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モンゴル王朝期の怯憐口に関する覚書

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Academic year: 2021

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(1)Title. モンゴル王朝期の怯憐口に関する覚書. Author(s). 海老沢, 哲雄. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. B, 社会科学編, 20(1): 47-61. Issue Date. 1969-07. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4354. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第 20 巻 第 1 号. 昭和44年7月. 北海道教育大学紀要 (第一部B). モン ゴル王朝期の怯憐口に関する覚書 海. 老. 沢. 哲. 雄. 北海道教育大学函館分校史学研究室. Tetsuo 主1 エ8△、V△; ! N( 七e oi ‐”α7 ‘ 2ゐoz . the q〆e ; ). in the DdongoIPer i od. l,. は. じ. め. に. 1 ) は, 吏学指南に 「自家人」 と説明され, 高麗史に 「私属人」 と註釈されて -陰隣口 (怯怜口) いることばで, 元史その他にしばしば見 える, わが国では早くから関心が寄せられ, 今日にいた るまで, その意義について多くの説 か公けにされてきた, この時期の社会構造を考える上に, 是 非とも明かに しておかなければならない基礎的な問題である が, 未だ十分な解明を見るにいたっ て い な い. 今 日 にい た る ま で の 主要 な 説 を あ げ て お こ●う, imt in (家 の 人, 家 の 子, 郎 【 i 箭内亘説. 怯燐口は, 高麗史に見える怯怜口と同じく, ger - n kt 党) というモ ンゴル語の音訳 したものとする, そ して 「管領本位下怯憐口随路諸色民匠打捕鷹房 都総管府」 のごとき官府が中宮等に所属 していることに注目され, 諸王貴戚功臣等の分地の住民. の一部 (上の例についていえば, 諸色の民匠や打指 す鷹房戸) を指すことは, 疑いないようである ) 2 と指摘された. 池内宏説. 「管領怯憐ロ怯藷官」 という官職があることなどから, 怯憐口をもっ てカガンに近 [ 侍する親衛隊であるケシクの執事官の一つであると解された, また, 元朝秘史に見える 格倫可フ. 傷. in k6gdd (家 の 子 ら の 意) も, ケ シ ク の 執 事 官 の 一 つ で あ る と さ れ た, そ して 怯 憐 口 は, ger‐(. 3 ) この格倫可冗幌に相当 し, 義訳すれば, 日本の舎人であると説かれた, in k 【 d) を音訳 したものとす 【 in k 6g { ~gt in (pl t i ‐ 白 鳥 庫 吉説. 怯 憐 口 は, 元 朝 秘 史 の ger .ger- る, モ ン ゴ ル 語 g r(家の意) の生格は, 本来 ger-nn で あ る が, -in の 形 も ある か ら, ger-in e in の g の 音 は, 微 弱 で あ る か ら, でも正 しく, 怯憐口の怯憐は, その対音である, また k6gt i と も なる, ′法隣 口 の 口 k欲in のごとく聞こえ, 名詞末尾の ‐ n は, 省 略 し得 る か ら, k6gu, ko【. t i 6g t i(k6 は, こ の k ) の対音である, かくて両語の対応は, 言語学的に確認されようと述べ られ ) 4 た, 小林高四郎説, 上の白鳥説に対し, 一層厳密な言語学的検討を加えられ, 次のように批判され た, 一 つには, 当時の 「怯」 は ke を 写 して も, ge を 写 す こ と は な い. 一 一 つ に は, 憐 ・ 怜 に つ いて, 口語では生格が ger-in と変化するから, 口語型から写したとすれば許容されるが, 文語 t in のみである, それを怯燐と音写したとは考えられな ‐ 型生格には ger-in と い う 型 は な く,ger in を口と写したとするのも,ややあ t i と 発 音 さ れ た こ と は なく,k6gt in が kる い. 三 つ に は, k6gt 去憐口は いまい, 不適切である, 以上の三点から, 「 - 47 -. in ger-nn k6gt. を音写 したものとする説は.

(3) . 海 老. 沢. 哲. 雄. 認容しがたいとされた, さらに, 怯憐口の用例を挙げ, 法辞官であり, 投下 (諸王・功臣) , 行省 最後に 怯憐口が工芸に携わる例が多い点から 強いて解 どを指摘された の住民である ことな , , . 釈すれ ば, 昔宝赤 (養鷹人) や必閣赤 (書記) のごとく, 何らかのある職業を示す語ではないか ) と 臆 測 さ れ る と 述 べ られ た の で あ る.5. 村上正二説, 戦争捕虜で諸 侯・部将の領民にされたものが怯憐口であるとされた. 怯憐口の口 1 a は漢語であり, 怯憐は, 奴隷・捕虜の意をもつカルムック語の keln, ク リ ム 語 の k6 , 西 部 トル l ゴ と指摘された l 語 の e k あるまいか x a 東 部 モ ン ル 等に当るものでは ma コ語の , . また, そ , の後の論文では, 主家に住みついて, 馬飼・羊飼等に使役される家内奴隷が 「怯憐口 (ger‐un 6 ) kumn l l)」 と 呼 ば れ た も の で は なか っ た か, と も 述 べ ら れ て い る,. 岡本敬二説. 怯憐口を怯憐と口に分け, 前者を外来語,後者を漢語とされた,ついで高麗史およ び元史女宗紀の一節に見える怯憐口の用例から, 怯憐口を勝臣 (陪嫁 者, 従嫁者, 花嫁に従って 雑役に従事するもの) であると解された, さらに鳥丹城碑文の一つ, 張氏先塾碑をはじめて利用 された. その碑文は, 同一の内容が漢文と モン ゴル文で記されているものである, その碑文で, 勝臣である張 氏の官職が 「怯怜口都総管」 であること, 怯憐口と勝人とが モン ゴル女ではともに id (家 の 子 ら の 意) と い う 同 一 の こ とを で訳されていることに注目され, 怯憐口 { in k6begt ger- k6begnd=勝臣=勝人という結論を導き出 された, そ して怯憐の語源については, ト ) l i n に 求 め ら れ た.7 ル コ語で嫁を意味 し, 突厭碑文にまで遡及 し得る ke t in = ger‐. 以上の諸説によると,-法憐口は, あるいは諸王等の領民であり, あるいはケ シクの執事官であ り, あるいは家内奴隷であり, あるいは何らかの職業に従うものであり, あるいは勝臣であると いう, このように 様々に解釈されている, いずれの説も, それぞれ 一定 の論拠を有 し, 傾聴す べ きものを含んでいる, しか し, いずれの説も, 法隣口の諸用例中, 限られた範囲については妥当 するが, そ れを以っ て諸用例を統一的に説明することが困難である, この小論は, 先学の諸説を 参照 しつつ, 怯憐口の用例を数種に分け, ついでその数種の中に怯憐口の原型に近い も の を 求 め, それを手がかりに し, 果 して怯憐口を統一的に説明することが できないものかどうか試みた も の で あ る.. 註 1) 引用する史料のほかは, すべて怯隣口と記すことにする. 13頁)192 0年. 2) 箭内亘 「元朝幹耳柴考」 (蒙古史研究, 7 29年. 3) 池内宏 「元の怯怜口」 (史学雑誌40編7号, 96-98頁)19 4 9 29年, ) 白島庫吉 「高麗史に見えたろ蒙古語の解釈」(東洋学報18巻2号)1 社会経済史学7巻 1 2 号 9 3 8年. 5) 小林高四郎 「元の怯憐口に就い ての疑 」( )1 , 4 三 チンギス汗帝国成立の 43 1 1頁)19 6 ) 村上正二 「元朝兵制史に於ける奥魯の制度」(東洋学報30巻3号、3 1 51年. 過程」(歴史学研究154号, 16頁)19 7) 岡本敬二 「元 の1熱令ロと膜臣」(東京教育大学東洋史学論集1)1953年,. 2 , 怯 憐 口 の 用 例 怯憐口がこれまでいろいろに解釈されてきたことは, 前述の通りである. そこからも怯憐口が う. ここでは, その諸用 例を次の5種に分 決 して一義的な内容のものではないことが察せられよ・ け る こ と に す る.. A. ケシク下にある従属民の一種と考えられる場合. ケ シク (ke蓉氷, 怯藷, 恩寵の意) は, ケシ i l tei ク ティ (keき 〈 , 怯 藷 夢) と も い い, 宿 衛 と 婆 訳 さ れ る こ と が 多 い. カ ガ ン 君 主 あ る い は そ の. 一族である諸王の近侍の親衛隊であり, その身辺にあっ て警備をはじめ諸種の 奉仕を行なう. - 48 -.

