 一過程をして, 限りなく 開花する労働力を形 成することである, と教育の一般的規定をおく ことができる, 教育が人権の -つとして要求され るのも労働力の形成にとっ て教育が必然であるからであり, 叉その要求は, 人間が社会的である ことにより, 生産力の発展のために社会に蓄積された物質的ならびに精神的富 を世代から世代へ 伝承する社会的必要と合致して 要求されるのである, この一般的規定のなかには, 教育のあ らゆる歴 史的変化を貫く 「本質的契機」 すなわち 「労働 こそ教育の機能であり人格を形成する」 本源的規定が息づいているのである. 以上, 教育が上部構造であり, 上部構造のなかでもとりわけ土台にたいして積極的であるとこ ろの教育の一般的規定を指摘した, そこでは, 公教育の資本主 義的形態の側面を捨象してきた. を意図するものでなかっ た, ここでは, 自然科学教育目的論を本 更に教授学にまで立ち入ること. 質的規定としておさえるための論述であったのである. N, 自然科学教育の目的 機械化文明」 ほぼ1960年頃からこの方, 経済高度成長に拍車をかける日本の現状をとらえて, 「 , が急 てき ピ ピ にはんらんし 「 未来学 「 」 などの言葉 「情報革新の時代」「コン ュ ー ト ア」 宇宙 時代」 た. たしかに今日の科 学技術の発展は飛躍的であっ て, めざましいものがあり, これらの言葉は さほど抵抗なく現実性を帯びて受けとめられている. 科学教育の 「現代化」「教授法の工学化」 も それゆえに脚光の中にある. だが, そのような言葉が使用される風潮には, あたかも思いも かけ ぬ新世界誕生にとまどい, 血液交換の必要を強調 しているところがみえないことはない. 光化学 スモッ グを中心に一躍問題化さ れた大気汚染公害, カ ドミウムその他諾々の 「爆発的」 公害の波 におののき, 運命論者の台頭を容認するかにみえる. これは, 科学・技術発展に照応する人間の 創造力の増大を認めえない反動的精神のあらわ れとみなしえる. まさに自然科学教育の貧困を物 語るものである, 科学の本質に 「予見」 を内在させていることによっ て, 科学の存 在様式に有効性をもちえるな 2 9 ) 現代は冷静に 「高度に発達した大工業の時 らば, 現状の科学にしてなお 「半科学でさえない」. 代」 と 呼 ぶ べ き で あ っ て,. マ ル ク ス の 時 代 お よ び マ ル ク ス が 予 見 し た 時 代 の 域 を 何 ら超 え る も の. ではない. 更に科学・技術革命の連続性のうちに現在の科学・技術の飛躍的発展をみるのでなけ ればならない. 科学と同様に教育もまた 「予見」 のうちになり立っ ているのであるから, 自然科学教育は人類 の生存様式を決定するものといって過言ではないであろう, いままで, 自然科学教育目的論の展開のために, その基礎となる, 科学と教育とをそれぞれど う おさ え る か に つ い て 述 べ て き た, -163-.

