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腹式呼吸の近代 ―藤田式息心調和法を事例として

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腹式呼吸の近代 ―藤田式息心調和法を事例として

著者

栗田 英彦

雑誌名

論集

42

ページ

1-24

発行年

2015-12-31

URL

http://hdl.handle.net/10097/00130337

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腹式呼吸の近代 藤田式息心調和法を事例として はじめに 心身の癒しやストレスからの解放を目的とした瞑想法は、 現代でも国際的に流行している。 一九六0年代のアメリカにお ける禅やヨガのブームに始まり、 近年のヴィパッサナーやマインドフルネス瞑想に至るまで、 継続的に繰り返される流行を 考慮するならば、 近代宗教史として瞑想的実践の展開は無視することができない。 その歴史記述は、 教団や教義を軸とした 宗教史というより、 姿勢調整や呼吸法などの身体技法を軸とした宗教史(あるいは思想史)となるだ ろう。 そのような試み の一っとして、 近年の近代ヨガ研究を挙げることができる。 そこでは、 ヨガ を非歴史的な伝統として捉えるのではなく、 イ ンド学や東洋学など西洋近代の学知、 植民地支配と民族運動の発生という近代インドの政治的状況、 さらにフィジカル・カ ルチャーやニューソートといった国境を超えて展開した大衆文化に媒介さ れて成立したものとして分析される。 対して、 仏 教・儒学・神道などに根ざした瞑想的実践(座禅・静座・鎮魂法など)が、 近代においていかに展開していったかについて は、 いまだ十分に明らかにされていない。 本論文は、 この問題意識から、 藤田霊斎(-八六八ー一九五七) の活動を取り上げる。 藤田は仏教者であったが、 寺院を 出て、 藤田式息心調和法(以下「息心調和法」と略)と呼ばれる修養法を考案 し、 その普及に一生をささげた人物である。 当時の修養では、 呼吸法などの身体技法を用いるものが多く、 それらは心身修養法とよばれ、 心身の 両面の安定や向上に効 果があるとされた。 息心調和法は、 岡田虎二郎(-八七ニー一九二0)の岡田式静坐法や二木謙三( -八七三ー一九六六) の二木式腹式呼吸法と並ぶ人気を誇り、 第二次世界大戦前の心身修養法のあいだで大き な存在感を示していた。 戦後におい

腹式呼吸の近代1藤田式息心調和法を事例として

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-1-ても、 藤田の創設した調和道協会の第二代会長村木弘昌(-九―ニー一九九一)や第三代会長帯津良一(-九三六ー)は、 丹田呼吸法や代替医療の普及で重要な足跡を残している。 この研究領域において注目すべき運動であったといえよう。 本論文では、 藤田の活動を、 近代日本における諸宗教の動向やトランスナショナルな文化的潮流のなかで把握す る。 それ は、 なんらかの宗教性を卒みつつ も、 身体技法を軸とすることで、 教義への信仰を中核とする「宗教」概念を超えていく運 動として記述されるだろう。 その思想と活動は狭義の「宗教」を超え、 社会運動や政治運動の様相も示す。 それゆえ、 社会 思想や政治思想との関連についても分析されることとなる。なお、 本論文では、 紙幅の都合から明治末から大正期(-九00 _|― 九二五年)を中心に扱う。 昭和期以降については別稿を期 したい。 仏教の危機から心身修養ヘ 哲学館の催眠術 藤田霊斎は新潟県に生まれ、 明治―二年(-八七九 )に真言宗寺院(智山派)で得度した。 仏教者の藤田が修養法指導者 となった背景には、 明治維新にともなう仏教界の危機があった。 それは、 明治初年の廃仏毀釈運動だけではない。 江戸期までの仏教教団は、 寺請制度に基づく檀家からの布 施、 または、 真言宗 寺院 が そうであったよ うに 、 寺領や 加持祈祷を 通じた収入 から経営を成り立た せていた 。 しかし 、 明治四年 (一八七一) 、 明治政府は寺請制度を廃止、 幕府に保証されていた寺領も上知令で没収した。 明治初期は西洋医学の導入期 でもあり、 禁厭・祈祷をもって医業を妨げることを禁じる通達が繰り返し出され、 加持祈祷に対する風当たりは強くなる。 さらに、 明治六年に禁制が解かれたキリスト教は、 西洋文明のもととなった「文明の宗教」とみなされ、 知識人のあいだに 浸透しはじめており、 仏教者は危機感を募らせていた。 それゆえ、 仏教者にとって、 新時代への対応は喫緊の課題であった。 藤田が自派の真言宗新義派大学林を卒業した後、 明 治二三年、 新設の哲学館(のちの東洋大学)に入学したのは、 新しい時代における仏教のあり方を模索してのことだったの 栗田 英彦

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腹式呼吸の近代 1 藤田式息心調和法を事例として だろう。 哲学館創設者•井上円了(-八五八ー一九一九 )は、 仏教者に西洋の哲学・心理学・教育学などの講義を提供し、 キリスト教に対抗すべく、 仏教の改革を志していた。 ここで重要なことは、 哲学館の心理学講義に催眠術 が含まれていたことである。 円了にとって催眠術は、 「迷信」を心理 学的に説明して人々を啓蒙するためのツールであった が、 同時にそれによって心理面から病気を治療できることにも注目し ていた。 仏教の坐禅・調息・観想・加持祈祷なども催眠術とすることで、 それらを 「心理療法」として評価する視点が生ま れる。 円了は、 物理的な処方に特化した西洋医学を補完する形 で、 心理学を修めた宗教家が病気の心理面を扱うべきだと主 張し、 医療における僧侶の役割を確保しようしていたのである。 藤田はここで心理学と哲学を 学び、 催眠術の実験も行った。 二年後、 哲学館を卒業した藤田は、 四年間真言宗のために働くようになる。 このとき、 大学林時代に師事していた船岡芳 勝( 一八四0-―八九六) が智積院化主となり、 それにともなって藤田も宗政において大きな権力を握ったらしい。 しかし、 数年後、 船岡は急逝し、 藤田自身も病を得たため、 宗務を辞し、 健康 を求めて放浪を始めた。 2 精 神療法と修養 明治三八年 (-九0 五 )、 藤 田の 名前は 雑誌 『精神 』に 再び 現れ る。 これは 、 漢文教師・桑 原俊郎(-八七三ー 一九〇六)の設 立した 「精神学会」 (明治三八年創立 )の機関誌である。 桑原は、 明治三四年頃から催眠術実験を始め、 催 眠術による治病、 人身操作、 千里眼(透視 )能力の発現などについて教育雑誌『教 育時論』に発表して評判を呼んだ。 こう した現象は、 従来の催眠術でも報告されていた。 桑原の新しさは、 それら が 「無催眠」でも起こることに注目して、 術者と 被術者の信念や精神力を重視したこと、 そして、 そこから心身問題を突き詰めて 「物心一如」の 一元論を説 いたことにあっ た。 桑原は、 個々の精神 (「小我」) の深層に、 万物で共有される―つの「宇宙精神」(「大我」)があると主張した。 人は「無我」 となってこの宇宙精神と合一することで、 万物を動かし、 時空を超えてものを感知できるという。 また、 宇宙精神とは、 従 来、「天」「霊」「精 気」 「真如」 、 ま たは人格化されて 「天帝」「神」「如来」などと呼ばれてきたもので、 坐禅、 読経、 念仏