(4) . モンゴル王朝野 Jの1 去憐ロに関する覚書. 法憐ロ怯藷官. ………大父合刺, 忠勇有節操, 明見遠略, 幼 ”) 曽大父貴格, 宿衛大祖, 為管領′ 侍春宗皇帝, 襲父職, 為怯憐ロ怯繭官, (危大撰文続集7, 故栄 禄大夫江制等処行中書省平章政事月 魯帖木児公行状) 安蘇官, 元暦元年, 襲授成製提挙司達魯花赤, に ) 脱脱……年十五, 為皇太子 怯憐ロチ (元 史138, 馬 札 児 台). 法憐口一万二百四十六錠, ◎ 〔賜〕 皇子南木合怯藷帯・′. (元史13 , 至元21年 6月甲戊). 回 〔至元〕 二十八年, 以去歳蝿霜害稼, 賑宿衛士・怯憐口糠二月, ……三十一年, 復賑宿術士・ 怯 憐 口糠 三月,. (元 史96, 食 貸 志, 賑 樋). ”)の貴 格 は, 大 祖 チ ンギ ス = カ ソの 宿 衛 = ケ シ ク に 入 っ て 怯 憐 口 を 管 す る 官 と な っ た. そ の 子 の 合刺 も, 春 宗 ト ゥ ルイ の ケ シク で, や は り 怯 憐 口 の 官 に な っ た と い う, 回 の 怯 憐 ロ 怯 藷 官 も,. ”)とは時代が隔た っているが, 同じ種類の官に違いない, ケシクの人員のなかに怯憐口を管掌 する官があっ たことが知られる. また内・杓からも, 怯憐口が宿衛士すなわちケ シクの人員の ) 下 に あ っ た こ と が 察 せ ら れ る.1. 的. 中書省・枢密院・御史台言 「臣等比奉旨, 裁省衛士, 今定, 大内四宿術之士, 毎宿衛不遇四 百人. 累朝宿衛之士, 各不過二百人, 鷹坊万四千二十四人, 当減者四千人, 内饗九百九十人, 四怯辞当留者各百人, 累朝旧邸宮分饗人三千二百二十四人. 当留者千一百二十人, 勝臣怯隣口 共万人, 当留者六千人, 其汰去者, 斥帰本部, 著籍応役.自裁省之後, 各宿衛復有容匿漢・南・ 高麗人及奴隷濫充者, 怯藷官与其長, 杖五十七, 犯者与典給散者, 皆杖七十七. 没家質之半, (元史34 以籍入之半, 為告者賞. 傷令監察御史察之」, 制可, , 至順元年8月 壬申) 大徳七年二月 二十四日, 中書省奏 「四怯藷裏, 怯藷哀人数明白有, 近年以来, 内 外城子裏的百姓内, 回回・畏冗児・漢児・蛮子人等, 投充昔宝赤・阿察赤・怯怜口各枝児 裏, 弁諸王・鮒馬・公主・妃子位下投入去了的 多有. 「倣了′ 法蒔ダ也」 慶道, 支請銭根・馬疋草料.. ㈹. 分間怯蒔. 8 此上, 多費耗了′ (通制条 格2 係官銭糠有. ……」 奏吋, 奉聖旨…… , 1裏) 元朝時代, 漢人や南人が君主の近侍集団ケシクに投じ, 経費がかさむので, 度々人員の削減が 企てられた, 上の鮒・㈹はいずれも その削減に関する法令である. 鮒では怯憐口は鷹坊や麗人等 と 共 に 術 士 に 含 ま れ て い る, 衛 士 は, ケ シク の 人 員 で あ る か ら, 怯 隣 口 等 も, ケ シク の 人 員 で あ る と い える. しか し, ケ ツ ク 本 来 の 人 員 は, 君 主 の 恩 寵 を 受 け, 将 来, 官 人 と な る べ き モ ン ゴ ル・. 色目官人の子弟である, 鮒の 「四宿衛の土」 や 「累朝の宿衛の土」 は, このケシク本来の人員に よ っ て 構 成 さ れ て い た に 違 い な い, と こ ろ が′法憐 口 等 に つ い て は, そ れ と 同 様 に 考 え る こ と は で. きない, 鮒のごとく, ケシク人員の削減令が出されたのは, 僕人・南人の農民等が税役を忌避し 自ら投じて怯憐口等になり, その数が過大になったからである. そこで, これ以後においても, 鮒の末尾にあるように, 漢人・南人が入り込むのを防止しようとしているのである, ′法隣口集団 の中で, 現実には, 漢人・南人がかなりの比重を占めていたと考えられる. そう した怯憐口の人員 が, 貴族化 したモン ゴル・色目官人の子弟と一体に同等に扱われていたとは考えがたい. 因みに 官 人 の 子 弟が ケ シク に 入 っ て 怯 憐 口 に な っ た と い う 事 例, あ る い は 怯 憐 口 か ら 官 人 に な っ た と い. う事例は, 火児 赤や必闇赤の場合と違っ て皆無といっ てよい. 怯憐口は, たとえ的にあるように 衛 士 に 含 め られ, ま た 内 に あ る よ う に, 自 ら ケ ッ ク テ ィ と 称 して い た に せ よ, い わ ば 下 級 の, あ. るいは第二次的なケシクの構成人員であったというべ きである, ケシク本来の人員とf 芸憐口等と は区別され, 前者の中から後者の監督官が任命されていたのであり, 酌の末尾にある 「怯葬官」 2 ) は, そうした官であると考えられる. - 49 -.

(5) . 海 老. 沢. 哲. 雄. ”)~◎の怯憐口と酌.的のそれとが全く同じ内容であるかどうかについては疑問が残る, 仮に 同じであるとすれば, 怯憐口の場合と同様に, 鷹坊等についても, それを管する怯藷官があっ て しかる べき である が, そ のような事例は見当らない. また同じ仮定に立て ば, 9・仲の場合, 何 故に怯憐口のみ選 ばれて宿衛士と並 べ られているのかという疑問 が生ずる. あるいは”)~㈱の怯 憐口の方 が広義であるのかもしれない. それに してもケ ツク下にある点では共通 している, )(狩猟人・鷹辰) 等の別称あるいはその修飾語である場合, B, 諸官府管下の工匠・打捕鷹房戸3 怯憐口の用例のなかでも, この種のものが最も多い. 法怜口二万九千戸・田方五千余頃, ”) 管領本位下怯怜ロ随路諸色民 匠打 捕鷹房都総管府…… 掌・ (元 史88, 百 官 志, 中 政 院). 出 賦, 以 備 供 奉 営 繕 之 事,. ) 長信寺, 秩正三品,領大斡耳柴怯憐口諸事……法憐口諸色人匠提挙司, 秩従五品. 領大都上都 (元史90 二鉄局弁怯憐人匠, 以材木鉄炭皮貨諸色, 備斡耳柴各枝房帳之需. , 百官志) 1 帳房・郡幕 務 供内府 陳設 及領資成庫議作 的 中尚監, 秩正三品, 掌大斡耳染位下怯憐口諸 , , , 車奥・雨衣之用. ”……・〔至元〕 二十四年, 故置中尚監. 三十年, 分置両都渓河三庫怯憐口難 (元 史90, 百 官 志). 造 等 九 司 局, 而 総 領 之,. 齢は, カガソ (君主) の后妃の私的財政を管掌する中政院所属の官府である, 元朝時代, カガソ の居所であるオル ドは, カガソの段後も后妃たちの居所と して維持され, そこに官府が設置され 4 ) に )の長信寺は, 世祖の殿後, そのオル ドに設置された官府である. 内の ることになっ ていた. 「大斡耳柴」も世祖のオル ドを指すが, 中尚監は, 長信寺と異なり, 世祖時代にその工匠の官府と して設けられ, 世祖以後は, 諸代のカガソのオル ドに手工業製品を供給 した, 回……成宗皇帝即位之始, 以潜邸怯憐口民戸人匠, 無所統属, 立管領随路民匠打補鷹房納綿総管 (危 太 撲 集 4 府. , 矧正司題名記) 的……行拠本投下随路民匠総管府申, 年例五戸総, 於大都関支. 其険西奉元路所設打捕鷹房民匠 総管府, 掌鼓怯隣口戸掘納軍器皮貨物色及河南府路人戸賦税. (永 楽 大 典 靖 赤 6, 延 祐 2 年 正月). 随路諸色人匠都総管府, 秩正三品, 中統五年, 命招集析居・放良・還俗僧道等戸, 習諸色匠 芸, 立管領怯憐口総管府, 以司其造作. ………至治三年, 復改都総管府. (元史89 , 百官志) 諸王沙藍のものである 鮒の官府は した し 中政院下に帰 のちに端正司と改称 回の官府は, , , , . また的は所属 が明かでない, 新たに独立 した析居戸, 奴蝉から解放された放良戸, 還俗 した僧道 5 ) 等を集めて 工匠に仕立てた際, その工匠を管するために設けられた官府である. 元 朝時代, 一般の民戸が路・府・州・県管下に あっ たのに対 し, 工匠や打捕鷹房戸等はそれと 甫鷹房戸等で后妃や諸王等に所属するも は別の官府下に あった. 上にあげた諸官府は, 工匠・打ヰ び1法憐口を管す の名称 に法憐口を含むものおよ こう した官府には上の例のようにそ のを管する. 的. ) な お, そ の 場 合 的 の よ う に, 所 属 の 明 か で な い 官 府 の こ と も る と 説 明 さ れ て い る も の が 多 い,6. あるが, 大部分は, ”)~婦のように, 帝室関係の官府か, 鮒のように帝室の一族・姻族である諸 隣口に関 し, ここでは差 し当り次の二点を確認 しておきたい, 一 王・鮒馬の官府である. B の怯′ つには, 怯憐口と諸色人匠 (諸種の工匠の 意) や打補 鷹房戸等との関係で, 前者の内容が後者で あるのか, それとも全く別個のもので, ”)についていえば, 単に並列的に記されたのかという点 である, 後者に解 し得る場合もある が, 鮒 にあるように, 「怯憐口戸を掌位 し軍器・皮貨の物色 を餅納す」 とあるからには, 怯憐口のなかに, 軍器をつくる工匠や皮貨 (毛皮) をとる打捕戸が 含まれていたと しか考えられない. また怯憐口 が工匠等とは別個の従属民として存在していたと - 50 -.

