高橋哲学の組織
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(2) . 北海道教育大学紀要 (第一部A). 第 17 巻 第 1 号. 高. 橋. 野. 哲. 辺. 学. の. 東. 地. 組. 昭和41年6月. 織. 洋. 北海道教育大学岩見沢分校哲学研究室. l T6y6 NOBBO日工: Das System der phi oSophi e Takahash絹. 目. 次 B, 相対無 (根源無・体系無) C, 絶対無 D, これまでの哲学. をまじ め に. 1, 体系存在論 A, 根拠と生成を包む体系 B, 発展と逆発展を包む静止 C, 有限を包む無限 D, 全体の立場とわれわれ E, 体験存在論 ロ. 無の論 A. 有の限界としての無. は. m. 現実存在論〔次号〕 A, 人間存在 B, 自然存在 C, 観念存在 D. 歴史存在. じ. め. に. 本誌の前々号で高橋哲学の成立について述べたが, それは客観的な対象を考察する方法でおこ なわれた. つぎに高橋哲学の組織を叙述する段階にはいるが, これは論理を展開することが主眼 と な る の で, 単 な る 客 観 的 な考 察 の み を も っ て して は お こ なわ れ 難 い こ と で あ る. む し ろ こ こ で. は叙述が論理の展開そのものとならなければならない. したがって高橋哲学について語るという のではなく, 高橋哲学が語るという方法によることが立てまえとなる, そのためにはそれの創始 的発言者たる高橋里美博士みずからによる叙述が, このばあいの目的に適当な形に整理されて, 多く用いられるであろうことを, 予め断わっておかなければならない. 高橋哲学は存在論をもって中核としているが, この哲学を広義に解すれば, そのほか博士みず からによって記述されたものとして, 認識論, 人生論, 文化論, 宗教論がこれに含まれる, その ) うえ哲学そのものについての反省としての哲学論がある1 . しかし, い まは高橋哲学の中核のみについて述べることとするから, 狭義における高橋哲学の ま次のものがあげられる, 1 ) そのそれぞれについてのまとまった著述として0 ‘認識論’ ‘ ’ 昭和8年 岩波講座 “哲学” のち単行本 , , , . ”私の哲学と人生観’ ’ 昭和2 8年, 角川女庫. , ‘ ‘西欧文化と日本文化’ ’ 昭和3 6年, IDE教育選書, , ‘ ‘人生と宗教” 昭和3 8 年, 理想社. , ”哲学の本質” 昭和22年 福村書店 , , . - 1 -.
(3) . 野. 辺 地. 東. 洋. 組織がここに展開されることとなる, なお高橋博士は存在論の究極において “無の論” を展開し た. これは高橋哲学の存在論の必然的帰結とうけとられるべき ものである. したがって組織のな かに存在論とあわせて ”無の言密’ をも考えるべ きである. ただ, 無が哲学として独自に論ぜらる べきものであるかどうかということは, ひとつの大きな問題である. 無に関する哲学論が, いわ ゆる “無の哲学” として, そしてまたとくに東洋的なものとして, 無反省に通用す べきものであ る か ど う か とい う こ と に つ い て, 私 は 改 め て 考 えて み な け れ ば な ら な い と 思 っ て い る の で, こ れ. は別の機会に問題提起をするとして, 高橋哲学における ”無の言耐’ はその存在論, いいかえれば ‘ ‘有 の言窟’ の 帰 結 と し て , そ の 組 織 の な か に 含 ませ るこ とが で き る と 考 え ら れ る の で あ る. また. “無の言甜‘ は哲学の限界にかかわる問題でもあるから 当然 哲学についての反省として 高橋 , , , 哲学の哲学論に触れることである, さらに一言しなければならないことは, 方法論についてである. 組織といっ たばあい, ただち に思い浮かばれる言葉は方法である, それにもかかわらず, いまはとくに高橋哲学の方法につい て述べるということをしないでおく. 方法と組織とは区別して論ずることができないという見解 も な りた つ か も し れ な い. ま た もの に よ っ て は 方 法 即 組 織 と い う こ と も い え る で あ ろ う. し か し. そのようにいわれることがあるにしても, そういう結論にいたるまでには方法が組織とあわせて 問題とされなければならない. 高橋哲学がこれらのことに該当するか どうかはともかくとして, いまはその方法論をとくにとりあげなか ったのは, ただ誌面の関係からだけのことで, 問題とし て は 当 然, 留 保 さ れ た も の と し て と ど ま っ て い る わ け で あ る.. さて, 高橋哲学の存在論は二つの部門に分けられる. 第一は体系存在論であ り, 第二は現実存 在 論 であ る. な ぜ こ の よ う に 分 割 さ れ る か と い う こ と に つ い て は, む し ろ 内 容 に し た が っ て 理 解. することが適当であるように思われる, しかし今回は第一の存在論のみについて叙述し, あわせ ‘無 の言窟’ を 加 え る こ と に と どめ るi ) て‘ .. 1, 体 系 存 在 論 A. 根源と生成とを包む体系 体系存在は連続的能産原理としての根源を, ゴーヘソ的に体系のタ ト部に前提することなしに, まったく体系のうちに内在せしめるものである, したがってそれは原理的には完全に 閉合的であ る. とはいえ, それは開放的体系をいかなる意味においても排斥するものではなく, それを充分 に包容しうる優位性をもつものである, また, 終りないし結果だけが真の意味での全体 であるの ではなく, また生成的過程が全体であるのではなく, 生成を全体として含む体系的統一がさ らに 大なる全体 である. したがってこの体系こそが真の根源でなければならない. しかしこの意味の 根源はもはや普通の意 味での根源, すなわち産出するものとしての始元ではない. それは時間的 な意味でも論理的な意味でも, けっ して産出することなき包括的始元である. それを産出的 と考 えることは, 単に相対的な立場からの比輸的な見方として許されるだけである. 働く絶対は真に 絶対的な絶対ではなく, 相対的な絶対にすぎない, 体系それ自体は産出するものではないことは以上のごとくであるが, しかしまたそれは根源無 からの産出を含むものである, したがってそれは生成をしてかえって体系の不当な束縛か ら脱せ しめ, それを真の生成たらしめることができる, なぜならば体系存在は根源無の発展をその必然 1 ) ここに用いられた資料は, 高橋博士の著述の各種のもののなかから集められたが, 当面の目的からいって 野辺地東洋篇 “高橋哲学”(福村書店版) がしばしば利用された, - 2 -.
