はじめに 本稿の筆者4人は、2019年度から「〈善く生き る〉ための社会学 研究会」を開催している。こ れはスラヴ地域からの亡命知識人に注目し、1870 年頃から1960年頃までの人文・社会科学の歴史を 再検討しようとするものである。 その第一段階では、関連文献の吟味と研究領域 の確定、そして作業内容の策定を行った。これに よって、おおよそ次のような共同研究の骨格が得 られた。 1.目指すべき地点 どうすれば〈善く生きる〉ことが出来るの かを考える社会学を構想する。これまでの多 くの社会学者が取り組んできた、物質や身体 にかかわる社会学、すなわちソーマ(σώμα) の社会学ではなく、それに代わるプシュケー (ψυχή)の社会学を志向するものである。 2.スラヴ地域からの接近 19世紀後半、ロシアに現れた社会思想の特 色、それらの発展を再構成する。 3.亡命知識人史・再考 スラヴ地域内、およびその外側に身を置い た亡命知識人たちの足跡をたどる。 4.深めるべき論点 〈善く生きる〉とはどういうことなのかを 改めて問い直すことで、生身の人々の生活に 欠けているもの、実現すべきものを提示する。 本稿では、これらの内容を概観する。これを通 じて、今後、〈善く生きる〉ための社会学の姿を 素描していく際の課題を示したい。 〈善く生きる〉とは、どういう生き方なのか。 そのことを人間一人ひとりが考え、その生き方を 目指していくための足掛かりを提供すること、言 い換えると善く生きられる社会を作ることがこの プロジェクトの究極的な課題となる。 第1章 目指すべき地点 第1節 善く生きるとは「魂の世話」をすること 人には人それぞれの生き方がある。だとする と、善い生き方を一義的に定めることなどできな いのではないか。そういう見方もあるだろう。た だここで念頭に置いているのは、古代ギリシャ哲 学より語られてきた〈善く生きる(ト・エウ・ゼー ン=τὸ εὖ ζῆν)〉というテーマである1。『クリト ン 』 の 中 で プ ラ ト ン(Πλάτων = Plato, BC427-BC347) が ソ ク ラ テ ス(Σωκράτους = Socrates, BC469-BC399)に語らせた、次の有名な一文に それは由来している。「ただ生きることではな く、善く生きることこそ、何よりも大切にしなけ ればならない」(48B)。 しかし、これだけでも、まだ何も語ったことに はならないだろう。ただ生きるのではないような 生き方とは、いったいどのような生き方なのか が、いまひとつ判然としないからである。プラト ンはまた『ソクラテスの弁明』において、次のよ うにも言っている。「金や評判・名誉のことばか りに汲々として、恥ずかしくないのか。知と真実 のことには、そして魂をできるだけ優れたものに することには無関心で、心を向けようとはしない のか」(29D-E)と。 一般には、所得が増え、社会的地位が上昇する
〈善く生きる〉ための社会学の系譜
~スラヴ地域からの亡命知識人が残した遺産と展望~
* 吉野浩司** 吉田耕平*** 磯直樹**** 梅村麦生*****The History of Sociology for “Good Life”
:Heritage and Outlook that Exile-intellectuals in Slavic Region Has Left
Koji YOSHINO **,Kohei YOSHIDA ***,Naoki ISO ****,Mugio UMEMURA *****
* Received November 5,2020
** 長崎ウエスレヤン大学 現代社会学部 教授 *** 東京都立大学 人文科学研究科 客員研究員 **** 慶應義塾大学 法学部(三田) 特別研究員 ***** 日本大学 文理学部 助手
ことに生きがいを感じる人が多い。金銭面や地位 や名誉といった面での向上は、目に見える形で自 他に示される。そのことに対して、あたかも善く 生きているかのごとき充実感を味わうことは、ご く普通の感情であるには違いない。しかしそのこ とは、プラトンのいう〈善く生きる〉こととは、 鋭く対立することがこの文章からもわかるだろう。 収入や評判や名誉といった、わが身を着飾るた めの虚栄と虚飾に汲々として生きること、プラト ンの言葉でいうとソーマ(物質・身体)のことば かりを気に掛けて生きること、そのような生き方 は、実は、ただ生きているに過ぎない。絶えず体 のこと物質のことにのみ興味関心を注いで生きて いる生き方である。 〈善く生きる〉とはそういうことではない。知 (ソフィア=σοφία)や魂(プシュケー)といった ものと真剣に向き合って生きることが、〈善く生 きる〉ことに他ならない。そうした生き方は、時 として自らの命を縮めたり、生活水準を低めたり する場合さえないとはいえない。しかし、そうし たことさえも、あえて引き受けることが、ここで いうところの〈善く生きる〉ことの真意である。 「吟味を受けない生は、人間の生きる生ではな い」(29D-E)。それがプラトンの提言である。そ うではなく、知や魂がある種の憧憬を抱いている 対象と仮定されている、真・善・美といったもの を、繰り返し反省的にとらえなおす作業のこと、 それがプラトンのいう「魂の世話(επιμέλεια της ψυχής)」であった。人は魂の世話をすることに よって、ようやく〈善く生きる〉ことができるの である。 このプラトンが説いた〈善く生きる〉ための思 想が、いったいどのような形で社会学の中に導入 されてきたのか。それは、これまで語られること の少なかった、ロシアおよびスラヴ地域の社会学 史を紐解いていくことで、ようやく明らかになっ ていくことがらである2。 以下では、本研究で取り組んでいく課題を順に 論じてみたい。 第2節 起点としてのロシア・プラトニズム ロシア語訳プラトン著作集が出されるのは、 1840年代に入ってからのことである。それはロシ ア正教の神学者の手になる翻訳であった。そのこ との意味は、深く考えておく必要がある(下里、 2008)。第一にそれは、ギリシャ哲学から西欧の カトリックによって補強された思想(トマス主 義)の展開とは別の系譜を示すことにあった。す なわち東方正教会という、ギリシャ由来のキリス ト教の継承者としてのロシアの自己規定である。 そこではアリストテレスが否定したプラトンのイ デア論、さらにはその神秘主義化といわれる流出 論さえもが、再評価されることとなった。 さらに第二に、アリストテレスは西洋のルネサ ンスに寄与した、しかしプラトンはロシアのルネ サンスに寄与するのではないかという期待であ る。よくいわれるように、アリストテレスは物質 的なもの、すなわちソーマを重んじた。西洋ルネ サンスは、そのアリストテレスへの再解釈から始 まったという側面をもっている。言い換えると、 ソーマを重視することで、西洋は物質や科学技術 の面での発展に大きく貢献した。それに対し、プ ラトンはイデアとプシュケーを重視する。これ は、物質的な豊かさではなく、精神的な幸福が期 待されたからに他ならない。そうした見方が、ロ シア・プラトン主義の根底にある。 1 ギリシャ哲学においては、「善」とは何か、「生(生きる)」とは何かということも、当然、大きな問題 となってくるであろうが、ここでは「善く生きる」という語を、1つの成句としてあつかう(藤沢、 2000; 岩田、 1985)。 2 もちろん、従来の社会学がプシュケーや<善く生きる>という問題をまったく扱ってこなかったという わけではない。社会学の淵源はイギリスやフランスにおいては道徳哲学に、またドイツにおいては精神科 学にあると言われ( cf. Sombart 1923)、さらにアメリカにおいては少なくともその一端が「社会福音運 動」や「キリスト教社会学」に始まると言われたように( cf. Hoplins 1940=1979; 宇賀 1971: 89-90)、当 初から精神的なものがその首座にあったとさえ言える。ただし、その「精神的なもの」をどう扱うかに関 して言えば、社会学の古典的な代表者たち以来、社会学と社会政策の区別、社会学と社会哲学や社会倫理 学との違いが訴えられ、そして社会学のディシプリンとしての確立や専門分化、制度化が進んでいく中 で、「魂の世話」や<善く生きる>ことをめぐる問いが背景に退いていったこともまた事実である。