(6) . モンゴル王朝期 の1 去憐口に関する覚書. 仮定すれば, 回・鮒・N の 官 府 の よ う に, 怯 憐 口 を 管 してU・る は ず で あ る の に, 官 府 名ひ 法憐口 が含まれていないのは, 不自然である. また前掲”)の 「管領本位下怯怜口随路諸色民匠打補鷹房 ′ 都総管府」 は 「 法怜口二万九千戸・田方五千余 頃を掌」 るという. その怯憐口二万九千の内には, 「諸色民匠 ・打補鷹房」 戸が含まれているはずである, 怯燐ロと工匠・打捕鷹房戸等とが別個の ものとは考えがたい, 後者が前者の内容をな していたと見られる. 表現上, 怯憐口は, 譜官府下 の工匠・打捕鷹房戸等の別称またはその修飾語であっ たといえる. 上にあげた諸官府にも” )・回のように その名称 に法憐口を含むものと回・鮒のように含まない ものがあるが, 官府とその所管の工匠等が性格を異にするとは考え られない. 上記のと類似 した 名称の官府で特にその名称にその怯憐口を含まず, 怯憐口を管するという説明のないものは, 帝 室・諸王の場合を問わず枚挙にいとまがない. そう した官府とその工匠等は, 上にあげたものと 果 して異質であるのかどうか, この点を確認しておきたい. 中 政院を例にとると, そこには”)の ように怯憐口を官府名に含むかあるいは怯憐口を管するという説明のある官府もあるが, また次. のような 名称の官府もある, 「管領大部等路打J 甫民匠等戸総管府」 「管領諸路打補脂房民匠等戸 総管府」 等々, その名称にも説明文にも法隣口の文字はない, しかし前記” )と比 べると, 官府名 はやや異なるが, その官府や工匠等の性格に本質的な違いがあるとは到底考えられな い 箭内博 , 士は, 中政院下の官府でその名称 に法憐口が見えないものは, 本来あるべき怯憐ロが省かれたの 7 ) この説の当否はともかく, 官府名における怯憐口の有無はさ したる問題 だと理解 されている, ではない, 換言すれば, 帝室・諸王の工匠等のうち, 特殊な性格のものに限り怯憐口といい, そ の官府名 に法憐口が加えられたのではない, その使い方はルースであったと考え られる , C 公主の近 臣である場合 この種の用例は 特に高麗史・高麗 史節要に見える . , , , 齢 印侯, 本蒙古人. 初名忽刺変. 斉国公主′ 法怜口, 怯怜口, 華言, 私属人也. 与三軒・車古ダ 従 公 主 来. 補 中 郎 将,. (高 麗 史123, 印 侯). に ) 張舜龍, 本回回人, 初名三冊, 父卿事元世祖, 為必閣赤. 舜龍, 以斉国公主怯怜口来 授郎 , 将, ……車信・鹿英, 亦怯怜口也. 信, 初名車忽解, 本国人, 嘗没入手元, 居燕京 其母黄緑 . , 得 乳 公 主, 及 公 主 鷲 降, 遂 為 勝 臣,. (高 麗 史123, 張 舜 龍). 印侯, 以公主′ 法怜口, 騒登宰輔, 権傾中外, (高麗史124 , 元卿) 食議府言 「公主怯怜ロ及内係, 広占良田, 標以山川. 多受賜牌, 不納租税. 請収還賜牌」, 不. “ 回. 聴.. (高 麗 史28, 高 麗史 節 要19, 忠 烈 王 3 年 2月). 以上は, 世祖クビライ の女クトゥルクミ シュ が斉国大長公主と して高麗の忠烈主に嫁いだとき 7 ) それに従っ て高麗に渡った数人の近臣に関する記事である. D ,. 前 記 A・B・C 以外で, 帝室・諸王の私的従属民 と考えられる場合 .. ”) 染羅台, 唐允氏, 祖小丑, 大祖既定西夏, 括諸色人匠, 小丑, 以業弓進, 賜名怯延フ [蘭, 命 為J法隣口 行 営 弓 匠 百 戸. 徒 和 林 卒.. (元 史134, 柴 羅 台). に ) 諸軍戸, 投充諸侯王怯憐口 人匠, 或託為別戸, 以避其役者, 復令為軍 有良匠, 則別而出 . 之。 (元 史98, 兵 志, 兵 制, 至 元15年 9月) ”)に よ る と, 小 丑 な る も の は, チ ンギ ス = カ ソ時 代 に 弓 匠 の 官 に な っ た . そ の 官 職 名 に 法憐 口. が含まれている. またに )の怯憐口は, おそらく人匠と別個 のものではなく, それを形容 している の で あ ろ う.. P9 ・…・ ・健都班, 其長子也, 領王府怯連口・奴都赤・八児赤・昔保赤・暗赤・軍民・諸色人匠, (道 園 学 古 録16, 孫 都 思 氏 世 勲 之 碑). - 51 一.

(7) . 海 老. 鈎. 沢. 哲. 雄. ・諸王公主鮒馬, 不以是何投下軍・靖・民・匠・打補・鷹 如今, 依著在先的聖旨体例裏, ゞ…・ 房・怯憐口・厨子・ 控鶴人等諸色人戸, 与大数目当差的軍・策・民戸, 一体均当者, (元 典 章 3, 2 裏). 上の二例における怯憐口は, いずれも, 工匠や打楠鷹房戸等とは別個のもの違いないが, いかな る職役に従うもの か明かでない. 0 (元史12 , 察学) 鮒 木花里, 事憲宗, 直宿衛. 従攻鈎魚山, 以功授四斡耳柴怯憐口千戸. (元史11 7年8月 戊戎) 的 〔賜〕 東宮位下怯怜口等粟常, , 至元1 分宜県怯憐口四千戸長官司, 万載県三千戸計勾当, 元機戸設置, 止是1窪排本投下差役. 今侍. ◎. (元 典 章 新 集 刑 部53表). 偽, 別 無 親 管 上 司 参 束.. めの分宜県・万載県は, ともに江西の蓑州路 酌,的における怯憐口は, その実体が明かでない, ( ) 一般 の路 ・府・州 ・ に あ り, 世 祖 の 第 2 , 第 4 オ ル ドの 食 邑 と な っ て い た. 食 邑 で あ る か ら,9. 県以外に特別に官府はないはずである が, 上の二官府は, そのたてまえに反 し, 食邑内の民戸を 掌握するために設けられたと見られる. 上の怯憐戸はその 所管の戸を指 しているのであろう. 他 に類例はない,. ) ある いは A~Cのいず o 以 上 の 法 憐 口 は, 単 一 の 種 類 で は な く, 様 々 な タイ プ の も の で あ る.l. れかに含めらる べ きものもある かもしれない, 明確に識別することが困難なので, ここに一括し て記 した, いずれも, 一般の民戸と異なり, 帝室や諸王に直接従属 していると考えられる, 居,. そ の他. 0年1 1月己卵) (元史12 名) 以御史台嘘罰砂, 腸怯憐口, , 至元2 請調襲路法憐口 宜増兵防遷 文 ) 枢密院臣言, 「四川行省地 隣鳥情 , , 面雲南未平, 今成卒単少, 従之 悉罷遣 」 軍還日 英之 僕征進 同往 三百 J 重慶河東五路両営兵 戸丁七百, . , , , , (元 史35, 至 順 2 年 正月 戊 子). 儒者, 籍為屯戸, 立安西平涼 9 〔至元〕 十九年, 以軍姑屯戸, 拘収為怯憐口戸 計, 放還而無所り 屯 田, 設 提 領 所, 以 、領 之.. ・. (元 史100, 兵 志, 屯 田). 法怜ロ. 既班師, 隷王旭列邸. 公単騎, 超其国, 諭以禍福, 遂挙国内 附. 録功, 擢領′. 回. (至 正 集53, 西 域 使 者 暗 只”台心 碑). 鞍燐ロ戸為名, 隷籍州県郷村深山密谷, 各分地面, 打勘勾当, 悉莫逃其害, 叉・. 的. (心 史, 大 義 略 叙). 上の数例は, 本来前記 A~D のいずれかに入れる べきものと思われるが,”) 一概に断定しがた い の で, 別 に こ こ に 記 した.. 註 7 1 1) その他, 元史2 , 宣徴院の条にも回・回と同種の用例が見える. , 大徳9年2月丙午および元 史8 7 2月, 元史1 2) 大元馬政記, 刷馬, 延祐5年1 , 大穂8年2月丙午にも菌・的と , 至元29年10月奨丑, 元史21 同種の用例が見える. 3) 工匠は, 女献上, 人匠・民匠とあることが多い, 鷹房 (=鷹坊, 音宝赤 siba,uさi) に は,ケ シク 下 に あ る ものと官府下にあるものと二種あった, 27頁参照. 4 ) 箭内亘 「蒙古史研究」717~7 5) 元史百官志・本紀や元 興章7等にこの種の用例が数多く見られるが, その所在を示すことは煩を避けて省 略する. 奇 6 ) 圭塘小稿9, 勅賜興元関碑に見える 「怯怜府同知」 という官職名も, おそらくは 「怯怜ロ諸色人匠総官r 同知」 のごとき官職の略称であろう. 7) 箭内亘, 前掲書713頁. 0 8) その他, 高麗史節要19 , 忠烈王8年8月にも同種の用例が見える, なお, 元史 , 忠烈王3年正月, 同2 -5 2-.