(4) . 高 橋. 哲 学 の 組 織. 的契機として自己のうちに含むことができるからである. しかるに, いわゆる弁証法的運動なる ものは二つの見かた, つまり体系の見かたと生成の見かたとの結合によるところの混合物 である こ と を, し た が っ て そ れ は 真 に 体 系 の 立 場 を あ ら わ す も の で は な い こ と を, 示 す も の で あ る. し. かしながら, 体系はもとより弁証法的運動を含むものである. それは根源無のなかから微分的連 続の原理によって産出された正立と, またこの正立を根源無となして同様の仕方によって産出さ れた反立とを二つの極限点となし, その両極のあいだに存在する正負の発展の過程の全部をも, 自己のうちにおさめつくした統体性である, 体系の両端は, それぞれ同時対立の関係においてあ る. しかし体系はただ二つの終端からのみなるものではなく, 全部の終端と全部の連続的中間か らなるものである, 矛盾対立とは体系の対応しあう両端をとって考えるときに現わ れるものであ るが, こころみにこの両端に次第に力を加えて, ついに極度に緊張するばあいを考えるならば, その両端に存在するものはす べてこの一 つの力点に集まり, それによって代表されることをわれ われは発見するにいたるであろう, ここに中間がいわば空になり, 非連続ないしは矛盾における 絶対的同一性, 面と面との弁証法というようなものが現われる, また逆にこの両端の緊張を弛め るならば, 中間的な存在はふたたび現われてきて, 連続的程度的に並ぶことになるであろう. 体系存在は以上に述べたごとく, 無から有にいたる正の発展と, 有から無にいたる逆の発展と を同時に包越するものであるが, このことを存在論的にいうならば, 無は積極的な可能存在であ り, 無か ら有にいたる途中の発展は, ある程度において偶然的なる現実存在であ り, 有は相対的 な意味での必然存在である, そしてこれらを包越する体系存在は いうまでもなく絶対的な意味に おける必然存在である. またこれを思惟法則に対応させてみれば, 現実存在にあたるもの は充足 理由の原理, 必然存在にあたるものは同一原理, 逆発展にあたるものは矛盾の原理, 絶対的に必 然的な体系存在にあたるものは積極的な意味における排中の原理である. また体系が存在それ自体とみ られるかぎりにおいては, それを表示する論理的 表現は全体肯定. ’ す なわち . ‘こ れ で も あ り ま た そ れ で も あ る“ である 簡単にいうなら 的 な “こ れ 並 び に そ れ’ , , . ” ” 1 である -a ば あ り--あ り (Sowohl. , そこにおいては否定的な根源無それ自身も存 在的なもの として現 われると同時に, 存在の積極的 な対立者となる. 体系においてはその両端はつ ねにかか る矛盾的対立 関係におかれているのである. この矛盾は対象的に措定されたところの, この意味 で存在するところの矛盾である. 存在はあるがままにあるごとく, 無もまた無きがままにあるの である, 肯定が肯定されているとともに, 否定もまた肯定を否定するものとして肯 定されている の で あ る. Lたがって体系は肯定と否定とを等しくあらしめている大肯定であって, この点にお. いては肯定の n次の肯定もまた肯定されてあるのである. このような “これ並びにそれ” の体系 存在においては, 方法はことご とく如実の相を現ずるのであっ て, すべてはた だあるがままにあ るのほかないのである. 仮りにある姿が真にあるのである, いな, 仮りとか真とかという価値的 差別すらが, もともとありえないのである. B, 発展と逆発展とを包む静止 体系存在は全体存在, あるいは静止存在, またはこの両者を一つに して, 全体的静止的存在と い わ れ る こ と が で き る も の で あ る. こ れ は 生 成 的 発 展 と い う考 えか た と は 逆 の も の であ る. い っ. たい生成的発展について考えてみるに, この生成の根源が発展の始めにあるとするのは, なるほ どごく自然の考えかたであり, またある程度そのような考えかたの正 しさを求めてもさ しつかえ ないように思われる, けれどもさらに深い見かた をするならば, 発展の根源はその始めにあるの ではなく, かえっ てその終りにあることが わかる. だがまた逆に, 発展の根源を終りにのみある.
(5) . 野. 辺 地. 東. 洋. とするのは, これが始めにのみあるとするのと同様に, 抽象的な考えかたである. 実際は, 両者 をともに含んだ発展の静止的全体が真の根源なのである. これが, 体 系の原理としての排中の原 理の根底に存するところの, “全体 生の原理“ とも称すべきものなのである. 発展というも ・のについて, なお少 し詳 しくみてみよう. Aという段階からBという段階に発展 するばあい, それはAか ら, Aを除外したBに達するということではない. 抽象的に考えればそ のようにもいえるが, それはけっ して具体的ではない. じつはABの双方を包んだ全体に含まれ る こ と に よ っ て は じ め て, Aか らBに達することが できるのである, ところで全体がABを含む. 仕方は空間的並列の様式である. したが ってABの時間的継起はABの並列を予想してなりたつ というこ とができる, しからば全体の立場に立ってみるとき, Aか らBへの発展が可能であるよ う に, B か らA へ の 発 展 も 同 様 に 可 能 で な け れ ば な らな い, こ の B か ら A へ の 発 展 も また, B が. ABを含む全体に包まれることによってはじめて可能なのである, も し, 全体は部分を含み部分 は全体に含まれるという考えかたを認めないとすれば, Aか らBへの発展ということす らが不可 能である. ましてBからAへの 逆発展の可能は理解 しがたいこととなる. また両方向の発展によ る全体が, 同一の全体であるということも, 知ることができないこととなる, ABの統一的全体 に よ っ て こ そ, A の B に た い す る 関 係 も B の A に た い す る 関 係 も, AとBとの存在そのものもは じめて可能となり, 発展の始めにその終りが潜在的 に含まれて存するということの可能性も, ま たその真の意味も, はじめて判然とするのである, 始めと終りのこの考えかたは弁証法的止揚とも違ったものである. 体系存在は, 弁証法的止揚 におけるように, 先件を後件において弁証法的に止揚された契機として含むにとどまらず, 先件 を先件そのものとして含むことができる. このように先件を先件と して含む体系存在による止揚 の仕方は, 先件を後件のうちにだけ含む弁証法的止揚の仕方と異り, かかる弁証法的止揚をもそ のうちに含むことによ って, ひとしくこれを止揚する高次の止揚でなければならない. この止揚 の止揚はもはや弁証法的止揚のように発展の過程にある止揚ではなく, 発展を含むことによ ・る止 揚 である, この原理に照 らして始めと終りの問題をみるとき, 弁証法的止揚によるならば, 始め は始めならざる姿に変容させられたうえで終りのうちに含まれることになる. ところがわれわれ の 場 合, 始 め は “始 め と して“ 終 り の う ち に 含 ま れ て い る の で あ る, こ の こ と は 終 り が 始 め と 対. 立する終りであるかぎり, 不可能なことである, 始めを始めと しても含みうるものは, 始めと終 りと, そして始めと終りにいたる生成の過程全体とを反映する, 高次の包括的静止でなければな らない. この 包括的全体においては, 正の方向の生成とともに逆方 向の生成もまた可能であり, ただに可能であるのみならず, 実際に同時的にそこに 含まれていなければならない. そこにおい ては一方A が始め でBが終りであるとともに, 他方Bが始めでAが終りである, したがって含み 含まれる関係も逆になる, い ずれにおいても弁証法的止揚によっては尽くされないものがそこに はあるのである. このように正 逆の両発展をさながらに包含する全体が, 真に具体的な体系であ る.. した が っ て か か る 具体 的 体 系 に お い て の み, 始 め を 含 む 終 り と と も に, 始 め と して の 始 め も. また 同 時 に そ こ に 含 まれ る と い う こ と が で き る の で あ る.. そこで発展の根源を全体という一つの静止体に求めるということが, そもそも どのような意味 を も つ か と い うこ と が 問 題 と な る. だ が, こ の 発 展 の 根 源 を 求 め る と い う こ と が, す で に 一 つ の. 発展であるであろう. われわれが発展を問題とするには, なんらかの意味で発展の全体をまず知 っ ていなければならない. これを知りうるならば, 発展は全体において保たれ, 含まれ, 存在せ しめられていることを思わざるをえない. すなわち発展の過程そのものが発展の全体における一 - 4 -.
