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宗密における真理の把捉
ー「円覚」の理解と関連して <目次> I.はじめに II . 「円覚」 の思想 1 . 『円覚経』における「円覚jの概念 2.宗密における「円覚思想」の展開m
.
「一心」の思想 1 . 「円覚(心) Jと「一心J 2. 「一心jの内容 3.諸思想、との関連 4. 宗密の心把捉の特 質 N. 如来蔵思想、の受容 1 . 「円覚Jと「如来蔵J 2. 『円覚経』と如来蔵思想、v
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おわりに I.はじめに 曹 潤 錆 中国において撰述された『大方広円覚修多羅了義経』(以下『円覚経』 と略す) Iは 「円覚Jとその真理を具現するための観 行の説示を主題とし 1本経の成立に関わる諸問題や思想的特徴などについては,望月{言亨 [1946:509-519)お よび拙稿 [1996a] , [1996b]を参照. 宗密における真理の杷促 ~09 ており,この「円覚」 の概念に対する考察は本経の理解に関わる核心的 な問題である.一方,この 「円覚」の語は以後の東アジア仏教において 広く用いられることになる.その第一の原因はむろん 『円覚経』の出現 そのものにあるが,後世における本経の受容の様態を規望するに,その 多くが宗密を介したものであることからして,むしろ宗密の研究に負う ところが極めて多い.そこで本節では本経の中心的概念である「円覚J と関連して,これに対する宗密の解釈を考察することにする.この作業 によって宗密の思想体系の内部構造をいく らかでも明らかにしたい. II. 「円覚Jの思想 1 . 『円覚経』における「円覚」の概 念 「円覚Jは, 語 義的には「まどかなさとり」 「完全なさと りjの意に なろうが,この概念、は『円覚経』 の出現以前においても幾つかの文献に その用例が確認 できる.筆者の調査によると, 「円覚Jの語が登場する のは,鳩摩羅什の訳出と伝えられている『仏説仁王般若波羅密経』が最 初である.しかし,この『仏説仁王般若波羅密経』自体,偽経の疑いの 濃いものである.このことから見て, 「円覚Jの概念は,サンスクリッ ト語などのいわゆる原語を持たない,純粋に中国の仏教者によっで創出 されたものである可能性が強し、2_ 一方, 『円覚経』出現以前の諸文献における「円覚」の用例では,そ の概念規 定などはほとんど行われていない.ただし, 『仏説仁王般若波 羅密経』 の異訳とされ,唐の不空の訳出に帰される 『仁王護国般若波羅 密多経』では 「円覚jが「正覚jに置き換えられている. これらのこと からも, 『円覚経』 が登場するまでは,この「円覚Jの語は,中国にお 2 『円覚経』に至るまでの諸経論における 「阿党」の用例やそれらと 『円覚経』における 「円覚Jとの関係などについては,拙稿 [1996b]を参照.なお, 『大明三歳聖教目録』 (南{康文雄訳補, 1929,南倹博士記念、刊行会)は『円覚経』の党名をMahavaipulva -purnabuddha-siitra-prasannortha-siitraとするA U − − 斡図{弛教接SEMINAR7 いて決して馴染みのある概念でもなく,内容的にも確定したものではな かったことが知られる.裏返せば, 「円覚Jの語が東アジア仏教におい て重要な概念として登場し,広く用いられるのはまさに『円覚経』にそ の端を発するといえる.では,この概念は『円覚経』においてどのよう な意味内容を持ったものなのであろうか. 『円覚経』における「円覚Jの語の用例は,菩薩の名前として用いら れる五つを含めて,全部で六十五ヶ所にのぼる.本経の教説において「円 覚」に関連する言及を辿っていくと,その説明は次の幾つかの点に整理 され, われわれは「円覚」という概念の内容・性格についてもこれによ ってある程度推測することができる. まず,本経は「円覚Jを唯一・窮極の所証の真理として位置づけ,一 貫してこの 「円覚Jの成就のための修道論を説く.たどえば,本経には 永断無明,方成仏道(大正 17'913b22) . 幻滅覚円満(同, 914a29) などとあり,このさとりが無明・幻の滅によって実現されたものとされ る. 次に,本経には「円覚」という真理の根源性が主張される.すなわち, 本経には, 無上法王有大陀羅尼門,名為円覚,流出一切清浄真如菩提浬繋及波 羅蜜(大正 17, 913b19・20・) 一切衆生種種幻化,皆生如来円覚妙心(同, 914a10・11). 一切諸衆生無始幻無明,皆従諸知来円覚心建立(同, 914a25・26) などと説かれ,最初の用例は仏教における諸真理概念,または諸の浄法 に対する「円覚Jの根源、性を,後の二用例は「円覚」を心という主体的 視点から捉え現象世界の原理としての「円覚Jの根源性を主張し, j争染 の一切の諸法に対する「円覚Jの根源、性を強調するのである. 宗密における真理の把 捉 111 次に,本経には「円覚Jの不動・常住性が主張される.本経には上記 「一切衆生種種幻化,皆生如来円覚妙心Jの文に続いて, 衆生幻心,還依幻滅.諸幻尽滅,覚心不動(大正 17,914al2・13). と説かれ,衆生心の壊滅性に対して「(円)覚心Jの常住・不動性が主 張され,また 如鋪金鉱,金非鋪有.既巴成金,不重為鉱.経無窮時,金性不壊. 不応説言本非成就.如来円覚亦復知是(大正 17,915c17・19・) とも説かれ, 「円覚Jの不変性・本来性を強調する. 次に,本経には, 円覚普照寂滅無二(大正 17,915al8). 一切知来妙円覚心,本無菩提及与
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里繋,亦無成仏及不成仏,無妄輪 週及非輪廻(同, 915c19・21・) などとも説かれ, 「円覚Jは一切の相対的立場を離れた絶対的境地のも のとして,またその寂滅・平等性が主張される. これらのことから,本経において「円覚Jは一切の染・浄の諸法に対 する根源的真理・本来的・絶対的真実としてその常住性が主張され,一 種の生成論的・流出論的意味における根源・本体としての性格が強く打 ち出されていることが知られる.ただし,本経において「円覚」の実体 性が無批判的に肯定されているわけではない.というのも,本経では「円 覚Jを実体的に捉えることを牽制し, 円覚自性,非性性有.循諸性起,無取無証(大正 17,917al0司11). と説いているのである.これは, 「円覚」の自性は実体的に捉えられる112 勝図{弗教嵯SEMlNAR7 ものではなく,そのまま本性として存在し,諸々の性質につき従って起 こるもので, (その本性を)把握することはできないし,明らかにする こともできない,というのである 2 宗密における「円覚思想Jの展開 宗密は, 『円覚経』の教説全体が「円覚Jをあらわすためのものであ ると理解する.すなわち, 『円覚経』は十二の菩薩が次々登場し,かれ らと仏との問答の形で教説が展開されるが,宗密はそのうちの十ーの菩 薩と仏の問答を正宗分にあてて, 此正宗中諸菩薩等,与仏問答,発揚本意,欲顕円覚. (『円覚経大疏』 (以下『大疏』と略す)上三,続蔵 1-14