(10) . Vo l . 21 No ,2. ido Uni i lof Hokka i i t t journa on I C) on (Sec vers y of Bducaヒ. Feb . ,1971. そこで, 自然科学教育の目的を論ずる, あるいは理科教育学を樹立するといっ ても, 「例えば生 物学と化学との境界領域である生化学と同様に, 理科教育学は自然科学と教育科学との境界領域 3の とする場合, 生物学や化学は, その対象がともに物質であり, 物質の運動形態として である」 1 ) の中にあって多様ではあるがより本質的な物質の運 3 の概念であり, 生化学が 「自然の階層性」 動形態にせまろうとするものであるという, 自然科学の分化綜合の必然的帰結であることを忘れ て は な らな い で あ ろ う.. 先に自然科学教育目的論は, 理科教育目標論を実体的規定とおさえるのに対し, 本質的規定と おさえなけ ればならないと提言したが, 自然科学教育の基礎になっ ている自然科学および教育を, 観念としてではなく, 人間の生存条件である労働の一過程そのものとしてとらえることによって のみ, 自然科学教育の目的論は意味をもっと考えられるのである, 2 )「どうすれば科学の繁栄と バ ナールは 『歴史における科学』 に費した努力が意義をも つのは,3 生長を力 づ けることができるのか?, どうすれば科学の諸成果を人類の利益のために最もよく利 用することができるのか?」 の二つの間に対する答えをみいだす助けになることのみである, と い っ て い る, こ の 一 つ の 間 は,. 主体を 自然科学 において 発せ られた間で あるといっ てよい で あろ. う. 一方教育一般の主体から, どうすれば個人・民族・人類の生存と人格のより開花していく 不 断の生長を力 づけることができるのか?, どうすれば人間が自然を統制し, 社会の進歩と前進を ・学教育は, めざし, よっ て人間自身の自由を獲得できるのか?の間が発せられるであろう, 自然料 この自然科学と教育からの間を全面的に受けて構築されるものである。 すなわち, 自然科学教育 は, マルク スのいう 「人間についての科学が自然科学を自分のうちに包みこむのと 同様に, 自然 科学は後には人間についての科学を包みこむ であろう. すなわち一つの科学が存在することにな 4 3 ) が形成されるために, 意識的であっ 3 3 ) ために, 同時に 「全面的に発達した個人」 るであろう」 て, 決定的な必要条件でなけ ればならない, 以上の観点に立っ て, 自然科学教育の目的とするところをあげる. l-1 であげたように, 自然科学が, 科学的労働によっ て獲得された発見は①摩滅せず②投 1) n じられた費用をうわまわる富をもたらし ③他の人間が新たに発見する必要がなく 無償となり ④生 産力の 一 つとして時代をこ えて継承され蓄積されるところの, 「普遍的生産力」 であるがために, 自然科学教育をして科学の成果は確実に 世代から世代へ伝承さ れなければならない. よく 自然料ノ学の理論は変わりうるものであるから, 「科学的」 な探究の過程を学 ばせることのみ が 科学教育 であるとする考えがみうけられるが, このような考えは不可知論におちいるものであ る. 科学の累積的発展は, 過去の科学の成果が廃棄されることを意味するものではなく, 武谷三 3 5 ) の過程を踏みつつ 弁証法的に累積されていく 発展である. 男が明らかにしたように 「三段階論」 叉科学が普遍的生産力として直接的生産過程の中に生きて物質化されればされるほど, 認識対象 の自然はより人間の前に開かれて新たな科学の発見は促進される. すなわち弁証法的に累積され て革命的になる. 自然科学教育は, 生産力である科学が (それが将来止揚されうるものであって も) , より一層新たな 生産力に高まっ て社会的富を豊かにし人間を自然から解放するという意味で 重視さ れなければならないのである, 更にここでの べているような自然科学教育の目的は, 専門家養成のそれであって, 理科教育の 目的にはならないと異論をはさむ人があるかも知れないが, すべて国民大衆はなんらかの形で生 産過程に参加して労働行為を営むのであるし, 叉家庭生活にしてもそれが労働力の再生産過程の 一つであることを考えれば, 国民大衆にとっ ての自然科学教育は, それによっ て正確な判断を可 -1 64-.