(6) . 高 橋. 哲 学 の 組 織. 部とならなければならない. 発展そのものを含む発展の全体は, 発展と矛盾することなしに, か えって発展を完成するものである, それは静止である. それはけっ して運動に対立する意味での, または無限小の運動としての, または運動の抽象としての, あるいは運動の結果としての静止ではなくて, 運動を含み, 運動を 拡張し, 運動を具体化し, 運動を結果するところの, 運動全体としての静止である. かかる意味 においてわれわれは, 運動そのものは静止に向っ て進んでいるもの, 発展そ のものは静止への道 を た どりつ つ あ る も の と い う よ う に, 考 え ざ る を え な い の で あ る.. 以上のごとく体系存在には動と反動とが同時にそのまま含まれるが, それらは対立的な動と反 動としてあるかぎりにおいてではなく, それらがそのまま高次の静止たる体系の うちに包越され たものとしてあるかぎりにおいてである. 体系の立場は螺旋的に巻きあ がる運動と, その反対に 巻きさがる運動とを, 巻きひろがる渦巻と巻きせばまる渦巻とを, 右廻りの循環運動と左廻りの 循環運動とを, そ してその他のあらゆる様式の運動を, すべて同時に可能ならしめる, 運動全体 と して の 静 止 の 立 場 な の で あ る,. C. 有限を包む無限 無限と有限との関係も包越・被包越の関係によっ て独自の解決をみいだしうることとなる. す なわち無限なる発展を包む高次の静止的体系は無限完結体でなければならないから, それはヘー ゲルの非難した悪無限でないのと同様に, かれのいわゆる真無限でもない. 無限完結体である体 系存在にたい してみるときは, かれの真無限も真の真無限ではなく, じつは一つの悪無限にす ぎ ないものである. この無限完結体系は単に静止的なものではなく, 発展を不可欠の契機として内 包する高次の静止体であるか ら, 無限は有限を離れたものでもなく, 弁証法的にそれと相即的な ものでもなく, 包有限的な存在と考えられなければならないものである. また有限についていうならば, 有限は無限と区別されてはじめてその意味をなすものであるか ら, 有限者だけの立場を主張するためにも, 無限なるもの, 永遠なるものを何らかの意 味で立て なければならない. 有限的な現実存在はハイデ ッ ガーのいうように “世界一内-存在” である. ’ であり ‘ ‘ ’ ’ しかし単にそれにとどまらず, 究極において “絶対-内-存在’ , 無限-内-存在 であ る. 絶 対 を立 て る と い う こ と に 関 す る 限 り は, む しろ キ ェ ル ヶ ゴ ー ル の 立 場 に 近 づ く 必 要 が わ れ. われはある, けれどもかれのように, また弁証法神学者のように, 有限と無限, 人と神とを完全 なる断絶的対立におくことなく, 前者を後者のうちに内在化せしめなければ ならない. 絶対者と いえどもそれがわれわれにたい して交渉をもちうるためには, われわれのうちに生きるものでな ければならない, しかしながら絶対者の内在化は, 絶対と相対との完全な一致にまでもたらされ るべ きではない. も し絶対が相対と完全に同一ならば, すべてが絶対となり, あるいはす べて が 相対となり, 絶対の内在化を主張する必要は最 初から存しなかったはずである, また両者は矛盾 的対立において相即すると考えるべきでもない, なぜならばわれわれはこれによっ て, 絶対を相 対と同格の位置に おとす不合理におちい り, しかも両者を統一するさらに大きな全体性を真の絶 対者として立てるほかはないか らである. したがってわれわれは無限と絶対とを, 有限と相対と のそとに超絶せしめることなく, また前者を後者に完全に内在せしめる ことなく, また両者を単 にいわゆる相 即の関係におくこともなく, しかも前者を後者に内在せしめつつ超越せしめ, また 両者を相即せしめえなければならない. そしてこの要求のすべてを満足せしめるものこそ, 包一 切的な, したがっ てまた包弁証法的な全体性にほかならない, 絶対他者のごときも, 有限者を貫 徹しながら, それに対立する無限的包越者として理解されることができる. ヤスパ ースの包括者 - 5 ー.
(7) . 野. 辺 地. 東. 洋. f i (das Umgr e ende) の 概 念 は, わ れ わ れ の ば あ い の 包 越 者 の 概 念 に 類 す る も の で あ る が, し か. し両者はまっ たく同一のものではなく, またかれの超越そのものが包越と考え られなければなら な い で あ ろ う.. 体系存在はすでに述べたごとく弁証法を包越して, いわば包弁証法の立場に立つものであるが 他の一切の存在形態 をも同時に包越することによ って, それ らをあらしめるものである. これを 存 在 自体 とよ ん でも い い, た だ しそ れ は プ ラ ト ンの オ ン トス ・ オ ンの よ う に 現 象 の 彼 岸 に 超 越 す. るものではなく, これを包越するものとして考えられなければならない. それは抽象的な存在- 般としてではなく, 具体的な全体存在として考えられなければならない, それは時間を包む包時 ’ になる 水は流れつつ 間的永遠者であり, 現実の時間的運動もそこでは “凍っ たもののごとく’ , とどまり, 時計は打ちつつ黙する. これが動を包む高次の静止存在の立場である. D, 全体の立場とわれわれ こ れ ま でに も 述 べ た よ う に, Aか らBへの発展もBからAへの発展も, いずれも全体によっ て な りた ち, しか も そ の 全 体 が 双 方 に と っ て 同 一 の も の で あ る の だ が, A か らB へ と か, B か らA. へとかと, 発展が方向をもつものとして考えられるかぎりは, そのおのおのの発展は同一なる全 体の半面をと らえたにとどまることとなる. 一般 に発展ということは一定の方 向をもつことを必 然の条件とするものであるから, 発展によ っ ては発展と逆発展とを含んだ全体に到達することが できない. 完全な全体は, 発展を一目におさめる立場, すなわち全体そのものの立場に立つにい た っ て は じ め て, 到 達 さ れ う る の で あ る,. しからばわれわれ人間にとって, かかる全体は達せられうるものであるかというに, われわれ は有限なるものであるから, なん らかの一定の方向づけをも った発展をいとなむものであり, そ のかぎりにおいて完全な全体に達することはとうてい不可能である, ただわれわれは, あるいは 発展の緊張度を強 めていくこ とによ り, あるいは生成と逆生成, 発展と 逆発展とを交互になすこ とによ って, 完全な全体に近づくことが できるであろう. 体系存在の立場は純粋理論の永遠性と直観性とを基礎 づけ, そのうちに弁証法的認識をさえ一 つの純粋 ならざる理論と して成立せ しめること ができる立場である, 純粋理論は全体存在の稀薄 な上層を形成するものであ って, われわれがそこに立場をとるかぎり理論の自律 が考え られ, こ の立場から他の非理論的存在層を無関与的に反省するときに, 非理論的なものの理論的認識が成 立し, したがっ て倫理学, 美学, 宗教学などがいかにして可能であるかという問題はここに解決 を み る の で あ る,. なお, この全体存在的体系の立場は, 従来の多くの哲学的立場に, それぞれの位置を与えるも の であ る が, そ の 実 例 を い く らか あ げ て み る こ と に しよ う. そ れ は 以 下 の よ う に な る. リ ッ ケ ル. トの他立原理は, この体 系の両端と しての形式と内容との関係を静止的にみたものであ る. ヘー ゲルの弁証法はこの両端のあいだの内部構造をみないで, ただこれを反省作用をもっ て結合した. ものであり, ゴーヘ ソの根源の原理は, それらのあいだの内部構造をみたものではあるが, ただ それの一方向だけをみたものにすぎない. またヘーゲルの論理学そのものについてみるならば, 全体的具体的体系は, 反省的範晦の領域をあらわすところの本質の領域のうちに, 成をおもなる 範噂とする移行的範噂の領域をあらわす有の領域を織りこみ, 概念の領域, ことにその絶対理念 を も っ て こ れ を 統 一 した も の と い う こ と が で き よ う. こ の よ う に 全 体 的 体 系 は, ヘ ー ゲ ル に あ っ. ては発展の段階と して並べられたものを圧縮 して, いわば一枚の紙に したようなものであるが, 実際においてそれは, 発展の段階の全部よりも深く, また弁証法以外のさまざまな方法をも自己 - 6 ー.