(8) . モンゴル王朝期 の法隣ロに関する覚書 15 5年6月壬申の 「諸王怯隣口及肩従臣」 も, これに準ずる用例かもしれない , 至元2 . 9) 村上正二 「元朝に於ける投下の意義」 (蒙古学報1 ) および拙稿 「元代食邑制度の成立」(歴史教育9巻7 号) 参照. 10 ) その他, 永楽大典姑赤2, 10裏, 同9, 4裏, 同9, 18表, 元史21 , 大徳8年2月丙午, 同26 , 延祐6年 6月壬子, 同29 , 泰定2年5月丙子に見える.法憐口もここに含められるべきである, 1 1) その他, 元史11 0 21 , 至元18年9月壬辰, 同21 , 大徳8年7月奏亥, 同3 , 泰定3年7乙巳, 同1 , 速不台, 同123 , 女貌, 至順鎮江志3, 至正金陵新志8に見える怯燐ロもここに含められるべきである.. 3 , ケシクとオルドと怯憐口 前節では, 怯憐口の用 例を五種に分けて示した. 意味の不明確な 鴛 はともかく, A~D の怯憐 口には, ある程度の共通性を見出すことができるよう に思う. すなわち一つには, 怯隣口 は, モ ソゴリアにおける 千戸制下の一般の遊牧民や換地における路・ 府・州・県下の民戸のごとき公民 ではなく, 「自家人」 とか 「私属人」 と説明されている通り, 私的に従属するものを指 している と 考 え られ る, 二 つ に は,′法隣口 が 従 属 して い る の は, 僕 人 や 色 目 人 で は 決 して な く, モ ン ゴ ル. 人, そ れも帝室や個々の諸王に対してである, 以下本節では各種怯憐口の相互の関連 を明かに し た い と 考 え る. 前 述 のよ う に, A の怯憐口の用例, とくに的・的から元朝時代には, ケシク下に諸種 の職役に. 従う従属民 があり, 怯憐口もその一種と して存在していたことがうかが われる. あるいは, “ ・ 村から見て, 怯憐口がより広義に使われる場合もあっ かもしれな い, いずれにせよ, ケシク下に あ っ て ケ シク 本 来 の 構 成 員 と は 区 別 さ れ る も の で あ っ た, ケ シク 下 に 諸 種 の 民 が あ っ た の は, 元. 朝時代にはじまったことではなく, それ以前のモ ンゴル帝国時代から見られた, すなわち, 元朝 秘史232 節 に,「ま た チ ンギ ス = カ ンが 仰 せ られ る に は, オ ル ドの 侍 女 た ち を, 家 の 子 ら, 賭 駒 銅 を, 牛 飼 を, ケ ブ テ ウ ル は お さ め, オ ル ドの 房 車 を 整 え よ」 と あ る. ケ ブ テ ウ ル (kebtぎ菖 1 ) は, turqざud)・ コ ル チ (qorさi トゥ ル カ ウ ト ( ) と共 に ケ シクと い う親 衛 隊 を構 成す る 三 班の 一つ で. ある. 上の一節は, 家畜の放牧等に従うオル ドの民が, ケシクの一班であるケブテウルの所管に な っ てい た こ と を 示 す も の で あ る, 因 み に オ ル ド (ordu) は, カ ガ ン (あ る い は 諸 王) と そ の 妃. たちの居所となる帳幕群であり, 宮帳とか行帳と漢訳される, 従っ てオル ドに属す る民は, カガ ソや諸王に直接従属し, 諸種の職役に従事する私民, 「自家人」「私属人」 にほかならない. ケブ テウルとオル ドの民との関係につ いては上の一節に見えるのみであるが, なお元朝秘史23 2節に は 「ケ ブ テ ウ ル は オ ル ドの 帳 幕 に 入 っ た り, 出 た り す る こ と を 監 督 せ よ」「ケ ブ テ ウ ル よ り 牧 地 管 理 人 が 行 っ て オ ル ドの 帳 幕 を は らせ よ」 と い う チ ンギ ス = カ ンの 詔 勅 が あ る 同 じく 278 節 に も , 似 た 内 容 の オ ゴタイ = カ ンの 詔 勅 が 見 え る, こ の よ う に, ケ ブ テ ウ ル と い う 班 に は, と く に オ ル ドの 管 理 が 委 ね られ て い た, さ き の 一 節 に あ る よ う に ケ ブ テ ウ ル が オ ル ドの 民 を そ の 所 管 に お い た こ と は 十 分 考 え られ る と こ ろ で あ る, ま た ラ シー ドの 集 史 に見 え る 中 軍 の 千 戸 に お い て ケ ブ テ. ウルは中核をなしていたと考えられるが, その中軍の千戸は, 「その 〔チンギス=カンの〕 四大 ) と説明され ているよ う オ ル ドの 家 の 子 らと そ の オ ル ドに 所 属 す る も の が 全 部 で 一 千 で あ っ た」1 に, k ル ドと か か わ り の あ る も の に よ っ て 構 成 さ れ て い た, ケ ブ テ ウ ル が オ ル ドの 民 を 管 す る こ. とはこの点からも推察 し得る. こ のよ う に モ ン ゴ ル 帝 国 時 代 に も, ケ シ ク, と く に ケ ブ テ ウ ル 下 に は, 家 畜 の 放 牧 等 に 従 う 従. 属民の集団があった, 元朝時代のそれに比 し, 職役の内容等種々の違 いが あったであろうが, 元 朝時代のケシク下 に法憐口があったのであるから, モ ンゴル帝国時代のケシク下の民の 中にそれ - 53 -.