(11) . 第 21 巻 第 2号. 北海道教育大学紀要 (第一部C). 昭和46年2月. 能にし, 生産を維持しまた一層高めるにふさわしい労働能力を形成するだけでなく, 社会的生産 力を維持し発展させるために不可欠なことである, 今後誰しも か普遍的生産力である科学を学ん で積極的に社会の発展に関与していかなければならない役割を歴 史的にもたされるように な る, 2) 普通 「科学的能力」 といわれるような, 合理的・実証的・弁証法的な科学の方法論は, 科 学的労働過程のなかでえられた, 客観的実在を認識す るための最も無駄のない生産的な思惟と行 動の在り方である. と こ ろ で, な ん らの 教 育 も 受 け て い な い 人 間 は,. そ の 人 間 を と り まく す べ て の も の に 依 存 す る. こととなるのであるが, 今日のように人間の関係する対象や事象 が多面的になっ てく るなかで, 人間が自主・独立の存在たりえるためには, 応用のきく 基本的な思惟と行動の能力 が必要とされ てく ることはいうまでもない, そのような人間の精神的能力は, 他の人間や, 人間にとっての自 然を通じてのみ, その実現を見いだすことができるのであり, また同時に有効性をもちえるので あるか ら, 自然科学の方法論そのものが, 自己認識と自己の行動についての科学となりえるので ある. 科学と同様に教育もまた労働の一過程である から, 自らについての自然的科学すなわち自 己認識と行動を形成するための有力 な一手段である. このような自然科学教育の目的は, いわゆる形式陶冶としての教育作用であるともいえるが, あくまでも自然科学の法則や理論体系を導く過程のなかでのみ形成される 精神的能力 であっ て, 科学の発見の喜 びや科学の成果に対する信頼をともなわ ないような 形式論理を意味 するものでは ない, ともすればみられる, 自然科学の概念を無視して, 形式的に科学の方法を教えこむ操作主 義的 傾向は, それ自体つめこみ教育のそしりをまぬがれないものである. 教育が労働の一過程で あることの軽視からはここでいう生産的科学的 な思惟と行動の能力は 生まれて こないであろう, 更に関連して, 科学的自然観 (世界観) の形成を自然科学教育の目的としなけ ればならない. 人間が自主・独立の存在たりえるためには, 前述した奉ト学的思}惟と行動の能力を必要とすること と, 科学的自然観を必要とす ることとは 一体のものでなければならない. 科学的自然観とは, 体系立った自然の存在をどのようにみるか, 自然はどのような統 一性のう ちになり立っ ているのかに答えるもので, 物質的世界の普遍的な存在諸形態をいう, この科学的 自然観を科学における思想ともいう, 科学的自然観を身につけるということがなぜ人間 の自主・独立の存在様式を 決めるかに つい て は, あえて多くの説明を必要としないであろう. かつては神の行為によっ て世界を統一してきた が, それがどれだけ神の栄光の下に人間を奴隷化させてきたかをみれば明らかである, 叉逆に現 代においては, 組織や集団が個人の人格を抑制する現象だけをとらえて, 組織や集団の絶対的否 定を主張する個人主義や実存主義が多くみうけられるが, これは集団力を否定し, 同時に個人の 能力そのものをも否定するものであっ て, 科学的自然観と無縁のところに人間をおくものに他な らない, 前述したことを繰り返すが, 人間の精神的能力は, 他の人間や人間にとっ ての自然を通 じてのみ, その実現をみいだし有効性をもちえるのである. 「自然世界の現実の統 一性はそれらの 6 3 ) にあるのであっ て. 「人間の肉体的および精神的生活が自然と連関しているということ 物質性」 は,自然が自然自身と連関してい るということ以外のなにごとも意味しない, というのは人間は自 3 7 ) 自然観にうらづけられた科学的思惟と行動の能力の形成が自然科学教 然の一部だからである. 」 育の目的となることは, いいかえれば, 精神によっ て世界を再現さ′れた最も本質的な人格を形成 す る こ と で あ っ て, ま さ に 神 の 栄 光 で は な く 人 間 の 栄 光 を た た え る も の に 他 な らな い,. は, 科学を労働として規定しえないならば容易に理解されないことである, -1 65-. こ のこ と.