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-3-などの宗教儀式は、 宇宙精神に達する「道具」や「形式」だと論じ た。 それゆえ、 念仏や読経の内容や法統の継承は問題で はなく、 無我となるための精神集中が重要である ため、 深呼吸でもよいことになる。 治療者はこれらの実践からひとつを選 択し、 それに専念することで宇宙精神と合一し、 患者の病気を治すことができるという。 桑原はこの理論を「精神哲学」と それにもとづく治療法を「精神療法」と呼ん だ。 桑原は、 その後の精神療法家(霊術家)に大きな影響を与えてい 名づけ、 る。 しかし、 桑原の精神哲学は、 単なる治療論というより、 既存の諸宗教の差異や科学と宗教の対立を超える新たな「宗教」 の提示でもあった。 最終的にはただ精神哲学を説くことによって、 多数の人々の心身を一度に治療できるとさえ考えていた。 それはもはや救済の教えを説く宗教者の姿に近い。 だが、 一時的な治療を超えた、 教団や信仰共同体のような持続的関係は 考えられていない。 桑原は、 宇宙精神に至った後は、 出発点に引き返さなければならないと強調し、「日本に住むものは日 本の規約、 慣例、 歴史に何処までも従がはねばなら ぬ」 という。 桑原の依拠する共同体は、 人々が 「愉快」 に人倫に従う「日 本」であった。 第一に仏教改良を目指した円了と異なり、 桑原は直接的に日本が問題になっていた。 『精神』誌上の藤田の論文は、「加持祈祷」の原理が催眠術の理解に役立つと主張し ており、 仏教擁護の姿勢が見られる。 しかし、 精神学会との関わりは、 藤田に仏教の枠を超えさせていく。 桑原が肺病で倒れる と、 明治三九年一月から精神学会 の顧問だった医師真島丹吾がこれを引き継ぎ、「精神学院」と改称して機関誌『心の友』の発行を始めた。 一旦はここに藤 田も関わったが、 三ヶ月後に桑原が亡くなったときに、 すぐに数名の仲間とともに牛込の早稲田にて元の「精神学会」の名 前で活動を始めている。 藤田のグループは、 遠隔治療を基本とした真島の活動に不信感を持っていた。 その頃から藤田の右 腕として活躍した池田天真(当時は千葉の学校校長)は、 真島を「詐欺」と痛烈に批判し、 「催眠術全盛の時代に当たって、 それ以外の治病法を唱導し、 盛んに自力的修養の方法を説き来りしは独り我が此の会のみであった」と回顧している。 もち ろん、 派閥争いゆえに批判を差し引いておく必要はあるが、 藤田派が真島に対抗する形で自己修養に重点を置いていたこと はうかがえる。 桑原の体系には他者治療である精神療法と治療者自身の修養が含まれていたが、 それぞれを強調する形で真 栗田 英彦

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藤田式息心調和法の誕生 学生を主な対象とした藤田の精神学会は、経営手腕の問題や資金不足から、一年にも満たずに立ち行かなくな る。 学生相 手に任意寄付制だったことも資金不足の一因となったらしい (寄付制はのちも一貫して続けている) 。 そこで、千葉の池田 邸に拠点を移して精神療法の施術と修養法の講習を続けながら、明治四一年、処女作『実験修養心身強健之秘訣』を刊行し た。 出版による普及に賭けたわけである。 そこに記された藤田の思想的枠組みは、桑原の影響が明らかであり、「精神療法 」を 「純精神療法」と呼び、「宇宙精神」 に独自の 「真元」 の語を当てている他はほとんど違いがない。 ただし、藤田は、治療者自身の修養を「自力的精神療法」と 呼び、それについて詳細な身体技法と観念操作法の手順を定めたところに独自性がある。 これが後に 「息心調和法」と呼ば れるものである。 藤田は、山籠もりや籠居をしながら、この手順や用語を何度も細かく改訂して おり、 岡田虎二郎が、一度 決めた静坐法の形式を全く変えなかったことと対照的である 。 紙 幅の都合上、細かい違いは略し、初期のおおまかな手順を 6 示しておく。 息心調和法の 「調身法」 (姿勢や坐法) には、細かい決まりはなく、少なくとも背骨 を直立させておけばよい。 重要なの は 「調息法」(呼吸法) と 「調心法」(観念操 作法) の連動であ る。 行う前にまず 「公案」を決める。 これは、通常の禅のそ れとは違って、達成したい目標の文言のことで、「健康」などの具 体的なものから 「神」「仏」「大我」といった抽象的なも のまで、幅広く設定できる。 調息法の呼吸は、下腹を張って 「気力」を充たしながら行う。 始めは意識して早く、次にゆっ くりかすかに行い、最後には意識せずに呼吸している状態(「宇宙の生気」の呼吸)に至る。 これと連動して、公案を「腹読」 (文字通り「腹」で読むとさ れる) するのが調心法である。 調息法が進むにつれて、公案の内容が、おのずと 「観念」から 「確信」に至り、このとき公案は既に実現されているとい う。 調和法の難しさは、この観念操作にあったらしい。 のちに、 腹式呼吸の近代ーー'藤田式息心調和法を事例として 島派と藤田派が袂を分かったのだといえよう。 民間精神療法と心身修養は、催眠術からの展開において表裏一体のものだっ たのである。

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後述するように「腹」 われる。 栗田 英彦 の物理的な形状にこだわるようになるのも、 ひとつにはこの難点を克服しようとしてことだったと思 息心調和法は、「公案」などの用語から分かるように、 臨済禅の影響が色濃く見られ、 藤田自身も、 白隠慧鶴(一六八五 8 |―七六八)の『夜 船閑話』の影響を公言していた。 しかし、 藤田の息心調和法と白隠の「内観」や 「軟蘇の法」とは、 実 際のところ大きな隔たりがある。 むしろ、 息心調和法は、 次に述べるように、 同時代の居士 (在家仏教者)らによって再評 価された禅からの影響が大きかった。 4 居 士禅と呼吸法のリバイバル , 当時関東では臨済宗の老師釈宗演(-八六0|― 九一九) らによって臨済禅の布教が行 われていた。 宗演の活動は幕末の 。 2 居士禅の系譜に連なるが、 この時期は新たな展開をみせていた。 その新しさは、 宗演の原案をもとに門下 の居士鈴木大拙 (一八七0|―九六六)が執筆した 『静坐のすすめ』(明治―― ―二)のなかによく現れている。 この本は、 知的エリートの「青 年」に向けて静坐 (坐禅) を勧めるもので、「悟り」以前に、 集中力向上、 徳性涵養、 精神の余裕などにも有効であると強 調する。 そして、 その有効性の根拠は、 血液循環やジェームズーランゲ説 (身体変化が情 動の変化に先立つとする心理学の 説) などの生理学や心理学に説明を求めてい る。 また、 静坐に類するものはキリスト教や儒 教にもあると主張し、 さらに公 案の内容はバイブルや論語でもよく、 禅堂に来る必要もないとまでいう。 ' 近世の坐法や呼吸法の説明には、 主に仏典や新儒学や中医学の概念と理論が 用いられていた。 しかし、 維新以降の自然科 学や西洋哲学の導入は、 この説明枠組みへの確信を揺らがせることになった。『静坐のすす め』は、 禅系で重要な教外別伝 や師資相承さえも否定して、 科学的で普遍的な坐禅の説明をめざしている。 ここには、 新しい時代への適応を試みる仏教者 2 2 の試行錯誤があった。 こう したなかで、「気」の概念と陰陽五行説と『摩詞止観』などの仏典に依拠した白隠の説 明は、 そ のままでは布教対象の知識人に通用しないものとなっていたのだろう。 こうした白隠をいち早く再評価したのは、 杉村楚人冠(-八七ニー一九四五) と加藤咄堂(-八七0|―九四九)であっ