(9) . 海 老. 沢. 哲. 雄. に相 当 す る も の が あ っ て も お か しく な い. 現 に 前 記 A の”)に あ る よ う に, チ ンギス = カ ソ時 代,. ′ 法憐口を管するケシク官が設けられているのである. その意味で前記元朝秘史232節におけるオ id が 注目される. この語は, 同書2 in k t f 34節にも 「あまたの ~ ル ドの 民 の 内, 「家 の 子 ら」 ger‐ gt d k t i t i ぐ ~ ドの ‐ オ ドの r n を 周 囲 ル オ e ル g g ケ シ ク テ ソ, ト ウ ル カ ウ トを, , 馬飼, 羊銅, 略舵 . id 飼, 牛 飼 を, つ ね に ドダイ = チ ェ ル ビ は 心 して お れ, と 委 ね た」 と 見 え て い る. ger-nn k6gt. と怯憐口とが音韻上対応 しないことは小林博士の説く ごとくであるが, 鳥円城碑文では, 漢文面 ) 家 の 子 ら が, あ て ら れ て い る. 岡 本 氏 id2 t in k6begt の法憐 ロ に 対 し, モ ン ゴ ル 文 面 で は, ger- t in kogt id は 対 応す る と 考 え ら れ - も 指 摘 さ れ て い る よ う に, 意 味 内 容 に 関 して は 怯 隣 口 と ger. は, 元朝秘史上二例に止まる が, 前述のように二例ともケシクーケブテウル 所管のオル ドの民の一種と して現われており, ケシク下にある点で, A の法憐口と共通する もの id は, 怯憐口に対応する語であると を 持 っ て い る. こ の よ う に, 元 朝 秘 史 に 見 え る ger-an k6gt 【 in k6g t id る. ger‐. 推察される. 【 in kogt id が い か な る 職役 に 従 っ て い た か に つ い て は 明 か で な い. た 元 朝 秘 史 に お け る ger‐. ク トの職役に従っ ていたで だいえることは, 馬飼や羊飼等 が別に記されているから, 家畜の放牧以 、 1 の ご と く, あ ろ う と い う こ と で あ る. 他 の オ ル ドの 民 の 場 合, 馬 飼 aduγuさin, 羊 鯛 qoni滋1 k 6 id は, 家 の l i ‐ 点 その名称自体 それぞれの職役の内容を端的に表 示している その , ger n gt. , , すのではなく 子という語義からして特定の種類の職役従事者を指 , オル ド内において雑役に従事 するもののことか, あるいは家畜放牧以外の各種の 職役に従うものの総 称ではなかったかと思わ l anan が 見 え id に 対 応 す る と 見 ら れ る TV-ngh l in k6gt れ る. 因 み に ラ シ ー ドの 集 史 に は ger- る. そ れ は, トルコ語の家 TV と 子 nghlan と に ペ ル シア 語 複 数 語 尾-an が加えられた語であ. )が, 前掲集史の一節に 「その四大オル ドの る。 この語には, 侍女を指すと考えられる用例もある3. in と そ の オ ル ドに 所 属 す る も の が 全 部 で 一 千 で あ っ た」 と あ り, 「〔チ ン ギ ス ー ヵ ソが TV-nghl巨ni ‐ kh 1 一 后 妃 を 家 臣 に ゆ ず る と き〕 残 り の す べ て の も の, オ ル ド, f nghlanan , ,僕 蝉 ? ( aT va. 4 ) 近臣と見られる用例 l l a s ・ am) ) , 財貨,家畜の全部を妃に与えた」 とある. その他, とくに后妃の ) 上 の 二 例 の 場 合 も, オ ル ドに 属 す る も の の 中 で も, そ の 上 層 部, ケ ブ テ ウ ル の 人 員 が 多く,5 i t id と 同 じ種 類 の 民 を 意 味 して い る か どう か l l k6g を指 しているようで 元朝秘史における ger‐t. , 疑わ しい. 当時のモ ン ゴル社会では, 支配被支配の関係が血縁的関係に擬制され, 非血縁的従属 an5n も, 直 訳 す れ ば 家 の 子 ら で id ) ger‐ { i n k6gt 民でも擬制家族員と して把握された6 , TV-nghl あるから元来は擬制的家族 員の呼称であっ たと考えられる, 国家の 成立と発展に伴い, カガンの オル ドには数多くの近侍, 従属民が集められると, その内 ある種のものを. in k ~gt id と い う ぞ ger‐l. ink id 【 ぐ ~gt よ う に な っ た の で は な い か. そ の 用 法 は, 一 義 的 固 定 的 で は な く, 元 朝 秘 史 の ger- のよ う に も, 集 史 の 雨-ngh13nan の よ う に も 用 い ら れ た の で は な か ろ う か.. モ ンゴル帝国時代, 上述のように, ケ シクーケ ブテウル下には家畜 の放牧等諸種の職役に従う ~ オル ドの民が組織され, その中に ger‐nn kf gad= 怯 憐 口 も 含 ま れ て い た. 前 掲 A の 鮒 ・ 的 に ) モ ン ゴル帝国時代 の制度の延長と して 7 見える元朝時代のケ シク下における 諸種の民の組織も, 理解される. 元朝時代には, 馬銅, 羊鯛等はすでになく, その機構・機能の上で変化があったで あ ろ う が, 怯 憐 口 は な お ケ シク 下 の 民 の 一 種 と して 残 っ て い た わ け で あ る, そ れ は, モ ン ゴ ル 帝 id= 怯 燐 口 の 後 身 と も い え よ う, た ゞ し, A の的・的に見える 国時代のケ シク下の ger-in k6gt き 元朝時代のケ シク下の怯憐口に関 しても, その職掌を明かにできない, .なお A の“・回の1妾耀. 口はケ シク下の諸種の民の総称かもしれない. - 54 -.

(10) . モンゴル王朝期 の法憐ロに関する覚書. ケシク下の怯隣口について以上のように考えられるとすれば, 前掲 B の怯憐口すなわち官府下 の工匠, 打捕鷹房戸等の別称あるいはその修飾語と して怯憐口は, 上述のケ シク下の′ 法燐ロとい かに関連 づけて理解することが できようか, まず工匠について考えたい. 黒縫事略に 「縫人, 始 初, 草味に して百工の事, 一として無く……後来, 回回を減して始めて物産有り. 始めて工匠有 り. 始めて器械有り.・ ・…・後金蘭を減し, 百工の事, 是に於いて大い に備わる」 とある. モン ゴ ル軍が華北, 中央アジア等の定住民地域に侵入 し, 工匠を粒致するよう になっ てはじめて手工業 生産が行なわれるようになった, 工匠たちは, モン ゴル支配層の需要に応じ, 軍需品生産と著 修 品生産に従ったと考えられる, こうした草原に粒致されてきた工匠は, いかなる場所におかれた ) の か. こ の 点 につ い て は, 村 上 正 二 氏 は, オ ル ドの 近 傍 で あ っ た と つ と に 指 摘 さ れ て い る 8 . ここ. では若干の史料を挙げて裏づけを試みよう.ムンゲ=カ ソ時代, モン ゴル草原を旅行 したル ブルク は, ベ ル グラ ー ドで 捕 え ら れ た と い う ウイ リ ア ム な る 職 人 に つ い て 次 の よ う に 述 べ て い る 「そ の . 母親 〔ニ ス ル ク タ ニ = ベ キ〕 の 死 後, ウイ リ ア ム 親 方 は, か の 女 の オ ル ドに 附 属 す る そ の ほ か の も ) と, こ れ に よ れ ば ア 9 のす べ て と と も に, ア リ グ = ブ カ の 手 に 移 っ て そ の 持 ち 物 と な り … …」 , ブ リ ク= カ は, そ の 母 に あ た る ス ル ク タ ニ= ベ キ か ら オ ル ドと 共 に 工 匠 を 受 け つ い だ こ と に な. る, 工匠がオル ドに附属するものであったことがうかがわれる, また次のような事例もある,「祖 〔=博徳〕 , 金の季に当り, 始めて燕を去り, 雲中に居す, 晦逃して耀無 し, 而ども独り梢其の芸 に出づ. 以て自ら憲宗に和林に遇せ らる, 金符を錫り, 其の同列六十人に長たり, 以て宿衛 に備 o ) と い う 樽 徳 な る も の は ム ン ゲ= カ ン時 代 に 工 匠 の 官 と な た う」l , , っ 。 そ れ は, 同 時 に 宿 衛 す な わ ちケ シク と結 び つ き が 生 じ, そ の 所 管 に 入 る こ と で あ っ た と 見 ら れ る , ケ シク, と く に ケ ブ テ ウ ル が オ ル ドの 民 の 管理 に 当 っ て い た こ と は, さ き に述 べ た 通 り で あ る, こ の 場 合, 樽 徳 と い. う長を介 して工匠がオル ドに附属する民と して把握されていたのではなかろうか, また張徳 輝の 塞北紀行に 「宮の東に, 民匠の雑居する有り. 梢票落を成す」 と見える, この 「宮」 は, コソギ ラートの魯王家のオル ドであり, その近くに工匠の票落があったのである, さらに付言すれば, 粒致されてきた工匠は, おおむね, カガンおよびその一族の諸主 に分けられたのであるか らその 工匠がカガンや諸王の居所としてのオル ドの内タトに配置されるのは, 自然のこと であり, 工匠管 理の上からも最も便であったに違いない, 以上のように, 各地域から将来・粒致された工匠は, 新たな種類のオル1 の民と して把握され, オル ド内にあるいはその近傍に配置されて手工業生産を課されたと考えられる. 工匠に関 しても B の諸例に見られる通り怯憐口が別 称あるい は修飾語として用いられるに至った そ れは 元来 , ,. 工匠が上述の通りオル ドの私的従属民の一種と して把握されたことが契機になっ ており, また怯 憐口が特定の職掌を表示する語でなかったこともあずかっ ているのではないかと考えられる。 モ ンゴル帝国が換地の支配に乗り出して以来, そこで獲得 した工匠を, 必ず しも北方の草原に送ら 1 ) 従 っ て 工 匠 は オ ル ドの 内 ず, 漢地 の 各 処 に お い た ま ふ 官 人 を 任 じ て 掌 握 す る よ う に な っ た,1 ,. や近傍ばかりでなく遠隔の地にも配置された, B に挙げた諸官府は, 元朝時代になっ てからこう した漢地の工匠を管理するために設けられたのである, そこでは, 工匠の数も草原 のそれに比 し 多くなり, 工匠に対する支配もいずれかといえばより間接的, 非人格的なものに変 っ た で あ ろ う, とはいえ工匠が帝室や諸王の私的な経済的基盤を構成する分子であり, いわばオル ド経済を 支える私的従属民であった, 「自家人」「私属人」 である点は, 変りないのである, それが怯憐口 という名称が依然と して保たれていた所以であると考えられる. なお, 元朝時代, 工匠は帝室や 個々の諸王 に直接所属していない官府, 例えば 射乍院・武備寺等の所管にも多数配置されていた - 55.