第三に、オスマン・トルコ支配下のコンスタン ティノープルとの対抗意識もあった。コンスタン ティノープルはかつてのビザンティウム、東ロー マ帝国の首都であり、現在、トルコの首都イスタ ンブルが置かれているところである。ここには現 在でも東方正教会の総主教庁が置かれている。東 方正教会をロシアの力で再建し、イスラーム帝国 に対抗しようという意図がそこにはあった。 こうした重層的な意味を持つプラトンの哲学 は、翻訳の出版の甲斐あり、1850年代から60年代 にかけてのロシアの思想家や文芸批評家の間に、 急速に広まっていった。その影響は、ピサレフ (Дмитрий Иванович Писарев, 1840-1868)やミハ イロフスキー(Николай Константинович Михайловский, 1842-1904)の主観主義社会学に大きな影響を与 えることとなった(Nethercott, 2000)。 第3節 到達点としての「利他主義、道徳性、社 会連帯」部会(AMSS)とその先へ では、〈善く生きる〉ための社会学は、現在ど のような形で展開されているのだろうか。これに 関して参考となるのが、アメリカ社会学会に設け られた「利他主義、道徳性、社会連帯」部会の設 立趣意書3と、それに依拠したハンドブックの出 版である。『パルグレイヴ・ハンドブック利他主 義、道徳性、社会的連帯――研究分野の組織化』 が、同部会の主要なメンバーたちによって2014年 に出版された(Jeffries ed., 2014)。部会のテー マとなっているトピックも、利他的パーソナリ ティの分析、戦争と紛争の解決策の探求、グロー バルな社会運動、NPOやNGOによる社会問題 の解決、ジェンダーやボランティアなど、実に多 様である。 この多様なテーマを持つ部会の統一した課題の 1つは、「利他主義、道徳性、社会連帯」(以下 「利他主義等」と略記)に関する学説の起源、な らびに社会における「利他主義等」の役割を解明 することである。この説明において、同部会の リーダーは「目的の感覚」、つまり科学的情報の 応用が重要であると示唆する。 この分野の主題は、〔・・・〕目的の感覚(A sense of purpose)を伴う。〔・・・〕利他主義、 道徳性、社会連帯〔への希求〕をよりいっそ う表明できるような筋道について、適切な科 学 的 情 報 が 得 ら れ れ ば、 こ れ は 個 人 の 生 (the lives of individuals)を豊かにするだろ う。それは一般社会の共通善(the common good)にも寄与するだろう。 (Jeffries, 2014: 7) 個人の生を豊かにし、集団生活の中に共通善と いうものを見出そう、そういう意図で書かれてい る。現代社会学の中で〈善く生きる〉ことを真摯 に考え、それを社会に実現しようとしている、た ぐいまれな試みであるといえる。しかし残念なこ とに、同部会の個々の研究を見る限り、「利他主 義等」の社会学は、一般社会の共通善に寄与しう るような回路を示すことができていないように思 われる。確かに宗教的利他主義の例をみると、相 互扶助から焼身抗議までの実に豊富な利他主義の あり方が示されている(Lee, 2014)。これは「利 他主義」の概念の広さ、および現代世界における 重要性を物語るものである。しかし、これらをひ とたび、利他主義という1つの概念でくくろうと する場合には、どうしても無理が出てくる。NP Oによる相互扶助的セルフヘルプ・グループの 「助け合い」と、宗教弾圧に対する抗議としての 「焼身行為」は、はたしてひとくくりにできるも のだろうか。また仮にできたとしても、そうした 利他主義とされる全ての行為を、〈善く生きる〉 スタイルとして、社会に対し推奨することはでき るのだろうか。 同部会において探究する「利他主義等」の学説 の起源についても、こうした問題点は残るように 見受けられる。はたして、ソローキンを始めとす る先行者たちは、「利他主義等」の役割を探究し ただけなのか。これに関する知識の獲得を通じ て、一般の人々の間に「利他主義等」を具現させ るような試みは存在しなかったのか。こうした一 連の問いに取り組むことによって、人々が〈善く 生きる〉ための社会学のあり方を考察できると考
3 趣意書にはソローキン(Pitirim A. Sorokin, 1889-1968)やデュルケーム Emile Durkheim, 1858-1917)
やジェーン・アダムズ Jane Addams,1860-1935)らが、利他主義研究分野の創始者であるとされている (Jeffries, 2014 4)。また本節については (吉野、 2020、 16-32頁)を参照のこと。
えている。 そこで本研究では、現存する文献を頼りに、次 のことを明らかにしていきたいと考えている。す なわち、プラトンに依拠して〈善く生きる〉ため の社会学を最初に構想したのが、1860年代のロシ ア思想であった。それらは幾人もの手を伝って現 代の利他主義部会にまで影響を与えている。その 主な伝達者は、スラヴ地域からの亡命知識人で あった。今はまだその全容は不明である。そのた め利他主義研究は社会学および関連科学の中で は、孤立しているように見える。だがこの部会の 来歴をさかのぼって、亡命知識人の思い描いた社 会学を再構成することで、〈善く生きる〉ための 社会学の全容は解明できるであろう。 スラヴ地域からの亡命知識人の遺産を、本研究 の課題に定めたのはそのためである。対象となる のは、狭義の社会学ではあるが、探索において は、社会学だけでなく、広く「一般的社会思想」 (Hughes, 1958)までを視野に入れる。加えて、 事実解明の面では、人文・社会科学を含めた亡命 知識人の歴史研究を参照することになろう。 第2章 スラヴ地域からの接近 第1節 知識人と亡命の素地 ここで問題となるのが、「スラヴ」の範囲、そ して「知識人(インテリゲンツィヤ)」の性質で ある4。 「スラヴ地域」という言葉は、一般に、「スラヴ 民族」が暮らす広大な範域を指すと考えられる。 ただし、「スラヴ民族」の定義や、その分布の確 定は容易でない5。 「スラヴ世界」という言葉もしばしば使われ る。これはスラヴ系の言語を使用する言語圏を指 す場合もあれば、それ以外の地域も含めて、広く 現在のロシア連邦全域から旧ユーゴスラヴィアま での文化圏を指す場合もある6。 これらの語彙に含まれる国と地域は、おおむね 次のように整理できるだろう。 ① スラヴ語派の言語を主として使用する人々の居 住地域。現在の国家では、ロシア連邦(ヨー ロッパ部分)のほか、ウクライナ、ベラルー シ、ポーランドから、チェコ、スロヴァキア、 クロアチア、セルビア、ブルガリアまで、様々 な国が挙げられる。 ② スラヴ語派の言語を使用する人は少ないが、政 治的または文化的に上記①と関わりが深い地 域。フィンランド(フィンランド語)、エスト ニア(エストニア語)、ハンガリー(マジャー ル語)7、ルーマニア(ルーマニア語)が挙げ られる。 これらの①と②を広く含めることには、ひとつ 利点がある。相互に関わりを持つ国や地域を、広 範に見渡せることだ。これは本研究にとって重要 な点である。「亡命知識人」は、おそらくこれら 全ての国と地域から生まれたし、その多くはこれ らの国と地域を渡り歩いたからだ。 本稿では、以上の範域を念頭に置いて「スラヴ 地域」「スラヴ世界」という言葉を使うことにし 4 以下に示すのは、多様な対象と方法を射程に収めるための便宜上の規定である。各研究者が一律に同じ 規定を採用するわけではない。これら全ての国・地域からの亡命知識人を隈なく探すわけでもない。概念 や事例の選択は、それぞれの議論に委ねられる。 なお、本稿では「スラヴ」という語を用いるが、引用に際しては「スラブ」という表記をそのまま用い ているところもある。 5 もとより地理的にも、文化的にも、さらに思想的にも「スラヴ」の範囲を特定することは困難である。 ただ民族意識としてのスラヴ主義ということでいうと、ヘルダーがゲルマンに照応させる形でスラヴを規 定したことは、たいへん示唆的である。彼がチェコを中心とするスラヴ主義の潮流を作ったといえるから である(川村、2009)。その意味では、後出のマサリクによる「ロシア援助計画」も、スラヴという同族 意識に支えられていたという側面を持つ。 6 『講座 スラブの世界』の編集委員会は、「スラブの世界とは、中部ヨーロッパから東北アジアにまたが る広大な地域」と述べている(原他、1996)。 7 フィンランド語、エストニア語、ハンガリー語そしてロシアの北西部で話されるコミ語などが、同じ フィン・ウゴル系語族である。