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腹式呼吸の近代 藤田式息心調和法を事例として た。 両者 は居士であり 、 新仏教徒同志会メンバーでもあった。 新仏教徒同志会 は、 井上円了の方向性を引き継ぎ、「迷信の動絶」を掲げて新しい時代の仏教 を探求した 、 改革派の若手仏教者の集まりである。メンバーには哲学館出 身の 者 も 多く、 同館出身の藤田も注目していた可能性は高い 。 杉村は、 のちに『ア サヒグラ フ』を創刊したことで知られるジャーナリスト で、 釈宗演の門下の一人でもあ る。 彼は、 当時アメリカで人気を博していた民 間体育家ユージン・サンドウ(-八六七ー一九二五)の鉄アレイ健康法を行っ ていた が、 実践者の体力次第では弊害があることを実感し、 別の民間体育家・ パウル・フォン・ ベークマン (生没年不詳)の提唱する呼吸法によって内部の 筋肉を鍛錬する ようになった。 杉村はベークマン の著作を『 強肺術』(明治 三六年)と題して翻訳して横隔膜呼吸法を紹介し(図1)、 それが『夜船閑話』 にある「気海丹田 の説」であると論じたのである。藤田は こ の版の 『強肺術』を、 『心身強健之秘訣』に引用している。 さらに、 杉村は新仏教同志会の機関誌『 新仏教』で、 ニューソートの著述家エリザベス・タウン(-八六五ー一九六0) の提唱する太陽神経叢覚醒呼吸法を取り上げ、 太陽神経叢 は白隠の言う「気海丹田」(下腹部の中心)に位置すると論じた。 タウンの説は観念法と呼吸法を用 いて、 腹にある太陽神経叢をコントロール することで、 あらゆる「悪」に打ち克つ「神的 エネルギー」と「愛」を放出できると する ものであった。 続いて加藤咄堂は『冥想論』(明治三八年)を執筆して、 杉村 の 見解を全面的に支持した。『冥想論』ではさらに、 坐禅静坐を、 新プラトン主義、 クエーカー 、エ ックハルト 、 ヤコブ・ベー メ 、スピリチュアリズム(降神術)、 そして自己催眠 など広範な瞑想的 実践と比較し、 それら はすべて究極的には「大我」 と一致する方法だと論じた。 杉村や加藤の主張には、 民間体育(フィジカルカルチャー) やニューソート などのアメリカ大衆文化と 、 井 上円了の心理 A tl'

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図1. 横隔膜呼吸(『強肺術』1903年)

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-7-療法や日本の 明治哲学の概念(大我)の影響を受けている。 藤田 は、 こうした一連の再評価を経由した『夜船閑話』を受容 し、 それを踏まえながら息心調和法を構築したと考えられる。 新しい言葉で坐禅を 語っていった結果、 それはもはや仏教の 枠を越えて展開していくこととなる。 養真会の活動 松村介石の道会 明治四二年、 藤田霊斎は、 松村介石(-八五九ー一九―――九)の知遇を得る。 松村は、 当時の有力な キリスト教指導者の一 人である。 松村は、 合理的な自由主義神学とキリスト教社会主義の影響を 受け、 超教派と社会改良の志向を持 ったクリス チャンであった。 一方で、 世界史にも造詣が深く、 人道にもとづくキリスト教宣教が欧米の侵略主義の手段と なってきたこ

2 とを指摘するなど、 西洋のキリスト教会を相対化する視点も有していた。 こ こから、 キリスト教的真理は時代や場所に応じ て現れるとし、 西洋のキリスト教会から独立した日本固有の教会を建設しようとし た。 それが明治四0年に創立された日本 教会である。 明治四五年には「道会」に改称、 綱領として宇宙の神を信じる 「信神」、 自己一身の修養を為す「修徳」 、 人 と

3 国家の為に尽くす「愛隣」、 人格の不死を信じる「永生」の四つを掲げた。 道会の主張を根拠づける「道」11 「真理」はも はやキリスト教に限定されず、 四綱領を奉じてさえいれば、 その他の個人的信仰は問わないとし た。 日本教会の柱は松村の精神講話だが、 共同設立者である平井金一―-(一八五九ー一九一六)ととも に始めた「心象会」も無 視できない。 これは、 心霊現象(憑神・憑霊・占い •読心術・透視・幽霊など)を 実験によって研究するもので、「永生」

3 と関連して「霊魂不滅」の科学的証明の試みと位置づけられていた。 四綱領 のうち、「修徳」「愛隣」が倫理的問題であるの に対して、「永生」や「信神」はほかを根拠づける存在論的な問題として重要であった。 2 3 心象会には、 実験の協力のために、 五十嵐光龍をはじめ、 精神 療法家や催眠療法家が出入りしていた。 それゆえ、 松村が 『身心強健之秘訣』に目を止めたときも、 内容に斬新なものはないと感じたという。 ただ 、 掲 載されていた治療実例には関 栗田 英彦

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腹式呼吸の近代 藤田式息心調和法を事例として 心を抱き、 道会の機関誌『道』の新刊紹介で「著者に会ふて、 其実際を見んことを希ふ」と記しておいた。 それを読んだ藤 田は、平井金三を介して松村に面会し、精神療法による治病を実演する。こうして、松村の信用を得ることになったのである。 松村は、 イエスによる治病を含め、 古代からの宗教には必ず信仰治療が伴っていたが、 プロテスタントの登場以来、 それ が失われたと考えていた。 それゆえ、 心霊現象の研究だけでなく、 社会救済事業の一環としても、 松村は、 日本教会にこの 方面の方法や人物を求めていたと いう。 こうした要請もあって、 藤田は日本教会に入会し、『道』に「心霊療法」の原理と 方法と実験例を紹介した。「心霊療法」とは、 以前「純精神療法」と呼んで いたもので、 道会および心象会で用いられる サイキックフェノメナ 「心霊的現象」の語に合わせたのであろう。 また、 聖書にあるイエスの行った奇蹟的治病 も、 心霊療法の原理から説明でき ると論じた。 このように心霊療法を期待していた松村だったが、 藤田の修養法も高く評価するようになっていく。 明治四二年― 一月、 8 3 藤田は、 松村らと協議して「養真会」(大正―一年に調和道協会と改称)を結成する。「養真会」の名付け親は松村であり、 藤田式の修養法に「息心調和」の名が冠されるのもこのときである。『道』の付録として、 機関誌『養真会々誌』(明治四二 ー四四年)も発刊された。 松村は、『荘子』の言葉を借りて、「真は神なり、 霊なり、 無雑なり、 無偽なり、 形すべからず、 説すべからず、 而かも道 の本体たるもの即ち是なり、 ……此の真を養ふもの之を真人と云ふ」と「養真」の意義を説き、 イエスもまた「真人」の境 遇だったと主張した。 また、 息心調和法については、「心身の充実活動を以て疾病を駆逐するにある が、 然しその奥には生

3 命の源に通じ、 不死不生の本体と結びつくので、 そこに至って宗教の極意に達する」とまで述べた。 もちろん、 容易にそこ に至ることはできないとされるが、 心象会の文脈からすれば、 息心調和法を「永生」の実験法と認めたことにほかならず、 日本教会の文脈からすれば、 キリスト教的真理の日本的、 あるいは東洋的な現れとして承認することでもあった。 2 養 真会の発展 日本教会発足後、 松村は、 短期間でさまざまな事業を立ち上げた。 各界名士の交流会「道友会」 、 大衆教化団体「道の会」 、