(11) . 海 老 沢. 哲. 雄. その種の工匠に, 怯憐口という名 称が用いられた例はほとん ど見られな い. それは偶然の結果で はなく, 私的従属民と しては理解されていなかったためではなかろぅか, 打補鷹房戸は, 漢地において, 工匠と同様にモン ゴル支配層 がそれぞれ積極的に確保すること に努 め た も の で あ る.=) ま た 前 掲 B の諸例に見られる通り, 工匠と一括きれて同じ官府下に収. められていた. 打捕鷹房戸にも怯隣口の称が用いられた事については, 工匠に準じて理解す べき で あ ろ う, C の高麗史・高麗史節要に見える′ 法隣口は, いかに理解す べきであろうか, そこにおける怯憐. 口は, 公主の近臣であり, 権勢を振い, A・B の 法 隣 口 と は か な り 違 っ た 面 を も っ て い る, も し この種の怯憐口の用 法が高麗史等 における斉国公主の近臣の場合に限られていたのであれば, 次 のように解釈することもできる. 斉国公主に従っ てきた者が元来低い身分であったにも拘らず, 宗主国から属国に入った公主の側近にあることを利用 し, 社会的地位の上で上昇 し, 権勢を振う にいた ったが, 公主に奉仕する身であることに従来と変りなく, 法憐口という名称もそのま 用 いられていた, と, しか し, 他に類似 した用例が全くないわけでなく (前節註8) , おそ らく怯憐 口のこう した使い方もある程度一般化し, 高麗史に見えるものは, その 一例だったではなかろう か. こ での′ 法隣口すなわち公主等に仕える位の高い近臣と A の怯憐口すなわち ケ シク下の従 属民とでは, 一見, 大きな違いがあるように思われるが, 国家の成立期=チンギス=カ ン時代に おいては, 一般の従属民が上昇 して官人化する例は珍 しくなく, またいずれもオル ド内にあっ て 公主等に従っ ていたと考えられるから, 怯憐口にこの二種の用法があったと しても, 特に奇異な ‐ v‐nghl亘nai l には, 次のような用例が ことではないようと思う. 因みに, 前に言及 した集史の T あ る. 「そ の 後, ある 日 Knrknz 〔イ ラ ン総 督〕 が 橋 の 上 を 通 っ て い る と, チ ャ ガタイ の 妃 の 了v 2 )「 anan で S5r taq= Kuchan と い う 名 の者 が や っ て 来 て 互 に こ と ば を 交 わ した」,1 nghl 〔フ ラ グ dakn 妃から生まれた Sai lnn で あ る, 彼 女 を Urnk = ハ ンの 子 テ ク デ ル の 娘 の〕 五 番 目 は Tn r lanan 妃 の オル ドの ?v-ngh. 1 3 )こ i で あ る Qara a に 与 え た」,. では二例にと どめるが, 集史, 位の高い廷臣である 多く后妃に仕える地 とくにイ ルカ ソ国の部に見えるものは, , 高麗史の怯隣 口と相通ずるものがある. D の怯憐口は, A・B・C のいずれかに属す べきものか, あるいはそれ以外の意味であるのか で個々の用例について更に説明を加えることは省略するが, いずれも A の怯 憐口と関連 づ けて理解することは可能であるように 思う, 回 の怯憐口は, 一層内容が つかみがた 明 か で な い. こ. い の で あ る が, 明 白 に A の怯隣口と関連 づけては 理解 し得ないと見られる例はないと考える,. こふでは, たゞ小林博士が, 怯憐口が行省の住民であることを示すものと して引用された仲につ いてのみ一言 しておきたい, 煩をさけて全文はこ に引用 しないが, 「弊路の怯憐口戸の丁七百」 4 )に帰したが, その という一節である, おそらく, 以前帝室等に所属していた宮府 が四川行省下1 所管の戸は, そのまふ- 法憐口であるが, たまた 法憐口と呼ばれていたか, あるいは現に工匠等の′ まそ の路内に居住 していたため, 上のように記されたのではあるまいか. 上の一例のみで怯憐口 が本来一般の民戸と同様 に行省・路 に属するものであっ たとはいえないと私は考える. 註 j 1 rn。va ) sborniklet。pise , , MOSkva ,1 ,2一L smi ,1952 ,266 i i d id という形 i i n,k6beg 2) 一般に子を意味する語として元朝秘史では k6gnn ,k6g , 鳥丹城碑文では kbbegi が使われている. j 3 ) Sbornikle七0pisej , verkh。vski , Moskva ,196α 89 ,n r . ‘ l i i MO kVa lde K h j t t 1 1 t … t V 4) Sborni se r e u r S aV頁rdd l op a o g .ed . Romas- , 1,1 , , , , , ,1959 ,18G; Jam a. - 56 -.

(12) . モンゴル王朝期の怯隣口に関する覚書 keV i i l ch 一Zade agurov く va , Khe[ , A1 ,八4os . ,1965 ,517. i i 5) G. Doerfer l i rk sche und mongo i sche B1 ement s ein NeuPer schen esbaden,1965 , Ti . 江, Wi , Bd ,226- 228 ,. 6) 護雅夫 「N6k i i 1縞9号)26‐ r 考」(史学雑誌6 27頁参照. 7) なお元朝時代のケシクではケブテウル・コルチ・トルカウトの三班編成は行なわれていない . 8) 村上正二 「元朝に於ける投下の意義」(蒙古学報1)178頁 , 9) 護雅夫訳 「カルピニ・ルブルク中央アジア・蒙古旅行記」 26 1頁, W.W. Ro i 1 l r ckh ourney , ,t , The J f VV l l i i o an nof Rubruck to the Eas t ern Par l d,London t s ofthe VVor ,1900 , ,222‐223. 10) 金華黄先生文集38 , 奉議大夫同知諸路金玉人匠総管府事博公墓誌銘, 11) 拙稿 「元朝の封邑制度に関する一考察」(史潮95号)35‐ 38頁. ‘ 1 1 j 12 ) Sborni くl et se opi 一tav狂rtkh l,1 , 1,1 ,142;Jami a ,318. , ‘a 1 13) Jami 一Tav頁rてkh i r ends -zade . Ar . A1 , m,t ,ed ,1957 , Baku ,167 ,. 爽西行省には, その実例がある (元史28 14)B , 至治3年2月麦末). 4 , 怯 憐 ロ と 勝 臣 前節では, ケ シク下の私的従属民と見られる怯憐口を 中心にし それと関連づけ て他の種類 の , 怯憐口を理解 しようとした. こう した立場に 立つとき, はじめに紹介した怯憐ロニ勝 臣という岡 本敬二氏の所説は, いかに評価すべきであろうか. まず, 岡本説の有力な論拠になっ ている鳥丹城碑文 について検討を加えたい 1 ,) 前 にも 言 及 し たように鳥丹城碑文の張氏先墓碑 では, 漢文面の怯憐口 と勝人とは モ ンゴル文面では ともに , ,. 【 in k6begt id (家 の 子 ら) と 訳 さ れ て お り, 怯 憐 口 と 勝 人 は ger‐ , こふ では 同義 で ある か に見 え. る. 岡 本 氏 は, 勝 人 = 勝 臣 と し, こ れ よ り, 怯 憐 ロ ニger‐ l in k6begt id= 勝 人 = 勝 臣 と 解 さ れ た .. ところで, 同じ碑文の中に, 勝臣という語も実際に使用されている それにはモ ン ゴル文面 では . 元来勝臣の意をもつ inje が当 てられている, すなわち, 鳥丹城碑文 では, 怯憐ロ.暇人=ger- て in. d k 6beg t i nj eという二通りの対応関係が認められる. この碑文における怯憐口・勝 ,勝臣=i 人. t in k6begt id と inJe とは, 果して同じ意味内容のことを として使用 されてい と 勝 臣 と は, ger‐ る の で あ ろ う か, は じ め に 勝 臣=inJe の用例をあげよう. 鳥丹城碑文の一つ竹温台神道碑には 「 , 〔竹温台〕 魯国 大長公主の勝臣と為り, 魯王 淳不刺に事え, 甚だ愛幸せられ……」 とある 稗 , 、国大長公主は, 格 ) 竹 温 台 Jig 宗 チ ンキ ム の 第 二 子 順 宗 ダ ル マ バ ラ の 女 で あ る 2 i t t i n e は, その公主が帝室と姻威 , la に嫁くとき いわゆる勝 臣として随行 し 角 関係にある魯王の 淳不束 リ Diwuba , , 、主に仕えるこ とになっ たのである, また同神道碑に, 「其 〔=魯国大長公主の女〕 の女宗に帰するとき 女宗 , 『竹温台に後有りや否や』 と問う. 日く 『有り』 と 子有りて撤而吉思鑑と日う 今 若干季な . , , り, 遂に求め以て膜臣に充つ」 とある, 前記の魯王 に嫁いだ魯国大長公主の もとからその女が女 宗に嫁く とき, 竹温台の子撒而吉思鑑 Sargesgeb を勝臣にしたという また張氏 先型碑には . , 「大長公主, 之 〔=住童〕 を器重す, 初め嘉議大夫怯怜口都総管に命ず 今の賛天開聖仁寿徴謙 .. 宣昭皇太后 〔=文宗の后妃 ト容失里〕 は大主 〔=大長公主〕 の出す所なり 主 其の忠を灼 し以 , , て勝臣と為す. 遂に朝に隣り……」 と見える, 住童 J t i tung は, さきの摘 た而吉思鑑とともに, 大 3 ) このように 鳥 丹 城 碑文における勝 長公主の女が女宗に嫁ぐのに従っ て朝廷に入ったのである. 臣 =inJe の用例を見ると, その本来的な意義 の従嫁者 であると考えられる 4 ,) 一方, 怯健 ドロ・勝人=. in k6能g t id ger-{. については, 張氏先塾碑に次のように見える,. ( a ) 怯 怜 口 都 総 管 =ger‐ t in kobegt id duu sunggon wuu yin s unggon(家の子ら都総管府の総. 管) -5 7-.