たい8。 以上の規定を踏まえた上で、次の節では、サン クト・ペテルブルク9などの大都市を中心として 花開いた19世紀ロシアの「知識人」思想を概観し ておくことにする。 第2節 インテリゲンツィヤからナロードニキ、 そしてエスエルへ 知識人というのは、一般には、何らかの意味で 学問や体系的な知識を保持した人々を指してい る。語源の詮索については、すでにジェラが解決 している(Gella ed., 1976)。もとより英語のイ ンテレクチュアルズ(intellectuals)にしても、 ドイツ語のインテリゲンツ(Intelligenz)、ある いはロシア語のインテリゲンツィヤ(интеллигенция) にしても、それぞれ異なったニュアンスを伴った 意味を持っている。ただ共通しているのは、単に 知識を保持したり、知識を教育や啓蒙に活用した りしているに留まらない、ということであろう。 知識人は、おのれの持てる知識を、〈善く生きる〉 ための実践活動に活かす。知識と実践との一致こ そが、〈善く生きる〉ことにつながるのだ、と知 識人が信じているからに他ならない。しかし他 面、その実践的、社会的な活動によって、知識人 は政治的な弾圧や排除を被った。それがために、 亡命を余儀なくされることも、たびたび起こった。 なかでもここで取り上げたいのは、ロシアにお けるインテリゲンツィヤである。ロシアでは文芸 評論家のベリンスキー(Виссарион Григорьевич Белинский, 1811-1848)が、この語を用いた早い 事例に属する。ただ、1860年代に小説家のボボル イキン(Пётр Дмитриевич Боборыкин, 1836-1921) が、それを彼独自の意味を込めて広めたのが、こ の語の現代的な語義であるとされている。単なる 「知的労働者」ではなく、「高邁な精神的、倫理的 文化」の担い手であるとした。その知識の中身は どういったもので、その担い手は誰なのだろうか。 ロシアにおける知識とは、多くは、ヨーロッパ 由来のものであった。ピョートル1世の時代(在 位1682-1725)に、主として科学技術の導入から 欧化政策は始まった。しかしナポレオンによるロ シア遠征(1812年)により、ロシアの国民意識は 高まり、スラヴ主義(Славянофильство)が声高 に叫ばれるようになる。西欧とは違う、スラヴ独 自の思想と文化とは何なのかが問われるように なった。そうした議論が、しだいに国粋主義の方 に傾くようになると、今度はそれに対抗する形 で、 ロ シ ア に お け る 西 洋 主 義(Западничество) が形成される。 他方、出身階層を見ても、貴族のみならず、宗 教家や農民を含む多種多様な人々が、インテリゲ ンツィヤに含まれている。ロシアのインテリゲン ツィヤが雑階級人(разночинцы)であると言わ れるゆえんである。要するに西洋やロシアの知識 に偏りがなく、また階級的伝統からも自由である ところに、ロシア特有の知識人のありかたが現れ ているといえるだろう。知識人が「批判的思考の 持ち主」で、俗物主義(メシチャンストヴォ= мещанство)を嫌ったのは、そうしたロシア・イ ンテリゲンツィヤの性格から来ているといえる (松原、2019)。 こうした性質を持ったインテリゲンツィヤは、 農奴解放令(1861年)後、農村の発展と自立を 願って、農村に分け入った。そのとき成立したの が、 ナ ロ ー ド ニ キ 運 動(Народничество) で あ る。だが文化的に「遅れた」農村住民を、「進ん だ」都市生活者のレベルに引き上げるという発想 にも限界があった。そうした自覚をもとに社会革 命党(エスエル)は成立することになる。 第3節 社会理論の出発点 こうしたインテリゲンツィヤの土壌から生まれ た産物の1つが、ロシア社会学である。 早い時期にロシア社会学史の流れを描いたヘッ 8 次のような範域であると言い直すこともできよう。すなわち、北欧、中欧、東欧と呼ばれる地域のう ち、ゲルマン系の言語を主として使用する地域(現在のオーストリアやドイツ)を除いた地域である。こ れは「スラヴ地域」の輪郭を示すための便宜的な説明であることに注意。 9 周知のようにロシアの古都 サンクト・ペテルブルクは、1914年、第一次世界大戦の勃発とともに、ド イツ語風の呼称から、ペトログラードへと改称される。さらに1924年に、レーニンの名を冠したレニング ラードに再改称されるも、1991年に、再び元のサンクト・ペテルブルクに戻された。本稿では煩を避ける ために、サンクト・ペテルブルクないしペテルブルグと標記する。
カー(Julian Federick Hecker, 1881-1938)やソ ローキン、その後の発展も踏まえて「ロシア社会 学 」 を ま と め た ラ ゼ ル ソ ン(Max Laserson, 1887-1951)は、19世紀後半に独自の出発期があっ たことを示唆している(Hecker, 1915, 1934, Sorokin, 1926, 1927, Laserson, 1945)。この時期の諸学説 は、ロシアだけでなく他のスラヴ地域の共通の遺 産となっている。ここでは、そうした形成期のロ シア社会学の特徴を見ておきたい。 19世紀後半のロシアの社会学は、ヨーロッパの 思想・哲学の受容とその乗り越えによって発展し た。 特 に ス ペ ン サ ー(Herbert Spencer, 1820-1903)の社会有機体論および社会進化論、および コ ン ト(Auguste Comte, 1798-1857)の学問分 類と三段階の社会発展の法則が議論の中心にあっ た。コントは1830年から1842年にかけて『実証哲 学講義』を、スペンサーは1862年から1892年にか けて『総合哲学体系』を、それぞれ完成させた。 これに加えて、1893年に刊行されたデュルケーム の『社会的分業論』が、19世紀後半のロシアに とっての最先端の社会学であった。 これら西洋の哲学や社会学を学びつつ、しかし ロシア社会学は独自の展開を遂げたという一面を 持っている。文字通り多種多様な学者を輩出した が、ここでは3つのキーワードとその3人の主唱 者の名を挙げておきたい。すなわち主観派社会学 (ミハイロフスキー)、相互扶助論(クロポトキ ン)、超有機体論(デロベルチ)である。これら のロシア社会学者たちが、自らの概念を作り上げ ていったのは、どのような理由からであろうか。 彼らの生涯を簡単にたどりながら、その概念の社 会学史的な意味について検討する。 ⑴ニコライ・コンスタンティノヴィッチ・ミハイ ロフスキー ミ ハ イ ロ フ ス キ ー(Николай Константинович Михайловский, 1842-1906)は1842年にカルーガ 県メシチョフスクに生まれた。1906年にサンクト・ ペテルブルクで没するまで、ロシアを出ることが なかった。彼の思想の特徴を一言で表すと、個人 は自らの運命、生き方を主体的に選ぶことができ るという点にある。主観派社会学と称されるゆえ んである(Колосов, 1912)。系譜としてはラヴロ フ(Пётр Лаврович Лавров, 1823-1900)の衣鉢を 継ぐとされる。 つとに文芸評論家として有名であるが、社会学 理論の書としては、『進歩とは何か』(1869年刊) がある。これはコントとスペンサーの理論を解説 するかたわら、社会進化の過程で生じるとされる 「社会的分業(общественного разделения)」とい う現象に着眼し、人間社会における分業の問題点 を抉り出した。 社会の発展の結果、分業が生じ、それによって 資本主義社会は成立する。しかし分業は、人間が 本来持っていたはずの能力・可能性の幅を、著し く制限してしまうという欠点を有している。極度 に分業化した資本主義社会で、労働者は単純作業 のスキルだけが求められるようになる。