(12) . vol .21 N0 ,2. i i i l 。f Hokka ido Uni on (sec Journa t t t s on IC) ver y of Educa. Feb . ,1971. 3) 自然科学が 科学的労働の組織的過程を強めながらえられた 普遍的富 であるので あるから, 科学が自然科学教育の労働過程のなかで集団的に認識されていくならば, 人間関係において主観 的な排外主義, 権威主義, 差別意識は一切無縁の観念となり, 人間相互の信頼と団結が養われる こ と と な る.. この自然科学教育の有効性は, ラ ンジュ バ ソも強調するように 「あらゆる見地からして, 知的 3の であり, 叉, 日本国憲法および教育 にも物質的にも道徳的にも人間相互の接近の本質的要因」 基本法でいうところの 「世界の平和と人類の福祉に貢献する」 有力な 「教育の力」 である, 更に, 人間相互の信頼と団結を伴っ てえられた万人が近づきえる思想, 万人が利用できる行動 の手段としての普遍的な富である科学は, もはや 「自分自身のうちに不完全さを感じない科学」 , 盲目的に信頼のおかれる科学, 誇大評価される科学, 人間との敵 対関係にある科学としてではな く, 国民大衆の手にある科学ならば科学をよりすばらしいものに発展させていける自覚をうなが すだろう. ここでの目的は, 知識や能力として得られるというよりも, 学習労働の組織的・集団 的過程のなかで形成される価値観といえよう. 4) 更に自然科学教育が, 自然科学そのものにより積極的な役割としてはたらく点が指摘でき る.. 自然科学は自治的かつ閉鎖的境域への発展を求めるのではなく, 増々多くの 「科学者」 と科学 的・技術的能力をもっ た労働者によるところの科学的労働集団 (実験工場) を不可欠とす る し, 3 9 ) という -- 人類社会が現在きわめて活発におこなっ ている物質やエネ ル また 「社会地球化学」 ギーの質的・量的変化, 移動循環の法則を明らかにするために, 地球を人的自然も含めて一つの 物質系とする科学-- 新分野の登場や, 農業, 水産業にしてさえ高度な科学のえいきょうなしに はおこなわれない現状など, 科学がますます生産力として物質化されるにともない, 国民大衆と の意識的叉無意識的接触が つよまっ てくることはさけられない. すなわち科学における認識の発 展・拡大・深化の過程は大衆的に一層その外延をひろげられざるをえなくなり, 自然科学の労働 過程にはますます多くの労働者の意志や経験がはたらき, その組織的過程は民主的にならざるを え な い.. このような科学の本来的発展を意識的にうながせば, それだけ科学の新しい発見は可能となる だろう. この意識的にうながすものとして自然科学教育がなければならない. このような科学の労働過程を重視したものに, 地学団体研究会の科学運動がある. この会が著 した 『科学運動』 にこの点をふれた次のような実践にもとづ く見解が披れきされている. 奮う大な経験と, 科ノ学者 「労働者と科学者・技術者のあいだの深い溝をうずめて, 労働者のを ・技術者の仕事とをむすびつけて, はじめてゆたかな生活建設のための正しい科学の発展が期 待されよう. 科学者の研究団体として発足した地団研が, 自然科学の正しい方法論を確立するための運動 を蓄積する過程で, 組織の対象は学生・教師 (市民) ・労働者・農民へとしだいにひろがっ て きた, すなわち地団研の組織は自然料ノ学にたいする接触率の濃淡の順に同心円的な階層区分を もっ ているということができる. このことは, また, 実際に自然科学を推進する働き手の向心 的な分布をしめす反面, 自然科学を推進するポテンシャ ルが離心的な方位でたかくなっ ている ことを物語る, 」 (傍点 : 筆者) ここで指摘する自然科学教育の役割は, その普及活動として, 学校教育だけでなく国民大衆に そうすることによ って, 自然科学教育は科学の労働過程を 向けておこなわれなければならない, Z -1 66-.