(13) . 海 老. 沢. 哲. 雄. { in mingγ‐a (家 の 子 ら の 千 夫 長) l in k”begnd- r- ( ) 莞腰人千夫長=ge b in sunggon wuu-yin sunggon (家 の 子 ら の 総 管 府 の 総 t l i n k6begnd- ( c ) 都総管府総管=ger-. 管) )は, その住童が勝 b a )は, 前出の住童が勝臣になる以前, 大長公主より授けられた官職で ある,( ( ±, 住童の c ){ ′ 臣となっ て朝廷に入っ てから授けられた官職で, 昭功万戸府都総便府に所属する,( t id‐an { in k6beg l n の 官 職 で あ る. 漢 文 面 に は, ger- 弟大 都 間 Daidu. に 対応す る語 が見えな. い. おそらく怯憐口または勝人という語が落ちたのであろう. 試みにモン ゴル女より漢訳すれば, 「怯憐口都総管府総管」 である, なお. モ ンゴル文面には, 都総管府の都 duu が見 えない. 上 id は, 具 体 的 に 何 を 指 し て い る の か, 元 朝 時 代 に in k6begt l の 三例 に お け る 怯 憐 口 ・ 勝 人 ・ger‐. 一元的に 統一されてい おいて, 諸王のもとの官府・ 官職であっ ても, 国家の官制に規制され, ・ a )上の 三例のうち,( ) ( c )に類似する名 称の官府・官職は少 5 ・ )は比較的珍しい名 称であるが,( b た. 6 ) なくない, 例えば ① 「皇太子妃怯憐口都 総管府」 ,② 「管領怯憐口総管府」(A の㈹) , ③ 「管領 ) 8 政院に発展した官府であり 7 ) さらに中 は のちに典内司 怯怜口」 ④ 「怯憐口銭糠総管府」 ・① , , , 工匠・打補鷹房戸等を管していたに違いない. ② は, 析居戸・放良戸等を集め, 工匠に養成した 際, その官府と して設けられたものである. ③は, 「諸色人匠」 の条に記されたもので, 怯燐口が 工匠を指している ことは明かである. ④は, のち宮相都総管府に改称さ れるが, それは織物・染 色の工匠を管するから, こ の法憐口もやはり工匠を指すと見 るのが妥当である, 以上のような 例もあるところ から見て, 張氏先隼碑における 「怯怜口都総管」 の怯怜口も, たとえ 「諸色人匠」 とか 「打捕鷹房」 とかの文字はなくとも, 工匠や打捕鷹房戸を指 すことは十分考えられる. その 9 ) と同 じ 種類のものであり, 官府は, 例えば諸王斡羅温孫の 「打捕鷹坊諸色人匠怯憐口総官府」 名 称が 簡略になっ ているだけであろう. また元朝の官制に照すと, 「00都総管府」 という名称 の官府は, 「上都留守司監本路都総管府」「大都路都総管府」 を除くと, 前記Bにあげた工匠・打 a )・( c )は魯王家のもので あるが, 同王家 浦鷹房戸等の官府以外に見出すことができない. なお,( に, 元史118, 特藷樺伝によると, 名 称は明かでないが 「人匠鷹房」 の官 があったことは確かで ど ~beg【 id は, 前記 B に属す べきもの a )・( c ) の法憐 口 ・ ger-in k あ る, 以 上 の 諸 点 か ら 推 して, ( で, 工匠や打捕鷹房戸等の ことであり,その都総管は, それを管する官職名で あると考えられる. ~beg 【 id-in mingγa が 所 属 す る と い う 昭 功 万 戸 都 総 便 府 は, 元 史 ぐ )の 勝 人千 夫 長 =ger-in k ( b. 89百官志に見える昭功万戸都総使司のことに 違いない, 百官志の記載にはその所管に 「莞勝人千 夫長」 という官職は見 当らない, しかし昭 功万戸都総便司は, 工匠・打捕 鷹房戸 小内綿戸等を管 in k 甫鷹房戸等を指し, 莞勝人千 t id が工匠や打才 るbeg 掌 す る 宮 府 で あ る. こ の 場 合 の 勝 人 =gert. 夫長がその宵人で あることは十分に考 えられる. なお, 中政院のもとには 「怯憐口千戸所」 とい う′ だ す府 があった. 千夫長という官職も, 特異なものでないと 思う. id は, い わ ゆ る 勝 臣 =ini e とは区別され, 前 in kぞ l ~beg( 斗城碑文では, 去憐 口 ; 勝 人 =ger‐ 鳥づ 記B の法憐口と同じく, 上述のょぅに 工匠 オゴ捕鷹房戸等の別称であっ たと推察される, 無論, 工匠や打楠鷹房戸であるからといっ て, 勝臣ではあり 得ないと断定することはできないかもしれ ない. それに しても勝人は, 一般的には勝臣と同義 であっても, 鳥丹城碑文では区別 さ れ て い idコ 勝 人 と い う 解 釈 は 成 立 し て も, そ の 実 体 を 考 え る と, 少 ~beg【 【 in k ぐ た, 従 っ て 怯 憐 ロ ニger‐. 【 in k~ d=勝 beg ( i 2雛E口;ge r- なくとも鳥丹城碑文に関する限り, 無条件でそ れに勝臣を加え, 4 人=勝臣と結論するこはできない. 次に同じく怯憐ロ= 勝臣説の論拠になっ ている 高麗史・高麗史節要における怯憐口について考 - 58 -.