そこでは 人間の多種多様な能力や資質など評価されるはず はなく、かえって無視される結果となる。ミハイ ロフスキーはそこに分業の問題点を見出した。 人間の価値というのはその全一性(цельность) にこそある。多様な潜在力を全面的に発揮してこ そ、人間は幸福を獲得できる。しかしそのために は、資本主義体制下の「国民の幸福」という目標 では不十分である。国民ではなく農民を中心とす るナロード(Народ = 民衆)の共同体を完成させ ることを目指さなければならない、とミハイロフ スキーはいう。ナロード共同体の成員である「ナ ロードの幸福」を考えなければならない。そして その実現を目指すことが知識人(インテリゲン ツィヤ)に課された役目であるとした。 ミハイロフスキーにとりナロードとは、勤労階 級であり「現実的な個人」であった。これらの 人々は全一性を保障された労働を担っていた。 ところで主観派社会学という場合の「主観」、 という言葉には注意が必要である。これは何も客 観的認識を放棄してしまうことではない。またの ちの現象学的社会学のいう間主観性や、アメリカ 社会学の自己論とも、性質を異にするものであ る。ロシア社会学における「主観」には、実は、 次のような含意がある。 西洋資本主義社会の分業 体制下におかれた人間(労 働者)は、社会の一部とし て、あるいは部品として生 きる こ と を 余 儀 な く さ れ る。しかし裕福な資本家や 貴族ならぬ人々は、それで もその社会の片隅で生き延びていかなければなら ない。そこで人々は2つの生き方の選択を迫られ ることになる。その分業社会にうまく適応して生 きるのか、それとも、もっと違う別の社会を模索 するのか、である。言い換えるなら、ただ生きる 写真1:ミハイロフスキー
のか、それとも善く生きるのかの選択である。 多くの人々は、比較的安易な前者を選ぶことに なろう。しかしロシアには、分業社会とは違う生 き方をしている共同体があった。それがナロード の共同体である。現にナロードが生きている共同 体を範として構想された、善く生きるための社 会、それを人々は選び取ることができるのではな いか。そのために人々は、客観的に状況を分析 し、認識する能力を身に着ける必要がある。客観 的に得られた数ある可能性、選択肢の中から、 人々はより善なるものを主体的に選び取ることが できるし、また選び取らなければならない。そし てこの善なるものとは、人が自らの能力と資質を 最大限に発揮すること、つまり人間が「全一的」 な有機体として生きることである。これが主観派 社 会 学 の「 主 観 」 が 持 つ 意 味 で あ る (Михайловский, 1922)。 社会を構想するにはユートピアが必要である、 とミハイロフスキーは述べている。そこには、善 く生きることとは、イデアに従って生きることで あるというプラトンの思想がここに底流している といえるだろう。日々の暮らしを良くしたいと か、他人より少し余裕のある暮らしがしたい、と いう発想とは全く違う社会構想であった。 ⑵ピョートル・アレクセイヴィチ・クロポトキン ク ロ ポ ト キ ン(Пётр Алексеевич Кропоткин, 1842-1921)は、1842年にモスクワで生まれた。 サンクト・ペテルブルグの陸軍士官学校に入った 後、農民およびフランス啓蒙思想に傾倒するよう になる。学問的には、J・S・ミル(John Stuart Mill, 1806-1873) やゲルツェン (Александр Иванович Герцен, 1812-1870)やプルードン(Pierre Joseph Proudhon, 1809-1865)といった思想家に興味を 持つ。 1860年代に入ると、彼の時間の多くは、シベリ アから満州にかけての地理学的調査に費やされ た。そして1870年代より、ヨーロッパ社会との関 わりが始まる。1872年にベルギーおよびスイスを 訪ねる。この時期に彼は、第一次インターナショ ナルに関心を持ち、ギヨーム(James Guillaume, 1844-1916)を介してバクーニンの思想を知る。 ロシアに戻ったクロポトキンは、秘密結社チャイ コフスキー団(Чайковцы)に加わる。1874年に は革命謀議の咎で逮捕されるも、獄中で健康を損 ねたため、医療刑務所に移される。その医療刑務 所を脱獄したクロポトキンは、1876年、フィンラ ンド、スウェーデン、ノルウェーを転々とする。 世界での政治運動に深く関与するようになってか らは、たびたび逮捕されそうになるが、ついにフ ランスで捕まり1882年から1886年まで投獄される。 クロポトキンといえばアナーキストを連想する が、実は、アナーキストとしての活動期間はさほ ど長くはない。むしろ学者としての側面が強いと いえるだろう。 クロポトキンの執筆活動が旺盛になるのは、 1886年から1917年までのイギリス在住の時期であ る。むろんクロポトキンの主著は『相互扶助論』 (1902)で、この著作は1890年から1896年にかけ て雑誌『19世紀』に投稿された。「進化の要因と しての相互援助」というのが初出のタイトルで、 書籍としては1902年にロンドンとニューヨークで 同時に出版された。 動物社会においても、人類社会においても、相 互扶助をなした社会が生き残り、さらなる進歩を 達成する。逆に内部において競争の絶えない社会 (種族)は、退歩する傾向がある。さらに相互扶 助型社会は、芸術、産業、科学の分野においても 進歩が見られる。というのが『相互扶助論』の主 張内容である。 クロポトキンによれば、社会集積体(social aggregate)は、人間であろうが動物であろう が、個体と他の個体、あるいは個体と集団との共 同意識により作られている。この共同意識により はぐくまれる相互扶助が、個体と集積体の生存の 維持に役立っている。人々の持つその一体感は、 全 一 性(oneness)ないし連帯(solidarity)の 原則によって貫かれたものであり、人間に限らず 生物から太陽系までの全宇宙にまで遍在してい る。人間が社会を作るのはこの「全一性」ないし 連帯の意識による。「人間 の連帯性と社会性の本能」 で あ る(Kropotkin, 1902: Introduction)。 そ の 意 識 に乏しい集団は、他の集団 よりも劣っており、やがて は生存競争に負けてしまう。 この相互扶助型社会のありようを、動物から未 開社会、さらには中世から現代の人間社会にいた るまでの豊富な実例でもって描き出したところ に、『相互扶助論』の特徴は表れているといえる だろう。クロポトキン自身が序論で述べているよ うに、その思想は同時代のギディングズの『社会 学原理』10とも共有しうるものであった(クロポ 写真2:クロポトキン
トキン、1970、263頁)。 1917年、クロポトキンは二月革命の後、ロシア に帰国することができた。出迎えたのは臨時政府 の首相ケレンスキーであった。ボリシェヴィキの 方針には終生反対であった。そしてついに1921 年、モスクワの地で永眠することとなった。 (3) エフゲニー・ヴァレンティノヴィッチ・デロ ベルチ デロベルチ(Евгений Валентинович Де Роберти = Eugène de Roberty, 1843-1915)は、1843年にポ ドリスク(現ウクライナのカームヤネツィ=ポ ジーリシクィイ)で裕福なスペイン系貴族の家に 生まれた。ドイツのギーセン、ハイデルベルク、 イエナ、およびフランスのパリといった各地の大 学で学び、1864年、イエナ大学で中世ノヴゴロド 共和国の社会政治構造に関する博士論文を出し た。長らく夏はロシア、冬 はフランスという二重生活 を続けていたが、1915年ト ヴェリ県ヴァレンティノフ カの自宅にて強盗に殺害さ れるという不幸に見舞われ た(Verrier, 1934)11。 ロシア国内においては、ラヴロフとダニレフスキー (Николай Яковлевич Данилевский, 1822-1885) に、コントの実証主義を紹介したことでも知られ ている。ヴィルボフ(Григорий Николаевич Вырубов, 1843-1913)と一緒にロシア語訳した『実証哲学 講 義(Курс положительной философии)』は、1867 年にロシアで出版された。