(13) . 第 21 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要 (第一部C). 昭和4 6年2月. 容易にしか つ促進する機能をはたしえる. 5) 以上のことと関連するが, 自然科学教育は, 科学の疎外された形態をとり除 くように立ち むかう人間を形成するし, そうしなければならない. 科学が人類共有の財産であり, 無償となるのであるから, 自然と同じく私有されるものではな い. 科学の私有にともなう疎外された形態 (その最たるものは戦争兵器としてあらわれるが, 研 究の自由の拘束か ら, いわゆる科学・技術による 「人間疎外」 の情況まで多面的である) に対し て, 単なる批判ではなく労働力の生きた証しとしての実践的批判によっ て立ちむかう人間を形成 する. このことはただ単に直接的政治活動をもっ て科学の疎外された形態を とりのぞく ことだけを意 味するものではない. たしかに, 国民大衆の政治的要求の中に科学に対する要求がくみこまれて, 自然科学の社会的現実を是正するように政治を変革することは極めて重要なことである, だがそ れでは 科学をよく 理解している専門家であればあるほどそれだけ政治的判断 ・行動が科学の 疎 外 された形態に批判的にはたらく かといえばそうではない. かえっ て全く 逆に, 科学の専門家は政 治的, 社会的行動に無関心であることが美徳とされるという風潮もまた根強く 存在しているので ある. 「科学者は本質的に, 現代社会における特 殊の訓練をうけた人びとのなかで, おそらく は最 も利用されやすく 調整されやすいたぐいであろう, ナチスはなるほどかなり多数の大学教授を免 職しかなり多数の科学者を研究所から追放 した, しかしながら, 考えかたがよりげんみつである 4 1 ) かつての情況がなおゆるされるような事熊は はずの自然科学系統の者は比較的少数で あった」 現 存 してい る,. こ の こ と じた い が 科 学 の 疎 外 さ れ た 形 態 と い っ て よ い の で あ る. こ の よ う な 科 学. の疎外された形態は, ただ政治 (政策) や制度がよく なれば, あるいは科学者に社会的意識がつ け加えられさえすれば解消するものではない, 科学の本質的形態をとりもどすための決め手は単 に制度等ではなく, 国民大衆の中にどれほど自然科学教育が浸透しているかにかかっている. 例 えば今日公害問題が社会問題となっ ているが, 被害者である国民大衆は, その責任を行政と企業 へ向けなければならないのは当然としても, 一 歩進んで科学者や科学の機関や制度へ向けられる ことは少ない. 公害をなく するためには政治による科学の導きが 必要であるが, 基本的には, 国 民大衆の期待と勇気 づけに支えられた科学的労働そのものによっ て可能となる. ガリ レイ が宗教裁判による訊問と禁固の中にあっ て, 地動説を曲げなかったことはあまりにも 有名であり, 科学が権力の支配に屈することなく たたかうことがいかに大事であるかを教えるも ) ガリ レイの時代的制約をうけた自己中心主義の姿勢およ 2 のである. だがここで, 菅井準一が.4 び社会的諸問題に当面するときに犯した過誤を愛情をもって 批判しその欠陥を 明らかに しなけれ ばならないとして援用している, 作家 ゴーリキの言葉 「歴史は個々人の自由のための闘 争が効果 のないことを完全に証明した」 は, 自然科学教育の目的 の中に生かされなければならないと考え る. ガリレイ の苦痛を今後とも必要としなければならないということは正しく ない. 国家大衆に 支えられてこそ科学はその普遍性を発揚できるのである, そのために自然科学教育は主要な力と な り う る の で あ る.. 以上自然科学教育の目的をあげたが, 筆者は決して, 自然科学教育万能を唱えるものではない, たまたま手にした大正時代の一書物 例 の中に 「理科を直接実用の学と為すは誤れり」 「普通教育 に於ける学門の中枢は宣しく 理科たるべく して, 文学, 美術等の諸学科は只単に補助的教科とし て之を課し, 理科学習の倦怠を慰め, 兼ねて感情を和げ以っ て情操教育に資せしむれば足れり」 一1 67-.