(8) . 高. 橋. 哲 学. の 組 織. の うち に 包 含 す る こ と の で き る, 原 理 的 に あ た ら し い 領 域 であ る, こ れに よ っ て 一 方 に お い て は. 無限に豊富な経験の低地にくだろと同時に, 他方においてはヘーゲルの立場をも高く超出して, ついには絶対無の立場にまで到達することが できるのである, 以上の意味の体系を考えることは, 生命と歴史とを強調する態度にも合致 している. なぜなら ば具体的体系こそはかえっ て生命以上の生命であるとともに, また過去自身の存在を確保 し, か くて歴史そのものを可能ならしめるものだからである. けれども単に動的な体系概念をもって満 足しないで, 動をも包む静の立場に超躍するために, 高き直観と大いなる決断とが 必要なのであ る. 体系の立場は最後の立場ではない, 体系の統一は真に最後の統一ではない. また体系的全体 は真に最後の全体ではない. 最後には絶対的統一, 絶対的全体としての無の境地 まで想到するこ とができるのであろう. 体系的統一から絶対的統一と しての絶対無の境地にいたる発展は, もは や弁証法的のものではなく, 直観的充実にまつほかはないであろ う. その充実作用の段階として は, 正 は た だ ち に 反 で あ る と か, 部 分 は 同 時 に 全 体 であ る と か と い う, ヘ ー ゲ ル に み う け ら れ る. ような考えかたが, 種々の意味で是認されるのである, E, 体験存在論. 体系存在の全体性は ”愛” と い う 言 葉 に お き か え ら れ る こ と が で き る, こ の こ と に つ い て 述 べ るにあた って, 高橋哲学の存在論で扱われる存在は, 同時に ”体験” でもあるということを理解 しておかなければならない. すなわちこの場合, 存在と体験とは同 義語である.. 体験の世界のそとに超越的存在の世界を立てようとする努力も, かず多い哲学的立場のうちに はみられることは, む しろ当然であるが, それは体 験ということをあまりに個人的に, また心理 的に解釈 した結果である. もしこれを広く解するならば, すべての存在を体験に内在的なるもの ′は, 必ずしもただちに個人の自由になるという と考えることができる. 体験内にあるということ ことを意味してはいない, 体験内容でありながら, われわれの自由になりえないものは多く存す る, 普通に体験超越的と考え られるのは, 体験内にありながらわれわれの自由に処理 しえない内 容のことである. いっ たい, 広い意味 でわれわれの体験とならないものの存在を, われわれは ど のように して知りうるであろうか, ひとびとが体験超越的存在を立てなければならないと考える のは, すべての体験内容はわれわれの自由になりう るという謬見のうえに立つものにほかならな し・.. しか らば 次 に, 存 在 は 根 本 に お い て は, 体 験 の う ち の い か な る 名 称 に よ っ て 呼 ば れ る べ き であ. ろうか. 全哲学史を通 じて主知主義と主意主義とが二大陣営をかたちづく り, たいていの哲学者 がそのいずれかに属していることは, 周知のとおりである, これにたいして根本の実在を情的な るものとみるのが, 高橋哲学の立場である, いわばそれは主情主義である. そ してその最も根本 的なる感情を ”愛” であるとするのである, このようにみるならば, 意志とは小愛が大愛に自己 を拡大する現象であっ て, それは愛か ら発 し, 愛のうちを愛に向 って伸びゆく働 きであり, 知と は愛を稀薄に したものであり, 知と愛との中間に美が位置する, それらはす べて愛の変容にほか ならないものである. したがっ て愛は真善美の合一点であり, さ らに適切にいうならば, 三者の 合一体である. そ して愛はその本質上, 肯定的である, 否定というものを実在の根本とみる論者 も多くあろうが, 否定とは小なる肯定が大なる肯定に拡大強化される途上に起こる現象にほかな らないのである. したがっ てさらに, 愛は全体的存在である. しばしば精神は全体であるといわ れるが, 全体的な精神は愛にほかならない. 愛は一切を包越するものである, 他を立てることに よ っ て 己 を 立 て, 自 他 を と も に ま っ と う す る も の は 愛 を お い て ほ か に こ れ を 求 む べ く も な い, - 7 -.
(9) . 野. 辺 地. 東. 洋. さ らに最後に, 愛は全体存在であるのみならず, 全体的一在である. この愛はさまざまの形態 に お い て 現 象 す る. あ る い は リ ビ ドー の 形 態 に お い て, あ る い は エ ロ ス の 形 態 に お い て, あ る い. はアガペ ーの形態において, また愛は他を立て, 他を愛することだといわれ, 他において自己を 見, 自己において他を見ることだともいわれている. もちろんかかるものも愛の一形態には相 違 ないが, 必ず しも愛の純乎として純なるものとはいい難い, 愛の極致は一体意識であり, 一体感 である. 自愛も他愛も愛の相対的現象形態にすぎない. 愛の実体は純一無雑である. 自他を没し て一体たるにある. この一在的愛は弁証法をもって してはとらえることができない, 愛をあえて 弁証法的に理解 せんとすれば, 矛盾否定の弁証法によ らないで, 円融肯定の弁証法によ らなけれ ばならない, この弁証法は大調和の弁証法である, けれども愛は大調和であるにと どまらず, そ 体験はその究極において絶対者と冥合を志向 の極まるところは一体融合である. この一在的愛の‘ するにいたるのである. しかしそこにおいては体験存在の領域はすでに突破され, 絶対無に包消 ‘無愛の愛” の境地である されているのである. それはいわば ‘ . 1 1, 無. の. 論. A, 有の限界と しての無 有は, 存在するあらゆるものが, それにおいてなりたつ, 究極のものでなければならない. い いかえれば存在するものの根拠を追求するときに, 到達するところのものである. しかしなが ら 有のさ らに根拠を追求するときに, われわれは何に到達するであろうか. 有の根拠はふたたび有 であるとい うなら, それは同 じことの反覆 であるにすぎない. そのときわれわ れは, それは有な らざるもの, すなわち無であるといわざるをえない, かくしてわれわれは無意味なる反覆を脱出 す る こ と が で き る.. だが, われわれの論理の及ぶところは有 の世界においてである. 有を超えたところにまでは論 理は届かない, したがってわれわれは無について論ずるわけにはいかないのである, ただ有の極 限を意識しうるにすぎない. それではわれわれはいかにしてこの論理の極限に到達するであろう か. あ る い は, い っ た い 極 限 に 到 達 す る と い う こ と が あ る で あ ろう か, こ の 間 に 答 え る に は 事 実 ‘A は 非 A では を も っ てす れ ば よ い. わ れわ れ は 論 理 的 否 定 と い う こ,と を お こ な う こ と が あ る. ‘. ‘ ‘ ” ない” . 人間は人間 でないものではない . これが論理の 限界の一例である. あるいは有の限界 の 一 局 面 で あ る, こ の と き, 有 は そ の 一 部 に お い て 境 界 を 無 に 接 して い る の で あ る. さ らに い い. かえれば, そのかぎりにおいて有は無を根拠としてなりたっているのである. 有はけ っ して無の な か に は い り こ ん だ の では な い. た だ 無 に 境 を 接 して い る だ け で あ る. そ して, こ の 境 を 接 して い る と いう こ と に よ っ て, 有 が 有 た ら しめ ら れ て い る の で あ る. こ の こ と が, 有 が 無 を 根 拠 と し. てなりたっ ているという ことである, 論理の世界が無の世界にまで侵入したのではない. 論理的 否定が無を予想することによってなりたっているのである. そして論理はあくまで有 の世界にと ど ま っ て い る の で あ る. ”A は 非 A で は な い” と い う と き, 論 理 は A と い う 有 に 執 着 して い る の で. あり, けっ して有を超えは しない. これをもっ とも根本的な論理的否定についてみるに, それは ”有 は 非 有 では な い” と い う こ と に な る で あ ろう . そ して そ れ は 有 そ の も の に つ い て の 論 理 で あ. ‘無は非無で っ て, それを超えるものにかかわることを否定した論理である. なお, われわ れは ‘ ” はない と形式上はいうことができるかもしれないが, 実質的にはこのようなことは無意味であ って, われわれはもともと無を意識 して判断の主語 の位置にすえるということは, ありえないの である. いいかえれば無を思考の対 象とすることはないのである. ただ論理的否定のさい, 有の - 8 ー.