原書がフランスで完成 されてから、25年後のことである。この時期に出 版されたマルクスの『資本論』(1867年刊)は、 デロベルチの目には留まっていないようである。 経済学関連の著作としては、むしろ1850年代末に アメリカの経済学者ケアリー(Henry Charles Carey 1793-1879)が発表した「社会科学の基礎」 や「政治経済と社会科学」の方に興味を示してい る。デロベルチは、社会科学をケアリーのように 交換の科学であるとすることについて強く反対し ている。交換をもって社会と同一視することはで きない、というのがデロベルチの立場である。ケ アリーは社会を個人の単なる集合体だと考えてい るが、社会は個人の集合以上の存在である。この デロベルチの主張は、四半世紀の後にデユルケー ムが述べていることとも通底するものがある。 デロベルチにとって何より重要であったのは、 社会的有機体の全体を研究することである。その 有機体の一部分や、機能の1つを取り出して研究 したところで、それは結局のところ、不確実と不 安定を招くだけだとした(De Roberty, 1868)。 さらに、そうした矮小化された研究視角は、一般 性と完全性を見失わせることにもなるのだとい う。あくまでも存在の全体性(全一性)をとらえ ようとするロシア社会学の特徴の1つが、ここに 表れているといえよう。 1880年代になるとデロベルチは、より精緻な理 論を目指すようになり、社会学と生物学の接合を 試みるようになった。ただし、ここでいう生物学 とは、社会進化論や遺伝学などのことを指してい るわけではない。むしろそれは神経心理学に近い ものであった12。思考と感情が生まれる根源をつ きとめるためには、この2つの科学の接合が、ど うしても不可欠であった。脳の構造と認知のメカ ニズムは、個人の社会化のプロセスを理解するた めに、決定的に重要であるとデロベルチは考えて いたからである。 こうしたデロベルチの主張する「新実証哲学」 は、1880年代末、ロシア正教の教えに反するとし て、ロシア国内では否定的にとらえられた。その ためもあってか、デロベルチの『過去の哲学』第 2巻は検閲を受け、絶版処分となった。しかしロ 写真3:デロベルチ 10 ギディングズの相互扶助に関する議論については(Giddings, 1896: 114-117)を参照のこと。 11 本節のデロベルチに関する記述は、ロシアの文献(Семлали, Рубанов, 2006)に依拠している。 またフランスでの紹介については、現在においてもルネ・ヴェリエ(René Verrier)の著作が最良のも の と さ れ て い る。 な お 同 著 者 は、 ソ ロ ー キ ン の『 現 代 社 会 学 理 論 』 の フ ラ ン ス 語 版(Les théories sociologiques contemporaines)の訳者でもある。 12 デロベルチの進化論への批判的立場は、例えばフランスのド・ラプージュ(Georges Vacher de
Lapouge, 1854-1936)やドイツのオットー・アモン(Otto Ammon, 1842-1916)に対する否定的な態度に も表れている。
シアでは無きものとされた『社会学』および『過 去の哲学』の大要は、彼自身の手によりフランス 語に翻訳され、それぞれ1881年と1887年に出版さ れた。その結果、彼の学説は、ロシアよりもむし ろフランスの方で好意的に受け入れられた。 デロベルチはパリの社会科学自由学院(Collège libre des sciences sociales)でも授業を行った。 これと似たような、ロシアの国内事情によりパリ での研究教育活動を余儀なくされた学者として は、 コ ヴ ァ レ フ ス キ ー(Максим Максимович Ковалевский, 1851-1916)、ヴィルボフ、ユデレヴ スキー(Яков Лазаревич Юделевский, 1868-1952)、 ノヴィコフ(Яков Александрович Новиков, 1849-1912)、クロポトキンらがいる。 デロベルチはさらにブリュッセルの大学でも教 えた13。そこで行われたデロベルチの一連の講義 は、新著を準備するいい機会となった。道徳哲学 に関する講義が『倫理学――善と悪』に、1897年 の講義が『社会心理』に、1898年の講義が『倫理 原則』に、それぞれまとめられた。またパリ社会 科学自由学院の講義が『倫理の構造』にまとめら れた他、ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche, 1844-1900)に捧げられた著作も書かれた。 1906年から1914年まで、彼はパリのヴァレン ティノフカとサンクト・ペテルブルクを行き来し た。夏はヴァレンティノフカで旺盛な執筆活動に いそしんだ。サンクト・ペテルブルクに初の社会 学科が心理神経研究学院内に設立され、彼はコ ヴァレフスキーとベクテレフ(Владимир Михайлович Бехтерев, 1857-1927)とともに授業を受け持っ た。ソローキンはちょうどこの時期に同学院に入 学している。遺作『理性の概念と宇宙法則』(De Roberty, 1914)は、彼の知識社会学体系を最も よく表している。 人間の相互作用によってできる社会は、単なる 物理的、あるいは生物的な有機体ではない。それ とはまったく異なる性質をもっている。単なる人 と人の集まりを越えた存在である。その意味で彼 は 社 会 を 超 有 機 的 世 界(суперорганического мира)であると考えた。 第4節 スラヴ世界内外の展開 以上に見た3名の学説は、19世紀後半のロシア という、同じ時代の、同じ地域に生まれたわけだ が、むろん内容として同じ社会学思想を形成した わけではない。3名は、それぞれに独自の理論と 活動を展開し、互いに異なる体系を築いた。 だが他方において、そうした多様な思想体系の 中に、共通したものが全く見られない、というわ けではない。例えば道徳性や連帯や相互扶助の理 論、共同体という社会構想、そして政治活動に関 する実践性ということにかけては、むしろ互いに 響き合っている部分が大きいのではないだろう か。それらは、本研究のテーマである「利他主義 等」の社会思想を準備したように思われる。彼ら の努力の蓄積は、〈善く生きる〉ための社会学の 基礎となるはずである。 これらの遺産は、どのような経路を通じて、多 くの人に影響を与えたのだろうか。ここに特筆す べき点をいくつか挙げておきたい。 その1つは、彼らがスラヴ地域の研究機関で社 会理論を講じたことである。研究機関での立場を 得たことで、彼らは出版や直接の指導を通じて、 比較的容易にロシア語による研究交流を可能にし たはずである。このことは、「社会思想」一般で なく、「社会科学」、「社会理論」、「社会学」等の 専門的な探究の推進力ともなっている。 もう1つは、彼らの一部に亡命の経験がみられ ることである。一時的にせよ長期的にせよ、ロシ アを追われた思想家たちはパリやロンドン、その 他の地域で執筆を続けた。そうして世に問われた 著述は、ヨーロッパの各地に残されている。この ことは、その後、スラヴ地域の社会思想を広める 際の、大きな足掛かりとなったのではないか。 ロシア語、フランス語、英語で書かれた専門書 を、ポーランドやハンガリー、ブルガリアやバル カン地域14の知識人が摂取しないはずはない。19 世紀後半から20世紀前半にかけては、各地の知識 人が、思想と学問を形成した時期である。『20世 紀の社会学』に所収の「ポーランド社会学」、 「チェコスロヴァキア社会学」、「ルーマニア社会 13 だが同大学の学生(Vaillant)がテロを起こすという事件があり、その結果、アナーキストで教師で あったエリゼ・ルクリュ( Elisée Reclus, 1830-1905)が責任を問われ、またデロベルチも連帯責任を負 わされることとなった。同じ理由で、ヴァンダーヴェルデ(Émile Vandervelde, 1866-1938)やド・グレー フ(Guillaume De Greef, 1842-1924)も大学を去る。そして1899年に大学は閉校する。