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-9-野口復堂の教育講談 (教談)、 青年のための弁論会 「不朽青年会」、 学生の交流会 「学校道の会」 (帝大・一高・慶応・早稲 田など)、さらに 「婦人会」などが発足から四年の間に組織されている。心象会も養真会も多岐に渡る活動 の一部であった。次々 と支部も設立し、 深川に出張所を設けて貧民救済事業にも手を広げた。 教義的には、 キリスト教色を薄めていたが、 日本教 会の活動はキリスト教会をモデルにしていたといえる。 日本教会 11 道会の発展は、 養真会の発展にもつながる。 明治四四年七月、 日本教会から独立して機関誌『真人』の発行を 始めると、 翌年までに大阪、 明石、 神戸、 横浜、 丹波、 名古屋、 京都、 浜松、 米子、 大正はじめには姫路、 龍野、 カナダの バンクーバーにまで支部を置いた。 養真会本部及び支部には、 婦人会、 児童会、 青年会が組織され、 それぞれ で月に一度の 修養会を行った。 心霊治療の施術や調和法の伝習会は養真会の救済事業と位置付けられ、 本部や各支部で行われていた。 大 正二年、 講話会の開催によって調和法を広める「普及団」も設立された。 六年には調和法によって体現される四徳を「健康・ 剛勇・叡智.至誠」と蘭明にし、 それを 「調和道」 と呼んだ。 初期の関連団体で重要なのが、 百歳までの存命を目指す 「百歳会」 である。 明治四四年、 藤田は、 松村 の紹介で 「人生 ―二五歳説」 を唱えていた大隈重信(-八三八ー一九二二) を会長に迎え、 みずからは主幹としてこの組織を設立した。 こ れは実質的には養真会の同体異名の組織であり、 大隈の知名度を通じて養真会を知らしめることになったと思われる。 大隈 の他にも、 初期の関連団体の顧問や賛助員、 あるいは機関誌への寄稿者は、 道会経由の人脈から構成されて おり、 それが養 真会の発展に果たした役割は大きい。 綱領と事業を掲げ、 支部と関連団体を設立することで運動を発展させていく方式は、 道会から学び取ったものだろう。 一方、 養真会は、 精神療法団体としての特徴も保持している。 養真会発会後、 藤田は、 息心調和法の伝習に初伝・中伝・ 奥伝の段階を設定した。 先述の内容が中伝、 中伝を簡略化したものを初伝とし、 奥伝は記されずに秘儀化された。 奥伝を授 与された会員は「霊」の一字を含めた号を授けられて幹部や支部長となる。 こうして、 修養の度合い(伝習のレベル) によっ て階層づけられるピラミッド型の組織形態を構成したわけである。 ちなみに、 後に基督心宗を立教するクリスチャンの川合 栗田 英彦

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腹式呼吸の近代 1 藤田式息心調和法を事例として 54 信水(-八六七ー一九六二) は、「霊月」の号を受けた養真会丹波支部の支部長だった。 雑誌や著作の頒布によって技法を 拡散する一方で、 技法 の中枢を秘儀化することで凝集力を高める戦略だったと見ることもできよう。 伝授内容を秘密にする 64 戦略は、 密教の影響も考えられるが、 実は桑原俊郎が行っていたものであり、 養真会もそれ を踏襲したと思われ る。 桑原と のちがいは、 修養を軸にすることで治療者と患者の区別を超える点にある。 こう して、 一時的な治療関係を超えて、 持続性 を持った会員による「協会」が構築されていった。 だが、 何より、 養真会の組織発展は、 旺盛な執筆活動と堅実な出版事業に支えられていた。 養真会は独自 に出版社「 真人 社」(大正五年「養真会出版部」に改称)を設立し、 『真人』の後は、 『養真 』(大正七年一月ー―一年九月) 、『 調和』(大正 ―一年一0月ー昭和七年一月)、『健康 と信仰』(昭和七年二月ー九年―二月)、『大調和』(昭和一0年一月ー昭和一七年六月) と雑誌名を変更しながら、 休むことなく発行 を続けた。 真人社および養真会出版部からは、 二0冊近い藤田の著作や大隈重 信の『人寿百歳以上』なども刊行している。 藤田や池田は、 機関誌にほぼ休みなく寄稿し、 著名 な政治家や実業家、 軍人や 官僚などもしばしば記事を投稿して紙面を盛り上げていた。 また、 大正五年(-九一六) には、 新聞紙法第十二条の手続き (保証金の納付)を履行して、 時事問題や政治的主張も掲載できるようにして いる。 もちろん、 機関誌の主題は息心調和法 の普及にあるが、 その意義が個人の修養 や健康を超えて、 政治や社会と関連づけても論じられるようになった。 養真会の活動は軌道に乗り、 大正六年には高輪に心霊治療所を併設した本部道場「養真閣」 を建設する。 大正八年の統計 では、 ―二の支部数 、 支部以外の修養団体が十有余、 会員約五千人、 雑誌は毎月四千部発行、 中伝の伝習者は約四万人 を数 47 48 えた。 これは、 もはや同時期の道会会員数をしのぐ勢いであった。 こうして養真会は名 実ともに道会から独立していき、 仏 教でもキリスト教でもない宗教性を帯びた、 精神療法11心身修養団体となっていくのであった。 3 養 真会の国際性

4 養真会の機関誌の記事は、 東洋の古説とともに海外の霊性思想の紹介にも努めている。 ニューソートの紹介もあったが、 特に興味深いのが「気」の概念が西洋の霊性 思想によって再評価された論説である。 大正初期の論文で藤田は、 仏陀の後光

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-11-や櫻寧室『養生訣』( 天保六〈一八三五〉)に書かれた人体より発する「気」が、 一九―一年に行われたw. J・ キルナーの 実験によって科学的に実証されたと論じた。 この実験は、 ある化学薬品を塗布したガラス板を透か して、 人体の周囲のオー ラ(「光輝」)を可視化するというもので、 その後も霊性文化のなかでたびたび引用されている。 藤田の論文は、 日本へ最初 期の紹介といえよう。 ここでは、 一八九八年に発見されたラジウムの放射線も 、 人 体から発散される「気」と結びつけてい る。 同様の説は、 のちに霊術家松本道別も採用している。 また、 養真会バンクーバー支部長松田霊洋は、 ニューソート系ヨガで知られるヨギ・ ラマチャラカの著作をはじめて和 訳し た人物である 。この翻訳以降、 松田の名前が養真会から消え るが、それが関係しているかどうかは不明である。ラマチャ ラカの理論では、 宇宙精神のエネルギー「プラナ」を、「プラナ呼吸法」を通じて体内の「太陽神経叢 」に貯蔵し、 それを 患者に与えることで治療をする。 藤田はのちに腹との関連で「太陽神経叢」を重視する ようになっている。 養真会の側から海外に向けて発信しようとする動きもあった。 大正一0年頃から、 養真会は、 家庭、 里、 邦 、 世 界を段階 的に 「調和化」して、「調和の天国」の実現を本領 とし て掲げるようになる。 藤田の著作は漢訳も英訳もされた 。 大 正― 一年、 陳敬賢(夏門大学を擁する集美学村を建設した陳嘉庚の弟)は、 漢訳され た藤田の著作(『心身強健秘法』『心身調和法』 な ど )を読んで実践し、 慢性胃腸病を治している。 陳は藤田から直接講習 を受けるために東京まで赴き、 大正一四年には、 中 華民国調和会を設立してい る。 藤田は、 調和法が「日支親善」と 「東亜民族の興隆」に資する事を期待していた。 なお、 詳細は別稿にゆずるが、 昭和四年に、 養真会は日系移民以外のアメリカ人にも 調和法の普及を試みたが、 結局、 積 極的な普及は中断した。 修養団体としての養真会 心身修養の自発性 養真会の発展は、 青年団や修養団といった修養団体が成長する時期とも重なる。 道友会会員は青年団運動の支持者と重な 栗田 英彦