(10) . 高 橋. 哲 学. の 組 織. 側か ら無が予想されているにすぎないのである, 限界の此岸から限界の彼岸が感ぜ られるという ことである, 有の限界があるということは確かである. 論理的事実がこれを証明 している, 限界 があれば 限界の彼岸があるわけである, しかし, かく判断するのも, 此岸よりの判断である, な ‘半有半無” という言 おここに一言 しておくべきは, 高橋博士は連続的生成の様態を, しばしば ‘ ‘有 に して 無 ・ 無 に して 有” と 葉 によ っ て 表 現 して い る こ と で あ る, か く い う 筆 者 も 同 じこ と を ‘. ‘無から有・有か ら無“ に た い して 区 別 して い る こ れ は ヘ ー いう言葉によ って, 創造と終末の ‘ . ゲルの成の弁証法における無に近いものであるが, この生成に用い られている無は, あくまで相 対的なそれであって, 有の世界のうちにおいて, ある見地からみ られた場合の無ということを扱 っ たも の で あ る に す ぎ ない の で あ る.. “無 か らの 創ラ嘗’と い う こ と に お い て 考 え ら れ た よ う な 絶 ,. 対的意味における無ではなく, のちに述べる根源無の意味での無なのである. このように有の世界は論理の通用 する世界であり, 形而上また形而下の世界である. 無の世界 はなにものの世界でもない. 無が有の世界の根拠であるということもできない. なぜならそれは 無を主語の位置にすえることだからである, ただ有の限界を意識することにより, せいぜいこの 限界によ って有をなりたたせることをもって満足 しなければならない. さきに, 有は無を根拠と す ると い っ た の は, こ の 程 度 の こ と で あ る, わ れ わ れは “有 の言緒’ な い しは 存 在 論 は も っ て い る. が, 積極的な意味での “無の言硲’ はもともともちえないのである, われわれは, 有を包消 して無 へはいる ならばともかく, それ以外には無を語りえないのが真実なのである. いわゆる “無の哲 学” などというものも, 無を真の無ととるならば, ありえないのである, かりそめにも語 りうる ような無は, む しろ有の根源として, なん らかの有的性格をもったものであるにすぎない. 根源 無といわ れる無も, このような相対無でなければならない. それはまず根源無と して, つぎに体 系無と して, 考えられる. B, 相対無 (根源無・体系無) 根源無は 一切の存在をなりたたしめる根源可能性である, それはアリス トテ レスの第一質料と 同様に, 一切の存在範時の適用を斤けるものである, しかしそれは感性的なると非感性的なると を問わず, 一切の存在の根源可能性と考えられるものであるがために, かれの第一質料よりも一 層, 普遍的に して, また一層, 無規定的なものでなければならない. この普遍的無規定性のゆえ に, それは本質的に無でなければならず, したがってかれの第一質料におけるように否定は単に 偶然的にだけそれに帰せられるのではなく, 本質的なものとしてそれに属するのである. ゆえに この根源無は第一根源可能性として, 存在の領域から一歩を無の領域に踏みはずしているのであ る,. 全体的体系がさきにみ られたごとく, 正逆両方向をもつ構造によってなりたっているとすれば これはまた, 二つの根源無と二つの有と, またそれらをそれぞれに連結する二通りの生成とか ら なるものであっ て, まえにも述べたごとく体系存在はこれの全面的肯定, すなわち “これでもあ “ “ l り, ま た そ れ でも あ る” -a s) と して , さ らに こ れ を 公 式 的 に 表 現 す れ ば, あ り - あ り (Sowohl. 把握したものである. 根源無は体系存在においては肯定の面において考えられているが, しか し それ が一つの無である限り, 存在領域を逸脱する方 向をうちに含んでいる, けだしす べての無は それ がいかに相対的な無であるにしても, 唯一の絶対的なる無に連なる方向をそなえているから である, それはそれぞれの仕方における存在の否定である, いまも し体系存在に即する二 つの根 源無を手がかりとして体系存在の否定の側面に進むならば, それは ”こ れ で も な く, また そ れ で ’ 公 式 的 に は “な し もない’ ,. な し“ (Weder‐noch) の 形 に よ っ て 捉 え られ る で あ ろ う. こ こ で 附 - 9 ー.