学」、「ユーゴスラヴィアの社会学」を読むと、各 地域の情勢の中で独自の社会学が試みられたこと が分かる(Roucek 1945a, Znaniecki 1945, Manoil 1945, Roucek 1945b) 。これらの展開において、 初期のロシア社会学は何らの役割も果たさなかっ ただろうか。 管見の限り、以上のような点に関する知見を深 めてくれるような体系的な研究は見あたらない。 その一因は周知の通り、ロシア帝国の人文・社会 科学が1917年のロシア革命以降、十分に継承され な か っ た 事 実 に 求 め ら れ よ う(Titarenko and Zdravomyslova, 2017)。だがもう1つの要因は、 スラヴ世界からの「亡命知識人」の歩みが十分に 把握されなかった点にもあるのではないか。 このような考察から、初期のロシア社会学を出 発点に据えて亡命知識人史を再考することが必要 と考えられる。 第3章 亡命知識人史・再考 第1節 移動の形式 この章では、スラヴ世界の社会思想が、「知識 人」の「亡命」を通じて西欧に広がっていく過程に ついて考えてみたい。まずは先行研究の指摘に依 拠しつつ、基本的な論点を整理しておくとしよう。 ロシア革命は、人々の移動を生み出した。この 分野の第一人者によれば、それらは難民(refugee)、 エミグレ(émigré)、亡命(exile)という3つに 区別される。ただし、いずれか1つだけに当ては まるような例は稀である。人々は、2つか3つの 形態を同時に経験した。そのため、これらを包含 する「移住・移民(emigration)」の語も用いら れる(Williams, 1997)。 人々の移動は、様々な背景が入り混じった現象 だったのである。そこでまずは、1914年から1945 年までの期間、スラヴ世界の内外にまたがって生 じた移動の全体像を捉えておく。 第一次世界大戦は多くの難民を生んだ。1914年 から1917年までの間に住まいを失った人々は、ロ シア帝国の範囲だけでも490万人以上(Gatrell, 1997: 554)。1917年から1921年にかけては、ロシア 革命後の政変や戦争によって「数百万人」がこの 地域をあとにした(Williams, 1997: 507)。もちろ ん、スラヴ世界はロシア帝国の外側にも広がる。 それらの地からも、人々は難を逃れて脱出した。 亡命知識人は、これらの人々の一部だと言える だろう。ただし、一般の人々とは異なる特徴も あった。それは、「学術・芸術の面で生産的なエ ミグレ」(Raeff, 1990: 7)だという点だ。その職 業は詩人や小説家、演奏家や画家、出版人、作 家、評論家、ジャーナリスト、さらには科学と工 学の専門家、人文・社会科学の研究者、正教会の 神父におよぶ。1920年代、この人たちはヨーロッ パ各地でロシア文化を発展させた。 1930年代、遠くアメリカへと渡った人々の中に も同じく様々な分野の文化人がいた。この人たち は「知識人移民」 (intellectual immigrants)な どと呼ばれた。旧ロシア帝国の出身者はもちろん のこと、ハンガリーやポーランド、チェコスロ ヴァキアやルーマニアからも到来者がいた。この 人たちはアメリカの学術・芸術を世界水準に押し 上げた(Fermi, 1968=1972)。 スラヴ世界がこれほどまでに多くの亡命知識人 を生み出したのはなぜだろうか。節を改めて、そ の原因を概観する。 第2節 スラヴ世界 ⑴ロシア革命後のスラヴ世界 ここでは、1917年以降のロシア革命および各地 域・各国の政治情勢を通じて、知識人たちが亡命 を余儀なくされた経緯を整理する15。 14 セルビア・クロアチア語は、ロシア語と同じスラヴ語系の言語に属する。そうした言語的な近さもあっ て、ロシアの学問を吸収することは比較的容易であった。一例を挙げよう。社会学者ソローキンが1922年 に亡命生活を送っていたチェコにおいて、ロシア語で書いたスラヴ農民を鼓舞する冊子『農本主義イデオ ロ ギ ー』 が あ る。 こ の 小 冊 子 が、 日 を お か ず し て セ ル ビ ア・ ク ロ ア チ ア 語 に 翻 訳 出 版 さ れ て い る (Sorokin, 1924)。このことからも、20世紀初頭におけるロシア語からセルビア語への翻訳の熱心さとい うものがうかがい知れるのではないだろうか。 15 『新版 世界各国史』の各巻を参考にした。『ロシア史』(和田編、2002)、『ポーランド・ウクライナ・バ ルト史』(伊藤他編、 1998)、『ドナウ・ヨーロッパ史』(南塚編、1999)、『バルカン史』(柴編、1998)。各国 の知識人の境遇の詳細は、今後、確かめたい。
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ロシア 帝国は協商国の一員としてドイツやオーストリア =ハンガリー、オスマン・トルコと交戦した。 1917年、帝政に反対する勢力は、大衆と軍部を動 員して二月革命を実現する。臨時政府の閣僚に 座ったのは社会民主労働党の「メンシェヴィキ (меньшевики)」や「立憲民主党(通称カデット =кадеты)」の政治家や知識人だった。 これを不服とするレーニン(Влади́мир Ильи́ч Ле́нин, 1870-1924)は、社会民主労働党の「ボリ シ ェ ヴ ィ キ(большевики)」を率いて政権を奪 取。「 ソ ヴ ィ エ ト・ ロ シ ア 共 和 国(Советская Российская Республика)」を建国する。これが十 月革命である。1918年、ボリシェヴィキは「赤軍」 を組織。同国は「ロシア・ソヴィエト社会主義連 邦 共 和 国(Российская Советская Федеративная Социалистическая Республика。略称РСФСР)」と なる。1919年、ボリシェヴィキは「共産党」を結 成する。 だが、これだけでロシア革命が終わったわけで はない。そのあとには、ロシアおよび周辺諸国に おける戦争と内戦、そして敗残者の掃討が続い た。地域ごとの事情によって状況は違ったが、ど の地域からも、おびただしい数の亡命が生まれた。 まずは、新たに生まれたロシア・ソヴィエト内 の情勢を見てみよう。1918年、ロシア内部の「反 共」勢力が抵抗を開始する。帝国軍人や知識人が 南ロシアを中心に「白軍」を組織し、モスクワ奪 還を目指した。いわゆるロシア革命の「内戦」で ある。 これに乗じて、西欧諸国が「干渉戦争」を仕掛 ける。支援を受けたロシア国内の被支配地域も、 次々と独立を目指して、ロシア赤軍に「独立戦 争」を挑む。以降、これらの戦争の勝敗が、各国 の人々の境遇を大きく左右する。 この結果、赤軍は概ね17世紀来の帝国版図を維 持した。それに加えて、新たに立ち上がったウク ライナとベラルーシの共和国を武力で鎮圧。グル ジア、アゼルバイジャン、アルメニアからなる 「ザカフカス」をも支配下に置いた。これによっ て、白軍側の拠点は駆逐される。 1922年には、これら三地域に各々「社会主義ソ ヴィエト共和国」が建国される。さらに、これら の3か国とロシア・ソヴィエトからなる単一の中 央集権国家が形成される。1924年、この国家は 「 ソ ヴ ィ エ ト 社 会 主 義 共 和 国 連 邦(Союз Советских Социалистических Республик。 略 称 СССР)」を名乗る。「ソ連」の成立である。 1920年から1924年にかけて、白軍に加わらな かった知識人さえも国を追われることとなった。 そのはじまりは政権転覆の「陰謀」疑惑だったと される。以降、知識人が次々と処刑や追放の目に あう。この点については後述する。 1924年、レーニンが死去すると、共産党の内部 でも抗争や弾圧が生じる。共産党員であっても、 主流派でなければ命を狙われた。このことも知識 人を国外に押し出す要因となった。 このように、ロシア・ソヴィエトおよび周辺の 地域はソ連共産党の支配下に置かれた。しかし、 その他の地域では、赤軍による干渉を免れるか、 追い出した。これによって、スラヴ世界の各地に 次々と独立国家が生まれた。 その中で唯一、共産党の体制が続くのはポーラ ンドである。ポーランドは3つに分割されていた が、合併して共和国を建国する。