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腹式呼吸の近代 1 藤田式息心調和法を事例として 「尊皇報国・聖典身読・政道発揚・実力養成」を綱領に掲げた「報 り、 松村も修養団の顧問を務めていた。 養真会でも、 青年団や修養団の運動に影響を受けた活動があったが、 重要な違いも あった。 青年団は、 内務省の地方改良運動の一環として、 内務官僚の田澤義鋪(-八八五ー一九四四)に よって全国的に組織され た。 その目的は、 地方の「中堅青年」(名望家子弟)を国民として養成し、 地方自治への主体的な参画を促すことにある。 田澤の企画した「宿泊講習会」では、 共同心を養成するため、 宿泊施設に「中堅青年」 を集め、 農法や国体観念の講習を行 いながら、 一週間ほど講師と受講者がともに共同生活を営む。 この 合宿中、 起床時と就寝前に全員で心身修養法を行ってお り、 大正三年に開催された第一回宿泊講習会では、 中村春二の静坐凝念法(岡田式静坐法に中村が手を加えたもの)が用い られた。 参加者は、 講義内容よりも静坐に関心を持ち、 講習後も継続 することとして、 それを挙げる者が多かったという。 観念的あるいは達成困難な倫理的目標も、 具体的な身体技法と結びつ くことで実践的なものになり、 その実践そのものが倫 理性の表象にもなる。 蓮沼門三(-八八ニー一九八0)の修養団が協力した「天幕講習会」でも、 岩佐珍儀の岩佐式強健術、 川合春充の川合式強健術の講習があった。 青年団のノウハウを継承した修養団は、 大正後期から講習会を企業内教育に応用 していく。 背景には労働運動に対抗し、 労使協調体制の構築を目指す企業の要請があった。 こうした流れに悼差して、 大正六年から、 養真会も青年会主催の夏季修養団(長野県の野尻湖畔で合宿)を始めている。 参加者は地方の「中堅青年」ではなく、 帝大 ・慶応大・東京高等工業高校・旧制高校などに在籍する養真会会員の学生であっ た。 しかし、 青年団や修養団との最大の違いは、 当然ながら、 そこで行われる心身修養法は息心調和法に限られるというこ とである。 つまり、 夏季修養団では、 息心調和法の実践が第一目的になっているのである。 合宿の第一目的を地方自治や労 使協調に置かずに、 修養法の実践そのものにすることで、 藤田の定めた身体技法を軸とした共同性が形成されることになる。 目指すべき理念や核となる原理を組織内に有することは、 修養団体の内政や企業に対する補完的役割を超えて、 より自発的 あるいは主導的役割を自覚した運動を導く可能性につながる。 実際、 夏季修養団を主宰した養真青年会から、 大正八年、

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-13-心身修養の統治性 一方で、 労使協調路線に呼応して、 養真会は、 修養団に見られるような企業内講習に も早くから着手していた。 明治四五 年頃から、 松屋呉服店、 郡是(現・グンゼ)、 鐘ヶ淵紡績(現・カネボウ)、 久原工業、 川瀬銀行、 富士生命保険、 明電舎な 6 6 どで息心調和法の伝習を行った。 川合信水が社会教育部に勤務していた郡是では、 特に熱心に取り組まれていた。 また、 市 民自治への貢献として、 大正―一年の東京市主催の林間修養会では、 東京市社会教育課長大迫元繁の依頼により、 藤田ら養 6 真会の指導者たちが息心調和法を教授した。 息心調和法は、 さらに監獄にも及んだ。 大正五年、 司法省監獄局長の谷田三郎が養真会会員の弁護士今村力三郎を介して 86 藤田に監獄協会での講演を依頼し、 看守・教誨師一00名に対して中伝の伝習会を行った。 翌年、『息心調和法在監者修養法 』 が監獄協会から発行され、 全国の監獄に配布される。 これ以降、 藤田自身もたびたび出張して直接囚 人に指導を行うように なる。 浦和監獄(本監・川越分監・熊谷分監 )を 中心に、 水戸監獄、 小菅監獄、 広島監獄への講習が記録されている。 しかし、 ここでも身体性が重要な意味を帯びてくる。 ある日、 監獄で囚人の腹を観察(「査腹 」) しているとき、 藤田は、 腹の形状が体質と性質に関係していることに気づく。「瓢腹」 上腹(鳩尾のあたり )をくぼませ下腹のみ張り出す姿 勢 が健全であるのに対し、「犬腹」「洋樽腹」の人は不健全な体質・性質で、 査腹すると「腹部硬結症状」がある という(図 2 国青年義会」が生まれた。 道会の不朽青年会から、 橋本徹馬らの「立憲青年党」が 生まれたことを先例としているのかもし れない。 青年義会は、 デモクラシー推進を謳って機関誌『劫火 』 を『養真 』 の付録として発刊し、 会員らは、 資本家と内閣 および労使協調の弥縫的性格を批判し、 労働者団結を制限する治安警察法 一七条の撤廃を主張した。 同時に、 人間の改造が 急務と説き、 御製拝誦と調和法実修によって「国家的自覚」を養うことを訴え た。 青年義会は 、 大 正末の労働運動に呼応し ながら、 共産主義とは異なる一種の国家社会主義的な運動を志向していたといえよう。 企業や地方 といった既存の中間集団 に属さない学生に対して、 養真会は、 従来の価値を批判する立ち位置を、 身体的かつ組織的な次元において提供していたの である。 栗田 英彦

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腹式呼吸の近代 1 藤田式息心調和法を事例として 2)。 藤田はいう。 精神といふ掴みどころのないものを掴もうとして彼れ是れ苦ん で居るよりも、 硬結症状といふハッキリした物を掴んで、 それ を除去することの方が、 遥かに根本的であり、 又確実性を有っ て居るのであります。 つまり、 腹の形状を治せば、 人の思想まで改善できるというのであ る。 養真会の記録では、 息心調和法によって囚人は快活になり、 ま た頑健にもなったという。 だが 快活や頑健は、「瓢腹」の結果に過 ぎないのである。 藤田の論理を徹底すれば、 矯正の究極的な目的は、 遵法精神の涵養などではなく、 腹の形状の改善だということになる 。 ここでは、 一般的な精神と肉体、 あるいは意志と行為の関係が逆転 する事態が起こっている。 だが、 ミシェル・フーコーの規律訓練に 関する議論を踏まえれば、 政治権力は、 規律の内面化ではなく、 身 体への書き込みによってこそ直接の影響力を行使するのである。 そ うだとすれば、 藤田の主張は、 支配と抵抗がせめぎ合う監獄という 場において、 既存の法に服しつつ、 みずからが提示する新たな法 息心調和法 を打ち立てようとする政治的な試みだともいえる。 実際、 藤田はこれをさらに一般化していく。 国民のあいだに身体虚弱と思想悪化がはびこっている ならば、「瓢腹」を作 る調和法の普及こそが解決策に他ならない。 そうして、 大正一0年、 藤田は「体質改善社」を創立し、 国民心身の改善に乗 り出した。 対象は、 囚人を超えて国民全体となる。 藤田の体質改善運動は、 国民全体の 思想問題をはっきり視野に入れてい 綸硬部腹 t繍囀訣• 繍囀駅攣 繍置騎鶉

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集・・・・・・, ..................... 急^ ...... 最 ....... , ..... , .. ,.簿...... ;(氏釦) 鼠編囀編 図2. 腹部硬結の図(『藤田式調和法前伝略解』 1922年)

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一種の政治運動の色彩を帯びてくる。 れることなる。 四 養 真会の政治思想ー「真人」の社会主義と「腹」のナショナリズム 大正五年、 藤田は新聞紙法手続きの履行を報告するとともに、「我徒の真目的」はすべ ての人を「養真の徒」にすること だと声高に主張している。 政治家や内閣は、 専政であれ憲政であれ、「養真の道」に進んで、「真」を心に働かせて「真心」 を持って政務を取らなければならない。 そして、 人々は、 頭脳教育ではなく「腹の教育」を通じて、 自己の「天分」を自覚 して労働するべきである。 養真を通じた国民統合の宣言であった。 藤田の主張が 、 右派的思想も左派的思想にも共鳴 したこ とは、 アジア 主義者と して知 られる大川 周明( -八八六|' 一九五七)やキリスト教社会 主義者の村井知至(-八六―|―九四四)も養真を論じていることからうかがえる。 松村を慕っ て道会に入会した大川は、 大正三年から七年にかけて、 養真会の機関誌にも四二件の論考を寄稿している。 日本教会の創立 メンバーの一人である村井は、 自分や縁者の治病体験から、 藤田に深く傾倒し、 体質改善社の特別社員と賛助員を務めてい た。 ここでは両者の政治思想と養真がどのように関連しているかを確認してみたい。 大川は「養真の意義」と題した論文で、 次のように述べている。 天分と言ふ自覚なしに徒らに肉体を大切にすることは殆ど無意義であると言ってもよから う。 従ってかAる意味の養生 は左程の価値あるものではない。 然らば吾等の養生とは何ぞ、 曰く自己の真生命を長養することである。 自己が分担し て居る普遍の生命を存養して以て天分を全うすることである。 「永生」に通じる「普遍の生命」11「真生命」が養真と結びつけられており、 松村 や藤田の主張が踏まえられていること が わかる。 そのうえで、 大川は「吾等の本務は、 神の分身として其の分担を尽くすに在」り、「其の組織的実現は神の代表者 たる皇室を中心とする『国家』に於て成就される」として、 「天分」の問題を「大日本帝国の使命」にも結びつける 。 つ まり、 る以上、 栗田 英彦 とすれば、 そこには向かうべき社会像を論じる社会思想や政治思想が要求さ