(14) . Vo l .2 .21 No. ion IC) i i ido Un i on (Sect lof Hokka t s Journa ver y of Bducat. Feb , ,1971. 4 ) が 述 べ る よ う に, 二 つ の 文 化 と す る 見 解 に と ま ど い な が らも 傾 き か け る 気 持 を 正 し て, ス ノ ー4. の ギャッ プをおぎなうた めの教育全般の作用に期待をかけるところであり, 特に自然科学教育が 積極的にそ の任を負えるものと考えている. V, 結. 語. 5 )も 「昭和41年9 月 の 政府・文部省が推進する目的観に 「期待される人間 像」 がある, 吉本市4 がやはり広く 存在する事実には変わりはな 最終報告では撤回さ れたが, しかしこのような考え方 いであろう」 と指摘しているように, 昭和40年1月の中間草案の序論を無視することはできない. すなわち, そ こでいうところは, 自然科学や技術とい うものが, 人間を機械化し, 動物的享楽を 追う動物の一種とさせ, 人間性の喪失を招く, 日本の工業化が人間能力の開発を要求しているの でそれに答えなけ ればならないが, それによっ ておこる人間性の喪失を道徳 や宗教的情操など, いわゆる東の精神によって回復し形成されなければならない, としている. 自然科学教育の目的論を軽視したり, 不可知なものにす るな らば, 上記のような疎外された科 学を必要悪として肯定する観点によって, 法的にかつ行政的におそっ てく る理科教育の支配に, いっ たい教育の主体 からどのような対応が可能といえるのであろうか. 自然科学教育の目的論は, 今後多く の人による研究と議論が必要とされるし, 実践的・実証的 研究の蓄積も 一層期待される. その場合, 単に小・中学校の教育の過程にだけ目をむけるのでは なく, 労働者や市民が科 学と科学の影響に どのようにかかわってい るかの現状 分析にもと づく研 究が重要である. そのこと が理科教育においても, 正しく自然科学教育の目的を基底とする目標 および内容の確立を可 能にするであろう. 自然科学の現代社会に与える影響はめざましく, 今後増々, 指数関数的発展を示して, 人間社 ・学が方法論的にもしっ かりした基礎を確 会の様相を変化させていくであろう. しかしながら, 科 7世紀以後のことであって, 科学そのものに人間の意志をはたらかせるようになって 立したのは1 まだ歴史は浅い, ましてや, わ れわれは今日, 自然科学教育が公教育の中にあって必須の地位を 占めた時代の始まりにいるにすぎない. 自然科学教育は未知の可能性を秘めているといっ てよい, このことを考えると 自然科学教育はきわめてすばらしい人間社会のために有効性をもちえて 計 り しれないものとなろう し, 自然科学教育の目的論をして, その確信とならなけ ればならないと思 わ れ る の で あ る.. 終りにあたり, ご校閲をいただいた本大学教育学教室広川正治教授, ならびに ご助言をいただ. いた北海道大学応用電気研究所荒川滋助教授, 本大学岩見沢分校桑山弥寿男助教授に厚く情謝申 し上げる. (註) 70年1月30日, 1) 日本教育大学協会・研究促進に関する特別委員会報告, 19 69 2) 教員養成大学学部教官研究集会理科部会:理科教育の研究, p .3 , 19 . 東洋館 誠信書房 育問題論争 1 9 5 8 戦後教 ; 高橋金三郎 :「理科教育論争」 3) 真船和夫;「理科教育をめ ぐって」 , , . , 現代教育科学, No .69 , 71 , 1964 . 明治図書 ,70 62 4) 真船和夫:理科教授論, 19 , 明治図書 l 1 1 1 1 2 3 5) 理科教室, Vo , , , , 国土社, の指導要領批判の特集 6) 永田義夫・他:改訂中学校学習指導要領の展開 (理科編) ,29 ,p , 1969 . 明治図書 目標 1 0 岩波書店 「 現代教育学 」 科学教育の役割と 田中実・富山小太郎: 7) , , 67 8) 吉本市: 「理科教育の目的観について」 , , 東京教育大学教育学部紀要, 第13巻, 19 64 7; 嶋田治:理科教育法概論, pp 9) 教員養成大学学部教官研究集会理科部会:前掲, p ,5~6 .4 ,東洋 ,19 一1 68--.