(14) . モンゴル王朝期の怯隣口に関する覚書. えたい. 高麗史・高麗史節要において, 公主 の法憐口であると説明されている印侯o張舜龍・車 信・慮英らは, 元朝の帝室から高麗王家に嫁した斉国大長公主に従い, その勝臣と して高麗に来 たのである. その同じ文の中に 「其 〔=車信〕 の母は, 縁に貧りて公主に乳するを得たり, 公主 の麓降するに及び, 遂に腰臣と為 ,る」(C の口) とあるように, 勝臣という漢語も使われている・ 怯儀口も勝臣のことであるならば, なぜ勝臣という漢語 を使わず, 註釈を必要とする程の特殊な ことばである法憐 三口を使って説明 しているのであろうか, また怯憐口に註 釈を施すにしても, な ぜ勝臣といわず, 私属人であると説いているの であろうか, 果して, 印侯らは, 勝臣であるが故 法憐口;勝臣説に従うとこう した疑義が生ずる. 高麗 に, 怯憐口であると説明きれているのか,′ 史等の′ 法憐口の用 例から, 怯隣口ご勝臣という解釈を導き出すのには私はた めらいを覚える, ′ 法憐口=勝臣説の論拠につ いて考察を加えてきたが, その他の問題点として, 法憐口=勝臣と 解することによ っ て, 前記の諸種の怯憐口の用例を説明 し切れるかどうかということが挙げられ る. この点, 岡本氏は特に言及されていない. 前記 B のJ法憐 口 に つ い て, 前 述 の よ う に 工 匠 ・ 打 捕鷹房戸等と解釈すると, 怯憐口=勝臣説に従えば, 工匠や打補鷹房戸等は,- -般に勝臣と して 存 在 して い た こ と に な る. こ れ は, や 不自然ではなかろうか . 以上のように, 怯憐口=勝臣説の論拠とされた高麗史と鳥丹城碑文 における1安隣口の用例を見 ると, そこから怯憐口即勝臣であると直ちに断定 しがた いように思われる, しかしなから, 島丹 城碑文において, 怯隣口も膝人も, 等しく ger-an k6begt idと 訳 さ れ, 両 語 が, そ の 実 体 は 何 で あれ, 同義的であることは否定することができない, また, 「勝 臣法憐口 共万人」(A の ホ) , の一節は岡本氏が指摘されているよ うに, 前後から見て勝臣と法憐口と で万人ではなく 際臣を , もっ て怯憐口を形容し説明 していることは間違いない, とすると,′ 法憐口 =勝臣説は, 不十分な も の で ある に せ よ, 決 して 無 視 し得 な い も の を も っ て い る. た と え 二 例 で も 法隣口を勝 臣と見 る記事があり, 怯憐口=勝臣と認識されていたとすれば, それはいかに理解すべきか 遺憾なが , ら十分な成案を得ておらず, 今後の課題としたいが, 現段階での見 通しは次の通りである . 箭内亘博士は, オル ドに関 して次のように述べられている, 「斡耳楽は君長の宮殿なり 随 っ , て后妃之に居る. 而も一夫多妻の俗ある民族の君長は往々 にして地を異に して若干の 斡 耳 柴 を に各々若干の妻妾を配置す. 是に於いて斡 耳柴は君長の住処といはんよりは, 寧ろ妻 妾の住処といふべく, 斡耳柴の主人は君長にあ らずして妻妾, 皇帝にあらずして后妃なりき か , 建 て, こ. l o ) と こ のよ うに か る 事 実 は 尤 も 明 か に 元 朝 の 斡 耳 柴 に 於 い て 看 取 せ らる」 , , カ ガ ソは, 若 干 の オル ドを有 し, 各 オ ル ドに 何 人 か の 后 妃 を 配 置 して い た, チ ンギ ス = カ ソの 場 合 , 四個 の オル ド が あ っ て 各 オ ル ドに は10名 前 後 の 后 妃 が い た , チ ンギ ス = カ ンも そ う で あ る が, 力 ガ ンは 別 に 自 分 自 身 の オ ル ドを も っ て い た わ け で な く, い く つ か の オ ル ドを ま わ り 歩 い て い た の で あ る . オル. ド自体は, もとよりカガンのものに他ならないが, その常時の居住者であり, 直接の管理者 であ る后妃, とくに一オル ドの中で最有力な后妃の所有物 の観を呈する, 集史等にお いて 特定のオ , ル ドを 指 す と き, 例 え ば フ ル テ = フ ジ ンの オ ル ドと い う よ う に, 后 妃 の名 を 附 して い る の は こ ,. のことと関係があろう. またオル ドにある生産手段としての家畜は, カガンが所有者であっても , 実際上の管理は, 后妃に委ねられていた,=) 徐遷は黒継事略において 「其の俗を見るに ‐ 一夫 に , して数十妻, 或は百余妻を有す. 一妻の畜産, 至富たり」 といっ ている 最後の部分は 一妻が , , 家 畜 の 管理 者 で あ っ た こ と を 示 して い る と 思 う . オ ル ドやそ の 家 畜 に つ い て 上 に の べ た こ と は, そ の ま オ ル ドの 従 属 民 に も あ て は ま る の で は な い だ ろ う か , す な わ ち, 本 質 的 に は カ ガ ンの 従 属民 で あ っ て も, 各 オ ル ドに 分 属 して い た か ら 后 妃 の 従 属 民 と して 現 わ れ る の で は な い か , . ル. ー 59 -.

(15) . . 海 老. 沢. 哲. 雄. ブ ル ク は, そ の 旅 行 記 の 中 で パ ブ ト ゥ の オ ル ドに つ い て 次 の よ う に 記 して い る. 「パ ブ トゥ の 夫. 人は二六人いて, その一人一人が, 一軒の大 きな家のほかに, その背後に建て られた小さいのを 幾 軒 か 持 っ て い ま す. こ の 小 さ い 方 の 家 々 は, ま あ 部 屋 と い っ て よ く, そ こ に は 夫 人 の 従 者 ども 2 ) が 住 ん で お り ま す. こ れ ら の 家 々 に, そ れ ぞ れ た っ ぷ り 200 台 は あ る 車 が 附 属 して い る の で す」1 と. オ ル ドの 民 が 上 に い う 「従 者 ど も」 と して こ の よ う に 各 后 妃 に 所 属 して い た の で あ れ ば, な. おさらのこと, それは后妃の民として現われていたと考えられる. 前節での べたように工匠はも ともとオル ドの民の一種としてとらえられていた. 元朝時代帝室に属する工匠 は, カ ガソではな く, 后妃あるいはその官府である中政院のもとにあった, このことも, オル ドの民が, 直接的に は后妃に属 し, その民として現われていたことを示すと考えられる. また, 集史でオル ドの近侍 で あ る TV-nghlal短n (家 の 子 ら) が, と く にイ ル = カ ソ国 期 に は,. 決 して カ ガ ソの 近 侍 で は な. く, 后妃のそれと して見えている. これも上述のことを裏書きする事実として注目したい, こ の よ う に, オ ル ドの 民 は, 后 妃 の 民 と して 現 わ れ, そ の 所 管 下 に あ っ た と 考 え ら れ る, 一 種. のオル ドの民である怯憐口が, 勝臣・勝人と理 解されていたのは, 上述のオル ドの民の性格と関 法憐口は, オル ドにあっ て后妃に従い使役 係 が あ る の で は な い か と 思 う. さ ら に 敢 え て い え ば, ′ される点で, いわゆる勝臣と共通するもの を持っ ていたから, 勝臣として従嫁してきた結果后妃 に 従 っ て い る の で な く て も, 勝 臣 と 見 な さ れ て しま っ た の で は な か ろ う か. 憐 法口 が も しも 昔 宝. 赤 (養麗人) のようにある特定の役職に従事する者であっ たならば, それに相 応する理解がなさ れたであろうが, 怯憐口は実際にはそのよ うな者ではなかった, そのことが, 職役の種類とは直 接関 係のない勝臣であるという理解が生まれた消極的要因になっ ていたのではないか, 上の憶説が万一当っているとすれば, 法憐口が一方 では勝臣と区別されなが ら, 他方では勝臣 id と 見 な さ れ た こ と に つ い て, 一 応 説 明 を つ け る こ と が で き る. す な わ ち 法 憐 ロ ニgerイin kハgt beg 【 id) は, そ こ に た ま た ま 勝 臣 が 含 ま れ る こ と は あ っ て も, 本 来 の 勝 臣 で は な か っ た. で ぐ ~ (k. i e と区別されたり, この語の註釈が施されるとき あるから, 鳥丹城碑文におけるように勝臣=in したのである, 反面勝臣的性格のものと理解 「私属人 とされたり 」 にも勝臣ではなく 「自家人」 された, であるから, 元史女宗紀にあるように, 勝臣をもっ て法憐口を形容したり, 鳥丹城碑文 にあるように, 勝人を怯憐口と同 義に使っ たり したのである. 怯憐口の語源に関する岡本氏の説 in を 将 来 し, 漢 l id に 対 応 す る 語 と し て トル コ語 か ら ke l in k6gt に 従 う と, モ ン ゴ ル 語 ger- l i 語の口を加え 怯憐口が合成されたという その 場合, 岡本氏は ke n を妾の意とされた, しか. ,. .. in は トルコ語系諸語において妾ではなく 嫁であ l し, そ の 論 拠 は 必 ず しも 確 た る も の で は な く,ke. ) 私は この場合 1 3 り, しかも同時代の 集史等 ペル シア語文献におても嫁として使われているから, l in も嫁であったと考える, もしそうだとすれば, 嫁を意味する 語をとり入れた新 語が合成 の ke さ れ た の は, や は り そ の 実 体 が 后 妃 の 民 で あ っ た こ と と 関 係 が あ る の で は な い か と暦・う,. 註 1 eave s ]) この稗女については, 次を参照, 田村実造 「鳥丹城附近に元碑を探る」(蒙古学第1冊);F . W.C , i Th s l ipt i ian lnsc The sino‐Mongo l ・ on ofin Memory of Chan Ying-Jui , HJAS Xn ,1950; e no- i ion of1338in Memory ofJ i i ian lnsc l i Mongo nte r gi pt , HJAS XW,1951 .. 9 6 2 ) 元史10 , 諸公主表の祥寄刺吉のことであろう. , 后妃表の桑帯吉刺, 同10. 月を琴幕事 ゴー)川 本氏 責蜜言語 ぎ 彰書房 業喫緊言 ; 信 き ; ≧雛電 ざ識弱震遍騒 製富貴 i 24頁) 読み誤りである が正されているように (前掲論文2 ,. 5) 前掲拙稿, 40-42頁参照. 3 6) 元史2 , 至大3年11月戊子,.

参照

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