(11) . 野 辺 地. 東. 洋. ’ は可能性 言するならば, 体系存在の “あり-あり” は必然性をあらわし, 根源無の “なし-なし’ ‘こ を示すものである, またこの両者の接触点に立つもの, すなわち運動の開始にあたるものは ‘ ’ 公 式 的 に は “あ り - な し“ (Entweder れ で あ る か, ま た は そ れ で あ る か’ -oder ) で あ り, こ れ ,. は偶然性である, つぎに体系無である が, 体系においては発展過程の各点がそれぞれに発展の根源とみとめ られ るものであるから, 体系無の全面はこれ らの根源無の総括からなると考えられる. しかし体系無 は発展を包越する体系的見地においての根源無の総括として, それ自身はもはや生成するもので はなく, その意味ではむ しろ生成不可能なる反対可能的中矛廿性である. それ で体系無が生成の根 源となるためには, 根源無が体系無に総括される場合のまさに逆のこと, すなわち体系無からそ れぞれ一個の根源無が選出されることが必要である. しかるにこのことは体系無そのものの立場 ではありえない. したがって体系無から根源無への移りゆきは偶然性によるものといわ ざるをえ ないのである. この偶然性は “根本偶然性” ともよばるべきものであっ て, 一切の現実存在にか かわる偶然性のもと づくア プリオリな原様相である, 以上のように根源無は発展を可能にする無であるが, 体系無はそれとは異なり, 体系すなわち 発展と 逆発展とを包む全体存在を可能にするところの無である. すなわち体系可能性である. ま た体系は発展を包越する存在であるように, 体系無は根源無を包越する無である, 体系において はいずれの点も根源点となりうるように, すべての根源無は体系無のうちに体系的に含まれてい るのである. 以上, 根源無にしても体系無に しても, いずれも可能性としての無であ っ て, これ らは有にたいする相対無であるにす ぎない. これにたい して次に述べる絶対無は, あらゆる可能 を絶して, 純乎として純なる無なのである. C. 絶対無 絶対無は, これを体験 したひとがない, それはあたかも生きている人間 が死を体験 していない した が っ て, い く ら絶 対 無 と い っ た と こ ろ で, わ れ わ れ は そ れ を 知 る こ と も で き なけ れ ば, 再 現 す る こ と も で き な い. ゆ え に わ れ わ れ は こ れ に つ い て 何 も い え な い の で あ る.. の と 同 様 で あ る.. た だ, あ る 相 対 的 な 程 度 に お い て は, こ れ に つい て 何 ご と か を い う こ と が で き る. も っ と も 相 対. 的な程度で絶対無を扱うということは, 矛盾 したことであるに違いない. 絶対というこ とは相対 を許さないことである. 絶対無の体験はあくまで絶対的でなければならない. しかしそれは理想 的なことであっ て, 現実にあっ ては相対的に絶対無を体験することで満足 しなければならない。 たとえば禅などではそれが おこなわれている, 無の境地に到達するということが, 禅でいうとこ ろの悟りである. それもわれわれが人間であるか らには, 絶対的な悟りの境地に達するわけには い か ない. 相 対 的 な 悟 り を も っ て, い ち お う は 満 足 す る と い う こ と に な る.. 無は哲学ない しは形而上学の外の問題である. 有の限界までが, 哲学すなわち論理の世界であ る. その限界の外まで論理的思考を及ぼすわけにはいかない. したがって思考はこの限界で停止 する, その先の無の‐ 世界にいかに して進むかというところに, 大きな問題がある, 無の世界は超 論理の世界である. 論理の世界から超論理の世界に到達するには, なにか特別の方法がなければ な らない. それ を どの よ う に す る か と い う こ と が, 古 来 の 問 題 で あ る. こ の, 別 の世界 に 移 る 方. 法というものは, も しあるとすれば, 普通の方法といわれているものとは まったく違ったもので あるにち がいない. 高橋博士が終始考えていたところのものである, 博士は昭和7年に公けにし た著書で, このことの困難を述べて以来, 同26年の著書にいたるまで, これ がいかに至難なこと であるかを述べている, これはいわば哲学の極限に存する問題である, 哲学の限界状況とい った - lo -.
(12) . 高 橋. 哲 学. の 組 織. らい い か も しれ ない,. すべて境界 をこえるということはたやすいことではない. 日常の経験において, われわれは充 分これを味わっている. いわんや有の世界か ら無の世界へ移りゆくということは, あらゆる問題 の う ち で も っ と も 困 難 な も の で あ る で あ ろ う, こ の 移 行 に は い っ た い い か な る 方 法 が用 い られ る. のか, そもそも方法があるのか. こ の 方 法 は ない と い っ て さ しつ か え ない で あ ろう. ふ た つ の ま っ た く 違 っ た 世 界 を 橋 渡 しす る. 方法はあろうはずがない. ただ飛躍によってのみ移行が可能となるだけであろう. ふつう飛躍と いっ ても, 飛躍のためには共通する有の基盤がなければならない, したがってふつうのいわゆる 飛躍は, けっ して非連続のところでおこなわれるものではない, それは原理的には連続的移行の 一形態であるにすぎない. しかしこの場合の飛躍は, これとはまったく性質の異なったものであ る. 連続的ななにものもないところにおける飛躍である. それは絶対的な意味での飛躍である, だが, 連続的有を地盤と した飛躍こそ, われわれの能力の範囲のものであろうが, どう して絶対 的飛躍をわれわれがなすことができるであろうか. それだからこそこれが問 題なのである. しかし, それは飛躍とはいえないものかもしれない. なぜなら移行すべき日的地は有 の世界で は ない か らで あ る, ふ た つ の 有 に は さ まれ た 無 の 深 淵 を と び こ え る と い う の で あれ ば, そ れ は 飛. 躍の名に値するであろうが, 先方が無であれば, それは飛躍の態をなさないことになろう, ただ 有 の世界から外に墜落したということになるかもしれない, あるいは墜落ではなく昇華であるか も しれない. ともかく, ふつう有の世界でおこなわれる仕方や方法とは異なったものであろう. 博士は絶対無 へいたるには体系存在の異常なる自己緊張が必要であるうといっている. あるいは また, “-点集中的自己突破” とか, さきにも一言した ”直観的充実” とかという言葉をも用いて い る. い ず れ に して も 無 の世界 へ は い る こ と は なみ た い て い の こ と で は な い, い っ た ん 無 の 世 界 へ は. いれば, そこでは論理は通用 しないはずである. 悟りの境地には論理はない, しからばなにが通 用するかというに, なにものも有的なものは通用 しないであろう, そこはただ沈黙の世界であろ う. 不立文字教外別伝である. いいあらわすべ き言葉がない, 言葉はロ ゴスである. これは有の 世界のものである. ところが無の世界はどのようにして表現されるべきか, 沈黙は伝達の方法で はない, 伝達のために人間に与えられたもっともよき手段は言葉である, 言葉の通用 しない世界 のことを伝達するに, やはり言葉をもってしなければならない, これは大いなる悲劇的矛盾であ る. これをあえて犯さなければならない宿命に人間はある. 禅のように無言の行ですませられる であろうか. しか し禅でさえ, 言葉を用いようとする, その場合, 有の世界の言 葉を借りてこな ければならない, だが, 論理は有の世界のもの, 有の世界の論理は無の世界には通用 しない, し ‘柳緑花紅” といわざるをえな い あたかも有の世 たがっ て, 言葉は借りても論理は借りえない,‘ , 界のうちの常識の立場に似ている, 少なくとも外観はそうであ る, しかしめざすところは無 の世 界の表現である. 高橋博士はこの常識の立場に似た表現にも満足しなかった. 違っ た世界のこと をいいあらわすには, 有の世界のなにものに も似ない表現をもってしなければならない. そこで “柳紅花緑” といいあらわ した 有の世界の言葉を借りて無の世界を表現するならば この方が , , ま だ しも であ る. も っ と も こ の表 現 だ け に か ぎ っ た こ と で は な い. な ん と い い あ らわ して もい い で あ ろ う, こ の “な ん と い い あ ら わ して も” と い う こ と の ひ と つ に 柳 緑 花 紅 もあ る, そ れ な らば. 柳緑花紅は, 柳紅花緑と同等の権利をもつであろう. しか したまたま常識の立場と一致 した表現 を使うよりも, む しろそれとはあい反する表現をもってする方が, まったく違った世界としての -1 1-.