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127b) とし,教説全体を「円覚jの概念によって受け止めるのである では, 宗密はこの「円覚J をどのように解釈するのであろうか. (根源、・本体としての「円覚」) まず宗密において「円覚jはすべての教法の当体・本体であり,あら ゆる存在・現象の本体であり,諸仏の当体であり,さらに修道実践の根 本である.例えば『大疏』上こでは 円覚者,直指法体(続蔵 1-14・2,121a). とし,宗密は 「円覚jを教法の本体として理解する. 宗密が「円覚Jを存在や現象の根源、として捉えていることは, 上三に 円覚是性相i
源(続蔵 1・14-2,127c) . 覚者霊源不味(『大疏』上一,続j蔵1-14-2, 108b). 宗密における真砲の担促 113 などとあることや,上の経文の「円覚流出Jを説明する中に 出者,一切染浄諸法,皆従中円覚出.入者,若悟円覚,員iJo千万法, 悉皆悟入(『大疏』上三,続蔵 1-14-2, 130c) . 従本起末為出,摂末帰本為入.迷之則出,悟之則入(同) 名為円覚者,正指其所属,嘗本体也(同) . とあることからも知られる.すなわち,宗密は『円覚経』の教説を踏ま えつつ, 「円覚Jを染浄の諸法の「本体」として理解し,現象世界は衆 生の迷いが原因でその本体から流出し,悟れば本体である 「円覚Jの世 界に帰入するものと解釈する.かれにおける世界とは, 「円覚Jを「本 体jとし,その真理にもとづく世界であったのであり, この「円覚Jに よって打ち建てられた世界・一切は, 円覚不守自性,随縁成3諸差別之性.諸性起時,全覚性起,故法身(『大 疏』中四,続蔵 I・M・2,169d) . といわれるように, 「円覚Jの性起と して理解されるべきものであった のである. 宗密が「円覚jを仏の当体として捉えていることは,経文の「婆伽婆J を説明する中で, 若出其体即円覚也(『大疏』上二,続蔵 1-14・2,123b) . と述べていることから知られる. また,宗密が 「円覚Jを修道実践の根本として捉えていることは, 「本 有の円覚Jすなわち衆生に「円覚Jが本来的に備わっているということ を信じ,その円覚性を了解することが修道実践の最初段階であり,最も 3 『円覚経略統』は「成Jを「遍jとする114 総図例教坐SEMINAR7 基本的なことであると説明していることから知られる4. 「円覚Jを実践 的立場から捉えようとするこのような宗密の態度は,かれが「円覚三味J という新しい用語を造り, 三日未之名英数無量,円覚三味是彼根源(『大疏』 下四, 続 蔵 1-14-2, 20lc) と述べていることからも知られる.すなわち,宗密において 「円覚三味j は諸の三味の根源であって,宗密における修道実践とは「円覚」の体験, 「円覚jの実現であったのである5. 以上のことから宗密は, 「円覚」を 教法,仏,修道実践,そして一切の事象などの本体・根源として捉えて おり,かれにおける仏教理解,世界理解はこの 「円覚jの観念を軸にし て行われていることが知られる. 一ぉ, 『円覚経』における「円覚jの実体的表現と関連していえば, 宗密においても「円覚J 「円覚心jはその根源、性・絶対性が強く主張さ れていることが認められる・しかし,宗密は『円覚経』 の観行を論ずる 際に人法の二空観や真空絶相観などを導入している6.かれにおいて空の 原理はこの「円覚J f円覚心Jにも適用されるはずであるから,宗密に おける,あるいは『円覚経』のそれをも含めて, 「円覚j f円覚心」の 絶対性・根源性の強調は,存在的というよりはむしろ宗教的実在性とし てであったと理解すべきであろう. 4 『大疏』上三,続蔵1-14・2,127dを参照. 5なお, 『大疏』では f教起因縁」の一つに 「此経便入円覚観門.雄三根漸頓之殊,所入 無非円覚」 (『大疏』上ー,続蔵1・14-2,llOc-d)とし, 『禅源諸詮集都序』 (以下『都 序』と略す)でも[漸者為中下根,即時未能信悟円覚妙理者,且説前人天小乗,乃至法相 破中目,待其根器成熟, 方為説於了義J (大正48, 407bl7-19)とし, r P:I覚Jは俵終的に 信悟すべき根源的真実として受け止められて い る 6 『大疏』中ー,続!蔵1-14-2,14lc-15lb参照目 宗丞iにおける真理の杷捉 115 (無分別・無念としての「円覚 J) 次に, 「円覚Jの内容については,たとえば, 円者徳無不周, 覚者霊源不味 (『大疏』上一,続蔵1-14・2,109b) . 円者満足周備,此外更無一法.覚者虚明霊照,無諸分別念想( 『大 疏』上二,続蔵I・M・2, 12la) などと述べる.すなわち, 「円覚Jとは功徳が完全に満たされ, 一切の 法を内に包括する全一的真理で,実体性がなく明かで霊妙に照らしつつ, 一切の分別・念想のない境地が実現されたさとりであると説明し,その 全一的円満性と分別・念想がない点に特徴を見出しているのである. このうちまず, 「円覚」の無分別的特徴についてさらに考察を進めて みよう. 『円覚経』は窮極の真実である「円覚」に対する一切を「幻jと捉え る.宗密はこのような教説を受け継ぎながら,さとりについても「同幻 之覚Jとして三種をあげ, 有三重払.-t~弗覚妄之覚,対縁而起,故亦是幻.二恐云,対妄之覚 是幻,不対妄者本有之覚即応非幻.若起此心, 起即如幻.三若云, 覚妄之覚本有之覚総、無,即名真者,此意亦如幻也(『大疏』上四, 続蔵I・M・2,139d・140a) と述べる.すなわち, 「覚妄の覚j も,また「本有の覚Jに対するとら われも同じく幻で,さらにその両方の無なることへのとらわれも幻であ るという. 一方,これらの「同幻の覚Jに対して, 「円覚」は心や想念 の一切の活動を離れたところ,真妄に対する分別的意識をこえたところ のものである.そこで,宗密は, 挙要而言,起心動念, 言妄言真, 無非幻也.相踊起念,勢極三重失 (『大疏』上回,続 蔵1-14・2,140a) .