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腹式呼吸の近代 藤田式息心調和法を事例として 大川は養真で目指す理想として、 天皇を中心とした君民一体の国家を見ていた。 この場合、 天皇と真人のどち らに、 究極的 な「真」を置くかという問題が残され、 大日本帝国には理想と現実が重なることになる。 一方、 村井は、 ニーチェの「超人」を踏まえつつ、 次のようにいっていた。 人間が進化して超人の域に達すれば、 その超人と今日の人間とに如何なる相違があるか、 超人社会は如何なる状態を呈 するのであらうか、 ……第一、 肉体の状態が変化するに相違ない。 病気は凡てなくなるであらう。 最早や人は天地と調 和し其の理屈に従はざるを得なくな り、 死ぬることはあっても皆天寿を全う して生を了るのであって病死ではない。 ……勿論人に殺されたり或は自ら撰んで己が生命を亡ぼすといふ如き変死などは皆無となる。 ……鳥や獣類の世界にも 彼等は本能的に自然法に調和して活きて居るから、 彼等の中に余り病気といふものを見ないやうで ある。 人間が彼等を 籠や檻に入れて不自然な状態に閉込め、 色々人為的制裁を加えると、 彼等の中に病気が出てくる。 ……之に依て考ふれ ば人間が順当の生活即ち藤田先生の調和道なるものによって活きて行く時は病気はなくなる筈である 。 超 人時代となれ ば恐くは藤田先生の修養法も不要となるであらう。 何故ならば先生の修養法は万人に行き渡り凡ての人の活きて行く常 道となり、 誰も之に背くものはなくなる程に人間の思想も肉体も変化するからである。 そうして、 思想も肉体も変化した「超人社会」では、 社会と個人の意志が一致して、「利己的観念」が消滅する。 それは「蟻 の社会」に喩えられ、 「健全なる社会主義、 完全なるデモクラシー理想的社会生活は一足御免で蟻の方が人間より一歩先き に之を実現して居るとは情けない事ではないか」と嘆じられる。 藤田の修養法が普くいきわたり、 万人が養真の徒となって いるのが「超人社会」であれば、 それは「真人社会」とも呼べよう。 村井は、 これを「デモクラシー」と「社会主義」の徹 底だという。 描かれるユートピアの是非は措くとして、 これもまた藤田の「真目的」を踏まえた社会思想となっている。 それでは村井の主張と日本の関係はどうか。 村井は、 日本語には腹と心を同意義に用いた言葉が多く、 たとえば切腹とは、 自らの腹11心の潔白と赤誠を物理的に証明する「道徳的意志の実現」であるとい う。 そのように心と腹を同一視することが 日本的なのであり、 それゆえ西洋には深呼吸はあるが腹の修養はないと論じていた。 この点で、 藤田の息心調和 法には日本

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-17-おわりに 的な含意を認めている。 しかし、 腹と心の一体は前提にすぎず、 理想は 腹の修養の先にあるのであって、 無条件に日本が理 想とされるのではない。 修養された「腹」にこそ価値を帯びるのである。 それゆえ、 村井は「神は腹に在り」 と言っていた。 村井の考える理想社会は、 天皇を中心とした共同性ではなく、 腹を作り上げた個々の「真人」の共同性であっ た。 その共 同性は養真会に重なっても、 大日本帝国には無条件では重ならない。 唯物論的な階級理論も西洋のキリ スト教会に基づく共 同性をも否定したキリスト教社会主義者は、 現状に対抗する現実を「腹」のナショナリ ズムに見出していたのである。 以上のように、 藤田霊斎は近代化にともなうローカルな問題として仏教の危 機を経験し、 そこから新しい仏教のあり方を 模索する中で心身修養に行き着いた。 一方、 キリスト教側でも、 日本のナショナリ ズムや対外的危機意識に対応するなかで、 道会(日本教会)が創立されていった。 この道会を媒介として、 息心調和法と養真会は成立する。 この意味で、 息心調和法 は、 キリスト教と仏教の近代的変容における交錯 の産物であった。 一方、 それは、 心霊現象研究やニューソー トやフィジカ ル・カルチャーの国際的流行の影響も受けていた。 そうした情報の氾濫とそれにともなう比較論的視点は、 核となる技法や 信念の相対化をもたらしかねない。 しかし、 段階的な伝習システムと奥義の秘儀化、 そして度重なる改訂によって、 藤田は 身体技法の価値を維持しようとした。 さらに、 監獄における腹部硬結症状の 「発見」という物理的なエビデンスを根拠に、 息心調和法の正当性を力強く主張していった。 それは、 身体を通じ た新たな国民統合原理の提示でもあった。 息心調和法を含む戦前の代替医療的な運動については、 「全体性への志向」にしばしば「社会統合の無前提な容認に結び つく危険性」があると指摘されている。 しかし、 いかなる運動であれ、 そこに専心する とき、 個人はかならず運動全体の部. 分に位置づけられよう。 自由を求め、 個性を主張する運動であっても、 それは例外では ない。 そうであれば、 全体に対する 個人の解放か束縛かを問うのではなく、 その運動がいかなる現実と妥協あるいは対立したのかを問うほうが生産的で あろう。 それでは、 藤田の運動はどうだったか。 養真会が天皇や日本といった価値に親 和的であったのは確かである。 栗田 英彦 一方で、 大

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腹式呼吸の近代 1 藤田式息心調和法を事例として 正デモクラシーに通じる労働者救済や国民の自由や平等といった価値も重視していた。 これらは大正期の政党政治を正当化 するイデオロギーでもあり、 当時の現実の一側面を表す ものである。 しかし、 藤田は「腹」の形状に究極的な価値をおくこ とで、 そのいずれとも異なる正当性の根拠を示してもいた。 この二重性ゆえに、 ネイションの現状を内在的に批判し、 既成 宗教の共同性や西洋発のヒューマニズムとも異なる国際的連帯の可能性さえ持っていた。「腹」は、 ナショナリズムであり