(13) . 野. 辺 地. 東. 洋. 無の世界の表現手段と して, より適切であるわけである. もっとも柳緑花紅は, 高橋哲学にあっ ては, 有ない しは絶対肯定と しての体系存在の立場をあらわす言葉と して用いられている. すな わち ”われわれが体系存在の肯定領域から体系可能的な無を通 して絶対無の否定領域に次第に進 入してゆく にしたがっ て, 体系的に確定的な存在者の姿 が次第に不安定によろめきあい, 組みあ い, 乱れあいなが ら, その鮮明な輪郭を次第に際鹿化しつつ, ついには暗黒なる絶対無のうちに 解消 し去ろうとするのをみるであろう. かくては じめの体系的全肯定面における柳緑花紅はこの 絶 対 無 の 否 定面 に 移 さ れ る に した が っ て, い ま や柳 紅 花 緑 と な る” と い わ れ て い る, こ の こ と は. さきに述べた ”方法はことごとく如実の相を現ずるのであって, すべてはただあるがままにある のほ か は ない の で あ る, 仮 り に あ る 姿 が 真 に あ る の であ る” や, ま た ”水 は 流 れ つ つと ど まり,. 時計は打ち つつ黙する” が体系存在を表現 していることと照応する. つまり柳緑花紅は否定的媒 介を経ていない体系存在の境地を表現するために用いられ, 絶対否定と しての絶対無の境地につ いては, “柳紅花緑” の方 が選ばれている. 否定的媒介を経ては じめて前者が用いられる禅とは 事情を異にする. 無 の 世 界 に お い て は 言 葉 は 借 り も の で あ る, こ の 借 り も の を も っ て 語 っ て も 通 じな い. 有 の 世. 界の論理でその言葉を解釈することはできない. 無の世界とはかくの ごときものである. このよ うな世界の表現技術において, 古来, 禅はす ぐれたものをもっているようである, 柳緑花紅にお い て は, 先 の ”柳紅花緑” に一歩を譲っ たかに思われるが, 概 して禅という神秘主義の技術はす ぐれ て い る も の の よ う で あ る, 仏 と は 何 か と い う間 に た い し て, “麻 三 斤” と 答 えた と い う こ と は, まこ と に こ れ を 証 して あ ま り あ る と い う こ と が で き よ う. ぐ‘無 門 関”),. ‘無門関“ このよ うに不立文字をたてまえとする禅にあっても, 無の境地を説 明した書物は ‘ , ‘ ‘碧巌録” をは じめと して 非常に発達 している この常識・科学・哲学の論理をはずれた言語 , , 的表現をどのよ うにうけとるかは, うけとる側の責任である, このうけとりかたをこま ごまと言 葉で述 べるわけにはいかない, うけとり手はその表現をわか ったにしても, そのわかりかたは論 理的なものではない し, またそうであるはずはない.・論理的な理解ではなく, 超論理的なわかり か た で あ る.. もっ とも無の世界の表現はかならず しも言語を借りる手段のみであるとはかぎらない. その他 にもさまざまなものを借りて表現手段 とすることもできよう. 極端にいえばすべて有 の世界にあ るものがこの手段と なりうるといえるであろう. ”拍華微笑” が示すがごとくである.ぐ無門関”), 以・じ伝心ということは, なるほどしばしばいわれることであるが, しか しなんら表現手段を借り ないで了解がなりたつということはありえない. 言葉を借りるかその他のものを借りるか, いず れに しても客観化されたなにものかを表現手段と しなければ, 伝達ない し了解はなりたたない. 無の世界の表現は以上のように借りものによる手段をまつほかはないが, この種の方法はふつ う象徴的といわれる, 象徴とは, あるものを表現するのに他のものをもっ てするとき, その, 他 の も の の こ と で あ る. しか も そ の 場 合, あ る も の と 他 の も の と は 互 い に 異 質 的 な も の で な け れば. ならない. 象徴は全体の部分としてあるものではない. 部分と してあるものが全体の資格をえて ) それを表現するときは, 象徴とはいわれずに代表といわれる1 , もちろんかかる象徴と象徴され るものとの関係は, 有の世界の範囲内においていくらも成りたつものであるが, 無 の世界を有の 世界のものをも っ て表現するとき, 象徴の意味は最大に発揮される, しか しここで考えなければ 1) 象徴についてはさまざまな規定の仕方がある, ひろく代表をも含めるひともある, たとえばカッシラーの よ う に.. - 12 -.
(14) . 高 橋. 哲 学 の 組 織. な らないことは, 無の世界とはそもそも表現されることのできる何ものかであるのか, というこ とである, それは表現される何ものをももたないものであるはずではないか, それでなければそ れは無の世界ではない. それはまったく無内容の世界である. 象徴によ ってすらも表現されるべ きいかなる内容をももたない世界である. しか らばこれまで象徴が語 られ, 表現 がいわれたのは いったい何を対象としてであるか. それはほかならぬ, 有の世界なのである, 象徴的手段によ っ て表現されたのは彼岸ではなくて, 意外にも此岸だったのである. 無はまったく無 であることに よ っ て, 有を完全に包みこみ, それをあたかも, 自己の内容であるかの ごとくに写 しだすのであ る. 象徴によって表現される内容は無によって包まれた有であ ったのである. したがってこれは 無を通 して, 無からみ られた有の姿であって, は じめの有ではない. 有が本来の面目としてみた 自己自身の姿である. あたかも一点の曇りなき鏡に自己の真の姿 が写しだされるように, 完全な 無において有の真の姿が描かれるのである, 有の側からいえば, 有が無をとおして象徴化される ことによって, 有自身が完成 されるのである. 否定的媒介を経た有の姿である. このような無の世界について語ることを宗教的ということができるであろう, そして宗教は象 徴的表現をもっといってもさ しつかえないであろう, あるいは象徴的表現でのみ語りうる世界を 宗教の世界と考えることが できるであろう, あえてここに宗教という言葉をもちだすならば, そ れはかかる超論理の世界のことについて語り, これに住することであろう. これにたい して哲学 はあくまで有の世界を扱うのであっ て, 直観的方法によると反省的方法によるとを問わず, いず れにしても論理的思考によろいとなみの世界である, 哲学を純粋理論の学として徹底すればする ほど, このことはいわれなければならない. そして哲学と宗教との混靖は絶対に避けられなけれ ばならない. 高橋博士はみずからの哲学論として, 哲学を純粋理論の学として徹底する方向をた ‘無 の 哲 学” と い うが ごと き は じつ は 哲 学 では ない の ど っ た. こ の 立 場 か らい え ば, い わ ゆ る ‘ ,. である. ただ, 哲学の限界状況と して, 無に直面するということがあるだけである, この限界状 況を絶対的に克服 した, すなわち, 無の世界にまったく突入しえたということは, 古来絶無であ ろう. たとえ禅の道に深くはい ったひとでも, それは不可能であろう. それは程度的な問題であ る, したが って, 禅においても完全な悟りがえられたということはなく, ある程度の悟りがえ ら れ た と い う こ と のみ しか, い わ れ え な い で あろ う, 悟 り の う え に 悟 り を か さ ね る の が ふ つ う で あ る, こ れ で悟 り え た とい っ て, そ の ま ま安 心 して し ま う と い う こ と は な い で あろ う, 有 限的 な 人. 間 がつねに相対的な悟り しかえられないのは, きわめて当然なことでなければならない. そ して そのことの以前に重要な点は, 人間そのものが有の世界のものであり, いかにそこから脱出しよ うとしても脱出しきれるものではないとい うことである, も したまたま絶対無の境地に達 しえた とみずから主張するものがあるとするならば, それは自己の小さな体験をことさ らに誇張するも のであろう, まことに絶対的な悟りはありえない, 人間にとってそれは終局の理想で は あ ろ う が, またそれは理想であるにすぎない. 無の世界は論理の通用する有の世界からみるかぎりは, 神秘の世界といわざるをえない, 哲学 をこえてこの神秘 の世界にいたることは, したがって神秘的なことである. その方法も神秘的方 法といわざるをえない. しかしその方法をもって哲学内部の問題を扱うことにするならば, これ ‘古来しばしば哲学に独自なる方法と は適当なこと とはいえない. 高橋博士もこういっ ている, ‘ して神秘的方法なるものが採用された, この方法は対象獲得の方法ない しは対象再獲得の方法と ‘哲 ‘ して有用なものではあるが, 学としての哲学の問題処理の方法たるに適 したものではない”,( ” 学の本質 , 58頁) , 神秘的方法は有の世界から無の世界への躍入から始まって, 無の世界の体験 - 13 -.