116 韓関働教坐SEMINAR7 という.このよ.うな立場は,また, 若
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民絶無寄,分別不生,円覚真心自然顕現(同) 覚者,虚明霊照,無諸分別念想(『大疏』上二,続蔵 1・14-2,121a). などとも表現される.つまり,一切の執着を脱し,何物にも依寄するこ となく,分別的意識活動が生じなければ,そのような境地において「円 覚jの真心はおのずと顕現するというのであり,そのさとりは一切の分 別的念想、がないものであるというのである. なお,宗密のこのような理解の思想的背景としては,次の二つが考え られる. 一つは, 『起信論』思想、との関連である.宗密は「円覚jについて上 にもあげたように, 円者満足周備,此外更無一法.覚者虚明霊!照,無諸分別念想. と解釈するが,これに続いて『起信論』を引用しながら, 故論云.所言覚義者,謂心{本離念、.離念相者,等虚空界等.此是釈 如来蔵心生滅門中本覚之文(『大疏』上二,続蔵 1-14-2, 12la). と敷桁している.つまり,宗密は『起信論』における「本覚」の教説, 「本覚」の無分別性に思想的拠り所を求めつつ, 『円覚経』の中心的思 想概念である「円覚」を理解しているのである. 二つは,中国禅仏教との関連である.宗密は「円覚Jの無分別的特徴 について, 党本無念,見J念既* .<『大疏』下三,続蔵 1-14・2,192d) . 宗密における真理の杷促 117 とも表現し, 『円覚経』におけるさとりを「無念」によって捉えている が,周知のように, 「無念Jは中国の禅宗,特に南宗で広く用いられる 概念、で,一切のとらわれを離れ,思量分別をこえ,対象に対して心が動 揺しない境地を表すものとして,南宗の思想的立場を示すものとされる. また,宗密自身も, 禅円以無念為方便(『円覚経略疏紗』 (以下『略疏紗』と略す)七, 続蔵 1-15-2,163c). と言っているように,禅仏教を「無念」によって捉えている.宗密はこ の「無念」によって「円覚jを理解しているのであり,このことから, 『円覚経』の中心的思想概念である「円覚Jに対する宗密の理解に南宗 系の思想が影響していることが知られるのである. 次に, 「円覚」の徳用 ・功徳の無尽性についての宗密の解釈を見てみ よう.上記のように,宗密においてこのさとりの性格・特徴は「無分別 念想j 「無念J などと捉えられているが,宗主査は,他方では, 夫覚体霊明,不唯寂滅(『大疏』下三,続蔵ト 14-2,193a) と述べ, 「円覚」がただ寂滅で働きのないものではないことを指摘し, また, 円覚体中,有塵沙徳、用,従本巳来,持之不失故(『大疏』上三,続 蔵 1-14-2, 130b). 円覚則万徳所依(『大疏』下回,続蔵 1・14司2, 197d). とも述べ,このさとりにおける功徳の無尽性や本来性を強調する.そし て,経に「無上法王有大陀羅尼門,名為円覚,流出一切清浄真如菩提浬 繋及波縫蜜Jとあるのを解釈し,118 鵠園{弗教是非SEMINAR7 流出者,非別有法従中流出於外.但依覚性,顕示諸門功徳無有窮尽, 応用無有疲厭,名為流出(『大疏』上三,続蔵 1・14・2, 130c). 謂円覚自性,本無偽妄変異,即是真如.無法不知,本無煩悩,無法 不寂,本無生死,即是菩提浬紫.無懐食毅禁唄悉憐怠動乱愚療,即 是六波羅蜜.余諸無量無尽等法,皆例此知(同, 132a). という.すなわち,宗密は真如,菩提,浬繋,六波羅蜜などをすべて「円 覚Jの徳用として理解するのであり,このさとりは「霊照J, 「霊明」 などといわれるように,常に世界を霊妙に照らし,明かす働きをもって おり,また無尽の功徳・働きをもった根源的真実として位置づけられる. これまで論じたことを整理すると次のようになろう.中国仏教思想史 においてそれまで重要概念として役割を果たとは思われない 「円覚」は, 『円覚経』においてその根源性・常住性・寂滅性などが強調され,窮極 の所証の真実として新しくその概念が規定される.そして宗密はこれを 踏まえつつ,教法,存在,諸仏,修道実践の本体・根源として受け止め, 「円覚Jは内容的には無念,無分別を特徴としながら無尽の功徳・働き を有するものとして捉えられる.そして,この宗密の理解には『起信論』 や禅の思想、の影響が確認できる. なお,宗密の仏教思想、の融合的性格に関しては,従来広く論じられて いるが,この問題と関連して敷街すれば,かれの融合的仏教理解の思想 的根拠・基盤はまさにこの「円覚jにあるといえよう.例えば,宗密は 『浬集経』の仏性,『法華経』の一乗妙法, 『維摩経』 の不可思議解脱, 『金剛経』の般若,そして禅門の離念・無念も「円覚門中差別之義jで あるという7.宗密は「円覚」によって,これら大乗仏 教の諸立場を受け 止めようとするのであり,これは諸経すなわち教の立場のみならず禅の 立場をも含むものである.これは後にいわゆる教禅一致などといわれる かれの思想的立場に繋がるものとして注目される. 7 『大疏J上二,続蔵1-14-2, 12la-b参照. 宗密における真理の杷捉 119 III. 「一心」の思想 1. 「円覚(心)」と 「一心J 宗密の『大疏』には斐休の「序Jが付されており,その官頭には, 夫血気之属必有知.凡有知者必同体.所謂真浄明妙虚徹 霊 通 卓然 而独存者也.是衆生之本源,故回心地.是諸仏之所得,故日菩提. 交徹融摂,故田法界.寂静常楽,故日浬繋.不濁不漏,故田清浄. 不妄不変,故田真知.離過絶非,故日仏性.護善遮悪,故日総持. 隠覆含摂,故日女日来蔵.超越玄関,故田密厳国.統衆徳而大備,燦 群昏而独照,故日円覚.其実皆一心也(『大疏』上一,続蔵 1・14-2, 108a). と述べられる.