ながらナショナリズムを物理的に超える根拠であり、 その意味で昭和期の超国家主義とも繋がる思潮のフィジカルなあらわ れでもあったのである。 二0一三年。 Joseph Alter , Yoga in Modern India , (Princeton University Press , 2004)• Elizabe t h De Michelis , A History of Modern Yoga , (Con t inuum , 2004) . Mark Singleton , Yoga Body, (Oxford Universi t y Press , 2010) . 松尾栄編『比較研究七大健康法』(-九一四年)、 加藤美命『廿大強健法』(-九一八年)、 伊藤尚賢・森繁吉『活 きん とするものA為に』 (一九二二年)、 現代健康法研究会編『現代十大健康法』(-九三八 年) など、 さまざまな健康法紹介本で岡田式や二木式と並んで挙 げられている。 多くの精神療法家の批評をしている霊界廓清同志会編『霊術と霊術家』(-九二八年)では、 藤田 について「今日心霊 界(精神療法業界のことー栗田注)が異常の発達を遂げたのは、 同君の力与つて大なりといつても不可はない」と評している。 一方で、 藤田が他の精神療法家と交際しないことを批判してもいる。 藤田 の活動については、 田中聡『なぜ太鼓腹は嫌われるようになったのか?ー〈気〉と健康法の図像学』(河出書房新社、 一九九三年) で概略が紹介され、 伝記としては村野孝顕『道祖 藤田 霊斎伝記』(調和道協会、 一九八二年)がある。 しかし、 いまだ詳細なモノグラ フは描かれていない。 得度時の名前は田辺祐慶であり、 明治三四年に結婚したとき、 故郷の藤田 家を再興するために藤田姓を名乗るようになった。 桑原俊 郎門下では蓮堂の号を名乗り、 修養法を提唱した頃から霊斎の号を用いるようになった。 圭室文雄『葬式と檀家』吉川弘文館、 一九九九年。 野村英登「井上円了における催眠術と瞑想法」『「エコ ・フィロソフィ」 研究別冊』七号、 井上円了『妖怪学講義巻之――-』哲学館、 一八九四年、 三四ー三五頁。 桑原俊郎『精神霊動』開発社、 一九0三年(第一編)・一九0四年(第ニー三編)。

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28 27 26 25 24 23 22 21 20 19 18 17 16 15 14 13 12 11 10 9 同右、 『精神 霊道』第三編、 二四二頁。 藤田蓮堂「催眠学者の為に加持祈祷の原理を説く」『精神』一巻一0号、 一九0五年。 藤田霊斎『【実験修養】 心身強健之秘訣』 三友堂、 一九0八年、

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―四頁。 一九二0年。 池田天真 「神聖な る精神界の害虫(―|四 )」『真人』六三ー六六号、 一九一六年。 池田天真 「会長の籠居修養せらるAに就て」『真人』六七号、 一九一七年。 藤田霊斎『【実験修養 】心 身強健之秘訣』 三友堂、 一九〇八年 ―一ー ニ―四頁。藤 田霊斎「回顧十周年」『養真』 一九二0年。 藤田、 前掲『心身強健之秘訣』一〇八ー一五八 、一八五頁。 藤田、 前掲『心身強健 之秘訣』。同『【心身強健之秘訣】 息心調和之修養法中伝』 三友堂、 一九―一年。同『藤田式修養息心調和法中伝』 三友堂一九一五年。 同右『藤田式修養息心調和法中伝』、 二六五頁。 藤田、 前掲『心身強健之秘訣』‘ 10九ー―10頁。 明治期の代表的な禅僧 応義塾に入塾し、 洋学や英語を学び、 シカゴ万国宗教会議に参加 (-八九三年)や米国布教 ( -九0五年) を行った。 臨済宗円覚寺派・建長寺派管長・臨済宗大学学長を歴任、 夏目漱石の小説 『門』に登場す る老師のモデルとしても知られ る(井上禅定編著『釈宗演伝ー禅をZENと伝えた明治の高僧(禅文化研究所、 二000年)。 Janine Tasca Sawada , Practical Pursuits: Religion , Politics , and Personal Cultivation in Nineteenth-century Japan , (University of Hawai 'i Press , 2004) . 釈宗演・鈴木大拙「静坐のすすめ」(『鈴木大拙全集(増補新版 )第十八巻』岩波書店、 二00一年、 〈初出・光融館、 笠井哲「白隠禅の思想的背景」『印度学仏教学研究』四一巻一号、 一九九二年。 新佛教研究会編『近代日本における知識人宗教運動の言説空 間ー 『新佛教』の思想史文化史的研究』、 二0―二年。 パウル・ ォン ・ベークマン『強肺術』杉村広太郎訳、 文明堂、 一九0三年、 六頁。 藤田、 前掲『心身強健之秘訣』―二九ー一三0頁。 杉村楚人冠「生理上より見たる座禅観法」『新仏教』五巻四号、 様の説を掲載した(-四三ー一六一頁)。 E li zabeth Towne , Just How to Wake the Solar Plexus (1901) 加藤咄堂『冥想論』東亜堂、 一九0五年、 六八頁。 栗田 英彦 一九0四年。『強肺術』の改訂増補版(鶏整堂、 一九〇六年)でも同 藤田霊斎「回顧十周年」『養真』 10 二号、 10二号 一八九九年〉)。

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47 46 45 44 43 42 41 40 39 38 37 36 35 34 33 32 31 30 29 腹式呼吸の近代 藤田式息心調和法を事例として 一九―一年。 松村介石『続警世時論』救済新報社、一九00年。 同『天地人』警醒社、 松村介石『道会の 主張』 天心社、一九―二年。 松村介石「永生(其一 )」『道』一六号、一九0九年。 心象会会員には、 他に加藤咄堂、 元良勇次郎、 野口復堂、 高島米峰、 桜井義肇、 福来友吉、 村上広治らがいた。 平井は仏教者であったが、 キリスト教の一派ユニテリアンに転向し、 さらにユニテリアンも去った英 学者である(吉永進一・野崎晃市「平井金三と日 本の ユニテリアニズム」『舞鶴高専紀要』 四0号、 二00 五年)。 五十嵐光龍も真言宗僧侶であ り、 哲学館で催眠術を学び、 のちに精神療法家として身 を立てた。 主著に『自働療法』(婦女界社、 一九二0年) がある。 「新刊紹介 実験修養心身強健之秘訣」『道』一0号、一九 0九年二月 。 松村介石『信仰五十年』 道会事務所、一九二六年、 一八ニー一八 三 頁。 藤田霊斎「心霊療法」『道』一四ー一五号、一九0九年。 藤田は、 自分が 「心霊療法」 の語を最初に用いたと主張している。 初出については検証の必要はあるが、 最初期の例の一っと考えて よいと思われる。 藤田霊斎「イエスの奇蹟的治病法に就て」『 道』 一六ー一九号、一九〇九年。 会長は藤田で副会長は池田天真。 結成当初の 名誉賛助員として、 松村介石、 平井金三、 村井知至、 野口復堂、 田中正之助、 齋藤松州、 村上郊外、 山田三七郎が名を連ねる。 松村介石「養真の意義」『真人』一四号、 一九―二年、一0|-―頁 松村前掲、『信仰五十年』、一八四ー一八六頁。 中伝伝習会は、 毎月二回・五 日間のコースで、 本部で開かれた。 真辺将之「大隈重信の文明運動と人生―二五 歳説」 『早稲田大学史紀要』四四号、 二0 一 三 年 。 松村介石「養真会と百歳会の 前途を祝す」 『養真会々会誌』一四号、一九― 一年。 後述する大川周明や村井知至や川合信水も、 道会経由の 人脈である。 他に道会と養真会に関係した人物には、 渡邊国武(政治家)、 渡 邊千冬(政治家)、 島田三郎(政治家)、 石川半山(ジャーナリスト)、 今村力三郎(弁護士・足尾鉱毒事件や大逆事件 の 弁 護を担当)、 野口復堂(教談家)、 森村市左衛門(実業家) らがいた。 岡田式静坐法は、 散在する静坐会を岡田が巡回するというネットワーク型の組織形態をとり、 この点でも対照的 である。 川合の弟が肥田式強健術で知られる肥田(川合)春充である。 池田前掲、「神聖なる精神界の害虫」。 中堂謙吉編『精神霊道奥義』 開発社、 池田天真「本会創立以来十個年間の成績」『養真』一0一号 、一九 一九年。 一九〇六年。