(15) . 第 21 巻 第. 2号. 北海道教育大学紀要 (第一部C). 昭和46年2月. 館 10) 例えば, 中原正木:科学をこう教える, p ,10 , 1965 , 国土社 1 1 ) 板倉聖宣:日本科学技術史大系, 第9巻, 第一章, 1 96 5 , 第一 法規 12) 蒲生英男:日本理科教育小史, p 6 969 ,8 ,1 , 国土社 13 ) 田中実・ ●富山小太郎:前掲, p .3 , 1 4 ) 「科学は一人立ちして長く たっていない. 将来, 科学的知識と科学的方法が全社会生活に浸透し, その結 果科学が再びは っきりと区別のつく存在でなくなってもよいであろう, 」 (J, D パナール 「歴史における科 学」p ,5 , みすず書房) 1 5) 「科学ではあっても, 人間的労働のこの偉大な部分をお上品に捨象する科学, 人間的活動のこのように広 汎に展開された富が, 『必要』 , 『凡俗な必要』 などと一言でかたづけられること以外になにごともこの科学 に語りかけない限り, 自分自身のうちに自分の不完全さを感じない科学について, いったいわれわれはなん と考えるべきであろう」 (マルクス: 「経済学哲学草稿」 p .142 , 岩波文庫) 16) J, D バナール:前掲, p ,23~24参照 1 7) 芝田進午: 「科学労働論」 960 , 経済評論, 第9巻, 6・7・8 号, 1 . 日本評論社 現代の精神労働, 19 62 , 三一書房 18 ) 芝田進午: 「科学・技術革命の理論」 71 72 63 , 思想, No ,4 ,4 , 19 , 岩波書店 19 ) マルクス :資本論, 第一巻, 第一部, 第三篇, 第五章, 第一節, 大月書店版 20 ) エス・ ゲ・スミルトソ:「科学と生産力の発展」 5年版, 1 9 56 , 現代ソヴェト哲学 (哲学の諸問題訳) , 195 , 大月書店 21 ) 芝田進午: 「科学・技術革命の理論・再論」 4 , 思想, No ,543 , 54 , 1969 , 岩波書店 22 ) 「人間は労働をつうじて たんなる 『自然力』 から 『労働力』 を, すなわち肉体的および精神的諸能力の総 計を発展させ, 人格を形成するが, ひとたび形成された人格は, 労働力の外化によってみずからを実現し, 労働においてふたたびみずからを実証する.」(芝田進午:現代の精神的労働, p ) 72 .2 23 ) 小松周吉:別冊現代教育科学, No 64 ,2 ,19 , 明治図書 2 4 ) 「教育研究の視角の多様性は他にその比をみない」(市川昭午:前掲・戦後教育問題論争, p 70 ) ,2 2 5) 船山謙次:戦後日本教育論争史, 19 58 , 東洋館 2 6) 広岡亮蔵:現代教育科学, No 963 ,63 ,13 ,p ,1 , 明治図書 7) 大橋精夫:別冊現代教育科学, No 2 9 64 ,2 ,1 , 明治図書 2 8) 金子ハルオ: 「生産的労働と国民所得」 69年10月, 日本評論社 , 経済評論, 19 2 9) J, D, バナール:前掲書, p ,9 , 30) 教員養成大学学部教官研究集会理科部会:前掲書, p ,12 , 1) 岩崎允胤・宮原将平: 「物質の運動諸形態と自然の階層性」 3 968年11月, 岩波書店 , 思想, 1 32 ) J. D, バ ナ ール :前 掲 書, p,775, 33 ) マルクス:前掲・経済学哲学草稿, p 43 .1 . 3 4) 「一つの社会的細部機能の担い手にすぎない部分個人の代わりに, 種々の社会的機能を自分の種々の活動 様式と してかわるがわる行なうような全体 (面) 的に発達した個人」(マルクス:資本論, 第一巻, 第一部, 第十三章, 第九節, 大月版) 35) 武谷三男:弁証法の諸問題, 19 4 6 , 理論社 3 6) エ ンゲルス:反デューリング論, p .89 , 大月文庫 3 7) マルクス:前掲・経済学哲学草稿, p 43 ,1 . 38) ランジュバン:科学教育論, p 1 9 7 ,134 , 6 , 明治図書 3 9) 半谷高久:社会地球化学, 19 6 6 , 紀伊国屋新書 ) 地学団体研究会:科学運動, p 40 6 6 .43 , 19 , 築地書館 41) J, D, バナール:科学の社会的機能・第一部, p 50 51 ,3 , 18 , 創元社 1 42 ) 菅井準一 :ガリレイ, p 9 50 ,14 ,1 , 弘文堂 43) 山内繁雄・三宅駿一・菅野皆可:応用理科資料集成・下巻, p 4 :1 , 191 , 鐘美堂書店 ) C. P, スノー: 「二つの文化と科学革命」 44 59 , みすず, No .9 , 10 , 19 . みすず書房 5) 吉本市:前掲 4. -169-.

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