ここでは「円覚Jを含めてすべてが「一心」によって捉 えられている.袈休のこのような唯心論的考え方が宗密の『大疏』の内 容を代弁したものであることは言うまでもない.たとえば『大疏』には 唯一心為本源.是心則摂世出世間法等.即此円覚妙心也(『大疏』 上一,続蔵 1・14-2, 116c-d) . 如来円覚妙心者,即性浄真心.離相故円,非空故覚,染而不染故妙, 中実名心.或名一心(『大疏』上四,続蔵 1-14-2,138a-b). などと説かれる.すなわち,宗密において「円覚 ・円覚心」は, 「一心」 によって理解され,仏教の唯心論の中に位置つけられるのである. 2. 「一心jの内容 では,宗密における「一心Jないしは唯心論の内容は如何なるもので あろうか.まず,宗密における 「一心・唯心Jは法性宗の立場を軸にし た「真如心Jである.宗密は, 『円覚経大疏紗』 (以下『大疏紗』と略 す)において,
120 斡園{弗教些SEMINAR7 若法相宗言唯心者,心但是有為心識,縁慮積集了排別境為相.即是 此上来云一切唯識是也.若法性宗云唯心者,直是真如之心,無為無 相,離諸遠慮分別,遠慮分別亦唯一心(『大疏紗』一上,続蔵 1-14ふ 212d) と述べ,唯心について法相宗と法性宗というこつの立場を措定する.そ して法相宗の唯心が有為の心識であるのに対して法性宗の唯心は真如の 心であるとし,自分の思想的立場を法性宗に置き,この法性宗の真如心 によって仏教の「一心・唯心」を捉えるのである8 次に,宗密における「一心」 ・唯心論は空の思想、がその思想的根拠と なっている.宗密は『大疏紗』において,妄識と妄境のすべてが「一心j であると し,その理由として, 眼身器界及心心所一切皆空,無非一真心也.諸大乗経論,皆説万法 唯心,是此義也(『大疏紗』一上,続蔵 1-14-3,212d) . と述ベる.すなわち,宗密によると一切が「一真心J に帰されるのは, 認識主体と認識対象のすべてが空であるからであり,大乗仏教の諸経論 における「万法唯心Jの教説も,この義,すなわち空の考え方にもとづ くものである. 「一真心Jそれ自体の空性を説くという徹底さは見られ ないものの,ここに宗密における「一心・唯心」の考え方が空思想に裏 づけられていることが認められよう. 次に,宗密における「一心」は, 如来円覚妙心者,即性浄真心. (中略)或名一心(『大疏』上回, 続蔵 1-14-2,138a-b) . 8 「然法相宗l唯心之義,{旦唯有為生滅八識 此宗究克実, E佳是真如之心」 (『大疏紗』八 下,続!蔵1-14-4.388a). 宗 密 に お け る 真 理 の 杷 捉 121 浄心是円覚体,世界本在其中,観行成就全合霊源. (中略)凡夫之 類迷比霊心(『大疏』下四,続蔵 1-14-2,199c). 然此霊心,上市無頂,下而無底,傍無辺際,中無在処.既無省中, 何有東西上下(『大疏』下一,続蔵 1-14-2, 177c) . などと述べられるように,真心,霊心, j争心であり,同時に, 「心是仏心 J. 「心本是仏」 (『大疏』上一,続蔵 1-14-2,109a). とあるように,この心は究極者である仏の心である.これは,宗密の立 場からすると,現実におけるわれわれ衆生の実践主体としての心は不浄 なるものであるが,本来的あり方においてはそれは真心,覚心,霊心で あって,それは仏の心として真実そのものであるということである.宗 密において「心・一心」はこのように仏または真実そのものに強く結び つけられる形で理解されることがわかる. さらに,宗密において究極的な真実としてのこの心は,生成論的意味 を多分に含み,したがって,必然的に諸法の根源として考えられること になる.宗密自身, 『大疏』の「序」で, 「一心jの性格について 大矢哉,万法資始(『大疏』上一,続蔵 1-14-2,108d) . とし,さらに『大疏紗』でこれを, 万法資始者,正明此心,不守自性,随縁生起世間一切染浄諸法也(『大 疏紗』ー上,続蔵 1-14-3, 211a) . と説明している.すなわち,宗密における心とは諸法の根源として「一 心」であり,また,それは 浄心是円覚体,世界本在其中,観行成就全合霊源、(『大硫』下回,
122 緯園{弗教芸品SEMINAR7 続蔵1・14-2,199c). とあるように, f霊源」なのである.そして,理・事,またはこの両者 の関わりの世界も,強いては周遍含容・事事無磁のあり方も,かれにお いてはこの根源としての「一心Jによって捉えられるものである9. 3.諸思想、との関連 宗密において「一心・唯心jは内容的側面からは以上のような立場か ら理解されているといえるが,では「円覚(心)=一心Jの理解に関わ るこのような宗密の考え方は,従来の諸思想とはどのように関連し,ま たその思想的意義は如何に考えられるべきであろうか. まず,諸思想、との関連でいえば,一つは, 『起{言論』思想、との関連が 指摘できょう. 『大疏紗』には, 論中一心,即是此経中覚心,及華厳中一真法界也(『大疏紗』三上, 続蔵1-14-3,264b-c) 論中本覚心,即是此経円覚妙心也(『大疏紗』六上,続蔵 1-14・4, 330c) などとあるが,ここで「論」とは『起信論』を指すもので,宗密におい て「円覚心Jは直接的には『起信論』の「一心J' 「本覚」の心に同定 される.上に示したように,宗密が「一心Jを真如心・真心・根源的一 心などと捉えたのも, 『起信論』に, 心真如者,即是一法界,大総相法門体.所謂心性不生不滅.一切諸 法唯依妄念,而有差別.若離妄念,貝lj無一切境界之相.是故一切法, 9 「謂事与真理,~但是一真心源(即此一心,畢覚無生滅変異,離一切相,即名真理.