そして1926年の クーデタにより共産党の一党独裁体制が敷かれ た。これによってポーランドでも、ソ連と同じ く、非共産党員は不安定な立場に置かれた。 その他の国々は、ポーランドのような体制にな らなかった。バルト諸国では、リトアニアと、こ れに隣接するエストニア、ラトヴィアが、それぞ れ独立を宣言する。同じくロシアに支配されてい たフィンランドも、独立する。これらの国々は、 ソ連との対抗上、「反共」の体制をとった。これ らの国の共産党員は、処罰されるか追放された。 旧オーストリア帝国の支配地域からも、独立国 が生まれた。第一次大戦の勃発前に独立していた 国は、独立を維持した。当初これらの国の一部 は、自由主義や社会主義の路線をとった。しかし 全ての国が、1920年代を通じて保守化し、「反共」 体制となる。大衆運動や民族運動さえ、弾圧され た。これらの国は、帝政ロシアを支持する白軍や 白系ロシア人の拠点となる。 ただし、新独立国のチェコスロヴァキアだけは 例外だった。同国では、知識人の代表格ともいえ る 社 会 学 者 ト マ ー シ ュ・ ガ リ ッ グ・ マ サ リ ク (Tomáš Garrigue Masaryk, 1850-1937)が大統 領に就任した。共産党員から帝政支持者まで、左 右両翼の言論が認められた。様々な立場の亡命知 識人が身を寄せる稀有な環境だった16。後述のよ うに、プラハ等の主要都市には亡命知識人の足跡 が残されることになる。 しかし、知識人亡命の物語はこれで終わらな い。1920年代、チェコスロヴァキア以外のスラヴ
世界は、左右の全体主義に傾いた。この過程から 生まれたのが、近代的な反ユダヤ主義である。知 識人に占めるユダヤ系の割合は普通の人々よりも 高い。それだけに迫害の影響は大きかった。 反動化したハンガリーでは、早くも1920年代に ユダヤ系の知識人が公職の道を閉ざされた。この 動きは1930年代を通じてドイツとオーストリア、 イタリアとフランスに広がる。荒れ狂う反ユダヤ 主義は、スラヴ世界の人々を再び亡命生活に押し やっていく。 このことは、大きく二つの点に現れた。まず、 母国であれ亡命先であれ、スラヴ世界各国の大学 等に勤めていた知識人らは、職を追われた。この ため、スラヴ世界の他の国々、あるいはスラヴ世 界の外部への脱出を余儀なくされる。 また、既にスラヴ世界を離れてベルリンやパリ に逃れていた人たちも、ユダヤの出自であること を理由に罷免されたり、強制収容されたりした。 逃げ場がなくなったことを知った知識人たちは、 大挙してヨーロッパを離れた。 こうしたことから、ロシア革命の影響で亡命を 経験した人たちも、そうでない人たちも、命を失 うか、そうでなければ、第二、第三の亡命を余儀 なくされたのである。 ⑵スラヴ地域内外の移動 知識人の亡命遍歴は、地域によって、宗教的出 自によって、そして思想と信条によって大きく異 なる。ここではまず、スラヴ地域内外の移動につ いて概観しよう。 祖国を離れる亡命者の多くは、まずは同じスラ ヴ世界にある他の国に逃れた。以降、その地にと どまる場合も、他の地に移る場合もある。一方、 これとは対照的に、最初からスラヴ世界を離れる 場合もあった。 ロシアを出て行った亡命知識人を考えるときに 重要なのが、1922年5月に発表されたレーニンに よる「知識人追放指令」(レーニン、1969、721頁) である。主として、ケレンスキーをはじめとする 政府高官や主要な大学の知識人を追放することが 目的であった。 死刑か追放かの二者択一を迫られた人々は、い わ ゆ る「 哲 学 者 の 船(Философский пароход)」 に乗り込んで、ロシアを後にした。「哲学者の船」 とは一種の比喩表現で、実際には、陸路と海路の ルートがあった。亡命ロシア知識人の広がりを知 るには、この「船」の行き先を知る必要がある (Деменок, 2014)。 まず船の運行についていうと、それは2つの ルートで行われた。南部のオデッサ(現ウクライ ナ)からコンスタンティノープル(現イスタン ブール)へと向かうルートが1つ(1922年9月17 日)。またオーベルブルガマイスター・ハーケン (Oberbürgermeister Haken)号(同年9月29~ 30日)とプロイセン号(同年11月16~17日)によ るルートは、サンクト・ペテルブルクからステッ ティン(ドイツ)までであった。さらに陸路に目 を移すと、汽車によるモスクワからベルリン(ド イツ)へ(同年9月23日)、あるいはモスクワか らリガ(ラトビア)へ(同年9月23日)のルート があった。 もちろん各人の事情により、船や汽車が到着し たところに留まる場合もあれば、そこからさらに 別の場所に拠点を移す人たちもいた。これにちな んで特にロシアの知識人にとって朗報だったの は、マサリクの尽力で実施された、チェコスロ ヴァキア政府による「ロシア援助計画(Ruská pomocná akce = Русская акция)」である。これ は1920年代から1930年代にかけて大規模に行われ た、教育の分野に重点が置かれていた支援活動で ある。彼らはロシア語による教育を受けることが できた。ロシア人がロシア語を用いて研究、教育 を行える大学・研究機関も作られたことで、プラ ハは一躍「ロシアのオックスフォード(ruský Oxford = Русский Оксфорд)」と呼ばれるように なった。また「ロシア援助計画」にはウクライナ やベラルーシの出身者も含まれており、ウクライ ナ自由大学などが存在したのも、この時期である (Vidnyansky, 1996)。 プラハには生涯この地に定住したものもいた が、プラハからさらに次の場所へ拠点を移すもの も少なくなかった。パリ、ロンドン、ベルリン、 ローマ、ベルン、チューリッヒ、ウィーンは、多 くのロシア人学者や芸術家たちをひきつけた。
16 例えばモスクワ生まれの言語学者ロマーン・ヤコブソン(Roman Osipovich Jakobson, 1896-1982)は、
1920年代にパリやベルリンやプラハで、華やかな 文化が花開いた要因の1つは、こうした亡命ロシ ア人たちの活躍があったからに他ならない。また 東西ヨーロッパ各地のみならず、ロシア国内の政 治亡命者の本拠地ナリム(Нарым)あるいは流刑 地シベリアといった僻地、あるいはウラジオスト ク、満州といった極東、アジア方面の都市への移 動も、決して例外ではなかった。 では、こうした亡命知識人の中には、いったい どういった人物が含まれていたのであろうか。 「哲学者の船」に限定して、その搭乗員を見てみ よう。 1922年9月29日に就航した船オーベルブルガマ イスター・ハーケン号は、ペテルブルグを出航 し、9月30日にシュッティン(ドイツ)に到着し た。この船には、モスクワとカザンを中心とする 都市からの亡命者が乗っていた。 乗 船 リ ス ト の 中 に は、 ベ ル ジ ャ ー エ フ (Николай Александрович Бердяев, 1874-1948)、 フランク(Семён Людвигович Франк, 1877-1950)、 イリイン(Иван Александрович Ильин, 1883-1954)、 ト ゥ ル ベ ッ コ イ(Сергей Евгеньевич Трубецкой, 1890-1949)、 ヴ ィ シ ェ ス ラ ー フ ツ ェ フ(Борис Петрович Вышеславцев, 1877-1954)、キゼヴェッ テ ル(Aleksandr Aleksandrovich Kizevetter, 1866-1933)、ミハイル・アンドレーエヴィッチ・ オ ソ ル ギ ン(Михаил Андреевич Осоргин, 1878-1942)、ノヴィコフ(Михаил Михайлович Новиков, 1876-1965)、ウグリモフ(Александр Александрович Угримов, 1906-1981)、ズヴォリキン(Владимир Васильевич Зворыкин, 1867-1943)、ツヴェトコフ (Н. А. Цветков)、バッカル(Илья Юрьевич Баккал, 1984-1950)といった人たちの名前が見られる。 