(15) . 野. 辺 地. 東. 洋. (も しこれを体 験というならば) の方法としてたいせつなものである. しかし有の世界の, 学と しての哲学そのものの方法 としては適当なものではない. 哲学の限界状況においては じめてこれ が活用 されるべきものと思われる. 哲学の領域のみならず, 科学や常識の領域にあってこれが用 いられると, それは一種の神がかりの状況を呈することになる, この点は厳に警戒されなければ な らない, .目 を 閉 じる” の i k) という言葉は周知の とおり my6 か ら き て お り, こ れ は ‘ t 神秘主義 (My s. 意味である, これはすなわち心を内に向けるということである. そして無の境地に遊ぶことであ る. もっ とも絶対者との合一状態になることだともいわれるが, この場合, 絶対者は絶対有と考 えられているに しても, たいていは絶対無も絶対有も同 じことだと考えられるようである, しか しながら, 宗教の世界ではそのような態度は認め られるにしても, 哲学の世界にあっては, そう 考えるのでは問題は根本から破壊されて しまう, われわれは出発点から, かかる考えかたから遠 ざかっているのである. 有と無とを同一視したり, 混増したりする考えかたを避けているのであ る. 無 は 有 を 包 ん で い る と か, 写 しだ して い る と か と い う こ と は, 先 に も 述 べ た と お り の 意 味 で. ならいわれるに しても, そ してこれを有の世界の論理的用語をもっ て否定的媒介ということも許 されるとしても, 哲学の立場からは, 絶対無は有の徴分子たりとも含むことを許されないもので ある. なんらかの根源的な働き があっ てもならないものである. 自己限定などもしないものであ る. また有即無でも無即有でもないのである. だからこそ絶対無といわれるものなのである. 絶 対という言葉はそもそも不必要である. 単に無というだけでさしつかえない. ただ, 有と連絡を もつ相対無と区別 して, また一般に無についてのあいまいな考えかたを警戒する意味で, 絶対無 と い う の で あ る.. 有の世界は全体存在である. 全体に してーなる世界である, それのいかなる部分もたがいに連 続なるものである, この絶対的連続の有のうちにあって, われわれはそこに相対的なる断絶の存 することにき づかざるをえない. 空間や時間においては亀裂の存することを, 論理の世界におい ては否定の存することを, 実践の世界においては個体と行為の存することを, 制作の世界におい ては創造と創造された個物の形態の存することを. これらの断絶ないし非連続体は, たとえ相対 的に して程度的なものではあるにしても, 有の欠如によるものとして, 随時に随所にあ らわれる ものである. 全体存在は広大無辺でありながら, 随時随所において無に直面 しているのである. こ のよ う に哲 学 の 限 界 状 況 は い た る と こ ろ に み られ る の で あ る. D, こ れ ま で の 哲 学. ‘な し-なし” であり さ らに巌密には純 絶対無の立場を論理的に表現すれば, 真の意味での ‘ , “ ‘な し である 一なる ‘ 絶対無の立場は相対的には目余の立場と対置されるけれ ども, その絶対 .. 的な即目においては目余の立場をすべ て自己のうちに包みはてて, 純無なる立場である, す べて の有を無に包消 し, さらにすべての無を自己の “無ヲ※’ にあっめて滅却しつくすところの絶対無 に お い て は, それ が 無 い と い う と い う こ と もす でに 無 い で あ ろ う. た だ し他 方 か らみ れ ば, こ の. 空零なる絶対無は, あらゆる有を包越する純有なる一者が本来の自己を獲得することによっ て自 己自身を喪失した状態ともみることができる. 絶対的な無は無的に有を包越す るものであって, 自己を有に限定するものではない, これまで の哲学の大部分においては, ひとはいかに して絶対から相対が生ずるかという間を問い, これに つまずいたのである. この問いのうちに, 哲学的思惟にも免れない生への傾動を, あるいはまた 人間的なものへ の執着の反響を感じとることができる. これに反してわれわれは絶対無について 一 14 -.
(16) . 高 橋. 哲 学 の 組 織. この間を断乎と して斥けるのである, 絶対無は有にみずからを限定するものではない. 自己を有 に限定すると考えられた無は絶対無ではなく, 結局は有に相対的に対立する無にすぎない. む し ろ相対的な有 無を有として包む体系存在が絶対無を限定するのである, もとよりこのようにいう ことす らも比嚇的な意味のものであって, 絶対無は自己を限定することもない と同様に, 体系存 在によって限定されることもないのである. それはすべての限定と被限定とを包越 して絶対に無 なるものでなけれ ばならない, ただわれわれ有限者は相対的な存在の立場か ら絶対無に接近 して いくほかはないゆえに, 第一次的に比暁的な意味において体系存在 が絶対無を限定するといい, さらに第二次的な比輸的な意味において 絶対無が体系存在に自己を限定するといいうるにすぎな いのである. は じめに断わったように, これまでも高橋博士の表現が多く用い られてきたが, さ い ご に つ ぎの 引用 文 を も っ て こ の 稿 を 終 る こ と と す る,. ‘ ‘これまで無の哲学を主張 したものも多くは無宇宙論的帰結を怖れて, 一方では絶対無を立て なが ら, 他方では, それが有として自己を顕現 してきたるゆえんを説明するにつ とめている. そ の結果, 絶対無の概念は徹底を欠くものとな らざるをえなかったのである. それゆえに無の哲学 の徹底を期するものは, 無宇宙論の名のまえに選巡す べきではない. しかしまた われわれ はこの 名を怖れる必要もじつはないのである, なぜならば, この徹底的な無宇宙論的絶対無は存在その ものの完成を意味するからである. そしてそれは絶対的即目においては, 永遠に絶対無としてと どまり, なんらの有にも自己を限定するものではないが, 有限存在にたい しては無限に豊富な存 在様相として発現しきたるからである, まことに真の絶対無は無宇宙的, む しろ包宇宙的なもの “歴史と弁証法” 1 であり, また したがっ て無歴史的むしろ包歴史的なものである,“ ( , 67頁). 体系存在か らいわば上昇の方向をたどれば無の世界が望まれたが, こん どは下降の方向をここ ろざせば現実在在の世界に到達する, つぎにこのものに立ちいっ て, 人間・歴史な どの状況をか え り み る こ と と しよ う.. - 15 一.
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