即 此一心,京日明珠能現諸相,即名為事国放論関一心二門〉.真理周遍時含容時,事堂独不遍 不容耶」 (『大疏紗』八下,続殺1・14-4,388a) 宗 密 に お け る 真 理 の 杷 捉 123 従本巳来,離言説相,離名字相,離心縁相,畢寛平等,無有変異, 不可破壊,唯是一心.故名真如(大正32, 576a8-13) . などと説かれ, 「一心」の本来性・根源性・真実性が主張されるのを踏 まえていることは言うまでもない. 二つは,華厳教学,特に澄観の思想、との関連が注目されよう.澄観の 心思想、については,かれが『華厳経』の唯心論を,総じて極めて実践的 な視点に立って解明し,あくまでも観門の問題として「心」の真実を捉 え,また同時にその心を「知 J という認識性として捉えていることなど がすでに指摘されている10. 一方,心の捉え方における澄観のこのよう な立場はほぼ充実に宗密に受け継がれる.例えば『大疏』 「序Jの冒頭 には, 元亨利貞,乾之徳也.始於一気.常楽我浄,仏之徳也.本平一心. 専一気而致柔,修一心而成道.心也者,沖虚妙粋,
t
丙;喚霊明.無去 無来,冥通三際.非中非外,洞徹十方.不滅不生. (中略)大矢哉, 万法資始也.万法虚偽,縁会而生.生法本無,一切唯識.識如幻夢, 但是一心.心寂市知,B
之円覚(『大疏』上ー,続蔵 1-14-2, 108d). とある.すなわち,宗密は実践修道との関連で「一心」を捉え,同時に 「寂而知Jによって心・ 「円覚Jを理解するのである ここで, 「一心jの把捉における実践的性格に関連していえば,宗密 において「一心」は仏徳の根本として,実践修道は「一心」そのものを 修めることであって,仏果の成就もそれによって達成できるとされる. そして,このような立場からは六道輪廻も「一心Jによって捉えられる. 例えば,宗密は, 大乗法唯有一心.一心之外,更無別法.但有無明,迷自一心,起諸 JO玉城康四郎[1961:649-670]および木村清孝[1992:217-221]参照.124 総図(悼教是非 SEMINAR7 波浪,流転六道. 錐起六道之浪,不出一心之海.良由一心動,作六 道故,得発弘済之願.六道不出一心故,能起同体大悲(『大疏紗』 二上,続蔵1-14-3, 233d) という.つまり,六道輪廻はすべて「一心」の上における出来事であっ て, 「能了自心j 「頓悟自己心性Jすなわち自己の心性を正しく認識す ることが実践修道であり,成仏もそれによって達成できるという.この ような「一心jの実践的捉え方が澄観に繋がっていることは言うまでも ない また, 「心寂而知jの思想、については,これがもともと荷沢神会に由 来することは有名であるが,宗密はこれを, 寂者,即是決定之体. 堅固常定,不喧動不変異之義.非空無之義. (中略)知者,謂体自知覚.昭昭不昧,棄之不得,認之不得,是省 体表顕義.非分別比量義. (中略)寂是知寂,知是寂知.寂是知之 自性体,知是寂之臼性用(『大疏紗』ー上,続蔵1-14-3, 213a) . などと説明し,この教証として澄観の言葉と して「霊知不味,性相寂然」 「以知寂不二之一心Jを挙げている.宗密において 「一心jは寂滅であ りつつ「知るJという働きをもち,同時にこの寂知不二の 「一心Jがま た[円覚Jであるわけであるが11,ともあれ宗密における心の把捉が, その多くの部分において,澄観を通じて行われていることが知られる. 4.宗密の心把捉の特質 一方,宗密における「一心・唯心Jの把捉にはかれの思想的特質に関 連するとも思われる独自的側面が認められる.まず 「心・一心Jは,宗 密において無念によって受け止められる.例えば『大疏』には, II 「円覚妙心是総,菩提浬聖書是別.~開此真心, 寂而常照即菩提,照而時1;寂目P1里祭.寂!!員不 二,是此覚性也J (『大疏紗』五下,続殺1-14-4,319b) 宗密における真理の杷促 125 実心無念 (『大疏』中三, 続蔵1-14-2, 158d) とあり, 『円覚経略疏』 (以下『略疏』と略す)には, 「動念都尽唯一心在j, 「動念都尽本来平等同於一覚J, 「絶待無 念一覚霊心宣非同邪」 (『略疏』下二,続蔵 1・15・l, 86b) などと述べられる.これは, 無念の境地に達すれば本来的平等の世界が 実現し,さとりの世界に同ずるのであり,それがまた 「一心jの世界で ある,というのである.言ってみれば,宗密において 「一心=円覚jは, 実践的には無念に窮まるものであったのである.一方, いまのこれらの 宗密の言葉は,主に『起信論』 の教説を踏まえたものであるが, 禅円以無念為方便(『略疏紗』七,続 蔵 1・15-2,163c). などとし,かれ自身,無念によって禅宗の実践論を捉えることからも, 、かれの視野にあるいは南宗禅の立場も入っているであろう.このような 宗密の把捉は, 澄観に対していえば, 『起信論』や南宗禅の立場にさら に接近しているものといえよう. 次に,宗密は,例えば澄観が円教の立場で 「一心jを受け止めている 《のに対して,円教の一心を視野に入れつつも,頓教の一心に思想的中心 、をすえる. 澄観は五教判の立場から「一心」を論じ, 今依五教,略明一心.初小乗教中,実有外境,仮立一心.由心造業, 所感異故.二大乗始教中,以異熟頼耶, 為一心,遮無外境. 三終教, 以知来蔵性,具諸功徳,故説一心.四頓教,以1民絶無寄,故説一心. 五円教中, 総該万有,事事無碍,故説一心. 良以如来随機設教,故 有千差,殊途同帰,皆一致也(『華厳経疏紗玄談』,続蔵 1ふ3,173c) . という.これに対して宗密は,これをさらに内容的に分析し,それぞれ
126 緯 園 側 教 皐SEMINAR7 に対応する経論を当てる.それを表にすると,次のようになる. |① 慰 法 声開教一 一 仮設の一心 |② 大釆権教−−,−相見倶存の一心 『威 嚇 論 』 ド 摂伺帰見の一心一一一一 『唯識二十頒』 『解深密経』