同人誌『道標(Вехи)』の一派が多数含まれてい ることが確認できよう。 2番目の「哲学者の船」プロイセン号は、1922 年11月16日にペテルブルクを出航した。この船に は、 哲 学 者 の ロ ス キ ー(Николай Онуфриевич Лосский, 1870-1965)、カルサビン(Лев Платонович Карсавин, 1882-1952)、ラプシン(Иван Иванович Лапшин, 1870-1952)およびその家族らが乗って いた。ペテルブルグ大学の学者グループが利用し たようである。 さらにこれとは別に、ウクライナの知識人の多 くは、南のオデッサから対岸のコンスタンティ ノープル(現イスタンブル)へと亡命した。その 中 に は、 歴 史 家 フ ロ ロ フ ス キ ー(Антоний Васильевич Флоровский, 1884-1968)や生理学者 バブキン(Борис Петрович Бабкин, 1877-1950)ら が含まれている。 その他、ペテルブルグからシチェチン(ポーラ ンド)へ向かう船に乗る人や、グルジアからベル リンに向かう人々もいたようである。 到着した先の国々でも、断続的に体制変動が生 じた。ポーランドやハンガリーといった国々は、 第一次大戦後に独立し、共和革命を経た後、クー デタによる政変が繰り返された。これらの政変 は、当然ながら新たな亡命者を生み出す。 第二次大戦中、ロシアやドイツによって占領さ れた国からも大量の亡命者が出た。戦後、独立と 共産革命の過程でも亡命知識人が生み出されてい く(Skovajsa et al., 2017: 42-3)。 第3節 他の国々へ ⑴フランス・ドイツ語圏への出入国 近年の研究は、ドイツ語圏とフランス語圏が亡 命の受入地であり、中継地であったことを指摘し ている。それらの記述には、上に見たようなスラ ヴ地域からの亡命者が何人も現れる。加えてこれ らの地域は、自らも亡命者を生み出すという複雑 な地域であったことが指摘されている(Fleck, 2003, 2015, 2018)。 オーストリアでは、歴史的経緯からオーストリ ア=ハンガリー帝国の旧版図であった地域を中心 として、スラヴ地域から来た社会科学者たちがい た。ただし、そのうちユダヤ系が少なくない点も 留意すべきである。一例として、オーストリアの みならずドイツ語圏での第一世代の社会学者に数 え入れられ、ドイツ語で始めてタイトルに「社会 学」を冠した著者として知られているルートヴィ ヒ・ グ ン プ ロ ヴ ィ ッ ツ(Ludwik Gumplowicz, 1838-1909)がいる。彼はオーストリア=ハンガ リー帝国下のクラクフ(現ポーランド)のユダヤ 人家庭に生まれた。後にプロテスタントに改宗 し、またポーランド独立運動に参加したことも あった。この独立運動に敗れたのち、グンプロ ヴィッツはグラーツ(現オーストリア)に移り、 やがてグラーツ大学の法学部で教鞭を執った。 ドイツでは、ロシア帝国下のスタロコンスタン ティノフでロシア系ユダヤ人の家族のもとに生ま れた文化哲学者・社会学者のダーフィット・コイ ゲン(David Koigen, 1879-1933)がいる。彼は 青年時代にオデッサで革命運動に参加し逮捕され た後にパリに亡命し、その後スイス、ドイツへと
渡った。ベルン大学の哲学者・社会学者のルート ヴィヒ・シュタイン(Ludwig Stein, 1859-1930) のもとで学位を取得したのち、ベルリン大学で私 講師を務めている。当地ではゲオルク・ジンメル (Georg Simmel, 1858-1918)と同僚であり、ま たコイゲンが亡くなった際に追悼文を寄せること になるフェルディナント・テンニース(Ferdinand Tönnies, 1855-1936)とも交流があった。 ロシア二月革命の影響を受けてウクライナ人民 共和国が成立した際にはキエフに渡り、キエフ大 学で哲学と社会学の教鞭を執ったが、ボリシェ ヴィキによるウクライナ支配が完了すると、ふた たびベルリンに逃れている。1922年にはベルリン の「ロシア科学哲学協会(Russischen Wissenschaftlich-Philosophischen Gesellschaft)」の副会長を務めてい る。 以上のような学者たちに加えて、とりわけ戦間 期にドイツやオーストリアに移り、ナチス政権の 成立やオーストリア併合のさなかに英米などに逃 れていったスラヴ地域出身の社会科学者たちが複 数知られている(Fleck, 2018: 193-5)。 フランスでは、ロシア革命を契機に、科学史研 究 者 の ア レ ク サ ン ド ル・ コ イ レ(Alexandre Koyré, 1892-1964)や哲学者のアレクサンドル・ コジェーヴ(Alexandre Kojève, 1902-1968)がロ シアからフランスへと移り住んだ。コジェーヴは ドイツへの亡命を経てからのフランス移住である。 社会学者ジョルジュ・ギュルヴィッチ(Georges Gurvitch, 1894-1965)は、ロシア帝国下のノヴォ ロシースク(Новороссийск、現ロシア)に生ま れ、ドイツとチェコを経てフランスに移住し、さ らに第二次大戦中のニューヨーク亡命を経てフラ ンスへ戻る。ニューヨーク亡命中に彼が所属して い た 亡 命 知 識 人 の 支 援 組 織「 自 由 高 等 研 究 院 (École libre des hautes études)」は、事務総長 をコイレが務め、クロード・レヴィ=ストロース (Claude Lévi-Strauss, 1908-2009)もそこに所属 していた。後者はそこでモスクワ出身の亡命知識 人である前出のロマーン・ヤコブソンに出会う が、この二人の出会いは構造主義を産み出すこと になった。 ヤコブソンは後述のソローキンと同じ時期にプ ラハに滞在し、ハーヴァード大学にも同じ時期に 所属していたが、ソローキンとは交流の跡が見ら れない。ヤコブソンと似た境遇にあった人物とし ては、上述のベルジャーエフ、ロスキー、ラプシ ンらが含まれる。 ⑵他の国々:英米の救援活動等 スラヴ世界を離れた人々は、ドイツやフランス だけでなく、トルコやイタリア、中国やオースト ラリアといった世界各国に身を寄せた。そうした 様々な選択肢の中で、イギリスおよびアメリカに 渡ったのはどのような人たちだろうか。 ドイツ語圏とフランス語圏に身を置いた亡命者 のことはすでに瞥見した。その一部が後に英米へ 転住したことも述べた通りである。そこでここで は、ドイツ語圏とフランス語圏には滞在しなかっ たか、短期間だけ留まった知識人を取り上げる。 参考として、1913年以前つまり第一次世界大戦 前のことから始めよう。 この時期のイギリスには、クロポトキンから レーニンまで、名だたる亡命者が集まっていた。 革命の勃発後、彼らはロシアに戻る17。 少数ながら、直接アメリカへ渡った人たちもい る。ロシアからは、後に述べる革命運動家のトロ ツキーが亡命していた18。 1914年以降は、亡命者の顔ぶれが大きく変わ る。共産主義革命によって国を追われた知識人が ロンドンに到来するからだ。 亡命者の中で有名なのは、カデットの政治家、 V.D.ナ ボ コ フ(Набоков, Владимир Дмитриевич, 1869-1922)の一家だ。彼の子、ウラジミール・ ナボコフ(Vladimir V. Nabokov, 1899-1977)は 後に作家となる。1937年にパリへ、1940年にニュー ヨークへ転じ、この地で小説『ロリータ』を出版 して成功した。1957年にはスイスに移る。 サンクト・ペテルブルク大学で古代史を担当し 17 クラクフ生まれのマリノフスキも、同時期の渡英者だ(Bronisław Malinowski, 1884-1942)。1910年、ド イツを経てロンドンに留学。機能主義の文化人類学を築き、教鞭をとった。1939年に渡米。 18 ポーランドからの移民に民族運動を呼び掛ける遊説者がいた。また、一般の移民としてはゴールデンワ
イザーがいる( Alexander Aleksandrovich Goldenweiser, 1880-1940)。キエフに生まれ、1900年、一家 でニューヨークに移住。ボアズ派の人類学者となった(Kan, 2009)。