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-21-64 63 62 61 60 59 58 57 56 55 54 53 52 51 50 49 48 道会員は、 大正六年に五一五名、 大正十年に千数百名である(刈田徹「道会機関誌『道』の「解題」ならびに『総目次』」『拓殖大学 論集』一五八号、 一九八五年、 ニニ九頁)。 養真会幹部のH . J ・フーパーは、 大正五年頃まで『真人』にニューソートの記事を連載した。 フーパーは、 横浜第一中学校などで 教えていたイギリス人で、 奥伝を授与されて霊瑛の号を持つ(「奥伝授与式」『真人』一五号、 一九―二年)。 道会員は、 大正六年に 五一五名、 大正十年に千数百名である( 刈田徹「道会機関誌『 道』の「解題」ならびに『総目次』 」『拓殖大学 論集』一五八 号、 一九八五年、 ニニ九頁)。 藤田霊斎「人体の光輝」『真人』一四・一五号、 一九―二年。 同「養気之法 」『真人』 ( ニ ニ・ニ三号、 一九一三年) Walter J . Kilner, The Human Atmosphere; or the Aura Made Visi b le b y the Aid of Chemical Screens, Rebman (New York) , 1911 . 松本道別『霊学講座』八幡書店、 一九九 0年。松本は人体ラジウム学会を発会した。 松田霊洋「欧米普及の第一歩」『真人』三一 号、 一九一四年。松田霊洋「北米バンクーバー支部通信」 『真人』三三号、 一九一四年。 ラマチャラカ(松田卯三郎訳)『深呼吸強健術』大 学館、 一九一五年。松田霊洋『最新精神療法』公報社、 一九〇六年。 ラマチャラカ については、 本書のデリプ論文を参照。 藤田霊斎『国民身心改造の原理と方法』調和道協 会、 一九三八年、 二八三ーニ八七頁。 「我が徒の本領」『養真』――七号、 一九ニ―年。 藤田は、「身も調和、 心も調和、 家調和、 国も世界も、 たゞ調和にぞ」という「調 和道歌」 を作っている。 調和道協会の 刊行 した 英 書として、 Th e Ro a d T o H e a l th : O u tlin es of Rミ m ony E x er cis esやTh e L芝 of H a rm ony i n H e a l th an dPh ys i cal Cultureがある。 陳敬賢「再生の 体験」『調和』一三五号、 一九二二年。 陳敬賢「わが生活の黎明に臨んで過去廿年 を回想す」『 調和』一四七号、 一九二三年。「中華民国調和会に於ける調和道研究会」『調和』一六四号、 一九二五年。 藤田祐慶「本協会創立廿週年を迎ふるに際して( 記念事業としての海外宣伝) 」『調和 』一九九号、 一九二八年。 藤田祐慶「米国人に 腹力養成法を教ふるに就て」『調和』二0九号、 一九二九年。 武田清子「解題」『明治文学全集 八八』筑摩書房、 一九七五年。 番匠健一「一九一0年代の内務官僚と国民統合の構想 1 田澤義鋪の青年論を中心に」『Core Ethics』六巻、 二0 10年。 佐々木浩雅『体操の日本近代』青弓社、 二0一六年、 一―九ー一四八頁。 機関誌『養真』および『調和』に毎年九 月、 夏季修養団の体験談が掲載されている。 「青年義会『劫火』」 『養真』一0二号、 一九一九年―二月。 渡辺海旭(仏教学者・社会事業家)・大迫尚道(陸軍大将) •佐藤鉄太郎( 海 軍中 将) ・沢柳政太郎( 教育学者)などが、 青年義会の顧問に就任した。『劫火』は一九二0年―― ― 月 まで付録として発刊され、 五月に 栗田 英彦

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付記 本稿はJSps科研費一五J―二五九0の助成を受けたものである。 80 79 78 77 76 75 74 73 72 71 70 69 68 67 66 65 腹式呼吸の近代ーー'藤田式息心調和法を事例として 一九九九年、 ニ 八 一頁。 一九一六。 一三五号、 八 四 ー九五頁。 独立の広告が掲載されている。 しかし、 独立後の『劫火』は未発見である。 伊東久智「大正期の「院外青年」運動に関する一考察 __ 、橋本徹馬と立憲青年党を中心に」『東洋文化研究』ニニ号、 二0-―年。 栗生実「郡是製糸株式会社の企業内教育に関する一考察ーー地池域主義と何鹿群蚕糸業 教育 との関係を中心に」『立命館経営学』四七巻 五号、 二00九年。 藤田前掲、「回顧十周年」。 大迫元繁「社会改良の第一義と林間修養会の使命」『調 和』 一三五号、 一九二二年。 藤田霊斎「息心調和法講話」『監獄協会雑 誌』 三0巻四ー五号、 一九一七年。 橋本霊星「囚人の改悛と 調和法」『真人』 一九二二年。 藤田、 前掲『国民心身改造の原理と方法』、 九0 | 10二頁。 藤田霊斎「体質改善社創立趣旨」『養真』―一九 号、 一九ニ―年。 藤田、 前掲『国民心身改造の原理と方法』、 藤田、 同右、 一七八頁 「浦和監獄に於ける調和法の効果報告」『養真』―二0|―ニ― 号、 一九ニ―年。 M・フーコー『監獄の誕生』田村倣訳、 新潮社、 一九七七年、 三0頁。 藤田霊斎「再び我が徒の主張を明かにし、 併せて本誌の使命を宣す(上・中・下)」『真人』 六三ー六五号、 大川周明「養真の意義」『養真』 五四 号、 一九一五年。 大川周明「大日本帝国の使命」『養真』 八五号、 一九一八年。 村井知至「人間以上の人間」『養真』 九八号、 一九一九年。 村井は、 ラフカディオ・ハーンのエッセイ「蟻」(『怪談』所収)を踏まえている。 村井知至「腹のドン底」『真人』四二号、 一九一 四年。 村井知至「腹の研究」『真人』 三八号、 一九一 四年。 田邊信太郎•島薗進・弓山達也編『癒しを生きた人々ー|祈 l 代知のオルタナティブ』

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-23-Modernity in Japanese Breathing Techniques:

Fujita Reisai and his Activities

Hidehiko KURITA

栗田

英彦

There is a long tradition of using breathing techniques for self-cultivation and self-control in Japan. They are often regarded as non-historical, but, since the Meiji Restoration, they also underwent modern changes. My aim in this paper is to untangle the complicated history of breathing techniques in modern Japan and to clarify its political implications by considering

the case of Fujita Reisai (1868-1957). Fujita was a Buddhist monk who belonged to a sect

of Japanese Esoteric Buddhism (Shingonshii) and became a well-known self-cultivation instructor. He advocated original self-cultivation techniques (sokushinchowaho息心調和法), and established an organization named Yoshinkai, later Ch6wadoky6kai, for promoting health via them. In my paper, I point out that his activities can be understood in terms of modern trends like Buddhist reformation and Christian localization, transnational popular trends like the mind-cure movement and the physical culture, and modern political movements like nationalism and socialism.

Mind-cure healers were very popular in early twentieth century Japan. Inspired by western hypnotism and mesmerism, they developed new ideas on healing different from those of religion and science as well as the American mind-cure movement (New Thought). For Japanese mind-cure, however, things were complicated. After Meiji Restoration, Japanese Buddhist reformers had to compete against Christianity and demonstrate their usefulness for "civilizing" people to intellectuals and the government, while Japanese liberal Christians tried to adapt Christianity to Japanese conditions. At this crossroad, mind-cure theory and breathing practices attracted them and Fujita's techniques for self-cultivation appeared. He was the first person to actively combine mind-cure theory with breathing methods, meditative sitting; and palm healing in Japan, and insisted Jesus was seen as a spiritual master (zhenren 真人) in the Taoist tradition.

Yoshinkai members also included politicians and political activists. Under their influence, it also served as a youth movement which advocated labor rights and national solidarity. Some ideologues who belonged to Yoshinkai argued that, should all human beings become spiritual masters who have cultivated the tanden (center of the lower abdomen) via Fujita's breathing techniques, true equality would become reality. Although the tanden was an eastern traditional concept, Fujita reworded it as a more "scientific" term, the solar plexus, which was often used by New Thought thinkers. Furthermore, looking to China and the United States, Yoshinkai even aimed for transnational solidarity based on a physical ideal.

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