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− 領所帰王の一心 『大乗荘厳論』 ③ 大乗実教一一「摂前七識帰於蔵識の一心 」 総摂染浄帰如来蔵の一心 @ 大乗頓教一一− .i民絶染浄の一心 ⑤ 一乗円教一一一一総該万有の一心 『甥伽経』 『密厳経』 『円覚経』 『華厳経』 宗密は,さらにこの八つの「一心Jを 「本末Jの観点から分析し三つ の立場から説明する.すなわちーには,頓教の一心(一法界心)から小 乗の仮説の一心へと展転し「末」を起すもので,これは所詮の観点から 見た場合である.こには,小乗の仮設の一心から頓教の一心(唯一真心) へと展転して 「本jiを窮めるもので,これは能詮の観点から見た場合で ある. 三には,円教の一心で,これは能詮所詮逆順本末皆無障碍の立場 である12. ところで,ここで注目されるのは,宗密においては「円覚心jが円教 の「一心Jではなく,頓教の「一心」で受け止められているということ であり,またこの「一心Jを「本jとし,世界 ・教法の展開のあり方を 捉えようとしていることである.宗密の関心が触事相入・融事相即・重々 無尽などの概念、で説明される円教の「総該万有の一心J にではなく頓教 の「一心Jに傾いていたことを意味し,同時にかれが世界ないし,b
の展 開のあり方を単に観念的に理解するにとどまらず,より具体性のあるも のとして捉えようとしたことを意味する.すなわち,円教の「一心」は 理念、的真実であって,それはあくまでも窮極の立場における世界の真実 12 『大疏』上回,続蔵1-14・2, 138c-139bを参照 宗密における真理の把促 127 のあり方に関するものであり,現実の世界のあり方やわれわれの現実の 実存的心の動きのあり方を示すものではない.それはいわば理念として の「一心jとでもいえるものであって,われわれの心が本来的あり方か らどのようにして迷妄の現実心に堕ちていくのか,そして逆にこの迷妄 の現実心が真実に向ってどのように変化し,動いていくのかを直接に示 すものとはいえない.宗密において円教の「一心」とはこのようなもの であったのであり,そこで,かれは円教の「一心Jをにらみつつも頓教 の「一心Jに思想的中心をすえるのであろう.つまり,宗密は頓教の「一 心」に定位することによって,円教の理念的真実の世界をのぞみつつ同 時に現実の世界に対する認識の足場をも確保しようとするのである. 仏教ではさとりの実現者である仏,または仏が得た浬紫(の世界) が 窮極の目標であることはいうまでもない。 しかし,宗密においては,仏・ さとりの世界の観念的把捉よりは,その真実世界と現実世界というこ世 界の存在・認識を可能にし,あるいはその根拠ともなるべき「一心」に 関心が向けられる.かれはこの「一心」において衆生の現実を自覚する と同時に, 「一心」の中に仏・真実の世界を,またはその可能性・根拠 台見るのである.いわば宗密において「一心=円覚心jは,衆生の迷妄 の現実に対する自覚とその自覚にもとづく真実追求への努力・実践とい う思想的意味を同時に担うものであり,その両者を媒介するものだった のである. なお, 『華厳経』よりは『円覚経』に関心を持つ宗密の立場もここで 理解されよう.さらにいえば, 『起信論』においては「一心Jによって 迷・悟または真・妄の二世界が一元的・調和的に捉えられる.そこでは 「一心jは,真実の世界に関わる 「一心J と,迷妄の現実世界に関わる 「一心Jとの二つの側 面をもち,同時に真実の世界と現実の世界,また は本質界と現象界というこ世界の媒体としての意味をもっ.このような 『起信論』 の心論が宗密の 「一心jの把捉に受け継がれていることもこ こで容易に推測されよう.128 緯図{弗教皐SEMINAR7 W目 如来蔵思想、の受容 中国華厳宗において『華厳経』の解釈に如来蔵思想、が重要な役割を果 たし,その教理的基礎付けを提供したことは周知の通りであり,その思 想的基盤となったのが, 「一心」=「知来蔵Jの観念を軸にすえ,真実 の世界と現象の世界を一元的に説く『起信論』であったこともまた広く 知られるところである. 宗密は『円覚経』の解釈において,広く『起信論』を用いている.そ こで,かれの 「円覚J理解における如来蔵思想の受容が予想される.宗 密の如来蔵説理解の問題は大きな課題となろうが,本節では,宗密の「円 覚J理解に如来蔵説がどのように働いているのかについて検討を加え, かれの「円覚Jないしは『円覚経』理解,強いてはかれの如来蔵説理解 の一断面を垣間見ることにする. 1 . 「円覚j と「如来蔵J 『円覚経』はその成立において如来蔵説を踏まえていることが推測さ れ13,経全体においては「円覚Jないし「円覚心jの遍満・平等性とが 主張される.宗密はこの「円覚jの理解に如来蔵説を導入する.宗密は, 無一衆生,而不具有円覚(『大疏』 上三, 続蔵1-14-2, 130b). というように, 『円覚経』を踏まえつつ「円覚jの遍満性を主張する. 宗密において「円覚Jは衆生に内在する根源的真理としてのさとりの本 性で,衆生の本体とでもいえるものである. 一方,現実のわれわれの姿は「円覚jが実現されたものとはいえず, 迷妄の状態にある.このようなわれわれの現実のあり方について宗密は, 就凡夫位中,目此円覚,為衆生心也(『大疏』上二,続蔵 1・14-2, 13拙論[1996b]を参照 宗密における真理の杷捉 129 120c) という.すなわち,衆生の現実における 「円覚Jのあり方は衆生心であ り,一切に遍満し内在する「円覚Jはわれわれ衆生においては衆生心と して顕現する.この衆生心は 「円覚在纏Jすなわち 「円覚jが煩悩に覆 われている状態を指すもので, 如来蔵即円覚在纏之名(『大疏』下四,続蔵 1・14-2,201c) . とあるように,それは「知来蔵」ともいわれうる.宗密において「如来 蔵Jとは 「円覚」を本体とし,その「円覚Jが煩悩に覆われている状態 を意味するのである. 2. 『円覚経』と如来蔵思想 一方,宗密は『円覚経』の教説そのものの解釈にも如来蔵説の考え方 を積極的に導入する.その幾つかの例を示すと,まず煩悩の空と仏徳の 不空という如来蔵説の基本的構造に関連していえば, すでに前節で論じ たように, 「円覚」の遍満・不変性や無明煩悩の虚妄性は『円覚経』そ のものにおいても示されるが,宗密はこれを踏まえつつ, 本有円覚妙心.本無無明生死 (『大疏』上三,続蔵 1-14-2,127d) . 此円覚性, 本有過塵沙之妙用.潜輿密応,無有休息、,無有窮尽(『大 疏』上二, 続蔵1・14-2, 120d) . などと述べる.宗密は徹底してこの考え方にもとづいて本経を解釈して いくのであるが,したがって,かれにおける実践修道・成仏の追求も, 頓悟本有円覚妙心,本無無明生死(『大疏』上三,続蔵 1-14-2,127d) . といわれるように,まずわれわれ衆生の本質である 「円覚Jの本来性と
130 韓図俳,教皐SEMINAR7 無明煩悩の本無性の自覚を基本とするものである. 次に,如来蔵説は自性清浄心とその仏性の悉有性とが基盤にあり,そ れが発展したものであって,すべての衆生の成仏を説く思想であること は周知の如くであるが,宗密は『円覚経』の解釈においてこの教説を導 入する.宗密は,『大疏』玄談の「所被機宜」すなわち,この経典の教 説の対象となるべき人々について論ずるところで, 一切衆生皆本有仏性.但得聞之,無不獲益.謂宿機深者悟入,浅者 信解.都無宿種者,亦皆薫成円頓種性(『大疏』上二,続蔵1-14・2, 117d) と述べ, 『浬繋経』などの教説を受容しつつ,窮極的立場からすればす べての人がこの教えの対象となるとする.そして, 『華厳経疏』 (大正 35, 518a24-25)の 諸凡夫外道闇提悉、有仏性.今錐不信,後必賞入(『大疏量生、』三上, 続蔵1--14-3,268d) . を引用しつつ,悟りにいたる過程は資質・能力によって時間的差はある が,窮極的には一間提をも含めてすべての人が悟りに到達可能で、あると
し
、
つ
.
次に,如来蔵系統の経典で、は「信J
が重要視され,これが如来蔵思想 の特色の一つであるといわれる14. 宗密は『円覚経』 の解釈においてこ の教説を導入し, 「信jを実践論の基本とする.例えば,宗密は『円覚 経』文殊章の 「如来蔵中,無起滅故,無知見故.如法界性,究寛円満, 遍十方故」 (大正17,913c8・9)を解釈するに当たって, 次如来蔵下,是顕一心也(『大疏』上回,続蔵1・14-2,135a) . 14高崎直道[1988:277]は如来蔵説を 「信の宗教Jともいう. 宗密における真理の把促 131 とし,これを 「一心Jによって受け止める.そして, 「如来蔵」そのも のに関しては,六つの観点から詳細な解釈を行う.その中で例えば,「二 出体jを論ずるところでは, 出体者即論中一心也. (中略)携伽云,寂滅者名為一心.一心者名 如来蔵.勝重名為自性清浄心.此下経云,知来円覚妙心.浬繋即名 仏性 (『大疏』 上回,続蔵1-14-2, 135c) とし, 「如来蔵」の本体は『起信論』などの「一心Jであり, 「円覚妙 心Jであるとし,また「四行相Jを論ずるところでは, 「如来蔵心Jを 「真妄和合Jの立場から捉えるなど,幾つかの点で特徴が見られる.そ して,いまの問題と関連していえば,宗密は「六勘信」を設けているこ とが注目される15. すなわち,宗密は如来蔵説における信の重要性を認 ll宗密は「勧{言Jを論ずる中で,『華厳経』 「普賢三味品Jに「爾時普賢菩薩摩詞薩,於 如来前, 坐運華蔵師子之座. 承仏神力, 入子三昧.此三味名一切諸仏毘虚遮那如来蔵身. 普入一切仏平等性J (大正10, 32c26-29) , 「微塵数普賢菩薩,皆亦入此一切諸仏毘庫遮 那如来蔵身三昧J (大正10, 33al3-14)などと説方通れるのを踏まえて,これを 「{言Jの教 証として挙げる( 『大疏』上四,続蔵 1-14-2,136a).すなわち,宗密は『華厳経』のこ れらの教説を如来蔵説によって受け止めている.もともとこれは,澄観の『華厳経』解釈 にもとづくものであろうが(例えば, 『華厳経疏』大正35, 570b),かれらの『華厳経』 理解の問題と関連して注意される. ちなみに,従来『華厳経』と如来蔵説との関連では『六十華厳』でいえば「如来性起品J 「入法界品J 「十地品Jなどが論じられるが, 「虚舎那仏品Jは注目されていない. 「虚 舎那仏品Jには仏身の普遍性を説くものとも解釈できる「仏身充満諸法界.普現一切衆生 前応受化器悉充満.仏故処此菩提樹.一切仏軍I]微塵等.爾所仏坐ー毛孔」 (大正9, 408al3-15)や「知来浄蔵三味J(大正9, 408bl4) (法蔵は「蔵Jをf蔵有四義. ー含摂. ニ殖 積 三出生.四無尽」と説明する)が見え,「世間i争眼品Jには 「如来妙蔵無不遍至J (大正9, 395a5-6) (法蔵はこれを如来蔵説によって解釈する.大正35,130a)などとも132 線図{棉教*SEMINAR7 識しており,そこで 入道行人先須信解(『大疏』上回,続蔵1・14
ム
136a) . と述べ,まず「如来蔵Jを信ずることを主張するのである.われわれ衆 生にとって仏性・「如来蔵jの確認は「信J という方法によってのみ可 能であるということである.かれが実践・成仏論を論ずるにおいて 頓信解(『大疏』上三,続蔵1・14-2, 127c) 頓信本有円覚(『大疏』上下,続蔵1-14-2, 127d) などと述べ, 「如来蔵」の本体である「円覚Jの[信Jを強調するのも, この点に関わっているといえよう.総体的にみれば,宗密における『円 覚経』の解釈・理解は基本的に如来蔵説の枠組みにもとづくものといえ る. V.おわりに 以上, 「円覚」概念、に対する宗密の理解を中心にして,かれの真理把 捉の問題を論じてきた. 『円覚経』の出現以前にはほとんど注目される ことのなかった「円覚」の語は, 『円覚経』において内容的に定着した 概念、として登場し,宗密において『起信論』や華厳,禅などの思想、が踏 まえられ,豊富な意味をもった思想概念として受け止められた.この「円 説かれる また, f虚舎那仏品Jに当たる『八十華厳』の「如来現相品Jには「生如来家」 (大正 10, 29bl2)や仏身の遍満を説くものとも受け取れる「仏身充満於法界,普現一切衆生前, 随縁赴感廃不周,而恒処此菩提~.如来一一毛孔中一切lj;flj塵諸仏坐」 (大正10, 30a6・8) が見え,同じく「虚舎那仏品」に当たる f世界成就品Jには 「如来種性J(大正10,34cll) などが見える 『華厳経』の教説そのものの本義はともあれ,中国の華厳宗の人々におい てそれらが如来蔵説によって受け止められていることは注目すべき点であろう 宗密における真理の犯捉 133 覚Jは,宗密において,主体的・人格的には「一心」によって理解され, またわれわれ衆生の実存的あり方としては「如来蔵」によって理解され る.そして,宗密はこの真理概念ないし真理観を基盤にして仏教を捉え, また世界を捉える.かれにおいて理・事等の諸義・世界は,すべてただ 1円覚J− 「如来蔵j − 「一心」が転じたものとして理解される.いわ ば,宗密において f円覚Jは究極的真理として,かれの思想体系を内側 から支え,その思想体系の骨格を構成する中核的概念としての役割を担 うものであり,かれの仏教思想・世界観はこの「円覚Jを軸にして構築 されているともいえる16. 一方,宗密における真理の追究とは,円融無凝・重々無尽の円教的境 地・世界におけるものというよりは,それは教判論との関連でいえば, むしろ頓教の立場で受け止められており,思想史的にみれば,基本的に 『起信論』思想、ないし如来蔵説に基盤を置くものといえる.この意味で は,かれの『円覚経』注釈書の立場に限っていえば,かれは法蔵や澄観 など葉厳教学の人々とは思想的中心の置き方において立場を異にしてお り,またこれは華厳教学ないし円教の当時における時代的・思想的意義 の問題をも含めての,宗密の思想的模索の産物であり,仏教の真理把捉 に関するかれの一つの答えであったろう. このような宗密の真理把捉は,実践的仏教の追求とでもいえよう.し かし,いわゆる理・事という観点からいえば,それはなお絶対的原理・ 真理を措定し,その「理Jの視点から世界を捉えようとするものといえ る.すなわち,それにはわれわれの現実の世界は絶対的で清浄な真実に 支えられたものであるという意識が根底にあり,迷妄の現実は単にその 真実に対する正しい認識の欠如に起因するのみであるとする.この教説 は,現実のあり方の上に真実のあり方を投影して,後者の視点から前者 16 r円覚」は『都序』でも最終的に{言悟すべき根源的真実として受け止められている(前 注5参照).また,宗密は晩年,袈休の『普勧僧俗発菩提心文』 (838年成立)に序を書 いているが,その官頭で「発菩健心者,崇徳広業,虚心外身,円覚之謂也J (続蔵1-2・8 -4,350a)と寸ーる134 韓 国 悌 教 挫SEMINAR7 を捉えるもので,われわれの心・意識の内部やその展開のあり方を直接 追求するものとはいえない.むろん,宗密において衆生の現実態がその ままで認められることを意味するものではない.われわれには「円覚 (心) Jの実現へ向けての実践が絶えず要求される.ただしこの場合で も,その実践を起させる原動力は「理Jなる「円覚心J・「一心j・「如 来蔵J自体にあるということになろう. なお,このような 「理Jなる「円覚J・ 「一心J・ 「如来蔵」に着目 するいわば理中心の思想には,あるいはこれは中国仏教一般の特質とも いえるかも知れないが,分析的認識から直観的認識へ,智から信へ,ま たは哲学から宗教への傾斜が認められ, 「理」の強調はわれわれ衆生に 安心感と希望を与え,「理」そのものが実践修道の強力な原動力となり, そして,成仏の保証となった一方,そこでは釈尊の徹底した現実認識, すなわちわれわれは迷妄・苦の世界の真っ直中における実存であるとい う緊迫感・危機感は薄れ,自分の現実に対する安易な認識という弊害も 同時にもたらしたことも事実である. (参考文献) 望月信亨 [1946] 「唐仏陀多羅訳と伝えられる『大方広円覚修多羅 了義経』 J' 『仏教経典成立史論』,法蔵館. 曹 潤 錆 [1996a]「『円覚経』の成立と受容一思想史的立場と関連 して一J' 『印度学仏教学研究』 45ーし日本印度 学仏教学会. 曹 潤 錆 [1996b]「『円覚 経』解明の視点一経典成立史的観点から一J' 『インド哲学仏教学研究』 4,東京大学大学院人文 字土会系研究科・文学部インド哲学仏教学研究室. 玉城康四郎[1961] 『心把捉の展開一天台実相観を中心としてー』, 山喜房仏書 林. 木村清孝 [1992] 『中国華厳思想史』,平楽寺書店. 宗密における真理の杷促 135 高崎直道 [1988] 『知来蔵思想I』,法蔵館. (キーワード) チョウ ユンホ <東京大学大学院博士課程修了,文学博士> 宗密,円覚,一心,如来蔵,真理. 『円覚経』, 『円覚経大疏』.